一
若わかいのと、少すこし年としの上うへなると…… 此この二ふた人りの婦をん人なは、民たみ也やのためには宿すぐ世せからの縁えんと見みえる。ふとした時とき、思おもひも懸かけない處ところへ、夢ゆめのやうに姿すがたを露あらはす―― こゝで、夢ゆめのやうに、と云いふものの、實じつ際さいは其それが夢ゆめだつた事こともないではない。けれども、夢ゆめの方はうは、又また……と思おもふだけで、取とり留とめもなく、すぐに陽かげ炎ろふの亂みだるゝ如ごとく、記きお憶くの裡うちから亂みだれて行ゆく。 しかし目まの前あたり、歴あり然〳〵と其その二ふた人りを見みたのは、何い時つに成なつても忘わすれぬ。峰みねを視ながめて、山やまの端はに彳たゝずんだ時ときもあり、岸きしづたひに川かは船ぶねに乘のつて船せん頭どうもなしに流ながれて行ゆくのを見みたり、揃そろつて、すつと拔ぬけて、二ふた人りが床とこの間まの柱はしらから出でて來きた事こともある。 民たみ也やは九こゝのツ……十と歳をばかりの時ときに、はじめて知しつて、三十を越こすまでに、四よた度びか五いつ度たびは確たしかに逢あつた。 これだと、隨ずゐ分ぶん中なか絶だえして、久ひさしいやうではあるけれども、自じぶ分んには、然さまでたまさかのやうには思おもへぬ。人ひとは我わが身から體だの一いち部ぶぶ分んを、何なん年ねんにも見みないで濟すます場ばあ合ひが多おほいから……姿すが見たみに向むかはなければ、顏かほにも逢あはないと同おな一じかも知しれぬ。 で、見みなくつても、逢あはないでも、忘わすれもせねば思おも出ひだすまでもなく、何い時つも身みに着ついて居ゐると同どう樣やうに、二ふた個つ、二ふた人りの姿すがたも亦また、十年ねん見みなからうが、逢あはなからうが、そんなに間あひだを隔へだてたとは考かんがへない。 が、つい近ちかくは、近ちかく、一ひと昔むか前しまへは矢やつ張ぱり前まへ、道だう理りに於おいて年としを隔へだてない筈はずはないから、十とをから三十までとしても、其その間あひだは言いはずとも二十年ねん經たつのに、最さい初しよ逢あつた時ときから幾いく歳とせを經へても、婦をん人な二ふた人りは何い時つも違ちがはぬ、顏かほ容かたちに年としを取とらず、些ちつとも變かはらず、同おな一じである。 水みづになり、空そらになり、面おも影かげは宿やどつても、虹にじのやうに、すつと映うつつて、忽たちまち消きえて行ゆく姿すがたであるから、確しかと取とり留とめた事ことはないが――何い時つでも二ふた人りづ連れの――其その一ひと人りは、年と紀しの頃ころ、どんな場ばあ合ひにも二十四五の上うへへは出でない……一ひと人りは十八九で、此この少わかい方はうは、ふつくりして、引ひき緊しまつた肉にくづきの可いい、中ちう背ぜいで、……年とし上うへの方はうは、すらりとして、細ほそいほど瘠やせて居ゐる。 其その背せいの高たかいのは、極きはめて、品ひんの可よい艷つややかな圓まる髷まげで顯あらはれる。少わかいのは時より々〳〵に髮かみが違ちがふ、銀いて杏ふが返へしの時ときもあつた、高たか島しま田だの時ときもあつた、三みつ輪わと云いふのに結ゆつても居ゐた。 其そのかはり、衣きも服のは年とし上うへの方はうが、紋もん着つきだつたり、お召めしだつたり、時ときにはしどけない伊だて達ま卷きの寢ねま着きす姿がたと變かはるのに、若わかいのは、屹きつと縞しまものに定さだまつて、帶おびをきちんと〆しめて居ゐる。 二ふた人りとも色いろが白しろい。 が、少わかい方はうは、ほんのりして、もう一ひと人りのは沈しづんで見みえる。 其その人ひと柄がら、風とり采なり、※きや妹うだい﹇#﹁女+︵﹁第−竹﹂の﹁コ﹂に代えて﹁ノ﹂︶、﹁姉﹂の正字﹂、U+59CA、648-5﹈ともつかず、主しう從じうでもなし、親したしい中なかの友とも達だちとも見みえず、從い※と妹こ﹇#﹁女+︵﹁第−竹﹂の﹁コ﹂に代えて﹁ノ﹂︶、﹁姉﹂の正字﹂、U+59CA、648-5﹈でもないらしい。 と思おもふばかりで、何な故ぜと云いふ次しだ第いは民たみ也やにも説せつ明めいは出で來きぬと云いふ。――何なにしろ、遁のがれられない間あひだと見みえた。