篠蟹 檜木笠 銀貨入 手に手 露地の細路 柳に銀の舞扇
河童御殿 栄螺と蛤 おなじく妻 横槊賦詩 羆の筒袖
縁日がえり サの字千鳥 梅ヶ枝の手水鉢 口紅 一重桜
伐木丁々 空蝉 彩ある雲 鴛鴦 生理学教室 美挙 怨霊比羅
一口か一挺か 艸冠 河岸の浦島 頭を釘 露霜
彗星 綺麗な花 振向く処を あわせかがみ 振袖
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篠蟹
一
﹁お客に舐なめさせるんだとよ。﹂ ﹁何を。﹂ ﹁その飴あめをよ。﹂ 腕白ものの十とおウ九ツ、十一二なのを頭かしらに七八人。春の日永に生なま欠あく伸びで鼻の下を伸している、四辻の飴屋の前に、押おし競くら饅まん頭じゅうで集った。手に手に紅だの、萌もえ黄ぎだの、紫だの、彩った螺ば貝いの独こ楽ま。日本橋に手の届く、通とおり一つの裏町ながら、撒まき水みずの跡も夢のように白く乾いて、薄い陽かげ炎ろうの立つ長のど閑かさに、彩色した貝は一枚々々、甘い蜂、香かんばしき蝶になって舞いそうなのに、ブンブンと唸うなるは虻あぶよ、口々に喧やかましい。 この声に、清らな耳みみ許もと、果は敢かなげな胸のあたりを飛廻られて、日ひな向たに悩む花がある。 盛の牡ぼた丹んの妙とし齢ごろながら、島し田ま髷だの縺もつれに影が映さす……肩揚を除とったばかりらしい、姿も大柄に見えるほど、荒い絣かすりの、いささか身幅も広いのに、黒くろ繻じゅ子すの襟の掛った縞しま御おめ召しの一枚着、友ゆう染ぜんの前まえ垂だれ、同おん一なじで青い帯。緋ひが鹿の子この背しょ負いあ上げした、それしゃと見えるが仇あど気けない娘風ふ俗う、つい近所か、日傘も翳ささず、可愛い素足に台所穿ばきを引掛けたのが、紅と浅黄で羽を彩る飴あめの鳥と、打ぶっ切きり飴の紙袋を両の手に、お馴なじ染みの親おや仁じの店。有りはしないが暖のれ簾んを潜くぐりそうにして出た処を、捌さばいた褄つまも淀むまで、むらむらとその腕白共に寄って集たかられたものである。 ﹁煮てかい、焼いてかい。﹂ ﹁何、口からよ。﹂ と、老ま成せた事を云って、中でも矮ち小びが、鼻まで届きそうな舌を上うわ舐なめにべろんと行やる、こいつが一芸。 ﹁まあ、可お笑かしい。﹂ 若い妓こは、優しく伏目に莞にっ爾こりして、 ﹁お客様が飴なんか。大概御ごし酒ゅをあがるんですもの。﹂ で、ちょっと紙袋を袖で抱く。 ﹁それだってよ、それでもよ、髯ひげへ押おッ着つけやがるじゃねえか。﹂ ﹁不みず見てん手さ様ん。﹂とまた矮小が、舌をべろんと飜ひるがえす。 若い妓は柔おとなしかった。むっともしそうな頬はなお細って見えて、 ﹁あら、大おおきな声をするもんじゃないことよ。﹂ ﹁だって、看板に掛けてやがって。﹂と一人が前を遮るように、独楽の手たぐ繰りをずるりと伸す。 ﹁違ったか。雪や氷、冷おべたい氷よ。そら水の上に丶チョンなんだ。﹂ ﹁不見手様。﹂と矮小が頤あごでしゃくる。 ﹁矮小やい、舌を出せ。﹂ ﹁出せよ、畜生。﹂ ﹁ううん、ううん、そう号令を掛けちゃ出せやしませんさ。﹂ と焦って頭ず突きに首を振る。 ﹁馬鹿、咽の喉どぼとけを掴つかんでいやがる。﹂ ﹁ほほほ。﹂と、罪の無い皓しら歯はの莟つぼみ。 ﹁畜生、笑ったな、不見手。﹂ と矮小は、ぐいと腕を捲まくった。 ﹁可い厭や、また……大おおきな声をして。﹂ ﹁大な声がどうしたんでえ。﹂ と、一人の兄に哥いさん、六代目の仮こわ声いろさ。二
その若い妓は、可愛い人形を抱くように、胸へ折った片袖で、面おもてを蔽おおう姿して、 ﹁堪忍して下さいな。﹂ と遣やる瀬せなさそうに悄しおれて云う。 ﹁やあ、謝あや罪まるぜ、ぐうたらやい。﹂ ﹁不見手よりか心とこ太ろてんだい。﹂ またしてもこの高声、はっとしたらしく袖を翳かざして、若い妓は隠れたそうに、 ﹁内ない証しょなのよ、ねえ、後生よ。姉さんに聞えると腹を立ちますわ。﹂ ﹁何を云ってやんでえ。﹂ ﹁分るもんか。﹂ 矮小が抜からず、べろん、と出して、 ﹁お前ン許とこの姉さんは、町内の狂きち人がいじゃねえかよ。﹂ ﹁其そい奴つも怪しいんだぜ、お夥なか間まだい。﹂ と背うし後ろから喚わめくと、間近に、︵何。︶とか云う鮨すし屋やの露地口。鼬いたちのようにちょろりと出た同おな一じ腕白。下心あって、用意の為に引込んでいたらしい。芥ごみ溜ためを探したか、皿から浚さらったか、笹ッ葉一束、棒切の尖さきへ独楽なわで引ひっ括くくった間に合せの小道具を、さあ来い、と云う身で構えて、駆寄ると、若い妓の島田の上へ突着けた、ばさばさばッさり。 が、黙って、何にも言わないで、若い妓は俯うつ向むいて歩あ行るき出す。 頸うな摺じずれに、突着け、突つッ掛かけ、 ﹁やあ、おいらんの道中々々!﹂ ﹁大高、旨うまいぞ。﹂と一人が囃はやす。 ﹁おっと任せの、千崎弥やご五ろ郎う。﹂ 矮小が、心得、抜ぬき衣えも紋んの突つつ袖そでで、据腰の露払。早さそ速くに一人が喜助と云う身で、若い妓の袖に附くッ着つく、前あと後さきにずらりと六人、列を造って練りはじめたので、あわれ、若い妓の素足の指は、爪つま紅べにが震えて留まる。 此こい奴つ不見手、と笹の葉の旗を立てて、日本橋あたり引廻しの、陽炎揺るる影法師。 日ひな南たに蒸いきれる酢の臭においに、葉も花片も萎なえんとす。 引ひっ切きりの無い人通りも、およそ途中で立たち停どまって、芸者の形を見物するのは、鰻うな屋ぎやの前に脂にお気いを嗅かぐ、奥州のお婆さんと同じ恥辱だ、という心得から、誰も知らぬ顔で行違う。……もっとも対あい手ては小こど児もである。 世よわ渡たりやここに一人にん、飴屋の親仁は変な顔。叱こご言とを、と思う頬ほっ辺ぺたを窪めて、もぐもぐと呑込んで黙だん言まりの、眉毛をもじゃ。若い妓は気の毒なり、小児たちは常得意。内心痛し、頗すこぶる痒かゆしで、皺しわだらけの手の甲を顋あごの下で摺こすってござった。 ﹁川柳にも有るがね、︵黙然と辻斬を見る石地蔵。︶さね。……俺わしも弱ったよ。……近い処が、西河岸にござらっしゃる、ね、あの、目の前であったろうずりゃ、お地蔵様はどうお扱いなさりょうかと、つくづく思っていましたよ、はい。……﹂ と後で人にそう云った。またこの飴屋が、喇らっ叭ぱも吹かず、太鼓をトンとも鳴らさぬかわりに、いつでも広告の比び羅らがわり、赤い涎よだ掛れかけをしている名代の菩ぼさ薩つでなお可おか笑しい。 ﹁笹や、笹々笹や笹、笹を買わんせ煤すす竹だけを――﹂ 大高うまい、と今呼ばれた、件くだんの︵鼬みめよし︶が、笹をわざと、島田の上で、ばさばさと振りながら、足踏をして唱うた出いだした。 声を揃えて、手拍子で、 ﹁笹を買わんせ煤竹を――﹂ ここで三音諧張上げる。気き障ざな調子で、 ﹁大高源吾は橋の上ええ。﹂檜木笠
三
﹁あら、お止しなさいよ、そんな唄。大だい嫌きらいだわ。二階に寝ている姉さんが、病気で疳かんが立っておいでだから、直ぐに聞きつけて、沢たん山と加減を悪くするからね……ほんとうに嫌きらいなのよ。﹂ と若い妓こは頭かぶりを振るように左右を顧みる。 ﹁何が嫌きらいだい。﹂ ﹁生意気云うない。﹂ ﹁状ざまあ! 女郎奴め、手てめ前えに嫌われて幸さいわいだ。好かれて堪たまるかい。﹂と笹を持ったのが、ぐいとその棹さおを小脇に引くと、呀やあ、斜に構えて前に廻った。 ﹁嘘よ、お前さんじゃないのよ。その大高源吾とか云う、ずんぐりむっくりした人がね、笹を担いで浪なに花わぶ節しで歩あ行るいては、大事な土地が汚けがれるって。……橋は台なし、堪らないって、姉さんが云うんだわ。﹂ ﹁知ってらい!﹂ と矮小が、ぺろぺろと舌を吐いて、 ﹁不断、そう云いやがるとよ、可いいか。手前ン許とこの狂きち女がいがな、不断そう云やがる事を知ってるから、手てめ前えだって尋た常だは通さないんだぜ。僕がな、形を窶やつしてよ、八百屋の小こど児もに生れてよ、間者になって知ってるんだ。行こう軍ぐん将しょ棊うぎでもな、間者は豪えらいぜ、伴ばん内ない阿あ魔ま。﹂ 商あき人ゅうどはもとより、親が会社員にしろ、巡査にしろ、田舎の小こせ忰がれでないものが、娘を苛いじめる仔しさ細いはない。故あるかな、スパルタ擬もどきの少年等が、武士道に対する義憤なのである。 ﹁忠臣、義士の罰が当らあ。﹂ ﹁勿論よ。﹂ ひょろ竹と云われる瘠やせたのが、きいきいと軋きしむ声で、 ﹁疾とうに罰が当って、気の違った奴なんか構わねえや。……此奴に笹ささ葉っぱを頂かせろ。﹂ ﹁嚔くしゃみをさしたれ。﹂ と、含はな羞じろんだ若い妓の、揃った目鼻の真まん中なかを狙って――お螻けらの虫が、もじゃもじゃもじゃ。 ﹁へッくしょ。﹂と思わず唐だし突ぬけに陽炎を吸って咽むせた……飴屋の地蔵は堪たまらなそうに鼻を撫なでる。当の狙われた若い妓は、はッと顔を背けたので、笹葉は片かた頬ほ外れに肩へ辷すべって、手を払って、持ったのを引ひっ払ぱらわれて、飴の鳥はくしゃん、と潰つぶれる。 ﹁可哀相に、鶯を。﹂ とつい、衣えも紋んが摺ずって、白い襟。髪艶やかに中腰になった処を、発はず奮みで一ひと打うち、ト颯さっと烏の翼の影、笹を挙げて引ひっ被かぶる。 ﹁ああ、少しば時らく。﹂ 慌あわただしく声を掛けて、白足袋のしょぼけた草わら鞋じで、つかつかと寄ろうとした、が、ふと足を曳ひいて、手甲掛けた手を差伸ばして、 ﹁もしもし、大高氏うじ、暫しば時らく、大高氏。﹂と大おお風ふうに声を掛けて呼んだのは、小おが笠さを目まぶ深かに、墨の法ころ衣も。脚きゃ絆はん穿ばきで、むかし傀かい儡らい師しと云った、被きせ蓋ぶたの箱を頸くびに掛けて、胸へ着けた、扮いで装たちは仔しさ細いらしいが、山の手の台所でも、よく見掛ける、所しょ化けか、勧行か、まやかしか、風ふう体てい怪しげなる鉢坊主。 形だけも世よす棄てび人と、それでこそ、見得も外聞も洒しゃ落れも構わず、変徹も無く、途中で芸者を見ていらるる。――斜めに向う側の土蔵の白壁に、へまむし、と炭たど団んの欠かけで楽書をしたごとく彳たたずんで、熟じっと先さっ刻きから見詰めていた。 小笠のふちに、手を掛けながら、 ﹁源吾どの、ちょっと、これへ。……﹂四
﹁そりゃ、︵かな手本。︶の御連中、あすこで呼んでいさっしゃる。﹂ 潮を踏んだ飴屋は老功。赤い涎よだ掛れかけを荷の正面へ出して、小児の捌はけ口くちへ水を向ける。 ﹁僕の事かい。﹂ と猶ため予らいながら、笹ッ葉の竹たけ棹ざおを、素まっ直すぐに支ついた下に、鬢びんのほつれに手を当てて、おくれを掻かいた若い妓の姿は、願ねがいの糸を掛けた状さまに、七夕らしく美しい。 ﹁お前様方でのうて、忠臣蔵がどこに有るかな。﹂と飴屋は頷うなずくように頤あご杖づえを支いて言う。 ﹁一所においでよ、皆みんな。﹂ ﹁おい。﹂ 義士の人にん数ず、六人の同勢は、羽根のように、ぽんぽんと発は奮ずんで出て行ゆく。 坊主は、笠ながら会釈して、 ﹁貴殿は大高源吾どの?﹂ 笹を持ったのが、︵気を付け。︶の姿勢になった。 ﹁ええ、そうです。﹂ ﹁こなたはな。﹂ 見向かれた、ひょろ竹は、なぜか、ごしごしと天あた窓まを掻いた。 ﹁僕は赤あか鞘ざやの安兵衛てんです。﹂ ﹁ははあ、堀部氏うじでおいでなさる。﹂ ﹁千崎弥五郎だよ。﹂ 矮ち小びは唇を、もぐもぐと遣やる。 ﹁成程――その他いずれもお揃いでありますな。﹂ と、六人をずらりと見渡し、 ﹁いや、これは誰どな方たも、はじめまして御意を得ます。﹂ ここで更あらためてまた慇いん懃ぎんに挨あい拶さつした。小児等はきょとんとする。 中に大高源吾が、笠を覗のぞ込きこんで、前へ屈かがみ、 ﹁坊さんは誰なんです。﹂ ﹁怜りこ悧うだな。何、天あっ晴ぱれ御会釈。いかさま、御姓名を承りますに、こなたから先へ氏素姓を申上げぬという作法はありませなんだ。しかし御覧の通り、木の端はし同然のものでありますので、別に名な告のりますほどの苗字とてもありませぬ。愚僧は泉岳寺の味みそ噌す摺り坊主でござる。﹂ 事実元禄義士扱い。で、言葉も時代に、鄭てい重ちょうに、生き真ま面じ目めな応あい対しらい。小児等は気を取られて、この味噌摺坊主に、笑うことも忘れて浮うっかりでいる。 ﹁ええ、さて各おの自おのには、すでに御本望をお遂げなされたのでありまするか。それとも、また今こよ夜いにも吉良邸へお討入りに相成りますかな。﹂ 小児等は同じように顔を合せて、猿さる眼まなこに、猫の目、上り目、下り目、団どん栗ぐり目め、いろいろなのがぱちくるのみ。 自ら名な告のった味噌摺坊主は、手甲の手の腕組して、 ﹁ははあ、御思考最中と見えますな。いや、何にいたせ、貴あな方たがたを義士の御連中とお見掛け申して、ちと折入って、お話し申したい事があります。余り端近。な、ここは余り端近で、それそれ通りがかりの人目も多い。もそっとこれへ、ちょっと向うへ。あの四よつ角かどの処まで、手前と御同道が願いたい。 決して悪いことではありませぬ。さあさあ誰方も。﹂ と云うより早く、すたすたと通りの方へ。 松屋あたりの、人ひと通どおり。どっちが︵端近。︶なのかそれさえ分らず、小児等は魅せられたようになって、ぞろぞろと後に続く。 電車が来る、と物をも言わず、味噌摺坊主は飛とび乗のりに飜ひら然り、と乗った。で、その小笠をかなぐって脱いだ時は、早や乗合の中に紛れたのである。――白い火が飛ぶ上野行。――文明の利器もこう使うと、魔術よりも重宝である。 角店の硝がら子す窓の前に、六むッ個つの影が、ぼやりとして、中には総毛立って、震えたのがあった。銀貨入
五
地つちに砕けた飴の鳥の鶯には、どこかの手飼の、緋ひの首玉した小猫が、ちろちろと鐸すずを鳴らして搦からんで転じ戯ゃれる…… 若い妓この、仔しさ細いなくそこを離れたのは云うまでもない。 と自おのずから肩の嬌し態な、引合せた袖をふらふらと、台所穿ばきをはずませながら、傍わき見みらしく顔を横にして、小走りに駆出したが、帰りがけの四辻を、河岸の方へ突切ろうとする角に、自働電話と、一ひと棟むね火の番小屋とが並んでいる。…… ものも、こう、新旧相競うと、至って対照が妙で、どうやら辻番附の東西の大関とでも言いそうに見える。電話の方が︵塗立注意。︶などと来るといよいよ日当りに新味を発揮するが、油障子に︵火の番。︶と書いたお定りの屋台は、昼行あん燈どうと云う形。屋形船が化けて出て河かっ童ぱが住す居まう風情がある。註に及ばず、昼間は人ひと気けは勢いもあるのでない。 その両方の間あわいの、もの蔭に小隠れて、意気人ひと品がらな黒縮ちり緬めん、三ツ紋の羽織を撫なで肩がたに、縞しま大島の二枚小袖、襲かさねて着てもすらりとした、痩やせぎすで脊せいの高い。油気の無い洗髪。簪かんざしの突つッ込こみ加減も、じれッたいを知った風。一目にそれしゃとは見えながら、衣紋つき端しゃ正んとして、薄い胸に品のある、二十七八の婀あ娜だなのが、玉のような頸うなじを伸して、瞳を優しく横顔で、熟じっと飴屋の方を凝み視つめたのがある。 ﹁あら、清きよ葉は姉さん。﹂ と可なつ懐かしそうに呼掛けて、若い妓はバッタリ留った。 ﹁お千ち世せさん。﹂ と柳の眉の、面おもて正しく、見迎えてちょっと立直る。片手も細ほっそり、色傘を重そうに支ついて、片手に白しろ塩しお瀬ぜに翁おき格なご子うし、薄紫の裏の着いた、銀貨入を持っていた。 若い妓はお千世と言う、それは稲いな葉ば家やの抱かか妓えである。 ﹁お出掛け、姉さん。どちらへか。﹂ ﹁いいえ、帰かえ途りなの。ちょっと浅草へお参りをしたんです。――今ね、通りがかりに見たんだけれど、お前さん、飛んだ目にお逢いだったわね。﹂ ﹁ええ。﹂ ﹁でも、可よかったこと。私ね、見ていてどうしようかしら、と思ったのよ。――お千世さん。﹂ ﹁は、﹂ と顔を上げて、甘えたそうに、ぴったり寄る。 ﹁そして……あの坊さんは知った方。何なの、内へ勧かん化げにでも来たことのある人なの。﹂ ﹁いいえ、ちっとも知りませんわ。﹂ ﹁そう。﹂ ﹁笠を被かぶっておいでなすって、顔はちっとも見えなかったんですもの……でも、そうでなくッても、まるッきり、心当りはありませんよ。﹂ ﹁そうね、それはそうだともね。﹂ 清葉はなぜか落着いて頷うなずいた。 若い妓は、気が入って口早に、せいせいと呼い吸きをしながら、 ﹁でもね、私、いじめッ児こを、皆みんな引ひっ張ぱって電車通りの方へ行って下すった後姿を見て拝んだんですよ。私お地蔵様かと思いました。……ええ。﹂六
お千世は、ぱっちりとした目を瞬いて、 ﹁飴屋の小父さんは、鶯が壊れたから、代りを拵こさえて、そして持って行ゆけッて云ったんですよ。………私、それどころじゃないんですもの。帰って姉さんにそう云って、あの西河岸のお地蔵様へお参りに行くか、でなけりゃ、直ぐ、あの、お仏壇へお燈明をあげて拝みましょうと思って駆出して来た処なんですわ。﹂ ﹁まあ、お千世さん。お前さん、大おおきな態な度りをして飴なのかね。私は蜜豆屋かと思ったよ。﹂ と細ほっそりした頬に靨えくぼを見せる、笑顔のそれさえ、おっとりして品が可いい。この姉さんは、渾あだ名なを令夫人と云う……十六七、二はた十ちの頃までは、同じ心で、令嬢と云った。あえて極きまった旦那が一人にん、おとっさんが附いている、その意味を諷するのではない。その間のしょうそくは別として、しかき風采を称たたえたのである。 序ついでにもう一つ通とお名りながあって、それは横笛である。曰く、清葉、曰く令夫人で可いものを、誰たが詮索に及んだか、その住すま居いなる檜ひも物のち町ょうに、磨みが込きこんだ格子戸に、門札打った本姓が︵滝口。︶はお誂あつらえで。むかし読よみ本ほんのいわゆる︵名みょ詮うせ自んじ称しょう。︶に似た。この人、日本橋に褄つまを取って、表看板の諸芸一ひと通とおり恥かしからず心得た中にも、下した方かたに妙を得て、就なか中んずく、笛は名誉の名取であるから。 ﹁あら……清葉姉さん酷ひどいこと、何ぼ私かって蜜豆を。立って、往来で。﹂ ﹁ほほほ、申過しました、御免なさいよ。いえね、実はね、……小こど児も衆が、通せん坊をして、わやわや囃はやしているから、気になってね、密そっと様子を見て案じていたの。……あの、もっとこっちへお寄んなさいよ。﹂ と、令夫人は仲通りの前あと後さきを、芝居気の無い娘じみたし方。で、件くだんの番小屋の羽目を、奥の方へ誘い入れつつ、 ﹁別にね、お前さんと話をしているのを見られて悪い事は無いんだけれど、人が通って極きまりが悪いから。﹂ で、忍んだ梅ヶ香、ほんのりとする俤おもかげ。……勤めする身の、夏は日向、冬は日陰へ路を譲って、真まん中なかを歩あ行るかぬことと、不断心得た女である。 ﹁もう、あれだわ。誰か竹棹でお前さんの髷まげを打ぶとうとした時は、どうしようかと思ってねえ。くずしたお宝がちっと有るから、駆出して、あの中へ撒まこうかしら、とすんでの事……﹂ 為に銀貨入を手にしたので。 ﹁口で留めたって、宥なだめたって、云うことを利くんじゃなし、喧嘩するにも先さ方きは小児だし、と云う中うちにも、私は意気地が無くって、そんな気にはなれないし、お宝を撒くに限る。あんな児こに限って、そりゃきっと夢中になって、お前さんの事なんざ落おっことして、お宝を拾うから、とそのお前さん謀はかりごと、計略?﹂ と打微ほほ笑えみ、 ﹁そりゃ、お千世さん、可いけれど、私にゃ手が出せなかった。意気地が無くって自分ながら口くや惜しいのよ。……悪い事をするんじゃなし、誰に遠慮が、と思っても、何だかねえ、派手過ぎたようで差出たようで、ぱっとして、ただ恥しくって、どうにも駆出せなかったの。 まあ、極りの悪い。……銀貨入を握った手が、しっとり汗になりました。﹂ とその塩瀬より白い指に、汗にはあらず、紅ル宝ビ玉イの指ゆび環わ。点した滴たるごとき情なさけの光を、薄紫の裏に包んだ、内気な人の可なつ懐かしさ。七
清葉は、きれの長い清すずしい目で、その銀貨入の紫を覗のぞいて見つつ、 ﹁お前さんの姉さんに聞かせたら、さぞ気が利かないってお笑いだろう。﹂ ﹁いいえ、姉さん。﹂ 傍わき目めも触ふらず、清葉を凝み視つめて聞いたお千世が、呼い吸きが支つかえたようにこう云った。 ﹁でもね、娑しゃ婆ばっ気けだの、洒しゃ落れだの、見得だの、なんにもそんな態わざとでなしに、しようと思って、直ぐあの中へ、頭からお宝を撒ける人は、まあ、沢なん山とほかには無い。――お孝こうさんばかりなんだよ。﹂ 稲葉家の主あるじ、お千世の姉さん、暮から煩って引いている。が、錦にし絵きえのお孝とて、人の知った、素足を伊だ達てな婦おんなである。 ﹁折角お前さん、可いい姉さんを持って幸しあ福わせだったのに、﹂ と清葉は、もの寂しそうに、 ﹁困るわねえ、病気をして。﹂ ﹁ええ。﹂ お千世は引入れられたように返事して、二人の目の熟じっと合う時、自働電話に備そな付えつけの番号帳がパタリと鳴る。……前さきに繰って見たものが粗ぞん雑ざいに置いたらしい、紐ひもが摺ずって落ちた音。 ちょっと目を遣って見返しながら、 ﹁そして、どんななの、やっぱりお孝さんは相あい不かわ変らず?﹂ ﹁ええ、困るのよ。二日に一度、三日に一度ぐらい、ちょっと気がつくんですけれど、直すぐに夢のようになってしまいますわ。﹂ ﹁そうだってねえ。﹂ ﹁時々、嬰あか児んぼのようなことなんか。今しがたも、ぶっきり飴と鳥が欲しいって、そう云って、………﹂ と莞にっ爾こりするのが、涙ぐむより果はか敢なく見られる。 ﹁ああ、それで飴を買いに。﹂ と云いかけて、清葉は何か思出した面おも色もちして、 ﹁お千世さん、今の、あの、味方をして下すった坊さんね、……﹂ ﹁ええ。﹂ ﹁お前さん誰かに肖にていたとは思わなくって、﹂ ﹁肖ていて。誰に、ええ?……姉さん。﹂ ﹁ちょっとあの……それだと、お前さんも、お孝さんも、私も知っている方なんだがね。﹂ ﹁そうでしょう、ですから、私もきっとそうでしょうと思いましたわ。﹂ ﹁まあ、やっぱり、そうかねえ。気の迷いじゃなかったかねえ。﹂ と清葉は半ば独ひと言りごとに云うと、色傘を上へ取って身繕いをする状さまして、も一度あとを見送りそうな気構えに、さらさらと二ふた返かえし、褄を返して、火の番の羽目を出たが、入いれ交かわって、前へ通そうとするお千世と、向を変えてまた立留まった。時も過ぎたり、いかにしても、今はその影も見えないことを心付いたらしいのである。 ﹁では、あの、姉さんはお顔を見たことがあるんですか。﹂ ﹁私は、ここで遠いもの。顔なんてどうして?……お前さんは見たんじゃない? もっとも笠を被かぶっていなすったけれどもさ。﹂ お千世はしきりに瞬した。 ﹁あら、姉さん、肖ていたって、西河岸のお地蔵様じゃないんですか。私は直じ接かに見たことはありませんけれど、……でしょうと思いましたから。で、なくって、誰に肖ていましたの、姉さん。﹂ ﹁まあ、お千世さん、肖たってのはその事なの。……じゃ、やっぱり、気の迷だったんだよ。﹂とうっかりしたように色傘を支つく。 ﹁いいえ、気の迷いじゃありません。私はまったく。﹂ ﹁そうね、……折があったら、お千世さん、一所におまいりをしようねえ。﹂手に手
八
﹁成程、蜜豆屋じゃなかったわね。﹂ 飴屋が名代の涎よだ掛れかけを新しく見ながら、清葉は若い妓こと一所に、お染久松がちょっと戸とま迷どいをしたという姿で、火の番の羽目を出て、も一度仲通へ。どっちの家へも帰らないで、――西河岸の方へ連立ったのである。 けれども、いずれそのうち、と云った、地蔵様へ参さん詣けいをしたのではない。そこに、小こべ紅に屋やと云う苺いちごが甘うまそうな水菓子屋がある。二人は並んでその店みせ頭さき。帳場に横向きになって、拇おや指ゆびの腹で、ぱらぱらと帳面を繰っていた、肥ふとった、が効かい性しょうらしい、円まる髷まげの女房が、莞にっ爾こり目む迎かえたは馴なじ染みらしい。 ﹁いらっしゃいまし、……唯ただ今いまお坊ちゃんがお見えになりましたよ。﹂ ﹁おや、そうですか、小ち婢びがついて。﹂ と小さな袱ふく紗さづつみをちょっと口へ、清葉は温しと容やかなものである。 ﹁いいえ、乳ばあ母やさんに負おんぶをなすって、林りん檎ごを両ふた個つ、両手へ。﹂ と女房は正面へ居直って、膝にちゃんと手を支ついて、わざと目を円くしながら、円々ちい括くく頤りあごで、頷うなずくように襟を圧おさえて、 ﹁懐ふと中ころへ一つ、へい。﹂ と恍とぼけた顔。この大おお業ぎょうなのが可おか笑しいとて、店に突つッ立たった出おで額この小僧は、お千世の方を向いて、くすりと遣る。 女房は念入りにも一つ頷き、 ﹁お土み産やの先廻り。……莞に爾こ々に々こお帰りでございました。ですからもう今こん日にちは、お持ちになるに及びません。ほんとにお坊ちゃんは、水菓子がお好きでいらっしゃいます事! お宅様の直じき御近所に、立派な店がございますのに、難あり有がたい事に手前どもが御ごひ贔い屓きで。……小いお娘あね様えさまもその御縁で、学校のお帰りなんぞに、︵小母さんお水ひやを一杯。︶なんて、お寄りなすって下さいますし、土地第一の貴あな女たが方たに御心安く願いますので、房州出のこんな田舎ものも、実まことにねえ、町内で幅が利きますんでございますよ。はい。﹂ ﹁飛んでもない、女おか房みさん、何ですか、小こど娘もまでが、そんなに心安だてを申しますか、御迷惑でございますこと。﹂ ﹁勿体ない、お蔭さまで人気が立って大景気でございますよ。﹂ ﹁お世辞が可いのねえ、お千世さん。﹂ ﹁はあ、ほんとうに評判よ。﹂ ﹁いいえ、滅相な、お世辞ではございませんが、貴女方に誉められます処を、亡くなった亭や主どに聞かしてやりとうございます。そういたしましたら、生きてるうち邪じゃ慳けんにしましたのをさぞ後悔することでございましょう。しかしまた未練が出て、化けてでも出ると大変でございますね。﹂ お千世が襦じゅ袢ばんの袖口で口を圧おさえて、一おと昨と年しの冬なくなったその亭主の、いささか訛なまりのある仮こわ声いろを使う。 ﹁松蔵どんやあ。﹂ ﹁わい。﹂ と叫んで、飛上ると、蜜みか柑んの空から箱ばこを見事に一ひと個つ、がた、がたんと引ひっ転くり覆かえして、松小僧は帳場口へどんと退さがって、 ﹁女おか房みさん!﹂ ﹁ああ、驚いた。何だい。﹂ 不意打に吃びっ驚くりして、女かみ房さんもぬッと立って、 ﹁何だねえ、お前、大おお袈げ裟さな。﹂と立たち身みに頭から叱られて、山やま姥うばに逢ったように、くしゃくしゃと窘すくんで、松小僧は土間へ蹲しゃがむ。 ﹁見たか、弱虫。﹂ お千世は白い肱ひじをちらりと見せ、細い二の腕を軽く叩いて、 ﹁可い気味さ。﹂ ﹁何だね、お前さん。﹂と、余よ所その抱かか妓えでも、そこは姐ねえさん、他人に気兼で、たしなめる。 ﹁だって、いつも人魂の土蔵の処とこじゃ、暗がりで私を威おどすんですもの。﹂九
﹁まあ、貴女方、どうぞ、まあ。﹂ 女かみ房さんは立った序ついでに、小僧にも吩いい咐つけないで、自分で蒲ふと団んを持出して店みせ端ばなの縁台に――夏は氷を売る早手廻しの緋ひも毛うせ氈ん――余り新しくはないのであるが、向う側が三間ばかり、忍返しの附いた黒板塀なのと、果物の艶つやを被かぶせたので、埃ほこりも見えず綺麗である。 ﹁いいえ、すぐにお暇いとまを。――お千世さん、何が可よかろうねえ。﹂ ﹁済みません、姉さん。﹂ とお千世は瞬きで礼を言う。 清葉はいまし方、火の番小屋から、直ぐに分れて帰ろうとして、その銀貨入を、それごとお千世の帯の間へ挟みつつ云うのに―― ﹁あの、極りが悪いんですがね、お前さんのために使おうと思ったのを、使わないで済んだんです。お金か子ねだと思わないで、お千世さん。﹂ ﹁まあ、なぜ?﹂ ﹁小こど児もに苛いじめられたお見舞に。﹂ お千世は、生際の濃い上へ、俳やく優しゃがあいびきを掛けたように、その紫の裏を頂いたが、手へ返して、清葉のその手に、縋すがるがごとく顔を仰いで、 ﹁姉さん、このお宝で、私をお座敷へ呼んで下さいな。……ちっとも私、この節かかって来ないんですもの。﹂ 土地の故参で年上でも、花はな菖あや蒲め、燕かき子つば花た、同じ流れの色である。……生意気盛りが、我慢も意地も無いまでに、身を投げ掛けたは、よくせき、と清葉はしみじみ可あわ哀れに思った。 ﹁菊家へ行ゆこうよ、私がお客で。大したお大だい尽じんだわね、お小遣を持もち扱あつかって。﹂ とわざと銀貨入を帯に納めて、 ﹁途中で我ままな馴染に逢って無理に連れられたとそうお云いな。目と鼻の前さきだって、一旦家うちへ帰ってからだと、河岸の鮨は立食しても、座敷にはきちょうめんな、極きまりの堅いお孝さん。お化粧だの、着換だので、ついそのままではお出しであるまい。……私も五時からお約束が一つある。早いが可いわね。ちょっとこの自働電話で、内へ電話をお掛けなさい。一所に行って御飯を食べよう。﹂ ﹁姉さん。﹂ と、いそいそしながら、果は敢かなそうに、 ﹁もうね、内に電話は無いんですよ。﹂ 清葉は思いがけず疑いの目をって、 ﹁どうして、ねえ。﹂ ﹁お孝姉さんはあんなでしょう。私は滅多に御座敷はありませんし、あの……﹂ とお千世は言淀んだが、 ﹁鑑札のお代だって余計なものだのに、電話なんか無駄だからって、それで、譲ってしまったんでしょう。一おと昨と日いから、内にはボンボン時計も無いんでしょう。ですから、チンリンと云う音もしないで、寂ひっ寞そりぽかんとしているんですわ。 方々、お茶屋さんだの、待合さんへ、そう云っておいでって云うんでしょう。――私がずッと廻りましたの。 姉さん。――はじめてお弘めに連れられました時よりか、私極りが悪かったんです。……だって、ただ、︵ああそうですか御苦労様。︶ってお言いなさる許とこは可いんですけれども、中にはねえ、︵どうして。︶って。……いいえ、冷ひや評かすんじゃありません、深切で聞いて下さるお家うちでは、︵私がちっとも出ませんから。︶ そう言わなけりゃなりませんもの。しょう事なしに、笑って云うにゃ云いましたが、死ぬほど辛うござんしたわ。﹂ と指を環にしつ、引ひき靡なびけつ。十
