序
越中の国立たて山やまなる、石いわ滝たきの奥深く、黒百合となんいうものありと、語るもおどろおどろしや。姫百合、白百合こそなつかしけれ、鬼と呼ぶさえ、分けてこの凄すさまじきを、雄々しきは打笑い、さらぬは袖そで几ぎち帳ょうしたまうらむ。富山の町の花売は、山やま賤がつの類たぐいにあらず、あわれに美しき女なり。その名の雪の白きに愛でて﹇#﹁愛でて﹂は底本では﹁愛でで﹂﹈、百合の名の黒きをも、濃い紫と見たまえかし。
明治三十五年寅壬三月
﹇#改ページ﹈
一
﹁島野か。﹂
午ひる少し過ぐる頃、富山県知事なにがしの君が、四あえ十もの物ちょ町うの邸やしきの門で、活溌に若い声で呼んだ。
呼ばれたのは、知事の君が遠縁の法学生、この邸に奇きぐ寓うする食しょ客っかくであるが、立寄れば大おお樹きの蔭で、涼しい服みな装り、身軽な夏服を着けて、帽を目まぶ深かに、洋ステ杖ッキも細いので、猟犬ジャム、のほうずに耳の大おおきいのを後うしろに従え、得々として出懸ける処ところ、澄ましていたのが唐だし突ぬけに、しかも呼よび棄ずてにされたので。
およそ市中において、自分を呼棄てにするは、何なに等らの者であろうと、且つ怪あやしみ、且つ憤って、目を尖とがらして顔を上げる。
﹁島野。﹂
﹁へい、﹂と思わず恐入って、紳士は止やむことを得ず頭かしらを下げた。
﹁勇ゆ美みさんは居るかい。﹂と言いさま摺すれ違い、門を入ろうとして振向いて言ったのは、十八九の美少年である。絹セルの単ひと衣え、水色縮ちり緬めんの帯を背うし後ろに結んだ、中背の、見るから蒲ほり柳ゅうの姿に似ないで、眉も眦まなじりもきりりとした、その癖口くち許もとの愛くるしいのが、パナマの帽子を無造作に頂いて、絹の手ハン巾ケチの雪のような白いのを、泥に染めて、何か包んだものを提げている。
成程これならば、この食客的紳士が、因ってもって身の金きん箔ぱくとする処の知事の君をも呼棄てにしかねはせぬ。一国の門もん閥ばつ、先代があまねく徳を布しいた上に、経済の道宜よろしきを得たので、今も内福の聞えの高い、子爵千ち破は矢や家の当主、すなわち若君滝たき太たろ郎うである。
﹁お宅でございます、﹂と島野紳士は渋々ながら恭うやうやしい。
﹁学校は休やすみかしら。﹂
﹁いえ、土はん曜ど日んなんで、﹂
﹁そうか、﹂と謂いい棄てて少年はずッと入った。
﹁ちょッ。﹂
その後を見送って、島野はつくづく舌打をした。この紳士の不平たるや、単に呼棄てにされて、その威厳の幾分を殺そがれたばかりではない。誰たれも誰も一見して直ちに館やかたの飼犬だということを知って、これを従えた者は、知事の君と別懇の者であるということを示す、活いきた手形のようなジャムの奴やつが、連れて出た己おのれを棄てて、滝太郎の後から尾を振りながら、ちょろちょろと入ったのであった。
﹁恐れるな。小こて天ん狗ぐめ、﹂とさも悔しげに口の内に呟つぶやいて、洋ステ杖ッキをちょいとついて、小こき刻ざみに二ツ三ツ地つちの上をつついたが、懶ものうげに帽の前を俯うつ向むけて、射る日を遮さえぎり、淋さみしそうに、一人で歩き出した。
﹁ジャム、﹂
真まっ先さきに駈かけて入った猟犬をまず見着けたのは、当館やかたの姫ひい様さまで勇ゆ美み子という。襟は藤色で、白地にお納戸で薩さつ摩まじ縞まの単ひと衣え、目のぱッちりと大きい、色のくッきりした、油気の無い、さらさらした癖の無い髪を背せなへ下げて、蝦えび茶ちゃのリボン飾かざり、簪かざしは挿さず、花はな畠ばたけの日ひな向たに出ている。
二
この花畠は――門を入ると一面の芝生、植込のない押おっ開ぴらいた突つき当あたりが玄関、その左の方が西洋造づくりで、右の方が廻まわり廊下で、そこが前栽になっている。一体昔の大名の別邸を取払った幾分の造作が残ったのに、件くだんの洋風の室まか数ずを建て増したもので、桃色の窓まど懸かけを半ば絞った玄関傍わきの応接所から、金々として綺き羅らびやかな飾附の、呼よび鈴りん、巻まき莨たば入こいれ、灰皿、額縁などが洩もれて見える――あたかもその前にわざと鄙ひなめいた誂あつらえで。
日ひぐ車るまは莟つぼみを持っていまだ咲かず、牡ぼた丹んは既に散果てたが、姫ひめ芥げ子しの真まっ紅かの花は、ちらちらと咲いて、姫がものを言う唇のように、芝生から畠を劃かぎって一面に咲いていた三さん色しき菫すみれの、紫と、白と、紅くれないが、勇美子のその衣えも紋んと、その衣きぬとの姿に似て綺麗である。
﹁どうして、﹂
体は大おおきいが、小こど児ものように飛着いて纏まつわる猟犬のあたまを抑おさえた時、傍わき目めも触ふらないで玄関の方へ一文字に行ゆこうとする滝太郎を見着けた。
﹁おや、﹂
同時に少年も振返って、それと見ると、芝生を横よこ截ぎって、つかつかと間近に寄って、
﹁ちょいとちょいと、今日はね、うんと礼を言わすんだ、拝んで可いいな。﹂と莞に爾こ々に々こしながら、勢いきおいよく、棒を突出したようなものいいで、係かけ構かまいなしに、何か嬉しそう。
言葉つきなら、仕打なら、人の息女とも思わぬを、これがまた気に懸けるような娘でないから、そのまま重たげに猟犬の頭かしらを後うしろに押おし遣やり、顔を見て笑って、
﹁何?﹂
﹁何だって、大変だ、活いきてるんだからね。お姫様なんざあ学者の先生だけれども、こいつあ分らない。﹂と件くだんの手ハン巾ケチの包を目の前へ撮つまんでぶら下げた。その泥が染にじんでいる純まっ白しろなのを見て、傾いて、
﹁何です。﹂
﹁見ると驚くぜ、吃びっ驚くりすらあ、草だね、こりゃ草なんだけれど活きてるよ。﹂
﹁は、それは活きていましょうとも。草でも樹でも花でも、皆みんな活きてるではありませんか。﹂という時、姫芥子の花は心ありげに袂たもとに触れて閃ひらめいた。が、滝太郎は拗すねたような顔かお色つきで、
﹁また始めたい、理窟をいったってはじまらねえ。可いからまあ難あり有がとうと、そういってみねえな、よ、厭いやなら止よせ。﹂
﹁乱暴ねえ、﹂
﹁そっちアまた強情だな、可いじゃあないか難有う……と。﹂
﹁じゃアまああっちへ参りましょう。﹂
と言いかけて勇美子は身を返した。塀の外をちらほらと人の通るのが、小さな節穴を透すかして遙はるかに昼の影かげ燈どう籠ろうのように見えるのを、熟じっと瞻みまもって、忘れたように跪つい居いる犬を、勇美子は掌てのひらではたと打って、
﹁ほら、﹂
ジャムは二三尺飛とび退すさって、こちらを向いて、けろりとしたが、衝つと駈かけ出だして見えなくなった。
﹁活きてるんだな。やっぱり。﹂といって滝太郎一笑す。
振向いて見たばかり、さすがこれには答えないで、勇美子は先に立って鷹おう揚ようである。
三
﹁いらっしゃいまし。﹂
縁側に手を支つかえて、銀いち杏ょう返がえしの小間使が優しと容やかに迎えている。後あと先さきになって勇美子の部屋に立向うと、たちまち一種身に染みるような快い薫かおりがした。縁の上も、床の前も、机の際も、と見ると芳かんばしい草と花とで満みたされているのである。ある物は乾燥紙の上に半ば乾き、ある物は圧おし板いたの下に露を吐き、あるいは台紙に、紫、紅あか、緑、樺かば、橙だい色だいいろの名なご残りを留とどめて、日あたりに並んだり。壁に五段ばかり棚を釣って、重ね、重ね、重ねてあるのは、不のこ残らず種類の違った植物の標本で、中には壜びんに密閉してあるのも見える。山、池、野原、川岸、土ど堤て、寺、宮の境内、産地々々の幻をこの一室に籠こめて物もの凄すごくも感じらるる。正面には、紫の房々とした葡ぶど萄うの房を描いて、光線を配あしらった、そこにばかり日の影が射さして、明るいようで鮮かな、露垂るばかりの一面の額、ならべて壁に懸けた標本の中なる一輪の牡ぼた丹んの紅くれないは、色はまだ褪あせ果てぬが、かえって絵のように見えて、薄暗い中へ衝つと入った主あるじの姫が、白と紫を襲かさねた姿は、一種言うべからざる色彩があった。
﹁道、﹂
﹁は、﹂と、答いらえをし、大人しやかな小間使は、今座に直った勇美子と対さし向むかいに、紅べに革かわの蒲ふと団んを直して、
﹁千破矢様の若様、さあ、どうぞ。﹂
帽子も着たままで沓くつ脱ぬぎに突つっ立たってた滝太郎は、突いき然なり縁に懸けて後うしろざまに手を着いたが、不思議に鳥の鳴く音ねがしたので、驚いて目をって、また掌てのひらでその縁の板の合せ目を圧おさえてみた。
﹁何だい、鳴るじゃあないか、きゅうきゅういってやがら、おや、可おか訝しいな。﹂
﹁お縁側が昔のままでございますから、旧もとは好もの事ずきでこんなに仕懸けました。鶯うぐ張いすばりと申すのでございますよ。﹂
小間使が老ま実め立だっていうのを聞いて、滝太郎は恐入った顔かお色つきで、
﹁じゃあ声を出すんだろう、木だの、草だの、へ、色々なものが生きていら。﹂
﹁何をいってるのよ。﹂と勇美子は机の前に、整ちゃ然んと構えながら苦笑する。
﹁どう遊ばしましたの。﹂
取とり為なし顔がおの小間使に向って、
﹁聞きねえ、勇さんが、ね、おい。﹂
﹁あれ、また、乱暴なことを有おっ仰しゃいます。﹂と微ほほ笑えみながら、道は馴なれ々なれしく窘たしなめるがごとくに言った。
﹁御ごよ容う子すにも御身分にもお似合い遊ばさない、ぞんざいな言ことばっかし。不いけ可ねえだの、居やがるだのッて、そんな言ことは御邸の車夫だって、部屋へ下って下の者同士でなければ申しません。本当に不い可けませんお道楽でございますねえ。﹂
﹁生意気なことをいったって、不いけ可ねえや、畏かしこまってるなあ冬のこッた。ござったのは食物でみねえ、夏向は恐れるぜ。﹂
﹁そのお口だものを、﹂といって驚いて顔を見た。
﹁黙って、見るこッた、折角お珍らしいのに言もん句くをいってると古くしてしまう。﹂といいながら、急いで手ハン巾ケチを解ほどいて、縁の上に拡げたのは、一掴つかみ、青い苔こけの生えた濡土である。
勇美子は手を着いて、覗のぞくようにした。眉を開いて、艶あて麗やかに、
﹁何です。﹂
滝太郎は背せなを向けてぐっと澄まし、
﹁食いつくよ、活きてるから。﹂
四
﹁まあ、若様、あなた、こっちへお上り遊ばしましな。﹂と小間使は一塊の湿った土をあえて心にも留めないのであった。
﹁面倒臭いや、そこへ入り込むと、畏かしこまらなけりゃならないから、沢山だい。﹂といって、片足を沓くつ脱ぬぎに踏伸ばして、片膝を立てて頤おとがいを支えた。
﹁また、そんなことを有おっ仰しゃらないでさ。﹂
﹁勝手でございますよ。﹂
﹁それではまあお帽子でもお取り遊ばしましな、ね、若様。﹂
黙っている。心ここ易ろや立すだてに小間使はわざとらしく、
﹁若様、もし。﹂
﹁堪忍しねえ、いやな。﹂
滝太郎はさも面倒そうに言い棄てて、再び取合わないといった容子を見せたが、俯うつ向むいて、足に近い飛石の辺ほとりを屹きっと見た。渠かれはいといって小間使に謝したけれども、今瞳を据えた、パナマの夏帽の陰なる一双の眼まなこは、極めて冷静なものである。小間使は詮せん方かたなげに、向直って、
﹁お嬢様、お茶を入れて参りましょう。﹂
勇美子は余念なく滝太郎の贈物を視ながめていた。
﹁珈コオ琲ヒイにいたしましょうか。﹂
﹁ああ、﹂
﹁ラムネを取りに遣わしましょうか。﹂
﹁ああ、﹂とばかりで、これも一向に取合わないので、小間使は誠に張合がなく、
﹁それでは、﹂といって我ながら訳も解らず、あやふやに立とうとする。
﹁道、﹂
﹁はい。﹂
﹁冷おひ水やが可いぜ、汲くみ立たてのやつを持って来てくんねえ、後生だ。﹂
といいも終らず、滝太郎はつかつかと庭に出て、飛石の上からいきなり地つちの上へ手を伸ばした、疾はやいこと! 掴つかまえたのは一疋の小さな蟻あり。
﹁おいらのせいじゃあないぞ、何だ、蟻のような奴が、譬たとえにも謂いわあ、小さな体をして、動いてら。おう、堪忍しねえ、おいらのせいじゃあないぞ。﹂といいいい取って返して、縁側に俯うつ向むいて、勇美子が前髪を分けたのに、眉を隠して、瞳を件くだんの土産に寄せて、
﹁見ねえ。﹂
勇美子は傍わき目めも触ふらないでいた。
しばらくして滝太郎は大得意の色を表して、莞にっ爾こと微ほほ笑えみ、
﹁ほら、ね、どうだい、だから難あり有がとうッて、そう言いねえな。﹂
﹁どこから。﹂といって勇美子は嬉しそうな、そして頭つむりを下げていたせいであろう、耳みみ朶もとに少し汗が染にじんで、の染まった顔を上げた。
﹁どこからです、﹂
﹁え、﹂と滝太郎は言いい淀よどんで、面かおの色が動いたが、やがて事も無げに、
﹁何、そりゃ、ちゃんと心得てら。でも、あの余計にゃあ無いもんだ。こいつあね、蠅じゃあ大きくって、駄目なの、小さな奴なら蜘く蛛もの子位は殺やッつけるだろう。こら、恐こわいなあ、まあ。﹂
心なく見たらば、群がった苔の中で気は着くまい。ほとんど土の色と紛まがう位、薄うす樺かば色いろで、見ると、柔かそうに湿しめりを帯びた、小さな葉が累かさなり合って生えている。葉はさ尖きにすくすくと針を持って、滑なめらかに開いていたのが、今蟻を取って上へ落すと、あたかも意識したように、静々と針を集めて、見る見る内に蟻を擒とりこにしたのである。
滝太郎は、見て、その験げんあるを今更に驚いた様子で、
﹁ね、特別に活きてるだろう。﹂
五
﹁何でも崖がけ裏か、藪やぶの陰といった日陰の、湿った処で見着けたのね?﹂
﹁そうだ、そうだ。﹂
滝太郎は邪じゃ慳けんに、無愛想にいって目も放さず見ていたが、
﹁ヤ、半分ばかり食べやがった。ほら、こいつあ溶けるんだ。﹂
﹁まあ、ここに葉のまわりの針の尖さきに、一ツずつ、小さな水玉のような露を持っててね。﹂
﹁うむ、水が懸かかって、溜たまっているんだあな、雨上りの後だから。﹂
﹁いいえ、﹂といいながら勇美子は立って、室へやを横ぎり、床柱に黒塗の手提の採集筒と一所にある白しろ金かな巾きんの前まえ懸かけを取って、襟へあてて、ふわふわと胸膝を包んだ。その瀟しょ洒うしゃな風ふう采さいは、あたかも古武士が鎧よろいを取って投懸けたごとく、白拍子が舞まい衣ぎぬを絡まとうたごとく、自家の特色を発揮して余あまりあるものであった。
勇美子は旧もとの座に直って、机の上から眼レン鏡ズを取って、件くだんの植物の上に翳かざし、じっと見て、
﹁水じゃあないの、これはこの苔が持っている、そうね、まあ、あの蜘蛛が虫を捕える糸よ。蟻だの、蚋ぶゆだの、留まると遁のがさない道具だわ。あなた名を知らないでしょう、これはね、モウセンゴケというんです、ちょいとこの上から御覧なさい。﹂と、眼レン鏡ズを差向けると、滝太郎は何をという仏頂面で、
﹁詰つまらねえ、そんなものより、おいらの目が確たしかだい。﹂といって傲ごう然ぜんとした。
しかり、名も形も性質も知らないで、湿地の苔の中に隠れ生えて、虫を捕獲するのを発見した。滝太郎がものを見る力は、また多とすべきものである。あらかじめ﹇#﹁あらかじめ﹂は底本では﹁あからじめ﹂﹈書ほ籍んに就いて、その名を心得、その形を知って、且ついかなる処で得らるるかを学んでいるものにも、容易に求あ猟さられない奇品であることを思い出した勇美子は、滝太郎がこの苔に就いて、いまだかつて何等の知識もないことに考え到いたって、越中の国富山の一箇所で、しかも薄暗い処でなければ産しない、それだけ目に着きやすからぬ不思議な草を、不用意にして採集して来たことに思い及ぶと同時に、名は知るまいといって誇ったのを、にわかに恥じて、差さし翳かざした高慢な虫眼鏡を引込めながら、行儀悪くほとんど匍はら匐ばいになって、頬ほお杖づえを突いている滝太郎の顔を瞻みまもって、心から、
﹁あなたの目は恐こわいのね。﹂と極めて真ま面じ目めにしみじみといった。
勇美子は年と紀しも二ツばかり上である。去年父母に従うてこの地に来たが、富山より、むしろ東京に、東京よりむしろ外国に、多く年月を経た。父は前さきに仏フラ蘭ン西スの公使館づきであったから、勇美子は母とともに巴パリ里イに住んで、九ツの時から八年有余、教育も先むこ方うで受けた、その知識と経験とをもて、何等かこの貴公子に見所があったのであろう、滝太郎といえばかねてより。……
六
﹁よく見着けて採って来てねえ、それでは私に下さるんですか、頂いておいても宜よろしいの。﹂
﹁だから難あり有がとうッて言いねえてば、はじめから分ってら。﹂と滝太郎は有した為りが顔おで嬉しそう。
﹁いいえ、本当に結構でございます。﹂
勇美子はこういって、猶ため予らって四あた辺りを見たが、手をその頬の辺あたりへ齎もたらして唇を指に触れて、嫣えん然ぜんとして微ほほ笑えむと斉ひとしく、指ゆび環わを抜き取った。玉の透通って紅あかい、金こん色じきの燦さんたるのをつッと出して、
﹁千破矢さん、お礼をするわ。﹂
頤あご杖づえした縁側の目の前さきに、しかき贈物を置いて、別に意こころにも留めない風で、滝太郎はモウセンゴケを載せた手ハン巾ケチの先を――ここに耳を引ひっ張ぱるべき猟犬も居ないから――摘つまんでは引きながら、片足は沓くつ脱ぬぎを踏まえたまま、左で足太鼓を打つ腕白さ。
﹁取っておいて下さいな。﹂
まるで知らなかったのでもないかして、
﹁いりやしねえよ。さあ、とうとう蟻を食っちゃった、見ねえ、おい。﹂
勇美子は引ひっ手た繰ぐられるように一膝出て、わずかに敷居に乗らないばかり。
﹁よう、おしまいなさいよ。﹂といったが、端はしたなくも見えて、急せき込む調子。
﹁欲ほしかアありませんぜ。﹂
﹁お厭いや。﹂
﹁それにゃ及ばないや。﹂
﹁それではお礼としないで、あの、こうしましょうか、御褒美。﹂と莞にっ爾こりする。
﹁生意気を言っていら、﹂
滝太郎は半ば身を起して腰をかけて言い棄てた。勇美子は返すべき言葉もなく、少年の顔を見るでもなく、モウセンゴケに並べてある贈物を見るでもなく、目の遣やり処に困った風情。年上の澄ました中うちにも、仇あど気けなさが見えて愛々しい。顔を少し赤らめながら、
﹁ただ上げては失礼ね、千破矢さん、その指環。﹂
﹁え、﹂と思わず手を返した、滝太郎の指にも黄き金んの一ひと条すじの環わが嵌はまっている。
﹁取替ッこにしましょうか。﹂
﹁これをかい。﹂
﹁はあ、﹂
勇美子は快活に思い切った物言いである。
滝太郎は目を円つぶらにして、
﹁不いけ可ねえ。こりゃ、﹂
﹁それでは、ただ下さいな。﹂
﹁うむ。﹂
﹁取替えるのがお厭なら。﹂
﹁止しねえ、お前めえ、お前さんの方がよッぽど可いいや、素晴しいんじゃないか。俺おいらのこの、﹂
と斜ななめに透かして、
﹁こりゃ、詰つまらない。取替えると損だから、悪いことは言わないぜ、はははは、﹂と笑ったが、努めて紛らそうとしたらしい。
勇美子は燃ゆるがごとき唇を動かして、動かして、
﹁惜しいの、大事なんですか。﹂
﹁うむ、大事なんだ。﹂といい放って、縁を離れてそのまますッくと立った。
﹁帰けえったら何か持たして寄よ越こさあ、邸でも、庫くらでも欲しかあ上げよう、こいつあ、後生だから堪忍しねえ。﹂
勇美子も慌あわただしく立つ処へ、小間使は来て、廻縁の角へ優しと容やかに現れた。何にも知らないから、小腰を屈かがめて、
﹁お嬢様、例いつぞの花売の娘が参っております。若様、もうお忘れ遊ばしたでしょう、冷おひ水やは毒でございますよ。﹂
七
場末ではあるけれども、富山で賑にぎやかなのは総そう曲が輪わという、大手先。城の外そと壕ぼりが残った水みず溜たまりがあって、片側町に小こあ商きゅ賈うどが軒を並べ、壕に沿っては昼夜交代に露ほし店みせを出す。観みせ世も物の小屋が、氷こお店りみせに交まじっていて、町まち外はずれには芝居もある。
ここに中空を凌しのいで榎えのきが一本、梢こずえにははや三日月が白く斜ななめに懸かかった。蝙こう蝠もりが黒く、見えては隠れる横町、総曲輪から裏の旅はた籠ごま町ちという大おお通どおりに通ずる小路を、ひとしきり急いそ足ぎあしの往ゆき来きがあった後へ、もの淋さみしそうな姿で歩あ行るいて来たのは、大人しやかな学生風の、年配二十五六の男である。
久留米の蚊かが飛す白りに兵へこ児お帯びして、少し皺しわになった紬つむぎの黒の紋もん着つきを着て、紺足袋を穿はいた、鉄色の目立たぬ胸むな紐ひもを律義に結んで、懐中物を入れているが、夕ゆう涼すずみから出懸けたのであろう、帽は被かぶらず、髪の短かいのが漆うるしのようで、色の美しく白い、細面の、背のすらりとしたのが、片手に帯を挟んで、俯うつ向むいた、紅も絹みの切きれで目を軽く押えながら、物思いをする風で、何か足あし許もとも覚おぼ束つかないよう。
静かに歩を移して、もう少しで通とおりへ出ようとする、二間けん幅の町の両側で、思いも懸けず、喚わッ! といって、動ど揺よめいた、四五人の小こど児もが鯨と波きを揚げる。途端に足を取られた男は、横様にはたと地つちの上。
﹁あれ、﹂という声、旅籠町の角から、白い脚きゃ絆はん、素足に草わら鞋じば穿きの裾すそを端はし折ょった、中形の浴衣に繻しゅ子すの帯の幅はば狭ぜまなのを、引ひっ懸かけに結んで、結んだ上へ、桃色の帯おび揚あげをして、胸高に乳の下へしっかと〆しめた、これへ女扇をぐいと差して、膝の下の隠れるばかり、甲斐々々しく、水色唐とう縮ちり緬めんの腰巻で、手てぬ拭ぐいを肩に当て、縄からげにして巻いた茣ご蓙ざを軽かろげに荷になった、商あきない帰り。町や辻では評判の花売が、曲角から遠くもあらず、横町の怪け我がを見ると、我を忘れたごとく一ひと飛とびに走り着いて、転んだ地つちへ諸共に膝を折敷いて、扶たすけ起そうとする時、さまでは顛てん動どうせず、力なげに身を起して立つ。
﹁どこも怪我はしませんか。﹂と人目も構わず、紅絹を持った男の手に縋すがらぬばかりに、ひたと寄って顔を覗のぞく。
﹁やあい、やあい。﹂
﹁盲めく目らやあい、按あん摩まは針り。﹂と囃はやしたので、娘は心着いて、屹きっと見て、立直った。
﹁おいらのせいじゃあないぞ、﹂
﹁三年先の烏のせい。﹂
甲かん走ばしった早口に言い交わして、両側から二列に並んで遁にげ出した。その西の手から東の手へ、一ひと条すじの糸を渡したので町幅を截きって引ひっ張ぱり合って、はらはらと走り、三ツ四ツ小さな顔が、交かわる交がわる見返り、見返り、
﹁雁がんが一羽懸かかった、﹂
﹁懸った、懸った。﹂
﹁晩のお菜かずに煮て食おう。﹂と囃しざま、糸に繋つながったなり一ひと団かたまりになったと見ると、大おおきな廂ひさしの、暗い中へ、ちょろりと入って隠れてしまった。
藤が巻附く、茨が留める、
茨放せや、帯ゃ切れる、
さあい、さんさ、よんさの、よいやな。
と女の子のあどけないのが幾人たりか声を揃えて唄うのが、町を隔てて彼あな方たに聞える。
二人は聞いて立並んで、黙って、顔を見て吻ほっと息。
八
﹁小こど児も衆ですよ、不い可けません。両方から縄を引ひっ張ぱって、軒下に隠れていて、人が通ると、足へ引ひッ懸かけるんですもの、悪いことをしますねえ。﹂
﹁お雪さん、﹂と言いかけて、男はその淋しげな顔を背けた。声は、足を搦からんで僵たおされた五分を経ない後のちにも似ず、落着いて沈んでいる。
﹁はい、どこも何ともなさいませんか。﹂
お雪と呼ばれた花売の娘は、優しく男の胸の辺りで百合の姿のしおらしい顔を、傾けて仰いで見た。
﹁いえ、何、擦すり剥むきもしないようだ。﹂と力なく手を垂れて、膝の辺りを静しずかに払はたく。
﹁まあ、砂がついて、あれ、こんなに、﹂と可うら怨めしそうに、袖についた埃ほこりを払おうとしたが、ふと気を着けると、袂たもとは冷ひや々ひやと湿りを持って、塗まみれた砂も落尽くさず、またその漆黒な髪もしっとりと濡れている。男の眉は自おのずから顰ひそんで、紅も絹みの切きれで、赤々と押えた目の縁ふちも潤んだ様子。娘は袂に縋すがったまま、荷を結えた縄の端を、思わず落そうとしてしっかり取った。
﹁今帰るのかい。﹂
﹁は……い。﹂
﹁暑いのに随分だな。﹂
思入って労ねぎらう言葉。お雪は身に染み、胸に応こたえて、
﹁あなた。﹂
﹁ああ、﹂
﹁お医者様は、﹂
問われて目を圧おさえた手が微かすかに震え、
﹁悪い方じゃあないッていうが、どうも捗はか々ばかしくは行ゆかぬそうだ。なりたけまあ大事にして、ものを見ないようにする方が可いいっていうもんだから、ここはちょうど人通の少い処、密そっと目を塞ふさいで探って来たので、ついとんだ羂わなに蹈ふみ込こんださ、意い気く地じはないな、忌いま々いましい。﹂
とさりげなく打うち頬ほほ笑えむ。これに心を安んじたか、お雪もやや色を直して、
﹁どうぞまあ、お医者様を内へお呼び申すことにして、あなたはお寝よって、何にもしないでいらっしゃるようにしたいものでございますね。﹂
﹁それは何、懇意な男だから、先さ方きでもそう言ってくれるけれども、上手なだけ流行るので隙ひまといっちゃあない様子、それも気の毒じゃあるし、何、寝ているほどの事もないんだよ。﹂
﹁でも、随分お悪いようですよ。そしてあの、お帰かえ途りに湯にでもお入りなすったの。﹂
考えて、
﹁え、なぜね。﹂
﹁お頭つむりが濡れておりますもの。﹂
﹁む、何ね、そうか、濡れてるか、そうだろう﹇#﹁そうだろう﹂は底本では﹁そうだらう﹂﹈。医者が冷ひやしてくれたから。﹂と、詰なじられて言いい開ひらきをする者のような弱い調子で、努めて平気を装って言った。
﹁冷しますと、お薬になるんですか。﹂と袂を持つ手に力が入ると、男は心着いて探ってみたが、苦笑して
﹁おお、湿った手拭を入れておいたな、だらしのない、袂が濡れた。成る程女おか房みさんには叱られそうなこッた。﹂
﹁あれ、あんなことをいっていらっしゃるよ。﹂と嬉しそうに莞にっ爾こりしたが、これで愁しゅ眉うびが開けたと見える。
﹁御一所に帰りましょうか。﹂
﹁別々に行ゆこうよ、ちっと穏おだやかでないから。いや、大丈夫だ。﹂
﹁気を着けて下さいましよ。﹂
九
男ふた女りが前後して総そう曲が輪わへ出て、この町の角を横切って、往ゆき来きの早い人中に交まじって見えなくなると、小こど児もがまた四五人一団になって顕あらわれたが、ばらばらと駈かけて来て、左右に分れて、旧もとのごとく軒下に蹲しゃがんで隠れた。
月の色はやや青く、蜘く蛛もはその囲いを営むのに忙せわしい。
その時旅はた籠ごま町ちの通とおりの方から、同じこの小路を抜けようとして、薄暗い中に入って来たのは、一人にんの美少年。
パナマの帽を前下り、目も隠れるほど深く俯うつ向むいたが、口笛を吹くでもなく、右の指の節を唇に当て、素肌に着た絹セルの単ひと衣えの衣えも紋んを緩くつろげ――弥やぞ蔵うという奴――内懐に落した手に、何か持って一心に瞻みつめながら、悠々と歩を移す。小間使が言った千破矢の若君という御ごよ容う子すはどこへやら、これならば、不いけ可ねえの、居やがるのと、いけぞんざいなことも言いそうな滝太郎。