孰どつ方ちか乳う母ばの兒こで、乳ちき※やう妹だい﹇#﹁女+︵﹁第−竹﹂の﹁コ﹂に代えて﹁ノ﹂︶、﹁姉﹂の正字﹂、U+59CA、648-8﹈。其それとも嫂あによめと弟おと嫁よめか、敵かた同きど士うしか、いづれ二ふた重への幻げん影えいである。 時ときに、民たみ也やが、はじめて其その姿すがたを見みたのは、揃そろつて二にか階いからすら〳〵と降おりる所ところ。 で、彼かれが九こゝのツか十とをの年とし、其その日ひは、小せう學がく校かうの友とも達だちと二ふた人りで見みた。 霰あられの降ふつた夜よふ更けの事こと――二
山やま國ぐにの山やまを、町まちへ掛かけて、戸おも外ての夜よるの色いろは、部へ室やの裡うちからよく知しれる。雲くもは暗くらからう……水みづはもの凄すごく白しろからう……空そらの所とこ々ろ〴〵に颯さつと藥やげ研んのやうなひゞが入いつて、霰あられは其その中なかから、銀ぎん河がの珠たまを碎くだくが如ごとく迸ほとばしる。 ハタと止やめば、其その空そらの破われた處ところへ、むら〳〵と又また一ひと重へ冷つめたい雲くもが累かさなりかゝつて、薄うす墨ずみ色いろに縫ぬひ合あはせる、と風かぜさへ、そよとのもの音おとも、蜜みつ蝋らふを以もつて固かたく封ふうじた如ごとく、乾けん坤こん寂じやくと成なる。…… 建たて着つけの惡わるい戸と、障しや子うじ、雨あま戸ども、カタリとも響ひゞかず。鼬いたちが覘のぞくやうな、鼠ねずみが匍はら匐ばつたやうな、切きつて填はめた菱ひしの實みが、ト、べつかつこをして、ぺろりと黒くろい舌したを吐はくやうな、いや、念ねんの入いつた、雜ざつ多たな隙すき間ま、破やれ穴あなが、寒さむさにきり〳〵と齒はを噛かんで、呼い吸きを詰つめて、うむと堪こらへて凍こゞ着えつくが、古ふる家いへの煤すゝにむせると、時とき々〴〵遣やり切きれなく成なつて、潛ひそめた嚔くしやめ、ハツと噴ふき出だしさうで不ぶ氣き味みな眞まよ夜な中か。 板いた戸ど一ひとつが直すぐ町まちの、店みせの八疊でふ、古ふる疊だたみの眞まん中なかに机つくゑを置おいて對さし向むかひに、洋ラン燈プに額ひたひを突つき合あはせた、友とも達だちと二ふた人りで、其その國くにの地ちし誌りや略くと云いふ、學がく校かうの教けう科くわ書しよを讀よんで居ゐた。――其その頃ころ、風ふうをなして行おこなはれた試しけ驗ん間まぎ際はに徹てつ夜やの勉べん強きやう、終しう夜やと稱となへて、氣きの合あつた同どう志しが夜よあかしに演おさ習らひをする、なまけものの節せつ季きし仕ご事とと云いふのである。 一枚まい……二枚まい、と兩りや方うはうで、ペエジを遣やツつ、取とツつして、眠ねむ氣けざましに聲こゑを出だして讀よんで居ゐたが、恁かう夜よが更ふけて、可おそ恐ろしく陰いん氣きに閉とざされると、低ひくい聲こゑさへ、びり〳〵と氷こほりを削けづるやうに唇くちびるへきしんで響ひゞいた。 常つねさんと云いふお友とも達だちが、讀よみ掛かけたのを、フツと留とめて、 ﹁民たみさん。﹂ と呼よぶ、……本ほんを讀よんでたとは、からりと調てう子しが變かはつて、引ひき入いれられさうに滅め入いつて聞きこえた。 ﹁……何なあに、﹂ ト、一ひとつ一ひとつ、自じぶ分んの睫まつげが、紙かみの上うへへばら〳〵と溢こぼれた、本ほんの、片かた假か名なまじりに落おち葉ばする、山やまだの、谷たにだのを其そのまゝの字じを、熟じつと相あひ手てに讀よませて、傍わき目めも觸ふらず視みて居ゐたのが。 呼よばれて目めを上あげると、笠かさは破やぶれて、紙かみを被かぶせた、黄きい色ろに燻くすぶつたほやの上うへへ、眉まゆの優やさしい額ひたひを見みせた、頬ほゝのあたりが、ぽつと白しろく、朧おぼ夜ろよに落おちた目めかづらと云いふ顏かほ色つき。 ﹁寂さびしいねえ。﹂ ﹁あゝ……﹂ ﹁何なん時じだねえ。﹂ ﹁先さつ刻き二時じうつたよ。眠ねむく成なつたの?﹂ 對あひ手ては忽たちまち元げん氣きづいた聲こゑを出だして、 ﹁何なに、眠ねむいもんか……だけどもねえ、今いま時じぶ分んになると寂さびしいねえ。