一
つれの夫人がちょっと道寄りをしたので、銑せん太たろ郎うは、取とッ附つきに山門の峨が々がと聳そびえた。巨おお刹でらの石段の前に立留まって、その出て来るのを待ち合せた。
門の柱に、毎まい月げつ十五十六日当山説教と貼はり紙がみした、傍かたわらに、東京……中学校水泳部合宿所とまた記してある。透すかして見ると、灰色の浪を、斜めに森の間なかにかけたような、棟の下に、薄暗い窓の数、厳いわ穴あなの趣して、三人五人、小さくあちこちに人の形。脱ぎ棄すてた、浴衣、襯しゃ衣つ、上うわ衣ぎなど、ちらちらと渚なぎさに似て、黒く深く、背うし後ろの山まで凹なかくぼになったのは本堂であろう。輪にして段々に点ともした蝋ろうの灯が、黄色に燃えて描いたよう。
向う側は、袖そで垣がき、枝しお折り戸ど、夏草の茂きが中に早はや咲ざきの秋の花。いずれも此こな方たを背戸にして別荘だちが二三軒、廂ひさしに海うな原ばらの緑をかけて、簾すだれに沖の船を縫わせた拵こしらえ。刎はね釣つる瓶べの竹も動かず、蚊かや遣りの煙の靡なびくもなき、夏の盛さかりの午後四時ごろ。浜辺は煮えて賑にぎやかに、町は寂しい樹こか蔭げの細道、たらたら坂ざかを下りて来た、前ゆく途ては石垣から折曲る、しばらくここに窪くぼんだ処、ちょうどその寺の苔こけ蒸むした青黒い段の下、小こみ溝ぞがあって、しぼまぬ月草、紺青の空が漏れ透くかと、露もはらはらとこぼれ咲いて、藪やぶは自然の寺の垣。
ちょうどそのたらたら坂を下りた、この竹藪のはずれに、草わら鞋じ、草履、駄菓子の箱など店に並べた、屋根は茅かやぶきの、且つ破れ、且つ古びて、幾いく秋あきの月や映さし、雨や漏りけん。入口の土間なんど、いにしえの沼の干かたまったをそのままらしい。廂は縦に、壁は横に、今も屋台は浮き沈み、危あやうく掘ほっ立たての、柱々、放れ放ばなれに傾いているのを、渠かれは何心なく見て過ぎた。連れはその店へ寄った﹇#﹁寄った﹂は底本では﹁寄つた﹂﹈のである。
﹁昔……昔、浦島は、小こど児もの捉とらえし亀を見て、あわれと思い買い取りて、……﹂と、誦すさむともなく口にしたのは、別荘のあたりの夕間暮れに、村の小こど児も等らの唱うのを聞き覚えが、折から心に移ったのである。
銑太郎は、ふと手にした巻まき莨たばこに心着いて、唄をやめた。
﹁早マ附ッ木チを買いに入ったのかな。﹂
うっかりして立ったのが、小こみ店せの方かたに目を注いで、
﹁ああ、そうかも知れん。﹂と夏帽の中で、頷うなずいて独ひと言りごと。
別に心に留めもせず、何の気もなくなると、つい、うかうかと口へ出る。
﹁一ある日ひ大きな亀が出て、か。もうしもうし浦島さん――﹂
帽を傾け、顔を上げたが、藪に並んで立ったのでは、此こな方たの袖に隠れるので、路みちを対むこ方うへ。別荘の袖垣から、斜ななめに坂の方を透かして見ると、連つれの浴衣は、その、ほの暗い小店に艶えんなり。
﹁何をしているんだろう。もうしもうし浦島さん……じゃない、浦子さんだ。﹂
と破顔しつつ、帽のふちに手をかけて、伸び上るようにしたけれども、軒を離れそうにもせぬのであった。
﹁店ぐるみ総じまいにして、一ひと箇つ々々袋へ入れたって、もう片が附く時分じゃないか。﹂
と呟つぶやくうちに真ま面じ目めになった、銑太郎は我ながら、
﹁串じょ戯うだんじゃない、手間が取れる。どうしたんだろう、おかしいな。﹂
二
とは思ったが、歴あり々あり彼かし処こに、何の異状なく彳たたずんだのが見えるから、憂きづ慮かうにも及ぶまい。念のために声を懸けて呼ぼうにも、この真まっ昼ぴる間ま。見える処に連つれを置いて、おおいおおいも茶番らしい、殊に婦おん人なではあるし、と思う。
今にも来そうで、出向く気もせず。火のない巻まき莨たばこを手にしたまま、同じ処に彳んで、じっと其そな方たを。
何なんとなくぼんやりして、ああ、家も、路みちも、寺も、竹たけ藪やぶを漏る蒼あお空ぞらながら、地つちの底の世にもなりはせずや、連つれは浴衣の染そめ色いろも、浅き紫あじ陽さ花いの花になって、小こみ溝ぞの暗やみに俤おもかげのみ。我はこのまま石になって、と気の遠くなった時、はっと足が出て、風が出て、婦おん人なは軒を離れて出た。
小走りに急いで来る、青葉の中に寄る浪のはらはらと爪つま尖さき白く、濃い黒髪の房ふさやかな双の鬢びんづら、浅あさ葱ぎの紐ひもに結び果てず、海水帽を絞って被かぶった、豊ゆたかな頬ほおに艶つややかに靡なびいて、色の白いが薄化粧。水みず色いろ縮ちり緬めんの蹴けだ出しの褄つま、はらはら蓮はちすの莟つぼみを捌さばいて、素足ながら清らかに、草履ばきの埃ほこりも立たず、急いで迎えた少年に、ばッたりと藪の前。
﹁叔母さん、﹂
と声をかけて、と見るとこれが音に聞えた、燃もゆるような朱の唇、ものいいたさを先んじられて紅梅の花揺ゆらぐよう。黒くろ目めが勝ちの清すずしやかに、美しくすなおな眉の、濃きにや過ぐると煙ったのは、五いつ日かづ月きに青あお柳やぎの影やや深き趣あり。浦子というは二十七。
豪商狭さじ島まの令室で、銑太郎には叔母に当る。
この路を去る十二三町、停車場寄よりの海岸に、石垣高く松を繞めぐらし、廊下で繋つないで三みむ棟ねに分けた、門には新築の長屋があって、手車の車夫の控える身しん上しょう。
裳もすそを厭いとう砂ならば路に黄こが金ねを敷きもせん、空色の洋服の褄を取った姿さえ、身にかなえば唐からめかで、羽衣着たりと持て囃はやすを、白襟で襲かさ衣ねの折から、羅うすものに綾あやの帯の時、湯上りの白おし粉ろいに扱しご帯きは何というやらん。この人のためならば、このあたりの浜の名も、狭島が浦と称となえつびょう、リボンかけたる、笄こうがいしたる、夏の女の多い中に、海第一と聞えた美たお女やめ。
帽子の裡うちの日の蔭に、長いまつげのせいならず、甥おいを見た目に冴さえがなく、顔の色も薄く曇って、
﹁銑さん。﹂
とばかり云った、浴衣の胸は呼い吸きぜわしい。
﹁どうしたんです、何を買っていらしったんです。吃びっ驚くりするほど長かった。﹂
打うち見みに何の仔しさ細いはなきが、物もの怖おじしたらしい叔母の状さまを、たかだか例の毛虫だろう、と笑いながら言う顔を、情なさけらしく熟じっと見て、
﹁まあ、呑のん気きらしい、早マ附ッ木チを取って上げたんじゃありませんか。﹂
はじめて、ほッとした様子。
﹁頂戴! いつかの靴以来です。こうは叔母さんでなくッちゃ出来ない事です。僕もそうだろうと思ったんです。﹂
﹁そうだろうじゃありませんわ。﹂
﹁じゃ、早附木ではないんですか。﹂
三
﹁いいえ、銑さんが煙たば草こを出すと、早マ附ッ木チがないから、打うっ棄ちゃっておくと、またいつものように、煙草には思い遣やりがない、監督のようだなんて云うだろうと思って、気を利かして、ちょうど、あの店で、﹂
と身を横に、踵かかとを浮かして、恐こわいもののように振返って、
﹁見附かったからね、黙って買って上げようと思って入ったんですがね、お庇かげで大変な思いをしたんですよ。ああ、恐かった。﹂
とそのままには足も進まず、がッかりしたような風情である。
﹁何が、叔母さん。この日ひな中かに何が恐いんです。大方また毛虫でしょう、大丈夫、毛虫は追おっ駈かけては来ませんから。﹂
﹁毛虫どころじゃアありません。﹂
と浦子は後うしろ見らるる状さま。声も低う、
﹁銑さん、よっぽどの間だったでしょう。﹂
﹁ざッと一時間……﹂
半分は懸かけ直ねだったのに、夫人はかえってさもありそうに、
﹁そうでしたかねえ、私はもっとかと思ったくらい。いつ、店を出られるだろう、と心細いッたらなかったよ。﹂
﹁なぜ、どうしたんですね、一体。﹂
﹁まあ、そろそろ歩あ行るきましょう。何だか気きく草た臥びれでもしたようで、頭も脚もふらふらします。﹂
歩を移すのに引添うて、身から体だで庇かばうがごとくにしつつ、
﹁ほんとに驚いたんですか。そういえば、顔の色もよくないようですよ。﹂
﹁そうでしょう、悚ぞ然っとして、未いまだに寒気がしますもの。﹂
と肩を窄すぼめて俯うつ向むいた、海水帽も前下り、頸うなじ白く悄しおれて連立つ。
少年は顔を斜めに、近々と帽の中。
﹁まったく色が悪い。どうも毛虫ではないようですね。﹂
これには答えず、やや石段の前を通った。
しばらくして、
﹁銑さん、﹂
﹁ええ、﹂
﹁帰かえ途りに、またここを通るんですか。﹂
﹁通りますよ。﹂
﹁どうしても通らねば不い可けませんかねえ、どこぞ他ほかに路がないんでしょうか。﹂
﹁海ならあります。ここいらは叔母さん、海岸の一筋路ですから、岐わか路れみちといっては背うし後ろの山へ行ゆくより他ほかにはないんですが、﹂
﹁困りましたねえ。﹂
と、つくづく云う。
﹁何ね、時刻に因って、汐しおの干ている時は、この別荘の前なんか、岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方干ないかも知れません。﹂
﹁船はありますか。﹂
﹁そうですね、渡わた船しぶねッて別にありはしますまいけれど、頼んだら出してくれないこともないでしょう、さきへ行って聞いて見ましょう。﹂
﹁そうね。﹂
﹁何、叔母さんさえ信用するんなら、船だけ借りて、漕こぐことは僕にも漕げます。僕じゃ危けん険のんだというでしょう。﹂
﹁何なんでも可ようござんすから、銑さん、貴あな郎た、どうにかして下さい。私はもう帰かえ途りにあの店の前を通りたくないんです。﹂
とまた俯うつ向むいたが恐こわ々ごわらしい。
﹁叔母さん、まあ、一体、何ですか。﹂と、余りの事に微ほほ笑えみながら。
四
﹁もう聞えやしますまいね。﹂
と憚はばかる所あるらしく、声もこの時なお低い。
﹁何が、どこで、叔母さん。﹂
﹁あすこまで、﹂
﹁ああ! 汚きた店なみせへ、﹂
﹁大きな声をなさんなよ。﹂と吃びっ驚くりしたように慌あわただしく、瞳ひとみを据えて、密そっという。
﹁何が聞えるもんですか。﹂
﹁じゃあね、言いますけれど、銑さん、私がね、今、早マ附ッ木チを買いに入ると、誰も居ないのよ。﹂
﹁へい?﹂
﹁下さいな、下さいなッて、そういうとね。穴が開いて、こわれごわれで、鼠の家の三階建のような、取とッ附つきの三段の古棚の背うしろのね、物置みたいな暗い中から、――藻もく屑ずを曳ひいたかと思う、汚い服な装りの、小さな婆ばあさんがね、よぼよぼと出て来たんです。
髪の毛が真まっ白しろでね、かれこれ八十にもなろうかというんだけれど、その割には皺しわがないの、……顔に。……身から体だは痩やせて骨ばかり、そしてね、骨が、くなくなと柔かそうに腰を曲げてさ。
天あた窓までものを見るてッたように、白しら髪がを振って、ふッふッと息をして、脊の低いのが、そうやって、胸を折ったから、そこらを這はうようにして店へ来るじゃありませんか。
早附木を下さいなッて、云ったけれど聞えません。もっともね、はじめから聞えないのは覚悟だというように、顔を上げてね、人の顔を視ながめてさ。目で承りましょうと云うんじゃないの。
お婆さん、早附木を下さい、早附木を、といった、私の唇の動くのを、熟じっと視めていたッけがね。
その顔を上げているのが大儀そうに、またがッくり俯うつ向むくと、白髪の中から耳の上へ、長く、干からびた腕を出したんですがね、掌てのひらが大きいの。
それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、片かた々かたの人ひと指さしゆびで、こうね、左の耳を教えるでしょう。
聞えないと云うのかね、そんなら可ようござんす。私は何だか一目見ると、厭いやな心持がしたんですからね、買わずと可いいから、そのまま店を出ようと思うと、またそう行ゆかなくなりましたわ。
弱るじゃありませんか、婆さんがね、けだるそうに腰を伸ばして、耳を、私の顔の傍そばへ横向けに差しつけたんです。
ぷんと臭におったの。何とも言えない、きなッくさいような、醤おし油たじの焦げるような、厭な臭においよ。﹂
﹁や、そりゃ困りましたね。﹂と、これを聞いて少年も顰ひそんだのである。
﹁早附木を下さい。
︵はあ?︶
︵早附木よ、お婆さん。︶
︵はあ?︶
はあッて云うきりなの。目を眠って、口を開けてさ、臭うでしょう。
︵早附木、︶ッて私は、まったくよ。銑さん、泣きたくなったの。
ただもう遁にげ出したくッてね、そこいらすけれど、貴あな下たの姿も見えなかったんですもの。
はあ、長い間よ。
それでもようよう聞えたと見えてね、口をむぐむぐとさして合がっ点てん々々をしたから、また手間を取らないようにと、直ぐにね、銅貨を一つ渡してやると、しばらくして、早附木を一ダース。
そんなには要らないから、包を破いて、自分で一つだけ取って、ああ、厄落し、と出よう、とすると、しっかりこの、﹂
と片手を下に、袖そでをかさねた袂たもとを揺ゆすったが、気味悪そうに、胸をかわして密そっと払い、
﹁袂をつかまえたのに、引張られて動けないじゃありませんか。﹂
﹁かさねがさね、成程、はあ、それから、﹂
五
﹁私ゃ、銑さん、どうしようかと思ったんです。
