一
あれあれ見たか、
あれ見たか。
二つ蜻とん蛉ぼが草の葉に、
かやつり草に宿をかり、
人目しのぶと思えども、
羽はうすものかくされぬ、
すきや明あか石しに緋ひぢりめん、
肌のしろさも浅ましや、
白い絹地の赤蜻蛉。
雪にもみじとあざむけど、
世間稲妻、目が光る。
あれあれ見たか、
あれ見たか。
﹁おじさん――その提ちょ灯うちん……﹂
﹁ああ、提灯……﹂
唯ただ今いま、午後二時半ごろ。
﹁私が持ちましょう、磴いしだんに打ぶつ撞かりますわ。﹂
一肩上に立った、その肩も裳すそも、嫋しなやかな三十ばかりの女房が、白い手を差向けた。
お米といって、これはそのおじさん、辻町糸七――の従いと姉こで、一おと昨と年し世を去ったお京の娘で、土地に老しに鋪せの塗ぬ師し屋やなにがしの妻女である。
撫なでつけの水々しく利いた、おとなしい、静しずかな円まる髷まげで、頸えり脚あしがすっきりしている。雪国の冬だけれども、天気は好よし、小春日和だから、コオトも着ないで、着きも衣ののお召めしで包むも惜しい、色の清く白いのが、片手に、お京――その母の墓へ手向ける、小菊の黄菊と白菊と、あれは侘わびしくて、こちこちと寂しいが、土地がら、今時はお定さだまりの俗に称となうる坊さん花、薊あざみの軟やわらかいような樺かば紫むらさきの小こげ鶏いと頭うを、一束にして添えたのと、ちょっと色紙の二本たばねの線香、一いち銭もん蝋ろう燭そくを添えて持った、片手を伸べて、﹁その提灯を﹂といったのである。
山門を仰いで見る、処々、壊くえ崩れて、草も尾花もむら生えの高い磴を登りかかった、お米の実家の檀だん那なで寺ら――仙晶寺というのである。が、燈とう籠ろう寺でらといった方がこの大城下によく通る。
去さんぬる……いやいや、いつの年も、盂うら蘭ぼ盆んに墓地へ燈籠を供えて、心ばかり小さな燈あかりを灯ともすのは、このあたりすべてかわりなく、親類一門、それぞれ知ちか己づきの新仏へ志のやりとりをするから、十三日、迎火を焚たく夜よからは、寺々の卵塔は申すまでもない、野に山に、標しめ石いし、奥おく津つ城きのある処、昔を今に思い出したような無縁墓、古塚までも、かすかなしめっぽい苔こけの花が、ちらちらと切き燈り籠こに咲いて、地つちの下の、仄ほの白じろい寂しい亡もう霊れいの道が、草がくれ木この葉がくれに、暗や夜みには著しるく、月には幽かすけく、冥めい々めいとして顕あらわれる。中でも裏山の峰に近い、この寺の墓場の丘の頂に、一樹、榎えのきの大木が聳そびえて、その梢こずえに掛ける高燈籠が、市街の広場、辻、小路。池、沼のほとり、大川縁べり。一里西に遠い荒海の上からも、望めば、仰げば、佇たたずめば、みな空に、面影に立って見えるので、名に呼んで知られている。
この燈籠寺に対して、辻町糸七の外がい套とうの袖から半はん間まな面つらを出した昼間の提灯は、松風に颯さっと誘われて、いま二葉三葉散りかかる、折からの緋もみ葉じも灯ともれず、ぽかぽかと暖い磴の小こぐ草さの日だまりに、あだ白けて、のびれば欠あく伸び、縮むと、嚔くしゃみをしそうで可お笑かしい。
辻町は、欠伸と嚔を綯なえたような掛声で、
﹁ああ、提灯。いや、どっこい。﹂
と一段踏む。
﹁いや、どっこい。﹂
お米が莞にっ爾こり、
﹁ほほほ、そんな掛声が出るようでは、おじさん。﹂
﹁何、くたびれやしない。くたびれたといったって、こんな、提灯の一つぐらい。……もっとも持重りがしたり、邪魔になるようなら、ちょっと、ここいらの薄すすきの穂へ引ひっ掛かけて置いても差支えはないんだがね。﹂
﹁それはね、誰も居ない、人通りの少い処だし、お寺ですもの。そこに置いといたって、人がどうもしはしませんけれど。……持ちましょうというのに持たさないで、おじさん、自分の手で…﹂
﹁自分の手で。﹂
﹁あんな、知らない顔をして、自分の手からお手向けなさりたいのでしょう。ここへ置いて行っては、お志が通らないではありませんか、悪いわ。﹂
﹁お叱こご言とで恐入るがね、自分から手向けるって、一体誰だい。﹂
﹁それは誰どな方ただか、ほほほ。﹂
また莞にっ爾こり。
﹁せいせい、そんな息をして……ここがいい、ちょっとお休みなさいよ、さあ。﹂
ちょうど段々中なか継つぎの一土間、向むこ桟うさ敷じきと云った処、さかりに緋葉した樹の根に寄った方で、うつむき態なりに片袖をさしむけたのは、縋すがれ、手を取ろう身構えで、腰を靡なよ娜やかに振向いた。踏掛けて塗下駄に、模様の雪輪が冷くかかって、淡と紅きの長なが襦じゅ袢ばんがはらりとこぼれる。
媚なまめかしさ、というといえども、お米はおじさんの介添のみ、心にも留めなそうだが、人妻なれば憚はばかられる。そこで、件くだんの昼提灯を持直すと、柄の方を向うへ出した。黒塗の柄を引取ったお米の手は、なお白くて優しい。
憚られもしようもの。磴たるや、山賊の構えた巌いわおの砦とりでの火ひの見みの階はし子ごと云ってもいい、縦たて横よこ町まち条すじの家やごとの屋根、辻の柳、遠おち近こちの森に隠顕しても、十町三方、城下を往来の人々が目を欹そばだつれば皆見える、見たその容よう子すは、中空の手てす摺りにかけた色小袖に外套の熊蝉が留ったにそのままだろう。
蝉はひとりでジジと笑って、緋もみ葉じの影へ飜ひら然りと飛移った。
いや、飜然となんぞ、そんな器用に行ゆくものか。
﹁ありがとう……提灯の柄のお力添に、片手を縋って、一方に洋ステ杖ッキだ。こいつがまた素人が拾った櫂かいのようで、うまく調子が取れないで、だらしなく袖へ掻かい込こんだ処は情なさけない、まるで両りょ杖うづえの形だな。﹂
﹁いやですよ。﹂
﹁意気地はない、が、止むを得ない。お言葉に従って一休みして行こうか。ちょうどお誂あつらえ、苔こけ滑なめらか……というと冷いが、日当りで暖い所がある。さてと、ご苦労を掛けた提灯を、これへ置くか。樹下石上というと豪勢だが、こうした処は、地蔵盆に筵むしろを敷いて鉦かねをカンカンと敲たたく、はっち坊主そのままだね。﹂
﹁そんなに、せっかちに腰を掛けてさ、泥がつきますよ。﹂
﹁構わない。破やれ麻だよ。たかが墨染にて候だよ。﹂
﹁墨染でも、喜撰でも、所作舞台ではありません、よごれますわ。﹂
﹁どうも、これは。きれいなその手ハン巾ケチで。﹂
﹁散っているもみじの方が、きれいです、払っては澄まないような、こんな手巾。﹂
﹁何色というんだい。お志で、石へ月影まで映さして来た。ああ、いい景色だ。いつもここは、といううちにも、今日はまた格別です。あいかわらず、海も見える、城も見える。﹂
といった。
就なか中んずく、公いち孫ょ樹うは黄なり、紅樹、青林、見渡す森は、みな錦もみ葉じを含み、散残った柳の緑を、うすく紗しゃに綾あや取どった中に、層々たる城の天守が、遠山の雪の巓いただきを抽ぬいて聳そびえる。そこから斜ななめに濃い藍あいの一線を曳ひいて、青い空と一ひと刷はけに同じ色を連ねたのは、いう迄もなく田野と市街と城下を巻いた海である。荒海ながら、日和の穏かさに、渚なぎさの浪は白菊の花を敷流す……この友禅をうちかけて、雪国の町は薄霧を透とおして青白い。その袖と思う一端に、周囲三里ときく湖は、昼の月の、半円なるかと視ながめられる。
﹁お米坊。﹂
おじさんは、目を移して、
﹁景色もいいが、容よう子すがいいな。――提灯屋の親おや仁じが見み惚とれたのを知ってるかい。
︵その提灯を一つ、いくらです。︶といったら、
︵どうぞ早や、お持ちなされまして……お代はおついでの時、︶……はどうだい。そのかわり、遠国他郷のおじさんに、売りものを新聞づつみ、紙づつみにしようともしないんだぜ。豈あにそれ見惚れたりと言わざるを得んやだ、親仁。﹂
﹁おっしゃい。﹂
と銚ちょ子うしのかわりをたしなめるような口振で、
﹁旅の人だか何だか、草わら鞋じも穿はかないで、今時そんな、見たばかりで分りますか。それだし、この土地では、まだ半季勘定がございます。……でなくってもさ、当おて寺らへお参りをする時、ゆきかえり通るんですもの。あの提灯屋さん、母に手を曳ひかれた時分から馴なじ染みです。……いやね、そんな空からお世辞をいって、沢山。……おじさんお参りをするのに極きまりが悪いもんだから、おだてごかしに、はぐらかして。﹂
