一
如きさ月らぎのはじめから三月の末へかけて、まだしっとりと春雨にならぬ間を、毎日のように風が続いた。北も南も吹ふき荒すさんで、戸障子を煽あおつ、柱を揺ゆすぶる、屋根を鳴らす、物もの干ほし棹ざおを刎はね飛とばす――荒あら磯いそや、奥山家、都会離れた国々では、もっとも熊を射た、鯨を突いた、祟たたりの吹雪に戸を鎖さして、冬籠ごもる頃ながら――東京もまた砂埃ほこりの戦たたかいを避けて、家ごとに穴籠りする思い。
意気な小こい家えに流いつ連づけの朝の手ちょ水うずにも、砂利を含んで、じりりとする。
羽目も天井も乾いて燥はしゃいで、煤すすの引ほ火く奴ちに礫つぶてが飛ぶと、そのままチリチリと火の粉になって燃出しそうな物騒さ。下町、山の手、昼夜の火ひ沙ざ汰たで、時の鐘ほどジャンジャンと打ぶつける、そこもかしこも、放つけ火びだ放火だ、と取り騒いで、夜廻りの拍子木が、枕に響く町々に、寝心のさて安からざりし年とかや。
三月の中の七日、珍しく朝あさ凪なぎして、そのまま穏おだやかに一日暮れて……空はどんよりと曇ったが、底に雨あま気げを持ったのさえ、頃この日ごろの埃には、もの和やわらかに視ながめられる……じとじととした雲一面、星はなけれど宵月の、朧おぼ々ろおぼろの大路小路。辻には長唄の流しも聞えた。
この七の日は、番町の大おお銀いち杏ょうとともに名高い、二七の不動尊の縁日で、月六斎。かしらの二日は大粒の雨が、ちょうど夜店の出盛る頃に、ぱらぱら生なま暖あったかい風に吹きつけたために――その癖すぐに晴れたけれども――丸まる潰つぶれとなった。……以来、打続いた風ッ吹きで、銀杏の梢こずえも大おお童わらわに乱れて蓬おど々ろおどろしかった、その今夜は、霞に夕化粧で薄あかりにすらりと立つ。
堂とは一町ばかり間あわいをおいた、この樹の許もとから、桜草、菫すみれ、山吹、植木屋の路みちを開き初そめて、長のど閑かに春めく蝶々簪かんざし、娘たちの宵よい出での姿。酸ほお漿ずき屋やの店から灯が点ともれて、絵草紙屋、小間物店みせの、夜の錦にしきに、紅くれないを織り込む賑にぎわいとなった。
が、引続いた火沙汰のために、何となく、心々のあわただしさ、見附の火の見櫓やぐらが遠とお霞がすみで露店の灯の映るのも、花の使つかいと視ながめあえず、遠火で焙あぶらるる思いがしよう、九時というのに屋敷町の塀に人が消えて、御みど堂うの前も寂ひっ寞そりとしたのである。
提ちょ灯うちんもやがて消えた。
ひたひたと木の葉から滴る音して、汲くみかえし、掬むすびかえた、柄ひし杓ゃくの柄を漏る雫しずくが聞える。その暗くなった手水鉢の背うし後ろに、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの婦おんなが、皿を持って出そうだけれども、別に仔しさ細いはない。……参さん詣けいの散った夜よふ更けには、人目を避けて、素すは膚だに水みず垢ご離りを取るのが時々あるから、と思うとあるいはそれかも知れぬ。
今境内は人ひと気けは勢いもせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体ていに、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面に二三本燃え残った蝋ろう燭そくの、横曇りした、七星の数の切れたように、たよりない明あかりに幽かすかに映った。
びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣はだ足しか、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に縋すがって、そこで息を吐つく、肩を一つ揺ゆすったが、敷石の上へ、蹌よ踉ろ々よ々ろ。
口を開あいて、唇赤く、パッと蝋ろうの火を吸った形の、正面の鰐わに口ぐちの下へ、髯ひげのもじゃもじゃと生えた蒼あおい顔を出したのは、頬のこけた男であった。
内へ引く、勢の無い咳せきをすると、眉を顰ひそめたが、窪くぼんだ目で、御堂の裡うちを俯うつ向むいて、覗のぞいて、
﹁お蝋を。﹂
二
そう云って、綻ほころびて、袂たもとの尖さきでやっと繋つながる、ぐたりと下へ襲かさねた、どくどく重そうな白しろ絣がすりの浴衣の溢はみ出だす、汚れて萎なえた綿入のだらけた袖口へ、右の手を、手首を曲げて、肩を落して突つっ込こんだのは、賽さい銭せんを探ったらしい。
が、チヤリリともせぬ。
時に、本堂へむくりと立った、大きな頭の真まっ黒くろなのが、海坊主のように映って、上から三宝へ伸のし懸かかると、手が燈とう明みょうに映って、新しい蝋燭を取ろうとする。
一ツ狭い間を措おいた、障子の裡うちには、燈ひがあかあかとして、二三人居残った講中らしい影が映さしたが、御本尊の前にはこの雇やと和いお尚しょうただ一人。もう腰こし衣ごろもばかり袈け裟さもはずして、早やお扉を閉める処。この、しょびたれた参詣人が、びしょびしょと賽銭箱の前へ立った時は、ばたり、ばたりと、団うち扇わにしては物寂しい、大おおきな蛾ひとりむしの音を立てて、沖の暗や夜みの不しら知ぬ火いが、ひらひらと縦に燃える残んの灯を、広い掌てのひらで煽あおぎ煽あおぎ、二三挺ちょう順に消していたのである。
