十萬石
泉鏡太郎
こゝに信(しん)州(しう)の六(ろく)文(もん)錢(せん)は世(よ)々(ゝ)英(えい)勇(ゆう)の家(いへ)なること人(ひと)の能(よ)く識(し)る處(ところ)なり。はじめ武(たけ)田(だ)家(け)に旗(き)下(か)として武(ぶめ)名(い)遠(ゑん)近(きん)に轟(とゞろ)きしが、勝(かつ)頼(より)滅(めつ)亡(ばう)の後(のち)年(とし)を經(へ)て徳(とく)川(がは)氏(し)に歸(きじ)順(ゆん)しつ。松(まつ)代(しろ)十(じふ)萬(まん)石(ごく)を世(せし)襲(ふ)して、松(まつ)の間(ま)詰(づめ)の歴(れき)々(〳〵)たり。
寶(はう)暦(れき)の頃(ころ)當(たう)城(じやう)の主(あるじ)眞(さな)田(だい)伊(づの)豆(かみ)守(ゆき)幸(とよ)豐(ぎ)公(み)、齡(よはひ)わづかに十五ながら、才(さい)敏(びん)に、徳(とく)高(たか)く、聰(そう)明(めい)敏(びん)達(たつ)の聞(きこ)え高(たか)かりける。
晝(ひる)は終(ひね)日(もす)兵(へい)術(じゆつ)を修(しう)し、夜(よる)は燈(とう)下(か)に先(せん)哲(てつ)を師(し)として、治(ちら)亂(ん)興(こう)廢(はい)の理(り)を講(かう)ずるなど、頗(すこぶ)る古(いにしへ)の賢(けん)主(しゆ)の風(ふう)あり。
忠(まめ)實(やか)に事(つか)へたる何(なに)某(がし)とかやいへりし近(きん)侍(じ)の武(ぶ)士(し)、君(きみ)を思(おも)ふことの切(せつ)なるより、御(おん)身(み)の健(けん)康(かう)を憂(きづ)慮(か)ひて、一(ある)時(とき)御(ごぜ)前(ん)に罷(まか)出(りい)で、﹁君(きみ)學(がく)問(もん)の道(みち)に寢(しん)食(しよく)を忘(わす)れ給(たま)ふは、至(しご)極(く)結(けつ)構(こう)の儀(ぎ)にて、とやかく申(まを)上(しあ)げむ言(ことば)もなく候(さふら)へども又(ま)た御(おん)心(こゝ)遣(ろやり)の術(すべ)も候(さふら)はでは、餘(あま)りに御(お)氣(き)の詰(つま)りて千(せん)金(きん)の御(おん)身(み)にさはりとも相(あひ)成(な)らむ。折(をり)節(ふし)は何(なに)をがな御(おん)慰(なぐさみ)に遊(あそ)ばされむこと願(ねが)はしく候(さふらふ)﹂と申(まを)上(しあ)げたり。
幼(えう)君(くん)御(ごき)機(げ)嫌(ん)美(うる)はしく、﹁よくぞ心(こゝ)附(ろづ)けたる。予(よ)も豫(かね)てより思(おも)はぬにはあらねど、別(べつ)に然(しか)るべき戲(たはむれ)もなくてやみぬ。汝(なんぢ)何(なん)なりとも思(おも)附(ひつき)あらば申(まを)して見(み)よ。﹂と打(うち)解(と)けて申(まを)さるゝ。﹁さればにて候(さふらふ)、別(べつ)段(だん)是(これ)と申(まを)して君(きみ)に勸(すゝ)め奉(たてまつ)るほどのものも候(さふら)はねど不(ふ)圖(と)思(おも)附(ひつ)きたるは飼(かひ)鳥(どり)に候(さふらふ)、彼(あれ)を遊(あそ)ばして御(ごら)覽(んさ)候(ふら)へ﹂といふ。幼(えう)君(くん)、﹁飼(かひ)鳥(どり)はよきものか﹂と問(と)はせ給(たま)へば、﹁いかにも御(おん)慰(なぐさみ)になり申(まを)すべし。第(だい)一(いち)お眼(めざ)覺(め)の爲(ため)に宜(よろ)しからむ。いかにと申(まを)せば彼(かれ)等(ら)早(まだ)朝(き)に時(とき)を定(さだ)めて、ちよ〳〵と囀(さへ)出(づりい)だすを機(しほ)に御(ごし)寢(んし)室(つ)を出(いで)させ給(たま)はむには自(しぜ)然(ん)御(おね)眠(む)氣(け)もあらせられず、御(おん)心(こゝ)地(ち)宜(よろ)しかるべし﹂といふ。幼(えう)君(くん)思(おぼ)召(しめし)に協(かな)ひけん、﹁然(しか)らば試(こゝろ)みに飼(か)ふべきなり。萬(ばん)事(じ)は汝(なんぢ)に任(まか)すあひだ良(よ)きに計(はから)ひ得(え)させよ﹂とのたまひぬ。
畏(かしこ)まりて何(なに)某(がし)より、鳥(とり)籠(かご)の高(たか)さ七(しち)尺(しやく)、長(なが)さ二(にし)尺(やく)、幅(はゞ)六(ろく)尺(しやく)に造(つく)りて、溜(ため)塗(ぬり)になし、金(かな)具(ぐ)を据(す)ゑ、立(りつ)派(ぱ)に仕(し)上(あ)ぐるやう作(さく)事(じぶ)奉(ぎや)行(う)に申(まを)渡(しわた)せば、奉(ぶぎ)行(やう)其(その)旨(むね)承(うけたまは)りて、早(さつ)速(そく)城(じや)下(うか)より細(さい)工(くに)人(ん)の上(じや)手(うず)なるを召(めし)出(い)だし、君(きみ)御(ごよ)用(う)の品(しな)なれば費(ひよ)用(う)は構(かま)はず急(いそ)ぎ造(つく)りて參(まゐ)らすべしと命(めい)じてより七(なの)日(か)を經(へ)て出(しゆ)來(つたい)しけるを、御(おん)居(ゐ)室(ま)の縁(えん)に舁(かき)据(す)ゑたるが、善(ぜん)美(び)を盡(つく)して、眼(め)を驚(おどろ)かすばかりなりけり。
幼(えう)君(くん)これを御(ごら)覽(う)じて、嬉(うれ)しげに見(み)えたまへば、彼(かの)勸(すゝ)めたる何(なに)某(がし)面(めん)目(ぼく)を施(ほどこ)して、件(くだん)の籠(かご)を左(とみ)瞻(か)右(う)瞻(み)、﹁よくこそしたれ﹂と賞(しや)美(うび)して、御(おん)喜(よろ)悦(こび)を申(まを)上(しあ)ぐる。幼(えう)君(くん)其(その)時(とき)﹁これにてよきか﹂と彼(か)の者(もの)に尋(たづ)ねたまへり。﹁天(あつ)晴(ぱれ)此(この)上(うへ)も無(な)く候(さふらふ)﹂と只(ひた)管(すら)に賞(ほ)め稱(たゝ)へつ。幼(えう)君(くん)かさねて、﹁いかに汝(なんじ)の心(こゝろ)に協(かな)へるか、﹂とのたまひける。﹁おほせまでも候(さふら)はず、江(えど)戸(おも)表(て)にて將(しや)軍(うぐん)御(おて)手(が)飼(ひ)の鳥(とり)籠(かご)たりとも此(この)上(うへ)に何(なん)とか仕(つかまつ)らむ、日(につ)本(ぽん)一(いち)にて候(さふらふ)。﹂と餘(よね)念(ん)も無(な)き體(てい)なり。