﹂ ﹁其そ處こに皆みんな寢ねて居ゐるもの……﹂ と云いつた――大おほきな戸とだ棚な、と云いつても先せん祖ぞだ代い/々\、刻きざみ着つけて何い時つが代だいにも動うごかした事ことのない、……其その横よこの襖ふすま一ひと重への納なん戸どの内うちには、民たみ也やの父ちゝと祖そ母ぼとが寢ねて居ゐた。 母はゝは世よを早はやうしたのである…… ﹁常つねさんの許とこよりか寂さびしくはない。﹂ ﹁何どうして?﹂ ﹁だつて、君きみの内うちはお邸やしきだから、廣ひろい座ざし敷きを二ふたつも三みツつも通とほらないと、母おつかさんや何なにか寢ねて居ゐる部へ屋やへ行ゆけないんだもの。此この間あひだ、君きみの許とこで、徹てつ夜やをした時ときは、僕ぼくは、そりや、寂さびしかつた……﹂ ﹁でもね、僕ぼくン許とこは二にか階いがないから……﹂ ﹁二にか階いが寂さびしい?﹂ と民たみ也やは眞まつ黒くろな天てん井じやうを。…… 常つねさんの目めも、齊ひとしく仰あふいで、冷つめたく光ひかつた。三
﹁寂さびしいつて、別べつに何なんでもないぢやないの。﹂ と云いつたものの、兩りや方うはうで、机つくゑをずつて、ごそ〳〵と火ひば鉢ちに噛かじ着りついて、ひつたりと寄より合あはす。 炭すみは黒くろいが、今いましがた繼ついだばかりで、尉じようにも成ならず、火くわ氣きの立たちぎは。其それよりも、徹てつ夜やの温おさ習らひに、何なによりか書かき入いれな夜やは半んの茶ちや漬づけで忘わすれられぬ、大だい福ふくめいた餡あん餅もをつたなごりの、餅もち網あみが、侘わびしく破やれ蓮ばすの形かたちで疊たゝみに飛とんだ。……御ごち馳そ走うは十二時じと云いふと早はや濟すんで、――一ひとつは二ふた人りとも其それがために勇ゆう氣きがないので。…… 常つねさんは耳みゝの白しろい頬ほゝを傾かたむけて、民たみ也やの顏かほを覘のぞくやうにしながら、 ﹁でも、誰だれも居ゐないんだもの……君きみの許とこの二にか階いは、廣ひろいのに、がらんとして居ゐる。……﹂ ﹁病びや氣うきの時ときはね、お母つかさんが寢ねて居ゐたんだよ。﹂ コツ〳〵、炭すみを火ひば箸しで突つゝいて見みたつけ、はつと止やめて、目めを一ひとつ瞬またゝいて、 ﹁え、そして、亡なくなつた時とき、矢やつ張ぱり、二にか階い。﹂ ﹁うゝむ……違ちがふ。﹂ とかぶりを掉ふつて、 ﹁其そ處このね、奧おく……﹂ ﹁小を父ぢさんだの、寢ねて居ゐる許とこかい。……ぢや可いいや。﹂と莞につ爾こりした。 ﹁弱よわ蟲むしだなあ……﹂ ﹁でも、小を母ばさんは病びや氣うきの時とき寢ねて居ゐたかつて、今いまは誰だれも居ゐないんぢやないか。﹂ と觀くわ世んぜ捩よりが挫ひしやげた體ていに、元げん氣きなく話はなしは戻もどる…… ﹁常つねさんの許とこだつて、あの、廣ひろい座ざし敷きが、風かぜはすう〳〵通とほつて、それで人ひとつ子こは居ゐませんよ。﹂ ﹁それでも階し下たばかりだもの。――二にか階いは天てん井じやうの上うへだらう、空そらに近ちかいんだからね、高たかい所ところには何なにが居ゐるか知しれません。……﹂ ﹁階し下ただつて……君きみの内うちでも、此この間あひだ、僕ぼくが、あの空あき間まを通とほつた時とき、吃びつ驚くりしたものがあつたぢやないか。﹂ ﹁どんなものさ、﹂ ﹁床とこの間まに鎧よろひが飾かざつてあつて、便べん所じよへ行ゆく時ときに晃ぴか々〳〵光ひかつた……わツて、然さう云いつたのを覺おぼえて居ゐないかい。﹂ ﹁臆おく病びやうだね、……鎧よろひは君きみ、可おそ恐ろしいものが出でたつて、あれを着きて向むかつて行ゆけるんだぜ、向むかつて、﹂ と氣き勢ほつて肩かたを突つき構かまへ。 ﹁こんな、寂さびしい時ときの、可こ恐はいものにはね、鎧よろひなんか着きたつて叶かなはないや……向むかつて行ゆきや、消きえつ了ちまふんだもの……此これから冬ふゆの中なか頃ごろに成なると、軒のきの下したへ近ちかく來くるつてさ、あの雪ゆき女ぢよ郎らう見みたいなもんだから、﹂ ﹁然さうかなあ、……雪ゆき女ぢよ郎らうつて眞ほん個とにあるんだつてね。﹂ ﹁勿もち論ろんだつさ。﹂ ﹁雨あめのびしよ〳〵降ふる時ときには、油あぶ舐らな坊めば主うずだの、とうふ買かひ小こぞ僧うだのつて……あるだらう。