﹁ふん。﹂
片かた微ほえ笑みをして、また懐の中を熟じっと見て、
﹁おいらのせいじゃあないぞ。﹂と仇あだ口ぐちに呟つぶやいた。
﹁やあい、やい﹂
﹁盲めく目らやあい。﹂
小こど児もは一いち時どきに哄どッと囃したが、滝太郎は俯向いたまま、突当ったようになって立たち停どまったばかり、形も崩さず自若としていた。
膝の辺りへ一ひと条すじの糸が懸かかったのを、一生懸命両方から引ひっ張ぱって、
﹁雁が一羽懸った、﹂
﹁懸った、懸った、﹂と夢中になり、口々に騒ぎ立つのは、大方獲物が先さっ刻きのごとく足を取られたと思ったろう。幼いものは、驚す破わというと自分の目を先に塞ふさぐのであるから、敵の動静はよくも認めず、血迷ってただ燥はしゃぐ。
左右をして、叱りもしない、滝太郎の涼しやかな目は極めて優しく、口くち許もとにも愛あい嬌きょうがあって、柔和な、大人しやかな、気高い、可なつ懐かしいものであったから、南なむ無さ三ん仕損じたか、逃にげ後おくれて間拍子を失った悪いた戯ずら者もの。此こい奴つ羽はば搏たきをしない雁だ、と高を括くくって図々しや。
﹁ええ、そっちを引張んねえ。﹂
﹁下へ、下へ、﹂
﹁弛ゆるめて、潜くぐらせやい。﹂
﹁巻付けろ。﹂
遊軍に控えたのまで手を添えて、搦からめ倒そうとする糸が乱れて、網の目のように、裾、袂、帯へ来て、懸っては脱はずれ、また纏まとうのを、身動きもしないで、彳たたずんで、目も放さず、面白そうに見ていたが、やや有って、狙ねらいを着けたのか、ここぞと呼吸を合わせた気けは勢い、ぐいと引く、糸が張った。
滝太郎は早速に押当てていた唇を指から放すと、薄うす月づきにきらりとしたのは、前さきに勇美子に望まれて、断乎として辞し去った指環である。と見ると糸はぷつりと切れて、足も、膝も遮るものなく、滝太郎の身は前へ出て、見返りもしないで衝つと通った。
そのまま総曲輪へ出ようとする時、背うし後ろではわッといって、我がちに遁にげ出す跫あし音おと。
蜘蛛の子は、糸を切られて、驚いて散ちり々ぢりなり。
﹁貰ったよ。﹂
滝太郎は左右をし、今度は憚はばからず、袂から出して、掌たなそこに据えたのは、薔ば薇らの薫かおりの蝦えび茶ちゃのリボン、勇美子が下さげ髪がみを留めていたその飾である。
十
土地の口こう碑ひ、伝うる処に因れば、総曲輪のかの榎えのきは、稗はい史しが語る、佐さっ々さな成りま政さがその愛あい妾しょう、早百合を枝に懸けて惨殺した、三百年の老おい樹きの由。
髪を掴つかんで釣つるし下げた女の顔の形をした、ぶらり火というのが、今も小雨の降る夜が更けると、樹の股またに懸かかるというから、縁起を祝う夜よあ商きん人どは忌み憚はばかって、ここへ露店を出しても、榎の下は四方を丸く明けて避ける習なら慣わし。
片側の商あき店ないみせの、夥おびただしい、瓦が斯す、洋ラン燈プの灯と、露店のかんてらが薄くちらちらと黄たそ昏がれの光を放って、水打った跡を、浴衣着、団うち扇わを手にした、手拭を提げた漫そぞ歩ろあるきの人通、行ゆき交ちがい、立たち換かわって賑にぎやかな明あかるい中に、榎の梢こずえは蓬ほう々ほうとしてもの寂しく、風が渡る根際に、何者かこれ店を拡げて、薄暗く控えた商あき人んどあり。
ともすると、ここへ、痩やせ枯がれた坊主の易者が出るが、その者は、何となく、幽霊を済度しそうな、怪しい、そして頼たの母もしい、呪文を唱える、堅固な行者のような風ふう采さいを持ってるから、衆ひとの忌む処、かえって、底の見えない、霊験ある趣を添えて、誰もその易者が榎の下に居るのを怪しまぬけれども、今夜のはそれではない。
今灯を点つけたばかり、油煙も揚らず、かんてらの火も新しい、店の茣ご蓙ざの端に、汚れた風呂敷を敷いて坐り込んで、物馴なれた軽口で、
﹁召しませぬか、さあさあ、これは阿オラ蘭ン陀ダトッピイ産の銀流し、何どな方たもお煙きせ管るなり、お簪かんざしなり、真しん鍮ちゅう、銅あかがね、お試しなさい。鍍めっ金き、ガラハギをなさいましても、鍍金、ガラハギは、鍍金ガラハギ、やっぱり鍍金、ガラハギは、ガラハギ。﹂
と尻ッ刎ぱねの上調子で言って、ほほと笑った。鉄か漿ねを含んだ唇赤く、細面で鼻筋通った、引ひき緊しまった顔立の中ちゅ年うど増しま。年と紀しは二十八九、三十でもあろう、白地の手てぬ拭ぐいを姉あねさん被かぶりにしたのに額は隠れて、あるのか、無いのか、これで眉が見えたらたちまち五ツばかりは若やぎそうな目につく器量。垢あか抜ぬけして色の浅黒いのが、絞しぼりの浴衣の、糊のりの落ちた、しっとりと露に湿ったのを懊うる悩さげに纏まとって、衣えも紋んも緩くつろげ、左の手を二の腕の見ゆるまで蓮はす葉はに捲まくったのを膝に置いて、それもこの売物の広告か、手に持ったのは銀の斜なな子こう打ちの女煙管である。
氷こお店りみせの白しろ粉く首びにも、桜木町の赤襟にもこれほどの美なるはあらじ、ついぞ見懸けたことのない、大道店の掘出しもの。流れ渡りの旅たび商あき人んどが、因縁は知らずここへ茣ご蓙ざを広げたらしい。もっとも総曲輪一円は、露店も各てん自でんに持場が極きまって、駈かけ出だしには割込めないから、この空地へ持って来たに違いない。それにしても大胆な、女の癖にと、珍しがるやら、怪あやしむやら。ここの国も物見高で、お先走りの若いのが、早や大勢。
婦おん人なは流るるような瞳を廻めぐらし、人だかりがしたのを見て、得意な顔かお色つき。
﹁へい、鍍めっ金きは鍍金、ガラハギはガラハギ、品物に品が備わりませぬで、一目見てちゃんと知れる。どこへ出しても偽いか物ものでございますが、手前商いまする銀流しを少々、﹂と言いかけて、膝に着いた手を後うしろへ引き、煙管を差置いて箱の中の粉を一いち捻ねんし、指を仰あお向むけて、前へ出して、つらりと見せた。
﹁ほんの纔わずかばかり、一撮つまみ、手ハン巾ケチ、お手拭の端、切きれッ屑くず、お鼻紙、お手許お有合せの柔かなものにちょいとつけて、﹂
婦おん人なは絹の襤ぼろ褸き切れ﹇#﹁襤褸切﹂は底本では﹁襤褄切﹂﹈に件くだんの粉を包んで、俯うつ向むいて、真鍮の板金を取った。
お掛けなさいまし、お休みなさいましと、間近な氷店で金切声。夜よし芝ば居いの太鼓、どろどろどろ、遥はるかに聞える観みせ世も物のの、評判、評判。
十一
﹁訳のないこと、子供衆しゅでも誰でも出来る。ちょいと水をつけておいて、柔かにぐいぐいとこう遣やりさえすりゃ、あい、鷹たか化して鳩はととなり、傘からかさ変わって助六となり、田でん鼠そ化して鶉うずらとなり、真鍮変じて銀となるッ。﹂
﹁雀すず入めか海いち中ゅう為にい蛤ってはまぐりとなるか。﹂と、立合の中うちから声を懸けるものがあった。
婦おん人なはその声の主ぬしを見透そうとするごとく、人顔をじろりと見廻わし、黙って莞にっ爾こりして、また陳のべ立たてる。
﹁さあさあ召して下さい、召して下さいよ。御当地は薬が名物、津々浦々までも効能が行渡るんでございますがね、こればかりは看板を掛けちゃ売らないのですよ。一家秘法の銀ぎん流ながし、はい、やい、お立合のお方は御遠慮なく、お持合せ﹇#﹁お持合せ﹂は底本では﹁お待合せ﹂﹈のお煙管なり、お簪かんざしなり、これへ出してお験ためしなさいまし、目の前で銀にしてお慰なぐさみに見せましょう、御遠慮には及びません。﹂
といってちょいと句切り、煙管を手にして、莨たばこを捻ひねりながら、動静を伺って、
﹁さあさあ、誰どな方たでもどうでござんす。﹂
若い同士耳打をするのがあり、尻を突つついて促すのがあり、中には耳を引ひっ張ぱるのがある。止せ、と退しさる、遣やッ着つけろ、と出る、ざまあ見ろ、と笑うやら、痛え、といって身みも悶だえするやら、一斉に皆うようよ。有触れた銀流し、汚い親おや仁じなら何事もあるまい、いずれ器量が操る木で偶くであろう。
﹁姉ねえや。﹂
この時、人の背うし後ろから呼んだ、しかしこれは、前に黄な声を発して雀海中に入いってを云うん々ぬんしたごとき厭いや味みなものではない。清すずしい活溌なものであった。
婦おん人なは屹きっと其そな方たを見る、トまた悪わる怯びれず呼懸けて、
﹁姉や、姉や。﹂
﹁何でございますか、は、私わたくし、﹂
﹁指環でも出来るかい。﹂
﹁ええ、出来ますとも、何でもお出しなさいましよ。﹂
﹁そう、﹂と極めてその意を得たという調子で、いそいそずッと出て、店みせ前さきの地つちへ伝法に屈かがんだのは、滝太郎である。遊あそ好びずきの若様は時間に関らず、横町で糸を切って、勇美子の頭かみ飾かざりをどうして取ったか、人知れず掌たなそこに弄もてあそんだ上に、またここへ来てその姿を顕あらわした。
滝太郎は、さすがに玉のような美しい手を握って、猶ため予らわず、売物の銀流の粉この包、お験しの真鍮板、水入、絹の切などを並べた女の膝の前に真まっ直すぐに出した。指環のきらりとするのを差向けて、
﹁こいつを一つ遣やってくんねえな。﹂
立合の手合はもとより、世擦れて、人馴れて、この榎の下を物ともせぬ、弁舌の爽さわやかな、見るから下っ腹に毛のない姉あね御ごも驚いて目をった。その容よう貌ぼう、その風ふう采さい、指環は紛うべくもない純金であるのに、銀流しを懸けろと言うから。
﹁これですかい。﹂
﹁ちょいと遣っておくんな。﹂
﹁結構じゃありませんかね。﹂
﹁お銭あしがなくっちゃあ不い可けねえか、ここにゃ持っていねえんだが、可よかったらつけてくんねえ。後で持たして寄よ越こすぜ。﹂
と真顔でいう、言葉つき、顔形、目の中うちをじっと見ながら、
﹁そんな吝けちじゃアありませんや。お望のぞみなら、どれ、附けて上げましょう。﹂と婦おん人なは切の端に銀流を塗まぶして、滝太郎の手を密そっと取った。
﹁ようよう、﹂とまた後うしろの方で、雀海中に入った時のごとき、奇なる音声を発する者あり。
十二
﹁可いいぜ、可いぜ、沢山だ、﹂と滝太郎はやや有って手を引こうとする、ト指の尖さきを握ったのを放さないで、銀流の切きれを摺すり着つけながら、
﹁よくして上げましょう、もう少しですから。﹂
﹁沢山だよ。﹂
﹁いいえ、これだけじゃあ綺麗にはなりません。﹂と婦おん人なは急に止やめそうにもない。
﹁さあ、大変。﹂
﹁お静しずかに、お静に。﹂
﹁構わず、ぐっと握るべしさ、﹂
﹁しっかり頼むぜ。﹂
などと立合はわやわやいうのを、澄すましたもので、
﹁口くち切きりの商あきないでございます、本ほん磨みがきにして、成程これならばという処を見せましょう、これから艶つや布ぶき巾んをかけて、仕上げますから。﹂
﹁止せ。﹂
滝太郎の声はやや激して、振放そうとして力を入れる。押えて動かさず、
﹁ま、もうちっと辛抱をなさいましな、これから裏の方を磨きましょうね。﹂
婦おん人なはこういいつつ、ちらちらと目をつけて、指環の形、顔、服みな装り、天あた窓まから爪つま先さきまで、屹きっと見てはさりげなく装うのを、滝太郎は独り見て取って、何か憚はばかる処あるらしく、一度は一度、婦おん人なが黒い目で睨にらむ数の重かさなるに従うて、次第に暗々裡りに己おのれを襲うものが来きたり、近ちかづいて迫るように覚えて、今はほとんど耐たえ難がたくなったと見え、知らず知らず左の手が、片手その婦おん人なに持たれた腕に懸かかって、力を添えて放そうとする。肩は聳そびえ、顔には薄く血を染めて、滝太郎は眉を顰ひそめた。
﹁可いッてんだい。﹂
﹁お待ち!﹂とばかりで婦おん人なも商売を忘れて、別に心あって存するごとく、瞳を据えて面おもてを合せた。
ちょうどその時、四五十歩を隔てた、夜店の賑かな中を、背うし後ろの方で、一声高く、馬の嘶いななくのが、往来の跫あし音おとを圧して近々と響いた。
と思うと、滝太郎は、うむ、といって、振向いたが、吃びっ驚くりしたように、
﹁義作だ、おう、ここに居るぜ。﹂
﹁ちょいと、﹂
﹁ええ、﹂
﹁あれ、﹂といって振返された手を押えた。指の間には紅くれない一滴、見る見る長くなって、手首へ掛けて糸を引いて血が流れた。
﹁姉ねえさん、﹂
﹁どうなすった。﹂
押おッ魂たま消げた立合は、もう他人ではなくなって、驚いて声を懸ける。滝太郎はもう影も見えない。
婦おん人なは顔の色も変えないで、切きれで、血を押えながら、姉ねえさん被かぶりのまま真まあ仰お向のけに榎を仰いだ。晴れた空も梢こずえのあたりは尋た常だならず、木こだ精まの気けは勢い暗々として中空を籠こめて、星の色も物もの凄すごい。
﹁おや、おや、おかしいねえ、変だよ、奇体なことがあるものだよ。露か知らん、上の枝から雫しずくが落ちたそうで、指が冷ひやりとしたと思ったら、まあ。﹂
﹁へい、引ひっ掻かいたんじゃありませんか。﹂
﹁今のが切ったんじゃないんですかい。﹂
﹁指環で切れるものかね、御常談を、引掻いたって、血が流れるものですか。﹂
﹁さればさ。﹂
﹁厭いやだ、私は、﹂と薄気味の悪そうな、悄しょげた様子で、婦おん人なは人の目に立つばかり身みぶ顫るいをして黙った。榎の下寂せきとして声なし、いずれも顔を見合せたのである。
十三
﹁何だね、これは。﹂
﹁叱しっ、﹂と押えながら、島野紳士のセル地の洋服の肱ひじを取って、――奥を明け広げた夏座敷の灯が漏れて、軒のき端ばには何の虫か一ひと個つ唸うなりを立ててはたと打ぶ着つかってはまた羽音を響かす、蚊が居ないという裏町、俗にお園小路と称となえる、遊廓桜木町の居まわりに在り、夜更けて門かど涼すずみの団扇が招くと、黒板塀の陰から頬ほお被かぶりのぬっと出ようという凄すごい寸法の処柄、宵の口はかえって寂ひっ寞そりしている。――一軒の格子戸を背うし後ろへ退すさった。
これは雀ささ部べ多磨太といって、警部長なにがし氏の令息で、島野とは心ここ合ろあいの朋友である。
箱を差したように両人気はしっくり合ってるけれども、その為ひと人となりは大いに違って、島野は、すべて、コスメチック、香水、巻シガ莨レット、洋ステ杖ッキ、護ゴム謨ぐ靴つという才子肌。多磨太は白しろ薩さつ摩まのやや汚れたるを裾すそ短みじかに着て、紺染の兵へこ児お帯びを前下りの堅かた結むすび、両方腕うで捲まくりをした上に、裳もすそを撮つま上みあげた豪傑造り。五分刈にして芋のようにころころと肥えた様子は、西郷の銅像に肖にて、そして形なりの低い、年と紀しは二十三。まだ尋常中学を卒業しないが、試験なんぞをあえて意とするような吝けちなのではない。
島野を引ひっ張ぱり着けて、自分もその意気な格子戸を後うしろに五六歩。
﹁見たか。﹂
島野は瘠やせぎすで体も細く、釣つり棹ざおという姿で洋ステ杖ッキを振った。
﹁見た、何さ、ありゃ。門札の傍わきへ、白で丸い輪を書いたのは。﹂
﹁井戸でない。﹂
﹁へえ。﹂
﹁飲用水の印ではない、何じゃ、あれじゃ。その、色事の看板目印というやつじゃ。まだ方々にあるわい。試みに四五軒見しょう、一所に来う、歩きながら話そうで。まずの、﹂
才子と豪傑は、鼠のセル地と白薩摩で小路の黄たそ昏がれの色に交まじり、くっ着いて、並んで歩く。
ここに注意すべきは多磨太が穿はき物ものである。いかに辺幅を修せずといって、いやしくも警部長の令息で、知事の君の縁者、勇美子には再また従いと兄こに当る、紳士島野氏の道みち伴づれで、護謨靴と歩を揃えながら、何たる事! 藁わら草ぞう履りの擦切れたので、埃ほこりをはたはた。
歩きながら袂を探って、手帳と、袂たも草とくそと一所くたに掴つかみ出した。
﹁これ見い、﹂
紳士は軽く目を注いで、
﹁白墨かい。﹂
﹁はははは、白墨じゃが、何と、﹂
﹁それで、﹂と言懸けて、衣かく兜しに堆うずだかく、挟んでおく、手ハン巾ケチの白いので口の辺あたりをちょいと拭ふいた。
﹁うむ、おりゃ、近頃博愛主義になってな、同好の士には皆みんな見せてやる事にした。あえてこの慰なぐさみを独どく擅せんにせんのじゃで、到いたる処俺が例の観察をして突留めた奴の家うちには、必ず、門札の下へ、これで、ちょいとな。﹂
﹁ふん、はてね。﹂
﹁貴様今見たか、あれじゃ、あの形じゃ。目立たぬように丸い輪を付けておくことにしたんじゃ。﹂
﹁御趣向だね。﹂
﹁どうだ、今の家うちには限らずな、どこでも可よいぞ、あの印の付いた家を随時窺うかがって見い。殊に夜な、きっと男と女とで、何かしら、演しば劇いにするようなことを遣っとるわ。﹂
十四
多磨太は言懸けて北ほく叟そ笑えみ、
﹁貴様も覚えておいてちと慰みに覗のぞいて見い。犬川でぶらぶら散歩して歩いても何の興味もないで、私わしがあの印を付けておく内は不のこ残らず趣味があるわい。姦通かな、親々の目を盗んで密会するかな、さもなけりゃ生いの命ちがけで惚ほれたとか、惚れられたとかいう奴等、そして男の方は私わし等ら構わんが、女どもはいずれも国色じゃで、先生難あり有がたいじゃろ。﹂
ぎろりとした眼で島野を見ると、紳士は苦笑して、
﹁変ったお慰なぐさみだね、よくそして見付けますなあ。﹂
﹁ははあ、なんぞ必ずしも多く労するを用いん。国民皆堕だら落く、優柔淫いん奔ぽんになっとるから、夜分なあ、暗い中へ足を突つッ込こんで見い。あっちからも、こっちからも、ばさばさと遁にげ出だすわ、二疋ずつの、まるでもって蟷かま螂きりが草の中から飛ぶようじゃ。其そい奴つの、目星い処を選えり取とって、縦横に跡を跟つけるわい。ここぞという極めが着いた処で、印を付けておくんじゃ。私わしも初手の内は二軒三軒と心覚えにしておいたが、蛇じゃの道は蛇へびじゃ、段々その術に長ずるに従うて、蔓つるを手繰るように、そら、ぞろぞろ見付かるで。ああ遣って印をして、それを目めあ的てにまた、同好の士な、手下どもを遣わす、巡査、探偵などという奴が、その喜ぶこと一ひと通とおりでないぞ。中には夜行をするのに、あの印ばかり狙ねらいおる奴がある。ぐッすり寐ね込こんででもいようもんなら、盗どろ賊ぼうが遁にげ込こんだようじゃから、なぞというて、叩き起して周あ章わてさせる。﹂
﹁酷ひどいことを!﹂
島野は今更のように多磨太の豪傑面づらを瞻みまもった。
﹁何なに其そい等らはほんの前芸じゃわい。一体何じゃぞ、手下どもにも言って聞かせるが、野郎と女と両方夢中になっとる時は常識を欠いて社会の事を顧みぬじゃから、脱ぬか落りがあってな、知らず知らず罪を犯しおるじゃ。私わしはな、ただ秘密ということばかりでも一種立派な罪悪と断ずるで、勿論市役所へ届けた夫婦には関係せぬ。人の目を忍ぶほどの中の奴なら、何か後暗いことをしおるに相違ないでの。仔しさ細いに観察すると、こいつ禁きん錮こするほどのことはのうても、説諭位はして差支えないことを遣っとるから、掴つかみ出して警察で発あばかすわい。﹂
﹁大変だね。﹂
﹁発くとの、それ親に知れるか、亭主に知れるか、近所へ聞える。何でも花火を焚たくようなもので、その途端に光輝天に燦さん爛らんするじゃ。すでにこないだも東の紙屋の若い奴が、桜木町である女と出来合って、意気事を極きめるちゅうから、癪しゃくに障ってな、いろいろ験しらべたが何事もないで、為しか方たがない、内に居る母おふ親くろが寺参まいりをするのに木綿を着せて、汝うぬが傾じょ城ろう買かいをするのに絹を纏まとうのは何たることじゃ、という廉かどをもって、説諭をくらわした。﹂
﹁それで何かね、警察へ呼出しかね。﹂
﹁ははあ、幾ら俺が手下を廻すとって、まさかそれほどの事では交番へも引ひっ張ぱり出せないで、一名制服を着けて、洋サア刀ベルを佩おびた奴を従えて店みせ前さきへ喚わめき込んだ。﹂
﹁おやおや、﹂
﹁何、喧嘩をするようにして言って聞かせても、母おふ親くろは昔気かた質ぎで、有るものを着んのじゃッて。そんなことを構うもんか、こっちはそのせいで藁わら草ぞう履りを穿はいて歩いてる位じゃもの。﹂
さなり、多磨太君の藁草履は、人の跡を跟つけるのに跫あし音おとを立てぬ用意である。
十五
﹁それからの、山田下の植木屋の娘がある、美人じゃ。貴様知ってるだろう、あれがな、次助というて、近所の鋳物師の忰せがれと出来た。先月の末、闇やみの晩でな、例のごとく密行したが、かねて目印の付いてる部じゃで、密そっと裏口へ廻ると、木戸が開いていたから、庭へ入った。﹂
﹁構わず?﹂
﹁なに咎とがめりゃ私わしが名乗って聞かせる、雀部といえば一ひと縮ちぢみじゃ。貴様もジャムを連れて堂々濶かっ歩ぽするではないか、親の光は七光じゃよ。こうやって二人並んで歩けばみんな途みちを除よけるわい。﹂
島野は微笑して黙って頷うなずいた。
﹁はははは、愉快じゃな。勿論、淫いん魔まを駆って風紀を振粛し、且つ国民の遊ゆう惰だを喝破する事業じゃから、父おや爺じも黙諾の形じゃで、手下は自在に動くよ。既にその時もあれじゃ、植木屋の庭へこの藁草履を入れて掻かき廻まわすと、果せるかな、、蟷かま螂きり。﹂
﹁まさか、﹂
﹁うむ、植木屋の娘と其そい奴つと、貴様、植込の暗い中に何か知らん歎いておるわい。地面の上で密会なんざ、立山と神通川とあって存する富山の体面を汚けがすじゃから、引ひき摺ずり出だした。﹂
﹁南なむ無さん三ぽ宝う、はははは。﹂
﹁挙動が奇怪じゃ、胡うろ乱んな奴等、来い! と言うてな、角の交番へ引ひっ張ぱって行って、吐ぬかせと、二ツ三ツ横よこ面ッつらをくらわしてから、親どもを呼出して引渡した。ははは、元来東洋の形勢日に非なるの時に当って、植込の下で密会するなんざ、不ふら埒ち至極じゃからな。﹂
﹁罪なこッたね、悪い悪いた戯ずらだ、﹂と言懸けて島野は前後を見て、杖ステッキを突いた、辻の角で歩を停とどめたので。
﹁どこへ行ゆこうかね。﹂
榎の梢こずえは人の家の物干の上に、ここからも仰いで見らるる。
﹁総曲輪へ出て素ひや見かそうか。まあ来いあそこの小間物屋の女房にも、ちょいと印が付いておるじゃ。﹂
﹁行き届いたもんですな。﹂
﹁まだまだこれからじゃわい。﹂
﹁さよう、君のは夜が更けてからがおかしいだろうが、私は、その晩おそくなると家うちが妙でないから失敬しよう。﹂
﹁ははあ、どこぞ行くんかい。﹂
﹁ちょいと。﹂
﹁そんなら行ゆけ。だが島野、﹂と言いながら紳士の顔を、皮の下まで見透かすごとくじろりと見遣って、多磨太はにやり。
擽くすぐられるのを耐こらえるごとく、極めて真ま面じ目めで、
﹁何かね、﹂
﹁注意せい、貴様の体にも印が着いたぞ。﹂
﹁え!﹂と吃びっ驚くりして慌てて見ると、上うわ衣ぎの裾に白墨で丸いもの。
﹁どうじゃ。﹂
﹁失敬な、﹂とばかり苦い顔をして、また手ハン巾ケチを引出した。島野はそそくさと払い落して、
﹁止したまえ。﹂
﹁ははは、構わん、遣れ。あの花売は未み曾ぞ有うの尤ゆう物ぶつじゃ、また貴様が不い可けなければ私わしが占めよう。﹂
﹁大分、御意見とは違いますように存じますが。﹂
﹁英雄色を好むさ。﹂と傲ごう然ぜんとして言った。二人が気の合うのはすなわちここで、藁草履と猟犬と用いる手段は異なるけれども、その目的は等ひとしいのである。
島野は気遣わしそうに見えて、
﹁まさか、君、花売が処へは、用いまいね、何を、その白墨を。﹂
﹁可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那あい奴つまた白墨一いち抹まつに価するんじゃから。﹂
十六
﹁貴あな方た御存じでございますか。﹂
﹁ああ、今のその話の花か。知ってはいない、見たことはないけれどもあるそうだ。いや、有るに違いはないんだよ。﹂
萱かやの軒のき端ばに鳥の声、という侘わびしいのであるが、お雪が、朝、晩、花売に市へ行く、出際と、帰ってからと、二度ずつ襷たす懸きがけで拭ふき込こむので、朽くち目めに埃ほこりも溜たまらず、冷ひや々ひやと濡色を見せて涼しげな縁に端はし居いして、柱に背せなを持たしたのは若山拓ひらく、煩わずらいのある双の目を塞ふさいだまま。
生うまれは東京で、氏素性は明かでない。父も母も誰も知らず、諸国漫遊の途次、一昨年の秋、この富山に来て、旅籠町の青あお柳やぎという旅店に一泊した。その夜よ賊のためにのこらず金きん子すを奪われて、明あくる日の宿料もない始末。七日十日逗とう留りゅうして故郷へ手紙を出した処で、仔しさ細いあって送金の見込はないので、進退谷きわまったのを、宜よろしゅうがすというような気前の好いい商あき人んどはここにはない。ただし地方裁判所の検事に朝野なにがしというのが、その為ひと人となりに見る所があって、世話をして、足を留とどめさせたということを、かつて教おしえを受けた学生は皆知っている。若山は、昔なら浪人の手習師匠、由緒ある士さむらいがしばし世を忍ぶ生たつ計きによくある私塾を開いた。温厚篤とく実じつ、今の世には珍らしい人物で、且つ博学で、恐らく大学に業を修したのであろうと、中学校の生意気なのが渡りものと侮って冷かしに行って舌を巻いたことさえあるから、教おし子えごも多く、皆敬い、懐なずいていたが、日も経たたず目を煩って久しく癒いえないので、英書を閲けみし、数字を書くことが出来なくなったので、弟子は皆断った。直ちに収入がなくなったのである。
先生葎むぐらではございますが、庭も少々、裏が山続つづきで風も佳よし、市まちにも隔って気楽でもございますから御保養かたがたと、たって勧めてくれたのが、同じ教子の内に頭角を抜いて、代だい稽げい古こも勤まった力松という、すなわちお雪の兄で、傍ら家計を支えながら学問をしていたが、適齢に合格して金沢の兵営に入ったのは去年の十月。
後はこの侘わび住すま居いに、拓と阿お雪との二人のみ。拓は見るがごとく目を煩って、何をする便たよりもないので、うら若い身で病人を達たて引ひいて、兄の留守を支えている。お雪は相馬氏の孤みな児しごで、父はかつて地方裁判所に、明決、快断の誉ほまれある名士であったが、かつて死刑を宣告した罪囚の女むすめを、心着かず入れて妾しょうとして、それがために暗殺された。この住すま居いは父が静を養うために古こお屋くを購あがなった別業の荒れたのである。近所に、癩かっ病たい医者だと人はいうが、漢方医のある、その隣とな家りの荒物屋で駄菓子、油、蚊かや遣りこ香うまでも商っている婆さんが来て、瓦かわ鉢らばちの欠けた中へ、杉の枯葉を突つっ込こんで燻いぶしながら、庭先に屈かがんでいるが、これはまたお雪というと、孫も子も一所にして、乳で育てたもののように可かわ愛ゆくてならないので。