寐ねお起きの顔にも、鬢びんの乱れは人に見せない身みだ躾しなみ。他人の縺もつれ毛も気になるか、一つ座敷の年下など、小蔭で撫着けてやる外には、客はもとより、身から体だに手なんぞ、触った事の無い清葉が、この時は、しかと頸くび筋すじでも抱きたそうに、お千世の肩に手を掛けた。 ﹁まあ、お孝さんが廻れと云って?﹂ ﹁いいえ。﹂ と驚いたように頭かぶりを振って、 ﹁私の姉さんが、そんな事!……病気から以こっ来ち、内の世話をしている叔母さんのいいつけなんですよ。﹂ 稲葉家のお孝が、そうした容体になってから、叔母とは云うが血筋ではない。父親は台湾とやら所在分らず、一人有ったが、それも亡くなった叔父の女房で、蒟こん蒻にゃ島くじまで油揚の手てび曳きをしていた。余り評判のよくない阿おば婆あが、台だい所どこから跨また込ぎこんで、帳面を控えて切盛する。其そい奴つの間ま夫ぶだか、田楽だか、頤あご髯ひげの凄すさまじい赤ら顔の五十男が、時々長火鉢の前に大おお胡あぐ坐らで、右の叔母さんと対さし向むかいになると、茶棚傍わきの柱の下に、櫛巻の姉さんが、棒ぼう縞じまのおさすり着もの、黒くろ繻じゅ子すの腹合せで、襟へ突込んだ懐手、婀あ娜だにしょんぼりと坐っているのが毎度と聞く。可かわ哀いそうに、お千世は御飯炊から拭掃除、阿婆が寝酒の酌までして、ちびりちびりと苛いじめられる上、収みい入りと云っては自分一人の足りない勝で、すぐにお孝の病気の手当に差響くのに気を揉もんで、言い憎かろう。我が口から、 ﹁若い干く金らでも。﹂と待合の女中に囁ささやく。 不思議な事は、禍わざわいだか、幸さいわいだか、お孝の妹分と聞いただけで、その向きの客人は一目を置き、三舎を避けて、ただでも稲葉家では後あと日あとが、と敬遠すること、死せる孔明活ける仲ちゅ達うたつを走らすごとし。従ってちっとも出ない。その為に、阿婆の寝酒はなおあくどい。あわれがって、最いと惜しがって、住替を勧めても、 ﹁私が出ますと姉さんが。﹂ とお孝を案じて辛抱する。その可愛さも知れている。それだのに、お千世に口の掛からない時は、宵から、これは何だ、と阿婆が茶の缶の錻ブリ力キを、指で弾はじいて見せると云うまで、清葉は聞伝えているのであった。 電話さえ無い始末、内証も偲しのばれる。……あの酒のみが、打ぶっ切きり飴あめ。それも欲ほしい時は火のつくばかり小こど児もになって強ね請だるのに、買って帰ればもう忘れて、袋を見ようともしないとか。病気が病気の事であるから、誰の顔の見さかえも有るまいが、それにしても大だい分ぶんの無沙汰をした。……お千世のためには、内の様子も見て置きたい、と菊家へ連れようとした気を替えて、清葉はお孝を見舞いに行くのに、鮨というのも狂乱の美人、附つ属きものの笹の気が悪い。野暮な見立ても、萎しおるる人の、美しい露にもなれかしと、ここに水菓子を選んだのである。 小紅屋の女房揉もみ手でをして、 ﹁稲葉家さんへ。ええええ、直すぐに、お後から持たせまして。﹂ 小僧合がっ点てんして、たちまち出おで額こに蛸たこ顱はち巻まき。 引ひき摺ずるほどにその奴やっこが着た、半はん纏てんの印に、稲穂の円まるの着いたのも、それか有らぬか、お孝が以前の、派手を語って果は敢かなく見えた。 二人は引返して、また、あの火の番の前へ出たが、約束事ででも有るごとく、揃って立たち停どまらなければならなかったのは、一町たらず河岸寄りの向う側、稲葉家のそこが露地の中から、蜥とか蜴げのように、のろりと出て、ぬっと怪しげな影を地に這はわした、服みな装りはしょびたれ、薄汚れて、広どて袖らかと思う、袖口も綻ほころびて下ったが、巌がん乗じょうづくりの、ずんと脊の高い、目深に頬ほお被かぶりした、草わら鞋じば穿きで、裾を端折らぬ、風体の変な男があって、懐手で俯うつ向むいて、こなたへのさのさと来掛った、と見ると、ふと頬被かむりの裡うちの目ばかり、……そこに立留まった清葉たちを見るや否や、ばねで弾かれたかと思う、くるりと背うし後ろむ向き。方角をかえて河岸通へ、しかものそのそと着流しのぐなりとした、角帯のずれた結むす目びめをしゃくって行く。 出て来た処が稲葉家の露地であるだけ、お孝に憑ついたあやかしと思う可い厭やな影の、角の電信柱で、フッと消えるまで、二人は、ものをも言わず見送っていたのである。露地の細路
十一
昔と語り出いづるほどでもない、殺された妾めかけの怨うら恨みで、血の流れた床下の土から青々とした竹が生える。筍たかんなの︵力に非ず。︶凄すごさを何にたとうべき。五ごい位さ鷺ぎ飛んで星移り、当時は何なに某がしの家の土蔵になったが、切っても払っても妄もう執しゅうは消きえ失うせず、金網戸からまざまざと青竹が見透かさるる。近所で︵お竹たけ蔵ぐら。︶と呼んで恐おそれをなす白壁が、町の表。小こど児もも憚はばかるか楽書の痕あとも無く、朦もう朧ろうとして暗や夜みにも白い。 時々人魂が顕あらわれる。不思議や鬼火は、大きさも雀の形に紫あじ陽さ花いの色を染めて、ほとほとと軒を伝う雨の雫しずくの音を立てつつ、棟むな瓦がわらを伝うと云うので。 小紅屋の奴やっこ、平たいらの茶目が、わッ、と威おどかして飛出す、とお千世が云ったはその溝端。――稲葉家は真向うの細い露地。片側立だて四軒目で、一番の奥である。片側は角から取廻した三階建の大おお構がまえな待合の羽目で、その切れ目の稲葉家の格子向うに、小さな稲いな荷りの堂がある。傍わきに、総井戸を埋めたと云う、扇の芝ほど草の生えた空くう地ちがあって、見みき切りは隣町の奥の庭。黒板塀の忍返しで突当る。 そこに紅梅の風情は無いが、姿見に映る、江えい一ちご格う子しの柳が一ひと本もと。湯上りの横櫛は薄暗い露地を月夜にして、お孝の名はいつも御ごじ神んと燈うに、緑点した滴たるばかりであった。けれども、ここの露地口と、分けて稲葉家のその住すま居いとに、少なからず、ものの陰気な風うわ説さがある。 以前、仲なか之のち町ょうの声うれ妓っこで、お若と云った媚なまめかしい中年増が、新川の酒問屋に旦那が出来たため色を売るのは酷きつい法度の、その頃の廓くるわには居られない義理になって場所を替えた檜ひも物のち町ょう。 廓さとに馴なれた吾あず妻ま下げ駄た、かろころ左ひだ褄りづまを取ったのを、そのままぞろりと青畳に敷いて、起たち居いに蹴け出だしの水色縮ちり緬めん。伊達巻で素足という芸者家の女おん房なあるじ。むかし古石場の寄子ほど、芸者の数を二階に抱えて、日本橋に芽生えの春。若菜家の盛を見せた。夏の素すは膚だの不断の絽ろあ明か石し、真まっ白しろに透く膚とともに、汗もかかない帯の間に、いつも千せん円りょ束うたばが透いて見える、と出入りの按あん摩まが目を剥むいたのが、その新川の帳尻に、柳の葉の散込むのが秋風の立つはじめ。金気蕭しょ条うじょうとしてたちまち至る殺風景。やけでお若は浮気をする。紐がつく、蔦つたが搦からむ、蜘く蛛もの巣が軒にかかる、旦那は暴れる、お若は遁にげる。追おっ掛かけ廻まわして殺すと云う。 手切話しに、家うちを分けて、間ま夫ぶをたてひく三度の勤めに、消え際がまた栄えた、おなじ屋号の御神燈を掛けたのが、すなわちこの露地で、稲葉屋の前ぜんがそれである。 お若と云うのは、一輪の冬牡丹を凩こがらしに咲かす間もなく、その家うちで煩いついて、いわゆる労症の、果はどっと寝て、枕も上らないようになると、件くだんの間夫の妹と称する、いずくんぞ知らん品川の女郎上り。女で食う色男を一度食わせたことのある、台の鮨のくされ縁が、手てだ扶すけの介抱と称となえて入いり込んで、箪たん笥すの抽ひき斗だしを明けたり出したり、引ひき解ほどいたり、鋏はさみを入れたり。勝手に台所を掻かき廻まわした挙句が、やれ、刺身が無いわ、飯が食われぬ、醤油が切れたわ、味噌が無いわで、皿小鉢を病人へ投打ち三ざん昧まい、摺すり鉢ばちの当り放題。十二
お若の身は火消壺、蛍ばかりに消え残った、可あわ哀れに美しく凄すごい瞳に、自分のを直して着せた滝たき縞じまお召の寝ねん々ね衣こを着た男と、……不断じめのまだ残る、袱ふく紗さお帯びを、あろう事か、〆しめるはまだしも、しゃら解どけさして、四しじ十ゅ歳う宿場の遊おい女らんどの、紅べに入いり友ゆう染ぜんの長なが襦じゅ袢ばん。やっぱり、勝手に拝借ものを、垂だら々りと見せた立膝で、長火鉢の前にさしむかいになった形を、世に有るものとも思わなかった、地獄の絵かと視ながめながら、涙の暗や闇みのみだれ髪、はらはらとかかる白い手の、掴つかんだ拳こぶしに俯うつ伏ぶせに、魂は枕を離れたのである。
が、姿は雨に、月の朧おぼろに、水髪の横櫛、頸うなじ白く、水色の蹴出し、蓮はす葉はに捌さばく裾に揺れて、蒼あお白じろく燃える中に、いつも素足の吾妻下駄。うしろ向になって露地口を、カラカラと踏んで、五つばかり聞えてフッと消える。
も一度からからと響くと思うと、若菜家の格子のカタンと開あく音。
極きまって、同じ姿が、うしろ向きに露地口へ立って、すいと入いると途中で消えて、あとは下駄の音ばかりして格子が鳴る。
勿論、開いたでもなければ、誰も居ない。……これを見たもの、聞いたもの。
やがて風うわ説さも遠とお退のいて、若菜家は格子先のその空地に生える小おぐ草さに名をのみ留とどめたが、二階づくりの意気に出来て、ただの住すま居いには割に手広い。……ここで、一度待合になった処、開みせ店びらきの晩に、酔って裏二階から庇ひあ合わいへ落ちて、黒塀の忍返しにぶら下って、半死半生に大怪我をした客があって、すぐに寂れて、間もなく行方知れずそれは引越す。
一度、勤人の堅気が借りて、これは無事。ただし商館通いであったが、旅順とやらの支店の方へ勤がえになって、貸家札。
時に二割方家賃をあげた。近所では驚いた。差配の肚はらは大きかった。
すぐに引越し蕎そ麦ばを大おお蒸せい籠ろで配ったのが、微ほろ酔よいのお孝であった。……抱かか妓えが五人と分わけが二人、雛おし妓ゃくが二人、それと台所と婢ちびの同勢、蜀しょ山くざん兀こつとして阿房宮、富士の霞に日の出の勢いきおい、紅べに白おし粉ろいが小溝に溢あふれて、羽目から友染がはみ出すばかり、芳よし町ちょうの前ぜんの住すま居いが、手狭となって、ここに鏡台の月を移して、花の島田を纏まとめたものが。
三年にして現時の始末。
もっとも中頃、火取虫が赤いほど御神燈に羽たたきして、しきりに蛞なめ蝓くじが敷居を這はう、と云う頃から、傍はたでは少なからず気にしたものの、年とし月つき過ぎたことでもあり、世間一体不景気なり、稲葉家などは揚りのいい方、取り立てて言出して、気にさせても詮ない事と、土地で故ふる顔がおのお茶屋の女中、仕上げて隠居分の箱屋なども、打出しては言わなかった。
かえって河岸の客などに、場所も所いわ説れもよく知って、――中には見たのが有ると云う――酒の座敷で威おどかし半分、
﹁帰りに摺違うよ、露地口で。﹂
とまで打ぶち撒まけるものは有っても、勝気気きが嵩さの左褄、投遣りの酒機嫌。
﹁評判な人ね、あやかりたいよ。﹂
で、粋すいな音ねじ〆めと聞えた美声。
露地の細路……駒下駄 で……
と得意の一節寂し寞んとする。――酔えば蒼あおくなる雪の面おもてに、月がさすように電燈の影が沈むや。
﹁肖そっ然くり。﹂
と、知った同士が囁ささやき合って、威した客の方が悚ぞ然っとする。……
露地の細路、……駒下駄で……
﹁お孝、それだけは堪忍しな。﹂
つむじ曲りが、娑しゃ婆ばっ気けな、わざと好もの事ずきな吾妻下駄、霜に寒月の冴ゆる夜よの更けて帰る千鳥足には、殊更に音を立てて、カラカラと板を踏む。
顔の見える時はまだしもである。
朽ちた露地板は気前を見せて、お孝が懐ふと中ころで敷直しても、飯めし盛もりさえ陣屋ぐらいは傾けると云うのに、芸者だものを、と口くや惜しがっても、狭い露地は広くならぬ。
車は通らず、雨傘も威勢よくポンと轆ろく轤ろを開いたのでは、羽目へ当って幅ったいので、湯の帰りにも半はん開びらき、春雨捌さばきの玉川翳ざし。
美たお人やめのこの姿は、浅草海の苔りと、洗髪と、お侠きゃんと、婀あ娜だと、︵飛んだり刎はねたり。︶もちょっと交って、江戸の名物の一つであるが、この露地ばかり蛇じゃ目の傘めの下の柳腰は、と行逢うものは身の毛を悚よ立だてて、鶯の声の媚なまめいて濡れたのさえ、昼間も時ほと鳥とぎすの啼なく音を怪む。
柳に銀の舞扇
十三
鐘さえ霞む日は闌たけなわに、眉を掠かすめる雲は無いが、薄うっすりとある陽かげ炎ろうが、ちらりと幻を淡く染めると、露地を入りかけた清葉は、風うわ説さの吾妻下駄と、擦違うように悚ぞ然っとした。 清葉は実際、途中でも、座敷でも、廊下でも、茶屋の二階の上り下り、箱部屋などでも、ちょうど、袖袂たもとの往通いに、生きていた頃の幽霊と、擦違って知ったのであるから。―― ここまで引添ったお千世は、家うちの首尾を見る為か、あるじもうけの心附けか、ものも言わないで、一足前さきへ、袖を振って駆出した。格子の音はカラカラと高く奥から響いたけれども、幸に吾妻下駄の音ではなくて、色気も忘れて踏鳴らす台所穿ばきの大おおきな跫あし音おと。それさえ頼たの母もしい気がするまで、溝どぶ板いたを辿たどれば斧の柄の朽ちるばかり、漫そぞろに露地が寂しいのである。 並んで四軒、稲葉家の隣とな家りは目い下ま空家で、あとの二軒も、珍しく芸者家ではない。 片側の待合のその羽目に、薄墨でぼかしたように、ふらふらと、一所に歩あ行るいて附いて来る影法師。 清葉は例の包ましやかに、色傘を翳かざしていた。その影と分れたが、フト気になるので、そこで窄つぼめて、逆のぼ上せるばかりの日ひざ射しを除よけつつ、袖そで屏びょ風うぶするごとく、怪あやしいと見た羽目の方へ、袱ふく紗さづつみを頬にかざして、徐しずかに通る褄はずれ、末すそ濃ごに藤の咲くかと見えつつ。 さて音おと訪ずるる格子戸は、向うへ間を措おいて、そこへ行ゆく手前が、下に出窓、二階が開いて、縁が見える。 ﹁お孝さん。﹂ と無遠慮に心易く、それなり声を掛けるのには――二人の間は疎遠でないが――いずれも名取りの橋の袂、双方対ついの看板主、芸者同士の礼儀があるので。 一ひと歩あしとまって、二階か、それとも出窓の内か、と熟じっと視ながめて、こう、仰いだ清葉の目に、色糸を颯さっと投げたか、とはらりと映って、稲妻のごとく瞳を射つつ沈んで輝く光があった。 驚いた鬢びんのほつれに、うしろの羽目板で、ちらちらと一つ影が添って、重かさなった蒼あおい影。 優しいながら、口を緊しめて――透とおった鼻筋は気質に似ないと人の云う――若わか衆しゅ質だちの細ほそ面おもての眉を払って、仰向いて見上げた二階の、天井裏へ、飜ひら然りと飛ぶのは、一面、銀の舞扇である。十四
きらりと光ると、扇は沈んで影は消えた。 ……が、また飜ひるがえって颯さっと揚羽。輝く胡こち蝶ょうの翼一尺、閃ひらめく風に柳を誘って、白い光も青澄むまで塵ちりを払った表二階。 露地も温室のような春の中に、そこに一人月のごとき美人や病む。 扇に描かいたは、何の花か、淡うすい絵具も冷たそうに、床の柱に映るのが見える。 落ちると、トンと幽かすかな音。あの力なさは足拍子でない。……畳に辷すべった要かなめの響。日ざしの白い静かさは、深みや山まざ桜くらが散るようである。 障子を左右に開け放して、見透かされたるその座敷に、子れん隠じがくれの肩も見えず、欄てす干りにこぼるる裳もすそも見えぬ。 お孝はまさしく寝ているのである。 寝ながら、舞扇のお手玉して、千鳥に投げて遊ぶのであった。 ﹁ああ、多なが日く逢わない……﹂ 清葉は、また可なつ懐かしさが身に染みた。……軒の柳の翠みどりも浅い、霞のような簾すだれ一枚、じきそこに、と思うのが、気の狂った美人である。……寝ながら扇を…… また飛ぶ扇、閃めく影、影に重る塀の影。 なぜか渾あだ名なの︵錦絵。︶に、魂の通う不思議な友に、夢現うつつに相見る気がして、清葉は軽く胸が轟く。 さてこう云うも咄とっ嗟さの事。 直ぐに格子を音ずれかけたが、歩みも運ばないで、立淀んだ。 清葉は途端に、内で、がみがみと喚わめく声を聞いたから。 ﹁遅いじゃないかね。﹂ と云う、嗄しゃがれた中うちに痰たんの交じった、冷飯に砂利を噛かむ、心持の悪い声で、のっけに先ず一つくらわせた。 続いて、 ﹁真まっ昼ぴる間ま、……お尻を振廻して歩あ行るいたって、誰も買手は有りはしないや。……鳶とんび、鳶、﹂ と茶色な歯、尖とがった口も見えると思うと、 ﹁鳶につつかれるくらいが落なんだよ。どこ、何、お茶、お茶、どこへお茶を買って来、﹂ とちょっと途絶える。 お千世は飴を買ったのに。 ﹁何だ、飴だえ。私はまたお前さんの身のものは、売うり買かいともにお茶だと思った。……そう飴を、お茶うけに、へへん、﹂ と笑い上げたは、煙たば草こを吹いたぞ。 ﹁やっぱりお茶に縁が有らあね、……世間じゃお天道様と米の飯は附いて廻ると云うけれど、お前さんにゃ、貰もら水いみずとお茶がついて廻るんだ。お茶の水は本郷の名所だっけ。日本橋にゃ要らないもんだ。 ええ、姉さんのだ、嘘をお吐つき。……いいえ、姉さんがまた吩いい咐つけたって、口ばかりさ、直ぐに忘れて、きょとんとしている事は知ってるじゃないか。そして、食べさしちゃ悪いんだ。狂きち女がいに食ものッてね、むしゃむしゃ食散らかされて堪たまるものかな。 食べると水むく膨むんだよ。……あの上水むく膨まれちゃ、御当人より傍はたのものが助からないよ。人が乾ほし殺ころしでもするように、陰へ廻っちゃ出過ぎたがる。姉さんもまた、人聞きの悪いほど、何だかだって食べたがる。精々何にも当あて飼がわないで、咽の喉ど腹を乾しとかないと、この上また何かの始末でもさせられるようじゃどうすると思うんだ。﹂ 清葉は睫まつ毛げに露を押えて、二階の陽炎の光るのを見た。――扇は澄まして舞うのである。十五
清葉は格子へ音おと訪ずれ兼ねた。 自分と露地口まで連立って、一息前さきへ駆戻ったお千世を捉とらえて、面まの前あたり喚くのは、風うわ説さに聞いたと違いない、茶の缶を敲たたく叔母であろう。 悪いた戯ずら児っこの悪こだ関わ係りから、火の番の立話、小紅屋へ寄ったまで、ちょっと時間が取れている。昼間近所へ振売だ、と云う。そんなお尻は鳶の突つつくが落だ、と云う。お茶と水とは附いて廻る、駿する河がだ台いに水みず車ぐるまが架かかったか、と云う。 お千世さんは私が一所にここへ来たことを云ったのだろうか。……言って、そして聞えよがしに、悪体を吐つくとすると、私に喧嘩を売るのかしら。何の怨みも無いものが、煩う人の見舞に来たのに、いかに分らずやの叔母だと云って、まさかそうした事ではあるまい。露地から急いで、……あのお千世さんが心づかい、台所から長火鉢、二階を股に掛けて、眼がん張ばっている、ものがもの。姉さんは姉さんゆえ、客に粗末の無いように、と先触れに駆込んだ処を、頭から喚き立てて、あの妓こが呼い吸きを吐ついて、口を利く間も措かず、立たて続つけて饒しゃ舌べるらしい。 それにしても、汚い口から出過ぎた悪体。お千世も同じ、芸者はお互い。筆がしらでも中なか軸じくでも一味についた連名の、昼鳶がお尻を突つつく、駿河台の水車、水からくりの姉さんが、ここにも一人と、飛込もうか。 それには用意がなければならず、覚悟もしないじゃ出来まいが、自分へ面つら当あてなら破れかぶれ。お千世へだけの事だったら、陰で綻ほころびを縫うまで、と内気な女が思直す。…… またその時、異おつう悪黙りに黙ってしまって、ふと手の着けられぬまで、格子の中が寂ひっ寞そりして、薄気味の悪いほど静まった。 これぞ、お千世の客が来て、門かどに近いのを、やっと囁ささやき得た事を頷うなずかせる。 ﹁ええ。﹂ 咳しわぶきを優しくして、清葉が出窓際の柳の葉の下を、格子へ抜けようとする、とあたかもその時。 はらりと音して、寝ながら投げた扇が逸それたか、欄干を颯さっと掠かすめて、蒔まき絵えの波がしら立つごとく、浅あさ翠みどりの葉に掛って、月かと思う影が揺ゆらぐと、清葉の雪のような頬を照らす。……と思わず、受けたは袱ふく紗さの手。我知らず色傘を地に落して、その袖をはっと掛けて、斜めに丁と胸に当てた。 清葉は前さっ刻きから見詰めた扇おう子ぎで、お孝の魂が二階から抜けて落ちたように、気を取られて、驚いて、抱取る思いがしたのである。 潜くぐって流れた扇子の余なご波りか、風も無いのにさらさらと靡なびく、青柳の糸の縺もつれに誘われた風情して、二階にすらりと女の姿。 お孝は寝床を出た扱しご帯きおび。寛ゆるい衣紋を辷すべるよう、一枚小袖の黒繻子の、黒いに目立つ襟えり白おし粉ろい、薄いが顔にも化粧した……何の心ゆかしやら――よう似合うのに、朋輩が見たくても、松の内でないと見られなかった――潰つぶし島田の艶つやは失せぬが、鬢のほつれは是非も無い。 生際曇る、柳の葉越、色は抜けるほど白いのが、浅黄に銀の刺ぬい繍とりで、これが伊達の、渦巻と見せた白い蛇の半襟で、幽かすかに宿す影が蒼あおい。十六
と……思ったほどは窶やつれも見えぬ。 病気のために失心して、娑婆も、苦労も忘れたか、不断年より長ふけた女が、かえって実際より三つ四つも少ないくらい、ついに見ぬ、薄化粧で、……分けて取乱した心から、何か気紛れに手近にあったを着散したろう、……座敷で、お千世がいつも着る、紅と浅黄と段だん染ぞめの麻の葉鹿かの子の長襦袢を、寝ねま衣きの下に褄浅く、ぞろりと着たのは、――かねて人が風うわ説さして、気象を較べて不思議だ、と言った、清葉が優しい若わか衆しゅ立だちで、お孝が凜り々りしい娘形がた、――さながらのその娘風の艶えんに媚なまめかしいものであった。 お孝は弛ゆるんだ伊達巻の、ぞろりと投遣りの裳もすそを曳ひきながら、……踊で鍛えた褄は乱れず、白しろ脛はぎのありとも見えぬ、蹴けだ出しさ捌ばきで、すっと来て、二階の縁の正面に立ったと思うと、斜めにそこの柱に凭もたれて、雲を見るか、と廂ひあ合わいを恍うっ惚とりと仰いだ瞳を、蜘蛛に驚いて柳に流して、葉越しに瞰みお下ろし、そこに舞扇を袖に受けて、見上げた清葉と面おもてを合せた。 ﹁ああ、お孝さん。﹂ と声を掛ける。 上で見詰めたなり、何にも言わず、微笑むらしいお孝の唇、紅をさしたように美しい。 そこへ、あとも閉めないでおいたと見える、開けたままの格子を潜くぐって、顔を出したお千世は、一杯目に涙を湛たたえている。 乱れて咲いた欄干の撓たわわな枝と、初咲のまま萎しおれんとする葉がくれの一輪を、上うえ下したに、中の青柳は雨を含んで、霞んだ袂たもとを扇に伏せた。―― ﹁清葉さんは楽勤め。﹂と茶屋小屋で女中が云う。……時間過ぎの座敷などは、︵お竹蔵。︶の棟瓦に雀が形を現しても、この清葉が姿を見せた験ためしが無い。……替りには、刻限までだと、何なん時どきに口を掛けても、本人が気にさえ向けば、待つ間が花と云う内に、催促に及ばずして、金きん屏びょ風うぶの前に衣紋を露あらわす。 但し約束は受けていても、参おま詣いりの帰かえ途りみちに眩めま暈いがすると、そのまま引ひき籠こもること度々で。この眩暈と、風邪と、も一つ、用よう達たしと云う断りが出る、と箱はこ三さんの札は、裏返らないでも、電話口の女中が矢継早の弓ゆん弦づるを切って、断あき念らめて降参する。 座敷で口くや惜しがるもの曰く、 ﹁旦那が来ているのだろう。﹂ 勿論である。 時に説を為なすものあり。 ﹁そのくらいなら商売を止めれば可よい。﹂ 難じ得て妙だと思うと、たちまち本調子の声がして、 ﹁芸者が好きな旦那でしょうよ。﹂ 一言簡潔にして更に妙で、座客ぐうの音も出ず愕がく然ぜんとしてこれを見れば、蓋けだし三さみ味せ線んが、割前の一座を笑ったのである。 そうまで我わが儘ままが通る癖に、附合が綺麗で、朋輩に深切で、内気で、謙遜で、もの優しい。おくれた座敷は、若い妓この背うし後ろに控えて、動く処は前さきへ立って目立たないように取り廻す、というのであるから、お茶屋の蔵の前さきに目の光る古狸から、新道の塒ねぐらを巣立ちの雛ひよ児っこまで、 ﹁ああ、いい姉さん。﹂ とのっけに云う。……続いて頭かぶりを振る所しぐ科さありと知るべし。少わかいもの慌てまい。その頭を振る事たるや、今のは嘘だと云う打消しではない。十七
向うへ対あい手てに廻しては、三味線の長なぎ刀なた、扇おう子ぎの小こ太だ刀ち、立向う敵あい手ての無い、芳町育ちの、一歩を譲るまい、後おくれを取るまい、稲葉家のお孝が、清葉ばかりを当の敵かたきに、引くまい、退のくまい、と気を揉んで、負けじとするだけ、かねてこなたが弱身なのであった。 張も、意地も、全盛も、芸ももとよりあえて譲らぬ。否、較べては、清葉が取立てて勝身は無い。分けてむこうは身一つで、雛おし妓ゃく一人抱えておらぬ。 こなたは、盛りは四天王、金きん札さつ打った独ひと武りむ者しゃ、羅生門よし、土蜘蛛よし、※ひ々ひ﹇#﹁けものへん+非﹂、U+7305、432-9﹈、狼ももって来なで、萌もえ黄ぎ、緋ひお縅どし、卯の花縅、小桜を黄に返したる年増交りに、十有余人の郎党を、象牙の撥ばちに従えながら、寄すれば色ある浪に砕けて、名所の松は月下に独り、従しょ容うようとして名を得る口く惜やしさ。 弱虫の意気地なしが、徳とやらをもって人を懐なずける。雪の中を草わら鞋じ穿はいて、蓑みの着て揖おじ譲ぎするなんざ、惚のろ気けて鍋焼を奢おごるより、資もと本でのかからぬ演しば劇いだもの。 ﹁字あざなは玄徳め。﹂ と、所す好きな貸本の講談を読みながら、梁りょ山うざ泊んぱくの扈こさ三んじ娘ょう、お孝が清葉を詈ののしる、と洩もれ聞きいて、 ﹁その気だから、あの妓こは、︵そんけん︶さ。﹂ と内証で洒しゃ落れた待合の女おか房みがある由。 却さ説て、言うがごとく、清葉の看板は滝の家にただ一人である。母親がある。それは以前同じ土地に聞えた老妓で、清葉はその実、養女である。学校に通う娘が一人。これには表むき、おっかさん、とおおびらに自分を呼ばせて、誰に、遠慮も気づかいも無い。 なお水菓子が好きだと云う、三みッ歳つになる男の児この有ることを、前さきの条くだりにちょっと言ったが、これは特に断って置く必要がある、捨すて児ごである。夜よな半かに我が軒に棄てられたのを、拾い取って育てている。その児に乳母を選んで、附けて置く裕ゆたかな身しん上しょう。 土く蔵らがある、土蔵には、何かの舞に使った、能の衣裳まで納まったものである。 かつて山から出て来た猪ししが、年の若さの向う不み見ず、この女に恋をして、座敷で逢えぬ懐ふと中ころの寂しさに、夜更けて滝の家の前を可なつ懐かしげに通る、とそこに、鍋焼が居た。荷の陰で引ひっ飲かけながら、フトその見事な白壁を見て、その蔵は? ﹁滝の家で。﹂ ﹁たきの家?﹂ ﹁へい、清葉姉さんの家うちでげすよ。﹂ や、これを聞くと、雲を霞と河岸へ遁にげた。しかも霜冴えて星の凍いてたる夜よに、その猪が下宿屋の戸棚には、襲かさねる衾ふすまも無かったのであった。 と、何の苦労も、屈託も無さそうなその清葉が、扇おう子ぎとともに、身を震わした。 声もうるんで、 ﹁お千世さん、姉さんが。﹂ と、二階に彳たたずんで物言わぬお孝を、その妹に教えながら、お千世の泣顔を、ともに誘って、涙ぐんだ目で欄てす干りを仰いで、 ﹁私、……私よ、お孝さん。﹂ と二度目に呼んで声を掛けるや、 ﹁葛かつ木らぎさん。﹂ と、冴えた声。お孝が一声応ずるとともに、崩れた褄は小間を落ちた、片膝立てた段鹿かの子の、浅黄、紅くれない、露あらわなのは、取乱したより、蓮はす葉はとより、薬くす玉だまの総ふさ切れ切れに、美しい玉の緒の縺もつれた可あわ哀れを白あか々らさ地ま。萎なえたように頬ほお杖づえして、片手を白く投掛けながら、 ﹁葛木さん。﹂ 二度まで、同じ人の名を、ここには居ない人の名を、胸を貫いて呼んだと思うと、支えた腕かいなが溶けるように、島し田ま髷だを頂のせて、がっくりと落ちて欄てす干りに突つッ伏ぷしたが、たちまち反そり返るように、衝つッと立つや、蹌よ踉ろ々よ々ろとして障子に当って、乱れた袖を雪なす肱ひじで、しっかりと胸にしめつつ、屹きと瞰み下おろす目に凄すご味みが見えた。 ﹁ああ。﹂ ﹁危いわ、姉さん。﹂ 端近な低い欄干、虹が消えそうな立たち居いの危さ、と見ると、清葉が落した色傘を拾っていたお千世が、小脇に取ったまま慌あわただしく駆込んだのは、梯はし子ごを一飛びに二階へ介添。 ﹁何だい、盗どろ人ぼう猫ねこのように、唐だし突ぬけに。﹂ と摺違いに毒気を浴びせて、ぬっと門口を覗のぞいた、遣やり手てづ面らの茶ちゃ缶かん阿おば婆あ。 ﹁えへへ。﹂と笑う、茶色な前歯、金の入歯と入乱れて、窪んだ頬に白おし粉ろいの残か滓す。 ﹁まあ、滝の家のお姉様、どうぞこちらへ。……まあ、御全盛な貴女様が、こんな怪ばけ物もの屋敷見たような処へ、まあ、どうした風の吹廻しで。﹂ 清葉はきりりと、扇おう子ぎを畳んで、持直して、 ﹁ちょっと、お茶を頂きに。﹂河童御殿
十八