﹁待った、待った。――お京さん――お米坊、お前さんのお母っかさんの名だ。﹂
﹁はじめまして伺います、ほほほ。﹂
﹁ご挨拶、恐入った。が、何々院――信女でなく、ごめんを被ろう。その、お母さんの墓へお参りをするのに、何だって、私がきまりが悪いんだろう。第一そのために来たんじゃないか。﹂
﹁……それはご遠慮は申しませんの。母の許とこへお参りをして下さいますのは分っていますけれどもね、そのさきに――誰かさん――﹂
﹁誰かさん、誰かさん……分らない。米ちゃん、一体その誰かさんは?﹂
﹁母が、いつもそういっていましたわ。おじさんは、︵極りわるがり屋︶という︵長い屋︶さんだから。﹂
﹁どうせ、長屋住ずま居いだよ。﹂
﹁ごめんなさい、そんなんじゃありません。だからっても、何も私に――それとも、思い出さない、忘れたのなら、それはひどいわ、あんまりだわ。誰かさんに、悪いわ、済まないわ、薄情よ。﹂
﹁しばらく、しばらく、まあ、待っておくれ。これは思いも寄らない。唐突の儀を承る。弱ったな、何だろう、といっちゃなお悪いかな、誰だろう。﹂
﹁ほんとに忘れたんですか。それで可いいんですか。嘘でしょう。それだとあんまりじゃありませんか。いっそちゃんと言いますよ、私から。――そういっても釣出しにかかって私の方が極りが悪いかも知れませんけれども。……おじさん、おじさんが、むかし心中をしようとした、婦おん人なのかた。﹂
﹁…………﹂
藪やぶから棒をくらって膨らんだ外套の、黒い胸を、辻町は手で圧おさえる真似して、目をると、
﹁もう堪忍してあげましょう。あんまり知らないふりをなさるからちょっと驚おどかしてあげたんだけれど、それでも、もうお分りになったでしょう。――いつかの、その時、花の盛さかりの真夜中に。――あの、お城の門のまわり、暗い堀の上を行ったり、来たり……﹂
お米の指が、行ったり来たり、ちらちらと細く動くと、その動くのが、魔法を使ったように、向う遥はるかな城の森の下くぐりに、小さな男が、とぼんと出て、羽織も着ない、しょぼけた形を顕あらわすとともに、手を拱こまぬき、首こうべを垂れて、とぼとぼと歩あ行るくのが朧おぼろに見える。それ、糧に飢えて死のうとした。それがその夜の辻町である。
同時に、もう一つ。寂しい、美しい女が、花の雲から下りたように、すっと翳かげって、おなじ堀を垂だら々だら下おりに、町へ続く長い坂を、胸を柔やわらかに袖を合せ、肩を細ほっそりと裙すそを浮かせて、宙に漾ただようばかり。さし俯うつ向むいた頸えりのほんのり白い後姿で、捌さばく褄つまも揺ゆらぐと見えない、もの静かな品の好よさで、夜はただ黒し、花明り、土の筏いかだに流るるように、満開の桜の咲さき蔽おおうその長坂を下りる姿が目に映った。
――指を包め、袖を引け、お米坊。頸の白さ、肩のしなやかさ、余りその姿に似てならない。――
今、目まのあたり、坂を行ゆく女ひとは、あれは、二はた十ちばかりにして、その夜、︵烏をいう︶千ふ羽ちヶ淵で自殺してしまったのである。身を投げたのは潔い。
卑ひき怯ょうな、未練な、おなじ処をとぼついた男の影は、のめのめと活きて、ここに仙晶寺の磴いしだんの中途に、腰を掛けているのであった。
二
﹁ああ、まるで魔法にかかったようだ。﹂
頬にあてて打傾いた掌てを、辻町は冷く感じた。時に短く吸込んだ煙たば草この火が、チリリと耳を掠かすめて、爪つま先さきの小石へ落ちた。
﹁またまったく夢がさめたようだ。――その時、夜あけ頃まで、堀の上をうろついて、いつ家うちへ帰ったか、草へもぐったのか、蒲ふと団んを引ひき被かぶったのか分らない。打ぶちめされたようになって寝た耳へ、
――兄さん……兄さん――
と、聞こえたのは、……お京さん。﹂
﹁返事をしましょうか。﹂
﹁願おうかね。﹂
﹁はい、おほほ。﹂
﹁申すまでもない、威勢のいい若い声だ。そうだろう、お互に二はた十ちの歳です。――死んだ人は、たしか一つ上だったように後で聞いて覚えている。前の晩は、雨あま気けを含んで、花あかりも朦もう朧ろうと、霞に綿を敷いたようだった。格子戸そ外とのその元気のいい声に、むっくり起きると、おっと来たりで、目は窪くぼんでいる……額おでこをさきへ、門かど口ぐちへ突出すと、顔色の青さをられそうな、からりとした春爛たけなわな朝景色さ。お京さんは、結いたての銀いち杏ょう返がえしで、半襟の浅黄の冴えも、黒くろ繻じゅ子すの帯の艶つやも、霞を払ってきっぱりと立っていて、︵兄さん身投げですよ、お城の堀で。︶︵嘘だよ、ここに活きてるよ。︶と、うっかり私が言ったんだから、お察しものです。すぐ背うし後ろの土間じゃ七十を越した祖ば母あさんが、お櫃ひつの底の、こそげ粒で、茶ちゃ粥がゆとは行きません、みぞれ雑炊を煮てござる。前々年、家うちが焼けて、次の年、父親がなくなって、まるで、掘立小屋だろう。住むにも、食うにも――昨ゆう夜べは城のここかしこで、早い蛙がもう鳴いた、歌を唄ってる虫けらが、およそ羨うらやましい、と云った場合。……祖母さんは耳が遠いから可よかったものの、︵活きてるよ。︶は何事です。︵何を寝ね惚ぼけているんです。しっかりするんです。︶その頃の様子を察しているから、お京さん――ままならない思遣りのじれったさの疳かん癪しゃ筋くすじで、ご存じの通り、一いちうちの眉を顰ひそめながら、︵……町内ですよ、ここの。いま私、前を通って来たんだけれど、角の箔はく屋や。――うちの人じゃあない、世話になって、はんけちの工こう場ばへ勤めている娘さんですとさ。ちゃんと目をあいて……あれ、あんなに人が立っている。︶うららかな朝だけれど、路が一ひと条すじ、胡ごふ粉んで泥だ塗みたように、ずっと白く、寂し然んとして、家やならび、三町ばかり、手前どもとおなじ側かわです、けれども、何だか遠く離れた海際まで、突抜けになったようで、そこに立っている人だかりが――身を投げたのは淵ふちだというのに――打って来る波を避けるように、むらむらと動いて、地つちがそこばかり、ぐっしょり汐しおに濡れているように見えた。
花はちらちらと目の前へ散って来る。
私の小屋と真まむ向かいの……金持は焼けないね……しもた屋の後うわ妻なりで、町中の意地悪が――今時はもう影もないが、――それその時飛んで来た、燕の羽の形に後うしろを刎はねた、橋はし髷まげとかいうのを小さくのっけたのが、門かどの敷石に出て来て立って、おなじように箔屋の前を熟じっとすかして視みていた。その継まま娘むすめは、優しい、うつくしい、上品な人だったが、二はた十ちにもならない先に、雪の消えるように白梅と一所に水で散った。いじめ殺したんだ、あの継母がと、町内で沙さ汰たをした。その色の浅黒い後うわ妻なりの眉と鼻が、箔屋を見込んだ横顔で、お米さんの前髪にくッつき合った、と私の目に見えた時さ。︵いとしや。︶とその後妻が、︵のう、ご親類の、ご新しん姐ぞさん。︶――悉くわしくはなくても、向う前だから、様子は知ってる、行ゆき来き、出入りに、顔見知りだから、声を掛けて、︵いつ見ても、好ごき容りょ色うなや、ははは。︶と空そら笑いをやったとお思い、︵非業の死とはいうけれど、根は身の行いでござりますのう。︶とじろりと二人を見ると、お京さん、御母堂だよ、いいかい。怪我にも真似なんかなさんなよ。即時、好ごき容りょ色うな頤あごを打ぶつけるようにしゃくって、︵はい、さようでござります、のう。︶と云うが疾はやいか、背中の子。﹂
辻町は、時に、まつげの深いお米と顔を見合せた。
﹁その日は、当こち寺らへお参りに来がけだったのでね、……お京さん、磴いしだんが高いから半はん纏てんおんぶでなしに、浅黄鹿の子の紐でおぶっていた。背中へ、べっかっこで、︵ばあ。︶というと、カタカタと薄歯の音を立てて家うちン中へ入ったろう。私が後うわ妻なりに赤くなった。
負おぶっていたのが、何を隠そう、ここに好容色で立っている、さて、久しぶりでお目にかかります。お前さんだ、お米坊――二ふた歳つ、いや、三つだったか。かぞえ年。﹂
﹁かぞえ年……﹂
﹁ああ、そうか。﹂