一体、ここは旧もと山の裾の温ゆ泉や宿どの一廓であった、今も湯の谷という名が残っている。元治年間立山に山崩くずれがあって洪でみ水ずの時からはたと湧わかなくなった。温いで泉ゆの口は、お雪が花を貯えておく庭の奥の藪やぶ畳だたみの蔭にある洞ほら穴あなであることまで、忘れぬ夢のように覚えている、谷の主とも謂いいつべき居てつきの媼おうな、いつもその昔の繁華を語って落涙する。今はただ蚊が名物で、湯の谷といえば、市まちの者は蚊だと思う。木きく屑ずなどを焼たいた位で追おッ着つかぬと、売物の蚊遣香は買わさないで、杉すぎ葉ッぱを掻かいてくれる深切さ。縁側に両ふた人り並んだのを見て嬉しそうに、
﹁へい、旦那様知ってるだね。﹂
十七
﹁百合には種類が沢山あるそうだよ。﹂
ささめ、為ため朝とも、博はか多た、鬼百合、姫百合は歌俳諧にも詠よんで、誰も知ったる花。ほしなし、すけ、てんもく、たけしま、きひめ、という珍らしい名なるがあり。染そめ色いろは、紅くれない、黄、透すかし、絞しぼり、白百合は潔く、袂たもと、鹿かの子は愛々しい。薩さつ摩ま、琉りゅ球うきゅう、朝鮮、吉野、花の名の八重百合というのもある。と若山は数えて、また紅も絹みの切きれで美しく目を圧おさえ、媼おうなを見、お雪を見て、楽しげに、且つ語るよう、
﹁話の様子では西洋で学問をなすったそうだし、植物のことにそういう趣味を持ってるなら、私よりは、お前のお花とく主いの、知事の嬢さんが、よく知ってお在いでだろうが、黒百合というのもやっぱりその百合の中の一ツで、花が黒いというけれども、私が聞いたのでは、真まっ黒くろな花というものはないそうさ。﹂
﹁はい、﹂しばらくして、﹁はい、﹂媼は返事ばかりでは気が済まぬか、団扇持つ手と顔とを動かして、笑えみ傾かたむけては打うち頷うなずく。
﹁それでは、あの本当はないのでございますか。﹂とお雪は拓の座を避けて、斜ななめに縁側に掛けている。
﹁いえ、無いというのじゃあないよ。黒い色のはあるまいと思うけれども、その黒百合というのは帯紫暗緑色で、そうさ、ごくごく濃い紫に緑が交まじった、まあ黒いといっても可いのだろう。花は夏咲く、丈一尺ばかり、梢こずえの処へ莟つぼみを持つのは他ほかの百合も違いはない。花はな弁びらは六つだ、蕊しべも六つあって、黄色い粉の袋が附くッ着ついてる。私が聞いたのはそれだけなんだ。西洋の書物には無いそうで、日本にも珍らしかろう。書いたものには、ただ北ほっ国こくの高山で、人跡の到らない処に在るというんだから、昔はまあ、仙人か神様ばかり眺めるものだと思った位だろうよ。東京理科大学の標本室には、加賀の白はく山さんで取ったのと、信州の駒こまヶた嶽けと御おん嶽たけと、もう一ひと色いろ、北海道の札幌で見み出だしたのと、四通り黒百合があるそうだが、私はまだ見たことはなかった。
お雪さん、そしてその花を欲しいというお嬢さんは、どういう考えで居るんだね。﹂
﹁はい、あのこないだからいつでもお頼みなさいますんでございますが、そういう風に御存じのではないのですよ。やっぱり私達が、名を聞いております通とおり、芝居でいたします早さ百ゆ合り姫のことで、富山には黒百合があるッていうから、欲しい、どんな珍らしい花かも知れぬ。そして仏フラ蘭ン西スにいらしった時、大層御懇意に遊ばした、その方もああいうことに凝っていらっしゃるお友達に、由緒を書いて贈りたいといってお騒ぎなんでございます。お請うけ合あいはしませんけれども、黒百合のある処は解っておりますからとそう言って参りましたが、太閤記に書いてあります草双紙のお話のような、それより外当こ地こでもまだ誰も見たものはないのでございますから、どうかしら、怪しいと存じました。それでは、あの、貴あな方た、処に因って、在る処には、きっと有るのでございますね。﹂
とお雪は膝に手を置いて、ものを思うごとく、じっと気を沈めて、念を入れて尋ねたのである。その時、白地の浴衣を着た、髪もやや乱れていたお雪の窶やつれた姿は、蚊遣の中に悄しょ然うぜんとして見えたが、面おもてには一種不可言の勇気と喜よろこびの色が微かすかに動いた。
﹁おお、燻くすぶる燻る、これは耐たまりませぬ、お目の悪いに。﹂
一団の烟けぶりが急に渦うづまいて出るのを、掴つかんで投げんと欲するごとく、婆さんは手を掉ふった。風があたって、※ぱっ﹇#﹁火+發﹂、262-14﹈とする下火の影に、その髪は白く、顔は赤い。黄たそ昏がれの色は一面に裏山を籠こめて庭に懸かかれり。
若山は半面に団扇を翳かざして、
﹁当こち地らで黒百合のあるのはどこだとか言ったっけな。﹂
十八
﹁ねえ、お婆さん。﹂
お雪は、黒百合が富山にある、場所の答を、婆さんに譲って、其そな方たを見た。
湯の谷の主は習わずして自おのずから這しゃ般はんの問に応ずべき、経験と知識とを有しているので、
﹁はい、石いわ滝たきの奥には咲くそうでござります。﹂
若山は静かに目を眠ったまま、
﹁どんな処ですか。﹂
﹁蛍の名所なのね。﹂とお雪は引取る。
﹁ええ、その入口迄は女子供も参りまする、夏の遊山場でな、お前様。お茶屋も懸かかっておりまするで、素そう麺めん、白玉、心とこ太ろてんなど冷ひや物しものもござりますが、一坂越えると、滝がござります。そこまでも夜分参るものは少い位で、その奥山と申しますと、今身を投げようとするものでも恐がって入りませぬ。その中でなければ無いと申しますもの、とても見られますものではござりますまい。﹂婆さんは言って、蚊遣を煽あおぐ団扇の手を留めて、その柄を踞つくばった膝の上にする。
﹁それでは滝があって蛍の名所、石滝という処は湿地だと見えるね。﹂
﹁それはもう昼も夜も真まっ暗くらでござります。いかいこと樹が茂って、満月の時も光が射さすのじゃござりませぬ。
一体いつでも小雨が降っておりますような、この上もない陰気な所で、お城の真まッ北きたに当りますそうな。ちょうどこの湯の谷とは両方の端で、こっちは南、田たん※ぼ﹇#﹁なべぶた/︵田+久︶﹂、264-5﹈も広々としていつも明あかるうござりますほど、石滝は陰気じゃで、そのせいでもござりましょうか、評判の魔所で、お前様、ついしか入ったものの無事に帰りました例ためしはござりませぬよ。﹂
﹁その奥に黒百合があるんですッて、﹂お雪は婆さんの言ことばを取って、確めてこれを男に告げた。
若山はややあって、
﹁そりゃきっとあるな、その色といい、形といい、それからその昔からの言い伝つたえで、何か黒百合といえば因縁事の絡まつわった、美しい、黒い、艶つやを持った、紫色の、物もの凄すごい、堅い花のように思われるのに、石滝という処は、今の談はなしでは、場処も、様子もその花があって差支えないと考える。もっとも有ることはあるのだから、大方黒百合が咲いてるだろう。夏かげ月つ花ありという時節もちょうど今なんだけれども、何かね、本当にあるものなら、お前さん、その嬢さんに頼まれたから、取りにでも行ゆこうというのか。﹂と落着いて尋ねて、渠かれは気遣わしく傾いた。
﹁…………﹂お雪はふとその答に支つかえたが、婆さんはかえって猶ため予らわない。
﹁滅相な、お前様、この湯の谷の神様が使わっしゃる、白い烏が守ればといって、若い女が、どうして滝まで行ゆかれますものか。取りにでも行く気かなぞと、問わっしゃるさえ気が知れませぬてや。ぷッ、﹂と、おどけたような顔をして婆ばばは消えかかった蚊遣を吹いた。杉葉の瓦かわ鉢らばちの底に赤く残って、烟けぶりも立たず燃え尽しぬ。
﹁お婆さん、御深切に難あり有がとう。﹂
とうっかり物思おもいに沈んでいたお雪は、心着いて礼をいう。
﹁あいあい、何の。もう、お大事になされませ、今にまたあの犬を連れた可いや厭らしいお客がござって迷惑なら、私わし家とこへ来て、屈かがんで居ッさい。どれ、店を開けておいて、いかいこと油を売ったぞ、いや、どッこいな。﹂と立つ。
十九
帰りたくなると委細は構わず、庭口から、とぼとぼと戸おも外てへ出て行ゆく。荒物屋の婆ばばあはこの時分から忙せわしい商売がある、隣の医者が家うちばかり昔の温ゆ泉や宿どの名なご残りを留とどめて、徒いたずらに大おお構がまえの癖に、昼も夜も寂せき莫ばくとして物音も聞えず、その細君が図抜けて美しいといって、滅多に外へ出たこともないが、向うも、隣も、筋向いも、いずれ浅間で、豆まめ洋ラン燈プの灯が一ツあれば、襖ふすまも、壁も、飯めし櫃びつの底まで、戸おも外てから一目に見透かされる。花売の娘も同じこと、いずれも夜が明けると富山の町へ稼ぎに出る、下駄の歯入、氷売、団扇売、土方、日ひや傭と取いなどが、一廓を作なした貧乏町。思い思い、町々八方へ散ちらばってるのが、日暮になれば総曲輪から一筋道を、順繰に帰って来るので、それから一ひと時しきり騒がしい。水を汲くむ、胡きゅ瓜うりを刻む。俎まな板いたとんとん庖丁チョキチョキ、出放題な、生なま欠あく伸びをして大歎息を発する。翌あく日るひの天気の噂をする、お題目を唱える、小こど児もを叱る、わッという。戸おも外てでは幼い声で、――蛍来い、山見て来い、行あん燈どの光をちょいと見て来い!
﹁これこれ暗くなった。天狗様が攫さらわっしゃるに寝っしゃい。﹂と帰かえ途りがけに門かど口ぐちで小児を威おどしながら、婆さんは留守にした己おのれの店の、草わら鞋じの下を潜くぐって入った。
草履を土間に脱いで、一ひと渡わたり店の売物に目を配ると、真まん中なかに釣つるした古いブリキの笠の洋ラン燈プは暗いが、駄菓子にも飴あめにも、鼠は着かなかった、がたりという音もなし、納戸の暗がりは細流のような蚊の声で、耳の底に響くばかりなり。
﹁可おそ恐ろしい唸うなりじゃな。﹂と呟つぶやいて、一間けん口ぐちの隔へだての障子の中へ、腰を曲げて天あた窓まから入ると、
﹁おう、帰ったのか。﹂
﹁おや。﹂
﹁酷ひどい蚊だなあ。﹂
﹁まあ、お前めえ様さま。まあ、こんな中に先さっ刻きにからござらせえたか。﹂
﹁今しがた。﹂
﹁暗いから、はや、なお耐たまりましねえ。いかなこッても、勝手が分らねえけりゃ、店の洋燈でも引ひっ外ぱずしてござれば可よいに。﹂
深切を叱こご言とのごとくぶつぶつ言って、納戸の隅の方をかさかさごそりごそりと遣る。
﹁可いいから、可いから。﹂といって、しばらくすると膝を立直した気けは勢いがした。
﹁近所の静まるまで、もうちっと灯あかしを点つけないでおけよ。﹂
﹁へい。﹂
﹁覗のぞくと煩うるさいや。﹂
﹁それでは蚊帳を釣って進ぜましょ。﹂
﹁何、おいら、直ぐ出掛けようかとも思ってるんだ。﹂
﹁可いようにさっしゃりませ。﹂
﹁ああ、それから待ちねえこうだと、今に一人此こ家こへ尋ねて来るものがあるんだから、頼むぜ。﹂
﹁お友達かね。お前様は物もの事ずきじゃで可よいけれど、お前様のような方のお附合なさる人は、から、入ってしばらくでも居られます所じゃあござりませぬが。﹂
言いも終らず、快活に、
﹁気扱いがいる奴じゃねえ、汚きたねえ婦おん人なよ。﹂
﹁おや!﹂と頓とん興きょにいった、婆ばばの声の下にくすくすと笑うのが聞える。
﹁婆ちゃん、おくんな。﹂と店先で小こど児もの声、繰返して、
﹁おくんな。﹂
﹁おい。﹂
﹁静しずかに………﹂といって、暗中の客は寝転んだ様子である。
二十
婆ばばが帰った後あと、縁側に身を開いて、一人は柱に凭よって仰あお向むき、一人は膝に手を置いて俯うつ向むいて、涼しい暗い処に、白地の浴衣で居た、お雪は、突然驚いたようにいった。
﹁あれ星が飛びましたよ。﹂
湯の谷もここは山の方へ尽はずれの家で、奥庭が深いから、傍はたの騒しいのにもかかわらず、森しんとした藪やぶ蔭かげに、細い、青い光物が見えたので。
﹁ああ、これから先はよくあるが、淋しいもんだよ。﹂
と力なげに団扇持った手を下げて、
﹁今も婆さんが深切に言ってくれたが、お雪さん、人が悪いという処へ推して行ゆくのは不い可けない。何も、妖ばけ物ものが出るの、魔が掴つかむのということは、目の前にあるとも思わないが、昔からまるで手も足も入いれない処じゃあ、人の知らない毒虫が居て刺そうも知れず、地つちの工ぐあ合いで蹈ふむと崩れるようなことがないとも限らないから。﹂
﹁はい、﹂
﹁行ゆく気じゃあるまいね。﹂とやや力を籠こめて確めた。
﹁はい、﹂と言懸けて、お雪は心に済まない様子で後を言い残して黙ったが、慌あわただしく、
﹁蛍です。﹂
衝つと立った庭の空を、つらつらと青い糸を引いて、二筋に見えて、一つ飛んだ。
﹁まあ、珍らしい、石滝から参りました。﹂
この辺あたりに蛍は珍らしいものであった、一つ一びとつ市中へ出て来るのは皆石滝から迷うて来るのだといい習わす。人に狩り取られて、親がないか、夫がないか、孤みなしご、孀やも婦め、あわれなのが、そことも分かず彷さま徨よって来たのであろう。人可なつ懐かしげにも見えて近々と寄って来る。お雪は細い音ねに立てて唇を吸って招きながら、つかつかと出て袂たもとを振った、横ぎる光の蛍の火に、細い姿は園その生うにちらちら、髪も見えた、仄ほのかに雪なす顔を向けて、
﹁団扇を下さいなちょいと、あれ、﹂と打つ。蛍は逸それて、若山が上の廂ひさしに生えた一いち八はつの中に軽かろく留まった。
﹁さあ、団扇、それ、ははは……大きな女の嬰あ児かさんだな。﹂と立ちも上らず坐ったまま、縁側から柄ばかり庭の中へ差向けたが、交つき際あいにも蛍かといって発は奮ずみはせず、動どう悸きのするまで立廻って、手を辷すべらした、蛍は、かえってその頭の上を飛ぶものを、振仰いで見ようともせぬ、男の冷ひややかさ。見当違いに団扇を出して、大きな嬰あか児んぼだといって笑ったが、声も何となくもの淋しい。お雪は草の中にすッくと立って、じっと男の方を視ながめたが、爪つま先さきを軽く、するすると縁側に引ひっ返かえして、ものありげに――こうつんとした事は今までにはなかったが――黙って柄の方から団扇を受取り、手を返して、爪つま立だって、廂を払うと、ふッと消えた、光は飜ひるがえした団扇の絵の、滝の上を這ほうてその流ながれも動く風情。
お雪は瞻みまもって、吻ほっと息を吐ついて、また腰を懸けて、黙って見ていた、目を上げて、そと男の顔を透かしながら、腰を捻ねじて、斜ななめに身を寄せて、件くだんの団扇を、触らぬように、男の胸の辺りへ出して、
﹁可愛いでしょう、﹂といった声も尋た常だならず。
﹁何か、石滝の蛍か、そうか。﹂といって若山は何ともなしに微ほほ笑えんだが、顔は園生の方を向いて、あらぬ処を見た。涼しい目はぱッちりと開いていたので、蛍は動いた。団扇は揺れて、お雪の細い手は震えたのである。
二十一
﹁歩きますわ、御覧なさいな。﹂と沈んだ声でいいながら、お雪は打動かす団扇の蔭から、儚はかない一点の青い灯ともしで、しばしば男の顔を透かして差さし覗のぞく。
男はこの時もう黙ってしまい、顔を背けて避よけようとするのを、また、
﹁御覧なさいな、﹂と、人知れずお雪は涙なみ含だぐんで、見る見る、男の顔の色は動いた。はッと思うと、
﹁止せ!﹂
若山は掌てのひらをもてはたと払ったが、端はしなく団扇を打って、柄は力のない手を抜けて、庭に落ちた。
﹁あれ、﹂といってお雪は顔を見ながら、と胸を衝ついて背うし後ろに退すさる。
渠かれは膝を立直して、
﹁見えやあしない。﹂
﹁ええ!﹂
﹁僕の目が潰つぶれたんだ。﹂
言いさま整ちゃ然んとして坐り直る、怒気満面に溢あふれて男性の意気熾さかんに、また仰ぎ見ることが出来なかったのであろう、お雪は袖で顔を蔽おおうて俯うつ伏ぶしになった。
﹁どうしたならどうしたと聞くさ、容体はどうです目が見えないか、と打出して言えば可いい。何だって、人を試みるようなことをして困らせるんだい、見えない目めさ前きへ蛍なんか突出して、綺麗だ、動く、見ろ、とは何だ。残酷だな、無慈悲じゃあないか、星が飛んだの、蛍が歩くのと、まるで嬲なぶるようなもんじゃあないか。女の癖に、第一失敬ださ。﹂
と、声を鋭く判はっ然きりと言い放つ。言葉の端には自おのずから、かかる田舎にこうして、女の手に養われていらるべき身分ではないことが、響いて聞える。
﹁そんな心ここ懸ろがけじゃあ盲めく目らの夫の前で、情いろ郎おとこと巫ふ山ざ戯けかねはしないだろう。厭いやになったらさっぱりと突出すが可いじゃあないか、あわれな情なさけないものを捕つかまえて、苛いじめるなあ残酷だ。また僕も苛められるようなものになったんだ、全くのこッた、僕はこんな所にお前まえ様さんほどの女が居ようとは思わなんだ。気の毒なほど深切にされる上に、打明けていえば迷わされて、疾はやく身を立てよう、行末を考えようと思いながら、右を見ても左を見ても、薬屋の金持か、せいぜいが知事か書記官の居る所で、しかも荒物屋の婆さんや近所の日ひや傭と取いにばかり口を利いて暮すもんだからいつの間にか奮発気がなくなって、引込思案になる所へ、目の煩わずらいを持込んで、我ながら意気地はない。口へ出すのも見みッともないや。お前さんに優しくされて朝晩にゃ顔を見て、一所に居るのが嬉しくッて、恥も義理も忘れたそうだ。そっちじゃあ親はなし、兄あにさんは兵に取られているしよ、こういっちゃあ可お笑かしいけれども、ただ僕を頼たよりにしている。僕はまた実際杖つえとも柱とも頼まれてやる気だもんだから、今目が見えなくなったといっちゃあ、どんなに力を落すだろう。お前さんばかりじゃない、人のことより僕だって大変だ。死んでも取返しのつかないほど口惜しいから、心にだけも盲めく目らになったと思うまい、目が見えないたあいうまいと、手てさ探ぐりの真似もしないで、苦しい、切ない思おもいをするのに、何が面白くッてそんな真似をするんだな。されるのはこっちが悪い、意気地なしのしみったれじゃアあるけれども。﹂
お雪の泣声が耳に入いると、若山は、口に蓋ふたをされたようになって黙った。
二十二
﹁お雪さん。﹂
ややあって男は改めて言って、この時はもう、声も常の優しい落着いた調子に復し、
﹁お雪さん、泣いてるんですか。悪かった、悪かった。真まことを言えばお前さんに心配を懸けるのが気の毒で、無むや暗みと隠していたのを、つい見透かされたもんだから、罪なことをすると思って、一刻に訳も分らないで、悪いことをいった。知ってる、僕は自分極ぎめかも知らないが、お前さんの心は知ってる意つもりだ。情無い、もう不かた具わこ根んじ性ょうになったのか、僻ひがみも出て、我わが儘ままか知らぬが、くさくさするので飛んだことをした、悪く思わないでおくれ。﹂
その平ふだ生んの行おこないは、蓋けだし無言にして男の心を解くべきものがあったのである。お雪は声を呑んで袂に食着いていたのであるが、優しくされて気も弛ゆるんで、わっと嗚おえ咽つして崩くず折おれたのを、慰められ、賺すかされてか、節も砕けるほど身に染みて、夢中に躙にじり寄る男の傍そば。思わず縋すがる手を取られて、団扇は庭に落ちたまま、お雪は、潤んだ髪の濡れた、恍うっ惚とりした顔を上げた。
﹁貴あな方た、﹂
﹁可いよ。﹂
﹁あの、こう申しますと、生意気だとお思いなさいましょうが、﹂
﹁何、﹂
﹁お気に障りましたことは堪忍して下さいまし、お隠しなさいますお心を察しますから、つい口へ出してお尋ね申すことも出来ませんし、それに、あの、こないだ総曲輪でお転びなすった時、どうも御様子が解りません、お湯にお入りなさいましたとは受取り難にくうございますもの、往来ですから黙って帰りました。が、それから気を着けて、お知合のお医者様へいらっしゃるというのは嘘で、石滝のこちらのお不動様の巌いわ窟やの清水へ、お頭つむりを冷ひやしにおいでなさいますのも、存じております。不自由な中でございますから、お怨み申しました処で、唯ただ今いまはお薬を思うように差上げますことも出来ませんが、あの……﹂
と言懸けて身を正しく、お雪はあたかも誓うがごとくに、
﹁きっとあの私が生いの命ちに掛けましても、お目の治るようにして上げますよ。﹂と仇あど気けなく、しかも頼たの母もしくいったが、神の宣託でもあるように、若山の耳には響いたのである。
﹁気張っておくれ、手を合わして拝むといっても構わんな。実に、何だ、僕は望のぞみがある、惜おしい体だ。﹂といって深く溜息を吐ついたのが、ひしひしと胸に応こたえた。お雪は疑わず、勇ましげに、
﹁ええ、もう治りますとも。そして目が開いて立派な方におなりなさいましても、貴方、﹂
﹁何だ。﹂
﹁見棄てちゃあ、私は厭いや。﹂
﹁こんなに世話になった上、まだ心配を懸けさせる、僕のようなものを、何だって、また、そういうことを言うんだろう。﹂
﹁ふ、﹂と泣くでもなし、笑うでもなし、極きまり悪げに、面を背けて、目が見えないのも忘れたらしい。
﹁お雪さん。﹂
﹁はい。﹂
﹁どうしてこんなになったろう、僕は自分に解らないよ。﹂
﹁私にも分りません。﹂
﹁なぜだろう、﹂
莞にっ爾こりして、
﹁なぜでしょうねえ。﹂
表の戸をがたりと開けて、横柄に、澄して、
﹁おい、﹂
二十三
声を聞くとお雪は身を窘すくめて小さくなった。
﹁居るか、おい、暗いじゃないか。﹂
﹁唯今、﹂
﹁真まっ暗くらだな。﹂
例の洋ステ杖ッキをこつこつ突いて、土間に突つっ立たったのは島野紳士。今めかしくいうまでもない、富山の市まちで花を売る評判の娘に首っ丈であったのが、勇美姫おん目を懸けさせたまうので、毎日のように館やかたに来る、近々と顔を見る、口も利くというので、思おもいが可おそ恐ろしくなると、この男、自分では業なり平ひらなんだから耐たまらない。
花屋の庭は美しかろう、散歩の時は寄ってみるよ、情いろ郎おとこは居ないか、その節邪魔にすると棄置かんよ、などと大おお上段に斬きり込こんで、臆おく面めんもなく遊びに来て、最初は娘の謂うごとく、若山を兄だと思っていた。
それ芸げい妓しゃの兄あにさん、後家の後見、和尚の姪めいにて候ものは、油断がならぬと知っていたが、花売の娘だから、本当の兄もあるだろうと、この紳士大ぬかり。段々様子が解ってみると、瞋しん恚いが燃ゆるようなことになったので、不ふら埒ちでも働かれたかのごとく憤り、この二三日は来るごとに、皮肉を言ったり、当あて擦こすったり、つんと拗すねてみたりしていたが、今夜の暗いのはまた格別、大変、吃びっ驚くり、畜生、殺生なことであった。
かつてまた、白墨狂士多磨太君の説もあるのだから、肉が動くばかりしばしも耐たまらず、洋ステ杖ッキを握占めて、島野は、
﹁暗いじゃあないか、おい、おい。﹂とただ忙あせる。
﹁はい、﹂と潤んだ含声の優しいのが聞えると、※ぱッ﹇#﹁火+發﹂、276-15﹈と摺マ附ッ木チを摺する。小さな松たい火まつは真まっ暗くらな中に、火鉢の前に、壁の隅に、手拭の懸かかった下に、中腰で洋ラン燈プの火ほ屋やを持ったお雪の姿を鮮きれ麗いに照てらし出した。その名なご残りに奥の部屋の古びた油ゆと団んが冷ひや々ひやと見えて、突抜けの縁の柱には、男の薄暗い形が顕あらわれる。
島野は睨にらみ見て、洋ステ杖ッキと共に真まっ直すぐに動かず突つっ立たつ。お雪は小洋燈に灯を移して、摺附木を火鉢の中へ棄てた手で鬢びんの後おく毛れげを掻かい上あげざま、向直ると、はや上あが框りがまち、そのまま忙せわしく出迎えた。
ちょいと手を支ついて、
﹁まあ、どうも。﹂
﹁…………﹂島野は目の色も尋た常だならず、尖とがった鼻を横に向けて、ふんと呼い吸きをしたばかり。
﹁失礼、さあ、お上りなさいまし、取散らかしまして、汚む穢そうございますが、﹂と極きまり悪げに四あた辺りをすのを、後うしろの男に心を取られてするように悪わる推ずいする、島野はますます憤って、口も利かず。
︵無言なり。︶
﹁お晩おそうございましたのね。﹂と何やらつかぬことを言って、為しか方たなしにお雪は微ほほ笑えむ。
﹁お邪魔をしましたな。﹂という声ぎっすりとして、車の輪の軋きしむがごとく、島野は決する処あって洋ステ杖ッキを持換えた。
﹁お前ねえ、﹂
邪気自おのずから膚はだえを襲うて、ただは済みそうにもない、物ありげに思い取られるので、お雪は薄気味悪く、易やすからぬ色をして、
﹁はい。﹂
﹁あのな、﹂と重々しく言い懸けて、じろじろと顔を見る。
﹁どうぞ、まあ、﹂
﹁入っちゃあおられん。﹂
﹁どちらへか。﹂
﹁なあに。﹂
﹁お急ぎでございますか。﹂と畳に着く手も定まらない。
﹁ちょっと出てもらおう、﹂
﹁え、え。﹂
﹁用があるんだ。﹂
二十四
﹁後を頼むとって、お前めえ様さま、どこさ行ゆかっしゃる。﹂
ちょいとどうぞと店みせ前さきから声を懸けられたので、荒物屋の婆ばばは急いで蚊帳を捲まくって、店へ出て、一枚着物を着換えたお雪を見た。繻しゅ子すの帯もきりりとして、胸をしっかと下した〆じめに女扇おお子ぎを差し、余よそ所ゆ行きの装なり、顔も丸顔で派手だけれども、気が済まぬか悄しょ然んぼりしているのであった。
﹁お婆さん、私は直じき帰るんですが、﹂
﹁あい、﹂
﹁どうぞねえ、﹂と何やら心細そうで気に懸かかると、老とし人よりの目も敏さとく、
﹁内方にゃ御病気なり、夜分、また、どうしてじゃ。総曲輪へ芝居にでも誘われさっせえたか。はての、﹂
と目を遣やると、片蔭に洋服の長い姿、貧乏町の埃ほこりが懸るといったように、四あた辺りを払って島野が彳たたずむ。南なむ無さ三ん悪い奴と婆さんは察したから、
﹁何にせい、夜分出で歩あ行るくのは、若い人に良くないてや、留守の気を着けるのが面倒なではないけれども、大概なら止よしにさっしゃるが可よかろうに。﹂
と目で知らせながら、さあらず言う。
﹁いえ、お召なんでございます。四あえ十もの物ちょ町うのお邸から、用があるッて、そう有おっ仰しゃるのでございますから。﹂
﹁四十物町のお花とく主いというと、何、知事様のお邸だッけや。﹂
﹁お嬢様が急に、御用がおあんなさいますッて。﹂
﹁うんや、善くないてや。お前様が行く気でも、私わしが留めます。お嬢様の御用とって、お前、医者じゃあなし、駕か籠ご屋やじゃあなし、差迫った夜の用はありそうもない。大概の事は夜が明けてからする方が仕損じが無いものじゃ。若いものは、なおさら、女じゃでの、はて、月夜に歩いてさえ、美しい女の子は色が黒くなるという。﹂
﹁はい、ですけれども。﹂
﹁殊に闇やみじゃ、狼が後あとを跟つけるでの、たって止やめにさっせえよ。﹂と委細は飲込んだ上、そこらへ見当を付けたので、婆さんは聞えよがし。
島野は耐えかねてずッと出て、老とし人よりには目も遣らず、
﹁さあ、﹂
﹁…………﹂黙って俯うつ向むく。
﹁おい、﹂とちと大きくいって、洋ステ杖ッキでこと、こと、こと。
お雪は覚悟をした顔を上げて、
﹁それじゃあお婆さん。﹂
﹁待たっせえ、いや、もし、お前様、もし、旦那様。﹂
顧みもせず島野は、己おれほどのものが、へん、愚民にお言葉を遣わさりょうや!
