一
﹁そんな事があるものですか。﹂
﹁いや、まったくだから変なんです。馬鹿々々しい、何、詰つまらないと思う後あとから声がします。﹂
﹁声がします。﹂
﹁確かに聞えるんです。﹂
と云った。私たち二人は、その晩、長野の町の一ある大おお構がまえの旅館の奥の、母おも屋やから板廊下を遠く隔てた離はな座れざ敷しきらしい十畳の広間に泊った。
はじめ、停ステ車イシ場ョンから俥くるまを二台で乗着けた時、帳場の若いものが、
﹁いらっしゃい、どうぞこちらへ。﹂
で、上靴を穿はかせて、つるつるする広い取とッ着つきの二階へ導いたのであるが、そこから、も一ツつかつかと階はし子ごだ段んを上あがって行ゆくので、連つれの男は一段踏掛けながら慌あわただしく云った。
﹁三階か。﹂
﹁へい、四しか階いでございます。﹂と横に開いて揉もみ手でをする。
﹁そいつは堪たまらんな、下座敷は無いか。――貴あな方たはいかがです。﹂
途中で見た上のぼ阪りざかの中途に、ばりばりと月に凍いてた廻まわ縁りえんの総そう硝がら子す。紅べに色いろの屋号の電燈が怪しき流星のごとき光を放つ。峰から見みと透おしに高い四階は落着かない。
﹁私も下が可いい。﹂
﹁しますると、お気に入りますかどうでございましょうか。ちとその古びておりますので。他ほかには唯ただ今いまどうも、へい、へい。﹂
﹁古くっても構わん。﹂
とにかく、座敷はあるので、やっと安心したように言った。
人の事は云われないが、連つれの男も、身から体だつきから様子、言もの語いい、肩の瘠やせた処、色いろ沢つやの悪いのなど、第一、屋財、家財、身しん上しょうありたけを詰つめ込こんだ、と自ら称となえる古ふる革かば鞄んの、象を胴切りにしたような格外の大おおきさで、しかもぼやけた工ぐあ合いが、どう見ても神経衰弱というのに違いない。
何と……そして、この革鞄の中で声がする、と夜中に騒ぎ出したろうではないか。
私は枕を擡もたげずにはいられなかった。
時に、当人は、もう蒲ふと団んから摺ずり出だして、茶ちゃ縞じまに浴衣を襲かさねた寝ねま着きの扮な装りで、ごつごつして、寒さは寒し、もも尻になって、肩を怒らし、腕組をして、真まっ四しか角く。
で、二間けんの――これには掛かけものが掛けてなかった――床の間を見詰めている。そこに件くだんの大革鞄があるのである。
白ぼけた上へ、ドス黒くて、その身上ありたけだという、だふりと膨ふくだみを揺ゆすった形が、元来、仔しさ細いの無い事はなかった。
今朝、上野を出て、田端、赤羽――蕨わらびを過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になりはじめた。
私は妙な事を思出したのである。
やがて、十八九年も経たったろう。小こど児もがちと毛を伸ばした中僧の頃である。……秋の招魂祭の、それも真まっ昼ぴる間ま。両側に小屋を並べた見み世せものの中に、一ヶ所目覚しい看板を見た。
血だらけ、白おし粉ろいだらけ、手足、顔だらけ。刺戟の強い色を競った、夥あま多たの看板の中にも、そのくらい目を引いたのは無かったと思う。
続き、上うえ下したにおよそ三四十枚、極彩色の絵看板、雲には銀砂子、襖ふすまに黄きん金ぱ箔く、引手に朱の総ふさを提げるまで手を籠こめた……芝居がかりの五十三次。
岡崎の化猫が、白しら髪がの牙きばに血を滴らして、破やれ簾みすよりも顔の青い、女を宙に啣くわえた絵の、無むざ慙んさが眼まなこを射る。
二
﹁さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。﹂
と嗾そそる。……
が、その外には何も言わぬ。並んだ小屋は軒別に、声を振立て、手足を揉もみ上あげ、躍りかかって、大砲の音で色花火を撒まき散ちらすがごとき鳴物まじりに人を呼ぶのに。
この看板の前にのみ、洋服が一人、羽はお織りは袴かまが一人、真まん中なかに、白襟、空色紋もん着つきの、廂ひさ髪しがみで痩やせこけた女が一人交まじって、都合三人の木戸番が、自若として控えて、一言も言ものいわず。
ただ、時々……
﹁さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。﹂
とばかりで、上目でじろりとお立合を見て、黙もく然ねんとして澄まし返る。
容体がさも、ものありげで、鶴の一声という趣おもむき。
き騒いで呼立てない、非凡の見識おのずから顕あらわれて、裡うちの面白さが思おも遣いやられる。
うかうかと入って見ると、こはいかに、と驚くにさえ張合も何にもない。表飾りの景気から推おせば、場内の広さも、一軒隣のアラビヤ式と銘打った競馬ぐらいはあろうと思うのに、筵むし囲ろがこいの廂ひあ合わいの路地へ入ったように狭くるしく薄暗い。
正面を逆に、背うし後ろ向きに見物を立たせる寸法、舞台、というのが、新あら筵むしろ二三枚。
前に青竹の埒らちを結ゆい廻まわして、その筵の上に、大形の古革鞄ただ一ひと個つ……
しても視ながめても、雨あま上あがりの湿し気けた地つちへ、藁わらの散ちらばった他ほかに何にも無い。
中へ何を入れたか、だふりとして、ずしりと重おも量みを溢あぶまして、筵の上に仇あだ光びかりの陰気な光つ沢やを持った鼠色のその革鞄には、以来、大おお海なま鼠こに手が生えて胸へ乗のっかかる夢を見て魘うなされた。
梅つゆ雨ど期きのせいか、その時はしとしとと皮に潤しめ湿りけを帯びていたのに、年数も経たったり、今は皺しわ目めがえみ割れて乾はし燥ゃいで、さながら乾ひも物のにして保存されたと思うまで、色合、恰かっ好こう、そのままの大革鞄を、下にも置かず、やっぱり色の褪あせた鼠の半はん外がい套とうの袖そでに引着けた、その一人の旅客を認めたのである。
私は熟じっと視みて、――長野泊りで、明あ日すは木曾へ廻ろうと思う、たまさかのこの旅行に、不思議な暗示を与えられたような気がして、なぜか、変な、擽くすぐったい心地がした。
しかも、その中から、怪しげな、不気味な、凄すごいような、恥かしいような、また謎のようなものを取出して見せられそうな気がしてならぬ。
少くとも、あの、絵看板を畳たた込みこんで持っていて、汽車が隧トン道ネルへ入った、真まっ暗くらな煙の裡うちで、颯さっと化猫が女を噛かむ血だらけな緋ひの袴はかまの、真まっ赤かな色を投ほう出りだしそうに考えられた。
で、どこまで一所になるか、……稀け有うな、妙な事がはじまりそうで、危あぶなっかしい中うちにも、内々少からぬ期待を持たせられたのである。
けれども、その男を、年配、風ふう采さい、あの三人の中の木戸番の一人だの、興行ぬしだの、手品師だの、祈きと祷うじ者ゃ、山伏だの、……何を間違えた処で、慌てて魔法つかいだの、占うら術ない家やだの、また強盗、あるいは殺人犯で、革鞄の中へ輪わぎ切りにした女を油紙に包んで詰込んでいようの、従って、探偵などと思ったのでは決してない。
