一
白しら鷺さぎ明みょ神うじんの祠ほこらへ――一緑の森をその峰に仰いで、小おが県たせ銑んき吉ちがいざ詣でようとすると、案内に立ちそうな村の爺さんが少なからず難色を顕あらわした。
この爺さんは、
﹁――おらが口で、更あらためていうではねえがなす、内の媼ばばあは、へい一通りならねえ巫いち女こでがすで。﹂……
若い時は、渡り仲間の、のらもので、猟かり夫ゅうどを片手間に、小こば賭く博ちなども遣やるらしいが、そんな事より、古女房が巫女というので、聞くものに一種の威力があったのはいうまでもない。
またその媼うば巫いち女この、巫ふじ術ゅつの修しゅ煉うれんの一通りのものでない事は、読者にも、間もなく知れよう。
一体、孫八が名だそうだ、この爺さんは、つい今しがた、この奥州、関屋の在、旧――街道わきの古寺、西さい明みょ寺うじの、見る影もなく荒あれ涼すさんだ乱塔場で偶然知ちか己づきになったので。それから――無住ではない、住職の和尚は、斎とき稼かせぎに出て留守だった――その寺へ伴われ、庫く裡りから、ここに准じゅ胝んで観いか世んぜ音おんの御みど堂うに詣でた。
いま、その御み廚ず子しの前に、わずかに二三畳の破やれ畳だたみの上に居るのである。
さながら野のざ晒らしの肋あば骨らぼねを組合わせたように、曝され古びた、正面の閉した格子を透いて、向う峰の明神の森は小さな堂の屋根を包んで、街道を中に、石段は高いが、あたかも、ついそこに掛けた、一面墨絵の額、いや、ざっと彩った絵馬のごとく望まるる。
明神は女体におわす――爺さんがいうのであるが――それへ、詣ずるのは、石段の上の拝殿までだが、そこへ行ゆくだけでさえ、清しょ浄うじょうと斎さい戒かいがなければならぬ。奥の大おお巌いわの中腹に、祠が立って、恭うやうやしく斎いつき祭った神像は、大深秘で、軽々しく拝まれない――だから、参った処で、その効かいはあるまい……と行ゆくのを留めたそうな口くち吻ぶりであった。
﹁ごく内々の事でがすがなす、明神様のお姿というのはなす。﹂
時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、朱しゅ唇しん、白びゃ衣くえ、白しら木きぼ彫りの、み姿の、片扉金具の抜けて、自おのずから開いた廚子から拝されて、誰たが捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御みそ袖で、裳もすそに紛まがいつつ、銑吉が参らせた蝋ろう燭そくの灯に、格ごう天てん井じょうを漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、また金こん色じきの影がさす。
﹁なす、この観音様に、よう似てござらっしゃる、との事でなす。﹂……
ただこの観世音の麗相を、やや細面にして、玉の皓しろきがごとく、そして御みぐ髪しが黒く、やっぱり唇は一点の紅である。
その明神は、白鷺の月冠をめしている。白衣で、袴はかまは、白とも、緋ひともいうが、夜の花の朧おぼろと思え。……
どの道、巌いわおの奥殿の扉を開くわけには行かないのだから、偏ひとえに観世音を念じて、彼かし処この面影を偲しのべばよかろう。
爺さんは、とかく、手に取れそうな、峰の堂――絵馬の裡なかへ、銑吉を上らせまいとするのである。
第一可おそ恐ろしいのは、明神の拝殿の蔀しとみうち、すぐの承なげ塵しに、いつの昔に奉納したのか薙なぎ刀なたが一ひと振ふりかかっている。勿論誰も手を触れず、いつ研いだ事もないのに、切きれ味あじの鋭さは、月の影に翔かけ込こむ梟ふくろう、小春日になく山鳩は構いない。いたずらものの野鼠は真二つになって落ち、ぬたくる蛇は寸ずた断ずたになって蠢うごめくほどで、虫、獣けだものも、今は恐れて、床、天井を損わない。
人間なりとて、心柄によっては無事では済まない。かねて禁断であるものを、色に盲めしいて血気な徒が、分別を取はずし、夜中、御堂へ、村の娘を連込んだものがあった。隔ての帳とばりも、簾すだれもないのに――
――それが、何と、明あかるい月夜よ。明神様もけなりがッつろと、二十三夜の月待の夜よば話なしに、森へ下弦の月がかかるのを見て饒しゃ舌べった。不ふら埒ちを働いてから十五年。四十を越えて、それまでは内々恐れて、黙っていたのだが、――祟たたるものか、この通り、と鼻をさして、何の罰が当るかい。――舌も引かぬに、天井から、青い光がさし、その百姓屋の壁を抜いて、散りかかる柳の刃がキラリと座のものの目に輝いた時、色男の顔から血しぶきが立って、そぎ落された低い鼻が、守やも宮りのように、畳でピチピチと刎はねた事さえある。
いま現に、町や村で、ふなあ、ふなあ、と鼻くたで、因果と、鮒ふな鰌どじょうを売っている、老ぼれがそれである。
村若わか衆いしゅの堂の出合は、ありそうな事だけれど、こんな話はどこかに類がないでもなかろう。
しかし、なお押重ねて、爺さんが言った、……次の事実は、少からず銑吉を驚かして、胸さきをヒヤリとさせた。
余り里近なせいであろう。近頃では場所が移った。が、以前は、あの明神の森が、すぐ、いつも雪の降ったような白鷺の巣であった。近く大正の末である。一夜に二件、人間二人、もの凄すごい異状が起った。
その一人は、近国の門もん閥ばつ家かで、地方的に名望権威があって、我が儘ままの出来る旦だん那な方。人に、鳥博士と称となえられる、聞こえた鳥類の研究家で。家には、鳥屋というより、小さな博物館ぐらいの標本を備えもし、飼ってもいる。近県近郷の学校の教師、無論学生たち、志あるものは、都会、遠国からも見学に来きたり訪とうこと、須賀川の牡ぼた丹んの観賞に相あい斉ひとしい。で、いずれの方面からも許されて、その旦那の紳士ばかりは、猟期、禁制の、時と、場所を問わず、学問のためとして、任意に、得意の猟銃の打金をカチンと打ち、生きた的に向って、ピタリと照準する事が出来る。
時に、その年は、獲ものでなしに、巣の白鷺の産卵と、生育状態の実験を思立たれたという。……雛ひよッ子はどんなだろう。鶏や、雀と違って、ただ聞いても、鴛おし鴦どりだの、白鷺のあかんぼには、博物にほとんど無関心な銑吉も、聞きつつ、早くまず耳を傾けた。
在所には、旦那方の泊るような旅館がない。片原の町へ宿を取って、鳥博士は、夏から秋へかけて、その時々。足繁くなると、ほとんど毎日のように、明神の森へ通ったが、思う壺の巣が見出せない。
――村に猟かり夫ゅうどが居る。猟りょ夫うしといっても、南部の猪いのししや、信州の熊に対するような、本職の、またぎ、おやじの雄おすではない。のらくらものの隙ひま稼かせぎに鑑札だけは受けているのが、いよいよ獲ものに困こうずると、極めて内証に、森の白鷺を盗み撃うちする。人目を憚はばかるのだから、忍びに忍んで潜入するのだが、いや、どうも、我が折おれた根気のいい事は、朝早くでも、晩方でも、日が暮れたりといえどもで、夏の末のある夜よなどは、ままよ宿ねど鳥りなりと、占めようと、右の猟りょ夫うしが夜中真まっ暗くらな森をううちに、青白い光りものが、目一つの山の神のように動いて来るのに出でっ撞くわした。けだし光は旦那方の持つ懐中電燈であった。が、その時の鳥旦那の装よそおいは、杉の葉を、頭や、腰のまわりに結びつけた、面つらまで青い、森の悪魔のように見えて、猟夫を息を引いて驚倒せしめた。旦那の智恵によると、鳥に近づくには、季節によって、樹木と同化するのと、また鳥とほぼ服装の彩いろどりを同じゅうするのが妙術だという。
それだから一夜に事の起った時は、冬で雪が降っていたために、鳥博士は、帽子も、服も、靴まで真まっ白しろにしていた、と話すのであった。
︵……?……︶
ところで、鳥博士も、猟りょ夫うしも、相互の仕事が、両方とも邪魔にはなるが、幾いく度たびも顔を合わせるから、逢えば自然と口を利く。﹁ここのおつかい姫は、何だな、馬鹿に恥かしがり屋で居るんだな。なかなか産む処を見せないが。﹂﹁旦那、とんでもねえ罰が当る。﹂﹁撃つやつとどうかな。﹂段々秋が深くなると、﹁これまでのは渡りものの、やす女だ、侍こし女もとも上等のになると、段々勿もっ体たいをつけて奥の方へ引込むな。﹂従って森の奥になる。﹁今度見つけた巣は一番上等だ。鷺の中でも貴婦人となると、産は雪の中らしい。人目を忍ぶんだな。産うぶ屋やも奥御殿という処だ。﹂﹁やれ、罰が当るてば。旦那。﹂﹁撃つやつとどうかな。﹂――雪の中に産育する、そんな鷺があるかどうかは知らない。爺さんの話のまま――猟りょ夫うしがこの爺さんである事は言うまでもなかろうと思う。さて猟夫が、雪の降ふり頻しきる中を、朝の間まに森へ行ゆくと、幹と根と一面の白い上に、既に縦横に靴で踏込んだあとがあった。――畜生、こんなに疾はやくから旦那が来ている。博士の、静粛な白しろ銀がねの林の中なる白鷺の貴婦人の臨月の観察に、ズトン! は大禁物であるから、睨にらまれては事こわしだ。一いっ旦たん破やれ寺でら――西明寺はその一頃は無住であった――その庫く裡りに引取って、炉に焚たき火びをして、弁当を使ったあとで、出直して、降積った雪の森に襲い入ると、段々に奥深く、やがて向うに青い水が顕あらわれた、土地で、大沼というのである。
今はよく晴れて、沼を囲んだ、樹の袖、樹の裾すそが、大おおいなる紺こん青じょうの姿見を抱いだいて、化粧するようにも見え、立囲った幾千の白い上じょが、瑠る璃りの皎こう殿でんを繞めぐり、碧へき橋きょうを渡って、風に舞うようにも視ながめられた。
