印度更紗

一

﹁鸚(あう)鵡(む)さん、しばらくね……﹂
　と眞(しん)紅(く)へ、ほんのりと霞(かすみ)をかけて、新(あたら)しい火(ひ)の※(ぱつ)﹇＃﹁火＋發﹂、U+243CB、624-3﹈と移(うつ)る、棟(むね)瓦(がはら)が夕(ゆふ)舂(づく)日(ひ)を噛(か)んだ状(さま)なる瓦(がす)斯(だ)暖(ん)爐(ろ)の前(まへ)へ、長(なが)椅(い)子(す)を斜(なゝめ)に、ト裳(もすそ)を床(ゆか)。上(うは)草(ざう)履(り)の爪(つま)前(さき)細(ほそ)く※(たを)娜(やか)﹇＃﹁女＋島﹂の﹁山﹂に代えて﹁衣﹂、U+5B1D、624-4﹈に腰(こし)を掛(か)けた、年(とし)若(わか)き夫(ふじ)人(ん)が、博(はか)多(た)の伊(だて)達(ま)卷(き)した平(ふだ)常(ん)着(ぎ)に、お召(めし)の紺(こん)の雨(あま)絣(がすり)の羽(はお)織(り)ばかり、繕(つくろ)はず、等(なほ)閑(ざり)に引(ひつ)被(か)けた、其(そ)の姿(すがた)は、敷(しき)詰(つ)めた絨(じう)氈(たん)の浮(うき)出(い)でた綾(あや)もなく、袖(そで)を投(な)げた椅(い)子(す)の手(て)の、緑(みどり)の深(ふか)さにも押(おし)沈(しづ)められて、消(き)えもやせむと淡(あは)かつた。けれども、美(うつく)しさは、夜(よる)の雲(くも)に暗(くら)く梢(こずゑ)を蔽(おほ)はれながら、もみぢの枝(えだ)の裏(うら)透(す)くばかり、友(いう)染(ぜん)の紅(くれなゐ)ちら〳〵と、櫛(くし)卷(まき)の黒(くろ)髮(かみ)の濡(ぬれ)色(いろ)の露(つゆ)も滴(したゝ)る、天(てん)井(じやう)高(たか)き山(やま)の端(は)に、電(でん)燈(とう)の影(かげ)白(しろ)うして、搖(ゆら)めく如(ごと)き暖(だん)爐(ろ)の焔(ほのほ)は、世(よ)に隱(かく)れたる山(やま)姫(ひめ)の錦(にしき)を照(て)らす松(たい)明(まつ)かと冴(さ)ゆ。
　博(はか)士(せ)が旅(た)行(び)をした後(あと)に、交(つき)際(あひ)ぎらひで、籠(こも)勝(りが)ちな、此(こ)の夫(ふじ)人(ん)が留(る)守(す)した家(いへ)は、まだ宵(よひ)の間(ま)も、實(じつ)際(さい)蔦(つた)の中(なか)に所(あり)在(か)の知(し)るゝ山(やま)家(が)の如(ごと)き、窓(まど)明(あかり)。
　廣(ひろ)い住(すま)居(ひ)の近(きん)所(じよ)も遠(とほ)し。
　久(ひさ)しぶりで、恁(か)うして火(ひ)を置(お)かせたまゝ、氣(き)に入(い)りの小(こま)間(づか)使(ひ)さへ遠(とほ)ざけて、ハタと扉(ひらき)を閉(とざ)した音(おと)が、谺(こだま)するまで響(ひゞ)いたのであつた。
　夫(ふじ)人(ん)は、さて唯(たゞ)一(ひと)人(り)、壁(かべ)に寄(よ)せた塗(ぬり)棚(だな)に据(すゑ)置(お)いた、籠(かご)の中(なか)なる、雪(せつ)衣(い)の鸚(あう)鵡(む)と、差(さし)向(むか)ひに居(ゐ)るのである。
﹁御(ごき)機(げ)嫌(ん)よう、ほゝゝ、﹂
　と莟(つぼみ)を含(ふく)んだ趣(おもむき)して、鸚(あう)鵡(む)の雪(ゆき)に照(てり)添(そ)ふ唇(くちびる)……
　籠(かご)は上(うへ)に、棚(たな)の丈(たけ)稍(やゝ)高(たか)ければ、打(うち)仰(あふ)ぐやうにした、眉(まゆ)の優(やさ)しさ。鬢(びん)の毛(け)はひた〳〵と、羽(はお)織(り)の襟(えり)に着(つ)きながら、肩(かた)も頸(うなじ)も細(ほそ)かつた。
﹁まあ、挨(あい)拶(さつ)もしないで、……默(だん)然(まり)さん。お澄(す)ましですこと。……あゝ、此(こ)の間(あひだ)、鳩(はと)にばツかり構(かま)つて居(ゐ)たから、お前(まへ)さん、一(ちよ)寸(いと)お冠(かんむり)が曲(まが)りましたね。﹂
　此(こ)の五(いつ)日(か)六(むい)日(か)、心(こゝ)持(ろもち)煩(わづら)はしければとて、客(きやく)にも逢(あ)はず、二(にか)階(い)の一(ひと)室(ま)に籠(こも)りツ切(きり)、で、寢(ねお)起(き)の隙(ひま)には、裏(うら)庭(には)の松(まつ)の梢(こずゑ)高(たか)き、城(しろ)のもの見(み)のやうな窓(まど)から、雲(くも)と水(みづ)色(いろ)の空(そら)とを觀(み)ながら、徒(つれ)然(〴〵)にさしまねいて、蒼(あを)空(ぞら)を舞(ま)ふ遠(をち)方(かた)の伽(がら)藍(ん)の鳩(はと)を呼(よ)んだ。――眞(まつ)白(しろ)なのは、掌(てのひら)へ、紫(むらさき)なるは、かへして、指(ゆび)環(わ)の紅(ルビ)玉(イ)の輝(かゞや)く甲(かふ)へ、朱(とき)鷺(い)色(ろ)と黄(き)の脚(あし)して、輕(かる)く來(き)て留(とま)るまでに馴(な)れたのであつた。
﹁それ〳〵、お冠(かんむり)の通(とほ)り、嘴(くちばし)が曲(まが)つて來(き)ました。目(め)をくる〳〵……でも、矢(やつ)張(ぱ)り可(かは)愛(い)いねえ。﹂