﹁ははあ、葛木ですかね、姓じゃね、苗字であるですね。名は何と云わるるですか。﹂ ﹁晋しん三ぞうです。﹂ 上オウ外バア套コオトを着ながら、なお蒲や柳せの見える、中脊の男が答える。 三月四日の夜よの事であった。宵に小降りのした雨上り、月は潜んで朧おぼろ、と云うが、黒雲が浸にじんで暗い、一いち石こく橋ばしの欄干際。 一方は口つきでも知れる、言うまでもなく警官である。 ﹁新はどう書くですかね、……通例新の新ですか? あるいは。﹂ ﹁晋すすむと云う字です。﹂ と男は声を低うした。ここに事こ故とありと聞きつけて、通行の人ひと集だかりを憚はばかって、さりげなく知合が立話でもするごとく装おうとしたらしい。 さして気遣う事は無い。近間に大おおきな建たて築ものの並んだ道は、崖の下行く山道である。峰を仰ぐものは多いけれど、谷を覗のぞくものは沢たん山とない。夜はことさら往ゆき来きが少い。しかも、その夜よは、ちょうど植木店だなの執とり持もち薬師様と袖を連ねた、ここの縁結びの地蔵様、実は延命地蔵尊の縁日で、西河岸で見みそ初めて植木店で出来る、と云って、宵は花はな簪かんざし、蝶々髷まげ、やがて、島田、銀いち杏ょう返がえし、怪けしからぬ円髷まじり、次第に髱たぼの出た、襟脚の可いいのが揃って、派手に美しく賑にぎわうのである。それも日本橋寄から仲通へ掛けた殷にぎ賑わいで、西河岸橋を境にしてこなたの川筋は、同じ広重の名所でも、朝晴の富士と宵の雨ほど彩色が変って寂しい。もっともこの一石橋の夜よの御領主、名代の河かっ童ぱが、雨夜の影を潜めたのも、やっと五六年以来であるから。 初夜も過ぎた屋根越に、向う角の火災保険の煉れん瓦がに映る、縁結びの紅あかい燈あかりは、あたかも奥庭の橋に居て、御殿の長廊下を望んで、障子越の酒さか宴もりを視ながめる光あり景さま! 島田の影法師が媚なまめくほど、なお世に離れた趣がある。 偶たまにこぼれて出て来るのは、小姓梅之助に手を曳ひかるる腰元の青柳か、密そっと外して酔ざましの椎しい茸たけ髱たぼ。いずれも人目を忍ぶ色の、悪くすると御手討もの。巡査と対さし向むかいに立ったのなんぞ、誰も立たち停どまって聞くものは無い。 夜は、間遠いので評判な、外そと濠ぼり電車のキリキリ軋きしんで通るのさえ、池の水に映って消える長廊下の雪ぼん洞ぼりの行方に擬まがう。 が、名を憚はばかった男の、低い声に、︵ああん。︶と聞えぬ振して、巡査が耳を傾けたのは、わざとらしく意地悪く見えた。 ﹁すすむ、いわゆる、進歩ですかね。﹂ ﹁いや――高杉晋作の晋なのです。﹂ と向直る。 巡査の背がぐっと伸びて、じろりと行やって、 ﹁維新創業の名士、長州第一の英傑じゃね。ああ、豪えらい名前でありますな。ふん。﹂ ﹁親がつけたんです。﹂ と、苦にが笑わらいしたらしい。 ﹁成程、大きにそこもあるですね。﹂ と取っても附けない気けぶ振りをしながら、 ﹁で、晋三の蔵の字は?……いや、名刺をお持ちじゃろう、と考えるですがね。﹂ ﹁確か……有りました。﹂ その時、角燈をぱっと見せると、その手で片手の手袋を取って、目めさ前きへ、ずい、と掌てのひら。目めつ潰ぶしもくわせる構かまえ。で、葛木という男は、ハッと一足さがった。 ﹁差上げますので?﹂ ﹁何、拝見をしますので、はあ、ああ。﹂十九
巡査は、持替えた角燈に、頬骨高く半面暗く、葛木の名刺を指の股に挟んで、 ﹁これは非常に皺しわになっとる名刺じゃねえ。﹂ ﹁つい突つッ込こんで置いたもんですから。﹂と袖の下に、葛木はその名刺入を持っている。 ﹁ああ、非常に大事の物と見えるですね。﹂ 巡査は鼻の先でニヤリと薄笑。 この意味が受取れなくって、 ﹁ええ?﹂と云う。 ﹁深くその、嚢のう底ていに秘して置くですね。﹂ ﹁何、そういう次第ではないんです。いけ粗ぞん雑ざいなんです。﹂ ﹁粗略に扱うですか。わざとですかね、名刺を。﹂ ﹁わざと、と云うのじゃありません。皮肉じゃありませんか。﹂ ﹁あえてそうでないです。が、貴あん下たの言語が前後不揃であるからじゃね。﹂ ﹁何が不揃です。﹂とちょっと忙せき込こむ。 ﹁お黙りなさい、﹂ と、低いが唐だし突ぬけに一喝して、けろりとまた静しずかに、 ﹁反問をすることは要らんのです。……ただ、質問に対して答えれば可よいのです。﹂ ぐい、と名刺入を突込んだが、葛木は事を好まぬらしく、そのまま黙る。 巡査はじろりと四あた辺りを見た。 ﹁早く願いたいのです。﹂ ﹁順序があります。――一体この名刺はですな、……更あらためて尋ねるですが、確に、これは貴あな下たのですな。﹂ ﹁名が書いてありましょう、葛木晋三と。﹂ ﹁本郷駒込が住所で。﹂ ﹁相違ありません。﹂ ﹁すると……皺だらけになった、この一枚のみではありますまい。他に幾枚か持合せがありましょう、有る筈はずじゃがね。﹂ ﹁はあ。﹂と、浮うっかりした返事をする。 ﹁それをお見せにならんけりゃ不い可かんね。﹂ ﹁あいにく、持合せがありません。﹂ ﹁無いと云う法は無い。有るべきですね。﹂ 葛木は、これさえあれば、何事もない、と自覚したのに、実際無いのを口くち惜おしそうに、も一度名刺入を出して、中を苛いら立だって掻かき廻まわしたが、 ﹁まったく、一枚になっていたのです。﹂ ﹁成程……非常に交際がお広いですね。﹂ ﹁いいえ、狭いんです。﹂と投げたように言下に答える。 ﹁ここに医学士、と記してあるですな。﹂ 巡査は魔を射る赤い光を、葛木の胸にぴたり。 その髯ひげの薄い頤あごを照した。 ﹁お職掌がら、特に御交際の狭いと云うのは、……ですな。なぜですかね。﹂ ﹁開業はしておらんのです。﹂ いくらか、頷うなずいたらしかった。と更まった態度で、 ﹁どこへお帰りですな。﹂ ﹁学校へ。﹂ ﹁何、﹂ ﹁……その寄宿へ帰ります。﹂ ﹁ははあ、学士の寄宿舎が。それは唯今ありますか。﹂ ﹁医局に居おります。﹂ ﹁今時分。﹂ ﹁そこに寝泊りをするんです。﹂ ﹁すると、この駒込千駄木は?﹂ ﹁籍が有るんです。﹂ ﹁なぜですか、籍だけお置きになるは、……ですね。﹂ ﹁妹の縁附いた家なんです。﹂ ﹁御令妹の、ふん。﹂ と、一つ呼い吸きを入れたが、突附けた燈あかりも引かず。 ﹁で、唯今まで、どこにおいでで有ったのかね。﹂ ﹁この辺に、ちょっと飲んでおりました。﹂ そこへ、二人ばかり通抜けたが、誰も立たち停どまっても見なかった。二十
﹁何屋です、何屋ですかね。﹂
﹁……それは言わなければならないでしょうか。勿論、是非となら申すんです。﹂
﹁いや、それは先ず。……しかし御愉快でしたな。﹂
﹁何、苦痛です。﹂
と向を替えて、欄干に凭もたれて云う。……
﹁苦痛、……成程。道理で、顔がん色しょくが非常に悪いな。﹂
たちまち乱暴な言もの語いいしながら、横ざまにその痩やせた形を照して、
﹁真まっ蒼さおじゃね、はははは。﹂
と笑棄てたが、底に物ある、薄気味の悪い事。
その時聞えた。糸より細い忍しの音びねの……
――露地の細路、駒下駄で――
﹁ああ……可い厭やな……姉さん。﹂
と若い女の声がすると、かたかたと駆出す音、呉服橋を、やや離れた辻のあたり。薄墨色の河岸を伝って、雲より黒い線路に響いた。トも一人笑った女の声。悪わる巫ふ山ざ戯けに威おどしたらしい。跫あし音おとは続いて響く。
葛木はるように顔を撫でて、
﹁蒼まっ青さおですか。……そうですか。客が野暮だから、化物に逢った帰かえ途りでしょうよ。﹂
﹁それは、唯今のそれは、いやしくも行政官の一員たる、すなわち本職に向っての言語であるのですね。﹂
﹁いや、実は性分です。﹂
と焦じれったそうに言い切った。葛木は衝つと行ゆこうとした。表ひょ裏うり、反覆、とにかくながら、対あい手てが笑ったから、話は済んだ、と思ったのである。
﹁お待ちなさい、お待ちなさい。待たんか、おい。﹂
﹁何です。﹂
﹁ずかずか行っちゃ不い可かんじゃないか。尋問はこれからなんだ。﹂
﹁僕は帽を取るよ。更めて挨拶をします。可いい加減にしなくっちゃ困るじゃありませんか。夜分、我々が通行するのに、こういう事は間々あります。迷惑でも御職務に対して敬意を表する。それにしてもです。唯今までさえ、立入過ぎたお尋ねのなさり方ですが、単に御熱心であるからだ、と思ったんです。
この上何を聞くんです。まったく可い加減にして下さい。……用が有るなら住所へお尋ねを願いましょうかしらん。﹂
﹁さよう、当方の都合に因っては住所へもお尋ね出来ます、また……都合によっては、本署へ御同行も出来得るですでなあ。﹂
﹁ええ。﹂
さすがに葛木は一驚を喫きっした。余あまりの事である。
﹁けれども、御答弁に依って、そこまでに立到らない事を、紳士のために、本職は欲するでしてな、はあ、ああ。﹂
﹁早くお尋ねを願います。何です、とにかく、困りました。僕は不安に堪えません。﹂
﹁すると、むしろここで埒らちを明ける事を御希望になるのですね。﹂
﹁勿論、是が非でも連れて行こうと思えば、それが出来ない貴あな下たじゃないんだから。﹂
﹁さよう。しからば反抗をなさらんで、柔順にお答えをなさるが可よい。﹂
と入いれ交ちがいになった向を直して、巡査は半身を反そるがごとく、肩を聳そびやかして衝つとまた角燈を突附けた。
葛木は、その忌わしさと、癇かん癪しゃくにぶるぶるする。
﹁貴下は太ひどくその顔がん色しょくが悪いですね。﹂
﹁……寒いのです。﹂
﹁寒さぶい! 化物に逢ったのが、性分になって、そして今は寒い。いろいろに変化しますな。﹂
﹁まあ、君は、﹂と、足あし蹈ぶみで橋を刻んで焦じれると、
﹁御都合で署へ御同行を願っても可いのです、が、御答弁によって、それまでに立到らない事を、紳士のために希望しますでなあ。﹂
﹁…………﹂
栄螺と蛤
二十一
﹁なにしろじゃね、本職の前で顔色が悪うて、震えておらるるのは事実じゃね、それはしかし寒さぶいでも構わんです。 その寒いのにじゃね……先さっ刻きから、水に臨んで、橋の上に、ここに暫しば時らく立っていたのは、ありゃどういうわけですか。 勝手だ、酔覚しじゃと言わるるかも知れん。けれどもじゃね、見ておったぞ、どぶん! と音のした……﹂ 水の面おもては暗かった。 ﹁どぶん。﹂ ぎりぎりと靴を寄せつつ、 ﹁川の中へ放ほ棄かし込んだ、……確に、新聞紙に包んだ可なり重量の有るものは、あれは何ですか。﹂ ﹁ああ。﹂ 前の世の罪ででもある事か、と自ら危ぶみ、惶おそれ、惑い、且つ怪あやしんでいた葛木は、余りの呆あっ気けなさにかえって驚いたのである。 ﹁その事ですか。﹂ ﹁先ずそれを聞かんとならんですね。﹂ ﹁あれは栄さざ螺えと蛤はまぐりですよ。﹂ これがまた少なからずこの行政官を驚かした。……その答が余り簡単で明めい瞭りょうでおまけに平凡であったから。……けれども、この場合の平凡たるや、世間の名詞は、巡査のためには尽ことごとく、平凡であったろう。 巡査に取っては、魚河岸の侠いさ男みが身を投げたよりは、年の少わかい医学士と云う人間の、水に棄てたものは意外であった。 ﹁栄螺と蛤。﹂ 問返す、鼻柱かけて著しく眉を顰ひそめて、疑惑の眼まなこは異変に光る。 ﹁貝類の……です。﹂ ﹁いや、それはいや、それはしかしながら初めは妖ばけ怪ものの符ふち牒ょうででもあるかに聞いたですが、再度繰返して説明をされたで、貝類である事は分ったです。分ったですが、……貴あな下たは妙なものを棄てましたなあ。﹂ ﹁放したのです、私は、﹂ ﹁成程、でそれは禁まじ厭ないにでもなるですかね。﹂ ﹁……雛ひなに、雛壇に供えたのを、可哀相だから放したんですよ﹂ ﹁ははあ、あるいは煮、あるいは焼いたやつを。﹂と、わざと空そら惚とぼけた事を云う。 うっかり引入れられそうだった。が、対あい手てが巡査である事に、彼はようやく馴なれたのである。 ﹁生のままですとも。﹂ ﹁何等の目的ですかね。﹂ ﹁目的は有りません。﹂ ﹁人間が、紳士が、いやしくも学士の名称御所有の貴下が、目的なしに、目的なしに事を行うという理由はあるまいかに考えるですね。﹂ 医学士は思わず激した。 ﹁根、根掘り葉掘り。﹂ ﹁御都合に因ればです、本署へ御同行を願うことも出来るです。が、紳士として、御名誉の為にですな。﹂ ﹁分った。……分りました。が、別に目的と云っては無い。可哀相だからそれでなんです。﹂ ﹁……蓋けだし非常な慈善家でおありですな。成程、いわゆる、医は仁術であるですかね。﹂ ﹁私はあえて、あえて仁者とは言いますまい。妹の、姉の。﹂ ﹁あ!﹂と一つ握にぎ拳りこぶしを口に突込むがごとく言ことばを遮る。 トややしどろの体で、 ﹁姉さんの志です。﹂ ﹁姉さんの志。ははあ、君は姉のために、嬰あか児ごを棄てたんじゃね。﹂ ﹁何!﹂二十二
﹁前さ刻きには御令妹であったかに、ああ、本職は記憶するですな。﹂ ﹁そうです、そうなんです。﹂ ﹁何か、年上の妹かね。﹂ ﹁いや、姉です。﹂ ﹁答が明瞭を欠いてて不い可かんねえ。……為にならんぞ、君。﹂ ﹁ですから僕の妹です。﹂ ﹁ははは、駄目じゃね、君、どうも変じゃね。﹂ ﹁何が変ですか。﹂ ﹁都合に因っては本署へ、ですな。﹂ ﹁馬鹿を仰おっ有しゃい!﹂ ﹁けれども、紳士のために、あえてそれは望まんのですなあ。﹂ ﹁実に、貴下は。﹂ ﹁誰が雛を飾ったのですか。﹂ ﹁それは僕だ。﹂と赫かっとなる。 ﹁おい、﹂ と云う語調が変って、 ﹁しっかり答弁をせんと不い可かんねえ。君は、今しがた、……某大学ですかね、病院に寄宿をすると言ったではなかったか。……大学、病院の宿舎内で、雛を飾って遊ぶのですな。栄螺、蛤を供うるですな。﹂ ﹁いかにも。﹂ ﹁事実は、……本職が、貴下を疑うよりも、むしろ奇怪じゃないですか。﹂ ﹁それが姉の志ですから。﹂ ﹁御令妹は、﹂ ﹁妹は縁附いて、千駄木に居るのです。﹂ ﹁分りました。﹂ はじめてわずかに頷うなずきながら、 ﹁姉と云うのは、ですな。﹂ ﹁それまで、そんなことまですべて言わなければならんのですか。……詮しか方たがない、災難と思う……御都合に因っては、それはどこへでもお供をする。が、打明けてお聞かせ下さい。一体、何から起ったお疑いなんですか。﹂ ﹁聞かせましょう。川へお棄てになったものを、明かにお話しが願いたい?……﹂ ﹁それは、﹂ ﹁ははは、やはり︵栄螺と蛤︶か、そいつは困りましたな。﹂ ﹁お信じ下さらない。﹂ ﹁強いて信じたくないとは願わんのです、紳士のために。なぜ、そんなら貴下は、その新聞包みを棄つるに際して、きょろきょろ四あた辺りをしたり、胡う乱ろ々う々ろ往ゆき来きをしたんじゃね。﹂ ﹁そりゃ何です、人が怪みはしまいかと思ったからです。﹂ ﹁ははあ、人が怪むという事を。それじゃ……御承知であったですな。﹂ ﹁ものが、ものだからですから。﹂と大おおいにまごつく。 ﹁何も貝類を川に棄つるに、世間を憚はばかる事は無いように思われる……ですね。﹂ ﹁ですが、……また……貴下のような。﹂ ﹁すると、本職がです、警官がそれを怪む事は御承知の上ですか。﹂ ﹁僕には分らん。﹂ ﹁本職はです、貴下のために御答弁の拙劣なのを惜むです。﹂ ﹁……勝手にしたまえ。どうしようてんだ。﹂ ﹁……紳士のために望まない事ですな。﹂ ﹁煩うるさい、勝手になさいよ。﹂ ﹁為にならんぞ!﹂ ﹁旦那。﹂ と暗がりに媚なまめかしく婀あ娜だな声。ほんのりと一重桜、カランと吾妻下駄を、赤電車の過ぎた線路に遠慮なく響かすと、はっと留と楠め木きの薫して、朧おぼろを透すかした霞の姿、夜目にも褄つまを咲せたのは、稲葉家のお孝であった。 ――一昨年の春である――おなじく妻
二十三
﹁もし、ちょいと。﹂ 右側の欄干際に引添った二人の傍わきへ、すらりと寄ったが、お端折の褄を取りたそうに、左を投げた袖ぐるみ、手をふらふらと微ほろ酔よいで。 ﹁旦那、その方のお検しらべはまだ済みませんか。﹂ と斜めに警官を見て、莞にっ爾こり笑う……皓しら歯はも見えて、毛筋の通った、潰つぶし島田は艶あで麗やかである。 警官は二つばかり、無意味に続けざまに咳しわぶきした。 ﹁お前は何かい、ああ。﹂ ﹁はあ、お次に控えておりました、賤しずの女めでござんすわいな。﹂とふらふらする。 分ったか、分らないか、別に心にも留らない様子で、 ﹁何が故に、ああ、出チ来たかい、うむ?﹂ ﹁はいはい、御意にござりまする。﹂ と妙に可愛い声して、 ﹁このお方の、﹂ 流なが眄しめに、ト心あってか葛木を優しく見ながら、 ﹁お検べが済みませんと、後が支つかえますのでござんすわいな。﹂ ﹁何が支える、何が。﹂ ﹁だって――ああ焦じれったい。この方は何じゃありませんか――御おあ姉ねえさんの志だって、お雛様に御馳走なすった、お定りの︵栄螺と蛤。︶―― でもお儀式よ。それを貴下、川ン中へお放しなすったって、それがでしょう、怪しいって事なんでしょう。 もし、栄螺も蛤も活きていますわ。中でもね……お雛様に飾ったのは、ちらちら蝋ろう燭そくの煮えます時、春雨の静かな晩は、口を利くものなんですよ。クク、﹂ と酸ほお漿ずきを鳴らすがごとく、 ﹁なんて。――可哀相に、蒸したり焼いたり出来ますかって貴下――おまけにお雛様んでしょう――この方の心意気は、よく分ってるじゃありませんか。 私だって放しに来ました、見て下さいな。﹂ 片手を添えて、捧げたのは、錦にし手きでの中皿の、半月形なりに破われたのに、小さな口紅三つばかり、裡うち紫の壺二ふた個つ。……その欠皿も、白しら魚おの指に、紅べに猪ちょ口くのごとく蒼く輝く。 巡査も葛木も瞳を寄せた。 ﹁あら、小さいんで極りの悪い事ね……お価あしが高いもんですから、賤の女でござんすわいな。ほほほほほ。﹂ 桃の花片そこに散る、貝に真珠の心があって、雛ひいなを懐したう風情かな。 ﹁お座敷帰がえりに、我う家ちの門かどから、奴やっこに持たして出たんですがね。途中で威おどかしたもんだから、押おっ放ぽり出だして遁にげたんですもの。ヒヤリとしたわよ、真まっ二ぷたつ。身上大おお痛いた事ごと。これを拾う時の拙者が心中、心持というものは、御両所、御推量下されい。 それでも、孝の字大おお達たて引ひき。……ねえ、そんな思いをして迄だって、放しに来たんじゃありませんか。ねえ、現在。﹂ と左右を見つつ、金魚鉢を覗くごとく、仇あど気けなく自分も視みつめて、 ﹁お分りになって、旦那。……お許しを受けないと、また叱られるとなりません……もう可いいでしょう、ちょいと、放しますよ。﹂ 巡査の、ものも言わない先、つかつかと欄干越。 ﹁一石橋に桃が流れる。どんぶりこ。﹂ ばっと鳴って、どどどんと水の音。 両手を縋すがって、肩を細く乗出しながら、 ﹁河童や、悪いた戯ずらをおしでないよ。﹂ 向う岸がしに鷺が居て、雲はやや白くなった。 ﹁失礼しました。﹂ 名刺を返して、 ﹁悪しからず……お名前だけ記憶します。﹂ と、鉛筆で手帳へその名を。……振向くお孝に見む向かって、 ﹁お前の名も?……何と云うかい。﹂ ﹁おなじく妻、とかいて頂戴。﹂二十四
﹁実に難あり有がたかった、姉さん。﹂ 巡査の靴音が橋の上に留やんで、背うし後ろむ向きのその黒い影が、探偵小説の挿さし画えのように、保険会社の鉄造りの門の下に、寂しく描えが出きいだされた時、歎息とともに葛木はそう云った。 ﹁お庇かげさまで助かったんだよ。﹂ ﹁恐入ります、御ごい慇んぎ懃んで。﹂ 並んで彳たたずんで見送っていたのが、微ほほ笑えんで見向いてお孝。 ﹁でも、驚いたでしょう、貴あな方た。﹂ ﹁驚いたって、はじめは串じょ戯うだんだと思ったし、半なか頃ごろじゃ、わざと意地悪くするんだと思って癪しゃくにも障りましたがね、段々真ま面じ目めなのに気が付いたんです。確に嬰あか児んぼでも沈めたと思ったらしい。先さ方きが職務に忠実なんだと気がつくほど、一度は警察か、と覚悟をしてね――まあ、しかしそれでも活きた証拠に、同じものの放ほう生じょ会うえがあって、僕が放生会に逢ったようだ。で、ほんとうに不思議な位だ。﹂ ﹁私は毎年放すんですわ。﹂ ﹁それにした処で、ちょうど機お会りよく、……私は姉の引合せか、と思う。﹂ ﹁御馳走様。﹂ と横を向いた、片頬笑みの後おく毛れげを、男に見せて、婀あ娜だに払い、 ﹁清葉姉さんの、でしょうちょいと。﹂ ﹁ええ?﹂ ﹁お驕おごんなさいよ、葛木さん。﹂ ﹁驕る。……そりゃきっとお礼をするがね、どうしてお前さん、私の名を。﹂ ﹁知っていますよ。﹂ 吾妻下駄をからりと鳴して、摺ずり下さがる褄を上コオ衣トの下に直した気けは勢い。 ﹁今お帰り? 清葉さんの葛木さん。﹂ 彼は退いて片手を振った。 ﹁止してくれ、先さ方きが迷惑をするんだから。﹂ ﹁酷ひどく御謙遜ね。﹂ ﹁いや、まったく。﹂と、慌あわただしく中折をぐいと被かぶる。 お孝は覗くようにしながら、 ﹁それとも、これからお出掛けなさるの。……宵にして下さいよ。そうでないと、私たちが見たくっても廊下で御目に掛れない。﹂ ﹁串じょ戯うだんを云っちゃ困る……これから行って逢えるようなら、橋の上で巡査に捉つかまる、そんな色消しは見せやしない。…… なんのッて暢のん気きらしく云うけれども、実際行掛けに流した方が無事だった。雀と違って、ものがものだし、ちょっと嵩かさは有るしするから、宵の人目を憚はばかったのが、虫が知らしたのかも知れんのだね。ほんとうにこれから帰るんだよ。﹂ ﹁じゃ、やっぱりお帰りがけね、お待ちなさいよ。﹂ と抜出ていた簪かんざしを、反らした掌てのひらで、スッと留めて、 ﹁そうね……姉さんの御志で、お雛様の栄螺と蛤を、一石橋から流すと云うのに一人ぽっち。それまで檜物町に差向いでいた芸者が、一所に着いて来ない意気じゃ、成程出来ていませんね。﹂ ﹁勿論。﹂と外オウ套バアコオトの襟を立てる。 ﹁それじゃ風うわ説さの通りだよ。﹂ ﹁や、専ら風説をするのかい。﹂ ﹁評判さ。お前さん。﹂ ﹁それはいささか情ない。﹂ ﹁意気地なし……﹂ と袂たもとを投げた手を襟に、眉を明るく屹きっと見て、 ﹁男の癖に。﹂ ﹁これは手酷い?﹂二十五
﹁だけども、可いい気味ねえ。﹂ ﹁何の怨みだね。﹂ ﹁可いもの好みをするからさ。﹂ ﹁相済みません。﹂ 葛木は寂しく笑って、 ﹁猛烈なる事巡査以上だ。﹂ ﹁処へ……私でなく、清葉さんに出て貰いたかったわね。﹂ ﹁その人でさえ、可いかね、都合のいい時でないと、容易に顔を見せちゃくれない……﹂ ﹁沢山よ。﹂と一くる転りと背うし後ろ向く。 ﹁いや、見得も外聞も無しにさ。分けて、お前さんは全盛だ。名だけは評判で聞いている。……この頃に一度挨拶、と思うけれど、呼んでも……ちょっとじゃ見えんのだろうな。﹂ ﹁見えるも見えないも、葛木さん、御挨拶なんて要るものですか。﹂ ﹁きっとそう云うだろうと思った。勿論、たかだか更めて、口で云う礼ぐらい。﹂ ﹁かえって迷惑。﹂ ﹁御迷惑。﹂と口も足も、学士は蹴けつ躓まずいたようであった。 お孝は澄まして、 ﹁ええ、真まっ平ぴら。﹂ ﹁それじゃ時節を待って下さい。﹂ ﹁可い厭やです。﹂ 学士は決然たる態度で、ちょっと帽を取って、 ﹁名は忘れませんよ、いずれ。﹂と二ツ三ツ塵ちりをはじきながら、附穂なく線路を斜めに、見えない電車に追わるるごとく。 と顧みて、そこで、ト被かぶ直りなおして、杖ステッキをついた処、お孝は二つばかり、カラカラと吾妻下駄を踏鳴らした。 ﹁ただ別れるの。……不ぶ意い気きだねえ、――一石橋の朧おぼ夜ろよに、﹂ 四あた辺りを見つつ袖を合せた、――雲を漏れたる洗髪。 ﹁女と二人逢いながら、すたすた︵かねやす。︶の向うまで、江戸を離れる男ッてのがお前さん江戸にありますか。人目にそうは見えないでも、花のような微ほろ酔よいで、ここに一ひと本もと咲いたのは、稲葉家のお孝ですよ。清葉さんとは違いますわ。﹂ ﹁違うから、それだから、﹂ 学士は、つかつかと引返して、 ﹁なおの事、忙しくって、逢ってはくれまいと言うんじゃないか。﹂ ﹁ええそうよ、……違いますとも。……清葉さんと違うのはね、今時分から一人じゃ貴方を帰さない事なのよ。﹂ ﹁お孝さん。﹂ ﹁葛木さん、もう遅いわ。……電車も無し……巡査に咎められたりなんかして、こんな時はつけが悪い、山の手の夜道だもの、無理をすると追おい剥はぎが出ますよ。﹂ ﹁もっとも、直ぐにも、挨拶もしたいんだけれど、遅い、ね、何しろ遅いからどこと云って……私は働はたらきが無いのでね。﹂ ﹁附いてるのが私です。――箱を出たお嬢さんだわ。お座敷はどこにでも。……ちょっと……一所にいらっしゃいな。﹂ と取って引いた外がい套とうの脇を離すと、トンと突いて、ひらりと退のくや、不意に蹌よ踉ろめく葛木を、すっと立って、莞にっ爾こり見て、 ﹁その時、きっと御挨拶なさいまし。ほほほ。﹂ と花やかなものである。 ﹁姉さん。﹂と抱附くように腰にひったり、唐だし突ぬけに駆寄ったは、若い妓この派手な態な度り――当時一本になりたてだった、お孝が秘蔵のお千世なのである。 ﹁まあ、千ち世いちゃんか、……ああ、吃びっ驚くりするじゃないか、ねえ。﹂二十六
﹁だって、姉さん。﹂
﹁姉さんじゃないよ、……唐だし突ぬけに何だねえ、お前、今しがた河岸の角から駆出したじゃないか。﹂
――露地の駒下駄――は、この婦おんなで、怯おびえた声はその妓であった。
﹁緩ゆっくり歩あ行るいても追おッ着ついて来ないから、内へ帰ったろうと思ったのに。﹂
﹁だって、姉さんが威おどかすんですもの。私吃驚して遁にげ出だしましたけれど、︵お竹蔵。︶の前でしょう、一人じゃ露地へ入れませんもの、可こ恐わくって、私……﹂
﹁煙たば草こ屋の小母さんに見てお貰いなら可いものを。﹂
﹁もう閉りましたの。﹂
と、小腰を屈かがめて、欄干の上で、ふっくりした鬢びんを庇かばった透すかして見る手、――橋の側は……変っていた。
﹁……覗いたけれども、真まっ暗くらで、もう寝たんですもの。﹂
﹁それで何かい、また出掛けて来たのかい。﹂
﹁ええ、一人じゃ可恐いんですもの、……でもこっちがまだしもですわ。﹂
﹁なんて、お前、お約束だもんだから、帰りに縁日へ廻って、何か買わせようと思ってさ。さあ、行ゆこうよ……ねえ、貴方一所に――千世ちゃん御挨拶をおしでないか。﹂
﹁――失礼。……お初に、﹂
﹁お初じゃないよ。……貴方、この妓は御存じだわね。﹂
﹁両三度――千ち世せちゃんだっけ。﹂
﹁あら、済みません、……誰どな方た。﹂
と縋すがり寄るように、外套の襟を覗いて、
﹁まあ、清葉姉さんに岡惚れの、﹂
﹁謝まる。﹂
と俯うつ向むけに、中なか折お帽れぐるみ顔を圧おさえて、
﹁何とも面目次第も無い!﹂
﹁……清葉命……と顔に書いてあるようだわね、口くや惜しいね、明あかるい処でよく見てやろうや。﹂
﹁どこへ行く気なんです。﹂
﹁縁結びに……西河岸のお地蔵様へ。﹂
肩でトンと寄添いつつ、
﹁分ったでしょう、貴方、この妓には遠慮は要らない。千世ちゃん、御覧、似合ったかい。﹂
﹁あら、姉さんは?﹂
﹁お孝さん。﹂
﹁︵同じく妻。︶だわ。……雛の節句のあくる晩、春で、朧おぼろで、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査の帳面に、名を並べて、女房と名な告のって、一所に詣まいる西河岸の、お地蔵様が縁結び。……これで出来なきゃ、日本は暗や夜みだわ。﹂
肩に掛った留と南め奇きの袖。
お孝を掠かすめて腕わん車しゃが一台。
﹁危あぶねえ。﹂
矢のごとし。
﹁おや、おいでなすったよ……﹂
――露地の細路、駒下駄で――
細く透とおって凄すごい声する。
﹁可い厭や、姉さん。﹂
﹁それ、兄さんにおつかまり。﹂
飛つくお千世を葛木に縋らせて、ひとり褄つまを挙げて、悠然と前さきへ立って、
﹁大丈夫、そうすりゃ、途中で、誰かに逢っても安心でしょう。﹂
葛木は、扱あし兼らいかねたか、わざと不こた答えず。
﹁千世ちゃん、お前寒くはないかい。﹂
果せる哉かな、この一行は、それから参詣を済まして帰りがけに、あの……仲通りで、一人軒伝いに、包ましく来かかる清葉に、ゆくりなく出逢ったのである。
横ほこ槊をよ賦こた詩えてしをふす
二十七
﹁今晩は……清葉姉さん。﹂ ﹁清葉姉さん、今晩は。﹂ そうした事も、渾あだ名なを令夫人などと呼ばるる箇条であろう、柔かな毛皮の襟巻を、雪の細ほそ面おもて蔽おおうまで、深々と巻いている。……上コオ衣ト無しで、座敷着の上へ黒くろ縮ちり緬めんの紋もん着つきの羽織を着て、胸へ片袖、温しと容やかに褄つまを取る、襲かさねた裳もすそしっとりと重そうに、不断さえ、分けて今夜は、何となく、柳を杖に支つかせたい、すんなりと春の夜風に送られて、向うから来る姿。……手を曳ひかれたり、三人つれたり、箱屋と並んで通るのだの、薄うす彩さい色しきした陽かげ炎ろうが朧おぼろに顕あらわれた風情の連中が、行違ったり、出会ったり、大勢の会釈するのが、間あわいの隔った時分から――西河岸の露店の裸火を、ほんのりと背うし後ろにして軒燈明の寝静まった色の巷ちまたに引返す、――この三人の目に明かに見えたのである。 ﹁あれだ、玄徳……﹂ 見ても分る。清葉のその土とち地っ子こに対して、徳と位と可なつ懐かし味みの有るのに対して、お孝は口の中うちに呟つぶやいた。 ﹁千世ちゃん、お放しでないよ、……葛木さん、横町へなんか躱かわしては卑怯だことよ。……﹂ ﹁何が可こ恐わくって遁にげるものかね、悪い事をした覚おぼえは無い。﹂ ﹁ただ、口説いて見たばっかりだってね。﹂ ﹁そしてだ、見事に刎はねられたから可いじゃないか。﹂ ﹁嘘ばっかり、口説けもしないんじゃありませんか。﹂ ﹁それも、評判かい。﹂ ﹁まずね。﹂ ﹁いや、破れかぶれ、何を隠そう。言出すまいとは思ったけれども、凡夫の浅間しさに、つい、酔った紛れに。﹂ ﹁おや。﹂ ﹁が、酒の勢いきおいを借りて、と云うのが、打明けた処だろう――しかも今夜――頭から恐入らされたよ。﹂と、もう一ひと呼い吸き、帽子を深草、蓑みのより外がい套とうは見みす窄ぼらしい。 これは蓋けだし事実なのである。 お孝は、一足前さき立だった、身を開いて、鈴を張ったような瞳に一目凝み視つめてちょっと頷うなずきながら、 ﹁隠さず、白状をなすったから、私がつかまって行ゆくのは堪忍して上げます。……打うっ棄ちゃった清葉さんも豪えらいけれども。……﹂ で、立直って凜りんとした声、 ﹁拾い手が立派です。……威張っていらっしゃい。そんなに可こ恐わがる事は無いわ。﹂ ﹁いや、恐れはせん、が、面目ないのだよ。﹂と窘すくまるばかり襟に俯うつ向むく。 斉ひとしく俯向いて、莞に爾こ々に々こと笑ってばかり、黙って、ついて歩あ行るいた、お千世が、衣きぬの気けは勢いにそれと知って、真まっ先さきに、 ﹁今晩は、﹂ ﹁おお、千ち世いちゃん。﹂ いわゆる口説いて刎はねられたと云う恋人に、しかも同じ夜よ。突落された丸木橋の流ながれに逆らって出逢ったのである。葛木は次の瞬間を憂きづ慮かって、靴の先から冷くなった。 お孝が、横合から、 ﹁御おま参い詣りですか、清葉姉さん。﹂ ﹁は……﹂ と、行違って、温しと容やかに見返りつつ、 ﹁姉さんて、可い厭やですよ、ほほほ、人が悪いわ。﹂ と、すっと通った。 知らぬ振か、実際それとも、面おもてを蔽おおうたので認めなかったか、心付かない様子で通過ぎたの、トお千世が袂たもとを曳いたのに、葛木は宙を行くように、うかうかと思わず別れた。 ――お孝―― ﹁姉さんて、可厭ですよ、ほほほ、人が悪いわ。﹂二十八