この時、煩ぼん悩のうも、菩ぼだ提いもない。ちょうど汀なぎさの銀の蘆あしを、一むら肩でさらりと分けて、雪に紛まがう鷺が一羽、人を払う言こと伝づてがありそうに、すらりと立って歩む出でば端なを、ああ、ああ、ああ、こんな日に限って、ふと仰がるる、那須嶽連山の嶺みねに、たちまち一いち朶だの黒雲の湧わいたのも気にしないで、折おり敷しきにカンと打った。キャッ! と若い女の声。魂たまぎる声。
這はったか、飛んだか、辷すべったか。猟りょ夫うしが目くるめいて駆付けると、凍いてざまの白雪に、ぽた、ぽた、ぽたと紅あけが染まって、どこを撃ったか、黒髪の乱れた、うつくしい女が、仰あお向むけに倒れ、もがいた手足をそのままに乱れ敷いていたのである。
いやが上の恐怖と驚きょ駭うがいは、わずかに四五間離れた処に、鳥の旦那が真まっ白しろなヘルメット帽、警官の白い夏服で、腹はら這ばいになっている。﹁お助けだ――旦那、薬はねえか。﹂と自分が救われたそうに手を合せた。が、鳥旦那は――鷺が若い女になる――そんな魔法は、俺が使ったぞ、というように知らん顔して、遠めがねを、それも白布で巻いたので、熟じっとどこかの樹を枝を凝み視つめていて、ものも言わない。
猟夫は最いま期わと覚悟をした。……
そこで、急いで我が屋へ帰って、不断、常住、無益な殺生を、するな、なせそと戒める、古女房の老巫いち女こに、しおしおと、青くなって次第を話して、……その筋へなのって出るのに、すぐに梁はりへ掛けたそうに褌ふんどしをしめなおすと、梓あずさの弓を看板に掛けて家業にはしないで、茅あば屋らやに隠れてはいるが、うらないも祈きと祷うも、その道の博士だ――と言う。どういうものか、正式に学校から授けない、ものの巧者は、学士を飛越えて博士になる。博士神いち巫こが、亭主が人殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいで留やめはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに喘ぜん息そくを病んだように響かせながら、猟夫に真まっ裸ぱだかになれ、と歯茎を緊しめて厳おごそかに言った。経きょ帷うか子たびらにでも着換えるのか、そんな用意はねえすべい。……井戸川で凍こご死えじにでもさせる気だろう。しかしその言ことばの通りにすると、蓑みのを着よ、そのようなその羅らし紗ゃの、毛くさい破やぶれ帽子などは脱いで、菅すげ笠がさを被かぶれという。そんで、へい、苧おが殻らか、青竹の杖つえでもつくか、と聞くと、それは、ついてもつかいでも、のう、もう一度、明神様の森へ走って、旦那が傍そばに居ようと、居まいと、その若い婦おん女なの死しが骸いを、蓑の下へ、膚はだづけに負いまして、また早や急いで帰れ、と少し早めに糸車を廻わしている。
いや、もう、肝きも魂たまを消して、さきに死骸の傍を離れる時から、那なす須おろ颪しが真まっ黒くろになって、再び、日の暮方の雪が降出したのが、今度行向う時は、向風の吹雪になった。が、寒さも冷たさも猟夫は覚えぬ。ただ面つらを打って巴とも卍えまんじに打ち乱れる紛ふん泪ぱくの中に、かの薙なぎ刀なたの刃がギラリと光って、鼻耳をそがれはしまいか。幾度立ちすくみになったやら。……
我が手で、鉄砲でうった女の死骸を、雪を掻かいて膚におぶった、そ、その心持というものは、紅ぐれ蓮ん大紅蓮の土どた壇んとも、八寒地獄の磔はり柱つけばしらとも、譬たとえように口も利けぬ。ただ吹雪に怪けし飛とんで、亡者のごとく、ふらふらと内へ戻ると、媼うば巫み女こは、台所の筵むし敷ろじきに居いし敷かり、出刃庖丁をドギドギと研いでいて、納戸の炉に火が燃えて、破われ鍋なべのかかったのが、阿鼻とも焦熱とも凄すさまじい。……﹁さ、さ、帯を解け、しての、死骸を俎まないたの上へ、﹂というが、石でも銅あかがねでもない。台所の俎で。……媼うばの形相は、絵に描いた安あだ達ちヶ原と思うのに、頸くびには、狼の牙きばやら、狐の目やら、鼬いたちの足やら、つなぎ合せた長なが数じゅ珠ずに三み重えに捲まきながらの指図でござった。
……不思議というは、青い腰も血の胸も、死骸はすっくり俎の上へ納って、首だけが土間へがっくりと垂れる。めったに使ったことのない、大俵の炭をぶちまけたように髻もとどりが砕けて、黒髪が散りかかる雪に敷いた。媼が伸上り、じろりと視みて、﹁天人のような婦おんなやな、羽衣を剥むけ、剥け。﹂と言う。襟も袖も引きる、と白い優しい肩から脇の下まで仰あお向むけに露あらわれ、乳へ膝を折上げて、くくられたように、踵かかとを空へ屈かがめた姿で、柔やわらかにすくんでいる。﹁さ、その白しらッこい、膏あぶらののった双ももを放さっしゃれ。獣けだものは背中に、鳥は腹に肉があるという事いの。腹から割さかっしゃるか、それとも背から解ひらくかの、﹂と何と、ひたわななきに戦わななく、猟夫の手に庖丁を渡して、﹁えい、それ。﹂媼が、女の両脚を餅のように下へ引くとな、腹が、ふわりと動いて胴がしんなりと伸び申したなす。
﹁観音様の前だ、旦那、許さっせえ。﹂
御廚子の菩ぼさ薩つは、ちらちらと蝋燭の灯に瞬きたまう。
――茫ぼう然ぜんとして、銑吉は聞いていた――
血は、とろとろと流れた、が、氷ったように、大おお腸わた小こわ腸た、赤あか肝ぎも、碧あお胆ぎも、五臓は見る見る解き発あばかれ、続いて、首を切れと云う。その、しなりと俎の下へ伸びた皓しろ々じろとした咽のど喉く首びに、触ると震えそうな細い筋よ、蕨わらび、ぜんまいが、山やま賤しずには口相応、といって、猟夫だとて、若い時、宿場女郎の、※まいらせそろ﹇#﹁参らせ候﹂のくずし字、65-2﹈もかしくも見たれど、そんなものがたとえになろうか。……若菜の二葉の青いような脈筋が透いて見えて、庖丁の当てようがござらない。容顔が美麗なで、気きお後くれをするげな、この痴たわ気けおやじと、媼はニヤリ、﹁鼻をそげそげ、思切って。ええ、それでのうては、こな爺じじい、人殺しの解げし死に人んは免のがれぬぞ、﹂と告のり威おどす。――命ばかりは欲ほしいと思い、ここで我が鼻も薙なぎ刀なたで引ひきそがりょう、恐ろしさ。古ふる手てぬ拭ぐいで、我が鼻を、頸ぼん窪のくぼへ結ゆわえたが、美しい女の冷い鼻をつるりと撮つまみ、じょきりと庖丁で刎はねると、ああ、あ痛つつ、焼やけ火ひば箸しで掌てのひらを貫かれたような、その疼いた痛さに、くらんだ目が、はあ、でんぐり返って気がつけば、鼻のかわりに、細長い鳥の嘴くちばしを握っていて、俎の上には、ただ腹を解いた白鷺が一羽。蓑毛も、胸毛も、散りぢりに、血は俎の上と、鷺の首と、おのが掌にたらたらと塗まみれていた。
媼が世帯ぶって、口軽に、﹁大ごなしが済んだあとは、わしが手でぶつぶつと切っておましょ。鷺の料理は知らぬなれど、清すま汁しか、味噌か、焼こうかの。﹂と榾ほだをほだて、鍋を揺ゆすぶって見せつけて、﹁人間の娘も、鷺の婦おんなも、いのち惜しさにかわりはないぞの。﹂といわれた時は、俎につくばい、鳥に屈かがみ、媼に這はって、手をついた。断つ、断つ、ふッつりと猟を断つ、慰みの無益の殺生は、断つわいやい。
畠はたけ二三枚、つい近い、前まえ畷なわての夜の雪ゆき路みちを、狸が葬式を真ま似ねるように、陰々と火がともれて、人影のざわざわと通り過ぎたのは――真まん中なかに戸板を舁かいていた。――鳥旦那の、凍えて人ひと事ごこ不ちな省くなったのを助け出した、行列であった。
町の病院で、二月以上煩ったが、凍傷のために、足の指二本、鼻の尖さきが少々、とれた、そげた、欠けた、はて何といおう、もげたと言おう、もげた。
どうも解げせぬ。さて、合点のゆかない。現におつかい姫を、鉄砲で撃った猟夫は、肝を潰つぶしただけで、無事に助かった。旦那はまず不かた具わだ。巣を見るばかりで、その祟たたりは、と内ない証しょで声をひそめて、老おい巫み女こに伺うかがいを立てた。されば、明神様の思おぼ召しめしは、鉄砲は避よけもされる。また眷けん属ぞくが怪け我がに打たれまいものではない。――御殿の閨ねやを覗のぞかれ、あまつさえ、帳とばりの奥のその奥の産屋を――おみずからではあるまいが――お煩うるさい……との事である。
要するに、御堂の女神は、鉄砲より、研究がおきらいなのである。――
﹁――万事、その気でござらっしゃれよ。﹂
﹁勿論です――﹂
が、まだその上にも、銑吉を一人で御堂へ行ゆかせるのは、気づかいらしくもあり、好もしくない様子が見えた。すなわち明神の祠ほこらへは、孫八爺さんが一所に行こうという。銑吉とても、ただ怯おどかしばかりでもなさそうな、秘密と、奇異と、第一、人気のまるでないその祠に、入口に懸かかった薙なぎ刀なたを思うと、掛釘が錆さび朽くちていまいものでもなし、控えの綱など断切れていないと限らない。同行はむしろ便宜であったが。
さて、旧街道を――庫く裡りを一廻り、寺の前から――路を埋うずめた浅あさ茅じを踏んで、横切って、石段下のたらたら坂ざかを昇りかかった時であった。明神の森とは、山波をつづけて、なだらかに前もと来た片原の町はずれへ続く、それを斜ななめに見上げる、山の端は高き青あお芒すすき、蕨わらびの広葉の茂った中へ、ちらりと出た……さあ、いくつぐらいだろう、女の子の紅あかい帯が、ふと紅もみの袴はかまのように見えたのも稀け有うであった、が、その下ななめに、草くさ堤どてを、田たに螺しが二つ並んで、日ひな中かの畝あぜうつりをしているような人影を見おろすと、