　と艷(あで)麗(やか)に打(うち)傾(かたむ)き、
﹁其(そ)の替(かは)り、今(いま)ね、寢(ね)ながら本(ほん)を讀(よ)んで居(ゐ)て、面(おも)白(しろ)い事(こと)があつたから、お話(はなし)をして上(あ)げようと思(おも)つて、故(わざ)々(〳〵)遊(あそ)びに來(き)たんぢやないか。途(とち)中(う)が寒(さむ)かつたよ。﹂
　と、犇(ひし)と合(あ)はせた、兩(りや)袖(うそで)堅(かた)く緊(しま)つたが、溢(こぼ)るゝ蹴(け)出(だ)し柔(やはら)かに、褄(つま)が一(ひと)靡(なび)き落(おち)着(つ)いて、胸(むね)を反(そ)らして、顏(かほ)を引(ひ)き、
﹁否(いゝえ)、まだ出(だ)して上(あ)げません。……お話(はなし)を聞(き)かなくツちや……でないと袖(そで)を啣(くは)へたり、乘(の)つたり、惡(いた)戲(づら)をして邪(じや)魔(ま)なんですもの。
　お聞(き)きなさいよ。
　可(い)いかい、お聞(き)きなさいよ。
　まあ、ねえ。
　座(ざし)敷(き)は――こんな貸(かし)家(やだ)建(て)ぢやありません。壁(かべ)も、床(ゆか)も、皆(みな)彩(さい)色(しき)した石(いし)を敷(し)いた、明(あけ)放(はな)した二(にか)階(い)の大(おほ)廣(ひろ)間(ま)、客(きや)室(くま)なんです。
　外(おも)面(て)の、印(イン)度(ドや)洋(う)に向(む)いた方(はう)の、大(だい)理(りせ)石(き)のり縁(えん)には、軒(のき)から掛(か)けて、床(ゆか)へ敷(し)く……水(すゐ)晶(しやう)の簾(すだれ)に、星(ほし)の數(かず)々(〳〵)鏤(ちりば)めたやうな、ぎやまんの燈(とう)籠(ろう)が、十五、晃(きら)々(〳〵)點(つ)いて並(なら)んで居(ゐ)ます。草(くさ)花(ばな)の繪(ゑ)の蝋(らふ)燭(そく)が、月(つき)の桂(かつら)の透(す)くやうに。﹂
　と襟(えり)を壓(おさ)へた、指(ゆび)の先(さき)。

二

　引(ひき)合(あ)はせ、又(また)袖(そで)を當(あ)て、
﹁丁(ちやう)ど、まだ灯(あかし)を入(い)れたばかりの暮(くれ)方(がた)でね、……其(そ)の高(たか)樓(どの)から瞰(み)下(お)ろされる港(みな)口(とぐち)の町(まち)通(どほり)には、燒(せう)酎(ちう)賣(うり)だの、雜(ざつ)貨(くわ)屋(や)だの、油(あぶ)賣(らうり)だの、肉(にく)屋(や)だのが、皆(みな)黒(くろ)人(んぼ)に荷(にぐ)車(るま)を曳(ひ)かせて、……商(あき)人(んど)は、各(てん)自(〴〵)に、ちやるめらを吹(ふ)く、さゝらを摺(す)る、鈴(ベル)を鳴(な)らしたり、小(こだ)太(い)鼓(こ)を打(う)つたり、宛(まる)然(で)お神(かぐ)樂(ら)のやうなんですがね、家(うち)が大(おほき)いから、遠(とほ)くに聞(きこ)えて、夜(よな)中(か)の、あの魔(ま)もののお囃(はや)子(し)見(み)たやうよ、……そして車(くるま)に着(つ)いた商(あき)人(んど)の、一(ひと)人(り)々(／)々(＼)、穗(ほな)長(が)の槍(やり)を支(つ)いたり、擔(かつ)いだりして行(ゆ)く形(かたち)が、ぞろ〳〵影(かげ)のやうに黒(くろ)いのに、椰(や)子(し)の樹(き)の茂(しげ)つた上(うへ)へ、どんよりと黄(きい)色(ろ)に出(で)た、月(つき)の明(あかり)で、白(しら)刃(は)ばかりが、閃(ぴか)々(〳〵)、と稻(いな)妻(づま)のやうに行(ゆき)交(か)はす。
　其(そ)の向(むか)うは、鰐(わに)の泳(およ)ぐ、可(おそ)恐(ろし)い大(おほ)河(かは)よ。……水(みな)上(かみ)は幾(いく)千(せん)里(り)だか分(わか)らない、天(てん)竺(ぢく)のね、流(りう)沙(さが)河(は)の末(すゑ)だとさ、河(かは)幅(はゞ)が三里(り)の上(うへ)、深(ふか)さは何(なん)百(びや)尋(くひろ)か分(わか)りません。
　船(ふね)のある事(こと)……帆(ほば)柱(しら)に卷(まき)着(つ)いた赤(あか)い雲(くも)は、夕(ゆふ)日(ひ)の餘(なご)波(り)で、鰐(わに)の口(くち)へ血(ち)の晩(ばん)御(ごは)飯(ん)を注(つぎ)込(こ)むんだわね。
　時(とき)は十(じふ)二(にぐ)月(わつ)なんだけれど、五(ごぐ)月(わつ)のお節(せつ)句(く)の、此(これ)は鯉(こひ)、其(それ)は金(きん)銀(ぎん)の絲(いと)の翼(つばさ)、輝(かゞや)く虹(にじ)を手(てま)鞠(り)にして投(な)げたやうに、空(そら)を舞(ま)つて居(ゐ)た孔(くじ)雀(やく)も、最(も)う庭(には)へ歸(かへ)つて居(ゐ)るの……燻(たき)占(し)めはせぬけれど、棚(たな)に飼(か)つた麝(じや)香(かう)猫(ねこ)の強(つよ)い薫(かをり)が芬(ぷん)とする……