﹂ ﹁ある……﹂ ﹁可い厭やだなあ。こんな、霰あられの降ふる晩ばんには何なんにも別べつにないだらうか。﹂ ﹁町まちの中なかには何なんにもないとさ。それでも、人ひとの行ゆかない山やま寺でらだの、峰みねの堂だうだのの、額がくの繪ゑがね、霰あられがぱら〳〵と降ふる時とき、ぱちくり瞬まばたきをするんだつて……﹂ ﹁嘘うそを吐つく……﹂ と其それでも常つねさんは瞬またゝきした。からりと廂ひさしを鳴ならしたのは、樋とひ竹だけを辷すべる、落おちたまりの霰あられらしい。 ﹁うそなもんか、其それは眞まつ暗くらな時とき……丁ちやうど今こん夜や見みたやうな時ときなんだね。それから……雲くもの底そこにお月つき樣さまが眞まつ蒼さをに出でて居ゐて、そして、降ふる事ことがあるだらう……さう云いふ時ときは、八はつ田たが潟たの鮒ふなが皆みな首くびを出だして打うたれるつて云いふんです。﹂ ﹁痛いたからうなあ。﹂ ﹁其そ處こが化ばけるんだから、……皆みんな、兜かぶとを着きて居ゐるさうだよ。﹂ ﹁ぢや、僕ぼくン許とこの蓮はす池いけの緋ひご鯉ひなんか何どうするだらうね?﹂ 其そ處こには小こぶ船ねも浮うかべられる。が、穴あなのやうな眞まつ暗くらな場ばす末ゑの裏うら町まちを拔ぬけて、大おほ川かはに架かけた、近ちか道みちの、ぐら〳〵と搖ゆれる一いち錢もん橋ばしと云いふのを渡わたつて、土どべ塀いばかりで家うちの疎まばらな、畠はたけも池いけも所とこ々ろ〴〵、侍さむ町らひまちを幾いく曲まがり、で、突つき當あたりの松まつの樹きの中なかの其その邸やしきに行ゆく、……常つねさんの家うちを思おもふにも、恰あたかも此この時とき、二にか更うの鐘かねの音おと、幽かすか。四
町まちなかの此こ處ゝも同おなじ、一いつ軒けん家やの思おもひがある。 民たみ也やは心こゝろも其その池いけへ、目めも遙はる々〴〵と成なつて恍うつ惚とりしながら、 ﹁蒼あをい鎧よろひを着きるだらうと思おもふ。﹂ ﹁眞まつ赤かな鰭ひれへ。凄すごい月つきで、紫むら色さきいろに透すき通とほらうね。﹂ ﹁其そ處こへ玉たまのやうな霰あられが飛とぶんだ……﹂ ﹁そして、八はつ田たが潟たの鮒ふなと戰いくさをしたら、何どつ方ちが勝かつ?……﹂ ﹁然さうだね、﹂ と眞まが顏ほに引ひき込こまれて、 ﹁緋ひご鯉ひは立りつ派ぱだから大たい將しやうだらうが、鮒ふなは雜ざふ兵ひやうでも數かずが多おほいよ……潟かた一いつ杯ぱいなんだもの。﹂ ﹁蛙かはづは何どつ方ちの味みか方たをする。﹂ ﹁君きみの池いけの?﹂ ﹁あゝ、﹂ ﹁そりや同おなじ所ところに住すんでるから、緋ひご鯉ひに屬つくが當あた前りまへだけれどもね、君きみが、よくお飯まん粒まつぶで、絲いとで釣つり上あげちや投なげるだらう。ブツと咽の喉どを膨ふくらまして、ぐるりと目めを圓まるくして腹はらを立たつもの……鮒ふなの味みか方たに成ならうも知しれない。﹂ ﹁あ、又また降ふるよ……﹂ 凄すさまじい霰あられの音おと、八はつ方ぱうから亂みだ打れうつや、大おほ屋や根ねの石いしもから〳〵と轉ころげさうで、雲くもの渦うづまく影かげが入はひつて、洋ラン燈プの笠かさが暗くらく成なつた。 ﹁按あん摩まの笛ふえが聞きこえなくなつてから、三さん度ど目めだねえ。﹂ ﹁矢やが飛とぶ。﹂ ﹁彈たまが走はしるんだね。﹂ ﹁緋ひご鯉ひと鮒ふなとが戰たゝかふんだよ。﹂ ﹁紫むらさきの池いけと、黒くろい潟かたで……﹂ ﹁蔀しとみを一ちよ寸つと開あけて見みようか、﹂ と魅みせられた體ていで、ト立たたうとした。 民たみ也やは急きふに慌あわたゞしく、 ﹁お止よし?……﹂ ﹁でも、何なんだか暗くらい中なかで、ひら〳〵眞まつ黒くろなのに交まじつて、緋ひだか、紫むらさきだか、飛とんで居ゐさうで、面おも白しろいもの、﹂ ﹁面おも白しろくはないよ……可こ恐はいよ。﹂ ﹁何な故ぜ?﹂ ﹁だつて、緋ひだの、紫むらさきだの、暗くらい中うちに、霰あられに交まじつて――それだと電いなびかりがして居ゐるやうだもの……其その蔀しとみをこんな時ときに開あけると、そりや可こ恐はいぜ。 