向うの小沢に蛇じゃが立って、
八はち幡まん長者の、おと娘、
よくも立ったり、巧んだり。
手には二本の珠たまを持ち、
足には黄こが金ねの靴を穿はき、
ああよべ、こうよべと云いながら、
山くれ野くれ行ったれば…………
一
三浦の大おお崩くず壊れを、魔所だと云う。
葉山一帯の海岸を屏びょ風うぶで劃くぎった、桜山の裾すそが、見も馴なれぬ獣けもののごとく、洋わだつみへ躍込んだ、一方は長者園の浜で、逗ず子しから森戸、葉山をかけて、夏向き海水浴の時こ分ろ、人ひと死じにのあるのは、この辺ではここが多い。
一夏激はげしい暑さに、雲の峰も焼いた霰あられのように小さく焦げて、ぱちぱちと音がして、火の粉になって覆こぼれそうな日ひざ盛かりに、これから湧わいて出て人間になろうと思われる裸はだ体かの男女が、入いり交まじりに波に浮んでいると、赫かっとただ金銀銅鉄、真まっ白しろに溶けた霄おおぞらの、どこに亀ひ裂びが入ったか、破われ鐘がねのようなる声して、
﹁泳ぐもの、帰れ。﹂と叫んだ。
この呪のろ詛いのために、浮べる輩やからはぶくりと沈んで、四あた辺りは白しら泡あわとなったと聞く。
また十七ばかり少年の、肋ろく膜まく炎えんを病んだ挙句が、保養にとて来ていたが、可おそ恐ろしく身から体だを気にして、自分で病理学まで研究して、0，﹇＃﹁，﹂は天地左右中央﹈などと調合する、朝ちょ夕うせき検温気で度を料はかる、三度の食事も度は量か衡りで食べるのが、秋の暮方、誰も居ない浪打際を、生白い痩やせ脛ずねの高たか端はし折ょり、跣はだ足しでちょびちょび横歩あ行るきで、日課のごとき運動をしながら、つくづく不平らしく、海に向って、高慢な舌打して、
﹁ああ、退屈だ。﹂
と呟つぶやくと、頭上の崖がけの胴どう中なかから、異声を放って、
﹁親孝行でもしろ――﹂と喚わめいた。
ために、その少年は太いたく煩い附いたと云う。
そんなこんなで、そこが魔所だの風説は、近頃一層甚しくなって、知らずに大おお崩くず壊れへ上のぼるのを、土地の者が見着けると、百姓は鍬くわを杖つえ支つき、船頭は舳みよしに立って、下りろ、危い、と声を懸ける。
実際魔所でなくとも、大崩壊の絶頂は薬やげ研んを俯うつ向むけに伏せたようで、跨またぐと鐙あぶみの無いばかり。馬の背に立つ巌いわお、狭く鋭く、踵くびすから、爪つま先さきから、ずかり中なか窪くぼに削った断が崖けの、見下ろす麓ふもとの白浪に、揺ゆり落おとさるる思おもいがある。
さて一方は長者園の渚なぎさへは、浦の波が、静しずかに展ひらいて、忙せわしくしかも長のど閑かに、鶏とりの羽はたたく音がするのに、ただ切きっ立たての巌いわ一枚、一方は太平洋の大おお濤なみが、牛の吼ほゆるがごとき声して、緩ゆるやかにしかも凄すさまじく、うう、おお、と呻うなって、三崎街道の外浜に大畝うねりを打つのである。
右から左へ、わずかに瞳を動かすさえ、杜かき若つばた咲く八ツ橋と、月の武蔵野ほどに趣が激変して、浦には白帆の鴎かもめが舞い、沖を黒くろ煙けむりの竜が奔はしる。
これだけでも眩めくるめくばかりなるに、蹈ふむ足あし許もとは、岩のその剣つるぎの刃を渡るよう。取とり縋すがる松の枝の、海を分けて、種いろ々いろの波の調べの懸かかるのも、人が縋れば根が揺れて、攀よじ上のぼった喘あえぎも留やまぬに、汗を冷つめとうする風が絶えぬ。
さればとて、これがためにその景勝を傷きずつけてはならぬ。大おお崩くず壊れの巌いわおの膚はだは、春は紫に、夏は緑、秋紅くれないに、冬は黄に、藤を編み、蔦つたを絡まとい、鼓ひる子が花おも咲き、竜りん胆どうも咲き、尾花が靡なびけば月も射さす。いで、紺こん青じょうの波を蹈んで、水天の間に糸のごとき大島山に飛ばんず姿。巨匠が鑿のみを施した、青銅の獅し子しの俤おもかげあり。その美しき花の衣は、彼が威霊を称たたえたる牡ぼた丹ん花かの飾かざりに似て、根に寄る潮の玉を砕くは、日に黄こが金ね、月に白銀、あるいは怒り、あるいは殺す、鋭とき大自在の爪かと見ゆる。
二
修業中の小次郎法師が、諸国一見の途みち次すがら、相州三崎まわりをして、秋あき谷やの海岸を通った時の事である。
件くだんの大おお崩くず壊れの海に突出でた、獅子王の腹を、太平洋の方から一町ばかり前ゆく途てに見渡す、街道端ばたの――直ぐ崖の下へ白浪が打寄せる――江の島と富士とを、簾すだれに透かして描いたような、ちょっとした葭よし簀ずば張りの茶店に休むと、媼うばが口の長い鉄ブリ葉キの湯ゆわ沸かしから、渋茶を注ついで、人にん皇のう何代の御おん時ときかの箱根細工の木地盆に、装もり溢こぼれるばかりなのを差出した。
床しょ几うぎの在あり処かも狭いから、今注いだので、引ひっ傾かたむいた、湯沸の口を吹出す湯気は、むらむらと、法師の胸に靡なびいたが、それさえ颯さっと涼しい風で、冷い霧のかかるような、法ころ衣もの袖は葭簀を擦って、外の小松へ飜る。
爽さわやかな心持に、道中の里程を書いた、名古屋扇も開くに及ばず、畳んだなり、肩をはずした振分けの小さな荷物の、白木綿の繋つなぎめを、押おし遣やって、
﹁千両、﹂とがぶりと呑み、
﹁ああ、旨うまい、これは結構。﹂と莞にっ爾こりして、
﹁おいしいついでに、何と、それも甘うまそうだね、二ツ三ツ取って下さい。﹂
﹁はいはい、この団子でござりますか。これは貴あな方た、田舎出来で、沢たん山と甘くはござりませぬが、そのかわり、皮も餡あん子こも、小米と小豆の生き一本でござります。﹂
と小さな丸ま髷げを、ほくほくもの、折おし敷きの上へ小綺麗に取ってくれる。
扇おう子ぎだけ床几に置いて、渋茶茶碗を持ったまま、一ツ撮つまもうとした時であった。
﹁ヒイ、ヒイヒイ！﹂と唐だし突ぬけに奇声を放った、濁だみ声ごえの蜩ひぐらし一匹。
法師が入った口とは対さし向むかい、大崩壊の方の床几のはずれに、竹柱に留まって前さっ刻きから――胸をはだけた、手織縞じまの汚れた単ひと衣えに、弛ゆるんだ帯、煮染めたような手てぬ拭ぐいをわがねた首から、頸うなじへかけて、耳を蔽おおうまで髪の伸びた、色の黒い、巌がん乗じょう造りの、身の丈抜群なる和わ郎ろ一人。目の光の晃きら々きらと冴さえたに似ず、あんぐりと口を開けて、厚い下唇を垂れたのが、別に見るものもない茶店の世帯を、きょろきょろと
していたのがあって――お百姓に、船頭殿は稼ぎ時、土方人足も働き盛り、日脚の八ツさがりをその体ていは、いずれ界かい隈わいの怠なま惰けものと見たばかり。小次郎法師は、別に心にも留めなかったが、不意の笑声に一驚を吃きっして、和郎の顔と、折敷の団子を見較くらべた。
﹁串じょ戯うだんではない、お婆ばあさん、お前は見懸けに寄らぬ剽ひょ軽うきんものだね。﹂
﹁何でござりますえ。﹂
﹁いいえさ、この団子は、こりゃ泥か埴ねば土つちで製こしらえたのじゃないのかい。﹂
﹁滅相なことをおっしゃりまし。﹂
と年とし寄よりは真顔になり、見上げ皺じわを沢たん山と寄せて、
﹁何を貴方、勿体もない。私わしもはい法ほう然ねん様さま拝みますものでござります。吝しわ嗇んぼ坊うの柿の種が、小判小粒になればと云うて、御出家に土の団子を差上げまして済むものでござりますかよ。﹂
真まっ正しょ直うじきに言訳されて、小次郎法師はちと気の毒。
﹁何々、そう真に受けられては困ります。この涼しさに元気づいて、半分は冗じょ戯うだんだが、旅をすれば色々の事がある。駿すん州しゅうの阿部川餅もちは、そっくり正しょうのものに木で拵こしらえたのを、盆にのせて、看板に出してあると云います。今これを食べようとするのを見てその人が、﹂
と其そな方たを見た、和郎はきょとんと仰あお向むいて、烏も居おらぬに何じゃやら、頻しきりに空を仰いでござる。
﹁唐だし突ぬけに笑うから、ははあ、この団子も看板を取違えたのかと思ったんだよ。﹂
﹁ええ、ええ、いいえ、お前様、﹂
とこざっぱりした前かけの膝ひざを拍たたき、近寄って声を密ひそめ、
﹁これは、もし気ちがいでござりますよ。はい、﹂
と云って、独りで媼うばは頷うなずいた。問わせたまわば、その仔しさ細いの儀は承知の趣。
三
小次郎法師は、掛かけ茶じゃ屋やの庇ひさしから、天そらへ蝙こう蝠もりを吹出しそうに仰あお向むいた、和わ郎ろの面つらを斜ななめに見遣やって、
﹁そう、気違いかい。私はまた唖おうしででもあろうかと思った、立派な若い人が気の毒な。﹂
﹁お前様ね、一ツは心柄でござりますよ。﹂
媼うばは、罪と報むくいを、且つ悟り且つあきらめたようなものいい。
﹁何か憑つき物ものでもしたというのか、暮し向きの屈託とでもいう事か。﹂
と言い懸けて、渋茶にまた舌打しながら、円い茶の子を口の端はたへ持って行ゆくと、さあらぬ方かたを見ていながら天眼通でもある事か、逸いち疾はやくぎろりと見附けて、
﹁やあ、石を噛かじりゃあがる。﹂
小次郎再び化けて転んして、
﹁あんな事を云うよ、お婆さん。﹂
﹁悪い餓鬼じゃ。嘉かき吉ちや、主ぬしあ、もうあっちへ行ゆかっしゃいよ。﹂
その本体はかえって差さし措おき、砂地に這はった、朦もう朧ろうとした影に向って、窘たしなめるように言った。
潮は光るが、空は折から薄曇りである。
法師もこれあるがために暗いような、和郎の影法師を伏目に見て、
﹁一ツ分けてやりましょうかね。団子が欲しいのかも知れん、それだと思いが可おそ恐ろしい。ほんとうに石にでもなると大変。﹂
﹁食くい気けの狂きち人がいではござりませんに、御無用になさりまし。
石じゃ、と申しましたのは、これでもいくらか、不断の事を、覚えていると見えまして、私わしがいつでもお客様に差上げますのを知っておりまして、今のように云うたのでござりましょ。
また埴ねば土つちの団子じゃ、とおっしゃってはなりません。このお前様。﹂
と、法師の脱いで立てかけた、檜ひの笠きがさを両手に据えて、荷物の上へ直すついでに、目で教えたる葭よし簀ずの外。
さっくと削った荒あら造づくりの仁王尊が、引ひっ組くむ状さまの巌いわ続き、海を踏んで突つッ立たつ間に、倒さかさに生えかかった竹たけ藪やぶを一ひと叢むら隔てて、同じ巌いわおの六枚屏びょ風うぶ、月には蒼あおき俤おも立かげだとう――ちらほらと松も見えて、いろいろの浪を縅おどした、鎧よろいの袖を※しぶき﹇＃﹁さんずい＋散﹂、125-12﹈に翳かざす。
﹁あれを貴あな下た、お通りがかりに、御ごろ覧うじはなさりませんか。﹂
と背うし向ろむきになって小腰を屈かがめ、姥うばは七輪の炭をがさがさと火ひば箸しで直すと、薬やか缶んの尻が合点で、ちゃんと据わる。
﹁どの道貴下には御用はござりますまいなれど、大おお崩くず壊れの突とっ端ぱしと睨にらみ合いに、出張っておりますあの巌いわを、﹂
と立直って指をさしたが、片手は据え腰を、えいさ、と抱きつつ、
﹁あれ、あれでござります。﹂
波が寄せて、あたかも風鈴が砕けた形に、ばらばらとその巌いわ端ばなに打うちかかる。
﹁あの、岩一枚、子こう産みい石しと申しまして、小さなのは細きし螺ゃご、碁ごい石しぐらい、頃あいの御おそ供な餅えほどのから、大きなのになりますと、一人では持切れませぬようなのまで、こっとり円い、ちっと、平ひら扁た味みのあります石が、どこからとなくころころと産れますでございます。
その平扁味な処が、恰かっ好こうよく乗りますから、二つかさねて、お持仏なり、神棚へなり、お祭りになりますと、子の無い方が、いや、もう、年子にお出来なさりますと、申しますので。
随分お望みなさる方が多うございますが、当節では、人がせせこましくなりました。お前様、蓆むし戸ろどの圧おさえにも持って参れば、二人がかりで、沢庵石に荷になって帰りますのさえござりますに因って、今が今と申して、早急には見当りませぬ。
随分と御遠方、わざわざ拾いにござらして、力を落す方がござりますので、こうやって近間に店を出しておりますから、朝晩汐しお時どきを見ては拾っておきまして、お客様には、お土産かたがた、毎度婆ば々ばが御ごあ愛いき嬌ょうに進ぜるものでござりますから、つい人様が御存じで、葉山あたりから遊びにござります、書生さんなぞは、
︵婆さん、子は要らんが、女親を一つ寄よ越こせ。︶
なんて、おからかいなされまする。
それを見い見い知っていて、この嘉吉の狂きち人がいが、いかな事、私わしがあげましたものを召めし食あがろうとするのを見て、石じゃ、と云うのでござりますよ。﹂
四
﹁それではお婆さん楽隠居だ。孫子がさぞ大勢あんなさろうね。﹂
と小次郎法師は、話を聞き聞き、子産石の方かたを覗のぞきたれば、面白や浪の、云うことも上の空。
トお茶注さしましょうと出しかけた、塗ぬり盆ぼんを膝に伏せて、ふと黙って、姥うばは寂しそうに傾いたが、
﹁何のお前様、この年になりますまで、孫子の影も見はしませぬ。爺じじい殿と二人きりで、雨のさみしさ、行あん燈どうの薄寒さに、心細う、果は敢かないにつけまして、小こど児もし衆ゅうを欲しがるお方の、お心を察しますで、のう、子産石も一つ一つ、信心して進じます。
長い月日の事でござりますから、里の人達は私わし等らが事を、人に子だねを進ぜるで、二人が実を持たぬのじゃ、と云いますがの、今ではそれさえ本望で、せめてもの心ゆかしでござりますよ。﹂
とかごとがましい口ぶりだったが、柔和な顔に顰ひそみも見えず、温順に莞にっ爾こりして、
﹁御ごし新んぞ造さ様まがおありなさりますれば、御ごぼ坊うさ様まにも一かさね、子産石を進ぜましょうに……﹂
﹁とんでもない。この団子でも石になれば、それで村方勧かん化げでもしようけれど、あいにく三界に家なしです。
しかし今聞いたようでは、さぞお前さんがたは寂さみしかろうね。﹂
﹁はい、はい、いえ、御坊様の前で申しましては、お追つい従しょうのようでござりますが、仏様は御方便、難あり有がたいことでござります。こうやって愛あい想そっ気けもない婆ば々ばが許とこでも、お休み下さりますお人たちに、お茶のお給仕をしておりますれば、何やかや賑にぎやかで、世間話で、ついうかうかと日を暮しますでござります。
ああ、もしもし、﹂
と街道へ、
﹁休まっしゃりまし。﹂と呼びかけた。
車輪のごとき大おおきさの、紅白段だん々だらの夏の蝶、河かわ床どこは草にかくれて、清水のあとの土に輝く、山際に翼を廻すは、白の脚きゃ絆はん、草わら鞋じば穿き、かすりの単ひと衣えのまくり手に、その看板の洋こう傘もりを、手てぬ拭ぐい持つ手に差さし翳かざした、三みそ十ぢばかりの女房で。
あんぺら帽子を阿あ弥み陀だかぶり、縞しまの襯しゃ衣つの大おお膚はだ脱ぬぎ、赤い団うち扇わを帯にさして、手てっ甲こう、甲こう掛がけ厳重に、荷をかついで続くは亭主。
店から呼んだ姥の声に、女房がちょっと会釈する時、束たば髪ねがみの鬢びんが戦そよいで、前さきを急ぐか、そのまま通る。
前帯をしゃんとした細腰を、廂ひさしにぶらさがるようにして、綻ほころびた脇の下から、狂きち人がいの嘉吉は、きょろりと一目。
ふらふらと葭よし簀ずを離れて、早や六七間行過ぎた、女房のあとを、すたすたと跣はだ足しの砂すな路みち。
ほこりを黄色に、ばっと立てて、擦寄って、附くッ着ついたが、女房のその洋こう傘もりから伸のしかかって見みこ越し入道。
﹁イヒヒ、イヒヒヒ、﹂
﹁これ、悪いた戯ずらをするでないよ。﹂
と姥が爪つま立だって窘たしなめたのと、笑声が、ほとんど一所に小次郎法師の耳に入った。
あたかもその時、亭主驚いたか高調子に、
﹁傘や洋こう傘もりの繕い！――洋こう傘もりがさ張はり替かえ繕い直し……﹂
蝉の鳴く音ねを貫いて、誰も通らぬ四あた辺りに響いた。
隙すかさず、この不気味な和郎を、女房から押隔てて、荷を真まん中なかへ振込むと、流しり眄めに一睨にらみ、直ぐ、急いそ足ぎあしになるあとから、和郎は、のそのそ――大おおきな影を引いて続く。
﹁御ごろ覧うじまし、あの通り困ったものでござります。﹂
法師も言葉なく見送るうち、沖から来るか、途絶えては、ずしりと崖を打つ音が、松風と行違いに、向うの山に三度ばかり浪の調べを通わすほどに、紅白段だん々だらの洋こう傘もりは、小さく鞠まりのようになって、人の頭かしらが入いれ交まぜに、空へ突きながら行ゆくかと見えて、一ひと条すじ道みちのそこまでは一軒の苫とま屋やもない、彼かな方た大崩壊の腰を、点ぽつ々ぽつ。
五
﹁あれ、あの大おお崩くず壊れの崖の前むこ途うへ、皆が見えなくなりました。
ちょうど、あれを出ました、下の浜でござります。唯ただ今いまの狂きち人がいが、酒に酔って打ぶっ倒たおれておりましたのは……はい、あれは嘉吉と申しまして、私わし等ら秋谷在の、いけずな野郎でござりましての。
その飲んだくれます事、怠ける工ぐあ合い、まともな人間から見ますれば、真ほんに正気の沙さ汰たではござりませなんだが、それでもどうやら人並に、正月はめでたがり、盆は忙しがりまして、別に気が触れた奴やつではござりません。いつでも村の御おま祭つ礼りのように、遊ぶが病やま気いでござりましたが、この春頃に、何と発心をしましたか、自分が望みで、三浦三崎のさる酒さか問どい屋やへ、奉公をしたでござります。
つい夏の取とッ着つきに、御主人のいいつけで、清すみ酒ざけをの、お前様、沢たん山とでもござりませぬ。三みた樽るばかり船に積んで、船頭殿が一人、嘉吉めが上うわ乗のりで、この葉山の小売店みせへ卸しに来たでござります。
葉山森戸などへ三崎の方から帰ります、この辺のお百姓や、漁師たち、顔を知ったものが、途中から、乗のっけてくらっせえ、明いてる船じゃ、と渡わた場しばでも船つきでもござりませぬ。海岸の岩の上や、磯いその松の根方から、おおいおおい、と板ばん東どう声ごえで呼ばり立って、とうとう五人がとこ押込みましたは、以上七人になりました、よの。
どれもどれも、碌ろくでなしが、得手に帆じゃ。船は走る、口は辷すべる、凪なぎはよし、大話しをし草くた臥ぶれ、嘉吉めは胴の間まの横木を枕に、踏ふん反ぞり返かえって、ぐうぐう高たか鼾いびきになったげにござります。
路に灘なだはござりませぬが、樽の香が芬ぷん々ぷんして、鮹たこも浮きそうな凪の好よさ。せめて船にでも酔いたい、と一人が串じょ戯うだんに言い出しますと、何と一樽賭かけまいか、飲むことは銘々が勝手次第、勝負の上から代銭を払えば可いい、面白い、遣やるべいじゃ。
煙きせ管るの吸口ででも結構に樽へ穴を開ける徒てあいが、大びらに呑口切って、お前様、お船頭、弁当箱の空あきはなしか、といびつ形なりの切きり溜だめを、大海でざぶりとゆすいで、その皮づつみに、せせり残しの、醤油かすを指のさきで嘗なめながら、まわしのみの煽あおっきり。
天下晴れて、財布の紐ひもを外すやら、胴巻を解くやらして、賭なぐ博さみをはじめますと、お船頭が黙ってはおりませぬ。﹂
﹁叱こご言とを云って留めましたか。さすがは船頭、字で書いても船の頭かしらだね。﹂
と真顔で法師の言うのを聞いて、姥うばは、いかさまな、その年とし少わかで、出家でもしそうな人、とさも憐あわれんだ趣で、
﹁まあ、お人の好いい。なるほど船頭を字に書けば、船の頭でござりましょ。そりゃもう船の頭だけに、極きまり処はちゃんと極って、間違いのない事をいたしました。﹂
﹁どうしたかね。﹂
﹁五人徒であいが賽さいの目に並んでおります、真まん中なかへ割込んで、まず帆を下ろしたのでござります。﹂
と莞にっ爾こりして顔を見る。
いささかもその意を得ないで、
﹁なぜだろうかね。﹂
﹁この追手じゃ、帆があっては、丁と云う間に葉山へ着く。ふわふわと海くら月げ泳ぎに、船を浮かせながらゆっくり遣るべい。
その事よ。四海波静かにて、波も動かぬ時津風、枝を鳴らさぬ御み代よなれや、と勿体ない、祝言の小こう謡たいを、聞きき噛かじりに謳うたう下から、勝負！とそれ、銭おあしの取とり遣やり。板子の下が地獄なら、上も修しゅ羅らど道うでござります。﹂
﹁船頭も同類かい、何の事じゃ、﹂
と法師は新あらたになみなみとある茶碗を大切そうに両手で持って、苦笑いをするのであった。
﹁それはお前様、あの徒てあいと申しますものは、……まあ、海へ出て岸をばして御ごろ覧うじまし。巌いわの窪みはどこもかしこも、賭ばく博ちの壺つぼに、鰒あわびの蓋ふた。蟹かにの穴でない処は、皆意あな銭いちのあとでござります。珍しい事も、不思議な事もないけれど、その時のは、はい、嘉吉に取っては、あやかしが着きましたじゃ。のう、便びん船せんしょう、便船しょう、と船を渚なぎさへ引寄せては、巌いわ端ばなから、松の下から、飜ひら然りひ々ら々りと乗りましたのは、魔がさしたのでござりましたよ。﹂
六
﹁魅入られたようになりまして、ぐっすり寝込みました嘉吉の奴。浪の音は耳馴なれても、磯いそ近ぢかへ舳へさきが廻って、松の風に揺り起され、肌寒うなって目を覚ましますと、そのお前様……体てい裁たらく。
山へ上あがったというではなし、たかだか船の中の車座、そんな事は平気な野郎も、酒樽の三さん番ばそ叟う、とうとうたらりたらりには肝を潰つぶして、︵やい、此こい奴つ等ら、︶とはずみに引ひっ傾かたがります船底へ、仁王立に踏ふみごたえて、喚わめいたそうにござります。
騒ぐな。
騒ぐまいてや、やい、嘉吉、こう見た処で、二歩ぶと一両、貴様に貸かしのない顔はないけれど、主人のものじゃ。引ひき負おいをさせてまで、勘定を合わしょうなんど因いん業ごうな事は言わぬ。場銭を集めて一樽買ったら言分あるまい。代物さえ持って帰れば、どこへ売っても仔しさ細いはない。
なるほど言われればその通り、言訳の出来ぬことはござりませぬわ、のう。
銭さえ払えば可いいとして、船頭やい、船はどうする、と嘉吉が云いますと、ばら銭を掴にぎった拳こぶしを向むか顱うは巻ちまきの上さ突出して、半だ半だ、何、船だ。船だ船だ、と夢中でおります。
嘉吉が、そこで、はい、櫓ろを握って、ぎっちらこ。幽霊船の歩ぶに取られたような顔つきで、漕こぎ出だしたげでござりますが、酒の匂においに我慢が出来ず……
御ごは繁んじ昌ょうの旦だん那なから、一杯おみきを遣わされ、と咽の喉どをごくごくさして、口を開けるで、さあ、飲まっせえ、と注つぎにかかる、と幾いく干らか差引くか、と念を推したげで、のう、ここらは確たしかでござりました。
幡随院長兵衛じゃ、酒を振舞うて銭を取るか。しみったれたことを云うな、と勝った奴がいきります。
お手てわ渡たしで下される儀は、皆の衆も御面倒、これへ、と云うて、あか柄びし杓ゃくを突出いて、どうどうと受けました。あの大おお面づらが、お前様、片手で櫓を、はい、押しながら、その馬ばび柄しゃ杓くのようなもので、片手で、ぐいぐいと煽あおったげな。
酒は一樽打ぶち抜ぬいたで、ちっとも惜おし気げはござりませぬ。海からでも湧出すように、大気になって、もう一つやらっせえ、丁だ、それ、心祝いに飲ますべい、代は要らぬ。
帰きみ命ょう頂ちょ礼うらい、賽さいころ明神の兀はげ天あた窓ま、光る光る、と追つい従しょう云うて、あか柄杓へまた一杯、煽るほどに飲むほどに、櫓ろび拍ょう子しが乱になって、船はぐらぐら大揺れ小揺れじゃ、こりゃならぬ、賽が据すわらぬ。
ええ、気に入らずば代って漕こげさ、と滅多押しに、それでも、大おお崩くず壊れの鼻を廻って、出島の中へ漕ぎ入れたでござります。
さあ、内うち海うみの青畳、座敷へ入ったも同おんなじじゃ、と心が緩むと、嘉吉奴めが、酒代を渡してくれ、勝負が済むまで内金を受取ろう、と櫓を離した手に銭おあしを握ると、懐へでも入れることか、片手に、あか柄びし杓ゃくを持ったなりで、チョボ一の中へ飛込みましたが。
はて、河かっ童ぱ野郎、身みな投げするより始末の悪さ。こうなっては、お前様、もう浮ぶ瀬はござりませぬ。
取られて取られて、とうとう、のう、御主人へ持って行ゆく、一樽のお代を無みなにしました。処で、自や棄けじゃ、賽の目が十とおに見えて、わいらの頭が五十ある、浜がぐるぐる廻るわ廻るわ。さあ漕がば漕げ、殺さば殺せ、とまたふんぞった時分には、ものの一斗ぐらい嘉吉一人で飲んだであろ。七人のあたまさえ四斗樽、これがあらかた片附いて、浜へ樽を上げた時、重いつもりで両手をかけて、えい、と腰を切った拍子抜けに、向うへのめって、樽が、ばっちゃん、嘉吉がころり、どんとのめりましたきり、早や死んだも同然。
船はそれまで、ぐるりぐるりと長者園の浦を廻って、ちょうどあの、活動写真の難船見たよう、波風の音もせずに漂うていましたげな。両りょ膚うは脱だぬぎの胸毛や、大おお胡あぐ坐らの脛の毛へ、夕風が颯さっとかかって、悚ぞ然っとして、皆みんなが少し正気づくと、一ツ星も見えまする。大おお巌いわの崖が薄黒く、目の前へ蔽おっ被かぶさって、物もの凄すごうもなりましたので、褌ふんどしを緊しめ直すやら、膝ひざ小っこ僧ぞうを合わせるやら、お船頭が、ほういほうい、と鳥のような懸声で、浜へ船をつけまして、正体のない嘉吉を撲なぐる。と、むっくり起きたが、その酒樽の軽いのに、本性違たがわず気きお落ちがして、右の、倒れたものでござりますよ。はい。﹂
七
﹁仰あお向のけ様ざまに、火のような息を吹いて、身から体だから染しみ出だします、酒が砂へ露を打つ。晩方の涼しさにも、蚊や蠅が寄って来る。
奴やっこは、打ぶっても、叩いても、起おきることではござりませぬがの。
かかり合あいは免のがれぬ、と小こぢ力からのある男が、力を貸して、船頭まじりに、この徒てあいとて確たしかではござりませなんだ。ひょろひょろしながら、あとのまず二樽たるは、荷になって小売店みせへ届けました。
嘉吉の始末でござります。それなり船の荷物にして、積んで帰れば片附きますが、死しが骸いではない、酔ったもの、醒さめた時の挨拶が厄介じゃ、とお船頭は遁にげを打って、帆を掛けて、海の靄もやへと隠れました。
どの道訳を立ていでは、主人方へ帰られる身体ではござりませぬで、一まず、秋谷の親おや許もとへ届ける相談にかかりましたが、またこのお荷物が、御覧の通りの大男。それに、はい、のめったきり、捏てこでも動かぬに困こうじ果てて、すっぱすっぱ煙たば草こを吹かすやら、お前様、嚔くしゃみをするやら、向むか脛はぎへ集たかる蚊を踵かかとで揉もみ殺ころすやら、泥に酔った大おお鮫ざめのような嘉吉を、浪打際に押おっ取とり巻まいて、小田原評ひょ定うじょう。持て余しておりました処へ、ちょうど荷車を曳ひきまして、藤沢から一日路みち、この街道つづきの長者園の土手へ通りかかりましたのが……﹂
茜あか色ねいろの顱はち巻まきを、白しら髪があ天た窓まにちょきり結び。結び目の押おっ立たって、威勢の可いいのが、弁慶蟹がにの、濡色あかき鋏はさみに似たのに、またその左の腕片かた々かた、へし曲って脇腹へ、ぱツと開あけ、ぐいと握る、指と掌てのひらは動くけれども、肱ひじは附くッ着ついてちっとも伸びず。銅あかがねで鋳たような。……その仔しさ細いを尋ぬれば、心がらとは言いながら、去さんぬる年、一膳ぜん飯屋でぐでんになり、冥めい途どの宵を照らしますじゃ、と碌ろくでもない秀句を吐いて、井いげ桁たの中に横木もっ瓜こう、田舎の暗や夜みには通りものの提ちょ灯うちんを借りたので、蠣かき殻がら道みちを照らしながら、安政の地震に出来た、古い処を、鼻唄で、地つちが崩れそうなひょろひょろ歩あ行るき。好いい心持に眠気がさすと、邪魔な灯あかりを肱ひじにかけて、腕を鍵かぎ形なりに両手を組み、ハテ怪しやな、汝おのれ、人ひと魂だまか、金かね精だまか、正体を顕あらわせろ！ とトロンコの据すえ眼まなこで、提灯を下目に睨にらむ、とぐたりとなった、並木の下。地虫のような鼾いびきを立てつつ、大崩壊に差さし懸かかると、海が変って、太平洋を煽あおる風に、提灯の蝋ろうが倒れて、めらめらと燃えついた。沖の漁いさ火りびを袖に呼んで、胸毛がじりじりに仰天し、やあ、コン畜生、火の車め、まだ疾はええ、と鬼と組んだ横倒れ、転ころ廻がりまわって揉もみ消けして、生いの命ちに別条はなかった。が、その時の大おお火やけ傷ど、享年六十有七歳にして、生まれもつかぬ不かた具わもの――渾あだ名なを、てんぼう蟹がにの宰さい八はちと云う、秋谷在の名物親おや仁じ。
﹁……私わしが爺じじい殿でござります。﹂
と姥うばは云って、微ほほ笑えんだ。
小次郎法師は、寿ことぶくごとく、一いち揖ゆうして、
﹁成程、尉じょう殿だね。﹂と祝儀する。
﹁いえ、もう気ままものの碌でなしでござりますが、お庇かげさまで、至って元気がようござりますので、御懇意な近所へは、進かけ退ひきが厭いやじゃ、とのう、葉山を越して、日影から、田たご越え逗ず子しの方へ、遠くまで、てんぼうの肩に背しょ負いか籠ごして、栄さざ螺えや、とこぶし、もろ鯵あじの開き、うるめ鰯いわしの目刺など持ちましては、飲のみ代しろにいたしますが、その時はお前様、村のもとの庄屋様、代々長者の鶴つる谷や喜十郎様、﹂
と丁寧に名のりを上げて、
﹁これが私わしども、お主しゅ筋に当りましての。そのお邸やしきの御用で、東海道の藤沢まで、買物に行ったのでござりました。
一月に一度ぐらいは、種いろ々いろ入用のものを、塩やら醤油やら、小さなものは洋ラン燈プの心まで、一ひと車くるまずつ調えさっしゃります。
横浜は西洋臭し、三崎は品が落着かず、界かい隈わいは間に合わせの俄にわか仕入れ、しけものが多うござりますので、どうしても目めか量たのある、ずッしりしたお堅いものは、昔からの藤沢に限りますので、おねだんも安し、徳用向きゆえ、御大家の買物はまた別で、﹂
と姥は糸を操るような話しぶり。心のどかに口をまわして、自分もまたお茶参った。
しばらく往来もなかったのである。
八
﹁……おう、宰八か。お爺じい、在所へ帰るだら、これさ一ひと個つ、産うぶ神すな様さまへ届けてくんな。ちょうどはい、その荷車は幸さいわいだ、と言わっしゃる。
見ると、お前様、嘉吉めが、今申したその体ていでござりましょ。
同おんなじ産神様氏うじ子こ夥なか間まじゃ。承知なれど、私わしはこれ、手がこの通り、思うように荷が着けられぬ。御お身みたちあんばいよう直さっしゃい、荷の上へ載のせべい、と爺じじいどのが云いますとの。
何あにお爺じい、そのまま上へ積まっしゃい、と早や二人して、嘉吉めが天あた窓まと足を、引立てるではござりませぬか。
爺どのが、待たっしゃい、鶴谷様のお使いで、綿を大いかいこと買うて来たが、醤油樽や石油缶の下積になっては悪かんべいと、上荷に積んであるもんだ。喜十郎旦那が許とこで、ふっくりと入れさっしゃる綿の初穂へ、その酒浸しの怪ばけ物ものさ、押おっころばしては相成んねえ、柔やわ々やわ積方も直さっしゃい、と利かぬ手の拳こぶしを握って、一ひと力りき味み力みましけ。
七面倒な、こうすべい、と荒稼ぎの気きみ短じか徒てあいじゃ。お前様、上うわかがりの縄の先を、嘉吉が胴どう中なかへ結ゆわへ附けて、車の輪に障らぬまでに、横づけに縛りました。
賃銭の外じゃ、落しても大事ない。さらば急いで帰らっしゃれ。しゃんしゃんと手を拍たたいて、賭ばく博ちに勝ったものも、負けたものも、飲んだ酒と差引いて、誰も損はござりませぬ。可いい機嫌のそそり節、尻まで捲まくった脛すねの向く方へ、ぞろぞろと散ったげにござります。
爺どのは、どっこいしょ、と横木に肩を入れ直いて、てんぼうの片手押しは、胸が力でござります。人通りが少いで、露にひろがりました浜昼顔の、ちらちらと咲いた上を、ぐいと曳ひき出して、それから、がたがた。
大おお崩くずれまで葉山からは、だらだらの爪つま先さき上あがり。後はなぞえに下り道。車がはずんで、ごろごろと、私わしがこの茶店の前まで参った時じゃ、と……申します。
やい、枕をくれ、枕をくれ、と嘉吉めが喚わめくげな。
何吐ぬかすぞい、この野郎、贅ぜい沢たくべいこくなてえ、狐きつ店ねみせの白ッ首と間違えてけつかるそうな、とぶつぶつ口くち叱こご言とを申しましての、爺どのが振向きもせずに、ぐんぐん曳ひいたと思わっしゃりまし。﹂
﹁何か、夢でも見たろうかね。﹂
﹁夢どころではござりますか、お前様、直ぐに縊しめ殺されそうな声を出して、苦しい、苦しい、鼻血が出るわ、目がまうわ、天あた窓まを上へ上げてくれ。やい、どうするだ、さあ、殺さば殺せ、漕こがば漕げ、とまだ夢中で、嘉吉めは船に居る気でおります、よの。
胴中の縄が弛ゆるんで、天窓が地つちへ擦れ擦れに、倒さかさまになっておりますそうな。こりゃもっともじゃ、のう、たっての苦くる悩しみ。
酒が上のぼって、醒さめずにいたりゃ本望だんべい、俺わしら手が利かねえだに、もうちっとだ辛抱せろ、とぐらぐらと揺り出しますと、死ぬる、死ぬる、助け船引﹇＃﹁引﹂は小書き﹈と火を吹きそうに喚わめいた、とのう。
この中ではござりませぬ、﹂
と姥は葭よし簀ずの外を見て、
﹁廂ひさしの蔭じゃったげにござります。浪が届きませぬばかり。低い三日月様を、漆うるし見たような高い髷まげからはずさっせえまして、真まっ白しろなのを顔に当てて、団うち扇わが衣きも服のを掛けたげな、影の涼しい、姿の長い、裾すその薄蒼あおい、悚ぞ然っとするほど美しらしいお人が一方。
すらすら道端へ出さっせての、
︵…………︶
爺どのを呼留めて、これは罪人か――と問わしつけえよ。
食くい物ものも代しろ物ものも、新しい買物じゃ。縁起でもない事の。罪人を上積みにしてどうしべい、これこれでござる。と云うと、可哀相に苦しかろう、と団扇を取って、薄い羽のように、一文字に、横に口へ啣くわえさしった。
その時は、爺どのの方へ背せなかを向けて、顔をこう斜はすっかいに、﹂
と法師から打うち背そむく、と俤おもかげのその薄月の、婦おん人なの風情を思おも遣いやればか、葦よし簀ずをはずれた日のかげりに、姥の頸うなじが白かった。
荷物の方へ、するすると膝を寄せて、
﹁そこで？﹂
﹁はい、両手を下げて、白いその両方の掌てのひらを合わせて、がっくりとなった嘉吉の首を、四五本目の輻やぼねの辺あたりで、上へ支ささげて持たっせえた。おもみが掛かかったか、姿を絞って、肩が細ほっそりしましたげなよ。﹂
九
﹁介抱しよう、お下ろしな、と言わっしゃる。
その位な荒療治で、寝汗一つ取れる奴か。打うっ棄ちゃっておかっせえ。面倒臭い、と顱はち巻まきしめた頭を掉ふって云うたれば、どこまで行ゆく、と聞かしっけえ。
途中さまざまの隙ひまざえで、爺じじいどのもむかっぱらじゃ、秋谷鎮座の明神様、俺わし等らが産うぶ神すなへ届け物だ、とずッきり饒しゃ舌べると、
︵受取りましょう、ここで可いいから。︶
︵お前様は？︶
︵ああ、明神様の侍こし女もとよ。︶と言わっしゃった。
月に浪が懸かかりますように、さらさらと、風が吹きますと、揺れながらこの葦よし簀ずの蔭が、格子縞じまのように御袖へ映って、雪の膚はだまで透通って、四あた辺りには影もない。中空を見ますれば、白しら鷺さぎの飛ぶような雲が見えて、ざっと一浪打ちました。
爺どのは悚ぞ然っとして、はい、はい、と柔すな順おになって、縄を解くと、ずりこけての、嘉吉のあの図体が、どたりと荷車から。貴あな女たは擡もたげた手を下へ、地の上へ着けるように、嘉吉の頭を下ろさっせえた。
足をばたばたの、手によいよい、輻やぼねも蹴けはずしそうに悶もがきますわの。
︵ああ、お前はもう可いいから。︶邪魔もののようにおっしゃったで、爺どのは心外じゃ……
何の、心外がらずともの、いけずな親おや仁じでござりますがの、ほほ、ほほ。﹂
﹁いや、いや、私が聞いただけでも、何か、こうわざと邪じゃ慳けんに取扱ったようで、対あい手てがその酔よい漢どれを労いたわるというだけに、黙ってはおられません。何だか寝ねざ覚めが悪いようだね。﹂
﹁ええ、串じょ戯うだんにも、氏うじ神がみ様さまの知ちか己づきじゃと言わっしゃりましたけに、嘉吉を荷車に縛りましたのは、明神様の同おな一じ孫まご児こを、継まま子こ扱いにしましたようで、貴あな女たへも聞えが悪うござりますので。
綿の上うわ積づみ﹇＃ルビの﹁うわづみ﹂は底本では﹁うわずみ﹂﹈一件から荷に奴やっこを縛ったは、爺じいどのが自分したことではない事を、言訳がましく饒しゃ舌べりますと、︵可いから、お前はあっちへ、︶と、こうじゃとの。
︵可よかあねえだ。もの、理りあ合いを言わねえ事にゃ、ハイ気が済みましねえ。お前様も明神様お知ちか己づきなら聞かっしゃい。老おい耆ぼれの手てんぼう爺じじいに、若いものの酔よい漢どれの介やっ抱かいが何あに、出来べい。神様も分らねえ、こんな、くだま野郎を労ってやらっしゃる御慈悲い深い思おぼ召しめしで、何でこれ、私わし等ら婆様の中に、小こど児も一人授けちゃくれさっしゃらぬ。それも可い、無い子だねなら断あき念らめべいが、提ちょ灯うちんで火やけ傷どをするのを、何で、黙って見てござった。私わしが手てんぼうでせえなくば、おなじ車に結ゆわえるちゅうて、こう、けんどんに、倒さかしまにゃ縛らねえだ。初対面のお前様見さっしゃる目に、えら俺わしが非道なようで、寝覚が悪い、︶と顱はち巻まきを掉ふり立たてますと、のう。
︵早く、お帰り、︶と、継穂がないわの。
︵いんにゃ、理を言わねえじゃ、︶とまだ早や一概に捏こねようとしましたら……
︵おいでよ、︶と、お前様ね。
団うち扇わで顔を隠さしったなり。背うし後ろへ雪のような手を伸のばして、荷車ごと爺じいどのを、推おし遣やるようにさっせえた。お手の指が白々と、こう輻やぼねの上で、糸車に、はい、綿屑がかかったげに、月の光で動いたらばの、ぐるぐるぐると輪が廻って、爺じじいどのの背せなかへ、荷車が、乗のっ被かぶさるではござりませぬか。﹂
﹁おおおお、﹂
と、法師は目を
って固かた唾ずを呑む。
﹁吃びっ驚くり亀の子、空へ何と、爺どのは手を泳がせて、自分の曳ひいた荷車に、がらがら背うし後ろから押出されて、わい、というたぎり、一ひと呼い吸きに村の取とッ着つき、あれから、この街道が鍋なべづる形なりに曲ります、明神様、森の石段まで、ひとりでに駆出しましたげな。
もっとも見さっしゃります通り、道はなぞえに、向むこうへ低くはなりますが、下り坂と云う程ではなし、その疾はやいこと。一なだれに辷すべったようで、やっと石段の下で、うむ、とこたえて踏留まりますと、はずみのついた車めは、がたがたと石ころの上を空廻りして、躍ったげにござります。
見上げる空の森は暗し、爺どのは、身震いをしたと申しますがの。﹂
十
﹁利かぬ気の親おや仁じじゃ、お前様、月夜の遠見に、纏まとったものの形は、葦よし簀ずば張りの柱の根を圧おさえて置きます、お前様の背うし後ろの、その石いし
か、私わしが立掛けて置いて帰ります、この床しょ几うぎの影ばかり。
大おお崩くず壊れまで見通しになって、貴あな女たの姿は、蜘くも蛛の巣すほども見えませぬ。それをの、透かし透かし、山際に附くッ着ついて、薄墨引いた草の上を、跫あし音おとを盗んで引ひっ返かえしましたげな。
嘉吉をどう始末さっしゃるか、それを見届けよう、という、爺じじいどの了りょ簡うけんでござります。
荷車はの、明神様石段の前を行ゆけば、御存じの三崎街道、横へ切れる畦あぜ道みちが在所の入口でござりますで、そこへ引込んだものでござります。人気も穏おだやかなり、積んだものを見たばかりで、鶴谷様御用、と札の建ったも同おな一じじゃで、誰も手の障さえ人てはござりませぬで。
爺どのは、這はうようにして、身から体だを隠して引返したと言いましけ。よう姿が隠さりょう、光った天あた窓まと、顱はち巻まきの茜あか色ねいろが月夜に消えるか。主ぬしゃそこで早や、貴あな女たの術で、活いきながら鋏はさみの紅あかい月影の蟹かにになった、とあとで村の衆にひやかされて、ええ、措おけやい、気味の悪い、と目をぱちくり、泡を吹いたでござりますよ。