婆さんも躍やっ気きになって、
﹁旦那様、もし。﹂
﹁おれか。﹂
﹁へい、婆ばばがお願ねがいでござります、お雪が用は明日のことになされ下さりませ。内には目の不自由な人もござりますし、四十物町までは道も大分でござりますで。﹂
﹁何だ、お前は。﹂
﹁へい、﹂
﹁さあ、行こう。﹂
お雪は黙って婆さんの顔を見たが、詮せん方かたなげで哀あわれである。
﹁お前様、何といっても、﹂と空しく手を掉ふって、伸上った、婆は縋すが着りついても放したくない。
﹁知事様のお使だ。﹂と島野が舌打して言った。
これが代官様より可おそ恐ろしく婆の耳には響いたので、目をって押黙る。
その時、花屋の奥で、凜りんとして澄んで、うら悲しく、
と、韓かん湘しょうが道術をもって牡ぼた丹ん花かの中に金字で顕あらわしたという、一聯れんの句を口くち吟ずさむ若山の声が聞えて止やんだ。
お雪はほろりとしたが、打仰いで、淋しげに笑って、
﹁どうぞ、ねえ。﹂
二十五
恩になる姫ひい様さま、勇美子が急な用というに悖さからい得ないで、島野に連出されたお雪は、屠とし所ょの羊の歩あゆみ。
﹁どういう御用なんでございましょう。いつも御ごひ贔い屓きになりますけれども、つい、お使なんぞ下さいましたことはございませんのに、何でしょうね、馴なれませんこッてすから、胸がどきどきして仕様がありません。﹂
島野は澄まして冷ひややかに、
﹁そうですか。﹂
﹁貴あな下た御存じじゃあないのですか。﹂
﹁知らないね。﹂と気取った代だい脉みゃくが病症をいわぬに斉ひとしい。
わざと打解けて、底気味の悪い紳士の胸中を試みようとしたお雪は、取とり附つく島もなく悄しおれて黙った。
二人は顔を背け合って、それから総曲輪へ出て、四十物町へ行こうとする、杉垣が挟さしはさんで、樹が押おっ被かぶさった径こみちを四五間。
﹁兄さんに聞いたら可よかろう。﹂島野は突然こう言って、ずッと寄って、肩を並べ、
﹁何もそんなに胸までどきつかせるには当らない、大した用でもなかろうよ。たかがお前この頃情いい人ひとが出来たそうだね、お目出度いことよ位なことを謂いわれるばかりさ。﹂
﹁厭いやでございます。﹂
﹁厭だって仕方がない、何も情人が出来たのに御祝儀をいわれるたッて、弱ることはないじゃあないか。ふん、結構なことさね、ふん、﹂
と呼い吸きがはずむ。
﹁ほんとうでございますか。﹂
﹁まったくよ。﹂
﹁あら、それでは、あの私わたくしは御免蒙こうむりますよ。﹂
お雪は思切って立たち停どまった、短くさし込んだ胸の扇もきりりとする。
﹁御免蒙るッて、来ないつもりか。おい、お嬢様が御用があるッて、僕がわざわざ迎むかいに来たんだが、御免蒙る、ふん、それで可いいのか。――御免蒙る――﹂
﹁それでも、おなぶり遊ばすんですもの、私わたくしは辛うございます。﹂
﹁可いさ、来なけりゃ可いさ、そのかわり、お前、知事様のお邸とは縁切だよ。宜よかろう、毎日の米の代といっても差支えない、大切なお花とく主いを無くする上に、この間から相談のある、黒百合の話も徒ふ為いになりやしないかね。仏フラ蘭ン西スの友達に贈るのならばって、奥様も張込んで、勇美さんの小遣にうんと足して、ものの百円ぐらいは出そうという、お前その金か子ねは生いの命ちがけでも欲ほしいのだろう、どうだね、やっぱり御免を蒙りまするかね。﹂といって、にやにやと笑いけり。
お雪は深い溜ため息いきして、
﹁困っちまいました、私はもうどうしたら可いのでございましょうねえ。﹂
詮方なげに見えて島野に縋すがるようにいった。お雪は止やむことを得ず、その懐に入って救われんとしたのであろう。
紳士は殊の外その意を得た趣で、
﹁まあ、一所に来たまえ。だから僕が悪いようにゃしないというんだ。え、どこかちょっと人目に着かない処で道寄をしようじゃあないか、そしていろいろ相談をするとしよう。またどんな旨うまい話があろうも知れない。ははは、まずまあ毎日汗みずくになって、お花は五厘なんていって歩かないでも暮しのつくこッた。それに何さ、兄さんとかいう人に存分療治をさせたい、金か子ねも自おのずから欲ほしくなくなるといったような、ね、まあまあ心配をすることはないよ、来たまえ!﹂といって、さっさっと歩あ行るき出す。お雪は驚いて、追縋るようにして、
﹁貴下、どちらへ参るんでございます。﹂
二十六
﹁心得てるさ、ちっとも気あつかいのいらないように万事取計らうから可いよ。向うが空あき屋やで両隣が畠はたけでな、聾つんぼの婆さんが一人で居るという家が一軒、……どうだね、﹂と物もの凄すごいことをいう。この紳士は権けん柄ぺいずくにおためごかしを兼ねて、且つ色男なんだから極めて計らいにくいのであります。
勇美子の用でも何でもない。大方こんなこととは様子にも悟っていたが、打着けに言われたので、お雪も今更ぎょっとした。
﹁路みちも遠うございますから、晩おそくなりましょう、直ぐあの、お邸の方へ参っちゃあ不い可けませんか。﹂
﹁何、遠慮することはないさ。﹂
これだもの。…………
﹁いいえ、﹂といったばかり。お雪は遁にげ帰かえる機きっ掛かけもなし、声を立てる数すうでもなし、理窟をいう分わけにも行ゆかず、急にお腹なかが痛むでもない。手もつけられねば、ものも言われず。
径こみちややその半なかばを過ぎて、総曲輪に近くなると、島野は莞にこ爾やかに見返って、
﹁どうだ、御飯でも食べて、それからその家うちへ行くとしようか。﹂
お雪はものもいい得ない。背うし後ろから大きな声で、
﹁奢おごれ奢れ、やあ、棄置かれん。﹂と無遠慮に喚わめいてぬいと出た、この野のづ面らを誰とかする。白薩摩の汚れた単ひと衣え、紺染の兵へこ子お帯び、いが栗ぐり天あた窓ま、団どん栗ぐり目め、ころころと肥えて丈の低きが、藁わら草ぞう履りを穿うがちたる、豈あにそれ多磨太にあらざらんや。
島野は悪い処へ、という思おも入いれあり。
﹁おや、どちらへ。﹂
﹁ははあ、貴公と美人とが趣く処へどこへなと行くで。奢れ! 大分ほッついたで、夕飯の腹も、ちょうど北山とやらじゃわい。﹂
﹁いいえさ、どこへ行くんです。﹂と島野は生き真ま面じ目めになって押えようとする、と肩を揺ゆすって、
﹁知事が処じゃ。﹂
﹁今ッからね。﹂
﹁うむ、勇美子さんが来てくれいと言うものじゃでの。﹂
﹁へい、﹂と妙な顔をする。
多磨太、大得意。
﹁何なんよ、また道寄も遣らかすわい。向うが空屋で両隣は畠だ、聾の婆ばばあが留守をしとる、ちっとも気きづ遣かいはいらんのじゃ、万事私わしが心得た。﹂
﹁驚いたね。﹂
﹁どうじゃ、恐入ったか。うむ、好事魔多し、月に村雲じゃろ。はははは、感多少かい、先生。﹂
﹁何もその、だからそういったじゃアありませんか。君、僕だけは格別で。﹂
﹁豈あにしからん、この美肉をよ、貴様一人で賞しょ翫うがんしてみい、たちまち食傷して生命に係かかわるぞ。じゃから私わしが注意して、あらかじめ後を尾つけて、好意一足の藁草履を齎もたらし来きたった訳じゃ、感謝して可いな。﹂
島野は苦々しい顔かお色つきで、
﹁奢ります、いずれ奢るから、まあ、君、君だって、分ってましょう。それ、だから奢りますよ、奢りますよ。﹂
﹁豚とん肉にくは不いか可んぞ。﹂
﹁ええ、もうずっとそこン処はね。﹂
﹁何、貴様のずっとはずっと見当が違うわい。そのいわゆるずっとというのは軍しゃ鶏もなんじゃろ、しからずんば鰻うなぎか。﹂
﹁はあ、何でも、﹂と頷うなずくのを、見向もしないで。
﹁非あらず、私わしが欲する処はの、熊ゆうにあらず、羆ひにあらず、牛ぎゅ豚うとん、軍鶏にあらず、鰻にあらず。﹂
﹁おやおや、﹂
﹁小羊の肉よ!﹂
﹁何ですって、﹂
﹁どうだ、、蟷かま螂きり、﹂といいながら、お雪と島野を交かわる交がわる、笑顔でしても豪傑だから睨にらむがごとし。
二十七
島野は持余した様子で、苦り切って、ただ四あた辺りを見廻すばかり。多磨太は藁草履の片足を脱いで、砂だらけなので毛けず脛ねを擦こすった。
﹁蚋ぶよが螫さす、蚋が螫すわ。どうじゃ、歩き出そうでないか。堪たまらん、こりゃ、立っとッちゃあ埒らち明かん、さあ前さきへ行いね、貴公。美人は真まん中なかよ、私わしは殿しんがりを打つじゃ、早うせい。﹂
島野は堪たまりかねて、五六歩傍かたわらへ避よけて目で知らせて、
﹁ちょいと、君、雀部さん、ちょいと。﹂
﹁何じゃ、﹂と裾を掴つかみ上げて、多磨太はずかずかと寄る。
島野は真顔になって、口説くように、
﹁かねて承知なんじゃあないか、君、ここは一ひと番つ粋を通して、ずっと大目に見てくれないじゃあ困りますね。﹂と情なさけなそうにいった。
﹁どうするんかい、﹂
﹁何さ、どうするッて。﹂
﹁貴公、どこへしょびくんじゃ、あの美人をよ、巧く遣りおるの。うう、﹂と団栗目を細うして、変な声で、えへ、えへ、えへ。
﹁しょびくたって何も君、まったくさ、お嬢さんが用があるそうだ。﹂
﹁嘘を吐つけい、誰じゃと思うか、ああ。貴公目下のこの行為は、公の目から見ると拐かど帯わかしじゃよ、詐さ偽ぎじゃな。我輩警察のために棄置かん、直ちに貴公のその額へ、白墨で、輪を付けて、交番へ引ひっ張ぱるでな、左さ様よ思え、はははは。﹂
﹁串じょ戯うだんをいっちゃあ不い可けません。﹂
﹁何、構わず遣るぞ。癪しゃくじゃ、第一、あの美人は、私わしが前さきへ目を着けて、その一挙一動を探って、兄じゃというのが情いろ男おとこなことまで貴公にいうてやった位でないかい。考えてみい、いかに慇いん懃ぎんを通じようといって、貴公ではと思うで、なぶる気で打うっ棄ちゃっておいたわ。今夜のように連出されては、こりゃならんわい。向むこ面うづらへ廻って断乎として妨害を試みる、汝なんじにジャムあれば我に交番ありよ。来るか、対あい手てになるか、来い、さあ来い。両雄並び立たず、一番勝敗を決すべい。﹂
と腕まくりをして大乗気、手がつけられたものではない。島野もここに至って、あきらめて、ぐッと砕け、
﹁どうです、一ツ両雄並び立とうではありませんか、ものは相談だ。﹂と思切っていう。多磨太は目をって耳を聳そばだてた。
﹁ふむ、立つか、見事両雄がな。﹂
﹁耳を、﹂肩を取って、口をつけ、二人は木この下蔭に囁ささやきを交え、手を組んで、短いのと、長いのと、四脚を揃えたのが仄かすかに見える。お雪は少し離れて立って、身を切裂かるる思いである。
当座の花だ、むずかしい事はない、安やす泊どまりへでも引ひき摺ずり込こんで、裂くことは出来ないが、美た人ぼの身から体だを半分ずつよ、丶丶丶の令むす息こと、丶丶の親類とで慰むのだ。土民の一少婦、美なりといえどもあえて物の数とするには足らぬ。
﹁ね、﹂
︵笑って答えず。︶
多磨太は頷うなずいて身を退のいて、両雄いい合わせたように屹きっとお雪を見返った。
径こみちに被かぶさった樹々の葉に、さらさらと渡って、裙すそから、袂から冷ひや々ひやと膚はだに染み入る夜の風は、以心伝心二人の囁を伝えて、お雪は思わず戦ぞ悚っとした。もう前あと後さきも弁わきまえず、しばらくも傍そばには居たたまらなくなって、そのまま、
﹁島野さん、お連つれ様もお見え遊ばしたし、失礼いたしますから、お嬢様にはどうぞ、﹂も震え声で口の裡うち、返事は聞きつけないで、引ひっ返かえそうとする。
﹁待ちなさい、﹂
﹁待て、おい、おい、おい、待て!﹂といいさま追い縋すがって、多磨太は警部長の令息であるから傍若無人。
﹁あれ、﹂と遁にげにかかる、小こが腕いなをむずと取られた。形なりも、振ふりも、紅くれない、白しら脛はぎ。
二十八
﹁くない、、わはは、はは、﹂多磨太は容赦なくそのいわゆる小羊を引ひっ立たてた。
﹁あれ、放して、﹂
﹁おい、声を出しちゃあ不いか可ん、黙っていな、優おとなしくしてついてお出いで。あれそれ謂っちゃあ第一何だ、お前の恥だ。往来で見ッともない、人が目をつけて顔を見るよ。﹂と島野は落着いたものである。多磨太は案を拍うたないばかりで、
﹁しかり、あきらめて覚悟をせい。魚うおの中でも鯉こいとなると、品格が可いでな、俎まないたに乗ると撥はねんわい。声を立てて、助かろうと思うても埒らち明かんよ。我輩あえて憚はばからず、こうやって手を握ったまま十字街頭を歩くんじゃ。誰でも可い、何をすると咎とがめりゃ、黙れとくらわす。此こい女つ取とり調しらべの筋があるで、交番まで引ひっ立たてる、私わしは雀部じゃというてみい、何どい奴つもひょこひょこと米こめ搗つき虫むしよ。﹂
﹁呑気なものさね、﹂と澄まし切って、島野は会心の微笑を浮べた。
﹁さあ、行こう、何も冥めい途どへ連れて行くんじゃあないよ。謂わばまあ殿様のお手が着くといったようなものさ。どうして雀部や私わしを望んだって、花売なんぞが、口も利かれるもんじゃあない、難あり有がたく思うが可いさ。﹂
法学生の堕落したのが、上部を繕ってる衣を脱いだ狼と、虎とで引ひっ挟ぱさみ、縛って宙に釣ったよりは恐しい手てご籠めの仕方。そのまま歩き出した、一筋路。少わかい女を真まん中なかに、漢おのこが二人要こそあれと、総曲輪の方から来かかって歩あゆみを停とどめ、間あわいを置いて前まえ屈かがみになって透かしたが、繻しゅ子すの帯をぎゅうと押えて呑込んだという風で、立直って片蔭に忍んだのは、前夜榎えのきの下で、銀ぎん流ながしの粉を売った婦おん人なであった。
お雪は呼い吸きさえ高うはせず、気を詰めて、汗になって、
﹁まあ、この手を放して、ねえ、手を放して、﹂と漫そぞろである。
﹁可いわ、放すから遁にげちゃあならんぞ、﹂
﹁何、逃げれば、捕つかまえる分のことさ、﹂
あらかじめ因果を含めたからと、高を括くくって、手を放すと半ば夢中、身を返して湯の谷の方へ走ろうとする。
﹁やい、汝うぬ!﹂
藁草履を蹴立てて飛着いて、多磨太が暗まぎれに掻かい掴つかむ、鉄かな拳こぶしに握らせて、自若として、少しも騒がず、
﹁色男!﹂といって呵から々からと笑ったのは、男の声。呆れて棒立になった多磨太は、余りのことにその手を持ったまま動かず、ほとんど無意識に窘すくんだ。
﹁島野か、そこに居るのは。島野、おい、島野じゃないか。﹂
紳士はぎょっとして、思わず調子はずれに、
﹁誰だ、誰です。﹂
﹁己おいらだ、滝だよ。おい、ちょいと誰だか手を握った奴があるぜ。串じょ戯うだんじゃあない、気味が悪いや、そういってお前放さしてくんな。おう、後生大事と握ってやがらあ。﹂
先さっ刻き荒物屋の納戸で、媼おうなと蚊の声の中に言ことばを交えた客はすなわちこれである。媼は、誰とも、いかなる氏素性の少年とも弁えぬが、去年秋銃猟の途みち次すがら、渋茶を呑みに立寄って以来、婆や、家うちは窮屈で為しか方たがねえ、と言っては、夜昼寛くつろぎに来るので、里の乳母のように心安くなった。ただ風変りな貴公子だとばかり思ってはいるが、――その時お雪が島野に引出されたのを見て、納戸へ転ころ込げこんで胸を打って歎くので、一人の婦おん人なを待つといって居合わせたのが、笑いながら駆出して湯の谷から救すくいに来たのであった。
二十九
子爵千破矢滝太郎は、今年が十九で、十一の時まで浅草俵たわ町らまちの質屋の赤あか煉れん瓦がと、屑くず屋やの横窓との間の狭い路地を入った突当りの貧乏長家に育って、納豆を食い、水を飲み、夜はお稲いな荷りさんの声を聞いて、番太の菓子を噛かじった江えど戸ッ児こである。
母親と祖じ父いとがあって、はじめは、湯島三丁目に名高い銀いち杏ょうの樹に近い処に、立派な旅はた籠ご屋や兼帯の上等下宿、三階造づくりの館やかたの内に、地方から出て来る代議士、大おお商あき人んどなどを宿して華は美でに消く光らしていたが、滝太郎が生れて三みッ歳つになった頃から、年と紀しはまだ二十四であった、若い母親が、にわかに田舎ものは嫌いだ、虫が好かぬ、一所の内に居ると頭痛がすると言い出して、地方の客の宿泊をことごとく断った。神田の兄あに哥い、深川の親方が本郷へ来て旅籠を取る数すうではないから、家業はそれっきりである上に、俳やく優しゃ狂ぐるいを始めて茶屋小屋入ばいりをする、角すも力うと取り、芸人を引ひっ張ぱり込こんで雲井を吹かす、酒を飲む、骨かる牌たを弄もてあそぶ、爪つま弾びきを遣る、洗あら髪いがみの意気な半はん纏てん着ぎで、晩方からふいと家うちを出ては帰らないという風。
滝太郎の祖じ父いは母親には継父であったが、目を閉じ、口を塞ふさいでもの言わず、するがままにさせておくと、瞬く内に家も地所も人手に渡った。謂いうまでもなく四人の口を過ごしかねるようになったので、大根畠に借家して半歳ばかり居いぐ食いをしたが、見す見す体に鉋かんなを懸けて削り失なくすようなものであるから、近所では人目がある、浅草へ行って蔵前辺に屋台店でも出してみよう、煮込おでんの汁つゆを吸っても、渇かつえて死ぬには増ましだという、祖父の繰廻しで、わずか残った手てま廻わりの道具を売って動うごきをつけて、その俵町の裏長屋へ越して、祖父は着き馴なれぬ半はん纏てん被ぎに身を窶やつして、孫の手を引きながら佐竹ヶ原から御おか徒ちま町ちあ辺たりの古道具屋を見歩いたが、いずれも高たか直ね﹇#﹁高たか直ね﹂はママ﹈で力及ばず、ようよう竹町の路地の角に、黒板塀に附くッ着つけて売物という札を貼はってあった、屋台を一ひと個つ、持主の慈悲で負けてもらって、それから小道具を買揃えて、いそいそ俵町に曳ひいて帰ると、馴れないことで、その辺の見計いはしておかなかった、件くだんの赤煉瓦と横窓との間の路地は、入口が狭いので、どうしても借家まで屋台を曳ひき込こむことが出来ないので、そのまま夜よひ一と夜よ置いたために、三晩とは措おかず盗まれてしまったので、祖父は最後の目的の水の泡になったのに、落胆して煩い着いたが、滝太郎の舌が廻って、祖父ちゃん祖父ちゃん、というのを聞いて、それを思出に世を去った。
後は母親が手一ツで、細い乳を含めて遣やる、幼おさ児なごが玉のような顔を見ては、世に何等かの大不平あってしかりしがごとき母親が我慢の角も折れたかして、涙で半襟の紫の色の褪あせるのも、汗で美しい襦じゅ袢ばんの汚れるのも厭いとわず、意とせず、些さ々さたる内職をして苦労をし抜いて育てたが、六ツ七ツ八ツにもなれば、膳ぜんも別にして食べさせたいので、手内職では追おッ着つかないから、世話をするものがあって、毎日吾妻橋を越して一ある製糸場に通っていた。
留守になると、橋手前には腕わん白ぱく盛ざかりの滝太一人、行儀をしつけるものもなし、居まわりが居まわりなんで、鼻緒を切らすと跣はだ足しで駆かけ歩あ行るく、袖が切れれば素すッ裸ぱだかで躍出る。砂を掴つかむ、小砂利を投げる、溝どぶ泥どろを掻かき廻まわす、喧けん嘩かはするが誰も味方をするものはない。日が暮れなければ母親は帰らぬから、昼の内は孤みな児しご同様。親が居ないと侮って、ちょいと小遣でもある徒てあいは、除のけ物ものにして苛いじめるのを、太ふと腹ッぱらの勝気でものともせず、愚図々々いうと、まわらぬ舌で、自分が仰あお向むいて見るほどの兄あに哥いに向って、べらぼうめ!