　同(おなじ)やうに吹(ふき)通(とほ)しの、裏(うら)は、川(かは)筋(すぢ)を一(ひと)つ向(むか)うに、夜(よな)中(か)は尾(をな)長(がざ)猿(る)が、キツキと鳴(な)き、カラ〳〵カラと安(あだ)達(ち)ヶ原(はら)の鳴(なる)子(こ)のやうな、黄(こが)金(ねへ)蛇(び)の聲(こゑ)がする。椰(や)子(し)、檳(びん)榔(らう)子(じ)の生(は)え茂(しげ)つた山(やま)に添(そ)つて、城(しろ)のやうに築(つき)上(あ)げた、煉(れん)瓦(ぐわ)造(づくり)がづらりと並(なら)んで、矢(やざ)間(ま)を切(き)つた黒(くろ)い窓(まど)から、弩(いしびや)の口(くち)がづん、と出(で)て、幾(いく)つも幾(いく)つも仰(あを)向(む)けに、星(ほし)を呑(の)まうとして居(ゐ)るのよ……
　和(オラ)蘭(ンダ)人(じん)の館(やかた)なんです。
　其(そ)の一(ひとつ)の、和(オラ)蘭(ンダ)館(くわん)の貴(きこ)公(う)子(し)と、其(そ)の父(ちゝ)親(おや)の二(ふた)人(り)が客(きやく)で。卓(テエ)子(ブル)の青(あを)い鉢(はち)、青(あを)い皿(さら)を圍(かこ)んで向(むき)合(あ)つた、唐(たう)人(じん)の夫(ふう)婦(ふ)が二(ふた)人(り)。別(べつ)に、肩(かた)には更(さら)紗(さ)を投(なげ)掛(か)け、腰(こし)に長(ちや)劍(うけん)を捲(ま)いた、目(め)の鋭(するど)い、裸(はだか)の筋(きん)骨(こつ)の引(ひき)緊(しま)つた、威(ゐふ)風(う)の凛(りん)々(〳〵)とした男(をとこ)は、島(しま)の王(わう)樣(さま)のやうなものなの……
　周(まは)圍(り)に、可(い)いほど間(ま)を置(お)いて、黒(くろ)人(んぼ)の召(めし)使(つかひ)が三人(にん)で、謹(つゝし)んで給(きふ)仕(じ)に附(つ)いて居(ゐ)る所(ところ)。﹂
　と俯(ふし)目(め)に、睫(まつ)毛(げ)濃(こ)く、黒(くろ)棚(だな)の一(ひと)ツの仕(しき)劃(り)を見(み)た。袖(そで)口(くち)白(しろ)く手(て)を伸(の)べて、
﹁あゝ、一(ひと)人(り)此(こ)處(ゝ)に居(ゐ)たよ。﹂
　と言(い)ふ。天(あた)窓(ま)の大(おほ)きな、頤(あご)のしやくれた、如(によ)法(はふ)玩(おも)弄(ちや)の燒(やき)ものの、ペロリと舌(した)で、西(すゐ)瓜(くわ)喰(く)ふ黒(くろ)人(んぼ)の人(にん)形(ぎやう)が、ト赤(あか)い目(め)で、額(おでこ)で睨(にら)んで、灰(はひ)色(いろ)の下(した)唇(くちびる)を反(そ)らして突(つゝ)立(た)つ。
﹁……餘(あま)り謹(つゝし)んでは居(ゐ)ないわね……一(ちよ)寸(いと)、お話(はなし)の中(なか)へ出(で)ておいで。﹂
　と手(て)を掛(か)けると、ぶるりとした、貧(びん)乏(ばふ)動(ゆる)ぎと云(い)ふ胴(どう)搖(ゆす)りで、ふてくされにぐら〳〵と拗(すね)身(み)に震(ふる)ふ……はつと思(おも)ふと、左(ひだり)の足(あし)が股(もゝ)のつけもとから、ぽきりと折(を)れて、ポンと尻(しり)持(もち)を支(つ)いた體(てい)に、踵(かゝと)の黒(くろ)いのを眞(ま)向(む)きに見(み)せて、一本(ぽん)ストンと投(なげ)出(だ)した、……恰(あたか)も可(よし)、他(ほか)の人(にん)形(ぎやう)など一(いつ)所(しよ)に並(なら)んだ、中(なか)に交(まじ)つて、其(そ)處(こ)に、木(きぼ)彫(り)にうまごやしを萌(もえ)黄(ぎ)で描(か)いた、舶(はく)來(らい)ものの靴(くつ)が片(かた)隻(つぽ)。
　で、肩(かた)を持(も)たれたまゝ、右(みぎ)の跛(びつこ)の黒(くろ)どのは、夫(ふじ)人(ん)の白(しら)魚(うを)の細(ほそ)い指(ゆび)に、ぶらりと掛(かゝ)つて、一(ひと)ツ、ト前(まへ)のめりに泳(およ)いだつけ、臀(ゐしき)を搖(ゆす)つた珍(ちん)な形(かたち)で、けろりとしたもの、西(すゐ)瓜(くわ)をがぶり。
　熟(じつ)と視(み)て、
﹁まあ……﹂
　離(はな)すと、可(い)いことに、あたり近(きん)所(じよ)の、我(わが)朝(てう)の※(あね)樣(さま)﹇＃﹁女＋︵﹁第−竹﹂の﹁コ﹂に代えて﹁ノ﹂︶、﹁姉﹂の正字﹂、U+59CA、629-11﹈を仰(あを)向(むけ)に抱(だき)込(こ)んで、引(ひつ)くりかへりさうで危(あぶな)いから、不(ぶ)氣(き)味(み)らしくも手(て)からは落(おと)さず……
﹁島(しま)か、光(みつ)か、拂(はたき)を掛(か)けて――お待(ま)ちよ、否(いゝえ)、然(さ)う〳〵……矢(やつ)張(ぱり)これは、此(こ)の話(はなし)の中(なか)で、鰐(わに)に片(かた)足(あし)食(くひ)切(き)られたと云(い)ふ土(どじ)人(ん)か。人(ひと)殺(ごろ)しをして、山(やま)へ遁(に)げて、大(たい)木(ぼく)の梢(こずゑ)へ攀(よ)ぢて、枝(えだ)から枝(えだ)へ、千(せん)仭(じん)の谷(たに)を傳(つた)はる處(ところ)を、捕(とり)吏(て)の役(やく)人(にん)に鐵(てつ)砲(ぱう)で射(い)られた人(ひと)だよ。
　ねえ鸚(あう)鵡(む)さん。﹂
　と、足(あし)を繼(つ)いで、籠(かご)の傍(わき)へ立(たて)掛(か)けた。