﹁おじさんの家の焼けた年、お産間近に、お母っかさんが、あの、火事場へ飛出したもんですから、そのせいですって……私には痣あざが。﹂
睫まつ毛げがふるえる。辻町は、ハッとしたように、ふと肩をすくめた。
﹁あら、うっかり、おじさんだと思って、つい。……真まっ紅かでしたわ、おとなになって今じゃ薄うっすりとただ青いだけですの。﹂
おじさんは目を俯ふせながら、わざと見まもったようにこういった。
﹁見えやしない、なにもないじゃないか、どこなのだね。﹂
﹁知らない。﹂
﹁まあさ。﹂
﹁乳の少し傍わきのところ。﹂
﹁きれいだな、眉毛を一つ剃そった痕あとか、雪間の若菜……とでも言っていないと――父がなくなって帰ったけれど、私が一度無理に東京へ出ていた留守です。私の家うちのために、お京さんに火事場を踏ませて申訳がないよ。――ところで、その嬰あか児んぼが、今お見受け申すお姿となったから、もうかれこれ三十年。……だもの、記おぼ憶えも何も朧おぼ々ろおぼろとした中に、その悲しいうつくしい人の姿に薄明りがさして見える。遠くなったり、近くなったり、途中で消えたり、目先へ出たり――こっちも、とぼとぼと死場所を探していたんだから、どうも人目が邪魔になる。さきでも目障りになったろう。やがて夜中の三時過ぎ、天守下の坂は長いからね、坂の途中で見失ったが、見失った時の後姿を一番はっきりと覚えている。だから、その人が淵で死んだとすると、一いっ旦たん町へ下りて、もう一度、坂を引ひっ返かえした事になるんだね。
ただし、そういった処で、あくる朝、町内の箔屋へ引取った身投げの娘が、果して昨ゆう夜べ私が見た人と同じだかどうだか、実の処は分りません……それは今でも分りはしない。堀端では、前後一度だって、横顔の鼻筋だって、見えないばかりか、解りもしない。が、朝、お京さんに聞いたばかりで、すぐ、ああ、それだと思ったのも、おなじ死ぬ気の、気で感じたのであろうと思う……
と、お京さんが、むこうの後うわ妻なりの目をそらして、格子を入った。おぶさったお前さんが、それ、今のべっかっこで、妙な顔……﹂
﹁ええ、ほほほ。﹂
とお米は軽く咲えま容いして、片袖を胸へあてる。
﹁お京さん、いきなり内の祖ば母あさんの背中を一つトンと敲たたいたと思うと、鉄てつ鍋なべの蓋ふたを取って覗のぞいたっけ、勢いきおいのよくない湯気が上る。﹂
お米は軽く鬢びんを撫なでた。
﹁ちょろちょろと燃えてる、竈かまどの薪たき木ぎ、その火だがね、何だか身を投げた女ひとをあぶって暖めているような気がして、消えぎえにそこへ、袖そで褄づまを縺もつれて倒れた、ぐっしょり濡れた髪と、真白な顔が見えて、まるでそれがね、向う門かどに立っている後うわ妻なりに、はかない恋をせかれて、五年前に、おなじ淵に身を投げた、優しい姉さんのようにも思われた。余程どうかしていたんだね。
半壊れの車井戸が、すぐ傍そばで、底の方に、ばたん、と寂しい雫しずくの音。
ざらざらと水が響くと、
――身投げだ――
――別嬪 だ――
――身投げだ――
――
――身投げだ――
と戸おも外てを喚わめいて人が駆けた。
この騒ぎは――さあ、それから多しば日らく、四方、隣国、八方へ、大波を打ったろうが、
――三年の間、かたい慎み――
だッてね、お京さんが、その女ひとの事については、当分、口へ出してうわささえしなければ、また私にも、話さえさせなかったよ。
――おなじ桜に風だもの、兄さんを誘いに来ると悪いから――
その晩、おなじ千羽ヶ淵へ、ずぶずぶの夥なか間まだったのに、なまじ死にはぐれると、今さら気味が悪くなって、町をうろつくにも、山の手の辻へ廻って、箔屋の前は通らなかった。……
この土地の新聞一ひと種いろ、買っては読めない境遇だったし、新聞社の掲示板の前へ立つにも、土地は狭い、人目に立つ、死出三さん途ずともいう処を、一所にった身から体だだけに、自分から気が怯ひけて、避よけるように、避けるように、世間のうわさに遠ざかったから、花の散ったのは、雨か、嵐か、人に礫つぶてを打たれたか、邪じゃ慳けんに枝を折られたか。今もって、取留めた、悉くわしい事は知らないんだが、それも、もう三十年。
……お米さん、私は、おなじその年の八月――ここいらはまだ、月おくれだね、盂蘭盆が過ぎてから、いつも大好きな赤蜻蛉の飛ぶ時分、道があいて、東京へ立てたんだが。――
――ああ、そうか。﹂
辻町は、息を入れると、石に腰をずらして、ハタと軽く膝をたたいた。
三
その時、外がい套とうの袖にコトンと動いた、石の上の提ちょ灯うちんの面つらは、またおかしい。いや、おかしくない、大空の雲を淡く透すかして蒼あお白じろい。
﹁……さて、これだが、手向けるとか、供えるとか、お米坊のいう――誰かさんは――﹂
﹁ええ、そうなの。﹂
と、小菊と坊さん花をちょっと囲って、お米は静しずかに頷うなずいた。
﹁その嬰あか児んぼが、串じょ戯うだんにも、心中の仕損いなどという。――いずれ、あの、いけずな御母堂から、いつかその前後の事を聞かされて、それで知っているんだね。
不思議な、怪しい、縁だなあ。――花あかりに、消えて行った可哀相な人の墓はいかにも、この燈籠寺にあるんだよ。
若気のいたり。……﹂
辻町は、額をおさえて、提灯に俯うつ向むいて、
﹁何と思ったか、東京へ――出発間際、人目を忍んで……というと悪く色気があります。何、こそこそと、鼠あるきに、行あん燈どん形なりの小ちいさな切き籠り燈この、就なか中んずく、安価なのを一ひと枚つ細腕で引いて、梯はし子ごだ段んの片暗がりを忍ぶように、この磴いしだんを隅の方から上あがって来た。胸も、息も、どきどきしながら。
ゆかただか、羅うすものだか、女おみ郎なえ花し、桔きき梗ょう、萩、それとも薄すすきか、淡うす彩ざい色しきの燈籠より、美しく寂しかろう、白露に雫しずくをしそうな、その女ひとの姿に供える気です。
中段さ、ちょうど今居る。
しかるに、どうだい。お米坊は洒しゃ落れにも私を、薄情だというけれど、人間の薄情より三十年の月日は情がない。この提灯でいうのじゃないが、燈台下暗しで、とぼんとして気がつかなかった。申訳より、面めん目ぼくがないくらいだ。
――すまして饒しゃ舌べって可いいか知らん、その時は、このもみじが、青葉で真まっ黒くろだった下へ来て、上へ墓地を見ると、向うの峯をぼッと、霧にして、木曾のははき木だね、ここじゃ、見えない。が、有名な高燈籠が榎えのきの梢こずえに灯ともれている……葉と葉をくぐって、燈ひの影が露を誘って、ちらちらと樹を伝うのが、長くかかって、幻の藤の総を、すっと靡なびかしたように仰がれる。絵の模様は見えないが、まるで、その高燈籠の宙の袖を、その人の姿のように思って、うっかりとして立った。
――ああ、呆れた――
目の前に、白いものと思ったっけ、山門を
――身投げに逢いに来ましたね――
言う事も言う事さ、誰だと思います。御母堂さ。それなら、言いそうな事だろう。いきなり、がんと撲くらわされたから、おじさんの小僧、目をまるくして胆きもを潰つぶした。そうだろう、当の御親類の墓地へ、といっては、ついぞ、つけとどけ、盆のお義理なんぞに出向いた事のない奴やつが、﹂
辻町は提灯を押えながら、
﹁酒買い狸が途とま惑どいをしたように、燈籠をぶら下げて立っているんだ。
いう事が捷すば早やいよ、お京さん、そう、のっけにやられたんじゃ、事実、親類へ供えに来たものにした処で、そうとはいえない。
――初路さんのお墓は――
いかにも、若い、優しい、が、何だか、弱々とした、身を投げた女の名だけは、いつか聞いていた。
――お墓の場所は知っていますか――
知るもんですか。お京さんが、崖で夜露に辷すべる処へ、石ころ道が切きっ立たてで危いから、そんなにとぼついているんじゃ怪我をする。お寺へ預けて、昼間あらためて、お参りを、そうなさい、という。こっちはだね。日ひな中かのこのこ出られますか。何、志はそれで済むからこの石の上へ置いたなり帰ろうと、降参に及ぶとね、犬猫が踏んでも、きれいなお精しょ霊うりょうが身震いをするだろう。――とにかく、お寺まで、と云って、お京さん、今度は片かた褄づまをきりりと端はし折ょった。
