一
加賀の国黒くろ壁かべは、金沢市の郊外一里りて程いの処にあり、魔境を以もって国こく中ちゅうに鳴る。蓋けだし野のだ田や山まの奥、深林幽暗の地たるに因れり。
ここに摩利支天を安置し、これに冊かしずく山伏の住すまえる寺院を中心とせる、一いち落らくの山さん廓かくあり。戸数は三十有余にて、住民殆ほとんど四五十なるが、いずれも俗ぞく塵じんを厭いといて遯とん世せいしたるが集りて、悠々閑日月を送るなり。
されば夜よとなく、昼となく、笛、太鼓、鼓などの、舞まい囃ばや子しの音に和かして、謡うたいの声起り、深更時ならぬに琴、琵び琶わなど響ひびき微かすかに、金沢の寝耳に達する事あり。
一ひと歳とせ初夏の頃より、このあたりを徘はい徊かいせる、世にも忌いまわしき乞こじ食きそ僧うあり、その何いず処こより来りしやを知らず、忽こつ然ぜん黒壁に住める人の眼界に顕あらわれしが、殆ど湿地に蛆うじを生ずる如ごとく、自然に湧わき出でたるやの観ありき。乞食僧はその年と紀し三十四五なるべし。寸ずた々ずたに裂けたる鼠の法ころ衣もを結び合せ、繋つなぎ懸けて、辛うじてこれを絡まとえり。
容よう貌ぼう甚だ憔しょ悴うすいし、全身黒み痩やせて、爪つめ長く髯ひげ短し、ただこれのみならむには、一般乞こつ食じきと変わらざれども、一度その鼻を見る時は、誰たれ人ひとといえども、造化の奇を弄ろうするも、また甚だしきに、驚かざるを得ざるなり。鼻は大にして高く、しかも幅広に膨れたり。その尖さきは少しく曲ゆがみ、赤く色着きて艶つやあり。鼻の筋通りたれば、額より口の辺あたりまで、顔は一面の鼻にして、痩せたる頬ほおは無きが如く、もし掌たなそこを以て鼻を蔽おおえば、乞食僧の顔は隠れ去るなり。人ありて遠くより渠かれを望む時は、鼻が杖つえを突きて歩むが如し。
乞食僧は一条の杖を手にして、しばらくもこれを放つことなし。
杖は※かぎ状のて﹇＃﹁かぎかっこ、﹁、の左右反転﹂、137-5﹈の自じね然んぼ木くなるが、その曲りたる処に鼻を凭もたせつ、手は後うし様ろざまに骨盤の辺あたりに組み合せて、所作なき時は立ちながら憩いぬ。要するに吾ごじ人んが腰掛けて憩うが如く、乞食僧にありては、杖が鼻の椅い子すなりけり。
奇絶なる鼻の持主は、乞きっ丐かいの徒には相違なきも、強あながち人の憐れん愍みんを乞わず、かつて米銭の恵与を強いしことなし。喜捨する者あれば鷹おう揚ように請取ること、あたかも上人が檀だん越えつの布施を納むるが如き勿もっ体たい振りなり。
人もしその倨きょ傲ごうなるを憎みて、些さの米銭を与えざらむか、乞食僧は敢あえて意となさず、決してまた餓うえむともせず。
この黒壁には、夏かこ候う一疋ぴきの蚊もなしと誇るまでに、蝦が蟇まの多き処なるが、乞食僧は巧たくみにこれを漁あさりて引裂き啖くらうに、約おおむね一いっ夕せき十数疋を以て足れりとせり。
されば乞食僧は、昼間何いず処くにか潜伏して、絶えて人に見まみえず、黄こう昏こん蝦蟇の這はい出いづる頃を期して、飄ひょ然うぜんと出現し、ここの軒下、かしこの塀際、垣根あたりの薄うす暗くら闇やみに隠見しつつ、腹に充みたして後はまた何いず処かたへか消え去るなり。
二