﹁ええ、﹂
とその男が圧おさえて、低い声で縋すがるように言った。
﹁済みませんがね、もし、私てまえ持合せがございません。ええ、新しいお蝋燭は御遠慮を申上げます。ええ。﹂
﹁はあ。﹂と云う、和尚が声の幅を押おっ被かぶせるばかり。鼻も大きければ、口も大きい、額の黒ほく子ろも大入道、眉をもじゃもじゃと動かして聞返す。
これがために、窶やつれた男は言渋って、
﹁で、ございますから、どうぞ蝋燭はお点ともし下さいませんように。﹂
﹁さようか。﹂
と、も一つ押被せたが、そのまま、遣やり放はなしにも出来ないのは、彼がまだ何か言いたそうに、もじもじとしたからで。
和尚はまじりと見ていたが、果はてしがないから、大おおきな耳を引ひっ傾かたげざまに、ト掌てのひらを当てて、燈明の前へ、その黒ほく子ろを明らさまに出した体ていは、耳が遠いからという仕方に似たが、この際、判はっ然きり分るように物を言え、と催促をしたのである。
﹁ええ。﹂
とまた云う、男は口を利くのも呼い吸きだわしそうに肩を揺ゆする、……
﹁就きましては、真まことに申兼ねましたが、その蝋燭でございます。﹂
﹁蝋燭は分ったであす。﹂
小鼻に皺しわを寄せて、黒子に網の目の筋を刻み、
﹁御都合じゃからお蝋は上げぬようにと言うのじゃ。御随意であす。何か、代物を所持なさらんで、一挺、お蝋が借りたいとでも言わるる事か、それも御随意であす。じゃが、もう時分も遅いでな。﹂
﹁いいえ、﹂
﹁はい、﹂と、もどかしそうな鼻息を吹く。
﹁何でございます、その、さような次第ではございません。それでございますから、申しにくいのでございますが、思おぼ召しめしを持ちまして、お蝋を一挺、お貸し下さる事にはなりますまいでございましょうか。﹂
﹁じゃから、じゃから御随意であす。じゃが時刻も遅いでな、……見なさる通り、燈明をしめしておるが、それともに点つけるであすか。﹂
﹁それがでございます。﹂
と疲れた状さまにぐたりと賽銭箱の縁へりに両手を支ついて、両の耳に、すくすくと毛のかぶさった、小さな頭をがっくりと下げながら、
﹁一挺お貸し下さいまし、……と申しますのが、御神前に備えるではございません。私てまえ、頂いて帰りたいのでございます。﹂
﹁お蝋を持って行くであすか。ふうむ、﹂と大おおきく鼻を鳴ならす。
﹁それも、一度お供えになりました、燃えさしが願いたいのでございまして。﹂
いや、時節がら物騒千万。
三
﹁待て、待て、ちょっと……﹂
往来留どめの提ちょ灯うちんはもう消したが、一筋、両側の家の戸を鎖さした、寂さみしい町の真まん中なかに、六道の辻の通みちしるべに、鬼が植えた鉄かな棒ぼうのごとく標しるしの残った、縁日果てた番町通どおり。なだれに帯板へ下りようとする角の処で、頬ほお被かぶりした半はん纏てん着ぎが一人、右側の廂ひさしが下った小家の軒下暗い中から、ひたひたと草履で出た。
声も立てず往来留のその杙くいに並んで、ひしと足を留めたのは、あの、古井戸の陰から、よろりと出て、和尚に蝋燭の燃えさしをねだった、なぜ、その手水鉢の柄杓を盗まなかったろうと思う、船ふな幽ゆう霊れいのような、蒼あおしょびれた男である。
半纏着は、肩を斜はすっかいに、つかつかと寄って、
﹁待てったら、待て。﹂とドス声を渋くかすめて、一つしゃくって、頬被りから突出す頤あごに凄すご味みを見せた。が、一向に張合なし……対あい手ては待てと云われたまま、破れた暖のれ簾んに、ソヨとの風も無いように、ぶら下った体ていに立たち停どまって待つのであるから。
﹁どこへ行く、﹂
黙って、じろりと顔を見る。
﹁どこへ行くかい。﹂
﹁ええ、宅へ帰りますでございます。﹂
﹁家うちはどこだ。﹂
﹁市ヶ谷田町でございます。﹂
﹁名は何てんだ、……﹂
と調子を低めて、ずっと摺すり寄より、
﹁こう言うとな、大概生意気な奴やつは、名を聞くんなら、自分から名な告のれと、手数を掛けるのがお極きまりだ。……俺はな、お前めえの名を聞いても、自分で名告るには及ばない身分のもんだ、可いいか。その筋の刑事だ。分ったか。﹂
﹁ええ、旦那でいらっしゃいますか。﹂
と、破れ布ぬの子この上から見ても骨の触って痛そうな、痩やせた胸に、ぎしと組んだ手を解いて叩おじ頭ぎをして、
﹁御苦労様でございます。﹂
﹁むむ、御苦労様か。……だがな、余計な事を言わんでも可い。名を言わんかい。何てんだ、と聞いてるんじゃないか。﹂
﹁進藤延のぶ一かずと申します。﹂
﹁何だ、進藤延一、へい、変に学問をしたような、ハイカラな名じゃねえか。﹂
と言葉じりもしどろになって、頤あごを引ひっ込こめたと思うと、おかしく悄しょ気げたも道理こそ。刑事と威おどした半纏着は、その実町内の若いもの、下した塗ぬりの欣きん八ぱちと云う。これはまた学問をしなそうな兄あに哥いが、二七講の景気づけに、縁日の夜よは縁起を祝って、御堂一ひと室まど処ころで、三宝を据えて、頼たの母も子しを営む、……世話方で居残ると……お燈明の消きえ々ぎえ時、フト魔が魅さしたような、髪蓬おどろに、骨豁あらわなりとあるのが、鰐わに口ぐちの下に立たち顕あらわれ、ものにも事を欠いた、断ことわるにもちょっと口実の見当らない、蝋燭の燃えさしを授けてもらって、消えるがごとく門を出たのを、ト伸上って見ていた奴。