﹁おん爺じいええ。﹂
と野へ響く、広く透とおった声で呼んだ。
貝の尖さきの白しら髪がの田螺が、
﹁おお。﹂
﹁爺じン爺じいよう。﹂
﹁……爺ン爺い、とこくわ――おおよ。﹂
﹁媼ばン媼ばが、なあえ、すぐに帰って、ござれとよう。﹂
﹁酒でも餅でもあんめえが、……やあ。﹂
﹁知らねえよう。﹂
﹁客人と、やい、明神様詣るだと、言うだあよう。﹂
﹁何あんでも帰れ、とよう。媼ン媼が言うだがええ。﹂
なぜか、その女の子、その声に、いや、その言こと托づけをするものに、銑吉さえ一種の威のあるのを感じた。
﹁そんでは、旦那。﹂
白髪の田螺は、麦むぎ稈わら帽ぼうの田螺に、ぼつりと分れる。
二
﹁――何だ、薙なぎ刀なたというのは、――絵馬の画え――これか。﹂
あの、爺い。口さきで人を薙刀に掛けたな。銑吉は御堂の格子を入って、床の右横の破やれ欄らん間まにかかった、絵馬を視みて、吻ほっと息を吐つきつつ微ほほ笑えんだ。
しかし、一口に絵馬とはいうが、入じゅ念ねんの彩さい色しき、塗柄の蒔まき絵えに唐草さえある。もっとも年数のほども分らず、納おさめぬしの文字などは見分けがつかない。けれども、塗柄を受けた服ふく紗さのようなものは、紗さ綾やか、緞どん子すか、濃い紫をその細工ものに縫込んだ。
武器は武器でも、念流、一刀流などの猛も者さの手を経たものではない。流儀の名の、静しずかも優しい、婦人の奉納に違いない。
眉も胸も和なごやかになった。が、ここへ来て彳たたずむまで、銑吉は実は瞳を据え、唇を緊しめて、驚す破わといわばの気きが構まえをしたのである。何より聞きき怯おじをした事は、いささかたりとも神慮に背くと、静しず流かりゅうがひらめくとともに、鼻を殺そがるる、というのである。
これは、生いの命ちより可おそ恐ろしい。むかし、悪あく性しょうの唐とう瘡がさを煩ったものが、厠かわやから出て、嚔くしゃみをした拍子に、鼻が飛んで、鉢前をちょろちょろと這った、二十三夜講の、前さきの話を思出す。――その鼻の飛んだ時、キャッと叫ぶと、顔の真まん中なかへ舌が出て、もげた鼻を追おっ掛かけたというのである。鳥博士のは凍傷と聞いたが、結果はおなじい。
鼻をそがれて、顔の真中へ舌が出たのでは、二度と東京が見られない。第一汽車に乗せなかろう。
草くさ生おいの坂を上る時は、日ひな中か三時さがり、やや暑さを覚えながら、幾度も単ひと衣えの襟を正した。
銑吉は、寺を出る時、羽織を、観世音の御堂に脱いで、着流しで扇を持った。この形は、さんげ、さんげ、金こう剛ごう杖づえで、お山に昇る力もなく、登山靴で、嶽たけを征服するとかいう偉さもない。明神の青葉の砦とりでへ、見すぼらしく降参をするに似た。が、謹んでその方が無事でいい。
石段もところどころ崩れ損じた、控綱の欲ほしいほど急ではないが、段の数は、累々と畳まって、半身を、夏の雲に抽ぬいた、と思うほど、聳そびえていた。
ここに、思掛けなかったのは――不断ほとんど詣ずるもののない、無むに人んの境だと聞いただけに、蛇類のおそれ、雑草が伸茂って、道を蔽おおうていそうだったのが、敷石が一筋、すっと正面の階段まで、常とき磐わ樹ぎの落葉さえ、五枚六枚数うるばかり、草を靡なびかして滑かに通った事であった。
やがて近づく、御みた手ら洗しの水は乾いたが、雪の白はく山さんの、故ふる郷さとの、氏神を念じて、御堂の姫の影を幻に描いた。
すぐその御手洗の傍そばに、三みか抱かえほどなる大おお榎えのきの枝が茂って、檜ひわ皮だぶ葺きの屋根を、森しん々しんと暗いまで緑に包んだ、棟の鰹かつ木おぎを見れば、紛まがうべくもない女じょ神しんである。根上りの根の、譬たとえば黒い珊さん瑚ごし碓ょうのごとく、堆うずたかく築いて、青く白く、立たつ浪なみを砕くように床の縁下へ蟠わだかまったのが、三間四面の御堂を、組桟敷のごとく、さながら枝の上に支えていて、下蔭はたちまち、ぞくりと寒い、根の空うつ洞ろに、清水があって、翠すい珠しゅを湛たたえて湧わくのが見える。
銑吉はそこで手を浄きよめた。
階段を静しずかに――むしろ密そっと上りつつ、ハタと胸を衝ついたのは、途中までは爺さんが一所に来る筈はずだった。鍵を、もし、錠じょうがささっていれば、扉は開あかない、と思ったのに、格子は押附けてはあるが、合せ目が浮いていた。裡なかの薄暗いのは、上の大樹の茂りであろう。及およ腰びごしながら差さし覗のぞくと、廻まわ縁りえんの板戸は、三方とも一二枚ずつ鎖とざしてない。
手を扉にかけた。
裡うちの、その真上に、薙なぎ刀なたがかかっている筈である。
そこで、銑吉がどんな可おか笑しな態ふうをしたかは、およそ読者の想像さるる通りである。
﹁お通しを願います、失礼。﹂
と云った。
片扉、とって引くと、床も青く澄んで朗ほがらか。
絵馬を見て、彳たたずんで、いま、その心易さに莞にっ爾こりとしたのである。
思いも掛けず、袖を射て、稲妻が飛んだ。桔きき梗ょう、萩、女おみ郎なえ花し、一いっ幅ぷくの花野が水とともに床に流れ、露を縫った銀糸の照る、彩いろある女帯が目を打つと同時に、銑吉は宙を飛んで、階段を下へ刎はね落ちた。再び裾すそへ飜ひるがえるのは、柄長き薙刀の刃はさ尖きである。その稲妻が、雨のごとき冷汗を透とおして、再び光った。
次の瞬間、銑吉の身は、ほとんど本能的に大おお榎えのきの幹を小こだ盾てに取っていた。
どうも人間より蝉に似ている。堂の屋根うらを飛んで、樹へ遁にげたその形が。――そうして、少しば時らくして、青い顔の目ばかり樹の幹から出した処は、いよいよ似ている。
柳の影を素すは膚だに絡まとうたのでは、よもあるまい。よく似た模様をすらすらと肩裳もすそへ、腰には、淡と紅きの伊達巻ばかり。いまの花野の帯は、黒格子を仄ほのかに、端が靡なびいて、婦おん人なは、頬のかかり頸えり脚あしの白く透通る、黒髪のうしろ向きに、ずり落ちた褄つまを薄く引き、ほとんど白しら脛はぎに消ゆるに近い薄紅の蹴け出だしを、ただなよなよと捌さばきながら、堂の縁の三方を、そのうしろ向きのまま、するすると行ゆき、よろよろと還かえって、往ゆきつ戻りつしている。その取乱した態ふりの、あわただしい中うちにも、媚なまめかしさは、姿の見えかくれる榎の根の荘厳に感じらるるのさえ、かえって露草の根の糸の、細く、やさしく戦そよぎ縺もつれるように思わせつつ、堂の縁を往ゆき来きした。が、後姿のままで、やがて、片扉開いた格子に、ひたと額をつけて、じっと留まると、華きゃ奢しゃな肩で激しく息をした。髪が髢かもじのごとくさらさらと揺れた。その立って、踏みぐくめつつも乱れた裾すそに、細く白々と鳥の羽のような軽い白足袋の爪つま尖さきが震えたが、半身を扉に持たせ、半ばを取とり縋すがって、柄を高くついた、その薙刀が倒さかさまで……刃はさ尖きが爪先を切ろうとしている。
戦いくさは、銑吉が勝らしい。由来いかなる戦史、軍記にも、薙刀を倒さかさまについた方は負である。同時に、その刃尖が肉を削り、鮮なま血ちが踵かかとを染めて伝わりそうで、見る目も危い。
青い蝉が、かなかなのような調子はずれの声を、
﹁貴あな女た、貴女、誰どな方たにしましても、何事にしましても、危い、それは危い。怪我をします。怪我をします。気をおつけなさらないと。﹂
髪を分けた頬を白く、手首とともに、一層扉に押当てて、
﹁あああ﹂
とやさしい、うら若い、あどけないほどの、うけこたえとまでもない溜息を深くすると、
﹁小県さん――﹂
冴さえて、澄み、すこし掠かすれた細い声。が、これには銑吉が幹の支えを失って、手をはずして落ちようとした。堂の縁の女でなく、大榎の梢こずえから化けち鳥ょうが呼んだように聞えたのである。
﹁……小県さん、ほんとうの小県さんですか。﹂
この場合、声はまた心持涸かれたようだが、やっぱり澄んで、はっきりした。
夏は簾すだれ、冬は襖ふすま、間まを隔てた、もの越ごしは、人を思うには一段、床ゆかしく懐しい。……聞覚えた以上であるが、それだけに、思掛けなさも、余りに激しい。――
まだ人間に返り切れぬ。薙刀怯おびえの蝉は、少々震ふる声えごえして、
﹁小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。――ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。﹂
﹁ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の果はてなんですの。﹂
﹁あ、危い。﹂
長なぎ刀なたは朽くち縁えんに倒れた。その刃の平ひらに、雪の掌たなそこを置くばかり、たよたよと崩くず折おれて、顔に片袖を蔽おおうて泣いた。身の果と言う……身の果か。かくては、一城の姫か、うつくしい腰元の――敗軍には違いない――落おち人ゅうどとなって、辻堂にった伝説を目まのあたり、見るものの目に、幽ゆう窈よう、玄げん麗れいの趣があって、娑しゃ婆ば近い事のようには思われぬ。
話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために賑にぎわった。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……