ここに醜怪なる蝦がま蟇ほ法う師しと正反対して、玲れい瓏ろう玉を欺く妙齢の美人ありて、黒壁に住すま居いせり。渠かれは清川お通とて、親も兄弟もあらぬ独ひと身りみなるが、家を同じくする者とては、わずかに一人にんの老おう媼なあるのみ、これその婢ひなり。
お通は清川何なに某がしとて、五百石を領せし旧藩士の娘なるが、幼にして父を失い、去おと々と年しまた母を失い、全く孤独の身とはなり果てつ、知れる人の嫁入れ、婿娶とれと要らざる世話を懊うる悩さく思いて、母の一周忌の終るとともに金沢の家を引払い、去こ年ぞよりここに移りたるなり。もとより巨額の公債を有し、衣食に事欠かざれば、花かし車ゃ風流に日を送りて、何の不足もあらざる身なるに、月の如くその顔かんばせは一片の雲に蔽おおわれて晴るることなし。これ母親の死を悲かなしみ別わか離れに泣きし涙の今なお双そう頬きょうに懸かかれるを光陰の手も拭ぬぐい去るあたわざるなりけり。
読書、弾琴、月雪花、それらのものは一つとして憂愁を癒いやすに足らず、転うたた懐旧の媒なかだちとなりぬ。ただ野田山の墳墓を掃はらいて、母上と呼びながら土に縋すがりて泣き伏すをば、此こ上よ無なき娯たの楽しみとして、お通は日課の如く参さん詣けいせり。
七月の十五日は殊に魂たま祭まつりの当日なれば、夕ゆう涼すずみより家を出でて独り彼かし処こに赴きけり。
野田山に墓は多けれど詣もう来でくる者いと少なく墓守もる法師もあらざれば、雑草生おい茂しげりて卒そ塔と婆ば倒れ断だん塚ちょ壊うか墳いふん﹇＃﹁壊墳﹂は底本では﹁懐墳﹂﹈算を乱して、満目転うたた荒涼たり。
いつも変らぬことながら、お通は追懐の涙を灌そそぎ、花を手向けて香を燻くんじ、いますが如く斉かし眉ずきて一いっ時とき余あまりも物語りて、帰宅の道は暗うなりぬ。
急いそ足ぎあしに黒壁さして立戻る、十間けんばかり間あいを置きて、背うし後ろよりぬき足さし足、密ひそかに歩を運ぶはかの乞食僧なり。渠かれがお通のあとを追うは殆ほとんど旬じゅ日んじ前つぜんよりにして、美人が外出をなすに逢おうては、影の形に添う如く絶えずそこここ附つき絡まとうを、お通は知らねど見たる者あり。この夕ゆうべもまた美人をその家まで送り届けし後、杉の根の外おもてに佇たたずみて、例の如く鼻に杖つえをつきて休らいたり。
時に一いち縷るの暗あん香こうありて、垣の内より洩もれけるにぞ法師は鼻を蠢うごめかして、密に裡うちを差さし覗のぞけば、美人は行水を使いしやらむ、浴衣涼しく引ひき絡まとい、人目のあらぬ処なれば、巻まき帯おび姿すがた繕わで端はし居いしたる、胸のあたりの真白きに腰の紅くれない照添いて、眩まばゆきばかり美うるわしきを、蝦蟇法師は左とみ瞻こ右う視み、或あるいは手を掉ふり、足を爪つま立だて、操人形が動くが如き奇異なる身みぶ振りをしたりとせよ、何思いけむ踵くびすを返し、更に迂うか回いして柴しお折り戸どのある方かたに行ゆき、言葉より先に笑懸けて、﹁暖き飯一膳ぜん与えたまえ、﹂と巨おおいなる鼻を庭にわ前さきへ差出しぬ。
未いまだ乞食僧を知らざる者の、かかる時不意にこの鼻に出会いなば少なくとも絶叫すべし、美人はすでに渠かれを知れり。且つその狂か、痴ちか、いずれ常識無き阿あほ房うなるを聞きたれば、驚ける気色も無くて、行水に乱みだ鬢れびんの毛を鏡に対して撫なで附つけいたりけり。