笑うてやらっしゃりませ。いけ年を仕つかまつって、貴女が、去いね、とおっしゃったを止よせば可よいことでござります。﹂
法師はかくと聞いて眉を顰ひそめ、
﹁笑い事ではない。何かお爺じい様さんに異状でもありましたか。﹂
﹁お目こぼしでござります、﹂
と姥は謹んだ、顔かお色つきして、
﹁爺どのはお庇かげと何事もござりませんで、今日も鶴谷様の野良へ手伝いに参っております。﹂
﹁じゃ、その嘉吉と云うのばかりが、変な目に逢ったんだね。﹂
﹁それも心がらでござります。はじめはお前様、貴あな女たが御親切に、勿体ない……お手ずから薫かおりの高い、水晶を噛かみますような、涼しいお薬を下さって、水ごと残しておきました、……この手桶おけから、﹂……
と姥は見返る。捧げた心か、葦よし簀ずに挟んで、常とこ夏なつの花のあるが下もとに、日影涼しい手桶が一ひと個つ、輪の上に、――大方その時以来であろう――注し連めを張ったが、まだ新しい。
﹁水も汲くんで、くくめておやり遊ばした。嘉吉の我に返った処で、心得違いをしたために、主人の許とこへ帰れずば、これを代しろに言訳して、と結構な御宝を。……
それがお前様、真まみ緑どりの、光のある、美しい、珠じゃったげにございます。
爺どのが、潜り込んだ草の中から、その蟹の目を密そっと出して、見た時じゃったと申します。
こう、貴女がお持ちなさりました指の尖さきへ、ほんのりと蒼あおく映って、白いお手の透いた処は、大おおきな蛍をお撮つまみなさりましたようじゃげな。
貴女のお身から体だに附つ属いていてこそじゃが、やがて、はい、その光は、嘉吉が賽さいころを振る掌てのひらの中へ、消えましたとの。
それから、抜かっしゃりましたものらしい、少し俯うつ向むいて、ええ、やっぱり、顔へは団扇を当てたまんまで、お髪ぐしの黒い、前の方へ、軽く簪かんざしをお挿さしなされて、お草履か、雪せっ駄たかの、それなりに、はい、すらすらと、月と一所に女めな浪みのように歩あ行るかっしゃる。
これでまた爺どのは悚ぞ然っとしたげな。のう、いかな事でも、明神様の知ちか己づきじゃ言わしったは串じょ戯うだんで、大方は、葉山あたりの誰どな方たのか御別荘から、お忍びの方と思わしっけがの。
今行ゆかっしゃるのは反あべ対こべに秋谷の方じゃ。……はてな、と思うと、変った事は、そればかりではござりませぬよ。
嘉吉の奴やつがの、あろう事か、慈悲を垂れりゃ、何とやら。珠は掴つかむ、酒の上じゃ、はじめはただ、御恩返しじゃの、お名前を聞きたいの、ただ一目お顔の、とこだわりましけ。柳に受けて歩あ行るかっしゃるで、機はた織おり場ばの姉ねえやが許とこへ、夜さり、畦あぜ道みちを通う時の高声の唄のような、真似もならぬ大口利いて、果はては増長この上なし、袖を引いて、手を廻して、背うし後ろから抱きつきおる。
爺どのは冷汗掻かいたげな。や、それでも召ものの裾すそに、草わら鞋じが引ひっかかりましたように、するすると嘉吉に抱かれて、前ざまに行ゆかっしゃったそうながの、お前様、飛んでもない、﹂
﹁怪けしからん事を――またしたもんです。﹂
と小次郎法師は苦り切る。
十一
姥うばは分別あり顔に、
﹁一目見たら、その御容よう子すだけでなりと、分りそうなものでござります。
貴あな女たが神にせよ、また人間にしました処で、嘉吉づれが口を利かれます御方ではござりませぬ。そうでなくとも、そんな御恩を被こうむったでござりますもの。拝むにも、後姿でのうては罰の当ります処、悪党なら、お前様、発心のしどころを。
根が悪徒ではござりませぬ、取締りのない、ただぼうと、一ひと夜よざ酒けが沸いたような奴やっこ殿じゃ。薄すすきも、蘆あしも、女おみ郎なえ花しも、見みさ境かいはござりませぬ。
髪が長けりゃ女じゃ、と合点して、さかりのついた犬同然、珠を頂いた御恩なぞも、新屋の姉あねえに、藪やぶの前で、牡ぼた丹も餅ち半分分けてもろうた了りょ簡うけんじゃで、のう、食たべ物ものも下されば、お情なさけも下さりょうぐらいに思うて、こびりついたでござります。
弁天様の御姿にも、蠅がたかれば、お鬱うっ陶としい。
通りがかりにただ見ては、草がくれの路と云うても、旱ひでりに枯れた、岩の裂目とより見えませぬが、﹂
姥は腰を掛けたまま。さて、乗出すほどの距離でもなかった――
﹁直じきその、向う手を分け上りますのが、山一ツ秋谷在へ近道でござりまして、馬うま車くるまこそ通いませぬけれども、私わしなどは夜さり店を了しまいますると、お菓子、水菓子、商あき物ないものだけを風呂敷包、ト背しょ負いいまして、片手に薬やか缶んを提げたなりで、夕焼にお前様、影をのびのび長々と、曲った腰も、楽々小屋へ帰りますがの。
貴女はそこへ。……お裾が靡なびいた。
これは不思議、と爺どのが、肩を半分乗出す時じゃ、お姿が波を離れて、山の腹へすらりと高うなったと思うと、はて、何を嘉吉がしくさりましたか。
屹きっと振向かっしゃりました様子じゃっけ、お顔の団扇が飜ひら然りと飜かえって、斜ななめに浴びせて、嘉吉の横顔へびしりと来たげな。
きゃっ！と云うと刎はね返って、道ならものの小半町、膝と踵かかとで、抜いた腰を引ひき摺ずるように、その癖、怪けし飛とんで遁にげて来る。
爺どのは爺どので、息を詰めた汗の処へ、今のきゃあ！で転てん倒どうして、わっ、と云うて山の根から飛出す処へ、胸を頭ずつ突きに来るように、ドンと嘉吉が打ぶつ附かったので、両方へ間を置いて、この街道の真まん中なかへ、何と、お前様、見られた図ではござりますか。
二人とも尻餅じゃ。
︵ど、どうした野郎、︶と小腹も立つ、爺どのが恐おっ怖かな紛まぎれに、がならっしゃると、早や、変でござりましたげな、きょろん、とした眼がんの見据えて、私わしが爺の宰八の顔をじろり。
︵ば、ば、ば、︶
︵ええ！︶
︵怪ばけ物もの！︶と云うかと思うと、ひょいと立って、またばたばたと十とあ足しばかり、駆戻って、うつむけに突んのめったげにござりまして、のう。
爺どのは二度吃びっ驚くり、起たちかけた膝がまたがっくりと地じべ面たへ崩れて、ほっと太い呼い吸きさついた。かっとなって浪の音も聞えませぬ。それでいて――寂し然んとして、海ばかり動きます耳に響いて、秋谷へ近路のその山づたい。鈴虫が音ねを立てると、露が溢こぼれますような、佳いい声で、そして物もの凄すごう、
していたのがあって――お百姓に、船頭殿は稼ぎ時、土方人足も働き盛り、日脚の八ツさがりをその体ていは、いずれ界かい隈わいの怠なま惰けものと見たばかり。小次郎法師は、別に心にも留めなかったが、不意の笑声に一驚を吃きっして、和郎の顔と、折敷の団子を見較くらべた。
﹁串じょ戯うだんではない、お婆ばあさん、お前は見懸けに寄らぬ剽ひょ軽うきんものだね。﹂
﹁何でござりますえ。﹂
﹁いいえさ、この団子は、こりゃ泥か埴ねば土つちで製こしらえたのじゃないのかい。﹂
﹁滅相なことをおっしゃりまし。﹂
と年とし寄よりは真顔になり、見上げ皺じわを沢たん山と寄せて、
﹁何を貴方、勿体もない。私わしもはい法ほう然ねん様さま拝みますものでござります。吝しわ嗇んぼ坊うの柿の種が、小判小粒になればと云うて、御出家に土の団子を差上げまして済むものでござりますかよ。﹂
真まっ正しょ直うじきに言訳されて、小次郎法師はちと気の毒。
﹁何々、そう真に受けられては困ります。この涼しさに元気づいて、半分は冗じょ戯うだんだが、旅をすれば色々の事がある。駿すん州しゅうの阿部川餅もちは、そっくり正しょうのものに木で拵こしらえたのを、盆にのせて、看板に出してあると云います。今これを食べようとするのを見てその人が、﹂
と其そな方たを見た、和郎はきょとんと仰あお向むいて、烏も居おらぬに何じゃやら、頻しきりに空を仰いでござる。
﹁唐だし突ぬけに笑うから、ははあ、この団子も看板を取違えたのかと思ったんだよ。﹂
﹁ええ、ええ、いいえ、お前様、﹂
とこざっぱりした前かけの膝ひざを拍たたき、近寄って声を密ひそめ、
﹁これは、もし気ちがいでござりますよ。はい、﹂
と云って、独りで媼うばは頷うなずいた。問わせたまわば、その仔しさ細いの儀は承知の趣。
三
小次郎法師は、掛かけ茶じゃ屋やの庇ひさしから、天そらへ蝙こう蝠もりを吹出しそうに仰あお向むいた、和わ郎ろの面つらを斜ななめに見遣やって、
﹁そう、気違いかい。私はまた唖おうしででもあろうかと思った、立派な若い人が気の毒な。﹂
﹁お前様ね、一ツは心柄でござりますよ。﹂
媼うばは、罪と報むくいを、且つ悟り且つあきらめたようなものいい。
﹁何か憑つき物ものでもしたというのか、暮し向きの屈託とでもいう事か。﹂
と言い懸けて、渋茶にまた舌打しながら、円い茶の子を口の端はたへ持って行ゆくと、さあらぬ方かたを見ていながら天眼通でもある事か、逸いち疾はやくぎろりと見附けて、
﹁やあ、石を噛かじりゃあがる。﹂
小次郎再び化けて転んして、
﹁あんな事を云うよ、お婆さん。﹂
﹁悪い餓鬼じゃ。嘉かき吉ちや、主ぬしあ、もうあっちへ行ゆかっしゃいよ。﹂
その本体はかえって差さし措おき、砂地に這はった、朦もう朧ろうとした影に向って、窘たしなめるように言った。
潮は光るが、空は折から薄曇りである。
法師もこれあるがために暗いような、和郎の影法師を伏目に見て、
﹁一ツ分けてやりましょうかね。団子が欲しいのかも知れん、それだと思いが可おそ恐ろしい。ほんとうに石にでもなると大変。﹂
﹁食くい気けの狂きち人がいではござりませんに、御無用になさりまし。
石じゃ、と申しましたのは、これでもいくらか、不断の事を、覚えていると見えまして、私わしがいつでもお客様に差上げますのを知っておりまして、今のように云うたのでござりましょ。
また埴ねば土つちの団子じゃ、とおっしゃってはなりません。このお前様。﹂
と、法師の脱いで立てかけた、檜ひの笠きがさを両手に据えて、荷物の上へ直すついでに、目で教えたる葭よし簀ずの外。
さっくと削った荒あら造づくりの仁王尊が、引ひっ組くむ状さまの巌いわ続き、海を踏んで突つッ立たつ間に、倒さかさに生えかかった竹たけ藪やぶを一ひと叢むら隔てて、同じ巌いわおの六枚屏びょ風うぶ、月には蒼あおき俤おも立かげだとう――ちらほらと松も見えて、いろいろの浪を縅おどした、鎧よろいの袖を※しぶき﹇＃﹁さんずい＋散﹂、125-12﹈に翳かざす。
﹁あれを貴あな下た、お通りがかりに、御ごろ覧うじはなさりませんか。﹂
と背うし向ろむきになって小腰を屈かがめ、姥うばは七輪の炭をがさがさと火ひば箸しで直すと、薬やか缶んの尻が合点で、ちゃんと据わる。
﹁どの道貴下には御用はござりますまいなれど、大おお崩くず壊れの突とっ端ぱしと睨にらみ合いに、出張っておりますあの巌いわを、﹂
と立直って指をさしたが、片手は据え腰を、えいさ、と抱きつつ、
﹁あれ、あれでござります。﹂
波が寄せて、あたかも風鈴が砕けた形に、ばらばらとその巌いわ端ばなに打うちかかる。
﹁あの、岩一枚、子こう産みい石しと申しまして、小さなのは細きし螺ゃご、碁ごい石しぐらい、頃あいの御おそ供な餅えほどのから、大きなのになりますと、一人では持切れませぬようなのまで、こっとり円い、ちっと、平ひら扁た味みのあります石が、どこからとなくころころと産れますでございます。
その平扁味な処が、恰かっ好こうよく乗りますから、二つかさねて、お持仏なり、神棚へなり、お祭りになりますと、子の無い方が、いや、もう、年子にお出来なさりますと、申しますので。
随分お望みなさる方が多うございますが、当節では、人がせせこましくなりました。お前様、蓆むし戸ろどの圧おさえにも持って参れば、二人がかりで、沢庵石に荷になって帰りますのさえござりますに因って、今が今と申して、早急には見当りませぬ。
随分と御遠方、わざわざ拾いにござらして、力を落す方がござりますので、こうやって近間に店を出しておりますから、朝晩汐しお時どきを見ては拾っておきまして、お客様には、お土産かたがた、毎度婆ば々ばが御ごあ愛いき嬌ょうに進ぜるものでござりますから、つい人様が御存じで、葉山あたりから遊びにござります、書生さんなぞは、
︵婆さん、子は要らんが、女親を一つ寄よ越こせ。︶
なんて、おからかいなされまする。
それを見い見い知っていて、この嘉吉の狂きち人がいが、いかな事、私わしがあげましたものを召めし食あがろうとするのを見て、石じゃ、と云うのでござりますよ。﹂
四
﹁それではお婆さん楽隠居だ。孫子がさぞ大勢あんなさろうね。﹂
と小次郎法師は、話を聞き聞き、子産石の方かたを覗のぞきたれば、面白や浪の、云うことも上の空。
トお茶注さしましょうと出しかけた、塗ぬり盆ぼんを膝に伏せて、ふと黙って、姥うばは寂しそうに傾いたが、
﹁何のお前様、この年になりますまで、孫子の影も見はしませぬ。爺じじい殿と二人きりで、雨のさみしさ、行あん燈どうの薄寒さに、心細う、果は敢かないにつけまして、小こど児もし衆ゅうを欲しがるお方の、お心を察しますで、のう、子産石も一つ一つ、信心して進じます。
長い月日の事でござりますから、里の人達は私わし等らが事を、人に子だねを進ぜるで、二人が実を持たぬのじゃ、と云いますがの、今ではそれさえ本望で、せめてもの心ゆかしでござりますよ。﹂
とかごとがましい口ぶりだったが、柔和な顔に顰ひそみも見えず、温順に莞にっ爾こりして、
﹁御ごし新んぞ造さ様まがおありなさりますれば、御ごぼ坊うさ様まにも一かさね、子産石を進ぜましょうに……﹂
﹁とんでもない。この団子でも石になれば、それで村方勧かん化げでもしようけれど、あいにく三界に家なしです。
しかし今聞いたようでは、さぞお前さんがたは寂さみしかろうね。﹂
﹁はい、はい、いえ、御坊様の前で申しましては、お追つい従しょうのようでござりますが、仏様は御方便、難あり有がたいことでござります。こうやって愛あい想そっ気けもない婆ば々ばが許とこでも、お休み下さりますお人たちに、お茶のお給仕をしておりますれば、何やかや賑にぎやかで、世間話で、ついうかうかと日を暮しますでござります。
ああ、もしもし、﹂
と街道へ、
﹁休まっしゃりまし。﹂と呼びかけた。
車輪のごとき大おおきさの、紅白段だん々だらの夏の蝶、河かわ床どこは草にかくれて、清水のあとの土に輝く、山際に翼を廻すは、白の脚きゃ絆はん、草わら鞋じば穿き、かすりの単ひと衣えのまくり手に、その看板の洋こう傘もりを、手てぬ拭ぐい持つ手に差さし翳かざした、三みそ十ぢばかりの女房で。
あんぺら帽子を阿あ弥み陀だかぶり、縞しまの襯しゃ衣つの大おお膚はだ脱ぬぎ、赤い団うち扇わを帯にさして、手てっ甲こう、甲こう掛がけ厳重に、荷をかついで続くは亭主。
店から呼んだ姥の声に、女房がちょっと会釈する時、束たば髪ねがみの鬢びんが戦そよいで、前さきを急ぐか、そのまま通る。
前帯をしゃんとした細腰を、廂ひさしにぶらさがるようにして、綻ほころびた脇の下から、狂きち人がいの嘉吉は、きょろりと一目。
ふらふらと葭よし簀ずを離れて、早や六七間行過ぎた、女房のあとを、すたすたと跣はだ足しの砂すな路みち。
ほこりを黄色に、ばっと立てて、擦寄って、附くッ着ついたが、女房のその洋こう傘もりから伸のしかかって見みこ越し入道。
﹁イヒヒ、イヒヒヒ、﹂
﹁これ、悪いた戯ずらをするでないよ。﹂
と姥が爪つま立だって窘たしなめたのと、笑声が、ほとんど一所に小次郎法師の耳に入った。
あたかもその時、亭主驚いたか高調子に、
﹁傘や洋こう傘もりの繕い！――洋こう傘もりがさ張はり替かえ繕い直し……﹂
蝉の鳴く音ねを貫いて、誰も通らぬ四あた辺りに響いた。
隙すかさず、この不気味な和郎を、女房から押隔てて、荷を真まん中なかへ振込むと、流しり眄めに一睨にらみ、直ぐ、急いそ足ぎあしになるあとから、和郎は、のそのそ――大おおきな影を引いて続く。
﹁御ごろ覧うじまし、あの通り困ったものでござります。﹂
法師も言葉なく見送るうち、沖から来るか、途絶えては、ずしりと崖を打つ音が、松風と行違いに、向うの山に三度ばかり浪の調べを通わすほどに、紅白段だん々だらの洋こう傘もりは、小さく鞠まりのようになって、人の頭かしらが入いれ交まぜに、空へ突きながら行ゆくかと見えて、一ひと条すじ道みちのそこまでは一軒の苫とま屋やもない、彼かな方た大崩壊の腰を、点ぽつ々ぽつ。
五
﹁あれ、あの大おお崩くず壊れの崖の前むこ途うへ、皆が見えなくなりました。
ちょうど、あれを出ました、下の浜でござります。唯ただ今いまの狂きち人がいが、酒に酔って打ぶっ倒たおれておりましたのは……はい、あれは嘉吉と申しまして、私わし等ら秋谷在の、いけずな野郎でござりましての。
その飲んだくれます事、怠ける工ぐあ合い、まともな人間から見ますれば、真ほんに正気の沙さ汰たではござりませなんだが、それでもどうやら人並に、正月はめでたがり、盆は忙しがりまして、別に気が触れた奴やつではござりません。いつでも村の御おま祭つ礼りのように、遊ぶが病やま気いでござりましたが、この春頃に、何と発心をしましたか、自分が望みで、三浦三崎のさる酒さか問どい屋やへ、奉公をしたでござります。
つい夏の取とッ着つきに、御主人のいいつけで、清すみ酒ざけをの、お前様、沢たん山とでもござりませぬ。三みた樽るばかり船に積んで、船頭殿が一人、嘉吉めが上うわ乗のりで、この葉山の小売店みせへ卸しに来たでござります。
葉山森戸などへ三崎の方から帰ります、この辺のお百姓や、漁師たち、顔を知ったものが、途中から、乗のっけてくらっせえ、明いてる船じゃ、と渡わた場しばでも船つきでもござりませぬ。海岸の岩の上や、磯いその松の根方から、おおいおおい、と板ばん東どう声ごえで呼ばり立って、とうとう五人がとこ押込みましたは、以上七人になりました、よの。
どれもどれも、碌ろくでなしが、得手に帆じゃ。船は走る、口は辷すべる、凪なぎはよし、大話しをし草くた臥ぶれ、嘉吉めは胴の間まの横木を枕に、踏ふん反ぞり返かえって、ぐうぐう高たか鼾いびきになったげにござります。
路に灘なだはござりませぬが、樽の香が芬ぷん々ぷんして、鮹たこも浮きそうな凪の好よさ。せめて船にでも酔いたい、と一人が串じょ戯うだんに言い出しますと、何と一樽賭かけまいか、飲むことは銘々が勝手次第、勝負の上から代銭を払えば可いい、面白い、遣やるべいじゃ。
煙きせ管るの吸口ででも結構に樽へ穴を開ける徒てあいが、大びらに呑口切って、お前様、お船頭、弁当箱の空あきはなしか、といびつ形なりの切きり溜だめを、大海でざぶりとゆすいで、その皮づつみに、せせり残しの、醤油かすを指のさきで嘗なめながら、まわしのみの煽あおっきり。
天下晴れて、財布の紐ひもを外すやら、胴巻を解くやらして、賭なぐ博さみをはじめますと、お船頭が黙ってはおりませぬ。﹂
﹁叱こご言とを云って留めましたか。さすがは船頭、字で書いても船の頭かしらだね。﹂
と真顔で法師の言うのを聞いて、姥うばは、いかさまな、その年とし少わかで、出家でもしそうな人、とさも憐あわれんだ趣で、
﹁まあ、お人の好いい。なるほど船頭を字に書けば、船の頭でござりましょ。そりゃもう船の頭だけに、極きまり処はちゃんと極って、間違いのない事をいたしました。﹂
﹁どうしたかね。﹂
﹁五人徒であいが賽さいの目に並んでおります、真まん中なかへ割込んで、まず帆を下ろしたのでござります。﹂
と莞にっ爾こりして顔を見る。
いささかもその意を得ないで、
﹁なぜだろうかね。﹂
﹁この追手じゃ、帆があっては、丁と云う間に葉山へ着く。ふわふわと海くら月げ泳ぎに、船を浮かせながらゆっくり遣るべい。
その事よ。四海波静かにて、波も動かぬ時津風、枝を鳴らさぬ御み代よなれや、と勿体ない、祝言の小こう謡たいを、聞きき噛かじりに謳うたう下から、勝負！とそれ、銭おあしの取とり遣やり。板子の下が地獄なら、上も修しゅ羅らど道うでござります。﹂
﹁船頭も同類かい、何の事じゃ、﹂
と法師は新あらたになみなみとある茶碗を大切そうに両手で持って、苦笑いをするのであった。
﹁それはお前様、あの徒てあいと申しますものは、……まあ、海へ出て岸をばして御ごろ覧うじまし。巌いわの窪みはどこもかしこも、賭ばく博ちの壺つぼに、鰒あわびの蓋ふた。蟹かにの穴でない処は、皆意あな銭いちのあとでござります。珍しい事も、不思議な事もないけれど、その時のは、はい、嘉吉に取っては、あやかしが着きましたじゃ。のう、便びん船せんしょう、便船しょう、と船を渚なぎさへ引寄せては、巌いわ端ばなから、松の下から、飜ひら然りひ々ら々りと乗りましたのは、魔がさしたのでござりましたよ。﹂
六
﹁魅入られたようになりまして、ぐっすり寝込みました嘉吉の奴。浪の音は耳馴なれても、磯いそ近ぢかへ舳へさきが廻って、松の風に揺り起され、肌寒うなって目を覚ましますと、そのお前様……体てい裁たらく。
山へ上あがったというではなし、たかだか船の中の車座、そんな事は平気な野郎も、酒樽の三さん番ばそ叟う、とうとうたらりたらりには肝を潰つぶして、︵やい、此こい奴つ等ら、︶とはずみに引ひっ傾かたがります船底へ、仁王立に踏ふみごたえて、喚わめいたそうにござります。
騒ぐな。
騒ぐまいてや、やい、嘉吉、こう見た処で、二歩ぶと一両、貴様に貸かしのない顔はないけれど、主人のものじゃ。引ひき負おいをさせてまで、勘定を合わしょうなんど因いん業ごうな事は言わぬ。場銭を集めて一樽買ったら言分あるまい。代物さえ持って帰れば、どこへ売っても仔しさ細いはない。
なるほど言われればその通り、言訳の出来ぬことはござりませぬわ、のう。
銭さえ払えば可いいとして、船頭やい、船はどうする、と嘉吉が云いますと、ばら銭を掴にぎった拳こぶしを向むか顱うは巻ちまきの上さ突出して、半だ半だ、何、船だ。船だ船だ、と夢中でおります。
嘉吉が、そこで、はい、櫓ろを握って、ぎっちらこ。幽霊船の歩ぶに取られたような顔つきで、漕こぎ出だしたげでござりますが、酒の匂においに我慢が出来ず……
御ごは繁んじ昌ょうの旦だん那なから、一杯おみきを遣わされ、と咽の喉どをごくごくさして、口を開けるで、さあ、飲まっせえ、と注つぎにかかる、と幾いく干らか差引くか、と念を推したげで、のう、ここらは確たしかでござりました。
幡随院長兵衛じゃ、酒を振舞うて銭を取るか。しみったれたことを云うな、と勝った奴がいきります。
お手てわ渡たしで下される儀は、皆の衆も御面倒、これへ、と云うて、あか柄びし杓ゃくを突出いて、どうどうと受けました。あの大おお面づらが、お前様、片手で櫓を、はい、押しながら、その馬ばび柄しゃ杓くのようなもので、片手で、ぐいぐいと煽あおったげな。
酒は一樽打ぶち抜ぬいたで、ちっとも惜おし気げはござりませぬ。海からでも湧出すように、大気になって、もう一つやらっせえ、丁だ、それ、心祝いに飲ますべい、代は要らぬ。
帰きみ命ょう頂ちょ礼うらい、賽さいころ明神の兀はげ天あた窓ま、光る光る、と追つい従しょう云うて、あか柄杓へまた一杯、煽るほどに飲むほどに、櫓ろび拍ょう子しが乱になって、船はぐらぐら大揺れ小揺れじゃ、こりゃならぬ、賽が据すわらぬ。
ええ、気に入らずば代って漕こげさ、と滅多押しに、それでも、大おお崩くず壊れの鼻を廻って、出島の中へ漕ぎ入れたでござります。
さあ、内うち海うみの青畳、座敷へ入ったも同おんなじじゃ、と心が緩むと、嘉吉奴めが、酒代を渡してくれ、勝負が済むまで内金を受取ろう、と櫓を離した手に銭おあしを握ると、懐へでも入れることか、片手に、あか柄びし杓ゃくを持ったなりで、チョボ一の中へ飛込みましたが。
はて、河かっ童ぱ野郎、身みな投げするより始末の悪さ。こうなっては、お前様、もう浮ぶ瀬はござりませぬ。
取られて取られて、とうとう、のう、御主人へ持って行ゆく、一樽のお代を無みなにしました。処で、自や棄けじゃ、賽の目が十とおに見えて、わいらの頭が五十ある、浜がぐるぐる廻るわ廻るわ。さあ漕がば漕げ、殺さば殺せ、とまたふんぞった時分には、ものの一斗ぐらい嘉吉一人で飲んだであろ。七人のあたまさえ四斗樽、これがあらかた片附いて、浜へ樽を上げた時、重いつもりで両手をかけて、えい、と腰を切った拍子抜けに、向うへのめって、樽が、ばっちゃん、嘉吉がころり、どんとのめりましたきり、早や死んだも同然。
船はそれまで、ぐるりぐるりと長者園の浦を廻って、ちょうどあの、活動写真の難船見たよう、波風の音もせずに漂うていましたげな。両りょ膚うは脱だぬぎの胸毛や、大おお胡あぐ坐らの脛の毛へ、夕風が颯さっとかかって、悚ぞ然っとして、皆みんなが少し正気づくと、一ツ星も見えまする。大おお巌いわの崖が薄黒く、目の前へ蔽おっ被かぶさって、物もの凄すごうもなりましたので、褌ふんどしを緊しめ直すやら、膝ひざ小っこ僧ぞうを合わせるやら、お船頭が、ほういほうい、と鳥のような懸声で、浜へ船をつけまして、正体のない嘉吉を撲なぐる。と、むっくり起きたが、その酒樽の軽いのに、本性違たがわず気きお落ちがして、右の、倒れたものでござりますよ。はい。﹂
七
﹁仰あお向のけ様ざまに、火のような息を吹いて、身から体だから染しみ出だします、酒が砂へ露を打つ。晩方の涼しさにも、蚊や蠅が寄って来る。
奴やっこは、打ぶっても、叩いても、起おきることではござりませぬがの。
かかり合あいは免のがれぬ、と小こぢ力からのある男が、力を貸して、船頭まじりに、この徒てあいとて確たしかではござりませなんだ。ひょろひょろしながら、あとのまず二樽たるは、荷になって小売店みせへ届けました。
嘉吉の始末でござります。それなり船の荷物にして、積んで帰れば片附きますが、死しが骸いではない、酔ったもの、醒さめた時の挨拶が厄介じゃ、とお船頭は遁にげを打って、帆を掛けて、海の靄もやへと隠れました。
どの道訳を立ていでは、主人方へ帰られる身体ではござりませぬで、一まず、秋谷の親おや許もとへ届ける相談にかかりましたが、またこのお荷物が、御覧の通りの大男。それに、はい、のめったきり、捏てこでも動かぬに困こうじ果てて、すっぱすっぱ煙たば草こを吹かすやら、お前様、嚔くしゃみをするやら、向むか脛はぎへ集たかる蚊を踵かかとで揉もみ殺ころすやら、泥に酔った大おお鮫ざめのような嘉吉を、浪打際に押おっ取とり巻まいて、小田原評ひょ定うじょう。持て余しておりました処へ、ちょうど荷車を曳ひきまして、藤沢から一日路みち、この街道つづきの長者園の土手へ通りかかりましたのが……﹂
茜あか色ねいろの顱はち巻まきを、白しら髪があ天た窓まにちょきり結び。結び目の押おっ立たって、威勢の可いいのが、弁慶蟹がにの、濡色あかき鋏はさみに似たのに、またその左の腕片かた々かた、へし曲って脇腹へ、ぱツと開あけ、ぐいと握る、指と掌てのひらは動くけれども、肱ひじは附くッ着ついてちっとも伸びず。銅あかがねで鋳たような。……その仔しさ細いを尋ぬれば、心がらとは言いながら、去さんぬる年、一膳ぜん飯屋でぐでんになり、冥めい途どの宵を照らしますじゃ、と碌ろくでもない秀句を吐いて、井いげ桁たの中に横木もっ瓜こう、田舎の暗や夜みには通りものの提ちょ灯うちんを借りたので、蠣かき殻がら道みちを照らしながら、安政の地震に出来た、古い処を、鼻唄で、地つちが崩れそうなひょろひょろ歩あ行るき。好いい心持に眠気がさすと、邪魔な灯あかりを肱ひじにかけて、腕を鍵かぎ形なりに両手を組み、ハテ怪しやな、汝おのれ、人ひと魂だまか、金かね精だまか、正体を顕あらわせろ！ とトロンコの据すえ眼まなこで、提灯を下目に睨にらむ、とぐたりとなった、並木の下。地虫のような鼾いびきを立てつつ、大崩壊に差さし懸かかると、海が変って、太平洋を煽あおる風に、提灯の蝋ろうが倒れて、めらめらと燃えついた。沖の漁いさ火りびを袖に呼んで、胸毛がじりじりに仰天し、やあ、コン畜生、火の車め、まだ疾はええ、と鬼と組んだ横倒れ、転ころ廻がりまわって揉もみ消けして、生いの命ちに別条はなかった。が、その時の大おお火やけ傷ど、享年六十有七歳にして、生まれもつかぬ不かた具わもの――渾あだ名なを、てんぼう蟹がにの宰さい八はちと云う、秋谷在の名物親おや仁じ。
﹁……私わしが爺じじい殿でござります。﹂
と姥うばは云って、微ほほ笑えんだ。
小次郎法師は、寿ことぶくごとく、一いち揖ゆうして、
﹁成程、尉じょう殿だね。﹂と祝儀する。
﹁いえ、もう気ままものの碌でなしでござりますが、お庇かげさまで、至って元気がようござりますので、御懇意な近所へは、進かけ退ひきが厭いやじゃ、とのう、葉山を越して、日影から、田たご越え逗ず子しの方へ、遠くまで、てんぼうの肩に背しょ負いか籠ごして、栄さざ螺えや、とこぶし、もろ鯵あじの開き、うるめ鰯いわしの目刺など持ちましては、飲のみ代しろにいたしますが、その時はお前様、村のもとの庄屋様、代々長者の鶴つる谷や喜十郎様、﹂
と丁寧に名のりを上げて、
﹁これが私わしども、お主しゅ筋に当りましての。そのお邸やしきの御用で、東海道の藤沢まで、買物に行ったのでござりました。
一月に一度ぐらいは、種いろ々いろ入用のものを、塩やら醤油やら、小さなものは洋ラン燈プの心まで、一ひと車くるまずつ調えさっしゃります。
横浜は西洋臭し、三崎は品が落着かず、界かい隈わいは間に合わせの俄にわか仕入れ、しけものが多うござりますので、どうしても目めか量たのある、ずッしりしたお堅いものは、昔からの藤沢に限りますので、おねだんも安し、徳用向きゆえ、御大家の買物はまた別で、﹂
と姥は糸を操るような話しぶり。心のどかに口をまわして、自分もまたお茶参った。
しばらく往来もなかったのである。
八
﹁……おう、宰八か。お爺じい、在所へ帰るだら、これさ一ひと個つ、産うぶ神すな様さまへ届けてくんな。ちょうどはい、その荷車は幸さいわいだ、と言わっしゃる。
見ると、お前様、嘉吉めが、今申したその体ていでござりましょ。
同おんなじ産神様氏うじ子こ夥なか間まじゃ。承知なれど、私わしはこれ、手がこの通り、思うように荷が着けられぬ。御お身みたちあんばいよう直さっしゃい、荷の上へ載のせべい、と爺じじいどのが云いますとの。
何あにお爺じい、そのまま上へ積まっしゃい、と早や二人して、嘉吉めが天あた窓まと足を、引立てるではござりませぬか。
爺どのが、待たっしゃい、鶴谷様のお使いで、綿を大いかいこと買うて来たが、醤油樽や石油缶の下積になっては悪かんべいと、上荷に積んであるもんだ。喜十郎旦那が許とこで、ふっくりと入れさっしゃる綿の初穂へ、その酒浸しの怪ばけ物ものさ、押おっころばしては相成んねえ、柔やわ々やわ積方も直さっしゃい、と利かぬ手の拳こぶしを握って、一ひと力りき味み力みましけ。
七面倒な、こうすべい、と荒稼ぎの気きみ短じか徒てあいじゃ。お前様、上うわかがりの縄の先を、嘉吉が胴どう中なかへ結ゆわへ附けて、車の輪に障らぬまでに、横づけに縛りました。
賃銭の外じゃ、落しても大事ない。さらば急いで帰らっしゃれ。しゃんしゃんと手を拍たたいて、賭ばく博ちに勝ったものも、負けたものも、飲んだ酒と差引いて、誰も損はござりませぬ。可いい機嫌のそそり節、尻まで捲まくった脛すねの向く方へ、ぞろぞろと散ったげにござります。
爺どのは、どっこいしょ、と横木に肩を入れ直いて、てんぼうの片手押しは、胸が力でござります。人通りが少いで、露にひろがりました浜昼顔の、ちらちらと咲いた上を、ぐいと曳ひき出して、それから、がたがた。
大おお崩くずれまで葉山からは、だらだらの爪つま先さき上あがり。後はなぞえに下り道。車がはずんで、ごろごろと、私わしがこの茶店の前まで参った時じゃ、と……申します。
やい、枕をくれ、枕をくれ、と嘉吉めが喚わめくげな。
何吐ぬかすぞい、この野郎、贅ぜい沢たくべいこくなてえ、狐きつ店ねみせの白ッ首と間違えてけつかるそうな、とぶつぶつ口くち叱こご言とを申しましての、爺どのが振向きもせずに、ぐんぐん曳ひいたと思わっしゃりまし。﹂
﹁何か、夢でも見たろうかね。﹂
﹁夢どころではござりますか、お前様、直ぐに縊しめ殺されそうな声を出して、苦しい、苦しい、鼻血が出るわ、目がまうわ、天あた窓まを上へ上げてくれ。やい、どうするだ、さあ、殺さば殺せ、漕こがば漕げ、とまだ夢中で、嘉吉めは船に居る気でおります、よの。
胴中の縄が弛ゆるんで、天窓が地つちへ擦れ擦れに、倒さかさまになっておりますそうな。こりゃもっともじゃ、のう、たっての苦くる悩しみ。
酒が上のぼって、醒さめずにいたりゃ本望だんべい、俺わしら手が利かねえだに、もうちっとだ辛抱せろ、とぐらぐらと揺り出しますと、死ぬる、死ぬる、助け船引﹇＃﹁引﹂は小書き﹈と火を吹きそうに喚わめいた、とのう。
この中ではござりませぬ、﹂
と姥は葭よし簀ずの外を見て、
﹁廂ひさしの蔭じゃったげにござります。浪が届きませぬばかり。低い三日月様を、漆うるし見たような高い髷まげからはずさっせえまして、真まっ白しろなのを顔に当てて、団うち扇わが衣きも服のを掛けたげな、影の涼しい、姿の長い、裾すその薄蒼あおい、悚ぞ然っとするほど美しらしいお人が一方。
すらすら道端へ出さっせての、
︵…………︶
爺どのを呼留めて、これは罪人か――と問わしつけえよ。
食くい物ものも代しろ物ものも、新しい買物じゃ。縁起でもない事の。罪人を上積みにしてどうしべい、これこれでござる。と云うと、可哀相に苦しかろう、と団扇を取って、薄い羽のように、一文字に、横に口へ啣くわえさしった。
その時は、爺どのの方へ背せなかを向けて、顔をこう斜はすっかいに、﹂
と法師から打うち背そむく、と俤おもかげのその薄月の、婦おん人なの風情を思おも遣いやればか、葦よし簀ずをはずれた日のかげりに、姥の頸うなじが白かった。
荷物の方へ、するすると膝を寄せて、
﹁そこで？﹂
﹁はい、両手を下げて、白いその両方の掌てのひらを合わせて、がっくりとなった嘉吉の首を、四五本目の輻やぼねの辺あたりで、上へ支ささげて持たっせえた。おもみが掛かかったか、姿を絞って、肩が細ほっそりしましたげなよ。﹂
九
﹁介抱しよう、お下ろしな、と言わっしゃる。
その位な荒療治で、寝汗一つ取れる奴か。打うっ棄ちゃっておかっせえ。面倒臭い、と顱はち巻まきしめた頭を掉ふって云うたれば、どこまで行ゆく、と聞かしっけえ。
途中さまざまの隙ひまざえで、爺じじいどのもむかっぱらじゃ、秋谷鎮座の明神様、俺わし等らが産うぶ神すなへ届け物だ、とずッきり饒しゃ舌べると、
︵受取りましょう、ここで可いいから。︶
︵お前様は？︶
︵ああ、明神様の侍こし女もとよ。︶と言わっしゃった。
月に浪が懸かかりますように、さらさらと、風が吹きますと、揺れながらこの葦よし簀ずの蔭が、格子縞じまのように御袖へ映って、雪の膚はだまで透通って、四あた辺りには影もない。中空を見ますれば、白しら鷺さぎの飛ぶような雲が見えて、ざっと一浪打ちました。
爺どのは悚ぞ然っとして、はい、はい、と柔すな順おになって、縄を解くと、ずりこけての、嘉吉のあの図体が、どたりと荷車から。貴あな女たは擡もたげた手を下へ、地の上へ着けるように、嘉吉の頭を下ろさっせえた。
足をばたばたの、手によいよい、輻やぼねも蹴けはずしそうに悶もがきますわの。
︵ああ、お前はもう可いいから。︶邪魔もののようにおっしゃったで、爺どのは心外じゃ……
何の、心外がらずともの、いけずな親おや仁じでござりますがの、ほほ、ほほ。﹂
﹁いや、いや、私が聞いただけでも、何か、こうわざと邪じゃ慳けんに取扱ったようで、対あい手てがその酔よい漢どれを労いたわるというだけに、黙ってはおられません。何だか寝ねざ覚めが悪いようだね。﹂
﹁ええ、串じょ戯うだんにも、氏うじ神がみ様さまの知ちか己づきじゃと言わっしゃりましたけに、嘉吉を荷車に縛りましたのは、明神様の同おな一じ孫まご児こを、継まま子こ扱いにしましたようで、貴あな女たへも聞えが悪うござりますので。
綿の上うわ積づみ﹇＃ルビの﹁うわづみ﹂は底本では﹁うわずみ﹂﹈一件から荷に奴やっこを縛ったは、爺じいどのが自分したことではない事を、言訳がましく饒しゃ舌べりますと、︵可いから、お前はあっちへ、︶と、こうじゃとの。
︵可よかあねえだ。もの、理りあ合いを言わねえ事にゃ、ハイ気が済みましねえ。お前様も明神様お知ちか己づきなら聞かっしゃい。老おい耆ぼれの手てんぼう爺じじいに、若いものの酔よい漢どれの介やっ抱かいが何あに、出来べい。神様も分らねえ、こんな、くだま野郎を労ってやらっしゃる御慈悲い深い思おぼ召しめしで、何でこれ、私わし等ら婆様の中に、小こど児も一人授けちゃくれさっしゃらぬ。それも可い、無い子だねなら断あき念らめべいが、提ちょ灯うちんで火やけ傷どをするのを、何で、黙って見てござった。私わしが手てんぼうでせえなくば、おなじ車に結ゆわえるちゅうて、こう、けんどんに、倒さかしまにゃ縛らねえだ。初対面のお前様見さっしゃる目に、えら俺わしが非道なようで、寝覚が悪い、︶と顱はち巻まきを掉ふり立たてますと、のう。
︵早く、お帰り、︶と、継穂がないわの。
︵いんにゃ、理を言わねえじゃ、︶とまだ早や一概に捏こねようとしましたら……
︵おいでよ、︶と、お前様ね。
団うち扇わで顔を隠さしったなり。背うし後ろへ雪のような手を伸のばして、荷車ごと爺じいどのを、推おし遣やるようにさっせえた。お手の指が白々と、こう輻やぼねの上で、糸車に、はい、綿屑がかかったげに、月の光で動いたらばの、ぐるぐるぐると輪が廻って、爺じじいどのの背せなかへ、荷車が、乗のっ被かぶさるではござりませぬか。﹂
﹁おおおお、﹂
と、法師は目をって固かた唾ずを呑む。
﹁吃びっ驚くり亀の子、空へ何と、爺どのは手を泳がせて、自分の曳ひいた荷車に、がらがら背うし後ろから押出されて、わい、というたぎり、一ひと呼い吸きに村の取とッ着つき、あれから、この街道が鍋なべづる形なりに曲ります、明神様、森の石段まで、ひとりでに駆出しましたげな。
もっとも見さっしゃります通り、道はなぞえに、向むこうへ低くはなりますが、下り坂と云う程ではなし、その疾はやいこと。一なだれに辷すべったようで、やっと石段の下で、うむ、とこたえて踏留まりますと、はずみのついた車めは、がたがたと石ころの上を空廻りして、躍ったげにござります。
見上げる空の森は暗し、爺どのは、身震いをしたと申しますがの。﹂
十
﹁利かぬ気の親おや仁じじゃ、お前様、月夜の遠見に、纏まとったものの形は、葦よし簀ずば張りの柱の根を圧おさえて置きます、お前様の背うし後ろの、その石いしか、私わしが立掛けて置いて帰ります、この床しょ几うぎの影ばかり。
大おお崩くず壊れまで見通しになって、貴あな女たの姿は、蜘くも蛛の巣すほども見えませぬ。それをの、透かし透かし、山際に附くッ着ついて、薄墨引いた草の上を、跫あし音おとを盗んで引ひっ返かえしましたげな。
嘉吉をどう始末さっしゃるか、それを見届けよう、という、爺じじいどの了りょ簡うけんでござります。
荷車はの、明神様石段の前を行ゆけば、御存じの三崎街道、横へ切れる畦あぜ道みちが在所の入口でござりますで、そこへ引込んだものでござります。人気も穏おだやかなり、積んだものを見たばかりで、鶴谷様御用、と札の建ったも同おな一じじゃで、誰も手の障さえ人てはござりませぬで。
爺どのは、這はうようにして、身から体だを隠して引返したと言いましけ。よう姿が隠さりょう、光った天あた窓まと、顱はち巻まきの茜あか色ねいろが月夜に消えるか。主ぬしゃそこで早や、貴あな女たの術で、活いきながら鋏はさみの紅あかい月影の蟹かにになった、とあとで村の衆にひやかされて、ええ、措おけやい、気味の悪い、と目をぱちくり、泡を吹いたでござりますよ。