　鸚(あう)鵡(む)の目(め)こそ輝(かゞや)いた。

三

﹁あんな顏(かほ)をして、﹂
　と夫(ふじ)人(ん)は聲(こゑ)を沈(しづ)めたが、打(うち)仰(あふ)ぐやうに籠(かご)を覗(のぞ)いた。
﹁お前(まへ)さん、お知(ちか)己(づき)ぢやありませんか。尤(もつと)も御(ごせ)先(ん)祖(ぞ)の頃(ころ)だらうけれど――其(そ)の黒(くろ)人(んぼ)も……和(オラ)蘭(ンダ)陀(じ)人(ん)も。﹂
　で、木(きぼ)彫(り)の、小(ちひ)さな、護(ゴム)謨(ざ)細(い)工(く)のやうに柔(やはら)かに襞(ひ)の入(はひ)つた、靴(くつ)をも取(と)つて籠(かご)の前(まへ)に差(さし)置(お)いて、
﹁此(こ)のね、可(かは)愛(い)らしいのが、其(そ)の時(とき)の、和(オラ)蘭(ンダ)陀(やか)館(た)の貴(きこ)公(う)子(し)ですよ。御(ごら)覽(ん)、――お待(ま)ちなさいよ。恁(か)うして並(なら)べたら、何(なん)だか、もの足(た)りないから。﹂
　フト夫(ふじ)人(ん)は椅(い)子(す)を立(た)つたが、前(まへ)に挾(はさ)んだ伊(だて)達(ま)卷(き)の端(はし)をキウと緊(し)めた。絨(じう)氈(たん)を運(はこ)ぶ上(うは)靴(ぐつ)は、雪(ゆき)に南(なん)天(てん)の實(み)の赤(あか)きを行(ゆ)く……
　書(しよ)棚(だな)を覗(のぞ)いて奧(おく)を見(み)て、抽(ぬき)出(だ)す論(ろん)語(ご)の第(だい)一(いつ)卷(くわん)――邸(やしき)は、置(おき)場(ばし)所(よ)のある所(ところ)とさへ言(い)へば、廊(らう)下(か)の通(かよ)口(ひぐち)も二(にか)階(い)の上(うへ)下(した)も、ぎつしりと東(とう)西(ざい)の書(しよ)もつの揃(そろ)つた、硝(がら)子(す)戸(ど)に突(つき)當(あた)つて其(それ)から曲(まが)る、……本(ほん)箱(ばこ)の五(いつ)ツ七(なゝ)ツが家(いへ)の五(ごち)丁(やう)目(め)七(なゝ)丁(ちや)目(うめ)で、縱(じう)横(わう)に通(つう)ずるので。……こゝの此(こ)の書(しよ)棚(だな)の上(うへ)には、花(はな)は丁(ちやう)ど插(さ)してなかつた、――手(てつ)附(き)の大(おほ)形(がた)の花(はな)籠(かご)と並(なら)べて、白(しら)木(き)の桐(きり)の、軸(ぢく)ものの箱(はこ)が三(み)ツばかり。其(そ)の眞(まん)中(なか)の蓋(ふた)の上(うへ)に……
　恁(か)う仰(ぎや)々(う〳〵)しく言(いひ)出(だ)すと、仇(かたき)の髑(しや)髏(れかうべ)か、毒(どく)藥(やく)の瓶(びん)か、と驚(おどろ)かれよう、眞(まつ)個(たく)の事(こと)を言(い)ひませう、さしたる儀(ぎ)でない、紫(むらさき)の切(きれ)を掛(か)けたなりで、一尺(しやく)三寸(ずん)、一(ひと)口(ふり)の白(しら)鞘(さや)ものの刀(かたな)がある。
　と黒(くろ)目(めが)勝(ち)な、意(い)味(み)の深(ふか)い、活(いき)々(〳〵)とした瞳(ひとみ)に映(うつ)ると、何(なに)思(おも)ひけむ、紫(むらさき)ぐるみ、本(ほん)に添(そ)へて、すらすらと持(も)つて椅(い)子(す)に歸(かへ)つた。
　其(それ)だけで、身(み)の惱(なや)ましき人(ひと)は吻(ほつ)と息(いき)する。
﹁さあ、此(こ)の本(ほん)が、唐(もろ)土(こし)の人(ひと)……揃(そろ)つたわね、主(しゆ)人(じん)も、客(きやく)も。
　而(そ)して鰐(わに)の晩(ばん)飯(めし)時(じぶ)分(ん)、孔(くじ)雀(やく)のやうな玉(たま)の燈(とう)籠(ろう)の裡(うち)で、御(ごち)馳(そ)走(う)を會(くわ)食(いしよく)して居(ゐ)る……
　一(ちよ)寸(いと)、其(そ)の高(たか)樓(どの)を何(ど)處(こ)だと思(おも)ひます……印(イン)度(ド)の中(なか)のね、蕃(ばん)蛇(じや)剌(らあ)馬(まん)……船(ふな)着(つき)の貿(ぼう)易(えき)所(しよ)、――お前(まへ)さんが御(ごぞ)存(ん)じだよ、私(わたし)よりか、﹂
　と打(うち)微(ほゝ)笑(ゑ)み、
﹁主(しゆ)人(じん)は、支(し)那(な)の福(ふく)州(しう)の大(おほ)商(あき)賈(んど)で、客(きやく)は、其(それ)も、和(オラ)蘭(ン)陀(ダ)の富(かね)豪(もち)父(おや)子(こ)と、此(こ)の島(しま)の酋(しう)長(ちやう)なんですがね、こゝでね、皆(みんな)がね、たゞ一(ひと)ツ、其(それ)だけに就(つ)いて繰(くり)返(かへ)して話(はな)して居(ゐ)たのは、――此(こ)のね、酋(しう)長(ちやう)の手(て)から買(かひ)取(と)つて、和(オラ)蘭(ン)陀(ダ)の、其(そ)の貴(きこ)公(う)子(し)が、此(こ)の家(うち)へ贈(おく)りものにした――然(さ)うね、お前(まへ)さんの、あの、御(ごせ)先(ん)祖(ぞ)と云(い)ふと年(とし)寄(より)染(じ)みます、其(そ)の時(じぶ)分(ん)は少(わか)いのよ。出(で)が王(わう)樣(さま)の城(しろ)だから、姫(ひめ)君(ぎみ)の鸚(あう)鵡(む)が一羽(は)。