蝦蟇法師はためつすがめつ、さも審いぶかしげに鼻を傾けお通が為なせる業わざを視ながめたるが、おかしげなる声を発し、﹁それは﹂と美人の手にしたる鏡を指して尋ねたり。妙なることを聞く者よとお通はわずかに見返りて、﹁鏡﹂とばかり答えたり。阿房はなおも推おし返かえして、﹁何なんの用にするぞ﹂と問いぬ。﹁姿を映して見るものなり、御おん僧そうも鼻を映して見たまえかし。﹂といいさま鏡を差向けつ。蝦蟇法師は飛とび退すさりて、さも恐れたる風情にて鼻を飛ばして遁にげ去さりける。
これを語り次ぎ伝え聞きて黒壁の人々は明あきらかに蝦蟇法師の価値を解したり。なお且つ、渠かれ等らは乞食僧のお通に対して馬鹿々々しき思いを運ぶを知りたれば、いよいよその阿房なることを確めぬ。
さりながら鏡を示されし時乞食僧は逃げ去りつつ人知れず左記の数言を呟つぶやきたり。
﹁予は自ら誓えり、世を終るまで鏡を見じと、然しかり断じて鏡を見まじ。否これを見ざるのみならず、今思おも出いいだしたる鏡という品ものの名さえ、務めて忘れねばならぬなり。﹂
三
蝦がま蟇ほ法う師しがお通に意あるが如き素そぶ振りを認めたる連中は、これをお通が召使の老おう媼なに語りて、且つ戯たわぶれ、且つ戒めぬ。
毎夕納すず涼みだ台いに集る輩やからは、喋ちょ々うちょうしく蝦蟇法師の噂うわさをなして、何者にまれ乞食僧の昼間の住家を探り出だして、その来歴を発みい出ださむ者には、賭かけ物ものとして金きん一円を抛なげうたむと言いあえりき、一いっ夕せきお通は例の如く野田山に墓参して、家に帰れば日は暮れつ。火を点じて後、窓を展ひらきて屋外の蓮れん池ちを背せなにし、涼を取りつつ机に向むかいて、亡き母の供養のために法ほけ華きょ経うぞ写したる。その傍かたわらに老媼ありて、頻しきりに針を運ばせつ。時にかの蝦蟇法師は、どこを徘はい徊かいしたりけむ、ふと今ここに来きたれるが、早くもお通の姿を見て、眼まなこを細め舌なめずりし、恍こう惚こつたるもの久しかりし、乞食僧は美人臭しとでも思えるやらむ、むくむく鼻を蠢うごめかし漸しだ次いに顔を近附けたる、面つらが格子を覗のぞくとともに、鼻は遠慮なく内へ入いりて、お通の頬ほおを掠かすめむとせり。
珍ちん客かくに驚きて、お通はあれと身を退のきしが、事の余りに滑こっ稽けいなるにぞ、老婆も叱こご言という遑いとまなく、同時に吻ほ々ほと吹き出しける。
蝦蟇法師は
りて、歓心を購あがなえりとや思いけむ、悦えつ気き満面に満ち溢あふれて、うな、うな、と笑いつつ、頻しきりにものを言い懸けたり。
お通はかねて忌いみ嫌きらえる鼻がものいうことなれば、冷然として見も返らず。老媼は更に取合ねど、鼻はなおもずうずうしく、役にも立たぬことばかり句切もなさで饒しゃ舌べり散ちらす。その懊うる悩ささに堪えざれば、手を以て去れと命ずれど、いっかな鼻は引ひっ込こまさぬより、老媼はじれてやっきとなり、手にしたる針の尖さきを鼻の天あた窓まに突立てぬ。
あわれ乞食僧は留とどめを刺されて、﹁痛し。﹂と身から体だを反そり返かえり、涎よだれをなすりて逸いち物もつを撫なで廻まわし撫廻し、ほうほうの体ていにて遁にげ出いだしつ。走り去ること一町ばかり、俄がぜ然ん留とどまり振返り、蓮池を一つ隔てたる、燈とも火しびの影を屹きっと見し、眼まなこの色はただならで、怨えん毒どくを以て満たされたり。その時乞食僧は杖つえを掉ふり上あげ、﹁手段のいかんをさえ問わざれば何の望のぞみか達せざらむ。﹂