﹁汝(なんぢ)の心(こゝろ)に可(よ)しと思(おも)はば予(よ)も其(それ)にて可(よ)し、﹂と幼(えう)君(くん)も滿(まん)足(ぞく)して見(み)え給(たま)へば、﹁然(しか)らば國(こく)中(ちう)の鳥(とり)屋(や)に申(まを)附(しつ)けあらゆる小(こと)鳥(り)を才(さい)覺(かく)いたして早(はや)御(おな)慰(ぐさみ)に備(そな)へ奉(たてまつ)らむ、﹂と勇(いさ)立(みた)てば、﹁否(いや)、追(おつ)てのことにせむ、先(ま)づ其(その)まゝに差(さし)置(お)け、﹂とて急(いそ)がせたまふ氣(けし)色(き)無(な)し。何(なに)某(がし)は不(いぶ)審(かし)氣(げ)に跪(つい)坐(ゐ)たるに、幼(えう)君(くん)、﹁予(よ)は汝(なんぢ)が氣(き)に入(い)りたり。汝(なんぢ)が可(よ)しと思(おも)ふことならば予(よ)は何(なに)にても可(よ)し、些(ちと)變(かは)りたる望(のぞみ)なるが、汝(なんぢ)思(おも)附(ひつき)の獻(こん)立(だて)を仕(し)立(た)てて一(いち)膳(ぜん)予(よ)に試(こゝろ)みしめよ﹂といかにも變(かは)りたる御(おん)望(のぞみ)。彼(かの)者(もの)迷(めい)惑(わく)して、﹁つひに獻(こん)立(だて)を仕(つかまつ)りたる覺(おぼ)えござなく、其(その)道(みち)は聊(いさゝか)も心(こゝ)得(ろえ)候(さふら)はねば、不(ぶて)調(うは)法(ふ)に候(さふらふ)、此(この)儀(ぎ)は何(なに)卒(とぞ)餘(よじ)人(ん)に御(おん)申(まを)下(しくだ)さるべし﹂と困(こう)じたる状(さま)なりけり。
幼(えう)君(くん)、﹁否(いや)、予(よ)は汝(なんぢ)が氣(き)に入(い)りたれば、餘(よじ)人(ん)にては氣(き)に入(い)らず、獻(こん)立(だて)は如(いか)何(や)樣(う)にても可(よ)し、凡(およ)そ汝(なんぢ)が心(こゝろ)にて此(これ)ならば可(よ)しと思(おも)はば其(それ)にて可(よ)きなり、自(みづか)ら旨(うま)しと存(ぞん)ずるものを予(よ)に構(かま)はず仕(つかまつ)れ﹂とまた他(た)事(じ)も無(な)くおほすれば、不(やむ)得(をえ)止(ず)﹁畏(かしこ)まり候(さふらふ)﹂と御(おう)請(けま)申(を)して退(まか)出(んで)ける。
さて御(おれ)料(うり)理(ば)番(ん)に折(をり)入(い)つて、とやせむかくやせむと評(ひや)議(うぎ)の上(うへ)、一(いツ)通(つう)の獻(こん)立(だて)を書(かき)附(つけ)にして差(さし)上(あ)げたり。幼(えう)君(くん)たゞちに御(ごひ)披(け)見(ん)ありて、﹁こは﹇#﹁﹁こは﹂は底本では﹁こは﹂﹈一(いち)段(だん)の思(おも)附(ひつき)、面(おも)白(しろ)き取(とり)合(あは)せなり。如(い)何(か)に汝(なんぢ)が心(こゝろ)にもこれにて可(よ)しと思(おも)へるか﹂と御(おた)尋(づね)に、はツと平(へい)伏(ふく)して、﹁私(わたくし)不(ぶて)調(うは)法(ふ)にていたし方(かた)ござなく、其(それ)が精(せい)一(いつ)杯(ぱい)に候(さふらふ)﹂と額(ひたひ)に汗(あせ)して聞(きこ)え上(あ)ぐる。幼(えう)君(くん)莞(につ)爾(こ)と打(うち)笑(ゑ)み給(たま)ひて、﹁可(よ)し、汝(なんぢ)が心(こゝろ)にさへ可(よ)しと思(おも)はば滿(まん)足(ぞく)せり。此(この)通(とほり)の獻(こん)立(だて)二(にに)人(んま)前(へ)、明(みや)日(うにち)の晝(ちう)食(じき)に拵(こしら)ふるやう、料(れう)理(りば)番(ん)に申(まを)置(しお)くべし、何(なに)かと心(こゝ)遣(ろづか)ひいたさせたり、休(きう)息(そく)せよ﹂とて下(さ)げられたりける。
さて其(その)翌(よく)日(じつ)﹁日(ひ)の昨(さく)の御(ごこ)獻(んだ)立(て)出(でき)來(あ)上(が)り候(さふらふ)、早(はや)めさせ給(たま)ふべきか﹂と御(ごぜ)膳(んぶ)部(か)方(た)より伺(うかゞ)へば、しばしとありて、彼(か)の何(なに)某(がし)を御(ごぜ)前(ん)に召(め)させられ、﹁近(ちか)きうちに鳥(とり)を納(い)れむと思(おも)ふなり。先(ま)づ鳥(とり)籠(かご)の戸(と)を開(あ)けて見(み)せよ﹂とある。
縁(えん)側(がは)に行(ゆ)きて戸(と)を開(ひら)き、﹁いざ御(ごら)覽(ん)遊(あそ)ばさるべし﹂と手(て)を支(つか)ふ。﹁一(ちよ)寸(いと)其(その)中(なか)に入(はひ)つて見(み)よ﹂と口(くち)輕(がる)に申(まを)されければ、彼(か)の男(をとこ)ハツといひて何(なに)心(ごころ)なく籠(かご)に入(はひ)る。幼(えう)君(くん)これを見(みた)給(ま)ひて、﹁さても好(よ)き恰(かつ)好(かう)かな﹂と手(て)を拍(う)ちてのたまへば﹁なるほど宜(よろ)しく候(さふらふ)﹂と籠(かご)の中(なか)にて答(こた)へたり。