何にも云わないで、ぐんぐん引張って、かぶりを掉ふるから、大方、剰つ銭りを寄よ越こそうというんでしょうと思って、留りますとね。
やッと安心したように手を放して、それから向う向きになって、緡さしから穴のあいたのを一つ一つ。
それがまたしばらくなの。
私の手を引張るようにして、掌てのひらへ呉くれました。
ひやりとしたけれど、そればかりなら可よかったのに。
︵御ごし新んぞ姐さ様まや︶﹂
と浦子の声、異様に震えて聞えたので、
﹁ええ、その婆ばばが、﹂
﹁あれ、銑さん、聞えますよ。﹂と、一ひと歩あしいそがわしく、ぴったり寄添う。
﹁その婆が、云ったんですか。﹂
夫人はまた吐息をついた。
﹁婆ばあさんがね、ああ。﹂
︵御新姐様や、御お身みア、すいたらしい人じゃでの、安く、なかまの値で進ぜるぞい。︶ッて、皺しわ枯がれた声でそう云うとね、ぶんと頭へ響いたんです。
そして、すいたらしいッてね、私の手首を熟じっと握って、真まっ黄きい色ろな、平ひらったい、小さな顔を振上げて、じろじろと見詰めたの。
その握った手の冷たい事ッたら、まるで氷のようじゃありませんか。そして目がね、黄き金ん目めなんです。
光ったわ! 貴あな郎た。
キラキラと、その凄すごかった事。﹂
とばかりで重そうな頭つむりを上げて、俄にわかに黒雲や起ると思う、憂きづ慮かわしげに仰いで視ながめた。空ざまに目も恍うっ惚とり、紐ひもを結ゆわえた頤おとがいの震うが見えたり。
﹁心持でしょう。﹂
﹁いいえ、じろりと見られた時は、その目の光で私の顔が黄色になったかと思うくらいでしたよ。灯あかりに近いと、赤くほてるような気がするのと同おん一なじに。
もう私、二ふた条すじ針を刺されたように、背中の両方から悚ぞ然っとして、足もふらふらになりました。
夢中で二三間げん駈かけ出すとね、ちゃらんと音がしたので、またハッと思いましたよ。お銭あしを落したのが先さ方きへ聞えやしまいかと思って。
何でも一大事のように返した剰つ銭りなんですもの、落したのを知っては追っかけて来かねやしません。銑さん、まあ、何てこッてしょう、どうした婆さんでしょうねえ。﹂
されば叔母上の宣のたまうごとし。年と紀し七なな十そじあまりの、髪の真まっ白しろな、顔の扁ひらたい、年紀の割に皺しわの少い、色の黄な、耳の遠い、身から体だの臭におう、骨の軟かそうな、挙ふる動まいのくなくなした、なおその言ことばに従えば、金こん色じきに目の光る嫗おうなとより、銑太郎は他に答うる術すべを知らなかった。
ただその、早マ附ッ木チ一つ買い取るのに、半時ばかり経たった仔しさ細いが知れて、疑うたがいはさらりとなくなったばかりであるから、気の毒らしい、と自分で思うほど一向な暢のん気き。
﹁早附木は? 叔母さん。﹂と魅せられたものの背中を一つ、トンと打つようなのを唐だし突ぬけに言った。
﹁ああ、そうでした。﹂
と心着くと、これを嫗に握られた、買物を持った右の手は、まだ左の袂たもとの下に包んだままで、撫なで肩がたの裄ゆきをなぞえに、浴衣の筋も水に濡れたかと、ひたひたとしおれて、片袖しるく、悚ぞ然っとしたのがそのままである。大事なことを見るがごとく、密そっとはずすと、銑太郎も覗のぞくように目を注いだ。
﹁おや!﹂
﹁…………﹂
六
黒の唐とう繻じゅ子すと、薄うす鼠ねずみに納戸がかった絹ちぢみに宝づくしの絞しぼりの入った、腹合せの帯を漏れた、水とき紅い色ろの扱しご帯きにのせて、美しき手は芙ふよ蓉うの花はな片びら、風もさそわず無事であったが、キラリと輝いた指ゆび環わの他ほかに、早マ附ッ木チらしいものの形も無い。
視み詰つめて、夫人は、
﹁…………﹂ものも得えいわぬのである。
﹁ああ、剰つ銭りと一所に遺お失としたんだ。叔母さんどの辺?﹂
と気きば早やに向き返って行ゆこうとする。
﹁お待ちなさいよ。﹂
と遮って上げた手の、仔しさ細いなく動いたのを、嬉しそうに、少年の肩にかけて、見直して呼い吸きをついて、
﹁銑さん、お止よしなさいお止しなさい、気味が悪いから、ね、お止しなさい。﹂
とさも一生懸命。圧おさえぬばかりに引留めて、
﹁あんなものは、今頃何に化なっているか分りませんよ、よう、ですから、銑さん。﹂
﹁じゃ止します、止しますがね。﹂
少年は余りの事に、
﹁ははははは、何だか妖ばけ物ものででもあるようだ。﹂と半ば呟つぶやいて、また笑った。
﹁私は妖物としか考えないの、まさか居ようとは思われないけれど。﹂
﹁妖物ですとも、妖物ですがね、そのくなくなした処や、天あた窓まで歩あ行るきそうにする処から、黄色く※うね﹇#﹁亠/︵田+久︶﹂、200-7﹈った処なんぞ、何の事はない婆ばばの毛虫だ。毛虫の婆ばあさんです。﹂
﹁厭いやですことねえ。﹂と身ぶるいする。
﹁何もそんなに、気味を悪がるには当らないじゃありませんか。その婆に手を握られたのと、もしか樹の上から、﹂
と上を見る。藪やぶは尽きて高い石垣、榎えのきが空にかぶさって、浴衣に薄き日の光、二人は月夜を行ゆく姿。
﹁ぽたりと落ちて、毛虫が頸くび筋すじへ入ったとすると、叔母さん、どっちが厭な心持だと思います。﹂
﹁沢山よ、銑さん、私はもう、﹂
﹁いえ、まあ、どっちが気味が悪いんですね。﹂
﹁そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちとも言えませんね。﹂
﹁そら御覧なさい。﹂
説き得て可よしと思える状さまして、
﹁叔母さんは、その婆を、妖物か何ぞのように大騒ぎを遣やるけれど、気味の悪い、厭な感じ。﹂
感じ、と声に力を入れて、
﹁感じというと、何だか先生の仮こわ声いろのようですね。﹂
﹁気楽なことをおっしゃいよ!﹂
﹁だって、そうじゃありませんか、その気味の悪い、厭な感じ、﹂
﹁でも先生は、工ぐあ合いの可いいとか、妙なとか、おもしろい感じッて事は、お言いなさるけれど、気味の悪いだの、厭な感じだのッて、そんな事は、めったにお言いなさることはありません。﹂
﹁しかしですね、詰つまらない婆を見て、震えるほど恐こわがった、叔母さんの風ふうッたら……工合の可いい、妙な、おもしろい感じがする、と言ったら、叔母さんは怒るでしょう。﹂
﹁当あた然りまえですわ、貴あな郎た。﹂
﹁だからこの場合ですもの。やっぱり厭な感じだ。その気味の悪い感じというのが、毛虫とおなじぐらいだと思ったらどうです。別に不思議なことは無いじゃありませんか。毛虫は気味が悪い、けれども怪あやしいものでも何でもない。﹂
﹁そう言えばそうですけれど、だって婆さんの、その目が、ねえ。﹂
﹁毛虫にだって、睨にらまれて御覧なさい。﹂
﹁もじゃもじゃと白しら髪がが、貴郎。﹂
﹁毛虫というくらいです、もじゃもじゃどころなもんですか、沢山毛がある。﹂
﹁まあ、貴あな下たの言うことは、蝸でん牛でんむしの狂言のようだよ。﹂と寂しく笑ったが、
﹁あれ、﹂
寺でカンカンと鉦かねを鳴らした。
﹁ああ、この路の長かったこと。﹂
七
釣つり棹ざおを、ト肩にかけた、処士あり。年と紀しのころ三十四五。五ごぶ分が刈りのなだらかなるが、小こび鬢んさきへ少し兀はげた、額の広い、目のやさしい、眉の太い、引ひき緊しまった口の、やや大きいのも凜り々りしいが、頬ほお肉じしが厚く、小鼻に笑えましげな皺しわ深く、下した頤あごから耳の根へ、べたりと髯ひげのあとの黒いのも柔和である。白地に藍あいの縦たて縞じまの、縮ちぢみの襯しゃ衣つを着て、襟のこはぜも見えそうに、衣えも紋んを寛ゆるく紺こん絣がすり、二三度水へ入ったろう、色は薄く地じも透いたが、糊のり沢だく山さんの折目高。
薩さつ摩ま下げ駄たの小こく倉らの緒お、太いしっかりしたおやゆびで、蝮まむしを拵こしらえねばならぬほど、弛ゆるいばかりか、歪ゆがんだのは、水に対して石の上に、これを台にしていたのであった。
時に、釣れましたか、獲物を入れて、片手に提ひっさぐべき畚びくは、十八九の少年の、洋服を着たのが、代りに持って、連立って、海からそよそよと吹く風に、山へ、さらさらと、蘆あしの葉の青く揃って、二尺ばかり靡なびく方へ、岸づたいに夕日を背せな。峰を離れて、一ひと刷はけの薄雲を出いでて玉のごとき、月に向って帰かえ途りみち、ぶらりぶらりということは、この人よりぞはじまりける。
﹁賢君、君の山越えの企ては、大層帰りが早かったですな。﹂
少年は莞に爾こやかに、
﹁それでも一抱えほど山百合を折って来ました。帰って御覧なさい、そりゃ綺きれ麗いです。母の部屋へも、先生の床の間へも、ちゃんと活いけるように言って来ました。﹂
﹁はあ、それは難あり有がたい。朝なんざ崖がけに湧わく雲の中にちらちら燃えるようなのが見えて、もみじに朝霧がかかったという工合でいて、何となく高たか峰ねの花という感じがしたのに、賢君の丹精で、机の上に活かったのは感謝する。
早く行って拝見しよう、……が、また誰か、台所の方で、私の帰るのを待っているものはなかったですか。﹂
と小鼻の左右の線を深く、微笑を含んで少年を。
顔を見合わせて此こな方たも笑い、
﹁はははは、松が大層待っていました。先生のお肴さかなを頂こうと思って、お午ひ飯るも控えたって言っていましたっけ。﹂
﹁それだ。なかなか人が悪い。﹂広い額に手を加える。
﹁それに、母も、先生。お土産を楽しみにして、お腹をすかして帰るからって、言づけをしたそうです。﹂
﹁益ます々ます恐縮。はあ、で、奥さんはどこかへお出かけで。﹂
﹁銑さんが一所だそうです。﹂
﹁そうすると、その連つれの人も、同じく土産を待つ方なんだ。﹂
﹁勿論です。今日ばかりは途中で叔母さんに何にも強ね請だらない。犬川で帰って来て、先生の御ごち馳そ走うになるんですって。﹂
とまた顔を見る。
この時、先生愕がく然ぜんとして頸うなじをすくめた。
﹁あかぬ! 包囲攻撃じゃ、恐るべきだね。就なか中んずく、銑太郎などは、自分釣棹をねだって、貴あな郎たが何です、と一言の下もとに叔お母ば御ごに拒絶された怨うらみがあるから、その祟たたり容易ならずと可しる知べ矣し。﹂
と蘆の葉ずれに棹を垂れて、思わず観念の眼まなこを塞ふさげば、少年は気の毒そうに、
﹁先生、買っていらっしゃい。﹂
﹁買う?﹂
﹁だって一尾ぴきも居ないんですもの。﹂
と今更ながら畚びくを覗のぞくと、冷つめたい磯いその香においがして、ざらざらと隅に固まるものあり、方丈記に曰いわく、ごうなは小さき貝を好む。
八
先生は見ざる真ま似ねして、少年が手に傾けた件くだんの畚びくを横目に、
﹁生あい憎にく、沙は魚ぜ、海かい津づ、小こぶ鮒ななどを商う魚屋がなくって困る。奥さんは何も知らず、銑太郎なお欺くべしじゃが、あの、お松というのが、また悪く下かじ情ょうに通じておって、ごうなや川かわ蝦えびで、鰺あじやおぼこの釣れないことは心得ておるから。これで魚屋へ寄るのは、落語の権助が川狩の土産に、過って蒲かま鉾ぼこと目刺を買ったより一層の愚じゃ。
特に餌えさの中でも、御馳走の川蝦は、あの松がしんせつに、そこらで掬すくって来てくれたんで、それをちぎって釣る時分は、浮う木きが水面に届くか届かぬに、ちょろり、かいず奴めが攫さらってしまう。
大切な蝦五つ、瞬く間にしてやられて、ごうなになると、糸も動かさないなどは、誠に恥入るです。
私は賢君が知っとる通り、ただ釣という事におもしろい感じを持って行やるのじゃで、釣れようが釣れまいが、トンとそんな事に頓とん着ちゃくはない。
次第に因ったら、針もつけず、餌なしに試みて可いいのじゃけれど、それでは余り賢人めかすようで、気きと咎がめがするから、成るべく餌も附くッ着つけて釣る。獲物の有あり無なしでおもしろ味に変かわりはないで、またこの空から畚びくをぶらさげて、蘆あしの中を釣つり棹ざおを担いだ処も、工合の可いい感じがするのじゃがね。
その様子では、諸君に対して、とてもこのまま、棹を掉ふっては﹇#﹁掉ふっては﹂は底本では﹁掉ふつては﹂﹈帰られん。
釣を試みたいと云うと、奥様が過分な道具を調えて下すった。この七本竹の継つぎ棹ざおなんぞ、私には勿もっ体たいないと思うたが、こういう時は役に立つ。
一つ畳み込んで懐ふと中ころへ入れるとしよう、賢君、ちょっとそこへ休もうではないか。﹂
と月を見て立たち停どまった、山の裾すそに小川を控えて、蘆が吐き出した茶店が一軒。薄い煙に包まれて、茶は沸いていそうだけれど、葦よし簀ずば張りがぼんやりして、かかる天気に、何事ぞ、雨露に朽ちたりな。
﹁可いいじゃありませんか、先生、畚は僕が持っていますから、松なんぞ愚ぐ図ず々ぐ々ず言ったら、ぶッつけてやります。﹂
無二の味方で頼たの母もしく慰めた。
﹁いやまた、こう辟へき易えきして、棹を畳んで、懐ふと中ころへ了しまい込んで、煙きせ管るづ筒つを忘れた、という顔で帰る処もおもしろい感じがするで。
それに咽の喉ども乾いた、茶を一つ飲みましょう。まず休んで、﹂
と三みあ足しばかり、路を横へ、茶店の前の、一間ばかり蘆が左右へ分れていた、根が白く濡ぬれ地ちが透いて見えて、ぶくぶくと蟹かにの穴、うたかたのあわれを吹いて、茜あかねがさして、日は未いまだ高いが虫の声、艪ろを漕こぐように、ギイ、ギッチョッ、チョ。
