一
﹁あゝもし、一ちよ寸つと。﹂ ﹁は、私わたし……でございますか。﹂ 電でん車しやを赤せき十じふ字じび病やう院ゐん下したで下おりて、向むかうへ大おほ溝どぶについて、岬みさきなりに路みちを畝うねつて、あれから病びや院うゐんへ行ゆくのに坂さかがある。あの坂さかの上あがり口ぐちの所ところで、上うへから來きた男をとこが、上あがつて行ゆく中ちう年どし増まの媚なまめかしいのと行ゆき違ちがつて、上うへと下したへ五六歩ぽ離はなれた所ところで、男をとこが聲こゑを掛かけると、其その媚なまめかしいのは直すぐに聞きゝ取とつて、嬌しな娜やかに振ふり返かへつた。 兩りや方うはうの間あひだには、袖そでを結むすんで絡まとひつくやうに、ほんのりと得えならぬ薫かをりが漾たゞよふ。……婦をんなは、薄うす色いろ縮ちり緬めんの紋もん着つきの單ひと羽へば織おりを、細ほつそり、痩やせぎすな撫なで肩がたにすらりと着きた、肱ひぢに掛かけて、濃こい桔きき梗やう色いろの風ふろ呂しき敷づつ包みを一ひとツ持もつた。其その四よつツの端はしを柔やはらかに結むすんだ中なかから、大おほ輪りんの杜かき若つばたの花はなの覗のぞくも風ふぜ情いで、緋ひぼ牡た丹んも、白しら百ゆ合りも、透すきつる色いろを競きそうて映うつる。……盛もり花ばなの籠かごらしい。いづれ病びや院うゐん﹇#ルビの﹁びやうゐん﹂は底本では﹁びやうろん﹂﹈へ見みま舞ひの品しなであらう。路みちをしたうて來きた蝶てふは居ゐないが、誘さそふ袂たもとに色いろ香かが時ときめく。…… 輕かるい裾すその、すら〳〵と蹴けだ出しにかへると同おなじ色いろの洋かう傘もりを、日ひな中か、此この日ひの當あたるのに、翳かざしはしないで、片かた影かげを土ど手てに從ついて、しと〳〵と手てに取とつたは、見みるさへ帶おび腰ごしも弱よわ々〳〵しいので、坂さか道みちに得え堪たへぬらしい、なよ〳〵とした風ふぜ情いである。 ﹁貴あな女た、﹂ と呼よんで、ト引ひき返かへした、鳥とり打うちを被かぶつた男をとこは、高たか足あし駄だで、杖ステツキを支ついた妙めうな誂あつらへ。路みちは恁かう乾かわいたのに、其その爪つま皮かはの泥どろでも知しれる、雨あめあがりの朝あさ早はやく泥ぬか濘るみの中なかを出でて來きたらしい。……雲くもの暑あついのにカラ〳〵歩あ行るきで、些ちと汗あせばんだ顏かほで居ゐる。 ﹁唐だし突ぬけにお呼よび申まをして失しつ禮れいですが、﹂ ﹁はい。﹂ と一いち文もん字じの眉まゆはきりゝとしながら、清すゞしい目めで優やさしく見み越こす。 ﹁此これから何どち方らへ行いらつしやる?……何なに、病びや院うゐんへお見みま舞ひのやうにお見み受うけ申まをします。……失しつ禮れいですが、﹂ ﹁えゝ、然さうなんでございます。﹂ 此こ處ゝで瞻みまもつたのを、輕かるく見みむ迎かへて、一ひとツ莞につ爾こりして、 ﹁否いゝえ、お知ちか己づきでも、お見みし知りご越しのものでもありません。眞まつ個たく唯たゞ今いま行ゆき違ちがひましたばかり……ですから失しつ禮れいなんですけれども。﹂ と云いつて、づツと寄よつた。 ﹁別べつに何なんでもありませんが、一ちよ寸つと御ごち注う意いまでに申まをさうと思おもつて、今いまね、貴あな女たが行いらつしやらうと云いふ病びや院うゐんの途とち中うですがね。﹂ ﹁はあ、……﹂と、聞きくのに氣きの入はひつた婦をんなの顏かほは、途とち中うが不ふ意いに川かはに成なつたかと思おもふ、涼すゞしけれども五ごぐ月わつ半なかばの太ひ陽の下したに、偶ふと寂さびしい影かげが映さした。 男をとこは、自じぶ分んの口くちから言いひ出だした事ことで、思おもひも掛かけぬ心しん配ぱいをさせるのを氣きの毒どくさうに、半なかば打うち消けす口くち吻ぶりで、 ﹁……餘あまり唐だし突ぬけで、變へんにお思おもひでせう。何なにも御ごし心んぱ配いな事ことぢやありません。﹂ ﹁何なんでございます、まあ、﹂と立たち停どまつて居ゐたのが、二ふたツばかり薄うす彩さい色しきの裾すそ捌さばきで、手てにした籠かごの花はなの影かげが、袖そでから白しろい膚はだへ颯さつと透すき通とほるかと見みえて、小こも戻どりして、ト斜なゝめに向むき合あふ。 ﹁をかしな奴やつが一ひと人り、此こち方らが側はの土どべ塀いの前まへに、砂じや利りの上うへに踞しやがみましてね、通とほるものを待まち構かまへて居ゐるんです。﹂ ﹁えゝ、をかしな奴やつが、――待まち構かまへて――あの婦をんなをですか。﹂ ﹁否いゝえ、御ごふ婦じ人んに限かぎつた事ことはありますまいとも。……現げんに私わたくしが迷めい惑わくをしたんですから……誰だれだつて見みさ境かひはないんでせう。其そい奴つが砂じや利りを掴つかんで滅めち茶や々/々\擲ぶツ附つけるんです。﹂ ﹁可い厭やですねえ。﹂ と口くちを結むすんで前ゆく途てを見み遣やつた、眉まゆが顰ひそんで、婦をんなは洋かう傘もりを持もち直なほす。 ﹁胸むねだの、腕うでだの、二ふたツ三みツは、危あぶなく頬ほつ邊ぺたを、﹂ と手てを當あてたが、近ちか々〴〵と見みあ合はせた、麗うらゝかな瞳ひとみの楯たてにも成なれとか。二