幼(えう)君(くん)﹁心(こゝ)地(ち)よくば其(それ)に居(ゐ)て煙(たば)草(こ)なと吸(す)うて見(み)せよ。それ〳〵﹂と、坊(ばう)主(ず)をして煙(たば)草(こぼ)盆(ん)を遣(つか)はしたまふに、彼(か)の男(をとこ)少(すこ)しく狼(うろ)狽(た)へ、﹁こはそも、其(それ)に置(お)かせたまへ﹂と慌(あわた)だしく出(い)でむとすれば、﹁いや〳〵其(そ)處(こ)にて煙(たば)草(こ)を吸(す)ひ心(こゝろ)長(のど)閑(か)に談(はな)せよかし﹂と人(ひと)弱(よわ)らせの御(おな)慰(ぐさみ)、賢(かしこ)くは見(み)えたまへど未(いま)だ御(ごえ)幼(うね)年(ん)にましましけり。
籠(かご)の中(なか)なる何(なに)某(がし)は出(い)づるにも出(い)でられず、命(おほ)せに背(そむ)かば御(おと)咎(が)めあらむと、まじ〳〵として煙(たば)草(こ)を吸(す)へば、幼(えう)君(くん)左(さい)右(う)を顧(かへり)み給(たま)ひ、﹁今(いま)こそ豫(かね)て申(まを)置(しおき)たる二(にに)人(んま)前(へ)の料(れう)理(り)持(も)て參(まゐ)れ﹂と命(めい)ぜらる。既(すで)に獻(こん)立(だて)して待(ま)ちたれば直(たゞ)ちに膳(ぜん)部(ぶ)を御(ごぜ)前(ん)に捧(さゝ)げつ。﹁いま一(いち)膳(ぜん)はいかゞ仕(つかまつ)らむ﹂と伺(うかゞ)へば、幼(えう)君(くん)﹁さればなり其(その)膳(ぜん)は籠(かご)の中(なか)に遣(つか)はせ﹂との御(ぎよ)意(い)、役(やく)人(にん)訝(いぶか)しきことかなと御(おん)顏(かほ)を瞻(みまも)りて猶(ため)豫(ら)へり。
幼(えう)君(くん)は眞(まが)顏(ほ)にて、﹁苦(くる)しからず、早(はや)遣(つか)はせ﹂と促(うなが)し給(たま)ふ。さては仔(しさ)細(い)のあることぞと籠(かご)中(のなか)の人(ひと)に齎(もた)らせたり。彼(かの)男(をとこ)太(いた)く困(こう)じ、身(み)の置(おき)處(どころ)無(な)き状(さま)にて、冷(ひや)汗(あせ)掻(か)きてぞ畏(かしこま)りたる。
爾(その)時(とき)幼(えう)君(くん)おほせには、﹁汝(なんぢ)が獻(こん)立(だて)せし料(れう)理(り)なれば、嘸(さぞ)甘(うま)からむ、予(よ)も此(こ)處(ゝ)にて試(こゝろ)むべし﹂とて御(おん)箸(はし)を取(と)らせ給(たま)へば、恐(おそ)る〳〵﹁御(おん)料(れう)理(り)下(くだ)さる段(だん)、冥(みや)加(うが)身(み)に餘(あま)り候(さふら)へども、此(この)中(なか)にて給(たま)はる儀(ぎ)は、平(ひら)に御(ごめ)免(ん)下(くだ)されたし﹂と侘(わび)しげに申(まを)上(しあ)ぐれば、幼(えう)君(くん)、﹁何(なに)も慰(なぐさみ)なり、辭(じた)退(い)せず、其(その)中(なか)にて相(しや)伴(うばん)せよ﹂と斷(た)つての仰(おほせ)。
慰(なぐさみ)にとのたまふにぞ、苦(くる)しき御(おん)伽(とぎ)を勤(つと)むると思(おも)ひつも、石(いし)を噛(か)み、砂(すな)を嘗(な)むる心(こゝ)地(ち)して、珍(ちん)菜(さい)佳(かか)肴(う)も味(あぢはひ)無(な)く、やう〳〵に伴(しや)食(うばん)すれば、幼(えう)君(くん)太(いた)く興(きよう)じ給(たま)ひ、﹁何(なん)なりとも氣(き)に協(かな)ひたるを、飽(あく)まで食(しよく)すべし﹂と強(しひ)附(つ)け〳〵、御(おん)菓(くわ)子(し)、濃(こい)茶(ちや)、薄(うす)茶(ちや)、などを籠(かご)中(のなか)所(ところ)狹(せま)きまで給(たま)はりつ。とかくして食(しよ)事(くじ)終(をは)れば、續(つゞ)きてはじまる四(よも)方(や)山(ま)の御(おん)物(もの)語(がたり)。
一(いつ)時(とき)餘(あまり)經(た)ちぬれども出(い)でよとはのたまはず、はた出(い)だし給(たま)ふべき樣(やう)子(す)もなし。彼(かの)者(もの)堪(たま)兼(りか)ねて、﹁最(もは)早(や)御(お)出(だ)し下(くだ)さるべし、御(ご)慈(じ)悲(ひ)に候(さふらふ)﹂と乞(こ)ひ奉(たてまつ)る。
幼(えう)君(くん)きつとならせ給(たま)ひて、﹁決(けつ)して出(い)づることあひならず一(いつ)生(しやう)其(その)中(なか)にて暮(くら)すべし﹂と面(おもて)を正(たゞ)してのたまふ氣(けし)色(き)、戲(たはむれ)とも思(おも)はれねば、何(なに)某(がし)餘(あまり)のことに言(ことば)も出(い)でず、顏(かほ)の色(いろ)さへ蒼(あを)ざめたり。
幼(えう)君(くん)﹁さて何(なん)にても食(しよく)を好(この)むべし、いふがまゝに與(あた)ふべきぞ、退(たい)屈(くつ)ならば其(その)中(なか)にて謠(うたひ)も舞(まひ)も勝(かつ)手(て)たるべし。たゞ兩(りや)便(うべん)の用(よう)を達(た)す外(ほか)は外(そと)に出(い)づることを許(ゆる)さず﹂と言(いひ)棄(す)てて座(ざ)を立(た)ち給(たま)ひぬ。
御(おそ)側(ば)の面(めん)々(〳〵)鳥(とり)籠(かご)をぐるりと取(とり)卷(ま)き、﹁御(ごな)難(んじ)澁(ふ)のほど察(さつ)し入(い)る、さて〳〵御(お)氣(き)の毒(どく)のいたり﹂と慰(なぐさ)むるもあり、また、﹁これも御(ごほ)奉(うこ)公(う)なれば怠(おこ)懈(たり)無(な)く御(おつ)勤(とめ)あるべし、上(かみ)の御(おん)慰(なぐさみ)にならるゝばかり、別(べつ)に煩(わづ)雜(らは)しき御(ごよ)用(う)のあるにあらず、食(しよく)は御(おこ)好(のみ)次(しだ)第(い)寢(ね)るも起(おき)るも御(おこ)心(ゝろ)まかせ、さりとは羨(うらや)ましき御(ごき)境(やう)遇(ぐう)に候(さふらふ)﹂と戲(ざれ)言(ごと)を謂(い)ひて笑(わら)ふもあり、甚(はなはだ)しきに到(いた)りては、﹁いかに方(かた)々(〴〵)、御(ごぜ)前(ん)へ申(まを)し、何(なに)某(がし)殿(どの)の御(ごな)内(いし)室(つ)をも一(いつ)所(しよ)に此(この)中(なか)へ入(い)れ申(まを)さむか、雌(つが)雄(ひ)ならでは風(ふぜ)情(い)なく候(さふらふ)﹂などと散(さん)々(〴〵)。