三十
その悪いた戯ずらといったらない、長屋内は言うに及ばず、横町裏町まで刎はね廻って、片時の間も手足を静じっとしてはいないから、余りその乱暴を憎らしがる女かみ房さん達は、金魚だ金魚だとそういった。蓋けだし美しいが食えないという意こころだそうな。
滝太はその可愛い、品のある容よう子すに似ず、また極めて殺さつ伐ばつで、ものの生いの命ちを取ることを事ともしない。蝶、蜻とん蛉ぼ、蟻あり、蚯みみ蚓ず、目を遮るに任せてこれを屠とさ殺つしたが、馴るるに従うて生類を捕獲するすさみに熟して、蝙こう蝠もりなどは一たび干ほし棹ざおを揮ふるえば、立たち処どころに落ちたのである。虫も蛙となり、蛇となって、九ツ十ウに及ぶ頃は、薪まき雑ざっ棒ぽうで猫を撃うって殺すようになった。あのね、ぶん撲なぐるとね、飛着くよ。その時は何でもないの、もうちッと酷ひどくくらわすと、丸ッこくなってね、フッてんだ。呻うなっておっかねえ目をするよ、恐いよ。そこをも一ツ打ぶつところりと死ぬさ。でもね、坊はね、あのはじめの内は手が震えてね、そこで止よしちゃッたい。今じゃ、化猫わけなしだと、心得澄したもので。あれさ妄もう念ねんが可おそ恐ろしい、化けて出るからお止しよといえば、だから坊はね、おいらのせいじゃあないぞッて、そう言わあ。滝太郎はものの命を取る時に限らず、するな、止せ、不いけ可ないと人のいうことをあえてする時は、手を動かしながら、幾たびも俺おいらのせいじゃないぞと、口癖のようにいつも言う。
井戸端で水を浴びたり、合長屋の障子を、ト唾つばで破いて、その穴から舌を出したり、路地の木戸を石いしでこつこつやったり、柱を釘で疵きずをつけたり、階はし子ごを担いで駆出すやら、地じだ蹈ん鞴だを蹈ふんで唱歌を唄うやら、物真似は真まっ先さきに覚えて来る、喧嘩の対あい手ては泣かせて帰る。ある時も裏町の人数八九名に取とっ占ちめられて路地内へ遁にげ込むのを、容赦なく追詰めると、滝は廂ひさしを足場にある長屋の屋根へ這はい上あがって、瓦かわらを捲まくって投出した。やんちゃんもここに至っては棄置かれず、言付け口をするも大人げないと、始終蔭かげ言ごとばかり言っていた女かみ房さん達、耐たまりかねて、ちと滝太郎を窘たしなめるようにと、夜よに入いってから帰る母親に告げた事がある。
しかるに、近所では美しいと、しおらしいで評判の誉ほめ物ものだった母親が、毫ごうもこれを真まこととはしない。ただそうですか済みませんとばかり、人前では当らず障らずに挨拶をして、滝や、滝やと不断の通り優やさしい声。
それもその筈はず、滝は他に向って乱暴狼ろう藉ぜき﹇#ルビの﹁ろうぜき﹂は底本では﹁ろうせき﹂﹈を極め、憚はばからず乳にゅ虎うこの威を揮ふるうにもかかわらず、母親の前では大おおきな声でものも言わず、灯ひと頃もしころ辻の方に母親の姿が見えると、駆出して行って迎えて帰る。それからは畳を歩あ行るく跫あし音おともしない位、以前の俤おもかげの偲しのばるる鏡台の引ひき出だしの隅に残った猿屋の小こよ楊う枝じの尖さきで字をついて、膝も崩さず母親の前に畏かしこまって、二年級のおさらいをするのが聞える。あれだから母おッ親かさんは本当にしないのだと、隣近所では切はが歯みをしてもどかしがった。
学校は私立だったが、先生はまたなく滝太郎を可愛がって、一度同級の者と掴つか合みあいをして遁にげて帰って、それッきり、登校しないのを、先生がわざわざ母親の留守に迎むかいに来て連れて行って、そのために先生は他ほかの生徒の父兄等に信用を失って、席札は櫛くしの歯の折れるように透いて無くなったが、あえて意こころにも留めないで、ますます滝太郎を愛育した。いかにか見みど処ころがあったのであろう。
三十一
しかるに先生は教うるにいかなる事をもってしたのであるか、まさかに悪わる智ぢ慧えを着けはしまい。前年その長屋の表町に道普請があって、向側へ砂利を装もり上あげたから、この町を通る腕車荷車は不のこ残らず路地口の際を曳ひいて通ることがあった。雨が続いて泥ぬか濘るみになったのを見澄して、滝太が手で掬すくい、丸太で掘って、地面を窪くぼめておき、木戸に立って車の来るのを待っていると、窪くぼみは雨あめ溜だまりで探りが入いらず、来るほどの車は皆輪が喰い込んで、がたりとなる。さらぬだに持余すのにこの陥おと羂しわなに懸かかっては、後へも前さきへも行くのではないから、汗になって弱るのを見ると、会心の笑えみを洩もらして滝太、おじさん押してやろう、幾いく干らかくんねえ、と遣ったのである。自から頼む所がなくなってはさる計はかりごともしはせまい、憎まれものの殺生好ずきはまた相応した力もあった。それはともかく、あの悪智慧のほどが可おそ恐ろしい、行末が思い遣られると、見るもの聞くもの舌を巻いた。滝太郎がその挙動を、鋭い目で角の屑屋の物置みたような二階の格子窓に、世を憚はばかる監視中の顔をあてて、匍はら匐ばいになって見ていた、窃せっ盗とう、万引、詐さ偽ぎもその時二はた十ちまでに数すうを知らず、ちょうど先月までくらい込んでいた、巣鴨が十たび目だという凄すごい女、渾あだ名なを白魚のお兼といって、日ひな向たでは消えそうな華きゃ奢しゃ姿。島田が黒いばかり、透通るような雪の肌の、骨も見え透いた美しいのに、可おそ恐ろしい悪党。すべて滝太郎の立居挙ふる動まいに心を留めて、人が爪つま弾はじきをするのを、独り遮って賞ほめちぎっていたが、滝ちゃん滝ちゃんといって可愛がること一ひと通とおりでなかった処。……
滝太郎が、その後のち十一の秋、母親が歿みまかると、双葉にして芟からざればなどと、差配佐次兵衛、講釈に聞いて来たことをそのまま言出して、合長屋が協議の上、欠けた火鉢の灰までをお銭あしにして、それで出だし合あいの涙金を添えて持たせ、道で鳶とびにでも攫さらわれたら、世の中が無事で好いい位な考えで、俵町から滝太郎を。
一おと昨と日い来るぜい、おさらばだいと、高慢な毒口を利いて、ふいと小さなものが威張って出る。見え隠れにあとを跟つけて、その夜よ金竜山の奥山で、滝さん餞せん別べつをしようと言って、お兼が無べに名さ指しからすっと抜いて、滝太郎に与えたのが今も身を離さず、勇美子が顔を赤らめてまで迫ったのを、頑として肯きかなかった指ゆび環わなのである。
その時、奥山で餞はなむけした時、時ならぬ深夜の人影を吠ほえる黒犬があった。滝さんちょいとつかまえて御覧とお兼がいうから、もとより俵町界かい隈わいの犬は、声を聞いて逃げた程の悪いた戯ずら小憎。御意は可しで、飛鳥のごとく、逃げるのを追おッ懸かけて、引ひッ捕とらえ、手もなく頸うなじの斑ぶちを掴つかんで、いつか継父が児こを縊くびり殺した死しが骸いの紫色の頬が附くッ着ついていた処だといって今でも人は寄附かない、ロハ台の際まで引ひき摺ずって来ると、お兼は心得て粋いきな浴衣に半纏を引ひっかけた姿でちょいと屈かがみ、掌てのひらで黒斑を撫なでた、指環が閃ひらめいたと見ると、犬の耳が片一方、お兼の掌てのひらの上へ血だらけになって乗ったのである。人間でもわけなしだよ、と目前奇特を見せ、仕方を教え、針のごとく細く、しかも爪ほどの大おおきさの恐るべき鋭利な匕ナイ首フを仕懸けた、純金の指環を取って、これを滝太郎の手に置くと、かつて少年の喜ぶべき品、食物なり、何等のものを与えてもついぞ嬉しがった験ためしのない、一つはそれも長屋中うちに憎まれる基もといであった滝太郎が、さも嬉しげに見て、じっと瞶みつめた、星のような一双の眼まなこの異様な輝かがやきは、お兼が黒い目で睨にらんでおいた。滝太郎は生れながらにして賊性を亨うけたのである。諸君は渠かれがモウセンゴケに見み惚とれた勇美子の黒髪から、その薔ば薇らの薫かおりのある蝦えび茶ちゃのリボン飾を掏すり取とって、総曲輪の横町の黄たそ昏がれに、これを掌中に弄もてあそんだのを記憶せらるるであろう。
三十二
﹁滝さん、滝さん、おい、おい。﹂
﹁私わっちかい、﹂と滝太歩を停とどめて振返ると、木蔭を径こみちへずッと出たのは、先さっ刻きから様子を伺っていた婦おん人なである。透かして見るより懐しげに、
﹁おう来たのか、おいら約束の処へ行ってお前めえの来るのを待ってたんだけれども、ちょいと係かか合りあいで歩ぶに取られて出て来たんだ。路みちは一筋だから大丈夫だとは思ったが、逢い違わなければ可いと思っての。﹂
﹁そう、私実は先さっ刻きからここに居たんだよ。路先を切って何か始まったから、田舎は田舎だけに古風なことをすると思ってね、旅たび稼かせぎの積つもりでぐッとお安く真まん中なかへ入ってやろうかと思ってる処へ、お前さんがお出いでだから見ていたの。あい、おかしくッて可ようござんした。ここいらじゃあ尾おひ鰭れを振って、肩かた肱ひじを怒いからしそうな年上なのを二人まで、手もなく追おッ帰かえしたなあ大出来だ、ちょいと煽あおいでやりたいわねえ、滝さんお手柄。﹂
﹁馬鹿なことを謂ってらあ、何もこっちが豪えらいんじゃあねえ。島野ッてね、あのひょろ長え奴が意気地なしで、知事を恐こわがっていやあがるから、そこが附つけ目めよ。俺おいらに何か言われちゃあ、後で始末が悪いもんだから、同類の芋虫まで、自分で宥なだめて連れて行ったまでのこッた。敵むこうが使ってる道具を反あべ対こべにこっちで使われたんだね、別なこたあねえ、知事様がお豪いのでござりますだ。﹂といって事も無げに笑った。
﹁それじゃあ滝さん、毒をもって毒を制するとやらいうのかい。﹂
﹁姉ねえや、お前めえ学者だなあ、﹂
﹁旦那、御ごじ串ょう戯だんもんですよ。﹂と斉ひとしく笑った。
身みな装りは構わず、絞しぼりのなえたので見すぼらしいが、鼻筋の通った、眦めじりの上った、意気の壮さかんなることその眉び宇うの間に溢あふれて、ちっともめげぬ立振舞。わざと身を窶やつしてさるもののように見らるるのは、前さきの日総曲輪の化ばけ榎えのきの下で、銀流しを売っていた婦おん人なであって――且つ少わかかりし時、浅草で滝太郎に指環を与えた女賊白魚のお兼である。もとより掏す賊りの用に供するために、自分の持物だった風変りな指環であるから、銀流を懸けろといって滝太が差出したのを、お兼は何条見みの免がすべき。
はじめは怪あやしみ、中なかばは驚いて、果はてはその顔を見定めると、幼おさ立なだちに覚えのある、裏長屋の悪いた戯ずら小憎、かつてその黒い目で睨にらんでおいた少年の懐しさに、取った手を放さないでいたのであったが。十年ばかりも前のこと、場所も意外なり、境遇も変っているから、滝太郎の方では見忘れて、何とも覚えず、底気味が悪かった。
横町の小こど児もが足あし搦がらみの縄を切払うごときは愚おろかなこと、引外して逃にげるはずみに、指が切れて血が流れたのを、立合の衆ひとが怪あやしんで目を着けるから、場所を心得て声も懸けなかったほど、思慮の深い女賊は、滝太郎の秘密を守るために、仰いでその怪みを化榎に帰して、即時人の目を瞞くるめたので。
越えて明くる夜よ、宵のほどさえ、分けて初しょ更こうを過ぎて、商あき人んどの灯がまばらになる頃は、人の気けは勢いも近寄らない榎の下、お兼が店を片附ける所へ、突然と顕あらわれ出いで、いま巻納めようとする茣ご蓙ざの上へ、一束の紙幣を投げて、黙っててくんねえ、人に言っちゃ悪いぜとばかり、たちまち暗あん澹たんたる夜色は黒い布の中へ、機敏迅速な姿を隠そうとしたのは昨夜の少年。四あた辺りに人がないから、滝さんといって呼留めて、お兼は久ひさしぶりでめぐりあったが、いずれも世を憚はばかって心置のない湯の谷で、今夜の会合をあらかじめ約したのであった。
三十三
二人は語らい合って、湯の谷の媼ばばが方かたへ歩き出した。
お兼は四あた辺りをして、
﹁そりゃそうと、酷ひどい目に逢いそうだった姉さんはどうしたの。なんだかお前さんと、あの肥ふとった、﹂
﹁芋虫か、﹂
﹁え、じゃあ細長い方は蚯みみ蚓ずかい。おほほほほ、おかしいねえ、まあ、その芋虫と、蚯蚓とお前さんと。﹂
﹁厭いやだぜ、おいら虫じゃあねえよ。﹂と円つぶらに目をってわざと真顔になる。
﹁御免なさいまし、三人巴ともえになってごたごたしてるので、つい見はぐしたよ、どうしたろう。﹂
﹁何か、あの花売の別べっ嬪ぴんか。﹂
﹁高慢なことをいうねえ、花売だか何だか。﹂
﹁うむ、ありゃもう疾とっくに帰った。俺おいら可いいてことよと受合って来たけれども、不安心だと見えてあとからついて来たそうで、老とし人よりは苦労性だ。挨あい拶さつだの、礼だの、誰どな方ただのと、面倒臭くせえから、ちょうど可い、連つれ立だたして、さっさと帰しちまった。﹂
﹁何しろ可よかったねえ。喧嘩になって、また指環でも揮ふり廻まわしはしないかと、私ははらはらして見ていたんだよ。ほんとにお前さん、あれを滅多に使っちゃあ悪うござんす。﹂
﹁蝮まむしの針だ、大事なものだ。人に見せて堪たまるもんか、そんなどじなこたあしやしないよ。﹂
﹁いかがですか、こないだ店みせ前さきへ突出したお手際では怪しいもんだよ。多勢居る処じゃあないかね。﹂
﹁誰がまた姉や、お前めえだと思うもんか。あの時はどきりとした、ほんとうだ、縛られるかと思った。﹂
﹁だからさ、私に限らず、どこにどんな者が居ないとも限らないからね、うっかりしちゃあ危けん険のんだよ。﹂
﹁あい、いいえ、それが何だ、知事のお嬢さんがね、いやに目をつけて指環を取とッ換かえようなんて言うんだ。何だか機から関くりを見られるようで、気がさすから、目立たないのが可かろう、銀流でもかけておけと、訳はありゃしねえ、出来心で遣ったんだ、相済みません。﹂といって、莞かん爾じとして戯たわむれにその頭つむりを下げた。
﹁沢たん山とお辞儀をなさい、お前さん怪けしからないねえ。そりゃ惚ほれてるんだろう、恐入った?﹂
﹁おお、惚れたんだか何だか知らねえが、姫ひい様さまの野郎が血道を上げて騒いでるなあ、黒百合というもんです。﹂
﹁何だとえ。﹂
﹁百合の花の黒いんだッさ、そいつを欲しいって騒ぐんだな。﹂
﹁へい、欲しければ買ったら可さそうなもんじゃあないか。﹂
﹁それがね、不い可けねえんだ、銭ぜに金かねずくじゃないんだってよ。何でも石滝って処を奥へ蹈ふみ込こむと、ちょうど今時分咲いてる花で、きっとあるんだそうだけれど、そこがまた大変な処でね、天あた窓まが石のような猿の神様が住んでるの、恐おそろしい大おおきな鷲わしが居るの、それから何だって、山ン中だというに、おかしいじゃあねえか、水みず掻かきのある牛が居るの、種いろ々いろなことをいって、まだ昔から誰も入ったことがないそうで、どうして取って来られるもんだとも思やしないんだってこッた。弱虫ばかり、喧嘩の対あい手てにするほどのものも居ねえ処だから、そン中へ蹈込んで、骨のある妖ばけ物ものにでも、たんかを切ってやろうと、おいら何なんするけれども、つい忙せわしいもんだから思ったばかし。﹂
﹁まあ、大層お前さん、むずかしいのね、忙いって何の事だい。﹂
﹁だから待ちねえ、見せるてこッた、うんと一ひと番つ喜ばせるものがあるんだぜ。﹂
﹁ああ、その滝さんが見せるというものは、何だか知らないが見たいものだよ。﹂
三十四
滝太郎はかつて勇美子に、微細なるモウセンゴケの不思議な作用を発見した視力を誉たたえられて、そのどこで採とり獲えたかの土地を聞かれた時、言葉を濁して顔の色を変えたことを――前回に言った。
いでそのモウセンゴケを渠かれが採集したのは、湯の谷なる山の裾の日ひあ当たりに、雨の後ともなく常にじとじと、濡れた草が所々にある中においてした。しかもお雪が宿の庭続つづき、竹たけ藪やぶで住すま居いを隔てた空地、直ちに山の裾が迫る処、その昔は温ゆ泉が湧わき出でたという、洞ほら穴あなのあたりであった。人は知らず、この温ゆ泉の口の奥は驚くべき秘密を有して、滝太郎が富山において、随処その病的の賊心を恣ほしいままにした盗品を順序よく並べてある。されば、お雪が情人に貢ぐために行商する四季折々の花、美しく薫かおりのあるのを、露も溢こぼさず、日ごとにこの洞穴の口浅く貯えておくのは、かえって、滝太郎が盗利品に向って投げた、花束であることを、あらかじめここに断っておかねばならぬ。
さて、滝太郎がその可おそ恐ろしい罪を隠いん蔽ぺいしておく、温ゆ泉の口の辺あたりで、精細式かたのごときモウセンゴケを見着けた目は、やがてまた自分がそこに出没する時、人目のありやなしやを熟じっと見定める眼まなこであるから、己おのれの視線の及ぶ限かぎりは、樹も草も、雲の形も、日の色も、従うて蟻の動くのも、露のこぼるるのも知らねばならないので、地平線上に異状を呈した、モウセンゴケの作用は、むしろ渠がいまだかつて見も聞きもしなかったほど一層心着くに容たや易すいのであった。あたかも可し、さる必用を要する渠が眼まなこは、世に有数の異相と称せらるる重ちょ瞳うどうである。ただし一双ともにそうではない、左一つ瞳ひとみが重かさなっている。
そのせいであったろう。浅草で母親が病んで歿みまかる時、手を着いて枕まく許らもとに、衣帯を解かず看護した、滝太郎の頸うなじを抱いて、︵お前は何でもしたいことをおしよ、どんなことでもお前にはきっと出来るのだから、︶といったッきり、もう咽の喉どがすうすうとなった。
その上また母親はあらかじめ一封の書を認したためておいて、不断滝太郎から聞き取って、その自分の信用を失うてまで、人の忌嫌う我児を愛育した先生に滝太郎の手から託さするように遺言して、︵私が亡くなった後で、もしも富山からだといって人が尋ねて来たら、この手紙を渡して下さい。開けちゃあ不い可けません、来なかったらばそのままで破って下さい、きっとお見懸け申してお頼み申します。︶と言わせたのである。
やや一月ばかり経たつと、その言こと違たがわず果して富山からだといって尋ねて来たのが、すなわち当時の家令で、先代に託されて、その卒去の後のち、血統というものが絶えて無いので、三年間千破矢家を預あずかっていて今も滝太郎を守立ててる竜たつ川かわ守しゅ膳ぜんという漢学者。
守膳は学校の先生から滝太郎の母親の遺書を受取ったが、その時は早や滝太郎が俵町を去って二月ばかり過ぎた後であったので、泰山のごとく動かず、風ふう采さい、千破矢家の傳ふたるに足る竜川守膳が、顔の色を変えて血眼になって、その捜索を、府下における区々の警察に頼み聞えると、両国回えこ向うい院んのかの鼠小憎の墓はか前のまえに、居いね眠むりをしていた小憎があった。巡行の巡査が怪あやしんで引ひっ立たて、最寄の警察で取調べたのが、俵町の裏長屋に居たそれだと謂って引渡された。
田舎は厭いやだと駄々を捏こねるのを、守膳が老功で宥なだめ賺すかし、道中土を蹈ふまさず、動ゆるぎ殿のお湯ゆど殿の子こ調しら姫べひめという扱いで、中仙道は近道だが、船でも陸おかでも親おや不しら知ずを越さねばならぬからと、大事を取って、大おお廻まわりに東海道、敦賀、福井、金沢、高岡、それから富山。
三十五
湯の谷の神の使だという白しろ烏からすは、朝月夜にばかり稀まれに見るものがあると伝えたり。
ものの音はそれではないか。時ならず、花屋が庭続つづきの藪やぶの際に、かさこそ、かさこそと響ひびきを伝えて、ややありて一面に広々として草まばらな赤土の山の裾すそへ、残月の影に照らし出されたのは、小さい白い塊である。
その描けるがごとき人の姿は、薄うッすりと影を引いて、地の上へ黒い線が流るるごとく、一文字に広場を横切って、竹藪を離れたと思うと、やがて吹流しに手拭を被かぶった婦おん人なの姿が顕あらわれて立ったが、先へ行ゆく者のあとを拾うて、足早に歩あ行るいて、一所になると、影は草の間に隠れて、二人は山腹に面した件くだんの温ゆ泉の口の処で立たち停どまった。夏の夜はまだ明けやらず、森しんとして、樹の枝に鳥が塒ねぐらを蹈ふみ替かえる音もしない。
﹁跟ついておいで、この中だ。﹂と低こご声えでいった滝太郎の声も、四あた辺りの寂せき莫ばくに包まれて、異様に聞える。
そのまま腰を屈かがめて、横穴の中へ消えるよう。
お兼は抱着くがごとくにして、山腹の土に手をかけながら、体を横たえ、顔を斜ななめにして差さし覗のぞいて猶ため予らった。
﹁滝さん、暗いじゃあないか。﹂
途端に紫の光一点、※ぱっ﹇#﹁火+發﹂、308-13﹈と響いて、早マ附ッ木チを摺すった。洞ほらの中は広く、滝太郎はかえって寛くつろいで立っている。ほとんどその半身を蔽おおうまで、堆うずだかい草の葉活いき々いきとして冷たそうに露を溢こぼさぬ浅あさ翠みどりの中に、萌もえ葱ぎ、紅あか、薄黄色、幻のような早咲の秋草が、色も鮮あざ麗やかに映って、今踏込むべき黒々とした土の色も見えたのである。
﹁花はな室むろかい、綺麗だね。﹂
﹁入口は花室だ、まだずっと奥があるよ。これからつき当って曲るんだ、待っといで、暗いからな。﹂
燃え尽して赤い棒になった早マ附ッ木チを棄てて、お兼を草花の中に残して、滝太郎は暗中に放れて去る。
お兼は気を鎮めて洞ほらの口に立っていたが、たちまち慌あわただしく呼んだ。
﹁ちょいと……ちょいと、ちょいと。﹂
音も聞えず。お兼は尋た常だならず声を揚げて、
﹁滝さん、おい、ちょいと、滝さん。﹂
﹁おう、﹂と応こたえて、洞穴の隅の一方に少年の顔は顕れた。早く既に一個角燈に類した、あらかじめそこに用意をしてあるらしい灯ともしを手にしている。
お兼は走り寄って、附くッ着ついて、
﹁恐しい音がする、何だい、大変な響だね。地面を抉えぐり取るような音が聞えるじゃあないか。﹂
いかにも洞の中は、ただこれ一条の大瀑ばく布ふあって地の下に漲みなぎるがごとき、凄すさまじい音が聞えるのである。
滝太郎は事もなげに、
﹁ああ、こりゃね、神通川の音と、立山の地獄谷の音が一所になって聞えるんだって言うんだ。地じぞ底こがそこらまで続いているんだって、何でもないよ。﹂
神通は富山市の北端を流るる北ほく陸ろく七大川の随一なるものである。立山の地獄谷はまた世に響いたもので、ここにその恐るべき山さん川せん大叫喚の声を聞くのは、さすがに一個婦人の身に何でもない事ではない。
お兼は顔の色も沈んで、滝太郎にひしと摺すり寄よりながら、
﹁そうかい、川の音は可いいけれど地獄が聞えるなんざ気き障ざだねえ。ちょいと、これから奥へ入ってどうするのさ、お前さんやりやしないか。私ゃ殺されそうな気がするよ、不気味だねえ。﹂
﹁馬鹿なことを!﹂
三十六
﹁いいえ、お前さん、何だか一ひと通とおりじゃあないようだ、人ひと殺ごろしもしかねない様子じゃあないか。﹂さすがの姉あね御ごも洞ほら中なかの闇やみに処して轟ごう々ごうたる音の凄すさまじさに、奥へ導かれるのを逡しり巡ごみして言ったが、尋た常だならぬ光景に感ずる余り、半ばは滝太郎に戯れたので。
﹁おいで、さあ、夜が明けると人が見るぜ。出でお後くれた日にゃあ一日逗とう留りゅうだ、﹂と言いながら、片手に燈ともしを釣って片手で袖を引くようにして連込んだ。お兼は身を任せて引かれ進むと、言うがごとく洞穴の突当りから左へ曲る真まっ暗くらな処を通って、身を細うして行くとたちまち広し。
﹁まだまだ深いのかい。﹂
﹁もう可いい、ここはね、おい、誰も来る処じゃあねえよ。おいらだって、余程の工面で見着け出したんだ。﹂
滝太郎はこう言いながら、手なる燈ともしを上げて四あた辺りを照らした。
と見ると、処とこ々ろどころに筵むしろを敷き、藁わらを束つかね、あるいは紙を伸べ、布を拡げて仕切った上へ、四角、三角、菱ひし形がたのもの、丸いもの。紙入がある、莨たば入こいれがある、時計がある。あるいは銀色の蒼あおく光るものあり、また銅あかがねの錆さびたるものあり、両手に抱えて余るほどな品は、一ひと個つも見えないが、水晶の彫刻物、宝玉の飾かざり、錦にしきの切きれ、雛ひいな、香こう炉ろの類から、印のごときもの数えても尽されず、並べてあった。その列の最も端の方に据えたのが、蝦えび茶ちゃのリボン飾かざり、かつて勇美子が頭かしらに頂いたのが、色もあせないで燈ひの影に黒ずんで見えた。傍かたわらには早マ附ッ木チの燃もえさしが散ちらばっていたのである。
地獄谷の響ひびき、神通の流ながれの音は、ひとしきりひとしきり脈を打って鳴り轟とどろいて、堆うずたかいばかりの贓ぞう品ひんは一ひと個つび々と々つ心あって物を語らんとするがごとく、響に触れ、燈ともしに映って不のこ残らず動くように見えて、一種言うべからざる陰惨の趣がある。お兼はじっと見て物をも言わぬ、その一言も発しないのを、感に耐えたからだとも思ったろう。滝太郎は極めて得意な様子でお兼の顔を見遣りながら、件くだんのリボン飾かざりを指ゆびさして、
﹁これがね、一番新しいんだぜ。ほら、こないだ総曲輪で、姉やに掴つかまった時ね、あの昼間だ、あの阿魔、知事の娘のせいでもあるまいが、何だか取とり難にくかったよ、夜店をぶらついてる奴等の簪かんざしを抜くたあなぜか勝手が違うんだ。でもとうとう遣ッつけた、可い心持だった、それから、﹂
と言って飜ひるがえって向うへ廻って、一ひと個つの煙草入を照らして見せ、
﹁これが最はじ初めてだ、富山へ来てから一番前さきに遣ったのよ。それからね、見ねえ。﹂
甚しいかな、古色を帯びた観世音の仏像一体。
﹁これには弱ったんだ、清全寺ッて言う巨おお寺でらの秘仏だっさ。去年の夏頃開帳があって、これを何だ、本堂の真まん中なかへ持出して大変な騒ぎを遣るんだ。加賀からも、越後からもね、おい、泊とま懸りがけの参さん詣けいで、旅籠町の宿屋はみんな泊とまりを断るというじゃあねえか。二十一日の間拝ませた。二十一日目だったかな、おいらも人出に浮かされて見に行ったっけ。寺の近所は八町ばかり往来の留まる程だったが、何が難あり有がてえか、まるで狂きち人がいだ。人の中を這はい出だして、片息になってお前めえ、本尊の前へにじり出て、台に乗っけて小さな堂を据えてよ、錦にしきの帳とばりを棒の尖さきで上げたり下げたりして、その度にわッと唸うならせちゃあ、うんと御おさ賽いせ銭んをせしめてやがる。そのお前、前へ伸上って、帳の中を覗のぞこうとした媼ばばあがあったさ。汝うぬ血迷ったかといって、役僧め、媼を取って突飛ばすと、人の天あた窓まの上へ尻餅を搗ついた。あれ引ひき摺ずり出だせと講こう中じゅう、肩かた衣ぎぬで三方にお捻ひねりを積んで、ずらりと並んでいやがったが、七八人一いっ時ときに立上がる。忌いま々いましい、可哀そうに老とし人よりをと思って癪しゃくに障ったから、おいらあな、﹂
活気は少年の満面に溢あふれて、蒼そう然ぜんたる暗がりの可おそ恐ろしい響ひびきの中に、灯はやや一ひと条すじの光を放つ。
三十七