﹁私わたしは見みま舞ひに行いつた歸かへ途りです。﹂ と男をとこは口くち早ばやに言いひ續つゞけて、 ﹁往ゆきには、何なんにも、そんな奴やつは居ゐなかつたんです。尤もつとも大おほ勢ぜい人ひと通ゞほりがありましたから氣きが附つかなかつたかも知しれません。還かへりは最もう病びや院うゐんの彼あつ方ちかどを、此こつ方ちへ曲まがると、其そい奴つの姿すがたがぽつねんとして一ひとツ。其それが、此この上うへの、ずんどに、だゞつ廣ぴろい昔むかしの大おほ手てま前へと云いつた通とほりへ、赫くわツと日ひが當あたつて、恁かうやつて蔭かげもない。﹂ と雲くもを仰あふぐと、鳥とりを見みるやうに婦をんなも見み上あげた。 ﹁泥ぬか濘るみを捏こね返かへしたのが、其そのまゝ乾からび着ついて、火ひの海うみの荒あら磯いそと云いつた處ところに、硫ゆわ黄うに腰こしを掛かけて、暑あつ苦くるしい黒くろい形かたちで踞しやがんで居ゐるんですが。 何なに心ごころなく、眩まばゆがつて、すツとぼ〳〵、御ごら覽んの通とほり高たか足あし駄だで歩あ行るいて來くると、ばらり〳〵、カチリてツちや砂じや利りを投なげてるのが、離はなれた所ところからも分わかりましたよ。 中ちう途とで落おちるのは、屆とゞかないので。其その砂じや利りが、病びや院うゐんの裏うら門もんの、あの日ひな中かも陰いん氣きな、枯かれ野のへ日ひが沈しづむと云いつた、寂さびしい赤あかい土どべ塀いへ、トン……と……間あひを措おいては、トーンと當あたるんです。 何なんですかね、島しま流ながしにでも逢あつて、心こゝろの遣やり場ばのなさに、砂じや利りを掴つかんで海うみへ投なげ込こんででも居ゐるやうな、心こゝ細ろぼそい、可あは哀れな風ふうに見みえて、其それが病びや院うゐんの土どべ塀いを狙ねらつてるんですから、あゝ、氣きの毒どくだ。…… 年と紀しは少わかし……許いひ嫁なづけか、何なにか、身みに替かへて思おもふ人ひとでも、入にふ院ゐんして居ゐて、療れう治ぢが屆とゞかなかつた所ところから、無む理りとは知しつても、世せけ間んには愚ぐ癡ちから起おこる、人ひと怨うらみ。よくある習ならひで――醫いし師やの手てぬかり、看かん護ご婦ふの不ふし深んせ切つ。何なんでも病びや院うゐんの越をち度どと思おもつて、其それが口く惜やしさに、もの狂ぐるはしく大おほきな建たてものを呪の詛ろつて居ゐるんだらう。…… と私わたしは然さう思おもひました。最もうね、一ひと目め見みて、其その男をとこのいくらか氣きが變へんだ、と云いふ事ことは、顏かほ色いろで分わかりましたつけ。……目めの縁ふちが蒼あをくつて、色いろは赤あかツ茶ちやけたのに、厚あつい唇くちびるが乾かわいて、だらりと開あいて、舌したを出だしさうに喘あへぎ〳〵――下げ司すな人にん相さうですよ――髮かみの長ながいのが、帽ばう子しの下したから眉まゆの上うへへ、ばさ〳〵に被かぶさつて、そして目めが血ちば走しつて居ゐるんですから。……﹂ ﹁矢やつ張ぱり、病びや院うゐんを怨うらんで居ゐるんですかねえ、誰だれかが亡なく成なつてさ、貴あな方た。﹂ と見みま舞ひの途とち中うで氣きに成なつてか、婦をんなは恁かう聞きいて俯うつ向むいた。 ﹁まあ、然さうらしく思おもふんです。﹂ ﹁氣きの毒どくですわね。﹂ と顏かほを上あげる。 ﹁雖けれ然ども、驚おどろくぢやありませんか。突いき然なり、ばら〳〵と擲ぶつ附かつたんですからね。何なにをする……も何なんにもありはしない。狂きち人がひだつて事ことは初しよ手てから知しれて居ゐるんですから。 ――頬ほつ邊ぺたは、可いい鹽あん梅ばいに掠かすつたばかりなんですけれども、ぴしり〳〵酷ひどいのが來きましたよ。又またうまいんだ、貴あな女た、其その石いしを投なげる手てぎ際はが。面めん啖くらつて、へどもどしながら、そんな中なかでも其それでも、何なんの拍ひや子うしだか、髮かみの長ながい工ぐあ合ひと云いひ、股またの締しまらないだらけた風ふうが、朝てう鮮せんか支し那なの留りう學がく生せいか知しら。……おや、と思おもふと、ばら〳〵と又また投なげ附つけながら、…… ――畜ちく生しやう、畜ちく生しやう――と口く惜やしさうに喚わめく調てう子しが、立りつ派ぱに同おな一じ先せん祖ぞらしい、お互たがひの。﹂ とフト苦にが笑わらひした。 ﹁それから本ほん音ねを吐はきました。 ――畜ちく生しやう、婦あま、畜ちく生しやう―― 大たい變へんだ。色いろ情きち狂がひ。いや、婦をんなに怨うら恨みのある奴やつだ…… と……何なにしろ酷ひどい目めに逢あつて遁にげたんです。唯たつた今いまの事ことなんです。 漸やつと此こ處ゝまで來きて、別べつに追おひ掛かけては來きませんでした――袖そでなんか拂はらつて、飛とんだ目めに逢あふものだ、と然さう思おもひましてね、汗あせを拭ふいて、此この何なんです、坂さかを下おりようとすると、下したから、ぞろ〳〵と十四五人にん、いろの袴はかまと、リボンで、一ひと組くみ總そう出でと云いつたらしい女ぢよ學がく生せい、十五六から二はた十ちぐらゐなのが揃そろつて來きました。……﹂三