籠(かご)中(のなか)の人(ひと)聲(こゑ)を震(ふる)はし、﹁お人(ひと)の惡(わる)い、斯(かゝ)る難(なん)儀(ぎ)を興(きよう)がりてなぶり給(たま)ふは何(なに)事(ごと)ぞ。君(きみ)の御(おん)心(こゝろ)はいかならむ、實(まこと)に心(こゝ)細(ろぼそ)くなり候(さふらふ)﹂と年(とし)效(がひ)もなく涙(なみだ)を流(なが)す、御(おそ)傍(ば)の面(めん)々(〳〵)も笑(せう)止(し)に思(おも)ひ、﹁いや、さまでに憂(きづ)慮(かひ)あるな、君(きみ)御(おた)戲(はむれ)に候(さふら)はむ、我(われ)等(ら)おとりなし申(まを)すべし﹂といふ。﹁頼(たの)入(みい)候(りさふらふ)﹂と手(て)を合(あは)さぬばかりになむ。
それより一(いち)同(どう)種(いろ)々(〳〵)申(まを)して渠(かれ)を御(ごぜ)前(ん)にわびたりければ、幼(えう)君(くん)ふたゝび御(ごし)出(ゆつ)座(ざ)ありて、籠(かご)中(のなか)の人(ひと)に向(むか)はせられ、﹁其(その)方(はう)さほどまでに苦(くる)しきか﹂とあれば、﹁いかにも堪(たへ)難(がた)く候(さふらふ)、飼(かひ)鳥(どり)をお勸(すゝ)め申(まを)せしは私(わたくし)一(いつ)世(せい)の過(あや)失(まち)、御(ごい)宥(うめ)免(ん)ありたし﹂と只(ひた)管(すら)にわび奉(たてまつ)りぬ。﹁然(しか)らば出(い)でよ。敢(あへ)て汝(なんぢ)を苦(くるし)めて慰(なぐさ)みにせむ所(しよ)存(ぞん)はあらず﹂と許(ゆる)し給(たま)ふに、且(か)つ喜(よろこ)び、且(か)つ恐(おそ)れ、籠(かご)よりはふはふの體(てい)にてにじり出(い)でたり。﹁近(ちか)う來(こ)い、申(まを)聞(しき)かすことあり、皆(みな)の者(もの)もこれへ參(まゐ)れ﹂と御(おこ)聲(ゑが)懸(かり)に、御(おつ)次(ぎ)に控(ひか)へし面(めん)々(〳〵)も殘(のこ)らず左(さい)右(う)に相(あひ)詰(つ)むる。
伊(いづ)豆(のか)守(みゆ)幸(きと)豐(よぎ)君(み)、御(おん)手(て)を膝(ひざ)に置(お)き給(たま)ひ、頭(かうべ)も得(え)上(あ)げで平(へい)伏(ふく)せる彼(か)の何(なに)某(がし)をきつと見(み)て、﹁よくものを考(かんが)へ見(み)よ、汝(なんぢ)が常(つね)に住(す)まへる處(ところ)、知(し)らず、六(ろく)疊(でふ)か、八(はち)疊(でふ)か、廣(ひろ)さも十(じふ)疊(でふ)に過(す)ぎざるべし。其(それ)に較(くら)べて見(み)る時(とき)は、鳥(とり)籠(かご)の中(なか)は狹(せま)けれども、二(にで)疊(ふ)ばかりあるらむを、汝(なんぢ)一(ひと)人(り)の寢(ねお)起(き)にはよも堪(たへ)難(がた)きことあるまじ。其(その)上(うへ)仕(しご)事(と)をさするにあらず、日(にち)夜(や)氣(き)まゝに遊(あそ)ばせて、食(しよ)物(くもつ)は望(のぞ)次(みし)第(だい)、海(うみ)のもの、山(やま)のもの、乞(こ)ふにまかせて與(あた)へむに、悲(かなし)む理(いは)由(れ)は無(な)きはずなり。然(しか)るに二(ふた)時(とき)と忍(しの)ぶを得(え)ず、涙(なみだ)を流(なが)して窮(きう)を訴(うつた)へ、只(ひた)管(すら)籠(かご)を出(い)でむとわぶ、汝(なんぢ)すら其(その)通(とほ)りぞ。況(ま)して鳥(てう)類(るゐ)は廣(くわ)大(うだ)無(いむ)邊(へん)の天(てん)地(ち)を家(いへ)とし、山(やま)を翔(か)けり、海(うみ)を横(よこ)ぎり、自(じざ)在(い)に虚(こく)空(う)を往(わう)來(らい)して、心(こゝろ)のまゝに食(しよく)を啄(は)み、赴(おもむ)く處(ところ)の塒(ねぐら)に宿(やど)る。さるを捕(とら)へて籠(かご)に封(ふう)じて出(い)ださずば、其(その)窮(きう)屈(くつ)はいかならむ。また人(じん)工(こう)の巧(たくみ)なるも、造(ざう)化(くわ)の美(び)には如(し)くべからず、自(しぜ)然(ん)の佳(か)味(み)は人(ひと)造(つく)らじ、されば、鳥(とり)籠(かご)に美(び)を盡(つく)し、心(こゝろ)を盡(つく)して餌(ゑ)を飼(か)ふとも、いかで鳥(てう)類(るゐ)の心(こゝろ)に叶(かな)ふべき。
今(いま)しも汝(なんぢ)が試(こゝろ)みつる、苦(くつ)痛(う)を以(もつ)て推(すゐ)して可(か)なり。渠(かれ)等(ら)とても人(ひと)の心(こゝろ)と何(なに)か分(わか)ちのあるべきぞ。他(た)を苦(くるし)めて慰(なぐさ)まむは心(こゝろ)ある者(もの)のすべきことかは、いかに合(がて)點(ん)のゆきたるか﹂と御(おん)年(と)紀(し)十五の若(わか)君(ぎみ)が御(おん)戒(いましめ)の理(ことわり)に、一(いつ)統(とう)感(かん)歎(たん)の額(ひたひ)を下(さ)げ、高(たか)き咳(しはぶき)する者(もの)無(な)く、さしもの廣(ひろ)室(ま)も蕭(せう)條(でう)たり。まして飼(かひ)鳥(どり)を勸(すゝ)めし男(をとこ)は、君(きみ)の御(ごぜ)前(ん)、人(ひと)の思(おも)はく、消(き)えも入(い)りたき心(こゝ)地(ち)せり。