かくは断だん乎ことして言放ち、大地をひしと打うち敲たたきつ、首を縮め、杖をつき、徐おもむろに歩を回めぐらしける。
その背うし後ろより抜足差足、密ひそかに後をつけて行ゆく一いち人にんの老媼あり。これかのお通の召使が、未いまだ何なん人ぴとも知り得ざる蝦蟇法師の居所を探りて、納すず涼みだ台いが賭かけ物ものしたる、若干の金きん子すを得むと、お通の制とどむるをも肯きかずして、そこに追及したりしなり。呼い吸きを殺して従い行ゆくに、阿あほ房うはさりとも知らざる状さまにて、殆ほとんど足を曳ひき摺ずる如く杖に縋すがりて歩あ行ゆみ行ゆけり。
人里を出いで離はなれつ。北の方角に進むことおよそ二町ばかりにて、山尽きて、谷となる。ここ嶮けん峻しゅんなる絶壁にて、勾こう配ばいの急なることあたかも一帯の壁に似たり、松杉を以て点てん綴てつせる山間の谷なれば、緑樹長とこしえに陰をなして、草木が漆黒の色を呈するより、黒壁とは名附くるにて、この半腹の洞どう穴けつにこそかの摩利支天は祀まつられたれ。
遥はるかに瞰みお下ろす幽谷は、白はく日じつ闇あんの別境にて、夜昼なしに靄もやを籠こめ、脚下に雨のそぼ降る如く、渓流暗に魔言を説きて、啾しゅ々うしゅうたる鬼気人を襲う、その物もの凄すごさ謂いわむ方なし。
まさかこことは想わざりし、老媼は恐怖の念に堪えず、魑ちみ魅もう魍りょ魎う隊をなして、前途に塞ふさがるとも覚しきに、慾よくにも一歩を移し得で、あわれ立たち竦すくみになりける時、二点の蛍光此こな方たを見向き、一喝して、﹁何者ぞ。﹂掉ふり冠かむれる蝦蟇法師の杖の下もとに老媼は阿あわ呀やと蹲うず踞くまりぬ。
蝦蟇法師は流しり眄めに懸け、﹁へ、へ、へ、うむ正に此こや奴つなり、予が顔を傷附けたる、大胆者、讐しか返えしということのあるを知らずして﹂傲ごう然ぜんとしてせせら笑う。
これを聞くより老媼はぞっと心臓まで寒くなりて、全体氷つら柱らに化したる如く、いと哀れなる声を発して、﹁命ばかりはお助けあれ。﹂とがたがた震えていたりける。
四
さるほどに蝦がま蟇ほ法う師しはあくまで老おう媼なの胆きもを奪いて、﹁コヤ老媼、汝なんじの主婦を媒なか妁だちして我わが執念を晴らさせよ。もし犠いけ牲にえを捧げざれば、お通はもとより汝もあまり好よきことはなかるべきなり、忘れてもとりもつべし。それまで命を預け置かむ、命いの冥ちみ加ょうがな老おい耆ぼれめが。﹂と荒あららかに言いい棄すてて、疾風土を捲まいて起ると覚しく、恐る恐る首こうべを擡もたげあぐれば、蝦蟇法師は身を以て隕おとすが如く下くだり行ゆき、靄もやに隠れて失うせたりけり。
やれやれ生いの命ちを拾いたりと、真まっ蒼さおになりて遁にげ帰かえれば、冷たくなれる納すず台みだいにまだ二三人居残りたるが、老媼の姿を見るよりも、﹁探検し来りしよな、蝦蟇法師の住すま居いは何いず処こ。﹂と右左より争い問われて、答うる声も震えながら、﹁何がなし一件じゃ、これなりこれなり。﹂と、握にぎ拳りこぶしを鼻の上にぞ重かさねたる、乞食僧の人物や、これを痴ちと言いわむよりはたまた狂と言むより、もっとも魔たるに適するなり。もししからずば少なくとも魔法使に適するなり。