笑うてやらっしゃりませ。いけ年を仕つかまつって、貴女が、去いね、とおっしゃったを止よせば可よいことでござります。﹂
法師はかくと聞いて眉を顰ひそめ、
﹁笑い事ではない。何かお爺じい様さんに異状でもありましたか。﹂
﹁お目こぼしでござります、﹂
と姥は謹んだ、顔かお色つきして、
﹁爺どのはお庇かげと何事もござりませんで、今日も鶴谷様の野良へ手伝いに参っております。﹂
﹁じゃ、その嘉吉と云うのばかりが、変な目に逢ったんだね。﹂
﹁それも心がらでござります。はじめはお前様、貴あな女たが御親切に、勿体ない……お手ずから薫かおりの高い、水晶を噛かみますような、涼しいお薬を下さって、水ごと残しておきました、……この手桶おけから、﹂……
と姥は見返る。捧げた心か、葦よし簀ずに挟んで、常とこ夏なつの花のあるが下もとに、日影涼しい手桶が一ひと個つ、輪の上に、――大方その時以来であろう――注し連めを張ったが、まだ新しい。
﹁水も汲くんで、くくめておやり遊ばした。嘉吉の我に返った処で、心得違いをしたために、主人の許とこへ帰れずば、これを代しろに言訳して、と結構な御宝を。……
それがお前様、真まみ緑どりの、光のある、美しい、珠じゃったげにございます。
爺どのが、潜り込んだ草の中から、その蟹の目を密そっと出して、見た時じゃったと申します。
こう、貴女がお持ちなさりました指の尖さきへ、ほんのりと蒼あおく映って、白いお手の透いた処は、大おおきな蛍をお撮つまみなさりましたようじゃげな。
貴女のお身から体だに附つ属いていてこそじゃが、やがて、はい、その光は、嘉吉が賽さいころを振る掌てのひらの中へ、消えましたとの。
それから、抜かっしゃりましたものらしい、少し俯うつ向むいて、ええ、やっぱり、顔へは団扇を当てたまんまで、お髪ぐしの黒い、前の方へ、軽く簪かんざしをお挿さしなされて、お草履か、雪せっ駄たかの、それなりに、はい、すらすらと、月と一所に女めな浪みのように歩あ行るかっしゃる。
これでまた爺どのは悚ぞ然っとしたげな。のう、いかな事でも、明神様の知ちか己づきじゃ言わしったは串じょ戯うだんで、大方は、葉山あたりの誰どな方たのか御別荘から、お忍びの方と思わしっけがの。
今行ゆかっしゃるのは反あべ対こべに秋谷の方じゃ。……はてな、と思うと、変った事は、そればかりではござりませぬよ。
嘉吉の奴やつがの、あろう事か、慈悲を垂れりゃ、何とやら。珠は掴つかむ、酒の上じゃ、はじめはただ、御恩返しじゃの、お名前を聞きたいの、ただ一目お顔の、とこだわりましけ。柳に受けて歩あ行るかっしゃるで、機はた織おり場ばの姉ねえやが許とこへ、夜さり、畦あぜ道みちを通う時の高声の唄のような、真似もならぬ大口利いて、果はては増長この上なし、袖を引いて、手を廻して、背うし後ろから抱きつきおる。
爺どのは冷汗掻かいたげな。や、それでも召ものの裾すそに、草わら鞋じが引ひっかかりましたように、するすると嘉吉に抱かれて、前ざまに行ゆかっしゃったそうながの、お前様、飛んでもない、﹂
﹁怪けしからん事を――またしたもんです。﹂
と小次郎法師は苦り切る。
十一
姥うばは分別あり顔に、
﹁一目見たら、その御容よう子すだけでなりと、分りそうなものでござります。
貴あな女たが神にせよ、また人間にしました処で、嘉吉づれが口を利かれます御方ではござりませぬ。そうでなくとも、そんな御恩を被こうむったでござりますもの。拝むにも、後姿でのうては罰の当ります処、悪党なら、お前様、発心のしどころを。
根が悪徒ではござりませぬ、取締りのない、ただぼうと、一ひと夜よざ酒けが沸いたような奴やっこ殿じゃ。薄すすきも、蘆あしも、女おみ郎なえ花しも、見みさ境かいはござりませぬ。
髪が長けりゃ女じゃ、と合点して、さかりのついた犬同然、珠を頂いた御恩なぞも、新屋の姉あねえに、藪やぶの前で、牡ぼた丹も餅ち半分分けてもろうた了りょ簡うけんじゃで、のう、食たべ物ものも下されば、お情なさけも下さりょうぐらいに思うて、こびりついたでござります。
弁天様の御姿にも、蠅がたかれば、お鬱うっ陶としい。
通りがかりにただ見ては、草がくれの路と云うても、旱ひでりに枯れた、岩の裂目とより見えませぬが、﹂
姥は腰を掛けたまま。さて、乗出すほどの距離でもなかった――
﹁直じきその、向う手を分け上りますのが、山一ツ秋谷在へ近道でござりまして、馬うま車くるまこそ通いませぬけれども、私わしなどは夜さり店を了しまいますると、お菓子、水菓子、商あき物ないものだけを風呂敷包、ト背しょ負いいまして、片手に薬やか缶んを提げたなりで、夕焼にお前様、影をのびのび長々と、曲った腰も、楽々小屋へ帰りますがの。
貴女はそこへ。……お裾が靡なびいた。
これは不思議、と爺どのが、肩を半分乗出す時じゃ、お姿が波を離れて、山の腹へすらりと高うなったと思うと、はて、何を嘉吉がしくさりましたか。
屹きっと振向かっしゃりました様子じゃっけ、お顔の団扇が飜ひら然りと飜かえって、斜ななめに浴びせて、嘉吉の横顔へびしりと来たげな。
きゃっ！と云うと刎はね返って、道ならものの小半町、膝と踵かかとで、抜いた腰を引ひき摺ずるように、その癖、怪けし飛とんで遁にげて来る。
爺どのは爺どので、息を詰めた汗の処へ、今のきゃあ！で転てん倒どうして、わっ、と云うて山の根から飛出す処へ、胸を頭ずつ突きに来るように、ドンと嘉吉が打ぶつ附かったので、両方へ間を置いて、この街道の真まん中なかへ、何と、お前様、見られた図ではござりますか。
二人とも尻餅じゃ。
︵ど、どうした野郎、︶と小腹も立つ、爺どのが恐おっ怖かな紛まぎれに、がならっしゃると、早や、変でござりましたげな、きょろん、とした眼がんの見据えて、私わしが爺の宰八の顔をじろり。
︵ば、ば、ば、︶
︵ええ！︶
︵怪ばけ物もの！︶と云うかと思うと、ひょいと立って、またばたばたと十とあ足しばかり、駆戻って、うつむけに突んのめったげにござりまして、のう。
爺どのは二度吃びっ驚くり、起たちかけた膝がまたがっくりと地じべ面たへ崩れて、ほっと太い呼い吸きさついた。かっとなって浪の音も聞えませぬ。それでいて――寂し然んとして、海ばかり動きます耳に響いて、秋谷へ近路のその山づたい。鈴虫が音ねを立てると、露が溢こぼれますような、佳いい声で、そして物もの凄すごう、
︵ここはどこの細道じゃ、
細道じゃ。
天神さんの細道じゃ、
細道じゃ。
少し通して下さんせ、下さんせ。︶
とあわれに寂しく、貴女の声で聞えました。
その声が遠くなります、山の上を、薄綿で包みますように、雲が白くかかりますと、音が先へ、颯さあ――とたよりない雨が、海の方へ降って来て、お声は山のうらかけて、遠くなって行ゆきますげな。
前さっ刻き見た兎うの毛の雲じゃ、一雨来ようと思うた癖に、こりゃ心ない、荷が濡れよう、と爺どのは駆けて戻って、がッたり車を曳ひき出だしながら、村はずれの小店からまず声をかけて、嘉吉めを見せにやります。
何か、その唄のお声が、のう、十年五十年も昔聞いたようにもあれば、こう云う耳にも、響くと云います。
遠慮すると見えまして、余り委くわしい事は申しませぬが、嘉吉はそれから、あの通り気が変になりました。
さあ、界かい隈わいは評判で、小こど児もどもが誰云うとなく、いつの間やら、その唄を……﹂
十二
︵ここはどこの細道じゃ、
細道じゃ。
秋谷邸やしきの細道じゃ、
細道じゃ。
少し通して下さんせ、
下さんせ。
誰どな方たが見えても通しません、
通しません。︶
﹁あの、こう唄うのではござりませんか。
当節は、もう学校で、かあかあ鴉からすが鳴く事の、池の鯉こいが麩ふを食う事の、と間違いのないお前様、ちゃんと理の詰んだ歌を教えさっしゃるに、それを皆が唄わいで、今申した――
（ここはどこの細道じゃ、
秋谷邸の細道じゃ。）
とあわれな、寂しい、細い声で、口々に、秋谷邸の細道じゃ。）
それも、のう元唄は、
（天神様の細道じゃ、
少し通して下さんせ、
御用のない人通しません、）
確か、こうでござりましょう。それを、少し通して下さんせ、
御用のない人通しません、）
（秋谷邸の細道じゃ、
誰方が見えても通しません、
通しません。）
誰方が見えても通しません、
通しません。）
とひとりでに唄います、の。まだそればかりではござりません。小こど児もたちが日の暮方、そこらを遊びますのに、厭いやな真似を、まあ、どうでござりましょう。
てんでんが芋ずい※き﹇＃﹁くさかんむり／更﹂、153-3﹈の葉を捩もぎりまして、目の玉二つ、口一つ、穴を三つ開けたのを、ぬっぺりと、こう顔へ被かぶったものでござります。大おおきいのから小さいのから、その蒼あお白じろい筋のある、細ら長い、狐とも狸とも、姑う獲ぶ鳥め、とも異体の知れぬ、中にも虫喰のござります葉の汚し点みは、癩かったいか、痘あば痕たの幽霊。面つらを並べて、ひょろひょろと蔭かげ日ひな向た、藪やぶの前だの、谷やと戸ぐ口ちだの、山の根なんぞを練りながら今の唄を唄いますのが、三人と、五人ずつ、一組や二組ではござりませんで。
悪いた戯ずらが蒿こうじて、この節では、唐とう黍もろこしの毛の尻しっ尾ぽを下げたり、あけびを口に啣くわえたり、茄なす子びぢ提ょう灯ちんで闇やみ路じを辿たどって、日が暮れるまでうろつきますわの。
気になるのは小石を合せて、手ん手に四ツ竹を鳴らすように、カイカイカチカチと拍子を取って、唄が段々身に染みますに、皆みんなが家うちへ散ちり際ぎわには、一人がカチカチ石を鳴らして、
（今打つ鐘は、）
と申しますと、
（四ツの鐘じゃ、）
と一人がカチカチ、五ツ、六ツ、九ツ、八ツと数えまして……
（今打つ鐘は、
七ツの鐘じゃ。）
と云うのを合図に、七ツの鐘じゃ。）
（そりゃ魔が魅 すぞ！）
と哄どっと囃はやして、消えるように、残らず居なくなるのでござりますが。
何とも厭いやな心持で、うそ寂しい、ちょうど盆のお精しょ霊うり様ょうさまが絶えずそこらを歩あ行るかっしゃりますようで、気の滅め入いりますことと云うては、穴倉へ引入れられそうでござります。
活溌な唱歌を唄え。あれは何だ、と学校でも先生様が叱らしゃりますそうなが、それで留やめますほどならばの、学校へ行ゆく生徒に、蜻とん蛉ぼう釣るものも居おりませねば、木登りをする小僧もない筈はず――一向に留みませぬよ。
内は内で親たちが、厳しく叱こご言とも申します。気の強いのは、おのれ、凸でこ助すけ……いや、鼻ぴっしゃり、芋ずい※き﹇＃﹁くさかんむり／更﹂、154-12﹈の葉の凹ぼこ吉きちめ、細道で引ひッ捉つかまえて、張はり撲なぐって懲こらそう、と通りものを待構えて、こう透かして見ますがの、背の高いのから順よく並んで、同おな一じような芋※﹇＃﹁くさかんむり／更﹂、154-13﹈の葉を被かぶっているけに、衣きものの縞しま柄がらも気のせいか、逢おう魔まが時に茫ぼうとして、庄屋様の白壁に映して見ても、どれが孫やら、忰せがれやら、小こ女め童ろやら分りませぬ。
おなじように、憑つき物ものがして、魔に使われているようで、手もつけられず、親たちがうろうろしますの。村方一同寄ると障さわると、立膝に腕組するやら、平ひら胡あぐ坐らで頬ほお杖づえつくやら、変じゃ、希け有うじゃ、何でもただ事であるまい、と薄気味を悪がります。
中でも、ほッと溜ため息いきついて、気に掛けさっしゃったのが、鶴谷喜十郎様。﹂
と丁寧に、また名な告のって、姥うばは四あた辺りを見たのである。
十三
さて十年の馴なじ染みのように、擦寄って声を密ひそめ、
﹁童わら唄べうたを聞かっしゃりまし――︵秋谷邸やしきの細道じゃ、誰方が見えても通しません︶――と、の、それ、﹂
小次郎法師の頷うなずくのを、合点させたり、と熟じっと見て、姥うばはやがて打うち頷うなずき、
﹁……でござりましょう。まず、この秋谷で、邸と申しますれば――そりゃ土蔵、白しら壁かべ造づくり、瓦かわら屋根は、御方一軒ではござりませぬが、太たい閤こう様さまは秀吉公、黄門様は水戸様でのう、邸は鶴谷に帰したもの。
ところで、一軒は御本宅、こりゃ村の草分でござりますが、もう一軒――喜十郎様が隠居所にお建てなされた、御別荘がござりましての。
お金は十分、通い廊下に藤の花を咲さかしょうと、西洋窓に鸚おう鵡むを飼おうと、見本は直じき近い処にござりまして、思おぼ召しめし通りじゃけれど、昔気かた質ぎの堅い御ごじ仁ん、我等式百姓に、別荘づくりは相ふ応さわしからぬ、とついこのさきの立たて石いし在に、昔からの大庄屋が土台ごと売物に出しました、瓦ばかりも小千両、大黒柱が二抱え。平家ながら天井が、高い処に照きら々きらして間まか数ず十ばかりもござりますのを、牛うし車ぐるまに積んで来て、背うし後ろに大おおきな森をひかえて、黒くろ塗ぬりの門も立木の奥深う、巨おお寺でらのようにお建てなされて、東京の御修業さきから、御子息の喜太郎様が帰らっしゃりましたのに世を譲って、御夫婦一まず御隠居が済みましけ。
去年の夏でござりますがの、喜太郎様が東京で御贔ひい屓きにならしった、さる御大家の嬢様じゃが、夏休みに、ぶらぶら病やまいの保養がしたい、と言わっしゃる。
海辺は賑にぎやかでも、馬車が通って埃ほこりが立つ。閑静な処をお望み、間数は多し誂あつらえ向き、隠居所を三間ばかり、腰元も二人ぐらい附く筈はずと、御子息から相談を打ぶたっしゃると、隠居と言えば世を避けたも同様、また本宅へ居直るも億おっ劫こうなり、年とし寄よりと一所では若い御婦人の気が詰つまろう。若いものは若い同士、本家の方へお連れ申して、土用正月、歌うた留がる多たでも取って遊ぶが可いい、嫁もさぞ喜ぼう、と難あり有がたいは、親でのう。
そこで、そのお嬢様に御本家の部屋を、幾つか分けて、貸すことになりましけ。ある晩、腕くる車までお乗込み、天上ぬけに美うつくしい、と評判ばかりで、私わし等らついぞお姿も見ませなんだが、下男下女どもにも口留めして、秘かくさしったも道理じゃよ。
その嬢様は落っこちそうなお腹じゃげな。﹂
﹁むむ、孕はらんでいたかい。そりゃ怪けしからん、その息子というのが馴なじ染みではないのかね。﹂
﹁御推量でございます、そこじゃ、お前様。見えて半月とも経たちませぬに、豪えらい騒動が起ったのは、喜太郎様の嫁御がまた臨月じゃ。
御本家に飼殺しの親おや爺じ仁右衛門、渾あだ名なも苦にが虫むし、むずかしい顔をして、御隠居殿へ出向いて、まじりまじり、煙たば草こを捻ひねって言うことには、︵ハイ、これ、昔から言うことだ。二人一いっ斉ときに産をしては、後か、前さきか、いずれ一人、相あい孕ばらみの怪け我ががござるで、分別のうてはなりませぬ、︶との。
喜十郎様、凶年にもない腕組をさっせえて、︵善よし悪あしはともかく、内の嫁が可愛いにつけ、余よ所その娘の臨月を、出て行ゆけとは無慈悲で言われぬ。ただし廂ひさしを貸したものに、母おも屋やを明渡して嫁を隠居所へ引取る段は、先祖の位いは牌いへ申訳がない。私わし等らが本宅へ立帰って、その嬢様にはこの隠居所を貸すとしよう︶――御夫婦、黒門を出さしったのが、また世に立たっしゃる前表かの。
鶴谷は再度、御隠居の代になりました。﹂
﹁息子さんは不ふら埒ちが分って勘当かい。﹂
﹁聞かっせえまし、喜太郎様は亡くなりましたよ。前あと後さきへ黒門から葬おと礼むらいが五つ出ました。﹂
﹁五つ！﹂
﹁ええ、ええ、お前様。﹂
﹁誰と誰と、ね？﹂
﹁はじめがその出でよ養うじ生ょうの嬢様じゃ。これが産後でおいとしゅうならしった。大騒ぎのすぐあと、七日目に嫁御がお産じゃ。
汐しお時どきが二つはずれて、朝六つから夜の四つ時まで、苦しみ通しの難産でのう。
村中は火事場の騒ぎ、御本宅は寂しんとして、御経の声やら、咳しわぶきやら……﹂
十四
﹁占者が卦けを立てて、こりゃ死しり霊ょうの祟たたりがある。この鬼に負けてはならぬぞ。この方から逆さか寄よせして、別宅のその産うぶ屋やへ、守まも刀りがたなを真まっ先さきに露払いで乗込めさ、と古ふる袴ばかまの股もも立だちを取って、突つッ立たち上あがりますのに勢いきおいづいて、お産婦を褥しとねのまま、四隅と両方、六人の手で密そっと舁かいて、釣台へ。
お先立ちがその易者殿、御ごへ幣いを、ト襟へさしたものでござります。筮ぜい竹ちくの長袋を前まえ半じゃ、小刀のように挟んで、馬うま乗のり提ぢょ灯うちんの古びたのに算木を顕あらわしましたので、黒雲の蔽おっかぶさった、蒸暑い畦あぜを照てらし、大手を掉ふって参ります。
嫁入道具に附いて来た、藍あお貝がい柄えの長なぎ刀なたを、柄つか払ばらいして、仁右衛門親仁が担ぎました。真まん中なかへ、お産婦の釣台を。そのわきへ、喜太郎様が、帽シャ子ッポかぶりで、蒼あおくなって附添った、背うし後ろへ持明院の坊様が緋ひの衣じゃ。あとから下男下女どもがぞろぞろと従つきました。取とり揚あげ婆ばあ﹇＃﹁婆﹂は底本では﹁姿﹂﹈さんは前さきへ早や駆抜けて、黒門のお部屋へ産所の用意。
途中、何とも希け有うな通りものでござりまして、あの蛍がまたむらむらと、蠅がなぶるように御病人の寝姿に集たかりますと、おなじ煩うても、美しい人の心かして、夢中で、こう小こど児ものように、手で取っちゃ見さしっけ。
上へ手を上げさっしゃるのも、御容体を聞くにつけ、空をつかんで悶もだえさっしゃるようで、目も当てられぬ。
それでも祟りに負けるなと、言うて、一生懸命、仰あお向むかしった枕をこぼれて、さまで瘠やせも見えぬ白い頬へかかる髪の先を、しっかり白歯で噛かましったが、お馴なじ染みじゃ、私わしが藪やぶの下で待まちつけて、御ごし新んぞ造さ様ましっかりなさりまし、と釣台に縋すがったれば、アイと、細い声で云うて莞にっ爾こりと笑わしった。橋を渡って向うへ通る、暗やみの晩の、榛はんの木の下あたり、蛍の数の宙へいかいことちらちらして、常とこ夏なつの花の俤おもかげ立だつのが、貴あな方たの顔のあたりじゃ、と目を瞑つぶって、おめでたを祈りましたに……﹂
声も寂しゅう、
﹁お寺の鐘が聞えました。﹂
﹁南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ、﹂
﹁お可哀相に、初うい産ざんで、その晩、のう。
厭いやな事でござります。黒門へ着かしって、産所へ据えよう、としますとの、それ、出養生の嬢様の、お産の床と同おん一なじじゃ。︵ああ、青い顱はち巻まきをした方が、寝てでござんす、ちっと傍わきへ︶と……まあ、難産の嫁御がそう言わしっけ。
其そい奴つに、負けるな、押おッ潰つぶせ、と構わず褥しとねを据えましたが、夜露を受けたが悪かったか、もうお医者でも間に合わず。
︵あなたも。……口くや惜しい、︶と恍うっ惚とりして、枕にひしと喰くいつかしって、うむと云うが最期で、の、身二ツになりはならしったが、産声も聞えず、両方ともそれなりけり。
余りの事に、取とり逆の上ぼせさしったものと見えまして、喜太郎様はその明方、裏の井戸へ身を投げてしまわしった。
井戸替がえもしたなれど、不気味じゃで、誰も、はい、その水を飲みたがりませぬ処から、井いげ桁たも早や、青あお芒すすきにかくれましたよ。
七日に一度、十日に一度、仁右衛門親仁や、私わしがとこの宰八――少わかいものは初はじめから恐ろしがって寄よっつきませぬで――年役に出かけては、雨戸を明けたり、引窓を繰ったり、日も入れ、風も通したなれど、この間のその、のう、嘉吉が気が違いました一件の時から、いい年をしたものまで、黒門を向うの奥へ、木この下した闇やみを覗のぞきますと、足が縮すくんで、一寸も前へ出はいたしませぬ。
簪かんざしの蒼い光った珠たまも、大方蛍であろう、などと、ひそひそ風うわ説さをします処へ、芋ずい※き﹇＃﹁くさかんむり／更﹂、160-11﹈の葉に目口のある、小さいのがふらふら歩あ行るいて、そのお前様、
（秋谷邸の細道じゃ、
誰方が見えても……）［＃底本では４字下げ］
誰方が見えても……）［＃底本では４字下げ］
でござりましょう。人ひと足あしが絶えるとなれば、草が生えるばっかりじゃ。ハテ黒門の別宅は是非に及ばぬ。秋谷邸の本家だけは、人足が絶やしとうないものを、どうした時節か知らぬけれど、鶴谷の寿命が来たのか、と喜十郎様は、かさねがさねおつむりが真まっ白しろで。おふくろ様も好いいお方、おいとしい事でござります。
おお、おお、つい長話になりまして、そちこち刻限、ああ、可い厭やな芋※﹇＃﹁くさかんむり／更﹂、160-11﹈の葉が、唄うて歩あ行るく時分になりました。﹂
と姥は四あた辺りをした。浪の色が蒼くなった。
寂し然んとして、果はては目を瞑つむって聞入った旅僧は、夢ならぬ顔を上げて、葭よし簀ずから街道の前あと後さきを視ながめたが、日脚を仰ぐまでもない。
﹁身に染む話に聞きき惚とれて、人通りがもう影法師じゃ。世の中には種いろ々いろな事がある。お婆さん、お庇かげで沢たん山と学問をした、難あり有がとう、どれ……﹂
十五
﹁そして、御坊様は、これからどこまで行ゆかっしゃりますよ。﹂
包を引寄せる旅僧に連れて、姥うばも腰を上げて尋ねると、
﹁鎌倉は通越して、藤沢まで今日の内に出ようという考えだったが、もう、これじゃ葉山で灯あかりが点つこう。
おお﹇＃﹁ おお﹂は底本では﹁おお﹂﹈、そう言や、森戸の松の中に、ちらちらと灯ひが見える。﹂
﹁よう御存じでござりますの。﹂
﹁まだ俗の中うちに知っています。そこで鎌倉を見物にも及ばず、東海道の本筋へ出ようという考えじゃったが、早や遅い。
修業が足りんで、樹下、石上、野宿も辛し、﹂
と打うち微ほほ笑えみ、
﹁鎌倉まで行ゆきましょうよ。﹂
﹁それはそれは、御不都合な、つい話に実が入いりまして、まあ、とんだ御おみ足あしを留めましてござります。﹂
﹁いや、どういたして、忝かたじけない。私は尊いお説教を聴問したような心持じゃ。
何、嘘ではありません。
見なさる通り、行あん脚ぎゃとは言いながら、気散じの旅の面白さ。蝶々蜻とん蛉ぼの道みち連づれには墨染の法ころ衣もの袖の、発心の涙が乾いて、おのずから果は敢かない浮世の露も忘れる。
いつとなく、仏の御み名なを唱えるのにも遠ざかって、前さっ刻きも、お前ね。
実はここに来しなであった。秋谷明神と云う、その森の中の石段の下を通って、日ひな向たの麦畠ばたけへ差さし懸かかると、この辺には余り見懸けぬ、十八九の色白な娘が一人、めりんす友ゆう染ぜんの襷たす懸きがけ、手てぬ拭ぐいを冠かぶって畑に出ている。
歩あ行るきながら振返って、何か、ここらにおもしろい事もないか、と徒むだ口ぐち半分、檜ひの笠きがさの下から頤おとがいを出して尋ねるとね。
はい、浪打際に子こう産みい石しと云うのがござんす。これこれでここの名所、と土とこ地ろ自慢も、優しく教えて、石段から真まっ直すぐに、畑はた中なかを切って出て見なさんせ、と指さしをしてくれました。
いかに石が名所でも、男ばかりで児こが出来るか。何と、姉あねや、と麦にかくれる島田を覗のぞいて、天てん狗ぐわらいに冴さえて来ました、面目もない不ふり了ょう簡けん。
嘉吉とかを聞くにつけても、よく気が違わずに済んだ事、とお話中に悚ぞ気っとしたよ。
黒門の別荘とやらの、話を聞くと引入れられて、気が沈んで、しんみりと真心から念仏の声が出ました。
途中すがらもその若い人たちを的に仏名を唱えましょう。木賃の枕に目を瞑ねむったら、なお歴あり然あり、とその人たちの、姿も見えるような気がするから、いっそよく念仏が申されようと考える。
聞かしておくれの、お婆さん、お前は善智識、と云うても可よい、私は夜通しでも構わんが。
あんまり身を入れて話をする――聞く――していたので、邪魔になっては、という遠慮か、四五人こっちを覗のぞいては、素すど通おりをしたのがあります。
近在の人と見える。風呂敷包を腰につけて、草履穿ばきで裾をからげた、杖を突つッ張ぱった、白しら髪がの婆さんの、お前さんとは知ちか己づきと見えるのが、向うから声をかけたっけ。お前さんが話に夢中で、気が着かなんだものだから、そのままほくほく去いってしまった。
私も聞きき惚とれていた処、話の腰を折られては、と知らぬ顔で居たっけよ。
大層お店の邪魔をしました、実に済まぬ。﹂
と扇を膝に、両手で横に支つきながら、丁寧に会釈する。
姥うばはあらためて右とみ瞻こ左う瞻みたが、
﹁お上人様、御殊勝にござります、御殊勝にござります。難あり有がたや、﹂
と浅からず渇かつ仰ごうして、
﹁本家が村一番の大長者じゃと云えば、申憎い事ながら、どこを宿ともお定めない、御見懸け申した御坊様じゃ。推しても行って回えこ向うをしょう。ああもしょう、こうもしてやろう、と斎とき布ふ施せをお目当で……﹂
とずっきり云った。
﹁こりゃ仰おっ有しゃりそうな処、御自分の越おち度どをお明かしなさりまして、路々念仏申してやろう、と前さ途きをお急ぎなさります飾りの無いお前様。
道中、お髪ぐしの伸びたのさえ、かえって貴う拝まれまする。どうぞ、その御回向を黒門の別宅で、近々として進ぜて下さりませぬか。……
もし、鶴谷でもどのくらい喜びますか分りませぬ。﹂
十六
鶴谷が下男、苦虫の仁に右え衛も門ん親おや仁じ。角のある人ひと魂だまめかして、ぶらりと風呂敷包を提げながら、小川べりの草の上。
﹁なあよ、宰八、﹂
﹁やあ、﹂
と続いた、手てんぼう蟹は、夥なか間まの穴の上を冷ひや飯めし草ぞう履り、両足をしゃちこばらせて、舞鶴の紋の白い、萌もえ黄ぎの、これも大おお包づつみ。夜具を入れたのを引ひっ背し負ょったは、民が塗とた炭んに苦くるしんだ、戦国時代の駆かけ落おちめく。
﹁何か、お前が出でっ会くわした――黒門に逗とう留りゅうしてござらしゃる少わけえ人が、手てま鞠りを拾ったちゅうはどこらだっけえ。﹂
﹁直じきだ、そうれ、お前めえが行ゆく先に、猫柳がこんもりあんべい。﹂
﹁おお、﹂
﹁その根ね際きだあ。帽子のふちも、ぐったり、と草くた臥ぶれた形での、そこに、﹂
と云った人声に、葉裏から蛍が飛んだ。が、三ツ五ツ星に紛れて、山際薄く、流ながれが白い。
この川は音もなく、霞のように、どんよりと青田の村を這はうのである。
﹁ここだよ。ちょうど、﹂
と宰八はちょっと立留まる。前ゆく途てに黒門の森を見てあれば、秋谷の夜はここよりぞ暗くなる、と前途に近く、人の足あし許もとが朦もう朧ろうと、早やその影が押寄せて、土手の低い草の上へ、襲いかかる風情だから、一人が留まれば皆留まった。
宰八の背あ後とから、もう一人。杖ステッキを突いて続いた紳士は、村の学校の訓導である。
﹁見み馴なれねえ旅の書生さんじゃ、下ろした荷物に、寝ねそべりかかって、腕を曲げての、足をお前めえ、草の上へ横投げに投出して、ソレそこいら、白しら鷺さぎの鶏とさ冠かのように、川かわ面づらへほんのり白く、すいすいと出て咲いていら、昼間見ると桃色の優しい花だ、はて、蓬よもぎでなしよ。﹂
﹁石せき竹ちくだっぺい。﹂
﹁撫なで子しこの一種です、常とこ夏なつの花と言うんだ。﹂
と訓導は姿勢を正して、杖ステッキを一つ、くるりと廻わすと、ドブン。
﹁ええ！驚かなくても宜よろしい。今のは蛙だ。﹂
﹁その蛙……いんねさ、常夏け。その花を摘んでどうするだか、一束手ぶしに持ったがね。別にハイそれを視ながめるでもねえだ。美しい目水晶ぱちくりと、川上の空さ碧あおく光っとる星い向いて、相談打ぶつような形だね。
草わら鞋じがけじゃで、近辺の人ではねえ。道さ迷ったら教えて進ぜべい、と私わしもう内へ帰って、婆様と、お客に売った渋茶の出だし殻がらで、茶漬え掻かっ食くうばかりだもんで、のっそりその人の背中へ立って見ていると、しばらく経たってよ。
むっくりと起返った、と思うとの。……︵爺じい様さん、あれあれ、︶﹂
その時、宰八川面へ乗出して、母ほ衣ろを倒さかさに水に映した。
﹁︵手てま毬りが、手毬が流れる、流れてくる、拾ってくれ、礼をする。︶
見ると、成程、泡も立てずに、夕焼が残ったような尾を曳ひいて、その常夏を束にした、真まん丸まるいのが浮いて来るだ。
︵銭ぜに金かねはさて措おかっせえ、だが、足を濡らすは、厭な事こんだ。︶と云う間も無ねえ。
突いき然なりざぶりと、少わけえ人は衣きも服のの裾すそを掴つかんだなりで、川の中へ飛込んだっけ。
押問答に、小半時かかればとって、直ぐに突ん流れるような疾はええ水脚では、コレ、無えものを、そこは他国の衆で分らねえ。稲妻を掴つかまえそうな慌て方で、ざぶざぶ真まん中なかで追おっかける、人の煽あおりで、水が動いて、手毬は一つくるりと廻った。岸の方へ寄るでねえかね。
︵えら！気の疾え先生だ。さまで欲しけりゃ算段のうして、柳の枝を折おっぺっしょっても引寄せて取ってやるだ、見さっせえ、旅の空で、召ものがびしょ濡れだ。︶と叱こご言とを言いながら、岸へ来たのを拾おう、と私わし、えいやっと蹲しゃがんだが。
こんな川でも、動ど揺よみにゃ浪を打つわ、濡れずば栄さざ螺えも取れねえ道理よ。私わしが手を伸のばすとの、また水に持って行ゆかれて、手毬はやっぱり、川の中で、その人が取らしっけがな。……ここだあ仁右衛門、先生様も聞かっせえ。﹂
と夜具風呂敷の黄きほ母ろ衣ご越しに、茜あか色ねいろのその顱はち巻まきを捻ねじ向むけて、
﹁厭いやな事は、……手毬を拾うと、その下に、猫が一匹居たではねえかね。﹂
十七
訓導は苦笑いして、
﹁可いい加減な事を云う、狂きち気がいの嘉吉以来だ。お前は悪く変なものに知ちか己づきのように話をするが、水みず潜くぐりをするなんて、猫化けの怪談にも、ついに聞いた事はないじゃないか。﹂
﹁お前様もね、当あた前りまえだあこれ、空を飛ぼうが、泳ごうが、活いきた猫なら秋谷中私わしら知ちか己づきだ。何も厭いやな事はねえけんど、水ひたしの毛がよれよれ、前足のつけ根なぞは、あか膚はだよ。げっそり骨の出た死しが骸いでねえかね。﹂
訓導は打うっ棄ちゃるように、
﹁何だい、死骸か。﹂
﹁何だ死骸か、言わっしゃるが、死骸だけに厭なこんだ。金かな壺つぼ眼まなこを塞ふさがねえ。その人が毬まりを取ると、三毛の斑ぶちが、ぶよ、ぶよ、一度、ぷくりと腹を出いて、目がぎょろりと光ッたけ。そこら鼠色の汚きたねえ泡だらけになって、どんみりと流れたわ、水とハイ摺すれ々すれでの――その方は岸へ上って、腰までずぶ濡れの衣きものを絞るとって、帽子を脱いで仰あお向むけにして、その中さ、入れさしった、傍そばで見ると、紫もありゃ黄色い糸もかがってある、五色しきの――手毬は、さまで濡れてはいねえだっけよ。﹂
﹁なあよ、宰八、﹂
﹁何あんだえ。﹂
仁右衛門は沈んだ声で、
﹁その手毬はどうしたよ。﹂
﹁今でもその学生が持ってるかね。﹂
背うし後ろから、訓導がまた聞き挟む。
﹁忽こつ然ねんとして消え失うせただ。夢に拾った金か子ねのようだね。へ、へ、へ、﹂
とおかしな笑い方。
﹁ふん、﹂
と苦虫は苦ったなりで、てくてくと歩あ行るき出す。
﹁嘘を吐つけ、またはじめた。大方、お前が目の前で、しゃぼん球だまのように、ぱっと消えてでもなくなったろう、不思議さな。﹂
﹁違えます、違えますとも！﹂
仁右衛門の後を打ちながら、
﹁その人が、
︵爺じい様さん、この里では、今時分手毬をつくか。︶
︵何あんでね？︶
︵小こど児もたちが、優しい声、懐なつかしい節で唄うている。
した。浪の色が蒼くなった。
寂し然んとして、果はては目を瞑つむって聞入った旅僧は、夢ならぬ顔を上げて、葭よし簀ずから街道の前あと後さきを視ながめたが、日脚を仰ぐまでもない。
﹁身に染む話に聞きき惚とれて、人通りがもう影法師じゃ。世の中には種いろ々いろな事がある。お婆さん、お庇かげで沢たん山と学問をした、難あり有がとう、どれ……﹂
十五
﹁そして、御坊様は、これからどこまで行ゆかっしゃりますよ。﹂
包を引寄せる旅僧に連れて、姥うばも腰を上げて尋ねると、
﹁鎌倉は通越して、藤沢まで今日の内に出ようという考えだったが、もう、これじゃ葉山で灯あかりが点つこう。
おお﹇＃﹁ おお﹂は底本では﹁おお﹂﹈、そう言や、森戸の松の中に、ちらちらと灯ひが見える。﹂
﹁よう御存じでござりますの。﹂
﹁まだ俗の中うちに知っています。そこで鎌倉を見物にも及ばず、東海道の本筋へ出ようという考えじゃったが、早や遅い。
修業が足りんで、樹下、石上、野宿も辛し、﹂
と打うち微ほほ笑えみ、
﹁鎌倉まで行ゆきましょうよ。﹂
﹁それはそれは、御不都合な、つい話に実が入いりまして、まあ、とんだ御おみ足あしを留めましてござります。﹂
﹁いや、どういたして、忝かたじけない。私は尊いお説教を聴問したような心持じゃ。
何、嘘ではありません。
見なさる通り、行あん脚ぎゃとは言いながら、気散じの旅の面白さ。蝶々蜻とん蛉ぼの道みち連づれには墨染の法ころ衣もの袖の、発心の涙が乾いて、おのずから果は敢かない浮世の露も忘れる。
いつとなく、仏の御み名なを唱えるのにも遠ざかって、前さっ刻きも、お前ね。
実はここに来しなであった。秋谷明神と云う、その森の中の石段の下を通って、日ひな向たの麦畠ばたけへ差さし懸かかると、この辺には余り見懸けぬ、十八九の色白な娘が一人、めりんす友ゆう染ぜんの襷たす懸きがけ、手てぬ拭ぐいを冠かぶって畑に出ている。
歩あ行るきながら振返って、何か、ここらにおもしろい事もないか、と徒むだ口ぐち半分、檜ひの笠きがさの下から頤おとがいを出して尋ねるとね。
はい、浪打際に子こう産みい石しと云うのがござんす。これこれでここの名所、と土とこ地ろ自慢も、優しく教えて、石段から真まっ直すぐに、畑はた中なかを切って出て見なさんせ、と指さしをしてくれました。
いかに石が名所でも、男ばかりで児こが出来るか。何と、姉あねや、と麦にかくれる島田を覗のぞいて、天てん狗ぐわらいに冴さえて来ました、面目もない不ふり了ょう簡けん。
嘉吉とかを聞くにつけても、よく気が違わずに済んだ事、とお話中に悚ぞ気っとしたよ。
黒門の別荘とやらの、話を聞くと引入れられて、気が沈んで、しんみりと真心から念仏の声が出ました。
途中すがらもその若い人たちを的に仏名を唱えましょう。木賃の枕に目を瞑ねむったら、なお歴あり然あり、とその人たちの、姿も見えるような気がするから、いっそよく念仏が申されようと考える。
聞かしておくれの、お婆さん、お前は善智識、と云うても可よい、私は夜通しでも構わんが。
あんまり身を入れて話をする――聞く――していたので、邪魔になっては、という遠慮か、四五人こっちを覗のぞいては、素すど通おりをしたのがあります。
近在の人と見える。風呂敷包を腰につけて、草履穿ばきで裾をからげた、杖を突つッ張ぱった、白しら髪がの婆さんの、お前さんとは知ちか己づきと見えるのが、向うから声をかけたっけ。お前さんが話に夢中で、気が着かなんだものだから、そのままほくほく去いってしまった。
私も聞きき惚とれていた処、話の腰を折られては、と知らぬ顔で居たっけよ。
大層お店の邪魔をしました、実に済まぬ。﹂
と扇を膝に、両手で横に支つきながら、丁寧に会釈する。
姥うばはあらためて右とみ瞻こ左う瞻みたが、
﹁お上人様、御殊勝にござります、御殊勝にござります。難あり有がたや、﹂
と浅からず渇かつ仰ごうして、
﹁本家が村一番の大長者じゃと云えば、申憎い事ながら、どこを宿ともお定めない、御見懸け申した御坊様じゃ。推しても行って回えこ向うをしょう。ああもしょう、こうもしてやろう、と斎とき布ふ施せをお目当で……﹂
とずっきり云った。
﹁こりゃ仰おっ有しゃりそうな処、御自分の越おち度どをお明かしなさりまして、路々念仏申してやろう、と前さ途きをお急ぎなさります飾りの無いお前様。
道中、お髪ぐしの伸びたのさえ、かえって貴う拝まれまする。どうぞ、その御回向を黒門の別宅で、近々として進ぜて下さりませぬか。……
もし、鶴谷でもどのくらい喜びますか分りませぬ。﹂
十六
鶴谷が下男、苦虫の仁に右え衛も門ん親おや仁じ。角のある人ひと魂だまめかして、ぶらりと風呂敷包を提げながら、小川べりの草の上。
﹁なあよ、宰八、﹂
﹁やあ、﹂
と続いた、手てんぼう蟹は、夥なか間まの穴の上を冷ひや飯めし草ぞう履り、両足をしゃちこばらせて、舞鶴の紋の白い、萌もえ黄ぎの、これも大おお包づつみ。夜具を入れたのを引ひっ背し負ょったは、民が塗とた炭んに苦くるしんだ、戦国時代の駆かけ落おちめく。
﹁何か、お前が出でっ会くわした――黒門に逗とう留りゅうしてござらしゃる少わけえ人が、手てま鞠りを拾ったちゅうはどこらだっけえ。﹂
﹁直じきだ、そうれ、お前めえが行ゆく先に、猫柳がこんもりあんべい。﹂
﹁おお、﹂
﹁その根ね際きだあ。帽子のふちも、ぐったり、と草くた臥ぶれた形での、そこに、﹂
と云った人声に、葉裏から蛍が飛んだ。が、三ツ五ツ星に紛れて、山際薄く、流ながれが白い。
この川は音もなく、霞のように、どんよりと青田の村を這はうのである。
﹁ここだよ。ちょうど、﹂
と宰八はちょっと立留まる。前ゆく途てに黒門の森を見てあれば、秋谷の夜はここよりぞ暗くなる、と前途に近く、人の足あし許もとが朦もう朧ろうと、早やその影が押寄せて、土手の低い草の上へ、襲いかかる風情だから、一人が留まれば皆留まった。
宰八の背あ後とから、もう一人。杖ステッキを突いて続いた紳士は、村の学校の訓導である。
﹁見み馴なれねえ旅の書生さんじゃ、下ろした荷物に、寝ねそべりかかって、腕を曲げての、足をお前めえ、草の上へ横投げに投出して、ソレそこいら、白しら鷺さぎの鶏とさ冠かのように、川かわ面づらへほんのり白く、すいすいと出て咲いていら、昼間見ると桃色の優しい花だ、はて、蓬よもぎでなしよ。﹂
﹁石せき竹ちくだっぺい。﹂
﹁撫なで子しこの一種です、常とこ夏なつの花と言うんだ。﹂
と訓導は姿勢を正して、杖ステッキを一つ、くるりと廻わすと、ドブン。
﹁ええ！驚かなくても宜よろしい。今のは蛙だ。﹂
﹁その蛙……いんねさ、常夏け。その花を摘んでどうするだか、一束手ぶしに持ったがね。別にハイそれを視ながめるでもねえだ。美しい目水晶ぱちくりと、川上の空さ碧あおく光っとる星い向いて、相談打ぶつような形だね。
草わら鞋じがけじゃで、近辺の人ではねえ。道さ迷ったら教えて進ぜべい、と私わしもう内へ帰って、婆様と、お客に売った渋茶の出だし殻がらで、茶漬え掻かっ食くうばかりだもんで、のっそりその人の背中へ立って見ていると、しばらく経たってよ。
むっくりと起返った、と思うとの。……︵爺じい様さん、あれあれ、︶﹂
その時、宰八川面へ乗出して、母ほ衣ろを倒さかさに水に映した。
﹁︵手てま毬りが、手毬が流れる、流れてくる、拾ってくれ、礼をする。︶
見ると、成程、泡も立てずに、夕焼が残ったような尾を曳ひいて、その常夏を束にした、真まん丸まるいのが浮いて来るだ。
︵銭ぜに金かねはさて措おかっせえ、だが、足を濡らすは、厭な事こんだ。︶と云う間も無ねえ。
突いき然なりざぶりと、少わけえ人は衣きも服のの裾すそを掴つかんだなりで、川の中へ飛込んだっけ。
押問答に、小半時かかればとって、直ぐに突ん流れるような疾はええ水脚では、コレ、無えものを、そこは他国の衆で分らねえ。稲妻を掴つかまえそうな慌て方で、ざぶざぶ真まん中なかで追おっかける、人の煽あおりで、水が動いて、手毬は一つくるりと廻った。岸の方へ寄るでねえかね。
︵えら！気の疾え先生だ。さまで欲しけりゃ算段のうして、柳の枝を折おっぺっしょっても引寄せて取ってやるだ、見さっせえ、旅の空で、召ものがびしょ濡れだ。︶と叱こご言とを言いながら、岸へ来たのを拾おう、と私わし、えいやっと蹲しゃがんだが。