幼(えう)君(くん)面(おもて)を和(やは)らげ給(たま)ひ、﹁斯(か)う謂(い)はば汝(なんぢ)は太(いた)く面(めん)皮(ぴ)を缺(か)かむが、忠(ちう)義(ぎ)のほどは我(われ)知(し)れり。平(へい)生(ぜい)よく事(つか)へくれ、惡(あ)しきこととて更(さら)に無(な)し、此(この)度(たび)鳥(とり)を勸(すゝ)めしも、予(よ)を思(おも)うての眞(まご)心(ころ)なるを、何(なに)とてあだに思(おも)ふべき。實(じつ)は嬉(うれ)しく思(おも)ひしぞよ。さりながら飼(かひ)鳥(どり)は良(よ)き遊(あそ)戲(び)にあらざるを、汝(なんぢ)は心(こゝ)附(ろづ)かざりけむ、世(よ)に飼(かひ)鳥(どり)を好(この)む者(もの)、皆(みな)其(その)不(ふじ)仁(ん)なるを知(し)らざるなるべし、はじめよりしりぞけて用(もち)ゐざらむは然(さ)ることながら、さしては折(せつ)角(かく)の志(こゝろざし)を無(む)にして汝(なんぢ)の忠(まご)心(ころ)露(あらは)れず、第(だい)一(いち)予(よ)がたしなみにならぬなり。人(ひと)の心(こゝろ)の變(かは)り易(やす)き、今(いま)しかく賢(さかしら)ぶりて、飼(かひ)鳥(どり)の非(ひ)を謂(い)ひつれど、明(みや)日(うにち)を知(し)らず重(かさ)ねて勸(すゝ)むる者(もの)ある時(とき)は、我(われ)また小(こと)鳥(り)を養(やしな)ふ心(こゝろ)になるまじきものにあらず、こゝを思(おも)ひしゆゑにこそ罪(つみ)無(な)き汝(なんぢ)を苦(くる)しめたり、されば今(け)日(ふ)のことを知(し)れる者(もの)、誰(たれ)か同(ひと)一(し)き遊(あそ)戲(び)を勸(すゝ)めむ。よし勸(すゝ)むるものあればとて、予(よ)が心(こゝろ)汝(なんぢ)に恥(は)ぢなば、得(え)て飼(か)ふことをせまじきなり。固(もと)より些(ささ)細(い)のことながら萬(ばん)事(じ)は推(お)して斯(か)くの如(ごと)けむ、向(かう)後(ご)我(わが)身(み)の愼(つゝし)みのため、此(この)上(うへ)も無(な)き記(きね)念(ん)として、彼(か)の鳥(とり)籠(かご)は床(とこ)に据(す)ゑ、見(み)て慰(なぐさ)みとなすべきぞ。斯(かゝ)る風(ふう)聞(ぶん)聞(きこ)えなば、一(いつ)家(かち)中(う)は謂(い)ふに及(およ)ばず、領(りや)分(うぶ)内(んない)の百(ひや)姓(くしやう)まで皆(みな)汝(なんぢ)に鑑(かんが)みて、飼(かひ)鳥(どり)の遊(あそ)戲(び)自(しぜ)然(ん)止(や)むべし。さすれば無(むよ)用(う)の費(つひえ)を節(せつ)せむ、汝(なんぢ)一(いち)人(にん)の奉(ほう)公(こう)にて萬(ばん)人(にん)のためになりたるは、多(おほ)く得(えが)難(た)き忠(ちう)義(ぎ)ぞかし、罪(つみ)無(な)き汝(なんぢ)を辱(はづか)しめつ、嘸(さぞ)心(しん)外(ぐわい)に思(おも)ひつらむが、予(よ)を見(み)棄(す)てずば堪(かん)忍(にん)して、また此(この)後(ご)を頼(たの)むぞよ﹂懇(ねんごろ)にのたまひつも、目(もく)録(ろく)に添(そ)へて金(きん)子(す)十(じふ)兩(りやう)、其(その)賞(しやう)として給(たま)ひければ、一(いち)度(ど)は怨(うら)めしとも口(くや)惜(し)とも思(おも)へりしが、今(いま)は只(たゞ)涙(なみだ)にくれて、あはれ此(この)君(きみ)のためならば、こゝにて死(し)なむと難(あり)有(がた)がる。一(いち)座(ざ)の老(らう)職(しよく)顏(かほ)見(みあ)合(は)せ、年(と)紀(し)恥(はづ)かしく思(おも)ひしとぞ。
此(この)君(きみ)にして此(この)臣(しん)あり、十(じふ)萬(まん)石(ごく)の政(せい)治(ぢ)を掌(たなそこ)に握(にぎ)りて富(ふこ)國(くき)強(やう)兵(へい)の基(もと)を開(ひら)きし、恩(おん)田(だも)杢(く)は、幸(ゆき)豐(とよ)公(ぎみ)の活(くわ)眼(つがん)にて、擢(ぬき)出(んで)られし人(ひと)にぞありける。
眞(さな)田(だ)家(け)の領(りや)地(うち)信(しん)州(しう)川(かは)中(なか)島(じま)は、列(れつ)國(こく)に稀(まれ)なる損(そん)場(ば)にて、年(とし)々(〴〵)の損(そん)毛(まう)大(おほ)方(かた)ならざるに、歴(れき)世(せい)武(ぶ)を好(この)む家(いへ)柄(がら)とて、殖(しよ)産(くさん)の道(みち)發(はつ)達(たつ)せず、貯(ちよ)藏(ざう)の如(いか)何(ん)を顧(かへり)みざりしかば、當(たう)時(じ)の不(ふに)如(よ)意(い)謂(い)はむ方(かた)無(な)かりし。
既(すで)に去(さ)る寛(くわ)保(んぽ)年(ねん)中(ちう)、一(いち)時(じ)の窮(きう)を救(すく)はむため、老(らう)職(しよく)の輩(はい)が才(さい)覺(かく)にて、徳(とく)川(がは)氏(し)より金(きん)子(す)一(いち)萬(まん)兩(りやう)借(しや)用(くよう)ありしほどなれば、幼(えう)君(くん)御(おん)心(こゝろ)を惱(なや)ませ給(たま)ひ、何(なん)とか家(かせ)政(い)を改(かい)革(かく)して國(くに)の柱(はしら)を建(たて)直(なほ)さむ、あはれ良(りや)匠(うしやう)がなあれかしと、あまたある臣(しん)下(かど)等(も)に絶(た)えず御(おん)眼(め)を注(そゝ)がれける。