﹁さあ、お掛け。﹂
と少年を、自分の床しょ几うぎの傍わきに居おらせて、先生は乾くと言った、その唇を撫なでながら、
﹁茶を一つ下さらんか。﹂
暗い中から白い服な装り、麻の葉いろの巻つけ帯で、草履の音、ひた――ひた、と客を見て早や用意をしたか、蟋きり蟀ぎりすの噛かじった塗ぬり盆ぼんに、朝顔茶碗の亀ひ裂びだらけ、茶渋で錆さびたのを二つのせて、
﹁あがりまし、﹂
と据えて出し、腰を屈かがめた嫗おうなを見よ。一筋ごとに美しく櫛くしの歯を入れたように、毛筋が透とおって、生はえ際ぎわの揃った、柔かな、茶にやや褐かばを帯びた髪の色。黒き毛、白しら髪がの塵ちりばかりをも交まじえぬを、切きり髪かみにプツリと下げた、色の白い、艶つやのある、細ほそ面おもての頤おとがい尖とがって、鼻筋の衝つと通った、どこかに気高い処のある、年と紀しは誰たが目も同おな一じ……である。
九
﹁渺びょ々うび乎ょうことして、蘆あしじゃ。お婆さん、好いい景色だね。二三度来て見た処ぢゃけれど、この店の工合が可いいせいか、今日は格別に広く感じる。
この海の他ほかに、またこんな海があろうとは思えんくらいじゃ。﹂
と頷うなずくように茶を一口。茶碗にかかるほど、襯しゃ衣つの袖の膨ふくらかなので、掻かい抱いだく体ていに茶碗を持って。
少年はうしろ向むきに、山を視ながめて、おつきあいという顔かお色つき。先生の影二尺を隔てず、窮屈そうにただもじもじ。
嫗おうなは威儀正しく、膝ひざのあたりまで手を垂れて、
﹁はい、申されまする通り、世がまだ開けませぬ泥沼の時のような蘆あし原はらでござるわや。
この川かわ沿ぞいは、どこもかしこも、蘆が生えてあるなれど、私わしが小こい家えのまわりには、また多いこう茂ってござる。
秋にもなって見やしゃりませ。丈が高う、穂が伸びて、小屋は屋根に包まれる、山の懐も隠れるけに、月も葉の中から出でさされて、蟹かにが茎へ上あがっての、岡おか沙は魚ぜというものが根の処で跳ねるわや、漕こいで入る船の艪ろか櫂いの音も、水の底に陰気に聞えて、寂しくなるがの。その時稲が実るでござって、お日ひよ和りじゃ、今年は、作も豊年そうにござります。
もう、このように老い朽ちて、あとを頂く御ごぼ菩さ薩つの粒も、五つ七つと、算かぞえるようになったれども、生しょうあるものは浅あさ間ましゅうての、蘆の茂るを見るにつけても、稲の太るが嬉しゅうてなりませぬ、はい、はい。﹂
と細いが聞くものの耳に響く、透とおる声で言いながら、どこをどうしたら笑えよう、辛き浮世の汐しお風かぜに、冷つめたく大理石になったような、その仏造った顔に、寂しげに莞にっ爾こり笑った。鉄か漿ねを含んだ歯が揃って、貝のように美しい。それとなお目についたは、顔の色の白いのに、その眠ったような繊ほそい目の、紅くれないの糸、と見るばかり、赤く線を引いていたのである。
﹁成程、はあ、いかにも、﹂
と言ったばかり、嫗の言ことばは、この景に対するものをして、約半時の間、未来の秋を想像せしむるに余りあって、先生は手なる茶碗を下にも措おかず、しばらく蘆を見て、やがてその穂の人の丈よりも高かるべきを思い、白泡のずぶずぶと、濡ぬれ土つちに呟つぶやく蟹の、やがてさらさらと穂に攀よじて、鋏はさみに月を招くやなど、茫ぼう然ぜんとして視ながめたのであった。
蘆の中に路があって、さらさらと葉ずれの音、葦よし簀ずの外へまた一人、黒い衣きものの嫗が出て来た。
茶色の帯を前結び、肩の幅広く、身もやや肥えて、髪はまだ黒かったが、薄さは条すじを揃えたばかり。生はえ際ぎわが抜け上って頭つむりの半ばから引ひッ詰つめた、ぼんのくどにて小さなおばこに、櫂かいの形の笄こうがいさした、片かた頬ほ痩やせて、片かた頬ほ肥ふとく、目も鼻も口も頤あごも、いびつ形なりに曲ゆがんだが、肩も横に、胸も横に、腰骨のあたりも横に、だるそうに手を組んだ、これで釣合いを取るのであろう。ただそのままでは根から崩れて、海の方へ横倒れにならねばならぬ。
肩と首とで、うそうそと、斜めに小屋を差さし覗のぞいて、
﹁ござるかいの、お婆さん。﹂
と、片頬夕日に眩まぶしそう、ふくれた片頬は色の悪さ、蒼あおざめて藍あいのよう、銀色のどろりとした目、瞬またたきをしながら呼んだ。
駄菓子の箱を並べた台の、陰に入って踞しゃがんで居た、此こな方たの嫗おうなが顔を出して、
﹁主ぬしか。やれもやれも、お達者でござるわや。﹂
と、ぬいと起たつと、その紅べに糸いとの目が動く。
十
来たのが口もあけず、咽の喉どでものを云うように、顔も静じっと傾いたるまま、
﹁主ぬしもそくさいでめでたいぞいの。﹂
﹁お天気模様でござるわや。暑さには喘あえぎ、寒さには悩み、のう、時候よければ蛙かわずのように、くらしの蛇に追われるに、この年になるまでも、甘露の日ひよ和りと聞くけれども、甘い露は飲まぬわよ、ほほほ、﹂
と薄笑いした、また歯が黒い。
﹁おいの、さればいの、お互たがいに砂いさごの数ほど苦しみのたねは尽きぬ事いの。やれもやれも、﹂と言いながら、斜めに立った﹇#﹁立った﹂は底本では﹁立つた﹂﹈廂ひさしの下、何を覗のぞくか爪つま立だつがごとくにして、しかも肩腰は造りつけたもののよう、動かざること如くち朽きの木ごとし。
﹁若い衆しゅの愚ぐ痴ちより年よりの愚痴じゃ、聞く人も煩うるさかろ、措おかっしゃれ、ほほほ。のう、お婆さん。主はさてどこへ何を志して出てござった、山かいの、川かいの。﹂
﹁いんにゃの、恐しゅう歯がうずいて、きりきり鑿のみで抉えぐるようじゃ、と苦しむ者があるによって、私わしがまじのうて進じょうと、浜への針掘りに出たらばよ、猟師どもの風うわ説さを聞かっしゃれ。志す人があって、この川ぞいの三みつ股またへ、石地蔵が建つというわいの。﹂
それを聞いて、フト振向いた少年の顔を、ぎろりと、その銀色の目で流しり眄めにかけたが、取って十八の学生は、何事も考えなかった。
﹁や、風うわ説さきかぬでもなかったが、それはまことでござるかいの。﹂
﹁おいのおいの、こんな難あり有がたい奇特なことを、うっかり聞いてござる年と紀しではあるまいがや、ややお婆さん。
主は気が長いで、大方何じゃろうぞいの、地蔵様開かい眼げんが済んでから、杖つえを突つッ張ぱって参らしゃます心じゃろが、お互に年紀じゃぞや。今の時とき世よに、またとない結けち縁えんじゃに因って、半日も早うのう、その難あり有がたい人のお姿拝もうと思うての、やらやっと重たい腰を引ひっ立たてて出て来たことよ。﹂
紅べに糸いとの目はまた揺れて、
﹁奇特にござるわや。さて、その難あり有がたい人は誰でござる。﹂
﹁はて、それを知らしゃらぬ。主としたものは何ということぞいの。
このさきの浜際に、さるの、大おお長ちょ者うじゃどのの、お別荘がござるてよ。その長者の奥様じゃわいの。﹂
﹁それが御建立なされるかよ。﹂
﹁おいの、いんにゃいの、建てさっしゃるはその奥様に違いないが、発ほつ願がんした篤ここ志ろざしの方はまた別にあるといの。
聞かっしゃれ。
その奥様は、世にも珍らしい、三十二相そろわしった美しい方じゃとの、膚はだがあたたかじゃに因って人間よ、冷たければ天女じゃ、と皆いうのじゃがの、その長者どのの後うわ妻なりじゃ、うわなりでいさっしゃる。
よってその長者どのとは、三十の上も年紀が違うて、男の児こが一人ござって、それが今年十八じゃ。
奥様は、それ、継まま母ははいの。
気きだ立てのやさしい、膚も心も美しい人じゃによって、継母継まま児こというようなものではなけれども、なさぬなかの事なれば、万に一つも過あや失まちのないように、とその十四の春ごろから、行おこないの正しい、学のある先生様を、内へ頼みきりにして傍そばへつけておかしゃった。﹂
二人は正にそれなのである。
十一
﹁よいかの、十四の年からこの年まで、四五六七八と五年の間、寝るにも起おきるにも附添うて、しんせつにお教えなすった、その先生様のたんせいというものは、一ひと通とおりの事ではなかったとの。
その効かいがあってこの夏はの、そのお子がさる立派な学校へ入らっしゃるようになったに就いて、先生様は邸やしきを出て、自分の身から体だになりたいといわっしゃる。
それまで受けた恩があれば、お客分にして一生置き申そうということなれど、宗旨々々のお祖師様でも、行ゆきたい処へ行かっしゃる。無理やりに留めますことも出来んでのう。﹂
﹁ほんにの、お婆さん。﹂
﹁今度いよいよ長者どのの邸を出さっしゃるに就いて、長い間御恩になった、そのお礼心というのじゃよ。何ぞ早や、しるしに残るものを、と言うて、黄こが金ねか、珠た玉まか、と尋ねさっしゃるとの。
その先生様、地蔵尊の一体建立して欲しいと言わされたとよ。
そう云えば何となく、顔かお容かたちも柔和での、石の地蔵尊に似てござるお人じゃそうなげな。﹂
先生は面おもてを背けて、笑えみを含んで、思わずその口のあたりを擦こすったのである。
﹁それは奇特じゃ、小こど児もし衆ゅの世話を願うに、地蔵様に似さしった人は、結構にござることよ。﹂
﹁さればその事よ。まだ四十にもならっしゃらぬが、慾よくも徳も悟ったお方じゃ。何事があっても莞に爾こ々に々ことさっせえて、ついぞ、腹立たしったり、悲しがらしった事はないけに、何としてそのように難あり有がたい気になられたぞ、と尋ねるものがあるわいの。
先生様が言わっしゃるには、伝もない、教おしえもない。私わしはどうした結けち縁えんか、その顔かお色つきから容よう子すから、野中にぼんやり立たしましたお姿なり、心から地蔵様が気に入って、明あけ暮くれ、地蔵、地蔵と念ずる。
痛い時、辛い時、口くち惜おしい時、怨うらめしい時、情なさけない時と、事どもが、まああってもよ。待てな、待てな、さてこうした時に、地じぞ蔵うぼ菩さ薩つなら何となさる、と考えれば胸も開いて、気が安らかになることじゃ、と申されたげな。お婆さん、何と奇特な事ではないかの。﹂
﹁御奇特でござるのう。﹂
﹁じゃでの、何の心願というでもないが、何かしるしをといわるるで思いついた、お地蔵一体建立をといわっしゃる。
折から夏休みにの、お邸やし中きじゅうが浜の別荘へ来てじゃに就いて、その先生様も見えられたが、この川かわ添ぞいの小橋の際きわのの、蘆あしの中へ立てさっしゃる事になって、今日はや奥さまがの、この切通しの崖がけを越えて、二つ目の浜の石屋が方かたへ行ゆかれたげじゃ。
のう、先生様は先生様、また難あり有がたいお方として、浄おた財からを喜捨なされます、その奥様の事いの。
少わかい身そらに、御奇特な、たとえ御自分の心からではないとして、その先生様の思おぼ召しめしに嬉し喜んで従わせえましたのが、はや菩薩の御み弟で子しでましますぞいの。
七歳の竜女とやらじゃ。
結けち縁えんしょう。年をとると気きぜ忙わしゅうて、片時もこうしてはおられぬわいの、はやくその美しいお姿を拝もうと思うての。それで、はい、お婆さん、えッちらえッちら出て来たのじゃ。﹂
﹁おう、されば、これから二つ目へおざるかや。﹂
﹁さればいの、行くわいの。﹂
﹁ござれござれ。私わしも店をかたづけたら、路ばたへ出て、その奥様の、帰らしゃますお顔を拝もうぞいの。﹂
赤目の嫗おうなは自から深く打うち頷うなずいた。
十二
時に色の青い銀の目の嫗おうなは、対あい手ての頤おとがいにつれて、片がりながら、さそわれたように頷うなずいたが、肩を曲げたなり手を腰に組んだまま、足をやや横ざまに左へ向けた。
﹁帰かえ途りのほどは宵よい月づきじゃ、ちらりとしたらお姿を見はずすまいぞや。かぶりものの中、気をつけさっしゃれ。お方くらい、美しい、紅べにのついた唇は少ないとの。薄化粧に変りはのうても、膚はだの白いがその人じゃ、浜方じゃで紛まぎれはないぞの、可よいか、お婆さん、そんなら私わしは行くわいの。﹂
﹁茶一つ参らぬか、まあ可いいで。﹂
﹁預けましょ。﹂
﹁これは麁そま末つなや。﹂
﹁お雑作でござりました。﹂
と斉ひとしく前へ傾きながら、腰に手を据えて、てくてくと片足ずつ、右を左へ、左を右へ、一ツずつ蹈ふんで五いつ足あし六むあ足し。
﹁ああ、これな、これな。﹂
と廂ひさしの夕日に手を上げて、たそがれかかる姿を呼べば、蘆あしを裾すそなる背うし影ろかげ。
﹁おい、﹂とのみ、見も返らず、ハタと留まって、打傾いた、耳をそのまま言ことばを待つ。
﹁主ぬし、今のことをの、坂下の姉あねさまにも知らしてやらしゃれ、さだめし、あの児こも拝みたかろ。﹂
聞きつけて、件くだんの嫗、ぶるぶると頭かぶりを掉ふった。
﹁むんにゃよ、年と紀しが上だけに、姉あねさまは御ごし生ょうのことは抜からぬぞの。八丈ヶ島に鐘が鳴っても、うとい耳に聞く人じゃ。それに二つ目へ行かっしゃるに、奥様は通り路。もう先さっ刻きに拝んだじゃろうが、念のためじゃ立寄りましょ。ああ、それよりかお婆さん、﹂
と片かた頬ほを青く捻ねじ向けた、鼻筋に一つの目が、じろりと此こな方たを見て光った。
﹁主ぬし、数じゅ珠ずを忘れまいぞ。﹂
﹁おう、可よいともの、お婆さん、主、そのの針を落さっしゃるな。﹂
﹁御念には及ばぬわいの。はい、﹂