こっちもその要心から、わざと夜になって出掛けたのに、今頃まで、何をしていたろう。︵遊んでいた。世の中の煩うるささがなくて寺は涼しい。裏縁に引いた山清水に……西すい瓜かは驕おごりだ、和尚さん、小僧には内ない証しょらしく冷して置いた、紫あじ陽さ花いの影の映る、青い心とこ太ろてんをつるつる突出して、芥から子しを利かして、冷い涙を流しながら、見た処三百ばかりの墓燈籠と、草葉の影に九十九ばかり、お精霊の幻を見て涼んでいた、その中に初路さんの姿も。︶と、お京さん、好すきなお転婆をいって、山門を入った勢いきおいだからね。……その勢だから……向った本堂の横式台、あの高い処に、晩おそ出での参さん詣けいを待って、お納なっ所しょが、盆礼、お返しのしるしと、紅白の麻糸を三宝に積んで、小机を控えた前へ。どうです、私が引ひっ込こむもんだから、お京さん、引取った切き籠り燈こをツイと出すと、
――この春、身を投げた、お嬢さんに。……心中を仕損った、この人の、こころざし――
――それ、紅い糸を持って来た。縁結びに――白いのが好 かったかしら、……あいては幻……
と頬をかすられて、私はこの中段まで転げ落ちた。ちと大おお袈げ裟さだがね、遠くの暗い海の上で、稲妻がしていたよ。その夜、途中からえらい降りで。﹂……
……………………
……………………
……………………
辻町は夕立を懐おもうごとく、しばらく息を沈めたが、やがて、ちょっと語調をかえて云った。
﹁お米坊、そんな、こんな、お母さんに聞いていたのかね。﹂
﹁ええ、お嫁に行ってから、あと……﹂
﹁そうだろうな、あの気象でも、極きまりどころは整ちゃ然んとしている。嫁入前の若い娘に、余り聞かせる事じゃないから。
――さて、問題の提灯だ。成程、その人に、切き籠り燈このかわりに供えると、思ったのはもっともだ。が、そんな、実は、しおらしいとか、心入れ、とかいう奇特なんじゃなかったよ。懺ざん悔げをするがね、実は我ながら、とぼけていて、ひとりでおかしいくらいなんだよ。月夜に提灯が贅ぜい沢たくなら、真まっ昼ぴる間まぶらで提げたのは、何だろう、余よっ程ぽど半間さ。
というのがね、先さっ刻きお前さんは、連つれにはぐれた観光団が、鼻の下を伸ばして、うっかり見物している間抜けに附合う気で、黙ってついていてくれたけれど、来がけに坂下の小路中なかで、あの提灯屋の前へ、私がぼんやり突つっ立たったろう。
場所も方角も、まるで違うけれども、むかし小学校の時分、学校近所の……あすこは大川近ぢかの窪くぼ地ちだが、寺があって、その門前に、店の暗い提灯屋があった。髯ひげのある親おや仁じが、紺の筒袖を、斑むら々むらの胡ごふ粉んだらけ。腰衣のような幅広の前まえ掛かけしたのが、泥絵具だらけ、青や、紅あかや、そのまま転がったら、楽らく書がきの獅し子しになりそうで、牡ぼた丹んをこってりと刷は毛けで彩えどる。緋ひも桃色に颯さっと流して、ぼかす手際が鮮あざ彩やかです。それから鯉の滝登り。八橋一面の杜かき若つばたは、風呂屋へ進上の祝だろう。そんな比び羅ら絵えを、のしかかって描いているのが、嬉しくて、面白くって、絵具を解き溜ためた大おお摺すり鉢ばちへ、鞠まり子この宿しゅくじゃないけれど、薯と蕷ろ汁ろとなって溶込むように……学校の帰かえ途りにはその軒下へ、いつまでも立って見ていた事を思出した。時雨も霙みぞれも知っている。夏は学校が休やすみです。桜の春、また雪の時なんぞは、その緋牡丹の燃えた事、冴えた事、葉にも苔こけにも、パッパッと惜おし気げなく金銀の箔はくを使うのが、御殿の廊下へ日の射さしたように輝いた。そうした時は、家うちへ帰る途中の、大川の橋に、綺麗な牡丹が咲いたっけ。
先さっ刻きのあの提灯屋は、絵比羅も何にも描いてはいない。番傘の白いのを日ひな向たへ並べていたんだが、つい、その昔を思出して、あんまり店を覗のぞいたので、ただじゃ出て来にくくなったもんだから、観光団お買上げさ。
――ご紋は――
――牡丹――
――牡丹――
何、描かせては手間がとれる……第一実用むきの気といっては、いささかもなかったからね。これは、傘からかさでもよかったよ。パッと拡げて、菊を持ったお米さんに、背うし後ろから差掛けて登れば可よかった。﹂
﹁どうぞ。……女万歳の広告に。﹂
﹁仰せのとおり。――いや、串じょ戯うだんはよして。いまの並べた傘の小間隙すき間まへ、柳を透いて日のさすのが、銀の色しき紙しを拡げたような処へ、お前さんのその花についていたろう、蝶が二つ、あの店へ翔たち込こんで、傘の上へ舞ったのが、雪の牡丹へ、ちらちらと箔はくが散浮く……
そのままに見えたと思った時も――箔――すぐこの寺に墓のある――同町内に、ぐっしょりと濡れた姿を儚はかなく引取った――箔屋――にも気がつかなかった。薄情とは言われまいが、世帯の苦労に、朝夕は、細く刻んでも、日は遠い。年月が余り隔へだたると、目めの前まえの菊日和も、遠い花の霞になって、夢の朧おぼろが消えて行ゆく。
が、あらためて、澄まない気がする。御母堂の奥津城を展じたあとで。……ずっと離れているといいんだがな。近いと、どうも、この年でも極きまりが悪い。きっと冷かすぜ、石塔の下から、クックッ、カラカラとまず笑う。﹂
﹁こわい、おじさん。お母っかさんだがいいけれど。……私がついていますから、冷かしはしませんから、よく、お拝みなさいましよね。
――︵糸塚︶さん。﹂
﹁糸塚……初路さんか。糸塚は姓なのかね。﹂
﹁いいえ、あら、そう……おじさんは、ご存じないわね。
――糸塚さん、糸巻塚ともいうんですって。
この谷を一つ隔てた、向うの山の中途に、鬼きし子も母じ神ん様のお寺がありましょう。﹂
﹁ああ、柘ざく榴ろで寺ら――真しん成じょ寺うじ。﹂
﹁ちょっとごめんなさい。私も端の方へ、少し休んで。……いいえ、構うもんですか。落葉といっても錦にしきのようで、勿体ないほどですわ。あの柘榴の花の散った中へ、鬼子母神様の雲だといって、草履を脱いで坐ったのも、つい近頃のようですもの。お母さんにつれられて。白い雲、青い雲、紫の雲は何様でしょう。鬼子母神様は紅あかい雲のように思われますね。﹂
墓所は直じき近いのに、面影を遥はるかに偲しのんで、母親を想うか、お米は恍うっ惚とりして云った。
――聞くとともに、辻町は、その壮年を三四年、相州逗ず子しに過ごした時、新婚の渠かれの妻女の、病厄のためにまさに絶えなんとした生命を、医療もそれよ。まさしく観世音の大慈の利りや験くに生きたことを忘れない。南海霊山の岩いわ殿との寺じ、奥の御みど堂うの裏山に、一ひと処ところ咲満ちて、春たけなわな白びゃ光っこうに、奇くしき薫かおりの漲みなぎった紫の菫すみれの中に、白い山兎の飛ぶのを視みつつ、病中の人を念じたのを、この時まざまざと、目前の雲に視て、輝く霊れい巌げんの台に対し、さしうつむくまで、心しん衷ちゅうに、恭礼黙拝したのである。――
お米の横顔さえ、たけて、
﹁柘榴寺、ね、おじさん、あすこの寺内に、初代元祖、友禅の墓がありましょう。一頃は訪とう人どころか、苔こけの下に土も枯れ、水も涸かわいていたんですが、近ちか年ごろ他国の人たちが方々から尋ねて来て、世評が高いもんですから、記念碑が新しく建ちましてね、名所のようになりました。それでね、ここのお寺でも、新規に、初路さんの、やっぱり記念碑を建てる事になったんです。﹂
﹁ははあ、和尚さん、娑しゃ婆ばっ気けだな、人寄せに、黒枠で……と身を投げた人だから、薄うす彩ざい色しき水絵具の立看板。﹂
﹁黙って。……いいえ、お上人よりか、檀家の有志、県の観光会の表向きの仕事なんです。お寺は地所を貸すんです。﹂
﹁葬った土とは別なんだね。﹂
﹁ええ、それで、糸塚、糸巻塚、どっちにしようかっていってるところ。﹂
﹁どっちにしろ、友禅の︵染︶に対する︵糸︶なんだろう。﹂
﹁そんな、ただ思いつき、趣向ですか、そんなんじゃありません。あの方、はんけちの工場へ通って、縫取をしていらしってさ、それが原も因とで、あんな事になったんですもの。糸も紅べに糸いとからですわ。﹂
﹁糸も紅糸……はんけちの工場へ通って、縫取をして、それが原も因と?……﹂