一目見ても知れる、その何省かの官吏である事は。――やがて、知ちか己づきになって知れたが、都合あって、飛ひ騨だの山の中の郵便局へ転任となって、その任に趣おもむく途中だと云う。――それにいささか疑うたがいはない。
が、持主でない。その革鞄である。
三
這しゃ奴つ、窓まど硝がら子すの小こは春る日びの日ひな向たにしろじろと、光つ沢やを漾ただよわして、怪しく光って、ト構えた体ていが、何事をか企たく謀らんでいそうで、その企たく謀らみの整うと同時に、驚す破わ事を、仕し出で来かしそうでならなかったのである。
持主の旅客は、ただ黙々として、俯うつ向むいて、街なみ樹きに染めた錦もみ葉じも見ず、時々、額を敲たたくかと思うと、両手で熟じっと頸ぼん窪のくぼを圧おさえる。やがて、中なか折おれ帽ぼうを取って、ごしゃごしゃと、やや伸びた頭かみ髪のけを引ひっ掻かく。巻まき莨たばこに点じて三分の一を吸うと、半なかば三分の一を瞑めい目もくして黙想して過して、はっと心着いたように、火先を斜ななめに目の前へ、ト翳かざしながら、熟じっと灰になるまで凝み視つめて、慌てて、ふッふッと吹落して、後あとを詰らなそうにポタリと棄すてる……すぐその額を敲く。続いて頸窪を両手で圧える。それを繰返すばかりであるから、これが企たく謀らんだ処で、自分の身の上の事に過ぎぬ。あえて世間をどうしようなぞという野心は無さそうに見えたのに――
お供の、奴やっこの腰こし巾ぎん着ちゃく然とした件くだんの革鞄の方が、物騒でならないのであった。
果せるかな。
小春凪なぎのほかほかとした可いい日ひよ和りの、午前十一時半頃、汽車が高崎に着いた時、彼は向むこ側うがわを立って来て、弁当を買った。そして折を片手に、しばらく硝子窓に頬ほお杖づえをついていたが、
﹁酒、酒。﹂
と威勢よく呼んだ、その時は先生奮然たる態度で、のぼせるほどな日に、蒼あお白じろい顔も、もう酔ったように
と勢いきおいづいて、この日向で、かれこれ燗かんの出来ているらしい、ペイパの乾いた壜びん、膚はだ触ざわりも暖あたたかそうな二合詰を買って、これを背広の腋わきへ抱えるがごとくにして席へ戻る、と忙いそがわしく革鞄の口に手を掛けた。
私はドキリとして、おかしく時めくように胸が躍った。九段第一、否、皇国一の見世物小屋へ入った、その過いつ般かの時のように。
しかし、細目に開けた、大革鞄の、それも、わずかに口くち許もとばかりで、彼が取出したのは一冊赤表紙の旅行案内。五十三次、木曾街道に縁のない事はないが。
それを熟じっと、酒も飲まずに凝み視つめている。
私も弁当と酒を買った。
大おおきな蝦が蟆まとでもあろう事か、革鞄の吐出した第一幕が、旅行案内ばかりでは桟さじ敷きで飲むような気はしない、が蓋けだしそれは僭せん上じょうの沙汰で。
﹁まず、飲もう。﹂
その気で、席へ腰を掛直すと、口を抜こうとした酒の香より、はッと面おもてを打った、懐しく床しい、留と南め奇きがある。
この高崎では、大分旅客の出入りがあった。
そこここ、疎まばらに透いていた席が、ぎっしりになって――二等室の事で、云うまでもなく荷物が小こど児もよりは厄介に、中には大人ほど幅をしてあちこちに挟はさまって。勿論、知合になったあとでは失礼ながら、件くだんの大革鞄もその中うちの数の一つではあるが――一人、袴羽織で、山高を被かぶったのが仕切の板戸に突つッ立たっているのさえ出来ていた。
私とは、ちょうど正面、かの男と隣合った、そこへ、艶あで麗やかな女が一人腰を掛けたのである。
待て、ただ艶麗な、と云うとどこか世話でいて、やや婀あ娜だめく。
内うち端わに、品よく、高尚と云おう。
前まえ挿ざし、中なか挿ざし、鼈べっ甲こうの照りの美しい、華きゃ奢しゃな姿に重そうなその櫛くし笄こうがいに対しても、のん気に婀娜だなどと云ってはなるまい。
四
一目見ても知れる、濃い紫の紋もん着つきで、白襟、緋ひの長なが襦じゅ袢ばん。水の垂りそうな、しかしその貞淑を思わせる初々しい、高等な高島田に、鼈甲を端きち正んと堅く挿した風とり采なりは、桃の小道を駕か籠ごで遣やりたい。嫁に行ゆこうとする女であった。……
指の細く白いのに、紅あかいと、緑なのと、指ゆび環わ二つ嵌はめた手を下に、三指ついた状さまに、裾すそ模もよ様うの松の葉に、玉の折鶴のように組合せて、褄つまを深く正しく居ても、溢こぼるる裳もすその紅くれないを、しめて、踏みくぐみの雪の羽はぶ二た重え足袋。幽かすかに震えるような身を緊しめた爪つま先さきの塗ぬり駒こま下げ駄た。
まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣いと、恐おそ怖れと、涙なんだと、笑えみとは、ただその深く差さし俯うつ向むいて、眉も目も、房々した前髪に隠れながら、ほとんど、顔のように見えた真向いの島田の鬢びんに包まれて、簪かんざしの穂に顕あらわるる。……窈よう窕ちょうたるかな風采、花嫁を祝するにはこの言ことばが可いい。
しかり、窈窕たるものであった。
中にも慎ましげに、可憐に、床しく、最いと惜しらしく見えたのは、汽車の動くままに、玉の緒の揺るるよ、と思う、微かすかな元もと結ゆいのゆらめきである。
耳みみ許もとも清らかに、玉を伸べた頸えり許もとの綺麗さ。うらすく紅くれないの且つ媚なまめかしさ。
袖の香も目めさ前きに漾ただよう、さしむかいに、余り間近なので、その裏恥かしげに、手も足も緊しめ悩まされたような風情が、さながら、我がためにのみ、そうするのであるように見て取られて、私はしばらく、壜びんの口を抜くのを差控えたほどであった。
汽車に連るる、野も、畑も、畑はたの薄すすきも、薄に交まじわる紅くれないの木の葉も、紫籠こめた野末の霧も、霧を刷はいた山々も、皆嫁ゆく人の背景であった。迎うるごとく、送るがごとく、窓に燃もゆるがごとく見え初そめた妙義の錦もみ葉じと、蒼あお空ぞらの雲のちらちらと白いのも、ために、紅べに、白おし粉ろいの粧よそおいを助けるがごとくであった。
一つ、次の最初の停ステ車イシ場ョンへ着いた時、――下りるものはなかった――私の居た側の、出入り口の窓へ、五ツ六ツ、土地のものらしい鄙ひなめいた男なん女にょの顔が押おし累かさなって室を覗のぞいた。
累かさなりあふれて、ひょこひょこと瓜うりの転がる体ていに、次から次へ、また二ツ三ツ頭が来て、額で覗のぞ込きこむ。
私の窓にも一つ来た。
と見ると、板戸に凭もたれていた羽織袴が、
﹁やあ！﹂
と耳の許とこへ、山高帽を仰あお向むけに脱いで、礼をしたのに続いて、四五人一斉に立った。中には、袴らしい風ふろ呂しき敷づつ包みを大おおきな懐中に入れて、茶ちゃ紬つむぎを着た親おや仁じも居たが――揃って車外の立合に会釈した、いずれも縁女を送って来た連中らしい。