﹁晩方で薄暗かったし、鼻と鼻と打ぶつかっても誰だか分らねえような群衆だから難かしいこたあねえ。一番驚かしてやろうと思って、お前めえ、真まっ直すぐに出た。いきなり突つっ立たって、その仏像を帳とばりの中から引出したんだから乱暴なこたあ乱暴よ。媼ばあやゆっくり拝みねえッて、掴つかみかかった坊主を一人引ひん捻ねじって転のめらせたのに、片膝を着いて、差つけて見せてやった。どうして耐たまったもんじゃあねえ。戦争の最中に支ちゃ那んが小こど児もを殺したってあんな騒さわぎをしやあしまい。たちまち五六人血眼になって武者振つくと、仏敵だ、殺せと言って、固めている消しご防と夫しどもまで鳶とび口ぐちを振って駈かけ着けやがった。﹂
光景の陰惨なのに気を打たれて、姿も悄しょ然うぜんとして淋しげに、心細く見えた女賊は、滝太郎が勇しい既往の物語にやや色を直して、蒼あお白じろい顔の片かた頬ほに笑えみを湛たたえていたが、思わず声を放って、
﹁危いねえ!﹂
﹁そんなこたあ心得てら。やい、おいらが手にゃあ仏様持ってるぜ、手を懸けられるなら懸けてみろッて、大おおきな声で喚わめきつけた。﹂
﹁うむ、うむ、﹂とばかりお兼は嬉しそうに頷うなずいて聞くのである。
﹁おいらが手で持ってさいその位騒ぐ奴等だ、それをお前こっちへ掴んでるからうっかり手てだ出しゃならねえやな。堂の中は人間の黒山が崩れるばかり、潮が湧わいたようになってごッた返す中を、仏様を振廻しちゃあ後へ後へと退さがって、位いは牌いど堂うへ飛込んで、そこからお前壁の隅ン処を突き破って、墓原へ出て田たん圃ぼへ逃げたぜ。その替り取れようとも思わねえ大変なものをやッつけた。今でもお前、これを盗まれたとってどの位探してるか知れねえよ。富山の家うちが五六百焼けたってあんなじゃあるめえと思う位、可い心持じゃあねえか。姉や、それだがね、おらあこんなことを遣ってからはじめてだ、実は恐こわかった、殺されるだろうと思ったよ。へん、おいらアのせいじゃないぜ、大丈夫知れッこなしだ、占めたもんだい、この分じゃあ今に見ねえ、また大仕事をやらかしてやらあな。﹂
血も迸ほとばしらんばかり壮さかんだった滝太郎の面おもてを、つくづく見て、またその罪の数をして、お兼はほっという息を吐ついた。
歎ため息いきして、力なげにほとんどよろめいたかと見えて、後うしろざまに壁のごとき山腹の土に凭もたれかかり、
﹁滝さん、まあ、こうやって、どうする意つもりだねえ。いいえ、知ってるさ。私だって、そうだったが、殊にお前さん銭ぜに金かねに不自由はなし、売ってどうしようというんじゃあない、こりゃ疾やまいなんだ。どうしても止やめられやしないんだろうね。﹂
言うことは白魚のお兼である。滝太郎は可あや怪しい目をして、
﹁誰がお前、これを止しちゃッて何がつまるもんか。おらあ時とすると筵むしろを敷いて、夜よッ一ぴ夜てこの中で寝て帰ることがある位だ。見ねえ、おい、可い心持じゃあねえか、人にも見せてやりたくッてしようがねえんだけれど、下らない奴に嗅かぎつけられた日にゃ打ぶち破こわしだから、ああ、浅草で別れた姉やぐらいなのがあったらと、しょッちゅう思っていねえこたあなかったよ。おいら一人も友達は拵こせえねえんだ、総曲輪でお前に、滝やッて言われた時にゃあ、どんなに喜んだと思うんだ、よく見て誉ほめてくんねえな。﹂
ずッと寄ると袖を開いて、姉御は何と思ったか、滝太郎の頸うなじを抱いて、仰あお向むきの顔を、
﹁どれ、﹂
燈ともしは捧げられた、二人はつくづくと目を見合せたのであった。お兼は屹きっと打守って、
﹁滝さん、お前さんは自分の目がどんなに立派なものだか知ってるかね。﹂
三十八
﹁お前さんの母おっ様かさんが亡なくなんなすった時も、お前にゃあ何でもしたいことが出来るからってとお言いだったと聞いちゃあいたがね、まあ、随分思切ったこったね。何かい、ここで寝ることがあるのかい。﹂
﹁ああ、あの荒物屋の媼ばばっていうのが、それが、何よ、その清全寺で仏像の時の媼なんだから、おいらにゃあ自由が利くんだ。邸やしきからじゃあ面倒だからね、荒物屋を足あし溜だまりにしちゃあ働きに出るのよ。それでも何や彼かや出入に面倒だったり、一ひと品しな々々捻ひねくっちゃあ離れられなくって、面白い時はこの穴ン中で寝て行かあ。寝てるとね、盗んで来たここに在る奴等が、自分が盗とられた時の様子を、その道筋から、機きっ会かけから、各めい々めいに話をするようで、楽たのしみッたらないんだぜ。﹂
﹁それでまあよくお前さん体が何ともないね。浅草に餓鬼大将をやってお在いでの時とは違って、品もよくおなりだし、丸顔も長くなってさ、争われない、どう見ても若殿様だ。立派なもんだ。どうして、お前さんのその不思議な左の目の瞳どう子しに見みお覚ぼえがなかった日にゃあ、名な告のられたって本当に出来るもんじゃあない、その替り、こら、こんなに、﹂
と手を取って、お兼は掌てのひらに据えて瞻みまもりながら、
﹁節もなくなって細うなったし、体も弱々しくって、夜露に打たれても毒そうではないか。﹂
﹁不景気なことを言ってらあ。麦むぎ畠ばたけの中へ引ひっくりかえって、青天井で寝た処で、天あた窓まが一つ重くなるようなんじゃあないよ、鍛えてあらあな。﹂と昂こう然ぜんたり。
﹁そうかい、体はそれで可いとした処で、お前さんのような御身分じゃあ、鎖じょうを下ろした御門もあろうし、お次にはお茶坊主、宿との直いの武士というのが控えてる位なもんじゃあないか。よくこうやって夜よッ一ぴ夜て出歩かれるねえ。﹂
﹁何、そりゃおいら整ちゃ然んと旨うまくやってるから、大概内の奴あ、今時分は御ぎょ寝しなっていらっしゃると思ってるんだ。何から何まで邸の事をすっかり取締ってるなあ、守山てって、おいらを連れて来た爺さんだがね、難かしい顔をしてる割にゃあ解ってて、我わが儘ままをさしてくれらあね。﹂
﹁成程ね、華族様の内をすっかり預あずかって、何のこたあない乞食からお前さんを拾上げたほどの人だから、そりゃお前さんを扱うこたあ、よく知っているんだろう。﹂
﹁ああ、ただもう家名を傷きずつけないようにって、耳懊うるさく言って聞かせるのよ。堅い奴だが、おいら嫌いじゃあねえ。﹂
﹁ふむ、それでお前さん、盗どろ賊ぼうをすりゃ世話は無いじゃあないか。﹂と言って、心ありげに淋しい笑えみを含んだのである。
﹁おいら何もこれを盗って、儲けようというんじゃあなし、ただ遊んで楽たのしむんだあな。犬猫を殺すのも狩をするのも同おん一なじこッた。何、知れりゃ華族だ、無断に品物を取って来た、代価は幾いく干らだ、好すきな程払ってやるまでの事じゃあねえか。﹂
﹁あんな気だから納まらないよ。ほんとに私もあの時分に心得違いをしていたから、見処のあるお前さん、立派な悪党に仕立ててみようと、そう思ったんだがね。滝さんお聞き、蛇がその累つぶ々つぶした鱗うろこを立てるのを見ると気味が悪いだろう、何さ、恐こわくはないまでも、可い心持はしないもんだ。蟻でも蠅でも、あれがお前、万と千と固かたまっていてみな、厭いやなもんだ。松の皮でもこう重かさなり重りして堆うずだかいのを見るとね、あんまり難あり有がたいもんじゃあない、景色の可い樹こだ立ちでも、あんまり茂ると物もの凄すごいさ。私ゃもう疾とうにからそこへ気が着いて厭になって、今じゃ堅気になっているよ。ね、お前さん、厭な姿は、蛇が自分でも可い心持じゃあなかろうではないか。蚊でも蚤のみでも食ったのが、ぶつぶつ一面に並んでみな、自分の体でも打うっ棄ちゃりたいやな。私ゃこうやってお前さんがここに盗んだものを並べてあるのを見ると、一々動くようで蛇の鱗だと思って、悚ぞ然っとした。﹂
三十九
﹁野暮は言わない、私だって何も素人じゃあなし、お前さんの病な事も知ってるから、今めかしい意見をするんじゃないが、世の中にゃもッと面白い盗どろ賊ぼうのしようがありそうなもんじゃないか。時計だの、金だの、お前さんが嬉しがって手柄そうにここに並べて置くものは、こりゃ何だい! 私に言わせると吝けちさ、端はしたのお鳥目でざら幾いく干らでもあるもんだ。金ダイ剛ヤモ石ンドだって、高々人間が大事がって秘しまっておくもんだよ、慾よくの固かたまりだね。金と灰吹は溜たまるほど汚いというが、その宝を盗んで来るのは、塵ごみ芥た溜めから食べ荒しをほじくり出す犬と同おん一なじだね、小汚ない。
そんなことより滝さん、もっと立派な、日にっ本ぽん晴ばれの盗どろ賊ぼうがありやしないかしら。
主の棲すむ淵ふちといえば誰も入ったものはあるまい。昔から人の入らない処なら、中にまたどんな珍らしい不思議なものがあろうも知れない。譬たとえにも竜りゅうのには神様のような綺麗な珠があるというよ。何そんなものばかりじゃあない、世の中は広いんだ、富山にばかりも神通川も立山もあるじゃあないか。大海の中だの、人の行ゆかない島などには、宝にしろ景色にしろ、どんな結構なものがあろうも知れぬ、そして見つかれば大びらに盗んで可いのさ。
ただそれは難かしい。島へ行くには船もいろうし、山の奥へ入るには野宿だってしなけりゃならない。お前さんはお金か子ねが自由だろう、我わが儘ままが出来るじゃあないか。気象はその通とおりだし、胆きも玉たまは大おおきいし、体は鍛えてある、まあ、第一、その目つきが容易じゃあない。火に焼やかれず、水に溺れずといったような好運があるようだ。好すきなことが何でも出来るッて、母おっ様かさんが折紙をつけて下すった体だよ、私が見ても違いはないね。
金目の懸かかった宝なんざ、人が大切がって惜しむもので、歩るくにも坐るにも腰こし巾ぎん着ちゃくにつけていようが、鎖じょうを下ろしておこうが、土の中へ埋めてあろうが、私等が手にゃあお茶の子さ。考えて御覧、どんなに厳重にして守ったって、そりゃ人間の猿さる智ぢ慧えでするこッた、現にお前さん、多勢黒山のような群集の中で、その観音様を一人で引揚げて来たじゃあないか。人の大事にするものを取って来るのは何でもないが、私がいう宝物は、山の霊、水の精、また天道様が大事に遊ばすものもあろう。人は誰も咎とがめないが、迂うか濶つにお寄よ越こしはなさらない、大風で邪魔をするか、水で妨げるか、火で遮るか。恐い獣けだものに守らしておきもしようし、真まっ暗くらな森で包んであろうも知れず、地獄谷とやら、こんな恐い音のする、その立山の底に秘かくしてあるものもあろう。近い処が、お前さんが前さっ刻きお話の、その黒百合というものだ、つい石滝とかの山を奥へ入るとあるッていうのに、そら、昔から人が足あし蹈ぶみをしない処で、魔処だ。入っちゃあならない、真暗だ、天あた窓まが石のような可おそ恐ろしい猿が居る、それが主だというじゃあないか。この国中捌さばいてる知事の嬢さんが欲しくっても、金でも権けん柄ぺいずくでも叶かなわないというだろう。滝さんどうだね、そんなものを取って来ちゃあ。
一ひと番つ何でもそういったものを、どしどし私たちが頂戴をすることにしようじゃないか。私ばかりでない、まだ同おん一なじ心の者が、方々に隠れている、その苧おだ環まきの糸を引張ってさ、縁のあるものへ結びつけて、人間の手で網を張ろうという意つもりでね、こうやって方々歩いている。何、私なんざ、ほんの手先の小使だ、幾らも、お前さんの相談相手があるんだから、奮発をしてお前さん、連判状の筆頭につかないか。﹂
意気八荒を呑む女賊は、その花のごとき唇から閃ひらめいてのぼる毒炎を吐いた。洞ほら穴あなの中に、滝太郎が手なる燈ともしびの色はやや褪あせたと見ると、件くだんの可おそ恐ろしい響ひびきは音と絶だえるがごとく、どうーどうーどうーと次第に遠ざかって、はたと聞えなくなったようである。
四十
﹁もう夜明だ、姉や、分ったい、うむ、早く出よう。そして、おいらもう、この穴へは入るまい。﹂
滝太郎は決然として答えた。お兼は嬉しげに手を取って、
﹁滝さん、それでこそお前さんだ、ああ、富山じゃあ良いい事をした、お庇かげ様さまで発たち程ば栄えがする。﹂
﹁お前めえ、もうちっとこっちに居てくんねえな。おいら勝手に好すきな真似はしてるけれど、友達も何なんにもありゃしないやな。本当は心細くッて、一向詰つまらないんだぜ。﹂
﹁気の弱いことをいうもんじゃあない、私はこれから加州へ行って、少し心当あたりがあるんだし、あそこへは先へ行って待合わせている者がある。そうしちゃあいられないんだから、また逢おうよ。そしてお前さんの話をして、仲間の者を喜ばせよう。何の、味方にしようと思えば、こっちのものなんざ皆みんな味方さ。不のこ残らず敵になったって難かしい事はないのだもの。﹂
﹁うむ、そんならそうよ。﹂と頷うなずいて身を開いた、滝太郎は今森しんとして響ひびきも止やんだ洞穴の中に耳を澄したが、見る見る顔の色が動いて、目が光った。
﹁や、山の上で蜩ひぐらしが鳴かあ、ちょッ、あいつが二三度鳴くと、直ぐに起きやあがる。花屋の女は早起だ、半日ここに居て耐たまるもんかい。﹂
ふッと燈あかしを消すと同時に、再びお兼の手をしっかと取って、
﹁姉や、大丈夫だ、暗い内に、急いで。さあ、﹂
温ゆ泉の口なる、花室の露を掻かい潜くぐって、山の裾へ出ると前あと後さきになり、藪やぶについて曲る時、透かすと、花屋が裏庭に、お雪がまだ色も見え分かぬ、朝まだき、草花の中に、折取るべき一ひと個つの籠かごを抱いて、しょんぼりとして立っていた。髪艶つややかに姿白く、袖もなえて、露に濡れたような風情。推するに渠かれは若山の医療のために百金を得まく、一輪の黒百合を欲して、思い悩んでいるのであろう。南天の下に手ちょ水うず鉢ばちが見えるあたりから、雨戸を三枚ばかり繰った、奥が真まッ四しか角くに黒々と見えて、蚊帳の片端の裾が縁側へ溢あふれて出ている。ト見る時、また高らかに蜩ひぐらしが鳴いた。
﹁そらね、あれだから。﹂
と苦笑する。滝太郎と囁ささやき合い、かかることに馴なれて忍しのびの術を得たるごとき両個の人物は、ものおもうお雪が寝ねお起きの目にも留まらず、垣を潜くぐって外へ出ると、まだ閉切ってある、荒物屋の小店の、燻くすぶった、破やれ目めや節穴の多い板戸の前を抜けて、総井戸の釣つる瓶べがしとしとと落つる短夜の雫しずくもまだ切きれ果はてず、小家がちなる軒に蚊の声のあわただしい湯の谷を出て、総曲輪まで一ひと条すじの径こみちにかかり、空を包んだ木の下に隠れて見えなくなった。
﹁それじゃあ滝さん、もう、ここから帰っておくれ、ちょうど人目にもかからないで済んだ。﹂
早あさ朝まだき町はずれへ来て、お兼は神通川に架した神通橋の袂たもとで立たち停どまったのである。雲のごときは前ゆく途ての山、煙けぶりのようなは、市まち中なかの最高処にあって、ここにも見らるる城しろ址あとの森である。名にし負う神通二百八間の橋を、真まん中なか頃から吹ふき断たって、隣国の方へ山道をかけて深々と包んだ朝あさ靄もやは、高く揚って旭あさひを遮り、低く垂れて水を隠した。色も一様の東しの雲のめに、流ながれの音はただどうどうと、足あし許もとに沈んで響く。
お兼は立去りあえず頭かしらを垂れたが、つと擬ぎぼ宝う珠しのついた、一ひと抱かかえに余る古びた橋の欄干に目をつけて、嫣えん然ぜんとして、振返って、
﹁ちょいと滝さん、見せるものがある。ね、この欄干を御覧、種いろ々いろな四角いものだの、丸いものだの、削った爪の跡だの、朱だの、墨だので印がつけてあるだろう、どうだい、これを記かた念みに置いて行こうか。﹂
四十一
折から白しら髪があ天た窓まに菅すげの小おが笠さ、腰の曲ったのが、蚊かぼ細そい渋茶けた足に草わら鞋じを穿はき、豊とし島ま茣ご蓙ざをくるくると巻いて斜ななめに背し負ょい、竹の杖を両手に二本突いて、頤おとがいを突出して気ばかり前さきへ立つ、婆ばばあの旅客が通った。七十にもなって、跣はだ足しで西京の本願寺へ詣もうでるのが、この辺りの信者に多いので、これは飛ひ騨だの山やま中なかあたりから出て来たのが、富山に一泊して、朝がけに、これから加州を指して行ゆくのである。
お兼は黙って遣やり過すごして、再び欄干の爪の跡を教えた。
﹁これはね、皆みんな仲間の者が、道中の暗めじ号るしだよ。中にゃあ今真まっ盛さかりな商売人のもあるが、ほらここにこの四角な印をつけてあるのが、私が行ってこれから逢おうという人だ、旧もと海軍に居た将たい官しょうだね。それからこうあっちに、畝うね々うねした線すじが引ひっ張ぱってあるだろう、これはね、ここから飛騨の高山の方へ行ったんだよ。今は止やめていても兇きょ状うじ持ょうもちで随分人相書の廻ってるのがあるから、迂うか濶つな事が出来ないからさ。御覧よ、今本願寺参まいりが一人通ったろう。たしかあれは十四五人ばかり一ひと群むれなんだがね、その中でも二三人、体の暗い奴等が紛れ込んで富山から放れる筈はずだよ。倶くり利から伽あ羅た辺りで一所になろう、どれ私もここへ、﹂
と言懸けて、お兼は、銀ぎん煙ぎせ管るを抜くと、逆に取って、欄干の木の目を割って、吸口の輪を横に並べて、三つ圧おした。そのまま筒に入れて帯に差し、呆れて見み惚とれている滝太郎を見て、莞にこ爾りとして、
﹁どうだい、こりゃ吃びっ驚くりだろう。方々の、祠ほこらの扉だの、地蔵堂の羽目だの、路みち傍ばたの傍ぼう示じぐ杭いだの、気をつけて御覧な、皆みんなこの印がつけてあるから。人の知らない、楽書の中にこの位なことが籠こもってるから、不思議だわね。だから世の中は面白いものだよ。滝さん、お前さんの目つきと、その心なら、ここにある印は不のこ残らずお前さんの手下になります、頼もしいじゃあないか。﹂
﹁うむ、﹂といって、重ちょ瞳うどう異相の悪少は眠くないその左の目を擦こすった。
﹁加州は百万石の城下だからまた面白い事もあろう、素晴しい事が始まったら風の便たよりにお聞きなさいよ。それじゃあ、あの随分ねえ。﹂
﹁気をつけて行きねえ。﹂
﹁あい、﹂
﹁………﹂
﹁おさらばだよ。﹂
その効かい々がいしい、きりりとして裾すそ短みじかに、繻しゅ子すの帯を引結んで、低ひく下げ駄たを穿はいた、商あき売ないものの銀流を一包にして桐とう油ゆが合っ羽ぱを小さく畳んで掛けて、浅あさ葱ぎの切きれで胴どう中なかを結えた風呂敷包を手に提げて、片手に蝙こう蝠もり傘がさを持った後姿。飄ひょ然うぜんとして橋を渡り去ったが、やがて中ほどでちょっと振返って、滝太郎を見返って、そのまま片かた褄づまを取って引上げた、白い太ふく脛らはぎが見えると思うと、朝あさ靄もやの中に見えなくなった。
やがて、夜が明け放れた時、お兼は新しん庄じょの山の頂を越えた、その時は、裾を紮からげ、荷を担ぎ、蝙蝠傘をさして、木賃宿から出たらしい貧しげな旅の客。破やぶ毛れげ布っとを纏まとったり、頬ほお被かぶりで顔を隠したり、中には汚れた洋服を着たのなどがあった、四五人と道みち連づれになって、笑いさざめき興ずる体ていで、高岡を指して峠を下りたとのことである。
お兼が越えた新庄というのは、加州の方へ趣く道で、別にまた市まち中なかの北のはずれから、飛騨へ通ずる一筋の間道がある。すなわち石滝のある処で、旅客は岸伝づたいに行ゆくのであるが、ここを流るるのは神通の支流で、幅は十間に足りないけれども、わずかの雨にもたちまち暴あふ溢れて、しばしば堤ど防てを崩す名代の荒河。橋の詰つめには向い合って二軒、蔵屋、鍵かぎ屋と名ばかり厳いかめしい、蛍狩、涼すずみをあての出でぢ茶ゃ屋やが二軒、十八になる同おな一い年ど紀しの評判娘が両方に居て、負けじと意気張って競争する、声も鶯うぐいす、時ほと鳥とぎす。
﹁お休みなさいまし、お懸けなさいまし。﹂
四十二
その蔵屋という方の床しょ几うぎに、腰を懸けたのは島野紳士、ここに名物の吹上の水に対し、上コオ衣トを取って涼を納いれながら、硝コ子ッ盃プを手にして、
﹁ああ、涼しいが風が止やんだ、何だか曇って来たじゃあないか、雨はどうだろうな。﹂
客の人柄を見て招まねきの女、お倉という丸ぽちゃが、片かた襷だすきで塗盆を手にして出ている。
﹁はい、大抵持ちましょうと存じます。それとも急にこうやって雲が出て参りましたから、ふとすると石滝でお荒れ遊ばすかも分りません。﹂
﹁何だね、石滝でお荒れというのは。﹂
﹁それはあの、少しでも滝から先へ足踏をする者がございますと、暴あ風ら雨しになるッて、昔から申しますのでございますが。﹂
島野は硝子盃を下に置いた。
﹁うむ、そして誰か入ったものがあるのかね。﹂
﹁今朝ほど、背しょ負いあ上げを高くいたして、草わら鞋じを穿はきましてね、花はな籃かごを担ぎました、容よう子すの佳いい、美しい姉さんが、あの小さなお扇子を手に持って、﹂と言いい懸かかると、何と心得たものか、紳士は衣かく袋しの間から一本平ひら骨ぼねの扇子を抜出して、胸の辺りを、さやさや。
﹁はあ、それが入ったのか。﹂
﹁さようでございます。その姉さんは貴あな方た、こないだから、昼間参りましたり、晩方来ましたりいたしましては、この辺を胡う乱ろ々う々ろして、行ったり来たりしていたのでございますがね。今日は七日目でございます。まさかそんなことはと存じておりますと、今朝ほどここの前を通りましてね、滝の方へ行ったきり帰りません、きっと入りましたのでございましょう。﹂
﹁何かね、全くそんな不思議な処かね。﹂
﹁貴方、お疑り遊ばすと暴あ風ら雨しになりますよ。﹂といって、塗盆を片かた頬ほにあてて吻ほ々ほと笑った、聞えた愛あい嬌きょ者うものである。島野は顔の皮を弛ゆるめて、眉をびりびり、目を細うしたのは謂いうまでもない。
﹁それは可いいが姉さん、心とこ太ろてんを一ツ出しておくれな。﹂
﹁はい、はい。﹂
﹁待ちたまえ、いや、それともまた降られない内に帰るとするかね。﹂
﹁どういたしまして、降りませんでも、貴方川かわ留どめでございますよ。﹂
方二坪ばかり杉葉の暗い中にむくむくと湧わき上あがる、清水に浸したのを突つきにかけてずッと押すと、心とこ太ろてんの糸は白魚のごときその手に搦からんだ。皿に装もって、はいと来る。島野は口も着けず下に置いて、
﹁そうして何かい、ついぞまだそこへ行った者を見たことはないのか。﹂
﹁いいえ、私が生れましてから始めてでございますが、貴方どうでございましょう、つい少しばかり前にいらっしゃいました、太った乱暴な、書生さんが、何ですか、その姉さんがここへ参りましたことを御存じの様子で、どうだとお聞きなさいますから、それそれ申しますと、うむといったッきり駈かけ出だして、その方もまだお帰かえりになりません。﹂
﹁え、そりゃ何か、目の丸い、﹂
﹁はい、お色の黒い、いがぐり天あた窓まの。もうもう貴方のようじゃあございませんよ、おほほほ。﹂
﹁いや!﹂とばかりでこの紳士、何か早や、にたりとしたが、急に真面目になって、
﹁ちょッ、しようがないな。﹂
﹁貴方御存じの方なんですか。﹂
﹁うむ、何だよ、その娘の跡を跟つけまわしてな、から厭いやがられ切ってる癖に、狂やま犬いぬのような奴だ、来たかい! 弱ったな、どうも、汝うぬ一人で。﹂
﹁何でございます。﹂
﹁いえさ、連つれは無かったのか。﹂
四十三
﹁ただお一人でございましたよ、豪えらそうなお方なんです。それに仕しこ込みづ杖えなんぞ持っていらっしゃいましたから、私達がかれこれ申上げた処で、とてもお肯きき入いれはなさりますまいと、そう思いまして黙って見ておりましたが、無事にお帰りなされば可ようございますがね。﹂
島野は冷然として、
﹁何、犬に食われて死にゃあ可いんだ。﹂
﹁だって、姉さんはお可哀そうじゃございませんか。﹂
﹁そりゃお互様よ。﹂
﹁あれ、お安くございませんのね。でも、あの、二度あることは三度とやら申しますから、今日の内また誰かお入りなさりはしまいかと言って、内の父おと様っさんも案じておりますから、貴方またその姉さんをお助けなさろうの何のッて、あすこへいらっしゃるのはお止し遊ばしまし。﹂
﹁だが、その滝の傍そばまでは行っても差さし支つかえが無いそうじゃないか。﹂
﹁そこまでなら偶たまに行く人もございますが、貴方何しろ真まっ暗くらだそうですよ。もうそこへ参りました者でも、帰ると熱を煩って、七日も十日も寝る人があるのでございます。﹂
﹁熱はお前さんを見て帰ったって同おん一なじだ、何暗いたッて日ひな中かよ、構やしない。きっとそこらにうろついているに違いない、ちょっと僕は。おい、姉さん帰りに寄ろう。﹂
﹁お気をお着け遊ばしていらっしゃいましよ。﹂
島野は多磨太が先さきんじたりと聞くより、胸の内安からず、あたふた床しょ几うぎを離れて立ったが、いざとなると、さて容易な処ではない。ほぼ一町もあるという、森の彼かな方たにどうどうと響く滝の音は、大河を倒さかしまに懸けたように聞えて、その毛穴はここに居る身にもぞッと立った。島野は逡巡して立っている。
折から堤つつ防みづ伝たいに蹄ひづめの音、一人砂すな烟けぶりを立てて、斜ななめに小さく、空くうを駆けるかと見る見る近づき、懸かけ茶ぢゃ屋やの彼方から歩を緩ゆるめて、悠然と打って来た。茶屋の際の葉柳の下しず枝えを潜くぐって、ぬっくりと黒く顕あらわれたのは、鬣たてがみから尾に至るまで六尺、長たけの高きこと三尺、全身墨のごとくにして夜やが眼ん一点の白はくあり、名を夕立といって知事の君が秘蔵の愛馬。島野は一目見て驚いて呆れた。しっくりと西洋鞍ぐら置いたるに胸を張って跨またがったのは、美びぜ髯ん広額の君ではなく、一個白面の美少年。頭髪柔かにやや乱れた額少しく汗ばんで、玉洗えるがごとき頬のあたりを、さらさらと払った葉柳の枝を、一掴み馬上に掻かい遣やり、片手に手綱を控えながら、一いっ蹄てい三歩、懸茶屋の前に来ると、件くだんの異彩ある目に逸いち疾はやく島野を見着けた。
﹁島野、﹂と呼懸けざま、飜ひら然りと下おり立たったのは滝太郎である。
常にジャムを領するをもって、自家の光彩を発揮する紳士は、この名馬夕立に対して恐入らざるを得ないので、
﹁おや、千破矢様、どうして貴方、﹂と渋面を造って頭かしらを下げる。その時、駿しゅ足んそくに流汗を被りながら、呼吸はあえて荒からぬ夕立の鼻面を取って、滝太郎は、自分も掌てのひらで額の髪を上げた。
﹁おい、姉や。﹂
﹁はい、﹂
﹁水を一杯、冷つめたいのを大おお急いそぎだ。島野、可い処でお前めえに逢ったい。おいら、お前ン処とこの義作の来るまで、あすこの柳にでも繋つないでおこうと思ったんだけれど、お前が居りゃあ世話はねえ。この馬返すからな、四あえ十もの物ちょ町うまで持って行ってくんねえ、頼むぜ、おい。﹂
呆れたものいいと、唐だし突ぬけの珍客に、茶屋の女どもは茫ぼん乎やり。
四十四
島野は、時というとこの苦手が顕あらわれるのを、前世の因縁とでもいいたげな、弱り果てて、
﹁へい、その馬を持って帰れとおっしゃるんですか。﹂
と不平らしい顔をした。
﹁そうよ。﹂
﹁一体その何でございますが、私はどうも一向馬の方は心得ませんもんですから。﹂