﹁まあ、何にも、ご存じない。﹂
﹁怪我にも心中だなどという、そういっちゃ、しかし済まないけれども、何にも知らない。おなじ写真を並んで取っても、大勢の中だと、いつとなく、生別れ、死別れ、年が経たつと、それっきりになる事もあるからね。﹂
辻町は向直っていったのである。
﹁蟹は甲らに似せて穴を掘る……も可おか訝しいかな。おなじ穴の狸……飛んでもない。一升入の瓢ひさごは一升だけ、何しろ、当推量も左前だ。誰もお極きまりの貧のくるしみからだと思っていたよ。﹂
また、事実そうであった。
﹁まあ、そうですか、いうのもお可哀相。あの方、それは、おくらしに賃仕事をなすったでしょう。けれど、もと、千五百石のお邸やしきの女じょさん。﹂
﹁おお、ざっとお姫様だ。ああ、惜しい事をした。あの晩一緒に死んでおけば、今頃はうまれかわって、小いろの一つも持った果報な男になったろう。……糸も、紅糸は聞いても床しい。﹂
﹁それどころじゃありません。その糸から起った事です。千五百石の女ですが、初路さん、お妾めか腹けばらだったんですって。それでも一粒種、いい月日の下もとに、生れなすったんですけれど、廃藩以来、ほどなく、お邸は退転、御両親も皆あの世。お部屋方の遠縁へ引取られなさいましたのが、いま、お話のありました箔屋なのです。時節がら、箔屋さんも暮しが安ら易くでないために、工こう場ば通いをなさいました。お邸育ちのお慰みから、縮ちり緬めん細工もお上手だし、お針は利きます。すぐ第一等の女工さんでごく上等のものばかり、はんけちと云って、薄色もありましょうが、おもに白絹へ、蝶花を綺麗に刺しし繍ゅうをするんですが、いい品は、国産の誉れの一つで、内地より、外国へ高級品で出たんですって。﹂
﹁なるほど。﹂
四
あれあれ見たか
あれ見たか
…………………
あれ見たか
…………………
﹁あれあれ見たか、あれ見たか、二つ蜻とん蛉ぼが草の葉に、かやつり草に宿かりて……その唄を、工場で唱いましたってさ。唄が初路さんを殺したんです。
細い、かやつり草を、青く縁へとって、その片端、はんけちの雪のような地じへ赤蜻蛉を二つ。﹂
お米の二つ折る指がしなって、内うち端はに襟をおさえたのである。
﹁一ツずつ、蜻蛉が別ならよかったんでしょうし、外の人の考かん案がえで、あの方、ただ刺繍だけなら、何でもなかったと言うんです。どの道、うつくしいのと、仕事の上手なのに、嫉ねたみ猜そねみから起った事です。何につけ、かにつけ、ゆがみ曲りに難癖をつけないではおきません。処を図案まで、あの方がなさいました。何から思いつきなすったんだか。――その赤蜻蛉の刺繍が、大層な評判だし、分けて輸出さきの西洋の気受けが、それは、凄すごい勢いきおいで、どしどし註文が来ました処から、外国まで、恥を曝さらすんだって、羽をみんな、手足にして、紅いのを縮緬のように唄い囃はやして、身肌を見せたと、騒ぐんでしょう。﹂
︵巻初に記して一いっ粲さんに供した俗謡には、二三行、
…………………
…………………
…………………
脱落があるらしい、お米が口くし誦ょうを憚はばかったからである。︶
﹁いやですわね、おじさん、蝶々や、蜻蛉は、あれは衣きも服のを着ているでしょうか。
――人目しのぶと思えども
羽はうすもの隠されぬ――
羽はうすもの隠されぬ――
それも一つならまだしもだけれど、一つの尾に一つが続いて、すっと、あの、羽を八つ、静かに銀糸で縫ったんです、寝ていやしません、飛んでいるんですわね。ええ、それをですわ、
――世間、いなずま目が光る――
――恥を知らぬか、恥じないか――と皆みんなでわあわあ、さも初路さんが、そんな姿絵を、紅い毛、碧あおい目にまで、露あら呈わに見せて、お宝を儲けたように、唱い立てられて見た日には、内気な、優しい、上品な、着ものの上から触られても、毒蛇の牙はが形たが膚はだに沁しみる……雪に咲いた、白玉椿のお人柄、耳たぶの赤くなる、もうそれが、砕けるのです、散るのです。
遺かき書おきにも、あったそうです。――ああ、恥かしいと思ったばかりに――﹂
﹁察しられる。思いやられる。お前さんも聞いていようか。むかし、正しい武家の女にょ性しょうたちは、拷ごう問もんの笞しもと、火水の責にも、断じて口を開かない時、ただ、衣きぬを褫うばう、肌着を剥はぐ、裸体にするというとともに、直ちに罪に落ちたというんだ。――そこへ掛けると……﹂
辻町は、かくも心弱い人のために、西スペ班イ牙ンセビイラの煙草工場のお転婆を羨うらやんだ。
同時に、お米の母を思った。お京がもしその場に処したら、対あい手ての工女の顔に象しょ棋うぎ盤ばんの目を切るかわりに、酢ながら心とこ太ろてんを打ぶちまけたろう。
﹁そこへ掛けると平民の子はね。﹂
辻町は、うっかりいった。
﹁だって、平民だって、人の前で。﹂
﹁いいえ。﹂
﹁ええ、どうせ私は平民の子ですから。﹂
辻町は、その乳のわきの、青い若菜を、ふと思って、覚えず肩を縮めたのである。
﹁あやまった。いや、しかし、千五百石の女、昔ものがたり以上に、あわれにはかない。そうして清らかだ。﹂
﹁中将姫のようでしたって、白羽二重の上へ辷すべると、あの方、白い指が消えました。露が光るように、針の尖さきを伝って、薄い胸から紅い糸が揺れて染まって、また縢かがって、銀の糸がきらきらと、何枚か、幾つの蜻蛉が、すいすいと浮いて写る。――︵私が傍そばに見ていました︶って、鼻ひしゃげのその頃の工女が、茄な子すの古漬のような口を開けて、老いい年で話すんです。その女だって、その臭い口で声を張って唱ったんだと思うと、聞いていて、口く惜やしい、睨にらんでやりたいようですわ。――でも自害をなさいました、後一年ばかり、一ひと時ころはこの土地で湯屋でも道端でも唄って、お気の弱いのをたっとむまでも、初路さんの刺繍を恥かしい事にいいましたとさ。
――あれあれ見たか、あれ見たか――、銀の羽がそのまま手足で、二つ蜻蛉が何とかですもの。﹂
﹁一体また二つの蜻蛉がなぜ変だろう。見みき聞きが狭い、知らないんだよ。土地の人は――そういう私だって、近頃まで、つい気がつかずに居たんだがね。
手紙のついでで知っておいでだろうが、私の住んでいる処と、京橋の築地までは、そうだね、ここから、ずっと見て、向うの海まではあるだろう。今度、当こち地らへ来がけに、歯が疼いたんで、馴なじ染みの歯はい科し医ゃへ行ったとお思い。その築地は、というと、用たしで、歯科医は大廻りに赤坂なんだよ。途中、四谷新宿へ突抜けの麹こう町じまちの大通りから三みや宅けざ坂か、日比谷、……銀座へ出る……歌舞伎座の前を真まっ直すぐに、目めあ的ての明あか石しち町ょうまでと饒しゃ舌べってもいい加減の間、町充いっ満ぱい、屋根一面、上うえ下した、左右、縦も横も、微うす紅あかい光る雨に、花吹雪を浮かせたように、羽が透き、身が染って、数限りもない赤蜻蛉の、大流れを漲みなぎらして飛ぶのが、行違ったり、卍まんじに舞乱れたりするんじゃあない、上へ斜ななめ、下へ斜、右へ斜、左へ斜といった形で、おなじ方向を真北へさして、見当は浅草、千せん住じゅ、それから先はどこまでだか、ほとんど想像にも及びません。――明石町は昼の不しら知ぬ火い、隅田川の水の影が映ったよ。
で、急いで明石町から引ひっ返かえして、赤坂の方へ向うと、また、おなじように飛んでいる。群れて行ゆく。歯はい科し医ゃで、椅子に掛けた。窓の外を、この時は、幾分か、その数はまばらに見えたが、それでも、千や二千じゃない、二階の窓をすれすれの処に向う家の廂ひさし見当、ちょうど電信、電話線の高さを飛ぶ。それより、高くもない。ずっと低くもない。どれも、おなじくらいな空を通るんだがね、計り知られないその大群は、層を厚く、密度を濃こまやかにしたのじゃなくって、薄く透通る。その一つ一つの薄い羽のようにさ。
何の事はない、見た処、東京の低い空を、淡と紅き一面の紗しゃを張って、銀の霞に包んだようだ。聳そび立えたった、洋館、高い林、森なぞは、さながら、夕日の紅べにを巻いた白浪の上の巌いわの島と云った態かたちだ。