﹁あのや、あ、ちょっと御挨拶を。﹂
とその時まで、肩が痛みはしないかと、見る目も気の毒らしいまで身を緊めた裾模様の紫しこ紺ん――この方が適当であった。前には濃い紫と云ったけれども――肩に手を掛けたのは、近頃流は行やる半コオトを幅広に着た、横よこ肥ぶとりのした五十恰かっ好こう。骨組の逞たくましい、この女の足袋は、だふついて汚れていた……赤ら顔の片目眇めっかちで、その眇の方をト上へ向けて渋しぶのついた薄毛の円まる髷まげを斜はす向っかいに、頤あごを引ひん曲まげるようにして、嫁御が俯うつ向むけの島田からはじめて、室内を白目沢山で、虻あぶの飛ぶように、じろじろと飛廻しにしていたのが、肥った膝で立ちざまにそうして声を掛けた。
五
少し揺ゆするようにした。
指に平ひら打うちの黄き金んの太く逞たくましいのを嵌はめていた。
肖にも着かぬが、乳母ではない、継まましいなかと見たが、どうも母親に相違あるまい。
白襟に消えもしそうに、深くさし入れた頤おとがいで幽かすかに頷うなずいたのが見えて、手を膝にしたまま、肩が撓しなって、緞どん子すの帯を胸高にすらりと立ったが、思うに違たがわず、品の可いい、ちと寂しいが美しい、瞼まぶたに颯さっと色を染めた、薄すすきの綿に撫なで子しこが咲く。
ト挨拶をしそうにして、赤ら顔に引添って、前へ出ると、ぐい、と袖を取って引戻されて、ハッと胸で気を揉もんだ褄つまの崩れに、捌さばいた紅くれない。紅べに糸いとで白い爪つま先さきを、きしと劃しきったように、そこに駒下駄が留まったのである。
南なむ無さん三ぽ宝う！ 私は恥を言おう。露に濡ぬれ羽ばの烏が、月の桂かつらを啣くわえたような、鼈べっ甲こうの照てり栄はえる、目めの前さきの島田の黒髪に、魂を奪われて、あの、その、旅客を忘れた。旅行案内を忘れた。いや、大切な件くだんの大革鞄を忘れていた。
何と、その革鞄の口に、紋もん着つきの女の袖が挟はさまっていたではないか。
仕し出で来かした、さればこそはじめた。
私はあえて、この老怪の歯が引ひき啣くわえていたと言おう。……
いま立ちしなの身じろぎに、少し引かれて、ずるずると出たが、女が留まるとともに、床へは落ちもせず、がしゃりと据った。
重おも量みが、自然と伝つたわったろう、靡なびいた袖を、振返って、横顔で見ながら、女は力なげに、すっともとの座に返って、
﹁御免なさいまし。﹂
と呼い吸きの下で云うと、襟の白さが、颯さっと紫を蔽おおうように、はなじろんで顔をうつむけた。
赤ら顔は見みの免がさない。
﹁お前、どうしたのかねえ。﹂
かの男はと見ると、ちょうどその順が来たのかどうか、くしゃくしゃと両手で頭か髪みを掻かきしゃなぐる、中折帽も床に落ちた、夢中で引ひん
る。
﹁革鞄に挟った。﹂
﹁どうしてな。﹂
と二三人立掛ける。
窓へ、や、えんこらさ、と攀よじ上のぼった若いものがある。
駅夫の長い腕が引ひッ払ぱらった。
笛は、胡くる桃みを割る駒鳥の声のごとく、山野に響く。
汽車は猶ため予らわず出た。
一人発はず奮みをくって、のめりかかったので、雪なだ頽れを打ったが、それも、赤ら顔の手も交まじって、三四人大革鞄に取とりかかった。
﹁これは貴方のですか。﹂
で、その答も待たずに、口を開けようとするのである。
なかなかもって、どうして古狸の老武者が、そんな事で行ゆくものか。
﹁これは堅い、堅い。﹂
﹁巌丈な金具じゃええ。﹂
それ言わぬ事ではない。
﹁こりゃ開かぬ、鍵かぎが締まってるんじゃい。﹂
と一まず手を引いたのは、茶ちゃ紬つむぎの親おや仁じで。
成程、と解よめた風で、皆白けて控えた。更あらためて、新しく立ちかかったものもあった。
室内は動ど揺よむ。嬰こど児もは泣く。汽車は轟とどろく。街なみ樹きは流るる。
﹁誰の麁そそ
じゃい。﹂
と赤ら顔はいよいよ赤くなって、例の白目で、じろり、と一ツずつ、女と、男とを見た。
彼は仰あお向むけに目を瞑つぶった。瞼まぶたを掛けて、朱を灌そそぐ、――二合壜びんは、帽子とともに倒れていた――そして、しかと腕を拱こまぬく。
女は頤おとがい深く、優しらしい眉が前髪に透いて、ただ差さし俯うつ向むく。
六
﹁この次で下お車りるのじゃに。﹂
となぜか、わけも知らない娘を躾たしなめるように云って、片目を男にじろりと向け直して、
﹁何てまあ、馬鹿々々しい。﹂
と当あて着つけるように言った。
が、まだ二人ともなにも言わなかった時、連つれと目配せをしながら、赤ら顔の継まま母おやは更あらためて、男の前にわざとらしく小腰、――と云っても大きい――を屈かがめた。
突いき如なり噛かみ着つき兼ねない剣幕だったのが、飜ひるがえってこの慇いん懃ぎんな態度に出たのは、人は須すべからく渠かれ等らに対して洋服を着るべきである。
赤ら顔は悪く切口上で、
﹁旦那、どちらの麁そそか存じましないけれども、で、ございますね。飛んだことでございます。この娘は嫁にやります大切な身から体だでございます。はい、鍵をお出し下さいまし、鍵をでございますな、旦那。﹂
声が眉みけ間んを射たように、旅客は苦しげに眉を顰ひそめながら、
﹁鍵はありません。﹂
﹁ございませんと？……﹂
﹁鍵は棄てました。﹂
とぶるぶると胴震いをすると、翼を開いたように肩で掻かい縮ちぢめた腕組を衝つと解いて、一度投ほう出りだすごとくばたりと落した。その手で、挫ひしぐばかり確しかと膝ひざ頭がしらを掴つかんで、呼い吸きが切れそうな咳せきを続けざまにしたが、決然としてすっくと立った。
﹁ちょっと御挨拶を申上げます、……同室の御婦人、紳士の方々も、失礼ながらお聞きき取とりを願いとうございます。私わたくしは、ここに隣席においでになる、窈よう窕ちょうたる淑女。﹂
彼は窈窕たる淑女と云った。
﹁この令嬢の袖を、袂たもとをでございます。口へ挟みました旅行革鞄の持主であります。挟んだのは、諸君。﹂
とす目が空ざまに天井に上ずって、
﹁……申兼ねましたが私わたくしです。もっともはじめから、もくろんで致したのではありません。袂が革鞄の中に入っていたのは偶然であったのです。
退屈まぎれに見ておりました旅行案内を、もとへ突つっ込こんで、革鞄の口をかしりと啣くわえさせました時、フト柔かな、滑かな、ふっくりと美しいものを、きしりと縊くびって、引ひき緊しめたと思う手てご応たえがありました。
真まっ白しろな薄すすきの穂か、窓へ散込んだ錦もみ葉じの一ひと葉は、散ちり際ぎわのまだ血も呼い吸きも通うのを、引ひっ挟ぱさんだのかと思ったのは事実であります。
それが紫に緋ひを襲かさねた、かくのごとく盛せい粧しょうされた片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。
諸君、私わたくしは謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢は未いまだかつて一度も私わたくしごときものに、ただ姿さへ御見せなすった、いや、むしろ見られた事さえお有んなさらない。