　全(ぜん)身(しん)緋(ひい)色(ろ)なんだつて。……
　此(これ)が、哥(こた)太(いく)寛(わん)と云(い)ふ、此(こ)家(ゝ)の主(ある)人(じ)たち夫(ふう)婦(ふ)の祕(ひざ)藏(うむ)娘(すめ)で、今(こと)年(し)十八に成(な)る、哥(こう)鬱(つけ)賢(ん)と云(い)うてね、島(しま)第(だい)一(いち)の美(うつく)しい人(ひと)のものに成(な)つたの。和(オラ)蘭(ン)陀(ダ)の公(こう)子(し)は本(ほん)望(まう)でせう……實(じつ)は其(それ)が望(のぞ)みだつたらしいから――
　鸚(あう)鵡(む)は多(たね)年(ん)馴(な)らしてあつて、土(と)地(ち)の言(げん)語(ご)は固(もと)よりだし、瓜(ジヤ)哇(ワ)、勃(ボル)泥(ネ)亞(ヲ)の訛(なまり)から、馬(マ)尼(ニ)剌(ラ)、錫(セイ)蘭(ロン)、澤(たん)山(と)は未(ま)だなかつた、英(イギ)吉(リ)利(ス)の語(ご)も使(つか)つて、其(それ)は……怜(りこ)悧(う)な娘(むすめ)をはじめ、誰(だれ)にも、よく解(わか)るのに、一(ひと)ツ人(ひと)の聞(きゝ)馴(な)れない、不(ふ)思(し)議(ぎ)な言(こと)語(ば)があつたんです。
　以(いぜ)前(ん)の持(もち)主(ぬし)、二(に)度(ど)目(め)のはお取(とり)次(つぎ)、一(ひと)人(り)も仕(し)込(こ)んだ覺(おぼ)えはないから、其(そ)の人(ひと)たちは無(むろ)論(ん)の事(こと)、港(みなと)へ出(では)入(ひ)る、國(くに)々(〴〵)島(しま)々(〴〵)のものに尋(たづ)ねても、まるつきし通(つう)じない、希(け)有(う)な文(もん)句(く)を歌(うた)ふんですがね、檢(しら)べて見(み)ると、其(それ)が何(なん)なの、此(こ)の内(うち)へ來(き)てから、はじまつたと分(わか)つたんです。
　何(なに)かの折(をり)の御(ごち)馳(そ)走(う)に、哥(こた)太(いく)寛(わん)が、――今(こん)夜(や)だわね――其(そ)の人(ひと)たちを高(たか)樓(どの)に招(まね)いて、話(はなし)の折(をり)に、又(また)其(そ)の事(こと)を言(いひ)出(だ)して、鸚(あう)鵡(む)の口(くち)眞(ま)似(ね)もしたけれども、分(わか)らない文(もん)句(く)は、鳥(とり)の聲(こゑ)とばツかし聞(きこ)えて、傍(そば)で聞(き)く黒(くろ)人(んぼ)たちも、妙(めう)な顏(かほ)色(つき)で居(ゐ)る所(ところ)……ね……
　其(そ)處(こ)へですよ、奧(おく)深(ふか)く居(ゐ)て顏(かほ)は見(み)せない、娘(むすめ)の哥(こう)鬱(つけ)賢(ん)から、が一(ひと)人(り)使(つか)者(ひ)で出(で)ました……﹂

四

﹁差(さし)出(で)がましうござんすが、お座(ざき)興(よう)にもと存(ぞん)じて、お客(きや)樣(くさま)の前(まへ)ながら、申(まを)上(しあ)げます、とお孃(ぢや)樣(うさま)、御(ごこ)口(うじ)上(やう)。――内(うち)に、日(につ)本(ぽん)と云(い)ふ、草(くさ)毟(むしり)の若(わか)い人(ひと)が居(を)りませう……ふと思(おも)ひ着(つ)きました。あのものをお召(め)し遊(あそ)ばし、鸚(あう)鵡(む)の謎(なぞ)をお問(とひ)合(あ)はせなさいましては如(いか)何(ゞ)でせうか、と其(そ)のが陳(の)べたんです。
　鸚(あう)鵡(む)は、尤(もつと)も、お孃(ぢやう)さんが片(かた)時(とき)も傍(そば)を離(はな)さないから、席(せき)へ出(で)ては居(ゐ)なかつたの。
　でね、此(これ)を聞(き)くと、人(ひと)の好(い)い、氣(き)の優(やさ)しい、哥(こた)太(いく)寛(わん)の御(ごし)新(ん)姐(ぞ)が、おゝ、と云(い)つて、袖(そで)を開(ひら)く……主(しゆ)人(じん)もはた、と手(て)を拍(う)つて、﹂
　とて、夫(ふじ)人(ん)は椅(い)子(す)なる袖(そで)に寄(よ)せた、白(しら)鞘(さや)を輕(かる)く壓(おさ)へながら、
﹁先(せん)刻(こく)より御(ごら)覽(ん)に入(い)れた、此(これ)なる劍(つるぎ)、と哥(こた)太(いく)寛(わん)の云(い)つたのが、――卓(テエ)子(ブル)の上(うへ)に置(お)いた、蝋(らふ)塗(ぬり)、鮫(さめ)鞘(ざや)卷(まき)、縁(ふち)頭(がしら)、目(めぬ)貫(き)も揃(そろ)つて、金(きん)銀(ぎん)造(づく)りの脇(わき)差(ざし)なんです――此(こ)の日(につ)本(ぽん)の劍(つるぎ)と一(いつ)所(しよ)に、泯(ミン)汰(ダネ)腦(ヲ)の土(どば)蠻(ん)が船(ふね)に積(つ)んで、賣(う)りに參(まゐ)つた日(につ)本(ぽん)人(じん)を、三年(ねん)前(さき)に買(かひ)取(と)つて、現(げん)に下(かぼ)僕(く)として使(つか)ひまする。が、傍(そば)へも寄(よ)せぬ下(した)働(ばたらき)の漢(をとこ)なれば、劍(つるぎ)は此(こ)處(ゝ)にありながら、其(そ)の事(こと)とも存(ぞん)ぜなんだ。……成(なる)程(ほど)、呼(よ)べ、と給(きふ)仕(じ)を遣(や)つて、鸚(あう)鵡(む)を此(これ)へ、と急(いそ)いで孃(ぢやう)に、で、を立(た)たせたのよ。