一(いち)夜(や)幼(えう)君(くん)燈(とう)火(くわ)の下(もと)に典(てん)籍(せき)を繙(ひもと)きて、寂(せき)寞(ばく)としておはしたる、御(おん)耳(みゝ)を驚(おどろ)かして、﹁君(きみ)、密(ひそか)に申(まを)上(しあ)ぐべきことの候(さふらふ)﹂と御(ごぜ)前(ん)に伺(しか)候(う)せしは、君(きみ)の腹(ふく)心(しん)の何(なに)某(がし)なり。幼(えう)君(くん)すなはち褥(しとね)間(まぢ)近(か)く近(ちか)づけ給(たま)ひて、﹁豫(かね)て申(まを)附(しつ)けたる儀(ぎ)はいかゞ計(はか)らひしや﹂﹁吉(きつ)報(ぱう)を齎(もたら)し候(さふらふ)﹂幼(えう)君(くん)嬉(うれ)しげなる御(おけ)氣(し)色(き)にて、﹁そは何(なに)よりなり、早(はや)く語(かた)り聞(きか)せ﹂﹁さん候(さふらふ)、某(それがし)仰(おほせ)を承(うけたまは)り、多(たじ)日(つ)病(やまひ)と稱(しよう)して引(ひき)籠(こも)り、人(ひと)知(し)れず諸(しよ)家(か)に立(たち)入(い)り、内(うち)端(わ)の樣(やう)子(す)を伺(うかゞ)ひ見(み)るに、御(ごか)勝(つ)手(て)空(むな)しく御(おて)手(も)許(と)不(ふに)如(よ)意(い)なるにもかゝはらず、御(ごか)家(ち)中(う)の面(めん)々(〳〵)、分(わ)けて老(らう)職(しよく)の方(かた)々(〴〵)はいづれも存(ぞん)外(ぐわい)有(いう)福(ふく)にて、榮(ええ)燿(う)に暮(くら)すやに相(あひ)見(み)え候(さふらふ)、さるにても下(げな)男(ん)下(げぢ)女(よ)どもの主(しゆ)人(じん)を惡(あし)ざまに申(まを)し、蔭(かげ)言(ごと)を申(まを)さぬ家(いへ)とては更(さら)になく、また親(おや)子(こ)夫(ふう)婦(ふ)相(あひ)親(したし)み、上(しや)下(うか)和(わぼ)睦(く)して家(かな)内(い)に波(なみ)風(かぜ)なく、平(へい)和(わ)に目(め)出(で)度(た)きところは稀(まれ)に候(さふらふ)、總(そう)じて主(しゆ)人(じん)が内(うち)にある時(とき)と、外(そと)に出(い)でし後(のち)と、家(かな)内(い)の有(あり)樣(さま)は、大(たい)抵(てい)天(てん)地(ち)の違(ちがひ)あるが家(いへ)並(なみ)に候(さふらふ)なり。然(しか)るに御(ごら)老(うし)職(よく)末(ばつ)席(せき)なる恩(おん)田(だも)杢(くど)殿(のか)方(た)は一(いつ)家(かな)内(い)能(よ)く治(をさ)まり、妻(さい)女(ぢよ)は貞(てい)に、子(しそ)息(く)は孝(かう)に、奴(ぬ)婢(ひ)の輩(ともがら)皆(みな)忠(ちう)に、陶(たう)然(ぜん)として無(ぶ)事(じ)なること恰(あたか)も元(ぐわ)日(んじつ)の如(ごと)く暮(くら)され候(さふらふ)。されば外(よそ)見(み)には大(だい)分(ぶげ)限(ん)の如(ごと)くなれど、其(その)實(じつ)清(せい)貧(ひん)なることを某(それがし)觀(くわ)察(んさ)仕(つつかまつ)りぬ。此(この)人(ひと)こそ其(その)身(み)治(をさ)まりて能(よく)家(いへ)の治(をさ)まれるにこそ候(さふら)はめ、必(かなら)ず治(ちせ)績(き)を擧(あ)げ得(う)べくと存(ぞん)じ候(さふらふ)﹂と説(と)くこと一(いち)番(ばん)。
幼(えう)君(くん)手(て)を拍(う)ちて、﹁可(よ)し、汝(なんぢ)が觀(み)る處(ところ)予(よ)が心(こゝろ)に合(かな)へり、予(よ)も豫(かね)て杢(もく)をこそと思(おも)ひけれ、今(いま)汝(なんぢ)が説(と)く所(ところ)によりて、愈(いよ)々(〳〵)渠(かれ)が人(じん)材(ざい)を確(たしか)めたり、用(もち)ゐて國(くに)の柱(はしら)とせむか、時(じ)機(き)未(いま)だ到(いた)らず、人(ひと)には祕(ひ)せよ﹂とぞのたまひける。
斯(か)くて幸(ゆき)豐(とよ)君(ぎみ)は杢(もく)を擧(あ)げて、一(いつ)國(こく)の老(らう)職(しよく)となさむと思(おも)はれけるが、もとより亂(らん)世(せい)にあらざれば、取(とり)立(た)ててこれぞといふ功(てがら)は渠(かれ)に無(な)きものを、みだりに重(おも)く用(もち)ゐむは、偏(へん)頗(ぱ)あるやうにて後(うし)暗(ろめた)く、はた杢(もく)を信(しん)ずる者(もの)少(すくな)ければ、其(その)命(めい)令(れい)も行(おこな)はれじ、好(よ)き機(をり)もがなあれかしと時(じ)機(き)の到(いた)るを待(まち)給(たま)ひぬ。
寶(はう)暦(れき)五(ごね)年(ん)春(はる)三(さん)月(ぐわつ)、伊(いづ)豆(のか)守(み)江(え)戸(ど)に參(さん)覲(きん)ありて、多(しば)日(らく)在(ざい)府(ふ)なされし折(をり)から、御(ごし)親(んる)類(ゐ)一(いち)同(どう)參(さん)會(くわい)の事(こと)ありき、幼(えう)君(くん)其(その)座(ざ)にて、﹁列(れつ)座(ざ)の方(かた)々(〴〵)、いづれも豫(かね)て御(ごぞ)存(ん)じの如(ごと)く、某(それがし)勝(かつ)手(て)不(ふに)如(よ)意(い)にて、既(すで)に先(せん)年(ねん)公(こう)義(ぎ)より多(たぶ)分(ん)の拜(はい)借(しやく)いたしたれど、なか〳〵其(それ)にて取(とり)續(つゞ)かず、此(この)際(さい)家(かせ)政(い)を改(かい)革(かく)して勝(かつ)手(て)を整(とゝの)へ申(まを)さでは、一(いつ)家(か)も終(つひ)に危(あやふ)く候(さふらふ)。因(よ)りて倩(つく)々(〴〵)案(あん)ずるに、國(くに)許(もと)に候(さふらふ)恩(おん)田(だも)杢(く)と申(まを)者(すもの)、老(らう)職(しよく)末(ばつ)席(せき)にて年(ねん)少(せう)なれど、きつと器(きり)量(やう)ある者(もの)につき、國(こく)家(か)の政(せい)道(だう)を擧(あ)げて任(まか)せ申(まを)さむと存(ぞん)ずるが、某(それがし)も渠(かれ)も若(じや)年(くねん)なれば譜(ふだ)代(い)の重(ぢう)役(やく)をはじめ家(かち)中(う)の者(もの)ども、決(けつ)して心(しん)服(ぷく)仕(つかまつ)らじ、しかする時(とき)は杢(もく)が命(めい)令(れい)行(おこな)はれで、背(そむ)く者(もの)の出(い)で來(きた)らむには、却(かへつ)て國(こく)家(か)の亂(らん)とならむこと、憂(きづ)慮(かは)しく候(さふらふ)。