と言って、それなり前むこ途うへ、蘆を分ければ、廂ひさしを離れて、一人は店を引ひっ込こんだ。磯いその風一ひと時しきり、行ゆくものを送って吹いて、颯さっと返って、小屋をめぐって、ざわざわと鳴って、寂ひっ然そりした。
吻ほ々ほ吻ほと花やかな、笑い声、浜のあたりに遥はるかに聞ゆ。
時に一碗の茶を未いまだ飲干さなかった、先生はツト心着いて、いぶかしげな目で、まず、傍かたわらなる少年の並んで坐った背せなを見て、また四あた辺りをしたが、月夜の、夕日に返ったような思いがした。
嫗おうなの言ことばが渠かれを魅したか、その蘆の葉が伸びて、山の腰を蔽おおう時、水みな底そこを船が漕こいで、岡おか沙は魚ぜというもの土に跳ね、豆まめ蟹がにの穂ほず末えに月を見る状さまを、目まのあたりに目に浮べて、秋の夜の月の趣に、いつか心の取られた耳へ、蘆の根の泡立つ音、葉末を風の戦そよぐ声、あたかも天あめ地つちの呟つぶやき囁ささやくがごとく、我が身の上を語るのを、ただ夢のように聞きながら、顔の地蔵に似たなどは、おかしと現うつつにも思ったが、いつごろ、どの時分、もう一人の嫗おうなが来て、いつその姿が見えなくなったか、定かには覚えなかった。たとえば、そよそよと吹く風の、いつ来て、いつ歇やんだかを覚えぬがごとく、夕日の色の、何の機ときに我が袖そでを、山陰へ外れたかを語らぬごとく。
さればその間、およそ、時のいかばかりを過ぎたかを弁わきまえず、月夜とばかり思ったのも、明るく晴れた今日である。いつの程にか、継つぎ棹ざおも少年の手に畳まれて、袋に入って、紐までちゃんと結ゆわえてあった。
声をかけて見ようと思う、嫗は小屋で暗いから、他ほかの一人はそこへと見遣やるに、誰たれも無し、月を肩なる、山の裾、蘆をの寝姿のみ。
﹁賢、﹂
と呼んだ、我ながら雉き子じのように聞えたので、呟せきばらいして、もう一度、
﹁賢君、﹂
﹁は、﹂
と快活に返事する。
﹁今の婆さんは幾いく歳つぐらいに見えました。﹂
﹁この茶店のですか。﹂
﹁いや、もう一人、……ここへ来た年寄が居たでしょう。﹂
﹁いいえ。﹂
十三
﹁あれえ! ああ、あ、ああ……﹂
恐こわかった、胸が躍って、圧おさえた乳房重いよう、忌いまわしい夢から覚めた。――浦子は、独り蚊か帳やの裡うち。身の戦わななくのがまだ留やまねば、腕を組違えにしっかと両の肩を抱いた、腋わきの下から脈を打って、垂たら々たらと冷つめたい汗。
さてもその夜よは暑かりしや、夢の恐おそ怖れに悶もだえしや、紅もみ裏うらの絹の掻かい巻まき、鳩みず尾おちを辷すべり退のいて、寝ねま衣きの衣えも紋ん崩れたる、雪の膚はだえに蚊帳の色、残あり燈あけの灯に青く染まって、枕まくらに乱れた鬢びんの毛も、寝汗にしとど濡れたれば、襟えり白おし粉ろいも水の薫かおり、身はただ、今しも藻もく屑ずの中を浮び出でたかの思おもいがする。
まだ身から体だがふらふらして、床の途中にあるような。これは寝た時に今も変らぬ、別に怪しい事ではない。二つ目の浜の石屋が方かたへ、暮方仏像をあつらえに往いった帰りを、厭いやな、不気味な、忌わしい、婆ばばのあらもの屋の前が通りたくなさに、ちょうど満みち潮しおを漕こげたから、海み松る布めの流れる岩の上を、船で帰って来たせいであろう。艪ろを漕いだのは銑さんであった、夢を漕いだのもやっぱり銑さん。
その時は折おり悪あしく、釣船も遊ゆさ山んぶ船ねも出払って、船頭たちも、漁、地じび曳きで急がしいから、と石屋の親方が浜へ出て、小船を一艘そう借りてくれて、岸を漕いでおいでなさい、山から風が吹けば、畳を歩あ行るくより確たしかなもの、船をひっくりかえそうたって、海が合がっ点てんするものではねえと、大丈夫に承うけ合あうし、銑太郎もなかなか素人離れがしている由、人の風うわ説さも聞いているから、安心して乗って出た。
岩の間をすらすらと縫って、銑さんが船を持って来てくれる間、……私は銀の粉を裏ごしにかけたような美しい砂地に立って、足あし許もとまで藍あいの絵具を溶いたように、ひたひた軽く寄せて来る、浪に心は置かなかったが、またそうでもない。先さっ刻きの荒物屋が背うし後ろへ来て、あの、また変な声で、御ごし新んぞ姐さ様まや、といいはしまいかと、大抵気を揉もんだ事ではない。……
婆さんは幾らも居る、本宅のお針も婆さんなら、自分に伯母が一人、それもお婆さん。第一近い処が、今内に居る、松やの阿おふ母くろだといって、この間隣村から尋ねて来た、それも年より。なぜあんなに恐ろしかったか、自分にも分らぬくらい。
毛虫は怪しいものではないが、一目見ても総毛立つ。おなじ事で、たとえ不気味だからといって、ちっとも怪しいものではないと、銑さんはいうけれど、あの、黄こが金ねい色ろの目、黄きいろな顔、這はうように歩あ行るいた工合。ああ、思い出しても悚ぞ然っとする。
夫人は掻巻の裾すそに障さわって、爪つま尖さきからまた悚然とした。
けれどもその時、浜辺に一人立っていて、なんだか怪しいものなぞは世にあるものとは思えないような、気丈夫な考えのしたのは、自分が彳たたずんでいた七八間さきの、切きっ立たてに二丈ばかり、沖から燃ゆるような紅くれないの日影もさせば、一面には山の緑が月に映って、練ねり絹ぎぬを裂くような、柔やわらかな白しら浪なみが、根を一まわり結んじゃ解けて拡がる、大きな高い巌いわの上に、水色のと、白びゃ衣くえのと、水とき紅い色ろのと、西洋の婦人が三人。――
白衣のが一番上に、水色のその肩が、水紅色のより少し高く、一段下に二人並んで、指を組んだり、裳もすそを投げたり、胸を軽くそらしたり、時々楽しそうに笑ったり、話声は聞えなかったが、さものんきらしく、おもしろそうに遊んでいる。
それをまたその人々の飼犬らしい、毛色のいい、猟らっ虎このような茶色の洋か犬めの、口の長い、耳の大きなのが、浪際を放れて、巌いわの根に控えて見ていた。
まあ、こんな人たちもあるに、あの婆さんを妖ばけ物ものか何ぞのように、こうまで恐こわがるのも、と恥かしくもあれば、またそんな人たちが居る世の中に、と頼たの母もしく。……
と、浦子は蚊帳に震えながら思い続けた。
十四
ざんぶと浪に黒く飛んで、螺らせ線んを描く白い水みず脚あし、泳ぎ出したのはその洋か犬めで。
来るのは何ものだか、見届けるつもりであったろう。
長い犬の鼻づらが、水を出て浮いたむこうへ、銑さんが艪ろをおしておいでだった。
うしろの小松原の中から、のそのそと人が来たのに、ぎょっとしたが、それは石屋の親方で。
草履ばきでも濡れさせまいと、船がそこった間だけ、負おぶってくれて、乗ると漕こぎ出すのを、水にまだ、足を浸したまま、鷭ばんのような姿で立って、腰のふたつ提さげの煙たば草こい入れを抜いて、煙きせ管ると一所に手に持って、火皿をうつむけにして吹きながら、確かなもんだ確かなもんだと、銑さんの艪ろを誉ほめていた。
もう船が岩の間を出たと思うと、尖った舳へさきがするりと辷すべって、波の上へ乗ったから、ひやりとして、胴の間まへ手を支ついた。
その時緑青色のその切きっ立たての巌いわの、渚なぎさで見たとは趣がまた違って、亀の背にでも乗りそうな、中ごろへ、早薄うす靄もやが掛かかった上から、白びゃ衣くえのが桃色の、水色のが白の手ハン巾ケチを、二人で、小さく振ったのを、自分は胴の間に、半ば袖そでをついて、倒れたようになりながら、帽子の裡うちから仰いで見た。
二つ目の浜で、地じび曳きを引く人の数は、水を切った網の尖さきに、二筋黒くなって砂山かけて遥はるかに見えた。
船は緑の岩の上に、浅き浅あさ葱ぎの浪を分け、おどろおどろ海草の乱るるあたりは、黒き瀬を抜けても過ぎたが、首きり沈んだり、またぶくりと浮いたり、井いげ桁たに組んだ棒の中に、生いけ簀すがあちこち、三々五々。鴎かもめがちらちらと白く飛んで、浜の二階家のまわり縁を、行ゆきかいする女も見え、簾すだれを上げる団うち扇わも見え、坂道の切通しを、俥くるまが並んで飛ぶのさえ、手に取るように見えたもの。
陸くが近ぢかなれば憂きづ慮かいもなく、ただ景色の好よさに、ああまで恐ろしかった婆ばばの家、巨おお刹でらの藪やぶがそこと思う灘なだを、いつ漕ぎ抜けたか忘れていたのに、何を考え出して、また今の厭いなな年寄。……
――それが夢か。――
﹁ま、待って、﹂
はてな、と夫人は、白き頸うなじを枕まくらに着けて、おくれ毛の音するまで、がッくりと打うちかたむいたが、身の戦わななくことなお留やまず。
それとも渚の砂に立って、巌の上に、春はる秋あきの美しい雲を見るような、三人の婦人の衣きぬを見たのが夢か。海も空も澄み過ぎて、薄うす靄もやの風情も妙たえに余る。
けれども、犬が泳いでいた、月の中なら兎うさぎであろうに。
それにしても、また石屋の親方が、水に彳たたずんだ姿が怪しい。
そういえば用が用、仏像を頼みに行ゆくのだから、と巡じゅ礼んれ染いじみたも心嬉しく、浴衣がけで、草履で、二つ目へ出かけたものが、人の背せなかで浪を渡って、船に乗ろうとは思いもかけぬ。
いやいや思いもかけぬといえば、荒物屋の、あの老とし婆より。通りがかりに、ちょいとほんの燐マッ枝チを買いに入ったばかりで、あんな、恐ろしい、忌いまわしい不気味なものを、しかも昼間見ようとは、それこそ夢にも知らなかった。
船はそのためとして見れば、巌の婦人も夢ではない。石屋の親方が自分を背お負ぶって、世話をしてくれたのも、銑さんが船を漕いだのも、浪も、鴎も夢ではなくって、やっぱり今のが夢であろう。
――﹁ああ、恐しい夢を見た。﹂――
と肩がすくんで、裳もすそわなわな、瞳ひとみを据えて恐こわ々ごわ仰ぐ、天井の高い事。前後左右は、どのくらいあるか分らず、凄すごくてすことさえならぬ、蚊か帳やに寂しき寝乱れ姿。
十五
果して夢ならば、海も同じ潮入りの蘆あし間まの水。水のどこからが夢であって、どこまでが事実であったか。船はもう一ひと浪なみで、一つ目の浜へ着くようになった時、ここから上って、草くた臥びれた足でまた砂を蹈ふもうより、小おが川わじ尻りへ漕こぎ上あがって、薦の葉を一またぎ、邸やしきの背戸の柿の樹へ、と銑さんの言った事は――確たしかに今も覚えている。
艪ろよりは潮が押し入れた、川尻のちと広い処を、ふらふらと漕ぎのぼると、浪のさきが飜って、潮の加減も点ひと燈もしごろ。
帆柱が二本並んで、船が二艘そうかかっていた。舷ふなばたを横に通って、急に寒くなった橋の下、橋はし杭ぐいに水がひたひたする、隧トン道ネルらしいも一思い。
石垣のある土手を右に、左にいつも見る目より、裾すそも近ければ頂もずっと高い、かぶさる程なる山を見つつ、胴ぶくれに広くなった、湖のような中へ、他よ所その別荘の刎はね橋ばしが、流ながれの半なかば、岸近な洲すへ掛けたのが、満みち潮しおで板も除のけてあった、箱庭の電信ばしらかと思うよう、杭がすくすくと針金ばかり。三さん角かく形なりの砂地が向うに、蘆の葉が一ひと靡なびき、鶴の片かた翼つばさ見るがごとく、小松も斑ふに似て十とも本とほど。
暮れ果てず灯ともしは見えぬが、その枝の中を透く青あお田た越ごしに、屋根の高いはもう我が家。ここの小松の間を選んで、今日あつらえた地じぞ蔵うぼ菩さ薩つを――
仏様でも大事ない、氏神にして祭おま礼つりを、と銑さんに話しながら見て過ぎると、それなりに川が曲って、ずッと水が狭うなる、左右は蘆が渺びょうとして。
船がその時ぐるりと廻った。
岸へ岸へと支つかうるよう。しまった、潮が留とまったと、銑さんが驚いて言った。船べりは泡だらけ。瓜うりの種、茄な子すの皮、藁わらの中へ木の葉が交まじって、船も出なければ芥あくたも流れず。真水がここまで落ちて来て、潮に逆さからって揉もむせいで。
あせって銑さんのおした船が、がッきと当って杭くいに支つかえた。泡しぶ沫きが飛んで、傾いた舷ふなばたへ、ぞろりとかかって、さらさらと乱れたのは、一ひと束たばねの女の黒髪、二巻ばかり杭に巻いたが、下には何が居るか、泥で分らぬ。
ああ、芥の臭においでもすることか、海み松る布の香でもすることか、船へ搦からんで散ったのは、自分と同おな一じ鬢びん水みずの……
――浦子は寝ながら呼い吸きを引いた。――
――今も蚊帳に染む梅花の薫かおり。――
あ、と一声退のこうとする、袖そでが風に取られたよう、向うへ引かれて、靡なびいたので、此こな方たへ曳ひいて圧おさえたその袖に、と見ると怪しい針があった。
蘆の中に、色の白い痩やせた嫗おうな、高こう家けの後室ともあろう、品の可いい、目の赤いのが、朦もう朧ろうと踞しゃがんだ手から、蜘く蛛もの囲いかと見る糸一ひと条すじ。
身みも悶だえして引ひっ切きると、袖は針を外れたが、さらさらと髪が揺れ乱れた。
その黒髪の船に垂れたのが、逆さかさに上へ、ひょろひょろと頬ほおを掠かすめると思うと――︵今もおくれ毛が枕に乱れて︶――身から体だが宙に浮くのであった。
﹁ああ!﹂
船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、溺おぼれていたのが自分であろうか。