　たゞ玉(たま)の緒(を)のしるしばかり、髮(かみ)は絲(いと)で結(むす)んでも、胡(こ)沙(さ)吹(ふ)く風(かぜ)は肩(かた)に亂(みだ)れた、身(み)は痩(や)せ、顏(かほ)は窶(やつ)れたけれども、目(めは)鼻(な)立(だ)ちの凛(りん)として、口(くち)許(もと)の緊(しま)つたのは、服(な)裝(り)は何(ど)うでも日(やま)本(と)の若(わか)草(くさ)。黒(くろ)人(んぼ)の給(きふ)仕(じ)に導(みちび)かれて、燈(とう)籠(ろう)の影(かげ)へ顯(あらは)れたつけね――主(しゆ)人(じん)の用(よう)に商(あき)賣(なひ)ものを運(はこ)ぶ節(せつ)は、盜(どろ)賊(ばう)の用(よう)心(じん)に屹(きつ)と持(も)つ……穗(ほな)長(が)の槍(やり)をねえ、こんな場(ばし)所(よ)へは出(で)つけないから、突(つき)立(た)てたまゝで居(ゐ)るんぢやありませんか。
　和(オラ)蘭(ン)陀(ダ)のは騷(さわ)がなかつたが、蕃(ばん)蛇(じや)剌(らあ)馬(まん)の酋(しう)長(ちやう)は、帶(おび)を手(た)繰(ぐ)つて、長(ちや)劍(うけん)の柄(つか)へ手(て)を掛(か)けました。……此(こ)のお夥(なか)間(ま)です……人(ひと)の賣(うり)買(かひ)をする連(れん)中(ぢう)は……まあね、槍(やり)は給(きふ)仕(じ)が、此(これ)も慌(あわ)てて受(うけ)取(と)つたつて。
　靜(しづ)かに進(すゝ)んで禮(れい)をする時(とき)、牡(ぼた)丹(ん)に八(や)ツ橋(はし)を架(か)けたやうに、花(はな)の中(なか)をり繞(めぐ)つて、奧(おく)へ續(つゞ)いた高(たか)樓(どの)の廊(らう)下(か)づたひに、黒(くろ)女(め)のが前(あと)後(さき)に三人(にん)屬(つ)いて、淺(あさ)緑(みどり)の衣(きぬ)に同(おな)じ裳(も)をした……面(おもて)は、雪(ゆき)の香(か)が沈(しづ)む……銀(しろがね)の櫛(くし)照(てら)々(〳〵)と、兩(りや)方(うはう)の鬢(びん)に十二枚(まい)の黄(こが)金(ね)の簪(かんざし)、玉(たま)の瓔(やう)珞(らく)はら〳〵と、お孃(ぢやう)さん。耳(みゝ)鉗(わ)、腕(うで)釧(わ)も細(ほそ)い姿(すがた)に、拔(ぬけ)出(で)るらしく鏘(しや)々(う〳〵)として……あの、さら〳〵と歩(あ)行(る)く。
　母(はゝ)親(おや)が曲(きよ)を立(た)つて、花(はな)の中(なか)で迎(むか)へた處(ところ)で、哥(こう)鬱(つけ)賢(ん)は立(たち)停(ど)まつて、而(そ)して……桃(もゝ)の花(はな)の重(かさな)つて、影(かげ)も染(そ)まる緋(ひい)色(ろ)の鸚(あう)鵡(む)は、お孃(ぢやう)さんの肩(かた)から翼(つばさ)、飜(ひら)然(り)と母(はゝ)親(おや)の手(て)に留(と)まる。其(それ)を持(も)つて、卓(テエ)子(ブル)に歸(かへ)つて來(く)る間(ま)に、お孃(ぢやう)さんの姿(すがた)は、の三(みつ)ツの黒(くろ)い中(なか)に隱(かく)れたんです。
　鸚(あう)鵡(む)は誰(だれ)にも馴(なじ)染(み)だわね。
　卓(テエ)子(ブル)の其(そ)處(こ)へ、花(はな)片(びら)の翼(つばさ)を兩(りや)方(うはう)、燃(もえ)立(た)つやうに。﹂
　と云(い)ふ。聲(こゑ)さへ、其(そ)の色(いろ)。暖(だん)爐(ろ)の瓦(が)斯(す)は颯(さつ)々(〳〵)と霜(しも)夜(よ)に冴(さ)えて、一(いつ)層(そう)殷(いん)紅(こう)に、且(か)つ鮮(せん)麗(れい)なるものであつた。
﹁影(かげ)を映(うつ)した時(とき)でした……其(そ)の間(ま)に早(は)や用(よう)の趣(おもむき)を言(い)ひ聞(き)かされた、髮(かみ)の長(なが)い、日(につ)本(ぽん)の若(わか)い人(ひと)の、熟(じつ)と見(み)るのと、瞳(ひとみ)を合(あは)せたやうだつたつて……
　若(わか)い人(ひと)の、窶(やつ)れ顏(がほ)に、血(ち)の色(いろ)が颯(さつ)と上(のぼ)つて、――國(くに)々(〴〵)島(しま)々(〴〵)、方(はう)々(〴〵)が、いづれもお分(わか)りのないとある、唯(たゞ)一(いつ)句(く)、不(ふ)思(し)議(ぎ)な、短(みじ)かい、鸚(あう)鵡(む)の聲(こゑ)と申(まを)すのを、私(わたくし)が先(さき)へ申(まを)して見(み)ませう……もしや？……
　――港(みなと)で待(ま)つよ――
　と、恁(か)う申(まを)すのではござりませぬか、と言(い)ひも未(ま)だ果(は)てなかつたに、島(しま)の毒(どく)蛇(じや)の呼(い)吸(き)を消(け)して、椰(や)子(し)の峰(みね)、鰐(わに)の流(ながれ)、蕃(ばん)蛇(じや)剌(らあ)馬(まん)の黄(きい)色(ろ)な月(つき)も晴(は)れ渡(わた)る、世(よ)にも朗(ほがら)かな涼(すゞ)しい聲(こゑ)して、