さあ……此これから海うみが荒あれるぞ、と云いふ前まへ觸ぶれに、廂ひさしよりか背せの高たかい、大おほきな海うみ坊ばう主ずが、海うみから出でて來きて、町まちの中なかを歩あ行るいて居ゐてね……人ひとが覘のぞくと、蛇へびのやうに腰こしを曲まげて、其その窓まどから睨にら返みかへして、よくも見みたな、よくも見みたな、と云いふさうだから。﹂ ﹁嘘うそだ!嘘うそばつかり。﹂ ﹁眞ほん個とだよ、霰あられだつて、半はん分ぶんは、其その海うみ坊ばう主ずが蹴け上あげて來くる、波なみの※しぶき﹇#﹁さんずい+散﹂、U+6F75、657-13﹈が交まじつてるんだとさ。﹂ ﹁へえ?﹂ と常つねさんは未まだ腑ふに落おちないか、立たち掛かけた膝ひざを落おとさなかつた…… 霰あられは屋や根ねを駈かける。 民たみ也やは心こゝろに恐きよ怖うふのある時とき、其その蔀しとみを開あけさしたくなかつた。 母はゝがまだ存ぞん生じやうの時ときだつた。……一ある夏なつ、日ひの暮くれ方がたから凄すさまじい雷らい雨うがあつた……電いな光びかり絶たえ間まなく、雨あめは車しや軸ぢくを流ながして、荒あら金がねの地つちの車くるまは、轟とゞろきながら奈なら落くの底そこに沈しづむと思おもふ。――雨あめ宿やどりに駈かけ込こんだ知しり合あひの男をとこが一ひと人りと、内うち中ぢう、此この店みせに居ゐすくまつた。十時じを過すぎた頃ころ、一ひと呼い吸き吐つかせて、もの音おとは靜しづまつたが、裾すそを捲まいて、雷はた神ゝがみを乘のせながら、赤あか黒ぐろに黄きを交まじへた雲くもが虚そ空らへ、舞まひ〳〵上あがつて、昇のぼる氣けは勢ひに、雨あめが、さあと小を止やみに成なる。 其その喜よろこびを告まをさむため、神かみ棚だなに燈みあ火かしを點てんじようとして立たつた父ちゝが、其そのまゝ色いろをかへて立たち窘すくんだ。 ひい、と泣ないて雲くもに透とほる、……あはれに、悲かなしげな、何なんとも異いや樣うな聲こゑが、人ひと々〴〵の耳みゝをも胸むねをも突つき貫つらぬいて響ひゞいたのである。五
笛ふえを吹ふく……と皆みな思おもつた。笛ふえもある限かぎり悲ひあ哀いを籠こめて、呼い吸きの續つゞくだけ長ながく、且かつ細ほそく叫さけぶらしい。 雷らい鳴めいに、殆ほとんど聾しひなむとした人ひと々〴〵の耳みゝに、驚す破はや、天てん地ち一ひとつの聲こゑ。 誰たれも其その聲こゑの長ながさだけ、氣きを閉とぢて呼い吸きを詰つめたが、引ひく呼い吸きは其その聲こゑの一いち度ど止やむまでは續つゞかなかつた。 皆みな戰をのゝいた。 ヒイと尾をを微かすかに、其その聲こゑが切きれた、と思おもふと、雨あめがひたりと止やんで、又また二に度どめの聲こゑが聞きこえた。 ﹁鳥とりか。﹂ ﹁否いゝや。﹂ ﹁何なんだらうの。﹂ 祖そ母ぼと、父ちゝと、其その客きやくと言ことばを交かはしたが、其その言こと葉ばも、晃きら々〳〵と、震ふるへて動うごいて、目めを遮さへぎる電いな光びかりは隙すき間まを射いた。 ﹁近ちかい。﹂ ﹁直ぢき其そ處こだ。﹂ と云いふ。叫さけぶ聲こゑは、確たしかに筋すぢ向むかひの二にか階い家やの、軒のき下したのあたりと覺おぼえた。 其それが三みこ聲ゑめに成なると、泣なくやうな、怨うらむやうな、呻う吟めくやうな、苦くるしみくかと思おもふ意い味みが明あきらかに籠こもつて來きて、新あたらしく又また耳みゝを劈つんざく…… ﹁見みよう、﹂ 年とし少わかくて屈くつ竟きやうな其その客きやくは、身みぶ震るひして、すつくと立たつて、内うち中ぢうで止とめるのも肯きかないで、タン、ド、ドン!と其その、其そ處この蔀しとみを開あけた。―― ﹁何なに、﹂ と此こ處ゝまで話はなした時とき、常つねさんは堅かたくなつて火ひば鉢ちを掴つかんだ。 ﹁其その時ときの事ことを思おも出ひだすもの、外ほかに何なにが居ゐようも知しれない時とき、其その蔀しとみを開あけるのは。﹂ と民たみ也やは言いふ。 却さ説て、大たい雷らいの後あとの希け有うなる悲ひめ鳴いを聞きいた夜よる、客きやくが蔀しとみを開あけようとした時ときの人ひと々〴〵の顏かほは……年とし月つきを長ながく經へても眼まの前あたり見みるやうな、いづれも石いしを以もつて刻きざみなした如ごときものであつた。 