また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、その水、この枕、その夢の船、この身体、四角な室へやも穴めいて、膚はだえの色も水の底、おされて呼い吸きの苦しげなるは、早や墳おく墓つきの中にこそ。呵あな呀や、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、ハッと起きた。
枕を前に、飜った掻かい巻まきを背せなの力に、堅いもののごとく腕かいなを解いて、密そとその鬢びんを掻かき上あげた。我が髪ながらヒヤリと冷たく、褄つまに乱れた縮ちり緬めんの、浅あさ葱ぎも色の凄すごきまで。
十六
疲れてそのまま、掻かい巻まきに頬ほおをつけたなり、浦子はうとうととしかけると、胸の動どう悸きに髪が揺れて、頭かしらを上へ引かれるのである。
﹁ああ、﹂
とばかり声も出ず、吃びっ驚くりしたようにまた起直った。
扱しご帯きは一ひと層しおしゃらどけして、褄つまもいとどしく崩れるのを、懶ものうげに持て扱いつつ、忙せわしく肩で呼い吸きをしたが、
﹁ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、﹂
と重たい髷まげをうしろへ振って、そのまま仰のけざまに倒れそうな、身を揉もんで膝ひざで支えて、ハッとまた呼い吸きを吐つくと、トントンと岩に当って、時々崖がけを洗う浪。松風が寂しんとして、夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。
﹁松か、﹂
夫人は残あり燈あけに消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から女中を呼んだ。
けれども、直ぐに寐ね入いったものの呼よび覚さまされる時刻でない。
第一︵松、︶という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと心に思ったばかりであるか、それさえも現うつつである。
﹁松や、﹂と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心ここ許ろもとない。
まあ、口も利けなくなったのか、と情なさけなく、心細く、焦って、ええと、片手に左右の胸を揺ゆすって、
﹁松や、﹂と、急せき調子でもう一度。
︵松や、︶と細いのが、咽の喉どを放れて、縁が切れて、たよりなくどこからか、あわれに寂しく此こな方たへ聞えて、遥はるか間まを隔てた襖ふすまの隅で、人を呼んでいるかと疑われた。
﹁ああ、﹂とばかり、あらためて、その︵松や、︶を言おうとすると、溜ため息いきになってしまう。蚊帳が煽あおるか、衾ふすまが揺れるか、畳が動くか、胸が躍るか。膝を組み緊しめて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、乱れた褄つまもはらはらと靡なびく。
引ひッ掴つかんでまで、撫なでつけた、鬢びんの毛が、煩うるさくも頬へかかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に烈はげしくなるにつれ、上へ釣られそうな、夢の針、汀みぎわの嫗おうな。
今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に蘆あしが生えて、台所の煙けむ出だしが、水面へあらわれると、芥ごみ溜ためのごみが淀よどんで、泡立つ中へ、この黒髪が倒さかさに、髻たぶさから搦からまっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、さらさら水の流るる響ひびき。
恍うっ惚とりと気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。
船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って……
今、舷ふなべりへ髪の毛が。
﹁あッ、﹂と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、とあるにもあられず、ばたり膝を支つくと、胸を反らして、抜け出る状さまに、裳もすそを外。
蚊帳が顔へ搦んだのが、芬ぷんと鼻をついた水の香におい。引き息で、がぶりと一口、溺おぼるるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。
目もようよう判はっ然きりと、蚊帳の緑は水ながら、紅くれないの絹のへり、かくて珊さん瑚ごの枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、胸白き浴衣の色、腰の浅あさ葱ぎも黒髪も、夢ならぬその我が姿を、歴あり然ありと見たのである。
十七
しばらくして、浦子は玉ぎょくぼやの洋ラン燈プの心を挑あげて、明あかるくなった燈ともしに、宝石輝く指の尖さきを、ちょっと髯びんに触ったが、あらためてまた掻かき上あげる。その手で襟を繕って、扱しご帯きの下で褄つまを引合わせなどしたのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ切ないのに、飛んだ身から体だの世話をさせられて、迷惑であるがごとき思いがした。
且つその身体を棄すてもせず、老ま実めやかに、しんせつにあしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、床ゆかしく、優しく、嬉しいように感じたくらい。
一つくぐって鳩みず尾おちから膝ひざのあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、燈ともしを手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、小こよ用うに、と思い切った。
時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、冥めい途どの路みちか。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が駈かけ出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た蚊か帳やの内を窺うかがって見ることで。
蹴け出だしも雪の爪つま尖さきへ、とかくしてずり下り、ずり下る寝ねま衣きの褄つまを圧おさえながら、片手で燈をうしろへ引いて、ぼッとする、肩越のあかりに透かして、蚊帳を覗のぞこうとして、爪つま立だって、前髪をそっと差寄せては見たけれども、夢のために身を悶もだえた、閨ねやの内の、情なさけない状さまを見るのも忌いまわしし、また、何となく掻かい巻まきが、自分の形に見えるにつけても、寝ていて、蚊帳を覗うかがうこの姿が透いたら、気絶しないでは済むまいと、思わずよろよろと退すさって、引ひっくるまる裳もすそ危あやうく、はらりと捌さばいて廊下へ出た。
次の室へやは真まっ暗くらで、そこにはもとより誰も居ない。
閨ねやと並んで、庭を前に三間続きの、その一ひと室まを隔てた八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。
そこから別に裏庭へ突き出でた角座敷の六畳に、先生が寝ている筈はず。
その方ほうにも厠かわやはあるが、運ぶのに、ちと遠い。
件くだんの次の明あき室まを越すと、取とッ着つきが板戸になって、その台所を越した処に、松という仲なか働ばたらき、お三と、もう一人女中が三人。
婦おん人なばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。
それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく旦だん那なが留守の折からには、あけ方まで格子戸から灯あかりがさして、四五人で、ひそめくもの音。ひしひしと花ふだの響ひびきがするのを、保養の場所と大目に見ても、好いいこととは思わなかったが、時にこそよれ頼たの母もしい。さらばと、やがて廊下づたい、踵かかとの音して、するすると、裳もすその気けは勢いの聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と心嬉しく、明あき室まの前を急いで越すと、次なる小こべ室やの三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。
中うちから風も吹くようなり、傍わき正しょ面うめんの姿見に、勿な、映りそ夢の姿とて、首うな垂だるるまで顔を背そむけた。
新しい檜ひのきの雨戸、それにも顔が描かれそう。真まっ直すぐに向き直って、衝つと燈ともしびを差出しながら、突つきあたりへ辿たど々たどしゅう。
十八
ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。
壁は白いが、真まっ暗くらな中に居て、ただそればかりを力にした、玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音にハタと留やんだを、気の毒らしく思うまで、今こよ夜いはそれが嬉しかった。
浦子の姿は、無事に厠かわやを背うし後ろにして、さし置いたその洋ラン燈プの前、廊下のはずれに、媚なまめかしく露あらわれた。
いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、広庭一面、薄雲の影を宿して、屋根を越した月の影が、廂ひさしをこぼれて、竹垣に葉かげ大きく、咲きかけるか、今、開くと、朝あしたの色は何々ぞ。紺に、瑠る璃りに、紅べに絞しぼり、白に、水とき紅い色ろ、水みず浅あさ葱ぎ、莟つぼみの数は分らねども、朝あさ顔がお形なりの手ちょ水うず鉢ばちを、朦もう朧ろうと映したのである。
夫人は山の姿も見ず、松も見ず、松の梢こずえに寄る浪の、沖の景色にも目は遣やらず、瞳を恍うっ惚とり見据えるまで、一心に車夫部屋の灯ともしを、遥はるかに、船の夢の、燈台と力にしつつ、手を遣ると、……柄ひし杓ゃくに障さわらぬ。
気にもせず、なお上うわの空で、冷たく瀬戸ものの縁を撫なでて、手をのばして、向うまで辷すべらしたが、指にかかる木この葉もなかった。
目を返して透かして見ると、これはまた、胸に届くまで、近くあり。
直ぐに取ろうとする、柄杓は、水の中をするすると、反むこ対うまえに、山の方へ柄がひとりで廻った。
夫人は手のものを落したように、俯うつ向むいて熟じっと見る。
手水鉢と垣の間の、月の隈くま暗き中に、ほのぼのと白く蠢うごめくものあり。
その時、切きり髪かみの白しら髪がになって、犬のごとく踞つくばったが、柄杓の柄に、痩やせがれた手をしかとかけていた。
夕顔の実に朱の筋の入った状さまの、夢の俤おもかげをそのままに、ぼやりと仰あお向むけ、
﹁水を召されますかいの。﹂
というと、艶つややかな歯でニヤリと笑む。
息とともに身を退ひいて、蹌よ踉ろ々よ々ろと、雨戸にぴッたり、風に吹きつけられたようになって面おもてを背けた。斜はすッかいの化粧部屋の入口を、敷居にかけて廊下へ半身。真まっ黒くろな影法師のちぎれちぎれな襤ぼ褸ろを被きて、茶色の毛のすくすくと蔽おおわれかかる額のあたりに、皺しわ手でを合わせて、真まう俯つ向むけに此こな方たを拝んだ這はい身みの婆ばばは、坂下の藪やぶの姉あね様さまであった。
もう筋も抜け、骨崩れて、裳もすそはこぼれて手水鉢、砂地に足を蹈ふみ乱して、夫人は橋に廊下へ倒れる。
胸の上なる雨戸へ半面、ぬッと横ざまに突出したは、青ンぶくれの別の顔で、途端に銀色の眼まなこをむいた。
のさのさのさ、頭で廊下をすって来て、夫人の枕に近づいて、ト仰いで雨戸の顔を見た、額に二つ金の瞳、真まっ赤かな口を横ざまに開けて、
﹁ふァはははは、﹂
﹁う、うふふ、うふふ、﹂と傾かたがって、戸を揺ゆすって笑うと、バチャリと柄杓を水に投げて、赤目の嫗おうなは、
﹁おほほほほほ、﹂と尋常な笑い声。
廊下では、その握られた時氷のように冷たかった、といった手で、頬にかかった鬢びんの毛を弄もてあそびながら、
﹁洲すの股またの御ごぜ前んも、山の峡かいの婆さまも早かったな。﹂というと、
﹁坂下の姉あねさま、御苦労にござるわや。﹂と手水鉢から見越して言った。
銀の目をじろじろと、
﹁さあ、手を貸され、連れて行いにましょ。﹂
十九
﹁これの、吐つく呼い吸きも、引く呼吸も、もうないかいの、﹂と洲すの股またの御ごぜ前んがいえば、
﹁水くらわしや、﹂
と峡かいの婆ばばが邪じゃ慳けんである。
ここで坂下の姉あね様さまは、夫人の前髪に手をさし入れ、白き額を平手で撫なでて、
﹁まだじゃ、ぬくぬくと暖い。﹂
﹁手を掛けて肩を上げされ、私わしが腰を抱こうわいの。﹂
と例の横あるきにその傾いた形を出したが、腰に組んだ手はそのままなり。