﹁棄ててはおかれませんよ、串じょ戯うだんじゃねえ。あの、魔ものめ。ご本尊にあやかって、めらめらと背中に火を背し負ょって帰ったのが見えませんかい。以来、下町は火事だ。僥しあ倖わせと、山の手は静かだっけ。中やすみの風が変って、火先が井戸端から舐なめはじめた、てっきり放つけ火びの正体だ。見逃してやったが最後、直ぐに番町は黒くろ焦こげさね。私が一番生いけ捕どって、御覧じろ、火事の卵を硝ビイ子ドロの中へ泳がせて、追おッ付つけ金魚の看板をお目に懸ける。……﹂
﹁まったく、懸念無量じゃよ。﹂と、当御堂の住職も、枠わく眼めが鏡ねを揺ゆすぶらるる。
講こう親おやが、
﹁欣八、抜かるな。﹂
﹁合点だ。﹂
四
﹁ああ、旨うまいな。﹂
煙たば草この煙を、すぱすぱと吹く。溝石の上に腰を落して、打ぶっ坐すわりそうに蹲しゃがみながら、銜くわえた煙きせ管るの吸口が、カチカチと歯に当って、歪ゆがみなりの帽子がふらふらとなる。……
夜は更けたが、寒さに震えるのではない、骨まで、ぐなぐなに酔っているので、ともすると倒のめりそうになるのを、路みち傍ばたの電信柱の根に縋すがって、片手喫ふかしに立続ける。
﹁旦那、大分いけますねえ。﹂
膝ひざ掛かけを引ひん抱だいて、せめてそれにでも暖あたたまりたそうな車夫は、値が極きまってこれから乗ろうとする酔よっ客ぱらいが、ちょっと一服で、提ちょ灯うちんの灯で吸うのを待つ間ま、氷のごとく堅くなって、催促がましく脚と脚を、霜柱に摺すり合あわせた。
﹁何?大分いけますね……とおいでなさると、お酌が附いて飲んでるようだが、酒はもう沢山だ。この上は女さね。ええ、どうだい、生なま酔よい本性違たがわずで、間違の無い事を言うだろう。﹂
﹁何ならお供をいたしましょう、ええ、旦那。﹂
﹁お供だ? どこへ。﹂
﹁お馴なじ染み様でございまさあね。﹂
﹁馬鹿にするない、見附で外そと濠ぼりへ乗替えようというのを、ぐっすり寐ね込こんでいて、真まっ直すぐに運ばれてよ、閻えん魔まだ、と怒鳴られて驚いて飛出したんだ。お供もないもんだ。ここをどこだと思ってる。
電車が無いから、御意の通り、高い車賃を、恐入って乗ろうというんだ。家数四五軒も転がして、はい、さようならは阿あこ漕ぎだろう。﹂
口を曲げて、看板の灯で苦笑して、
﹁まず、……極きめつけたものよ。当人こう見えて、その実方角が分りません。一体、右側か左側か。﹂と、とろりとして星を仰ぐ。
﹁大木戸から向って左側でございます、へい。﹂
﹁さては電車路を突つっ切きったな。そのまま引返せば可いいものを、何の気で渡った知らん。﹂
と真しんになって打傾く。
﹁車くる夫まや、車夫ッて、私をお呼びなさりながら、横なぐれにおいでなさいました。﹂
﹁……夢中だ。よっぽどまいったらしい。素敵に長い、ぐらぐらする橋を渡るんだと思ったっけ。ああ、酔った。しかし可い心持だ。﹂とぐったり俯うつ向むく。
﹁旦那、旦那、さあ、もう召して下さい、……串じょ戯うだんじゃない。﹂
と半分呟つぶやいて、石に置いた看板を、ト乗のっ掛かかって、ひょいと取る。
鼻の前さきを、その燈ひが、暗がりにスーッと上あがると、ハッ嚔くさめ、酔よっ漢ぱらいは、細い箍たがの嵌はまった、どんより黄色な魂を、口から抜出されたように、ぽかんと仰あお向むけに目を明けた。
﹁ああ、待ったり。﹂
﹁燃えます、旦那、提灯を乱暴しちゃ不い可けません。﹂
﹁貸しなよ、もう一服吸附けるんだ。﹂
﹁燐マッ寸チを上げまさあね。﹂
﹁味が違います……酔覚めの煙草は蝋燭の火で喫のむと極きまったもんだ。……だが……心意気があるなら、鼻紙を引ひっ裂さいて、行あん燈どんの火を燃して取って、長なが羅ら宇うでつけてくれるか。﹂
と中腰に立って、煙管を突つっ込こむ、雁がん首くびが、ぼっと大きく映ったが、吸取るように、ばったりと紙になる。
﹁消した、お前さん。﹂
内ない証しょで舌打。
霜夜に芬ぷんと香が立って、薄い煙が濛もうと立つ。
﹁車くる夫まや。﹂
﹁何ですえ。﹂
﹁……宿しゅくに、桔きき梗ょう屋や﹇#ルビの﹁ききょうや﹂は底本では﹁ききやうや﹂﹈と云うのがあるかい、――どこだね。﹂
﹁ですから、お供を願いたいんで、へい、直じきそこだって旦那、御ごみ冥よう加がだ。御祝儀と思召して一つ暖まらしておくんなさいまし、寒くって遣やり切きれませんや。﹂とわざとらしく、がちがち。
﹁雲助め。﹂
と笑いながら、
﹁市ヶ谷まで雇ったんだ、賃銭は遣るよ、……車は要らない。そのかわり、蝋燭の燃えさしを貰って行ゆく。……﹂
五
さて酔よっ漢ぱらいは、山鳥の巣に騒ぞ見めく、梟ふくろうという形で、も一度線路を渡わた越りこした、宿しゅくの中ほどを格こう子し摺ずれに伸のしながら、染そめ色いろも同じ、桔梗屋、と描かいて、風情は過ぎた、月明りの裏打をしたように、横店の電でん燈きが映る、暖のれ簾んをさらりと、肩で分けた。よしこことても武蔵野の草に花咲く名所とて、廂ひさしの霜も薄化粧、夜よ半わの凄すごさも狐きつ火ねびに溶けて、情なさけの露となりやせん。
﹁若い衆しゅ、﹂
﹁らっしゃい!﹂
﹁遊ぶぜ。﹂