﹁ちょッ、玄徳め。﹂ と、投げたように、袖を払って、拗すね身みに空の雁かりの声。朧おぼろを仰いで、一人立たち停どまった孫権を見よ。英気颯さっ爽そうとしてむしろ槊ほこを横よこたえて詩を赤壁に賦ふした、白面の曹そう操そうの概がある。 前へ行く二人の影に、その通る声で、こっちから、 ﹁通越し。﹂ と浴びせたのは、稲葉家の我う家ちへ曲る火の番の辻であった。 すぐに、カタカタと追おい縋すがって、 ﹁千世ちゃん、清葉さんの長なが襦じゅ袢ばんを見たかい。﹂ ﹁ええ、可いわねえ。﹂ ﹁色が白くて、髪が黒い処へ、細ほっそりしてるから、よく似合うねえ。年と紀しよりは派手なんだけれど、娘らしく色気が有って、まことに可い。葛木さん、ちょいと、あすこへ惚れたんじゃないこと。﹂ ﹁馬鹿な。﹂ ﹁でも可いでしょう。﹂ ﹁長襦袢なんか、……ちっとも知らない。﹂ ﹁まあ、長襦袢を見ないで芸者を口説く。……それじゃ暗やみ夜よの礫つぶてだわ。だから不いけ可ないんじゃありませんか。今度、私が着て見せたいけれど、座敷で踊るんでないとちょっと着憎い。……口くや惜しいから、この妓こに拵こしらえて着せましょうよ。﹂ やがてお千世が着るようになったのを、後にお孝が気が狂ってから、ふと下に着て舞扇を弄もてあそんだ、稲葉家の二階の欄てす干りに青柳の糸とともに乱れた、縺もつるる玉の緒の可あわ哀れを曳ひく、燃え立つ緋ひと、冷い浅黄と、段だん染ぞめの麻の葉鹿かの子は、この時見立てたのである事を、ちょっとここで云って置きたい。 序ついでに記すべき事がある。それは、一石橋からこの火の番の辻に来る、途中で清葉に逢った前。 縁日はもう引ひき汐しおの、黒い渚なぎさは掃いたように静まった河岸の側かわで、さかり場からはずッと下さがって、西河岸の袂たもとあたりに、そこへ……その夜よは、紅い涎よだ掛れかけの飴屋が出ていた。 が、それではない。 桜草をお職にした草花の泥鉢、春の野を一ひと欠かきかいて来たらしく無造作に荷を積んだのは帰り支度。踵かかとを臀しりの片膝立。すべりと兀はげた坊主頭へ縞しま目めの立った手てぬ拭ぐいの向むこ顱うは巻ちまき。円顔で頬ほお皺じわの深い口の大おおきい、笑うと顔一杯になりそうな、半白眉の房ふっさりした爺じいさま一人、かんてらの裸火の上へ煙きせ管るを俯うつ向むけ、灰吹から狼のろ煙しの上る、火気に翳かざして、スパスパと吸って、涎掛の飴屋と何か云って、アハハ、と罪も無げに仰向いて笑った、……その顔をこっちで見ると、葛木に寄縋って、一石橋から来たお千世が、 ﹁ああ、お爺さんが。﹂と云うと斉ひとしく、振払うようにして駆出したのであった。 ﹁可愛いわね。﹂ それを透かして、写絵の楽屋のごとき、一筋のかんてらに、顔と姿の写るのを、わざと立淀んで、お孝が視ながめて、 ﹁ねえ、ちょいと。……生意気盛りの、あの時分じゃ、朋輩の見得や、世間への外聞で、抱かか主えぬしの台所口へ、見すぼらしい親身のものの姿が見えると、つんと起たって、行ゆきもしないお稽古だの、寝坊が朝湯へ行き兼ねないのに、大道さなか、︵お爺さん。︶――ええ、お千世はあの人の孫なのよ、――可愛ッちゃないのねえ。﹂羆の筒袖
二十九
﹁阿おや爺じどの、阿爺どの。﹂ ﹁はい、私わしかねえ。﹂ 橋から橋へ、河岸の庫くらの片暗がりを遠慮らしく片側へ寄って、売残りの草花の中に、蝶の夢には、野末の一軒家の明あか窓りまどで、かんてらの火を置いた。荷は軽そうなが前まえ屈かがみに、てくてく帰る……お千世が爺じいの植木屋甚じん平べい、名と顱はち巻まきは娑しゃ婆ば気けがある。 背うし後ろをのさのさと跟つけて来て、阿爺どの。――呼声は朱しゅ鞘ざやの大だん刀びら、黒羽二重、五ごぶ分さか月や代きに似ているが、すでにのさのさである程なれば、そうした凄すご味みな仲蔵ではない。 按あんずるに日本橋の上へは、困った浪花節の大高源吾が臆おく面めんもなく顕あらわれるのであるが、いまだ幸に西河岸へ定九郎の出た唄を聞かぬ。……もっともこのあたり、場所は大日本座の檜ひのき舞台であるけれども、河岸は花道ではないのであるから。 変な好みの、萌もえ葱ぎがかった、釜かま底ぞこ形がたの帽子をすッぽり、耳へ被かぶさって眉の隠るるまで低のめずらした、脊のずんとある巌がん乗じょ造うづくり。かてて加えて爪皮の掛った日和下駄で、見上げるばかり大おおきいのが、もくもくとして肩も胸も腹もなく、ずんぐり腰の下まで着込んだのは、羆ひぐまの皮を剥むいた、毛をそのままにした筒袖である。 これがもし対つい丈たけで、赤皮の靴を穿はけば、樺太の海賊であるが、腰の下の見すぼらしさで、北海道の定九郎。 見よかし羆の袖を突出し、腕を頤あごのあたりへ上げ状ざまに拱こまぬいた、手首へ面つらを引ひっ傾かたげて、横よこ睨にらみにじろじろと人を見る癖。 ﹁帰るのかあ。﹂と少し訛なまる。 ﹁はい。﹂ むかし権ごん三ざは油壺。鰊にし蔵んぐらから出たよな男に、爺さんは、きょとんとする。 羆は件くだんの横睨みで、 ﹁おい、帰るのかあ。﹂ ﹁家うちへかね。﹂ ﹁うむ。﹂と頷く。 ﹁帰りますよ、はい。﹂ ﹁帰ると……ふん。どこか道寄りはせんのですかい。﹂と、悪く横柄な癖に時々変徹に丁寧なり。 ﹁道寄りとおっしゃりますと?……﹂ ﹁何よ、あれだ、お前、今あすこで。﹂ と人ひと指さし一本、毛の中へちょいと出し、 ﹁あれよ、芸者と少わかい男と三人連に逢うたでしょうが。﹂ ﹁はい、はい。﹂と大おおきな口を開けて続けざまに頷きながら、目はかえって半ば閉じて、分別したは老功也なり。 ﹁知ってるだろうが、姉さんはお孝と云うのだ。少い妓こはお千世よ。﹂ ﹁さようでございます﹇#﹁さようでございます﹂は底本では﹁さようでごさいます﹂﹈、はい。﹂となお胡うさ散んらしく薄目で見上げる。 ﹁阿爺どのは、どうやら大分懇意らしい様子ですな。﹂ ﹁ええ、いいえ、些ささ少いの。何、お前さま。何かその、私てまえに用事で。﹂ ﹁火を一つ貸してくれ。﹂ と云う、煙草より前さきに、蔵造りの暗い方へ、背せなを附くッ着つけ、ずんぐりと小溝を股に挟んで大きく蹲しゃがみ、帽子の中うちから、ぎろぎろと四あた辺りを見た。が、落こぼれたような影もまばらで、開いているのは、地蔵尊の門と、隣とな家りの煙草屋の店ぐらいに過ぎなかった。 爺さんは遁にげ腰ごしに天てん秤びんを捻ひねって、 ﹁さあ、お点つけなさりまし、だが、お早く願いますので、はい。﹂三十
﹁聞くだけ聞けば用は無いだ。﹂ 例の訛った下卑た語もの調いい。圧おしは利かないが威おどかすと、両切の和煙草を蝋ろう巻まきの口に挟んで、チュッと吸って、 ﹁な、阿おや爺じどの、お孝が今だ、お前に別れて帰り際に、︵待ってるからおいで、きっとだよ。︶と言うたではないですかい。……違やせまいが、な。﹂ 爺さんは、面かお中じゅうの皺しわへ皺を刻んで、 ﹁ええ、ええ、さような事もござりましたよ。﹂ ﹁秘かくさずとも可いい。な、阿爺どの。お前は何だ、内の千世の奴の親身でしょうが。孫娘に用が有って逢いに来たことが二三度あるです、で、俺は知っとるですわい。お前は何か、しかし俺の顔は知らんですか。﹂ と釜底帽、一名︵のっぺらぼう。︶とも云わるる、青ぺらの鍔つばをり上げて、引ひき傾かたげて剥はいで見せたは、酒さか気けも有るか、赤ら顔のずんぐりした、目の細い、しかし眉の迫った、その癖、小こど児ものような緊しまりの無い口をした血気壮ざかりの漢おのこである。 ﹁へい、いいえ、お顔は存じておりますほどでもござりませんが、その上うわ被っぱりの召ものでござります、お見事な、﹂ こう云ったのは羆ひぐまの筒袖。 ﹁稲葉家様の縁起棚の壁でござりますの、縁側などに掛っていて拝見したことがござりますよ。はい。何でござりますか、それでは旦那様は、﹂ ﹁うむ、内のもの同然だ。﹂と頤あごを撫でる。 界かい隈わいでは、且つ知って且つ疑う。土地に七不思議が有ればそれはその第一に数えて可い。一石橋の河太郎、露地の駒下駄、お竹蔵などとともに、この熊の皮がそれである。湿しつ深ぶかそうな膏あぶらぎったちょんぼり目を膃おっ肭とせ臍い、毛並の色で赤熊とも人呼んで、いわゆるお孝の兄さんである。……本名五いが十ら嵐し伝吾、北海道産物商会主とある名札を持つから、成程膃肭臍も売るのであろうが、他に何を商って、どこに住むか、目下の処いまだ定かならずである。 それ、後家の後見、和尚の姪めい、芸者の兄、近頃女学生のお兄様、もっと新しく女優の監督にて候ものは、いずれも瓜うりの蔓つるの茄な子すである。この意味において、知るものは、お孝における羆の皮を一方ならず怪あやしむのであった。 赤熊は指さし揮ずする体に頤で掬しゃくって、 ﹁な、阿爺どの、だから俺には何も秘かくすことは要らんのですわい。﹂ ﹁ええ、ええ、別に秘すではござりません、︵これからお茶屋へ行って一口飲むから、待ってるからきっとおいで。︶と、はい、そのきっとでござりますが、何の、貴下様、こんな爺おやじに御一座が出来ますもので。姉さんがただ御ごじ串ょう戯だんにおっしゃったのでござりますよ。﹂ ﹁串戯ではなかったがい。俺はな、あの、了しまいかけた見世物小屋の裏口に蹲しゃがんで聞いとったんだ。﹂ 赤熊のこの容態では、成程立たち聴ぎきをする隠れ場所に、見世物小屋を選ばねばならなかったろう、と思うほど、薄気味の悪い、その見世物は、人間の顔の尨むく犬であった。 ﹁それは、もし、万ヶ一ほんとうに仰おっ有しゃって遣わされたにしました処で、私てまえは始めからその気では聞きませなんだよ。﹂ ﹁どうでも可い。それは構わんが、俺が聞きたいのは、お前まんに後から来い、と云うて、先へ行ったその家の名ですわい。自分の内でない事は知れておる。……そりゃどこですかい、阿爺どの。﹂ ﹁…………﹂ ﹁ああん、阿爺い。﹂ ﹁さあ、何とか云うお茶屋であった。﹂と、独ひと言りごとのように云って、顱はち巻まきを反そらして仰向く。三十一
赤熊は、チェと俯うつ向むけの股へ唾つばを吐いて、 ﹁今時分、どこの茶屋が起きておろうで。待合に相違ないがい、阿爺い、秘かくさんと云え、阿爺い。自分が来いと云われた先の名を忘れると云うがあるもんですかい。悪くすると為にならんのですぞ。﹂と、教員らしい口も利く。 ﹁さあ、何か存じません、待合さんかも、それは分りませんが、てんで私てまえの方で伺う気はござりませなんで、頭かし字らじも覚えませぬよ、はい。﹂ ﹁で、何か。﹂ とちょっと睨ねめつけた、が更あらたまって、 ﹁あの、野郎は何かい、あれは、ついぞ見掛けぬ奴だが、阿爺は知っとるのですかい、奴をですがい。﹂ ﹁ええ、私てまえも今までお見掛け申しはしませんので、はい、いずれお客人でござりましょう。﹂ ﹁客には違わんで、それゃ違わんで。どっちの客だ知っとるだろうが。﹂ ﹁それは、もし、お尋ねまでもござりません、孫めがお附き申しておりましたよ。で、︵旦那様、お初に。どうぞ何分。︶と私てまえ御挨拶をしました処で、爺の口から旦那様が嬉しい、飲ましてやろう、と姉さんが申されたのでござりましたよ。﹂ 跡方も無い嘘は吐つけぬ。……爺さんは実に、前さ刻きにお孝にもその由を話したが……平いつ時もは、縁日廻りをするにも、お千世が左褄を取るこの河岸あたりは憚はばかっていたのである。が、抱かか主えぬしの家へは自分の了りょ簡うけんでも遠慮をするだけ、可愛い孫の顔は、長者星ほど宵から目先にちらつくので、同じ年とし齢ごろの、同じ風ふ俗うの若い妓こでも、同じ土地で見たさの余り、ふとこの夜よに限って、西河岸の隅へ出たのであった。 帰りがけの霞の空の、真まん中なかを蔽おおう雲を抜けて、かんてらの前へ、飛出したお千世の姿は、爺さんの目には、背うし後ろの蔵から昨ゆう夜べの雛が抜出したように見えて、あっと腰を抜いて、ぺたんと胡あぐ坐らを掻かいて、ものを言うより莞に爾こ々に々ことしていたのである。 その間にお孝は、葛木と二人で参詣を済まして、知らぬ振して帰るも可い、が、かえって気まずく思わせよう。 ︵お爺さん虞けし美ぼ人う草ずはないの、ぱっと散る。︶桜草の前へ立った時、……お孝に挨拶をした爺さんが、︵これは旦那様。︶とその時葛木にお辞儀をしたので、 地蔵様へお参りして、縁を結んで来た矢やさ前き――旦那様は嬉しいね――で、それから引上げる、待合の名をそこで教えて、旦那様に見立ててくれた礼心に、お爺さんには今夜一晩、……私が玉をつけて可愛いお千世を抱かして上げよう。……来て一所にお寝、串じょ戯うだんじゃない、きっと待ってる。……と云った。 仔しさ細いはそうした事なのである。 赤熊が顕あらわれた。 この毛むくじゃらを、稲葉家の縁起棚の傍わきで見た事があるというだけ、その血相と、意気込みで、様子を悟って、爺さんは、やがて、押おっくり返し何と言われても、行った先を饒しゃ舌べらなかった事は言うまでもない。 ﹁御自分、ついて行って見なさりゃ可よかった。﹂ 何か知らぬが、お千世が世話になる稲葉家に退のかぬ中の男、と思うだけ、虫を堪こらえて飽くまで下手に出た爺さんも、余りの押問答、悪わる執しつ拗こさに、こう言って焦じれたほどである。 知らぬ知らぬで、事は済む、問われる方が焦れたくらい、言こと数ばかずを尽すだけ、問う方の苛いら立だち加減は尋よの常つねではない! ﹁この業ごう突つく張ばり、何だとッ。﹂縁日がえり
三十二
﹁まあ、お前さん、怪我をしやしませんか。﹂ 植木屋の布ぬの子この肩に、手を柔かに掛けた、弱腰も撓たわむと見える帯腰に、もの優しい羽織の紋の、藤の細いは清葉であった。 ﹁拷ごう問もんしてやる。﹂ 赫かっとなった赤熊が、握にぎ拳りこぶしを被かぶると斉ひとしく、かんてらが飛んで、真まっ暗くらに桜草が転げて覆かえると、続いて、両手で頬を抱えて、爺さんは横倒れ。 苦あっとも言わせず、踏のめす気か足を挙げた赤熊は、四あた辺りに人は、邪魔は、と見る目に、御みど堂うの灯ともしびに送らるるように、参おま詣いりを済まして出た……清葉が、朧おぼろの町に、明あかるいばかりの立姿。……それと見て、つかつかと、小刻みながら影が映さす、衣きぬの色香を一目見ると、じたじたとなって胴震いに立たち窘すくむや否や、狼うろ狽たえ加減もよっぽどな、一度駆出したのを、面喰って逆戻りで、寄って来る清葉の前を、真まっ角かくに切って飛んで遁にげた、赤熊の周あ章わてた形は、見る見る日本橋の袂たもとへ小さくなって、夜中に走る鼬いたちに似ていた。 そっちは見返しもしないのである。 ﹁お年寄を、こんなこと、何て乱暴なんだろう。﹂ ﹁はいはい。﹂ 爺さんは居ざり起きて、自分がたしなめられたごとく、畏かしこまって、やっと口を利く。…… ﹁恐入りましてござります、はい。﹂ ﹁音がしましたわ、串じょ戯うだんではありません。さぞお痛かったでしょうねえ。怪我をしたんじゃありませんか。﹂ 前さっ刻きから響いていた、鉄かな棒ぼうの音が、ふッと留やむと、さっさっと沈めた鞋わらじの響き。……夜廻りの威勢の可いのが、肩を並べてずっと寄った。 ﹁どうした、﹂ ﹁どうしたんだえ。――やあ、姉さん。﹂ ﹁頭かしらたち、御苦労です。……今、そこへ駆出して行った大おおきな男なんだよ。﹂ ﹁膃おっ肭とせ臍い。﹂ ﹁赤熊。﹂と二人は囁ささやいて、ちょっと目めく配ばせ。 ﹁姉さん、こりゃ何かい、お前さんお係かか合りあいなんですかい。﹂ ﹁いいえ、私はただ通りかかったばかりなんです。でもまあ遁げてくれて可かったけれど、抵むかって来たらどうしようかと思ったよ。……可哀相に、綺麗な植木の花が。﹂ 清葉は桜草の泥鉢を、一鉢起して持ちながら、 ﹁手伝って、そして、よく見て上げて下さいな。遅うござんすから、私は失礼ですが。﹂ 一人は組合の看板を、しゃん、と一ツ膝に控えて、 ﹁御心配にゃ及びません。見てやりますとも。﹂ ﹁では、お爺さん、お大事になさいまし。お気をつけなさいましよ。﹂ ﹁はいはい、あなた方の御志、孫も幸しあ福わせ。それが嬉しゅうござります。﹂ とッちて、着きも無いことを云うのを、しんみりと聞いて、清葉はなぜか、ほろりとしたが、一石橋の方へ身を開いて向返った処で、衣紋をつくって、ちょっと、手ま招ねく。 鉄棒小脇に掻込みたるが一人、心得てつかつかと寄った。 ﹁ええ……え、腕くる車まに、成程。ええ可うがす、可うがすとも。そりゃ仔わけ細え有りゃしません。何、私わっしたちに。串戯じゃありません。姉さん、串じょ……、そうですかい、済まねえな。﹂ そのまま見送って小戻りする。この徒てあいも清葉が戻もど路りみちの方かたを違たがえて、なぞえに一石橋の方へ廻ったのは知らずにいたろう。サの字千鳥
三十三
﹁何だか、唐だし突ぬけに謎見たような事だけれど、それが今夜の事の抑そも々そもというのだから、恥は辱じも忘れて話すんだがね…… 上野から日本橋へ来る電車――確か大だい門もん行だったと思う――品川行にした処で、あの往復切符、勿論乗換札じゃないのだよ。……その往ゆきか復かえりか、どっちにしろ切符の表に、片仮名の︵サ︶の字が一字、何か書いてあると思いますか。﹂ 葛木は卓ちゃ子ぶだ台いに乗せた寄鍋に着けようとした箸はしを、︵まだ。︶とお孝に注意されて、そのまま控えながら話す。 お孝は時に、猪ちょ口こを取って、お千世の酌を受けたのである。 ﹁サの字。﹂ ﹁考えるに及ばないよ、そんな字は一つも無い。ところが、松坂屋の前を越して、あすこは、黒門町を曲ろうとする処だ。……ふっと! 心から胸へ、衣きものの襟へ突通るような妙な事を思ったのが、その︵サ︶の字、左の手に持っていた切符を視みて、そこにサの字が一字あったら、それから行って逢うつもりの。﹂ ﹁清葉さん。﹂と薄目で見越して、猪口は紅を噛かんだかと思う、微ほほ笑えみのお孝の唇。 ﹁……止そう、そんな事を云うんなら。﹂と葛木は苦笑して、棒縞お召の寝ねん々ね衣こを羽織った、胡あぐ坐らながら、両手を両方へ端きち然んと置く。 潰つぶし島田を正まっ的すぐに見せて、卓子台の端にぴたりと俯うつ向むき、 ﹁謝あや罪まった、謝罪った。たって手前の方から願いましたものを。千ち世いちゃん、御免なさい、と云って、お前さんもおややまり。﹂と言憎いから先繰りに訛なまって置く。 ﹁あら、姉さん、私は何にも。﹂とお千世は熱かった銚ちょ子うしを持添えた、はっと薫る手ハン巾ケチを、そのまま銚子を撫でて云う。 ﹁だって、今、︵行って逢うつもり。︶と、こちらがお言いなすった時は、直ぐに清葉さんとお思いだろう。﹂ ﹁ええ、そりゃ思ってよ。﹂ ﹁そら御覧、思ったって饒しゃ舌べったって、罪は同じくらいだよ。それに、謝あや罪まるには、お前さんの方が役者が上だからさ、よう、ちょいと。﹂ ﹁貴方、御免なさいまし、ほほほ。﹂ 葛木はしかし考えさせられた様子が見えて、 ﹁成程、思ったって饒舌ったって、違いは無いか。いや、そうまでは、なかなか悟れない。……と云うのはやはり色気なんです。……極きまりは悪いがね。 そのサの字なんだ。切符の表に、有るべき理由の無い一字が、もし有ったら、いつも控え控え断あき念らめて引ひき退さがる、その心がきっと届くぞ!……想が叶う。打明けて言えば清葉が言う事を肯きいてくれる。思切って打ぶッ着つかろう。サの字が無ければ、今夜も優おと柔なしく、と言えば体裁が可よい、指を銜くわえて引込もうと、屹きっと思って熟じっと視ると、波打つ胸の切符に寄せる、夕日に赤い渚なぎさを切って、千鳥が飛ぶように、サの字が見えた。﹂ ﹁ああ。﹂とその千鳥を見るように、引入れられて、屏風はずれに前髪を上げた、瞼まぶたの色。お孝の瞳は恍うっ惚とりと、湯気の朧おぼろに美しい。 葛木も連れられて、夢を見るように面おもてを合せて、 ﹁明あかるいね、ここの電燈は何燭だろう。﹂ ﹁五燭よ、ほほほほ。﹂とお千世が花やかな笑声。鍋は暖く霞んだのである。三十四
﹁あれ……この妓こが笑う。﹂ と葛木も笑いながら、 ﹁客がこれだからその筈はずの事だけれども、私の行ゆく家うちが、元来甚だ立派でないのだ。ね、座敷の電燈が五燭なんだよ。平いつ時もは、そんなでもなかったが、過この般あい中だ、連があって、二人で出掛けた、その時、その千世ちゃんが来たんだね。確か……﹂ お千世が頷うなずく。 ﹁覚えている、それを知って、笑うんだ。私のような、向う見ずに女に目の眩くらんだものに取っては、電燈の暗いのなんぞちっとも気にはならないがね、同つ伴れの男は驚きましたぜ。何しろ火鉢に掴つかまって、しばらく気を静めていると、襖ふすまや障子が朦もう朧ろうと顕あらわれるけれども、坐った当座は、人顔も見えないという始末だからね、余り力を入れて物を見るので、頭が痛いと云うんだよ。その妓こも知ってるけれども、同つ伴れの男が。 客の無い閑ひまな家うちだし、不景気だし、いずれ経済上の都合だろうから、余分な御祝儀の出ない客が、︵明あかりを直せ。︶も殿様じみるから、同じメートルで光は三倍強という重宝な電球ね、あいつを寄附しようとなって、……来ていた清葉が、﹂ ﹁東西、黙って。﹂ と笑顔をお千世に向けて、トわざと睨にらんで見せる。 ﹁私、何にも言やしませんわ。﹂ ﹁いや、何とでもお言い、こうなれば意地で饒しゃ舌べる。﹂と呷ぐいと煽あおる。 ﹁お酌。﹂ と自分でお孝が、ツッと銚子を向けて、 ﹁それに限るの。貴あな郎たは気が弱いから可い厭やさ。﹂ ﹁ところで、……清葉が下し階たへ下りて、……近所だからね、自分の内へ電話を掛けて、婢おんなにいいつけて、通りへ買いに遣った、タングステンが、やがて紙包みになって顕れて、芝居の月の書割のように明るくなった。 そこが、お鹿︵待合の名。︶の上段の間さ。﹂ ﹁あら、串じょ戯うだんの間、可いいわねえ。﹂ ﹁いや、その串戯じゃない、御本陣式、最上等の座敷の意味だ。 人の好いい、気の好い、︵お鹿。︶の女房が喜んで、貴方の座敷だ――貴方の座敷だと云って通す。まるで新座敷一ツ建増した勢いきおいだ。素ばらしいもんだね、こう見えても。﹂ ﹁さすがはね。﹂ ﹁串戯じゃない、……いや、その串戯ではない座敷の上段へ、今夜も通された――サの字の謎から、ずっと電車で此こっ地ちへ来てだよ。…… 平いつ時もと違って、妙に胸がどきつくのさ。頭の頂てっ上ぺんへ円まる髷まげをちょんと乗せた罪の無いお鹿の女房が、寂ひっ寞そりした中へお客だから、喜んで莞に爾こ々に々こするのさえ、どうやら意見でもしそうでならない。 飯は済んだ、と云うのは、上野から電車で此地へ来る前に、朋とも達だち三人で、あの辺の西洋料理で夕飯を食べた。そこで飲んでね、もう大分酔っていたんです。可おか訝しくふらふらするくらい。その勢で、かッとなる目の颯さっと赤い中へ、稲妻と見たサの字なんだ。 考えれば、千鳥の知らせでもなく、恋の神のおつげでもない。酒のサの字だったかも知れないものを。……その酒さえ、弱身のある人が来て対さし向むかいになると、臆面の無いほてった顔を、一皮剥むかれるように醒さめるんだからの。お察しものです。﹂ カチリと力無く猪口を置く。梅ヶ枝の手水鉢
三十五
﹁座敷へ入ると間も無くさ、びりびり硝がら子す戸どなんざ叩破りそうな勢、がらん、どん、どたどたと豪えらい騒ぎで、芸者交りに四五人の同勢が、鼻唄やら、高たか笑わらい。喚わめくのが混ごっ多たになってね。上り込むと、これが狭い廊下を一つ置いた隣座敷へ陣取って、危いわ、と女の声。どたんと襖ふすまに打ぶつかる音。どしん、と寝転ぶ音。――楠くすのきの正まさ成しげがーと梅ヶ枝えの手ちょ水うず鉢ばちで唄い出す。 座敷を取替えて上げよう、こっちは一人だから。……第一寄進に着いた電燈に対してもお鹿の女房が辞退するのを、遠慮は要らない、で直ぐに、あの、前さっ刻きのあれ、雛ひなの栄さざ螺えと蛤はまぐりの新聞包みを振ぶら下さげて出た。が、入いれ交かわるのに、隣の客と顔が合うから、私は裏うら梯ばし子ごを下りて、鉢はち前さきへちょっと立った。…… ここに、朝顔形の瀬戸の手水鉢が有るんです。これがまた清葉が寄進に附いたのさ。お鹿の内には、まだ開業当時というので手水鉢も柄ひし杓ゃくも無かった。湯殿の留とめ桶おけに水を汲くんで、簀すの子の上に出してある。恐らく待合の手水鉢に柄杓の無いのは、厠かわやに戸の無いより始末が悪い。右は早速調ちょ達うだつに及んだけれど、桶はそのままになっていたのを、清葉が心付いて、いつか、女房が勘定を届けか何か、滝の家へ出向いた時、火事見舞に貰ったのが、まだ使わないで新しい、お役に立てば、と持たして返した。…… 知っての通り、清葉の家は、去年の火事に焼けたんだね。 何ですよ、奥庭に有った手水鉢を見ましたがね、青銅のこんな形、とお鹿の女房は仕方をして、そして竜たつの口を捻ひねると、ザアです。焼けてもびくともなさらない。すっかり青苔を帯びた所が好いなんのッて、私に話した。 惚れた芸者の工面の可いのは、客たるもの、無心を言われるよりなお怯ひるむ、……ここでまた怯まされた。 清葉の手水鉢、でいささか酔覚の気味。二階は梅ヶ枝の手水鉢。いや、楠の正成だ。……大将も惜い事に、懐ふと中ころ都合は悪かったね。 二階へ返って、小座敷へ坐直る、と下し階たで電話を掛けます。また冷ひや評かすだろうが、待人の名が聞える。﹂ 二人は黙って微ほほ笑えむのみ。 ﹁ねえ、そうした電話が筒抜けに耳へ響くのは、事は違うが、鳥屋の二階で、軍しゃ鶏もの鳴声を聞くのと肖にている。故かるがゆえに君子は庖ほう厨ちゅうを遠ざく……こりゃ分るまいが、大だい尽じんは茶屋の構かまえの大おおきからんことを望むのだとね。 ︵誰だ、誰だ、誰を掛けてるんだ。︶︵何、清葉だ、清葉とは誰だ。︶一座の芸者が小さな声で、︵滝の家の姉さんよ。︶︵馬鹿、清葉が、こんな家へ来るもんか。︶ と隣座敷で憚はばからない高話。﹂ ﹁お酌つぎ……千世ちゃん、生意気だね。お孝なら飛んで来る、と言やしないか。﹂ ﹁誰も、そんな事を言いはしませんよ。﹂とお千世が宥なだめるように優しく云って内うち端わに酌ぐ。 ﹁口くや惜しいねえ、……︵清葉が来るもんか。︶呼んで下すった、それが私で、お孝が、こんな家へと云って貰いたかった。……私はそこへ手水鉢なんぞじゃない、摺あた鉢りばちと采さい配はいを両手に持って、肌脱ぎになって駆込んで驚かしてやったものを。﹂ ﹁でも、何だ、お前さんとは、今しがた逢ったばかりじゃないか。﹂ ﹁ですから、今度っから、楠の正成で、梅ヶ枝をお呼びなさいよ、……その手水鉢へ、私なら三百円入れてやりたい、とこっちでも思うばかりだから、先さ方きさまでも、お孝がこんな家へ来るもんか、とは言わないわね。……貴方お盃を下さいな、……チョッ口惜いねえ、清葉さんは。……﹂三十六
﹁少々加減が悪くって、内で寝ていた、と云って、黒の紋もん着つきの羽織で、清葉が座敷へ。 前あと後さき七年ばかりの間、内端に打解けたような、そんな風な采りをしていたのは初めてかと思う。もっともちょっとひく感か冒ぜと、眩めま暈いは持病で、都合に因れば仮かこ託つけでね――以前、私の朋とも達だちが一人、これは馴なじ染みが有って、別なある待合へ行った頃――ちょいちょい誘われて出掛けた時分には、のべつに感冒と眩暈で、いくら待っても通って見ても、一度も逢えた事は無かったんだ。もう断あき念らめていた処、その後宴会があって、あるお茶屋へ行くと、その時、しばらく振で顔を見た。何だか、打絶えていた親類に思掛けず出逢ったような可なつ懐かしい気がしたっけ。それが縁で、……時々、と云っても月に二三度、そのお茶屋で呼ぶとね、三度に二度は来てくれる。 そこの女中頭がしらをしていたんだ、お鹿の女房と云うのは。﹂ ﹁知っていますわ。﹂ ﹁気心は知ったり、遠慮は無しで、そこへ行くようになってから、余り月日を置かないで、顔だけも見るのは、やっと一おと昨と年しの夏からだと思う。…… ところで、よく、あんなで座敷が勤まるよ。……もっとも私なんぞは座敷の中へは入るまいが、あの人と来たら、煙草は喫のまず、酒は飲まず、﹂ ﹁ただ、貯たまるばかり。﹂ ﹁まあ、堪忍したまえ。猪口は唇へ点つけるくらいに過ぎますまい、朝顔の花を噛かむように、﹂ ﹁敗まけ軍いくさの鬱うっ憤ぷんばらしに、そのくらいな事は言っても可いのね。﹂ ﹁堪忍したまえ。酒を飲まない芸げい妓しゃぐらい口説き憎いものは無い。﹂ ﹁じゃ、そっちこっち、当って見たの。﹂ ﹁いや、人はどうだか私一人としてはなんだ。ところで今夜だ――御飯は済んだと云う、御おか粥ゆを食べたんだとさ。﹂ ﹁御養生でおいで遊ばすのね。……それから、﹂ ﹁お鹿の女かみ房さんも、暖るものが可かろうと云うんで、桶おけ饂うど飩ん。﹂ ﹁おやおやおや。﹂とお孝は、がっかり、も一つうんざりしたらしい。 ﹁……ここに八やつ頭がしらの甘うま煮にと云うのが有ります。﹂ と葛木は、小皿と猪口の間を、卓ちゃ子ぶだ台いの上で劃しきって、 ﹁一度讃ほめたが、以来お鹿の自慢でね、きっと通しものに乗って出ます。……今日あたり土曜から日曜で私が来そうだと思う日は、煮て置くんだとお世辞を言った。が、ああ、十とウに九ツこれも見納めになろうも知れん、と云うのは︵サの字。︶の謎の事。……一度口へ出して、ピシリと遣られる、二度とは面おもては向けられまい、お鹿も今夜ぎりと思うと何となく胸が迫って卓子台の上が暗かった……﹂ お孝はポンと楊よう枝じをくべた、すうッと帯を揺ゆすって焦じれったそうに、 ﹁ちょいと、まあ、待って頂戴よ。お粥腹のお姫ひい様さまを饂飩で口説いて、八頭を見て泣いたって、まるでお精しょ霊うろ様さまの濡場のようだね。よく、それでも生いの命ちがあって帰って来たよ。しっかりして下さいよ、後生だから、お前さん、私が附いてるから。﹂ で、するり卓子台の縁を辷すべって、葛木の膝に手を掛ける。 ﹁ああ、痛い。﹂ そのまま、背中をトンと凭もたして、瞳を返すと、お千世を見て、 ﹁どうした、お爺さんは遅いじゃないか。﹂ ﹁あら、姉さん、来るもんですか。﹂ ﹁私は来るつもりで待っていたのに――そこの襖ふすまを開けて御覧よ、居るかも知れない。﹂ ﹁まあ、﹂と可愛く、目をぱちぱち。 ﹁可いからちょいと御覧。﹂ と言う、香こうの煙に巻かれたように、跪ひざまずいて細目に開けると、翠すい帳ちょ紅うこ閨うけいに、枕が三つ。床の柱に桜の初花。口紅
三十七