洲の股の御前、傍かたわらより、
﹁お婆さん、ちょっとそのの針で口の端はた縫わっしゃれ、声を立てると悪いわや。﹂
﹁おいの、そうじゃの。﹂と廊下でいって、夫人の黒髪を両手で圧おさえた。
峡の婆、僅わずかに手を解き、頤おとがい﹇#ルビの﹁おとがい﹂は底本では﹁おとがひ﹂﹈で襟を探って、無ぶし性ょうらしく撮つまみ出した、指の爪つめの長く生はえ伸のびたかと見えるのを、一つぶるぶると掉ふって近づき、お伽とぎ話ばなしの絵に描いた外科医者という体ていで、震おののく唇に幽かすかに見える、夫人の白しら歯はの上を縫うよ。
浦子の姿は烈はげしく揺れたが、声は始めから得え立てなかった。目はいていたのである
﹁もう可よいわいの、﹂
と峡の婆、傍かたわらに身を開くと、坂の下の姉様は、夫人の肩の下へ手を入れて、両方の傍わきを抱いて起した。
浦子の身は、柔かに半ば起きて凭もたれかかると、そのまま庭へずり下りて、
﹁ござれ、洲の股の御前、﹂
といって、坂下の姉様、夫人の片手を。
洲の股の御前も、おなじく傍かたわらから夫人の片手を。
ぐい、と取って、引ひっ立たてる。右と左へ、なよやかに脇を開いて、扱しご帯きの端が縁を離れた。髪の根は髷まげながら、笄こうがいながら、がッくりと肩に崩れて、早や五いつ足あしばかり、釣られ工合に、手ちょ水うず鉢ばちを、裏の垣根へ誘われ行ゆく。
背うし後ろに残って、砂地に独り峡の婆、件くだんの手を腰に極きめて、傾かたがりながら、片手を前へ、斜めに一ひと煽あおり、ハタと煽ると、雨戸はおのずからキリキリと動いて閉しまった。
二人の婆に挟さしはさまれ、一いち人にんに導かれて、薄墨の絵のように、潜くぐ門りもんを連れ出さるる時、夫人の姿は後うしろざまに反って、肩へ顔をつけて、振返ってあとを見たが、名残惜しそうであわれであった。
時しも一面の薄うす霞がすみに、処々艶つやあるよう、月の影に、雨戸は寂しんと連つらなって、朝顔の葉を吹く風に、さっと乱れて、鼻紙がちらちらと、蓮れん歩ぽのあとのここかしこ、夫人をしとうて散ちり々ぢりなり。
* * * * *
あと白しら浪なみの寄せては返す、渚なぎさ長く、身はただ、黄なる雲を蹈ふむかと、裳もすそも空に浜辺を引かれて、どれだけ来たか、海の音のただ轟ごう々ごうと聞ゆるあたり。
﹁ここじゃ、ここじゃ。﹂
どしりと夫人の横よこ倒たおし。
﹁来たぞや、来たぞや、﹂
﹁今は早や、気随、気ままになるのじゃに。﹂
何いず処この果はてか、砂の上。ここにも船の形の鳥が寝ていた。
ぐるりと三人、三みつ鼎がなえに夫人を巻いた、金の目と、銀の目と、紅べに糸いとの目の六つを、凶あしき星のごとくキラキラと砂いさごの上に輝かしたが、
﹁地じぞ蔵うぼ菩さ薩つ祭れ、ふァふァ、﹂と嘲あざ笑わらって、山の峡かいがハタと手拍子。
﹁山の峡は繁はん昌じょうじゃ、あはは、﹂と洲すの股またの御ごぜ前ん、足を挙げる。
﹁洲の股もめでたいな、うふふ、﹂
と北ほく叟そ笑えみつつ、坂下の嫗おうなは腰を捻ひねった。
諸もろ声ごえに、
﹁ふァふァふァ、﹂
﹁うふふ、﹂
﹁あはははは。﹂
﹁坂の下祝いましょ。﹂
今度は洲の股の御前が手を拍うつ。
﹁地蔵菩薩祭れ。﹂
と山の峡が一足出る、そのあとへ臀いしきを捻って、
﹁山の峡は繁昌じゃ。﹂
﹁洲の股もめでたいな、﹂とすらりと出る。
拍子を取って、手を拍って、
﹁坂の下祝いましょ。﹂
据え腰で、ぐいと伸び、
﹁地蔵菩薩祭れ。﹂
﹁山の峡は繁昌じゃ、﹂
﹁洲の股もめでたいな、﹂
﹁坂の下祝いましょ、﹂
﹁地蔵菩薩祭れ。﹂
さす手ひく手の調子を合わせた、浪の調しらべ、松の曲。おどろおどろと月落ちて、世はただ靄もやとなる中に、ものの影が、躍るわ、躍るわ。
二十
ここに、一つ目と二つ目の浜はま境ざかい、浪間の巌いわを裾すそに浸して、路みち傍ばたに衝つと高い、一座螺らのごとき丘がある。
その頂へ、あけ方の目を血走らして、大息を吐ついて彳たたずんだのは、狭さじ島まに宿れる鳥山廉平。
例の縞しまの襯しゃ衣つに、その綛かすりの単ひと衣えを着て、紺の小こく倉らの帯をぐるぐると巻きつけたが、じんじん端ばし折ょりの空から脛ずねに、草履ばきで帽は冠かぶらず。
昨きの日うは折目も正しかったが、露にしおれて甲かい斐しょ性うが無さそう、高い処で投なげ首くびして、太いたく草くた臥びれた状さまが見えた。恐らく驚す破わといって跳ね起きて、別荘中、上を下へ騒いだ中に、襯衣を着けて一つ一つそのこはぜを掛けたくらい、落着いていたものは、この人物ばかりであろう。
それさえ、夜中から暁へ引出されたような、とり留めのないなり形かたち、他ほかの人々は思いやられる。
銑太郎、賢之助、女中の松、仲なか働ばたらき、抱え車夫はいうまでもない。折から居合わせた賭ぶち博な仲か間まの漁師も四五人、別荘を引ひっぷるって、八方へ手を分けて、急に姿の見えなくなった浦子を捜しに駈かけ廻る。今しがた路を挟んだ向う側の山の裾を、ちらちらと靄もやに点ともれて、松たい明まつの火の飛んだもそれよ。廉平がこの丘へ半ば攀よじ上った頃、消えたか、隠れたか、やがて見えなくなった。
もとより当あてのない尋ね人。どこへ、と見当はちっとも着かず、ただ足にまかせて、彼かな方た此こな方た、同じ処を四五度たびも、およそ二三里の路はもう歩あ行るいた。
不祥な言を放つものは、曰いわく厠かわやから月に浮かれて、浪に誘われたのであろうも知れず、と即すなわち船を漕こぎ出いだしたのも有るほどで。
死んだは、活いきたは、本宅の主人へ電報を、と蜘く蛛も手でに座敷へ散り乱れるのを、騒ぐまい、騒ぐまい。毛色のかわった犬一いっ疋ぴき、匂においの高い総菜にも、見る目、ぐ鼻の狭い土地がら、俤おもかげを夢に見て、山へ百合の花折りに飄ひょ然うぜんとして出かけられたかも料はかられぬを、狭島の夫人、夜半より、その行ゆく方えが分らぬなどと、騒ぐまいぞ、各おの自おの。心して内分にお捜し申せと、独り押鎮めて制したこの人。
廉平とても、夫人が魚うおの寄るを見ようでなし、こんな丘へ、よもや、とは思ったけれども、さて、どこ、という目めあ的てがないので、船で捜しに出たのに対して、そぞろに雲を攫つかむのであった。
目の下の浜には、細い木が五六本、ひょろひょろと風に揉もまれたままの形で、静まり返って見えたのは、時々潮が満ちて根を洗うので、梢こずえはそれより育たぬならん。ちょうど引潮の海の色は、煙の中に藍あいを湛たたえて、或あるいは十畳、二十畳、五畳、三畳、真まさ砂ごの床に絶えては連なる、平らな岩の、天あめ地つちの奇くしき手に、鉄かな槌づちのあとの見ゆるあり、削りかけの鑪やすりの目の立ったるあり。鑿のみの歯形を印したる、鋸のこぎりの屑くずかと欠かけ々かけしたる、その一つ一つに、白浪の打たで飜るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った海み松る、ところ、あわび、蠣かきなどいうものの、夜よ半わに吐いた気を収めず、まだほのぼのと揺ゆらぐのが、渚なぎさを籠こめて蒸すのである。
漁家二三。――深々と苫とま屋やを伏せて、屋根より高く口を開けたり、家より大きく底を見せたり、ころりころりと大おお畚びくが五つ六つ。
二十一
さてこの丘の根に引寄せて、一艘そう苫とまを掛けた船があった。海あ士まも簑みのきる時雨かな、潮の※しぶき﹇#﹁さんずい+散﹂、240-3﹈は浴びながら、夜露や厭いとう、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、女め男おの波の姿に拡げて、すらすらと乾した網を敷寝に、舳みよしの口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。
傍かたわらなる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、結い繞めぐらした蘆あし垣がきも、船も、岩も、ただなだらかな面おも平たいらに、空に躍った刎はね釣つる瓶べも、靄もやを放れぬ黒い線いとすじ。些さと凹凸なく瞰みお下ろさるる、かかる一枚の絵の中に、裳もすその端さえ、片かた袖そでさえ、美しき夫人の姿を、何いず処こに隠すべくも見えなかった。
廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に包まれた丘の上に、踏ふみはずしそうに崖がけの尖さき、五尺の地蔵の像で立ったけれども。
頭こうべを垂れて嘆息した。
さればこの時の風ふう采さいは、悪魔の手に捕えられた、一体の善ぜん女にょを救うべく、ここに天あま降くだった菩ぼさ薩つに似ず、仙家の僕しもべの誤って廬ろを破って、下界に追い下おろされた哀れな趣。
廉平は腕を拱こまぬいて悄しょ然うぜんとしたのである。時に海の上にひらめくものあり。
翼の色の、鴎かもめや飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。
帆風に散るか、露もや消えて、と見れば、海に露あらわれた、一面大おおいなる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。
ぴたりとついて留まったが、飜ひら然りと此こな方たへ向むきをかえると、渚なぎさに据すわった丘の根と、海なるその岩との間、離座敷の二三間、中に泉水を湛たたえた状さまに、路みち一ひと条すじ、東しの雲のめのあけて行ゆく、蒼あお空ぞらの透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、巌いわの面おもに靡なびく中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた海が近づき、やがて横ざまに軽かろくまた渚に止とまった。
帆の中より、水際立って、美しく水みず浅あさ葱ぎに朝露置いた大おお輪りんの花一輪、白砂の清き浜に、台うてなや開くと、裳もすそを捌さばいて衝つと下り立った、洋装したる一人の婦人。
夜よぼ干しに敷いた網の中を、ひらひらと拾ったが、朝景色を賞めずるよしして、四あた辺りを見ながら、その苫とま船ぶねに立寄って苫の上に片手をかけたまま、船の方を顧みると、千鳥は啼なかぬが友呼びつらん。帆の白きより白びゃ衣くえの婦人、水とき紅い色ろなるがまた一人、続いて前後に船を離れて、左右に分れて身軽に寄った。
二人は右の舷ふなばたに、一人は左の舷に、その苫船に身を寄せて、互たがいに苫を取って分けて、船の中を差さし覗のぞいた。淡きいろいろの衣きぬの裳は、長く渚へ引いたのである。
廉平は頂の靄を透かして、足許を差覗いて、渠かれ等ら三人の西洋婦人、惟おもうに誂あつらえの出来を見に来たな。苫をふいて伏せたのは、この人々の註文で、浜に新造の短ボオ艇トででもあるのであろう。
と見ると二人の脇の下を、飜ひら然りと飛び出した猫がある。
トタンに一人の肩を越して、空へ躍るかと、もう一匹、続いて舳へさきから衝つと抜けた。最後のは前脚を揃えて海へ一文字、細長い茶色の胴を一ひと畝うねり畝らしたまで鮮あざ麗やかに認められた。
前のは白い毛に茶の斑まだらで、中のは、その全身漆のごときが、長く掉ふった尾の先は、舳みよしを掠かすめて失うせたのである。
二十二
その時、前後して、苫とまからいずれも面おもてを離し、はらはらと船を退のいて、ひたと顔を合わせたが、方む向きをかえて、三人とも四あた辺りをして彳たたずむ状さま、おぼろげながら判はっ然きりと廉平の目に瞰みお下ろされた。
水みず浅あさ葱ぎのが立樹に寄って、そこともなく仰いだ時、頂なる人の姿を見つけたらしい。
手を挙げて、二三度続つづけざまに麾さしまねくと、あとの二人もひらひらと、高く手ハン巾ケチを掉ふるのが見えた。
要こそあれ。
廉平は雲を抱いだくがごとく上から望んで、見えるか、見えぬか、慌あわただしく領うなずき答えて、直ちに丘の上に踵くびすを回めぐらし、栄さざ螺えの形に切崩した、処々足がかりの段のある坂を縫って、ぐるぐると駈かけて下り、裾すそを伝うて、衝つと高く、ト一ひと飛とび低く、草を踏み、岩を渡って、およそ十四五分時を経て、ここぞ、と思う山の根の、波に曝さらされた岩の上。
綱もあり、立樹もあり、大きな畚びくも、またその畚の口と肩ずれに、船を見れば、苫葺ふいたり。あの位高かった、丘は近く頭かしらに望んで、崖の青あお芒すすきも手に届くに、婦おん人なたちの姿はなかった。白帆は早や渚なぎさを彼かな方たに、上からは平たいらであったが、胸より高く踞うずくまる、海の中なる巌いわかげを、明石の浦の朝霧に島がくれ行ゆく風情にして。
かえって別なる船一艘そう、ものかげに隠れていたろう。はじめてここに見みい出だされたが、一つ目の浜の方かたへ、半町ばかり浜のなぐれに隔つる処に、箱のような小船を浮べて、九つばかりと、八つばかりの、真まっ黒くろな男の児こ。一人はヤッシと艪ろづ柄かを取って、丸裸の小腰を据え、圧おすほどに突つッ伏ぷすよう、引くほどに仰のけ反ぞるよう、ただそこばかり海が動いて、舳へさきを揺り上げ、揺り下すを面白そうに。穉おさない方は、両手に舷ふなべりに掴つかまりながら、これも裸の肩で躍って、だぶりだぶりだぶりだぶりと同おな一じ処にもう一艘、渚に纜もやった親船らしい、艪ろを操る児の丈より高い、他の舷へ波を浴びせて、ヤッシッシ。