東京でも、上野でも、途中でも、日本国において、私わたくしがこの令嬢を見ましたのは、今しがた革鞄の口に袖の挟まったのをはじめて心着きましたその瞬間におけるのみなのです。
お見受け申すと、これから結婚の式にお臨みになるようなんです。
いや、ようなんですぐらいだったら、私わたくしもかような不ふら埒ち、不心得、失礼なことはいたさなかったろうと思います。
確たしかに御縁着きになる。……双方の御親属に向って、御縁女の純潔を更あらためて確証いたします。室内の方々も、願わくはこの令嬢のために保証にお立ちを願いたいのです。
余り唐突な狼ろう藉ぜきですから、何かその縁組について、私わたくしのために、意趣遺恨でもお受けになるような前事が有るかとお思われになっては、なおこの上にも身の置き処がありませんから――﹂
七
﹁実に、寸すん毫ごう﹇＃ルビの﹁すんごう﹂は底本では﹁すんがう﹂﹈といえども意趣遺恨はありません。けれども、未練と、執しゅ着うぢゃくと、愚ぐ癡ちと、卑劣と、悪趣と、怨おん念ねんと、もっと直ちょ截くせつに申せば、狂乱があったのです。
狂きち気がいが。﹂
と吻ほっと息して、……
﹁汽車の室内で隣合って一目見た、早やたちまち、次か、二ツ目か、少くともその次の駅では、人妻におなりになる。プラットフォームも婚礼に出でむ迎かいの人橋で、直ちに婿君の家の廊下をお渡りなさるんだと思うと、つい知らず我を忘れて、カチリと錠じょうを下おろしました。乳房に五寸釘を打たれるように、この御縁女はお驚きになったろうと存じます。優雅、温おん柔じゅうでおいでなさる、心弱い女にょ性しょうは、さような狼藉にも、人中の身を恥じて、端はしたなく声をお立てにならないのだと存じました。
しかし、ただいま、席をお立ちになった御ごよ容う子すを見れば、その時まで何事も御存じではなかったのが分って、お心遣いの時間が五分たりとも少なかった、のみならず、お身から体だの一箇処にも紅あかい点も着かなかった事を、――実際、錠をおろした途端には、髪一ひと条すじの根にも血をお出しなすったろうと思いました――この祝言を守護する、黄道吉日の手に感謝します。
けれども、それもただわずかの間で、今の思おもいはどうおいでなさるだろうと御推察申上げるばかりなのです。
自白した罪人はここに居おります。遁にげも隠れもしませんから、憚はばかりながら、御ごけ萱んど堂うとお見受け申します年配の御婦人は、私わたくしの前をお離れになって、お引添いの上。傷心した、かよわい令嬢の、背せなを抱く御介抱が願いたい。﹂
一室は悉ことごとく目を注いだ、が、淑女は崩くず折おれもせず、柔やわらかな褄つまはずれの、彩いろある横縦の微線さえ、ただ美しく玉に刻まれたもののようである。
ひとりかの男のみ、堅く突つっ立たって、頬を傾かしげて、女を見返ることさえ得えしない。
赤ら顔も足も動かさなかった。
﹁あまつさえ、乱暴とも狼藉とも申しようのない、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、なおその上にほとんど狂乱だと申しました。
外ではありません。それの革鞄の鍵かぎを棄てた事です。私わたくしは、この、この窓から遥はるかに巽たつみの天そらに雪を銀線のごとく刺ぬい繍とりした、あの、遠山の頂を望んで投げたのです。……私わたくしは目を瞑つぶった、ほとんだ気が狂ちがったのだとお察しを願いたい。
為しわ業ざは狂きち人がいです、狂人は御覧のごとく、浅間しい人間の区々たる一個の私わたくしです。
が、鍵は宇宙が奪いました、これは永遠に捜せますまい。発みい見だせますまい、決して帰らない、戻りますまい。
小こが刀たなをお持ちの方は革鞄をお破り下さい。力ある方は口を取ってお裂き下さい。それはいかようとも御随意です。
鍵は投棄てました、決心をしたのです。私わたくしは皆さんが、たといいかなる手段をもってお迫りになろうとも、自分でこの革鞄は開けないのです。令嬢の袖は放さないのです。
ただし、この革鞄の中には、私わたくし一身に取って、大切な書類、器具、物品、軽少にもしろ、あらゆる財産、一切の身代、祖先、父母の位いは牌い。実際、生命と斉ひとしいものを残らず納いれてあるのです。
が、開けない以上は、誓って、一冊の旅行案内といえども取出さない事を盟約する。
小出しの外、旅費もこの中にある、……野宿する覚悟です。
私わたくしは――﹂
とここで名な告のった。
八
﹁年は三十七です。私わたくしは逓てい信しん省に勤めた小官吏です。この度飛騨の国の山中、一小寒村の郵便局に電信の技手となって赴任する第一の午前。﹂
と俯うつ向むいて探って、鉄縁の時計を見た。
﹁零時四十三分です。この汽車は八分に着く。……
令嬢の御一行は、次の宿で御下車だと承ります。
駅員に御話しになろうと、巡査にお引渡しになろうと、それはしかし御随意です。
また、同室の方々にも申上げます。御婦人、紳士方が、社会道徳の規律に因って、相当の御制裁を御満足にお加えを願う。それは甘んじて受けます。
いずれも命を致さねばなりますまい。
それは、しかし厭いといません。
が、ただここに、あらゆる罪科、一切の制裁の中うちに、私わたくしが最も苦痛を感ずるのは、この革鞄と、袖と、令嬢とともに、私わたくしが連れられて、膝しっ行こうして当日の婿君の前に参る事です。
絞こう罪ざいより、斬ざん首しゅより、その極刑をお撰びなさるが宜よろしい。
途中、田たん畝ぼ道で自殺をしますまでも、私わたくしは、しかしながらお従い申さねばなりますまい。
あるいは、革鞄をお切りなさるか、お裂きになるか。……
すべて、いささかも御ごし斟んし酌ゃくに及びません。
諸君が姑こそ息くの慈善心をもって、些さし少ょうなりとも、ために御斟酌下さろうかと思う、父母も親類も何にもない。
妻かな女いは亡くなりました、それは一昨年です。最愛の妻でした。﹂
彼は口吃きっしつつ目また瞬たきした。
﹁一人の小こど児もも亡くなりました、それはこの夏です。可愛い児こでした。﹂
と云う時、せぐりくる胸や支え兼ねけん、睫まつげを濡らした。
﹁妻かないの記かた念みだったのです。二人の白骨もともに、革鞄の中にあります。墓も一まとめに持って行くのです。
感ずる仔しさ細いがありまして、私わたくしは望んで僻へき境きょう孤立の、奥山やま家がの電信技手に転任されたのです。この職務は、人間の生活に暗号を与えるのです。一種絶島の燈台守です。
そこにおいて、終生……つまらなく言えば囲いろ炉り裡ば端たの火打石です。神聖に云えば霊山における電光です。瞬間に人間の運命を照らす、仙人の黒き符のごとき電信の文字を司ろうと思うのです。