﹁其その中なかに、一ひと人り、でつぷりと太ふとつた、肉にくづきの可いい、西せい洋やう人じんのお媼ばあさんの、黒くろい服ふくを裾すそ長ながに練ねるのが居ゐました。何ど處こか宗しう教けうの學がく校かうらしい。 今いま時じぶ分ん、こんな處ところへ、運うん動どう會くわいではありますまい。矢やつ張ぱり見みま舞ひか、それとも死した體いを引ひき取とりに行ゆくか、どつち道みち、頼たのもしさうなのは、其そのお媼ばあさんの、晃きら乎りと胸むねに架かけた、金きん屬ぞく製せいの十じふ字じ架かで。―― ずらりと女ぢよ學がく生せいたちを從したがへて、頬ほゝと頤あごをだぶ〴〵、白しら髮がの渦うづまきを卷まかせて、恁かう反そり身みに出でて來きた所ところが、何なんですかね私わたしには、彼あす處こに居ゐる、其その狂きち人がひを、救たす助けぶ船ねで濟さい度どに顯あらはれたやうに見みえたんです。 が、矢やつ張ぱり石いしを投なげるか、何どうか、頻しきりに樣やう子すが見みたく成なつたもんですからね。御ごく苦らう勞さ樣まな坂さかの下おり口くちで暫しば時らく立たつて居ゐて、遣やり過すごしたのを、後あとからついて上あがつて、其そ處こへ立たつて視ながめたもんです。 船ふねで行ゆくやうに其その連れん中ぢう、大おほ手ての眞まん中なかを洋かう傘もりの五ごし色きの波なみで通とほりました。 氣きがかりな雲くもは、其その黒くろい影かげで、晴せい天てんにむら〳〵と湧わいたと思おもふと、颶はや風てだ。貴あな女た。……誰だれもお媼ばあさんの御ごば馬ぜ前んに討うち死じにする約やく束そくは豫かねて無ないらしい。我われ勝がち、鳥とりが飛とぶやうに、ばら〳〵散ちると、さすがは救キリ世ス主トのお乳う母ばさん、のさつと太ひ陽の下したに一ひと人り堆うづたかく黒くろい服ふくで突つゝ立たつて、其その狂きち人がひと向むき合あつて屈かゞみましたつけが、叶かなはなく成なつたと見みえて、根ねを拔ぬいてストンと貴あな女た、靴くつの裏うらを飜かへして遁にげた、遁にげると成なると疾はやい事こと!……卷まき狩がりへ出でる猪ゐのしゝですな、踏ふみ留とまつた學がく生せいを突つき退のけて、眞まつ暗くら三さん寶ばうに眞まつ先さきへ素すつ飛とびました。 それは可をか笑しいくらゐでした。が、狂きち人がひは、と見みると、もとの所ところへ、其そのまゝ踞しやがみ込こんで、遁にげたのが曲まがり角かどで二三人にん見みか返へつて見みえなくなる時じぶ分んには、又また……カチリ、ばら〳〵。寂ひつ然そりした日ひな中かの硫ゆわ黄うヶ島しまに陰いん氣きな音ひゞ響き。 通とほりものでもするらしい、人ひと足あしが麻あざ布ぶの空そらまで途と絶だえて居ゐる…… 所ところへ、貴あな女たがおいでなすつたのに、恁かうしてお出で合あひ申まをしたんです。 知しりもしないものが、突とつ然ぜんお驚おどろかせ申まをして、御ごめ迷いわ惑くの所ところはお許ゆるし下ください。 私わたしだつて、御ごら覽んの通とほり、別べつに怪け我がもせず無ぶ事じなんですから、故わざ々〳〵お話はなしをする程ほどでもないのかも知しれませんが、でも、氣きを附つけて行いらつしやる方はうが可よからうと思おもつたからです。……失しつ禮れいしましたね。﹂ と最もう、氣きと咎がめがするらしく、急きふに別わか構れがまへに、鳥とり打うちに手てを掛かける。 ﹁何なんとも、御ごしんせつに……眞ほん個とに私わたし、﹂ と胴どうをゆら〳〵と身みう動ごきしたが、端はしたなき風ふぜ情いは見みえず、人ひとの情なさけを汲くみ入いれた、優やさしい風とり采なり。 ﹁貴あな方た、何どうしたら可いいでせうね、私わたし……﹂ ﹁成なりたけ遠とほく離はなれて、向むかう側がはをお通とほんなさい。何なんなら豫あらかじめ其その用よう心じんで、丁ちやうど恁かうして人ひと通ゞほりはなし――構かまはず駈かけ出だしたら可いいでせう……﹂ ﹁私わたし、駈かけられませんの。﹂ と心こゝ細ろぼそさうに、なよやかな其その肩かたを見みた。 ﹁苦くるしくつて。﹂ ﹁成なる程ほど、駈かけられますまいな。﹂ と帽ばうの庇ひさしを壓おさへたまゝ云いつた。 ﹁持もちものはおあんなさるし……では、恁かうなさると可いい。……日ひあ當たりに御ごな難ん儀ぎでも暫しば時らく此こ處ゝにおいでなすつて、二三人にん、誰だれか來くるのを待まち合あはせて、それとなく一いつ所しよに行いらしつたら可いいでせう。……﹂ と云いひ掛かけて、極きはめて計けい略りやくの平へい凡ぼんなのに、我われながら男をとこは氣きの毒どくらしかつた。 ﹁何なんだか、昔むかしの道だう中ちうに、山やま犬いぬが出でたと云いう時ときのやうですが。﹂ ﹁否いゝえ、山やま犬いぬならまだしもでございます……そんな人ひと……氣き味みの惡わるい、私わたし、何どうしませう。﹂ と困こうじた状さまして、白しろい緒をの駒こま下げ駄たの、爪つま尖さきをコト〳〵と刻きざむ洋かう傘もりの柄えの尖さきが、震ふるへるばかり、身みうちに傳つたうて花はなも搖ゆれる。此この華きや奢しやなのを、あの唇くちびるの厚あつい、大おほきなべろりとした口くちだと縱たてに銜くはへて呑のみ兼かねまい。 ﹁ですから、矢やつ張ぱり人ひと通ゞほりをお待まち合あはせなさるが可いい。何なに、圖づう々〳〵しく、私わたしが、お送おくり申まをしませう、と云いひかねもしませんが、實じつは、然さう云いつた、狂きち人がひですから、二ふた人りで連つれ立だつて參まゐつたんぢや、尚なほ荒あら立だてさせるやうなものですからね。……﹂四