かかりし後法師の鼻は甚だ威勢あるものとなりて、暗あん裡り人をして恐れしめ、自然黒壁を支配せり。こは一般に老ろう若にゃくが太いたく魔僧を忌いみ憚はばかかり、敬して遠ざからむと勤めしよりなり、誰たれか妖よう星せいの天に帰して、眼界を去らむことを望まざるべき。
ここに最もそのしからむことを望む者は、蝦蟇と、清川お通となり。いかんとなればあまたの人の嫌悪に堪えざる乞食僧の、黒壁に出没するは、蝦蟇とお通のあるためなりと納すず涼みだ台いにて語り合えるを美人はふと聞きき噛かじりしことあればなり、思うてここに到る毎ごとに、お通は執心の恐しさに、﹁母上、母上﹂と亡母を念じて、己おのが身辺に絡まつ纏わりつつある淫いん魔まを却しりぞけられむことを哀願しき。お通の心は世に亡き母の今もその身とともに在おわして、幼少のみぎりにおけるが如くその心願を母に請えば、必ず肯きかるべしと信ずるなり。
さりながらいかにせむ、お通は遂ついに乞食僧の犠牲にならざるべからざる由老媼の口より宣告されぬ。
前日、黒壁に賁ふん臨りんせる蝦蟇法師への貢みつぎとして、この美人を捧げざれば、到底好よき事はあらざるべしと、恫どう
的かつてきに乞食僧より、最も渠かれを信仰してその魔法使たるを疑わざる件くだんの老媼に媒なか妁だちすべく言込みしを、老媼もお通に言出しかねて一いち日じつ免のがれに猶ため予らいしが、厳しく乞食僧に催促されて、謂いわで果つべきことならねば、止むことを得で取次たるなり。しかるにお通は予あらかじめその趣を心得たれば、老媼が推測りしほどには驚かざりき。
美人は冷然として老媼を諭しぬ、﹁母上の世に在いまさば何とこれを裁きたまわむ、まずそれを思い見よ、必ずかかる乞食の妻となれとはいいたまわじ。﹂と謂われて返さむ言ことばも無けれど、老媼は甚だしき迷信者じゃなれば乞食僧の恐きょ喝うかつを真まこととするにぞ、生いの命ちに関わる大事と思いて、﹁彼かや奴つは神じん通ずう広こう大だいなる魔法使にて候えば、何を仕し出いださむも料はかり難がたし。さりとて鼻に従いたまえと私わたくし申上げはなさねども、よき御分別もおわさぬか。﹂と熱心に云えば冷ひややかに、﹁いや、分別も何もなし、たといいかなることありとも、母上の御みこ心ころに合わぬ事は誓ってせまじ。﹂
と手強き謝絶に取附く島なく、老媼は太いたく困こうじ果てしが、何思いけむ小こひ膝ざを拍うち、﹁すべて一心固かたまりたるほど、強く恐しき者はなきが、鼻が難題を免れむには、こっちよりもそれ相当の難題を吹込みて、これだけのことをしさえすれば、それだけの望のぞみに応ずべしとこういう風に談ずるが第い一ち手の段てに候なり、昔むか語しがたりにさること侍はべりき、ここに一ひと条すじの蛇くちなわありて、とある武もの士のふの妻に懸けそ想うなし、頑かたくなにしょうじ着きて離るべくもなかりしを、その夫何なに某がし智ち慧えある人にて、欺きて蛇に約し、汝なんじ巨おお鷲わしの頭三み個つを得て、それを我に渡しなば、妻をやらむとこたえしに、蛇はこれを諾うべないて鷲と戦い亡ほろ失びうせしということの候なり。