蔀しとみを上あげると、格かう子し戸どを上うへへ切きつた……其それも鳴なるか、簫せうの笛ふえの如ごとき形かたちした窓まどのやうな隙すき間まがあつて、衝つと電いな光びかりに照てらされる。 と思おもふと、引ひき緊しめるやうな、柔やはらかな母はゝの兩りやうの手てが強つよく民たみ也やの背せに掛かゝつた。既すでに膝ひざに乘のつて、噛かじり着ついて居ゐた小こど兒もは、其それなり、薄うす青あをい襟えりを分わけて、眞まつ白しろな胸むねの中なかへ、頬ほゝも口くちも揉もみ込こむと、恍うつ惚とりと成なつて、最もう一いち度ど、ひよいと母はゝ親おやの腹はらの内うちへ安あん置ちされ終をはんぬで、トもんどりを打うつて手てあ足しを一ひとつに縮ちゞめた處ところは、瀧たきを分わけて、すとんと別べつの國くにへ出でた趣おもむきがある、……そして、透すき通とほる胸むねの、暖あたゝかな、鮮から血くれなゐの美うつくしさ。眞しん紅くの花はなの咲さき滿みちた、雲くもの白しろい花はな園ぞのに、朗ほがらかな月つきの映うつるよ、と其その浴ゆか衣たの色いろを見みたのであつた。 が、其その時ときまでの可おそ恐ろしさ。―― ﹁常つねさん、今いま君きみが蔀しとみを開あけて、何なにかが覗のぞいたつて、僕ぼくは潛もぐ込りこむ懷ふと中ころがないんだもの……﹂ 簫せうの窓まどから覗のぞいた客きやくは、何なにも見みえなかつた、と云いひながら、眞まつ蒼さをに成なつて居ゐた。 其その夜よから、筋すぢ向むかうの其その土どざ藏うつ附きの二にか階い家やに、一ひと人り氣きが違ちがつた婦をんながあつたのである。 寂ひつ寞そりと霰あられが止やむ。 民たみ也やは、ふと我われに返かへつたやうに成なつて、 ﹁去きよ年ねん、母おつかさんがなくなつたからね……﹂ 火ひを桶けの面おもてを背そむけると、机つくゑに降ふり込こんだ霰あられがあつた。 ぢゆうと火ひの中なかにも溶とけた音おと。 ﹁勉べん強きやうしようね、僕ぼくは父おとつさんがないんだよ。さあ、﹂ 鮒ふなが兜かぶとを着きると云いふ。…… ﹁八はつ田たが潟たの處ところを讀よまう。﹂ と常つねさんは机つくゑの向むかうに居ゐな直ほつた。 洋ラン燈プが、じい〳〵と鳴なる。 其その時ときであつた。六
二にか階いの階はし子ごだ壇んの一いつ番ち上うへの一いち壇だん目め……と思おもふ處ところへ、欄らん間まの柱はしらを眞まつ黒くろに、くツきりと空そらにして、袖そでを欄てす干り摺ずれに……其その時ときは、濃こいお納なん戸どと、薄うすい茶ちやと、左さい右うに兩りや方うはう、褄つま前さきを揃そろへて裾すそを踏ふみくゞむやうにして、圓ま髷げと島しま田だの對つゐ丈たけに、面おも影かげ白しろく、ふツと立たつた、兩ふた個りの見みも知しらぬ婦をん人ながある。 ト其その色いろも……薄うすいながら、判はつ然きりと煤すゝの中なかに、塵ちりを拂はらつてくつきりと鮮あざ麗やかな姿すがたが、二ふた人りが机つくゑに向むかつた横よこ手て、疊たゝ數みかず二疊でふばかり隔へだてた處ところに、寒さむき夜よなれば、ぴつたり閉しめた襖ふすま一枚まい……臺だい所どころへ續つゞくだゞつ廣ぴろい板いた敷じきとの隔へだてに成なる……出では入ひり口ぐちの扉ひらきがあつて、むしや〳〵と巖いはの根ねに蘭らんを描ゑがいたが、年ねん數すう算さんするに堪たへず、で深みや山まの色いろに燻くすぼつた、引ひき手ての傍わきに、嬰あか兒んぼの掌てのひらの形かたちして、ふちのめくれた穴あなが開あいた――其その穴あなから、件くだんの板いた敷じきを、向むかうの反ほご古ば張りの古ふる壁かべへ突つき當あたつて、ぎりゝと曲まがつて、直ちよ角くかくに菎こん蒻にや色くいろの干ひか乾らびた階はし子ごだ壇ん……十とをばかり、遙はるかに穴あなの如ごとくに高たかい其その眞まう上へ。 即すなはち襖ふすまの破やれ目めを透とほして、一ひとつ突つき當あたつて、折をり屈まがつた上うへに、たとへば月つきの影かげに、一ひと刷はけ彩いろどつた如ごとく見みえたのである。 トンと云いふ。 