婦をんなは分ふん別べつに伏ふせた胸むねを、すつと伸のばす状さまに立たち直なほる。 ﹁丁ちやうど可いい鹽あん梅ばいに、貴あな下たがお逢あひなさいましたやうな、大おほ勢ぜいの御ごふ婦じ人んづれでも來き合あはせて下くだされば可ようございますけれどもねえ……でないと……畜ちく生しやう……だの――阿あ魔ま――だのツて……何なんですか、婦をんなに怨うら恨み、﹂ と言いひかけて――最もう足あしも背せもずらして居ゐる高たか足あし駄だを――ものを言いふ目めで、密そつと引ひき留とめて、 ﹁貴あな方た、……然さう仰おつ有しやいましたんですねえ。﹂ ﹁當あて推ずゐですがね。﹂ ﹁でも何なんだか、そんな口くちを利きくやうですと。……あの、どんな、一ちよ寸いとどんな風ふうな男をとこでせう?﹂ ﹁然さうですね、年とし少わかな田ゐな舍かの大だい盡じんが、相さう場ばに掛かゝつて失しつ敗ぱいでもしたか、婦をんなに引ひつ掛かゝつて酷ひどく費つか消ひ過すぎた……とでも云いふのかと見みえる樣やう子すです。暑あつくるしいね、絣かすりの、大おほ島しまか何なにかでせう、襟えり垢あかの着ついた袷あはせに、白しろ縮ちり緬めんの兵へこ子お帶びを腸はらわたのやうに卷まいて、近ちか頃ごろ誰だれも着きて居ゐます、鐵てつ無む地ぢの羽はお織りを着きて、此この温うん氣きに、めりやすの襯しや衣つです。そして、大おほ開はだけに成なつた足あしに、ずぼんを穿はいて、薄うすい鶸ひわ茶ちやと云いふ絹きぬの、手ハン巾ケチも念ねん入いりな奴やつを、あぶらぎつた、じと〳〵した首くび、玉たま突つきの給きふ仕じのネクタイと云いふ風ふうに、ぶらりと結むすんで、表おもての摺すり切きれた嵩かさ高だかな下げ駄たに、兀はげた紺こん足た袋びを穿はいて居ゐます。﹂ ﹁それは〳〵……﹂ と輕かるく言いふ……瞼まぶちがふつくりと成なつて、異ことなつた意い味みの笑ゑが顏ほを見みせた、と同どう時じに著いちじるしく眉まゆを寄よせた。 ﹁そして、塀へい際ぎはに居ゐますんですね……踞しやがんで、﹂ ﹁えゝ、此こち方らの。﹂ と横よこに杖ステツキで指さした、男をとこは又またやゝ坂さかを下したへ離はなれたのである。 ﹁此こつ方ちの。……﹂ と婦をんなも見みか返へつたまゝ、坂さかを上うへへ、白しろい足た袋びの尖さきが、褄つまを洩もれつつ、 ﹁上あがり角かどから見みえますか。﹂ ﹁見みえますとも、乾から溝どぶの背うし後ろがずらりと垣かき根ねで、半はん分ぶん折をれた松まつの樹きの大おほきな根ねが這はひ出だして居ゐます。其その前まへに、束つくねた黒くろ土つちから蒸いき氣れの立たつやうな形かたちで居ゐるんですよ。﹂ ﹁可い厭やな、土つち蜘ぐ蛛も見みたやうな。﹂ と裳もすそをすらりと駒こま下げ駄たを踏ふみ代かへて向むき直なほると、半なかば向むかうむきに、すつとした襟えり足あしで、毛けす筋ぢの通とほつた水みづ髮がみの鬢びんの艶つや。と拔ぬけさうな細ほそい黄きん金あ脚しの、淺あさ黄ぎの翡ひす翠ゐに照てり映はえて尚なほ白しろい……横よこ顏がほで見みか返へつた。 ﹁貴あな方た、後ごし生やうですから。ねえ、後ごし生やうですから、其そ處こに居ゐて下くださいましよ、屹きつとよ……﹂ と一度ど見みて、ちらりと瞳ひとみを反そらしたと思おもふと、身みが輕るにすら〳〵と出でた。上あがり口ぐちの電でん信しんの柱はしらを楯たてに、肩かたを曲くねつて、洋かう傘もりの手てを柱はしらに縋すがつて、頸うなじをしなやかに、柔やはらかな髢たぼを落おとして、……帶おびの模もや樣うの颯さつと透すく……羽はお織りの腰こしを撓たわめながら、忙せはしさうに、且かつ凝ぢつと覗のぞいたが、岬みさきにかくれて星ほしも知しらぬ可おそ恐ろしい海うみを窺うかゞふ風ふぜ情いに見みえた。 男をとこは立たつて動うごけなかつた。 と慌あわたゞしく肩かたを引ひくと、 ﹁おゝ、可い厭やだ。﹂ と袖そでも裳もすそも、花はなの色いろが颯さつと白しらけた。ぶる〳〵と震ふるへて、衝つと退さがる。 ﹁何どうしました。﹂と男をとこは戻もどつた。 ﹁まあ……堪たまらない。貴あな方た、此こち方らを見みて居ゐます……お日ひさ樣まに向むいた所せ爲ゐか、爛たゞれて剥むけたやうに眞まつ赤かに成なつて……﹂ 今いまさらの事ことではない。 ﹁勿もち論ろん目めも血ちば走しつて居ゐますから、﹂ と杖ステツキを扱あつかひながら、 ﹁矢やつ張ぱり石いしを投なげて居ゐましたか。﹂ ﹁何なんですか恁かうやつて、﹂ と云いつた時とき、其その洋か傘さを花はな籠かごの手てに持もち添そへて、トあらためて、眞まつ白しろな腕うでを擧あげた。 ﹁石いしを投なげるんでせうか、其それが、あの此こつ方ちを招まねくやうに見みえたんですもの。何どうしたら可いいでせう。﹂ と蓮はす葉はな手てく首びを淑つゝましげに、袖そでを投なげて袂たもとを掛かけると、手ハン巾ケチをはらりと取とる。……五