が、辞令も革鞄に封じました。受持の室の扉を開けるにも、鍵かぎがなければなりません。
鍵は棄てたんです。
令嬢の袖の奥へ魂は納めました。
誓って私わたくしは革鞄を開けない。
御親類の方々、他に御婦人、紳士諸君、御随意に適当の御制裁、御手段が願いたい。
お聴ききを煩らわしました。――別に申す事はありません。﹂
彼は、従しょ容うようとして席に復した。が、あまたたび額の汗を拭ぬぐった。汗は氷のごとく冷たかろう、と私は思わず慄りつ然ぜんとした。
室内は寂ひっ然そりした。彼の言は、明めい晰せきに、口吃きっしつつも流りゅ暢うちょう沈着であった。この独白に対して、汽車の轟とどろきは、一種のオオケストラを聞くがごときものであった。
停ステ車イシ場ョンに着くと、湧わき返かえったその混雑さ。
羽織、袴、白襟、紋着、迎いの人数がずらりと並ぶ、礼服を着た一いっ揆きを思え。
時に、継まま母おやの取った手段は、極めて平凡な、しかも最もっ上とも常識的なものであった。
﹁旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。﹂
﹁いいえ、貴方。﹂
判はっ然きりした優しい含ふく声みごえで、屹きっと留とどめた女が、八ツ口に手を掛ける、と口を添えて、袖そで着つけの糸をきりきりと裂いた、籠めたる心に揺ゆらめく黒髪、島田は、黄金の高たか彫ぼりした、輝く斧おののごとくに見えた。
紫の襲かさねの片袖、紋清らかに革鞄に落ちて、膚はだを裂いたか、女の片身に、颯さっと流るる襦じゅ袢ばんの緋ひが鹿の子こ。
プラットフォームで、真まっ黒くろに、うようよと多人数に取巻かれた中に、すっくと立って、山が彩る、目まぶ瞼たの紅梅。黄き金んを溶とかす炎のごとき妙義山の錦もみ葉じに対して、ハッと燃え立つ緋の片袖。二の腕に颯さっと飜ひるがえって、雪なす小手を翳かざしながら、黒くろ煙けむりの下になり行く汽車を遥はるかに見送った。
百ゆり合わ若かの矢のあとも、そのかがみよ、と見返る窓に、私は急に胸迫ってなぜか思わず落涙した。
つかつかと進んで、驚いた技手の手を取って握手したのである。
そこで知ちか己づきになった。
大正三︵一九一四︶年二月
き騒いで呼立てない、非凡の見識おのずから顕あらわれて、裡うちの面白さが思おも遣いやられる。
うかうかと入って見ると、こはいかに、と驚くにさえ張合も何にもない。表飾りの景気から推おせば、場内の広さも、一軒隣のアラビヤ式と銘打った競馬ぐらいはあろうと思うのに、筵むし囲ろがこいの廂ひあ合わいの路地へ入ったように狭くるしく薄暗い。
正面を逆に、背うし後ろ向きに見物を立たせる寸法、舞台、というのが、新あら筵むしろ二三枚。
前に青竹の埒らちを結ゆい廻まわして、その筵の上に、大形の古革鞄ただ一ひと個つ……しても視ながめても、雨あま上あがりの湿し気けた地つちへ、藁わらの散ちらばった他ほかに何にも無い。
中へ何を入れたか、だふりとして、ずしりと重おも量みを溢あぶまして、筵の上に仇あだ光びかりの陰気な光つ沢やを持った鼠色のその革鞄には、以来、大おお海なま鼠こに手が生えて胸へ乗のっかかる夢を見て魘うなされた。
梅つゆ雨ど期きのせいか、その時はしとしとと皮に潤しめ湿りけを帯びていたのに、年数も経たったり、今は皺しわ目めがえみ割れて乾はし燥ゃいで、さながら乾ひも物のにして保存されたと思うまで、色合、恰かっ好こう、そのままの大革鞄を、下にも置かず、やっぱり色の褪あせた鼠の半はん外がい套とうの袖そでに引着けた、その一人の旅客を認めたのである。
私は熟じっと視みて、――長野泊りで、明あ日すは木曾へ廻ろうと思う、たまさかのこの旅行に、不思議な暗示を与えられたような気がして、なぜか、変な、擽くすぐったい心地がした。
しかも、その中から、怪しげな、不気味な、凄すごいような、恥かしいような、また謎のようなものを取出して見せられそうな気がしてならぬ。
少くとも、あの、絵看板を畳たた込みこんで持っていて、汽車が隧トン道ネルへ入った、真まっ暗くらな煙の裡うちで、颯さっと化猫が女を噛かむ血だらけな緋ひの袴はかまの、真まっ赤かな色を投ほう出りだしそうに考えられた。
で、どこまで一所になるか、……稀け有うな、妙な事がはじまりそうで、危あぶなっかしい中うちにも、内々少からぬ期待を持たせられたのである。
けれども、その男を、年配、風ふう采さい、あの三人の中の木戸番の一人だの、興行ぬしだの、手品師だの、祈きと祷うじ者ゃ、山伏だの、……何を間違えた処で、慌てて魔法つかいだの、占うら術ない家やだの、また強盗、あるいは殺人犯で、革鞄の中へ輪わぎ切りにした女を油紙に包んで詰込んでいようの、従って、探偵などと思ったのでは決してない。
一目見ても知れる、その何省かの官吏である事は。――やがて、知ちか己づきになって知れたが、都合あって、飛ひ騨だの山の中の郵便局へ転任となって、その任に趣おもむく途中だと云う。――それにいささか疑うたがいはない。
が、持主でない。その革鞄である。
三
這しゃ奴つ、窓まど硝がら子すの小こは春る日びの日ひな向たにしろじろと、光つ沢やを漾ただよわして、怪しく光って、ト構えた体ていが、何事をか企たく謀らんでいそうで、その企たく謀らみの整うと同時に、驚す破わ事を、仕し出で来かしそうでならなかったのである。
持主の旅客は、ただ黙々として、俯うつ向むいて、街なみ樹きに染めた錦もみ葉じも見ず、時々、額を敲たたくかと思うと、両手で熟じっと頸ぼん窪のくぼを圧おさえる。やがて、中なか折おれ帽ぼうを取って、ごしゃごしゃと、やや伸びた頭かみ髪のけを引ひっ掻かく。巻まき莨たばこに点じて三分の一を吸うと、半なかば三分の一を瞑めい目もくして黙想して過して、はっと心着いたように、火先を斜ななめに目の前へ、ト翳かざしながら、熟じっと灰になるまで凝み視つめて、慌てて、ふッふッと吹落して、後あとを詰らなそうにポタリと棄すてる……すぐその額を敲く。続いて頸窪を両手で圧える。それを繰返すばかりであるから、これが企たく謀らんだ処で、自分の身の上の事に過ぎぬ。あえて世間をどうしようなぞという野心は無さそうに見えたのに――
お供の、奴やっこの腰こし巾ぎん着ちゃく然とした件くだんの革鞄の方が、物騒でならないのであった。
果せるかな。
小春凪なぎのほかほかとした可いい日ひよ和りの、午前十一時半頃、汽車が高崎に着いた時、彼は向むこ側うがわを立って来て、弁当を買った。そして折を片手に、しばらく硝子窓に頬ほお杖づえをついていたが、
﹁酒、酒。﹂
と威勢よく呼んだ、その時は先生奮然たる態度で、のぼせるほどな日に、蒼あお白じろい顔も、もう酔ったようにと勢いきおいづいて、この日向で、かれこれ燗かんの出来ているらしい、ペイパの乾いた壜びん、膚はだ触ざわりも暖あたたかそうな二合詰を買って、これを背広の腋わきへ抱えるがごとくにして席へ戻る、と忙いそがわしく革鞄の口に手を掛けた。