つい口へ出た。︵蜻蛉が大層飛んでいますね。︶歯はい医し師ゃが︵はあ、早朝からですよ。︶と云ったがね。その時は四時過ぎです。
帰かえ途りに、赤坂見附で、同じことを、運転手に云うと、︵今は少くなりました。こんなもんじゃありません。今朝六時頃、この見附を、客人で通りました時は、上下、左右すれ違うとサワサワと音がします。青空、青山、正面の雪の富士山の雲の下まで裾野を蔽おおうといいます紫げ雲ん英げのように、いっぱいです。赤蜻蛉に乗せられて、車が浮いて困ってしまいました。こんな経験ははじめてです。︶と更あらためて吃びっ驚くりしたように言うんだね。私も、その日ほど夥おびただしいのは始めてだったけれど、赤蜻蛉の群の一日都会に漲みなぎるのは、秋、おなじ頃、ほとんど毎年と云ってもいい。子供のうちから大好きなんだけれど、これに気のついたのは、――うっかりじゃないか――この八九年以来なんだが、月はかわりません。きっと十月、中の十日から二は十つ日かの間、三年つづいて十七日というのを、手帳につけて覚えています。季節、天気というものは、そんなに模様の変らないものと見えて、いつの年も秋の長雨、しけつづき、また大あらしのあった翌あく朝るあさ、からりと、嘘のように青空になると、待ってたように、しずめたり浮いたり、風に、すらすらすらすらと、薄い紅あかい霧をほぐして通る。
――この辺は、どうだろう。﹂
﹁え。﹂
話にききとれていたせいではあるまい、お米の顔は緋もみ葉じの蔭にほんのりしていた。
﹁……もう晩おそいんでしょう、今日は一つも見えませんわ。前の月の命日に参おま詣いりをしました時、山門を出て……あら、このいい日和にむら雨かと思いました。赤蜻蛉の羽がまるで銀の雨の降るように見えたんです。﹂
﹁一ツずつかね。﹂
﹁ひとツずつ?﹂
﹁ニツずつではなかったかい。﹂
﹁さあ、それはどうですか、ちょっと私気がつきません。﹂
﹁気がつくまい、そうだろう。それを言いたかったんだ、いまの蜻蛉の群の話は。それがね、残らず、二つだよ、比翼なんだよ。その刺しし繍ゅうの姿と、おなじに、これを見て土地の人は、初路さんを殺したように、どんな唄を唱うだろう。
みだらだの、風儀を乱すの、恥を曝さらすのといって、どうする気だろう。浪で洗えますか、火で焼けますか、地震だって壊せやしない。天を蔽おおい地に漲みなぎる、といった処で、颶はや風てがあれば消えるだろう。儚はかないものではあるけれども――ああ、その儚さを一人で身に受けたのは初路さんだね。﹂
﹁ええ、ですから、ですから、おじさん、そのお慰めかたがた……今では時世がかわりました。供養のために、初路さんの手てわ技ざを称ほめ賛たたえようと、それで、﹁糸塚﹂という記念の碑を。﹂
﹁…………﹂
﹁もう、出来かかっているんです。図取は新聞にも出ていました。台石の上へ、見事な白い石で大きな糸枠を据えるんです。刻んだ糸を巻いて、丹にで染めるんだっていうんですわ。﹂
﹁そこで、﹁友禅の碑﹂と、対ついするのか。しかし、いや、とにかく、悪い事ではない。場所は、位置は。﹂
﹁さあ、行って見ましょう。半分うえ出来ているようです。門を入って、直きの場所です。﹂
辻町は、あの、盂蘭盆の切き籠り燈こに対する、寺の会釈を伝えて、お京が渠かれに戯れた紅べに糸いとを思って、ものに手繰られるように、提灯とともにふらりと立った。
五
﹁おばけの……蜻蛉?……おじさん。﹂
﹁何、そんなものの居よう筈はずはない。﹂
とさも落着いたらしく、声を沈めた。その癖、たった今、思わず、﹁あ!﹂といったのは誰だろう。
いま辻町は、蒼そう然ぜんとして苔こけ蒸むした一基の石碑を片手で抱いて――いや、抱くなどというのは憚はばかろう――霜より冷くっても、千五百石の女じょの、石の躯むくろともいうべきものに手を添えているのである。ただし、その上に、沈んだ藤色のお米の羽織が袖をすんなりと墓のなりにかかった、が、織だか、地紋だか、影絵のように細い柳の葉に、菊らしいのを薄色に染出したのが、白い山土に敷乱れた、枯草の中に咲残った、一ひと叢むらの嫁菜の花と、入いり交まぜに、空を蔽うた雑樹を洩もれる日光に、幻の影を籠こめた、墓はさながら、梢こずえを落ちた、うらがなしい綺麗な錦きん紗しゃの燈籠の、うつむき伏した風情がある。
ここは、切きっ立たてというほどではないが、巌いわ組ぐみの径みちが嶮けわしく、砕いた薬やげ研んの底を上あがる、涸かれた滝の痕あとに似て、草土手の小高い処で、々るいるいと墓が並び、傾き、また倒れたのがある。
上り切った卵塔の一劃、高い処に、裏山の峯を抽ぬいて繁ったのが、例の高燈籠の大榎で、巌を縫って蟠わだかまった根に寄って、先祖代々とともに、お米のお母っかさんが、ぱっと目を開きそうに眠っている。そこも蔭で、薄暗い。
それ、持参の昼提灯、土の下からさぞ、半間だと罵ばと倒うしようが、白く据すわって、ぼっと包んだ線香の煙が靡なびいて、裸蝋ろう燭そくの灯が、静寂な風に、ちらちらする。
榎を潜くぐった彼かな方たの崖は、すぐに、大傾斜の窪地になって、山の裙すそまで、寺の裏庭を取りまわして一ひと谷たに一面の卵塔である。
初路の墓は、お京のと相向って、やや斜下、左の草土手の処にあった。
見たまえ――お米が外がい套とうを折畳みにして袖に取って、背うし後ろに立添った、前まえ踞こごみに、辻町は手をその石碑にかけた羽織の、裏の媚なまめかしい中へ、さし入れた。手首に冴えて淡うす藍あいが映える。片手には、頑丈な、錆さびの出た、木きば鋏さみを構えている。
この大おお剪ばさ刀みが、もし空の樹の枝へでも引ひっ掛かかっていたのだと、うっかり手にはしなかったろう。盂蘭盆の夜が更けて、燈籠が消えた時のように、羽織で包んだ初路の墓は、あわれにうつくしく、且つあたりを籠めて、陰々として、鬼気が籠こもるのであったから。
鋏は落ちていた。これは、寺男の爺やまじりに、三人の日ひよ傭うと取りが、ものに驚き、泡を食って、遁にげ出だすのに、投出したものであった。
その次第はこうである。
はじめ二人は、磴いしだんから、山門を入ると、広い山内、鐘楼なし。松を控えた墓地の入口の、鎖とざさない木戸に近く、八分出来という石の塚を視みた。台石に特に意匠はない、つい通りの巌組一丈余りの上に、誂あつらえの枠を置いた。が、あの、くるくると糸を廻す棒は見えぬ。くり抜いた跡はあるから、これには何か考案があるらしい。お米もそれはまだ知らなかった。枠の四つの柄えは、その半面に対しても幸さいわいに鼎かなえに似ない。鼎に似ると、烹にるも烙やくも、いずれ繊かよ楚わい人のために見る目も忍びないであろう処を、あたかも好よし、玉を捧ぐる白しろ珊さん瑚ごの滑なめらかなる枝に見えた。
﹁かえりに、ゆっくり拝見しよう。﹂
その母親の展墓である。自分からは急がすのをためらった案内者が、
﹁道が悪いんですから、気をつけてね。﹂
わあ、わっ、わっ、わっ、おう、ふうと、鼻呼い吸きを吹いた面つらを並べ、手を挙げ、胸を敲たたき、拳こぶしを振りなど、なだれを打ち、足ただらを踏んで、一ひと時いきに四人、摺すれ違ちがいに木戸口へ、茶色になって湧わいて出た。
その声も跫あし音おとも、響くと、もろともに、落ちかかったばかりである。
不意に打ぶつかりそうなのを、軽く身を抜いて路を避けた、お米の顔に、鼻をまともに突向けた、先さき頭て第一番の爺じじいが、面つらも、脛すねも、一縮みの皺しわの中から、ニンガリと変に笑ったと思うと、
﹁出ただええ、幽霊だあ。﹂
幽霊。
﹁おッさん、蛇、蝮まむし?﹂
お米は――幽霊と聞いたのに――ちょっと眉を顰ひそめて、蛇、蝮を憂きづ慮かった。
﹁そんげえなもんじゃねえだア。﹂
いかにも、そんげえなものには怯おびえまい、面魂、印しる半しば纏んてんも交って、布子のどんつく、半はん股もも引ひき、空から脛ずねが入乱れ、屈くっ竟きょうな日傭取が、早く、糸塚の前を摺抜けて、松の下に、ごしゃごしゃとかたまった中から、寺爺やの白い眉の、びくびくと動くが見えて、
﹁蜻蛉だあ。﹂
﹁幽霊蜻蛉ですだアい。﹂
と、冬の麦むぎ稈わら帽ぼうを被かぶった、若いのが声を掛けた。
﹁蜻蛉なら、幽霊だって。﹂