婦をんなは輕かるく吐とい息きして、 ﹁止よしませう……最もう私わたし、行いかないで置おきますわ。﹂と正しや面うめんに男をとこを見みて、早はや坂さかの上うへを背せにしたのである。 ﹁病びや院うゐんへ、﹂ ﹁はあ、﹂ ﹁其そい奴つは困こまりましたな。﹂ 男をとこは實じつ際さい當たう惑わくしたらしかつた。 ﹁いや、其それは私わたしが弱よわりました。知しらずにおいでなされば何なんの事ことはないものを。﹂ ﹁あら、貴あな方た、何なんの事ことはない……どころなもんですか。澤たく山さんですわ。私わたしは最もう……﹂ ﹁否いゝえ、雖けれ然ども、不ふ意いだつたら、お遁にげなすつても濟すんだんでせう。お怪け我がほどもなかつたんでせうのに。﹂ ﹁隨ずゐ分ぶんでござんすのね。﹂ と皓しら齒はが見みえて、口くち許もとの婀あ娜だたる微ほゝ笑ゑみ。……行ゆかないと心こゝろが極きまると、さらりと屈くつ託たくの拔ぬけた状さまで、 ﹁前まへを通とほり拔ぬけるばかりで、身から體だが窘すくみます。歩あ行るけなく成なつた所ところを、掴つかまつたら何どうしませう……私わたし死しんで了しまひますよ……婦をんなは弱よわいものですねえ。﹂ と持もつた手ハン巾ケチの裏うら透すくばかり、唇くちびるを輕かるく壓おさへて伏ふし目めに成なつたが、 ﹁石いしを其そ處こへ打うたれましたら、どんなでせう。電いなづまでも投なげ附つけられるやうでせう。……最もう私わたし、此こ處ゝへ兵へい隊たいさんの行ぎや列うれつが來きて、其その背うし後ろから參まゐるのだつて可い厭やな事ことでございます――歸かへりますわ。﹂ と更あらためて判はつ然きり言いつた。 ﹁しかし、折せつ角かく、御ごゑ遠んぱ方うからぢやありませんか。﹂ ﹁築つき地ぢの方はうから、……貴あな方たは?﹂ ﹁……芝しばの方はうへ、﹂ と云いつたが、何な故ぜか、うろ〳〵と四あた邊りを見みた。 ﹁同おんなじ電でん車しやでござんすのね。﹂ ﹁然さやう……﹂ と大おほきにためらふ體ていで、 ﹁ですが、行いらつしやらないでも可いいんですか。お約やく束そくでもあつたんだと――何どうにか出で來きさうなものですがね、――又また不ふ思し議ぎに人ひと足あしが途と絶だえましたな。こんな事ことつてない筈はずです。﹂ 雲くもは所とこ々ろ〴〵墨すみが染にじんだ、日ひの照てりは又また赫かつと強つよい。が、何なんとなく濕しめりを帶おびて重おもかつた。 ﹁構かまひません、毎まい日にちのやうに參まゐるんですから……まあ、賑にぎやかな所ところですのに……魔ま日びつて言いふんでせう、こんな事ことがあるものです。おや、尚なほ氣き味みが惡わるい、……さあ、參まゐりませう。﹂ とフト思おも出ひだしたやうに花はな籠かごを、ト伏ふし目めで見みた、頬ほゝに菖あや蒲めが影かげさすばかり。 ﹁一ちよ寸つと、お待まち下くださいましよ。……折せつ角かく持もつて參まゐつたんですから、氣きばかり、記しる念しに。……﹂ で、男をとこは手てを出ださうとして、引ひつ込こめた。――婦をんなが口くちで、其その風ふろ呂し敷きの桔きき梗やう色いろなのを解といたから。百ゆ合りは、薔ば薇らは、撫なで子しこは露つゆも輝かゞやくばかりに見みえたが、それよりも其その唇くちびるは、此この時とき、鐵か漿ねを含ふくんだか、と影かげさして、言いはれぬ媚なまめかしいものであつた。 花はな片びらを憐いたはるよ、蝶てふの翼つばさで撫なづるかと、はら〳〵と絹きぬの手ハン巾ケチ、輕かろく拂はらつて、其その一輪りんの薔ば薇らを抽ぬくと、重おもいやうに手てが撓しなつて、背せなを捻ねぢさまに、衝つと上うへへ、――坂さかの上うへへ、通とほりの端はしへ、――花はなの眞まつ紅かなのが、燃もゆる不しら知ぬ火ひ、めらりと飛とんで、其その荒あら海うみに漾たゞよふ風ふぜ情いに、日ひな向たの大だい地ちに落おちたのである。 菖あや蒲めは取とつて、足あし許もとに投なげた、薄うす紫むらさきが足た袋びを染そめる。 ﹁や、惜をしい、貴あな女た。﹂ ﹁否いゝえ、志こゝろざしです……病びや人うにんが夢ゆめに見みてくれますでせう。……もし、恐おそ入れいりますが、﹂ 花はなの、然そうして、二ふた本もとばかり抽ぬかれたあとを、男をとこは籠かごのまゝ、撫なで子しこも、百ゆ合りも胸むねに滿みつるばかり預あづけられた。 其その間あひだに、風ふろ呂し敷きは、手てば早やく疊たゝんで袂たもとへ入いれて、婦をんなは背うし後ろのものを遮さへぎるやうに、洋かう傘もりをすつと翳かざす。と此この影かげが、又また籠かごの花はなに薄うつすり色いろを添そへつつ映うつる。……日ひを隔へだてたカアテンの裡うちなる白まひ晝るに、花はな園ぞのの夢ゆめ見みる如ごとき、男をとこの顏かほを凝ぢつと見みて、 ﹁恐おそ入れいりました。何どうぞ此こつ方ちへ。貴あな方た、御ごい一つし所よに、後ごし生やうですから。……背うし後ろから追おつ掛かけて來くるやうで成ならないんですもの。﹂六