と思おもふと、トン〳〵トンと輕かるい柔やはらかな音おとに連つれて、褄つまが搖ゆれ〳〵、揃そろつた裳もすそが、柳やなぎの二ふた枝えだ靡なびくやう……すら〳〵と段だんを下おりた。 肩かたを揃そろへて、雛ひなの繪ゑに見みる……袖そでを左さい右うから重かさねた中なかに、どちらの手てだらう、手てし燭よくか、臺だいか、裸はだ火かびの蝋らふ燭そくを捧さゝげて居ゐた。 蝋らふの火ひは白しろく燃もえた。 胸むねのあたりに蒼あを味みが射さす。 頬ほゝのかゝり白しろ々〴〵と、中なかにも、圓まる髷まげに結ゆつた其その細ほそ面おもての氣けだ高かく品ひんの可いい女によ性しやうの、縺もつれた鬢びんの露つゆばかり、面おも窶やつれした横よこ顏がほを、瞬またゝきもしない雙さうの瞳ひとみに宿やどした途とた端んに、スーと下おりて、板いたの間まで、もの優やさしく肩かたが動うごくと、其その蝋らふの火ひが、件くだんの繪ゑぶ襖すまの穴あなを覘のぞく……其その火ひが、洋ラン燈プの心しんの中なかへ、※ぱつ﹇#﹁火+發﹂、U+243CB、663-14﹈と入はひつて、一ひとつに成なつたやうだつた。 やあ!開あけると思おもふ。 ﹁きやツ、﹂ と叫さけんで、友とも達だちが、前さきへ、背うし後ろの納なん戸どへ刎はね込こんだ。 口くちも利きけず……民たみ也やも其その身から體だへ重かさなり合あつて、父ちゝの寢ねた枕まく頭らもとへ突つゝ伏ぷした。 こゝの障しや子うじは、幼をさないものの夜よふ更かしを守まもつて、寒さむいに一枚まい開あけたまゝ、霰あられの中なかにも、父ちゝと祖そ母ぼの情なさけの夢ゆめは、紙かみ一ひと重への遮さへぎるさへなく、机つくゑのあたりに通かよつたのであつた。 父ちゝは夢ゆめだ、と云いつて笑わらつた、……祖そ母ぼもともに起おきて出いで、火ひば鉢ちの上うへには、再ふたゝび芳かんばしい香かをりが滿みつる、餅もち網あみがかゝつたのである。 茶ちやのえた時とき、眞まよ夜な中かに又また霰あられが來きた。 後あとで、常つねさんと語かた合りあふと……二ふた人りの見みたのは、しかも其それが、錦にし繪きゑを板はんに合あはせたやうに同おな一じかつたのである。 此これが、民たみ也やの、ともすれば、フト出で逢あふ、二ふた人りの姿すがたの最はじ初めであつた。 常つねさんの、三みつ日かばかり學がく校かうを休やすんだのは然さる事ことながら、民たみ也やは、それが夢ゆめでなくとも、然さまで可おそ恐ろしいとも可あや怪しいとも思おもはぬ。 敢あへて思おもはぬ、と云いふではないが、恁かうしたあやしみには、其その時じぶ分ん馴なれて居ゐた。 毎まい夜よの如ごとく、内うち井ゐ戸どの釣つる瓶べの、人ひと手でを借からず鳴なつたのも聞きく…… 轆ろく轤ろが軋きしんで、ギイと云いふと、キリ〳〵と二ふたつばかり井ゐど戸な繩はの擦すれ合あふ音おとして、少しば須らくして、トンと幽かすかに水みづに響ひゞく。 極きまつたやうに、其そのあとを、ちよき〳〵と細こまかに俎まないたを刻きざむ音おと。時しぐ雨れの頃ころから尚なほ冴さえて、ひとり寢ねの燈とも火しびを消けした枕まくらに通かよふ。七
續つゞいて、臺だい所どころを、こと〳〵と云いふ跫あし音おとがして、板いたの間まへ掛かゝる。――此この板いたの間まへ、其その時ときの二ふた人りの姿すがたは來きたのであるが――又また……實じつ際さいより、寢ねて居ゐて思おもふ板いたの間まの廣ひろい事こと。
民たみ也やは心こゝろに、此これを板いたの間まヶ原はらだ、と稱となへた。
傳つたへ言いふ……孫まご右ゑ衞も門んと名なづけた氣きの可いい小を父ぢさんが、獨どく酌しやくの醉よひ醒ざめに、我わがねたを首くびあげて見みる寒さむさかな、と來らい山ざん張ばりの屏びや風うぶ越ごしに、魂たま消げた首くびを出だして覘のぞいたと聞きく。
臺だい所どころの豪がう傑けつ儕ばら、座ざし敷きが方たの僭せん上じやう、榮えい耀えう榮えい華ぐわに憤いきどほりを發はつし、しや討うて、緋ひぢ縮りめ緬んこ小づ褄まの前まへを奪ばひ取とれとて、竈かま將どし軍やうぐんが押おつ取とつた柄ひし杓やくの采さい配はい、火ひふ吹きだ竹けの貝かひを吹ふいて、鍋なべ釜かまの鎧よろ武ひむ者しやが、のん〳〵のん〳〵と押おし出だしたとある……板いたの間まヶ原はらや、古こせ戰んぢ場やう。