お米は、莞にっ爾こりして坂上りに、衣えも紋んのやや乱れた、浅黄を雪に透く胸を、身繕いもせず、そのまま、見返りもしないで木戸を入った。
巌いわは鋭い。踏上る径みちは嶮けわしい。が、お米の双の爪さきは、白い蝶々に、おじさんを載せて、高く導く。
﹁何だい、今のは、あれは。﹂
﹁久助って、寺爺やです。卵塔場で働いていて、休みのお茶のついでに、私をからかったんでしょう。子供だと思っている。おじさんがいらっしゃるのに、見さかいがない。馬鹿だよ。﹂
﹁若いお前さんと、一緒にからかわれたのは嬉しいがね、威おどかすにしても、寺で幽霊をいう奴があるものか。それも蜻蛉の幽霊。﹂
﹁蛇や、蝮でさえなければ、蜥とか蜴げが化けたって、そんなに可こ恐わいもんですか。﹂
﹁居るかい。﹂
﹁時々。﹂
﹁居るだろうな。﹂
﹁でも、この時節。﹂
﹁よし、私だって驚かない。しかし、何だろう、ああ、そうか。おはぐろとんぼ、黒とんぼ。また、何とかいったっけ。漆のような真まっ黒くろな羽のひらひらする、繊ほそく青い、たしか河原蜻蛉とも云ったと思うが、あの事じゃないかね。﹂
﹁黒いのは精霊蜻蛉ともいいますわ。幽霊だなんのって、あの爺じじい。﹂
その時であった。
﹁ああ。﹂
と、お米が声を立てると、
﹁酷ひどいこと、墓を。﹂
といった。声とともに、着た羽織をすっと脱いだ、が、紐をどう解いたか、袖をどう、手の菊へ通したか、それは知らない。花野を颯さっと靡なびかした、一筋の風が藤色に通るように、早く、その墓を包んだ。
向う傾けに草へ倒して、ぐるぐる巻というよりは、がんじ搦がらみに、ひしと荒縄の汚いのを、無残にも。
﹁初路さんを、――初路さんを。﹂
これが女の碑だったのである。
﹁茣ご蓙ざにも、蓆むしろにも包まないで、まるで裸にして。﹂
と気けし色きばみつつ、且つ恥じたように耳みみ朶たぶを紅くした。
いうまじき事かも知れぬが、辻町の目にも咄とっ嵯さに印したのは同じである。台石から取って覆かえした、持扱いの荒くれた爪つま摺ずれであろう、青々と苔の蒸したのが、ところどころられて、日の隈くま幽かすかに、石肌の浮いた影を膨らませ、影をまた凹ませて、残酷に搦からめた、さながら白身の窶やつれた女を、反接緊きん縛ばくしたに異ならぬ。
推察に難かたくない。いずれかの都合で、新しい糸塚のために、ここの位置を動かして持運ぼうとしたらしい。
が、心ない仕業をどうする。――お米の羽織に、そうして、墓の姿を隠して好よかった。花やかともいえよう、ものに激した挙ふる動まいの、このしっとりした女房の人柄に似ない捷すばやい仕しぐ種さの思掛けなさを、辻町は怪しまず、さもありそうな事と思ったのは、お京の娘だからであった。こんな場に出逢っては、きっとおなじはからいをするに疑いない。そのかわり、娘と違い、落着いたもので、澄まして羽織を脱ぎ、背しょ負いあ揚げを棄て、悠然と帯を巌いわおに解いて、あらわな長なが襦じゅ袢ばんばかりになって、小袖ぐるみ墓に着せたに違いない。
何、夏なら、炎天なら何とする?……と。そういう皮肉な読おか者たには弱る、が、言わねば卑ひき怯ょうらしい、裸はだ体かになります、しからずんば、辻町が裸体にされよう。
――その墓へはまず詣でた――
引ひっ返かえして来たのであった。
辻町の何よりも早くここでしよう心は、立たち処どころに縄を切って棄てる事であった。瞬時といえども、人目に曝さらすに忍びない。行やるとなれば手伝おう、お米の手を借りて解きほどきなどするのにも、二人の目さえ当てかねる。
さしあたり、ことわりもしないで、他の労業を無にするという遠慮だが、その申訳と、渠かれ等らを納得させる手段は、酒と餅で、そんなに煩わしい事はない。手で招いても渋面の皺しわは伸びよう。また厨く裡りで心とこ太ろてんを突くような跳ちょ梁うり権ょうけんを獲得していた、檀だん越おつ夫人の嫡ちゃ女くじょがここに居るのである。
栗柿を剥むく、庖丁、小刀、そんなものを借りるのに手間ひまはかからない。
大おお剪ばさ刀みが、あたかも蝙こう蝠もりの骨のように飛んでいた。
取って構えて、ちと勝手は悪い。が、縄目は見る目に忍びないから、衣きぬを掛けたこのまま、留と南め奇きを燻たく、絵で見た伏ふせ籠ごを念じながら、もろ手を、ずかと袖裏へ。驚す破わ、ほんのりと、暖い。芬ぶんと薫った、石の肌の軟やわらかさ。
思わず、
﹁あ。﹂
と声を立てたのであった。
﹁――おばけの蜻蛉、おじさん。﹂
﹁――何そんなものの居よう筈はない。﹂
胸むな傍わきの小さな痣あざ、この青い蘚こけ、そのお米の乳のあたりへ鋏はさみが響きそうだったからである。辻町は一礼し、墓に向って、屹きっといった。
﹁お嬢さん、私の仕業が悪かったら、手を、怪我をおさせなさい。﹂
鋏は爽さわやかな音を立てた、ちちろも声せず、松風を切ったのである。
﹁やあ、塗ぬ師し屋や様、――ご新しん姐ぞ。﹂
木戸から、寺男の皺しわ面づらが、墓地下で口をあけて、もう喚わめき、冷めし草履の馴なれたもので、これは磽こうたる径みちは踏まない。草土手を踏んで横ざまに、傍そばへ来た。
続いて日ひよ傭うと取りが、おなじく木戸口へ、肩を組合って低く出た。
﹁ごめんなせえましよ、お客様。……ご機嫌よくこうやってござらっしゃる処を見ると、間まち違げえごともなかったの、何も、別条はなかっただね。﹂
﹁ところが、おっさん、少々別条があるんですよ。きみたちの仕事を、ちょっと無駄にしたぜ。一杯買おう、これです、ぶつぶつに縄を切きっ払ぱらった。﹂
﹁はい、これは、はあ、いい事をさっせえて下さりました。﹂
﹁何だか、あべこべのような挨拶だな。﹂
﹁いんね、全くいい事をなさせえました。﹂
﹁いい事をなさいましたじゃないわ、おいたわしいじゃないの、女さんがさ。﹂
﹁ご新姐、それがね、いや、この、からげ縄、畜生。﹂
そこで、踞かがんで、毛虫を踏ふみ潰つぶしたような爪さきへ近く、切れて落ちた、むすびめの節立った荒縄を手繰棄てに背うし後ろへ刎はね出だしながら、きょろきょろと樹の空を見廻した。
妙なもので、下木戸の日傭取たちも、申合せたように、揃って、踞かがんで、空を見る目が、皆動く。
﹁いい塩あん梅ばいに、幽霊蜻蛉、消えただかな。﹂
﹁一体何だね、それは。﹂
﹁もの、それがでござりますよ、お客様、この、はい、石塔を動かすにつきましてだ。﹂
﹁いずれ、あの糸塚とかいうのについての事だろうが、何かね、掘返してお骨でも。﹂
﹁いや、それはなりましねえ。記念碑発起押っぽだての、帽子、靴、洋服、袴はかま、髯ひげの生えた、ご連中さ、そのつもりであったれど、寺の和尚様、承知さっしゃりましねえだ。ものこれ、三十年経たったとこそいえ、若い女じょが埋うまってるだ。それに、久しい無縁墓だで、ことわりいう檀家もなしの、立合ってくれる人の見分もないで、と一ひと論ろっ判ぱんあった上で、土には触らねえ事になったでがす。﹂
﹁そうあるべき処だよ。﹂
﹁ところで、はい、あのさ、石いし彫ぼりの大でけえ糸枠の上へ、がっしりと、立派なお堂を据えて戸をあけたてしますだね、その中へこの……﹂
お米は着流しのお太鼓で、まことに優に立っている。
﹁おお、成仏をさっしゃるずら、しおらしい、嫁菜の花のお羽織きて、霧は紫の雲のようだ、しなしなとしてや。﹂
と、苔こけの生えたような手で撫なでた。
﹁ああ、擽くすぐったい。﹂
﹁何でがすい。﹂
と、何も知らず、久助は墓の羽織を、もう一撫で。
﹁この石塔を斎いつき込むもくろみだ。その堂がもう出来て、切組みも済ましたで、持込んで寸法をきっちり合わす段が、はい、ここはこの通り足場が悪いと、山門内うちまで運ぶについて、今日さ、この運び手間だよ。肩がわりの念入りで、丸まる太たん棒ぼうで担かつぎ出しますに。――丸太棒めら、丸太棒を押おっ立たてて、ごろうじませい、あすこにとぐろを巻いていますだ。あのさきへ矢羽根をつけると、掘立普請の斎ときが出るだね。へい、墓場の入口だ、地獄の門番……はて、飛んでもねえ、肉親のご新姐ござらっしゃる。﹂
と、泥でまぶしそうに、口の端はたを拳こぶしでおさえて、
