吾われ聞きく、東とう坡ばが洗こを兒あら詩ふしに、人ひと皆みな養こを子やし望なう聰てそ明うめいをのぞむ。我われ被そう聰めい明をか誤うむ一りて生いつしやうをあやまる。孩がい兒じぐ愚にし且てか魯つおろかに、無さい災なく無なん難なく到こう公けい卿にいたれ。
又また李りは白くの子こを祝しゆくする句くに曰いはく、揚さか杯づき祝をあ願げて無しゆ他くす語ねがふにたにごなく、謹つゝ勿しん頑でぐ愚わん似ぐな汝るな爺んぢ矣のちゝににることなかれ。家かて庭い先せん生せい以もつて如いか何んとなす?
吾われ聞きく、昔むかしは呉ごだ道う子し、地ぢご獄くへ變んさ相うの圖づを作つくる。成せい都との人ひと、一ひと度たび是これを見みるや咸こと〴〵く戰せん寒かんして罪つみを懼おそれ、福ふくを修しうせざるなく、ために牛ぎう肉にく賣うれず、魚うを乾かわく。
漢かんの桓くわ帝んていの時とき、劉りう褒はう、雲うん漢かんの圖づを畫ゑがく、見みるもの暑しよを覺おぼゆ。又また北ほく風ふうの圖づを畫ゑがく、見みるもの寒かんを覺おぼゆ。
呉ごの孫そん權けん、或ある時とき、曹さう再さい興こうをして屏びや風うぶに畫ゑがかしむ、畫ぐわ伯はく筆ふでを取とつて誤あやまつて落おとして素しろきに點てん打うつ。因よつてごまかして、蠅はへとなす、孫そん權けん其その眞しんなることを疑うたがうて手てを以もつて彈はじいて姫きを顧かへりみて笑わらふといへり。王わう右うし丞ようが詩しに、屏びや風うぶ誤あや點まり惑てん孫じて郎そんらうをまどはす。團だん扇せん草のさ書うし輕よな内いし史をかろんず。
吾われ聞きく、魏ぎの明めい帝てい、洛らく水すゐに遊あそべる事ことあり。波なみ蒼あをくして白はく獺だつあり。妖えう婦ふの浴よくするが如ごとく美びにして愛あいす可べし。人ひとの至いたるを見みるや、心こゝろある如ごとくして直たゞちに潛かくる。帝てい頻しきりに再ふたゝび見みんことを欲ほつして終つひに如いか何んともすること能あたはず。侍じち中う進すゝんで曰いはく、獺だつや鯔しぎ魚よを嗜たしむ、猫ねこにまたゝびと承うけたまはる。臣しん願ねがはくは是これを能よくせんと、板いたに畫ゑがいて兩りや生うせいの鯔しぎ魚よを躍をどらし、岸きしに懸かけて水みづを窺うかゞふ。未いまだ數すう分ふんならざるに、群ぐん獺だつ忽たちまち競きそ逐ひおうて、勢いきおひ死しを避さけず、執とら得へえて輙すなはち獻けんず。鯔しぎ魚よを畫ゑがくものは徐じよ景けい山ざん也なり。
劉りう填てんが妹いもうとは陽やう王わうの妃ひなり。陽やう王わう誅ちうせられて後のち追つゐ慕ぼ哀あい傷しやうして疾やまひとなる。婦ふじ人んの此この疾やまひ古いにしへより癒いゆること難かたし。時ときに殷いん※せん﹇#﹁くさかんむり/倩﹂、58-7﹈善よく畫ゑがく、就なか中んづく人ひとの面おもてを寫うつすに長ちやうず。劉りう填てん密ひそかに計はかりごとを案あんじ、※せん﹇#﹁くさかんむり/倩﹂、58-7﹈に命めいじて鏡きや中うちう雙さう鸞らんの圖づを造つくらしむ、圖づする處ところは、陽やう王わう其その寵ちよ姫うひの肩かたを抱いだき、頬ほゝを相あひ合あはせて、二ふた人りニヤ〳〵として將まさに寢いねんと欲ほつするが如ごときもの。舌したたるくして面おもてを向むくべからず。取とつて以もつて乳う媼ばをして妹まい妃ひに見みせしむ。妃ひ、嬌けう嫉しつ火ひの如ごとく、罵のゝしつて云いはく、えゝ最もうどうしようねと、病やまひ癒いえたりと云いふ。敢あへて説せつあることなし、吾われ聞きくのみ。
明治四十年二月