こんな川でも、動ど揺よみにゃ浪を打つわ、濡れずば栄さざ螺えも取れねえ道理よ。私わしが手を伸のばすとの、また水に持って行ゆかれて、手毬はやっぱり、川の中で、その人が取らしっけがな。……ここだあ仁右衛門、先生様も聞かっせえ。﹂
と夜具風呂敷の黄きほ母ろ衣ご越しに、茜あか色ねいろのその顱はち巻まきを捻ねじ向むけて、
﹁厭いやな事は、……手毬を拾うと、その下に、猫が一匹居たではねえかね。﹂
十七
訓導は苦笑いして、
﹁可いい加減な事を云う、狂きち気がいの嘉吉以来だ。お前は悪く変なものに知ちか己づきのように話をするが、水みず潜くぐりをするなんて、猫化けの怪談にも、ついに聞いた事はないじゃないか。﹂
﹁お前様もね、当あた前りまえだあこれ、空を飛ぼうが、泳ごうが、活いきた猫なら秋谷中私わしら知ちか己づきだ。何も厭いやな事はねえけんど、水ひたしの毛がよれよれ、前足のつけ根なぞは、あか膚はだよ。げっそり骨の出た死しが骸いでねえかね。﹂
訓導は打うっ棄ちゃるように、
﹁何だい、死骸か。﹂
﹁何だ死骸か、言わっしゃるが、死骸だけに厭なこんだ。金かな壺つぼ眼まなこを塞ふさがねえ。その人が毬まりを取ると、三毛の斑ぶちが、ぶよ、ぶよ、一度、ぷくりと腹を出いて、目がぎょろりと光ッたけ。そこら鼠色の汚きたねえ泡だらけになって、どんみりと流れたわ、水とハイ摺すれ々すれでの――その方は岸へ上って、腰までずぶ濡れの衣きものを絞るとって、帽子を脱いで仰あお向むけにして、その中さ、入れさしった、傍そばで見ると、紫もありゃ黄色い糸もかがってある、五色しきの――手毬は、さまで濡れてはいねえだっけよ。﹂
﹁なあよ、宰八、﹂
﹁何あんだえ。﹂
仁右衛門は沈んだ声で、
﹁その手毬はどうしたよ。﹂
﹁今でもその学生が持ってるかね。﹂
背うし後ろから、訓導がまた聞き挟む。
﹁忽こつ然ねんとして消え失うせただ。夢に拾った金か子ねのようだね。へ、へ、へ、﹂
とおかしな笑い方。
﹁ふん、﹂
と苦虫は苦ったなりで、てくてくと歩あ行るき出す。
﹁嘘を吐つけ、またはじめた。大方、お前が目の前で、しゃぼん球だまのように、ぱっと消えてでもなくなったろう、不思議さな。﹂
﹁違えます、違えますとも！﹂
仁右衛門の後を打ちながら、
﹁その人が、
︵爺じい様さん、この里では、今時分手毬をつくか。︶
︵何あんでね？︶
︵小こど児もたちが、優しい声、懐なつかしい節で唄うている。
ここはどこの細道じゃ、
秋谷邸の細道じゃ……）
秋谷邸の細道じゃ……）
一件ものをの、優しい声、懐しい声じゃ云うて、手毬を突くか、と問わっしゃるだ。
とんでもねえ、あれはお前様、芋ずい※き﹇＃﹁くさかんむり／更﹂、169-14﹈の葉が、と言おうとしたが、待ちろ、芸もねえ、村方の内証を饒しゃ舌べって、恥掻かくは知ち慧えでねえと、
︵何あにお前めえ様さま、学校で体操するだ。おたま杓じゃ子くしで球をすくって、ひるてんの飛とびっこをすればちゅッて、手毬なんか突きっこねえ、︶と、先生様の前だけんど、私わし一ツ威張ったよ。﹂
﹁何だ、見みっともない、ひるてんの飛びっことは。テニスだよ、テニスと言えば可いい。﹂
﹁かね……私わしまた西洋の雀すず躍めおどりか、と思ったけ、まあ、可ええ。﹂
﹁ちっとも可よかあない、﹂
と訓導は唾つばをする。
﹁それにしても、奥床しい、誰が突いた毬だろう、と若え方問わっしゃるだが。
のっけから見当はつかねえ、けんど、主ぬしが袂たもとから滝のように水が出るのを見るにつけても、何とかハイ勘考せねばなんねえで、その手毬を持って見た、﹂
と黄き母ほ衣ろを一つ揺ゆす上りあげて、
﹁濡れちゃいねえが、ヒヤリとしたでね、可いい塩あん梅ばいよ、引ひっ込こんだのは手てん棒ぼうの方、﹂
へへ、とまた独りで可おか笑しがり、
﹁こっちの手で、ハイ海へ落ちさっしゃるお日様と、黒門の森に掛かかったお月様の真まん中なかへ、高たっかくこう透かして見っけ。
しゃぼん球だまではねえよ。真まん円まるな手毬の、影も、草に映ったでね。﹂
﹁それがまたどうして消えた、馬鹿な！﹂
と勢いき込おいこむ、つき反らした杖ステッキの尖さきが、ストンと蟹の穴へ狭はさまったので、厭な顔をした訓導は、抜きざまに一足飛ぶ。
﹁まあ、聞かっせえ。
玉味噌の鑑定とは、ちくと物が違うでな、幾ら私わしが捻ひねくっても、どこのものだか当りは着かねえ。
︵霞のような小川の波に、常とこ夏なつの影がさして、遠くに……︵細道︶が聞える処へ、手毬が浮いて……三年五年、旅から旅を歩あ行るいたが、またこんな嬉しい里は見ない、︶
と、ずぶ濡ぬれの衣きものを垂れる雫しずくさえ、身から体だから玉がこぼれでもするほどに若え方は喜ばっしゃる。﹂
十八
﹁――︵この上誰か、この手毬の持主に逢えるとなれば、爺さん、私は本望だ、野山に起おき臥ふしして旅をするのもそのためだ。︶
と、話さっしゃるでの。村を賞ほめられたが憎くねえだし、またそれまでに思わっしゃるものを、ただわかりましねえで放ほ擲かしては、何か私わし、気が済まねえ。
そこで、草原へ蹲しゃがみ込んで、信まことにはなさりますめえけんど、と嘉吉に蒼あおい珠たま授けさしった……﹂
しばらく黙って、
﹁の、事を話したらばの。先生様の前だけんど、嘘を吐つけ、と天あた窓まからけなさっしゃりそうな少わけえ方が、
︵おお、その珠と見えたのも、大方星ほどの手毬だろう。︶と、あのまた碧あおい星を視ながめて云うだ。けちりんも疑わねえ。
︵なら、まだ話します事がござります、︶とついでに黒門の空あき邸やしきの話をするとの。
︵川はその邸の、庭か背戸を通って流れはしないか。︶
と乗出しけよ。……︵流れは見さっしゃる通りだ︶……﹂
今もおなじような風情である。――薄うっすりと廂ひさしを包む小こい家えの、紫の煙けぶりの中も繞めぐれば、低く裏山の根にかかった、一ひと刷はけ灰色の靄もやの間も通る。青田の高たか低ひく、麓ふもとの凸でい凹りに従うて、柔やわらかにのんどりした、この一ひと巻まきの布は、朝霞には白地の手てぬ拭ぐい、夕焼には茜あかねの襟、襷たすきになり帯になり、果はては薄すすきの裳もすそになって、今もある通り、村はずれの谷やと戸ぐ口ちを、明神の下あたりから次第に子こう産みい石しの浜に消えて、どこへ灌そそぐということもない。口につけると塩気があるから、海うし潮おがさすのであろう。その川かわ裾すそのたよりなく草に隠れるにつけて、明神の手みた水ら洗しにかけた献燈の発句には、これを霞川、と書いてあるが、俗に呼んで湯川と云う。
霞に紛れ、靄に交って、ほのぼのと白く、いつも水気の立つ処から、言い習わしたものらしい。
あの、薄うす煙けぶり、あの、靄の、一際夕暮を染めたかなたこなたは、遠おち方かたの松の梢こずえも、近間なる柳の根も、いずれもこの水の淀よどんだ処で。畑はた一つ前ゆく途てを仕切って、縦に幅広く水気が立って、小高い礎いしずえを朦もう朧ろうと上に浮かしたのは、森の下した闇やみで、靄が余よ所そよりも判はっ然きりと濃くかかったせいで、鶴谷が別宅のその黒門の一ひと構かまえ。
三人は、彼かし処こをさして辿たどるのである。
ここに渠かれ等らが伝う岸は、一間ばかりの川幅であるが、鶴谷の本宅の辺あたりでは、およそ三間に拡がって、川裾は早やその辺からびしょびしょと草に隠れる。
ここへは、流ながれをさかのぼって来るので、間には橋一つ渡らねばならぬ。
橋は明神の前へ、三崎街道に一つ、村の中に一つ。今しがた渠等が渡って、ここから見えるその村の橋も、鶴谷の手で欄干はついているが、細せせ流らぎの水静かなれば、偏ひとえに風情を添えたよう。青い山から靄の麓へ架かけ渡したようにも見え、低い堤ど防ての、茅かや屋やから茅屋の軒へ、階はし子ごを横よこたえたようにも見え、とある大家の、物もの好ずきに、長く渡した廻廊かとも視ながめられる。
灯ともしびもやや、ちらちらと青田に透く。川下の其そな方たは、藁わら屋や続きに、海が映って空も明あかるい。――水みな上かみの奥になるほど、樹の枝に、茅かや葺ぶきの屋根が掛かかって、蓑みの虫むしが塒ねぐらしたような小家がちの、それも三つが二つ、やがて一つ、窓の明あかりも射ささず、水を離れた夕ゆう炊かしぎの煙ばかり、細く沖で救すくいを呼ぶ白旗のように、風のまにまに打うち靡なびく。海の方は、暮が遅くて灯あかりが疾はやく、山の裾は、暮が早くて、燈ともしびが遅いそうな。
まだそれも、鳴子引けば遠おち近こちに便たよりがあろう。家と家とが間あいを隔て、岸を措おいても相望むのに、黒門の別邸は、かけ離れた森の中に、ただ孤ひと家つやの、四方へ大おおきなる蜘く蛛ものごとく脚を拡げて、どこまでもその暗い影を畝うねらせる。
月は、その上にかかっているのに。……
先せん達だつの仁右衛門は、早やその樹こだ立ちの、余なご波りの夜に肩を入れた。が、見た目のさしわたしに似ない、帯がたるんだ、ゆるやかな川添ぞいの道は、本宅から約八丁というのである。
宰八が言いい続ついで、
﹁……︵外廻りを流れて来るし、何もハイ空家から手毬を落す筈はずはねえ。そんでも猫の死骸なら、あすこへ持って行って打うっ棄ちゃった奴があるかも知んねえ、草ぼうぼうだでのう、︶と私わし、話をしただがね。﹂
十九
﹁それからその少わけえ方は、︵どうだろう、その黒門の空家というのを、一ひと室ま借りるわけには行くまいか、自炊を遣やって、しばらく旅の草くた臥びれを休めたい、︶と相談打ぶったが。
ねえ、先生様。
お前めえ様さま、今の住すま居いは、隣の嚊かか々あが小が児きい産んで、ぎゃあぎゃあ煩うるせえ、どこか貸す処があるめえか、言わるるで、そん当時黒門さどうだちゅったら、あれは、と二の足を蹈ふましっけな。﹂
と横ざまに浴あびせかけると、訓導は不意打ながら、さしったりで、杖ステッキを小脇に引ひん抱だき、
﹁学校へ通うのに足場が悪くって、道が遠くって仕様がないから留やめたんだ。﹂
﹁朝寝さっしゃるせいだっぺい。﹂
仁右衛門が重い口で。
訓導は教うるごとく、
﹁第一水が悪い。あの、また真まっ蒼さおな、草の汁のようなものが飲めるものかい。﹂
﹁そうかね――はあ、まず何にしろだ。こっちから頼めばとって、昼間掃除に行くのさえ、厭いやがります空屋敷じゃ。そこが望み、と仰おっ有しゃるに、お住すま居い下さればその部屋一ツだけも、屋根の草が無うなって、立腐れが保つこんだで、こっちは願ったり、叶かなったり、本家の旦だん那なもさぞ喜びましょうが、尋なみ常て体いの家うちでねえ。あの黒門を潜くぐらっしゃるなら、覚悟して行かっせえ、可ようがすか、と念を入れると、
︵いやその位の覚悟はいつでもしている。︶
と落着いたもんだてえば。
はてな、この度胸だら盗どろ賊ぼうでも大将株だ、と私わし、油断はねえ、一分別しただがね、仁右衛門よ、﹂
﹁おおよ。﹂
﹁前さっ刻き、着たっきりで、手毬を拾いに川ん中さ飛込んだ時だ。旅空かけて衣きも服のをどうするだ、と私わし頼まれ効がいもなかったけえ、気の毒さもあり、急がずば何とかで濡れめえものを夕立だ、と我がな鳴っった時よ。
︵着物は一枚ありますから……︶
と見得でねえわ、見得でねえね。極きまりの悪そうに、人の心を無にしねえで言訳をするように言わしっけが、こいつを睨にらんで、はあ、そこへ私わしが押おっ惚ぽれただ。
殊勝な、優しい、最いと愛しい人だ。これなら世話をしても仔しさ細いあんめえ。第一、あの色白な仁じん体ていじゃ……化ば……仁右衛門よ。﹂
﹁何あにい、﹂
﹁暗くなったの、﹂
﹁彼これ、酉む刻つじゃ。﹂
﹁は、南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ、黒門前は真まっ暗くらだんべい。﹂
﹁大丈夫、月が射さすよ。﹂
と訓導は空を見て、
﹁お前、その手毬の行方はどうしたんだい。﹂
﹁そこだてね、まあ聞かっせえ、客人が、その最いと愛しらしい容よう子すじゃ……化ばけ、﹂
とまた言い掛けたが、青あお芒すすきが川のへりに、雑木一ひと叢むら、畑の前を背屈かがみ通る真まん中なかあたり、野末の靄もやを一呼い吸きに吸込んだかと、宰八唐だし突ぬけに、
﹁はッくしょ！﹂
胴震いで、立たち縮すくみ、
﹁風がねえで、えら太ひどい蜘蛛の巣だ。仁右衛門、お前めえ、はあ、先へ立って、よく何ともねえ。﹂
﹁巣、巣どころか、己おらあ樹の枝から這はいかかった、土蜘蛛を引ひッ掴つかんだ。﹂
﹁ひゃあ、﹂
﹁七日風が吹かねえと、世界中の人を吸殺すものだちゅっけ、半日蒸すと、早やこれだ。﹂
と握にぎ占りしめた掌てのひらを、自分で捻こじ開あけるようにして開いたが、恐る恐る透すかして見ると、
﹁何ぢゃ、蟹か。﹂
水へ、ザブン。
背うし後ろで水みず車ぐるまのごとく杖ステッキを振廻していた訓導が、
﹁長ちょ蛇うだを逸すか、﹂
と元気づいて、高らかに、
﹁たちまち見る大蛇の路に当って横よこたわるを、剣を抜いて斬きらんと欲すれば老ろう松しょうの影！﹂
﹁ええ、静しずかにしてくらっせえ、……もう近えだ。﹂
と仁右衛門は真ま面じ目めに留める。
﹁おい、手毬はどうして消えたんだな、焦じれったい。﹂
﹁それだがね、疾はええ話が、御仁体じゃ。化物が、の、それ、たとい顔を嘗なめればとって、天あた窓まから塩しおとは言うめえ、と考えたで、そこで、はい、黒門へ案内しただ。仁右衛門も知っての通り――今日はまた――内の婆々殿が肝きも入いりで、坊様を泊とめたでの、……御本家からこうやって夜具を背し負ょって、私わしが出向くのは二度目だがな。﹂
二十
﹁その書生さんの時も、本宅の旦那様、大喜びで、御酒は食あがらぬか。晩の物だけ重じゅ詰うづめにして、夜さりまた掻かき餅もちでも焼いてお茶受けに、お茶も土瓶で持って行ゆけ。
言わっしゃったで、一風呂敷と夜具包みを引ひっ背し負ょって出向いたがよ。
へい、お客様前せん刻こくは。……本宅でも宜よろしく申してでござりました。お手廻りのものや、何やかや、いずれ明日お届け申します。一ひと餉かたけほんのお弁当がわり。お茶と、それから臥ふせらっしゃるものばかり。どうぞハイ緩ゆっくり休まっしゃりましと、口上言うたが、着物は既すんでに浴衣に着換えて、燭しょ台くだいの傍わきへ……こりゃな、仁右衛門や私わしが時々見廻りに行ゆく時、皆みんな閉切ってあって、昼でも暗えから要害に置いてあった。……先せんに案内をした時に、彼これ日が暮れたで、取り敢あえず点ともして置いたもんだね。そのお前めえ様さま、蝋ろう燭そく火びの傍わきに、首い傾かしげて、腕組みして坐ってござるで、気になるだ。
︵どうかさっせえましたか。︶と尋ねるとの。
ここだ！﹂
と唐だし突ぬけに屹きっと云う。
﹁ええ何か、﹂と訓導は一ひと足あし退のく。
宰八は委細構わず。
﹁手毬の消えたちゅうがよ。︵ここに確たしかに置いたのが見えなくなった、︶と若え方が言わっしゃるけ。
そうら、始まったぞ、と私わし一ツ腰をがっくりとやったが、縁側へつかまったあ――どんな風に、失なくなったか、はあ、聞いたらばの。
三ツばかり、どうん、どうん、と屋根へ打ぶつ附かったものがあった……大おおきな石でも落ちたようで、吃びっ驚くりして天井を見上げると、あすこから、と言わしっけ。仁右衛門、それ、の、西の鉢前の十畳敷の隅ッこ。あの大掃除の検査の時さ、お巡まわ査り様が階はし子ごさして、天井裏へ瓦が斯すを点つけて這はい込こまっしゃる拍子に、洋サア刀ベルの鐺こじりが上あがって倒さかさまになった刀みが抜けたで、下に居た饂うど飩ん屋の大おお面づらをちょん切って、鼻柱怪我ァした、一枚外れている処だ。
どんと倒さか落おとしに飛んで下りたは三毛猫だあ。川の死骸と同じ毛色じゃ、︵これは、と思うと縁へ出て︶……と客人の若え方が言わっしゃったで、私わしは思わず傍わきへ退のいたが。
庭へ下りて、草茫ぼう々ぼうの中へ隠れたのを、急いで障子の外へ出て見ている内に、床の間に据えて置いた、その手毬がさ。はい、忽こつ然ねんと消えちゅうは、……ここの事だね。﹂
﹁消えたか、落したか分るもんか。﹂
﹁はあ、分らねえから、変でがしょ、﹂
﹁何もちっとも変じゃない。いやしくも学校のある土地に不思議と云う事は無いのだから。﹂
﹁でも、お前めえ様さま、その猫がね、﹂
﹁それも猫だか、鼬いたちだか、それとも鼠だが﹇＃﹁だが﹂はママ﹈、知れたもんじゃない。森の中だもの、兎うさぎだって居るかも知れんさ。﹂
﹁そのお前様、知れねえについてでがさ。﹂
﹁だから、今夜行って、僕が正体を見届けてやろうと云うんだ。﹂
﹁はい、どうぞ、願えますだ。今までにも村方で、はあ、そんな事を言って出向いたものがの、なあ、仁右衛門。﹂
無言なり。
﹁前さ方きへ行って目をまわしっけ、﹂
﹁馬鹿、﹂
と憤む然っとした調子で呟つぶやく。
きかぬ気の宰八、紅くれないの鋏はさみを押おっ立たて、
﹁お前様もまた、馬鹿だの、仁右衛門だの、坊様だの、人大勢の時に、よく今夜来さしった。今まではハイついぞ行って見ようとも言わねえだっけが。﹂
﹁当あた前りまえです、学校の用を欠いて、そんな他たわ愛いもない事にかかり合っていられるもんかい。休暇になったから運動かたがた来て見たんだ。﹂
﹁へ、お前様なんざ、畳が刎はねるばかりでも、投飛ばされる御連中だ。﹂
﹁何を、﹂
﹁私わしなんざ臆おく病びょうでも、その位の事にゃ馴なれたでの、船へ乗った気で押おっこらえるだ。どうしてどうして、まだ、お前……﹂
﹁宰八よ、﹂
と陰気な声する。
﹁おお、﹂
﹁ぬしゃまた何も向う面づらになって、おかしなもののお味方をするにゃ当るめえでねえか。それでのうてせえ、おりゃ重いもので押おっ伏ぷせられそうな心持だ。﹂
と溜ため息いきをして云った。浮世を鎖とざしたような黒門の礎いしずえを、靄もやがさそうて、向うから押し拡がった、下した闇やみの草に踏みかかり、茂しげりの中へ吸い込まれるや、否や、仁右衛門が、
﹁わっ、﹂
と叫んだ。
二十一
﹁はじめの夜は、ただその手てま毬りが失うせましただけで、別に変った事こ件とも無かったでございますか。﹂
と、小次郎法師の旅たび僧そうは法ころ衣もの袖を掻かき合あわせる。
障子を開けて縁の端はし近ぢかに差向いに坐ったのは、少わかい人、すなわち黒門の客である。
障子も普な通みよりは幅が広く、見上げるような天井に、血の足あし痕あともさて着いてはおらぬが、雨あま垂だれが伝つたわったら墨イン汁キが降りそうな古びよう。巨おお寺でらの壁に見るような、雨あま漏もりの痕あとの画えす像がたは、煤すす色の壁に吹きさらされた、袖のひだが、浮出たごとく、浸しみ附ついて、どうやら饅まん頭じゅうの形した笠を被かぶっているらしい。顔ぞと見る目鼻はないが、その笠は鴨かも居いの上になって、空から畳を瞰み下おろすような、惟おもうに漏る雨の余り侘わびしさに、笠欲ししと念じた、壁の心が露あらわれたものであろう――抜群にこの魍もう魎りょうが偉おお大きいから、それがこの広座敷の主ある人じのようで、月影がぱらぱらと鱗うろこのごとく樹この間まを落ちた、広縁の敷居際に相対した旅僧の姿などは、硝がら子す障子に嵌はめ込こんだ、歌か留る多たの絵かと疑わるる。
﹁ええ、﹂
と黒門の年若な逗とう留りゅう客は、火のない煙たば草こ盆の、遥はるかに上の方で、燧マッ灯チを摺すって、静しずかに吸すいつけた煙草の火が、その色の白い頬に映って、長い眉を黒く見せるほど室まの内は薄暗い。――差置かれたのは行あん燈どうである。
﹁まだその以前でした。話すと大勢が気にしますから、実は宰八と云う、爺さん……﹂
﹁ああ、手てんぼうの……でございますな。﹂
﹁そうです。あの親おや仁じにも謂いわないでいたんですが、猫と一所に手毬の亡くなりますちつと、前です。﹂
この古ふる館やかたのまずここへ坐りましたが、爺さんは本家へ、と云って参りました。黄たそ昏がれにただ私一人で、これから女中が来て、湯を案内する、上あがって来ます、膳ぜんが出る。床を取る、寝る、と段取の極きまりました旅はた籠ご屋やでも、旅は住すみ心ごころの落着かない、全く仮の宿です……のに、本家でもここを貸しますのを、承知する事か、しない事か。便りに思う爺さんだって、旅他国で畔あぜ道みちの一面識。自分が望んでではありますが、家と云えば、この畳を敷いた――八やわ幡たし不ら知ず。
第一要害がまるで解わかりません。真まん中なかへ立ってあっちこっち瞻みまわしただけで、今入って来た出口さえ分らなくなりましたほどです。
大おお袈げ裟さに言えば、それこそ、さあ、と云う時、遁にげ路みちの無い位で。夏だけに、物の色はまだ分りましたが、日は暮れるし、貴あな僧た、黒門までは可いい天気だったものを、急に大粒な雨！と吃びっ驚くりしますように、屋根へ掛かかりますのが、この蔽おっかぶさった、欅けやきの葉の落ちますのです。それと知りつつ幾たびも気になっては、縁側から顔を出して植込の空を透かしては見い見いしました、﹂
と肩を落して、仰ぎ様ざまに、廂ひさしはずれの空を覗のぞいた。
﹁やっぱり晴れた空なんです……今夜のように。﹂
﹁しますると……﹂
旅僧は先祖が富士を見た状さまに、首あげて天井の高きを仰ぎ、
﹁この、時々ぱらぱらと来ますのは、木この葉でございますかな。﹂
﹁御覧なさい、星が降りそうですから、﹂
﹁成程。その癖音のしますたびに、ひやひやと身うちへ応こたえますで、道理こそ、一雨かかったと思いましたが。﹂
﹁お冷えなさるようなら、貴あな僧た、閉めましょう。﹂
﹁いいえ、蚊を疵きずにして五百両、夏の夜はこれが千金にも代えられません、かえって陽気の方がお宜よろしい。﹂
と顔を見て、
﹁しかし、いかにもその時はお寂さみしかったでございましょう。﹂
﹁実際、貴あな僧た、遥はる々ばると国を隔てた事を思い染みました。この果はてに故郷がある、と昼間三崎街道を通りつつ、考えなかったでもありませんが、場所と時刻だけに、また格別、古里が遠かったんです。﹂
﹁失礼ながら、御ごし生ょう国ごくは、﹂
﹁豊ぶぜ前んの小こく倉らで、……葉はご越しと言います。﹂
葉越は姓で、渠かれが名は明である。
﹁ああ、御遠方じゃ、﹂
と更あらためて顔を見る目も、法師は我ながら遥々と海を視ながめる思いがした。旅の窶やつれが何となく、袖を圧して、その単ひと衣えの縞しま柄がらにも顕あらわれていたのであった。
﹁そして貴あな僧たは、﹂
﹁これは申もう後しおくれました、私わたくしは信州松本の在、至って山家ものでございます。﹂
﹁それじゃ、二人で、海山のお物語が出来ますね。﹂
と、明は優しく、人懐なつこい。
二十二
﹁不思議な御縁で、何とも心嬉しく存じますが、なかなかお話相手にはなりません。ただ
承りまするだけで、それがしかし何より私わたくしには結構でございます。﹂
と僧は慇いん懃ぎんである。
明は少し俯うつ向むいた。瘠やせた顋あぎとに襟狭く、
﹁そのお話と云いますのが、実に取留めのない事で、貴あな僧たの前では申すのもお恥かしい。﹂
﹁決して、さような事はございません。茶店の婆さんはこの邸に憑つき物ものの――ええ、ただ聞きましたばかりでも、成程、浮ばれそうもない、少わかい仏たちの回えこ向うも頼む。ついては貴あな下たのお話も出ましてな。何か御覚悟がおありなさるそうで、熟じっと辛抱をしてはござるが、怪しい事が重なるかして、お顔の色も、日ごとに悪い。
と申せば、庭先の柿の広葉が映るせいで、それで蒼あお白じろく見えるんだから、気にするな、とおっしゃるが、お身から体だも弱そうゆえに、老とし寄より夫婦で一層のこと気にかかる。
昼の内は宰八なり、誰か、時々お伺いはいたしますが、この頃は気きお怯くれがして、それさえ不ぶ沙さ汰たがちじゃに因って、私によくお見舞い申してくれ、と云う、くれぐれもその託ことづけでございました。が何か、最初の内、貴あな方たが御ごと逗うり留ゅうというのに元気づいて、血気な村の若い者が、三人五人、夜食の惣菜ものの持寄り、一升徳利なんぞ提げて、お話対あい手て、夜よと伽ぎはまだ穏おだやかな内、やがて、刃物切物、鉄砲持参、手覚えのあるのは、係かけ羂わなに鼠の天てん麩ぷ羅らを仕掛けて、ぐびぐび飲みながら、夜更けに植込みを狙うなんという事がありますそうで？――
婆さんが話しました。﹂
﹁私は酒はいけず、対手は出来ませんから、皆さんの車座を、よく蚊帳の中から見ては寝ました。一時は随分賑にぎやかでした。
まあ、入いりかわり立たちかわり、十日ばかり続いて、三人四人ずつ参りましたが、この頃は、ばったり来なくなりましたんです。﹂
﹁と申す事でございますな。ええ、時にその入り交かわり立ち交りにつけて、何か怪しい、﹂
と言いかけて偶ふと見返った、次の室まと隔ての襖ふすまは、二枚だけ山のように、行あん燈どうの左右に峰を分けて、隣とな国りぐにまでは灯が届かぬ。
心も置かれ、後髪も引かれた状さまに、僧は首に気を入れて、ぐっと硬くなって、向直って、
﹁その怪しいものの方でも、手をかえ、品をかえ、怯おびやかす。――何かその……畳がひとりでに持上りますそうでありますが、まったくでございますかな。﹂
熟じっと視みて聞くと、また俯うつ向むいて、
﹁ですから、お話しも極きまりが悪い、取留めのない事だと申すんです。﹂
﹁ははあ、﹂
と胸を引いて、僧は寛くつろいだ状さまに打笑い、
﹁あるいはそうであろうかにも思いましたよ。では、ただ村のものが可いい加減な百物語。その実、嘘う説そなのでございますので？﹂
﹁いいえ、それは事実です。畳は上あがりますとも。貴あな僧た、今にも動くかも分りません。﹂
﹁ええ！や、それは、﹂
と思わず、膝を辷すべらした手で、はたはたと圧おさえると、爪も立ちそうにない上じょ床うどこの固い事。
﹁これが、動くでございますか。﹂
﹁ですから、取留めのない事ではありませんか。﹂
と静しずかに云うと、黙って、ややあって瞬またたきして、
﹁さよう、余り取留めなくもないようでございます。すると、坐っているものはいかがな儀に相成りましょうか。﹂
﹁騒がないで、熟じっとしていさえすれば、何事もありません。動くと申して、別に倒さかさに立って、裏返しになるというんじゃないのですから、﹂
﹁いかにも、まともにそれじゃ、人間が縁の下へ投込まれる事になりますものな。﹂
﹁そうですとも。そうなった日には、足の裏を膠にかわで附くッ着つけておかねばなりません。
何ともないから、お騒ぎなさるなと云っても、村の人が肯きかないで、畳のこの合せ目が、﹂
と手を支ついて、ずっと掌てのひらを辷すべらしながら、
﹁はじめに、長い三角だの、小さな四角に、縁ふちを開けて、きしきしと合ったり、がらがらと離れたり、しかし、その疾はやい事は、稲妻のように見えます。
そうするともう、わっと言って、飛ぶやら刎はねるやら、やあ！と踏ふん張ばって両方の握にぎ拳りこぶしで押えつける者もあれば、いきなり三宝火ひば箸しでも火吹竹でも宙で振廻す人もある――まあ一人や二人は、きっとそれだけで縁から飛出して遁にげて行ゆきます。﹂
二十三
﹁どたん、ばたん、豪えらい騒ぎ。その立騒ぐのに連れて、むくむくむくむく、と畳を、貴あな僧た、四隅から持上げますが、二隅ずつ、どん、どん、順に十畳敷を一いっ時ときに十ウ、下から握拳を突出すようです。それ毛だらけだ、わあ女の腕だなんて言いますが、何、その畳の隅が裏返るように目まぐるしく飜かえるんです。
もうそうなると、気の上あがった各てん自でが、自分の手足で、茶碗を蹴け飛とばす、徳とっ利くりを踏倒す、海つな嘯みだ、と喚わめきましょう。
その立廻りで、何かの拍子にゃ怪我もします、踏切ったくらいでも、ものがものですから、片足切られたほどに思って、それがために寝ついたのもあるんだそうで。漁師だとか言いましたっけ。一人、わざわざ山越えで浜の方から来たんだって、怪ばけ物ものに負けない禁まじ厭ないだ、と
の針を顱はち鉄がねがわりに、手てぬ拭ぐいに畳込んで、うしろ顱はち巻まきなんぞして、非常な勢いきおいだったんですが、猪ちょ口この欠かけの踏抜きで、痛いたみが甚ひどい、お祟たたりだ、と人に負おぶさって帰りました。
その立廻りですもの。灯あかりが危いから傍わきへ退のいて、私はそのたびに洋ラン燈プを圧おさえ圧えしたんですがね。
坐ってる人が、ほんとに転ひっ覆くりかえるほど、根ね太だから揺れるのでない証拠には、私が気を着けています洋ラン燈プは、躍りはためくその畳の上でも、静じっとして、ちっとも動きはせんのです。
しかしまた洋燈ばかりが、笠から始めて、ぐるぐると廻った事がありました。やがて貴あな僧た、風かざ車ぐるまのように舞う、その癖、場所は変らないので、あれあれと云う内に火が真まん丸まるになる、と見ている内、白くなって、それに蒼あお味みがさして、茫ぼうとして、熟じっと据すわる、その厭いやな光ったら。
映る手なんざ、水へ突つッ込こんでるように、畝うねったこの筋までが蒼白く透通って、各てん自での顔は、皆みんなその熟した真まく桑わう瓜りに目鼻がついたように黄色くなったのを、見合せて、呼い吸きを詰める、とふわふわと浮いて出て、その晩の座がしらという、一番強がった男の膝へ、ふッと乗ったことがあるんですね。
わッと云うから、騒いじゃ怪我をしますよ、と私が暗い中で声を掛けたのに、猫ねこ化ばけだ遣やっつけろ、と誰だか一人、庭へ飛出して遁にげながら喚わめいた者がある。畜生、と怒鳴って、貴僧、危いの何のじゃない！
※ぱっ﹇＃﹁火＋發﹂、189-13﹈と明あかるくなって旧もとの通とおり洋燈が見えると、その膝に乗られた男が――こりゃ何です、可いい加減な年配でした――かつて水兵をした事があるとか云って、かねて用意をしたものらしい、ドギドギする小ナイ刀フを、火ほ屋やの中から縦に突刺してるじゃありませんか。﹂
﹁大変で、はあ、はあ、﹂
﹁ト思うと一呼い吸きに、油壺をかけて突つき壊こわしたもんだから、流れるような石油で、どうも、後二日ばかり弱りました。
その時は幸に、当人、手に疵きずをつけただけ、勢いきおいで壊したから、火はそれなり、ばったり消えて、何の事もありませんでしたが、もしやの時と、皆みんなが心掛けておきました、蝋ろう燭そくを点つけて、跡始末に掛かかると、さあ、可おか訝しいのは、今の、怪我で取落した小ナイ刀フが影も見えないではありませんか。
驚きました。これにゃ、皆みんなが貴あな僧た、茶ちゃ釜がまの中へ紛れ込んで祟たたるとか俗に言う、あの蜥とか蜴げの尻しっ尾ぽの切れたのが、行方知れずになったより余よっ程ぽど厭な紛失もの。襟へ入っていはしないか、むずむずするの、褌ふんどしへささっちゃおらんか、ひやりとするの、袂たもとか、裾すそか、と立つ、坐る、帯を解きます。
前にも一度、大掃除の検査に、階はし子ごをさして天井へ上った、警おま官わりさんの洋サア剣ベルが、何かの拍子に倒さかさまになって、鍔つば元もとが緩んでいたか、すっと抜ぬけ出だしたために、下に居たものが一人、切られた事がある座敷だそうで。
外のものとは違う。切きれ物ものは危い、よく探さっしゃい、針を使ってさえ始める時と了しまう時には、ちゃんと数を合わせるものだ。それでもよく紛失するが、畳の目にこぼれた針は、奈落へ落ちて地獄の山の草に生える。で、餓鬼が突刺される。その供養のために、毎年六月の一日は、氷ひむ室ろの朔つい日たちと云って、少わかい娘が娘同士、自分で小こな鍋べ立だての飯ままごとをして、客にも呼ばれ、呼びもしたものだに、あのギラギラした小ナイ刀フが、縁の下か、天井か、承なげ塵しの途中か、在あり所どころが知れぬ、とあっては済まぬ。これだけは夜よっ一ぴ夜てさがせ、と中に居た、酒のみの年寄が苦り切ったので、総立ちになりました。
これは、私だって気味が悪かったんです。﹂
僧はただ目で応こたえ、目で頷うなずく。
二十四
﹁洋ラン燈プの火でさえ、大概度どぎ胆もを抜かれたのが、頼みに思った豪傑は負傷するし、今の話でまた変な気になる時分が、夜も深々と更けたでしょう。
どんな事で、どこから抛ほうり投げまいものでもない。何か、対あい手ての方も斟しん酌しゃくをするか、それとも誰も殺すほどの罪もないか、命に別条はまず無かろうが、怪我は今までにも随分ある。
さあ、捜す、となると、五人の天あた窓まへ燭しょ台くだいが一ツです。蝋ろうの継ぎ足しはあるにして、一いっ時ときに燃すと翌あけ方がたまでの便たよりがないので、手分けをするわけには行ゆきません。
もうそうなりますとね、一人じゃ先へ立つのも厭いやがりますから、そこで私が案内する、と背あ後とからぞろぞろ。その晩は、鶴谷の檀だん那なで寺らの納なっ所しょだ、という悟った禅坊さんが一人。変へん化げ出でよ、一いっ喝かつで、という宵の内の意気組で居たんです。ちっとお差合いですね、﹂
﹁いえ、宗旨違いでございます、﹂
と吃びっ驚くりしたように莞にっ爾こりする。
﹁坊さんまじりその人にん数ずで。これが向うの曲角から、突当りのはばかりへ、廻まわ縁りえんになっています。ぐるりとその両側、雨戸を開けて、沓くつ脱ぬぎのまわり、縁の下を覗のぞいて、念のため引返して、また便はば所かりの中まで探したが、光るものは火ほ屋やの欠かけらも落ちてはいません。
じゃあ次の室まを……﹂
と振返って、その大おおきなる襖ふすまを指した。
﹁と皆みんなが云うから、私は留めました。
ここを借りて、一ひと室まだけでも広過ぎるから、来てからまだ一度も次の室まは覗のぞいて見ない。こういう時開けては不い可けません。廊下から、厠かわやまでは、宵から通った人もある。転てん倒どうしている最中、どんな拍子で我知らず持って立って、落して来ないとも限らんから、念のため捜したものの、誰も開けない次の室まへ行ってるようでは、何かが秘かくしたんだろうから、よし有ったにした処で、先さ方きにもしその気があれば、怪我もさせよう、傷もつけよう。さて無い、となると、やっぱり気が済まんのは同おん一なじ道理。押入も覗のぞけ、棚も見ろ、天井も捜せ、根太板をはがせ、となっては、何十人でかかった処で、とてもこの構えうち隅々まで隈くまなく見尽される訳のものではない。人足の通った、ありそうな処だけで切上げたが可いいでしょう――
それもそうか、いよいよ魔隠しに隠したものなら、山だか川だか、知れたものではない。
まあ、人間業わざで叶かなわん事に、断あき念らめは着きましたが、危けん険のんな事には変わりはないので。いつ切きっ尖さきが降って来ようも知れません。ちっとでも楯たてになるものをと、皆みんなが同おな一じ心です。言合わせたように順々に……前さきへ御免を被こうむりますつもりで、私が釣っておいた蚊帳へ、総勢六人で、小さくなって屈かがみました。
変におしおきでも待ってるようでなお不気味でした。そうか、と云って、夜よる夜よな中か、外へ遁にげ出だすことは思いも寄らず、で、がたがた震える、突つッ伏ぷす、一人で寝てしまったのがあります、これが一番可いのです。坊ぼう様さんは口の裏うちで、頻しきりにぶつぶつと念じています。
その舌の縺もつれたような、便たよりのない声を、蚊の唸うなる中に聞きながら、私がうとうとしかけました時でした。密そっと一人が揺ゆすぶり起して、
︵聞えますか、︶
と言います。
︵ココだ、ココだ、と云う声が、︶と、耳へ口をつけて囁ささやくんです。それから、それへ段々、また耳移しに。
︵失うせ物ものはココにある、というお知らせだろう、︶
︵どうか、︶と言う、ひそひそ相ばな談し。
耳を澄ますと、蚊帳越の障子のようでもあり、廊下の雨戸のようでもあり、次の間と隔ての襖ふす際まぎわ……また柱の根かとも思われて、カタカタ、カタカタと響く――あの茶ちゃ立たて虫むしとも聞えれば、壁の中で蝙こう蝠もりが鳴くようでもあるし、縁の下で、蟇ひきがえるが、コトコトと云うとも考えられる。それが貴あな僧た、気の持ちようで、ココ、ココ、ココヨとも、ココト、とも云うようなんです。
自分のだけに、手を繃ほう帯たいした水兵の方が、一番に蚊帳を出ました。
返す気で、在あり所かをおっしゃるからは仔しさ細いはない、と坊さんがまた這はい出だして、畳に擦附けるように、耳を澄ます。と水兵の方は、真まん中なかで耳を傾けて、腕組をして立ってなすったっけ。見当がついたと見えて、目で知らせ合って、上うえ下したで頷うなずいて、その、貴あな僧たの背うし後ろになってます、﹂
﹁え！﹂
と肩越に淵ふちを差さし覗のぞくがごとく、座をずらして見返りながら、
﹁成程。﹂
﹁北へ四枚目の隅の障子を開けますとね。溝へ柄を、その柱へ、切きっ尖さきを立掛けてあったろうではありませんか。﹂
二十五
﹁それッきり、危うございますから、刃物は一いっ切せつ厳禁にしたんです。
遊びに来て下さるも可よし、夜よと伽ぎとおっしゃるも難あり有がたし、ついでに狐こ狸りの類たぐいなら、退治しようも至極ごもっともだけれども、刀、小ナイ刀フ、出刃庖丁、刃物と言わず、槍やり、鉄砲、――およそそういうものは断りました。
私も長い旅行です。随分どんな処でも歩あ行るき廻ります考えで。いざ、と言や、投出して手を支つくまでも、短刀を一ひと口ふり持っています――母の記かた念みで、峠を越えます日の暮なんぞ、随分それがために気丈夫なんですが、謹つつしみのために桐とう油ゆに包んで、風呂敷の結び目へ、しっかり封をつけておくのですが、﹂
﹁やはり、おのずから、その、抜出すでございますか。﹂
﹁いいえ、これには別条ありません。盗ぬす人っとでも封印のついたものは切らんと言います。もっとも、怪ばけ物もの退治に持って見えます刃物だって、自分で抜かなければ別条はないように思われますね。それに貴あな僧た、騒さわ動ぎの起たち居いに、一番気がかりなのは洋ラン燈プですから、宰八爺さんにそう云って、こうやって行あん燈どうに取替えました。﹂
﹁で、行燈は何事も、﹂
﹁これだって上あがります。﹂
﹁あの上りますか。宙へ？﹂
時に、明の、行燈のその皿あたりへ、仕切って、うつむけに伏せた手が白かった。
﹁すう、とこう、畳を離れて、﹂
﹁ははあ、﹂
とばかり、僧は明の手のかげで、燈ともしびが暗くなりはしないか、と危あやぶんだ目めつ色きである。
﹁それも手をかけて、圧おさえたり、据えようとしますと、そのはずみに、油をこぼしたり、台ごとひっくりかえしたりします。障さわらないで、熟じっと柔おと順なしくしてさえいれば、元の通りに据すわ直りなおって、夜よが明けます。一度なんざ行燈が天井へ附くッ着つきました。﹂
﹁天……井へ、﹂
﹁下に蚊帳が釣ってありますから、私も存じながら、寝ていたのを慌てて起上って、蚊帳越にふらふら釣り下った、行燈の台を押えようと、うっかり手をかけると、誰か取って引上げるように鴨かも居いを越して天井裏へするりと入ると、裏へちゃんと乗っかりました。もう堆うずたかい、鼠の塚か、と思う煤すすのかたまりも見えれば、遥はるかに屋根裏へ組上げた、柱の形も見える。
可おか訝しいな、屋根裏が見えるくらいじゃ、天井の板がどこか外れた筈はずだが、とふと気がつくと、桟が弛ゆるんでさえおりますまい。
板を抜けたものか知らん、余り変だ、と貴あな僧た。
ここで心が定まりますと、何の事もない。行あん燈どうは蚊帳の外の、宵から置いた処にちゃんとあって、薄ぼんやり紙が白けたのは、もう雨戸の外が明方であったんです。﹂
﹁その晩は、お一人で、﹂
﹁一人です、しかも一昨晩。﹂
﹁一昨晩？﹂
と、思わずまたぎょっとする。