その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、山やま路みち、野道を分入った僻へき村そんであるものを。――
――実は、銑吉は、これより先き、麓ふもとの西明寺の庫く裡りの棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の提ハン紙ドバ入ックを見たし、続いて、准じゅ胝んで観いか音んのんの御み廚ず子しの前に、菩薩が求ぐう児じよ擁う護ごの結けち縁えんに、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女扇おう子ぎの銀ぎん砂すな子ごの端はしに、﹁せい﹂としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ遥はるかにその人の面影をしのんだばかりであったのに。
かえって、木魚に圧おされた提紙入には、美女の古寺の凌りょ辱うじょくを危あやぶみ、三方の女扇子には、姙娠の婦おん人なの生しょ死うしを懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある二ふた品しなのいわれに触れるのさえ厭いとうらしいので、そのまま黙した事実があった。
ただ、あだには見過し難がたい、その二品に対する心ゆかしと、帰かえ路りには必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを――言い添えよう。
いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……譬たとえにこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。
三
﹁――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、﹂
ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。
きれぎれに、
﹁お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。﹂
泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を閃ひらめかして薙なぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背うし後ろむきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を袖で秘かくすらしい、というだけでも、この話の運びを辿たどって、読者も、あらかじめ頷うなずかるるであろう、この婦おんなは姙娠している。
﹁私が、そこへ行ゆきますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。﹂
婦おんなは、格子に縋すがって、また立った。なおその背後向きのままで居る。
﹁しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。﹂
﹁いま、そちらへ参りますよ。﹂
落ついて静しずかにいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。
枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。細ほっそりした姿で、薄い色の褄つまを引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を掻かき合あわせ掻合わせするのが、茂りの彼かな方たに枝透いて、簾すだれ越に薬くす玉だまが消えんとする。
やがて、向直って階きざはしを下りて来た。引合わせている袖の下が、脇わき明あけを洩もれるまで、ふっくりと、やや円い。
牡ぼた丹んを抱いだいた白鷺の風情である。
見まい。
﹁水をのみます。小県さん、私……息が切れる。﹂
と、すぐその榎の根の湧わき水みずに、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに挿さし入いれた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ咽の喉どへ通りそうに見えたが、掬くもうとすると、掌たなそこが薄く、玉の数じゅ珠ずのように、雫しずくが切れて皆溢こぼれる。
﹁両りょ掌うてでなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も何なにもいりゃしません。﹂
﹁はい、いいえ。﹂
膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖を圧おさえ、やっぱり腹部を蔽おおうた、その片手を離さない。
﹁だって、両掌を突つっ込こまないじゃ、いけないじゃありませんか。﹂
﹁ええ、あの柄ひし杓ゃくがあるんですけど。﹂
﹁柄杓、﹂
手ちょ水うず鉢ばちに。
﹁ああ、手近です。あげましょう。青い苔こけだけれどもね、乾いているから安心です、さあ。﹂
﹁済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。﹂
﹁ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。﹂
﹁ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。﹂
それだと毎日この祠ほこらへ。
﹁あ、あ。﹂
と、消えるように、息を引いて、
﹁おいしいこと、ああ、おいしい。﹂
唇も青澄んだように見える。
﹁うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。﹂
﹁私が。﹂
とて、柄を手ハン巾ケチで拭ふいたあとを、見入っていた。
﹁どうしました。﹂
﹁髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。﹂
﹁満なみ々なみと下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。﹂
とぐっと飲み、
﹁甘露が五臓へ沁しみます。﹂
と清すずしく云った。
小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔で斜ななめに視みながら、
﹁まあ、おきれいですこと。﹂
﹁水?……勿論!﹂
﹁いいえ、あなたが。﹂
﹁あなたが。﹂
﹁さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……﹂
﹁いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を汲くんで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。﹂
と、はじめて声を出して軽く笑った。
﹁透通るほどなのは、あなたさ。﹂
﹁ええ。﹂
と無邪気にうけながら、ちょっと眉を顰ひそめた。乳ちの下を且つ蔽おおう袖。
﹁一度、二はた十ちば許かりの親類の娘を連れて、鬼きし子も母じ神んへ参さん詣けいをした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした御おど堂うの燈明で視みた、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目も凜りんとして……白さは白おし粉ろい以上なんです。――前さっ刻きも山下のお寺の観世音の前で……お誓さん――女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。﹂
誓はうつむく。
その襟脚はいうまでもなかろう。
﹁その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に籠こもったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……﹂
﹁ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。﹂
つと寄ると、手ハン巾ケチを払った手で、柄杓の柄の半ばを取りしめた。その半ばを持ったまま、居いど処ころをかえて、小県は、樹の高根に腰を掛けた。
﹁言いますわ、私……ですが、あなたは、あなたは、どうして、ここへ……﹂
﹁おたずね、ごもっともです。――少し気取るようだけれど、ちょっと柄にない松島見物という不ふり了ょう簡けんを起して……その帰り道なんです。――先祖の墓参りというと殊勝ですが、それなら、行きみちにすべき筈です。関屋まで来ると、ふと、この片原の在所の寺、西明寺ですね。あすこに先祖の墓のある事を、子供のうち、爺さん、祖ば母あさんに聞いていたのを思出しました。勿体ないが、ろくに名も知らない人たちです。