﹁難あり有がとう様で、へい、﹂と前まえ掛かけの腰を屈かがめる、揉もみ手での肱ひじに、ピンと刎はねた、博はか多たお帯びの結むす目びめは、赤坂奴やっこの髯ひげと見た。
﹁振らないのを頼みます。雨具を持たないお客だよ。﹂
﹁ちゃんとな、﹂
と唐とう桟ざんの胸を劃しきって、
﹁胸三寸。……へへへ、お古い処、お馴なじ染みが効いでございます、へへへ、お上んなはるよ。﹂
帳場から、
﹁お客様ア。﹂
まんざらでない跫あし音おとで、トントンと踏む梯はし子ごだ段ん。
﹁いらっしゃい。﹂と……水へ投げて海かい津ずを掬しゃくう、溌はつ剌らつとした声なら可いいが、海綿に染む泡あぶ波くのごとく、投げた歯に舌のねばり、どろんとした調子を上げた、遣やり手て部べ屋やのお媼ばさんというのが、茶渋に蕎そば麦き切りを搦からませた、遣やり放ッぱなしな立膝で、お下りを這しょ曳びいたらしい、さめた饂うど飩んを、くじゃくじゃと啜すする処――
横手の衝つい立たてが稲いな塚づかで、火鉢の茶ちゃ釜がまは竹の子笠、と見ると暖ぬく麺めん蚯みみ蚓ずのごとし。惟おもんみれば嘴くちばしの尖とがった白面の狐コンコンが、古ふる蓑みのを裲うち襠かけで、尻尾の褄つまを取って顕あらわれそう。
時しも颯さっと夜嵐して、家中穴だらけの障子の紙が、はらはらと鳴る、霰あられの音。
勢いきおい辟へき易えきせざるを得ずで、客人ぎょっとした体ていで、足が窘すくんで、そのまま欄干に凭より懸かかると、一小間抜けたのが、おもしに打たれて、ぐらぐらと震動に及ぶ。
﹁わあ、助けてくれ。﹂
﹁お前さん、可いい御機嫌で。﹂
とニヤリと口を開けた、お媼ばさんの歯の黄色さ。横に小こよ楊う枝じを使うのが、つぶつぶと入る。
若い衆飛んで来て、腰を極きめて、爪つま先さきで、ついつい、
﹁ちょっと、こちらへ。﹂
と古畳八畳敷、狸を想う真まん中なかへ、性しょうの抜けた、べろべろの赤あか毛もう氈せん。四角でもなし、円まるでもなし、真しん鍮ちゅうの獅しが噛み火鉢は、古寺の書院めいて、何と、灰に刺したは杉の割わり箸ばし。
こいつを杖つえという体ていで、客は、箸を割って、肱ひじを張り、擬勢を示して大おお胡あぐ坐らにとなる。
﹁ええ。﹂
と早口の尻上りで、若いものは敷居際に、梯子段見通しの中腰。
﹁お馴染様は、何どな方た様で……へへへ、つい、お見み外それ申しましてございまして、へい。﹂
﹁馴染はないよ。﹂
﹁御ごじ串ょう戯だんを。﹂
﹁まったくだ。﹂
﹁では、その、へへへ、﹂
﹁何が可お笑かしい。﹂
﹁いえ、その、お古い処を……お馴染効がいでございまして、ちょっとお見立てなさいまし。﹂
彼は胸を張って顔を上げた。
﹁そいつは嫌いだ。﹂
﹁もし、野暮なようだが、またお慰み。日比谷で見合と申すのではございません。﹂
﹁飛んだ見違えだぜ、気取るものか。一ツ大野暮に我輩、此こ家このおいらんに望みがある。﹂
﹁お名ざしで?﹂
﹁悪いか。﹂
﹁結構ですとも、お古い処を、お馴染効でございまして。……﹂
六
対あい方かたは白しら露つゆと極きまった……桔梗屋の白露、お職だと言う。……遣手部屋の蚯みみ蚓ずを思えば、什そもか、狐塚の女おみ郎なえ花し。
で、この名ざしをするのに、客は妙な事を言った。
﹁若い衆、註文というのは、お照てらしだよ。﹂
﹁へい、﹂
﹁内に、居るだろう。﹂
﹁お照しが居おりますえ?﹂
と解げせない顔かお色つき。
﹁そりゃ、無いことはございませんが、﹂
﹁秘かくすな、尋常に顕あらわせろ。﹂と真まっ赤かな目で睨にらんで言った。
﹁何も秘します事はございません、ですが御覧の通り、当場所も疾とうの以前から、かように電燈になりました。……ひきつけの遊おい君らんにお見違えはございません。別して、貴あな客ッさ様まなぞ、お目が高くっていらっしゃいます、へい、えッへへへへ。もっとも、その、ちとあちらへ、となりまして、お望みとありますれば、﹂
﹁だから、望みだから、お照しを出せよ。﹂
﹁それは、お照しなり、行あん燈どんなり、いかようともいたしますんで、とにかく、……夜も更けております事、遊おい君らんの処を、お早く、どうぞ。﹂
と、ちらりと遣手部屋へ目を遣って、此こい奴つ、お荷物だ、と仕方で見せた。
﹁分らないな。﹂
と煙きせ管るを突つっ込こんで、ばったり置くと、赤あか毛もう氈せんに、ぶくぶくして、擬まがい印伝の煙草入は古池を泳ぐ体ていなり。
﹁女は蝋燭だと云ってるんだ。﹂
お媼ばさんが突つっ掛かけ草履で、片手を懐に、小楊枝を襟先へ揉もみ挿さしながら、いけぞんざいに炭取を跨またいで出て、敷居越に立ったなり、汚し点みのある額越しに、じろりと視みて、
﹁遊おい君らんが綺麗で柔おと順なしくって持てさいすりゃ言いい種ぐさはないんじゃないか。遅いや、ね、お前さん。﹂
と一ツ叱って、客が這し奴ゃ言おうで擡もたげた頭ずを、しゃくった頤あごで、無だん言まりで圧おし着つけて、
﹁お勝どん、﹂と空くうを呼ぶ。
﹁へーい。﹂
途端に、がらがらと鼠が騒いだ。……天井裏で声がして、十五六の当の婢ちびは、どこから顕あらわれたか、煤すすを繋つないで、その天井から振ぶら下さげたように、二階の廊下を、およそ眠いといった仏頂面で、ちょろりと来た。
﹁白露さん、……お初しょ会かいだよ。﹂
﹁へーい。﹂
夢が裏返ったごとく、くるりと向うむきになって、またちょろり。