﹁御維新ちっと前だって、芝の大門通りの足袋屋に名代娘の美人が有った。 その時分、増上寺の坊さんは可おそ恐ろしく金を使ったそうでね、怪しからないのは居いま周わ囲りの堅気の女房で、内々囲われていたのさえ有ると言うのさ。その増上寺に、年とし少わかな美僧で道心堅固な俊えら才いのが一人あった。夏の晩方、表町へ買物が有って、麻の法ころ衣もで、ごそごそと通掛ると、その足袋屋の小僧の、店みせ前さきへ水を打っていた奴、太いけ粗ぞん雑ざいだから、ざっと刎はねて、坊さんが穿はきたての新しい白足袋を泥だらけにしたんだとね。……当時は電車で、毎々の事だが。 娘が夕化粧の結ゆい綿わたで駆出して、是非、と云って腰を掛さして、そこは商売物です。直ぐに足袋を穿はき替かえさせるとなって、かねて大切なお山の若旦那だから、打たての水に褄つまを取ると、お極きまりの緋ひぢ縮りめ緬んをちらりと挟んで、つくまって坊さんの汚れた足袋を脱がそうとすると、紐なんです。……結んだやつが濡れたと来て、急には解けなかった為に口を添えた、皓しら歯はでその、足袋の紐に口紅の附いたのを見て、晩方の土の紺こん泥でいに、真紅の蓮れん花げが咲いたように迷出して、大堕落をしたと言う、いずれ堕落して還俗だろうさ。 こっちは悔かい悟ごして、坊主にでもなろうと云うんだ。……いずれ精進には縁があります。自や棄けだから序ついでに言うが、……私は、はじめて逢った時、二十三の年、……高等学校を出ると、祝だと云って連出して、村田屋で御飯を驕おごったものがある。酒は飲めず、畏かしこまって煙たば草こばかり吐ふかしていたので、愛想に一本、ちょっと吸って、帰りがけにくれたのが、﹂ ﹁承知々々。﹂とまた笑う。 ﹁でね、口紅がついていたんだ。﹂ ﹁気き障ざだ。﹂とお孝は手酌である。 ﹁坊主には縁があるって事だよ。﹂ 軽く清ゆすいで盃をさしながら、 ﹁処をまた還俗さしてあげるから、もとッこだわね。可哀相に……そのかわり小こは鰭だの鮨を売りやしないか。﹂ と倦だ怠るそうに居直って、 ﹁もし、その吸口はどう遊ばしたえ?……後学の為に承り置きたい……ものでござるな。……よ。ほんとうに、﹂ ﹁路みち傍ばたでは踏つけよう、溝どぶも気になる……一石橋から流したよ。﹂ ﹁ああ、祟たたりますねえ。そんな男を、私も因果だ。﹂ ﹁恐入ります、が聞いて下さい。﹂ ﹁聞いて遣わす、お酌をおし……御免なさいよ。﹂といよいよ酔う。 ﹁そうだ――ああお銚子が冷めました、とこう、清葉が、片手で持って、褄の深い、すんなりとした膝を斜はすっかいに火鉢に寄せて、暖めるのに炭火に翳かざす、と節の長い紅ル宝ビ王イを嵌はめたその美しい白い手が一つ。親か、姉か、見えない空から、手だけで圧おさえて、毒な酒はお飲みでない、と親身に言ってくれるように、トその片手だけ熟じっと見たんだ。……﹂ お孝が、ふと無意識の裡うちに、一種の暗示を与えられたように、掌てのひらを反そらしながら片手の指を顋あごに隠した。その指には、白プラ金チナの小こへ蛇びの目に、小さな黒くろ金ダ剛イ石ヤを象ぞう嵌がんしたのが、影の白魚のごとく絡まつわっていたのである。 後で知れた、――衣類の紋も、同じ白色の小蛇の巻いた渦巻であった。 ﹁時に、隣の間の正成も、ふと音の消えた時、違棚の上で、チャチャ、と囁ささやくように啼ないたものがある。声のしたのは、蛤です。動いたと見えて、ガサガサと新聞包が揺れたろうではないか。﹂三十八
﹁︵栄螺と蛤です。……︶ 思掛けない音に、ちょっと驚いた顔をした清葉にそう云って、土産じゃない、汐しお干ひでは時節が違う。……雛に供えたのを放ほう生じょ会うえ、汐しお入いりの川へ流しに来たので、雛は姉から預かったのを祭っている……先祖の位いは牌いは、妹が一人あって、それが斉かし眉ずく、と言ったんだね。 そして御ごき姉ょう妹だいは、と清葉が訊きくから、︵実は。︶と出ました。……実は、それに就いて、と言ったもんです。何に就いてだが、自分にも分らない。けれどもね……何に就いたって、あし掛七年の間、ただ一度も、気き障ざな、可い厭やらしい、そんな事を、言出せそうな機会と云っては一度も無かった。 いつも、座敷の服な装りで、きちんと芸者と云う鎧よろいを着ているのから見れば、羽織で櫛巻だけに、客に取っては馴れ易い。覚悟は有ったし、サの字の謎。…… 実は、と目を瞑ねむって切きっ掛かけたが、からッきし二の太刀が続きません。酌をして下さい、と一口に飲んでまた飲んだ飲んだ。もう一つ、もう一つ酌ついで欲しい、また、と立続けに引ひっ掛かけても、千万無量の思が、まるで、早鐘のごとくになって、ドキドキと胸へ撞つき上あげるから、酒なざどこへ消えるやら。 口も濡れないどころか舌が乾く。……また、清葉が何にも言わずに、あんなに煽あお切っきるのも道理だ、と断あき念らめたらしく見えて、黙って酌つぐんだよ。 ああ、酔った。﹂ と袖を擦並べたお孝の肩に、頭つむりを支ささえたそうに頽がっ然くりとなる。のをお孝が向うへ、片手で邪じゃ慳けんらしく、トンと突戻した、と思うと、その手を直ぐに、葛木の膝へ。敷いて重ねた腕枕に、ころりと横になって、爪先をすっと流す、と靡なびいた腰へ、男の寝ねん々ね衣この裾を曳いて、半ばを掛けた。…… ﹁肝心な処、それから。﹂と自若として言う。 ﹁弱った……﹂ ﹁私わたいを口説く気で、可ようござんすか。まったくは、あの御守殿より、私の方が口説くには煩むずかしいんだから、その積つもりで、しっかりして。﹂ ﹁破れかぶれは初手からだ。構うもんか!……更あらたまって︵清葉さん︶。……﹂ ﹁黙って顔を見ましたかい。﹂ ﹁惚れたと云うのが不ぶし躾つけであるなら、可なつ懐かしいんです、床ゆかしいんだ、慕したわしいんです。……私に一人の姉がある。姉は人の妾めかけだった。……恋こがれた若い男が有ったのに、生いの命ちにかえてある相場師の妾になった……それは弟の為だったんです。 私の父親は医いし師ゃだったんだよ。……と云うお医師も、築地、本郷、駿河台は本場だけれども、薬やげ研んぼ堀りの朝湯に行って、二こな合か半ら引掛けてから脈を取ったんだそうだから、医師の方では場違いだね。 広どて袖らを着たまま亡くなると、看病やつれの結び髪を解きほぐす間も無しに、母親も後を追う。 姉は二はた十ち、私は十三、妹は十一で、六十を越して祖おば母あさんが、あとに残った……私と妹は奉公に出たんです。 姉は祖おば母あさんをかかえて、裏長屋に、間借りをして、そこで、何か内職をして露命をつないでいる。私が小僧になったのは、赤坂台町の葉茶屋だった。﹂ 膝に島田を乗せながら、葛木の色は白澄んだ。 チャランチャラン、と河岸通、五郎兵衛町を出番の金棒。一重桜
三十九
﹁忘れもしない、ずっと以前――今夜で言えば昨ゆう夜べだね――雛の節句に大雪の降った事がある。その日、両国向うの得とく客い先へ配達する品があって、それは一番後廻、途中方々へ届けながら箱車を曳いて、草わら鞋じば穿きで、小僧で廻った。日が暮れたんです。両国の橋を引返した時の寒さったら、骨まで透とおって、今思出しても震えちまう。 何の事は無い、山から小僧が泣いて来たんだ。 人通りは全まる然で無し、大川端の吹雪の中を通魔のように駆けて通る郵便配達が、たった一人。……それが立停まって、チョッ可哀相にと云った。……声を出して泣きながら、声も涸かれて、やっと薬研堀の裏長屋の姉の内の台所口へ着いた、と思うと感おぼ覚えが無い。 浸々と降る雪の中に、ただどしんと云う音がしたって、姉が後で言い言いした。 ところがどうです……妹は妹で、その前夜から奉公先を病気で下って、内で寝ている。 これがまた悲惨でね。……聞いて見ると、猫の小間使に行っていたんだ。主人夫婦が可おそ恐ろしい猫好きで、その為に奉公人一人給金を出して抱えるほどだから、その手数の掛る事と云ったら無い、お剰まけに御秘蔵が女猫と来て、産の時などは徹よっ夜ぴて、附つきっきり。生れた小猫に、すぐにまた色気が着くと、何とどうです、不潔物の始末なんざ人間なみにさせられる。……処へ、妹が女の子の癖に、かねて猫嫌いと来ていたんだものね。死ぬほどの思いで、辛抱はしたんだが、遣切れなくなって煩いついた。︵少し変だ、顔を洗うのに澄まして片手で撫でる、気を鎮めるように。︶と言って、主人から注意があったんだとね。 祖ばあ母さんは祖母で、目を煩ってほとんど見えない。二人の孫を手探りにして赤い涙を流すんじゃないか。 私は気が付くと、その夜よ、――後で妹の話を聞いて慄ぞっ然として飛んで出たが、猫ねこ行あん火かに噛かじ着りついていて、豆まめ煎いりを頬張ったが、余り腹が空いて口が乾いて咽の喉どへ通らないから、番茶をかけて掻かっ込こんだって。 内職の片手間に、近所の小こむ女すめに、姉が阪東を少々、祖母さんが宵は待まちぐらいを教えていたから、豆煎は到来ものです。 ︵白酒をおあがり、晋ちゃん、私が縁起直しに鉢の木を御馳走しよう。︶と、錻ブリキ落しの長火鉢の前へ、俎まないたと庖丁を持出して、雛に飾った栄さざ螺えと蛤はまぐりをおろしたんだ。 重代の雛は、掛物より良いい値がついて、疾とうに売った。有合わせたのは土つち彩さい色しきの一もん雛です。中にね、――潰島田に水色の手柄を掛けた――年数が経たって、簪かんざしも抜けたり、その鬢びんの毛も凄すごいような、白い顔に解ほつれたが――一重桜の枝を持って、袖で抱くようにした京人形、私たち妹も、物心覚えてから、姉に肖にている、姉さんだ姉さんだと云い云いしたのが、寂しくその蜜みか柑ん箱に立っていた。 それをね、姿見を見る形に、姉が顔を合せると、そこへ雪明りが映さして蒼あおくなるように思ったよ。姉が熟じっと視ながめていたが、何と思ったか、栄螺と蛤を旧もとへ直すと、入かわりに壇へ飾ったその人形を取って、俎の上へ乗せたっけ……﹂ ﹁千ち世いちゃん。﹂ と葛木の膝枕のまま、お孝が呼んだ。 ﹁はあ。﹂と襖越しに返事した。お千世は、前さっ刻きそこを見せられた序ついでに、……︵眠かろう先へお寝な。︶と言われたのである。そして寂ひっ寞そりして今しがた、ずるずると帯を解いた気けは勢いがした。四十
﹁寒くなった、掻かい巻まきをおくれ。﹂ とお孝は曲げた腕かいなを柔く畳に落して、手をかえた小袖の縞しまを、指に掛けつつ男の膝。 ﹁姉さん、私、帯を解いてよ。﹂ ﹁生意気お言いでないよ、当も無しに。可いから持っといで。﹂ ﹁うまい装なりをして、﹂ と膚はだの摺すれる、幽かな衣きぬの捌さばきが聞えて、 ﹁御免なさいまし。﹂と抱いて出た掻巻の、それも緋ひと浅黄の派手な段だん鹿かの子こであったのを、萌もえ黄ぎと金茶の翁おき格なご子うしの伊達巻で、ぐいと縊くびった、白い乳房を夢のように覗のぞかせながら、ト跪ひざまずいてお孝の胸へ。 襟足白く、起上るようにして、ずるりと咽の喉どまで引掛けながら、 ﹁貴方、同じ柄で頼たの母もしいでしょう、清葉さんの長なが襦じゅ袢ばんと。﹂ 学士は黙って額を圧おさえる。 ﹁姉さん、枕よ……﹂ ﹁不作法だわ、二人で居る処へたった一ツ。﹂ ﹁知らない、姉さんは。﹂ ﹁持ってお帰り。﹂ ﹁はい。﹂ と立って、脛はぎをするすると次の室まへ。襖を閉めようとしてちょっと立姿で覗く。羽二重の紅くれないなるに、緋で渦巻を絞ったお千世のその長襦袢の絞しぼりが濃いので、乳の下、鳩みず尾おち、窪みに陰の映さすあたり、鮮から紅くれないに血汐が染むように見えた――俎に出刃を控えて、潰島田の人形を取って据えたその話しの折のせいであろう。 凄すごさも凄いが、艶えんである。その緋の絞の胸に抱く蔽おおいの白しら紙かみ、小枕の濃い浅黄。隅田川のさざ波に、桜の花の散敷く俤おもかげ。 非ず、この時、両国の雪。 葛木は話したのである。 ﹁姉の優しい眉が凜りんとなって、顔の色が蝋ろうのように、人形と並んで蒼みを帯びた。余りの事に、気が違ったんじゃないかと思った。 顔の色が分ったら祖おば母あさんは姉を外へ出さなかったろうと思うね。――兄弟が揃った処、お祖母さんも、この方がお気に入るに違いない、父おと上うさん、母おっ上かさんの供養の為に、活いきものだから大川へ放して来ようよ…… で、出たっきり、十二時過ぎまで帰らなかった。 妹が涙ぐんで、︵兄さん、姉さんは? 見て来て下さい。︶と言う。私も水へ飛込み兼ねない勢いきおいで、台所へ出ようとすると、姉は威勢よくそこへ帰った。…… 白はく鳥ちょうを提げてね、景気よく飲むんだって……当人すでに微ほろ酔よいです。お待遠様と持込んだのが、天てん麩ぷ羅ら蕎そ麦ばに、桶おけ饂うど飩ん。 女二人が天麩羅で、祖おば母あさんと私が饂飩なんだよ。考えて見ると、その時分から意気地の無い江えど戸っ児こさ。 その晩、かねて口を利いた浜町の骨こっ董とう屋やの内へ駈かけ込こんで、︵あい。︶と返事をしたんだって。 浅草、花川戸の、軒に桃の咲く二階家に引越して、都鳥の鼈べっ甲こうの花はな笄こうがい、当分は島田のままで、祖母さんと妹がそこへ引取られて、私は奉公を止して、中学校の寄宿舎へ入る。続いて白筋の制帽となって、姉の思おもい一つなんだ。かみわざで助けられるように、金きん釦ぼたんの制服と漕こぎつけた。﹂伐木丁々
四十一
﹁……迄は、まあ可かったんです。……ところが、その後祖おば母あさんの亡くなった時と、妹が婚礼をした時ぐらいなもので、可なつ懐かしい姉は、毎晩夢に見るばかり。……私には逢ってくれない。二階の青あお簾すだれ、枝しお折り戸どの朝顔、夕顔、火の見の雁かりがね、忍返しの雪の夜。それこそ、鳴く虫か小鳥のように、どれだけ今戸のあたり姉の妾宅の居いま周わ囲りを、あこがれて徊さまよったろう、……人目を忍び、世間を兼ねる情い婦ろででも有るように。――暗あい号ずで出て来る妹と手を取って、肩を抱合って、幾度泣いたか知れません。……姉は恥かしいから逢わぬと歎く。女の身から体だの、切刻まれる処が見たいか、と叱るんだね。 その弟の身になると、姉は隅田川の霞の中に、花に包まれた欄干に立って、私を守っているようでもあるし、紅ぐれ蓮ん大紅蓮という雪の地獄に、俎まないたに縛られて、胸に庖丁を擬あてられながら、救すくいを求めて悶もだえるとも見える。…… 死ものぐるいに勉強をしたよ。 大学へ入ると言う、その祝いだ、と云って、私を村田屋へ連出したのは、姉の旦那だ。 その時清葉を見ました。 心の迷いか、済まん事だが、脊せい恰かっ好こう、立たち居いの容子が姉に肖そっ然くり。 この方は手形さえあれば、曲りなりにも関所が通られると思うと、五度たびに一度、それさえ半年の間なんだ、……小遣を貯ためるんだからね。……また芸者の身になって見りゃ、迷惑な事は夥おび多ただしい。﹂ お孝は黙って頭かぶりを掉ふった。 ﹁姉の方は、天か地か、まるで幽明処を隔つ、遠い昔のものがたりの中に住むか、目近に姿ばかりの錦絵を見るようだろう。同じ、娑しゃ婆ばに、おなじ時刻に、同じ檜物町の土地に、ただ町を離れて、本郷の学校の門と、格子戸を隔てただけで住んでいる筈の清葉さえ、夢に見ても夢でさえ、遠出だったり、用達しだったり、病気だったりして逢えないんだものね。半年の間熟じっと目を塞いでいて、お茶屋の二階で目を開いて、ドキドキする胸を圧おさえるのがその仕儀なんだ。 一度も夢で泣いたのは……﹂ 天井を高く仰いで云った、学士の瞳は水のごとし。 ﹁どこか……私の寄宿舎の二階と向合う、同じ高さに川が一筋……川が一筋。……で、夢だろう。水はその下を江戸川の︵どんどん︶ぐらいな流れで通る。向う岸がしに二階がある。表だけ見えて、欄干が左右へ……真まん中なかに榎えのきの大樹があって仕切る、その二階がね、一段低くなって流ながれに臨んで、も一つ高い座敷が裏に有りそうなんだ、夢だからね、お聞き。……いや聞いておくれ。 その左右の欄干の、向って右へ、嫋すら娜りと掛って、美しい片袖が見える。ト頬ほお杖づえか何か、物思わしい風情で、熟じっとこっちを視ながめるらしい、手首が雪のように、ちらりと見えるのに、顔は榎に隠れたんだ。榎はどこか、深みや山まの崖か、遠い駅うま路やじの出でい入りざ境かいに有る、繁った大おおきな年経ふる樹らしい。 そこへね、むくむくと動いて葉を分けて、ざわざわと枝を踏んで、樵きこ夫りが出て来た。花咲爺の画えにあるような、ああ、﹂ と横を向いて卓ちゃ子ぶだ台いを幽かすかに拊うって、 ﹁前さっ刻き、西河岸で逢った植木屋……ね、ちょっと肖にていたよ。取留めは無いのだけれども。 その爺さんが、コツンコツンと斧を入れる。が、斧の音は、あの、伐ばつ木ぼく丁々として、百里も遠く幽かすかだのに、一枝、二枝、枝は、ざわざわと緑の水を浴びて落ちる。﹂四十二
﹁三枝、五枝、裏うら掻がいてその繁しげ茂りが透くに連れて、段々、欄干の女の胸が出て、帯が出て、寝ねま着き姿が見えて、頬が見えて、鼻筋の通る、瞳が澄んで、眉が、はっきりとなる。縺もつ毛れげがはらはらとかかって島し田ま髷だが見えた。 川の水が少し渺びょうとして、月が出たのか、日が白いのか、夜だか昼だか分らない。……間がおよそどのくらいか知れないまで遠くなる、とその一段高い女の背うし後ろに、すっくと立った、大おおきな影法師が出た。一段高いのに、突つッ立たったから胸から上は隠れたが、人とも獣けものとも、大おおきな熊が蔽おおわれかかるように見えたんだがね。﹂ ﹁ちょっと待って!﹂ お孝の怯おびえたらしい慌あわただしさ。が沈んで力ある声に、学士は夢から現うつつの世に引き戻されて、 ﹁ええ、﹂と驚く。 ﹁ここを抱いていて下さい。﹂ その声は、もう静しずかであった。掻巻越に、お孝は学士の手を我が胸に持添えて、 ﹁さあ、話しておくんなさいな、――身に染みるわねえ。﹂ ﹁たわいは無いんだよ。……すがすがしいが、心細い、可あわ哀れな、しかし可なつ懐かしい、胸を絞るような駅うま路やじの鐸すずの音が、りんりんと響いたので、胸がげっそりと窪んで目が覚めるとね、身体が溶けるような涙が出たんだ。 その二階越の女が、どうしても姉なんだ。いや清葉だった。しかもつい近頃の事なんだよ。﹂ ﹁…………﹂ ﹁話が前あと後さきになったんだがね、……夢を見たのは、姉がもう行方知れずになってからです。﹂ ﹁行方知れず?……﹂と手を支つく音。 ﹁私がとにかく、今の学校を卒業すると、妹には代々の位いは牌いを、私にはその一組の雛ひなと、人形を記かた念みに残して観音様の巡礼に、身は亡きものと思っておくれ、――妹に――達者でおくらし、――私に、晋さん御機嫌よう―― 妹には夫がある。 この行方を探すには、私が巡礼に出なければならないんだ。 が、それは今出来兼ねる。 けれども、夢にも快く逢える事か、似た人にさえ思いのままには口も利けない。七年越し︵私は姉が欲しい、……お前さんが欲しい、清葉さん。︶と清葉に云った。 今夜思切って言ったんだ。 ただ他人でありたくない! が、いまこの二人は、きょうだいになり得る世界を持たん。夫婦になりたい。一所になりたい、ただ他人ではありたくない。しかし様子を見ても大抵分る、これは肯きき入いれてはくれないだろう、断然断らるるに違ない! 私は、お前さんから巡礼になる、少くとも行方知れずになる、杯をうけて下さい。﹂ ﹁御守殿は何と云って?﹂と言ことばは烈しく、掻巻はすらりとしている。 ﹁清葉は、すっと横を向いて、襦じゅ袢ばんの袖口をキリキリと噛かんだ。﹂ ﹁一件だね。﹂ ﹁私は胸が迫ったよ。……清葉が、声を霞ませて言った。……︵お察し申します。︶﹂ ﹁へえ。﹂ ﹁︵貴方の姉さんが私でしたら、貴方に何とおっしゃるでしょう。貴方は姉さんにお聞き下さいまし。私には母があります。養母です。︶と俯うつ向むいたが、起直って、︵母に聞かなければなりません。ト……また私には子があるんです。その子の父があるんです。一人極きまった人があれば、果は敢かないながら芸者でも操を立てねばなりません。芸者の操、貴方お笑いなさいまし。私は泣いて、そのお別れの杯を頂きましょう。︶……﹂ ﹁ああ、言いそうなこった。御守殿め、チョッ。﹂と膝を丁と支つくと、颯さっと掻巻の紅裏を飜かえす、お孝は獅しし子がし頭らを刎はねたように、美しく威勢よく、きちんと起きて、 ﹁でも、さすがに土地の姉さんだねえ。﹂空蝉
四十三
﹁もしもし、貴あな女た様、もし……﹂ ここに葛木に物語られつつある清葉は、町を隔て、屋根を隔てて、かしこにただ一人、水に臨んで欄干に凭もたれて彳たたずむ。……男の夢の流ながれではない、一石橋の上なのである。が、姿も水もその夢よりは幻まぼ影ろしである。 と、小腰を屈かがめて差さし覗のぞき、頭を揺ふって呼掛けたのは、顱はち巻まきもまだ除とらないままの植木屋の甚平爺さん。 ﹁今頃、何をしておいでなさります、お一人でこんな処に……ははは、﹂ と底力の無い愛想笑で、 ﹁いや、もう、人様の事をお案じ申すという効かい性しょうもござりません。……お助けを被りました御礼を先へ申さねばなりませんのでござりました。はい、先刻は何とも早や、お庇かげで助かりました。とんと生いの命ち拾いでござります。それにまた、お情深い貴女様、種いろ々いろと若わか衆いしゅたちまで、お優しいお心ここ附ろづけを下さいまして、お礼の申上げようもござりません。﹂ ﹁ああ、植木屋さん。﹂ と云う……人を見た声も様子も、通りがかりに、その何となく悄しおれたのを見て、下に水ある橋の夜よふ更け、と爺おやじが案じたほどのものではない。 ﹁今、お帰りなんですか。﹂ ﹁はい、ええ、貴女からお心添え、と申されて、途中でまた待伏せでもされるような事があってはならねえ。泊れ、世話をしょう、荷なりと預ってやろうと、こう云うて下さいましたが、何、前後の様子で、私てまえ、尺を取りました寸法では、一時赫かっとして手を上げましたばかり。さして意趣遺恨の有る覚えとてもござりませず、……何また、この上に重ねて乱暴をしますようなれば、一旦はちと遠慮がござりましてわざと控えましたようなものの、いざとなれば、何の貴女、ただ打ぶたれておりますものか。向むこ脛うずねを掻かっ払ぱらって、ぎゃっと傾の倒めらしてくれますわ。﹂と影弁慶が橋の上。もとより好む天秤棒、真まん中なか取って担ぎし有様、他よその見る目も覚おぼ束つかない。 附け景気の広言さえ、清葉は真ま面じ目めに憂きづ慮かうらしく、 ﹁でも、お年寄が、危いじゃありませんかね、喧嘩はただ当座のものですよ。一晩明かしてお帰りなさると可かったのにねえ。﹂ ﹁はい、それに実は何でござります、……大分年数も経たちました事ゆえ、一ひと時とき半時では、誰方もお心ここ付ろづきの憂きづ慮かいはござりませんが。……貴女には、何をお秘かくし申しましょう。私てまえはその、はい、以前はやはりこの土地に住いましたもので。﹂ ﹁まあ、﹂ ﹁ええ……忰せがれが相場ごとに掛りまして分散、と申すほど初手からさしたる身しん上しょうでもござりませぬが、幽かすかには、御覚えがあろうも知れませぬ、……元数すき寄やち屋ょ町うの中程の、もし、へへへ、煎餅屋の、はい、その時分からの爺おやじでござりますよ。﹂ ﹁あら、お店の前の袖垣に、朝顔の咲いた、撫なで子しこの綺麗だった、千草煎餅の、知っていますとも――まあ、お見それ申して済まないことねえ。﹂ はずんだ声も夜よとともに沈んで聞えて静である。 ﹁滅相な、何の貴女。お忘れ下さるのが功徳でござりますよ、はい、でも私てまえはざっとお見覚え申しております、たしか……滝の家さんのお妹御……﹂ ﹁ええ、小ちい女さい方よ、お爺さん、こんなになって……お可なつ懐かしいのね。﹂四十四
﹁御お主か婦みさんは、﹂ ﹁養おふ母くろですか。息災ですよ。でも、めっきり弱りました。﹂ ﹁私てまえ、陰ながら承って存じております。姉さんが、お亡くなりになりましたそうで、あの方はお丈夫で。……貴女はお小さい時から悪いた戯ずらもなさらず、いつもお弱くっておいでなさりましたが、しかし、まあ、御機嫌よう、御全盛で。﹂ ﹁いいえ、全そ盛れどころではござんせん。姉が達者でいてくれますと、養おふ母くろも力になるんですけど、私がこんなですからね。――何ですよ、いつも身体が弱くって困りますの。﹂ ﹁お見受け申しました処でも、ちっと蒲ほっ柳そりなさり過ぎますて。﹂ 何やら、もの思わしげな清葉の容子を、もう一度凝ためて視みて、 ﹁もっとも柳に雪折なし、かえって御心配の無いものでござります。でござりますが。﹂ 爺さんは天秤を潜くぐるがごとく、腰を極きめて、一息寄る。 ﹁そのお弱い貴女が、また……何で、今時分、こんな処に夜風は毒の、橋は冷えます。私なんぞ出過ぎましたようでござりますが、お案じ申すのでござりますよ。﹂ ﹁難あり有がとう、……身投げじゃないの、お爺さん。﹂ ﹁滅めっ法ぽう界けえな、はッはッ。﹂ ﹁でも、ほんとうは投げても可いんです、今夜あたり。﹂と微笑んだ、が、笑顔の気高いのが凄いように見える。 ﹁滅相至極も無い。﹂ ﹁親身に心配して下さるのを私、串じょ戯うだんを云って済みません。まったく身でも投げそうに、それは見えましたでしょうとも。一人で、こんな処にぼんやりして。 実はね、お爺さん、宵からお目に掛っていた客が、帰りがけにこの橋から放ほう生じょ会うえをなすった品ものがあるんです。――昨きの日うはお雛様のお節句だわね――その蛤と栄螺ですって。﹂ ﹁はい、成程。﹂ ﹁殿方ばかりでなさるんでは、わざとらしくも聞えますが、その方は御おあ姉ねえさんの御遺言。……まあね、……遺言と云った訳なんですとさ、私も姉が亡くなったんです。 何ですか、可なつ懐かしくって、身に染みてならないのに、少々仔しさ細いが有りましてね、もうその方ともこれっきり、お目に掛られないかも知れなくなったの。七年以この来かた、夢にまで、ほんとうに夢を見て頂くまで、贔ひい屓きに……思って……下すった……のに。﹂ 袖を落して悄しおるる手に、鉄の欄干は痛々しい。 ﹁私……もう御おわ別か離れをお見送り申し旁かた々がた、せめて、この橋まで一所に来て、優しい事を二人でして、活きものの喜ぶのを見たかったんですけれども、二人ばかりの朧おぼ夜ろよは、軒続きを歩あ行るくのさえ謹まねばならないように、もう久しい間……私ねえ、躾しつけられているもんですから、情ないのよ。お爺さん。お恥かしいじゃありませんか。そのね、︵二人で来る。︶というのさえ、思出さねば気が付かない迄、好すきな事、嬉しい事、床しい事も忘れていて、お暇いと乞まごいをしたあとで、何だかしきりに物たりなくって、三は絃こを前に、懐手で熟じっと俯うつ向むいている中うちに、やっと考え出したほどなんですもの。 私わた許しんとこでも、真まね似ご事との節句をします。その栄螺だの蛤だのは、どうしたろうと、何年越かで、ふっと、それも思出すと、きっと何かと突つッ包くるんで一所に食べたに違いない。菱餅も焼くのを知って、それが草色でも、白でも、紅色でも、色の選より好このみは忘れている、……ああ、何という空ぬけ蝉がらの女になったろう、と胸が一杯になったんですよ。﹂四十五
﹁お地蔵様の縁日だし、序ついでと云っては失礼だけれど、その方と御一所に、お参まい詣りをしながら、貝を流しに来られたら、どんなに嬉しかったろうと思いますとね、……それなり内へ帰る気になれなかったもんですから、後を慕ったように見に来ました。 お爺さん、その方は、随分、私に思切った、殿方の口からでは、さぞ仰おっ有しゃりにくかろうと思う事さえ、打明けて下すったのに、私は女で、女の口から言って可い、言わねばならない……今、ただ、お前さんに話をした、一所にここまでお見送りがしたい、とそれだけさえ、口へは出せない身なんですもの。 大抵お察しなさいまし。……小こど児ものような罪の無い、そしてそれより、酢いも甘いもよう知って、浮世を悟ったお老とし人よりは仏様、何にも隠す事は無い。……私には、小児の親の旦那があります。 どうせ女おか房みさんや児こがあって、浮気をなさるくらいな人、妾めかけてかけは他にもある。珍らしくもない私を、若い妓こに見かえないで滝の家一軒世帯の世話をしてくれますのは、棄てる言分が無いからです。落度があればそれッきり、まことに頃この日ごろの様子では、内々じゃ持もて扱あつかって、私の落度を捜しているかも知れませんもの。大一座ででもあるなら知らず、差向いでは、串じょ戯うだんも思切っては言えませんわ。 そんなに、だらしなく意気地なく、色恋も、情なさけも首尾も忘れたような空うつ洞ろになったも、燃立つ心を冷さまし冷し、家うちを大事と思うばかり。その家だって私のじゃない。…… ねえ、お爺さん。﹂ と面おもてを背けて、 ﹁養おふ母くろへ義理たった一つばかりなのよ!…… 亡くなった姉に、生いの命ちがけの情い人ろが有って、火水の中でも添わねばならない、けれど、借金のために身抜けが出来ず――以前盗どろ人ぼうが居直って、白しら刃はを胸へ突きつけた時、小こ夜よ着ぎを被かぶせて私を庇かばって、びくともしなかった姉さんが、義理に堰せかれて逢うことさえ出来ない辛さに、私を抱いてほろほろ泣く。 出うま生れは私、東京でも、静岡で七つまで育ったから、田舎ものと言われようけれど……その姉さんを持ったお庇かげに、意地も、張も、達たて引ひきも、私は習って知っている。 その時に覚悟をして、可い厭やで可厭でならなかった、旦那の自由になったんです。またそうして、後々までも引受ければ、養母が承知をして、姉を手放してくれたんですもの。…… ちゃんと養母に約束した、その時の義理がありますから、自分じゃ、生いの命ちも随ま意まにはなりやしない。 お爺さん、私ゃ芸者のかざかみにも置かれない……意気な人には御守殿だ、……奥さんだ、お部屋だって言われます。﹂ はなじろみながら眉の昂あがった、清葉の声は凜りんとした。……途中でお孝の三人づれに行逢ったを爺おやじは知るまい。が、言う清葉より聞く方が、ものをも言わず、鼻をすする。 ﹁心に思う万分一、その一言は云わないでも、姉の身ぬけにこうこうと、今云った義理だけは、私はその人に言いたかった、言いたかったんです。﹂ と思わず縋すがって泣くように、声が迫って、 ﹁ですけれど、他人は知らず、私たち、そうした人に、この事を打明けては、死んだ姉に恩を被きせる、と乗ってる蓮はすの台うてなが裂ける……姉は私に泣いてましょう、泣いてくれるのは嬉しいけれど、気の毒がられては、私は済まない。 坊主になる、とまで真実に愚に返って、小児のように言った人に、……私は堪こらえて黙っていました。……﹂彩ある雲