　――港(みなと)で待(ま)つよ――
　と、羽(はね)を靡(なび)かして、其(そ)の緋(ひあ)鸚(う)鵡(む)が、高(たか)らかに歌(うた)つたんです。
　釵(かんざし)の搖(ゆら)ぐ氣(けは)勢(ひ)は、彼(あち)方(ら)に、お孃(ぢやう)さんの方(はう)にして……卓(テエ)子(ブル)の其(そ)の周(まは)圍(り)は、却(かへ)つて寂(ひつ)然(そり)となりました。
　たゞ、和(オラ)蘭(ン)陀(ダ)の貴(きこ)公(う)子(し)の、先(さつ)刻(き)から娘(むすめ)に通(かよ)はす碧(あゐ)を湛(たゝ)へた目(め)の美(うつく)しさ。
　はじめて鸚(あう)鵡(む)に見(みか)返(へ)して、此(こ)の言(こと)葉(ば)よ、此(こ)の言(こと)葉(ば)よ！日(につ)本(ぽん)、と眞(まつ)前(さき)に云(い)ひましたとさ。﹂

五

﹁眞(まつ)個(たく)、其(そ)の言(ことば)に違(ちが)はないもんですから、主(しゆ)人(じん)も、客(きやく)も、座(ざ)を正(たゞ)して、其(そ)のいはれを聞(き)かうと云(い)つたの。
　――港(みなと)で待(ま)つよ――
　深(しん)夜(や)に、可(おそ)恐(ろし)い黄(こが)金(ねへ)蛇(び)の、カラ〳〵と這(は)ふ時(とき)は、土(どば)蠻(ん)でさへ、誰(だれ)も皆(みな)耳(みゝ)を塞(ふさ)ぐ……其(そ)の時(とき)には何(ど)うか知(し)らない……そんな果(はか)敢(な)い、一(いつ)生(しやう)奴(どれ)隷(い)に買(か)はれた身(み)だのに、一度(ど)も泣(な)いた事(こと)を見(み)ないと云(い)ふ、日(につ)本(ぽん)の其(そ)の少(わか)い人(ひと)は、今(いま)其(そ)の鸚(あう)鵡(む)の一(ひと)言(こと)を聞(き)くか聞(き)かないに、槍(やり)をそばめた手(て)も恥(はづ)かしい、ばつたり床(ゆか)に、俯(うつ)向(む)けに倒(たふ)れて潸(さめ)々(〴〵)と泣(な)くんです。
　お孃(ぢやう)さんは、伸(のび)上(あが)るやうに見(み)えたの。
　涙(なみだ)を拂(はら)つて――唯(たゞ)今(いま)の鸚(あう)鵡(む)の聲(こゑ)は、私(わたくし)が日(につ)本(ぽん)の地(ち)を吹(ふき)流(なが)されて、恁(か)うした身(み)に成(な)ります、其(そ)の船(ふな)出(で)の夜(よな)中(か)に、歴(あり)然(〳〵)と聞(き)きました……十(じふ)二(にひ)一(と)重(へ)に緋(ひ)の袴(はかま)を召(め)させられた、百(ひや)人(くに)一(んい)首(つしゆ)と云(い)ふ歌(うた)の本(ほん)においで遊(あそ)ばす、貴(あな)方(たが)方(た)にはお解(わか)りあるまい、尊(たふと)い姫(ひめ)君(ぎみ)の繪(ゑす)姿(がた)に、面(おも)影(かげ)の肖(に)させられた御(おか)方(た)から、お聲(こゑ)がかりがありました、其(そ)の言(こと)葉(ば)に違(ちが)ひありませぬ。いま赫(かく)耀(やく)とした鳥(とり)の翼(つばさ)を見(み)ますると、射(い)らるゝやうに其(そ)の緋(ひ)の袴(はかま)が目(め)に見(み)えたのでござります。――と此(これ)から話(はな)したの――其(そ)の時(とき)のは、船(ふね)の女(をん)神(ながみ)さまのお姿(すがた)だつたんです。
　若(わか)い人(ひと)は筑(ちく)前(ぜん)の出(うま)生(れ)、博(はか)多(た)の孫(まご)一(いち)と云(い)ふ水(か)主(こ)でね、十九の年(とし)、……七年(ねん)前(まへ)、福(ふく)岡(をか)藩(はん)の米(こめ)を積(つ)んだ、千六百石(こく)の大(たい)船(せん)に、乘(のり)組(くみ)の人(にん)數(ず)、船(せん)頭(どう)とも二十人(にん)、寶(はう)暦(れき)午(うま)の年(とし)十月(ぐわつ)六(むい)日(か)に、伊(いせ)勢(ま)丸(る)と云(い)ふ其(そ)の新(しん)造(ざう)の乘(のり)初(ぞめ)です。先(ま)づは滯(とゞこほ)りなく大(おほ)阪(さか)へ――それから豐(ぶぜ)前(ん)へつて、中(なか)津(つ)の米(こめ)を江(え)戸(ど)へ積(つ)んで、江(え)戸(ど)から奧(あう)州(しう)へ渡(わた)つて、又(また)青(あを)森(もり)から津(つが)輕(るは)藩(ん)の米(こめ)を託(ことづか)つて、一度(ど)品(しな)川(がは)まで戻(もど)つた處(ところ)、更(あらた)めて津(つが)輕(る)の材(ざい)木(もく)を積(つ)むために、奧(あう)州(しう)へ下(くだ)つたんです――其(そ)の内(うち)、年(ねん)號(がう)は明(めい)和(わ)と成(な)る……元(ぐわ)年(んねん)申(さる)の七月(ぐわつ)八(やう)日(か)、材(ざい)木(もく)を積(つみ)濟(す)まして、立(たつ)火(び)の小(こど)泊(まり)から帆(ほ)を開(ひら)いて、順(じゆ)風(んぷう)に沖(おき)へ走(はし)り出(だ)した時(とき)、一人(にん)、櫓(やぐら)から倒(さかさま)に落(お)ちて死(し)んだのがあつたんです、此(これ)があやかしの憑(つ)いたはじめなのよ。