墓は、草に埋うずまって皆分りません、一家遠国へ流転のうちに、無縁同然なんですから、寺もまた荒れていますしね。住職も留守で、過去帳も見られないし、その寺へ帰るのを待つ間まに――しかし、そればかりではありません。
――片原の町から寺へ来る途中、田たん畝ぼな畷わての道端に、お中ちゅ食うじ処きどころの看板が、屋根、廂ひさしぐるみ、朽倒れに潰つぶれていて、清い小こな流がれの前に、思いがけない緋ひぼ牡た丹んが、﹂
お誓は、おくれ毛を靡なびかし、顔を上げる。
﹁その花の影、水岸に、白鷺が一羽居て、それが、斑はん――人を殺す大毒虫――みちおしえ、というんですがね、引ひき啣くわえて、この森の空へ飛んだんです。
まだその以前、その前ですよ。片原まで来る途中、林の中の道で、途中から、不意に、無理やりに、私の雇った自動車へ乗込んだ、いやな、不気味な人相、赤い服装、赤いヘルメット帽、赤い法ころ衣もの男が、男の子四人、同じ赤いシャツを着たのを連れて、猟銃を持ったのがありましてね。勝手な処で、山の下へ、藪やぶへ入って見えなくなったのが――この山続つづきのようですから、白鷺の飛んだ方角といい、社やしろのこのあたりか。ずッと奥になると言いますね、大沼か。どっちかで、夢のような話だけれど、神と、魔と、いくさでもはじまりそうな気がしたものですから。﹂
銑吉は話すうちに、あわれに伏せたお誓の目が、憤いきどおりを含んで、屹きっとして、それが無念を引きしめて、一層青味を帯びたのに驚いた――思いしことよ。……悪魔は、お誓の身にかかわりがないのでない。
﹁……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、口くや惜しいのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな身から体だに、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青い苔こけ……﹂
﹁いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。﹂
﹁あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、貴あな方たを……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。﹂
﹁忘れました、そういう串じょ戯うだんをきいていたくはないのです。﹂
﹁いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このお腹なかを引破って、肝きもも臓腑も……﹂
その水色に花野の帯が、蔀しと下みしたの敷居に乱れて、お誓の背とともに、むこうに震えているのが見える。榎の梢がざわざわと鳴り、風が颯さっと通った。
﹁――そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……﹂
﹁何、私なら落ちたんでしょう。﹂
﹁そして、石段の上あが口りくちに見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子から熟じっと覗のぞいていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。﹂
その爺さんにも逢っている。銑吉は幾いく度たびも独りうなずいた。
﹁こんな、こんな処、奥州の山の上で。﹂
﹁御同様です。﹂
﹁その拝殿を、一いっ旦たんむこうの隅へ急いで遁にげました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も蓬ぼう々ぼうと茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん――おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか可こ恐わいんです。――ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。﹂
﹁…………﹂
﹁その怪ばけものに、口くや惜しい、口惜い、口惜い目に逢わされているんですから。……
――畜生――
と声も出ないで。﹂
﹁ははあ、たちまち一ひと打うち……薙刀ですな。﹂
﹁明神様のお持もち料りょうです。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――叩たた倒きたおしてやろうと思って、﹂
﹁切られる分には、まだ、不かた具わです。薙倒されては真まっ二ぷたつです、危い、危い。﹂
と、いまは笑った。
﹁堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅あさ間ましい獣けだものです、畜生です、犬です、犬に噛かまれたとお思いになって。﹂
﹁馬鹿なことを……飛んでもない、犬に咬かまれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり疵きずも負わないから、太ふと腹っぱららしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。﹂
そこで、背せなに手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。
﹁どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。﹂
その黒髪は、漆の刃やいばのようにヒヤリとする。
水へ辷すべった柄杓が、カンと響いた。
四
﹁……小県さん、女が、女の不ふつ束つかで、絶家を起す、家を立てたい――﹂
﹁絶家を起す、家を起たてたい……﹂
﹁ええ、その考えは、間違っていますでしょうか。﹂
﹁何が、間違いです。誰が間違いだと云いました。とんでもない、天あっ晴ぱれじゃありませんか。﹂
﹁私の父は、この土地のものなんです。﹂
﹁ああ、成程。﹂
﹁――この藩のちょっとした藩士だったそうなんですが、道楽ものだったと思います。御維新の騒ぎに刀さしをやめたのは可いいんですけれど、そういう人ですから、堅かた気ぎの商売が出来ないで、まだ――街道が賑にぎやかだったそうですから、片原の町はずれへ、茶屋旅はた籠ごの店を出したと申しますの。
……貴方、こちらへいらっしゃりがけに――その、あの、牡ぼた丹ん、牡丹ですが。﹂
なぜか、引くいきに、声がかすれて、
﹁あの咲いております処は、今は田たん畝ぼのようになりましたけれど、もと、はなれの庭だったそうですの……そして――
牡丹は、父の手しおにかけましたものですって。……あとでは、料理ばかりにして、牡丹亭といったそうです。父がなくなりますと……それが人手から人手へ渡って、あとでは立ちぐされも同様。でも、それも、不景気で、こぼし屋の引取手もなしに、暴あ風ら雨しで潰つぶれたのが、家の骸がい骨こつのように路みち端ばたに倒れていますわ。
母はその牡丹亭ごろの、おかみさん。……そんな事は申しませんでもいいんですけど、父とは、大層若くて年が違いました。
――町あたりの芸者だそうです。ですが、武家の娘だったせいですか――まだ、私がお腹に。……﹂
ふと耳みみ許もとをほんのりと薄く染めた。
﹁お腹のうち、本所に居る東京の遠縁のものにたよって出まして、のちに、浅草で、また芸者をしたんですけれど、なくなります時、いまわの際まで、血ちす統じが絶える、田沢の家を、田沢の家をと、せめて後を絶たやさないように遺言をしたんです。
私はその時分、新橋でお酌に出ておりました。十四や十五の考えで、この上一本になって、人の世話になるにした処で、一人で商売をした処で、家を立てるのぞみがありそうに思われません。だもんですから、都合をつけて道をかえまして、梅水へ奉公をしましたのです。自分の口からお恥かしい、余りあからさまのようですが、つむりのものより、なりかたちより、少しでもお金を貯めて、小さな店でも出せますように、その上で、堅気の養子になる人を、縁があったらと、思詰め、念じ切っておりました。
こんなものでも、一つ家うちに、十年の余も辛抱をしますうちには、お一人やお二方、相談をして下さる方のないこともなかったんですけど、田沢の家の養子とでは、まるでかけ離れました縁ですもの。冷たい顔して、きっぱりと、お断り申しました。それが、心得違いだったんです、間違っていたんです。ねえ。﹂
﹁間違いではありません。お誓さん、しかし、ただ、道も一ひと条すじの上だとしたら、家を起す――血統を絶やさない、真に立派な覚悟だけれど、……本当は女一人だとすると、どうしていいか、それは、学者でも、教育家でも、たとえばお寺の坊さんでも、実地に当ると、八やち衢またに前ゆく途てが岐わかれて、道しるべをする事はむずかしい……世の中になったんですね。﹂
﹁まったくですわ。でも、それも、まだ月日は長し……昨きの日うや今日の事とは思わなかったんですのに――昨年、店の都合で裾野の方へ一夏まいりまして、朝夕、あの、富士山の景色を見ますにつけ……ついのんびりと、一人で旅がしてみたくなったんです。一体出不精な処へ、お蔭様、店も忙しゅうございますし、本所の伯父伯母と云った処で、ほんの母がたよりました寄より親おや同様。これといって行ゆきたい場所も知りませんものですから、旅をするなら、名ばかりでも、聞いただけ懐しい、片原を、と存じまして、十月小春のいい時候に、もみじもさかり、と聞きました。……