四十六
爺さんは、先さっ刻き打くら撲わされた時怪けし飛とんだ、泥も払わない手てぬ拭ぐいで、目を拭ふくと、はッと染みるので、驚いて慌あわただしいまで引ひっ擦こすって、 ﹁他よ所そ目めには大おお所どこの御ごし新ん造ぞさんのように見えます、その貴女が、……やっぱり苦界、いずれ苦の娑しゃ婆ばでござります。それにつけましても孫が可愛うございますので、はい。﹂ 沈めて、静に、 ﹁お孫さん?……﹂ ﹁ええ、女の子でござりまして。﹂ ﹁まあ、私はちっとも知りません。﹂ ﹁御ごも尤っともでござりますとも。……まだ胎おな内かに居おります内に、唯今の場末へ引ひっ込こみましてな。﹂ ﹁では、私の静岡と同じだわね。それは、まあ、お楽み。﹂ ﹁いえ、ところがどうして、ところがどうして。﹂ と頭かぶりを掉ふって、下おろして有る天秤に掴つかまりながら、 ﹁大おお苦くるしみなわけでござりまして、貴女方と同おん一なじと申すと口幅ったい、その数でもござりませんが、……稲葉家さんに、お世話になっておりますので、はい。﹂ ﹁まあ、お孝さんの許とこに、……ちっとも私知らなかった。﹂ ﹁はい、あちらの姉さんも、あの御気象で、よく可愛がって下さいます、が、願えますものならば、貴女のお手許に、とその時も思った事でござります。いいえ、不足を言うではござりません。芸者と一概に口では云い条、貴女は、それこそれっきとした奥方様も同じ事。一人の旦那様にちゃんと操をお守りなされば、こりゃ天下一本筋の正しい道をお通りなさる、女の手本でござります。彼あ娘れにもな、あやからせとう存じますので。﹂ ﹁飛んでもない、お孝さんこそ可い姉さん。ああでなくては不い可けません。私は何も、曲ゆがんだり拗すねたりして、こう云うのではないんです。お爺さん、色でも恋でもない人に、立てる操は操でないのよ。……一人に買われる玩おも弄ち品ゃです。大人の手に遊ばれる姉さま人形も同じ事。﹂ ふと言ことば絶え、嘆ため息いきして、 ﹁ここで栄螺を放した方は、上の壇に栄螺が乗って、下に横にして供えられた左ひだ褄りづまの人形を、私とは御存じないの。﹂ と、半ば乱れた独ひと言りごと、聞かせぬつもりの声が曇る。 ﹁何も浮世でござりますよ。﹂ と分らぬながら身につまされて、爺さんはがっくりと蹲しゃがんで俯うつ向むき、もう一度目を引ひっ擦こすって、 ﹁何の真似は出来ませいでも、せめて芸ごとで、勤まるようになれば可いと存じますよ。貴女なぞは何が何でも、そこが強味でいらっしゃいます。憂さも辛さも、糸に掛けて唄っておしまいなさりまし。芸ごとも貴女ぐらいにおなりなさると、人の楽みより御自分のお気晴しになりまする。……中にも笛は御名誉で、お十二三の頃でございましたろうか、お二階でなさいますのが、私てまえども一町隣、横町裏道寂しんとなって、高い山から谷底に響くようでござりましたよ。﹂ ﹁ピイピイ笛の麦むぎ藁わらですかえ、……あんな事を。﹂と、むら雲一重、薄うす衣ぎぬの晴れたように、嬉しそうに打微笑む、月の眉の気高さよ。 ﹁あの、時分の事を思いますと、夢のようでござります。この頃でも、御近所だと時々聞かれますのでござりましょうがな。﹂ ﹁可い塩あん梅ばい。﹂ とやや元気に、 ﹁幸しあわせと聞えやしませんよ。……でも笛だけは、もういつも、帯につけていますけれども、箱部屋の隅へ密そっとして置くばかり。七年にも八年にも望まれた事はありません。世間じゃ誰も知らないのに、お爺さん、ひょんな事を言出して、何だか胸があつくなった。笛が動いて胸先へ!……嬰あか児んぼのように乳に響く! いつでも口を結えられて、袋に入っているんだから。﹂ と命を抱いだく羽織の下に、きっと手を掛けた女の心は、錦の綾あやに、緋ひぶ総さの紐、身を引きしめた朧おぼろの顔に、彩いろある雲が、颯さっと通る。 眉を照らして、打仰ぎ、 ﹁……世に出て月が見たいんでしょう。……吹きはしませんよ。﹂ とすらりと抜いて、衝つと欄干へ姿を斜めに、指白々と口に取る。 ああ、七なな年とせの昔を今に、君が口紅流れしあたり。風も、貝寄せに、おくれ毛をはらはらと水が戦そよぐと、沈んだ栄螺の影も浮いて、青く澄むまで月が晴れた。と、西河岸橋、日本橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋、松の姿の常盤橋、雲の上なる一つ橋、二十の橋は一斉に面影を霞に映す。橋の名所の橋の上。九百九十九の電燈の、大路小路に残ったのが、星を散らして玉を飾って、その横笛を鏤ちりばむる。 清葉は欄干に上こう々ごうしい。 甚平は手拭を鷲わし掴づかみで、思わず肩を聳そびやかした。 ﹁吹なさ奏りまし、吹奏まし。何の貴女、誰た、誰が咎めるもので。こんな時。……不しの忍ばずの池あたりでお聞き遊ばすばかりでございます。﹂ ﹁勿体ないこと。……﹂ と笛を袖へ、またうつむいて悄しおれたのである。 河かっ童ぱの時計の蒼あおい浪、幽かすかな水音。どぶりと一つ、……一時であろう。鴛おし鴦どり
四十七
稲葉家のお孝は冷くなった、有合わせの猪ちょ口こを呼い吸きつぎに呷ぐい、と一口。……で、薄ら寒いか両袖を身震いして引合わせたが、肩が裂けるか、と振舞は激しく、風とり采なりは華きゃ奢しゃに見えた。 が、すっきりと笑いながら、 ﹁それじゃ、清葉さんばかり縹きり緻ょうがよくって、貴方は、だらしが無いんだわね。﹂ ﹁まあ、そうなんだ。﹂と葛木は、打傾いて頬に手を置く。 ﹁まあじゃないじゃありませんか。立派に断られたに違いない。﹂ ﹁そりゃ違いない。﹂ ﹁振られたのね。﹂ ﹁ふられました。﹂ ﹁ポーンと。﹂ ﹁何もそうまで凹ますには当るまい。﹂ ﹁嬉しいねえ。﹂ 小こど児もらしいまで胸を揺ゆすった、が、なぜか気が立って胸の騒ぐのを、そうして紛らしたようである。 葛木は、煙草の喫のみさしを火鉢に棄てた。 ﹁それだがね……﹂ ﹁まだ負惜み?﹂ ﹁ただ話さ。﹂ と苦笑して、 ﹁別れに献さした盃を、清葉が、ちっと仰向くように、天井に目を閉ふさいで飲んだ時、世間がもう三分間、もの音を立てないで、死んでいて欲しかった。私の胸が、この心が、どうなるかそれが試して見たかったが、ドシンばたん、と云う足音。隣とな室りの酔よっ客ぱらいが総立ちになって、寝るんだ、座敷は、なんて喚わめいて、留める芸者と折重なって、こっちの襖ふすまへばたばたと当る。何を、と云ってね、その勢いきおいで、あー……開けるぞ、と思うと、清葉が、膝を支つき直なおして、少し反そり身みで、ぴたりと圧おさえて、︵お客様です。︶ そう、屹きっとして言ったんだよ。︵誰だ。︶と怒鳴ると、︵清葉がお附き申しております。︶と手に触った撥ばちを握って、すっと立った――芸げい妓しゃのひそめく声がして、がたがたとそこらが鳴って静まったがね……私は何だか嬉しかったよ。﹂ ﹁情いい人ひとらしく扱われたような気がして? そんな負惜みをお言いなさんなよ。﹂軽く卓ちゃ子ぶだ台いを掌たなそこで当てて、 ﹁卑怯な、男のようでもない。﹂ ﹁いや、そんな意味じゃ決してないんだ。恥を秘かくして貰ったようでさ。不ふで出か来しをして女に振られた、恋の奴やっこの、醜だら体しなさを人目から包んでくれた気がしたから。﹂ ﹁人目がどうして、そんな事ぐらい芸者が貴あな下た、もしかそれが旦那だったら、清葉さんはどうするだろう。……ちょいと、ここへ、もしか私の男が、出刃庖丁か抜身でも持って、蒼あおくなって飛込んだら、私がどうすると、貴下思ってるの? いいえ、吃びっ驚くりする事は無い。私だってそのくらいな覚悟はしている。 大丈夫、そうすりゃ貴下の上へ、屏風に倒れて背うしろになって、私が突かれる、斬られて上げるわ。何の、嫉じん妬すけの刃物三ざん昧まい、切きっ尖さきが胸から背まで突通るもんですか。一人殺される内には貴下は助かる。両方遁にげるから危いんだわ。ねえ、ちょいと、﹂ と、じりじりと膝で寄って来たが、目が覚めたように座をし、 ﹁あら、何の話をしたんだろう、……ああ、そうそう。﹂ お孝は何気なく頷いて、 ﹁清葉さんがお庇かばい遊ばして――まことに、お豪えらい芸者衆でいらっしゃいます。﹂ ﹁まったく、私は、しかし、﹂ ﹁しかしどうしたのさ。﹂ ﹁姉に、姉の袖で抱かれた気がした。﹂ ﹁葛木さん。﹂ そのまま衝つつと膝を掛ける、と驚いて背うし後ろへ手を支つく、葛木の痩やせた背せなに、片袖当てて裳もすそを投げて、 ﹁そんなに姉さんが恋しいの。人形のお話は、私も聞いて泣いていました。ほんとうに貴下、そんなじゃ情い婦ろは出来ない。口説くのは下へ拙ただし、お金か子ねは無さそうだし、﹂ ﹁謝あや罪まる。﹂ ﹁口説かれるのも下拙だし、気は利かないし、跋ばつは合わず、機きっ会かけは知らず、言う事は拙まずし、意気地は無し、﹂ ﹁堪忍したまえ。﹂ ﹁から、だらしは無いけれど、ただ一つ感心なのは惚れる事。お前さん、惚れ方は巧いのね。﹂ ﹁…………﹂ ﹁情い婦ろが無くって、寂しくって、行方の知れない姉さんを尋ねるッてさ、坊主になんかならないように、私が姉さんになって上げましょう。﹂ ﹁…………﹂ ﹁御不足? 清葉さんでなくっては。﹂ ﹁そ……そんな事は。……ああ、息が塞ふさがるよ。﹂ ﹁死んでおしまいよ。こんな男は国く土にの費ついえだ﹂ ﹁酷ひどい。﹂ と云う時、とんと突飛ばして、すっくり立つ、と手足を残して燃ゆるように見えた。パチンと電燈を消したのである。 力の籠こもった、情なさけの声。 ﹁ちょいと、︵サの字。︶が見えなくって? サの字よ、私、葛木さん。﹂ ﹁お孝さん。﹂ とわずかに言う。 ﹁暗い中でも、姉さんに見えませんか、姉さんにしてくれませんか。自うぬ惚ぼれてて? ちょいと自惚れだ、と思いますか。清葉さんでなくっては――不いけ可ないの、不可いの。﹂ ﹁真まっ暗くらだ。私は、真暗だ。……﹂ ﹁まだ、まだまだあんな事を。清葉さんでなくっちゃ、不可いの、不可いかい。﹂ ﹁顔が見たい、お孝さん。﹂ ﹁贅ぜい沢たくだよう。﹂ と婀あ娜だな声、暗や中みに留と南め奇きがはっと立つ。衣きぬ摺ずれの音するすると、しばらくして、隔ての襖ふすまに密そと手を掛けた、ひらめく稲妻、輝く白プラ金チナ、きらりと指環の小蛇を射る。 ﹁ほんとうの、貴方の姉さんは私は知らない。清葉さんなら恐れはしない。芸でいけなきゃ、容きり色ょうで、……容色でいけなけりゃ芸事で、皆不可なけりゃ、気で負けないわ。生いの命ちで勝つ。葛木さん、見て頂戴。﹂ とすらりと開ける、と翠みどりの草に花の影を敷いて、霞に鴛お鴦しの翼が漾ただよう。 ﹁ああ、お千世は?﹂ と葛木が言った。それは影も見えなんだ。 ﹁枕を持って、下し階たの女おか房みさんの中へ寝に行きました、……一度でも芸者と遊んで、そのくらいな事が分らない。――さあ、ちゃんとして見て頂戴、サの字が見えない? 姉さんに肖にない?……ええ、焦じれったい。﹂ と襖に縋すがって、暗い方へ退さがる男と、明あかるく浮いた枕を見交わす。 ﹁姉さんで可愛がられるのに不足なら、妹にまけて可愛がられて上げましょう。従い姉と妹こになってなかよくしましょう。許いい嫁なずけでも、夫婦でも、情い婦ろでも、私、まけるわ、サの字だから。鬼にでも、魔にでも、蛇体にでも、何にでもなって見せてよ、芸人ですもの。﹂ と裳もすそを揺ゆって拗すねたように云いながら、ふと、床の間の桜を見た時、酔った肩はぐたりとしながら、キリリと腰帯が、端しゃ正んと緊しまる。 ﹁何の、姉きょ妹うだいになるくらい、皮肉な踊よりやさしい筈はずだ。﹂ 掻巻の裾を渚なぎさのごとく、電燈に爪足白く、流れて通って、花はな活いけのその桜の一枝、舞の構えに手に取ると、ひらりと直って、袖にうけつつ、一ひと呼い吸き籠めた心の響、花ゆらゆらと胸へ取る。姉の記かた念みにやわ劣るべき花柳の名取の上手が、思おもいのさす手を開きしぞや。 その枝ながら、袖を敷いた、花の霞を裳に包んで、夢の色濃き萌もえ黄ぎの水に、鴛鴦の翼に肩を浮かせて、向うむきに潰島田。玉の緒揺ゆらぐ手柄の色。 ﹁葛木さん。﹂ ﹁…………﹂ ﹁人形が寂しい事よ。﹂生理学教室
四十八
お孝は黒くろ繻じゅ子すの襟、雪の膚はだ、冷たそうな寝ねま衣きの装なりで、裾を曳ひいて、階はし子ごだ段んをするすると下りると、そこに店みせ前さきの三た和た土きにすっくと立った巡査に、ちょっと目礼をして、長火鉢の横手の扉ひらきを、すっと縁側へ出て行く。 そこが中庭になる、錦木の影の浅い濡縁で、合ね歓むの花をほんのりと、一輪立膝の口に含んだのは、五月初の遅い日に、じだらくに使う房ふさ楊よう枝じである。 その背うし後ろに、座敷が見えて、花は庭よりもそこに咲いて、眉の緑の年増も交る。 と、下した地じっ子こらしい十二三なのが、金かな盥だらいを置いて引返して来て、長火鉢の傍わきの腰窓をカタンと閉めたので、お孝の姿は見えなくなった。 とばかりで、三和土に立った警官は、お孝が降りて来た階子段を斜ななめに睨にらんで、髯ひげを捻ひねる事専もっぱらなり。で、少しば時らく家中が寂ひっ然そりする。 一体、不断は千本格子を境にして、やけな奥女中の花見ぐらい陽気な処へ、巡査と見ると騒さわ動ぎが豪えらい。謹むのではない笑うので、キャッキャックックッ、各てん自でんがあっちこっち、中には奥へ駆込んで転がるまで、胡ちょ蝶うちょうと鸚おう鵡むが笑う怪ばけ物もの屋敷の奇観を呈する。 事の起おこ因りを按あんずるに、去年秋雨の降くらす、奥の座敷に、女ばかり総勢九人、しかも二組になって御法度の花はな骨がる牌た。軒の玉水しとしとと鳴る時、格子戸がらり。 ﹁御免。﹂と掛けた声が可おそ恐ろしく厳いかつい蛮音。薩さつ摩まな訛まりに、あれえ、と云うと、飛上るやら、くるくる舞うやら、ぺたんと坐って動けぬやら。 座敷では袂たもとへ忍ばす金縁の度ども装のの硝がら子すを光々さした、千鳥と云う、……女学生あがりで稲葉家第一の口上言いいが、廂ひさ髪しがみの阿あ古こ屋やと云う覚悟をして度胸を据えて腰を据えて、もう一つ近ち視か眼めを据えて、框かまちへ出て、はッと悪く落着いた切口上。 ﹁別にそのでございます。相変りました事はございませんです。﹂と、戸籍係に立たてごかしの三ツ指を極きめたと思え。 ﹁羅ら宇うが出来たけえ、……持って来たですッ。﹂ ﹁何だね、羅宇屋さん、裏へお廻り。﹂と、婆やが水みず口ぐちの障子で怒鳴ると、白しろ磨みが竹きを突着けられた千鳥の前は、拷ごう問もんの割竹で、胸を抉えぐられた体にぐなりとした。 鍋焼饂うど飩んは江えど戸っ児こでない、多くは信州の山男と聞く。……鹿児島の猛も者さが羅宇の嵌すげ替かえは無い図でない。しかも着ていたのが巡査の古服、――家やな鳴り震動大おお笑わらい。 以来、戸籍検しらべ、とさえ言えば、食いかけた箸を持って刎はね廻まわる埒らちの無さ。当区域受持の警官も、稲葉家では、︵笑う。︶と極きめて、その気で髯を捻るのであったが。 今け日さのは大おおきに勝手が違った。 ﹁姉さんは内じゃろうで。﹂ ﹁はあ、あの……﹂ ﹁是非、直接に逢いたいんじゃ……取次を頼むです。﹂ 小こお女んなが一度、右の千鳥女史と囁ささやき合って、やがて巡査の顔を見い見い、二階に寝ていたのを起した始末。笑い掛けたのは半途で圧おさえ、噴ふき出だしたのは嚥のみ込こんで、いやに静かな事よって如くだ件んのごとし。 幽かすかな咳しわぶきしてお孝が出た。輪わ曲がねて突込んだ婀あ娜だな伊達巻の端ばかり、袖を辷すべって着流しの腰も見えないほどしなやかなものである。 ﹁失礼をいたしました。﹂ ﹁は、あんた覚えておらるるかね。﹂ 唐だし突ぬけに言うのがそれで、お孝はちょっと分り兼ねつつ、黄つ楊げの横櫛を圧おさえたのである。四十九
巡査は掌てのひらを向うへ扱しごいて、手袋を外して、片手に絞って、更あらためて会釈する。 ﹁ちょっと分りますまい、じゃろうがね、………先達て、三月四日の午後十二時の頃に逢うたのですが。﹂ ﹁ああ、一石橋の、あの時の。﹂ お孝は軽く傾いていたのが屹きっと見直す。 ﹁多しば日らくでした、いや、その節は失敬じゃった。﹂ ﹁いいえ、私こそ失礼を。﹂ ﹁むむ、いささかその失礼でないこともなかったですね、ひゃッ、ひゃッ。﹂と壁に響くがごとき力ある笑声、笑うのに力が有って、あえて底意は無さそうである。 お孝は顔を洗ったばかりの、縁起棚より前さきへする挨拶とて、いつになく、もじもじして、 ﹁ついね、お白酒の持越しで、酔っていたものですから、ほほほ。﹂ と莟つぼみぐらいな内うち端わな声。 ﹁お茶をよ、誰か。﹂ ﹁そういう心配をされては困る。……官服の手前もある。お宅などで余り世話になっては不い可かんのです。……けれども、ちょっとここを拝借します。﹂ ﹁さあどうぞ、……貴あな官たお上り遊ばしては。﹂ ﹁ここで結構です。﹂ 小女が心得て手早く座ざぶ蒲と団んと煙たば草こぼ盆ん。 ﹁御免下さい。﹂と外がい套とうを抱えたまま、ガチリと佩はい剣けんの腰を捌さばいて、框かまちの板に背うし後ろむきに、かしッと長靴の腰を掛ける、と帽子を脱いで仰向けにストンと置いて、 ﹁何は、ちょいちょい来らるるかね。﹂と髯を捻る。 ﹁誰方……でございますか。﹂ ﹁何は、大学の国せん手せいは?﹂ ﹁さっぱり……﹂と目が働いて、頬が緊しまる、お孝は注意深い色である。 ﹁全まる然でお見えにならんですかね。﹂ ﹁いいえ、時……偶たま。﹂と、膝で二つばかり掌てのひらを軽く合せる。 ﹁今度お逢いでしたら、貴あん方たから、私わしに、託ことづけを一つ頼まれて下さらんじゃろうかね。﹂ ﹁はあ、お目に懸りました節は。――ですが、いつまたお見えになりますか。﹂と瞻みまもらるる目を外そらして言う。 ﹁別に急ぐという件ではないです。――今名刺を上げます。で、私わしが職務としてではない。一いつ個人として、私一人にんとして、じゃね、……非常に先達ては失敬した、詫わびをします、と貴あん方たからよう言うて貰いたいのじゃ。実はそれを頼みとうて、今日は私用のみで出向いて来たです。……いやいや一石橋の事のみではないです。 実は、今週の金曜日、一昨日でした。私わしは非番だもんで、医科大学へ葛木さんを訪問したです。可ええですか。……と云うのはじゃね、先夜、あの場合、貴方が不意に出て来られて、私が疑問の的とした、不審を実際に示して、証明をされたもんで、それ以上追究は出来兼る都合で手を放した。 もっとも孰いずれにせい、私わしが思うたほどの事こ件とでない、とだけは了解したのじゃけれども、医学士などは、出たら目じゃろう。また、あの年配で、それが今日堂々たる最高の学府に氏名を列する一員であらるるものがじゃね、……学問上、蛙の腸や、モルモットの骨を新聞紙に包んで棄てるならば、幾分かいわれはある。それも必ずしもあるべき事実とは思わんのじゃがね。 栄螺と蛤、姉の志と云うて、雛にそなえたを汐に流す、――そんな事が。私わしは断じて信ぜんのじゃ。﹂ と今もなお且つ信じないように、渋に朱を加えた赤い顔で――信ぜんのじゃ!――五十
巡査はそこに注ついで出した茶を、喫のまず、じろりと見たばかり。 ﹁事態、私わしも怪かい訝がに堪えんもんで、早さっ急きゅうとはなしに、本郷方面へ、同僚の筋を手繰って捜さぐりを入れると、葛木晋三と云う医学士はいかにもあるじゃね、そしてです、それは医科に勤めておらるるが、内科、外科、乃ない至し婦人科、何でもないのじゃ。大学内のその、生理学教室に居おって研究をされつつある……﹂ と真顔にお孝に打傾いて、左の手の自脈を取りつつ、 ﹁まるでこの方には関係ない。純粋のその学者じゃとある。で、なお怪あやしいですわい。その晩の挙動なり、……あの余り……貴あん方たの前じゃけれどもが、風采の上らん、痩やせた、薄髯のある、背の屈かがんだ、こう、突くとひょろひょろっとしそうな、人に口を利くにおどおどする、初心らしい、易っぽい、容子と云うのがじゃね、 人品備わらんですじゃろうが、どうですかね、……きゃッ、きゃッ、きゃッ。﹂ 空から咳せきに咳入るごとく、肩を揺ゆすって高笑いをする。 ﹁さあ、﹂と云ったが、ほほほ、とばかり、この際困ったという片頬笑みをして、ちょっと指先で畳をこすり状さまに、背うし後ろを向いて、も一度ほほほ、と莞にっ爾こりすると、腰窓を覗のぞいていた、島田と銀いち杏ょう返がえしが、ふっと消える。 巡査は、すなわち髯を捻って、 ﹁怪しいものではあるまい。後暗い事は、それは無いのじゃろう。がです……あの晩の人間は名を騙かたった者に相違無い、とどうしても疑われてならんもんで。好奇心にも駆らるるですわ。非常に思切って、医科大学に刺を通じて面会を求めたです。そりゃ、貴あん方た、通常服で、そして小倉じゃが袴はかまを着けて出向いたけえな。 どうか思うたが、取次いだ小使どんが、やや暫しば時らくあって引返して、お目に掛ろう言わるる、通れ、とあって、廊下伝い方角を教わって、そしてそれから歩あ行るき出したがね、――私わしは先年この岐阜県下ですわ、飛ひ騨だのある山家辺へん僻ぴに勤務した事があって、深い谷陰、高い崖に煙草の密造をする奴を検しらべに行ったのじゃね。その節、路も無い処を、いわゆる、木の根巌いわ角かどですわい。時々藤ふじ蔓づるにぶら下って、激流の空を綱渡などしたが、いや、見当の着かぬ心細い事は、――門外漢が学校のその奥へ行く廊下伝いは、奥山を歩あ行るくどころではなかったです。 日も西山に没して、前途なお遥はるかなりと云う、遠い向うの峠見たような処に、大おおきな扉ドアの戸を、細う開けて、背うしろにして、すっくりと立って、こっちを出迎えておられた。峰の一本の松という姿に見えたのが、何と驚いたねえ、あの晩の少わかい紳士じゃ、国せん手せいじゃったで。 ぴたりと留まって、思わず、挙手の礼を施したですよ。常ふだ服んぎでは可おか笑しいのじゃが。 すぐにこれへ、と言われて、大な扉ドアを入ると、ズシンと閉ったと思われい。稲妻のように、目を射られたのは、室へや一杯に並んだ書架に、ぎっしりと並んだ、独ドイ逸ツ語じゃろうね、原書の背皮の金文字ですわ。 暮方の空に、これがどうですか。紺地に金こん泥でいのごとく、尊い処へ、も一つの室へやには名も知れない器械が、浄じょ玻うは璃りの鏡のように、まるで何です、人間の骨髄を透とおして、臓腑を射照らすかと思う、晃こう々こうたる光を放つ。 私わしは、よろよろとなったで。あの晩、国せん手せいが、私のために、よろよろとなられたごとくじゃ。何と、俗に云う餅屋は餅屋じゃ、職務は尊たっとい。﹂ と沈着に、腕を拱こまぬく。五十一
﹁その器械と、書架の有ると、国せん手せい両室を占領しておらるる様子じゃねえ――傍かたわらには寝ねだ台いも有ったですよ。柱の電よび鈴りんを圧おさるると、小使どんが紅茶を持って来るのじゃった…… 私わしは卓テイ子ブルの向いに、椅子を勧められて真まっ四しか角くに掛けたのじゃが、硝がら子す窓から筑波山の夕日が射さして、その生理学教室を※ぱっ﹇#﹁火+發﹂、U+243CB、534-11﹈と輝かした中に、国手の少わかい姿が、神々しいまでに見えた。 一応話を聞いたです。私わしもね、出来得る限り、行政官の一員たるその威厳を保ってからに。しかし、決して警官として訊じん問もんをするではありません。すでに一石橋当夜の紳士と、生理学教室における国手とが同一人である事を確めた上は、些さし少ょうたりとも犯罪に対して何等その疑いは無いのでありますが、お話のごとき事が事実有り得るものかどうか、後学のため、一種人情に対する警官の経験の為に、云うて、その室で飾ると云われた、雛を見せて貰うたです。 国手、一個の書しょ架だなの抽ひき斗だし、それには小説、伝奇の類が大分帙ちつを揃えて置かれた――中から、金きん唐から革かわの手箱を、二個出して、それを開けると無造作に、莞に爾こ々に々こしながら卓子の上に並べられた。一いち銭もん雛びなじゃね、土人形五個なのです。が、白い手カフ飾スの、あの綺麗な手で扱われると、数千の操糸を掛けたより、もっと微妙な、繊細な、人間のこの、あらゆる神経が、右の、厳粛な、緻ちみ密つな、雄大な、神聖な器械の種々から、清い、涼すずしい、芬ぷんと薬の香のする室へやの空あき間まを顫せん動どうさせつつ伝つたわって、雛の全身に颯さっと流込むように、その一個々々が活きて見える…… 就なか中んずく、丈、約七寸許ばかりの美しい女の、袖には桜の枝をのせて、ちょっとうつむいた、慄ぞっ然とするような﹇#﹁ような﹂は底本では﹁やうな﹂﹈、京人形。……髪は、﹂ と言い掛けて、お孝の姿を更めて視みて、 ﹁貴あん方た、貴方のその髪と同一に髪を結うた人形じゃがね。﹂ お孝は俯うつ向むいて、しゃんと手を支つく。 ﹁それは何と云う髪の結びかたですかね。﹂ ﹁潰つぶし……﹂ ﹁はあ?……何ですかね、覚えて置くで失礼します。﹂と、手帳を出す。 お孝の上げた顔は、颯さっと瞼まぶたが染ったのである。 ﹁あの、潰島田でございます、お人形さんの方は結構でしょうけれども、これはまことにその潰しの利きませんお恥しいんですよ。﹂ ﹁いいえ、潰しなんかきかんで可ええです。貴あん方たはすでに葛木さんの。﹂ 隅の階はし子ごだ段んを視みて空ざまに髯を扱しごいた。見よ、下なる壁に、あの羆ひぐまの毛皮、大おおいなる筒袖の、抱着いたごとく膠べた頽りとして掛りたるを―― 巡査は心付いた目をお孝に返して、 ﹁貴あん方た、大抵の事は、ここで饒しゃ舌べって可えですか。ある種の談話は憚はばからんでも構わんですかい。﹂ ﹁ええええ、﹂ と懐を広く、一ひと膝ひざ出ながら、 ﹁ちっとも……お気に入りましたら、私をすぐ、お口説きなすっても構いませんの。﹂ ﹁きゃッきゃッきゃッ。葛木さんの奥さん。どないしてかい?……﹂ ﹁まあ、そんな事こそ、先さ方きさまが御迷惑です。﹂ ﹁いや、しかし、その積りで出向いて来たで。﹂ ﹁羽織を。寒い。……そして私にも煙草をおくれな。﹂美挙
五十二
﹁さあ……何の話じゃったかね、そこで。﹂ ﹁貴あな方た、その潰島田に結ったお人形さんですわ。﹂ ﹁さよう、……就なか中んずく、それが、葛木さんの目と一所にぱちばちと瞬きするじゃね、――声を曇らして、姉と云う御婦人の事も言われた―― 私わしは別世間を見たです。異った宇宙を見たです。新しい世の中を発見してむしろ驚異の念に打たれた。……吃びっ驚くりしたんじゃね、何の事はない。 かつて、その岐阜県の僻へき土ど、辺へん鄙ぴに居た頃じゃったね。三国峠を越す時です。只今、狼に食われたという女の検察をしたがね、……薄うす暮ぐれです。日帰りに山家から麓ふもとの里へ通う機はた織おりの女工が七人づれ、可ええですか。……峠をもう一息で越そうという時、下駄の端はな緒おが切れて、一足後れた女が一人キャッと云う。先へ立った連の六人が、ひょいと見ると、手にも足にも十四五疋の、狼で蔽おお被いかぶさった。――身体はまるで蜂の巣ですわ。 私は反対の方から上のぼりかかったんでね。峠から駆下りて来た郵便脚夫が一人、︵旦那、女が狼に食われております。︶と云い棄てて、すたすた行ゆきおる。――あとで、その顔を覚えとったで、︵なぜ通りかかって助けんかい。︶……叱った処で、在郷軍人でもなし仕方が無い。そういう事も現在見た。 また、山の中に、山猫と云うのが居る、形はかつて見せん。見たものは無いと云うです。ただ深更に及んでその啼なき声ごえじゃね、これを聞くと百獣悉ことごとく声を潜むる。鳥が塒ねぐらで騒ぐ。昔の※ひ々ひ﹇#﹁けものへん+非﹂、U+7305、537-18﹈じゃと云う。非常に淫いん猥わいな獣けものじゃそうでね、下宿した百姓の娘などは、その声を聞くと震えるですわい、――現在私も、それは知っとる。 炭焼の奴が、女を焼いて食った事件もある。 そういう事は知っとるが、趣味と情愛の見聞が少かったためじゃろうか、医学士が生理学教室で、雛を祭る、と云うは信じなかった。――吹く風はなこその関と思えどもですわ。﹂ と嘆ため息いきして、髯に掛けた指を忘れた。 ﹁鎧よろいの袖に桜のちらちらとかかると云う趣も、私のその了りょ簡うけんでは嘘にせねばならんのじゃっけえ。 恥入るです――一いつ個人としてじゃが。﹂ 巡査は、ずるりと靴をずらして、佩はい剣けんの鞘つ手かに居直ったのである。 ﹁で、国せん手せいに大おおいに謝そうと思う処へ、五六人、学生とは覚えない、年配の、堂々たる同僚らしいのが一斉に入ってござったで、機おりを考えて、それなりに帰ったです。 この意をじゃね、願わくは貴あん方たから国手にお伝えのほどを偏ひとえに希望します。私は職務上の過失であらば責せめを負うです。それは別問題として、――私は、貴方から御挨拶を願うのが、もっともその道を得たものと信ずるのじゃ。 就てはです。私わしは没わか分ら暁ず漢やの一巡査であるが、生理学教室に雛を祭ることにおいて、一石橋の朧おぼ月ろづき一片の情趣を会得した甲斐に、緋ひお緘どしの鎧の袖に山桜の意気の羨うらやましさに堪えんで。 十年勤務の間、唯一の美挙として、貴あん方たに差上げたいものがある。 ……奥さん。﹂ ﹁…………﹂ ﹁言うても構いませんな、奥さん。﹂ ﹁嬉しいんですよ。﹂ と声が迫って、涙が美しく輝いた。 ﹁一生に一度ですわ。﹂ ﹁葛木の奥さん、……学位年齢姓名と並べて、︵同じく妻さい。︶と認したためた手帳の一枚です、お受取り下さい。﹂ 出すのを取って、熟じっと俯うつ向むく、……潰島田の、水浅黄の手柄のはらはらと揺ゆするるを視みながら、冷めた茶碗を不器用な手つきで、取って陰気に一口、かぶりと呑むと、ガチリと立って挙手したきり、ただの巡査になって格子を出た。 この巡査が、本郷を訪問した時の光景は、彼がここに物語った通りであった。それさえ、神境に白き菊に水あるごとき言うべからざる科学の威厳と情じょ緒うしょの幽玄に打たれたのに――やがて仔しさ細い有って、この日の午後、赤熊の毛皮をそのまま、爪を磨ぎ、牙を噛かんで、喘あえぐ猛獣のごとくになって、生理学教室へ、日本橋から本郷を一飛びに躍り込んだ……海産商会の五十嵐伝吾は、それはまた思いの外意気地の無いものであった。―― 大学の廊下を人じん立りつして、のさのさと推おし寄よせた伝吾が、小使に導かれて、生理学教室の扉ドアに臨んだ時、呀や、恋の敵かたきの葛木は、籐とうの肱ひじつき椅子に柔く腕を投げて、仰向けに長くなって、寝ながら巻まき莨たばこを喫のんでいた。……が、客来きたる、と無造作に身を起して、カタリと大床に靴を据えた。その音さえ、谺こだまするまで、高い天井、大空に科学の神あって彼を守護するごとくであるのに、かてて加えた学友が、五人の数、彼を取巻いて、あたかも迷宮の奇くしき灰色の柱のごとく、すくすくと居合わせたのが、希け有うな侵入者を見ると、一斉に伝吾に瞳を向けた。知らずや、その中うちに一人外科の俊才で、渾あだ名なを梟ふくろうと云う……顔が似たのではない。いかもの食ぐいの大腕白、かねて御殿山の梟を生捕って、雑巾に包くるんで、暖炉にくべて丸蒸を試みてから名が響く、猫を刻んでおしゃます鍋、モルモットの附焼、いささか苦いのは、試験用の蛙かわずの油揚だと云う、古今の豪傑、千場彦七君が真まっ黒くろな服を着けて、高い鼻に、度の強いぎらぎらと輝く眼まなこで、ござんなれ、好おさ下か品な、羆ひぐまの皮をじろりと視て、頭から塩を附けたそうにニヤリと笑った。――この威にや恐れけん。 伝吾は扉ドアの敷居口に、へたへたと腰を抜くと、羆の筒袖の前脚めいたやつを、もさりと支ついて、土下座して、 ﹁途とま惑どいをいたしまして。﹂ とばかり、口も利き得ず、すごすごと逡しり巡ごみして帰ったのである。 仔細は云うまでもない。……大概様子でも知れよう。前夜から、稲葉家へ泊り込んだのが、その二階を去らず、お孝に愛想づかしをされて突出されたのであった。 却さ説て……巡査が格子戸を出ると、やがて××署在勤笠原信八郎とある名刺にのせた、︵同おな妻じくつま。︶を熟じっと視ていた、稲葉家のお孝は、片手の長煙管をばたりと落して、すっと立つと、頂いて、長火鉢の向う正面なる、朝燈明の清く輝く、縁起棚の端に上のぼせた、が、黙って伏拝んで、座蒲団に居直った時、眉を上げつつ流なが眄しめに、壁なる羆の毛皮を見た。 ﹁千ち世いちゃんは?﹂ 煙草盆を引きながら少ち女びが、 ﹁お稽古ですの。﹂ ﹁春子さん、夏次さん、千鳥さん、萩代さん、居なさるかい。皆ちょいと来ておくれと、そうお言い。……私、話したい事がある。﹂怨おん霊りょ比うび羅ら