されど今憖なまじいに鷲の首などと謂いう時は、かの恐しき魔法使の整え来ぬとも料はかり難く因りて婆ば々ばが思案には、︵其そな方たの言分承知したれど、親の許ゆるしのなくてはならず、母上だに引ひき承うけたまわば何なん時どきにても妻とならん、去ってまず母上に請こい来きたれ︶と、かように貴あな娘たが仰せられし、と私わたくしより申さむか、何がさて母君は疾とくに世に亡き御おん方かたなれば、出来ぬ相談と申すもの、とても出来ない相談の出来よう筈はずのなきことゆえ、いかなる鼻もこれには弱りて、しまいに泣寝入となるは必ひつ定じょう、ナニ御心配なされまするな、﹂と説く処の道もっ理ともなるに、お通もうかと頷うなずきぬ。かくて老媼がこのよしを蝦蟇法師に伝えて後、鼻は黒壁に見えずなれり。
さては旨うまいぞシテ操やったり、とお通にはもとより納すず涼みだ台いにも老媼は智慧を誇りけるが、奚いずくんぞ知らむ黒壁に消えし蝦蟇法師の、野田山の墓地に顕あらわれて、お通が母の墳墓の前に結けっ跏か趺ふ坐ざしてあらむとは。
その夕ゆうべもまたそこに詣もうでし、お通は一目見て蒼あおくなりぬ。
明治三十五︵一九〇二︶年一月
りて、歓心を購あがなえりとや思いけむ、悦えつ気き満面に満ち溢あふれて、うな、うな、と笑いつつ、頻しきりにものを言い懸けたり。
お通はかねて忌いみ嫌きらえる鼻がものいうことなれば、冷然として見も返らず。老媼は更に取合ねど、鼻はなおもずうずうしく、役にも立たぬことばかり句切もなさで饒しゃ舌べり散ちらす。その懊うる悩ささに堪えざれば、手を以て去れと命ずれど、いっかな鼻は引ひっ込こまさぬより、老媼はじれてやっきとなり、手にしたる針の尖さきを鼻の天あた窓まに突立てぬ。
あわれ乞食僧は留とどめを刺されて、﹁痛し。﹂と身から体だを反そり返かえり、涎よだれをなすりて逸いち物もつを撫なで廻まわし撫廻し、ほうほうの体ていにて遁にげ出いだしつ。走り去ること一町ばかり、俄がぜ然ん留とどまり振返り、蓮池を一つ隔てたる、燈とも火しびの影を屹きっと見し、眼まなこの色はただならで、怨えん毒どくを以て満たされたり。その時乞食僧は杖つえを掉ふり上あげ、﹁手段のいかんをさえ問わざれば何の望のぞみか達せざらむ。﹂
かくは断だん乎ことして言放ち、大地をひしと打うち敲たたきつ、首を縮め、杖をつき、徐おもむろに歩を回めぐらしける。
その背うし後ろより抜足差足、密ひそかに後をつけて行ゆく一いち人にんの老媼あり。これかのお通の召使が、未いまだ何なん人ぴとも知り得ざる蝦蟇法師の居所を探りて、納すず涼みだ台いが賭かけ物ものしたる、若干の金きん子すを得むと、お通の制とどむるをも肯きかずして、そこに追及したりしなり。呼い吸きを殺して従い行ゆくに、阿あほ房うはさりとも知らざる状さまにて、殆ほとんど足を曳ひき摺ずる如く杖に縋すがりて歩あ行ゆみ行ゆけり。
人里を出いで離はなれつ。北の方角に進むことおよそ二町ばかりにて、山尽きて、谷となる。ここ嶮けん峻しゅんなる絶壁にて、勾こう配ばいの急なることあたかも一帯の壁に似たり、松杉を以て点てん綴てつせる山間の谷なれば、緑樹長とこしえに陰をなして、草木が漆黒の色を呈するより、黒壁とは名附くるにて、この半腹の洞どう穴けつにこそかの摩利支天は祀まつられたれ。