襖ふす一まひ重とへは一いつ騎きう打ちで、座ざし敷きが方たでは切せつ所しよを防ふせいだ、其そ處この一いち段だん低ひくいのも面おも白しろい。
ト其その氣きで、頬ほゝ杖づゑをつく民たみ也やに取とつては、寢ねど床こから見みる其その板いたの間まは、遙はる々〴〵としたものであつた。
跫あし音おとは其そ處こを通とほつて、一ちよ寸つと止やんで、やがて、トン〳〵と壇だんを上あがる、と高たかい空そらで、すらりと響ひゞく襖ふすまの開あく音おと。
﹁あゝ、二にか階いのお婆ばあさんだ。﹂
と、熟じつと耳みゝを澄すますと、少しば時らくして、
﹁えゝん。﹂
と云いふ咳せきばらひ。
﹁今こん度どは二にか階いのお爺ぢいさん。﹂
此この二ふた人りは、母はゝの父ふ母ぼで、同ひと家ついへに二にか階いず住ま居ひで、睦むつまじく暮くらしたが、民たみ也やのもの心ごころを覺おぼえて後のち、母はゝに先さきだつて、前ぜん後ごして亡なくなられた……
其その人ひとたちを、こゝにあるもののやうに、あらぬ跫あし音おとを考かんがへて、咳しはぶきを聞きく耳みゝには、人ひと氣けは勢ひのない二にか階いから、手てし燭よくして、する〳〵と壇だんを下おりた二ふた人りの姿すがたを、然さまで可おそ恐ろしいとは思おもはなかつた。
却かへつて、日ひを經ふるに從したがつて、物もの語がたりを聞ききさした如ごとく、床ゆかしく、可なつ懷かしく、身みに染しみるやうに成なつたのである。……
霰あられが降ふれば思おもひが凝こる。……
然さうした折をりよ、もう時しぐ雨れの頃ころから、其その一二年ねんは約やく束そくのやうに、井ゐ戸どの響ひゞき、板いたの間まの跫あし音おと、人ひとなき二にか階いの襖ふすまの開あくのを聞きゝ馴なれたが、婦をんなの姿すがたは、當たう時じ又また多しば日らくの間あひだ見みえなかつた。
白しら菊ぎくの咲さく頃ころ、大おほ屋や根ねへ出でて、棟むね瓦がはらをひらりと跨またいで、高たかく、高たかく、雲くもの白しろきが、微かすかに動うごいて、瑠るり璃い色ろに澄すみ渡わたつた空そらを仰あふぐ時ときは、あの、夕ゆふ立だちの夜よを思おも出ひだす……そして、美うつくしく清きよらかな母はゝの懷ふところにある幼をさ兒なごの身みにあこがれた。
此この屋や根ねと相あひ向むかつて、眞まつ蒼さをな流ながれを隔へだてた薄うす紫むらさきの山やまがある。
醫いわ王うぜ山ん。
頂いたゞきを虚こく空うに連つらねて、雪ゆきの白しろ銀がねの光ひかりを放はなつて、遮さへぎる樹こだ立ちの影かげもないのは、名なにし負おふ白はく山さんである。
やゝ低ひくく、山やまの腰こしに其その流ながれを繞めぐらして、萌もえ黄ぎまじりの朱しゆの袖そでを、俤おもかげの如ごとく宿やどしたのは、つい、まのあたり近ちかい峰みね、向むか山ひやまと人ひとは呼よぶ。
其その裾すそを長ながく曳ひいた蔭かげに、圓まるい姿すが見たみの如ごとく、八はつ田たが潟たの波なみ、一ひと所ところの水みづが澄すむ。
島しまかと思おもふ白しら帆ほに離はなれて、山やまの端はの岬みさきの形かたち、につと出でた端はしに、鶴つるの背せに、緑みどりの被かつ衣ぎさせた風ふぜ情いの松まつがある。
遙はるかに望のぞんでも、其その枝えだの下したは、一ひと筵むしろ、掃はき清きよめたか、と塵ちりも留とゞめぬ。
あゝ山やまの中なかに葬はうむつた、母はゝのおくつきは彼かし處こに近ちかい。
其その松まつの蔭かげに、其その後のち、時とき々〴〵二ふた人りして佇たゝずむやうに、民たみ也やは思おもつた、が、母はゝには然さうした女をんなのつれはなかつたのである。
月つきの冴さゆる夜よは、峰みねに向むかつた二にか階いの縁えんの四よま枚いの障しや子うじに、それか、あらぬか、松まつ影かげ射さしぬ……戸とぶ袋くろかけて床とこの間まへ。……
また前まへに言いつた、もの凄すごい暗くらい夜よるも、年とし經へて、なつかしい人ひとを思おもへば、降ふり積つもる霰あられも、白しら菊ぎく。