五十三
――「露地の細路、駒下駄で。」――
カタカタと鳴る吾妻下駄、お竹蔵向むこうの露地を、突袖して我家へ帰る、お孝の褄つまは、幻の夜よが深かった。
﹁姉さん。姉さん。﹂
と呼ぶ、可愛い声。
一ひと時しきり、芸者の数が有余ったため、隣とな家りの平屋を出城にして、桔きき梗ょう、刈かる萱かや、女おみ郎なえ花し、垣の結ゆい目めも玉たま章ずさで、乱らん杙ぐい逆さか茂も木ぎ取廻し、本城の欄てすりの青あお簾すだれは、枝葉の繁る二階を見せたが、近頃いわれあって世帯を詰めて、稲荷様向うの一軒につづめたので、隣家はあたかも空屋である。
そこまで戻ると、我家の格子戸前の木戸を細めに開けて、差さし覗のぞく島田を見た。
﹁千世ちゃんかい。﹂
お孝は、ずっと来て、年上の女の落着いた声を沈めて、
﹁どうおしなの、お前さんもう寝ていたんじゃないのかい。﹂
﹁ええ、寝ていたんですけれど、私、国せん手せいがお帰んなさるのを、姉さんが送って出て、この木戸で、何だか話していらっしゃるのが寂しく聞えて、知っていたんですよ。カタカタと足音がして出ておいでなさいますから、あの、じゃ露地口までお送りなすったんだ、そう思っていましたけれど、それにしてはあんまり遅いんですもの。
いつまでも、お帰んなさいませんし、それだし、あの、一度お寝よったんですから、姉さんは寝ねま衣きでしょうのに、どうなすったしら﹇#﹁なすったしら﹂はママ﹈。……私、心配で……ここまで起きて来て、あの、通とおりへ出て見ようと思ったんですけれど、可こ恐わいでしょう。……それですから、あの、ここにつかまって震えていましたの。﹂
﹁何だねえ、そんな弱虫が、それじゃ、来てくれたって何にもなりゃしないじゃないか。﹂
と口では笑いながら、嬉しい目で。その癖もの案じの眉が顰ひそむ。……軒の柳に靄もやの有る、瓦が斯すほの暗き五さつ月きや闇み。浅黄の襟に頬白う、………また雨あめ催もよいの五位鷺が啼なくのに、内へも入らず、お孝は彳たたずむ。
﹁どうかしたの、姉さん。﹂
﹁いいえ、どうもしやしないがね、私ね、どうしようかと思っているんだよ。千世ちゃん、ちょっとここへ来て御覧。﹂
﹁はあ。﹂と、お千世は何の気なし、木戸を内へギイと引く。
﹁静しずかによ、誰か目を覚すと面倒だから。﹂
﹁あい……何、姉さん。﹂
﹁ちょっと、木戸のこの柱に、こんなものが貼って有るだろう。﹂
お千世は、薄気味悪そうに、お孝の袂たもとに掴つかまりながら、直ぐ目の前なを、爪立って覗くように、と見ると、比びら羅が紙みの、およそ二枚凧だこぐらいな大きさの真まん中なかにぼつりぼつりと筆太に、南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ、と書いたのが、じめじめとして、さながら、水から這上った流なが灌れか頂んちょうのごとく、朦もう朧ろうとして陰気に見える。
﹁可い厭や、姉さん、何? ちょいと。﹂
お千世は息を切って震え声。
﹁性が知れてるからちっとも気味の悪いことは無いんだよ。
お聞き、前さっ刻き、国せん手せいが来なさりがけに、露地口を入ろうとして、ふっと、そら、そこの松家さんの羽目板を見なさるとね、この紙が、ちょうど、入口の取とッ着つきの処に貼りつけて有ったとさ。
巻煙草を買うのだっけ、とその拍子に気が付いて、表の小母さんの許とこへ行ったんだそうだけれど、もう寝ていたんだって。
今夜は、来ようが遅かったわねえ。﹂
五十四
﹁国せん手せいはね、それから仲通まで買いに行ったんだとさ。……そしてねえ、一本喫ふかしながら入って来ると、見たばかりで、もう忘れていたくらいだったのが、またふっと気が付いて、ああ、ここに有ったっけと、お思いの、それがお前、前の処には無くってさ。同じ羽目板だけれども、足数七八つ、二間ばかり奥へ入った処に、仇あだ白じろくなって字が見える、………紙が歩あ行るいた勘定だわねえ。﹂ ﹁姉さん。﹂ ﹁可こ恐わくはないんだってばさ、この娘こは。﹂ とお千世の肩を抱込んで、 ﹁何かお禁まじ厭ないででもあるかいッて、国手がね、内で私にお話しなの。……何でしょう、月日も、堂寺てらも記かいてなければ、お開帳の広告でもなかろうし、別に、そんなお禁厭が有るッてことも聞きません。変ですね、……そう云っていたんだがね。 お帰りなさるのを、框かまちまで見送った時、私何だか気になってね、行って見ましょうよッて、下駄を突つッ掛かけて出ようとすると、︵お止し、密そっとあんなものを貼って置いて、それを見たものに、肺病か何か当の病人から譲ゆず渡りわたして、荷を下そうなんのって、よくあるこった。……お前は女だから神経を起すと不いけ可ない、私は工面の悪い藪やぶのかわりにゃ、大地震の前兆だって細露地を抜けるのは気にならないから。︶ 串じょ戯うだん半分そう言って、国手は平気なんだけれどもね。もしか禁厭ならどうしよう、︵貴方は担がないでも、荷を見せて可いいもんですかってさ、……災難ならせめて半分、私が背し負ょいましょうよ。︶とばたすた急いで格子をついて出ると、お前何んだろう…… そらここへ来ているのさ。 羽目を伝わって、木戸へおいでなすったんだわ。私も慄ぞ然っと総毛だった。 はてな、字が殖ふえて妙な事が書いてある。前さっ刻き見たのは念仏ばかりで、こんなものは無かったって、御覧。﹂ と云う、南無阿弥陀仏の両りょ傍うわきに、あいあい傘の楽書のように、︵となえろとなえろとなえろとなえろ、︶と蛞なめ蝓くじのごとくのたくり廻る。 ﹁国手がね、︵何だ、浄土か真宗にも、救世軍が出来たんじゃないか、︶って笑ったけれどね、……私はドキリとしたんだよ。仮名の形を一目見ると分った。お念仏を︵唱えろ唱えろ。︶――覚悟をしろ――ッて謎じゃないか。こりゃ、お前、赤熊の為しわ業ざだあね、あの、鰊にしん野郎の。﹂ ﹁まあ、熊兄さん。﹂ ﹁止しておくれ。﹂ はたはたと袖を払はたいて、 ﹁身ぶるいがする。いつかお巡おま査わりさんの来なすった朝、覚悟が有って長なが棹ざおに掛けてから門かど傍ばたへも寄せつけない。それを怨んで、未練も有って、穴から出たり入ったり、ここいらつけ廻しているに違いない。何の男のようでもない。のッそりの蝦アイ夷ヌなんか、私は何とも思わない。悪く形でも顕あらわして見たが可いい。象牙の撥ばちがあるものを、払はたき殺しても事は済む。――国手の身のまわりをつけ廻されるんだと、ね、千世ちゃんや、姉さんは本当に案じられる。 角の紀き田だ屋やまで送って行って、車をそう云って帰して来たがね、獣は駆けるのが疾はやいやね、車にも乗れば乗るだろう。――泊めたかったが、お肯ききでなし、……﹂ とお孝は独ひと言りごとのように云って、 ﹁途中で、またそうでもない、新聞にお名前の出るような事なんぞ無ければ可いが、﹂ と気を揉む頬の後おく毛れげは、寝みだれてなお美しい、柳の糸より優しいのである。 ﹁姉さん。﹂ お千世が顔を覗いて、 ﹁縁起棚へお燈明をあげて、そしてお祈をしましょうよ。私も拝みますわ。﹂ ﹁嬉しい娘こだね。﹂ と頬ほお摺ずりしたが、襟を合せて凜りんとして、 ﹁お待ち、私、考えた。……お稲荷様へお百度を上げよう。﹂ とて見返る祠ほこらは、瓦斯燈の靄もやを曳ひいて、空地に蓮はすの花の紅あかいがごとく、池があるかと浮いて見える。 ﹁数取りにはね。﹂ と云うより早く、ぴりぴりと比羅紙を引ひき剥はがす…… ﹁これを裂いて紙こよ捻りにしようよ、――人を呪わば穴二つさ。見たが可い。﹂ 気の立ったお孝は、褄を引上ぐるより前さきに、雨あめ霽あがりの露地へ、ぴたと脱いだ、雪の素足。 意い気き地じも張も葉がくれの闇やみに、男を思うあわれさよ。鶴を折る手と、中指に、白プラ金チナの白はく蛇だ輝く手と、合せた膝に、三筋五筋観かん世ぜよ捻り、柳の糸に、もつれ縺もつるる、鼓の緒にも染めてまし。 あわれ、かかる時は、あすの逢瀬を楽みに、帰かえ途りを案ずるも心ゆかし、寐ねられぬ夜よ半わの待人掛ける、小さな犬も拵こしらえ交ぜて、お千世に背せな打たれて微笑みもしたが。 柳の葉の散る頃は、――続いて冬枯の二日月、鬢びん櫛ぐしの折れたる時は――一ひと口ふりか一挺か
五十五
――「露地の細路駒下駄で。」――
男が口の裡うちで、フト唄って、
﹁不い可かんぞ、これは心細い。﹂と、苦笑いをしながら立直って、素まっ直すぐに杖ステッキを支つくと、そのまま渡り掛けたのは一石橋。月はないが、秋あかるく、銀河の青い夜の事。それは葛木晋三である。
露地に吾妻下駄カタカタの婀あ娜だな女と因縁のある、唄の意味も心細いが、お孝が投遣りに唄うのは、勝気と胆勇を示すものと云って可いい。その口癖がつい乗った男の方は、虚うつ気けと惑わく溺できを顕あらわすものと、心付いた苦にが笑わらいも、大道さなか橋の上。思出し笑わらいと大差は無いので、これは国せん手せい我身ながら︵心細い。︶に相違ない。
その虚に憑つけ入いる、魔はこんな時に魅さす、とある。
今、橋の上を欄干に添って、日本銀行の方へ半ば渡り掛けると、橋詰の、あの一石餅の、早や門かどを鎖とざした軒下に、大おおきな立ん坊の迷まい児ごのごとく蹲うずくまっていた男がむらむらと立つと、ざわざわと毛の音を立てて、鼻息を前にハッハッ獣けだものの呼い吸きづかい。葛木の背うし後ろに迫って、のそっと前へ廻ると、両手を掉ふった不器用な、意気地の無い叩おじ頭ぎをして、がくりと腰を折って、
﹁国せん手せい、お願い!﹂
と喘あえいで云う。
はっと一ひと歩あしあとに退のいて、立たち停どまって、見みす透かして、
﹁何だ、何ですか。﹂
彼の影の黒く大なるに対して、葛木の手のカウスは白く、杖ステッキは細かった。
﹁直訴であります。国手。﹂
﹁直訴とは……?﹂
﹁直訴とは、……直訴とは、切、切羽詰ったですで、生いの命ちがけで、歎願をするですで。貴あん方たを将軍家だ思うて、橋から青竹を差出します。俺は佐倉宗五ですのだで、ええ。この願ねがいを聞届け遣わされりゃ、殺されても、俺、礫はりつけになっても可ええのですだで。国手。﹂
﹁何です。……唐だし突ぬけに、と云うんだけれども、私はお前さんを知っています。また、お前さんも知らないとは言わせますまい。そしてお頼みと云うのは何です。﹂
﹁国手、御診察が願いてえだな。﹂
と、粗ぞん雑ざいに太く云った。が、口覚えに練習した、腹案の口上が中途で切れて、思わず地声を出したらしい。……で、頭を下げて赤熊は橋の上に蹲る。
四五分では、話のけりは着つかないと覚ったろう。葛木は巻煙草を点つけた。燃えさしの燐マッ寸チをト棄てようとして水に翳かざすと、ちらちらと流れる水面の、他よその点とも燈しびに色を分けて、雛ひなの松たい明まつのごとく、軸白く桃色に、輝いた時、彼はそこに、姉を思った。潰島田の人形を思った、栄さざ螺えと蛤はまぐりを思った、吸口の紅を思って、火を投げるに忍びなくって、――橋に棄てた。
これと斉ひとしく、どろんとしつつも血走った眼まなこを、白眼勝に仰向いて、赤熊の筒袖の皮擦ずれ、毛の落ち、処とこ々ろどころ、大おおいなる斑まだらをなした蝦が蟇まのごときものの、ぎろぎろと睨にらむを見たのである。
が同時にまた、思出の多いここの頼たの母もしさを感じて、葛木は背うし後ろに活路を求めるのを忘れつつ、橋の欄干に、ひた、とその背せなを凭もたせた。
五十六
葛木は従しょ容うようとして云った。 ﹁お前さん、診察が頼みたい?……そうすりゃ死んでも可い。そんな解らない謎見たいな事を言わないで、判はっ然きりと、石か、瓦か、当って砕けたら可いじゃないか。私も診察なら病院へ来たまえなどと廻りくどいことは言わないから。﹂ ﹁実際、願いたい次第でして。就てはで、御覧の通り、着のみ着のままだ云ううちにも、擦切れた獣けものの皮一枚だ、国せん手せい。雨露凌しのぐ軒はまだしも、堂社やしろの縁の下、石い材しや、材木と一所にのたっている宿なし同然な身の上だで、御挨拶も手続も何も出来ねえですで、そこでもって直訴だでね、生命がけで願ねげえてえだな。﹂ ﹁本当の診察なら、私は不いけ可ない。まるで脈を一つ採ったことの無い、自分の風邪をひいたのには葛かっ根こん湯とうを飲んで、それで治る医者なんだ。こっちも謎のようなことを云うんじゃない。事実だよ。診察は、から駄目なんだよ。﹂ ﹁決けしてそれは脈を取って貰うには当らんです。で、ただ国手の口一つだなあ。﹂ ﹁口一つかね。﹂ ﹁そうですわ。﹂ ﹁どうするんですか。﹂ ﹁四の五の無いで、ただ一言、︵お孝に切れる。︶云うて下さりゃ可いですのだい。﹂ ﹁大方そんな事だろうと思ったよ、……この診察は当ったな。﹂ 葛木は莞にっ爾こりしながら、 ﹁折角だ、が、君、頼まれないよ。﹂ ﹁何で頼まれん、何で。ありゃ俺の生いの命ちですが。﹂ ﹁私の生命かも分らんのだ。﹂ ﹁俺の女にょ房うぼだ事、知らんのかい。﹂ ﹁私は芸者だと思っているがね。﹂ ﹁何でも可えい。﹂ とドス声で忙せき込こみながら、 ﹁すっぱり切れてくれ、頼むだでな。﹂ ﹁女に言え、女に、……先さ方きで切れればそれ迄よ。人に掛合われて、自分の情い婦ろを、退のくも引くもあるものか。﹂ ﹁……自分の情い婦ろ。……ええ堪たまらん、俺の前でお孝の事を。……うう、筋が引ひッ釣つる、身体が震える。 生命とも、女房とも思う女を引ひっ奪たくられた恋の敵かたきに、俺の口から切れてくれ頼むと云うは、これ、よくよくの事だ思わんですだか。 女に云うて肯きく程なら、遠くから影を見ても、上うわ衣っぱりの熊の毛まですくすく立つお前まんに、誰た、誰が頼む、考えんかい。﹂ ﹁私も同じことを言いたいな。女が肯かないほどのものを、男が掛合われて引ひき退さがる奴がありそうな事だと思うのかい。﹂ ﹁俺を人間だと思うか、国手。﹂ 赤熊はすっくと立った。 ﹁悪魔だ、鬼だ、狂きち人がいだ、虎だ、狼だ。……為にならんぞ!﹂ ﹁ああ、その上にまた熊でも可いよ。﹂ ﹁汝うぬっ!﹂ 葛木は欄干に杖ステッキを倒して、柔やわらかに手を払はたいた。 ﹁刃物を持ってるか。﹂ ﹁むむ、持たんことがあるもんだか。﹂ ﹁二ふた口ふりあるか、二挺ちょう持ってるか。﹂ ﹁どうするだい。﹂ ﹁一ひと口ふり渡せ、一挺貸せ。――持たんのか。一本しかない刃物なら、暗やみ撃うちにしろ。離れて狙え。遠くから打て。前に廻って、名なの告り掛けて、生命の与やり奪とりをすると云うに、敵かたきの得ものを用意しない奴があるものか、はははは、馬鹿だな。﹂艸冠
五十七
﹁ああ、言わっしゃる。﹂ 赤熊は身みが構まえ、口くち吻ぶり、さて、急に七つ八つ年を取ったように老じ実みに力なく言うのであった。 ﹁今言わしゃったは度胸でないで。胆きも玉だまでないですだ。学問の力だ。国せん手せいの見識ですわい。 詫あや入まりますで、はい。 もとより将軍様に直訴する云うたほどですで、はじめから国手の身体に向うて手を挙ぎょうとは思わんのですれど、ものは発はず奮みだで、赫かっとしたでな。そりゃ刃物措おけ、棒切一本持たいでも、北海道釧くし路ろの荒土を捏こねた腕だで、この拳こぶし一つでな、頭どたまア胴へ滅めり込こまそうと、……ひょいと抱上げて、ドブンと川に溺はめる事の造作ないも知ったれども、そりゃ、あれを見ぬ前だ。 あれよ、……あの、大学校の大でっ教けえ室へやに、椅子で煙草を喫のんでござった、人間離れのした神々しい豪えらい処を見ぬ前だで――あれを見た目にゃ、こんなその、土むぐ竜ら見たようになってしもうた俺が手で、危いことするは余り可あっ惜たらものだ思う気が、ふいと起ってどうにも出来ねえのですのだで。 それともに、な、国手、お前まんの生命を掻かっ払ぱらいさえすりゃ、お孝との捩よりが戻って、早い話が旧もと々もと通り言うことを肯いて、女が自由になる見込さえあればですだ、それこそ、お前んが国手でも、神でも、仏でも、容赦する気は微みじ塵んも無いだ。 無いだ。が、お前んに逢って、機嫌の悪い事でもあった日には、家中に八ツ当りで、十とこ言と云うことに、一口も口を利かぬ。愚に返った苦くろ労う女とをどうするだね。お前んの身に異常がありゃ、女も一所に死ぬですだろうで、……そうなればどうなるですだい。 国手、俺は、あの女は生命より大事ですで、死のうにも死に切れん。生きとるにも生きとられん。 国手、顔を見られないくらいなら、姿だけも見るが可えし、姿さえ見られんなら声ばかりも聞くが増だし、その声さえも聞かれないなら、跫あし音おとでも聞いていたい。その跫音にすらすらと衣きも服のの触る音でもしょうなら、魂に綱をつけて、ずるずる引ひき摺ずり引ひん廻まわされて、胸を引ひっ掻かいて、のた打廻るだ。 お前ん、誰たれも知るまいし、また知らせるようにもせんですだが、俺はお前ん、二階から突出されて、お孝の内に出では入いりが出来なくなってからは、天に階はし子ご掛けるように逆のぼせ上って、極道、滅めっ茶ちゃ苦茶、死物狂いで、潰れかけた商会は煙けむにする、それがために媽かか々あは死ぬ。﹂ ﹁女かみ房さんが――死んだ。﹂と、学士は鋭く口早に言返す。 ﹁二ふた歳つになった小こど児もは棄てる。﹂ ﹁…………﹂ ﹁木賃泊りの天井裏に、昼は内に潜って、夜よになると、雨でも、風でも、稲葉屋の周ぐる囲りを、胡う乱ろつき廻って、稲荷さんの空地に蹲しゃがんでもいりゃ、突当りの黒塀に附くッ着ついて立たち明あかす……そうして声を聞く、もの音を考えるですだい。 過いつ日かじ来ゅうから、隣の家が空いたですで、この頃では、大概毎晩、あの空屋で寝ているですだ。﹂ ﹁空屋でかい。﹂ と、驚いて云う。 ﹁国手、お前んはまた毎晩のように、蛇が蟠とぐろを巻いておる上で、お孝といちゃついてござる勘定だ。 が、俺の方は、おっけ晴ばれて、許して縁の下へ入れて置いて貰う方が、隠忍んで隣の空屋に潜るよりかも希のぞ望みですだ。﹂ 襟の辺あたりを引掻くと、爪を銜くわえる子供のように、含はに羞かむ体に、ニヤリとした、が、そのまま、何を噛むか、むしゃむしゃと口くち舐なめずる。五十八
﹁まだ慾よくの言えば、お前まんとお孝と対さし向むかいで、一ひと猪ちょ口こ飲やる処をですだ、敷居の外からでも可えい、見ていたいものですだ。 お孝を俳やく優しゃで、舞台だ思えば、何としていられても、顔を見て声を聞く方が、木戸に立って考えとるより増だからな。﹂ 俯うつ向むいて半ば泣き、 ﹁嫉ねたみ猜そねみは、まだこうまで惚れない内だと考えるで。 初手はね、お前ん、喧嘩した事も、威おどした事もあるですだい。 現に国せん手せい、お前んの大学病院の何とか教室へ俺が推おし掛かけて、偉い人たちに吃びっ驚くりして遁にげて返った、あの朝ですだ。忘れんですがい。――稲葉家の格子へ巡査が来て、お孝にお前んの身の上話はないて、――何が嬉しい、……俺は二階で聞いて胆きも魂たまが煮にえくり返るに、きゃっきゃっきゃっきゃっと笑うて、情いろ事ごとの免許状ようなものを渡いて帰った。お孝が、直ぐに内中の芸者を茶の室まへ集めて、ですだな、国手。 ︵私は今日からおかみさん、そう思って附合っておくれ。そのかわり、私もその気で附合うから、借金なんか、まけて欲しい人には直ぐに目の前で帳消しに棒を引きますよ。︶――だ、お前ん。 その勢いきおいで二階へ帰って来ると、まだ顔も洗わんでおる俺を捉とらまえて、さあ、突いき然なり帰っておくれですだ。……芸者なら旦那が有ろうが、何が来ていようが構わない。それが可い厭やならお止しだけれど、極きまった人が出来た上は、片時も、寝ねま衣きで胡あぐ坐らかいた獣なんぞ、備前焼の置物だって身のまわり六尺四方は愚おろかなこと、一つ内へは置けないから、即い座ま帰れ。……云うて生き真ま面じ目めですがい。 俺、はじめは笑ったです。が、怒ったですだ。愚痴言うた。……頼みもしたですのだ。 耳にも入れいで、︵汚らわしい、こんな物を。︶お前ん、お孝が蒲団を取って向うへ刎はねると、その時ですわい。かねて国手の事を俺嗅かぎつけて知っとったで、お孝を威しつけてくりょうとな、前の夜さり、懐ふと中ころに秘かくいておったですれども、顔を見ると、だらけて、はや、腑ふが抜けて、そのまんま、蒲団の下へ突つッ込こんで置いた、白しら鞘さやの短刀が転がって出たですが。 お孝が見たでな。天道時節ここだ思うて、︵阿あ魔ま覚悟があるぞ!︶睨にらんだですだ。ばたばたとお孝が立つで、占めた、遁にげる、恐れたぞ。俺が勝った、と乗掛って、階はし子ごだ段んの下おり口くちで捉とらまえたは可かったですれど、どうですかい。 お孝は遁げたでないですが。……あの階子は取外しが出来るだでね、お孝が自分でドンと突いて、向うの壁へ階子をば突つッぱずしたもんですだ。︵短刀をお抜き、さあ、お殺し、殺しように註文がある。切っちゃ不いけ可ない、十の字を二つ両方へ艸くさ冠かんむりとやらに曰いわくをかいて。︶とお前ん、……葛木と云う字に、突いて殺せ。︵名まで辛抱は出来まいが、一字や二字は堪こらえて見せよう。さあ早く。︶と洞どう爺や湖この雪よか真まっ白しろな肌を脱いで、背筋のつるつると朝日で溶けて、露の滴たりそうな生なま々なまとしたやつを、水浅黄ちらめかいて、柔やわりと背うし向ろむきに突着けたですだで。 豊ふっ艶くらと覗のぞいた乳ちち首くびが白い蛇の首に見えて、むらむらと鱗うろこも透く、あの指の、あの白プラ金チナが、そのまま活きて出たらしいで、俺はこの手足も、胴も、じなじなと巻まき緊しめられると、五臓六腑が蒸むれ上あがって、肝まで溶と融ろけて、蕩とろ々とろに膏あぶ切らぎった身体な、――気の消えそうな薫の佳いい、湿った暖い霞に、虚空遥はるかに揺上げられて、天の果に、蛇の目玉の黒くろ金ダ剛イ石ヤのような真まっ黒くろな星が見えた、と思うと、自ひと然りでに、のさんと、二階から茶の間へ素まっ直すぐ、棒立ちに落ちたで、はあ。﹂ と五十嵐伝吾は腹を揺ゆすって、肩を揉んで、溜息して言う。河岸の浦島
五十九
﹁その足で、お前まん、大学に押掛けてからは、御存じの通りだで。 さあ、後の、俺が身体どうなるだね。 天人に雲の上から投落されたも、お前ん、勿体ないだが、乙姫様に海の底から突出されたも同おん一なじですだ。 また始めに、お孝が俺のものになった時は、知ったほどの誰も彼も、不断云う、赤熊だことの、膃おっ肭とせ臍いだことの、渾あだ名なを止やめて、浦島だ、浦島だ、言うたもんで。俺も日本橋に竜宮が在る、と思うたですが。その筈はずですだね。鯨に乗って泳ぎ込む程の不思議でのうて、熊がお孝と対さし座むかいに、稲葉家の長火鉢の前に胡あぐ坐ら組めますまい。 見得は言わねえですぞ。国せん手せいの前だ。 死んだ媽かかあは家附きで、俺は北海道へ出稼中、堅気に見込みを付けられて、中ぐらいな身代へ養子に入った身の上だがね。日の丸の旗を立って大船一艘ぱい、海産物積んで、乗出いて、一花咲かせる目もく的ろみでな、小舟町へ商会を開いた当座、比び羅ら代りの附合で、客を呼ぶわ、呼ばれもしたので、一座に河岸の人が多かったでな。土地の芸者も顔が揃うた。二三度、その中に、国手、お前んも因果は遁のがれぬ、御存じですだ、滝の家の清葉とな、別べっ嬪ぴんが居たでねえですか。﹂ 葛木は吃きっと見る。 ﹁容きり色ょうはもとより、中年増でも生娘のような、あの、優しい処へ俺目を着けた。一ひと睨にらみ、床の間から睨んだら、否応はあるまいわい。ああ、ここが俺膃肭臍の悲しさだ。金になる男のぬくとみにゃ、誰でも帯を解く、と奥州、雄鹿島の海あ女まも、日本橋の芸者も同じ女だと、北海道釧くし路ろの国くにの学問だでな。 ――吃びっ驚くりしたですだ、お前ん……ただ居おりゃ袖も擦すり合あうけれども、手を出すと、富士の山の天てっ辺ぺんあたりまで、スーと雲で退のかれたで、あっと云うと俺、尻餅を搗ついたですが。 ︵御守殿め、男を振るなんて生意気な、可よし、清葉さんが嫌った人なら、私が情い人ろにしてやろう。……︶ これだで国手。それこそ悪く傍そばへよると、撥ばちで打ぶたれるぞ、と友達の衆に用心されたそのお孝が、俺の手を曳ひいて抱込んだでな。いや、お孝と来ては、対あい手ての清葉を驚かすためには、裸はだ体かで本当の羆ひぐまにも乗兼ねえですが。――後で聞くと、清葉を口説いて振られたと云うために、お孝の関係をつけたのが、一人二人でねえと云うだでな。﹂ 葛木は聴いて、 ﹁私も御多分には漏れんのだぜ。﹂と、静しずかに衣かく兜しに手を入れる。 赤熊は星が痛そうに、額を確しかと両手で蔽おおい、 ﹁ところが、そうでない。調子が違うた。……誰もそのかわり、お孝の口から、︵可い厭やになったら、それッきり、御免なんだよ、可いいかい。︶と初手に念を推おされておるで、突出されて謂いう理窟は無いだね。 そりゃ、随分俺が身だけでは金も使った。けれどもな、鰊や数の子の一ひと庫くら二庫、あれだけの女に掛けては、吹矢で孔くじ雀ゃくだ。富とみ籤くじだ。マニラの富が当らんとって、何ど国こへも尻の持って行ゆきようは無えのですもの。 が、人情は理窟でないで。 女房も生命も、その生命から二番目の一人の小こど児もを棄ててまでも……﹂ ﹁ちょっと……﹂ 葛木は急に遮りつつ、 ﹁ただ聞いてはいられない、……お互に人の児こだよ。お前、小児を捨ちまったと云うのは? 構いつけない、打うっ棄ちゃってあるという意味なのかい。﹂ ﹁そうでねえです。﹂ ﹁人に遣ったという事かね。﹂ ﹁違う。﹂と、ぶっきらぼうに言う。 ﹁棄すて子ごをしたか。﹂ と小さな声。頭を釘
六十
赤熊は、まじまじとして、頽ぐっ然たりと俯うつ向むいたが、太いたく恥じたらしく毛皮の袖を引捜すと、何か探り当てた体で、むしゃりと噛かむ。 葛木は眉を顰ひそめて、 ﹁ちょっと、小児も小児だし、……前さっ刻きから、気になるが、とにかく、色事の達たて引ひき中だ、なあ、まあ。……それに、そんな事をしてくれては不いけ可ないじゃないか。見ていられない、……何を食うんだ。﹂ ﹁はあ、これかね。﹂ と、食った後の指を撮つまんで、けろりとした顔を上げて、気けも無い様子で、 ﹁虱しらみだと思ったかね、へへ、違うですが。大丈夫だで、国手。脂の抜きようが足りんだった処へ、寝るにも起きるにも脱がねえもんで、こりゃ、雨な、埃ほこりな、日向な、汗な、膏あぶらで熊の皮に湧わいた蛆うじだよ。﹂ ﹁え。﹂ ﹁虫ですがい。豪えらく精分の強い、補おぎ剤ないになるやつで、なあ。﹂ 伝吾は厚ぼったい口をだらりと開けつつ、 ﹁これが有るで、俺、この頃では、一日二日怠けて飯食わねえ事あるですけれども、身体が弱らん。かえって、ほかほか温あたたかだね。取っちゃ食い、取っちゃ食いするだ。が、あとからあとから湧くですわい。二十間の毛皮を縫ぬい包ぐるみにしておるで、形のある中うちは虫が湧くですだ。﹂ 葛木は面かおを背けて、はっと吐こうとした唾つばを、清葉の口紅と、雛の思出、控えて手ハン巾ケチを口に当てた。 ――やがて、お孝が狂気になったも、一つはこの虫が因もとである――六十一