﹁では、御ごい一つし所よに。﹂ ﹁まあ、嬉うれしい。﹂ と莞につ爾こりして、風かぜに亂みだれる花はな片びらも、露つゆを散ちらさぬ身みづ繕くろひ。帶おびを壓おさへたパチン留どめを輕かるく一ひとつトンと當あてた。 ﹁あつ。﹂ と思おもはず……男をとこは驚おど駭ろきの目めをつた。……と其その帶おびに挾はさんで、胸むな先さきに乳ちゝをおさへた美たを女やめの蕊しべかと見みえる……下した〆じめのほのめく中なかに、状じや袋うぶくろの端はしが見みえた、手てが紙みが一通つう。 ﹁あゝ……﹂と其その途とた端んに、婦をんなも心こゝ附ろづいたらしく、其その手てが紙みに手てを掛かけて、 ﹁……拾ひろつたんですよ。此この手てが紙みは、﹂ ﹁え、﹂ と、聲こゑも出でないまで、舌したも乾かわいたか、息いきせはしく、男をとこは慌あわたゞしく、懷ふと中ころへ手てを突つゝ込こんだが、顏かほの色いろは血ちが褪あせて颯さつと變かはつた。 ﹁見みせて下ください、一ちよ寸つと、何どうぞ、一ちよ寸つと、何どうぞ。﹂ ﹁さあ〳〵。……﹂ と如い何かにも氣きや易すく、わけの無なささうに、手ハン巾ケチを口くちに取とりながら、指ゆび環わの玉たまの光つ澤やを添そへて美うつくしく手てが紙みを抽ぬいて渡わたす。 此この封ふうは切きれて居ゐた。…… ﹁あゝ、此これだ。﹂ 歩あ行るいて居ゐた足あしも留とまるまで、落がつ膽かり氣きお落ちがしたらしい。 ﹁難あり有がたかつた、難あり有がたかつた……よく、貴あな女た、﹂ と、もの珍めづらしげに瞻みまもつたのは、故わざと拾ひろふために、世よに、此こ處ゝに顯あらはれた美うつくしい人ひととも思おもつたらう。…… ﹁よく、拾ひろつて下くだすつた。﹂ ﹁まあ、嬉うれしい事こと、﹂ と仇あど氣けないまで、婦をんなもともに嬉いそ々〳〵して、 ﹁思おもひ掛がけなくおために成なつて……一ちよ寸つと、嬉うれしい事ことよ私わたしは。……矢やつ張ぱり何なに事ごとも心こゝろは通つうじますのですわね。﹂と撫なで子しこを又また路みち傍ばたへ。忘わすれて咲さいたか、と小をぐ草さにこぼれる。…… ﹁何ど處こでお拾ひろひ下くだすつた。﹂ ﹁直ぢき其そ處こで。最もう其そ處こへ參まゐりますわ、坂さかの下したです。……今いましがた貴あな方たにお目めに掛かゝります、一ちよ寸つと前さき。何なんですか、フツと打うつ棄ちやつて置おけない氣きがしましたから。……それも殿との方がたのだと、何なんですけれど、優やさしい御ごふ婦じ人んのお書てでしたから拾ひろひました。尤もつとも、あの、にせて殿との方がたのてのやうに書かいてはありますけれど、其それは一ひと目め見みれば分わかりますわ。﹂ と莞につ爾こり。で、斜なゝめに見みる…… 男をとこは悚ぞ然つとしたやうだつた。 ﹁中なかを見みやしませんか。﹂と聲こゑが沈しづむ。 ﹁否いゝえ。﹂ ﹁大たい切せつな事ことなんですから。もしか御ごら覽んなすつたら、構かまひません、――言いつて下ください、見みたと、貴あな女た、見みたと……構かまはないから言いつて下ください。﹂ と煩むづかしい顏かほをする。 ﹁見みますもんですか、﹂と故わざとらしいが、つんとした、目めも許との他ほかは、尚なほ美うつくしい。 ﹁いや、此これは惡わるかつた。まあ、更あらためて、更あらためて御おれ禮いを申まをします。……實じつ際さい、此この手てが紙みを遺お失としたと氣きが附つかなかつた中うちに、貴あな女たの手てから戻もどつたのは、何なんとも言いひやうのない幸しあ福はせなんです。……たとひ、恁かうして、貴あな女たが拾ひろつて下くださるのが、丁ちやんと極きまつた運うん命めいで、當たう人にん其それを知しつて居ゐて、芝しば居ゐをする氣きで、唯たゞ遺お失としたと思おもふだけの事ことをして見みろ、と言いはれても、可い厭やです。金こん輪りん際ざい出で來きません。 洒しや落れに遺お失としたと思おもふのさへ、其そのくらゐなんですもの。實じつ際さい遺お失として、遺お失とした、と知しつて御ごら覽んなさい。 搜さがさう、尋たづねようと思おもふ前まへに、土どべ塀いに踞しやがんで砂じや利りど所ころか、石いし垣がきでも引ひき拔ぬいて、四あた邊り八はつ方ぱう投なげ附つけるかも分わからなかつたんです。…… 思おもつても悚ぞ然つとする。―― 動どう悸きが分わかりませう、手ての震ふるへるのを御ごら覽んなさい、杖ステツキにも恥はづかしい。 其それを――時とけ計いの針はりが一ひとつ打うつて、あとへ續つゞくほどの心しん配ぱいもさせないで、あつと思おもふと、直すぐに拾ひろつて置おいて下くだすつたのが分わかつた。 御ごお恩んを忘わすれない、實じつ際さい忘わすれません。﹂ ﹁まあ、そんなに御ごた大いせ切つなものなんですか……﹂ ﹁ですから、其それですから、失しつ禮れいだけれどもお聞きき申まをすんです。﹂ ﹁大だい丈ぢや夫うぶ、中なかを見みはしませんよ。﹂ と帶おびも薄うすくて樂らくなもの。……七