私はドキリとして、おかしく時めくように胸が躍った。九段第一、否、皇国一の見世物小屋へ入った、その過いつ般かの時のように。
しかし、細目に開けた、大革鞄の、それも、わずかに口くち許もとばかりで、彼が取出したのは一冊赤表紙の旅行案内。五十三次、木曾街道に縁のない事はないが。
それを熟じっと、酒も飲まずに凝み視つめている。
私も弁当と酒を買った。
大おおきな蝦が蟆まとでもあろう事か、革鞄の吐出した第一幕が、旅行案内ばかりでは桟さじ敷きで飲むような気はしない、が蓋けだしそれは僭せん上じょうの沙汰で。
﹁まず、飲もう。﹂
その気で、席へ腰を掛直すと、口を抜こうとした酒の香より、はッと面おもてを打った、懐しく床しい、留と南め奇きがある。
この高崎では、大分旅客の出入りがあった。
そこここ、疎まばらに透いていた席が、ぎっしりになって――二等室の事で、云うまでもなく荷物が小こど児もよりは厄介に、中には大人ほど幅をしてあちこちに挟はさまって。勿論、知合になったあとでは失礼ながら、件くだんの大革鞄もその中うちの数の一つではあるが――一人、袴羽織で、山高を被かぶったのが仕切の板戸に突つッ立たっているのさえ出来ていた。
私とは、ちょうど正面、かの男と隣合った、そこへ、艶あで麗やかな女が一人腰を掛けたのである。
待て、ただ艶麗な、と云うとどこか世話でいて、やや婀あ娜だめく。
内うち端わに、品よく、高尚と云おう。
前まえ挿ざし、中なか挿ざし、鼈べっ甲こうの照りの美しい、華きゃ奢しゃな姿に重そうなその櫛くし笄こうがいに対しても、のん気に婀娜だなどと云ってはなるまい。
四
一目見ても知れる、濃い紫の紋もん着つきで、白襟、緋ひの長なが襦じゅ袢ばん。水の垂りそうな、しかしその貞淑を思わせる初々しい、高等な高島田に、鼈甲を端きち正んと堅く挿した風とり采なりは、桃の小道を駕か籠ごで遣やりたい。嫁に行ゆこうとする女であった。……
指の細く白いのに、紅あかいと、緑なのと、指ゆび環わ二つ嵌はめた手を下に、三指ついた状さまに、裾すそ模もよ様うの松の葉に、玉の折鶴のように組合せて、褄つまを深く正しく居ても、溢こぼるる裳もすその紅くれないを、しめて、踏みくぐみの雪の羽はぶ二た重え足袋。幽かすかに震えるような身を緊しめた爪つま先さきの塗ぬり駒こま下げ駄た。
まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣いと、恐おそ怖れと、涙なんだと、笑えみとは、ただその深く差さし俯うつ向むいて、眉も目も、房々した前髪に隠れながら、ほとんど、顔のように見えた真向いの島田の鬢びんに包まれて、簪かんざしの穂に顕あらわるる。……窈よう窕ちょうたるかな風采、花嫁を祝するにはこの言ことばが可いい。
しかり、窈窕たるものであった。
中にも慎ましげに、可憐に、床しく、最いと惜しらしく見えたのは、汽車の動くままに、玉の緒の揺るるよ、と思う、微かすかな元もと結ゆいのゆらめきである。
耳みみ許もとも清らかに、玉を伸べた頸えり許もとの綺麗さ。うらすく紅くれないの且つ媚なまめかしさ。
袖の香も目めさ前きに漾ただよう、さしむかいに、余り間近なので、その裏恥かしげに、手も足も緊しめ悩まされたような風情が、さながら、我がためにのみ、そうするのであるように見て取られて、私はしばらく、壜びんの口を抜くのを差控えたほどであった。
汽車に連るる、野も、畑も、畑はたの薄すすきも、薄に交まじわる紅くれないの木の葉も、紫籠こめた野末の霧も、霧を刷はいた山々も、皆嫁ゆく人の背景であった。迎うるごとく、送るがごとく、窓に燃もゆるがごとく見え初そめた妙義の錦もみ葉じと、蒼あお空ぞらの雲のちらちらと白いのも、ために、紅べに、白おし粉ろいの粧よそおいを助けるがごとくであった。
一つ、次の最初の停ステ車イシ場ョンへ着いた時、――下りるものはなかった――私の居た側の、出入り口の窓へ、五ツ六ツ、土地のものらしい鄙ひなめいた男なん女にょの顔が押おし累かさなって室を覗のぞいた。
累かさなりあふれて、ひょこひょこと瓜うりの転がる体ていに、次から次へ、また二ツ三ツ頭が来て、額で覗のぞ込きこむ。
私の窓にも一つ来た。
と見ると、板戸に凭もたれていた羽織袴が、
﹁やあ！﹂
と耳の許とこへ、山高帽を仰あお向むけに脱いで、礼をしたのに続いて、四五人一斉に立った。中には、袴らしい風ふろ呂しき敷づつ包みを大おおきな懐中に入れて、茶ちゃ紬つむぎを着た親おや仁じも居たが――揃って車外の立合に会釈した、いずれも縁女を送って来た連中らしい。
﹁あのや、あ、ちょっと御挨拶を。﹂
とその時まで、肩が痛みはしないかと、見る目も気の毒らしいまで身を緊めた裾模様の紫しこ紺ん――この方が適当であった。前には濃い紫と云ったけれども――肩に手を掛けたのは、近頃流は行やる半コオトを幅広に着た、横よこ肥ぶとりのした五十恰かっ好こう。骨組の逞たくましい、この女の足袋は、だふついて汚れていた……赤ら顔の片目眇めっかちで、その眇の方をト上へ向けて渋しぶのついた薄毛の円まる髷まげを斜はす向っかいに、頤あごを引ひん曲まげるようにして、嫁御が俯うつ向むけの島田からはじめて、室内を白目沢山で、虻あぶの飛ぶように、じろじろと飛廻しにしていたのが、肥った膝で立ちざまにそうして声を掛けた。
五
少し揺ゆするようにした。
指に平ひら打うちの黄き金んの太く逞たくましいのを嵌はめていた。
肖にも着かぬが、乳母ではない、継まましいなかと見たが、どうも母親に相違あるまい。
白襟に消えもしそうに、深くさし入れた頤おとがいで幽かすかに頷うなずいたのが見えて、手を膝にしたまま、肩が撓しなって、緞どん子すの帯を胸高にすらりと立ったが、思うに違たがわず、品の可いい、ちと寂しいが美しい、瞼まぶたに颯さっと色を染めた、薄すすきの綿に撫なで子しこが咲く。
ト挨拶をしそうにして、赤ら顔に引添って、前へ出ると、ぐい、と袖を取って引戻されて、ハッと胸で気を揉もんだ褄つまの崩れに、捌さばいた紅くれない。紅べに糸いとで白い爪つま先さきを、きしと劃しきったように、そこに駒下駄が留まったのである。
南なむ無さん三ぽ宝う！ 私は恥を言おう。露に濡ぬれ羽ばの烏が、月の桂かつらを啣くわえたような、鼈べっ甲こうの照てり栄はえる、目めの前さきの島田の黒髪に、魂を奪われて、あの、その、旅客を忘れた。旅行案内を忘れた。いや、大切な件くだんの大革鞄を忘れていた。
何と、その革鞄の口に、紋もん着つきの女の袖が挟はさまっていたではないか。
仕し出で来かした、さればこそはじめた。
私はあえて、この老怪の歯が引ひき啣くわえていたと言おう。……
いま立ちしなの身じろぎに、少し引かれて、ずるずると出たが、女が留まるとともに、床へは落ちもせず、がしゃりと据った。