﹁貴あな下た、何をしておらるるかね。﹂ 靴を忍んで唐だし突ぬけに、ずかずかと寄って声を沈めたのは巡査であった。 ﹁ちょっと談はな話しを。﹂ 葛木はその時まで、虫に背けた面かおを向ける。と、星に照らして、 ﹁や、国せん手せいですか。﹂ ﹁おお貴あな官たで。﹂ ﹁この橋は妙な橋ですな。﹂ と莞にっ爾こりしながら、角燈を衝つと向ける。そこに背うし後ろむきに蹲しゃがんだやつ。 ﹁こちらは、﹂ ﹁旧友です。ふとここで出会ったんです。﹂ ﹁お話しなさい……失礼しました。﹂ ﹁ああ、貴官、いつぞやは――一度、更あらためてお目に掛りたいと思っています。﹂ ﹁難あり有がとう。機お会りを待ちます。﹂ と銀河を仰ぎ、佩はい剣けんの秋蕭しょ殺うさつとして、鵲かささぎのごとく黒く行く。橋冷やかに、水が白い。 ﹁夜が更ける……おい、そして、そして小児は。﹂ ﹁国手、臓腑から餌えを吐くまで何事も打ぶちまけたで、小児を棄てた処を言うですれど、これだけは内分に願いたいでね、極ごくねえ。……巡査にでも知れるとならんですだ。﹂ ﹁余り、巡査に遠慮する風でもあるまいじゃないか。﹂ ﹁そうでねえです。河岸の腸わた拾いや、立ん坊は大事無いですれど、棄子が分ると引っぱられるでね、獄へ入れられる。それも可えですが、ただ、そうなると、縁の下からも、お孝の声が聞かれんですだよ。﹂ 葛木は思わず吐息した。 ﹁無論言いはせん。﹂ ﹁なら話すだがね、小児を棄てたのは、清葉の門かどだで。﹂ ﹁何、清葉の。じゃ、あの滝の家で拾って、可愛がってると云う小児は、お前のかい。﹂ ﹁小児は幸しあ福わせですだ。﹂ ﹁むむ、幸福だ。﹂ と引入れられて、気を取られた調子が高く、 ﹁清葉が、頬ほお摺ずりしたり、額を吸ったり、……抱いて寝るそうだ。お前、女房は美しかったか、綺麗な児だって。ああ、幸しあ福わせな児だ。可うら羨やましいほど幸こう福ふくだ。﹂ 摺ずって出るように水を覗のぞく、と風が冷かに面かおを打つ。欄干に確しかと両手を掛けた、が、熟じっと黙って、やがて静しずかに立直った時、酔えい覚ざめの顔は蒼あお白じろい。 ﹁私は馬鹿だよ。……もし私を、仮にお前の境遇に置いたとすると、そのくらいな智ち慧えも分別も決して無いのだ。お前は私より知識がある、果断がある、……飯のかわりに、羆ひぐまの毛の虫を食っても、それほど智慧があり、果断もあれば、話は分ろう。 大分遅い、……今度の巡査はこのままには通らんぞ。さあ、早い処を言え。 お前の要求は肯きき入いれられない、二人は断じて縁を切らない……﹂ 半ば聞いて赤熊はまた頽ぐた然りとした。 ﹁そう言ったら、お前はどうする、私を殺すか。﹂ ﹁…………﹂ ﹁お孝を殺すか。﹂ ﹁ええ、あれを殺せますほどならですだ、お前まんに、手向いするだい。殺したい、殺したい、殺して死にたい思うても、傍そばへ行きゃ、ぼっと佳いい香においのするばかりで、筋も骨も萎なえ々なえと、身体がはや、湿った粘のりのようになりますだで。﹂ ﹁チョッ、しっかりしないのか。お孝に手出しが出来なかったら、せめて私を殺す、私を狙う計画を立ててくれ。勇気を起せ、張合を附けろ。私が頼む。そして私にお前の言分を刎はねつけさせてくれないか。私も頼む、その様子じゃ靄もやを引ひき掴つかんで突返すようで、断るに断り切れない。……こんな弱った事は無いのだ。 おい、男がものを言掛けるには、もしそれが肯入れなかったらどうする、と覚悟を極きめてかかるのが法だ。……恥を知れ、恥を知れ。気を判はっ然きりして出直して、切きれ物ものか、刃物の歯ごたえのあるようにして、私に断きっ然ぱり、︵女と切れない。︶と言わしてくれ。﹂ 葛木が焦じれて気色ともに激しくなるほど、はあはあと呼吸を内に引いて、大息で喘あえいだが、獣けものの背の、波打つ体ていに、くなくなとなると、とんと橋の上へ、真まう俯つ向むけに突つッ伏ぷしてしまう。 ﹁お願いですだ、拝むですだい。……邪魔だらば、縁の下へ突つッ込こまりょうで。柱へうしろ手に縛られていながらでも、お孝の顔を見ていたいで、便所の掃除でも何でもするだ。活動写真で見たですが、西洋は羨うらやましい。女の足を舐なめるだあもの。犬になっても大事ねえだで、香においが嗅かぎたい、顔が見たいで、この通り拝むだ、国手。恥も、外聞も、お孝があっての上ですだよ。﹂ わっと云うと、声を上げて、ひくひく後を引いて泣く。 葛木は踵くびすを刻んで、 ﹁聞け、聞け。だが何にも言うことが出来ない。……では、お前、私がきれれば、お孝は確にお前に戻るか、その、お前に、お孝が戻ると思うのかよ。﹂ ﹁そりゃ、そりゃ戻っても戻らいでも、国手があるより増だでね、声だけ聞くでも姿だけ見るでも、国手と二人の時と、お孝一人の時とでは、俺が心持がどう違うか考えずとも分るだでね。拝むですだよ。何も言わんで。……こ、こ、この橋板に摺こす付りつけて血を出いて願いたいども、額の厚ぼったい事だけが、我が身で分る外何にも分らん。血の出ないのが口くや惜しいですだ。﹂と頭を釘に、線路の露の鉄を敲たたく。 学士はフイと居なくなった。銀河のあたり、星が流るる。露霜
六十二
はッと声に出して、思わず歎ため息いきをすると、浸にじむ涙を、両の腕。……面おもてをひしと蔽おおうていた。
俥くるまの上で――もう夜よな半か二時過。
この辻車が、西河岸へヌッと出たと思うと、
﹁ああ。﹂
葛木は慌あわただしく声を掛けた。
﹁ちょっと待て、車くる夫まや。﹂
﹁へいへい。﹂
﹁忘れものをして来た、帰ってくれないか。﹂
﹁唯今、乗めした処へ。﹂
﹁ああ。﹂
夜よ延な仕しでも、達者な車夫で、一もん字にその引返す時は、葛木は伏せた面おもてを挙げて、肩を聳そびやかすごとく痩やせた腕を組みながら、切しきりに飛ぶ星を仰いだ。が、夜露に、痛いほど濡れたかして、顔の色が真まっ蒼さおであった。
﹁可よし、ここで――ここで――ここで――﹂
と焦って、圧おさえて云い云い、早や飛下りそうにしつつも駆戻る発はず奮みにずかずかと引ひき摺ずられるように町の角を曲って、やっと下立った処は、もう火の番を過ぎて、お竹蔵の前であった。
直ぐに稲葉家の露地を、ものに襲われた体に、慌しく、その癖、靴を浮かして、跫あし音おとを密ひそめて、したしたと入ると、門かどへ行った身を飜かえして、柳を透かしながら、声を忍んで、二階を呼んだ。
﹁お孝さん、……﹂
寂ひっ然そりとしていたが、重ねて呼ぶのに気を兼ねる間も無く、雨戸が一枚、すっと開あいて、下から映さす蒼あおい瓦が斯すを、逆に細せせ流らぎを浴びたごとく濡ぬれ萎しおれた姿で、水際を立てて、そこへお孝が、露の垂りそうに艶あで麗やかに顕あらわれた。
が、それは浴びるばかりの涙なのである。
と、見る時、葛木も面かおにはらはらと柳の雫しずくが、押えあえず散乱るる。
今宵は三度目である。宵に来て、例いつものごとく河岸まで送られて十二時過に帰った時は、夢にもこうとは知らなかった。――一石橋で赤熊に逢って、浮世を思捨てるばかり、覚悟して取って返した時は、もう世間もここも寐ねし静ずまっていた上に、お孝は疲れた、そして酔ってもいた。……途中送る折も、送る女が、送らるる男の肩に、なよなよと顔を持たせて、
﹁邪じゃ慳けんだね、帰るなんて。﹂
ぐっすり寐込んだに相違ない。ええ、決心は鈍ろうとも、ままよ、この次に、と一度引返そうとして、ただ、口ずさみのひとりでに、思わず、
﹁お孝……﹂
と呼ぶと、
﹁あい。﹂と声の下で返事して、階はし子ごを下りるのがトントンと引摺るばかり。日本の真まん中なかに、一人、この女が、と葛木は胸が切せまったのであったが。
暖い閨ねやも、石のごとく、砥とのごとく、冷たく堅く代るまで、身を冷して涙で別れて……三たび取って返したのがこの時である。
お孝は、乱みだ書れがきの仮名に靡なびく秋風の夜更けの柳にのみ、ものを言わせて、瞳も頬も玉を洗ったように、よろよろとただ俯うつ向むいて見た。
﹁済まないがね、――人形を忘れたから。﹂
﹁はい。﹂
と清く潔い返事とともに、すっと入ると、向直って出た。乳の下を裂いたか、とハッと思う、鮮なま血ちを滴らすばかり胸に据えたは、宵に着て寝た、緋ひの長なが襦じゅ袢ばんに、葛木が姉の記かた念みの、あの人形を包んだのである。
ト片手ついたが、欄てす干りに、雪の輝く美しい白い蛇の絡んだ俤おもかげ。
﹁お怪我の無いよう……御機嫌よう。﹂
とはらりと落すと、袖で受けたが、さらりと音して、縮ちり緬めんの緋のしぼは、鱗が鳴るか、と地に辷すべって、潰島田の人形は二ふた片ひら三片花を散ちらして、枝も折れず、柳の葉末に手に留とまんぬ。
﹁清葉さん、――さようなら。﹂
カタリと一ひと幅はば、黒雲の鎖とざしたような雨戸が閉って、……
――露地の細路、駒下駄で――
と心うら悲かなしい、が冴えた声。鈴を振るごとく、白しろ銀がねの、あの光、あけの明星か、星に響く。
葛木は五体が窘すくんだ。
稲荷堂の、背うし裏ろから、もぞもぞと這出して、落ちた長襦袢に掛って、両手に掴つかんだ、葛木を仰ぎ見て、夥あま多たたび押頂いたのは赤熊である。
車夫の提ちょ灯うちんが露地口を、薄黄色に覗のぞくに引かれて、葛木はつかつかと出て、飜ひら然りと乗ると、楫かじを上げる、背に重おも量しが掛って、前へ突つッ伏ぷすがごとく、胸に抱いた人形の顔を熟じっと視みた。
彗ほう星きぼし
六十三
その翌あく年るとしの春である。日本橋三丁目の通とおりの角で、電車の印を結んで、小こど児もし演ば技いの忠臣義士を煙けむに巻いて、姿を消した旅僧が、胸に掛けた箱の中には、同じ島田の人形が入っていたのである。 生理学教室三さん昧まいの学士も、一年ばかりお孝に馴な染じんで、その仕込みで、ちょっと大高源吾ぐらいは玩もてあそぶことが出来たのである。 却さ説て、葛木法師の旅僧は遠くも行ゆかず、どこで電車を下りて迂まわ廻りみちしたか、多しば時らくすると西河岸へ、船から上ったごとく飄ひょ然うぜんとして顕あらわれて、延命地蔵尊の御みど堂うに詣でて礼らい拝はいして、飲さけ酒の家みの伯父さんに叱られたような形で、あの賓びん頭ず廬るの前に立って、葉山繁山、繁きが中に、分けのぼる峰の、月と花。清葉とお孝の名を記しるしにした納おさ手めて拭ぬぐいの、一つは白く、一つは青く、春風ながら秋の野に葛くずの裏葉の飜ひるがえる、寂しき色に出いでて戦そよぐを見つつ、去るに忍びぬ風情であった。 茶を振舞った世話人の問に答えて、法ほっ体たいは去年の大おお晦みそ日かからだ、と洒しゃ落れでなく真顔で云うよう、 ﹁いや、夜よ遁にげ同然な俄にわ発かほ心っしん。心よりか形だけを代えました青道心でございます。面目の無い男ですから笠は御免を蒙こうむります。……どこと申して行く処に当は無いので、法ころ衣もを着て草わら鞋じを穿はくと、直ぐに両国から江戸を離れて、安あ房わ上かず総さを諸所経へめ歴ぐりました。……今こん日にちは、薬研堀を通ってこっちへ。――今度は日本橋を振出しに、徒か歩ちで東海道に向いますつもり。――以来は知らず、どこへ参っても、このあたりぐらい、名所古蹟はございませんな。﹂ と云って、ほろりとして、手を挙げて茶盆を頂いて出て行く。 人足繁き夕暮の河岸を、影のように、すたすたと抜けて、それからなぞえに橋になる、向って取とッ附つきの袂たもとの、一石餅とある浅黄染の暖のれ簾んを潜くぐって、土間の縁台の薄暗い処で、折おし敷きも装りの赤飯を一盆だけ。 その癖、新しい銀貨で釣銭を取って一石橋へ出た。もう日が暮れたのである。 半ば渡った処、御城に向いた、欄干に、松を遠く、船を近く彳たたずんで、凭もた掛れかかったが、熟じっとして頬杖を支ついて、人の往ゆき来きも世を隔てたごとく、我を忘れた体であった。 ﹁さようなら。﹂ と一言掛けて、発は奮ずむばかりに身を飜ひるがえすと、そこへ、ズンと来た電車が一輛だい。目めさ前きへカラカラと打ぶつかりそうなのに、あとじさりに圧おされ、圧され、煽あおられ気味に蹌よ踉ろ々よ々ろとなった途端である。 ﹁火事だ、火事だ。﹂ 把ハン手ドルを控えて、反そり身みになった車掌が言った。その帽の、庇ひさしも顔も真まっ赤かである。 黒い水の、箱を溢あふるるばかり、乗客は総立ちに硝がら子すに犇ひしめく。 驚いて法師が、笠に手を掛け、振返ると、亀きっ甲こう形がたに空を劃くぎった都みや会こを装う、鎧よろいのごとき屋根を貫いて、檜物町の空に※ぱっ﹇#﹁火+發﹂、U+243CB、573-6﹈と立つ、偉大なる彗ほう星きぼしのごとき火の柱が上って、倒さかしまに迸ほとばしる。 ﹁滝の家だい。﹂ その見当とは言わず、……ほとんど直覚的に、清葉の家を、耳の傍はたで叫んで、――前さっ刻きから橋の際に腰を板に附いて蹲しゃがんでいた、土方体の大男の、電車も橋も掻かき退のけるがごとく、両手を振って駆出したのがある。 旅僧は、その声を、聞いたようだ、と思ったろう。しかしその時、羆の皮は着ていなかった。 これは、清葉とお千世が、この日、稲葉家へ入ろうとして、その露地から出て、二人を見て逃げるのを知った、のッそり頬ほお被かぶりをした昼の影法師と同じ風体の男である。綺麗な花
六十四
﹁危あぶねえッ!﹂ 危え、と蔵の屋根から、結束した消しご防と夫しが一人にん、棟はずれに乗出すようにして、四番組の纏まといを片手に絶叫する。 その下に、前と後うしろを、おなじ消防夫に遮られつつ、口紅の色も白きまで顔色をかえながら、かかげた片かた褄づま、跣はだ足しのまま、宙へ乗って、前へ出ようと身をあせるのは清葉であった。 ﹁放して、放して。﹂ この土蔵一つ、細い横町の表から引込んだ処に、不思議なばかり、白しろ磨みがきの千本格子がぴたりと閉って、寐ねし静ずまったように音もしないで、ただ軒に掛けた滝の家の磨すり硝がら子すの燈ともしびばかり、瓦が斯すの音が轟々と、物凄い音を立てた。 ﹁蔵は大丈夫だ。姉さん、危い。﹂とまた屋根から呼ばわる。 取巻く、人にん数ずが、 ﹁退のいた、退どいた、退いた。﹂と叫ぶ。 薄藤色の出の衣きも服のの、肩を揉んで身をあせる、火の粉は紅梅のごとく衣紋を切って散るのである。 ﹁蔵じゃない、蔵の事なんかじゃないんだよ。﹂ ﹁箪たん笥すは出したい。出来るだけ出した。﹂ ﹁内の人たち。﹂と、清葉はもう声が涸かれる。 ﹁乳ばあ母やは、湯に入っていた処だ、裸はだ体かで遁にげた。﹂ ﹁娘さんも小こお婢んなも遁がした。下おさ女んどんは一所に手伝った。﹂ ﹁何しろ火が疾はやい。しかも火元が裏家の二階だ。﹂ と口々にがやがや言う。 ﹁その二階におっかさんが。﹂ ﹁何、阿おふ母くろが。﹂ ﹁坊やが、坊やが。放して、放して。﹂ と云うと、思わず圧おさえたのが手を放す。 ﹁了しまった。﹂と屋根で喚わめく。 二人ばかりドンと出て格子戸に立ったのは、飛込もうとしたのではない。血迷うばかりの、清葉を遮って、突戻すためであった。 清葉は、向うから突戻されてよろよろと、退しさると、喞ポン筒プの護ごむ謨か管んに裳もすそを取られてばったり膝を、その消えそうな雪の頸うなじへ、火の粉がばらばらとかかるので、一人が水びたしの半はん纏てんを脱いで掛けた。 この折から、ここの横町を河岸へ出る、角の電信柱の根を攀よじて、そこに積んだ材木の上へ、すっくと立って顕あらわれた、旅僧の檜ひの木きが笠さは、両側の屋根より高く、小山のごとき松明の炎に照されたが、群集の肩を踏まないでは、水管の通った他に、一足も踏込む隙間は無かったのである。 ﹁筒先ウ向けろ。﹂ ﹁手たむ向けの水だい。﹂ そこに絶望の声を放つと、二ふた条すじばかり、筒先を格子に向けた。 どどどッと鳴る音と共に、軒の瓦斯は、人魂のごとく屋根へ飛ぶ。格子が前へどんと倒れる。地獄の口の開あいた中から、水と炎の渦巻を浴びて、黒くろ煙けむりを空から脛すねに踏んで火の粉を泳いで、背には清葉の継まましい母を、胸には捨てた︵坊や。︶の我わが児こを、大おお肌はだ脱ぬぎの胴中へ、お孝が……葛木に人形を包んで投げたを拾って持った、緋の長襦袢を縄からげにぐい、と結んで、 ﹁おう!﹂ とばかり呻うなって出たのは赤熊である。 ﹁助かった。﹂ ﹁助けた。﹂ 錦の帯は煙を払って、竜のごとく素まっ直すぐに立つ。母はその手に抱寄せられた。 ﹁坊や。﹂ と清葉が手を伸した時、炎の流ながれは格子戸の倒れた穴を、堰せきを切った堤のごとく、九ツの頭かしらを立てて漲みなぎり流るる。 ﹁まあ、綺麗に花が咲いた事。﹂ 一ひと町まち、中を置いた稲葉家の二階の欄てすりに、お孝は、段だん鹿かの子この麻の葉の、膝もしどけなく頬杖して、宵よい暗やみの顔ほの白う、柳涼しく、この火の手を視ながめていた。……振向く処を
六十五
﹁この勢いきおいだ、この勢だ。﹂ 人な雪だ頽れ打つ中を、まるで夢中で、 ﹁人一人助けただい。この勢いきおいなら殺せるだい。お孝、畜生。﹂ 眼まなこは火のごとく血走りながら、厚い唇は泥のごとく緊しまりなく緩ゆるんで、ニタニタと笑いながら、足許ふらふらと虚空を睨にらんで、夜具包み背し負ょって、ト転こ倒ろがる女を踏ふん跨またぎ、硝がら子す戸どを立てて飛ぶ男を突飛ばして、ばたばたと破って通る。 ﹁この勢だい、殺せるだい。﹂ 火の盛なる頃なれば、大おお膚はだ脱ぬぎを誰たれ一人目に留とめる者も無く、のさのさと蟇がまの歩あ行ゆみに一町隣りの元大工町へ、ずッと入ると、火の番小屋が、あっけに取られた体に口を開けてポカンとして、散敷いた桜の路を、人の影は流るるよう。……半鐘の響、太鼓の音、ぱっぱっと燃ゆる音、べらべらと煙の響、もの音ばかり凄すさまじく、両側の家はただ、黒い墓のごとく、寂しいまでにひそまり返って、ただ処とこ々ろどころ、廂ひさしに真まっ赤かな影は、そこへ火を呼ぶか、と凄すごいのである。 洪ごうと鳴って新しい火の手が上ると、魔が知らすような激しい人声。わッと喚わめいてこの町も危あやうくなったが、片側の二階からドシドシ投出す、衣類、調度。 ト諸君はお竹蔵と云うのを御存じの筈はずと思う。あの屋根から、誰が投げて、どのがらくたに交ったか、二尺ばかりの蝋ろざ鞘やが一ひと口ふり。蛇のごとく空に躍って、ちょうどそこへ来た、赤熊の額を尾でたたいて、ハタと落ちた。 発はず奮みで打ったか。前さっ刻き滝の家の二階で受けた怪我の、気の勢いきおいで留まっていたか。この時、額から垂たら々たらと血が流れたが、それには構わないで、ほとんど本能的に、胸へ抱いた年弱の三みッ歳つの子を両手で抱えた。 が、慌あわただしく刀を拾うと、何を思う隙まも無さそうに、ギラリと冷かに抜いて、鞘を棄てて提ひっさげたのである。 そのまま襲おそ入いいった、向うの露地口には、八九人人ひと立だちしたが、真まん中なかをずッと通るのに、誰も咎めたものが無い。 柳に片手を、柄つか下さがりに、抜ぬき刀みを刃はさ尖きあ上がりに背に隠して、腰をずいと伸のして、木戸口から格子を透かすと、ちょうど梯はし子ごだ段んを錦絵の抜出したように下りて、今、長火鉢の処に背うし後ろ向きに、すっと立った、段だん染ぞめの麻の葉鹿の子の長襦袢ばかりの姿がある。 がらりと開けると、ずかずかと入るが否や、 ﹁畜生!﹂ 振向く処を一ひと刀かたな、向うづきに、グサと突いたが脇腹で、アッとほとんど無意識に手で疵きずを抑おさえざまに、弱腰を横に落す処を、引なぐりにもう一ひと刀たち、肩さきをかッと当てた、が、それは引ひきかき疵きずに過ぎなかった。刃物の鍛きたえは生なま鉄くらで、刃は一度で、中じゃくれに曲ったのである。 ﹁姉さん、――﹂ 虫が知らしたか、もう一度、 ﹁お爺さん。﹂と呼ぶと斉ひとしく、立って逃げもあえず、真まっ白しろな腕かいなをあわれ、嬰あか児んぼのように虚空に投げて、身を悶もだえたのは、お千世ではないか。 赤熊は今日も附狙って、清葉が下に着た段鹿子を目めあ的てに刃やいばを当てた。 このお千世の着ていたのは、しかしそれではなく、……清葉が自分のを持もたして寄よ越こしたのであることを、ここで言いたい。 ﹁ちょっと、お茶を頂きに。﹂―― 清葉の眉の上ったのを見て、茶の缶をたたく叔母なるものは、香にば煎なでもてなすことも出来ないで、陰気な茶の間が白けたのであったが。あわせかがみ
六十六
﹁これは、いらっしゃいまし。﹂ そこへ、お千世に介抱されつつ、二階から下りて来たお孝が、儀式正しく、ぴたりと手を支ついて挨拶をした。肩の位に、大客を恐れない品格が備わって、取乱した人とは思われなかった、が、清葉も改めて会釈をする時、それは誰にするのやら分らないことを悟った。 ﹁いらっしゃいまし。﹂ 今度は澄まして在らぬ方かたの、店を向いて手を支いたのである。 ﹁お孝さん、分りますか。﹂ 清葉は声を曇らしながら、二階で弄もてあそんで欄てす干り越、柳がくれに落したのを、袖で受けて膝に持った、銀地の舞扇を開いて立って、長火鉢の向う正面に、縁起棚の前にきらりと翳かざすと、お孝が、肩を落して、仰向いて見つつ。 ﹁お月様でしょう。――大事のお月様雲めがかくす。――とても隠すなら金屏風で、﹂ と唄うかと思えば、 ﹁おお、寒い、おお寒い、もう寝ようよ。﹂と身ぶるいをする。 お千世が、その膝を抱くように附添って、はだけて、乳ちのすくお孝の襟を、掻かき合あわせ、掻合せするのを見て、清葉は座にと着きあえず、扇おう子ぎで顔を隠して泣いた。 背うし後ろへ廻って、肩を抱いて、 ﹁お大事になさいよ、静しずかにお寝やすみなさいまし、お孝さん、ちょいとお千世さんを借りますよ。――お座敷にして。﹂ と顧みて、あとは阿おば婆あに云った。 ﹁から、意気地も、だらしも有りませんやね、我ままの罰だ、業ごうだ。﹂ と時々刻んで呟つぶやいた阿婆が、お座敷と聞くと笑えみ傾かたむけ、 ﹁そらよ、お千世や、天から降ったような口が掛った。さあ、着換えて、﹂ 直ぐに連れて出ると心得た阿婆が、他ほかには無い、お孝の乱みだ心れごころにゆかしがって着ていた、その段鹿子を脱がせようと、お千世が遮る手を払って、いきなりお孝の帯に手を掛けて、かなぐり取ろうとしたのである。 ﹁叔母さん、まあ、﹂ とお千世はおろおろ。…… ﹁失礼をいたします。﹂と、何の事やらまた慇いん懃ぎんに、お孝が、清葉に手を支いたのは涙ならずや。 ﹁これが可い厭やなら、よく稼いで、可い旦那を取ってな、貴女方を、﹂ と、清葉を頤あご、 ﹁見習って幾枚でも拵こしらえろ、そこを退どかぬかい。﹂と突つき退のける。 ﹁お待ちなさいまし。﹂ 凜りんと留めて、 ﹁切火を打って、座敷へ出ます、芸者の衣きも物のを着せるには作法があるんです。……お素人方には分りません、手が違うと怪我をします。貴方、お控えなさいまし。――千ち世いちゃん、今︵箱さん。︶を寄越すから、着換えないでいらっしゃいよ。姉さんを気をつけて。お孝さん、﹂ 何も知らず横を向いたお孝に、端ちゃ正んと手を支いて、 ﹁さようなら。――二人で、一度あわせものをしましょうね。﹂ と目を手ハン巾ケチで押えて帰った。…… 襦袢はわざと、膚はだ馴なれたけれど、同おな一じその段鹿子を、別に一組、縞しま物ものだったが対ついに揃えて、それは小こお女んなが定紋の藤の葉の風呂敷で届けて来た。 箱屋が来て、薄べりに、紅裏香におう、衣紋を揃えて、長襦袢で立った、お千世のうしろへ、と構えた時が、摺すり半ば鐘んで。 ﹁木の臭においがしますぜ、近い。﹂ と云うと、箱三の喜平はひょいと一飛。阿おば婆あも続いて駆出した。 お千世の斬られた時、衣きも物のはそこにそのままである。振袖
六十七
﹁違った、お千世だい。﹂
と、やっぱりニタニタと笑いながら、目を据えて階はし子ごだ段んを見上げた時。……ああ、一足遅い。
お千世の祖じ父いの甚平が台所口から草わら鞋じば穿きの土足である。――これが玄関口から入ったら、あるいはこうはなかったろう。――爺さんは、当夜植木店だなのお薬師様の縁日に出た序ついでに、孫が好きだ、と草餅の風呂敷包を首に背し負ょって、病中ながらかねて抱かか主えぬしのお孝が好いた、雛ひな芥げ子しの早咲、念入に土鉢ながら育てたのを丁寧に両手に抱いて、来て、途中頭の上の火事に慌てながら、驚す破わや見舞、と駆込んで、台所口へ廻ったのが、赤熊と一足違い。
泥鉢は一ひと堪たまりもなく踏ふみ潰つぶされた。あたかも甚平の魂のごとくに挫くじけて、真紅の雛芥子は処女の血のごとく、めらめらと颯さっと散る。
熊は山へ帰る体に、のさのさと格子を出た。
ト、敵あいてを追って捕えよう擬勢も無く、お千世を抱いて、爺さんの腰を抜いた、その時、山鳥の翼を弓に番つがえて射るごとく、颯さっと裳もすそを曳ひいて、お孝が矢のように二階を下りると思うと、
﹁熊の蛆うじめ、畜生。﹂と追おい縋すがって衝つと露地を出た。
が、矢玉と馳はせ違ちがい折かさなる、人ひと混ご雑みの町へ出る、と何しに来たか忘れたらしく、ここに降かかる雨のごとき火の粉の中。袖でうけつつ、手で招きつつ、
﹁花が散るよ、散るよ。﹂
と蹴出しの浅黄を蹈ふみくぐみ、その紅くれないを捌さばきながら、ずるずると着きも衣のを曳いて、
﹁おお、冷い、おお、冷い。……雪やこんこ、霰あられやこんこ。……おお綺麗だ。花が散るよ、花が散るよ。﹂
仲通の小紅屋の小僧は、張子の木みみ兎ずくのごとく、目を光らして一すくみになった。
火の影ならず、血だらけの抜刀を提ひっさげた、半裸体の大おお漢おのこが、途とま惑どいした幟のぼりの絵に似て、店みせ頭さきへすっくと立つと、会釈も無く、持った白しら刃はを取直して、切きっ尖さきで、ずぶりとそこにあった林檎を突刺し、敵将の首こうべを挙げたるごとく、ずい、と掲げて、風かざ車ぐるまでも廻す気か、肌につけた小しょ児うにの上で、くるりくるりとかざして見せたが、
﹁あはは。﹂と笑うと、ドシンと縁台へ腰を掛ける、と風に落ちて来る燃えさしが人よりも多い火の下の店みせ頭さきで、澄まして林檎の皮を剥むきはじめた。
小僧は土間の隅にさながらのからくり。お世辞ものの女房が居たらば何と云おう。それは見えぬ。
﹁坊主、咽の喉どが乾いたろうで、水のかわりに、好すきなものを遣るぞ。おお、女おっ房かに肖そっ如くりだい。﹂
ニヤニヤとまた笑ったが、胡きゅ瓜うりの化けたらしい曲った刀が、剥きづらかったか、あわれ血迷って、足で白刃を、土間へ圧おし当あて蹈ふみ延のばして、反そりを直して、瞳に照らして、持直す。目の前へ、すっと来て立ったのはお孝である。
﹁刀をお貸し。﹂
黙って袖口を、なぞえに出した手に、はっと、女神の命に従う状さまに、赤熊は黙ってその刀を渡した。
﹁おお、嬉しい、剃かみ刀そり一挺持たせなかった。﹂
と、手おも遊ち物ゃのように二つ三つ、睫まつげを放して、ひらひらと振った。
眦まなじりを返す、と乱るる黒髪。
﹁覚悟をおし。﹂と、澄まして一ひと言こと。
何か言いそうにした口の、ただまたニヤニヤとなって、大おおきな涎よだれの滴だら々だらと垂るる中へ、素まっ直すぐにずきんと刺した。が、歯にカッと辷すべって、脣くちびるを決あ明け果びのごとく裂きながら、咽喉へはずれる、その真まん中なか、我と我が手に赤熊が両手に握って、
﹁ううう、うう!……抉えぐれ、抉れ、抉れ。﹂
懐ふと中ころをころがる小こど児もより前に、小僧はべたべたと土間を這う。
﹁了しまった。﹂
手を圧おさえたのは旅僧である。葛木は、人に揉まれて、脱け落ちた笠のかわりに、法ころ衣もの片袖頭巾めいて面おもてを包んだ。
﹁お孝さん。﹂
﹁先生。﹂
と、忘れたように柄つかを離すと、刀は落ちて、赤熊は真仰向けに、腹を露あら骨わに、のっと反かえる。
お孝の彼を抉った手は、ここにただ天地一つ、白き蛇くちなわのごとく美しく、葛木の腕に絡まつわって、潸さめ々ざめと泣く。
葛木はなお縋すがる袖をお孝に預けたまま、跪つまずいて悶もん絶ぜつした小児を抱いた。
駆着けた警官の中に笠原信八郎氏が有った。
﹁葛木……更めてお目にかかります。……見苦しくなく支度をさせます。この女の内までお見みの免がしが願いたい。﹂
﹁諸君。﹂
信八郎氏は言下に云った。
﹁私わたくしが責せめを負います。﹂
警官は二隊に分れた。
お孝は法ころ衣もの葛木に手を曳かれて、静々と火事場を通った。裂けた袂たもとも、さながら振袖を着たごとくであった。
火の番の曲り角で、坊やに憧れて来た清葉に逢った。
﹁ああ、お地蔵様。﹂
夢かとばかり、旅僧の手から、坊やを抱取った清葉は、一度、継母とともに立たち退のいて出直したので、凜り々りしく腰帯で端はし折ょっていた。
お孝は、離さじ、とただ黙って葛木に縋る。
﹁や、ここにも一人。﹂
警官は驚いた。露地の出口の溝どぶの中、さして深くもない中に、横倒れに陥はまって死んでいたのは茶ちゃ缶かん婆ばばあで、胸に突つき疵きずがある。さては赤熊が片附けた。
これが為に、護送の警官の足が留って、お孝は旅僧と二人、可なつ懐かしそうに、葉が差さし覗のぞく柳の下もとの我家に帰る。
清葉の途中で立たち停どまったのを見て、お孝が判はっ然きりした声で云った。
﹁姉さん、遺言を聞いて下さい。﹂
﹁はい。﹂
と答えた。二人は柳の軒燈に、清葉はその時、羽目について暗く立った。
﹁お孝さん、蔵も今しがた落ちました。﹂
と云って、実際目ぬりが届かないで、助ったつもりの蔵、中には能衣装まであると伝えた。が開いたのであった。
坊やを胸に、すっと出て、
﹁身に代えまして、清葉が、貴女になりかわって。﹂
その時三人が皆泣いた。
﹁お千世さんは、﹂
﹁ああ、お千世。﹂
余りの事に呆果てて、三人は茫然とした。中にも旅僧は何をトッチたか、膝で這廻って、雛芥子の散った花片の、煽あおりで動くのを、美しい魂を散らすまいとか、胸の箱へ、拾い込み拾い込みしたのである。
信八郎氏が先ず一人で入って来た。
お孝は胸に抱いだいて仰向けに接キッ吻スしていた、自分のよりは色のまだ濡々と紅くれないな、お千世の唇を放して、
﹁お湯を頂きましても可ようござんすか、旦那。﹂
と信八郎氏に手をついて言う。
渠かれは挙手の礼を返して、
﹁御随意に、盃をなすって可い。﹂
茶棚に背うし後ろ向きになった肩を拊うつばかり、ハタとそこへ、縁起棚から輝いて落ちたのは、清葉が、前さきに翳かざしたままそこにさし置いた舞扇で。
ふとここに心付いたらしく、立って頂いて、同じ縁起棚から取った小さな紙包み、︵同妻。︶の手ハン巾ケチの端を、湯呑に落して素さ湯ゆを注ついだ、が、なにも言わず、かぶりと飲むと、茶碗酒が得意の意気や、吻ほっと小さな息をした。その中に黒ほく子ろを抜いた時の硝酸が入っていた。
﹁姉さん、遺言を聞いて下さいな。﹂
﹁生いの命ちに掛けます、お孝さん。﹂
その時、舞扇を開いた面おもては、銀しろがねよりも白ずんだ。
お千世は玉の緒を繋つなぎとめた。
葛木が、生理学教室に帰ったのは言うまでもない。留学して当時独逸にあり。
滝の家は、建つれば建てられた家を、わざと稲葉家のあとに引移った。一家の美人十三人。
清葉が盃を挙げて唄う、あれ聞け横笛を。
――露地の細路駒下駄で――
大正三(一九一四)年九月