はじめて、泊りました、その土地の町の旅や宿どが、まわり合せですか、因縁だか、その宿の隠居夫婦が、よく昔の事を知っていました。もの珍らしいからでしょう、宿帳の田沢だけで、もう、ちっとでも片原に縁があるだろう、といいましてね。
そんなですから、隠居二人で、西明寺の父の墓も案内をしてくれますし。……まことに不思議な、久しく下草の中に消えていた、街道端ばたの牡丹が、去年から芽を出して、どうしてでしょう、今年の夏は、花を持った。町でも人が沢山見に行ゆき、下の流れを飲んで酔うといえば、汲くんで取って、香水だと賞ほめるのもある。……お嬢さん……私の事です。﹂
と頬も冷たそうに、うら寂しく、
﹁故郷へ帰って来て、田沢家を起す、瑞ずい祥しょうはこれで分った、と下へも置かないで、それはほんとうに深切に世話をして、牡丹さん、牡丹さん、私の部屋が牡丹の間。餡あん子こではあんまりだ、黄色い白おし粉ろいでもつけましょう、牡丹亭きな子です。お一ついかが……そういってどうかすると、お客にお酌をした事もあるんです。長なが逗とう留りゅうの退屈ばらし、それには馴なれた軽はずみ……﹂
歎ため息いきも弱々と、
﹁もっとも煩うるさいことでも言えば、その場から、つい立って、牡丹の間へ帰っていたんです。それというのが、ああも、こうもと、それから、それへ、商売のこと、家のこと。隠居夫婦と、主人夫婦、家うちのものばかりも四人でしょう。番頭ですの、女中ですの、入いりかわり相談をしてくれます。聞くだけでも楽たのしみで、つんだり、崩したり、切組みましたり、庭背戸まで見積って、子供の積木細工で居るうちに、日が経たちます。……鳥居数をくぐり、門松を視みないと、故郷とはいえない、といわれる通りの気になって、おまいりをしましたり。……逗留のうち、幾度、あの牡丹の前へ立ったでしょう。
柱一本、根太板も、親たちの手の触ったのが残っていましょう。あの骨を拾おう。どうしよう。焚たこうか、埋めようか。ちょっと九尺二間を建てるにしても、場所がいまの田たん畝ぼではどうにもならず。︵地蔵様の祠ほこらを建てなさい、︶隠居たちがいうんです。ああ、いいわねえ、そうしましょうか。
思出しても身から体だがふるえる、……
今年二月の始はじめでした。……東京も、そうだったって聞いたんですが、この辺でも珍らしく、雪の少い、暖かな冬でしたの。……今夜の豆まめ撒まきが済むと、片原で年を取って、あかんぼも二つになると、隠居たちも笑っていました。その晩――暮方……
湯上りのいい心持の処へ、ちらちら降出しました雪が嬉しくって、生意気に、……それだし、銀座辺、あの築地辺の夜ふけの辻で、つまらない悪いた戯ずらをされました覚えもなし、またいたずらに逢ったところで、ところ久しいだけ、門かどなみ知っているんです。……梅水のものですよ。それで大概、挨あい拶さつをして離れちまいますんですもの、道の可こ恐わさはちっとも知らずにいたんです。――それに牡丹亭のあとまでは、つれがありましたり、一人でも幾度も行ったり来たり、屋根のない長い廊下もおんなじに思っていましたものですから、コオトも着ないで、小県さん、浴衣に襟つき一枚何かで。――裙すそへ流れる水、あの小川も、梅水に居て、座敷の奥で、水調子を聞く音がします。……牡丹はもう、枝ばかり、それも枯れていたんですが、降る雪がすっきりと、白い莟つぼみに積りました。……大おお輪りんなのも面影に見えるようです。
向うへ、小さなお地蔵様のお堂を建てたら、お提ちょ灯うちんに蔦つたの紋、養子が出来て、その人のと、二つなら嬉しいだろう。まあ極きまりの悪い。……わざとお賽さい銭せん箱ばこを置いて、宝珠の玉……違った、それはお稲いな荷りさ様ま、と思っているうちに、こんな風に傘をさして、ちらちらと、藤の花だか、鷺だかの娘になって、踊ったこともあったっけ。――傘は、ここで、畳んだか、開いてさしたかと、うっかりしました。――傘からかさを、ひどい力で、上へぐいと引いたんです。天にも地にも、小県さん、観音様と、明神様のほかには、女の身から体だで、口へ出して……﹂
キリキリと歯を噛かんで、つと瞼まぶたの色が褪あせた。
﹁癪しゃくか。しっかりなさい、お誓さん。﹂
さそくに掬すくった柄ひし杓ゃくの水を、削るがごとく口に含んで、
﹁人間がましい、癪なんぞは、通越しているんです。ああ、この水が、そのまんま、青い煙になって焼いちまってくれればいいのに。﹂
しばらく、声も途絶えたのである。
﹁口く惜やしいわ、私、小県さん、足が上へ浮く処を、うしろから、もこん、と抱込んだものを、見ました時。﹂
わなわなと震えたから、小県も肩にかけていた手を離した。倒れそうに腰をつくと、褄つまを投げて、片手を苔こけに辷すべらした。
﹁灰あ汁くのような毛が一面にかぶさった。枯木のような脊の高い、蒼い顔した※ひ々ひ﹇#﹁けものへん+非﹂、88-17﹈、あの、絵の※﹇#﹁けものへん+非﹂、88-18﹈々、それの鼻、がまた高くて巨おおきいのが、黒雲のようにかぶさると思いましたばかり……何にも分らなくなりました。
あとで――息の返りましたのは、一軒家で飴あめを売ります、お媼ばあさんと、お爺さんの炉端でした。裏背戸口へ、どさりと音がしたきりだった、という事です。
どんな形で、投ほうり出されていたんでしょう。﹂
褄を引合わせ、身をしめて、
﹁……のちに、大沼で、とれたといって、旅や宿どの台所に、白い雁がんが仰あお向むけに、俎まないたの上に乗ったのを、ふと見まして、もう一度ゾッとすると、ひきつけて倒れました事さえあるんです。
――その晩は、お爺さんの内から、ほんの四五町の処を、俥くるまにのって帰ったのです。急に、ひどい悪寒がするといって、引ひっ被かぶって寝ましたきり、枕も顔もあげられますもんですか。悪寒どころですか、身から体だはやけますようですのに、冷い汗を絞るんです。その汗が脇の下も、乳の処も、……ずくずく……悪臭い、鱶ふかだか、鮫さめだかの、六月いきれに、すえたような臭においでしょう。むしりたい、切って取りたい、削りたい、身体中がむかむかして、しっきりなしに吐くんです。
無理やりに服のまされました、何の薬のせいですか、有る命は死にません。――活きているかいはなし……ただ西明寺の観音様へお縋すがりにまいります。それだって、途中、牡丹のあるところを視みます時の心もちは、ただお察しにまかせます。……何の罪つみ咎とががあるんでしょう、と思うのは、身勝手な、我身ばかりで、神様や仏様の目で、ごらんになったら。﹂
﹁お誓さん、……﹂
声を沈めて遮った。
﹁神、仏の目には、何の咎、何の罪もない。あなたのような人間を、かえって悪魔は狙うのですよ。幾年目かに朽ちた牡丹の花が咲いた……それは嘘ではありますまい。人は見て奇きず瑞いとするが、魔が咲かせたかも知れないんです。反対に、お誓さんが故郷へ帰った、その瑞ずい兆ちょうが顕あらわれたとして、しかも家の骨に地蔵尊を祭る奇特がある。功徳、恭養、善行、美事、その只ただ中なかを狙うのが、悪魔の役です。どっちにしろ可おそ恐ろしい、早くそこを通抜けよう。さ、あなたも目をつむって、観音様の前へおいでなさい。﹂
﹁――ある時、和尚さんが、お寺へ紅白の切きれを、何ほどか寄進をして欲しいものじゃ、とおっしゃるんです。寺の用でない、諸しょ人にんの施せぎ行ょうのためじゃけれど、この通りの貧乏寺。……ええ、私の方から、おやくに立ちますならお願い申したいほどですわ。三反持って参りますと、六尺ずつに切りたいが、鋏はさみというものもなし……庖丁ではどうであろう。まあ、手で裂いても間に合いますわ。和尚さんに手伝って三方の上へ重ねました時、つい、それまでは不信心な、何にも知らずにおりました。子育ての慈愛をなさいます、五いわ月たお帯びのわけを聞きまして、時も時、折も折ですし、……観音様。﹂
お誓が、髪を長く、すっと立って、麓ふもとに白い手を合わせた。
﹁つい女気で、紅あかい切を上へ積んだものですから、真上のを、内ない証しょで、そっと、頂いたんです。﹂
﹁それは、めでたい。――結構ではないか、お誓さん。﹂
お誓は榎の根に、今度は吻ほっとして憩った、それと差さしむかいに、小県は、より低い処に腰を置いて、片足を前に、くつろぐ状さまして、
﹁節分の夜の事だ。対あい手てを鬼と思いたまえ。が、それも出放題過ぎるなら、怪我……病気だと思ったらどうです。怪我や病気は誰もする。……その怪我にも、病気にも障りがなくって、赤ちゃんが、御免なさいよ、ま、出来たとする。昔から偉人には奇蹟が携わる、日を見て、月を見て、星を見て、いや、ちと大道うらないに似て来たかね。﹂
袖を開いて扇を使った。柳の影が映りそうで、道いい得えて、いささか可よしと思ったらしい。
﹁鶴を視みて懐姙した験げんはいくらもある。いわゆる、もうし子だとお思いなさい。その上、面倒な口を利く父親なしに、お誓さん一人で育てたら、それが生一本の田沢家の血統じゃありませんか。そうだ、悪魔などと言ったのは、私のあやまり、豊年の何とかいう雪が降って、節分には、よく降るんです。正に春りっ立しゅんならんとする時、牡丹に雪の瑞ずいといい、地蔵菩薩の祥しょうといい、あなたは授さずかりものをしたんじゃないか、確たしかにそうだ、――お誓さん。﹂