遥はるかに瞰みお下ろす幽谷は、白はく日じつ闇あんの別境にて、夜昼なしに靄もやを籠こめ、脚下に雨のそぼ降る如く、渓流暗に魔言を説きて、啾しゅ々うしゅうたる鬼気人を襲う、その物もの凄すごさ謂いわむ方なし。
まさかこことは想わざりし、老媼は恐怖の念に堪えず、魑ちみ魅もう魍りょ魎う隊をなして、前途に塞ふさがるとも覚しきに、慾よくにも一歩を移し得で、あわれ立たち竦すくみになりける時、二点の蛍光此こな方たを見向き、一喝して、﹁何者ぞ。﹂掉ふり冠かむれる蝦蟇法師の杖の下もとに老媼は阿あわ呀やと蹲うず踞くまりぬ。
蝦蟇法師は流しり眄めに懸け、﹁へ、へ、へ、うむ正に此こや奴つなり、予が顔を傷附けたる、大胆者、讐しか返えしということのあるを知らずして﹂傲ごう然ぜんとしてせせら笑う。
これを聞くより老媼はぞっと心臓まで寒くなりて、全体氷つら柱らに化したる如く、いと哀れなる声を発して、﹁命ばかりはお助けあれ。﹂とがたがた震えていたりける。
四
さるほどに蝦がま蟇ほ法う師しはあくまで老おう媼なの胆きもを奪いて、﹁コヤ老媼、汝なんじの主婦を媒なか妁だちして我わが執念を晴らさせよ。もし犠いけ牲にえを捧げざれば、お通はもとより汝もあまり好よきことはなかるべきなり、忘れてもとりもつべし。それまで命を預け置かむ、命いの冥ちみ加ょうがな老おい耆ぼれめが。﹂と荒あららかに言いい棄すてて、疾風土を捲まいて起ると覚しく、恐る恐る首こうべを擡もたげあぐれば、蝦蟇法師は身を以て隕おとすが如く下くだり行ゆき、靄もやに隠れて失うせたりけり。
やれやれ生いの命ちを拾いたりと、真まっ蒼さおになりて遁にげ帰かえれば、冷たくなれる納すず台みだいにまだ二三人居残りたるが、老媼の姿を見るよりも、﹁探検し来りしよな、蝦蟇法師の住すま居いは何いず処こ。﹂と右左より争い問われて、答うる声も震えながら、﹁何がなし一件じゃ、これなりこれなり。﹂と、握にぎ拳りこぶしを鼻の上にぞ重かさねたる、乞食僧の人物や、これを痴ちと言いわむよりはたまた狂と言むより、もっとも魔たるに適するなり。もししからずば少なくとも魔法使に適するなり。
かかりし後法師の鼻は甚だ威勢あるものとなりて、暗あん裡り人をして恐れしめ、自然黒壁を支配せり。こは一般に老ろう若にゃくが太いたく魔僧を忌いみ憚はばかかり、敬して遠ざからむと勤めしよりなり、誰たれか妖よう星せいの天に帰して、眼界を去らむことを望まざるべき。
ここに最もそのしからむことを望む者は、蝦蟇と、清川お通となり。いかんとなればあまたの人の嫌悪に堪えざる乞食僧の、黒壁に出没するは、蝦蟇とお通のあるためなりと納すず涼みだ台いにて語り合えるを美人はふと聞きき噛かじりしことあればなり、思うてここに到る毎ごとに、お通は執心の恐しさに、﹁母上、母上﹂と亡母を念じて、己おのが身辺に絡まつ纏わりつつある淫いん魔まを却しりぞけられむことを哀願しき。お通の心は世に亡き母の今もその身とともに在おわして、幼少のみぎりにおけるが如くその心願を母に請えば、必ず肯きかるべしと信ずるなり。
さりながらいかにせむ、お通は遂ついに乞食僧の犠牲にならざるべからざる由老媼の口より宣告されぬ。