﹁大丈夫だ。こう、お前めえ一ツ内うち端わじゃあねえか、知ちか己づきだろう、暴れてくれるなって頼みねえ、どうもしやあしねえやな。そして乗られなかったら曳ひいて行くさ。だからちったア馬に乗ることも心懸けておくこッた、女にかかり合っているばかりが芸じゃあねえぜ。どうだ、色男。﹂と高慢なことを罪もなくいって、滝太郎は微ほほ笑えんだ。
﹁失敬な。﹂も口の裡うちで、島野は顔を見らるると極きまり悪そうに四あた辺りをきょろきょろ。茶店の女むすめは、目の前にほっかりと黒毛の駒こまが汗ばんで立ってるのを憚はばかって、密そと洋コッ盃プを齎もたらした。右め手てをのべて滝太郎が受ける時、駒は鬣たてがみを颯さっと振った。あれと吃びっ驚くりして女むすめは後あとへ。若君は轡くつわを鳴らして、しっかと取りつつ、冷水の洋盃を長く差伸べて、盆に返し、
﹁沢山だ。おい、可いか、島野、預けるぜ。﹂
屹きっと向直って、早く手綱を棄てようとする。島野は狼うろ狽たえて両手を上げて、
﹁若様どうぞ、そりゃ平に、﹂とばかり、荒馬を一ひと頭つ背し負ょわされて、庄司重忠にあらざるよりは、誰かこれを驚かざるべき。見得も外聞も無しに恐れ入り、
﹁平に御容赦てッたような訳なんです。へい、全く不い可けません。それにちっと待合わせるものもあるんでございますから。﹂
と窮したる笑顔を造って、渠かれはほとんど哀を乞う。
滝太郎は黙って頷うなずくと斉ひとしく、駒の鼻はな頭づらを引ひき廻めぐらした。蹄ひづめの上ること一尺、夕立は手綱を柳の樹に結えられて嘶いなないた。
﹁島野、おい、島野。﹂
この声を聞くごとに、実ほんのこッた、紳士はぞッとする位で。
﹁へい、御用ですか。﹂
﹁お前、待合わせるものがあるッて、また別べっ嬪ぴんじゃあねえか、花売のよ。﹂
﹁御ごじ串ょう戯だんを、﹂と言ったが、内心抉えぐられたように、ぎっくりして、穏おだやかならず。
滝太郎は戯たわむれにいったばかり。そのまま茶屋の女むすめを見返り、
﹁何ぞ食べるものをくれねえか、多い方が可いぜ。﹂
﹁姉さんおいしいものを、早く、冷たくして上げるが可い。﹂と、島野はてれ隠しに世辞をいった。
﹁はい、西すい瓜かでも切りましょうか。心とこ太ろてん、真まく桑わ、何を召あがります。﹂
﹁そんな水ッぽいもんじゃあねえや、べらぼうめ、そこいらに在る、有ある平へいだの、餡あん麺パ麭ンだの、駄菓子で結構だ。懐へ捻ねじ込こんで行くんだから紙にでも包んでくんな。﹂と並べた箱の中に指ゆびさしをする。
﹁どちらへいらっしゃいます。﹂
﹁石滝よ。﹂
驚いたのは茶店の女むすめばかりではない、島野も思わず顔を視ながめる。
﹁兵ひょ粮うろうだ、奥へ入へえって黒百合を取って来ようというんだから、日が暮れようも分らねえ。ひもじくなるとそいつを噛かじらあ、どうだ、お前、勇美さんに言いねえ、土産を持って行ってやるからッてよ。﹂
﹁途方もない、若様。それを取ろうッて、実はつい先さっ刻きだそうです。あの花売の女むすめも石滝へ入ったんです。﹂
﹁うむ、﹂といった滝太郎の顔の色は動いた。滝の響ひびきを曇天に伝えて聞える、小川の彼かな方たの森の方かたを、屹きっと見て、すっくと立って、
﹁あの阿魔がかい、そいつあ危あぶねえ!﹂
先立って二度あることは三度とやら、見みと通おしの法印だった、蔵屋の亭主は奥から慌あわただしく顔を出して、
﹁そりゃこそ、また一人。﹂
四十五
﹁やあ、島野さん、千破矢の若様はどうしました。﹂
﹁義作じゃないか、一体ありゃあどうしたんだね。お前、魔物が夕立に乗って降って来たから、驚いたろうじゃあないか。﹂と半なかばは独ひと言りごとのようにぶつぶついう。
被かぶった帽も振落したか、駆附けの呼い吸きもまだはずむ、お館やかたの馬丁義作、大おお童わらわで汗を拭ふき、
﹁どうしたって、あれでさ、お前まえ様さん、私ゃ飛んでもねえどじを行やったで。へい、今朝旦那様をお役所へ送ってね、それからでさ、獣えてを引ひっ張ぱって総曲輪まで帰って来ると、何に驚いたんだか、評判の榎があるって朝っぱらから化けもしめえに、畜生棹さお立だちになって、ヒイン、え、ヒインてんで。﹂
﹁暴れたかね。﹂
﹁あばれたにも何も、一体名代の代しろ物ものでごぜえしょう、そいつがお前めさん、盲めく目ら滅法界に飛出したんで、はっと思う途端に真まう俯つむ向けに転のめったでさ。﹂
﹁おやおや、道理で額を擦すり剥むいてら。﹂
義作は掌てのひらでべたべたと顔を撫でて、
﹁串じょ戯うだんじゃあがあせん、私わっしゃ一いち期ごで、ダーだと思ったね、地つちん中へ顔を埋うずめてお前めさん、ずるずると引ひき摺ずられたから、ぐらぐらと来て気が遠くなったんで。しばらくして突つっ立たって、わってッて追い駆けると、もうわいわいという騒ぎで、砂すな煙けぶりが立ってまさ。あれから旅籠町へ抜けて、東四十物町を突つっ切きって、橋通りへ懸かかって神通を飛越そうてえ可おそ恐ろしい逸それ方だ。南なむ無さん三ぽ宝う、こりゃ加州まで行くことかと息切がして蒼あおくなりましたね。鳥居前のお前さん、乱暴じゃあがあせんか、華族様だってえのにどうです、もっともまああの方にゃあ不思議じゃねえようなものの、空あき樽だるの腰掛だね、こちとらだって夏向は恐れまさ、あのそら一膳飯屋から、横っちょに駆出したのが若様なんです。え、滝先生、滝公、滝坊、へん滝豪傑、こっちの大明神なんで。﹂とぐっと乗り、拳を握って力を入れると、島野は横を向いて、
﹁ふむ。﹂
﹁どうです、威勢が可いじゃがあせんか。突いき然なり畜生の前へ突つっ立たったから、ほい、蹴飛ばされるまでもねえ、前足が揃って天あた窓まの上を向うへ越すだろうと思うと、ひたりと留とまったでさ。畜生、貧乏動ゆるぎをしやあがる腮あごの下へ、体を入れて透間がねえようにくッついて立つが早いか、ぽんと乗りの、しゃんしゃんさ。素人にゃあ出来やせん。義作、貸しねえ貸しねえてって例の我わが儘ままだから断りもされず、不断面倒臭くって困ったこともありましたっけが、先さっ刻きは真ほんのこった、私わっしゃ手を合わせました。どうしてお前めさんなんざ学者で先生だっていうけれど、からそんな時にゃあ腰を抜かすね。へい。何だって法律で馬にゃあ乗れませんや、どうでげす。﹂
﹁はい、お茶を一ツ。﹂
大気きえ焔んの馬丁は見たばかりで手にも取らず、
﹁おう、そんなもなあ、まだるッこしい。今に私わっしゃそこに湧わいてるのに口をつけて干しちまうから打うっ棄ちゃっておきねえ。はははは、ええ島野さん。おいらこれから石滝へ行ゆくから、お前めえあとから取りに来ねえ、夕立はちょいと借りるぜって、そのまま乗出したもんだからね、そこいら中騒いでた徒てええに相済みませんを百万だら並べたんで。転んだ奴あ随分あったそうだけれど、大した怪我人もなし、持主が旦那様なんですから故障をいう奴もねえんで、そっちゃ安心をして追おい駈かけて来ましたが、何は若様はどちらへ行ったんで。﹂
﹁じゃあ、その何だろう、馬騒ぎで血ちの逆ぼ上せがしたんだろう、本気じゃあないな。兵粮だって餡あん麺パ麭ンを捻ねじ込こんで、石滝の奥へ、今の前さき橋を渡ったんだ、ちょうど一足違い位なもんだ。﹂
﹁やッ、﹂というて目をる義作と一所に吃びっ驚くりしたのは、茶店の女で、向うの鍵屋の当の敵かたき、お米よねといって美しいのが、この折しも店先からはたはたと堤つつ防みへ駆出したことである。故こそあれ腕車が二台。
四十六
﹁もしもしちょいとどうぞ、どうぞちょいとお待ち遊ばして。﹂と路を遮ったので、威勢の可いい腕くる車まが二台ともばったり﹇#﹁ばったり﹂は底本では﹁ばつたり﹂﹈停とまる。米は顔を赤らめて手を膝に下げて、
﹁恐入ります、御免下さいまし。どちらの姫ひい様さまですか存じませんが、どうぞあちらへいらっしゃいましたら、私わたくしどもへお休み遊ばして下さいまし、後生でございます。﹂
先に腕くる車まに乗ったのは、新しい紺こん飛がす白りに繻しゅ子すの帯を締めて、銀いち杏ょう返がえしに結った婦おん人な。
﹁何だね、お前さん。﹂
﹁はい、鍵屋と申します御おや休すみ憩どこ所ろでございますが、よそと張合っておりますので。
今朝から向むこうにばかりお客がございます処へ、またお馬に召した立派な若様がお立寄でございました。あのお倉さんというのが、それはもうこれ見よがしで、私わたくしは居ても立ってもいられません。あんまり悔しゅうございますから、どんなにお叱り遊ばしても宜ようございます、お見懸け申しましてお願い申します。助けると思召して後生でございます、私わたくしどもへ。﹂
とおろおろ声で泣くようにいう。
﹁おや、じゃああのお茶屋の姉さんかい。﹂
﹁はい、さようでございます。﹂
﹁それでは御馳走をしてくれますか、﹂と背うし後ろの腕くる車まで微笑みながらいったのは、米が姫ひい様さまと申上げた、顔立も風ふう采さいもそれに叶かなった気高いのが、思懸けず気軽である。
女はかえって答もなし得ず、俯うつ向むいてただお辞儀をした。
﹁それじゃ若わか衆いしゅさん。﹂
﹁おう、鍵屋だぜ。﹂
﹁あい、遣やんねえ。﹂
車夫は呼交わしてそのまま曳ひき出だす。米は前へ駆抜けて、初はつ音ねはこの時にこそ聞えたれ。横よこ着づけにした、楫かじ棒ぼうを越えて、前なるがまず下りると、石滝界かい隈わいへ珍しい白はく芙ふよ蓉うの花一輪。微風にそよそよとして下立った、片かた辺えに引ひっ添そい、米は前へ立ってすらすらと入るのを、蔵屋の床しょ几うぎに居た両人、島野と義作がこれを差さし覗のぞいて、慌あわただしくひょいと立って、体と体が縒よれるように並んで、急いそ足ぎあしにつかつかと出た。
﹁お嬢様。﹂
﹁へい、お道どん、御苦労だね。﹂
﹁おや、義作さん、ここに。﹂
勇美子は店さきに入ろうとしたが、不意に会った内の者を顧みて、
﹁島野さんも来ていたの。﹂
﹁ええ、僕は大分久しい前からなんです。義作君はたった今、その馬が放れました一件で。﹂
﹁実は何でございます、飛んだ疎そそ匆うをいたしやして、へい。ねえ、お道どん、こういう訳なんだ、実は、﹂
﹁はあ、そりゃもう、路で聞きましたよ、飛んだことだったね、でもまあ可いい塩あん梅ばいに。﹂
﹁御家来さん、危あぶのうがしたな。﹂
﹁しかし怪我アしなさらなくって何よりだったよ。﹂と車夫どもは口々なり。お道もまた、
﹁そうねえ。﹂
﹁ええ、もう私わっしゃ怪我なんぞ厭いとやしませんが、何、皆みんな千破矢の若様のお庇かげなんで、へい。﹂
﹁ちょいとどうなすったの、滝太郎さんは。﹂と姫は四あた辺りを見て、御意遊ばす。
﹁お馬はあすこに居るじゃあないかね。﹂
﹁お嬢様、何ですか、その事でこちらへお越しなんですか。﹂
﹁何あのお雪のことなの。﹂
﹁姉さん、花売なんだがね、十八九でちょっとそういった風な女を見当りはしなかったかい。﹂
お道に聞かれて米が答えようとするのを、ちゃっと引取ったのは今両人が鍵屋の女客に引付けられて、店から出るのに気を揉もんで、あとからついて出て立っている蔵屋の女むすめ。
﹁その人なら、存じております、今朝ほどでございました。﹂
﹁私だって知ってます。﹂と、米はつんとして倉を流じろ。
四十七
﹁貴あな方たの黒百合を採りたいって、とうとう石滝へ入ったそうです。﹂と、島野が引取って慎重にこれを伝える。
勇美子はその瞳を屹きっと凝らしたが、道は聞くと斉ひとしく、顔の色を変えた。
﹁お嬢様、どういたしましょう。﹂
﹁困ったね、少しお待ち、あの、お前だち誰も中の様子を知らないかい。﹂
﹁はい、ちっとも。﹂
﹁あの、少しも存じません。﹂
﹁それはもう誰も知ったものはござりますまい。﹂
と車夫の一人。
﹁島野さん、義作さん、どうしたら可いでしょう。お嬢様が御褒美をお賭けなすったのを、旦那様がお聞遊ばすと、もっての外だ、間違いに怪我でもさせたらどうする、外ほかの内の者とは違うぞ、早く留めろと有おっ仰しゃるの。承わると実に御ごも道っと理もな事だから、早速あの娘にそういおうと思って、昨きの日うのことなんです、またこないだからふッとお邸には来ないもんですから、昨きの日うその金か子ねは只ただでお遣わしになることになって、それを持って私があそこへ、あの湯の谷の家うちへ行ゆくと居ないんです。荒物屋から婆さんが私の姿を見ると、駆けて出て、取次いで、その花のことについて相談をされたのは私ばかり、はじめは滅相なと思ったが、情こころを察すると無理はないので、泣なきの涙で合点しました。今日あたりはもう参ったかも知れませぬ、することが天道様の思おぼ召しめしに叶かなったら無事で帰って参りましょう。内に居る書生さんの旦那にはごく内々だから黙っておいて、とこういうことです。実はと訳をいって、お金か子ねは預けておこうとすると、それは本人へ直じかにといって承知しません。無理もないと引返して、夜も寝ないで今朝、起きがけに行くともう居ないんです。また婆さんが出て、昨ゆう夜べは帰りました、その事をいって聞かせると、なおのことそのお情なさけに預あずかっては、きっと取って来て差上げずにはと、留めるのも肯きかないで行ったといいます。
ええ、何の知事様から下さるものを、家一つ戴いて何どれ程ほどの事があろう、痩やせ我がま慢んな行過ぎだと、小腹が立って帰りましたが、それといって棄てておかれぬ、直ぐにといってお嬢様が、ちょうどまたお加減が悪い処、かれこれして遅くなりましたけれども、お体のお厭いといもなく遠方をお出懸けになったのに、まあ飛んだことをしちまったんでございますねえ。﹂
と道は落着かず胡う乱ろ々う々ろする。
一同顔を見合せた。
義作一名にやりにやり
﹁可ようがす、何、大概大丈夫でしょう、心配はありますまいぜ。諺ことわざにも何でさ、案ずるより産むが易いって謂いいまさ。﹂
﹁何だね、お前さん。﹂とそこどころではない、道は窘たしなめるがごとくにいった。
義作あえてその︵にやり︶なるものを止やめず。
﹁いえ、女ってえものは、またこれがその柔よく剛を制すといった形でね。喧嘩にも傍そば杖づえをくいません、それが証拠にゃあ御ごろ覧うじろ、人ごみの中でもそんなに足を蹈ふみつけられはしねえもんだ。﹂
﹁ちょいとお黙り。高慢なことをお言いでない、お嬢様がいらっしゃるよ。﹂
﹁ですからさ、そっちにお嬢様がいらっしゃりゃ、こっちにゃあまた滝公、へん、滝の野郎てえ豪傑がついてまさ。﹂
﹁あれだもの。﹂
﹁どうでえ阿魔、一言もあるめえ恐入ったか。﹂
﹁義作さん可いい加減におしな。お嬢様は御心配を遊ばしていらっしゃるんですよ。﹂
﹁だから、その御心配には及びますめえッてこった。難かしい事こたあない、娘あまさい無事なら可いんでしょう。そこは心得てまさ、義作が心得たといっちゃあ、馬に引ひき摺ずられたからとあって御信仰が薄いでしょうが、滝大明神が心得てついてます。今も島野さんに承わりゃ、あとからついて入んなすったそうで、何、またあの豪傑が行きさえすりゃ、﹂といいかけて、額を押え、
﹁や、天狗が礫つぶてを打ちゃあがる。﹂
雨三粒降って、雲間に響く滝の音が乱れた。風一陣!
四十八
﹁女中さん、降って来そうでございます、姫ひい様さまにおっしゃって、まあ、お休みなさいましな﹂と米は程ほど合あいを見計らう。
﹁ああ、そういたしましょうねえ、お嬢様。﹂
黙って敏活の気の溢あふれた目に、大空を見ておわした姫様は、これに頷うなずいて御おん入いりがあろうとする。道はもとより、馬べっ丁とう義作続いて島野まで、長いものに巻かれた形で、一ひと群むれになって。米は鍵屋あって以来の上客を得た上に、当の敵あいての蔵屋の分二名まで取込んだ得意想うべく、わざと後を圧おさえて、周あ章わてて胡う乱ろ々う々ろする蔵屋の女むすめに、上うえ下した四人をこれ見よがし。
﹁お懸けなさいまし、﹂と高らかに謂った。
蔵屋の倉は堪たまりかねて、睨ねめながら米を摺すり抜ぬけて、島野に走り寄った。
﹁旦那様、若わか衆いし様さんとお二方は、どうぞ私わたくしどもへお帰りを願いとう存じます。﹂
﹁そうだ、忘れ物もあるし後で寄るよ。﹂
﹁はい、お忘物はこちらへ持って参りましても宜よろしゅうございます。申兼ねますがどうぞいらっしゃって下さいまし、拝むんでございます、あの、後生になるのでございます。﹂
﹁可いじゃあないか、何も後のちにだってよ。﹂
義作が仔しさ細いを心得て、
﹁競争をしてるんでさ、評判なんで。おい、姉さん、御主人様がこちらへお褥しとねが据すわるから、あきらめねえ、仕方がねえやな。いえさ、気の毒だ、私わっしあ察するがね、まあ堪忍しなさい。﹂
﹁それでもどうぞ姫様にお願い遊ばして。﹂
﹁何をいうんですよ、馬鹿におしなさいねえ。﹂
と米は傍かたわらから押隔てると、敵あい手てはこれなり、倉は先せんを取られた上に、今のお懸けなさいましで赫かッとなっている処。
﹁止してくれ、人、身から体だに手なんぞ懸けるのは、汚けがれますよ。﹂
﹁何を癩かったいが。﹂
﹁磔はりつけめ。﹂と角つの目め立だってあられもない、手先の突つつ合きあいが腕の掴つか合みあいとなって、頬の引ひっ掻かき競くら。やい、それと声を懸けるばかりで、車夫も、馬べっ丁とうも、引ひっ張ぱり凧だこになった艶えん福ぷく家か島野氏も、女だから手も着けられない。
﹁留めておやり。道や、﹂
﹁ちょいと、串じょ戯うだんじゃあないよ、お前まえ様さん方がたはどうしたもんです。これお放し、あれさ、お放しというに、両方とも恐しい力だ。こっちはお嬢様がそれどころじゃあないのだのに、お前さんまでがお気を揉もませ申すんだよ。可いい加減におし、あれさ、可いやね、そんなら私が素まッ裸ぱだかになって着物を地つちに敷いて、その上へ貴あな女たを休ませ申すまでも、お前達の世話にゃあならない、どちらへも休みはしないからそう思っておくれ。﹂とすっきりいった。両ふた人りは左右に分れたが、そのまま左右から、道の袖を捉つかまえて、ひしと縋すがって泣出したのである。道は弱って手を束つかねてぼんやりとするのを見て、勇美子は早やばらばらと音のする雨も構わず、手を両ふた人りの背せなにかけて、蔵屋と、鍵屋と、路みち傍ばたに二軒ならんだのに目を配って、熟じっと見たまい、
﹁二人とも聞きな、可いことを教えてあげよう、しょッちゅうそんなことをしていては、どちらにも好いいことはないよ。こうおし、お前の処のお客は註文のあった食物をお前の処から持運ぶし、お前の処のお客はお前の店から持って行くことにして、そして一月がわりにするの。可いかい、怨うらみっこ無しに冥みょ利うりの可い方が勝つんだよ。﹂
﹁おや、お嬢様、それでは客と食物を等分に、代り合っていたします。それでいてお茶代が別にあったり何かすると、どちらが何だか分らないで、怨うらみはいつの間にか忘れてしまいましょう。なるほどその事こったよ。さあ、二人とも、手を拍うったり。﹂
﹁やあ、占めろ。﹂といって、義作は景気よく手を拍った。女むすめは両ふた人り、晴やかな勇美子の面おもてを拝んだ。
折柄荒あれ増まさる風に連れて、石滝の森から思いも懸けず、橋の上へ真まっ黒くろになって、転こけつ、まろびつ、人ひと礫つぶてかと凄すさまじい、物の姿。
四十九
あれはと見る間に早や近ちか々ぢかと人の形。橋の上を流るるごとく驀まっ直しぐらに、蔵屋へ駆込むと斉ひとしく、床しょ几うぎの上へ響ひびきを打たせて、どたりと倒れたのは多磨太である。白墨狂士は何とかしけむ、そのままどたどたと足を挙げて、苦痛に堪えざる身みも悶だえして、呻う吟めく声吠ほゆるがごとし。
鍵屋の一ひと群むれはこれを見て棄て置かれず、島野に義作がついて店みせ前さきへ出向いて、と見ると、多磨太は半面べとり血になって、頬から咽の喉どへかけ、例の白しろ薩さつ摩まの襟を染めて韓から紅くれない。
﹁君、どうしたんです。﹂と島野は驚いたが、薄気味の悪さうに密そっと手をとって、眉を顰ひそめた。
鍵屋では及およ腰びごしに向うを伺い、振返って道が、
﹁あれ、怪我をしておりますようです、どうしたんでございましょう。﹂
勇美子も夜会結びの鬢びんずらを吹かせ、雨に頬を打たせて厭いとわず、掛茶屋の葦よし簀ずから半ば姿をあらわして、
﹁石滝から来たのじゃあなくって。滝さんとお雪はどうしたろうね、﹂とこれは心も心ならない。道はずッと出て手てま招ねぎをした。
﹁義作さん、おおい、ちょいとお出いでよ、お出よ。﹂
﹁へッ、﹂と云って、威勢よく飛んで帰る。
﹁何だね、どうしたのさ、あれ大変呻う吟めくじゃあないか。﹂
﹁え、雀部さんの多磨太なんで、から仕様が無ねえんです。何だそうで、全体心ここ懸ろがけが悪うがすよ。ありゃね、しょッちゅう、あの花売を追おっ懸かけ廻していたんで、今朝も、お前めえ、後を跟つけて石滝へ入ったんだと。え何、力になろうの、助けてやろうという贅ぜい沢たくなんじゃあねえんでさ。お道どん、お前の前まいだけれどもう思い切ってるんだからね、人の入へえらねえ処だし、お前、対あい手てはかよわいや。そこでもってからに、﹂といいかけて、ちょっと姫ひい様さまを見上げたので声を密ひそめた。
﹁だね、それ、狼って奴だ。お前めえ、滝の処はやっぱり真まっ暗くらだっさ。野郎とうとう、めんないちどりで、ふん捕づかめえて、口説こうと、ええ、そうさ、長い奴を一本引ひっ提さげて入へえったって。大だん刀びらを突着けの、物凄くなった背うし後ろから、襟首を取ってぐいと手繰つけたものがあったっさ。天狗だと思って切ってかかったが、お前、暗やみ試じあ合いで盲めく目らなぐりだ。その内、痛えという声がする、かすったようだけれども、手てご応たえがあったから、占めたと、豪えらくなる途端にお前。﹂
義作は左の耳から頬へかけて掌てのひらですぺりと撫でて、仕方を見せ、苦にが笑わらいをして、
﹁片耳ざくり、行って御ごろ覧うじろ、鹿が角を折ったように片一方まるで形なしだ。呻う吟めくのはそのせいさ、そのせいであの通りだ。急所じゃがあせんッて、私わっしもそう言ったんで、島野さんも、生いの命ちにゃあ別条はないっていうけれどね、早く手当をしてくれ、破、破、破傷風になるって騒ぐんで、ずきりずきりと脈を打っちゃあ血が湧わくのが肝きもにこたえるっていてね、真まっ蒼さおです。それでも見得があるから、お前、松たい明まつをつけて行って見ろ、天狗の片かた翼つばさを切って落とした、血みどろになった鳶とびの羽のようなものが落ちてたら、それだと思えなんて、血迷ってまさ。大方滝太郎様にやられたんでしょう、可い気味だ、ざまあ! はははは。やあ、苦しがりやあがって、島野さんの首っ玉へ噛かじりついた。あの人がまた、血を見ると癲てん癇かんを起すくらい臆おく病びょうだからね。や、慌ててら、慌ててら、それに一張羅だ、堪たまったもんじゃあねえ。躍ってやあがる、畜生、おもしれえ!﹂とばかりで雨を潜くぐって、此こい奴つ人の気も知らず剽ひょ軽うきんなり。
﹁道、滝さんが怪我をなさりやしないのか。﹂
﹁さようでございますね、﹂と、顔と顔。
五十
﹁小わか主だん公なお久振でござりました、よく私わたくしの声にお覚えがござりますな。へい、貴あな方たがお目の悪いことも、そのために此こ家この女むすめが黒百合を取りに参りましたことも、早いもので、二日前のことだそうですが、もう市中で評判をいたしております。もっともことのついでに貴方のお噂がござりませんと、三年越ごしお便たよりは遊ばさず、どこに隠れてお在いでなさりますか、分りませんのでござりました。目がお見えなさらないというだけは不吉じゃあござりましたが、東京の方だというし、お年の比ころなり御様子なり、てっきり貴方に違いないと、直ぐこちらへ飛んで参り、向うのあの荒物屋で聞いてお尋ね申しました。小わか主だん公な、何は措おきまして御機嫌宜よろしく。﹂
﹁慶造、何につけても、お前達にもう逢いたくはなかったよ。﹂
と若山は花屋の奥に端近く端座して、憂苦に窶やつれ、愁しゅ然うぜんとして肩身が狭い。慶造と呼ばれたのは、三十五六の屈くっ竟きょうな漢おのこ、火水に錬きたえ上げた鉄くろ造がねづくりの体格で、見るからに頼もしいのが、沓くつ脱ぬぎの上へ脱いだ笠を仰あお向むけにして、両掛の旅荷物、小こづ造くりなのを縁に載のせて、慇いん懃ぎんに斉かし眉ずく風あり。拓の打うち侘わびたる言ことばを聞いて、憂きづ慮かわしげにその顔を見上げたが、勇気は己おのが面おもてに溢あふれつつ、
﹁御心中お察し申しますが、人間は四百四病の器、病やま疾いには誰だって勝たれませぬ、そんなに気を落しなさいますな。小わか主だん公な、良いいお音たよ信りがござりますぜ、大旦那様もちょうどこの春、三月が満期で無事に御出獄でござりました。こちらでも新聞がござりますなら、疾とくに御存じでござりましょう。﹂
若山は色を動かして、
﹁そうか、私はまた何も彼かも思切って、わざと新聞なぞは耳に入れないように勤めているから、そりゃちっとも知らずに居た、御無事に。……そうかい、けれども慶造、私はお目にかかられまい。﹂と額に手を翳かざして目を蔽おおうたのである。
﹁なぜでございます、目をお損いになりましたせいでござりますか。﹂
﹁むむ、何それもあるけれども、私が考かんがえで、家を売り、邸を売り、父おと様っさんがいらっしゃる処も失くなしたし。﹂
﹁それは御心配ござりません、貴あな下たが放ほう蕩とうでというではなし、御おの望ぞみがおあり遊ばしたとはいえ、大旦那様が迷惑をお懸け遊ばした方々の債主へ、少しずつお分けになったのでござりますもの、拓はよくしたとおっしゃったのを、私わたくしが直じきに承わりましてござります。﹂
﹁そして今どこにいらっしゃるんだな。﹂
﹁へい、組合の方でお引取申しました。海でなり、陸でなり、一同旗上げをいたします迄はしばらくおかくれでござります。貴方もこういう処はお立たち退のきになって、それへ合体が宜よろしゅうござりましょう。ちょうどこの国へ参りがけに加州を通りまして、あすこであの白魚の姉御にも逢いました。﹂
﹁何、お兼に逢った、加賀といえばつい近所へ来ているのか。﹂
﹁さようでござります、この頃盛さかんに工事を起しました、倶利伽羅鉄道の工夫の中へ交まじり込んで、目星いのをまた二三人も引抜いて同志につけようッて働いておりますんで。一体富山でしばらく働いたそうでござりますに、貴方をお見着け申さなんだのは、姉御が一代の大おお脱ぬか落りでござりましょう。その代り素ばらしいのを一名、こりゃ、華族で盗どろ賊ぼうだと申しますから、味方には誂あつ向らえむき、いざとなりゃ、船の一艘そうぐらい土蔵を開けて出来るんでござります。金主がつけば竜に翼だ、小わか主だん公な、そろそろ時節到来でござりましょうよ。﹂と慶造が勇むに引代え、若山は打うち悄しおれて、ありしその人とは思われず。渠かれは非職海軍大佐某氏の息、理学士の学位あって、しかも父とともに社会の暗雲に蔽おおわれた、一座の兇きょ星うせいであるものを!