重おも量みが、自然と伝つたわったろう、靡なびいた袖を、振返って、横顔で見ながら、女は力なげに、すっともとの座に返って、
﹁御免なさいまし。﹂
と呼い吸きの下で云うと、襟の白さが、颯さっと紫を蔽おおうように、はなじろんで顔をうつむけた。
赤ら顔は見みの免がさない。
﹁お前、どうしたのかねえ。﹂
かの男はと見ると、ちょうどその順が来たのかどうか、くしゃくしゃと両手で頭か髪みを掻かきしゃなぐる、中折帽も床に落ちた、夢中で引ひんる。
﹁革鞄に挟った。﹂
﹁どうしてな。﹂
と二三人立掛ける。
窓へ、や、えんこらさ、と攀よじ上のぼった若いものがある。
駅夫の長い腕が引ひッ払ぱらった。
笛は、胡くる桃みを割る駒鳥の声のごとく、山野に響く。
汽車は猶ため予らわず出た。
一人発はず奮みをくって、のめりかかったので、雪なだ頽れを打ったが、それも、赤ら顔の手も交まじって、三四人大革鞄に取とりかかった。
﹁これは貴方のですか。﹂
で、その答も待たずに、口を開けようとするのである。
なかなかもって、どうして古狸の老武者が、そんな事で行ゆくものか。
﹁これは堅い、堅い。﹂
﹁巌丈な金具じゃええ。﹂
それ言わぬ事ではない。
﹁こりゃ開かぬ、鍵かぎが締まってるんじゃい。﹂
と一まず手を引いたのは、茶ちゃ紬つむぎの親おや仁じで。
成程、と解よめた風で、皆白けて控えた。更あらためて、新しく立ちかかったものもあった。
室内は動ど揺よむ。嬰こど児もは泣く。汽車は轟とどろく。街なみ樹きは流るる。
﹁誰の麁そそじゃい。﹂
と赤ら顔はいよいよ赤くなって、例の白目で、じろり、と一ツずつ、女と、男とを見た。
彼は仰あお向むけに目を瞑つぶった。瞼まぶたを掛けて、朱を灌そそぐ、――二合壜びんは、帽子とともに倒れていた――そして、しかと腕を拱こまぬく。
女は頤おとがい深く、優しらしい眉が前髪に透いて、ただ差さし俯うつ向むく。
六
﹁この次で下お車りるのじゃに。﹂
となぜか、わけも知らない娘を躾たしなめるように云って、片目を男にじろりと向け直して、
﹁何てまあ、馬鹿々々しい。﹂
と当あて着つけるように言った。
が、まだ二人ともなにも言わなかった時、連つれと目配せをしながら、赤ら顔の継まま母おやは更あらためて、男の前にわざとらしく小腰、――と云っても大きい――を屈かがめた。
突いき如なり噛かみ着つき兼ねない剣幕だったのが、飜ひるがえってこの慇いん懃ぎんな態度に出たのは、人は須すべからく渠かれ等らに対して洋服を着るべきである。
赤ら顔は悪く切口上で、
﹁旦那、どちらの麁そそか存じましないけれども、で、ございますね。飛んだことでございます。この娘は嫁にやります大切な身から体だでございます。はい、鍵をお出し下さいまし、鍵をでございますな、旦那。﹂
声が眉みけ間んを射たように、旅客は苦しげに眉を顰ひそめながら、
﹁鍵はありません。﹂
﹁ございませんと？……﹂
﹁鍵は棄てました。﹂
とぶるぶると胴震いをすると、翼を開いたように肩で掻かい縮ちぢめた腕組を衝つと解いて、一度投ほう出りだすごとくばたりと落した。その手で、挫ひしぐばかり確しかと膝ひざ頭がしらを掴つかんで、呼い吸きが切れそうな咳せきを続けざまにしたが、決然としてすっくと立った。
﹁ちょっと御挨拶を申上げます、……同室の御婦人、紳士の方々も、失礼ながらお聞きき取とりを願いとうございます。私わたくしは、ここに隣席においでになる、窈よう窕ちょうたる淑女。﹂
彼は窈窕たる淑女と云った。
﹁この令嬢の袖を、袂たもとをでございます。口へ挟みました旅行革鞄の持主であります。挟んだのは、諸君。﹂
とす目が空ざまに天井に上ずって、
﹁……申兼ねましたが私わたくしです。もっともはじめから、もくろんで致したのではありません。袂が革鞄の中に入っていたのは偶然であったのです。
退屈まぎれに見ておりました旅行案内を、もとへ突つっ込こんで、革鞄の口をかしりと啣くわえさせました時、フト柔かな、滑かな、ふっくりと美しいものを、きしりと縊くびって、引ひき緊しめたと思う手てご応たえがありました。
真まっ白しろな薄すすきの穂か、窓へ散込んだ錦もみ葉じの一ひと葉は、散ちり際ぎわのまだ血も呼い吸きも通うのを、引ひっ挟ぱさんだのかと思ったのは事実であります。
それが紫に緋ひを襲かさねた、かくのごとく盛せい粧しょうされた片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。
諸君、私わたくしは謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢は未いまだかつて一度も私わたくしごときものに、ただ姿さへ御見せなすった、いや、むしろ見られた事さえお有んなさらない。
東京でも、上野でも、途中でも、日本国において、私わたくしがこの令嬢を見ましたのは、今しがた革鞄の口に袖の挟まったのをはじめて心着きましたその瞬間におけるのみなのです。
お見受け申すと、これから結婚の式にお臨みになるようなんです。
いや、ようなんですぐらいだったら、私わたくしもかような不ふら埒ち、不心得、失礼なことはいたさなかったろうと思います。
確たしかに御縁着きになる。……双方の御親属に向って、御縁女の純潔を更あらためて確証いたします。室内の方々も、願わくはこの令嬢のために保証にお立ちを願いたいのです。
余り唐突な狼ろう藉ぜきですから、何かその縁組について、私わたくしのために、意趣遺恨でもお受けになるような前事が有るかとお思われになっては、なおこの上にも身の置き処がありませんから――﹂
七
﹁実に、寸すん毫ごう﹇＃ルビの﹁すんごう﹂は底本では﹁すんがう﹂﹈といえども意趣遺恨はありません。けれども、未練と、執しゅ着うぢゃくと、愚ぐ癡ちと、卑劣と、悪趣と、怨おん念ねんと、もっと直ちょ截くせつに申せば、狂乱があったのです。
狂きち気がいが。﹂
と吻ほっと息して、……
﹁汽車の室内で隣合って一目見た、早やたちまち、次か、二ツ目か、少くともその次の駅では、人妻におなりになる。プラットフォームも婚礼に出でむ迎かいの人橋で、直ちに婿君の家の廊下をお渡りなさるんだと思うと、つい知らず我を忘れて、カチリと錠じょうを下おろしました。乳房に五寸釘を打たれるように、この御縁女はお驚きになったろうと存じます。優雅、温おん柔じゅうでおいでなさる、心弱い女にょ性しょうは、さような狼藉にも、人中の身を恥じて、端はしたなく声をお立てにならないのだと存じました。
しかし、ただいま、席をお立ちになった御ごよ容う子すを見れば、その時まで何事も御存じではなかったのが分って、お心遣いの時間が五分たりとも少なかった、のみならず、お身から体だの一箇処にも紅あかい点も着かなかった事を、――実際、錠をおろした途端には、髪一ひと条すじの根にも血をお出しなすったろうと思いました――この祝言を守護する、黄道吉日の手に感謝します。