　南(なん)部(ぶ)の才(さい)浦(うら)と云(い)ふ處(ところ)で、七(なぬ)日(か)ばかり風(かざ)待(まち)をして居(ゐ)た内(うち)に、長(ちや)八(うはち)と云(い)ふ若(わか)い男(をとこ)が、船(ふな)宿(やど)小(こや)宿(ど)の娘(むすめ)と馴(な)染(じ)んで、明(あ)日(す)は出(しゆ)帆(つぱん)、と云(い)ふ前(まへ)の晩(ばん)、手(て)に手(て)を取(と)つて、行(ゆく)方(へ)も知(し)れず……一(ちよ)寸(いと)……駈(かけ)落(おち)をして了(しま)つたんだわ！﹂
　ふと蓮(はす)葉(は)に、ものを言(い)つて、夫(ふじ)人(ん)はすつと立(た)つて、對(つゐ)丈(たけ)に、黒(くろ)人(んぼ)の西(すゐ)瓜(くわ)を避(さ)けつゝ、鸚(あう)鵡(む)の籠(かご)をコト〳〵と音(おと)信(づ)れた。
﹁何(ど)う？多(たぶ)分(ん)其(そ)の我(わが)まゝな駈(かけ)落(おち)ものの、……私(わたし)は子(しそ)孫(ん)だ、と思(おも)ふんだがね。……御(ごら)覽(ん)の通(とほ)りだからね、﹂
　と、霜(しも)の冷(つめた)い色(いろ)して、
﹁でも、駈(かけ)落(お)ちをしたお庇(かげ)で、無(ぶ)事(じ)に生(いの)命(ち)を助(たす)かつたんです。思(おも)つた同(どう)士(し)は、道(みち)行(ゆ)きに限(かぎ)るのねえ。﹂
　と力(ちから)なささうに、疲(つか)れたらしく、立(たち)姿(すがた)のなり、黒(くろ)棚(だな)に、柔(やはら)かな袖(そで)を掛(か)けたのである。
﹁あとの大(おほ)勢(ぜい)つたら、其(そ)のあくる日(ひ)から、火(ひ)の雨(あめ)、火(ひ)の風(かぜ)、火(ひ)の浪(なみ)に吹(ふき)放(はな)されて、西(にし)へ――西(にし)へ――毎(まい)日(にち)々(／)々(＼)、百(ひや)日(くにち)と六(むい)日(か)の間(あひだ)、鳥(とり)の影(かげ)一(ひと)つ見(み)えない大(おほ)灘(なだ)を漂(たゞよ)うて、お米(こめ)を二升(しよう)に水(みづ)一斗(と)の薄(うす)粥(がゆ)で、二十人(にん)の一日(にち)の生(いの)命(ち)を繋(つな)いだのも、はじめの内(うち)。くまびきさへ釣(つ)れないもの、長(なが)い間(あひだ)に漁(れふ)したのは、二(ふた)尋(ひろ)ばかりの鱶(ふか)が一疋(ぴき)。さ、其(それ)を食(た)べた所(せ)爲(ゐ)でせう、お腹(なか)の皮(かは)が蒼(あを)白(じろ)く、鱶(ふか)のやうにだぶだぶして、手(てあ)足(し)は海(み)松(る)の枝(えだ)の枯(か)れたやうになつて、漸(や)つと見(み)着(つ)けたのが鬼(おに)ヶ島(しま)、――魔(まか)界(い)だわね。
　然(さ)うして地(つち)を見(み)てからも、島(しま)の周(まは)圍(り)に、底(そこ)から生(は)えて、幹(みき)ばかりも五丈(ぢやう)、八丈(ぢやう)、すく〳〵と水(みづ)から出(で)た、名(な)も知(し)れない樹(き)が邪(じや)魔(ま)に成(な)つて、船(ふね)を着(つ)ける事(こと)が出(で)來(き)ないで、海(うみ)の中(なか)の森(もり)の間(あひだ)を、潮(しほ)あかりに、月(つき)も日(ひ)もなく、夜(よる)晝(ひる)七(なの)日(か)流(なが)れたつて言(い)ふんですもの……
　其(そ)の時(じぶ)分(ん)、大(おほ)きな海(なま)鼠(こ)の二(にし)尺(やく)許(ばか)りなのを取(と)つて食(た)べて、毒(どく)に當(あた)つて、死(し)なないまでに、こはれごはれの船(ふね)の中(なか)で、七(しち)顛(てん)八(ばつ)倒(たう)の苦(くる)痛(しみ)をしたつて言(い)ふよ。……まあ、どんな、心(こゝ)持(ろもち)だつたらうね。渇(かわ)くのは尚(な)ほ辛(つら)くつて、雨(あめ)のない日(ひ)の續(つゞ)く時(とき)は帆(ほぬ)布(の)を擴(ひろ)げて、夜(よつ)露(ゆ)を受(う)けて、皆(みんな)が口(くち)をつけて吸(す)つたんだつて――大(たい)概(がい)唇(くちびる)は破(やぶ)れて血(ち)が出(で)て、――助(たす)かつた此(こ)の話(はなし)の孫(まご)一(いち)は、餘(あんま)り激(はげ)しく吸(す)つたため、前(まへ)齒(ば)二(ふた)つ反(そ)つて居(ゐ)たとさ。……
　お聞(き)き、島(しま)へ着(つ)くと、元(もと)船(ぶね)を乘(のり)棄(す)てて、魔(まこ)國(く)とこゝを覺(かく)悟(ご)して、死(しに)裝(しや)束(うぞく)に、髮(かみ)を撫(なで)着(つ)け、衣(いる)類(ゐ)を着(き)換(か)へ、羽(はお)織(り)を着(き)て、紐(ひも)を結(むす)んで、てん〴〵が一(ひと)腰(こし)づゝ嗜(たしな)みの脇(わき)差(ざし)をさして上(あ)陸(が)つたけれど、飢(うゑ)渇(かつ)ゑた上(うへ)、毒(どく)に當(あた)つて、足(あし)腰(こし)も立(た)たないものを何(ど)うしませう？……﹂

六