﹁で、何でございますか、その夜よと伽ぎれ連んは、もうそれ以来懲りて来なくなったんでございますかな。﹂
﹁お待ち下さい、トあの、西すい瓜かで騒いだ夜は、たしかその後でしたっけ。
何、こりゃ詰つまらない事ですけれども、弱ったには弱りましたよ。……
確か三人づれで、若い衆しゅが見えました。やっぱり酒を御持参で。大分お支度があったと見えて、するめの足を噛かじりながら、冷ひや酒ざけを茶碗で煽あおるようなんじゃありません。
竹の皮包みから、この陽気じゃ魚うおの宵越しは出来ん、と云って、焼やき蒲かま鉾ぼこなんか出して。
旨うもうございましたよ、私もお相伴しましたっけ、﹂
と悠々と迫らぬ調子で、
﹁宵には何事もありませんでした。可いい塩あん梅ばいな酔よい心ごこ地ちで、四よも方や山まの話をしながら、螽いなご一ツ飛んじゃ来ない。そう言や一体蚊も居おらんが、大方その怪ばけ物ものが餌えじ食きにするだろう。それにしちゃ吝けちな食くい物ものだ――何々、海の中でも親方となるとかえって小さい物を餌えさにする。鯨くじらを見ろ、しこ鰯いわしだ、なぞと大口を利いて元気でしたが、やがて酒はお積つもりになる、夜が更けたんです。
ここでお茶と云う処だけれど、茶じゃ理に落ちて魔物が憑つけ込む。酔よい醒ざめにいいもの、と縁側から転がし出したのは西瓜です。聞くと、途中で畑盗どろ人ぼうをして来たんだそうで――それじゃかえって、憑込もうではありませんか。﹂
二十六
﹁手並を見ろ、狐でも狸でも、この通りだ、と刃物の禁断は承知ですから、小ナイ刀フを持っちゃおりません、拳固で、貴あな僧た。
小こず相も撲うぐらい恰かっ幅ぷくのある、節くれだった若い衆でしたが……﹂
場所がまた悪かった。――
﹁前夜、ココココ、と云って小ナイ刀フを出してくれたと同おな一じ処、敷居から掛けて柱へその西すい瓜かを極きめて置いて、大おお上じょ段うだんです。
ポカリ遣やった。途端に何とも、凄すさまじい、石油缶が二三十打ぶつかったような音が台所の方で聞えたんです。
唐だし突ぬけですから、宵に手ぐすねを引いた連中も、はあ、と引ひき呼い吸きに魂を引ひき攫さらわれた拍子に――飛びました。その貴あな僧た、西瓜が、ストンと若い衆の胸へ刎はね上あがったでしょう。
仰あお向むけに引ひっくりかえると、また騒動。
それ、肩を越した、ええ、足へ乗っかる。わああ！裾へ纏まつわる、火の玉じゃ。座頭の天あた窓まよ、入道首よ、いや女の生首だって、可いい加減な事ばかり。夕顔の花なら知らず、西瓜が何、女の首に見えるもんです。
追おっ掛かけるのか、逃廻るのか、どたばた跳飛ぶ内、ドンドンドンドンと天井を下から上へ打抜くと、がらがらと棟むな木ぎが外れる、戸障子が鳴響く、地震だ、と突つッ伏ぷしたが、それなり寂しんとして、静しずかになって、風の音もしなくなりました。
ト屋根に生えた草の、葉と葉が入いり交まじって見え透くばかりに、月が一ツ出ています。――今の西瓜が光るのでした。
森は押おっ被かぶさっておりますし、行あん燈どうはもとよりその立廻りで打ぶっ倒たおれた。何か私どもは深い狭い谷底に居いす窘くまって、千せん仞じんの崖の上に月が落ちたのを視ながめるようです。そう言えば、欅けやきの枝に這はいかかって、こう、月の上へ蛇のように垂たれかかったのが、蔦つたの葉か、と思うと、屋根一面に瓜畑になって、鳴子縄が引いてあるような気もします。
したたかな、天てん狗ぐめ、とのぼせ上あがって、宵に蚊いぶしに遣やった、杉ッ葉の燃残りを取って、一人、その月へ投げつけたものがありました。
もろいの、何の、ぼろぼろと朽木のようにその満月が崩れると、葉末の露と一つになって、棟の勾こう配ばいを辷すべり落ちて、消えたは可いいが、ぽたりぽたり雫しずくがし出した。頸えりと言わず、肩と言わず、降りかかって来ましたが、手を当てる、とべとりとして粘る。嗅かいでみると、いや、貴あな僧た、悪甘い匂と言ったら。
夜深しに汗ばんで、蒸むし々むしして、咽の喉どの乾いた処へ、その匂い。血ちな腥まぐさいより堪たまりかねて、縁側を開けて、私が一番に庭へ出ると、皆みんなも跣はだ足しで飛下りた。
驚いたのは、もう夜が明けていたことです。山の巓いただきの方は蒼あおくなって、麓ふもとへ靄もやが白んでいました。
不思議な処へ、思いがけない景色を見て、和オラ蘭ン陀ダへ流された、と云うのがあるし、堪らない、まず行あん燈どうをつけ直せ、と怒鳴ったのが居る。
屋根のその辺だ、と思う、西瓜のあとには、烏が居て、コトコトと嘴はしを鳴らし、短みじ夜かよの明けた広縁には、ぞろぞろ夥おびただしい、褐かば色の黒いのと、松虫鈴虫のようなのが、うようよして、ざっと障子へ駆かけ上あがって消えましたが、西瓜の核たねが化なったんですって。
連中は、ふらふら﹇＃﹁ふらふら﹂は底本では﹁ふろふら﹂﹈と二日酔いのような工ぐあ合いで、ぼんやり黒門を出て、川べりに帰りました。
橋の処で、杭くいにかかって、ぶかぶか浮いた真まっ蒼さおな西瓜を見て、それから夢中で、遁にげたそうです。
昼過ぎに、宰八が来て、その話。
私はその時分までぐっすり寝ました。
この時おかしかったのは、爺さんが、目覚しに茶を一つ入れてやるべいって、小まめに世話をして、佳いい色に煮花が出来ましたが、あいにく西瓜も盗んで来ない。何かないか、と考えて、有る――台所に糖味噌が、こりゃ私に、と云って一々運ぶも面倒だから、と手の着いたのじゃあるが、桶おけごと持って来て、時々爺さんが何かを突つッ込こんでおいてくれるんでした。
一人だから食べ切れないで、直じきつき過ぎる、と云って、世話もなし、茄な子すを蔕へたごと生しょうのもので漬けてありました。可いい漬つかり加減だろう、とそれに気が着いて、台所へ出ましたっけ。
︵お客様あ、︶
︵何だい。︶
︵昨ゆう夜べ凄すさまじい音がしたと言わしっけね、何にも落おっこちたものはねえね。︶
って言いながら、やがて小鉢へ、丸ごと五つばかり出して来ました。
薄お納戸の好いい色で。﹂
二十七
﹁青葉の影の射さす処、白瀬戸の小鉢も結構な青磁の菓子器に装もったようで、志の美しさ。
箸はしを取ると、その重かさなった茄な子すが、あの、薄皮の腹のあたりで、グッ、グッ。
一ツ音を出すと、また一つグッ、もう一つのもググ、ググと声を立てるんですものね。
変な顔をして、宰八が、
︵お客様、聞えるかね。︶
︵ああ鳴くとも。︶
︵ちんじちょうようだ、此こい奴つ、︶
と爺じい様さんが鉈なた豆まめのような指の尖さきで、ちょいと押すと、その圧おされたのがグググ、手をかえるとまた他ほかのがググ。
心あって鳴くようで、何だか上になった、あの蔕へたの取手まで、小さな角つのらしく押おっ立たったんです。
また飛出さない内に、と思って、私は一ツ噛かじったですよ。﹂
﹁召めし食あがったか。﹂
と、僧は怪けげ訝んが顔おで、
﹁それは、お豪えらい。﹂
﹁何聞く方の耳が鳴るんでしょうから、何事もありません、茄なす子びの鳴くわけは無いのですから。
それでも爺さんは苦にが切りきって、少わかい時にゃ、随分悪あく物もの食ぐいをしたものだで、葬い料で酒ェ買って、犬の死しが骸いなら今でも食うが、茄な子すの鳴くのは厭だ、と言います。
もっとも変なことは変ですが、同じ気味の悪い中でも、対あい手てが茄子だけに、こりゃおかしくって可よかったですよ。﹂
﹁茄なす子びならば、でございますが、ものは茄な子すでも、対あい手ては別にございましょう。﹂
明は俯うつ向むいて莞にっ爾こりした、別に意味のない笑わらいだった。
﹁で、そりゃ昼間の事でございますな。﹂
﹁昨日の午ひる後すぎでした。﹂
﹁昼間からは容易でない。﹂
と半ば呟つぶやくがごとくに云って、
﹁では、昨夜あたりはさぞ……﹂
と聞く方が眉を顰ひそめる。
﹁ええ、酷ひどうございました、どうせ、夜が寝られはしないんですから、﹂
﹁それでお窶やつれなさるのじゃ、貴あな下た、お顔の色がとんだ悪い！……
茶店の婆さんが申したも、その事でございます。
唯ただ今いまお話を伺いました。そんなこんなで村の者も行ゆかなくなり、爺様も夜は恐がって参りませんから、貴下の御ごよ容う子すが分らないに因って、家つきの仏を回えこ向うかたがた、お見舞申してはくれまいか、と云うに就いて、推参したのでございますが、いや、何とも驚きました。
いずれ御厄介に相成らねばなりませんが、私わたくしもどうか唯今のその茄子の鳴くぐらいな処で、御容赦が願いたい。
どこと云って三さん界がい宿なし、一泊御報謝に預る気で参ったわけで。なかなか家つきの幽霊、祟たたり、物もの怪のけを済度しようなどという道徳思いも寄らず。実は入道名なさえ持ちません。手前勝手、申訳のないお詫びに剃ったような坊主。念仏さえ碌ろくに真心からは唱えられんでございまして、御ごき祈と祷う僧そうなどと思われましては、第一、貴下の前へもお恥かしゅうございますが、いかがでございましょう。お宿を願いましても差支えはないでございましょうか。いくらか覚悟はして参りましたが、目まのあたりお話を伺いましては、ちと二の足でございますが。﹂
﹁一人でも客がありますと、それだけ鶴谷では喜びますそうです。持主の本宅が喜びますものを、誰に御遠慮が入いりますものですか。私もお連つれがあって、どんなに嬉しいか知れません。﹂
﹁そりゃ、鶴谷殿はじめ、貴下の思召しはさように難あり有がとうございましても、別にその……ええ、まず、持主が鶴谷としますと、この空屋敷の御支配でございますな、――その何とも異様な、あの、その、﹂
﹁それは私も御同然です。人の住むのが気に入らないので荒れるのだろうと思いますが。
そこなんです、貴あな僧た。逆さからいさえしませんければ、畳も行あん燈どうも何事もないのですもの。戸障子に不意に火が附いてそこいらめらめら燃えあがる事がありましても、慌てて消す処は破れ、水を掛けた処は濡れますが、それなりの処は、後で見ますと濡れた様子もないのですから。
座敷だっていくらもあります、貴僧、﹂
とふと心づいたように、
﹁御一所でお煩うるさければ、隣のお座敷へいらっしゃい。何か正体を見届けようなぞと云っては不い可けませんが、鶴谷が許したお客僧が、何も御遠慮には及びません。
ただすらりと開かないで、何かが圧おさえてでもいるようでしたら、お見合せなさいまし。逆さからうと悪いんですから。﹂
二十八
﹁なかなか、逆らいますどころではございません、座敷好みなんぞして可いいものでございますか。
あの襖ふすまを振向いて熟じっと視みろ、とおっしゃったって、容易にゃそちらも向けません次第で、御覧の通り、早や固くなっております。
お話につけて申しますが、実は手前もこの黒門を潜くぐりました時は、草に支つかえて、しばらく足が出ませんでございました。
それと申すが、まず庭口と思う処で、キリキリトーンと、余程その大おお轆ろく轤ろの、刎はね釣つる瓶べを汲くみ上あげますような音がいたす。
もっとも曰いわくづきの邸やしきながら、貴あな下たお一方はまずともかくもいらっしゃる。人が住めば水も要ろうで、何も釣瓶の音が不思議と云うでは、道理上、こりゃ無いのでありまするが、婆さんに聞きました心ここ積ろづもり、学生の方が自炊をしてお在いでと云えば、土瓶か徳とっ利くりに汲んで事は足りる、と何となく思ってでもおりましたせいか、そのどうも水を汲む音が、馴なれた女おな中ごし衆ゅでありそうに思われました。
ト台所の方を、どうやら嫋すら娜りとした、脊の高い御婦人が、黄たそ昏がれに忙しい裾すそ捌さばきで通られたような、ものの気けは勢いもございます。
何となく賑にぎやかな様子が、七輪に、晩のお菜かずでもふつふつ煮えていようという、豆腐屋さ――ん、と町方ならば呼ぶ声のしそうな様子で。
さては婆さんに試されたか、と一いっ旦たんは存じましたが、こう笠を傾けて遠くから覗のぞ込きこみました、勝手口の戸からかけて、棟へ、高く烏から瓜すうりの一杯にからんだ工ぐあ合いが、何様、何ヶ月も閉しめ切きりらしい。
ござったかな、と思いながら、擽くすぐったいような御門内の草を、密そっと蹈ふんで入りますと、春さきはさぞ綺きれ麗いでございましょう。一面に紫げ雲ん英げが生えた、その葉の中へ伝わって、断きれ々ぎれながら、一ひと条すじ、蒼あおずんだ明るい色のものが、這はったように浮いたように落ちています。上へさした森の枝を、月が漏る影に相違は無さそうなが、何となく婦人の黒髪、その、丈長く、足あし許もとに光るようで。
変に跨またぎ心地が悪うございますから、避よけて通ろうといたしますと、右の薄光りの影の先を、ころころと何か転げる、たちまち顔が露あらわれたようでございましたっけ、熟よく見ると、兎うさぎなんで。
ところでその蛇のような光る影も、向むきかわって、また私わたくしの出でさ途きへ映りましたが、兎はくるくると寝転びながら、草の上を見附けの式台の方へ参る。
これが反あべ対こべだと、旧もとの潜くぐ門りもんへ押出されます処でございました。強いて入りますほどの度胸はないので。
式台前で、私はまず挨あい拶さつをいたしたでございます。
主ぬしもおわさば聞きこし召せ、かくの通りの青道心。何を頼みに得とく脱だつ成じょ仏うぶつの回えこ向ういたそう。何を力に、退散の呪じゅ詛そを申そう。御おん姿すがたを見せたまわば偏ひとえに礼拝を仕つかまつる。世にかくれます神ならば、念仏の外他言はいたさぬ。平に一夜、御おす住ま居いの筵むしろ一枚を貸したまわれ……﹂
――旅僧はその時、南なむ無ぶ仏つと唱えながら、漣ささなみのごとき杉の木目の式台に立向い、かく誓って合掌して、やがて笠を脱いで一いち揖ゆうしたのであった。――
﹁それから、婆さんに聞きました通り、壊れ壊れの竹垣について手探りに木戸を押しますと、直ぐに開あきましたから、頻しきりに前さっ刻きの、あの、えへん！えへん！咳せきばらいをしながら――酷ひどくなっておりますな――芝生を伝わって、夥おびただしい白おし粉ろいの花の中を、これへ。お縁側からお邪魔をしたしました。
あの白粉の花は見事です。ちらちら紅べに色のが交って、咲いていますが、それにさえ、貴あな方た、法ころ衣もの袖の障さわるのは、と身から体だをすぼめて来ましたが、今も移うつ香りががして、憚はばかり多い。
もと花畑であったのが荒れましたろうか。中に一本、見上げるような丈のびた山百合の白いのが、うつむいて咲いていました。いや、それにもまた慄ぞ然っとしたほどでございますから。
何事がございましょうとも、自力を頼んで、どうのこうの、と申すようなことは夢にも考えておりません。
しかし貴あな下たは、唯今うけたまわりましたような可おそ怖ろしい只ただ中なかに、よく御辛抱なさいます、実に大胆でおいでなさる。﹂
﹁私くらい臆おく病びょうなものはありません。……臆病で仕方がないから、なるがまかせに、抵抗しないで、自由になっているのです。﹂
﹁さあ、そこでございます。それを伺いたいのが何より目めあ的てで参りましたが、何か、その御研究でもなさりたい思おぼ召しめしで。﹂
﹁どういたしまして、私の方が研究をされていても、こちらで研究なんぞ思いも寄らんのです。﹂
﹁それでは、外に、﹂
﹁ええ、望み――と申しますと、まだ我ががあります。実は願事があって、ここにこうして、参さん籠ろう、通夜をしておりますようなものです。﹂
二十九
﹁それが貴あな僧た、前さっ刻きお話をしかけました、あの手てま毬りの事なんです。﹂
﹁ああ、その手毬が、もう一度御覧なさりたいので。﹂
﹁いいえ、手毬の歌が聞きたいのです。﹂
と、うっとりと云った目の涼しさ。月の夢を見るようなれば、変った望み、と疑いの、胸に起る雲消えて、僧は一ひと膝ひざ進めたのである。
﹁大空の雲を当てにいずことなく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿って、国々を歩あ行るきますのも、詮せんずる処、ある意味の手毬唄を……﹂
﹁手毬唄を。……いかがな次第でございます。﹂
﹁夢とも、現うつつとも、幻とも……目に見えるようで、口には謂いえぬ――そして、優しい、懐なつかしい、あわれな、情のある、愛の籠こもった、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、悚ぞ然っとする、胸を掻かき
るような、あの、恍うっ惚とりとなるような、まあ例えて言えば、芳かんばしい清らかな乳を含みながら、生れない前さきに腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の――唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧あこ憬がれて、それを聞きたいと思いますんです。﹂
この数分時の言ことばの中うちに、小次郎法師は、生れて以来、聞いただけの、風と水と、鐘の音、楽、あらゆる人の声、虫の音ね、木この葉の囁ささやきまで、稲妻のごとく胸の裡うちに繰返し、なおかつ覚えただけの経文を、颯さっと金こん字じ紺こん泥でいに瞳に描いて試みたが、それかと思うのは更に分らぬ。
﹁して、その唄は、貴あな下たお聞きになったことがございましょうか。﹂
﹁小こど児もの時に、亡くなった母親が唄いましたことを、物心覚えた最後の記憶に留めただけで、どういうのか、その文句を忘れたんです。
年を取るに従うて、まるで貴あな僧た、物語で見る切ない恋のように、その声、その唄が聞きたくッてなりません。
東京のある学校を卒で業ますのを待まちかねて、故郷へ帰って、心当りの人に尋ねましたが、誰のを聞いても、どんなに尋ねても、それと思うのが分らんのです。
第一、母親の姉ですが、私の学資の世話をしてくれます、叔母がそれを知りません。
ト夢のように心着いたのは、同おな一じ町に三人あった、同おな一じ年ごろの娘です。
の針を顱はち鉄がねがわりに、手てぬ拭ぐいに畳込んで、うしろ顱はち巻まきなんぞして、非常な勢いきおいだったんですが、猪ちょ口この欠かけの踏抜きで、痛いたみが甚ひどい、お祟たたりだ、と人に負おぶさって帰りました。
その立廻りですもの。灯あかりが危いから傍わきへ退のいて、私はそのたびに洋ラン燈プを圧おさえ圧えしたんですがね。
坐ってる人が、ほんとに転ひっ覆くりかえるほど、根ね太だから揺れるのでない証拠には、私が気を着けています洋ラン燈プは、躍りはためくその畳の上でも、静じっとして、ちっとも動きはせんのです。
しかしまた洋燈ばかりが、笠から始めて、ぐるぐると廻った事がありました。やがて貴あな僧た、風かざ車ぐるまのように舞う、その癖、場所は変らないので、あれあれと云う内に火が真まん丸まるになる、と見ている内、白くなって、それに蒼あお味みがさして、茫ぼうとして、熟じっと据すわる、その厭いやな光ったら。
映る手なんざ、水へ突つッ込こんでるように、畝うねったこの筋までが蒼白く透通って、各てん自での顔は、皆みんなその熟した真まく桑わう瓜りに目鼻がついたように黄色くなったのを、見合せて、呼い吸きを詰める、とふわふわと浮いて出て、その晩の座がしらという、一番強がった男の膝へ、ふッと乗ったことがあるんですね。
わッと云うから、騒いじゃ怪我をしますよ、と私が暗い中で声を掛けたのに、猫ねこ化ばけだ遣やっつけろ、と誰だか一人、庭へ飛出して遁にげながら喚わめいた者がある。畜生、と怒鳴って、貴僧、危いの何のじゃない！
※ぱっ﹇＃﹁火＋發﹂、189-13﹈と明あかるくなって旧もとの通とおり洋燈が見えると、その膝に乗られた男が――こりゃ何です、可いい加減な年配でした――かつて水兵をした事があるとか云って、かねて用意をしたものらしい、ドギドギする小ナイ刀フを、火ほ屋やの中から縦に突刺してるじゃありませんか。﹂
﹁大変で、はあ、はあ、﹂
﹁ト思うと一呼い吸きに、油壺をかけて突つき壊こわしたもんだから、流れるような石油で、どうも、後二日ばかり弱りました。
その時は幸に、当人、手に疵きずをつけただけ、勢いきおいで壊したから、火はそれなり、ばったり消えて、何の事もありませんでしたが、もしやの時と、皆みんなが心掛けておきました、蝋ろう燭そくを点つけて、跡始末に掛かかると、さあ、可おか訝しいのは、今の、怪我で取落した小ナイ刀フが影も見えないではありませんか。
驚きました。これにゃ、皆みんなが貴あな僧た、茶ちゃ釜がまの中へ紛れ込んで祟たたるとか俗に言う、あの蜥とか蜴げの尻しっ尾ぽの切れたのが、行方知れずになったより余よっ程ぽど厭な紛失もの。襟へ入っていはしないか、むずむずするの、褌ふんどしへささっちゃおらんか、ひやりとするの、袂たもとか、裾すそか、と立つ、坐る、帯を解きます。
前にも一度、大掃除の検査に、階はし子ごをさして天井へ上った、警おま官わりさんの洋サア剣ベルが、何かの拍子に倒さかさまになって、鍔つば元もとが緩んでいたか、すっと抜ぬけ出だしたために、下に居たものが一人、切られた事がある座敷だそうで。
外のものとは違う。切きれ物ものは危い、よく探さっしゃい、針を使ってさえ始める時と了しまう時には、ちゃんと数を合わせるものだ。それでもよく紛失するが、畳の目にこぼれた針は、奈落へ落ちて地獄の山の草に生える。で、餓鬼が突刺される。その供養のために、毎年六月の一日は、氷ひむ室ろの朔つい日たちと云って、少わかい娘が娘同士、自分で小こな鍋べ立だての飯ままごとをして、客にも呼ばれ、呼びもしたものだに、あのギラギラした小ナイ刀フが、縁の下か、天井か、承なげ塵しの途中か、在あり所どころが知れぬ、とあっては済まぬ。これだけは夜よっ一ぴ夜てさがせ、と中に居た、酒のみの年寄が苦り切ったので、総立ちになりました。
これは、私だって気味が悪かったんです。﹂
僧はただ目で応こたえ、目で頷うなずく。
二十四
﹁洋ラン燈プの火でさえ、大概度どぎ胆もを抜かれたのが、頼みに思った豪傑は負傷するし、今の話でまた変な気になる時分が、夜も深々と更けたでしょう。
どんな事で、どこから抛ほうり投げまいものでもない。何か、対あい手ての方も斟しん酌しゃくをするか、それとも誰も殺すほどの罪もないか、命に別条はまず無かろうが、怪我は今までにも随分ある。
さあ、捜す、となると、五人の天あた窓まへ燭しょ台くだいが一ツです。蝋ろうの継ぎ足しはあるにして、一いっ時ときに燃すと翌あけ方がたまでの便たよりがないので、手分けをするわけには行ゆきません。
もうそうなりますとね、一人じゃ先へ立つのも厭いやがりますから、そこで私が案内する、と背あ後とからぞろぞろ。その晩は、鶴谷の檀だん那なで寺らの納なっ所しょだ、という悟った禅坊さんが一人。変へん化げ出でよ、一いっ喝かつで、という宵の内の意気組で居たんです。ちっとお差合いですね、﹂
﹁いえ、宗旨違いでございます、﹂
と吃びっ驚くりしたように莞にっ爾こりする。
﹁坊さんまじりその人にん数ずで。これが向うの曲角から、突当りのはばかりへ、廻まわ縁りえんになっています。ぐるりとその両側、雨戸を開けて、沓くつ脱ぬぎのまわり、縁の下を覗のぞいて、念のため引返して、また便はば所かりの中まで探したが、光るものは火ほ屋やの欠かけらも落ちてはいません。
じゃあ次の室まを……﹂
と振返って、その大おおきなる襖ふすまを指した。
﹁と皆みんなが云うから、私は留めました。
ここを借りて、一ひと室まだけでも広過ぎるから、来てからまだ一度も次の室まは覗のぞいて見ない。こういう時開けては不い可けません。廊下から、厠かわやまでは、宵から通った人もある。転てん倒どうしている最中、どんな拍子で我知らず持って立って、落して来ないとも限らんから、念のため捜したものの、誰も開けない次の室まへ行ってるようでは、何かが秘かくしたんだろうから、よし有ったにした処で、先さ方きにもしその気があれば、怪我もさせよう、傷もつけよう。さて無い、となると、やっぱり気が済まんのは同おん一なじ道理。押入も覗のぞけ、棚も見ろ、天井も捜せ、根太板をはがせ、となっては、何十人でかかった処で、とてもこの構えうち隅々まで隈くまなく見尽される訳のものではない。人足の通った、ありそうな処だけで切上げたが可いいでしょう――
それもそうか、いよいよ魔隠しに隠したものなら、山だか川だか、知れたものではない。
まあ、人間業わざで叶かなわん事に、断あき念らめは着きましたが、危けん険のんな事には変わりはないので。いつ切きっ尖さきが降って来ようも知れません。ちっとでも楯たてになるものをと、皆みんなが同おな一じ心です。言合わせたように順々に……前さきへ御免を被こうむりますつもりで、私が釣っておいた蚊帳へ、総勢六人で、小さくなって屈かがみました。
変におしおきでも待ってるようでなお不気味でした。そうか、と云って、夜よる夜よな中か、外へ遁にげ出だすことは思いも寄らず、で、がたがた震える、突つッ伏ぷす、一人で寝てしまったのがあります、これが一番可いのです。坊ぼう様さんは口の裏うちで、頻しきりにぶつぶつと念じています。
その舌の縺もつれたような、便たよりのない声を、蚊の唸うなる中に聞きながら、私がうとうとしかけました時でした。密そっと一人が揺ゆすぶり起して、
︵聞えますか、︶
と言います。
︵ココだ、ココだ、と云う声が、︶と、耳へ口をつけて囁ささやくんです。それから、それへ段々、また耳移しに。
︵失うせ物ものはココにある、というお知らせだろう、︶
︵どうか、︶と言う、ひそひそ相ばな談し。
耳を澄ますと、蚊帳越の障子のようでもあり、廊下の雨戸のようでもあり、次の間と隔ての襖ふす際まぎわ……また柱の根かとも思われて、カタカタ、カタカタと響く――あの茶ちゃ立たて虫むしとも聞えれば、壁の中で蝙こう蝠もりが鳴くようでもあるし、縁の下で、蟇ひきがえるが、コトコトと云うとも考えられる。それが貴あな僧た、気の持ちようで、ココ、ココ、ココヨとも、ココト、とも云うようなんです。
自分のだけに、手を繃ほう帯たいした水兵の方が、一番に蚊帳を出ました。
返す気で、在あり所かをおっしゃるからは仔しさ細いはない、と坊さんがまた這はい出だして、畳に擦附けるように、耳を澄ます。と水兵の方は、真まん中なかで耳を傾けて、腕組をして立ってなすったっけ。見当がついたと見えて、目で知らせ合って、上うえ下したで頷うなずいて、その、貴あな僧たの背うし後ろになってます、﹂
﹁え！﹂
と肩越に淵ふちを差さし覗のぞくがごとく、座をずらして見返りながら、
﹁成程。﹂
﹁北へ四枚目の隅の障子を開けますとね。溝へ柄を、その柱へ、切きっ尖さきを立掛けてあったろうではありませんか。﹂
二十五
﹁それッきり、危うございますから、刃物は一いっ切せつ厳禁にしたんです。
遊びに来て下さるも可よし、夜よと伽ぎとおっしゃるも難あり有がたし、ついでに狐こ狸りの類たぐいなら、退治しようも至極ごもっともだけれども、刀、小ナイ刀フ、出刃庖丁、刃物と言わず、槍やり、鉄砲、――およそそういうものは断りました。
私も長い旅行です。随分どんな処でも歩あ行るき廻ります考えで。いざ、と言や、投出して手を支つくまでも、短刀を一ひと口ふり持っています――母の記かた念みで、峠を越えます日の暮なんぞ、随分それがために気丈夫なんですが、謹つつしみのために桐とう油ゆに包んで、風呂敷の結び目へ、しっかり封をつけておくのですが、﹂
﹁やはり、おのずから、その、抜出すでございますか。﹂
﹁いいえ、これには別条ありません。盗ぬす人っとでも封印のついたものは切らんと言います。もっとも、怪ばけ物もの退治に持って見えます刃物だって、自分で抜かなければ別条はないように思われますね。それに貴あな僧た、騒さわ動ぎの起たち居いに、一番気がかりなのは洋ラン燈プですから、宰八爺さんにそう云って、こうやって行あん燈どうに取替えました。﹂
﹁で、行燈は何事も、﹂
﹁これだって上あがります。﹂
﹁あの上りますか。宙へ？﹂
時に、明の、行燈のその皿あたりへ、仕切って、うつむけに伏せた手が白かった。
﹁すう、とこう、畳を離れて、﹂
﹁ははあ、﹂
とばかり、僧は明の手のかげで、燈ともしびが暗くなりはしないか、と危あやぶんだ目めつ色きである。
﹁それも手をかけて、圧おさえたり、据えようとしますと、そのはずみに、油をこぼしたり、台ごとひっくりかえしたりします。障さわらないで、熟じっと柔おと順なしくしてさえいれば、元の通りに据すわ直りなおって、夜よが明けます。一度なんざ行燈が天井へ附くッ着つきました。﹂
﹁天……井へ、﹂
﹁下に蚊帳が釣ってありますから、私も存じながら、寝ていたのを慌てて起上って、蚊帳越にふらふら釣り下った、行燈の台を押えようと、うっかり手をかけると、誰か取って引上げるように鴨かも居いを越して天井裏へするりと入ると、裏へちゃんと乗っかりました。もう堆うずたかい、鼠の塚か、と思う煤すすのかたまりも見えれば、遥はるかに屋根裏へ組上げた、柱の形も見える。
可おか訝しいな、屋根裏が見えるくらいじゃ、天井の板がどこか外れた筈はずだが、とふと気がつくと、桟が弛ゆるんでさえおりますまい。
板を抜けたものか知らん、余り変だ、と貴あな僧た。
ここで心が定まりますと、何の事もない。行あん燈どうは蚊帳の外の、宵から置いた処にちゃんとあって、薄ぼんやり紙が白けたのは、もう雨戸の外が明方であったんです。﹂
﹁その晩は、お一人で、﹂
﹁一人です、しかも一昨晩。﹂
﹁一昨晩？﹂
と、思わずまたぎょっとする。
﹁で、何でございますか、その夜よと伽ぎれ連んは、もうそれ以来懲りて来なくなったんでございますかな。﹂
﹁お待ち下さい、トあの、西すい瓜かで騒いだ夜は、たしかその後でしたっけ。
何、こりゃ詰つまらない事ですけれども、弱ったには弱りましたよ。……
確か三人づれで、若い衆しゅが見えました。やっぱり酒を御持参で。大分お支度があったと見えて、するめの足を噛かじりながら、冷ひや酒ざけを茶碗で煽あおるようなんじゃありません。
竹の皮包みから、この陽気じゃ魚うおの宵越しは出来ん、と云って、焼やき蒲かま鉾ぼこなんか出して。
旨うもうございましたよ、私もお相伴しましたっけ、﹂
と悠々と迫らぬ調子で、
﹁宵には何事もありませんでした。可いい塩あん梅ばいな酔よい心ごこ地ちで、四よも方や山まの話をしながら、螽いなご一ツ飛んじゃ来ない。そう言や一体蚊も居おらんが、大方その怪ばけ物ものが餌えじ食きにするだろう。それにしちゃ吝けちな食くい物ものだ――何々、海の中でも親方となるとかえって小さい物を餌えさにする。鯨くじらを見ろ、しこ鰯いわしだ、なぞと大口を利いて元気でしたが、やがて酒はお積つもりになる、夜が更けたんです。
ここでお茶と云う処だけれど、茶じゃ理に落ちて魔物が憑つけ込む。酔よい醒ざめにいいもの、と縁側から転がし出したのは西瓜です。聞くと、途中で畑盗どろ人ぼうをして来たんだそうで――それじゃかえって、憑込もうではありませんか。﹂
二十六
﹁手並を見ろ、狐でも狸でも、この通りだ、と刃物の禁断は承知ですから、小ナイ刀フを持っちゃおりません、拳固で、貴あな僧た。
小こず相も撲うぐらい恰かっ幅ぷくのある、節くれだった若い衆でしたが……﹂
場所がまた悪かった。――
﹁前夜、ココココ、と云って小ナイ刀フを出してくれたと同おな一じ処、敷居から掛けて柱へその西すい瓜かを極きめて置いて、大おお上じょ段うだんです。
ポカリ遣やった。途端に何とも、凄すさまじい、石油缶が二三十打ぶつかったような音が台所の方で聞えたんです。
唐だし突ぬけですから、宵に手ぐすねを引いた連中も、はあ、と引ひき呼い吸きに魂を引ひき攫さらわれた拍子に――飛びました。その貴あな僧た、西瓜が、ストンと若い衆の胸へ刎はね上あがったでしょう。
仰あお向むけに引ひっくりかえると、また騒動。
それ、肩を越した、ええ、足へ乗っかる。わああ！裾へ纏まつわる、火の玉じゃ。座頭の天あた窓まよ、入道首よ、いや女の生首だって、可いい加減な事ばかり。夕顔の花なら知らず、西瓜が何、女の首に見えるもんです。
追おっ掛かけるのか、逃廻るのか、どたばた跳飛ぶ内、ドンドンドンドンと天井を下から上へ打抜くと、がらがらと棟むな木ぎが外れる、戸障子が鳴響く、地震だ、と突つッ伏ぷしたが、それなり寂しんとして、静しずかになって、風の音もしなくなりました。
ト屋根に生えた草の、葉と葉が入いり交まじって見え透くばかりに、月が一ツ出ています。――今の西瓜が光るのでした。
森は押おっ被かぶさっておりますし、行あん燈どうはもとよりその立廻りで打ぶっ倒たおれた。何か私どもは深い狭い谷底に居いす窘くまって、千せん仞じんの崖の上に月が落ちたのを視ながめるようです。そう言えば、欅けやきの枝に這はいかかって、こう、月の上へ蛇のように垂たれかかったのが、蔦つたの葉か、と思うと、屋根一面に瓜畑になって、鳴子縄が引いてあるような気もします。
したたかな、天てん狗ぐめ、とのぼせ上あがって、宵に蚊いぶしに遣やった、杉ッ葉の燃残りを取って、一人、その月へ投げつけたものがありました。
もろいの、何の、ぼろぼろと朽木のようにその満月が崩れると、葉末の露と一つになって、棟の勾こう配ばいを辷すべり落ちて、消えたは可いいが、ぽたりぽたり雫しずくがし出した。頸えりと言わず、肩と言わず、降りかかって来ましたが、手を当てる、とべとりとして粘る。嗅かいでみると、いや、貴あな僧た、悪甘い匂と言ったら。
夜深しに汗ばんで、蒸むし々むしして、咽の喉どの乾いた処へ、その匂い。血ちな腥まぐさいより堪たまりかねて、縁側を開けて、私が一番に庭へ出ると、皆みんなも跣はだ足しで飛下りた。
驚いたのは、もう夜が明けていたことです。山の巓いただきの方は蒼あおくなって、麓ふもとへ靄もやが白んでいました。
不思議な処へ、思いがけない景色を見て、和オラ蘭ン陀ダへ流された、と云うのがあるし、堪らない、まず行あん燈どうをつけ直せ、と怒鳴ったのが居る。
屋根のその辺だ、と思う、西瓜のあとには、烏が居て、コトコトと嘴はしを鳴らし、短みじ夜かよの明けた広縁には、ぞろぞろ夥おびただしい、褐かば色の黒いのと、松虫鈴虫のようなのが、うようよして、ざっと障子へ駆かけ上あがって消えましたが、西瓜の核たねが化なったんですって。
連中は、ふらふら﹇＃﹁ふらふら﹂は底本では﹁ふろふら﹂﹈と二日酔いのような工ぐあ合いで、ぼんやり黒門を出て、川べりに帰りました。
橋の処で、杭くいにかかって、ぶかぶか浮いた真まっ蒼さおな西瓜を見て、それから夢中で、遁にげたそうです。
昼過ぎに、宰八が来て、その話。
私はその時分までぐっすり寝ました。
この時おかしかったのは、爺さんが、目覚しに茶を一つ入れてやるべいって、小まめに世話をして、佳いい色に煮花が出来ましたが、あいにく西瓜も盗んで来ない。何かないか、と考えて、有る――台所に糖味噌が、こりゃ私に、と云って一々運ぶも面倒だから、と手の着いたのじゃあるが、桶おけごと持って来て、時々爺さんが何かを突つッ込こんでおいてくれるんでした。
一人だから食べ切れないで、直じきつき過ぎる、と云って、世話もなし、茄な子すを蔕へたごと生しょうのもので漬けてありました。可いい漬つかり加減だろう、とそれに気が着いて、台所へ出ましたっけ。
︵お客様あ、︶
︵何だい。︶
︵昨ゆう夜べ凄すさまじい音がしたと言わしっけね、何にも落おっこちたものはねえね。︶
って言いながら、やがて小鉢へ、丸ごと五つばかり出して来ました。
薄お納戸の好いい色で。﹂
二十七
﹁青葉の影の射さす処、白瀬戸の小鉢も結構な青磁の菓子器に装もったようで、志の美しさ。
箸はしを取ると、その重かさなった茄な子すが、あの、薄皮の腹のあたりで、グッ、グッ。
一ツ音を出すと、また一つグッ、もう一つのもググ、ググと声を立てるんですものね。
変な顔をして、宰八が、
︵お客様、聞えるかね。︶
︵ああ鳴くとも。︶
︵ちんじちょうようだ、此こい奴つ、︶
と爺じい様さんが鉈なた豆まめのような指の尖さきで、ちょいと押すと、その圧おされたのがグググ、手をかえるとまた他ほかのがググ。
心あって鳴くようで、何だか上になった、あの蔕へたの取手まで、小さな角つのらしく押おっ立たったんです。
また飛出さない内に、と思って、私は一ツ噛かじったですよ。﹂
﹁召めし食あがったか。﹂
と、僧は怪けげ訝んが顔おで、
﹁それは、お豪えらい。﹂
﹁何聞く方の耳が鳴るんでしょうから、何事もありません、茄なす子びの鳴くわけは無いのですから。
それでも爺さんは苦にが切りきって、少わかい時にゃ、随分悪あく物もの食ぐいをしたものだで、葬い料で酒ェ買って、犬の死しが骸いなら今でも食うが、茄な子すの鳴くのは厭だ、と言います。
もっとも変なことは変ですが、同じ気味の悪い中でも、対あい手てが茄子だけに、こりゃおかしくって可よかったですよ。﹂
﹁茄なす子びならば、でございますが、ものは茄な子すでも、対あい手ては別にございましょう。﹂
明は俯うつ向むいて莞にっ爾こりした、別に意味のない笑わらいだった。
﹁で、そりゃ昼間の事でございますな。﹂
﹁昨日の午ひる後すぎでした。﹂
﹁昼間からは容易でない。﹂
と半ば呟つぶやくがごとくに云って、
﹁では、昨夜あたりはさぞ……﹂
と聞く方が眉を顰ひそめる。
﹁ええ、酷ひどうございました、どうせ、夜が寝られはしないんですから、﹂
﹁それでお窶やつれなさるのじゃ、貴あな下た、お顔の色がとんだ悪い！……
茶店の婆さんが申したも、その事でございます。
唯ただ今いまお話を伺いました。そんなこんなで村の者も行ゆかなくなり、爺様も夜は恐がって参りませんから、貴下の御ごよ容う子すが分らないに因って、家つきの仏を回えこ向うかたがた、お見舞申してはくれまいか、と云うに就いて、推参したのでございますが、いや、何とも驚きました。
いずれ御厄介に相成らねばなりませんが、私わたくしもどうか唯今のその茄子の鳴くぐらいな処で、御容赦が願いたい。
どこと云って三さん界がい宿なし、一泊御報謝に預る気で参ったわけで。なかなか家つきの幽霊、祟たたり、物もの怪のけを済度しようなどという道徳思いも寄らず。実は入道名なさえ持ちません。手前勝手、申訳のないお詫びに剃ったような坊主。念仏さえ碌ろくに真心からは唱えられんでございまして、御ごき祈と祷う僧そうなどと思われましては、第一、貴下の前へもお恥かしゅうございますが、いかがでございましょう。お宿を願いましても差支えはないでございましょうか。いくらか覚悟はして参りましたが、目まのあたりお話を伺いましては、ちと二の足でございますが。﹂
﹁一人でも客がありますと、それだけ鶴谷では喜びますそうです。持主の本宅が喜びますものを、誰に御遠慮が入いりますものですか。私もお連つれがあって、どんなに嬉しいか知れません。﹂
﹁そりゃ、鶴谷殿はじめ、貴下の思召しはさように難あり有がとうございましても、別にその……ええ、まず、持主が鶴谷としますと、この空屋敷の御支配でございますな、――その何とも異様な、あの、その、﹂
﹁それは私も御同然です。人の住むのが気に入らないので荒れるのだろうと思いますが。
そこなんです、貴あな僧た。逆さからいさえしませんければ、畳も行あん燈どうも何事もないのですもの。戸障子に不意に火が附いてそこいらめらめら燃えあがる事がありましても、慌てて消す処は破れ、水を掛けた処は濡れますが、それなりの処は、後で見ますと濡れた様子もないのですから。
座敷だっていくらもあります、貴僧、﹂
とふと心づいたように、