いや、道草する場合でない。
廉平は、言葉も通じず、国も違って便たよりがないから、かわって処置せよ、と暗示されたかのごとく、その苫とま船ぶねの中に何事かあることを悟ったので、心しながら、気は急ぎ、つかつかと毛けず脛ね﹇#ルビの﹁けずね﹂は底本では﹁げずね﹂﹈長く藁わら草ぞう履りで立寄った。浜に苫船はこれには限らぬから、確たしかに、上で見ていたのをと、頂を仰いで一度。まずその二人が前に立った、左の方の舷から、ざくりと苫を上へあげた。……
ざらざらと藁が揺れて、広き額を差入れて、べとりと頤あご髯ひげ一面なその柔和な口を結んで、足をやや爪つま立だったと思うと、両の肩で、吃おど驚ろきの腹を揉もんで、けたたましく飛び退のいて、下なる網に躓つまずいて倒れぬばかり、きょとんとして、太い眉の顰ひそんだ下に、眼まなこを円つぶらにして四あた辺りを眺めた。
これなる丘と相対して、対むこうなる、海の面おもにむらむらと蔓はびこった、鼠色の濃き雲は、彼かし処こ一座の山を包んで、まだ霽はれやらぬ朝あさ靄もやにて、もの凄すさまじく空に冲ひひって、焔ほのおの連つらなって燃もゆるがごときは、やがて九十度を越えんずる、夏の日を海気につつんで、崖に草なき赤あか地つちへ、仄ほのかに反映するのである。
かくて一つ目の浜は彎わん入にゅうする、海にも浜にもこの時、人はただ廉平と、親船を漕こぎ繞めぐる長幼二人の裸はだ児かごあるのみ。
二十三
得も言われぬ顔して、しばらく棒のごとく立っていた、廉平は何思いけん、足を此こな方たに返して、ずッと身を大きく巌いわの上へ。
それを下りて、渚なざさづたい、船を弄もてあそぶ小こど児もの前へ。
近づいて見れば、渠かれ等らが漕こぎ廻る親船は、その舳じくを波打際。朝あさ凪なぎの海、穏おだやかに、真まさ砂ごを拾うばかりなれば、纜もやいも結ばず漾ただよわせたのに、呑のん気きにごろりと大の字形なり、楫かじを枕の邯かん鄲たん子し、太い眉の秀でたのと、鼻筋の通ったのが、真ま向のけざまの寝顔である。
傍かたわらの船も、穉おさないものも、惟おもうにこの親の子なのであろう。
廉平は、ものも言わずに駈かけ歩あ行るいた声をまず調えようと、打うち咳しわぶいたが、えへん! と大きく、調子はずれに響いたので、襯しゃ衣つの袖口の弛ゆるんだ手で、その口許を蔽おおいながら、
﹁おい、おい。﹂
寝た人には内証らしく、低調にして小こど児もを呼んだ。
﹁おい、その兄さん、そっちの児こ。むむ、そうだ、お前達だ。上手に漕ぐな、甘うまいものだ、感心なもんじゃな。﹂
声を掛けられると、跳はね上あがって、船を揺ゆすること木この葉のごとし。
﹁あぶない、これこれ、話がある、まあ、ちょっと静まれ。
おお、怜りこ悧う々々、よく言うことを肯きくな。
何なんじゃ、外じゃないがな、どうだ余り感心したについて、もうちッと上手な処が見せてもらいたいな。
どうじゃ、ずッと漕げるか。そら、あの、そら巌のもっとさきへ、海の真まん中なかまで漕いで行ゆけるか、どうじゃろうな。﹂
寄やど居か虫りで釣る小こふ鰒ぐほどには、こんな伯父さんに馴なじ染みのない、人馴れぬ里の児は、目を光らすのみ、返事はしないが、年とし紀う上えなのが、艪ろの手を止めつつ、けろりで、合点の目めつ色きをする。
﹁漕げる? むむ、漕げる! 豪えらいな、漕いで見せな〳〵。伯父さんが、また褒美をやるわ。
いや、親おや仁じ、何よ、お前の父とっさんか、父とっ爺さんには黙ってよ、父爺に肯きくと、危いとか悪いた戯ずらをするなとか、何とか言って叱られら。そら、な、可いいか、黙って黙って。﹂
というと、また合がっ点てん々々。よい、と圧おした小腕ながら艪を圧す精巧な昆くろ倫ん奴ぼの器械のよう、シッと一声飛ぶに似たり。疾はやい事、但ただし揺れる事、中に乗った幼い方は、アハハアハハ、と笑って跳ねる。
﹁豪いぞ、豪いぞ。﹂
というのも憚はばかり、たださしまねいて褒めそやした。小船は見る見る廉平の高くあげた手の指を離れて、岩がくれにやがてただ雲をこぼれた点となンぬ。
親船は他愛がなかった。
廉平は急ぎ足に取って返して、また丘の根の巌を越して、苫とま船ぶねに立寄って、此こな方たの船ふな舷ばたを横に伝うて、二三度、同じ処を行ったり、来たり。
中ごろで、踞しゃがんで畚びくの陰にかくれたと思うと、また突つっ立たって、端の方から苫を撫なでたり、上からそっと叩きなどしたが、更にあちこちをして、ぐるりと舳へさきの方へ廻ったと思うと、向うの舷ふなばたの陰になった。
苫がばらばらと煽あおったが、﹁ああ﹂と息の下に叫ぶ声。藁わらを分けた艶えんなる片袖、浅あさ葱ぎの褄つまが船からこぼれて、その浴衣の染そめ、その扱しご帯き、その黒髪も、その手足も、ちぎれちぎれになったかと、砂に倒れた婦おん人なの姿。
二十四
﹁気を静めて、夫おく人さん、しっかりしなければ不い可けません。落着いて、可いいですか。心を確たしかにお持ちなさいよ。
判りましたか、私です。
何も恥かしい事はありません、ちっとも極きまりの悪いことはありませんです。しっかりなさい。
御覧なさい、誰も居ないです、ただ私一人です。鳥山たった一人、他ほかには誰も居おらんですから。﹂
海の方を背そびらにして安からぬ状さまに附添った、廉平の足許に、見得もなく腰を落し、裳もすそを投げて崩くず折おれつつ、両袖に面おもてを蔽おおうて、ひたと打泣くのは夫人であった。
﹁ほんとうに夫おく人さん、気を落着けて下さらんでは不い可けません。突いき然なり海へ飛込もうとなすったりなんぞして、串じょ戯うだんではない。ええ、夫おく人さん、心が確たしかになったですか。﹂
声にばかり力を籠こめて、どうしようにも先は婦おん人な、ひとえに目を見据えて言うのみであった。
風そよそよと呼い吸きするよう、すすりなきの袂たもとが揺れた。浦子は涙の声の下、
﹁先生、﹂と幽かすかにいう。
﹁はあ、はあ、﹂
と、纔わずかに便たよりを得たらしく、我を忘れて擦り寄った。
﹁私わ、私は、もう死んでしまいたいのでございます。﹂
わッとまた忍び音ねに、身みも悶だえして突伏すのである。
﹁なぜですか、夫おく人さん、まだ、どうかしておいでなさる、ちゃんとなさらなくッては不い可かんですよ。﹂
﹁でも、貴あな下た、私は、もう……﹂
﹁はあ、どうなすった、どんなお心持なんですか。﹂
﹁先生、﹂
﹁はあ、どうですな。﹂
﹁私が、あの、海へ入って死のうといたしましたのより、貴あな下たは、もっとお驚きなさいました事がございましょう。﹂
﹁……………………﹂
何と言おうと、黙って唾つを呑のむ。
﹁私が、私が、こんな処に船の中に、寝て、寝て、﹂
と泣いじゃくりして、
﹁寝かされておりましたのに、なお吃びっ驚くりなさいましてしょうねえ、貴下。﹂
﹁……ですが、それは、しかし……﹂とばかり、廉平は言うべき術すべを知らなかった
﹁先生、﹂
これぎり、声の出ない人になろうも知れず、と手に汗を握ったのが、我を呼ばれたので、力を得て、耳を傾け、顔を寄せて、
﹁は、﹂
﹁ここは、どこでございます。﹂
﹁ここですか、ここは、一つ目の浜を出では端ずれた、崖下の突とっ端ぱずれの処ですが、﹂
﹁もう、夜があけましたのでございますか。﹂
﹁明けたですよ。明方です、もう日が当るばかりです。﹂
聞くや否や、
﹁ええ!﹂とまた身を震わした。浦子はそれなり、腰を上げて立とうとして、ままならぬ身をあせって、
﹁恥かしい、私、恥かしいんですよ。先生、どうしましょう、人が見ます。人が来ると不い可けません、人に見られるのは厭いやですから、どうぞ死なして下さいまし、死なして下さいましよ。﹂
﹁と、ともかく。ですからな、夫おく人さん、人が来ない内に、帰りましょう。まだ大して人ひと通どおりもないですから。疾はやく、さあ、疾く帰ろうではありませんか。お内へ行って、まず、お心をお鎮めなさい、そうなさい。﹂
浦子は烈はげしく頭かぶりを掉ふった。
二十五
為せん術すべを知らず黙っても、まだ頭かぶりをふるのであるから、廉平は茫ぼう然ぜんとして、ただ拳こぶしを握って、
﹁どうなさる。こうしていらしっては、それこそ、人が寄って来るか分りません。第一、捜しに出ましたのでも四人や八人ではありません。﹂
言いも終らず、あしずりして、
﹁どうしましょう、私、どうしましょうねえ。どうぞ、どうぞ、貴あな下た、一思いに死なして下さいまし、恥かしくっても、死しが骸いになれば……﹂
泣くのに半ば言こと消きえて、
﹁よ、後生ですから、﹂
も曇れる声なり。
心弱くて叶かなうまじ、と廉平はやや屹きっとしたものいいで、
﹁飛んだ事を! 夫おく人さん、廉平がここに居おるです。決けして、決けして、そんな間まち違がいはさせんですよ。﹂
﹁どうしましょうねえ、﹂
はッと深く溜ため息いきつくのを、
﹁……………………﹂
ただ咽の喉どを詰めて熟じっと見つつ、思わず引き入れられて歎息した。
廉平は太い息して、
﹁まあ、貴あな女た、夫おく人さん、一体どうなさった。﹂
﹁訳を、訳をいえば貴あな下た、黙って死なして下さいますよ。もう、もう、もう、こんな汚けがらわしいものは、見るのも厭いやにおなりなさいますよ。﹂
﹁いや、厭になるか、なりませんか、黙って見殺しにしましょうか。何しろ、訳をおっしゃって下さい。夫おく人さん、廉平です。人にいって悪い事なら、私は盟ちかって申しませんです。﹂
この人の平生はかく盟うのに適していた。
﹁は、申します、先生、貴あな下ただけなら申します。﹂
﹁言うて下さるか、それは難あり有がたい、むむ、さあ、承りましょう。﹂
﹁どうぞ、その、その前さきに先生、どこへか、人の居ない、谷底か、山の中か、島へでも、巌いわ穴あなへでも、お連れなすって下さいまし。もう、貴あな下たにばかりも精一杯、誰にも見せられます身から体だではないんです。﹂
袖を僅わずかに濡れたる顔、夢見るように恍うっ惚とりと、朝ぼらけなる酔すい芙ふよ蓉う、色をさました涙の雨も、露に宿ってあわれである。
﹁人の来ない処といって、お待ちなさい、船ででもどちらへか、﹂
と心当りがないでもなかった。沖の方へ見え初そめて、小こど児もの船が靄もやから出て来た。
夫人は時にあらためて、世に出たような目まなざししたが、苫とま船ぶねを一目見ると、目まぶちへ、颯さっと――蒼あおざめて、悚ぞ然っとしたらしく肩をすくめた、黒髪おもげに、沖の方かた。
﹁もし、﹂
﹁は、﹂
﹁参られますなら、あすこへでも。﹂
いかにも人は籠こもらぬらしい、物もの凄すさまじき対むこ岸うの崖、炎を宿して冥めい々めいたり。
﹁あんな、あんなその、地獄の火が燃えておりますような、あの中へ、﹂
﹁結構なんでございます、﹂と、また打うち悄しおれて面おもてを背ける。
よくよくの事なるべし。
﹁参りましょうか。靄が霽はれれば、ここと向い合った同おな一じような崖下でありますけれども、途中が海で切れとるですから、浜づたいに人の来る処ではありません。
御覧なさい、あの小こど児もの船を。大丈夫漕こぐですから、あれに乗せてもらいましょう、どうです。﹂
夫人は、がッくりして頷うなずいた、ものを言うも切なそうに太いたく疲労して見えたのである。
﹁夫おく人さん、それでは。﹂
﹁はい、﹂
と言って礼心に、寂しい笑顔して、吻ほっと息。
二十六
﹁そんな、そんな貴あな女た、詰つまらん、怪けしからん事があるべき次わ第けのものではないです。汚けがれた身から体だだの、人に顔は合わされんのとお言いなさるのはその事ですか。ははははは、いや、しかし飛んだ目にお逢あいでした。ちっとも御心配はないですよ。まあ、その足をお拭ふきなさい。突然こんな処へ着けたですから、船を離れる時、酷ひどくお濡れなすったようだ。﹂
廉平は砥とに似て蒼あおき条すじのある滑なめらかな一座の岩の上に、海に面して見すぼらしく踞しゃがんだ、身にただ襯しゃ衣つを纏まとえるのみ。
船の中でも人目を厭いとって、紺がすりのその単ひと衣えで、肩から深く包んでいる。浦子の蹴け出だしは海の色、巌いわ端ばなに蒼あお澄ずみて、白しら脛はぎも水に透くよう、倒れた風情に休らえる。
二人は靄もやの薄模様。
﹁構わんですから、私の衣きも服のでお拭きなさい。
何、寒くはないです、寒いどころではないですが、貴女、裾すそが濡れましたで、気味が悪いでありましょう。﹂
﹁いえ、もう潮に濡れて気味が悪いなぞと、申されます身から体だではありません。﹂と、投げたように岩の上。
﹁まだ、おっしゃる!﹂
﹁ははは、﹂と廉平は笑い消したが、自分にも疑いの未いまだ解けぬ、蘆あしの中なる幻まぼ影ろしを、この際なれば気けもない風で、
﹁夢の中を怪しいものに誘い出されて、苫とま船ぶねの中で、お身体を……なんという、そんな、そんな事がありますものかな。﹂
