月つきの光ひかりに送おくられて、一ひと人り、山やまの裾すそを、町まちはづれの大おほ川かはの岸きしへ出でた。 同おなじ其その光ひかりながら、山やまの樹こだ立ちと水みづの流ながれと、蒼あをく、白しろく、薄うつすりと色いろが分わかれて、一ひとツを離はなれると、一ひとツが迎むかへる。影かげ法ぼふ師しも露つゆに濡ぬれて――此この時ときは夏なつ帽ばう子しも單ひと衣への袖そでも、うつとりとした姿なりで、俯うつ向むいて、土ど手ての草くさのすら〳〵と、瀬せの音おとに搖ゆられるやうな風ふぜ情いを視ながめながら、片かた側かは、山やまに沿そふ空あき屋やの前まへを寂さみしく歩あ行るいた。 以いぜ前んは、此この邊へんの樣やう子すもこんなでは無なかつた。恁かう涼すゞ風かぜの立たつ時じぶ分んでも、團うち扇はを片かた手てに、手てぬ拭ぐひを提さげなどして、派は手でな浴ゆか衣たが、もつと川かは上かみあたりまで、岸きしをちらほらついたものである。 秋あきにも成なると、山やま遊あそびをする町まちの男なん女によが、ぞろ〳〵續つゞいて、坂さかへ掛かゝり口くちの、此こ處ゝにあつた酒さか屋やで、吹すひ筒づつ、瓢ひさごなどに地ぢざ酒けの澄すんだのを詰つめたもので。……軒のきも門かども傾かたむいて、破やれ廂びさしを漏もる月つき影かげに掛かけ棄すてた、杉すぎの葉はが、現げんに梟ふくろふの巣すのやうに、がさ〳〵と釣つり下さがつて、其その古ふるびた状さまは、大おほ津つ繪ゑの奴やつこが置おき忘わすれた大おほ鳥とり毛げのやうにも見みえる。 ﹁狐こ狸りの棲すみ家かと云いふのだ、相さう馬まの古ふる御ごし所よ、いや〳〵、酒さけに縁えんのある處ところは酒しゆ顛てん童どう子じの物もの置おきです、此これは……﹂ 渠かれは立たち停どまつて、露つゆは、しとゞ置おきながら水みづの涸かれた磧かはらの如ごとき、ごつ〳〵と石いしを並ならべたのが、引ひつ傾かしいで危あぶなツかしい大おほ屋や根ねを、杉すぎの葉は越ごしの峰みねの下したにひとり視ながめて、 ﹁店たな賃ちんの言いひ譯わけばかり研けん究きうをして居ゐないで、一いつ生しやうに一度どは自じぶ分んの住すむ家いへを買かへ。其それも東とう京きやうで出で來きなかつたら、故こき郷やうに住すま居ひを求もとめるやうに、是ぜ非ひ恰かつ好かうなのを心こゝ懸ろがける、と今け朝さも從いと※こ﹇#﹁女+︵﹁第−竹﹂の﹁コ﹂に代えて﹁丿﹂︶、﹁姉﹂の正字﹂、U+59CA、219-4﹈が言いふから、いや、何どう仕つかまつりまして、とつい眞ま面じ目めに云いつて叩おじ頭ぎをしたつけ。人にん間げん然さうした場ばあ合ひには、實じつ際さい、謙けん遜そんの美びと徳くを顯あらはす。 其それもお値ねだ段んによりけり……川かは向むかうに二三軒げんある空あき屋やなぞは、一ちよ寸つとお紙さ幣つが一ひと束たばぐらゐな處ところで手てに入はひる、と云いつて居ゐた。家いへなんざ買かふものとも、買かへるものとも、てんで分ふん別べつに成ならないのだから、空そら耳みゝを走はしらかしたばかりだつたが、……成なる程ほど。名めい所しよ※づ繪ゑ﹇#﹁圖﹂の﹁回﹂に代えて﹁面から一、二画目をとったもの﹂、219-9﹈の家いへ並なみを、ぼろ〳〵に蟲むしの蝕くつたと云いふ形かたちの此こ處ゝなんです。 此これなら、一いつ生しや涯うがいに一度どぐらゐ買かへまいとも限かぎらない。其そのかはり武むし者やし修ゆぎ行やうに退たい治ぢられます。此これを見み懸かけたのは難あり有がたい。子こを見みる事こと親おやに如しかずだつて、其その兩りや親うしんも何なんにもないから、私わたしを見みる事こと從いと※こ﹇#﹁女+︵﹁第−竹﹂の﹁コ﹂に代えて﹁丿﹂︶、﹁姉﹂の正字﹂、U+59CA、219-13﹈に如しかずだ。