﹁旦那こちらへ、……ちょうどお座敷がございます。﹂
﹁待て、﹂
と云ったが、遣手の剣幕に七分の恐おそ怖れで、煙草入を取って、やッと立つと……まだ酔っている片膝がぐたりとのめる。
﹁蝋燭はどうしたんだ。﹂
﹁何も御会計と御相談さ。﹂と、ずっきり言う。
……彼は、苦い顔で立上って、勿論広くはない廊下、左右の障子へ突つっ懸かけるように、若い衆の背中を睨にらんで、不服らしくずんずん通った。
が、部屋へ入ると、廊下を背うし後ろにして、長火鉢を前に、客を待つ気構えの、優しく白い手を、しなやかに鉄瓶の蔓つるに掛けて、見るとも見ないともなく、ト絵本の読みさしを膝に置いて、膚はだ薄そうな縞しま縮ちり緬めん。撫なで肩がたの懐手、すらりと襟を辷すべらした、紅くれないの襦じゅ袢ばんの袖に片手を包んだ頤おとがい深く、清らか耳みみ許もとすっきりと、湯上りの紅も絹みの糠ぬか袋ぶくろを皚しら歯はに噛かんだ趣して、頬も白々と差さし俯うつ向むいた、黒くろ繻じゅ子す冷たき雪なす頸うなじ、これが白露かと、一目見ると、後姿でゾッとする。――
﹁河、原、と書くんだ、河かわ原らせ千んべ平い。﹂
やがて、帳面を持って出直した時、若いものは、軸で、ちょっと耳を掻かいて、へへへ、と笑った。
﹁貴あな客た、ほんとの名を聞かして下さいましな。﹂
犬を料理そうな卓ちゃ子ぶだ台いの陰ながら、膝に置かれた手は白し、凝じっと視みられた瞳は濃し……
思わず情なさけが五体に響いて、その時言った。
﹁進藤延一……造兵……技師だ。﹂
七
﹁こういう事をお話し申した処で、ほんとにはなさりますまい。第一そんな安店に、容きり色ょうと云い気きだ質てと云い、名も白露で果は敢かないが、色の白い、美しい婦おんなが居ると云っては、それからが嘘らしく聞えるでございましょう。
その上、癡たわ言ことを吐つけ、とお叱りを受けようと思いますのは、娼じょ妓ろうでいて、まるで、その婦おんなが素き地じの処むす女めらしいのでございます。ええ、他の仁にはまずとにかく、私てまえだけにはまったくでございました。
なお怪しいでございましょう……分けて、旦那方は御職掌で、人一倍、疑り深くいらっしゃいますから。﹂――
一言ずつ、呼い気きを吐つくと、骨だらけな胸がびくびく動く、そこへ節くれだった、爪の黒い掌てのひらをがばと当てて、上うえ下したに、調子を取って、声を揉もみ出だす。
佐内坂の崖下、大おお溝どぶ通りを折おれ込こんだ細路地の裏長屋、棟むね割わりで四軒だちの尖とっ端ぱずれで……崖うらの畝うね々うね坂ざかが引窓から雪な頽だれ込みそうな掘ほっ立たて一ひと室ま。何にも無い、畳の摺すり剥むけたのがじめじめと、蒸れ湿ったその斑まだらが、陰と明るみに、黄色に鼠に、雑多の虫むし螻けらの湧わいて出た形に見える。葉ブリ鉄キ落しの灰の濡れた箱火鉢の縁へりに、じりじりと燃える陰気な蝋燭を、舌のようになめらかして、しょんぼりと蒼あおざめた、髪の毛の蓬おどろなのが、この小屋の……ぬしと言いたい、墓から出た状さまの進藤延一。
がっしとまた胸を絞って、
﹁でありますが、余りお疑い深いのも罪なものでございます。﹂
と、もの言う都度、肩から暗くなって、蝋燭の灯に目ばかりが希代に光る。
﹁疑うのが職業だって、そんな、お前めえ、狐の性しょうじゃあるまいし、第一、僕はそのね、何も本職というわけじゃないんだよ。﹂
となぜか弱い音ねを吹いた……差向いをずり下さがって、割膝で畏かしこまった半纏着の欣八刑事、風かざ受うけの可よい勢いきおいに乗じて、土つち蜘ぐ蛛もの穴へ深ふか入いりに及んだ列せ卒この形で、肩ばかり聳そびやかして弱身を見せじと、擬勢は示すが、川柳に曰く、鏝こて塗ぬりの形に動く雲の峰で、蝋燭の影に蟠わだかまる魔物の目から、身から体だを遮りたそうに、下塗の本体、しきりに手を振る。……
﹁可いいかね、ちょいと岡おか引っぴきッて、身軽な、小意気な処を勤めるんだ。このお前めえ、しっきりなし火沙汰の中さ。お前、焼跡で引ほ火く奴ちを捜すような、変な事をするから、一つ素しょ引ぴいてみたまでのもんさね。直ぐにも打ふん縛じばりでもするように、お前、真しん剣けんになって、明あか白りを立てる立てるッて言わあ。勿論、何だ、御用だなんて威おどかしたには威しましたさ、そりゃ発はず奮みというもんだ。
明あか白しを立てます立てますッて、ここまで連れて来るから、途中で小用も出来ずさね、早い話が。
隣とな家りは空屋だと云うし、……﹂
と、頬ほお被かぶりのままで、後を見た、肩を引いて、
﹁一軒隣は按あん摩まだと云うじゃねえか。取とッ附つきの相角がおでん屋だッて、かッと飲んだように一景気附いたと思や、夫婦で夜なしに出て、留守は小こど児もの番をする下げし性ょうの悪い爺じいさんだと言わあ。早い話がじゃ、この一棟四軒長屋の真まっ暗くらな図体の中に、……﹂
と鏝こてを塗って、
﹁まあ、可いやね、お前めえ、別にお前、怪しいたッて、何も、ねえ、まあ、お互に人間に変りはねえんだから、すぐにさようならにしようと思った。だけれど、話の口くち明あけが、宿しゅくの女郎だ。おまけに別べっ嬪ぴんと来たから、早い話が。
でまあ、その何だ、私わっしも素人じゃねえもんだから、﹂
と目めつ潰ぶしの灰の気さ。