就(つい)ては近(ちか)頃(ごろ)御(ごむ)無(し)心(ん)ながら、各(かく)位(ゐ)御(ごれ)列(つせ)席(き)にて杢(もく)に大(たい)權(けん)を御(おま)任(か)せ下(くだ)されたし、さすれば、各(かく)位(ゐ)の御(ごゐ)威(と)徳(く)に重(おも)きを置(お)きて、是(ぜ)非(ひ)を謂(い)ふものあるまじければ、何(なに)卒(とぞ)左(さや)樣(う)御(おは)計(か)らひ下(くだ)されたく候(さふらふ)﹂と陳(の)べられしに、一(いち)門(もん)方(がた)幼(えう)君(くん)の明(めい)智(ち)に感(かん)じて、少(しば)時(らく)はたゞ顏(かほ)を見(みあ)合(は)されしが、やがて御(ごあ)挨(いさ)拶(つ)に、﹁御(ごふ)不(に)如(よ)意(い)の儀(ぎ)はいづれも御(ごど)同(うや)樣(う)に候(さふらふ)が、別(べつ)して豆(づし)州(う)︵幸(ゆき)豐(とよ)をいふ︶には御(ごせ)先(んだ)代(い)より將(しや)軍(うぐ)家(んけ)にまでも知(し)れたる御(ごか)勝(つ)手(て)、御(ごな)難(ん)儀(ぎ)の段(だん)察(さつ)し入(い)る處(ところ)なり。然(しか)るに御(ごけ)家(ら)來(い)に天(あつ)晴(ぱれ)器(きり)量(やう)人(じん)候(さふらふ)とな、祝(しふ)着(ぢやく)申(まを)す。さて其(その)者(もの)を取(とり)立(た)つるに就(つ)きて、御(ごけ)懸(ね)念(ん)のほども至(しご)極(くい)致(た)せり。手(てま)前(へ)等(ら)より役(やく)儀(ぎ)申(まを)付(しつ)け候(さふらふ)こと、お易(やす)き御(ごよ)用(う)に候(さふらふ)、先(ま)づ何(なに)はしかれ其(その)杢(もく)とやらむ御(およ)呼(び)寄(よ)せあひなるべし﹂﹁早(さつ)速(そく)の御(ごし)承(よう)引(いん)難(あり)有(がた)候(くさふらふ)﹂と其(その)日(ひ)は館(やかた)に歸(かへ)らせ給(たま)ふ。其(それ)より御(おく)國(にも)許(と)へ飛(ひき)脚(やく)を飛(とば)して、御(ごよ)用(う)の儀(ぎ)これあり、諸(しよ)役(やく)人(にん)ども月(つき)番(ばん)の者(もの)一(いち)名(めい)宛(づゝ)殘(のこ)止(りとゞ)まり、其(その)他(た)は恩(おん)田(だも)杢(く)同(どう)道(だう)にて急(きふ)々(〳〵)出(しゆ)府(つぷ)仕(つかまつ)るべし、と命(めい)じ給(たま)ひければ、こはそも如(い)何(か)なる大(だい)事(じ)の出(で)來(き)つらむと、取(と)るものも取(と)り敢(あ)へず、夜(よ)に日(ひ)についで出(しゆ)府(つぷ)したり。
いづれも心(こゝろ)も心(こゝろ)ならねば、長(ちや)途(うと)の勞(らう)を休(やす)むる閑(ひま)なく、急(いそ)ぎ樣(やう)子(す)を伺(うかゞ)ひ奉(たてまつ)るに何(なに)事(ごと)もおほせ出(い)だされず、ゆる〳〵休(きう)息(そく)いたせとあるに、皆(みな)々(〳〵)不(ふし)審(ん)に堪(た)へざりけり。中(なか)二(ふつ)日(か)置(お)きて一(いち)同(どう)を召(めし)出(い)ださる。依(よ)つて御(ごぜ)前(ん)に伺(しか)候(う)すれば、其(その)座(ざ)に御(ごし)親(んる)類(ゐ)揃(そろ)はせられ威(ゐ)儀(ぎ)堂(だう)々(〳〵)として居(ゐな)流(が)れ給(たま)ふ。一(いち)同(どう)これはと恐(おそ)れ謹(つゝし)みけるに、良(やゝ)ありて幸(ゆき)豐(とよ)公(ぎみ)、御(おん)顏(かほ)を斜(なゝめ)に見(みか)返(へ)り給(たま)ひ、﹁杢(もく)、杢(もく)﹂と召(め)し給(たま)へば、遙(はる)か末(まつ)座(ざ)の方(かた)にて、阿(あ)と應(いら)へつ、白(はく)面(めん)の若(わか)武(ざむ)士(らひ)、少(すこ)しく列(れつ)よりずり出(い)でたり。
其(その)時(とき)、就(なか)中(んづく)御(おと)歳(しよ)寄(り)の君(きみ)つと褥(しとね)を進(すゝ)め給(たま)ひ、﹁御(ごよ)用(う)の趣(おもむき)餘(よ)の儀(ぎ)にあらず、其(その)方(はう)達(たち)も豫(かね)て存(ぞん)ずる如(ごと)く豆(づし)州(う)御(おか)勝(つて)手(も)許(と)不(ふに)如(よ)意(い)につき、此(この)度(たび)御(ごか)改(いか)革(く)相(あひ)成(な)る奉(ぶぎ)行(やう)の儀(ぎ)、我(われ)等(ら)相(さう)談(だん)の上(うへ)にて、杢(もく)汝(なんぢ)に申(まを)付(しつ)くるぞ、辭(じた)退(い)はかまへて無(むよ)用(う)なり﹂と嚴(おごそか)に申(まを)渡(しわた)さるれば、並(なみ)居(ゐ)る老(らう)職(しよく)、諸(しよ)役(やく)人(にん)、耳(みゝ)を欹(そばだ)て眼(め)をれり。
老(らう)公(こう)重(かさ)ねて、﹁これより後(のち)は汝(なん)等(ぢら)一(いち)同(どう)杢(もく)に從(したが)ひ渠(かれ)が言(げん)に背(そむ)くこと勿(なか)れ、此(この)儀(ぎ)しかと心(こゝ)得(ろえ)よ﹂と思(おも)ひも寄(よ)らぬ命(めい)なれば、いづれも心(しん)中(ちう)には不(ふへ)平(い)ながら、異(い)議(ぎ)を稱(とな)ふる次(しだ)第(い)にあらねば、止(や)むことを得(え)ずお請(うけ)せり。