﹁御一所でお煩うるさければ、隣のお座敷へいらっしゃい。何か正体を見届けようなぞと云っては不い可けませんが、鶴谷が許したお客僧が、何も御遠慮には及びません。
ただすらりと開かないで、何かが圧おさえてでもいるようでしたら、お見合せなさいまし。逆さからうと悪いんですから。﹂
二十八
﹁なかなか、逆らいますどころではございません、座敷好みなんぞして可いいものでございますか。
あの襖ふすまを振向いて熟じっと視みろ、とおっしゃったって、容易にゃそちらも向けません次第で、御覧の通り、早や固くなっております。
お話につけて申しますが、実は手前もこの黒門を潜くぐりました時は、草に支つかえて、しばらく足が出ませんでございました。
それと申すが、まず庭口と思う処で、キリキリトーンと、余程その大おお轆ろく轤ろの、刎はね釣つる瓶べを汲くみ上あげますような音がいたす。
もっとも曰いわくづきの邸やしきながら、貴あな下たお一方はまずともかくもいらっしゃる。人が住めば水も要ろうで、何も釣瓶の音が不思議と云うでは、道理上、こりゃ無いのでありまするが、婆さんに聞きました心ここ積ろづもり、学生の方が自炊をしてお在いでと云えば、土瓶か徳とっ利くりに汲んで事は足りる、と何となく思ってでもおりましたせいか、そのどうも水を汲む音が、馴なれた女おな中ごし衆ゅでありそうに思われました。
ト台所の方を、どうやら嫋すら娜りとした、脊の高い御婦人が、黄たそ昏がれに忙しい裾すそ捌さばきで通られたような、ものの気けは勢いもございます。
何となく賑にぎやかな様子が、七輪に、晩のお菜かずでもふつふつ煮えていようという、豆腐屋さ――ん、と町方ならば呼ぶ声のしそうな様子で。
さては婆さんに試されたか、と一いっ旦たんは存じましたが、こう笠を傾けて遠くから覗のぞ込きこみました、勝手口の戸からかけて、棟へ、高く烏から瓜すうりの一杯にからんだ工ぐあ合いが、何様、何ヶ月も閉しめ切きりらしい。
ござったかな、と思いながら、擽くすぐったいような御門内の草を、密そっと蹈ふんで入りますと、春さきはさぞ綺きれ麗いでございましょう。一面に紫げ雲ん英げが生えた、その葉の中へ伝わって、断きれ々ぎれながら、一ひと条すじ、蒼あおずんだ明るい色のものが、這はったように浮いたように落ちています。上へさした森の枝を、月が漏る影に相違は無さそうなが、何となく婦人の黒髪、その、丈長く、足あし許もとに光るようで。
変に跨またぎ心地が悪うございますから、避よけて通ろうといたしますと、右の薄光りの影の先を、ころころと何か転げる、たちまち顔が露あらわれたようでございましたっけ、熟よく見ると、兎うさぎなんで。
ところでその蛇のような光る影も、向むきかわって、また私わたくしの出でさ途きへ映りましたが、兎はくるくると寝転びながら、草の上を見附けの式台の方へ参る。
これが反あべ対こべだと、旧もとの潜くぐ門りもんへ押出されます処でございました。強いて入りますほどの度胸はないので。
式台前で、私はまず挨あい拶さつをいたしたでございます。
主ぬしもおわさば聞きこし召せ、かくの通りの青道心。何を頼みに得とく脱だつ成じょ仏うぶつの回えこ向ういたそう。何を力に、退散の呪じゅ詛そを申そう。御おん姿すがたを見せたまわば偏ひとえに礼拝を仕つかまつる。世にかくれます神ならば、念仏の外他言はいたさぬ。平に一夜、御おす住ま居いの筵むしろ一枚を貸したまわれ……﹂
――旅僧はその時、南なむ無ぶ仏つと唱えながら、漣ささなみのごとき杉の木目の式台に立向い、かく誓って合掌して、やがて笠を脱いで一いち揖ゆうしたのであった。――
﹁それから、婆さんに聞きました通り、壊れ壊れの竹垣について手探りに木戸を押しますと、直ぐに開あきましたから、頻しきりに前さっ刻きの、あの、えへん！えへん！咳せきばらいをしながら――酷ひどくなっておりますな――芝生を伝わって、夥おびただしい白おし粉ろいの花の中を、これへ。お縁側からお邪魔をしたしました。
あの白粉の花は見事です。ちらちら紅べに色のが交って、咲いていますが、それにさえ、貴あな方た、法ころ衣もの袖の障さわるのは、と身から体だをすぼめて来ましたが、今も移うつ香りががして、憚はばかり多い。
もと花畑であったのが荒れましたろうか。中に一本、見上げるような丈のびた山百合の白いのが、うつむいて咲いていました。いや、それにもまた慄ぞ然っとしたほどでございますから。
何事がございましょうとも、自力を頼んで、どうのこうの、と申すようなことは夢にも考えておりません。
しかし貴あな下たは、唯今うけたまわりましたような可おそ怖ろしい只ただ中なかに、よく御辛抱なさいます、実に大胆でおいでなさる。﹂
﹁私くらい臆おく病びょうなものはありません。……臆病で仕方がないから、なるがまかせに、抵抗しないで、自由になっているのです。﹂
﹁さあ、そこでございます。それを伺いたいのが何より目めあ的てで参りましたが、何か、その御研究でもなさりたい思おぼ召しめしで。﹂
﹁どういたしまして、私の方が研究をされていても、こちらで研究なんぞ思いも寄らんのです。﹂
﹁それでは、外に、﹂
﹁ええ、望み――と申しますと、まだ我ががあります。実は願事があって、ここにこうして、参さん籠ろう、通夜をしておりますようなものです。﹂
二十九
﹁それが貴あな僧た、前さっ刻きお話をしかけました、あの手てま毬りの事なんです。﹂
﹁ああ、その手毬が、もう一度御覧なさりたいので。﹂
﹁いいえ、手毬の歌が聞きたいのです。﹂
と、うっとりと云った目の涼しさ。月の夢を見るようなれば、変った望み、と疑いの、胸に起る雲消えて、僧は一ひと膝ひざ進めたのである。
﹁大空の雲を当てにいずことなく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿って、国々を歩あ行るきますのも、詮せんずる処、ある意味の手毬唄を……﹂
﹁手毬唄を。……いかがな次第でございます。﹂
﹁夢とも、現うつつとも、幻とも……目に見えるようで、口には謂いえぬ――そして、優しい、懐なつかしい、あわれな、情のある、愛の籠こもった、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、悚ぞ然っとする、胸を掻かきるような、あの、恍うっ惚とりとなるような、まあ例えて言えば、芳かんばしい清らかな乳を含みながら、生れない前さきに腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の――唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧あこ憬がれて、それを聞きたいと思いますんです。﹂
この数分時の言ことばの中うちに、小次郎法師は、生れて以来、聞いただけの、風と水と、鐘の音、楽、あらゆる人の声、虫の音ね、木この葉の囁ささやきまで、稲妻のごとく胸の裡うちに繰返し、なおかつ覚えただけの経文を、颯さっと金こん字じ紺こん泥でいに瞳に描いて試みたが、それかと思うのは更に分らぬ。
﹁して、その唄は、貴あな下たお聞きになったことがございましょうか。﹂
﹁小こど児もの時に、亡くなった母親が唄いましたことを、物心覚えた最後の記憶に留めただけで、どういうのか、その文句を忘れたんです。
年を取るに従うて、まるで貴あな僧た、物語で見る切ない恋のように、その声、その唄が聞きたくッてなりません。
東京のある学校を卒で業ますのを待まちかねて、故郷へ帰って、心当りの人に尋ねましたが、誰のを聞いても、どんなに尋ねても、それと思うのが分らんのです。
第一、母親の姉ですが、私の学資の世話をしてくれます、叔母がそれを知りません。
ト夢のように心着いたのは、同おな一じ町に三人あった、同おな一じ年ごろの娘です。
（産んだその子が男の児 なら、
京へ上 ぼせて狂言させて、
寺へ上ぼせて手習 させて、
寺の和尚が、
道楽和尚で、
高い縁から突落されて、
笄 落し
小枕 落し、）
京へ
寺へ上ぼせて
寺の和尚が、
道楽和尚で、
高い縁から突落されて、
と、よく私を遊ばせながら、母も少わかかった、その娘たちと、毬も突き、追おい羽は子ごもした事を現うつつのように思出しましたから、それを捜せば、きっと誰か知っているだろう、と気の着いた夜よな半かには、むっくりと起きて、嬉しさに雀こお躍どりをしたんですが、貴あな僧た、その中うちの一人は、まだ母の存命の内に、雛ひな祭の夜なくなりました。それは私も知っている――
一人は行方が知れない、と言います……
やっと一人、これは、県の学校の校長さんの処へ縁づいているという。まず可よし、と早速訪ねて参りましたが、町はずれの侍町、小こな流がれがあって板塀続きの、邸ごとに、むかし植えた紅梅が沢山あります。まだその古ふる樹きがちらほら残って、真まっ盛さかりの、朧おぼ月ろづ夜きよの事でした。
今貴あな僧たがここへいらっしゃる玄関前で、紫げ雲ん英げの草を潜くぐる兎を見たとおっしゃいました、﹂
﹁いや、肝心のお話の中うちへ、お交ぜ下すっては困ります。そうは見えましたものの、まさかかような処へ。あるいはその……猫であったかも知れません。﹂
﹁背うし後ろが直ぐ山ですから、ちょいちょい見えますそうです、兎でしょう。
が、似た事のありますものです――その時は小こい狗ぬでした。鈴がついておりましたっけ。白む垢くの真まっ白しろなのが、ころころと仰あお向むけに手をじゃれながら足あし許もとを転がって行ゆきます。夢のようにそのあとへついて、やがて門札を見ると指した家で。
まさか奥おく様さんに、とも言えませんから、主人に逢って、――意中を話しますと――
︵夜やち中ゅう何事です。人を馬鹿にした。奥は病気だからお目には懸かかれません。︶
と云って厭いやな顔をしました。夫人が評判の美人だけに、校長さんは大した嫉妬深いという事で。﹂
三十
﹁叔母がつくづく意見をしました。︵はじめから彼あす家こへ行ゆくと聞いたら遣やるのじゃなかった――黙っておいでだから何にも知らずに悪い事をしたよ。さきじゃ幼おさ馴なな染じみだと思います、手毬唄を聞くなぞ、となおよくない、そんな事が世間へ通るかい、︶とこうです。
母親の友達を尋ねるに、色気の嫌疑はおかしい、と聞いて見ると、何なあに、女の児こはませています、それに紅あかい手てが絡らで、美しい髪なぞ結って、容かたちづくっているから可いい姉さんだ、と幼おさ心なごころに思ったのが、二つ違い、一つ上、亡くなったのが二つ上で、その奥さんは一ツ上のだそうで、行方の知れないのは、分らないそうでした。
事が面倒になりましてね、その夫人の親里から、叔母の家へ使つかいが来て、娘御は何も唄なんか御存じないそうで、ええ、世間体がございますから以来は、と苦り切って帰りました。
勿論病気でも何でもなかったそうです。
一月ばかり経たって、細かに、いろいろと手毬唄、子守唄、童わらべ唄なんぞ、百幾つというもの、綺麗に美しく、細こま々ごまとかいた、文が来ました。
しまいへ、紅べにで、
――嫁入りの果敢 なさを唄いしが唄の中にも沢山におわしまし候――
と、だけ記してありました。……
唯ただ今いまも大切にして持ってはいますが、勿論、その中に、私の望みの、母の声のはありません。
さあ、もう一人……行方の知れない方ですが……
またこれが貴あな僧た、家を越したとか、遠国へ行ったとかいうのなら、いくらか手懸りもあるし、何の不思議もないのですが、俗に申します、神がくしに逢ったんで、叔母はじめ固くそう信じております。
名は菖あや蒲めと言いました。
一体その娘の家は、母おや娘こ二人、どっちの乳母か、媼ばあさんが一人、と母おや子こだけのしもた屋で、しかし立派な住すま居いでした。その母おふ親くろというのは、私は小こど児も心に、ただ歯を染めていたのと、鼻筋の通った、こう面長な、そして帯の結むす目びめを長く、下した襲がさねか、蹴け出だしか、褄つまをぞろりと着崩して、日の暮方には、時々薄暗い門かどに立って、町から見えます、山の方を視ながめては悄しょ然んぼり彳たたずんでいたのだけ幽かすかに覚えているんですが、人の妾めかけだとも云うし、本妻だとも云う、どこかの藩候の落おと胤しだねだとも云って、ちっとも素性が分りません。
娘は、別に異かわったこともありませんが、容きり色ょうは三人の中うちで一番佳よかった――そう思うと、今でも目めさ前きに見えますが。
その娘です、余よ所そへは遊びに来ましたけれど、誰も友達を、自分の内へ連れて行った事はありませんでした。
寄合って、遊あそ事びごとを。これからおもしろくなろうという時、不意に母おっかさんがお呼びだ、とその媼さんが出て来て引ひっ張ぱって帰ることが度々で、急に居なくなる、跡の寂しさと云ったらありません。――先せんの内は、自分でもいやいや引ひっ立たてられるようにして帰り帰りしたものですが、一ツは人の許とこへ自分は来て、我が家うちへ誰も呼ばない、という遠慮か、妙な時ふと立っちゃ、独ひとりで帰ってしまうことがいくらもあったんです。
ですから何だかその娘ばかりは、思うように遊べない、勝手に誘われない、自由にはならない処から、遠いが花の香とか云います。余計に私なんざ懐なつかしくって、︵菖あやちゃんお遊びな︶が言えないから、合図の石をかちかち叩いては、その家の前を通ったもんでした。
それが一ある晩ばん、真夜中に、十畳の座敷を閉め切ったままで、どこかへ姿をかくしたそうで。
丑うし年の事だから、と私が唄を聞きたさに、尋ねた時分……今から何年前だろう、と叔母が指を折りましたっけ……多しば年らくになりますが。﹂
三十一
﹁故郷では、未婚の女が、丑年の丑の日に、衣きものを清め、身を清め……﹂
唾つばをのんで聞いた客僧が、
﹁成程、﹂
と腕組みして、
﹁精進潔斎。﹂
﹁そんな大した、﹂
と言消したが、また打うち頷うなずき
﹁どうせ娘の子のする事です。そうまでも行ゆきますまいが、髪を洗って、湯に入って、そしてその洗あら髪いがみを櫛くし巻まきに結んで、笄こうがいなしに、紅べにばかり薄くつけるのだそうです。
それから、十畳敷を閉しめ込こんで、床の間をうしろに、どこか、壁へ向いて、そこへ婦おんなの魂を据える、鏡です。
丑うし童どう子じ、斑まだらの御おん神かみ、と、一心に念じて、傍わき目めも触ふらないで、瞻みつめていると、その丑の年丑の月丑の日の……丑うし時どきになると、その鏡に、……前世から定まった縁の人の姿が見える、という伝説があります。
娘は、誰も勝手を知らない、その家で、その丑うし待まちを独ひとりでして、何かに誘われてふらふらと出たんですって。……それっきりになっているんですもの。
手のつけようがありますまい。
いよいよとなると、なお聞きたい、それさえ聞いたら、亡くなった母親の顔も見えよう、とあせり出して、山寺にありました、母の墓を揺ゆすぶって、記しるしの松に耳をあてて聞きました、松風の声ばかり。
その山寺の森をくぐって、里に落ちます清水の、麓ふもとに玉散る石を噛かんで、この歯音せよ、この舌歌へ、と念じても、戦おののくばかりで声が出ない。
うわの空で居たせいか、一日、山路みちで怪け我がをして、足を挫くじいて寝ることになりました。ざっとこれがために、半月悩んで、ようよう杖を突いて散歩が出来るようになりますと、籠かごを出た鳥のように、町を、山の方へ、ひょいひょいと杖つえで飛んで、いや不ぶか恰っこ好うな蛙です――両側は家続きで、ちょうど大おお崩くず壊れの、あの街道を見るように、なぞえに前ゆく途てへ高くなる――突当りが撞しゅ木もく形がたになって、そこがまた通とお街りなんです。私が貴あな僧た、自分の町をやがてその九分ぐらいな処まで参った時に、向うの縦通りを、向って左の方から来て、こちらへ曲りそうにしたが、白地の浴衣を着てそこに立った私の姿を見ると、フト立たち停どまった美人があります。
扮みな装りなぞは気がつかず、洋か傘さは持っていたようでしたっけ、それを翳さしていたか、畳んだのを支ついていたか、判はっ然きりしないが、ああ似たような、と思ったのは、その行方が分らんという一人。
トむこうでも莞にっ爾こりしました……
そこへ笠を深くかぶった、草わら鞋じ穿ばきの、猟かり人ゅう体どていの大おお漢おとこが、鉄てっ砲ぽうの銃つつ先さきへ浅あさ葱ぎの小旗を結えつけたのを肩にして、鉄の鎖をずらりと曳ひいたのに、大熊を一頭、のさのさと曳いて出ました。
山を上に見て、正まと的もに町と町が附くっついた三みつ辻つじの、その附つけ根ねの処を、横に切って、左角の土蔵の前から、右の角が、菓子屋の、その葦よし簀ずの張はり出だしまで、わずか二間ばかりの間あいを通ったんですから、のさりと行ゆくのも、ほんのしばらく。
熊の背せなかが、彳たたずんだ婦おん人なの乳ちのあたりへ、黒雲のようにかかると、それにつれて、一所に横向きになって歩あ行るき出しました。あとへぞろぞろ大勢小こど児もが……国では珍らしい獣けものだからでしょう。
右の方へかくれたから、角へ出て見ようと、急いそ足ぎあしに出よう、とすると、馴なれない跛びっこですから、腕へ台についた杖を忘れて、躓つまずいて、のめったので、生なま爪づめをはがしたのです。
しばらく立てませんでした。
かれこれして、出て見ると、もうどこへ行ったか影も形もない。
その後、旅行をして諸国を歩あ行るくのに、越前の木この芽峠の麓ふもとで見かけた、炭を背し負ょった女だの、碓うす氷いを越す時汽車の窓からちらりと見ました、隧トン道ネルを出て、衝つと隧道を入る間の茶店に、うしろ向きの女むすめだの、都みやこでは矢のように行過ぎる馬車の中などに、それか、と思うのは幾たびも見かけたんですが……その熊の時のほど、印象のよく明瞭に今まで残ってるのは無いのです。
内へ帰って、
（美しき君の姿は、
熊に取られた。
町の角で、町の角で――
跛ひきひき追えど及ばぬ。）
熊に取られた。
町の角で、町の角で――
跛ひきひき追えど及ばぬ。）
もしや手毬唄の中に、こういうのは無かったでしょうか、と叔母にその話をすると、真まび日な中かにそんなものを視みて、そんなことを云う貴あな下たは、身から体だが弱いのです。当分外へは出てはなりません、と外出禁きん制ぜい。
以前は、その形で、正真正銘の熊の胆い、と海を渡って売りに来たものがあるそうだけれど、今時はついぞ見懸けぬ、と後での話。……﹂
三十二
﹁日が経たってから、叔母が私の枕まく許らもとで、さまでに思詰めたものなら、保養かたがた、思う処へ旅行して、その唄を誰かに聞け。
︵妹の声は私も聞きたい。︶
と、手てば函この金か子ねを授けました。今もって叔母が貢いでくれるんです。
国を出て、足かけ五年！
津々浦々、都、村、里、どこを聞いても、あこがれる唄はない。似たのはあっても、その後か、その前さきか、中途か、あるいはその空間か、どこかに望みの声がありそうだな……と思うばかり。また小こど児もたちも、手毬が下手になったので、終しまいまで突き得ないから、自然長いのは半分ほどで消えています。
とても尋常ではいかん、と思って、もうただ、その一人行方の知れない、稚おさなともだちばかり、矢も楯たても堪たまらず逢いたくなって来たんですが、魔にとられたと言うんですもの。高たか峰ねへかかる雲を見ては、蔦つたをたよりに縋すがりたし、湖うみを渡る霧を見ては、落葉に乗っても、追いつきたい。巌いわ穴あなの底も極めたければ、滝の裏も覗のぞきたし、何か前世の因縁で、めぐり逢う事もあろうか、と奥山の庚こう申しん塚づかに一人立って、二十六夜の月の出を待った事さえあるんです。
トこの間――名も嬉しい常とこ夏なつの咲いた霞川と云う秋谷の小川で、綺麗な手毬を拾いました。
宰八に聞いた、あの、嘉吉とか云う男に、緑色の珠を与えて、月つき明あかりの村雨の中を山路へかかって、
（ここはどこの細道じゃ、
細道じゃ。
天神様の細道じゃ、
細道じゃ。）
細道じゃ。
天神様の細道じゃ、
細道じゃ。）
と童謡を口くち吟ずさんで通ったと云うだけで、早やその声が聞こえるようで、﹂
僧は魅入られたごとくに見えたが、溜ため息いきを吻ほっと吐つき、
﹁まずおめでたい、ではその唄が知れましたか。﹂
﹁どうして唄は知れませんが、声だけは、どうやらその人……いいえ、……そのものであるらしい。この手毬を弄もてあそぶのは、確たしかにその婦おん人なであろう。その婦人は何となく、この空あき邸やしきに姿が見えるように思われます。……むしろ私はそう信じています。
爺さんに強ね請だって、ここを一室ま借りましたが、借りた日にはもう其の手毬を取返され――私は取返されたと思うんですね――美しく気高い、その婦おん人なの心では、私のようなものに拾わせるのではなかったでしょう。
あるいはこれを、小川の裾すその秋谷明神へ届けるのであったかも分らない。そうすると、名所だ、と云う、浦の、あの、子産石をこぼれる石は、以来手毬の糸が染まって、五彩燦さん爛らんとして迸ほとばしる。この色が、紫に、緑に、紺こん青じょうに、藍らん碧ぺきに波を射て、太平洋へ月夜の虹にじを敷いたのであろうも計られません、﹂
とまた恍うっ惚とりとなったが、頸うなじを垂れて、
﹁その祟たたり、その罪です。このすべての怪異は。――自分の慾よくのために、自分の恋のために、途中でその手毬を拾った罰だろう、と思う、思うんです。
祟らば祟れ！飽くまでも初一念を貫いて、その唄を聞かねば置かない。
心の迷まよいか知れませんが。目まのあたり見ます、怪しさも、凄すごさも、もしや、それが望みの唄を、何なん人ぴとかが暗示するのであろうも知れん、と思って、こうその口ずさんで見るんです――行あん燈どうが宙へ浮きましょう。
︵美しき君の姿は、
萌もえ黄ぎの蚊帳を、
蚊帳のまわりを、姿はなしに、
通る行あん燈どの俤おもかげや。︶……
（美しき君の庵 は、［＃底本では冒頭に「（」なし］
前の畑に影さして、
棟の草も露に濡れつつ、
月の桂 が茅屋 にかかる。）……
ちっとも似てはおらんのです。屋根で前の畑に影さして、
棟の草も露に濡れつつ、
月の
（屋根で鵝鳥の鳴き叫ぶ、
板戸に駒 の影がさす。）
板戸に
と、現うつつにも、絶えず耳に聞きますけれど、それだと心は頷うなずきません。
いかなる事も堪忍んで、どうぞその唄を聞きたい、とこうして参籠をしているんですが、祟たたりならばよし罪は厭いとわん、﹂
と激しく言いつつ、心づいて、悄しょ然うぜんとして僧を見た。
﹁ただその、手毬を取返したのは、唄は教えない、という宣告じゃあなかろうか、とそう思うと情なさけない。
ああ、お話が八やち岐またになって、手毬は……そうです。天井から猫が落ちます以前、私が縁側へ一人で坐っています処へ、あの白おし粉ろいの花の蔭から、芋ずい※き﹇＃﹁くさかんむり／更﹂、221-3﹈の葉を顔に当てた小こど児もが三人、ちょろちょろと出て来て、不思議そうに私を見ながら、犬ころがなつくように傍そばへ寄ると、縁側から覗のぞ込きこんで、手毬を見つけて、三人でうなずき合って、
︵それをおくれ。︶と言います。
︵お前たちのか。︶
と聞くと、頭かぶりを掉ふるから、
︵じゃ、小お父じさんのだ。︶と言うと、男が毬を、という調子に、
︵わはは︶と笑って、それなりに、ちらちらとどこかへ取って行ったんでした。﹂――
三十三
﹁何、私わしがうわさしていさっせえた処だって……はあ、お前めえ様さま二人でかね。﹂
どッこいしょ、と立ったまま、広縁が高いから、背し負ょって来た風呂敷包は、腰ぎりにちょうど乗る。
﹁だら、可いいけんども、﹂
と結むす目びめを解とき下おろして、
﹁天井裏でうわさべいされちゃ堪たまんねえだ。﹂
と声を密ひそめたが、宰八は直ぐ高調子、
﹁いんね、私わし一人じゃござりましねえ。喜十郎様が許とこの仁右衛門の苦にが虫むしと、学校の先生ちゅが、同士にはい、門もん前まえまで来っけえがの。
あの、樹の下の、暗え中へ頭突つッ込こんだと思わっせえまし、お前様、苦虫の親おや仁じが年とし効がいもねえ、新しん造ぞっ子こが抱着かれたように、キャアと云うだ。﹂
﹁どうしたんです。﹂
﹁何かまた、﹂
と、僧も夜具包の上から伸上って顔を出した。
宰八紅あか顱はち巻まきをかなぐって、
﹁こりゃ、はい、御坊様御免なせえまし。御本家からも宜よろしくでござりやす。いずれ喜十郎様お目に懸かかりますだが、まず緩ゆっくりと休まっしゃりましとよ。
私わしこういうぞんざいもんだで、お辞儀の仕様もねえ。婆様がよッくハイ御挨拶しろと云うてね、お前様旨うまがらしっけえ、団子をことづけて寄よ越こしやした。茶ちゃ受うけにさっしゃりやし。あとで私が蚊いぶしを才覚しながら、ぶつぶつ渋茶を煮立てますべい。
それよりか、お前様、腹アすかっしゃったろうと思うで、御本家からまた重詰めにして寄越さしった、そいつをぶら下げながら苦虫が、右のお前様、キャアでけつかる。
門外の草原を、まるで川の瀬さ渡るように、三人がふらふらよちよち、モノ小半時かかったが、芸もねえ、えら遅くなって済まんしねえ。﹂
﹁何とも御苦労、﹂
と僧は慇いん懃ぎんに頭つむりをさげる。
﹁その人たちは、どうしたのかね。﹂
と明が尋ねた。
﹁はい、それさ、そのキャアだから、お前様、どうした仁右衛門と、云うと、苦虫が、面つらさ渋くして、︵ああ、厭いやなものを見た。おらが鼻の尖さきを、ひいらひいら、あの生なま白ちらけた芋の葉の長なが面づらが、ニタニタ笑えながら横に飛んだ。精霊棚の瓢ひょ箪うたんが、ひとりでにぽたりと落ちても、御先祖の戒いましめとは思わねえで、酒も留やめねえ己おらだけんど、それにゃ蔓つるが枯れたちゅう道理がある。風もねえに芋の葉が宙を歩あ行るくわけはねえ。ああ、厭だ、総毛立つ、内へ帰って夜具を被かぶって、ずッしり汗でも取らねえでは、煩いそうに頭も重い。︶
と縮すくむだね。
例いつもの小こど児もが駆出したろう、とそう言うと、なお悪い。あの声を聞くと堪たまらねえ。あれ、あれ、石を鳴らすのが、谷や戸とに響く。時刻も七ツじゃ、と蒼あおくなって、風呂敷包打ぶち置おいて、ひょろひょろ帰るだ。
先生様、ではお前様、その重箱を提げてくれさっせえ、と私わしが頼むとね。
︵厭だ、︶と云っけい。
︵はてね、なぜでがす。︶
ここさ、お客様の前めえだけんど、気にかけて下せえますなよ。
︵軍歌でもやるならまだの事、子守や手毬唄なんかひねくる様な奴やつの、弁当持って堪るものか。︶
と吐こくでねえか。
奴は朋とも友だちに聞いた、と云うだが、いずれ怪ばけ物もの退治に来た連中からだんべい。
お客様何でがすか、お前様、子守唄拵こさえさっしゃるかね。袋戸棚の障子へ、書いたもの貼はっとかっしゃるのは、もの、それかね。﹂
明は恥じたる色があった。
﹁こしらえるのじゃない、聞いたのを書き留めて置くんです。数があって忘れるから、﹂
﹁はあ、私わしはまた、こんな恐おっ怖かねえ処とこに落着いていさっしゃるお前様だ。
怨おん敵てき退散の貼はり御ごふ符うかと思ったが。
何か、ハイ、わけは分わかンねえがね、悪く言ったのがグッと癪しゃくに障さわったで、
︵なら可ようがす、客人のものは持ってもれえますめえ、が、お前様、学校の先生様だ。可よし、私あハイ、何も教えちゃもらわねえだで、師匠じゃねえ、同士に歩あ行るくだら朋とも達だちだっぺい。蟹の宰八が手ンぼうの助力さっせえ。︶
と極きめつけたさ。
帽子の下で目を据えたよ。
︵貴様のような友達は持たん、失敬な。︶と云って引返したわ。何か託かこつけ、根は臆病で遁にげただよ。見さっせえ、韋いだ駄て天んのように木の下を駆出し、川べりの遠くへ行く仁右衛門親仁を、
︵おおい、おおい、︶
と茶番の定さだ九くろ郎うを極きめやあがる。﹂
三十四
その夜に限って何事もなく、静かに。……寝ようという時、初夜過ぎた。
宰八が手てし燭ょくに送られて、広縁を折曲って、遥はるかに廻廊を通った僧は、雨戸の並木を越えたようで、故ふる郷さとには蚊帳を釣って、一人寂しく友が待つ思おもいがある。
﹁ここかい。﹂
﹁それを左へ開けさっせえまし、入口の板敷から二ツ目のが、男が立って遣やるのでがす。行抜けに北の縁側へも出られますで、お前めえ様さま帰りがけに取違えてはなんねえだよ。
二三年この方、向うへは誰も通抜けた事がねえで、当節柄じゃ、迷込んではどこへ行くか、ハイ方角が着きましねえ。﹂
﹁もう分りましたよ。﹂
﹁可よかあねえ、私わし、ここに待っとるで、燈あかりをたよりに出て来さっせえ。
私も、この障子の多いかいこと続いたのに、めらめら破れのある工ぐあ合いが、ハイ一ツ一ツ白しゃ髑れか髏うべのようで、一人で立ってる気はしねえけんど、お前様が坊様だけに気丈夫だ。えら茶話がもてて、何度も土瓶をかわかしたで、入いれかわって私もやらかしますべいに、待ってるだよ。﹂
僧は戸を開けながら、と、声をかけて、
﹁御免下さい。﹂
と、ぴたりと閉めた。
﹁あ、あ、気味の悪い。誰に挨あい拶さつさっせるだ。南な無む阿あ弥み陀だ仏ぶ、南無阿弥陀仏。はて、急に変なことを考えたぞ﹇＃﹁考えたぞ﹂は底本では﹁考えだぞ﹂﹈。そこさ一面の障子の破れ覗のぞいたら何が見えべい――南な無ん阿ま弥い陀だ仏、ああ、南無阿弥陀仏、……やあ、蝋ろう燭そくがひらひらする、どこから風が吹いて来るだ。これえ消したが最後、立たち処どころに六道の辻に迷うだて。南な無ん阿ま弥い陀だ仏、御坊様、まだかね。﹂
﹁ちょいと、﹂
﹁ひゃあ、﹂
僧は半ば開いて、中に鼠の法ころ衣もで立ちつつ、
﹁ちょいと燭あかりを見せておくれ。﹂
﹁ええ、お前様、前さきへ戸を開けておいてから何か言わっしゃれば可いい。板戸が音おん声じょうを発したか、と吃びっ驚くりしただ、はあ、何だね。﹂
﹁入口の、この出窓の下に、手ちょ水うず鉢があったのを、入りしなに見ておいたが、広いので暗くて分らなくなりました。﹂
﹁ああ、手、洗わっしゃるのかね、﹂
と手燭ばかりを、ずいと出して、
﹁鉢前にゃ、夜よが明けたら見さっせえまし、大した唐から銅かねの手水鉢の、この邸さ曳ひいて来る時分に牛一頭かかった、見事なのがあるけんど、今開ける気はしましねえ。……﹂
ええ、そよら、そよらと風だ。
そ、その鉢にゃ水があれば可いいがね、無くば座敷まで我慢さっせえまし、土瓶の残のこりを注かけて進ぜる。﹂
﹁あります、あります。﹂
ざっと音をさして、
﹁冷い美しい水が、満なみ々なみとありますよ。﹂
﹁嘘を吐つくもんでェねえ。なに美うつくしい水があんべい。井戸の水は真まっ蒼さおで、小川の水は白濁りだ。﹂
﹁じゃあ燭あかりで見るせいだろうか、﹂
﹁そして、はあ、何なみなみとあるもんだ。﹂
﹁いいえ、縁ふち切きりこぼれるようだよ。ああ、葉越さんは綺麗好きだと見える。真まっ白しろな手てぬ拭ぐいが、﹂
と言いかけてしばらく黙った。
今年より卯月 八日は吉日よ
尾長 蛆虫 成敗ぞする
﹁ここに倒さかさまにはってあるのは、これは誰どな方たがお書きなすった、﹂
﹁……南な無ま阿い弥だ陀仏、南無阿弥陀仏……﹂
﹁ああ、佳いいおてだ。﹂
と大和尚のように落着いて、大おおきく言ったが、やがてちと慌あわただしげに小さな坊さまになって急いで出た。
﹁ええ、疾はやく出さっせえ、私わしもう押おっ堪こらえて、座敷から庭へ出て用たすべい。﹂
﹁ほんとに誰が書いたんだね、女の手だが、﹂
と掛手拭を賞ほめた癖に、薄汚れた畳んだのを自分の袂たもとから出している。
﹁南な無ん阿ま弥い陀だ仏ぶ、ソ、それは、それ、この次の、次の、小座敷で亡くならしっけえ、どっかの嬢様が書いて貼はっただとよ、直じきそこだ、今ソンな事あどうでも可ええ。頭から、慄ぞ然っとするだに、﹂
﹁そうかい、ああ私も今、手を拭ふこうとすると、真新しい切きり立たての掛手拭が、冷く濡れていたのでヒヤリとした。﹂
﹁や、﹂と横飛びにどたりと踏んだが、その跫あし音おとを忍びたそうに、腰を浮かせて、同おな一じ処を蹌う踉ろ蹌う踉ろする。
三十五
﹁そうふらふらさしちゃ燈あかりが消えます。貸しなさい、私がその手てし燭ょくを持とうで。﹂
﹁頼んます、はい、どうぞお前めえ様さま持たっせえて、ついでにその法ころ衣も着さっせえ姿から、光明赫かく燿やくと願えてえだ。﹂
僧は燭を取って一足出たが、
﹁お爺さん、﹂
と呼んだのが、驚すわ破や事ありげに聞えたので、手んぼうならぬ手を引ひっ込こめ、不かた具わの方と同おな一じ処で、掌てのひらをあけながら、据すえ腰ごしで顔を見上げる、と皺しわ面づらばかりが燭の影に真まっ赤かになった。――この赤親仁と、青坊主が、廊下はずれに物言う状さまは、鬼が囁ささやくに異ならず。
﹁ええ、﹂
﹁どこか呻う吟めくような声がするよ。﹂
﹁芸もねえ、威おどかしてどうさっせる。﹂
﹁聞きなさい、それ……﹂
﹁う、う、う、﹂
と厭いやな声。
﹁爺さん、お前が呻吟くのかい。﹂
﹁いんね、﹂
と変な顔色で、鼻をしかめ、
﹁ふん、難産の呻うめ吟きご声えだ。はあ、御ごし新ん姐ぞが唸うならしっけえ、姑う獲ぶ鳥めになって鳴くだあよ。もの、奥の小座敷の方で聞えべいがね。﹂
﹁奥も小座敷も私は知らんが、障子の方ではないようだ、便所かな、﹂
﹁ひええ、今、お前様が入いらっしたばかりでねえかね、﹂
﹁されば、﹂
と斜めに聞澄まして、
﹁おお、庭だ、庭だ、雨戸の外だ。﹂
﹁はあ、﹂
と宰八も、聞定めて、吻ほっと息して、
﹁まず構かめ外えそとだ、この雨戸がハイ鉄壁だぞ。﹂と、ぐいと圧おさえてまた蹈ふん張ばり、
﹁野郎、入へえってみやがれ、野郎、活いき仏ぼとけさまが附いてござるだ。﹂
﹁仏ではなお打うっ棄ちゃっては措おかれない、人の声じゃ、お爺さん、明けて見よう、誰か苦くるしんでいるようだよ。﹂
﹁これ、静かにさっせえ、術てだ、術だてね。ものその術で、背し負ょ引びき出して、お前様天あた窓まから塩よ。私わしは手足い引ひん捩もいで、月夜蟹で肉みがねえ、と遣やろうとするだ。ほってもない、開けさっしゃるな。早く座敷へ行きますべい。﹂
﹁あれ、聞きなさい、助けてくれ……と云うではないか。﹂
﹁へ、疾はやいもんだ。人の気を引きくさる、坊様と知って慈悲で釣るだね、開けまいぞ。﹂
と云う時……判はっ然きり聞えたが、しわがれた声であった。
﹁助けてくれ……﹂
﹁…………﹂
﹁…………﹂
﹁宰八よう、﹂――
と、葎むぐらがくれに虫の声。
手てんぼう蟹がにふるえ上って、
﹁ひゃあ、苦虫が呼ぶ。﹂
﹁何、虫が呼ぶ？﹂
﹁ええ、仁に右え衛む門の声だ。南な無ん阿ま弥い陀だ仏、ソ、ソレ見さっせえ。宵に門もん前まえから遁にげ帰かえった親仁めが、今時分何しにここへ来るもんだ。見ろ、畜生、さ、さすが畜生の浅間しさに、そこまでは心着かねえ。へい、人間様だぞ。おのれ、荒神様がついてござる、猿さる智ぢ慧えだね、打うっ棄ちゃっておかっせえまし。﹂
と雨戸を離れて、肩を一つ揺ゆすって行ゆこうとする。広縁のはずれと覚しき彼かな方たへ、板敷を離るること二尺ばかり、消え残った燈とう籠ろうのような白しら紙かみがふらりと出て、真まっ四しか角くに、燈ともしびが歩あ行るき出した。
﹁はッあ、﹂
と退すさって、僧に背せなを摺すり寄よせながら、
﹁経文を唱えて下せえ、入って来たわ、南な無んまいだ、なんまいだ。﹂
僧も爪つま立だって、浮うき腰ごしに透かして見たが、
﹁行あん燈どうだよ、余り手間が取れるから、座敷から葉越さんが見においでだ。さあ、三人となると私も大きに心強い――ここは開あくかい。﹂
﹁ええ、これ、開けてはなんねえちゅうに、﹂
﹁だって、あれ、あれ、助けてくれ、と云うものを。鬼神に横道なし、と云う、情なさけに抵てむ抗かう刃やいばはない筈はず、﹂
枢くるるをかたかた、ぐっと、さるを上げて、ずずん、かたりと開ける、袖を絞って蔽おおい果さず、燈あかりは颯さっと夜風に消えた。が、吉野紙を蔽えるごとき、薄曇りの月の影を、隈くまある暗き葎むぐらの中、底を分け出でて、打傾いて、その光を宿している、目の前の飛石の上を、四よつに這はい廻まわるは、そもいかなるものぞ。
三十六
声を聞いたより形を見れば、なお確たし実かに、飛石を這って呻うめいていたのは、苦虫の仁右衛門であった。
月つき明あかりに、まさしくそれと認めが着くと、同おな一じ疑うたがいの中うちにもいくらか与くみ易しやすく思った処へ、明が行あん燈どうを提げて来たので、ますます力づいた宰八は、二人の指図に、思切って庭へ出たが、もうそれまでに漕こぎ着ければ、露に濡れる分は厭いとわぬ親仁。
さやさやと葎むぐらを分けて、おじいどうした、と摺すり寄よると、ああ、宰八か助けてくれ。この手を引ひっ張ぱって、と拝むがごとく指出した。左の腕かいなを、ぐい、と掴つかんで、獣けものにしては毛が少ねえ、おおおお正しょ真うじん正銘の仁右衛門だ、よく化けた、とまだそんな事を云いながら、肩にかけて引ひっ立たてると、飛石から離れるのが泥どろ田だを踏むような足取りで、せいせい呼い吸きを切って、しがみつくので、咽の喉どがしまる、と呟つぶやきながら、宰八も疾はやく埒らちを明けたさに、委細構わずずるずる引ひき摺ずって縁側に来る間に、明はもう一枚、雨戸を開けて待構えて、気分はどう？まあ、こちらへ、と手伝って引入れた、仁右衛門の右の手は、竹たけ槍やりを握っていたのである。
これは、と驚くと、仔しさ細いござります。水を一口、と云う舌も硬こわばり、唇は土気色。手首も冷たく只ひた戦わななきに戦くので、ともかく座敷へ連れよう……何しろ危いから、こういうものはと、竹槍は明が預る。
引ひっそいだ切きっ尖さきの鋭するどいのが、法ころ衣もの袖を掠かすったから、背うし後ろに立った僧は慌てて身を開いて、行燈は手前が、とこれが先へ立つ。
さあ負おぶされ、と蟹の甲を押向けると、いや、それには及ばぬ、と云った仁右衛門が、僧の裾すそを啣くわえた体ていに、膝で摺ずって縁側へ這はい上あがった。
あとへ、竹槍の青光りに艶のあるのを、柄長に取って、明が続く。
背うし後ろで雨戸を閉めかけて、おじい、腰が抜けたか、弱い男だ、とどうやら風かざ向むきが可よさそうなので、宰八が嘲あざけると、うんにゃ足の裏が血だらけじゃ、歩ある行くと痕あとがつく、と這いながら云ったので――イヤその音の夥おびただしさ。がらりと閉め棄てに、明の背せなへ飛とび縋すがった。――真まっ先さきへ行燈が、坊さまの裾﹇＃﹁裾﹂は底本では﹁据﹂﹈あたり宙を歩あ行るいて、血だらけだ、と云う苦虫が馬の這はい身み、竹槍が後しりえを圧おさえて、暗がりを蟹が通る。……広縁をこの体ていは、さてさて尋ただ常ご事とではない。
やがて座敷で介抱して、ようよう正気づくと、仁右衛門は四あた辺りをし、あまたたび口くち籠ごもりながら、相済みましねえ、お客様、御出家、宰八此こな方たにはなおの事、四十年来の知ちか己づきが、余り気心を知らんようで、面目もない次第じゃ。