前日、黒壁に賁ふん臨りんせる蝦蟇法師への貢みつぎとして、この美人を捧げざれば、到底好よき事はあらざるべしと、恫どう的かつてきに乞食僧より、最も渠かれを信仰してその魔法使たるを疑わざる件くだんの老媼に媒なか妁だちすべく言込みしを、老媼もお通に言出しかねて一いち日じつ免のがれに猶ため予らいしが、厳しく乞食僧に催促されて、謂いわで果つべきことならねば、止むことを得で取次たるなり。しかるにお通は予あらかじめその趣を心得たれば、老媼が推測りしほどには驚かざりき。
美人は冷然として老媼を諭しぬ、﹁母上の世に在いまさば何とこれを裁きたまわむ、まずそれを思い見よ、必ずかかる乞食の妻となれとはいいたまわじ。﹂と謂われて返さむ言ことばも無けれど、老媼は甚だしき迷信者じゃなれば乞食僧の恐きょ喝うかつを真まこととするにぞ、生いの命ちに関わる大事と思いて、﹁彼かや奴つは神じん通ずう広こう大だいなる魔法使にて候えば、何を仕し出いださむも料はかり難がたし。さりとて鼻に従いたまえと私わたくし申上げはなさねども、よき御分別もおわさぬか。﹂と熱心に云えば冷ひややかに、﹁いや、分別も何もなし、たといいかなることありとも、母上の御みこ心ころに合わぬ事は誓ってせまじ。﹂
と手強き謝絶に取附く島なく、老媼は太いたく困こうじ果てしが、何思いけむ小こひ膝ざを拍うち、﹁すべて一心固かたまりたるほど、強く恐しき者はなきが、鼻が難題を免れむには、こっちよりもそれ相当の難題を吹込みて、これだけのことをしさえすれば、それだけの望のぞみに応ずべしとこういう風に談ずるが第い一ち手の段てに候なり、昔むか語しがたりにさること侍はべりき、ここに一ひと条すじの蛇くちなわありて、とある武もの士のふの妻に懸けそ想うなし、頑かたくなにしょうじ着きて離るべくもなかりしを、その夫何なに某がし智ち慧えある人にて、欺きて蛇に約し、汝なんじ巨おお鷲わしの頭三み個つを得て、それを我に渡しなば、妻をやらむとこたえしに、蛇はこれを諾うべないて鷲と戦い亡ほろ失びうせしということの候なり。されど今憖なまじいに鷲の首などと謂いう時は、かの恐しき魔法使の整え来ぬとも料はかり難く因りて婆ば々ばが思案には、︵其そな方たの言分承知したれど、親の許ゆるしのなくてはならず、母上だに引ひき承うけたまわば何なん時どきにても妻とならん、去ってまず母上に請こい来きたれ︶と、かように貴あな娘たが仰せられし、と私わたくしより申さむか、何がさて母君は疾とくに世に亡き御おん方かたなれば、出来ぬ相談と申すもの、とても出来ない相談の出来よう筈はずのなきことゆえ、いかなる鼻もこれには弱りて、しまいに泣寝入となるは必ひつ定じょう、ナニ御心配なされまするな、﹂と説く処の道もっ理ともなるに、お通もうかと頷うなずきぬ。かくて老媼がこのよしを蝦蟇法師に伝えて後、鼻は黒壁に見えずなれり。
さては旨うまいぞシテ操やったり、とお通にはもとより納すず涼みだ台いにも老媼は智慧を誇りけるが、奚いずくんぞ知らむ黒壁に消えし蝦蟇法師の、野田山の墓地に顕あらわれて、お通が母の墳墓の前に結けっ跏か趺ふ坐ざしてあらむとは。
その夕ゆうべもまたそこに詣もうでし、お通は一目見て蒼あおくなりぬ。
明治三十五︵一九〇二︶年一月