﹂ と苦にが笑わらひをして又また俯うつ向むいた……フと氣きが付つくと、川かは風かぜに手てさ尖きの冷つめたいばかり、ぐつしより濡ぬらした新あたらしい、白しろい手ハン巾ケチに――闇や夜みだと橋はしの向むかうからは、近ちか頃ごろ聞きこえた寂さびしい處ところ、卯うた辰つや山まの麓ふもとを通とほる、陰おに火び、人ひと魂だまの類たぐひと見みて驚おどろかう。青あをい薄すゝきで引ひき結むすんで、螢ほたるを包つゝんで提さげて居ゐた。 渠かれは後うしろを振ふり向むいた。 最もう、角かどの其その酒さか屋やに隔へだてられて、此こ處ゝからは見みえないが、山やまへ昇のぼる坂さか下したに、崖がけを絞しぼる清しみ水づがあつて、手てを桶けに受うけて、眞まく桑は、西すゐ瓜くわなどを冷ひやす水みづ茶ぢや屋やが二軒けんばかりあつた……其それも十年ねん一ひと昔むかしに成なる。其その茶ちや屋やあとの空あき地ちを見みると、人ひとの丈たけよりも高たかく八やへ重むぐ葎らして、末すゑの白しら露つゆ、清しみ水づの流ながれに、螢ほたるは、網あみの目めに眞まつ蒼さをな浪なみを浴あびせて、はら〳〵と崖がけの樹きの下したの、漆うるしの如ごとき蔭かげを飛とぶのであつた。 此これから歸かへる從いと※こ﹇#﹁女+︵﹁第−竹﹂の﹁コ﹂に代えて﹁丿﹂︶、﹁姉﹂の正字﹂、U+59CA、220-7﹈の内うちへ土みや産げに、と思おもつて、つい、あの、二にけ軒んぢ茶や屋やの跡あとで取とつて來きたんだが、待まてよ……考かんがへて見みると、是これは此この土と地ちでは珍めづらしくも何なんともない。 ﹁出ではじめなら知しらず……最もうこれ今いま頃ごろは小こど兒もでも玩おも弄ちやにして澤たく山さんに成なつた時こ分ろだ。東とう京きやうに居ゐて、京きや都うとの藝げい妓こに、石いし山やま寺でらの螢ほたるを贈おくられて、其そ處こ等ら露つゆ草ぐさを探さがして歩あ行るいて、朝あさ晩ばん井ゐ戸どの水みづの霧きりを吹ふくと云いふ了れう簡けんだと違ちがふんです……矢やつ張ぱり故ふる郷さとの事ことを忘わすれた所せ爲ゐだ、なんぞと又また厭いや味みを言いはれてははじまりません。放はなす事ことだ。﹂ と然さう思おもつて、落おとすやうに、川かはべりに手ハン巾ケチの濡ぬれたのを、はらりと解といた。 ふツくり蒼あをく、露つゆが滲にじんだやうに、其その手ハン巾ケチの白しろいのを透とほして、土ど手ての草くさが淺あさ緑みどりに美うつくしく透すいたと思おもふと、三みツ五いつツ、上じやが額ひたひに描ゑがいた黛まゆずみのやうな姿すがたが映うつつて、すら〳〵と彼かな方たこ此な方た光ひかりを曳ひいた。 颯さつと、吹ふき添そふ蒼あを水みづの香かの風かぜに連つれて、流ながれの上うへへそれたのは、卯うの花はな縅をどしの鎧よろひ着きた冥めい界かいの軍ぐん兵ぴやうが、弗ふツと射い出だす幻まぼろしの矢やが飛とぶやうで、川かはの半なかばで、白しろく消きえる。 ずぶ濡ぬれの、一いつ所しよに包つゝんだ草くさの葉はに、弱よわ々〳〵と成なつて、其そのまゝ縋すが着りついたのもあつたから、手ハン巾ケチは其それなりに土ど手てに棄すてて身みを起おこした。 が、丁ちや度うど一ひと本もとの古ふるい槐ゑんじゆの下したで。 此この樹きの蔭かげから、すらりと向むかうへ、隈くまなき白しろ銀がねの夜よに、雪ゆきのやうな橋はしが、瑠るり璃い色ろの流ながれの上うへを、恰あたかも月つきを投なげ掛かけた長ながき玉たま章づさの風ふぜ情いに架かゝる。 欄らん干かんの横よこ木ぎが、水みづの響ひゞきで、光ひかりに搖ゆれて、袂たもとに吹ふきかゝるやうに、薄うす黒ぐろく二ふたツ三みツ彳たゝずむのみ、四あた邊りに人ひと影かげは一ひとツもなかつた。 やがて、十二時じに近ちかからう。 