お誓は淡うすくまた瞼まぶたを染めた。
﹁そんな、あの、大それた、高望みはしませんけれど、女の子かも知れないと思いました。五日、七なぬ日か、二ふた夜よ、三夜、観音様の前に静じっとしていますうちに、そういえば、今時、天てん狗ぐも※ひ々ひ﹇#﹁けものへん+非﹂、91-16﹈も居まいし、第一獣けものの臭にお気いがしません。くされたというは心持で、何ですか、水に棲すむもののような気がするし、森の香の、時々峰からおろす松風と一所に通って来るのも、水神、山の神に魅入られたのかも分らない。ええ、因果と業。不かた具わでも、虫でもいい。鳶とんび鴉からすでも、鮒ふな、鰌どじょうでも構わない。その子を連れて、勧かん進じん比び丘く尼にで、諸国を廻めぐって親子の見世ものになったらそれまで、どうなるものか。……そうすると、気が易くなりました。﹂
﹁ああ、観音の利益だなあ。﹂
つと顔を背けると、肩をそいで、お誓は、はらはらと涙を落した。
﹁その御利益を、小県さん、頂いてだけいればよかったんですけれど――早くから、関屋からこの辺かけて、鳥の学者、博士が居ます。﹂
﹁…………﹂
﹁鳥の巣に近づくため、撃つために、いろいろな……あんな形なりもする、こうもする。……頭に樹の枝をかぶったり、かずらや枯葉を腰へ巻いたり……何の気もなしに、孫八ッて……その飴屋の爺さんが夜話するのを、一言……﹂
︵!…………︶
﹁焼火箸を脇の下へ突つき貫ぬかれた気がしました。扇おう子ぎをむしって棄すちょうとして、勿体ない、観音様に投げうちをするようなと、手が痺しびれて落したほどです。夜中に谷へ飛降りて、田沢の墓へ噛かみつこうか、とガチガチと歯が震える。……路みち傍ばたのつぶれ屋を、石油を掛けて焼消そうか。牡丹の根へ毒を絞って、あの小川をのみ干そうか。
もうとても……大慈大悲に、腹帯をお守り下さいます、観音様の前には、口くや惜しくって、もどかしくって居いた堪たまらなくなったんですもの。悪念、邪心に、肝も魂も飛上って……あら神様で、祟たたりの鋭い、明神様に、一おと昨と日いと、昨きの日う、今日……﹂
――誓ただひとりこの御みど堂うに――
﹁独り居れば、ひとり居るほど、血が動き、肉が震えて、つきます息も、千本の針で身体中さすようです。――前さっ刻きも前刻、絵馬の中に、白い女の裸はだ身かみを仰向けにくくりつけ、膨れた腹を裂いています、安あだ達ちヶ原の孤ひと家つやの、もの凄すごいのを見ますとね。﹂
︵――実は、その絵馬は違っていた――︶
﹁ああ、さぞ、せいせいするだろう。あの女は羨しいと思いますと、お腹の裡なかで、動くのが、動くばかりでなくなって、もそもそと這はうような、ものをいうような、ぐっぐっ、と巨おおきな鼻が息をするような、その鼻が舐なめるような、舌を出すような、蒼あお黄ぎい色ろい顔――畜生――牡丹の根で気絶して、生いき死しにも知らないでいたうちの事が現うつつに顕あらわれて、お腹の中で、土つち蜘ぐ蛛もが黒い手を拡げるように動くんですもの。
帯を解いて、投げました。
ええ、男に許したのではない。
自分の腹を露むき出だしたんです。
芬ぷんと、麝じゃ香こうの薫かおりのする、金きん襴らんの袋を解いて、長なぎ刀なたを、この乳の下へ、平当てにヒヤリと、また芬と、丁ちょ子うじの香がしましたのです。﹂……
この薙刀を、もとのなげしに納める時は、二人がかりで、それはいいが、お誓が刃の方を支えたのだから、おかしい。
誰も、ここで、薙刀で腹を切ったり、切らせたりするとは思うまい。
――しかも、これを取はずしたという時に落したのであろう。女の長い切髪の、いつ納めたか、元もと結ゆいを掛けて黒い水引でしめたのが落ちていた。見てさえ気味の悪いのを、静しずかに掛直した。お誓は偉い!……落着いている。
そのかわり、気の静まった女に返ると、身だしなみをするのに、ちょっと手間が取れた。
下じめ――腰帯から、解いて、しめ直しはじめたのである。床へ坐って……
ちっと擽くすぐったいばかり。こういう時の男の起たち居いふ挙るま動いは、漫画でないと、容易にその範容が見当らない。小県は一つ一つ絵馬を視みていた。薙刀の、それからはじめて。――
一度横目を流したが、その時は、投げた単ひと衣えの後うし褄ろづまを、かなぐり取った花野の帯の輪で守護して、その秋草の、幻に夕映ゆる、蹴け出だしの色の片膝を立て、それによりかかるように脛はぎをあらわに、おくれ毛を撫なでつけるのに、指のさきをなめるのを、ふと見まじいものを見たように、目を外らした。
﹁その絵馬なんですわ、小県さん。﹂
起たつと、坐ると、しかも背中合せでも、狭い堂の中の一つ処で、気けは勢いは通ずる。安達ヶ原の……
﹁お誓さん、気のせいだ。この絵馬は、俎まないたの上へ――裸はだ体かの恋絹を縛ったのではない。白鷺を一羽仰向けにしてあるんだよ。しかもだね、料理をするのは、もの凄すごい鬼おに婆ばば々あじゃなくって、鮹たこの口を尖とがらした、とぼけた爺さん。笑わせるな、これは願ねが事いごとでなくて、殺生をしない戒めの絵馬らしい。﹂
事こと情がらも解よめている。半ば上の空でいううちに、小県のまた視ながめていたのは、その次の絵馬で。
はげて、くすんだ、泥絵具で一ひと刷は毛けなすりつけた、波の線が太いから、海を被かついだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、鰈かれい、比ひ目ら魚めには、どんよりと色が赤い。赤あかだ。が何を意味する?……つかわしめだと聞く白鷺を引立たせる、待まち女じょ郎ろうの意味の奉納か。その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。
斑はんだ。斑が留っていた。
﹁お誓さん、お誓さん。――その辺に、綺きれ麗いな虫が一つ居はしませんか、虫が。﹂
﹁ええ。﹂
﹁居る?﹂
﹁ええ。居ますわ。﹂
バタリと口に啣くわえた櫛くしが落ちた。お誓は帯のむすびめをうしろに取って、細い腰をしめさまに、その引ひっ掛かけを手繰っていたが、
﹁玉虫でしょう、綺麗な。ええ、人間は、女は浅間しい。すぐに死なないと思いましたら、簪かんざしも衣きものも欲ほしいんです。この場所ですから、姫神様が下さるんだと思いましてさ、ちょっと、櫛でおさえました。ツイとそれて、取損って、見えませんわ。そちらに居ません? 玉虫でしょう。﹂
筐かたみの簪、箪たん笥すの衣きぬ、薙刀で割く腹より、小県はこの時、涙ぐんだ。
いや、懸念に堪えない。
﹁玉虫どころか……﹂
名は知るまいと思うばかり、その説明の暇もない。
﹁大変な毒虫だよ。――支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さい。さあ……その櫛……指を、唇へ触りはしまいね。﹂
﹁櫛は峰の方を啣えました。でも、指はあの、鬢びんの毛を撫でつけます時、水がなかったもんですから、つい……いいえ、毒にあたれば、神様のおぼしめしです。こんな身から体だを、構わんですわ。﹂
ちょっとなまって、甘えるような口ぶりが、なお、きっぱりと断あき念らめがよく聞えた。いやが上に、それも可あわ哀れで、その、いじらしさ。
﹁帯にも、袖にも、どこにも、居ないかね。﹂
再び巨おお榎えのきの翠みどりの蔭に透通る、寂しく澄んだ姿を視みた。
水にも、満つる時ありや、樹の根の清水はあふれたり。
﹁ああ、さっき水を飲んだ時でなくて可よかった。﹂
引立てて階きざはしを下りた、その蔀しと格みご子うしの暗い処に、カタリと音がした。
﹁あれ、薙刀がはずれましたか。﹂
清水の面おもてが、柄ひし杓ゃくの苔こけを、琅ろうのごとく、梢こずえもる透すき間まを、銀ぎん象ぞう嵌がんに鏤ちりばめつつ、そのもの音の響きに揺れた。
﹁まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。﹂……
榎の梢を、兎のような雲にのって。
﹁桃色の三日月様のように。﹂
と言った。
松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽かげ炎ろうを油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀の鋭とき刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水と紅きの羅うすものして、あま翔かける鳥の翼を見よ。
﹁大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……﹂
﹁行って、どうします? 行って。﹂
﹁もうこんな気になりましては、腹の子をお守り遊ばす、観音様の腹帯を、肌につけてはいられません。解きます処、棄てます処、流す処がなかったのです。女の肌につけたものが一度は人目に触れるんですもの。抽ひき斗だしにしまって封をすれば、仏様の情なさけを仇あだの女の邪念で、蛇、蛭ひるに、のびちぢみ、ちぎれて、蜘く蛛もになるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、お諭さとしなんです。小県さん。あの沼は、真まん中なかが渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さんに聞いています……﹂