前(ぜん)刻(こく)より無(むご)言(ん)にて平(へい)伏(ふく)したる恩(おん)田(だも)杢(く)は此(この)時(とき)はじめて頭(かうべ)を擡(もた)げ、﹁ものの數(かず)ならぬ某(それがし)に然(さ)る大(たい)役(やく)を命(おほ)せつけ下(くだ)され候(さふらふ)こと、一(いつ)世(せい)の面(めん)目(ぼく)に候(さふら)へども、暗(あん)愚(ぐと)斗(せ)の某(それがし)、得(え)て何(なに)事(ごと)をか仕(し)出(い)だし候(さふらふ)べき、直(ぢき)々(〳〵)御(ごそ)訴(しよ)訟(う)は恐(おそ)れ入(い)り候(さふらふ)が、此(この)儀(ぎ)は平(ひら)に御(ごめ)免(ん)下(くだ)さるべく候(さふらふ)﹂と辭(じた)退(い)すれば、老(らう)公(こう)、﹁謙(けん)讓(じやう)もものにぞよる、君(きみ)より命(めい)ぜられたる重(おも)荷(に)をば、辭(じ)して荷(にな)はじとするは忠(ちう)にあらず、豆(づし)州(う)が御(ごか)勝(つ)手(て)不(ふに)如(よ)意(い)なるは、一(いつ)朝(てう)一(いつ)夕(せき)のことにはあらじを、よしや目(めざ)覺(ま)しき改(かい)革(かく)は出(で)來(き)ずとも、誰(たれ)も汝(なんぢ)の過(あや)失(まち)とは謂(い)はじ、唯(たゞ)誠(まこと)をだに守(まも)らば可(か)なり。とにもかくにも試(こゝろ)みよ﹂と寛(くわ)裕(んゆう)なる御(おん)言(ことば)の傍(そば)よりまた幸(ゆき)豐(とよ)公(ぎみ)、﹁杢(もく)、辭(じた)退(い)すな〳〵、俄(にはか)に富(とみ)は造(つく)らずとも、汝(なんぢ)が心(こゝろ)にて可(よ)しと思(おも)ふやうにさへいたせば可(よ)し﹂と觀(み)るところを固(かた)く信(しん)じて人(ひと)を疑(うたが)ひ給(たま)はぬは、君(きみ)が賢(けん)明(めい)なる所(ゆゑ)以(ん)なるべし。
此(こゝ)に於(おい)て杢(もく)は最(もは)早(や)辭(じ)するに言(ことば)無(な)く、﹁さまでにおほせ下(くだ)され候(さふら)へば、きつと畏(かしこま)り候(さふらふ)、某(それがし)が不(ふせ)肖(う)なる、何(なに)を以(もつ)て御(おこ)言(とば)に報(むく)い奉(たてまつ)らむ、たゞ一(いち)命(めい)を捧(さゝ)ぐることをこそ天(てん)地(ち)に誓(ちか)ひ候(さふら)へ﹂と思(おも)ひ切(き)つてお請(うけ)申(まを)せば、列(れつ)座(ざ)の方(かた)々(〴〵)滿(まん)足(ぞく)々(/)々(\)とのたまふ聲(こゑ)ずらりと行(ゆき)渡(わた)る。但(たゞし)老(らう)職(しよく)諸(しよ)役(やく)人(にん)は不(ふま)滿(んぞ)足(く)の色(いろ)面(おもて)に露(あらは)れたり。
杢(もく)逸(いち)早(はや)くこれを悟(さと)りて、きつと思(しあ)案(ん)し、上(かみ)に向(むか)ひて手(て)を支(つか)へ、﹁某(それがし)重(おも)き御(おや)役(く)目(め)を蒙(かうむ)り候(さふらふ)上(うへ)は一(いち)命(めい)を賭(かけ)物(もの)にして何(なに)にても心(こゝろ)のまゝにいたしたく候(さふらふ)。さるからに御(ごら)老(うし)職(よく)、諸(しよ)役(やく)人(にん)いづれも方(がた)某(それがし)が言(ことば)に背(そむ)かざるやう御(おや)約(くそ)束(く)ありたく候(さふらふ)﹂と憚(はゞか)る處(ところ)も無(な)く申(まを)上(しあ)ぐれば、御(おん)年(とし)役(やく)聞(きこ)し召(め)し、﹁道(もつ)理(とも)の言(いひ)條(でう)なり﹂とてすなはち一(いち)同(どう)に誓(せい)文(もん)を徴(ちよう)せらる。
老(らう)職(しよく)の輩(やから)は謂(い)ふも更(さら)なり、諸(しよ)役(やく)人(にん)等(ら)も、愈(いよ〳〵)出(い)でて、愈(いよ〳〵)不(ふへ)平(い)なれども、聰(そう)明(めい)なる幼(えう)君(くん)をはじめ、御(ごい)一(ちも)門(ん)の歴(れき)々(〳〵)方(がた)、殘(のこ)らず御(ごど)同(う)意(い)と謂(い)ひ、殊(こと)に此(この)席(せき)に於(おい)て何(なに)といふべき言(ことば)も出(い)でず、私(わたくし)ども儀(ぎ)、何(なに)事(ごと)に因(よ)らず改(かい)革(かく)奉(ぶぎ)行(やう)の命(めい)令(れい)に背(そむ)き候(さふらふ)まじく、いづれも杢(もく)殿(どの)手(てあ)足(し)となりて、相(あひ)働(はたら)き、忠(ちう)勤(きん)を勵(はげ)み可(まを)申(すべ)候(くさふらふ)と、澁(しぶ)々(〳〵)血(けつ)判(ぱん)して差(さし)上(あ)ぐれば、御(おん)年(とし)役(やく)一(いち)應(おう)御(ごら)覽(ん)の上(うへ)、幸(ゆき)豐(とよ)公(ぎみ)に參(まゐ)らせ給(たま)へば、讀(どく)過(くわ)一(いち)番(ばん)、頷(うなづ)き給(たま)ひ、卷(まき)返(かへ)して高(たか)く右(め)手(て)に捧(さゝ)げられ、左(ゆん)手(で)を伸(の)べて﹁杢(もく)、﹂﹁は﹂と申(まを)して御(おん)間(まぢ)近(か)に進(すゝ)出(みい)づれば、件(くだん)の誓(せい)文(もん)をたまはりつ。幼(えう)君(くん)快(くわ)活(いくわつ)なる御(おん)聲(こゑ)にて、﹁予(よ)が十(じふ)萬(まん)石(ごく)勝(かつ)手(て)にいたせ。﹂
明治三十年十月
●表記について
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●﹇#…﹈は、入力者による注を表す記号です。
●﹁くの字点﹂をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。