﹁一ツ詮せん索さくをして帰ろう、と居坐ったがね、……気にしなさんな。別にお前の身から体だを裏返しにして、綺麗に洗いだてをしようと云うんじゃねえ。可いから、﹂
と云う中うちにも、じろりと視みる、そりゃ光るわ、で鏝を塗って、
﹁大目に見てやら。ね、早い話が。僕は帰るよ、気にしなさんな。﹂
﹁ええ、いや、私てまえの方で、気にしない次わ第けには参りません。﹂
欣八、ぎょっとして、
﹁そうかね、……はてね。……トオカミ、エミタメはどんなものだ。﹂と字あざなは孔明、琴を弾く。
八
﹁で、その初会の晩なぞは、見得に技師だって言いました。が、私てまえはその頃、小石川へ勤めました鉄砲組でございますが、﹂
﹁ああ、造兵かね、私わっしの友達にも四五人居るよ。中の一人は、今夜もお不動様で一所だっけ。そうかい、そいつは頼たの母もしいや。﹂と欣八いささか色を直す。
﹁見なさいます通りで、我ながら早やかように頼母しくなさ過ぎます。もっとも、車夫の看板を引抜いて、肩で暖簾を分けながら、遊ぶぜ、なぞと酔った晩は、そりゃ威勢が可ようがした。﹂
と投首しつつ、また吐とい息き。じっと灯ともしびを瞻みまもったが、
﹁ところで、肝心のその燃えさしの蝋燭の事でございます。
嘘か、真まことかは分りません。かねて、牛鍋のじわじわ酒に、夥なか間まの友だちが話しました事を、――その大木戸向うで、蝋燭の香においを、芬ぷんと酔よい爛ただれた、ここへ、その脳へ差込まれましたために、ふと好もの事ずきな心が、火取虫といった形で、熱く羽ばたきをしたのでございます。
内には柔やさしい女房もございました。別に不足というでもなし、……宿しゅくへ入ったというものは、ただ蝋燭の事ばかり。でございますから、圧おし附つけに、勝手な婦おんなを取持たれました時は、馬鹿々々しいと思いましたが、因果とその婦おんなの美しさ。
成程、桔梗屋の白露か、玉の露でも可い位。
けれども、楼うちなり、場所柄なり、……余り綺麗なので、初手は物もの凄すごかったのでございます。がいかにも、その病気があるために、――この容きり色ょう、三い絃ともちょっと響く腕で――蹴けころ同然な掃はき溜だめへ落ちていると分りますと、一夜妻のこの美しいのが……と思う嬉しさに、……今の身で、恥も外聞もございません。筋も骨もとろとろと蕩とろけそうになりました。……
枕まく頭らもとの行あん燈どんの影で、ええ、その婦おんなが、二階廻しの手にも投なげ遣やらないで、寝巻に着換えました私てまえの結ゆう城きも木め綿んか何か、ごつごつしたのを、絹やわ物らかもののように優しく扱って、袖そで畳だたみにしていたのでございます。
部屋着の腰の巻帯には、破れた行燈の穴の影も、蝶々のように見えて、ぞくりとする肩を小夜具で包んで、恍うっ惚とりと視ながめていますと、畳んだ袖を、一つ、スーと扱しごいた時、袂たもとの端で、指ゆび尖さきを留めましたがな。
横顔がほんのりと、濡れたような目に、柔かな眉まみえが見えて、
貴あな方たは御存じね――﹂
延一は続けさまに三つばかり、しゃがれた咳せきして、
﹁私てまえに、残らず自分の事を知っていて来たのだろうと申しまして、――頂かして下さいましな、手を入れますよ、大事ござんせんか――
と念を押して、その袂から、抜いて取ったのが、右の蝋燭でございます。﹂
﹁へい、﹂と欣八は這はい身みに乗出す。
﹁が、その美人。で、玉で刻んだ独とっ鈷こか何ぞ、尊いものを持ったように見えました。
遣手も心得た、成りたけは隠す事、それと言わずに逢わせた、とこう私てまえは思う。……
――どちらの御蝋でござんすの――
また、そう訊くのがお極きまりだと申します。……三度のもの、湯水より、蝋燭でさえあれば、と云う中うちにも、その婦おんなは、新あらのより、燃えさしの、その燃えさしの香においが、何とも言えず快い。
その燃えさしもございます。
一度、神仏の前に供えたのだ、と持つ手もわななく、体みを震わして喜ぶんだ、とかねて聞いておりましたものでございますから、その晩は、友達と銀座の松喜で牛肉をしたたか遣りました、その口で、
――水天宮様のだ、人形町の――
と申したでございます。電車の方角で、フト思い付きました。銀座には地蔵様もございますが、一言で、誰も分るのをと思いましてな。ええ。……﹂
とじろじろと四あた辺りをす。
欣八は同じように、きょろきょろと頭を振る。
九
﹁お聞き下さい。﹂
と痩やせた膝を痛そうに、延一は居直って、
﹁かねて噂を聞いたから、おいらんの土産にしようと思って、水天宮様の御蝋の燃えさしを頂いて来たんだよ、と申しますと、端きち然んと居いず坐まいを直して、そのふっくりした乳房へ響くまで、身に染みて、鳩みず尾おちへはっと呼い吸きを引いて、
――まあ、嬉しい――
とちゃんと取って、蝋燭を頂くと、さもその尊さに、生はえ際ぎわの曇った白い額から、品物は輝いて後光が射さすように思われる、と申すものは、婦おんなの気の入れ方でございまして。
どうでございましょう。これが直じき近所の車夫の看板から、今しがた煙草を吸って、酒さけ粘ねばりの唾つばきを吐いた火の着いていたやつじゃございますまいか。
なんぼでも、そうまで真しんになって嬉しがられては、灰吹を叩いて、舌を出すわけには参りません。