﹁決けつして、﹂
と又また聲こゑに力ちからを入いれた。男をとこは立たち淀よどむまで歩あ行るくのも遲おそく成なつて、
﹁貴あな女たをお疑うたがひ申まをすんぢやない。もと〳〵封ふうの切きれて居ゐる手てが紙みですから、たとひ御ごら覽んに成なつたにしろ、其それを兎とや角かう言いふのぢやありません。が、又またそれだと其そのつもりで、どんなにしても、貴あな女たに、更あらためてお願ねがひ申まをさなければ成ならない事こともあるんですから。……﹂
﹁他たご言んしては不いけ可ない、極ごくの祕ない密しよに、と言いふやうな事ことなんですわね。﹂
と澄すまして言いふ。
益ます々〳〵忙あせつて、
﹁ですから眞ほん個とうの事ことを云いつて下ください、見みたなら見みたと、……頼たのむんですから。﹂
﹁否いゝえ、見みはいたしませんもの、ですがね。旗はた野のさん、﹂
と婦をんなは不ふ意いに姓せいを呼よんだ。
﹁…………﹂
又またひやりとした、旗はた野のは、名なを禮れい吉きちと云いふ、美びじ術ゆつ學がく校かう出しゆ身つしんの蒔まき繪ゑ師しである。
呆あつ氣けに取とられて瞻みまもるのを、優やさしい洋かう傘もりの影かげから、打うち傾かたむいて流なが眄しめで、
﹁お手てが紙みの上うは書がきで覺おぼえましたの……下げら郎うは口くちのさがないもんですわね。﹂と又また微びせ笑うす。
禮れい吉きちは得えも言いはれず、苦くるしげな笑ゑみを浮うかべて、
﹁お人ひとが惡わるいな。﹂
とあきらめたやうに言いつたが、又また其そ處こどころでは無なささうな、聲こゑもつて、
﹁眞ほん個とうに言いつて下ください。唯たゞ今いまも言いひましたやうに、遺お失とすのを、何なんだつてそんなに心しん配ぱいします。たゞ人ひとに知しれるのが可おそ恐ろしいんでせう。……何なに、私わたしは構かまはない。私わたしの身から體だは構かまはないが、もしか、世せけ間んに知しれるやうな事ことがあると、先さ方きの人ひとが大たい變へんなんです。
恁かうやつて、奴やつ凧こだこが足あし駄だを穿はいて澁しぶ谷やへ落おちたやうに、ふらついて居ゐるのも、詰つまり此この手てが紙みのためで、……其それも中なかの文もん句くの用ようではありません――ふみがらの始しま末つなんです。一いつ體たいは、すぐにも燒やいて了しまふ筈はずなんですが、生あい憎にく、何ど處この停ステ車イシ場ヨンにも暖スト爐オブの無ない時じぶ分ん、茶ちや屋や小こ屋やの火ひば鉢ちで香にほはすと、裂さいた一ひと端はしも燒やけ切きらないうちに、嗅かぎつけられて、怪あやしまれて、それが因もとで事ことの破はめ滅つに成なりさうで、危きけ險んで不いけ可ない。自じぶ分んの家いへで、と云いへば猶なほ更さらです……書かいてある事こと柄がらが事こと柄がらだけに、すぐにも燃もえさしが火ひに成なつて、天てん井じや裏ううらに拔ぬけさうで可おそ恐ろしい。隱かくして置おくにも、何なんの中なかも、どんな箱はこも安あん心しんならず……鎖じやうをさせば、此こ處ゝに大だい事じが藏しまつてあると吹ふい聽ちやうするも同おな一じに成なります。
昨きの日ふの晩ばん方がた、受うけ取とつてから以いら來い、此これを跡あと方かたもなしに形かたちを消けすのに屈くつ託たくして、昨ゆう夜べは一ひと目めも眠ねむりません。……此こ處ゝへ來きます途とち中うでも、出だして手てに持もてば人ひとが見みる……袂たもとの中なかで兩りや手うてで裂さけば、裂さけたのが一いつ層そ、一ひと片ひらでも世せけ間んへ散ちつて出でさうでせう。水みづへ流ながせば何ど處こを潛くゞつて――池いけがあります――此この人ひとの住すま居ひへ流ながれて出でて、中なかでも祕かくさなければ成ならないものの目めに留とまりさうで身から體だが震ふるへる。
身みに附つけて居をれば遺お失としさうだ、――と云いつて、袖そででも、袂たもとでも、恁かう、うか〳〵だと掏すられも仕し兼かねない。……
……其その憂きづ慮かひさに、――懷ふと中ころで、確しつ乎かり手てを掛かけて居ゐただけに、御ごら覽んなさい。何なにかに氣きが紛まぎれて、ふと心こゝろをとられた一ちよ寸いと一いつ分ぷんの間まに、うつかり遺お失としたぢやありませんか。
此これで思おもふと……石いしを投なげた狂きち人がひと云いふのも、女ぢよ學がく生せいを連つれた黒くろい媼ばあさんの行ぎや列うれつも、獸けもののやうに、鳥とりのやうに、散ちつた、駈かけたと云いふ中うちに、其それが皆みな、此この手てが紙みを處しよ置ちするための魔まし性やうの變へん化げかも知しれないと思おもふんです。