﹁――そのさ、担ぎ出しますに、石の直じか肌はだに縄を掛けるで、藁わらなり蓆むしろなりの、花ものの草木を雪囲いにしますだね、あの骨法でなくば悪かんべいと、お客様の前めえだけんど、わし一応はいうたれども、丸太棒めら。あに、はい、墓さ苞つと入いりに及ぶもんか、手間障ざいだ。また誰も見ていねえで、構いごとねえだ、と吐こいての。
和尚様は今日は留守なり、お納なっ所しょ、小僧も、総そう斎どきに出さしった。まず大事ねえでの。はい、ぐるぐるまきのがんじがらみ、や、このしょで、転がし出した。それさ、その形かたでがすよ。わしさ屈かが腰みごしで、膝はだかって、面つらを突出す。奴やつ等ら三方からかぶさりかかって、棒を突挿そうとしたと思わっせえまし。何と、この鼻の先、奴等の目の前へ、縄目へ浮いて、羽さ弾はじいて、赤蜻蛉が二つ出た。
たった今や、それまでというものは、四人八ツの、団どん栗ぐり目まなこに、糠ぬか虫むし一疋入らなんだに、かけた縄さ下から潜くぐって石から湧わいて出たはどうしたもんだね。やあやあ、しっしっ、吹くやら、払いますやら、静じっとして赤蜻蛉が動かねえとなると、はい、時代違いで、何の気もねえ若い徒てやいも、さてこの働きに掛かかってみれば、記念碑糸塚の因縁さ、よく聞いて知ってるもんだで。
ほれ、のろのろとこっちさ寄って来るだ。あの、さきへ立って、丸太棒をついた、その手てぬ拭ぐいをだらりと首へかけた、逞たくましい男でがす。奴が、女の幽霊でねえか。出たッと、また髯ひげどのが叫ぶと、蜻蛉がひらりと動くと、かっと二つ、灸きゅうのような炎が立つ。冷い火を汗に浴びると、うら山おろしの風さ真まっ黒くろに、どっと来た、煙の中を、目が眩くらんで遁にげたでござえますでの。………
それでがすもの、ご新姐、お客様。﹂
﹁それじゃ、私たち差出た事は、叱こご言となしに済むんだね。﹂
﹁ほってもねえ、いい人ひと扶だすけして下せえましたよ。時に、はい、和尚様帰って、逢わっせえても、万々沙汰なしに頼みますだ。﹂
そこへ、丸太棒が、のっそり来た。
﹁おじい、もういいか、大丈夫かよ。﹂
﹁うむ、見せえ、大智識さ五十年の香こう染ぞめの袈け裟さより利益があっての、その、嫁菜の縮ちり緬めんの裡なかで、幽霊はもう消滅だ。﹂
﹁幽霊も大袈裟だがよ、悪く、蜻蛉に祟たたられると、瘧おこりを病むというから可おっ恐かねえです。縄をかけたら、また祟って出やしねえかな。﹂
と不精髯の布子が、ぶつぶついった。
﹁そういう口で、何で包むもの持って来ねえ。糸塚さ、女様、素すで括くくったお祟りだ、これ、敷松葉の数す寄き屋やの庭の牡丹に雪囲いをすると思えさ。﹂
﹁よし、おれが行く。﹂
と、冬の麦むぎ稈わら帽ぼうが出ようとする。
﹁ああ、ちょっと。﹂
袖を開いて、お米が留めて、
﹁そのまま、その上からお結いわえなさいな。﹂
不精髯が――どこか昔の提灯屋に似ていたが、
﹁このままでかね、勿もっ体てい至極もねえ。﹂
﹁かまいませんわ。﹂
﹁構わねえたって、これ、縛るとなると。﹂
﹁うつくしいお方が、見てる前で、むざとなあ。﹂
麦むぎ藁わらと、不精髯が目を見合って、半ば呟つぶやくがごとくにいう。
﹁いいんですよ、構いませんから。﹂
この時、丸太棒が鉄のように見えた。ぶるぶると腕に力の漲みなぎった逞たくましいのが、
﹁よし、石も婉やん軟わりだろう。きれいなご新姐を抱くと思え。﹂
というままに、頸くびの手拭が真まっ額こうでピンと反そると、棒をハタと投げ、ずかと諸手を墓にかけた。袖の撓しなうを胸へ取った、前抱きにぬっと立ち、腰を張って土手を下りた。この方が掛かかり勝手がいいらしい。巌いわ路みちへ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に動いぶ揺りを加くれて、大きな蟹が竜宮の女房を胸に抱いて逆落しの滝に乗るように、ずずずずずと下りて行ゆく。
﹁えらいぞ、権太、怪我をするな。﹂
と、髯が小走りに、土手の方から後へ下りる。
﹁俺だって、出来ねえ事はなかったい、遠慮をした、えい、誰に。﹂
と、お米を見返って、ニヤリとして、麦藁が後に続いた。
﹁頓とん生しょ菩うぼ提だい。……小川へ流すか、燃しますべい。﹂
そういって久助が、掻き集めた縄の屑くずを、一束ねに握って腰を擡もたげた時は、三人はもう木戸を出て見えなかったのである。
﹁久……爺や、爺やさん、羽織はね。式台へほうり込んで置いて可いいんですよ。﹂
この羽織が、黒塗の華頭窓に掛かかっていて、その窓際の机に向って、お米は細ほっそりと坐っていた。冬の日は釣つる瓶べおとしというより、梢こずえの熟じゅ柿くしを礫つぶてに打って、もう暮れて、客殿の広い畳が皆暗い。
こんなにも、清らかなものかと思う、お米の頸えりを差さし覗のぞくようにしながら、盆に渋茶は出したが、火を置かぬ火鉢越しにかの机の上の提灯を視みた。
︵――この、提灯が出ないと、ご迷惑でも話が済まない――︶
信仰に頒布する、当山、本尊のお札を捧げた三宝を傍かたわらに、硯すず箱りばこを控えて、硯の朱の方に筆を染めつつ、お米は提灯に瞳を凝らして、眉を描くように染めている。
﹁――きっと思いついた、初路さんの糸塚に手向けて帰ろう。赤蜻蛉――尾を銜くわえたのを是非頼む。塗師屋さんの内儀でも、女学校の出じゃないか。絵というと面倒だから図画で行くのさ。紅べにを引いて、二つならべれば、羽子の羽でもいい。胡にん蘿じ蔔んを繊に松葉をさしても、形は似ます。指で挟んだ唐辛子でも構わない。――﹂
と、たそがれの立籠めて一際漆のような板敷を、お米の白い足袋の伝う時、唆そそのかして口説いた。北ほく辰しん妙みょ見うけ菩んぼ薩さつを拝んで、客殿へ退ひく間まであったが。
水をたっぷりと注さして、ちょっと口で吸って、莟つぼみの唇をぽッつり黒く、八枚の羽を薄墨で、しかし丹念にあしらった。瀬戸の水入が渋のついた鯉だったのは、誂あつらえたようである。
﹁出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。﹂
﹁知らない、おっかさんにいいつけて叱らせてあげるから。﹂
﹁失礼。﹂
と、茶碗が、また、赤絵だったので、思わず失言を詫わびつつ、準藤原女史に介添してお掛け申す……羽織を取入れたが、窓あかりに、
﹁これは、大分うらに青苔がついた。悪いなあ。たたんで持つか。﹂
と、持ったのに、それにお米が手を添えて、
﹁着ますわ。﹂
﹁きられるかい、墓のを、そのまま。﹂
﹁おかわいそうな方のですもの、これ、荵しの摺ぶずりですよ。﹂
その優しさに、思わず胸がときめいて。
﹁肩をこっちへ。﹂
﹁まあ、おじさん。﹂
﹁おっかさんの名代だ、娘に着せるのに仔しさ細いない。﹂
﹁はい、……どうぞ。﹂
くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。
﹁私、こいしい、おっかさん。﹂
前さっ刻きから――辻町は、演芸、映画、そんなものの楽屋に縁がある――ほんの少々だけれども、これは筋にして稼げると、潜ひそかに悪心の萌きざしたのが、この時、色も、慾よくも何にもない、しみじみと、いとしくて涙ぐんだ。
﹁へい。お待遠でござりました。﹂
片手に蝋ろう燭そくを、ちらちら、片手に少しばかり火を入れた十能を持って、婆さんが庫く裏りから出た。
﹁糸塚さんへ置いて行きます、あとで気をつけて下さいましよ、烏が火を銜くわえるといいますから。﹂
お米も、式台へもうかかった。
﹁へい、もう、刻限で、危あぶ気なげはござりましねえ、嘴ふ太と烏も、嘴ほ細そ烏も、千羽ヶ淵の森へ行いんで寝ました。﹂
大城下は、目の下に、町の燈ひは、柳にともれ、川に流るる。磴いしだんを下へ、谷の暗いように下りた。場末の五燈しょくはまだ来ない。
あきない帰りの豆府屋が、ぶつかるように、ハタと留った時、
﹁あれ、蜻蛉が。﹂
お米が膝をついて、手を合せた。
あの墓石を寄せかけた、塚の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉が静そっと動いて、女の影が……二人見えた。
昭和十四︵一九三九︶年七月