実は、とその趣を陳のべて、堪忍しな、出来心だ。そのかわり、今度は成田までもわざわざ出向くから、と申しますと、婦おんなが莞にっ爾こりして言うんでございます。
これほどまでに、生いの命ちがけで好きなんですもの、どこの、どうした蝋燭だか、大概は分ります。一度燃えたのですから、その香においで、消えてからどのくらい経たったかが知れますと、伺った路順で、下した谷やだが浅草だが推量が付くんです。唯ただ今いま下すったのは、手に取ると、すぐに直き近い処だとは思いました、……では、大だい宗そう寺じ様のかと存じましたが、召上った煙草の粉が附くッ着ついていますし、御縁日ではなし、かたがた悪いた戯ずらに、お欺かつぎだとは知ったんですが、お初会の方に、お怨みを言うのも、我わが儘ままと存じて遠慮しました。今度ッからは、たとい私をお誑だましでも、蝋燭の嘘を仰おっ有しゃるとほんとうに怨みますよ、と優しい含ふく声みごえで、ひそひそと申すんで。
もう、実際嘘は吐つくまい、と思ったくらいでございます。
部屋着を脱ぐと、緋ひの襦じゅ袢ばんで、素足がちらりとすると、ふッ、と行燈を消しました。……底に温あた味たかみを持ったヒヤリとするのが、酒の湧わく胸へ、今にもいい薫かおりで颯さっと絡まつわるかと思うと、そうでないので。――
カタカタと暗がりで箪たん笥すの抽ひき斗だしを開けましたがな。
――水天宮様のをお目に掛けましょう――
そう云って、柔らかい膝の衣きぬ摺ずれの音がしますと、燐マッ寸チを※ぱっ﹇#﹁火+發﹂、248-3﹈と摺すった。﹂
﹁はあ、﹂
と欣八は、その※﹇#﹁火+發﹂、248-5﹈とした……瞬きする。
﹁で、朱塗の行燈の台へ、蝋燭を一挺ちょう、燃えさしのに火を点ともして立てたのでございます。﹂
と熟じっと瞻みまもる、とここの蝋燭が真まっ直すぐに、細ほっそりと灯が据すわった。
﹁寂し然んとしておりますので、尋た常だのじゃない、と何となくその暗い灯に、白い影があるらしく見えました。
これは、下谷の、これは虎の門の、飛んで雑ぞう司しヶ谷のだ、いや、つい大木戸のだと申して、油皿の中まで、十四五挺、一ツずつ消しちゃ頂いて、それで一ツずつ、生なま々なまとした香においの、煙……と申して不思議にな、一つ色ではございません。稲いな荷りさ様まのは狐色と申すではないけれども、大黒天のは黒く立ちます……気がいたすのでございます。少し茶色のだの、薄黄色だの、曇った浅黄がございましたり。
その燃えさしの香においの立つ処を、睫まつ毛げを濃く、眉を開いて、目を恍うっ惚とりと、何と、香においを散らすまい、煙を乱すまいとするように、掌てのひらで蔽おおって余さず嗅かぐ。
これが薬なら、身から体だ中、一筋ずつ黒髪の尖さきまで、血と一所に遍あまねく膚はだを繞めぐった、と思うと、くすぶりもせずになお冴さえる、その白い二の腕を、緋の袖で包みもせずに、……﹂
聞く欣八は変な顔がん色しょく。
﹁時に……﹂
と延一は、ギクリと胸を折って、抱えた腕なりに我が膝に突つっ伏ぷして、かッかッと咳をした。
十
その瞼に朱を灌そそぐ……汗の流るる額を拭ぬぐって、
﹁……時に、その枕まく頭らもとの行あん燈どんに、一挺消さない蝋燭があって、寂し然んと間まを照てらしておりますんでな。
――あれは――
――水天宮様のお蝋です――
と二つ並んだその顔が申すんでございます。灯の影には何が映るとお思いなさる、……気になること夥おびただしい。
――消さないかい――
――堪忍して――
是非と言えば、さめざめと、名の白露が姿を散らして消えるばかりに泣きますが。推量して下さいまし、愛あい想そづ尽かしと思うがままよ、鬼だか蛇じゃだか知らない男と一つ処……せめて、神かみ仏ほとけの前で輝いた、あの、光一ツ暗やみに無うては恐こ怖わくて死んでしまうのですもの。もし、気になったら、貴あな方たばかり目をお瞑つむりなさいまし。――と自分は水晶のような黒目がちのを、すっきりって、――昼さえ遊ぶ人がござんすよ、と云う。
可よし、神仏もあれば、夫婦もある。蝋燭が何の、と思う。その蝋燭が滑すべ々すべと手に触る、……扱しご帯きの下に五六本、襟の裏にも、乳ちの下にも、幾本となく忍ばしてあるので、ぎょっとしました。残らず、一度は神仏の目の前で燃え輝いたのでございましょう、……中には、口にするのも憚はばかる、荒あら神がみも少くはありません。
ばかりでない。果ては、その中から、別に、綺麗な絵の蝋燭を一挺抜くと、それへ火を移して、銀ぎん簪かんざしの耳に透とおす。まずどうするとお思いなさる、……後で聞くとこの蝋燭の絵は、その婦おんなが、隙ひまさえあれば、自分で剳ほり青もののように縫針で彫って、彩いろ色どりをするんだそうで。それは見事でございます。
また髪は、何十度逢っても、姿こそ服な装りこそ変りますが、いつも人柄に似合わない、あの、仰あお向むけに結んで、緋ひや、浅黄や、絞しぼりの鹿かの子の手てが絡らを組んで、黒髪で巻いた芍しゃ薬くやくの莟つぼみのように、真まん中なかへ簪かんざしをぐいと挿す、何転てん進じんとか申すのにばかり結う。
何と絵蝋燭を燃したのを、簪で、その髷まげの真中へすくりと立てて、烏うば羽た玉まの黒髪に、ひらひらと篝かが火りびのひらめくなりで、右にもなれば左にもなる、寝返りもするのでございます。