いや、然さう云いふ間まもない、彼あす處こに立たつてる、貴あな女たとお話はなしをするうちは、實じつ際さい、胴どう忘わすれに手てが紙みのことを忘わすれて居ゐました。……
貴あな女た……氣きざ障はりでせうが、見み惚とれたらしい。さあ、恁かうまで恥はぢも外ぐわ聞いぶんも忘わすれて、手てを下さげます……次しだ第いによつては又また打うち明あけて、其その上うへに、あらためてお頼たのみ爲しやうもありませうから、なかの文もん句くを見みたなら見みたと云いつた聞きかして下ください。願ねがひます、嘆たん願ぐわんするから……﹂
﹁拜はい見けんしましたよ。﹂
とすつきり言いつた。
﹁えゝ!﹂
瞳ひとみも据すわらず、血ちの褪あせた男をとこの顏かほを、水すゐ晶しやうの溶とけたる如ごとき瞳ひとみに艶つやを籠こめて凝ぢつと視みると、忘わすれた状さまに下したまぶち、然さり氣げなく密そと當あてた、手ハン巾ケチに露つゆが掛かゝかつた﹇#﹁掛かゝかつた﹂はママ﹈。
﹁あゝ、先さ方きの方かたがお羨うらやましい。そんなに御ごく苦ら勞うなさるんですか。﹂
﹁其その人ひとが、飛とんだことに成なりますから。﹂
﹁だつて、何なんの企たく謀らみを遊あそばすんではなし、主ぬしのある方かただと云いつて、たゞ夜よな半か忍しのんでお逢あひなさいます、其そのあの、垣かき根ねの隙すき間まを密そつとお知しらせだけの玉ふ章みなんですわ。――あゝ、此こ處ゝでしたよ。﹂
男をとこが呼い吸きを詰つめた途とた端んに、立たち留どまつた坂さかの下おり口くち。……病びや院うゐ下んしたの三みツ角かどは、遺お失とすくらゐか、路みち傍ばたに手てが紙みをのせて來きても、戀こひの宛あて名なに屆とゞきさうな、塚つか、辻つじ堂だう、賽さいの神かみ、道だう陸ろく神じんのあとらしい所ところである。
﹁此この溝みぞ石いしの上うへに、眞ほん個とうに、其その美うつくしい方かたが手てでお置おきなすつたやうに、容よう子すよく、ちやんと乘のつかつて居ゐましたよ。﹂
と言いふ。其そ處こへ花はな籠かごから、一ひと本もと白しら百ゆ合りがはらりと仰あを向むけに溢こぼれて落おちた……ちよろ〳〵流ながれに影かげも宿やどる……百ゆ合りはまた鹿かの子こも、姫ひめも、ばら〳〵と續つゞいて溢こぼれた。
﹁あゝ、籠かごから……﹂
﹁構かまふもんですか。﹂
と、撫なで子しこを一ひと束たば拔ぬいたが、籠かごを取とつて、はたと溝どぶの中なかに棄すてると、輕かろく翡かは翠せみの影かげが飜ひるがへつて落おちた。
﹁旗はた野のさん、﹂
﹁…………﹂
﹁貴あな方たの祕ない密しよが、私わたしには知しれましても、お差さし支つかへのない事ことをお知しらせ申まをしませうか、――餘あんまり御ごし心んぱ配いなすつておいとしいんですもの。眞ほん個とに、殿との方がたはお優やさしい。﹂
と聲こゑを曇くもらす、空そらには樹きの影かげが涼すゞしかつた。
﹁何どうして、何どうしてです。﹂
﹁あのね、見み舞まひに行ゆきますのは、私わたしの主しゆ人じん……まあ、旦だん那ななんですよ。﹂
﹁如い何かにも。﹂
﹁斯かう見みま舞ひの盛もり花ばなを、貴あな方た何なんだと思おもひます――故わざとね――青あを山やまの墓ぼ地ちへ行いつて、方はう々〴〵の墓はかに手た向むけてあります、其その中なかから、成なりたけ枯かれて居ゐないのを選よつて、拵こしらへて來きたんですもの、……
貴あな方た、此この私わたしの心こゝろが解わかつて……解わかつて?
解わかつて?……
そんなら、御ごあ安んし心んなさいまし。﹂
と莞につ爾こりした。……
禮れい吉きちは悚ぞ然つとしながら、其それでも青あを山やまの墓ぼ地ちの中なかを、青あを葉ばがくれに、花はなを摘つむ、手ての白しろさを思おもつた。……
時ときに可おそ恐ろしかつたのは、坂さかの上うへへ、あれなる狂きち人がひの顯あらはれた事ことである。……
婦をんなが言いつた、土つち蜘ぐ蛛もの如ごとく、横よこ這ばひに、踞しやがんだなりで、坂さかをずる〳〵と摺ずつては、摺ずつては來きて、所とこ々ろ〴〵、一ひと本もと、一いち輪りん、途とち中うへ棄すてた、いろ〳〵の花はなを取とつては嗅かぎ、嘗なめるやうに嗅かいでは、摺ずつては來き、摺ずつては來きた。
二ふた人りは急いそいで電でん車しやに乘のつた。
が、此この電でん車しやが、あの……車しや庫この處ところで、一ちよ寸つと手て間まが取とれて、やがて發はつ車しやして間まもなく、二にの橋はしへ、横よこ搖ゆれに飛とんで進しん行かう中ちう。疾しつ風ぷうの如ごとく駈かけて來きた件くだんの狂きち人がひが、脚あしから宙ちうで飛とび乘のらうとした手てが外それると、づんと鳴なつて、屋や根ねより高たかく、火くわ山ざんの岩いはの如ごとく刎はね上あげられて、五ごた體いを碎くだいた。
飛とび乘のる瞬しゆ間んかんに見みた顏かほは、喘あへぐ口くちが海なま鼠こを銜ふくんだやうであつた。
其それも、此この婦をんなのために氣きが狂くるつたものだと聞きく。……薔ば薇らは、百ゆ合りは、ちら〳〵と、一いちの橋はしを――二にの橋はしを――三さんの橋はしを。