けれども、それもただわずかの間で、今の思おもいはどうおいでなさるだろうと御推察申上げるばかりなのです。
自白した罪人はここに居おります。遁にげも隠れもしませんから、憚はばかりながら、御ごけ萱んど堂うとお見受け申します年配の御婦人は、私わたくしの前をお離れになって、お引添いの上。傷心した、かよわい令嬢の、背せなを抱く御介抱が願いたい。﹂
一室は悉ことごとく目を注いだ、が、淑女は崩くず折おれもせず、柔やわらかな褄つまはずれの、彩いろある横縦の微線さえ、ただ美しく玉に刻まれたもののようである。
ひとりかの男のみ、堅く突つっ立たって、頬を傾かしげて、女を見返ることさえ得えしない。
赤ら顔も足も動かさなかった。
﹁あまつさえ、乱暴とも狼藉とも申しようのない、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、なおその上にほとんど狂乱だと申しました。
外ではありません。それの革鞄の鍵かぎを棄てた事です。私わたくしは、この、この窓から遥はるかに巽たつみの天そらに雪を銀線のごとく刺ぬい繍とりした、あの、遠山の頂を望んで投げたのです。……私わたくしは目を瞑つぶった、ほとんだ気が狂ちがったのだとお察しを願いたい。
為しわ業ざは狂きち人がいです、狂人は御覧のごとく、浅間しい人間の区々たる一個の私わたくしです。
が、鍵は宇宙が奪いました、これは永遠に捜せますまい。発みい見だせますまい、決して帰らない、戻りますまい。
小こが刀たなをお持ちの方は革鞄をお破り下さい。力ある方は口を取ってお裂き下さい。それはいかようとも御随意です。
鍵は投棄てました、決心をしたのです。私わたくしは皆さんが、たといいかなる手段をもってお迫りになろうとも、自分でこの革鞄は開けないのです。令嬢の袖は放さないのです。
ただし、この革鞄の中には、私わたくし一身に取って、大切な書類、器具、物品、軽少にもしろ、あらゆる財産、一切の身代、祖先、父母の位いは牌い。実際、生命と斉ひとしいものを残らず納いれてあるのです。
が、開けない以上は、誓って、一冊の旅行案内といえども取出さない事を盟約する。
小出しの外、旅費もこの中にある、……野宿する覚悟です。
私わたくしは――﹂
とここで名な告のった。
八
﹁年は三十七です。私わたくしは逓てい信しん省に勤めた小官吏です。この度飛騨の国の山中、一小寒村の郵便局に電信の技手となって赴任する第一の午前。﹂
と俯うつ向むいて探って、鉄縁の時計を見た。
﹁零時四十三分です。この汽車は八分に着く。……
令嬢の御一行は、次の宿で御下車だと承ります。
駅員に御話しになろうと、巡査にお引渡しになろうと、それはしかし御随意です。
また、同室の方々にも申上げます。御婦人、紳士方が、社会道徳の規律に因って、相当の御制裁を御満足にお加えを願う。それは甘んじて受けます。
いずれも命を致さねばなりますまい。
それは、しかし厭いといません。
が、ただここに、あらゆる罪科、一切の制裁の中うちに、私わたくしが最も苦痛を感ずるのは、この革鞄と、袖と、令嬢とともに、私わたくしが連れられて、膝しっ行こうして当日の婿君の前に参る事です。
絞こう罪ざいより、斬ざん首しゅより、その極刑をお撰びなさるが宜よろしい。
途中、田たん畝ぼ道で自殺をしますまでも、私わたくしは、しかしながらお従い申さねばなりますまい。
あるいは、革鞄をお切りなさるか、お裂きになるか。……
すべて、いささかも御ごし斟んし酌ゃくに及びません。
諸君が姑こそ息くの慈善心をもって、些さし少ょうなりとも、ために御斟酌下さろうかと思う、父母も親類も何にもない。
妻かな女いは亡くなりました、それは一昨年です。最愛の妻でした。﹂
彼は口吃きっしつつ目また瞬たきした。
﹁一人の小こど児もも亡くなりました、それはこの夏です。可愛い児こでした。﹂
と云う時、せぐりくる胸や支え兼ねけん、睫まつげを濡らした。
﹁妻かないの記かた念みだったのです。二人の白骨もともに、革鞄の中にあります。墓も一まとめに持って行くのです。
感ずる仔しさ細いがありまして、私わたくしは望んで僻へき境きょう孤立の、奥山やま家がの電信技手に転任されたのです。この職務は、人間の生活に暗号を与えるのです。一種絶島の燈台守です。
そこにおいて、終生……つまらなく言えば囲いろ炉り裡ば端たの火打石です。神聖に云えば霊山における電光です。瞬間に人間の運命を照らす、仙人の黒き符のごとき電信の文字を司ろうと思うのです。
が、辞令も革鞄に封じました。受持の室の扉を開けるにも、鍵かぎがなければなりません。
鍵は棄てたんです。
令嬢の袖の奥へ魂は納めました。
誓って私わたくしは革鞄を開けない。
御親類の方々、他に御婦人、紳士諸君、御随意に適当の御制裁、御手段が願いたい。
お聴ききを煩らわしました。――別に申す事はありません。﹂
彼は、従しょ容うようとして席に復した。が、あまたたび額の汗を拭ぬぐった。汗は氷のごとく冷たかろう、と私は思わず慄りつ然ぜんとした。
室内は寂ひっ然そりした。彼の言は、明めい晰せきに、口吃きっしつつも流りゅ暢うちょう沈着であった。この独白に対して、汽車の轟とどろきは、一種のオオケストラを聞くがごときものであった。
停ステ車イシ場ョンに着くと、湧わき返かえったその混雑さ。
羽織、袴、白襟、紋着、迎いの人数がずらりと並ぶ、礼服を着た一いっ揆きを思え。
時に、継まま母おやの取った手段は、極めて平凡な、しかも最もっ上とも常識的なものであった。
﹁旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。﹂
﹁いいえ、貴方。﹂
判はっ然きりした優しい含ふく声みごえで、屹きっと留とどめた女が、八ツ口に手を掛ける、と口を添えて、袖そで着つけの糸をきりきりと裂いた、籠めたる心に揺ゆらめく黒髪、島田は、黄金の高たか彫ぼりした、輝く斧おののごとくに見えた。
紫の襲かさねの片袖、紋清らかに革鞄に落ちて、膚はだを裂いたか、女の片身に、颯さっと流るる襦じゅ袢ばんの緋ひが鹿の子こ。
プラットフォームで、真まっ黒くろに、うようよと多人数に取巻かれた中に、すっくと立って、山が彩る、目まぶ瞼たの紅梅。黄き金んを溶とかす炎のごとき妙義山の錦もみ葉じに対して、ハッと燃え立つ緋の片袖。二の腕に颯さっと飜ひるがえって、雪なす小手を翳かざしながら、黒くろ煙けむりの下になり行く汽車を遥はるかに見送った。
百ゆり合わ若かの矢のあとも、そのかがみよ、と見返る窓に、私は急に胸迫ってなぜか思わず落涙した。
つかつかと進んで、驚いた技手の手を取って握手したのである。
そこで知ちか己づきになった。
大正三︵一九一四︶年二月