と、銑吉の袂たもとの端を確しかと取った。
﹁行ゆく道が分っていますか。﹂
﹁ええ、身を投げようと、……二度も、三度も。﹂――
欄干の折れた西の縁の出はず端れから、袖形に地の靡なびく、向うの末の、雑ぞう樹き茂り、葎むぐ蔽らおおい、ほとんど国を一重隔てた昔話の音せぬ滝のようなのを、猶た予めらわず潜くぐる時から、お誓が先に立った。おもいのほか、外は細い路が畝うねって通った。が、小県はほとんど山姫に半ばを誘わるる思いがした。ことさらにあとへ退さがったのではない、もう二三尺と思いつつ、お誓の、草がくれに、いつもその半身、縞しま絹ぎぬに黒髪した遁にげ水みずのごとき姿を追ったからである。
沼は、不しの忍ばずの池を、その半なかばにしたと思えば可いい。ただ周囲に蓊おう鬱うつとして、樹が茂って暗い。
森をくぐって、青い姿見が蘆あし間まに映った時である。
汀なぎさの、斜はす向むこうへ――巨おおきな赤い蛇が顕あらわれた。蘆萱かやを引伏せて、鎌首を挙げたのは、真まっ赤かなヘルメット帽である。
小県が追おい縋すがる隙すきもなかった。
衝つと行ゆく、お誓が、心せいたか、樹と樹の幹にちょっと支えられたようだったが、そのまま両手で裂くように、水に襟を開いた。玉なめらかに、きめ細かに、白しろ妙たえなる、乳首の深秘は、幽かすかに雪間の菫すみれを装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、
﹁畜生……﹂
と云った、女の声とともに、谺こだまが冴えて、銃が響いた。
小県は草に、伏ふせの構かまえを取った。これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くで行やるかも知れない……爪さきに接キ吻スをしようとしたのではない。ものいう間まもなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。
その草くさ伏ぶしの小県の目に、お誓の姿が――峰を抽ぬいて、高く、金こん色じきの夕日に聳そばだって見えた。斉ひとしく、野の燃ゆるがごとく煙って、鼻の尖とがった、巨おおいなる紳士が、銃を倒す、と斉しく、ヘルメット帽を脱いで、高くポンと空へ投げて、拾って、また投げて、落ちると、宙に受けて、また投なげるのを視た。足でなく、頭で雀こお躍どりしたのである。たちまち、法ころ衣もを脱ぎ、手早く靴を投ると、勢いきおいよく沼へ入った。
続いて、赤少年が三人泳ぎ出した。
中心へ近づくままに、掻かく手の肱ひじの上へ顕あらわれた鼻の、黄色に青みを帯び、茸きのこのくさりかかったような面おもてを視た。水に拙つたないのであろう。喘あえぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠おん形ぎょうの一ひと術てであろうも計られぬ。
﹁ばか。﹂
投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。
早く解いて流した紅くれないの腹帯は、二重三重にわがなって、大輪の花のようなのを、もろ翼はを添えて、白鷺が、すれすれに水を切って、鳥旦那の来きたり迫る波がしらと直線に、水脚を切って行ゆく。その、花はな片びらに、いやその腹帯の端に、キラキラと、虫が居て、青く光った。
鼻を仰向け、諸もろ手てで、腹帯を掴つかむと、紳士は、ずぶずぶと沼に潜った。次に浮きざまに飜ひるがえった帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。
ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八爺じいが押えたのが見える。押えられて、手を突つっ込こんだから、脚をばったのように、いや、ずんぐりだから、蟋こお蟀ろぎのようにいて、頭で臼うすを搗ついていた。
﹁――そろそろと歩あ行るいて行ゆき、ただ一番あとのものを助けるよう――﹂
途中から女の子に呼戻させておいて、媼うば巫み女こ、その孫八爺さんに命ずるがごとくに云って――方角を教えた。
ずんぐりが一番あとだったのを、孫八が来て見出したとともに、助けたのである。
この少年は、少なからぬ便宜を与えた。――検しらべする官人の前で、
﹁――三日以来、大沼が、日に三度ずつ、水の色が真まっ赤かになる情報があったであります。緋ひの鳥が一羽ずつ来るのだと鳥博士が申されました。奇鳥で、非常な価値である。十分に準備を整えて出向ったであります。果して、対岸に真まっ紅かな鳥が居る。撃ったであります。銃の命中したその鳥は、沼の中心へ落ちたであります。従って高級なる猟犬として泳いだのであります。﹂
と明確に言った。
のみならず、紳士の舌には、斑がねばりついていた。
一人として事件に煩わされたものはない。
汀なぎさで、お誓を抱いた時、惜しや、かわいそうに、もういけないと思った。胸に硝しょ薬うやくのにおいがしたからである。
水を汲くもうとする処へ、少年を促がしつつ、廻り駈がけに駈けつけた孫八が慌あわただしく留めた。水を飲んじゃなりましねえ。山野に馴れた爺の目には、沼の水を見さっせえ、お前めえ等らがいった、毒虫が、ポカリポカリ浮いてるだ。……
明神まで引返す、これにも少年が用立った。爺さんにかわって、お誓を背にして走った。
清水につくと、魑すだ魅まが枝を下り、茂りの中から顕あらわれたように見えたが、早く尾根づたいして、八や十そ路じに近い、脊の低い柔和なお媼ばあさんが、片手に幣しで結ゆえる榊さかきを持ち、杖つえはついたが、健すこやかに来合わせて、
﹁苦労さしゃったの。もうよし、よし。﹂
と、お誓のそのふくよかな腹を、袖の下で擦さすって微ほほ笑えんだ。そこがちょうど結び目の帯留の金具を射て、弾た丸まは外それたらしい。小指のさきほどの打身があった。淡うすいふすぼりが、媼うばの手が榊を清水にひたして冷すうちに、ブライツッケルの冷れい罨あん法ぽうにも合かなえるごとく、やや青く、薄紫にあせるとともに、乳ちが銀の露に汗ばんで、濡色の睫まつ毛げが生きた。
町へ急ぐようにと云って、媼はなおあとへ残るから、
﹁お前様は?﹂
お誓が聞くと、
﹁姫神様がの、お冠の纓ひもが解けた、と御意じゃよ。﹂
これを聞いて、活ける女じょ神しんが、なぜみずからのその手にて、などというものは、烏えぼ帽し子お折りを思わるるがいい。早い処は、さようなお方は、恋人に羽織をきせられなかろう。袴腰も、御自分で当て、帽子も、御自分で取っておかぶりなさい。
五
神いち巫こたちは、数しば々しば、顕霊を示し、幽ゆう冥めいを通じて、俗人を驚かし、郷土に一種の権力をさえ把は持じすること、今も昔に、そんなにかわりなく、奥羽地方は、特に多い、と聞く。
むかし、秋田何代かの太守が郊外に逍しょ遥うようした。小やすみの庄屋が、殿様の歌人なのを知って、家に持伝えた人麿の木像を献じた。お覚えのめでたさ、その御機嫌の段いうまでもない――帰途に、身が領分に口くち寄よせの巫いち女こがあると聞く、いまだ試みた事がない。それへ案あな内いをせよ。太守は人麿の声を聞こうとしたのである。
しのびで、裏町の軒へ寄ると、破あば屋らやを包む霧寒く、松韻颯さつ々さつとして、白びゃ衣くえの巫女が口ずさんだ。
﹁ほのぼのと……﹂
太守は門かど口ぐちを衝つと引いた。﹁これよ。﹂﹁ははッ。﹂﹁巫女に謝儀をとらせい。……あの輩やからの教化は、士分にまで及ぶであろうか。﹂﹁泣きみ、笑いみ……ははッ、ただ婦女子のもてあそびものにござりまする。﹂﹁さようか――その儀ならば、﹂……仔しさ細いない。
が、孫八の媼うばは、その秋田辺のいわゆる︵おかみん︶ではない。越えち後ご路じから流るひ漂ょうした、その頃は色白な年増であった。呼込んだ孫八が、九郎判官は恐れ多い。弁慶が、ちょうはん、熊坂ではなく、賽さいの目の口でも寄せようとしたのであろう。が、その女振ぶりを視みて、口く説どいて、口を遁にげられたやけ腹に、巫女の命とする秘密の箱を攫さらって我が家を遁げて帰らない。この奇略は、モスコオの退都に似ている。悪孫八が勝ち、無理が通った。それも縁であろう。越後巫み女こは、水みず飴あめと荒物を売り、軒に草わら鞋じを釣つるして、ここに姥うば塚づかを築くばかり、あとを留とどめたのであると聞く。
――前略、当寺檀那、孫八どのより申上げ候。入院中流産なされ候御婦人は、いまは大方に快かい癒ゆ、鬱うっ散さんのそとあるきも出来候との事、御安心下され度たく候趣、さて、ここに一昨夕、大夕立これあり、孫八老、其その砌みぎり某所墓地近くを通りかかり候折から、天地晦かい冥めい、雹ひょうの降ること凄すさまじく、且かつは電光の中うちに、清げなる婦人一人にん、同所、鳥博士の新墓の前に彳たたずみ候が、冷く莞にこ爾りといたし候とともに、手の壺微みじ塵んに砕け、一塊の鮮血、あら土にしぶき流れ、降積りたる雹を染め候が、赤き霜柱の如く、暫しば時しは消えもやらず有これ之あり候よし、貧道など口にいたし候もいかが、相頼まれ申候ことづてのみ、いずれ仏菩薩の思召す処にはこれあるまじく、奇くしく厳いつくしき明神の嚮きょ導うどう指示のもとに、化鳥の類の所しょ為いにもやと存じ候――
西明寺 木魚。
和尚さんも、貧地の癖に「木魚」などと昭和八(一九三三)年一月