御主人鶴谷様のこの別宅、近頃の怪しさ不思議さ。余りの事に、これは一ひと分別ある処と、三日二ふた夜よる、口も利かずにまじまじと勘考した。はて巧たくんだり！てっきりこいつ大おお詐かた欺りに極まった。汝うぬ等らが謀はかって、見事に妖ばけ物もの邸やしきにしおおせる。棄て置けば狐こ狸りの棲すみ処か、さもないまでも乞食の宿、焚たき火びの火沙ざ汰たも不用心、給金出しても人は住まず、持余しものになるのを見済まし、立腐れの柱を根こぎに、瓦屋根を踏倒して、股また倉ぐらへ掻かい込こむ算段、図星図星。しゃ！明神様の託おつ宣げ――と眼まな玉こだまで睨にらんで見れば、どうやら近頃から逗とう留りゅうした渡りものの書しょ生せっ坊ぽう、悪く優しげな顔つら色つきも、絵草子で見た自じら来い也やだぞ、盗賊の張本ござんなれ。晩方来うせた旅僧めも、その同類、茶店の婆ばばも怪しいわ。手引した宰八も抱込まれたに相違ない。道理こそ化物沙汰に輪を掛かける。待て待て狂きち人がいの真似何でもない事、嘉吉も一升飲まされた――巫ふ山ざ戯けた奴やつ等ら、どこだと思う。秋谷村には甘え柿と、苦虫あるを知んねえか、とわざと臆病に見せかけて、宵に遁にげたは真さな田だゆ幸きむ村ら、やがてもり返して盗どろ賊ぼうの巣を乗のっ取とる了りょ簡うけん。
いつものように黄たそ昏がれの軒をうろつく、嘉吉奴めを引ひっ捉とらえ、確しかと親元へ預け置いたは、屋根から天て蚕ぐ糸すに鉤はりをかけて、行燈を釣らせぬ分別。
かねて謀はか計りごとを喋しめ合しあわせた、同じく晩方遁にげる、と見せた、学校の訓導と、その筋の諜ちょ者うじゃを勤むる、狐きつ店ねみせの親方を誘うて、この三人、十分に支度をした。
二人は表門へ立向い、仁右衛門はただ一人、怪しきものは突殺そう。狸に化けた人間を打ぶち殺ころすに仔細はない、と竹槍を引ひっそばめて、木戸口から庭づたいに、月あかりを辿たどり辿り、雨戸をあてに近づいて、何か、手品の種がありはせぬか、と透かして屋根の周まわ囲りをぐるりと見ると。……
三十七
烏が一羽歴あり然ありと屋根に見えた。ああ、あの下辺あたりで、産婦が二人――定命とは思われぬ無残な死にようをしたと思うと、屋根の上に、姿が何やら。
この姿は、葎むぐらを分けて忍び寄ったはじめから、目めさ前きに朦もう朧ろうと映ったのであったが、立って丈長き葉に添うようでもあり、寝て根を潜くぐるようでもあるし、浮き上って葉はさ尖きを渡るようでもあった。で、大方仁右衛門自分の身から体だと、竹槍との組合せで、月つき明あかりには、そんな影が出来たのだろう、と怪しまなかったが、その姿が、ふと屋根の上に移ったので。
ト見ると、肩のあたりの、すらすらと優やさしいのが、いかに月に描き直されたればとて、鍬くわを担いだ骨組にしては余りにしおらしい、と心着くと柳の腰。
その細腰を此こな方たへ、背を斜ななめにした裾すそが、脛はぎのあたりへ瓦かわらを敷いて、細くしなやかに掻かい込こんで、蹴け出だしたような褄つま先さきが、中空なれば遮るものなく、便たよりなさそうに、しかし軽かろく、軒の蜘く蛛もの囲いの大きなのに、はらりと乗って、水みず車ぐるまに霧が懸かかった風情に見える。背筋の靡なびく、頸えり許もとのほの白さは、月に預けて際立たぬ。その月影は朧おぼろながら、濃い黒髪は緑を束つかねて、森の影が雲かと落ちて、その俤おもかげをうらから包んだ、向うむきの、やや中空を仰いだ状さまで、二の腕の腹を此こな方たへ、雪のごとく白く見せて、静しずかに鬢びんの毛を撫なでていた。
白しら魚おの指の尖さきの、ちらちらと髪を潜くぐって動いたのも、思えば見えよう道理はないのに、てっきり耳が動いたようで。
驚す破わ、獣けだものか、人間か。いずれこの邸を踏倒そう屋根住ずま居いしてござる。おのれ、見ろ、と一足退すさって竹槍を引ひき扱しごき、鳥を差いた覚えの骨こつで、スーッ！突つき出だした得物の尖さきが、右の袖下を潜くぐるや否や、踏占めた足の裏で、ぐ、ぐ、ぐ、と声を出したものがある。
地つちが急に柔かく、ほんのりと暖かに、ふっくりと綿を踏んで、下へ沈みそうな心持。他たわ愛いなく膝節の崩れるのに驚いて、足を見る、と白おし粉ろいの花の上。
と思ったがそれは遠い。このふっくりした白いものは、南なむ無さん三ぼ宝う仰あお向むけに倒れた女の胸、膨らむ乳房の真まん中なかあたり、鳩みぞ尾おちを、土足で蹈ふんでいようでないか。
仁右衛門ぶるぶるとなり、据すえ眼まなこに熟じっと見た、白い咽のん喉どをのけ様ざまに、苦痛に反らして、黒髪を乱したが、唇を洩もる歯の白さ。草に鼻筋の通った顔は、忘れもせぬ鶴谷の嫁、初うい産ざんに世を去った御ごし新ん姐ぞである。
親仁は天あた窓まから氷を浴びた。
恐しさ、怪しさより、勿体なさに、慌てて踏んでいる足を除どけると、我知らず、片足が、またぐッと乗る。
うむ、と呻うめかれて、ハッと開くと、旧もとの足で踏みかける。顛てん倒どうして慌てるほど、身から体だのおしに重みがかかる、とその度に、ぐ、ぐ、と泣いて、口から垂だら々だらと血を吐くのが、咽の喉どに懸かかり、胸を染め、乳の下を颯さっと流れて、仁右衛門の蹠あしのうらに生なま暖あたたこう垂れかかる。
あッと腰を抜いて、手を支つくと、その黒髪を掻かい掴つかんだ。
御免なせえまし、御新姐様、御免なせえまし、と夢中ながら一心に詫びると、踏ふみ躪にじられる苦悩の中から、目を開いて、じろじろと見る瞳が動くと、口も動いて、莞にっ爾こりする、……その唇から血が流れる。
足は膠にかわで附けたよう。
同おな一じ処で蠢うごめく処へ、宰八の声が聞えたので、救たす助けを呼ぶさえ呻う吟めいたのであった。
かくて、手を取って引ひっ立たてられた――宰八が見た飛石は、魅せられた仁右衛門の幻の目に、すなわち御新姐の胸であったのである、足もまだ粘ねば々ねばする、手はこの通り血だらけじゃ、と戦おののいたが、行燈に透かすと夜露に曝されて白けていた。
﹁我が折れ何とも、六十の親仁が天あた窓まを下げる。宰八、夜よふ深かじゃが本宅まで送ってくれ。片時もこの居まわり三町の間に居おりたくない、生いの命ちばかりはお助けじゃ。﹂
と言って、誰にするやら仁右衛門はへたへたとお辞儀をした。
そこで、表門へ廻った二人は、と皆みんな連立って出て見ると、訓導は式台前の敷石の上に、ぺたんと坐っていた。狐きつ饂ねう飩どんの亭主は見えず。……後で知れたがそれは一散に遁にげた、と言う。
何を見て驚いたか、渠かれ等らは頭かぶりを掉ふって語らない。一人は緋ひの袴はかまを穿はいた官女の、目の黒い、耳の尖とがった凄すさまじき女房の、薄うす雲ぐもりの月に袖を重ねて、木戸口に佇たたずんだ姿を見たし、一人は朱の面つらした大猿にして、尾の九ツに裂けた姿に見た、と誰伝うるとなく、程経たって仄ほのかに洩もれ聞える。――
三十八
二人寝には楽だけれども、座敷が広いから、蚊帳は式台向きの二ふた隅すみと、障子と、襖ふすまと、両方の鴨かも居いの中途に釣手を掛けて、十畳敷のその三分の一ぐらいを――大庄屋の夜の調度――浅緑を垂れ、紅こう麻あさの裾すそ長く曳ひいて、縁側の方かたに枕を並べた。
一ある日、朝から雨が降って、昼も夜のようであったその夜中の事――と語り掛けて、明はすやすやと寝入ったのである。
いずれそれも、怪しき事こ件との一つであろう。……あわれ、この少わかき人の、聞くがごとくんば連日の疲つか労れもさこそ、今宵は友として我ここに在るがため、幾分の安心を得て現うつつなく寝入ったのであろう、と小次郎法師が思うにつけても、蚊帳越に瞻みまもらるるは床の間を背うし後ろにした仄ほの白しろ々じろとある行あん燈どう。
楽らく書がきの文字もないが、今にも畳を離れそうで、裾すそが伸びるか、燈ともしびが出るか、蚊帳へ入って来そうでならぬ。
そういえば、掻き立てもしないのに、明の寝顔も、また悪く明るい。
﹁貴あな下た、寝ねび冷えをしては不い可けません。﹂
寝苦しいか、白やかな胸を出して、鳩みぞ尾おちへ踏落しているのを、痩やせた胸に障さわらないように、密そっと引ひっ掛かけたが何にも知らず、まず可よかった。――仁右衛門が見た御ごし新ん姐ぞのように、この手が触って血を吐きながら、莞にっ爾こりとしたらどうしょう。
そう思うと寝苦しい、何にも見まい、と目を塞ふさぐ、と塞ぐ後から、睫まぶたがぱちぱちと音がしそうに開いてしまうのは、心が冴さえて寝られぬのである。
掻かい巻まきを引ひっ被かぶれば、衾ふすまの袖から襟かけて、大おおきな洞ほら穴あなのように覚えて、足を曳ひいて、何やらずるずると引入れそうで不安に堪えぬ。
すぽりと脱いで、坊主天あた窓まをぬいと出したが、これはまた、ばあ、と云ってニタリと笑いそうで、自分の顔ながら気味の悪さ。
そこで屹きっとなって、襟を合せて、枕を仕かえて、気を沈めて、
﹁衆しゅ怨うお悉んし退った散いさん、﹂
と仰あお向むけのまま呪じゅすと、いくらか心が静まったと見えて、旅僧はつい、うとうととしたかと思うと、ぽたり、と何か枕まく許らもとへ来たのがある。
が、雨あま垂だれとも、血を吸膨れた蚊が一ツ倒れた音とも、まだ聞定めないで現うつつ﹇＃ルビの﹁うつつ﹂は底本では﹁うつ﹂﹈でいると、またぽたり……やがて、ぽたぽたと落ちたるが、今度は確たしかに頬にかかった。
やっと冷たいのが知れて、掌てのひらで撫なでると、冷ひやりとする。身震いして少し起きかけて、旅僧は恐る恐る燈ともしびの影に透すかしたが、幸さいわいに、血の点した滴たりではない。
さては雨漏りと思う時は、蚊帳を伝って雫しずくするばかり、はらはらと降り灌そそぐ。
耳を澄ますと、屋根の上は大雨であるらしい。
浮世にあらぬ仮の宿にも、これほど侘わびしいものはない。けれども、雨あま漏もりにも旅たび馴なれた僧は、押黙って小おや止みを待とうと思ったが、ますます雫は繁くなって、掻巻の裾あたりは、びしょびしょ、刎はね上あがって繁しぶ吹きが立ちそう。
屋根で、鵝がち鳥ょうが鳴いた事さえあると聞く。家ごと霞川の底に沈んだのでなかろうか。……トタンに額を打って、鼻はな頭づらに浸にじんだ、大粒なのに、むっくと起き、枕を取って掻かい遣やりながら、立膝で、じりりと寄って、肩まで捲まくれた寝ねま衣きの袖を引伸ばしながら、
﹁もし、大分漏りますが、もし葉越さん。﹂
と呼んだが答えぬ。
目めざ敏とそうな人物が、と驚いて手を翳かざすと、薄すすきの穂を揺ゆすぶるように、すやすやと呼い吸きがある。
﹁ああ、よく寝られた。﹂
と熟じっと顔を見ると、明の、眦まなじりの切れた睫まつ毛げの濃い、目の上に、キラキラとした清い玉は、同おな一じ雨垂れに濡れたか、あらず。……
来こし方かたは我にもあり、ただ御おん身みは髪黒く、顔白きに、我は頭かしら蒼あおく、面つらの黄なるのみ。同おな一じ世の孤みな児しごよ、と覚えずほうり落ちた法師自身の同情の涙の、明の夢に届いたのである。
四あた辺りを見ると、この人目覚めぬも道理こそ。雨の雫の、糸のごとく乱れかかるのは、我が身から体だばかりで、明の床には、夜よをあさる蚤のみも居おらぬ。
南無三宝、魔物の唾つばじゃ。
三十九
例の、その幻の雨とは悟ったものの、見す見すひやりとして濡るるのは、笠なしに山寺から豆腐買いに里へ遣やられた、小僧の時より辛いので、堪たまりかねて、蚊帳の裾を引ひっ被かついで出たが、さてどこを居いど所ころとも定まらぬ一夜の宿。
消えなんとする旅はた籠ご屋やの行かん燈ばんを、時雨の軒に便る心で。
僧は燈とも火しび﹇＃﹁燈火﹂は底本では﹁灯燈﹂﹈の許もとに膝い行ざり寄った。
寝ねま衣きを見ると、どこも露ほども濡れてはおらぬ。まず頬のあたりから腕を拭ふこうとしたほどだったのに……もとより寝床に雨垂の音は無い。
その腕を長く、つき反らして擦さすりながら、
﹁衆しゅ怨うお悉んし退った散いさん。﹂
とまた念じて、静じっと心を沈めると、この功徳か、蚊の声が無くなって、寂しんとして静まり返る。
また余りの静しずかさに、自分の身から体だが消えてしまいはせぬか、という懸念がし出して、押おし瞑つぶった目を夢から覚めたように恍うっ惚とりと、しかも円つぶらに開けて、真まっ直すぐな燈心を視み透すかした時であった。
飜ひら然りと映って、行あん燈どうへ、中から透いて影がさしたのを、女の手ほどの大おおきな蜘く蛛も、と咄とっ嗟さに首を縮すくめたが、あらず、非あらず、柱に触って、やがて油あぶ壺らつぼの前へこぼれたのは、木この葉であった、青あお楓かえでの。
僧は思わず手で拾った。がそのまさしく木の葉であるや、しからずや、確かめようとしたのか、どうか、それは渠かれにも分りはせぬ。
ト続いて、颯さっと影がさして、横よこ繁しぶ吹きに乗ったようにさらりと落ちる。
我にもあらず、またもやそれを拾った時、先せんのを、
﹁一枚、﹂
と思わず算かぞえた。
﹁二枚、﹂
とあとを数え果さず、三枚目のは、貝ほどの槻けやきの葉で、ひらひらと燈ともしびを掠かすめて来た、影が大おおきい。
﹁三枚、﹂
と口の裡うちで呟つぶやくと、早や四枚目が、ばさばさと行燈の紙に障さわった。
﹁四枚、五枚、六枚、七枚、﹂
と数える内に、拾い上げた膝の上は、早や隙間なく落葉に埋もるる。
空を仰ぐと、天井は底がなく、暗や夜みの深みや山まにある心地。
おお、この森を峠にして、こんな晩、中空を越す通とお魔りまが、魔王に、はたと捧ぐる、関所の通とお証りて券がたであろうも知れぬ。膝を払って衝つと立って、木の葉のはらはらと揺れるに連れて、ぶるぶると渠かれは身震いした。
﹁えへん！﹂
と揉もみ潰つぶされたような掠かすれた咳せきして、何かに目を転じて、心を移そうとしたが、風呂敷包の、御経を取出す間も遅し。さすがに心着いたのは、障子に四五枚、かりそめに貼はった半紙である。
これはここへ来てからの、心覚えの童わら謡わうたを、明が書留めて朝ちょ夕うせきに且つ吟じ且つ詠ながむるものだ、と宵に聞いた。
立ったままに寄って見ると、真まっ先さきに目に着いたのが濃い墨で、
し、あまたたび口くち籠ごもりながら、相済みましねえ、お客様、御出家、宰八此こな方たにはなおの事、四十年来の知ちか己づきが、余り気心を知らんようで、面目もない次第じゃ。
御主人鶴谷様のこの別宅、近頃の怪しさ不思議さ。余りの事に、これは一ひと分別ある処と、三日二ふた夜よる、口も利かずにまじまじと勘考した。はて巧たくんだり！てっきりこいつ大おお詐かた欺りに極まった。汝うぬ等らが謀はかって、見事に妖ばけ物もの邸やしきにしおおせる。棄て置けば狐こ狸りの棲すみ処か、さもないまでも乞食の宿、焚たき火びの火沙ざ汰たも不用心、給金出しても人は住まず、持余しものになるのを見済まし、立腐れの柱を根こぎに、瓦屋根を踏倒して、股また倉ぐらへ掻かい込こむ算段、図星図星。しゃ！明神様の託おつ宣げ――と眼まな玉こだまで睨にらんで見れば、どうやら近頃から逗とう留りゅうした渡りものの書しょ生せっ坊ぽう、悪く優しげな顔つら色つきも、絵草子で見た自じら来い也やだぞ、盗賊の張本ござんなれ。晩方来うせた旅僧めも、その同類、茶店の婆ばばも怪しいわ。手引した宰八も抱込まれたに相違ない。道理こそ化物沙汰に輪を掛かける。待て待て狂きち人がいの真似何でもない事、嘉吉も一升飲まされた――巫ふ山ざ戯けた奴やつ等ら、どこだと思う。秋谷村には甘え柿と、苦虫あるを知んねえか、とわざと臆病に見せかけて、宵に遁にげたは真さな田だゆ幸きむ村ら、やがてもり返して盗どろ賊ぼうの巣を乗のっ取とる了りょ簡うけん。
いつものように黄たそ昏がれの軒をうろつく、嘉吉奴めを引ひっ捉とらえ、確しかと親元へ預け置いたは、屋根から天て蚕ぐ糸すに鉤はりをかけて、行燈を釣らせぬ分別。
かねて謀はか計りごとを喋しめ合しあわせた、同じく晩方遁にげる、と見せた、学校の訓導と、その筋の諜ちょ者うじゃを勤むる、狐きつ店ねみせの親方を誘うて、この三人、十分に支度をした。
二人は表門へ立向い、仁右衛門はただ一人、怪しきものは突殺そう。狸に化けた人間を打ぶち殺ころすに仔細はない、と竹槍を引ひっそばめて、木戸口から庭づたいに、月あかりを辿たどり辿り、雨戸をあてに近づいて、何か、手品の種がありはせぬか、と透かして屋根の周まわ囲りをぐるりと見ると。……
三十七
烏が一羽歴あり然ありと屋根に見えた。ああ、あの下辺あたりで、産婦が二人――定命とは思われぬ無残な死にようをしたと思うと、屋根の上に、姿が何やら。
この姿は、葎むぐらを分けて忍び寄ったはじめから、目めさ前きに朦もう朧ろうと映ったのであったが、立って丈長き葉に添うようでもあり、寝て根を潜くぐるようでもあるし、浮き上って葉はさ尖きを渡るようでもあった。で、大方仁右衛門自分の身から体だと、竹槍との組合せで、月つき明あかりには、そんな影が出来たのだろう、と怪しまなかったが、その姿が、ふと屋根の上に移ったので。
ト見ると、肩のあたりの、すらすらと優やさしいのが、いかに月に描き直されたればとて、鍬くわを担いだ骨組にしては余りにしおらしい、と心着くと柳の腰。
その細腰を此こな方たへ、背を斜ななめにした裾すそが、脛はぎのあたりへ瓦かわらを敷いて、細くしなやかに掻かい込こんで、蹴け出だしたような褄つま先さきが、中空なれば遮るものなく、便たよりなさそうに、しかし軽かろく、軒の蜘く蛛もの囲いの大きなのに、はらりと乗って、水みず車ぐるまに霧が懸かかった風情に見える。背筋の靡なびく、頸えり許もとのほの白さは、月に預けて際立たぬ。その月影は朧おぼろながら、濃い黒髪は緑を束つかねて、森の影が雲かと落ちて、その俤おもかげをうらから包んだ、向うむきの、やや中空を仰いだ状さまで、二の腕の腹を此こな方たへ、雪のごとく白く見せて、静しずかに鬢びんの毛を撫なでていた。
白しら魚おの指の尖さきの、ちらちらと髪を潜くぐって動いたのも、思えば見えよう道理はないのに、てっきり耳が動いたようで。
驚す破わ、獣けだものか、人間か。いずれこの邸を踏倒そう屋根住ずま居いしてござる。おのれ、見ろ、と一足退すさって竹槍を引ひき扱しごき、鳥を差いた覚えの骨こつで、スーッ！突つき出だした得物の尖さきが、右の袖下を潜くぐるや否や、踏占めた足の裏で、ぐ、ぐ、ぐ、と声を出したものがある。
地つちが急に柔かく、ほんのりと暖かに、ふっくりと綿を踏んで、下へ沈みそうな心持。他たわ愛いなく膝節の崩れるのに驚いて、足を見る、と白おし粉ろいの花の上。
と思ったがそれは遠い。このふっくりした白いものは、南なむ無さん三ぼ宝う仰あお向むけに倒れた女の胸、膨らむ乳房の真まん中なかあたり、鳩みぞ尾おちを、土足で蹈ふんでいようでないか。
仁右衛門ぶるぶるとなり、据すえ眼まなこに熟じっと見た、白い咽のん喉どをのけ様ざまに、苦痛に反らして、黒髪を乱したが、唇を洩もる歯の白さ。草に鼻筋の通った顔は、忘れもせぬ鶴谷の嫁、初うい産ざんに世を去った御ごし新ん姐ぞである。
親仁は天あた窓まから氷を浴びた。
恐しさ、怪しさより、勿体なさに、慌てて踏んでいる足を除どけると、我知らず、片足が、またぐッと乗る。
うむ、と呻うめかれて、ハッと開くと、旧もとの足で踏みかける。顛てん倒どうして慌てるほど、身から体だのおしに重みがかかる、とその度に、ぐ、ぐ、と泣いて、口から垂だら々だらと血を吐くのが、咽の喉どに懸かかり、胸を染め、乳の下を颯さっと流れて、仁右衛門の蹠あしのうらに生なま暖あたたこう垂れかかる。
あッと腰を抜いて、手を支つくと、その黒髪を掻かい掴つかんだ。
御免なせえまし、御新姐様、御免なせえまし、と夢中ながら一心に詫びると、踏ふみ躪にじられる苦悩の中から、目を開いて、じろじろと見る瞳が動くと、口も動いて、莞にっ爾こりする、……その唇から血が流れる。
足は膠にかわで附けたよう。
同おな一じ処で蠢うごめく処へ、宰八の声が聞えたので、救たす助けを呼ぶさえ呻う吟めいたのであった。
かくて、手を取って引ひっ立たてられた――宰八が見た飛石は、魅せられた仁右衛門の幻の目に、すなわち御新姐の胸であったのである、足もまだ粘ねば々ねばする、手はこの通り血だらけじゃ、と戦おののいたが、行燈に透かすと夜露に曝されて白けていた。
﹁我が折れ何とも、六十の親仁が天あた窓まを下げる。宰八、夜よふ深かじゃが本宅まで送ってくれ。片時もこの居まわり三町の間に居おりたくない、生いの命ちばかりはお助けじゃ。﹂
と言って、誰にするやら仁右衛門はへたへたとお辞儀をした。
そこで、表門へ廻った二人は、と皆みんな連立って出て見ると、訓導は式台前の敷石の上に、ぺたんと坐っていた。狐きつ饂ねう飩どんの亭主は見えず。……後で知れたがそれは一散に遁にげた、と言う。
何を見て驚いたか、渠かれ等らは頭かぶりを掉ふって語らない。一人は緋ひの袴はかまを穿はいた官女の、目の黒い、耳の尖とがった凄すさまじき女房の、薄うす雲ぐもりの月に袖を重ねて、木戸口に佇たたずんだ姿を見たし、一人は朱の面つらした大猿にして、尾の九ツに裂けた姿に見た、と誰伝うるとなく、程経たって仄ほのかに洩もれ聞える。――
三十八
二人寝には楽だけれども、座敷が広いから、蚊帳は式台向きの二ふた隅すみと、障子と、襖ふすまと、両方の鴨かも居いの中途に釣手を掛けて、十畳敷のその三分の一ぐらいを――大庄屋の夜の調度――浅緑を垂れ、紅こう麻あさの裾すそ長く曳ひいて、縁側の方かたに枕を並べた。
一ある日、朝から雨が降って、昼も夜のようであったその夜中の事――と語り掛けて、明はすやすやと寝入ったのである。
いずれそれも、怪しき事こ件との一つであろう。……あわれ、この少わかき人の、聞くがごとくんば連日の疲つか労れもさこそ、今宵は友として我ここに在るがため、幾分の安心を得て現うつつなく寝入ったのであろう、と小次郎法師が思うにつけても、蚊帳越に瞻みまもらるるは床の間を背うし後ろにした仄ほの白しろ々じろとある行あん燈どう。
楽らく書がきの文字もないが、今にも畳を離れそうで、裾すそが伸びるか、燈ともしびが出るか、蚊帳へ入って来そうでならぬ。
そういえば、掻き立てもしないのに、明の寝顔も、また悪く明るい。
﹁貴あな下た、寝ねび冷えをしては不い可けません。﹂
寝苦しいか、白やかな胸を出して、鳩みぞ尾おちへ踏落しているのを、痩やせた胸に障さわらないように、密そっと引ひっ掛かけたが何にも知らず、まず可よかった。――仁右衛門が見た御ごし新ん姐ぞのように、この手が触って血を吐きながら、莞にっ爾こりとしたらどうしょう。
そう思うと寝苦しい、何にも見まい、と目を塞ふさぐ、と塞ぐ後から、睫まぶたがぱちぱちと音がしそうに開いてしまうのは、心が冴さえて寝られぬのである。
掻かい巻まきを引ひっ被かぶれば、衾ふすまの袖から襟かけて、大おおきな洞ほら穴あなのように覚えて、足を曳ひいて、何やらずるずると引入れそうで不安に堪えぬ。
すぽりと脱いで、坊主天あた窓まをぬいと出したが、これはまた、ばあ、と云ってニタリと笑いそうで、自分の顔ながら気味の悪さ。
そこで屹きっとなって、襟を合せて、枕を仕かえて、気を沈めて、
﹁衆しゅ怨うお悉んし退った散いさん、﹂
と仰あお向むけのまま呪じゅすと、いくらか心が静まったと見えて、旅僧はつい、うとうととしたかと思うと、ぽたり、と何か枕まく許らもとへ来たのがある。
が、雨あま垂だれとも、血を吸膨れた蚊が一ツ倒れた音とも、まだ聞定めないで現うつつ﹇＃ルビの﹁うつつ﹂は底本では﹁うつ﹂﹈でいると、またぽたり……やがて、ぽたぽたと落ちたるが、今度は確たしかに頬にかかった。
やっと冷たいのが知れて、掌てのひらで撫なでると、冷ひやりとする。身震いして少し起きかけて、旅僧は恐る恐る燈ともしびの影に透すかしたが、幸さいわいに、血の点した滴たりではない。
さては雨漏りと思う時は、蚊帳を伝って雫しずくするばかり、はらはらと降り灌そそぐ。
耳を澄ますと、屋根の上は大雨であるらしい。
浮世にあらぬ仮の宿にも、これほど侘わびしいものはない。けれども、雨あま漏もりにも旅たび馴なれた僧は、押黙って小おや止みを待とうと思ったが、ますます雫は繁くなって、掻巻の裾あたりは、びしょびしょ、刎はね上あがって繁しぶ吹きが立ちそう。
屋根で、鵝がち鳥ょうが鳴いた事さえあると聞く。家ごと霞川の底に沈んだのでなかろうか。……トタンに額を打って、鼻はな頭づらに浸にじんだ、大粒なのに、むっくと起き、枕を取って掻かい遣やりながら、立膝で、じりりと寄って、肩まで捲まくれた寝ねま衣きの袖を引伸ばしながら、
﹁もし、大分漏りますが、もし葉越さん。﹂
と呼んだが答えぬ。
目めざ敏とそうな人物が、と驚いて手を翳かざすと、薄すすきの穂を揺ゆすぶるように、すやすやと呼い吸きがある。
﹁ああ、よく寝られた。﹂
と熟じっと顔を見ると、明の、眦まなじりの切れた睫まつ毛げの濃い、目の上に、キラキラとした清い玉は、同おな一じ雨垂れに濡れたか、あらず。……
来こし方かたは我にもあり、ただ御おん身みは髪黒く、顔白きに、我は頭かしら蒼あおく、面つらの黄なるのみ。同おな一じ世の孤みな児しごよ、と覚えずほうり落ちた法師自身の同情の涙の、明の夢に届いたのである。
四あた辺りを見ると、この人目覚めぬも道理こそ。雨の雫の、糸のごとく乱れかかるのは、我が身から体だばかりで、明の床には、夜よをあさる蚤のみも居おらぬ。
南無三宝、魔物の唾つばじゃ。
三十九
例の、その幻の雨とは悟ったものの、見す見すひやりとして濡るるのは、笠なしに山寺から豆腐買いに里へ遣やられた、小僧の時より辛いので、堪たまりかねて、蚊帳の裾を引ひっ被かついで出たが、さてどこを居いど所ころとも定まらぬ一夜の宿。
消えなんとする旅はた籠ご屋やの行かん燈ばんを、時雨の軒に便る心で。
僧は燈とも火しび﹇＃﹁燈火﹂は底本では﹁灯燈﹂﹈の許もとに膝い行ざり寄った。
寝ねま衣きを見ると、どこも露ほども濡れてはおらぬ。まず頬のあたりから腕を拭ふこうとしたほどだったのに……もとより寝床に雨垂の音は無い。
その腕を長く、つき反らして擦さすりながら、
﹁衆しゅ怨うお悉んし退った散いさん。﹂
とまた念じて、静じっと心を沈めると、この功徳か、蚊の声が無くなって、寂しんとして静まり返る。
また余りの静しずかさに、自分の身から体だが消えてしまいはせぬか、という懸念がし出して、押おし瞑つぶった目を夢から覚めたように恍うっ惚とりと、しかも円つぶらに開けて、真まっ直すぐな燈心を視み透すかした時であった。
飜ひら然りと映って、行あん燈どうへ、中から透いて影がさしたのを、女の手ほどの大おおきな蜘く蛛も、と咄とっ嗟さに首を縮すくめたが、あらず、非あらず、柱に触って、やがて油あぶ壺らつぼの前へこぼれたのは、木この葉であった、青あお楓かえでの。
僧は思わず手で拾った。がそのまさしく木の葉であるや、しからずや、確かめようとしたのか、どうか、それは渠かれにも分りはせぬ。
ト続いて、颯さっと影がさして、横よこ繁しぶ吹きに乗ったようにさらりと落ちる。
我にもあらず、またもやそれを拾った時、先せんのを、
﹁一枚、﹂
と思わず算かぞえた。
﹁二枚、﹂
とあとを数え果さず、三枚目のは、貝ほどの槻けやきの葉で、ひらひらと燈ともしびを掠かすめて来た、影が大おおきい。
﹁三枚、﹂
と口の裡うちで呟つぶやくと、早や四枚目が、ばさばさと行燈の紙に障さわった。
﹁四枚、五枚、六枚、七枚、﹂
と数える内に、拾い上げた膝の上は、早や隙間なく落葉に埋もるる。
空を仰ぐと、天井は底がなく、暗や夜みの深みや山まにある心地。
おお、この森を峠にして、こんな晩、中空を越す通とお魔りまが、魔王に、はたと捧ぐる、関所の通とお証りて券がたであろうも知れぬ。膝を払って衝つと立って、木の葉のはらはらと揺れるに連れて、ぶるぶると渠かれは身震いした。
﹁えへん！﹂
と揉もみ潰つぶされたような掠かすれた咳せきして、何かに目を転じて、心を移そうとしたが、風呂敷包の、御経を取出す間も遅し。さすがに心着いたのは、障子に四五枚、かりそめに貼はった半紙である。
これはここへ来てからの、心覚えの童わら謡わうたを、明が書留めて朝ちょ夕うせきに且つ吟じ且つ詠ながむるものだ、と宵に聞いた。
立ったままに寄って見ると、真まっ先さきに目に着いたのが濃い墨で、
落葉一枚、
僧は更に
落葉一枚、
二枚、三枚、
十 とかさねて、
落葉の数も、
ついて落いた君の年、
君の年――
振返ると、まだそこに、掃掛けて二枚、三枚、
落葉の数も、
ついて落いた君の年、
君の年――
懐かしや、花の常夏 、
霞川に影が流れた。
その俤 や、俤や――
霞川に影が流れた。
その
紙を通して障子の彼かな方たに、ほの白いその俤が……どうやら透すいて見えるようで、固くなった耳の底で、天の高さ、地の厚さを、あらん限り、深く、遥はるかに、星の座も、竜宮の燈ともしびも同おな一じ遠さ、と思う辺あたり、黄こが金ねの鈴を振るごとく、ただ一こ声え、コロリン、と琴が響いた。
はっと半紙を見ると、瞳へチラリ。
コロリン！
と字が動いたよう。続けて――
琴の音が…………
と記してあった。
四十
客僧は思案して、心を落着け、衣えも紋んを直して、さて、中に仏像があるので、床の間を借りて差置いた、荷物を今解き始めたが、深更のこの挙ふる動まいは、木曾街道の盗もの賊どりめく。
不浄よけの金きん襴らんの切きれにくるんだ、たけ三寸ばかり、黒くろ塗ぬりの小さな御み厨ず子しを捧げ出して、袈け裟さを机に折り、その上へ。
元も来とこの座敷は、京ごのみで、一間の床の間に傍かたわらに、高い袋戸棚が附いて、傍かたえは直ぐに縁側の、戸棚の横が満月形なりに庭に望んだ丸窓で、嵌はめ込こみの戸を開けると、葉山繁山中空へ波をかさねて見えるのが、今は焼けたが故ふる郷さとの家の、書院の構えにそっくりで、懐なつかしいばかりでない。これもここで望のぞみの達せらるる兆きざしか、と床しい、と明が云って、直ぐにこの戸棚を、卓テエ子ブル擬まがいの机に使って、旅たび硯すずりも据えてある。椅子がわりに脚きゃ榻たつを置いて。……
周まわ囲りが広いから、水差茶道具の類も乗せて置く。
そこで、この男の旅姿を見た時から、ちゃんと心づもりをしたそうで、深しん切せつな宰八爺じじいは、夜の具ものと一所に、机を背しょ負って来てくれたけれども、それは使わないで、床の間の隅に、埃ほこりは据えず差置いた。心に叶かなって逗とう留りゅうもしようなら、用いて書見をなさいまし、と夜食の時に言ってくれた。
その机を、今ここへ。
御厨子を据えて、さてどこへ置直そうと四あた辺りを視みた時、蚊帳の中で、三みこ声えばかり、太いたく明が魘うなされた。が……此こな方たの胸が痛んだばかりで、揺起すまでもなく、幸さいわいにまた静しずかになった。
障子を開けて、縁側は自分も通るし、一方は庭づたいに入った口で、日頃はとにかく、別に今夜は何事もない。頻しきりに気になるのは、大掃除の時のために、一枚はずれる仕掛けだという、向うの天井の隅と、その下に開けた事のない隔ての襖ふすまの合せ目である。
﹁わが仏守らせたまえ。﹂
と祈念なし、机を取って、押おし戴いただいて、屹きっと見て、其そな方たへ、と座を立とうとする。
途端であった。
﹁しばらく。﹂
ずしん、地じの底へ響く声がした。
明が呼んだか、と思う蚊帳の中うちで、また烈はげしく魘うなされるので、呼い吸きを詰めて、
﹁…………﹂
色を変える。
襖の陰で、
﹁客僧しばらく――唯ただ今いまそれへ参るものがござる。往来を塞ふさぐまい。押して通るは自在じゃが、仏像ゆえに遠慮をいたす。いや、御お身みに向うて、害を加うる仔しさ細いはない。﹂
ト見ると襖から承なげ塵しへかけた、雨あまじみの魍もう魎りょうと、肩を並べて、その頭かしら、鴨かも居いを越した偉大の人物。眉太く、眼まな円こつぶらに、鼻隆うして口の角けたなるが、頬ほお肉じし豊ゆたかに、あっぱれの人品なり。生きびらの帷かた子びらに引手のごとき漆紋の着いたるに、白き襟をかさね、同おな一じ色の無地の袴はかま、折目高に穿はいたのが、襖一杯にぬっくと立った。ゆき短みじかな右の手に、畳んだままの扇を取って、温顔に微笑を含み、動ゆるぎ出でつ、ともなく客僧の前へのっしと坐ると、気に圧おされた僧は、ひしと茶ちゃ斑まだらの大牛に引ひっ敷しかれたる心地がした。
はっと机に、突つッ俯ぷそうとする胸を支えて、
﹁誰だ。﹂
と言った。
﹁六十余州、罷まか通りとおるものじゃ。﹂
﹁何と申す、何なん人ぴと……﹂
﹁到る処の悪左衛門、﹂
と扇子を構えて、
﹁唯今、秋谷に罷まか在りある、すなわち秋谷悪左衛門と申す。﹂
﹁悪…………﹂
﹁悪は善悪の悪でござる。﹂
﹁おお、悪……魔、人間を呪のろうものか。﹂
﹁いや、人間をよけて通るものじゃ。清き光天にあり、夜よが鴉らすの羽はうらも輝き、瀬の鮎あゆの鱗うろこも光る。隈くまなき月を見るにさえ、捨すて小おぶ舟ねの中にもせず、峰の堂の縁でもせぬ。夜半人跡の絶えたる処は、かえって茅かや屋やの屋根ではないか。
しかるを、わざと人間どもが、迎え見て、損そこなわるるは自業自得じゃ。﹂
四十一
﹁真まひ日な中かに天下の往来を通る時も、人が来れば路を避ける。出いで会あえば傍わきへ外れ、遣やり過すごして背うし後ろを参る。が、しばしば見返る者あれば、煩わしさに隠れ終おおせぬ、見て驚くは其そや奴つの罪じゃ。
いかに客僧、まだ拙それ者がしを疑わるるか。﹂
と莞かん爾じとして、客僧の坊主頭を、やがて天井から瞰みお下ろしつつ、
﹁かくてもなお、我等がこの宇宙の間に罷まか在りあるを怪あやしまるるか。うむ、疑いにられたな。いたその瞳も、直ちに瞬く。
およそ天下に、夜よを一目も寝ぬはあっても、瞬またたきをせぬ人間は決してあるまい。悪左衛門をはじめ夥なか間ま一統、すなわちその人間の瞬く間を世界とする――瞬くという一秒時には、日輪の光によって、御お身み等が顔かお容かたち、衣服の一すべ切て、睫まつ毛げまでも写し取らせて、御身等その生命の終る後、幾百年にも活いけるがごとく伝えらるる長い時間のあるを知るか。石と樹と相打って、火をほとばしらすも瞬く間、またその消ゆるも瞬く間、銃丸の人を貫くも瞬く間だ。
すべて一たびただ一人にんの瞬きする間に、水も流れ、風も吹く、木この葉も青し、日も赤い。天下に何一つ消え失うするものは無うして、ただその瞬間、その瞬く者にのみ消え失すると知らば、我等が世にあることを怪あやしむまい。﹂
と悠然として打うち頷うなずき、
﹁そこでじゃ、客僧。
たといその者の、自から招く禍わざわいとは言え、月のたちまち雲に隠れて、世の暗くなるは怪あやしまず、行あん燈どうの火の不意に消ゆるに喚わめき、天に星の飛ぶを訝いぶからず、地に瓜うりの躍るに絶叫する者どもが、われら一類が為なす業わざに怯おびやかされて、その者、心を破り、気を傷きずつけ、身を損そこなえば、おのずから引いて、我等修業の妨さまたげとなり、従うて罪の障さわりとなって、実は大おおいに迷惑いたす。﹂
と、やや歎息をするようだったが、更あらためて、また言った。
﹁時に、この邸には、当月はじめつ方かたから、別に逗とう留りゅうの客がある。同おな一じ境涯にある御ごじ仁んじゃ。われら附添って眷けん属ぞくども一同守護をいたすに、元来、人ひと足あしの絶えた空屋を求めて便たよった処を、唯ただ今いま眠りおる少年の、身にも命にも替うる願ねがいあって、身命を賭かけ物ものにして、推して草くさ叢むらに足あし痕あとを留めた以来、とかく人出入騒々しく、かたがた妨げに相成るから、われら承って片端から追おっ払ぱらうが、弱ったのはこの少年じゃ。
顔かお容かたちに似ぬその志の堅固さよ。ただお伽とぎめいた事のみ語って、自からその愚おろかさを恥じて、客僧、御身にも話すまいが、や、この方実は、もそっと手てひ酷どい試こころみをやった。
あるいは大磐石を胸に落し、我その上に蹈ふみ跨またがって咽の喉どを緊しめ、五体に七筋の蛇を絡まとわし、牙きばある蜥とか蜴げに噛かませてまで呪のろうたが、頑として退かず、悠々と歌を唄うに、我が折れ果てた。
よって最後の試み、としてたった今、少こ年れに人を殺させた――すなわち殺された者は、客僧、御お身みじゃよ。﹂
と、じろじろと見るのである。
覚悟しながら戦おののいて、
﹁ここは、ここは、ここは、冥めい土どか。﹂
と目ばかり働く、その顔を見て、でっぷりとした頬に笑を湛たたえ、くつくつ忍しの笑びわらいして、
﹁いや、別条はない。が、ちょうどこの少年の、いまし魘うなされた時、客僧、何と、胸が痛かったろう。﹂
ズキリと応こたえて、
﹁おお、﹂
﹁すなわち少年が、御身に毒を飲ませたのだ。﹂
﹁…………﹂
﹁別でない。それそれその戸袋に載のった朱しゅ泥でいの水みず差さし、それに汲くんだは井戸の水じゃが、久しい埋うも井れいじゃに因って、水の色が真まっ蒼さおじゃ、まるで透通る草の汁よ。
客僧等が茶を参った、爺じじいが汲んで来た、あれは川水。その白しろ濁にごりがまだしも、と他の者はそれを用いる、がこの少年は、前さきに猫の死骸の流れたのを見たために、得え飲まずしてこの井戸のを仰ぐ。
今も言う通りだ。殺さぬまでに現うつ責つぜめに苦しめ呪うがゆえ、生いの命ちを縮めては相成らぬで、毎夜少年の気着かぬ間に、振袖に緋ひの扱しご帯きおびした、面つらが狗いぬの、召使に持たせて、われら秘蔵の濃こみ緑どりの酒を、瑠るり璃い色ろの瑪めの瑙うの壺つぼから、回き生つ剤けとして、その水にしたたらして置くが習ならいじゃ。﹂
四十二
﹁少年は味あじおうて、天与の霊泉と舌鼓を打っておる。
我ら、いまし少年の魂に命じて、すなわちその酒を客僧に勧め飲ましむる夢を見させたわ。︵ただ一口試みられよ、爽さわやかな涼しい芳かんばしい酒の味がする、︶と云うに因って、客僧、御おん身みはなおさら猶ため予らう、手が出ぬわ。﹂
とまた微ほほ笑えみ、
﹁毒味までしたれば、と少年は、ぐと飲み飲み、無理に勧める。さまでは、とうけて恐る恐る干すと、ややあって、客僧、御身は苦くも悶んし、煩はん乱らんし、七転八倒して黒き血のかたまりを吐くじゃ。﹂
客僧は色真まっ蒼さおである。
﹁驚いて少年が介抱する。が、もう叶かなわぬ、臨終という時、
︵われは僧なり、身を殺して仁をなし得れば無上の本懐、君その素志を他に求めて、疾とくこの恐しき魔所を遁のがれられよ。︶
と遺言する。これぞ、われらの誂あつらえじゃ。
蚊帳の中で、少年の魘うなされたは、この夢を見た時よ、なあ。
これならば立たち退のくであろう、と思うと、ああ、埒らちあかぬ。客僧、御身が仮に落入るのを見る、と涙を流して、共に死のうと決心した。
葛つづ籠らに秘め置く、守まも刀りがたなをキラリと引抜くまで、襖ふすまの蔭から見定めて、
︵ああ、しばらく、︶
と留めたは、さて、殺しては相済まぬ。
これによって、われら守護する逗留客は、御自分の方から、この邸を開いて、もはや余よ所そへ立の退くじゃが。
その以前、直じき々じきに貴面を得て、客僧に申もおし談じたい儀があると謂いわるる。
客は女にょ性しょうでござるに因って、一応拙それ者がしから申入れる。ためにこれへ罷まか出りいでた。
秋谷悪左衛門取次を致す、﹂
と高らかに云って、穏おだ和やかに、
﹁お逢い下さりょうか、いかが、﹂
と云った。
僧は思わず、
﹁は、﹂と答える。
声も終らず、小山のごとく膝を揺ゆらげ、向け直したと見ると、
﹁ござらっしゃい！﹂
破われ鐘がねのごときその大音、哄どっと響いた。目くるめいて、魂遠くなるほどに、大魔の形ぎょ体うたい、片隅の暗がりへ吸すい込こまれたようにすッと退のいた、が遥はるかに小さく、およそ蛍の火ばかりになって、しかもその衣きぬの色も、袴はかまの色も、顔の色も、頭かしらの毛の総そう髪がみも、鮮あざ麗やかになお目に映る。
﹁御免遊ばせ。﹂
向うから襖一枚、颯さっと蒼あおく色が変ると、雨あま浸じみの鬼の絵の輪郭を、乱れたままの輪に残して、ほんのり桃色がその上に浮いて出た。