﹁それでも私、﹂
と、かかる中にも夫人は顔を赧あからめた。
﹁覚えがあるのでございますもの。貴あな下たが気をつけて下すって、あの苫船の中で漸よう々よう自分の身体になりました時も、そうでした、……まあ、お恥かしい。﹂
といいかけて差さし俯うつ向むく、額に乱れた前髪は、歯にも噛かむべく怨うらめしそう。
﹁ですが、ですが、それは心の迷いです。昨きの日うあたりからどうかなさって、お身から体だの工合が悪いのでしょう。西洋なぞにも、﹂
言ことばの下に聞き咎とがめ、
﹁西洋とおっしゃれば、貴あな下たは西洋の婦おん人なの方が、私のつかまっておりました船の中を覗のぞいて見て、仔しさ細いがありそうに招いたのを、丘の上から御覧なすって、それでお心着きになりましたって。
その時も、苫を破って獣が飛んで行ったとおっしゃるではございませんか。
ですから私は、﹂
と早や力なげに、なよなよとするのであった。
﹁いや、﹂
と当あてなしに大きく言った、が、いやな事はちっともない。どうして発みい見だしたかを怪しまれて、湾の口を横ぎって、穉おさ児なごに船を漕こがせつつ、自分が語ったは、まずその通とおり。
﹁ですけれども、何ですな。﹂
﹁いいえ﹂
今度は夫人から遮って、
﹁もう昨きの日う、二つ目の浜へ参りました途中から、それはそれは貴あな下た、忌いまわしい恐ろしい事ばかりで、私は何だか約束ごとのように存じます。
三十という年に近いこの年になりますまで、少わかい折から何一つ苦労ということは知りませんで、悲しい事も、辛い事もついぞ覚えはありません、まだ実家には両親も達者で居ます身の上ですもの。
腹の立った事さえござんせん、余あんまり果報な身から体だですから、盈みつれば虧かくるとか申します通り、こんな恐しい目に逢いましたので。唯ただ今いまここへ船を漕いでくれました小こど児もたちが、年こそ違いますけれども、そっくり大きいのが銑さん、小さい方が賢之助に肖にておりましたのも、皆みんな私の命数で、何かの因縁なんでございましょうから。﹂
いうことの極めて確かに、心狂える様子もないだけ、廉平は一ひと層しお慰めかねる。
二十七
夫人はわずかに語るうちも、あまたたび息を継ぎ、
﹁小こど児もと申しても継まましい中で、それでも姉きょ弟うだいとも、真ほんの児ことも、賢之助は可愛くッてなりません。ただ心にかかりますのはそれだけですが、それも長年、貴あな下たが御丹精下さいましたお庇かげで、高等学校へ入学も出来ましたのでございますから、きっと私の思いでも、一人前になりましょう。
もう私は、こんな身から体だ、見るのも厭いやでなりません。ぶつぶつ切って刻んでも棄すてたいように思うんですもの、ちっとも残り惜おしいことはないのですが、慾よくには、この上の願いには、これが、何か、義理とか意気とか申すので死ぬんなら、本望でございますのに、活いきながら畜生道とはどうした因果なんでございましょうねえ。﹂
と、心もやや落着いたか、先のようには泣きもせで、濁りも去った涼しい目に、ほろりとしたのを、熟じっと見て、廉平堪たまりかねた面おも色もちして、唇をわななかし、小鼻に柔和な皺しわを刻んで、深く両手を拱こまぬいたが、噫ああ、我かつて誓うらく、いかなる時にのぞまんとも、我わが心、我が姿、我が相好、必ず一体の地蔵のごとくしかくあるべき也なりと、そもさんか菩ぼさ薩つ。
﹁夫おく人さん、どうしても、貴あな女た、怪あやしい獣に……という、疑うたがいは解けんですか。﹂
﹁はい、お恥かしゅう存じます。﹂と手を支ついて、誰たれにか詫わび入る、そのいじらしさ。
眼まなこを閉じたが、しばらくして、
﹁恐るべきです、恐るべきだ。夢ゆめ現うつつの貴あな女たには、悪あく獣じゅうの体たいに見えましたでありましょう。私の心は獣けだものでした。夫おく人さん、懺ざん悔げをします。廉平が白状するです。貴女に恥辱を被らしたものは、四よつ脚あしの獣ではない、獣のような人間じゃ。
私です。
鳥山廉平一生の迷いじゃ、許して下さい。﹂と、その襯しゃ衣つばかりの頸うなじを垂れた。
夫人はハッと顔を上げて、手をつきざまに右とみ視こ左う瞻みつつ、背せなに乱れた千ちす筋じの黒髪、解くべき術すべもないのであった。
﹁許して下さい。お宅へ参って、朝夕、貴あな女たに接したのが因果です。賢君に対して殆ほとんど献身的に尽したのは、やがて、これ、貴女に生命を捧げていたのです。
未いまだ四十という年にもならんで、御存じの通り、私は、色気もなく、慾気もなく、見得もなく、およそ出世間的に超然として、何か、未来の霊光を認めておるような男であったのを御存じでしょう。
なかなか以もって、未来の霊光ではなく、貴女のその美しいお姿じゃった。
けれども、到底尋常では望みのかなわぬことを悟ったですから、こんど当地の別荘をおなごりに、貴女のお傍そばを離れるに就いて、非常な手段を用いたですよ。
五年勤労に酬むくいるのに、何か記念の品をと望まれて、悟さとりも徳もなくていながら、ただ仏体を建てるのが、おもしろい、工合のいい感じがするで、石地蔵を願いました。
今の世に、さような変ったことを言い、かわったことを望むものが、何……をするとお思いなさる。
廉平は魔法づかいじゃ。﹂
と石上に跣ふ坐ざしたその容よう貌ぼう、その風ふう采さい、或はしかあるべく見えるのであった。
夫人は、ただもの言わんとして唇のわななくのみ。
﹁貴あな女たも、昨きの日う、その地蔵をあつらえにおいでの途中から、怪しいものに憑つかれたとおっしゃった。……
すべて、それが魔法なので、貴女を魅して、夢ゆめ現うつつの境きょうに乗じて、その妄もう執しゅうを晴しました。
けれども余りに痛いたわしい。ひとえに獣にとお思いなすって、玉のごときそのお身から体だを、砕いて切っても棄すてたいような御ごよ容う子すが、余りお可かわ哀いそ相うで見ておられん。
夫おく人さん、真の獣よりまだこの廉平と、思おぼし召す方が、いくらかお心が済むですか。﹂
夫人はせいせい息を切った。
二十八
﹁どうですか、余り推おしつけがましい申もう分しぶんではありますが、心はおなじ畜生でも、いくらか人間の顔に似た、口を利く、手足のある、廉平の方が可いいですか。﹂
口へ出すとよりは声をのんで、
﹁貴あな下た、﹂
﹁…………﹂
﹁貴下、﹂
﹁…………﹂
﹁貴下、ほんとうでございますか。﹂
﹁勿論、懺ざん悔げしたのじゃで。﹂
と、眉を開いてきっぱりという。
膝ひざでじりりとすり寄って、
﹁ええ、嬉しい。貴下、よくおっしゃって下さいました。﹂
としっかと膝に手をかけて、わッとまた泣きしずむ。廉平は我ながら、訝あやしいまで胸がせまった。
﹁私と言われて、お喜びになりますほど、それほどの思おもいをなさったですか。﹂
﹁いいえ、もう、何ともたとえようはござんせん。死んでも死しが骸いが残ります、その獣の爪つめのあと舌のあとのあります、毛だらけな膚はだが残るのですもの。焼きましても狐きつね狸たぬきの悪い臭においがしましょうかと、心残りがしましたのに、貴あな下た、よく、思い切ってそうおっしゃって下さいました。快よく死なれます、死なれるんでございますよ。﹂
﹁はてさて、﹂
﹁………………﹂
﹁じゃ、やっぱり、死ぬのを思い止まっちゃ下さらん。﹂
顔を見合わせ、打うち頷うなずき、
﹁むむ、成程、﹂
と腕を解いて、廉平は従しょ容うようとして居直った。
﹁成程、そうじゃ。貴あな女たほどのお方が、かかる恥辱をお受けなさって、夢にして、ながらえておいでなさる筈はずではないのじゃった。
懺悔をいたせば、悪い夢とあきらめて、思い直して頂けることもあろうかと思ったですが、いかにも取返しのつかんお身から体だにしたのじゃった、恥入ります。
夫おく人さん、貴女ばかりは殺しはせんのじゃ。﹂
﹁いいえ、飛んだことをおっしゃいます。殿方には何でもないのでございますもの、そして懺悔には罪が消えますと申します、お怨うらみには思いません。﹂
﹁許して下さるか。﹂
﹁女の口から行ゆき過ぎではございますが、﹂
﹁許して下さる。﹂
﹁はい、﹂
﹁それではどうぞ、思い直して、﹂
﹁私はもう、﹂
と衝つと前まえ褄づまを引寄せる。岩の下を掻かいくぐって、下の根のうつろを打って、絶えず、丁トン々トンと鼓の音の響いたのが、潮や満ち来る、どッと烈はげしく、ざぶり砕けた波がしら、白しら滝たきを倒さかしまに、颯さっとばかり雪を崩して、浦子の肩から、頭つむりから。
﹁あ、﹂と不意に呼い吸きを引いた。濡れしおたれた黒髪に、玉のつらなる雫しずくをかくれば、南なむ無さ三ん浪に攫さらわるる、と背せなを抱くのに身を恁もたせて、観念した顔かんばせの、気高きまでに莞にっ爾ことして、
﹁ああ、こうやって一思いに。﹂
﹁夫おく人さん、おくれはせんですよ。﹂と、顔につららを注いで言った。打返しがまたざっと。
﹁※しぶき﹇#﹁さんずい+散﹂、261-9﹈がかかる、※﹇#﹁さんずい+散﹂、261-9﹈がかかる、危いぞ。﹂
と、空から高く呼とばわる声。
靄もやが分れて、海うな面づらに兀こつとして聳そびえ立った、巌いわつづきの見上ぐる上。草蒸す頂に人ありて、目の下に声を懸けた、樵きこ夫りと覚しき一ひと個りの親おや仁じ。面おもて長く髪の白きが、草色の針はり目めぎ衣ぬに、朽くち葉ばい色ろの裁たッ着つけ穿はいて、草わら鞋んじを爪つま反ぞりや、巌いわ端ばなにちょこなんと平ひら胡あぐ坐らかいてぞいたりける。
その岩の面おもにひたとあてて、両手でごしごし一挺ちょうの、きらめく刃物を悠々と磨といでいたり。
磨ぎつつ、覗のぞくように瞰みお下ろして、
﹁上へ来さっしゃい、上へ来さっしゃい、浪に引かれると危いわ。﹂
という。浪は水晶の柱のごとく、倒さかしまにほとばしって、今つッ立った廉平の頭上を飛んで、空ざまに攀よずること十丈、親仁の手許の磨ぎ汁を一ひと洗あら滌い、白き牡ぼた丹んの散るごとく、巌いわ角かどに飜って、海うな面づらへざっと引く。
﹁おじご、何を、何をしてござるのか。﹂と、廉平はわざと落着いて、下からまず声を送った。
﹁石いし鑿のみを研ぐよ。二つ目の浜の石屋に頼まれての、今度建立さっしゃるという、地蔵様の石を削るわ。﹂
﹁や、親お仁じ御ごがな。﹂
﹁おお、此こな方たし衆ゅはその註文のぬしじゃろ。そうかの。はて、道理こそ、婆ば々ばどもが附き纏まとうぞ。﹂
婆々と云うよ、生しょ死うしを知らぬ夫人の耳に、鋭くその鑿をもって抉えぐるがごとく響いたので、
﹁もし、﹂と両膝をついて伸び上った。
﹁婆ばばとお云いなさいますのは。﹂
﹁それ、銀目と、金目と、赤い目の奴やつ等らよ。主ぬし達たちが功徳での、地蔵様が建ったが最後じゃ。魔物め、居いど処こがなくなるじゃで、さまざまに祟たたりおって、命まで取ろうとするわ。女おな子ごし衆ゅ、心配さっしゃんな、身から体だは清いぞ。﹂
とて、鑿のみをこつこつ。
﹁何様それじゃ、昨きの日うから、時々黒雲の湧わくように、我等の身体を包みました。婆というは、何ものでござるじゃろう。﹂と、廉平は揖ゆうしながら、手を翳かざして仰いで言った。
皺しわ手でに呼い吸きをハッとかけ、斜めに丁ちょうと鑿を押えて、目一杯に海を望み、
﹁三千世界じゃ、何でも居ようさ。﹂
﹁どこに、あの、どこに居ますのでございますえ。﹂
﹁それそれそこに、それ、主たちの廻りによ。﹂
﹁あれえ、﹂
﹁およそ其そい奴つ等らがなす業じゃ。夜一夜踊りおって﹇#﹁踊りおって﹂は底本では﹁踊りおつて﹂﹈騒々しいわ、畜生ども、﹂
とハタと見るや、うしろの山に影大きく、眼まなこの光爛らん々らんとして、知るこれ天宮の一将星。
﹁動くな!﹂
と喝かっする下に、どぶり、どぶり、どぶり、と浪よ、浪よ、浪よ渦うずまくよ。
同時に、衝つとその片手を挙げた、掌たなごころの宝刀、稲妻の走るがごとく、射て海に入いるぞと見えし。
矢よりも疾はやく漕こぎ寄よせた、同じ童わらべが艪ろを押して、より幼き他の児ちごと、親船に寝た以さ前きの船頭、三体ともに船に在あり。
斜めに高く底見ゆるまで、傾いた舷ふなべりから、二人にん半身を乗り出いだして、うつむけに海を覗のぞくと思うと、鉄くろがねの腕かいな、蕨わらびの手、二条の柄がすっくと空、穂ほさ尖きを短みじかに、一斉に三みつ叉またの戟ほこを構えた瞬間、畳およそ百余畳、海一面に鮮から血くれない。
見よ、南海に巨人あり、富士山をその裾に、大島を枕にして、斜めにかかる微妙の姿。青あお嵐あらしする波の彼かな方たに、荘そう厳ごんなること仏のごとく、端麗なること美人に似たり。
怪しきものの血潮は消えて、音するばかり旭あさひの影。波を渡るか、宙を行ゆくか、白き鵞がち鳥ょうの片かた翼つばさ、朝風に傾く帆かげや、白びゃ衣くえ、水とき紅い色ろ、水みず浅あさ葱ぎ、ちらちらと波に漏れて、夫人と廉平が彳たたずめる、岩山の根の巌いわに近く、忘るるばかりに漕ぐ蒼あお空ぞら。魚うおあり、一尾舷ふなばたに飛んで、鱗うろこの色、あたかも雪。
==篇中の妖婆 の言葉(がぎぐげご)は凡 て、半濁音にてお読み取り下されたく候==
明治三十八(一九〇五)年十二月