耳みゝに馴なれた瀬せの音おとが、一ひと時しきりざツと高たかい。 ﹁……螢ほたるだ、それ露つゆ蟲むしを捉つかまへるわと、よく小こど兒もの内うち、橋はしを渡わたつたつけ。此この槐ゑんじゆが可こ恐はかつた……﹂ 時とき々〴〵梢こずゑから、︵赤あか茶ちや釜がま︶と云いふのが出でる。目めも鼻はなも無ない、赤あか剥はげの、のつぺらぽう、三尺じやくばかりの長ながい顏かほで、敢あへて口くちと云いふも見みえぬ癖くせに、何ど處こかでゲラ〳〵と嘲あざ笑わらふ……正しや體うたいは小こど兒もほどある大おほきな梟ふくろふ。あの嘴くちばしで丹たん念ねんに、這しや奴つ我わが胸むね、我わが腹はらの毛けを殘のこりなくり取とつて、赤あか裸はだかにした處ところを、いきみをくれて、ぬぺらと出だして、葉はが隱くれに……へたばる人にん間げんをぎろりと睨にらんで、噴ふき飯だす由よし。 形かたちは大おほいなる梟ふくろふながら、性せいは魔まものとしてある。 其その樹きの下したを通とほりがかりに、影かげは映さしても光ひかりを漏もらさず、枝えだは鬼おにのやうな腕うでを伸のばした、眞まつ黒くろな其その梢こずゑを仰あふいだ。 ﹁今いまも居ゐるか、赤あか茶ちや釜がま。﹂と思おもふのが、つい聲こゑに成なつて口くちへ出でた。 ﹁ホウ。﹂ と唐だし突ぬけに茂しげりの中なかから、宛さな然がら應へん答たふを期きして居ゐたものの如ごとく、何なにか鳴ないた。 思おもはず、肩かたから水みづを浴あびたやうに慄ぞ然つとしたが、聲こゑを續つゞけて鳴なき出だしたのは梟ふくろふであつた。 唯と知しれても、鳴なくと云いふより、上うへから吠ほえ下おろして凄すさまじい。 渠かれは身みう動ごきもしないで立たち窘すくんで、 ﹁提ちや灯うちんか、あゝ。﹂ と呟つぶやいて一ひとツ溜ため息いきする。……橋はし詰づめから打うち向むかふ眞まつ直すぐな前ゆく途ては、土どべ塀いの續つゞいた場ばす末ゑの屋やし敷きま町ちで、門かどの軒のきもまばらだけれども、其それでも兩りや側うがはは家いへ續つゞき…… で、町まちは便たよりなく、すうと月つき夜よに空そらへ浮うく。上うへから覗のぞいて、山やまの崖がけが處とこ々ろ〴〵で松まつの姿すがたを楔くさびに入いれて、づツしりと壓おさへて居ゐる。……然さうでないと、あの梟ふくろふが唱となへる呪じゆ文もんを聞きけ、寢ねし鎭づまつた恁かうした町まちは、ふは〳〵と活いきて動うごく、鮮あざ麗やかな銀ぎん河がに吸すひ取とられようも計はかられぬ。 其その町まちの、奧おくを透すかす處ところに、誂あつらへたやうな赤あか茶ちや釜がまが、何ど處こかの廂ひさしを覗のぞいて、宙ちうにぼツとして掛かゝつた。 面つらの長ながさは三尺じやくばかり、頤あごの痩やせた眉みけ間んじ尺やくの大おほ額びたひ、ぬつと出でて、薄うす霧ぎりに包つゝまれた不ぶ氣き味みなのは、よく見みると、軒のきに打うつた秋あき祭まつりの提ちや灯うちんで、一軒けん取とり込こむのを忘わすれたのであらう、寂ひつ寞そりした侍さむ町らひまちに唯たゞ一ひと箇つ。 其それが、消きえ殘のこつた。頓やがて盡つきがたの蝋らふ燭そくに、ひく〳〵と呼い吸きをする。 其そ處こへ、魂たましひを吹ふき込こんだか、凝じつと視みるうち、老らう槐ゑんじゆの梟ふくろふは、はたと忘わすれたやうに鳴なき止やんだのである。 ﹁あゝ、毘びし沙やも門んさ樣まの祭まつ禮りだな。﹂ 而そして、其その提ちや灯うちんの顋あぎとに、凄すさまじい影かげの蠢うごめくのは、葉はやら、何なにやら、べた〳〵と赤あかく蒼あをく塗ぬつた中なかに、眞まつ黒くろにのたくらしたのは大おほきな蜈むか蚣でで、此これは、其その宮みやのおつかはしめだと云いふのを豫かねて聞きいた。……