ト見ると、房々とある艶つややかな黒髪を、耳みみ許もと白く梳くしけずって、櫛くし巻まきにすなおに結んだ、顔を俯うつ向むけに、撫なで肩がたの、細く袖を引合わせて、胸を抱いたが、衣えも紋ん白く、空色の長なが襦じゅ袢ばんに、朱とき鷺い色ろの無地の羅うすものを襲かさねて、草の葉に露の玉と散った、浅緑の帯、薄き腰、弱々と糸の艶に光を帯びて、乳ちのあたり、肩のあたり、その明りに、朱鷺色が、浅あさ葱ぎが透き、膚はだの雪も幽かすかに透く。
黒髪かけて、襟かけて、月の雫しずくがかかったような、裾すそは捌さばけず、しっとりと爪つま尖さき軽かろく、ものの居て腰を捧げて進むるごとく、底の知れない座敷をうしろに、果はてなき夜の暗さを引いたが、歩あ行るくともなく立寄って、客僧に近寄る時、いつの間にか襖が開くと、左右に雪ぼん洞ぼりが二つ並んで、敷居際に差向って、女の膝ばかりが控えて見える。そのいずれかが狗いぬの顔、と思いをめぐらす暇もない。
僧は前に彳たたずんだのを差さし覗のぞくように一目見て、
﹁わッ、﹂
とばかりに平ひれ伏ふした。実げにこそその顔かんばせは、爛々たる銀しろがねの眼まなこ一双ならび、眦まなじりに紫の隈くま暗く、頬骨のこけた頤おとがい蒼味がかり、浅葱に窩くぼんだ唇裂けて、鉄か漿ね着けた口、柘ざく榴ろの舌、耳の根には針のごとき鋭とき牙きばを噛かんでいたのである。
四十三
﹁おお、自分の顔を隠したさ。貴あな僧たを威おどす心ではない、戸そ外とへ出ます支度のまま……まあ、お恥かしい。﹂
と、横へ取ったは白はっ鬼きの面。端麗にして威厳あり、眉美しく、目の優しき、その顔かんばせを差さし俯うつ向むけ、しとやかに手を支ついた。
﹁は、は、はじめまして、﹂
と、しどろになって会釈すると、面おもてを上げた寂さみしい頬に、唇紅あこう莞にっ爾こりして、
﹁前さっ刻き、憚はばかりへいらっしゃいます、廊下でお目に懸かかりましたよ。﹂
客僧も、今はなかなかに胴据すわりぬ。
﹁貴あな女たはどなたでございます。﹂
と尋ねたが、その時はほぼその誰なるかを知っているような気がしたのである。
美たお女やめは褄つまを深う居直って、蚊帳を透すかして打傾く。
萌もえ黄ぎが迫って、その衣きぬの色を薄く包んだ。
﹁この方の、母おっかさんのお知ちか己づき、明さんとも、お友達……﹂
と口を結んだが愁うれいを帯びた。
此こな方たは、じりじりと膝を向けて、
﹁ああ、貴女が、﹂
﹁あの、それに就きまして、貴あな僧たにお願いがございますが、どうぞお聞き下さいまし。﹂
とまた蚊帳越に打うち視ながめ、
﹁お最い愛としい、沢たん山とお窶やつれ遊ばした。罪も報むくいもない方が、こんなに艱かん難なん辛しん苦くして、命に懸けても唄が聞きたいとおっしゃるのも、母おっかさんの恋しさゆえ。
その唄を聞こう聞こうと、お思いなさいます心から、この頃では身も世も忘れて、まあ、私を懐なつかしがって、迷って恋におなりなすった。
その唄は稚おさない時、この方の母さんから、口移しに教おそわって、私は今も、覚えている。
こうまで、お憧こがれなさるもの、ちょっと一目お目にかかって、お聞かせ申もおしとうござんすけれど、今顔をお見せ申しますと、お慕いなさいます御心から、前後も忘れて夢見るように、袖に搦からんで手に縋すがり、胸に額を押当てて、母よ、姉よ、とおっしゃいますもの。
どうして貴あな僧た、摺すり抜ぬけられよう、突離されよう、振切られましょう、私は引寄せます、抱だき緊しめます。
と血を分けぬ、男と女は、天にも地にも許さぬ掟おきて。
私たちには自由自在――どの道浮世に背いた身から体だが、それでは外ほかに願いのある、私の願の邪魔になります。よしそれとても、棄すて身みの私、ただ最いと惜おしさ、可愛さに、気の狂い、心の乱れるに随まかせましても、覚悟の上なら私一人、自分の身は厭いといはしませぬ。
厭わぬけれど……明さんがそうすると、私たちと同おな一じような身の上になりますもの……
それはもう、この頃のお心では、明さんは本望らしい――本望らしい、﹂
とさも懸けそ想うしたらしく胸を抱いたが、鼻筋白く打背いて、
﹁あれあれ御覧なさいまし。こう言う中うちにも、明さんの母おっかさんが、花の梢こずえと見紛うばかり、雲間を漏れる高たか楼どのの、虹にじの欄てす干りを乗出して、叱りも睨にらみも遊ばさず、児この可愛さに、鬼とも言わず、私を拝んでいなさいます。お美しい、お優しい、あの御顔を見ましては、恋の血ちし汐おは葉に染めても、秋のあの字も、明さんの名に憚はばかって声には出ませぬ。
一言も交わさずに、ただ御顔を見たばかりでさえ、最いと愛おしさに覚悟も弱る。私は夫のござんす身から体だ。他ひとの妻でありながらも、母さんをお慕い遊ばす、そのお心の優しさが、身に染む時は、恋となり、不義となり、罪となる。
実の産うみの母御でさえ、一旦この世を去られし上は――幻にも姿を見せ、乳ちを呑ませたく添寝もしたい――我が児こ最いと惜しむ心さえ、天上では恋となる、その忌はば憚かりで、御遠慮遊ばす。
まして私は他人の事。
余計な御苦労かけるのが御ごふ不び便んさ。決して私は明さんに、在あり所かを知らせず隠れていたのに、つい膝ひざ許もとの稚おさないものが、粗相で手てま毬りを流したのが悪縁となりました。
彼かな方たも私も身を苦しめ、心を傷いためておりましたが、お生いの命ちの危あやういまでも、ここをおたち遊ばさぬゆえ、私わきへ参ります。
あんまりお心が可いじ傷らしい、さまでに思召すその毬唄は、その内時節が参りますと、自然にお耳へ入りましょう！
それは今、私がこの邸を退のきますと、もう隅々まで家中が明あかるくなる。明さんも思い直して、またここを出て旅た行び立ちをなさいます。
早や今でも沙さ汰たをする、この邸の不思議な事が、界かい隈わいへ拡がりますと、――近い処の、別荘にあの、お一方……﹂
四十四
﹁病やまいの後の保養に来ておいでなさいます、それはそれは美しい、余よ所その婦おん人なが、気軽な腰元の勧めるまま、徒つれ然づれの慰みに、あの宰八を内証で呼んで、︵鶴谷の邸の妖怪変化は、皆みんな私が手伝いの人と一所に、憂うさ晴はらしにしたいたずら遊あそ戯び、聞けば、怪我人も沢たん山と出来、嘉吉とやら気が違ったのもあるそうな、つい心ない、気の毒な、皆みんなの手当をよくするように。︶……
と白しろ銀がね黄こが金ねを沢たん山と授ける。
さあ、この事が世に聞えて、ぱっと風うわ説さの立たちますため、病人は心が引ひっ立たち、気の狂ったのも安心して治りますが、免のがれられぬ因縁で、その令おく室がたの夫というが、旅た行びさきの海から帰って、その風聞を耳にしますと――これが世にも恐ろしい、嫉妬深い男でござんす。――
その変へん化げ沙ざ汰たのある間、そこに籠こもった、という旅の少年。……
この明さんと、御自分の令おく室がたが、てっきり不義に極きわまった、と最早その時は言訳立たず。鶴谷の本宅から買い受けて、そしてこの空邸へ、その令室をとじ籠こめましょう。
貴あな僧た。
その美しい令おく室がたが、人に羞はじ、世に恥じて、一ひと室まど処ころを閉とじ切きって、自分を暗や夜みに封じ籠めます。
そして、日が経たつに従うて、見もせず聞きもせぬけれど、浮うき名なが立って濡ぬれ衣ぎぬ着た、その明さんが何となく、慕わしく、懐かしく、果はては恋しく、憧あこ憬がれる。切ない思い、激しい恋は、今、私の心、また明さんの、毬唄聞こうと狂うばかりの、その思おもいと同おな一じ事。
一ひと歳とせか、二ふた歳とせか、三みと歳せの後か、明さんは、またも国々を廻めぐり、廻って、唄は聞かずに、この里へ廻って来て、空家懐なつかし、と思いましょう。
そうなる時には、令おく室がたの、恋の染まった霊たま魂しいが、五色しきかがりの手毬となって、霞川に流れもしよう。明さんが、思いの丈を吐つく息は、冷たき煙と立たちのぼって、中空の月も隠れましょう。二人の情なさけの火が重かさなり、白き炎の花となって、襖ふすま障しょ子うじも燃えましょう。日、月でもなし、星でもなし、灯ともしびでもない明あかりに、やがて顔を合わせましょう。
邸は世界の暗やみだのに。……この十畳は暗いのに。……
明さんの迷った目には、煤すすも香を吐く花かと映り、蜘蛛の巣は名めい香こうの薫かおりが靡なびく、と心時めき、この世の一すべ切てを一ひと室まに縮めて、そして、海よりもなお広い、金銀珠玉の御殿とも、宮とも見えて、令おく室がたを一目見ると、唄の女神と思い祟あがめて、跪ひざまずき、伏拝む。
長く冷たき黒髪は、玉の緒を揺ゆる琴の糸の肩に懸かかって響くよう、互たがいの口へ出ぬ声は、膚はだに波立つ血ちし汐おとなって、聞こえぬ耳に調しらべを通わす、幽かすかに触る手と手の指は、五ツと五ツと打合って、水晶の玉の擦れる音、戦わななく裳もすそと、震える膝ひざは、漂う雲に乗る心地。
ああこれこそ、我が母君……と縋すがり寄れば、乳房に重く、胸に軽かろく、手に柔かく腕かいなに撓たゆく、女は我を忘れて、抱く――
我わが児こ危い、目め盲しいたか。罪に落つる谷底の孤ひと家つやの灯とも辿たどれよ。と実の母君の大空から、指さしたまう星の光は、電いなずまとなって壁に閃ひらめき、分れよ、退のけよ、とおっしゃる声は、とどろに棟に鳴渡り、涙は降って雨となる、情なさけの露は樹に灌そそぎ、石に灌ぎ、草さえ受けて、暁の旭あさひの影には瑠る璃り、紺こん青じょう、紅くれないの雫しずくともなるものを。
罪の世の御二人には、ただ可おそ恐ろしく、凄すさまじさに、かえって一層、ひしひしと身を寄せる。
そのあわれさに堪えかねて、今ほども申しました、児こを思うさえ恋となる、天上の規のりを越えて、掟おきてを破って、母君が、雲の上の高たか楼どのの、玉の欄らん干かんにさしかわす、桂かつらの枝を引寄せて、それに縋すがって御殿の外へ。
空に浮うかんだおからだが、下界から見る月の中から、この世へ下りる間には、雲が倒さかさまに百千万千、一億万丈の滝となって、ただどうどうと底知れぬ下界の霄そらへ落ちている。あの、その上を、ただ一ひと条すじ、霞のような御おす裳そでも、撓たわわに揺れる一ひと枝えだの桂をたよりになさる危あぶなさ。
おともだちの上じょ
たちが、ふと一人見着けると、にわかに天楽の音ねを留とどめて、はらはらと立たちかかって、上へ桂を繰り上げる。引留められて、御姿が、またもとの、月の前へ、薄色のお召物で、笄こうがいがキラキラと、星に映って見えましょう。
座敷で暗やみから不意にそれを。明さんは、手を取合ったは仇あだし婦おんな、と気が着くと、襖ふすまも壁も、大だい紅ぐれ蓮ん。跪つい居いる畳は針の筵むしろ。袖には蛇くちなわ、膝には蜥とか蜴げ、目まの前あたり見る地獄の状さまに、五体はたちまち氷となって、慄ぞ然っとして身を退ひきましょう。が、もうその時は婦おん人なの一念、大鉄てっ槌ついで砕かれても、引寄せた手を離しましょうか。
胸の思おもいは火となって、上手が書いた金銀ぢらしの錦にし絵きえを、炎に翳かざして見るような、面おもても赫かっと、胡ごふ粉んに注いだ臙えん脂じの目めも許とに、紅くれないの涙を落すを見れば、またこの恋も棄てられず。恐おそ怖れと、恥は羞じに震う身は、人ひと膚はだの温あたたかさ、唇の燃ゆるさえ、清く涼しい月の前の母君の有様に、懐なつかしさが劣らずなって、振切りもせず、また猶ため予らう。
思余って天上で、せめてこの声きこえよと、下界の唄をお唄いの、母君の心を推おし量はかって、多勢の上たちも、妙なる声をお合せある――唄はその時聞えましょう。明さんが望のぞみの唄は、その自然の感応で、胸へ響いて、聞えましょう。﹂
と、神々しいまで面おもて正しく。……
僧は合掌して聞くのであった。
そして、その人、その時、はた明を待つまでもない、この美たお人やめの手、一たび我に触れなば、立たち処どころにその唄を聞き得るであろうと思った。
四十五
美たお人やめは更あらためて、
﹁貴あな僧た、この事を、ただ貴僧の胸ばかりに、よくお留め遊ばして、おっしゃってはなりません。これは露ほども明かさずに、今の処、明さんを、よしなに慰めて上げて下さいまし。
日頃のお苦くるしみに疲れてか、まあ、すやすやとよく寝て、﹂
と、するすると寄った、姿が崩れて、ハタと両手を畳につくと、麻の薫かおりがはっとして、肩に萌もえ黄ぎの姿つめたく、薄うす紅くれないが布目を透いて、
﹁明あきちゃん……﹂
と崩るるごとく、片かた頬ほを横に接つけんとしたが、屹きっと立たち退のいて、袖を合せた。
僧を見る目に涙が宿って、
﹁それではお暇いとまいたしましょう。稚おさない事を、貴あな僧たにはお恥かしいが、明さんに一式のお愛あい相そに、手毬をついて見せましょう、あの……﹂
と掛けた声の下。雪ぼん洞ぼりの真まん中なかを、蝶々のように衝つと抜けて、切きり禿かむろで兎うさぎの顔した、女めの童わらわが、袖に載のせて捧げて来た。手毬を取って、美たお女やめは、掌たなそこの白きが中に、魔界はしかりや、紅梅の大いなる莟つぼみと掻かい撫なでながら、袂たもとのさきを白しら歯はで含むと、ふりが、はらりと襷たすきにかかる。
たけた笑えみ、恍うっ惚とりして、
﹁まあ、私ばかり極きまりが悪い、皆さんも来ておつきでないか。﹂
蚊帳をはらはら取巻いたは、桔きき梗ょう刈かる萱かや、美うつくしや、萩はぎ女おみ郎なえ花し、優しや、鈴虫、松虫の――声々に、
られたな。いたその瞳も、直ちに瞬く。
およそ天下に、夜よを一目も寝ぬはあっても、瞬またたきをせぬ人間は決してあるまい。悪左衛門をはじめ夥なか間ま一統、すなわちその人間の瞬く間を世界とする――瞬くという一秒時には、日輪の光によって、御お身み等が顔かお容かたち、衣服の一すべ切て、睫まつ毛げまでも写し取らせて、御身等その生命の終る後、幾百年にも活いけるがごとく伝えらるる長い時間のあるを知るか。石と樹と相打って、火をほとばしらすも瞬く間、またその消ゆるも瞬く間、銃丸の人を貫くも瞬く間だ。
すべて一たびただ一人にんの瞬きする間に、水も流れ、風も吹く、木この葉も青し、日も赤い。天下に何一つ消え失うするものは無うして、ただその瞬間、その瞬く者にのみ消え失すると知らば、我等が世にあることを怪あやしむまい。﹂
と悠然として打うち頷うなずき、
﹁そこでじゃ、客僧。
たといその者の、自から招く禍わざわいとは言え、月のたちまち雲に隠れて、世の暗くなるは怪あやしまず、行あん燈どうの火の不意に消ゆるに喚わめき、天に星の飛ぶを訝いぶからず、地に瓜うりの躍るに絶叫する者どもが、われら一類が為なす業わざに怯おびやかされて、その者、心を破り、気を傷きずつけ、身を損そこなえば、おのずから引いて、我等修業の妨さまたげとなり、従うて罪の障さわりとなって、実は大おおいに迷惑いたす。﹂
と、やや歎息をするようだったが、更あらためて、また言った。
﹁時に、この邸には、当月はじめつ方かたから、別に逗とう留りゅうの客がある。同おな一じ境涯にある御ごじ仁んじゃ。われら附添って眷けん属ぞくども一同守護をいたすに、元来、人ひと足あしの絶えた空屋を求めて便たよった処を、唯ただ今いま眠りおる少年の、身にも命にも替うる願ねがいあって、身命を賭かけ物ものにして、推して草くさ叢むらに足あし痕あとを留めた以来、とかく人出入騒々しく、かたがた妨げに相成るから、われら承って片端から追おっ払ぱらうが、弱ったのはこの少年じゃ。
顔かお容かたちに似ぬその志の堅固さよ。ただお伽とぎめいた事のみ語って、自からその愚おろかさを恥じて、客僧、御身にも話すまいが、や、この方実は、もそっと手てひ酷どい試こころみをやった。
あるいは大磐石を胸に落し、我その上に蹈ふみ跨またがって咽の喉どを緊しめ、五体に七筋の蛇を絡まとわし、牙きばある蜥とか蜴げに噛かませてまで呪のろうたが、頑として退かず、悠々と歌を唄うに、我が折れ果てた。
よって最後の試み、としてたった今、少こ年れに人を殺させた――すなわち殺された者は、客僧、御お身みじゃよ。﹂
と、じろじろと見るのである。
覚悟しながら戦おののいて、
﹁ここは、ここは、ここは、冥めい土どか。﹂
と目ばかり働く、その顔を見て、でっぷりとした頬に笑を湛たたえ、くつくつ忍しの笑びわらいして、
﹁いや、別条はない。が、ちょうどこの少年の、いまし魘うなされた時、客僧、何と、胸が痛かったろう。﹂
ズキリと応こたえて、
﹁おお、﹂
﹁すなわち少年が、御身に毒を飲ませたのだ。﹂
﹁…………﹂
﹁別でない。それそれその戸袋に載のった朱しゅ泥でいの水みず差さし、それに汲くんだは井戸の水じゃが、久しい埋うも井れいじゃに因って、水の色が真まっ蒼さおじゃ、まるで透通る草の汁よ。
客僧等が茶を参った、爺じじいが汲んで来た、あれは川水。その白しろ濁にごりがまだしも、と他の者はそれを用いる、がこの少年は、前さきに猫の死骸の流れたのを見たために、得え飲まずしてこの井戸のを仰ぐ。
今も言う通りだ。殺さぬまでに現うつ責つぜめに苦しめ呪うがゆえ、生いの命ちを縮めては相成らぬで、毎夜少年の気着かぬ間に、振袖に緋ひの扱しご帯きおびした、面つらが狗いぬの、召使に持たせて、われら秘蔵の濃こみ緑どりの酒を、瑠るり璃い色ろの瑪めの瑙うの壺つぼから、回き生つ剤けとして、その水にしたたらして置くが習ならいじゃ。﹂
四十二
﹁少年は味あじおうて、天与の霊泉と舌鼓を打っておる。
我ら、いまし少年の魂に命じて、すなわちその酒を客僧に勧め飲ましむる夢を見させたわ。︵ただ一口試みられよ、爽さわやかな涼しい芳かんばしい酒の味がする、︶と云うに因って、客僧、御おん身みはなおさら猶ため予らう、手が出ぬわ。﹂
とまた微ほほ笑えみ、
﹁毒味までしたれば、と少年は、ぐと飲み飲み、無理に勧める。さまでは、とうけて恐る恐る干すと、ややあって、客僧、御身は苦くも悶んし、煩はん乱らんし、七転八倒して黒き血のかたまりを吐くじゃ。﹂
客僧は色真まっ蒼さおである。
﹁驚いて少年が介抱する。が、もう叶かなわぬ、臨終という時、
︵われは僧なり、身を殺して仁をなし得れば無上の本懐、君その素志を他に求めて、疾とくこの恐しき魔所を遁のがれられよ。︶
と遺言する。これぞ、われらの誂あつらえじゃ。
蚊帳の中で、少年の魘うなされたは、この夢を見た時よ、なあ。
これならば立たち退のくであろう、と思うと、ああ、埒らちあかぬ。客僧、御身が仮に落入るのを見る、と涙を流して、共に死のうと決心した。
葛つづ籠らに秘め置く、守まも刀りがたなをキラリと引抜くまで、襖ふすまの蔭から見定めて、
︵ああ、しばらく、︶
と留めたは、さて、殺しては相済まぬ。
これによって、われら守護する逗留客は、御自分の方から、この邸を開いて、もはや余よ所そへ立の退くじゃが。
その以前、直じき々じきに貴面を得て、客僧に申もおし談じたい儀があると謂いわるる。
客は女にょ性しょうでござるに因って、一応拙それ者がしから申入れる。ためにこれへ罷まか出りいでた。
秋谷悪左衛門取次を致す、﹂
と高らかに云って、穏おだ和やかに、
﹁お逢い下さりょうか、いかが、﹂
と云った。
僧は思わず、
﹁は、﹂と答える。
声も終らず、小山のごとく膝を揺ゆらげ、向け直したと見ると、
﹁ござらっしゃい！﹂
破われ鐘がねのごときその大音、哄どっと響いた。目くるめいて、魂遠くなるほどに、大魔の形ぎょ体うたい、片隅の暗がりへ吸すい込こまれたようにすッと退のいた、が遥はるかに小さく、およそ蛍の火ばかりになって、しかもその衣きぬの色も、袴はかまの色も、顔の色も、頭かしらの毛の総そう髪がみも、鮮あざ麗やかになお目に映る。
﹁御免遊ばせ。﹂
向うから襖一枚、颯さっと蒼あおく色が変ると、雨あま浸じみの鬼の絵の輪郭を、乱れたままの輪に残して、ほんのり桃色がその上に浮いて出た。
ト見ると、房々とある艶つややかな黒髪を、耳みみ許もと白く梳くしけずって、櫛くし巻まきにすなおに結んだ、顔を俯うつ向むけに、撫なで肩がたの、細く袖を引合わせて、胸を抱いたが、衣えも紋ん白く、空色の長なが襦じゅ袢ばんに、朱とき鷺い色ろの無地の羅うすものを襲かさねて、草の葉に露の玉と散った、浅緑の帯、薄き腰、弱々と糸の艶に光を帯びて、乳ちのあたり、肩のあたり、その明りに、朱鷺色が、浅あさ葱ぎが透き、膚はだの雪も幽かすかに透く。
黒髪かけて、襟かけて、月の雫しずくがかかったような、裾すそは捌さばけず、しっとりと爪つま尖さき軽かろく、ものの居て腰を捧げて進むるごとく、底の知れない座敷をうしろに、果はてなき夜の暗さを引いたが、歩あ行るくともなく立寄って、客僧に近寄る時、いつの間にか襖が開くと、左右に雪ぼん洞ぼりが二つ並んで、敷居際に差向って、女の膝ばかりが控えて見える。そのいずれかが狗いぬの顔、と思いをめぐらす暇もない。
僧は前に彳たたずんだのを差さし覗のぞくように一目見て、
﹁わッ、﹂
とばかりに平ひれ伏ふした。実げにこそその顔かんばせは、爛々たる銀しろがねの眼まなこ一双ならび、眦まなじりに紫の隈くま暗く、頬骨のこけた頤おとがい蒼味がかり、浅葱に窩くぼんだ唇裂けて、鉄か漿ね着けた口、柘ざく榴ろの舌、耳の根には針のごとき鋭とき牙きばを噛かんでいたのである。
四十三
﹁おお、自分の顔を隠したさ。貴あな僧たを威おどす心ではない、戸そ外とへ出ます支度のまま……まあ、お恥かしい。﹂
と、横へ取ったは白はっ鬼きの面。端麗にして威厳あり、眉美しく、目の優しき、その顔かんばせを差さし俯うつ向むけ、しとやかに手を支ついた。
﹁は、は、はじめまして、﹂
と、しどろになって会釈すると、面おもてを上げた寂さみしい頬に、唇紅あこう莞にっ爾こりして、
﹁前さっ刻き、憚はばかりへいらっしゃいます、廊下でお目に懸かかりましたよ。﹂
客僧も、今はなかなかに胴据すわりぬ。
﹁貴あな女たはどなたでございます。﹂
と尋ねたが、その時はほぼその誰なるかを知っているような気がしたのである。
美たお女やめは褄つまを深う居直って、蚊帳を透すかして打傾く。
萌もえ黄ぎが迫って、その衣きぬの色を薄く包んだ。
﹁この方の、母おっかさんのお知ちか己づき、明さんとも、お友達……﹂
と口を結んだが愁うれいを帯びた。
此こな方たは、じりじりと膝を向けて、
﹁ああ、貴女が、﹂
﹁あの、それに就きまして、貴あな僧たにお願いがございますが、どうぞお聞き下さいまし。﹂
とまた蚊帳越に打うち視ながめ、
﹁お最い愛としい、沢たん山とお窶やつれ遊ばした。罪も報むくいもない方が、こんなに艱かん難なん辛しん苦くして、命に懸けても唄が聞きたいとおっしゃるのも、母おっかさんの恋しさゆえ。
その唄を聞こう聞こうと、お思いなさいます心から、この頃では身も世も忘れて、まあ、私を懐なつかしがって、迷って恋におなりなすった。
その唄は稚おさない時、この方の母さんから、口移しに教おそわって、私は今も、覚えている。
こうまで、お憧こがれなさるもの、ちょっと一目お目にかかって、お聞かせ申もおしとうござんすけれど、今顔をお見せ申しますと、お慕いなさいます御心から、前後も忘れて夢見るように、袖に搦からんで手に縋すがり、胸に額を押当てて、母よ、姉よ、とおっしゃいますもの。
どうして貴あな僧た、摺すり抜ぬけられよう、突離されよう、振切られましょう、私は引寄せます、抱だき緊しめます。
と血を分けぬ、男と女は、天にも地にも許さぬ掟おきて。
私たちには自由自在――どの道浮世に背いた身から体だが、それでは外ほかに願いのある、私の願の邪魔になります。よしそれとても、棄すて身みの私、ただ最いと惜おしさ、可愛さに、気の狂い、心の乱れるに随まかせましても、覚悟の上なら私一人、自分の身は厭いといはしませぬ。
厭わぬけれど……明さんがそうすると、私たちと同おな一じような身の上になりますもの……
それはもう、この頃のお心では、明さんは本望らしい――本望らしい、﹂
とさも懸けそ想うしたらしく胸を抱いたが、鼻筋白く打背いて、
﹁あれあれ御覧なさいまし。こう言う中うちにも、明さんの母おっかさんが、花の梢こずえと見紛うばかり、雲間を漏れる高たか楼どのの、虹にじの欄てす干りを乗出して、叱りも睨にらみも遊ばさず、児この可愛さに、鬼とも言わず、私を拝んでいなさいます。お美しい、お優しい、あの御顔を見ましては、恋の血ちし汐おは葉に染めても、秋のあの字も、明さんの名に憚はばかって声には出ませぬ。
一言も交わさずに、ただ御顔を見たばかりでさえ、最いと愛おしさに覚悟も弱る。私は夫のござんす身から体だ。他ひとの妻でありながらも、母さんをお慕い遊ばす、そのお心の優しさが、身に染む時は、恋となり、不義となり、罪となる。
実の産うみの母御でさえ、一旦この世を去られし上は――幻にも姿を見せ、乳ちを呑ませたく添寝もしたい――我が児こ最いと惜しむ心さえ、天上では恋となる、その忌はば憚かりで、御遠慮遊ばす。
まして私は他人の事。
余計な御苦労かけるのが御ごふ不び便んさ。決して私は明さんに、在あり所かを知らせず隠れていたのに、つい膝ひざ許もとの稚おさないものが、粗相で手てま毬りを流したのが悪縁となりました。
彼かな方たも私も身を苦しめ、心を傷いためておりましたが、お生いの命ちの危あやういまでも、ここをおたち遊ばさぬゆえ、私わきへ参ります。
あんまりお心が可いじ傷らしい、さまでに思召すその毬唄は、その内時節が参りますと、自然にお耳へ入りましょう！
それは今、私がこの邸を退のきますと、もう隅々まで家中が明あかるくなる。明さんも思い直して、またここを出て旅た行び立ちをなさいます。
早や今でも沙さ汰たをする、この邸の不思議な事が、界かい隈わいへ拡がりますと、――近い処の、別荘にあの、お一方……﹂
四十四
﹁病やまいの後の保養に来ておいでなさいます、それはそれは美しい、余よ所その婦おん人なが、気軽な腰元の勧めるまま、徒つれ然づれの慰みに、あの宰八を内証で呼んで、︵鶴谷の邸の妖怪変化は、皆みんな私が手伝いの人と一所に、憂うさ晴はらしにしたいたずら遊あそ戯び、聞けば、怪我人も沢たん山と出来、嘉吉とやら気が違ったのもあるそうな、つい心ない、気の毒な、皆みんなの手当をよくするように。︶……
と白しろ銀がね黄こが金ねを沢たん山と授ける。
さあ、この事が世に聞えて、ぱっと風うわ説さの立たちますため、病人は心が引ひっ立たち、気の狂ったのも安心して治りますが、免のがれられぬ因縁で、その令おく室がたの夫というが、旅た行びさきの海から帰って、その風聞を耳にしますと――これが世にも恐ろしい、嫉妬深い男でござんす。――
その変へん化げ沙ざ汰たのある間、そこに籠こもった、という旅の少年。……
この明さんと、御自分の令おく室がたが、てっきり不義に極きわまった、と最早その時は言訳立たず。鶴谷の本宅から買い受けて、そしてこの空邸へ、その令室をとじ籠こめましょう。
貴あな僧た。
その美しい令おく室がたが、人に羞はじ、世に恥じて、一ひと室まど処ころを閉とじ切きって、自分を暗や夜みに封じ籠めます。
そして、日が経たつに従うて、見もせず聞きもせぬけれど、浮うき名なが立って濡ぬれ衣ぎぬ着た、その明さんが何となく、慕わしく、懐かしく、果はては恋しく、憧あこ憬がれる。切ない思い、激しい恋は、今、私の心、また明さんの、毬唄聞こうと狂うばかりの、その思おもいと同おな一じ事。
一ひと歳とせか、二ふた歳とせか、三みと歳せの後か、明さんは、またも国々を廻めぐり、廻って、唄は聞かずに、この里へ廻って来て、空家懐なつかし、と思いましょう。
そうなる時には、令おく室がたの、恋の染まった霊たま魂しいが、五色しきかがりの手毬となって、霞川に流れもしよう。明さんが、思いの丈を吐つく息は、冷たき煙と立たちのぼって、中空の月も隠れましょう。二人の情なさけの火が重かさなり、白き炎の花となって、襖ふすま障しょ子うじも燃えましょう。日、月でもなし、星でもなし、灯ともしびでもない明あかりに、やがて顔を合わせましょう。
邸は世界の暗やみだのに。……この十畳は暗いのに。……
明さんの迷った目には、煤すすも香を吐く花かと映り、蜘蛛の巣は名めい香こうの薫かおりが靡なびく、と心時めき、この世の一すべ切てを一ひと室まに縮めて、そして、海よりもなお広い、金銀珠玉の御殿とも、宮とも見えて、令おく室がたを一目見ると、唄の女神と思い祟あがめて、跪ひざまずき、伏拝む。
長く冷たき黒髪は、玉の緒を揺ゆる琴の糸の肩に懸かかって響くよう、互たがいの口へ出ぬ声は、膚はだに波立つ血ちし汐おとなって、聞こえぬ耳に調しらべを通わす、幽かすかに触る手と手の指は、五ツと五ツと打合って、水晶の玉の擦れる音、戦わななく裳もすそと、震える膝ひざは、漂う雲に乗る心地。
ああこれこそ、我が母君……と縋すがり寄れば、乳房に重く、胸に軽かろく、手に柔かく腕かいなに撓たゆく、女は我を忘れて、抱く――
我わが児こ危い、目め盲しいたか。罪に落つる谷底の孤ひと家つやの灯とも辿たどれよ。と実の母君の大空から、指さしたまう星の光は、電いなずまとなって壁に閃ひらめき、分れよ、退のけよ、とおっしゃる声は、とどろに棟に鳴渡り、涙は降って雨となる、情なさけの露は樹に灌そそぎ、石に灌ぎ、草さえ受けて、暁の旭あさひの影には瑠る璃り、紺こん青じょう、紅くれないの雫しずくともなるものを。
罪の世の御二人には、ただ可おそ恐ろしく、凄すさまじさに、かえって一層、ひしひしと身を寄せる。
そのあわれさに堪えかねて、今ほども申しました、児こを思うさえ恋となる、天上の規のりを越えて、掟おきてを破って、母君が、雲の上の高たか楼どのの、玉の欄らん干かんにさしかわす、桂かつらの枝を引寄せて、それに縋すがって御殿の外へ。
空に浮うかんだおからだが、下界から見る月の中から、この世へ下りる間には、雲が倒さかさまに百千万千、一億万丈の滝となって、ただどうどうと底知れぬ下界の霄そらへ落ちている。あの、その上を、ただ一ひと条すじ、霞のような御おす裳そでも、撓たわわに揺れる一ひと枝えだの桂をたよりになさる危あぶなさ。
おともだちの上じょたちが、ふと一人見着けると、にわかに天楽の音ねを留とどめて、はらはらと立たちかかって、上へ桂を繰り上げる。引留められて、御姿が、またもとの、月の前へ、薄色のお召物で、笄こうがいがキラキラと、星に映って見えましょう。
座敷で暗やみから不意にそれを。明さんは、手を取合ったは仇あだし婦おんな、と気が着くと、襖ふすまも壁も、大だい紅ぐれ蓮ん。跪つい居いる畳は針の筵むしろ。袖には蛇くちなわ、膝には蜥とか蜴げ、目まの前あたり見る地獄の状さまに、五体はたちまち氷となって、慄ぞ然っとして身を退ひきましょう。が、もうその時は婦おん人なの一念、大鉄てっ槌ついで砕かれても、引寄せた手を離しましょうか。
胸の思おもいは火となって、上手が書いた金銀ぢらしの錦にし絵きえを、炎に翳かざして見るような、面おもても赫かっと、胡ごふ粉んに注いだ臙えん脂じの目めも許とに、紅くれないの涙を落すを見れば、またこの恋も棄てられず。恐おそ怖れと、恥は羞じに震う身は、人ひと膚はだの温あたたかさ、唇の燃ゆるさえ、清く涼しい月の前の母君の有様に、懐なつかしさが劣らずなって、振切りもせず、また猶ため予らう。
思余って天上で、せめてこの声きこえよと、下界の唄をお唄いの、母君の心を推おし量はかって、多勢の上たちも、妙なる声をお合せある――唄はその時聞えましょう。明さんが望のぞみの唄は、その自然の感応で、胸へ響いて、聞えましょう。﹂
と、神々しいまで面おもて正しく。……
僧は合掌して聞くのであった。
そして、その人、その時、はた明を待つまでもない、この美たお人やめの手、一たび我に触れなば、立たち処どころにその唄を聞き得るであろうと思った。
四十五
美たお人やめは更あらためて、
﹁貴あな僧た、この事を、ただ貴僧の胸ばかりに、よくお留め遊ばして、おっしゃってはなりません。これは露ほども明かさずに、今の処、明さんを、よしなに慰めて上げて下さいまし。
日頃のお苦くるしみに疲れてか、まあ、すやすやとよく寝て、﹂
と、するすると寄った、姿が崩れて、ハタと両手を畳につくと、麻の薫かおりがはっとして、肩に萌もえ黄ぎの姿つめたく、薄うす紅くれないが布目を透いて、
﹁明あきちゃん……﹂
と崩るるごとく、片かた頬ほを横に接つけんとしたが、屹きっと立たち退のいて、袖を合せた。
僧を見る目に涙が宿って、
﹁それではお暇いとまいたしましょう。稚おさない事を、貴あな僧たにはお恥かしいが、明さんに一式のお愛あい相そに、手毬をついて見せましょう、あの……﹂
と掛けた声の下。雪ぼん洞ぼりの真まん中なかを、蝶々のように衝つと抜けて、切きり禿かむろで兎うさぎの顔した、女めの童わらわが、袖に載のせて捧げて来た。手毬を取って、美たお女やめは、掌たなそこの白きが中に、魔界はしかりや、紅梅の大いなる莟つぼみと掻かい撫なでながら、袂たもとのさきを白しら歯はで含むと、ふりが、はらりと襷たすきにかかる。
たけた笑えみ、恍うっ惚とりして、
﹁まあ、私ばかり極きまりが悪い、皆さんも来ておつきでないか。﹂
蚊帳をはらはら取巻いたは、桔きき梗ょう刈かる萱かや、美うつくしや、萩はぎ女おみ郎なえ花し、優しや、鈴虫、松虫の――声々に、
（向うの小沢 に蛇 が立って、
八幡 長者のおと女 、
よくも立ったり、企 んだり、
手には二本の珠を持ち、
足には黄金 のくつを穿 き……）
よくも立ったり、
手には二本の珠を持ち、
足には
壁も襖ふすまも、もみじした、座敷はさながら手毬の錦――落ちた木この葉も、ぱらぱらと、行あん燈どうを繞めぐって操る紅くれない。中を縢かがって雪の散るのは、幾つとも知れぬ女の手と手。その手先が、心なしにちょいちょい触ると、僧の手首が自おの然ずからはたはたと躍おど上りあがった。
（京へのぼせて狂言させて、
寺へのぼせて［＃「のぼせて」は底本では「のぼせた」］手習 させて、
寺の和尚が道楽和尚で、
高い縁から突落されて、）
寺へのぼせて［＃「のぼせて」は底本では「のぼせた」］
寺の和尚が道楽和尚で、
高い縁から突落されて、）
と衝つと投げ上げて、トンと落して、高くついた。
待てよ。古ふる郷さとの涅ねは槃ん会えには、膚はだに抱き、袂たもとに捧げて、町方の娘たち、一人が三ツ二ツ手毬を携え、同じように着飾って、山寺へ来て突つき競くらを戯れる習なら慣いがある。少わかい男は憚はばかって、鐘かね撞つき堂から覗のぞきつつその遊あそ戯びに見み愡とれたが……巨おお刹でらの黄たそ昏がれに、大勢の娘の姿が、遥はるかに壁に掛かかった、極彩色の涅ねは槃んの絵と、同おな一じさ状まに、一幅の中へ縮まった景色の時、本堂の背うし後ろ、位いは牌いど堂うの暗い畳廊下から、一人水際立った妖うつ艶くしいのが、突きはせず、手鞠を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔場を隔てた几きち帳ょう窓まどの前を通る、と見ると、もう誰の蔭になったか人ひと数かずに紛れてしまった。それだ、この人は、いや、その時と寸分違わぬ――
と僧は心に――大方明も鐘撞堂から、この状さまを、今視ながめている夢であろう。何かの拍子に、その鐘が鳴ると目が覚めよう、と思う内……
身みじ動ろぎに、この美たお女やめの鬢びんの後おくれ毛、さらさらと頬に掛かかると、その影やらん薄曇りに、目まぶちのあたりに寂しくなりぬ。
（笄 落し小枕 落し……）
と綾あやに取る、と根が揺らいで、さっと黒髪が肩に乱るる。
みだれし風とり采なり恥かしや、早これまでと思うらん。落した手毬を、女めの童わらわの、拾って抱くのも顧みず、よろよろと立たちかかった、蚊帳に姿を引寄せられ、褄つまのこぼれた立姿。
屋の棟熟じっと打仰いで、
﹁あれ、あれ、雲が乱るる。――花の中に、母君の胸が揺ゆらぐ。おお、最いと惜おしの御お子こに、乳飲まそうと思召すか。それとも、私が挙ふる動まいに、心騒ぎのせらるるか。客あな僧たが方たには見えまいが、地じの底に棲すむものは、昼も星の光を仰ぐ。御姿かたちは、よく見えても、かしこは天宮、ここは地獄、言ことばといっては交わされない。
美しき夢見るお方、﹂
あれ、かしこに母君在ましますぞや。愛あい惜じゃくの一念のみは、魔界の塵ちりにも曇りはせねば、我が袖、鏡と御覧ぜよ。今、この瞳に宿れる雫しずくは、母君の御おん情なさけの露を取次ぎ参らする、乳ちの滴したたりぞ、と袂たもとを傾け、差寄せて、差さし俯うつむき、はらはらと落涙して、
﹁まあ、稚おさ児なごの昔にかえって、乳を求めて、……あれ、目を覚す……﹂
さらば、さらば、御おん僧そう。この人夢の覚めぬ間に、と片手をついて、わかれの会釈。
ト玄関から、庭にわ前さきかけて、わやわやざわざわ、物音、人声。
目を擦こすり、目をり、目を拭ぬぐいいる客僧に立別れて、やがて静しず々しず――狗いぬの顔した腰元が、ばたばたと前さきへ立ち、炎燃ゆ、と緋ひのちらめく袖口で音なく開けた――雨戸に鏤ちりばむ星の首かど途いで。十四日の月の有明に、片頬を見せた風とり采なりは、薄雲の下に朝顔の莟つぼみの解けた風情して、うしろ髪、打うち揺ゆらぎ、一たび蚊帳を振返る。
﹁やあ、﹂
と、蚊帳を払って、明が飜ひら然りと飛んで縋すがった。――
袂を支える旅僧と、押おし揉もむ二人の目の前さきへ、この時ずか、と顕あらわれた偉人の姿、靄もやの中なる林のごとく、黄なる帷かた子びら、幕を蔽おおうて、廂ひさしへかけて仁にお王うだ立ち、大音に、
﹁通るぞう。﹂
と一喝した。
﹁はっ、﹂
と云うと、奇異なのは、宵に宰八が一杯――汲くんで来て、――縁の端はし近ぢかに置いた手てお桶けが、ひょい、と倒さか斛とん斗ぼに引ひっくりかえると、ざぶりと水を溢こぼしながら、アノ手でつかつかと歩あ行るき出した。
その後を水が走って、早や東しの雲のめの雲白く、煙のような潦にわたずみ、庭の草を流るる中に、月が沈んで舟となり、舳へさきを颯さっと乗上げて、白おし粉ろいの花越しに、すらすらと漕こいで通る。大魔の袖や帆となりけん、美たお女やめは船の几きち帳ょうにかくれて、
り、目を拭ぬぐいいる客僧に立別れて、やがて静しず々しず――狗いぬの顔した腰元が、ばたばたと前さきへ立ち、炎燃ゆ、と緋ひのちらめく袖口で音なく開けた――雨戸に鏤ちりばむ星の首かど途いで。十四日の月の有明に、片頬を見せた風とり采なりは、薄雲の下に朝顔の莟つぼみの解けた風情して、うしろ髪、打うち揺ゆらぎ、一たび蚊帳を振返る。
﹁やあ、﹂
と、蚊帳を払って、明が飜ひら然りと飛んで縋すがった。――
袂を支える旅僧と、押おし揉もむ二人の目の前さきへ、この時ずか、と顕あらわれた偉人の姿、靄もやの中なる林のごとく、黄なる帷かた子びら、幕を蔽おおうて、廂ひさしへかけて仁にお王うだ立ち、大音に、
﹁通るぞう。﹂
と一喝した。
﹁はっ、﹂
と云うと、奇異なのは、宵に宰八が一杯――汲くんで来て、――縁の端はし近ぢかに置いた手てお桶けが、ひょい、と倒さか斛とん斗ぼに引ひっくりかえると、ざぶりと水を溢こぼしながら、アノ手でつかつかと歩あ行るき出した。
その後を水が走って、早や東しの雲のめの雲白く、煙のような潦にわたずみ、庭の草を流るる中に、月が沈んで舟となり、舳へさきを颯さっと乗上げて、白おし粉ろいの花越しに、すらすらと漕こいで通る。大魔の袖や帆となりけん、美たお女やめは船の几きち帳ょうにかくれて、
（ここはどこの細道じゃ、
細道じゃ、
天神様の細道じゃ、
細道じゃ、
少し通して下さんせ……）
細道じゃ、
天神様の細道じゃ、
細道じゃ、
少し通して下さんせ……）
最いと切せめて懐なつかしく聞ゆ、とすれば、樹こだ立ちの茂しげりに哄どっと風、木の葉、緑の瀬を早み……横雲が、あの、横雲が。
明治四十一︵一九〇八︶年一月