――こうして可愛がって下さいますなら、私ゃ死んでも本望です――
とこれで見るくらいまた、白露のその美しさと云ってはない。が、いかな事にも、心を鬼に、爪を鷲わしに、狼の牙きばを噛かみ鳴ならしても、森で丑うしの時参まい詣りなればまだしも、あらたかな拝殿で、巫み女この美女を虐なぶ殺りごろしにするようで、笑えく靨ぼに指も触れないで、冷汗を流しました。……
それから悩乱。
因果と思切れません……が、
――まあ嬉しい――
と云う、あの、容よう子すばかりも、見て生いの命ちが続けたさに、実際、成田へも中山へも、池上、堀の内は申すに及ばず。――根も精も続く限り、蝋燭の燃えさしを持っては通い、持っては通い、身も裂き、骨も削りました。
昏くらんだ目は、昼遊びにさえ、その燈ともしびに眩まぶしいので。
手足の指を我と折って、頭ずは髪つを掴つかんで身みも悶だえしても、婦おんなは寝るのに蝋燭を消しません。度かさなるに従って、数を増し、燈ひを殖ふやして、部屋中、三十九本まで、一度に、神々の名を輝かして、そして、黒髪に絵蝋燭の、五色の簪を燃して寝る。
その媚なまめかしさと申すものは、暖かに流れる蝋燭より前さきに、見るものの身が泥になって、熔とけるのでございます。忘れません。
困果と業ごうと、早やこの体ていになりましたれば、揚あげ代だいどころか、宿までは、杖に縋すがっても呼い吸きが切れるのでございましょう。所詮の事に、今も、婦おんなに遣わします気で、近い処の縁日だけ、蝋燭の燃えさしを御おご合うり力ょくに預ります。すなわちこれでございます。﹂
と袂たもとを探ったのは、ここに灯ひともしたのは別に、先さっ刻きの二七のそれであった。
犬のしきりに吠ほゆる時――
﹁で、さてこれを何にいたすとお思いなさいます。懺ざん悔げだ、お目に掛けるものがある。﹂
﹁大変だ、大変だ。何だって和尚さん、奴もそれまでになったんだ。気の毒だと思ってその女がくれたんだろうね、緋ひの長なが襦じゅ袢ばんをどうだろう、押入の中へ人形のように坐らせた。胴へは何を入れたかね、手も足もないんでさ。顔がと云うと、やがて人ぐらいの大きさに、何十挺だか蝋燭を固めて、つるりとやっぱり蝋を塗って、細工をしたんで。そら、燃えさしの処が上になってるから、ぽちぽち黒く、女おん鳴なな神るかみッて頭でさ。色は白いよ、凄すごいよ、お前さん、蝋だもの。
私わっしあ反そったねえ、押入の中で、ぼうとして見えた時は、――それをね、しなしなと引出して、膝へ横抱きにする……とどうです。
欠かけ火ひば鉢ちからもぎ取って、その散ざん髪ぎりみたいな、蝋燭の心へ、火を移す、ちろちろと燃えるじゃねえかね。
ト舌は赤いよ、口に締りをなくして、奴め、ニヤニヤとしながら、また一挺、もう一本、だんだんと火を移すと、幾筋も、幾筋も、ひょろひょろと燃えるのが、搦からみ合って、空へ立つ、と火ひさ尖きが伸びる……こうなると可おそ恐ろしい、長い髪の毛の真まっ赤かなのを見るようですぜ。
見る見る、お前さん、人前も構う事か、長襦袢の肩を両りょ肱うひじへ巻込んで、汝てめえが着るように、胸にも脛すねにも搦からみつけたわ、裾すそがずるずると畳へ曳ひく。
自然とほてりがうつるんだってね、火の燃える蝋燭は、女のぬくみだッさ、奴が言う、……可ようがすかい。
頬ほっ辺ぺたを窪ますばかり、歯を吸込んで附くッ着つけるんだ、串じょ戯うだんじゃねえ。
ややしばらく、魂が遠くなったように、静じっとしていると思うと、襦袢の緋が颯さっと冴えて、揺れて、靡なびいて、蝋に紅あかい影が透とおって、口くや惜しいか、悲かなしいか、可あわ哀れなんだか、ちらちらと白露を散らして泣く、そら、とろとろと煮えるんだね。嗅かぐさ、お前さん、べろべろと舐なめる。目から蝋燭の涙を垂らして、鼻へ伝わらせて、口へ垂らすと、せいせい肩で呼い吸きをする内に、ぶるぶると五体を震わす、と思うとね、横倒れになったんだ。さあ、七しち顛てん八ばっ倒とう、で沼みたいな六畳どろどろの部屋を転のめ摺ずり廻る……炎が搦からんで、青あお蜥とか蜴げの打のたうつようだ。
私わっしあ夢中で逃出した。――突いき然なり見附へ駈かけ着つけて、火の見へ駈かけ上あがろうと思ったがね、まだ田町から火事も出ずさ。
何しろ馬鹿だね、馬鹿も通越しているんだね。﹂
お不動様の御みど堂うを敲たたいて、夜中にこの話をした、下した塗ぬりの欣八が、
﹁だが、いい女らしいね。﹂
と、後へ附加えた了りょ簡うけんが悪かった。
﹁欣八、気を附けねえ。﹂
﹁顔色が変だぜ。﹂
友達が注意するのを、アハハと笑消して、
﹁女あまがボーッと来た、下町ア火事だい。﹂と威勢よく云っていた。が、ものの三月と経たたぬ中うちにこのべらぼう、たった一人の女房の、寝顔の白い、緋ひて手が絡らの円まる髷まげに、蝋燭を突つッ刺さして、じりじりと燃して火やけ傷どをさした、それから発狂した。
但し進藤とは違う。陰気でない。縁日とさえあればどこへでも押掛けて、鏝こて塗ぬりの変な手つきで、来た来たと踊りながら、
﹁蝋燭をくんねえか。﹂
怪あやしむべし、その友達が、続いて――また一人。…………
大正二︵一九一三︶年六月