五十一
慶造は言いい効がいなしとや、握にぎ拳りこぶしを膝に置き、面おもてを犯さんず、意気組見えたり。
﹁小わか主だん公な、貴あな方たはなぜそう弱くおなんなすったね、病やめえなんざ気で勝つもんです。大方何でしょう、そんな引込思案をなさいますのは、目のためじゃあござりますまい。かえってその御病気のために、生いの命ちも用いらないという女のあるせいでしょう。可ようがす、何そりゃ好いた女やつのためにゃあ世の中を打うっ棄ちゃるのも、時と場合にゃ男の意地でさ、品に寄っちゃあ城を一いっ百そく一ひと束からげにして掌てのひらに握るのと違わねえんでございましょうが、何ですぜ、野郎の方で、はあと溜ため息いきをついて女あま児ッこの膝に縋すがるようじゃあ、大たい概げえの奴あそこで小首を傾かしげまさ。汝てめえのためならばな、兜かぶとも錣しころも何なッちも用いらない、そらよ持って行きねえで、ぽんと身から体だを投出してくれてやる場合もあります代りにゃ、女あまの達たて引ひく時なんざ、べらんめえ、これんばかしの端はしたをどうする、手の内ア受けねえよ、かなんかで横ッ面つらへ叩きつけるくらいでなくッちゃあ、不い可けませんや。=苦労しもする、させもする=ていのはそりゃあ心意気でさ。﹂
慶造は威勢よくぽんと一ツ胸を叩いた。
﹁ここにあるこッてす。顔へ済まねえをあらわして、さも嬉しそうに難あり有がてえ、苦労させるなんて弱い音ねを出して御ごろ覧うじろ、奴やっこさんたちまちなめッちまいますぜ。殊に貴方だ、誰だと思ってるんだ、お言ことばの一ツも懸けられりゃ勿もっ体てえねえと心得るが可い位の扱いで、結構でがす。もっとも、まあこうやって女の手一つで立たて過すごして、そんな恐おっかねえ処へ貴方のために参ったんだ、憎くはありません、心中者だ。ですが、そりゃ私わっしどもはじめ世間で感心する事で、当の対あい手ては何の女むすめッ子の生いの命ちなんざ、幾つ貰ったって髢かも屋じやにも売れやしねえ、そんな手間で気の利いた香こうの物でも拵こしらえろと、こういった工ぐあ合いでなくッちゃ色男は勤まりませんよ。何でも不ふび便んだ、可愛いと思うほど、手荒く取扱って、癇かん癪しゃくを起してね、横よこ頬ッつらを撲はりのめしてやりさえすりゃ惚れた奴あ拝みまさ。貴方も江えど戸ッ児こじゃあがあせんか。いえさ、若山さんの小わか主だん公なでしょう。女あまの心しん中じゅ立うだてを物珍らしそうに、世の中にゃあ出ねえの、おいらこれッきりだのと、だらしのねえ、もう、情い婦ろを拵えるのと、坊主になるのとは同おん一なじものじゃあございませんぜ。しかしまあ盲めく目らにおなんなすったから、按あん摩まにゃあかけがえのねえ女だと、拝んでるんでしょう。でれでれとするのはお金か子ねのある分だ、貴方のなんざ、女あまに縋すがるんだから堪たまりませんや。え、もし、そんなこッちゃあ女あまにだって愛想をつかされますぜ。貴方ほどの方がどういうもんです。いや、それとも按摩さんにゃあ相当か。﹂と、声を激ましていいながら、慶造は、目の見えぬ、窶やつれた若山の面を見守って、目には涙を湛たたえていた。
﹁慶造!﹂と一喝した、渠かれは蒼あおくなって、屹きっと唇を結んだ。
﹁ええ、﹂
﹁用意が出来たらいつでも来い、同志の者の迎むかいなら、冥めい途どからだって辞さないんだ。失敬なことをいう、盲めく人らがどうした、ものを見るのが私の役か、いざといって船出をする時、船を動かすのは父おと上っさんの役、錨いかりを抜くのは慶造貴様の職だ。皆みんなに食事をさせるのはお兼じゃあないか。水先案内もあるだろう、医者もあろう、船の行ゆく処は誰が知ってる、私だ、目が見えないでも勝手な処へ指さし揮ずをしてやる、おい、星一ツない暗がりでも燈明台なんぞあてにするには及ばんから。﹂
と説き得て、拓は片手を背うし後ろへついて、悠然として天井を仰いだ。
﹁難あり有がと﹇#ルビの﹁ありがと﹂は底本では﹁ありがた﹂﹈うござります。おお、小わか主だん公な。﹂と、慶造は思わず縁側に額をつけた。
五十二
﹁いやもう久ひさしぶりで癇かん癪しゃくをお起しなすって、こんな心持の可いことはござりません。私わたくしゃ変な癖で、大旦那と貴方の癇癪声さえ聞きゃ、ぐっとその溜りゅ飲ういんの下りますんで。へい、それで私わたくしも安心でござります、ついお心持を丈夫にしようとッて前さきのように太平楽は並べましたものの、私わたくしも涙が出ます、実は耐こらえておりました。﹂
慶造は情なさけなさそうに笑いながら、
﹁大旦那様はそんなにも有おっ仰しゃりますまいが、貴方の御病気の様子を奥様がお聞きなすって御ごろ覧うじろ、大旦那様の一件で気きや病みでお亡なくなり遊ばしたようなお優しい、お心弱い方がどんなにお歎きでござりましょう。今じゃあ仏様で、草葉の蔭から、かえって小わか主だん公なをお守りなすっていらっしゃるんで、その可愛い貴方のためにそういう処へ参りました娘なら、地獄だって、魔所だって、きっとお守りなさいましょうから、御心配にゃあ及びますまい。望のぞみの黒百合の花を取ってやがて戻って参りましょうが、しかし打うっ遣ちゃっちゃあおかれません、貴方に御内縁の嬢さんなら、私わたくしにゃ新にい夫おく人さ様ま。いや話は別で、そうかといって見ております訳ではござりません。殊に千破矢様というのがその後へおいでなすったという風うわ説さ、白魚の姉御がいった若様なんで、味方の大将を見みご殺ろしにはされません。もっとも直ぐにその日、一おと昨と日いでござりますな、少すくなからぬ係かか合りあいの知事様の嬢さんも、あすこの茶屋まで駈かけ着つけましたそうで。あれそれと小田原をやってる処へ、また竜川とかいう千破矢の家の家老が貴方、参ったんだそうで、御主人の安否は拙者がか何かで、昔取った杵きね柄づかだ、腕に覚えがありますから、こりゃ強うがす、覚悟をして石滝へ入ろうとすると、どうでございましょう。四五間しかないそうですが、泥水を装もって川へ一時に推出して来た、見る間に杭くいを浸して、早や橋板の上へちょろちょろと瀬が着く騒さわぎ。大変だという内に、水足が来て足を嘗なめたっていうんです。それがために皆みんなが一ひと雪なだ崩れに、引ひっ返かえしたっていいますが、もっとも何だそうで、その前さきから風が出て大降になりました様子でござりますな。﹂
﹁ああ、その事は昨きの日う知事の内から、道とかいう女中が来て私にいった。ちょいちょい見舞ってくれるんだ、今日もつい前さきに帰ったから聞いているよ。﹂
﹁それからはまるで三日、富山中は真まっ暗くらで、止やむかと思うと滝のように降出します。いや神通が切れた、郷屋敷田たん圃ぼの堤つつ防みが崩れた、牛の淵ふちから桜木町へ突つッ懸かかる、四十物町が少し引くかと思うと、総曲輪が湖うみだという。それに、間を置いちゃあ大雨ですから市中は戦いくさです。壁が壊くずれたり、材木が流れたりしますんですが、幸いまだ家が流れる程じゃあないので、ちょうど石滝の方は橋が出たという噂ですから、どうにか路は歩あ行るかれましょう。お目に懸かかって、いよいと貴方でございます日にゃあ、こっちの嬢さんは御主人なり、一方にゃあ姉御がいった若様もいらっしゃる。どうでございましょう、この辺は水は大丈夫でございますか、もしそれが心配だと貴方ばかりではお目の御不自由、と打うっ遣ちゃっちゃあ参られませんが。﹂
﹁慶造、六十年近くもここに居る荒物屋の婆さんがいうんだ、水には大丈夫だそうだから、私には構わんでも可い。﹂
心安く言ったので、慶造は雀こお躍どりをして、
﹁それじゃあ後髪を引かれねえで、可うがす。お二人の先途を見届けて参りましょう。小わか主だん公なお気を着けなすって、後のちともいわず直ぐに、﹂
といった。折からの雨はまた篠しのを束つかねて、暗々たる空の、殊に黄たそ昏がれを降静める。
慶造は眉を濡らす雫しずくを払って、さし翳かざした笠を投出すと斉ひとしく、七分三分に裳もすそをぐい。
﹁してこいなと遣やッ附つけろ、や、本雨だ、威勢が可いぜえ。﹂
五十三
開戸から慶造が躍出したのを、拓は縁に出て送ったが、繁しぶ吹きを浴びて身を退ひいて座に戻った、渠かれは茫然として手を束つかぬるのみ。半なかばは自分の体のごときお雪はあらず、余あまりの大降に荒物屋の媼ばばも見舞わないから、戸を閉め得ず、燈ともしを点つけることもしないで、渠はただ滝のなかに穴あるごとく、雨の音に紛れて物の音もせぬ真まっ暗くらな家やの内に数時間を消した。夜よも初しょ更こうを過ぎつと覚しい時、わずかに一度やや膝を動かして、机の前に寄ったばかり。三日の内にもかばかり長い間降詰めたのは、この時ばかりであった。おどろおどろしい雨の中に、遠く山を隔てた隣国の都と思うあたり、馳はせ違ちがう人の跫あし音おと、ものの響ひびき、洪水の急を報ずる乱調の湿った太鼓、人の叫さけ声びごえなどがひとしきりひとしきり聞えるのを、奈落の底で聞くような思いをしながら、理学士は恐しい夢を見た。
こはいかに! 乾けん坤こん別べつ有にて天んあり。いずこともなく、天麗うららかに晴れて、黄昏か、朝か、気清すずしくして、仲秋のごとく澄渡った空に、日も月の形も見えない、たとえば深みや山まにして人ひと跡あとの絶えたる処と思うに、東西も分かず一筋およそ十四五町の間、雪のごとく、霞のごとく敷詰めた白い花。と見ると卯うの花のようで、よく山奥の溪たに間あい、流ながれに添うて群むれ生ずる、のりうつぎ︵サビタの一種︶であることを認めた
時にそよとの風もなく、花はただ静かに咲満ちて、真まっ白しろな中に、ここかしこ二ツ三ツ岩があった。その岩の辺りで、折々花が揺れて、さらさらと靡なびくのは、下を流るる水の瀬が絡まるのであろう、一鳥声せず。
理学士は、それともなく石滝の奥ではないかと、ふと心着いて恍うっ惚とりとなる処へ、吹落す疾はや風て一陣。蒼あお空ぞらの半なかばを蔽おおうた黒い鳥、片翼およそ一間余りもあろう﹇#﹁あろう﹂は底本では﹁あらう﹂﹈と思う鷲わしが、旋つむ風じを起して輪になって、ばッと落して、そのうつぎの花に翼を触れたと見ると、あッという人の叫声。途端に飜って舞上った時に、粉こふ吹ぶ雪きのごとくむらむらと散って立つ花はな片びらの中から、すっくと顕あらわれた一個の美少年があった。捲まくり手での肱ひじを曲げて手首から、垂たら々たらと血が流れる拳こぶしを握って、眦まなじりの切上った鋭い目にはッたと敵を睨にらんだが、打仰ぐ空次第に高く、鷲は早や光のない星のようになって消えた。
少年は、熟じっとその勁けい敵てきの逸し去ったのを見定めた様子であったが、そのまま滑なめらかな岩に背せなを支えて、仰あお向むけに倒れて、力なげに手を垂れて、太いたく疲れているもののようである。
やや有って、今少年が潜んでいた同じ花の下から密そっと出たのはお雪であった。黒髪は乱れて頸えりに縺もつれ頬に懸かかり、ふッくりした頬も肉しし落ちて、裾すそも袂たもともところどころ破れ裂けて、岩に縋すがり草を蹈ふみ、荊いば棘らの中を潜くぐり潜った様子であるが、手を負うた少年の腕かいなに縋すがって、懐ふと紙ころがみで疵きずを押えた、紅くれないはたちまちその幾枚かを通して染まったのである。
お雪は見るも痛々しく、目も眩くれたる様さまして、おろおろ声で、
﹁痛みますか、痛みますか。﹂というのが判はっ然きり聞える。
眠れるか、少年はわずかにその頭かしらを掉ふったが、血は留とまらず、圧おさえた懐紙は手にも耐たまらず染まったので、花の上に棄てた。一点紅、お雪は口を着けてその疵きず口ぐちを吸ったのである。
唇が触れた時、少年は清すずしい目をって屹きっと見たが、また閉じて身動きもせず、手は忘れたもののようにお雪がするままに任せていた。
両人が姿を見ると、我にもあらず、理学士が肉ししむらは動いたのである。
五十四
しばらくするとお雪は帯の端を折返して、いつも締めている桃色の下した〆じめを解いて、一尺ばかり曳ひき出だすと、手を掛けた衣きぬは音がして裂けたのである。
その切きれで疵きずを巻いて、放すと、少年はほとんど無意識のごとく手を曲げて胸に齎もたらして咽の喉どのあたりへ乗せたが、疲れてすやすやと睡ねむった様子。顔のあたり、肩のあたり、はらはらと、来て、白く溜たまって、また入乱れて立つは、風に花はな片びらが散るのではない、前さきに大鷲がうつぎの森の静粛を破って以来、絶えず両ふた人りの身の辺あたりに飛交う、花の色と等しい、小さな、数知れぬ蝶々で。
お雪は双の袂の真まん中なかを絞って持ち、留まれば美しい眉を顰ひそめる少年の顔の前を、絶えず払い退のけ、払い退けする。その都度死しに装しょ束うぞくとして身みな装りを繕ったろう、清い襦じゅ袢ばんの紅くれないの袂は、ちらちらと蝶の中に交って、間まあれば、おのが肩を打ち、且つ胸のあたりを払っていたが、たちまち顔を顰しかめて唇を曲げた。二ツ三ツ体を捩よったが慌あわただしい、我を忘れて肌を脱いだ、単ひと衣えの背せなを溢こぼれ出いづる、雪なす膚はだえにも縺もつるる紅くれない、その乳ちのあたりからも袂からも、むらむらとして飛んだのは、件くだんの白い蝶であった。
我身半なかばはその蝶に化けしたるかと、お雪は呆れ顔をして身内を見たが、にわかに色を染めて密そッと少年を見ると、目を開かず。
お雪は吻ほっと息を吐ついて、肌を納めようとした手を動かすに遑いとまなく、きゃッといって平伏した。声に応じて少年はかッぱと刎はね起きて押おっ被かぶさり、身をもってお雪を庇かばう。娘の体は再び花の中に埋うずもれたが、やや有って顕あらわれた少年の背せなには、凄すさまじい鈎かぎ形がたに曲った喙くちばしが触れた。大鷲は虚を伺って、とこうの隙すきなく蒼空から襲い来きたったのであった。
倒れながら屹きっとその面おもてを上げると、翼で群蝶を掻かき乱みだして、白い烟けぶりの立つ中で、鷲は颯さっと舞い上るのを、血走った目に瞶みつめながら少年は衝つと立った。思わず胸に縋るお雪の手を取って扶たすけながら、行方を睨にらむと、谷を隔てて遥はるかに見えるのは、杉ともいわず、栃とちともいわず、檜ひのきともいわず、二ふた抱かかえ三みか抱かえに余る大だい喬きょ木うぼくがすくすく天をさして枝を交えた、矢来のごとき木この間ま々々には切倒したと覚しき同じほどの材木が積重なって、横よこたわって、深森の中うち自おのずから径こみちを造るその上へ、一列になって、一ツ去れば、また一ツ、前なるが隠るれば、後なるが顕れて、ほとんど間断なく牛が歩いた。いずれも鼻はな頭づらにおよそ三間余あまりの長綱をつけて、姿形も森の中に定かならず、牛うし曳ひきと見えるのが飛々に現れて、のッそり悠々として通っていたのであるが、今件くだんの大鷲が、風を起して一翼に谷を越え、その峰ある処、件の森の中へあからさまに入ったと思うと、牛は宙に躍って跳はね狂くるうのが、一ツならず、二ツならず、咄とっ嗟さの間かんに眼まなこを遮って七ツ数えると止やんだ。
﹁しっかりしねえ、もう可いぜ。﹂といって、少年は手を放した。
お雪は血の気を失った顔を、恐る恐る上げて仰いだが、少年を見ると斉ひとしく身みを顫ふるわした。
﹁あらまたお背中を、ちょいと大変でございますよ。﹂
﹁可いッてことよ、こればかしが何だ。﹂といったが、あわれ身を支えかねたか、またどっさりと岩に腰を掛ける。
お雪は失心の体ていで姿を繕うこともせず。両膝を折って少年の足あし許もとに跪ひざまずいて、
﹁この足あし手てま纏といさえございませねば、貴方お一方はお助たすかり遊ばすのに訳はないのでございます。﹂
と、いう声も身も顫えたのである。
五十五
﹁私はどういたしましょう、花も取って頂きました上に、この山に入りましてから貴方ばかり酷ひどい目にお逢わせ申して、今までに、生いの命ちをお取られ遊ばすかと思いましたことが幾たびあったでございましょう。体も疵きずに遊ばして庇かばって下さいますから、勿体ない、私は一ヶ所擦すり剥むきました処もございません。たとい前さきの世の約束事でも、これまでに御恩を受けますことはないのでございます。どうぞ私を打うっ遣ちゃってお逃げなすって下さいまし、お願ねがいでございます。貴方にこうして頂きますより殺されます方がどんなに心安いか分りません。失礼ながらお可哀そうで、片時もこんな恐こわい処に貴方をお置き申したくはございませんから。﹂と、嗚おえ咽つしていう声も絶たえ断だえ。
少年はかえってつッけんどんに、
﹁生意気な講釈をするない、手てめ前えッ達ちの知ったこッちゃあねえや、見殺しにされるもんか。しかし、おい、おいらも、まさかこれほどとは思わなかったが、随分手に余る上に、ものは食わずよ。どこへ出て可いか方角が分らねえし、弱った。活いきてる内ゃ助けてやらあ、不い可けなかったら覚悟しねえ。おいら父おと様っさんはなし、母おっ様かさんは失なくなったし、一人ぼッちで心細かったっけが、こんな時にゃあさっぱりだ、情なさけなくも何ともねえが、汝てめえは可哀そうだな。﹂といって、さすがの少年が目に暗涙を湛たたえて、膝しっ下かに、うつぎの花に埋うずもれて蹲うずくまる清い膚はだえと、美しい黒髪とが、わななくのを見た。この一ひと雫しずくが身に染みたら、荒あら鷲わしの嘴はしに貫かれぬお雪の五体も裂けるであろう。
一言の答いらえも出来ない風情。
少年も愁しゅ然うぜんとして無言で居たが、心すともなく極めて平気な調子で、
﹁しょうがねえやな、おい、そうしたら一所に死のうぜ。﹂と、自から頷うなずくがごとく顔を傾けていった。
理学士は夢中ながら、おのが命をもって与えんとして、三みと年せの間朝夕室を同おなじゅうした自分の口からも、かほどまでに情の籠こもった、しかも無邪気な、罪のないことをいい得なかったことを思って、ひしと胸を打たるるがごとくに感じたのである。
我にもあらず、最後を取乱したお雪の耳にも、かかる言ことばは聞えたのであろう﹇#﹁あろう﹂は底本では﹁あらう﹂﹈。
﹁勿体のうございます。﹂と、神に謝するがごとくにいった。
﹁その意つもりで諦あきらめねえ。おい、そう泣くのは止せ、弱虫だと見ると馬鹿にするぜ、ももんがあ。﹂といって大空を。
﹁はい、もう泣きはいたしません。私が先へ覚悟をしておりましたものを、お可はず恥かしゅうございます。﹂と、手をついて面を上げた。そして顔と顔を見合せた時、少年はほとんど友白髪まで添遂げた夫みょ婦うとのごとく、事もなげに冷い玉かと見えるお雪の肩に手を掛けて、
﹁助かったら何よ、おいらが邸やしきへ来ねえ、一所に楽をしようぜ、面白く暮そうな。﹂と、あたかも死を賭かけものにしたこの難境は、将来のその楽たのしみのために造られた階かい梯ていであるように考えるらしく、絶望した窮厄の中に縷る々るとして一脈の霊光を認めたごとく、嬉しげに且つ快げにいって莞かん爾じとした。いまわの際に少年は、刻下無意識になった恋人に対して、為ために生命を致すその報酬を求めたのではない。繊弱小心の人の、知死期ごの苦痛の幾分を慰めんとしたのである。
拓は夢に、我は棄てられるのであろうと思った、お雪は自分を見棄てるであろうと思った。少年がその時のその意気、その姿、その風情は、たとい淑徳貞操の現げん化げした女にょ神しんであっても、なお且つ、一糸蔽おおえる者なきその身を抱いだかれて遮ぎり難く見えたから。
五十六
理学士はまた心から、十とおの我に百を加えても、なお遥はるかにその少年に及ばないことを認めたのである。
たとえば己おのが目は盲しいたるに、少年の眼まなこは秋の水のごとく、清く澄んで星のごとく輝くのである。我はお雪の供給に活いきて、渠かれをして石滝の死地に陥おちいらしめたのに、少年はその優しき姿と、斗大の胆をもって、渠を救うために目前荒鷲と戦っている。しかも事の行ゆき懸ががりから察し、人の語る処に因れば、この美少年は未見の知己、千破矢滝太郎に相違ない。千破矢は華族だ、今渠が来きたれ、共にこの労を慰めんといったのは、すなわちお雪を高家の室となさんという心である。されば少年がその意気と、その容よう貌ぼうと、風ふう采さいと、その品位をもってして誰がこれを諾うけがわざるべき。拓が身をもってお雪と地位をかえたとすれば、直ちに我を棄てて渠に愛を移すのは、世に最も公平なことであると思って、満身の血が冷くなった。けれどもあえて数の多量なるものが、愛を購あがない得るのではなかった。お雪は少年が優しく懸けた、肩の手を静かに払って、颯さっと赤らむ顔とともに、声の下で、
﹁はい、私はあのお邸へ上ります訳には参りませんのでございます。﹂
恐る恐るいうおもはゆげな状さまを、少年は瞻みまもりながら、事もなげにいった。
﹁なぜだ。﹂
﹁内に拓さんという方がございます、花を欲しいと存じましたのも、皆みんなその人のためなんですから。﹂と死を極めたものの、かえってかかることを憚はばからず言って差さし俯うつ向むく。
少年は屹きっとなって、たちまち顔色を変えたのである。
理学士はこの時少年のいうことを聞こうとして、思わず堅かた唾ずを飲んだ。
夢中の美少年に憤った色が見え、
﹁おいら、島野とは違うぜ。今までな、おい、欲ほしい思ったものは取らねえこたあねえ、しようと思ったことをしねえこたあなかったんだ。可いじゃあないか、不い可けねえッて? 不可ねえか。うむそうか、可いや、へん、おいら詰つまらねえことをしたぜ。﹂
と投げるようにいって、大空を恍うっ惚とりと瞶みつめた風情。取留めのない夢の想おもいで、拓はこの時少年がお雪に向ってなす処は、一つ一びとつ皆思うことあって、したかのごとく感じられて、快活かくのごとき者が、恋には恐るべき神秘を守って、今までに秋しゅ毫うごうも、さる気色のなかったほど、一層大いなる力あることを感じて、愕がく然ぜんとした。同時に今までは、お雪を救うために造られた、巌いわおに倚よる一個白面、朱唇、年少、美びぼ貌うの神将であるごとく見えたのが、たちまち清く麗しき娘を迷わすために姿を変じた、妄執の蛇であると心着いたが、手も足も動かず、叫ばんとする声も己おのが耳には入いらなかった。
鷲がその三回目の襲撃を試みない瞬間、白い花も動かず、二人は熟じっとして石に化したもののように見えた。やがて少年は袂を探って、一ひと本もとの花を取出した。学識ある理学士が夢中の目は、直ちにそれを黒百合の花と認めたのである。
これがためにこそ餓えたり、傷付いたれ、物もの怪のけある山に迷うたれ。荒鷲には襲わるる、少年の身に添えて守っていたと覚ゆるのを、掴つかむがごとく引ひき出いだして、やにわに手を懸けてり棄てようとした趣であった。けれども、お雪が物いいたげに瞳を動かして、衝つと胸を抱いて立ったのを、卑いやしむがごとく、嘲あざけるがごとく、憎むがごとく、はた憐あわれむがごとくに熟じっと見て、舌打して、そのまま黒百合をお雪の手に与えると斉ひとしく、巌を放れてすっくと立って、
﹁不い可けねえや、お前めえ良てい人しがあるんなら、おいら一所に死ぬのは厭だぜ。じゃあ、おい勝手にしねえ。﹂
といい棄てて、身を飜すとたちまち歩き去った。
五十七
我が手働かず、足動かず、目はただ天涯の一方に、白き花に埋うずもれたお雪を見るばかり。片手をもって抱き得るような、細い窶やつれた妻の体を、理学士はいかんともすることならず。
お雪は黒百合の花を捧げて、身に影も添わず、淋しく心細げに彳たたずんでいたが、およそ十歩を隔てて少年が一度振返って見た時、糸をもて操らるるかと二足三足後を追うたが、そのまま素そっ気けなく向うを向いてしまったので、力無げに歩あゆみを停とどめた、目には暗涙を湛たたえたり。
やがて後姿に触れて、ゆさゆさと揺ゆすぶられる、のりうつぎの花の梢こずえは、少年を包んで見えなくなった。
これをこそは待ち得たれ、黒い星一ツ遥はるか彼かな方たの峰に現れたと見ると、風に乗って矢のごとくに颯さっと寄せた。すわやと見る目の前の、鷲の翼は四あた辺りを暗くした中に、娘の白い膚はだえを包んで、はたと仰あお向むけに僵たおれた。
﹁あれえ、﹂
叫ぶに応じて少年は、再び猛然として顕あらわれたが、宙を飛んで躍りかかった。拳こぶしを握って高く上げると、大鷲の翼を蹈ふんで、その頸うなじを打ったのである。
﹁畜生、おれが目に見えねえように殺せやい!﹂
と怒気満面に溢あふれて叱しっ咤たした。少年はほとんど身を棄てて、その最後の力を尽したのであろう。
黒雲一団渦うずまく中に、鷲は一双の金の瞳を怒いからしたが、ぱっと音を立てて三たび虚こく空うに退いた。二ツ三ツ四ツ五ツばかり羽は斑々として落ちて、戦たたかいの矢を白い花の上に残した。
少年が勇威凜りん々りんとして今大鷲を搏うった時の風采は、理学士をして思わず面おもてを伏せて、僵たおれたる肉一団何かある、我が妻をもてこの神将に捧げんと思わしめたのである。
かくして少年ははた掌たなそこを拍うって塵ちりを払ったが、吐息を吐ついて、さすがに心弛ゆるみ、力落ちて、よろよろと僵れようとして、息も絶たえ々だえなお雪を見て、眉を顰ひそめて、
﹁ちょッ、しようのねえ女だな。﹂
やがて手をかけて、小脇に抱上げたが、お雪の黒髪は逆さかさまに乱れて、片手に黒百合を持ったのを胸にあてて、片手をぶらりと垂れていた。大鷲は今の一撃に怒いかりをなしたか、以前のごとく形も見えぬまでは遠く去らず、中空に凧いかのぼりのごとく居すわって、やや動き且つ動くのを、屹きっと睨にらんでは仰いで見たが、衝つと走っては打仰ぎ、走っては打仰ぎ、ともすれば咲き満ちたうつぎの花の中に隠れ、顕れ、隠れ、顕れて、道を求めて駆けるのを、拓は追慕うともなく後を跟つけて、ややあって一座の巌石、形蟇ひきがえるの天あた窓まに似たのが前ゆく途てを塞ふさいで、白い花は、あたかも雪間の飛々に次第に消えて、このあたりでは路とともに尽きて見えなくなる処に来た。
もとより後うしろは見も返らず、少年はお雪を抱いたまま、ひだを蹈み、角に縋すがって蝙こう蝠もりの攀よずるがごとく、ひらりひらりと巌いわおの頂に上った。この巌の頂は、渠かれを載せて且つ歩あゆみを巡らさしむるに余あまりあるものである。
時に少年の姿は、高く頭上の風に鷲を漾ただよわせ、天を頂いて突つっ立たったが、何とかしけむ、足あし蹈ぶみをして、
﹁滝だ! 滝だ!﹂と言って喜びの色は面おもてに溢れた。ただ聞く、どうどうと水の音、巌もゆらぐ響ひびきである。
少年はいと忙せわしく瞳を動かして、下りるべき路を求めたが、衝つと端に臨んで、俯うつ向むいて見る見る失望の色を顕あらわした。思わず嘆息をして口惜しそうに、
﹁どこまで祟たたるんだな、獣けだものめ。﹂
五十八
少年を載せた巌は枝に留まった梟ふくろのようで、その天あた窓ま大きく、尻ッこけになって幾いく千せん仭じんとも弁わきまえぬ谷の上へ、蔽おおい被かぶさって斜ななめに出ている。裾を蹈んで頭を叩けば、ただこの一座山のごとき大奇巌は月界に飛ばんず形。繁れる雑種の喬きょ木うぼくは、梢こずえを揃えて件くだんの巌いわの裾を包んで、滝は音ばかり森の中に聞えるのであった。頂なる少年は、これを俯ふし瞰みおろして、雲の桟かけ橋はしのなきに失望した。しかるに倒さかさまに伏して覗のぞかぬ目には見えないであろう、尻ッこけになった巌いわおの裾に居て、可あや怪しい喬木の梢なる樹々の葉を褥しとねとして、大おお胡あぐ坐らを組んだ、――何等のものぞ。
面かお赭あかく、耳蒼あおく、馬ばかりなる大きさのもの、手足に汚れた薄うす樺かば色いろの産毛のようで、房々として柔やわらかに長い毛が一面の生いて、人か獣けだものかを見分かぬが、朦もう朧ろうとしてただ霧を束つかねて鋳い出だしたよう。真まう俯つむ向きになって面おもてを上げず、ものとも知らぬ濁だみたる声で、
﹁猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、﹂と支え干とを数えて呟つぶやきながら、八九寸伸びた蒼黒い十本の指の爪で、件くだんの細々とした、突けば折れるばかりの巌の裾をごしごしごしごしと掻かきる。時に手を留とどめてその俯向いた鼻先と思う処を、爪をあつめて巌の欠かけを掘取ると見ると、また掻きはじめた。その爪の切入るごとに、巌はもろくぼろぼろと欠けて、喰い入り喰い入り、見る内に危あやうく一重の皮を残して、まさに断ち切ぎれて逆さまに飛ばんとする。
あれあれ、とばかりに学士は目も眩くれ、心も消え、体に悪あく熱ねつを感ずるばかり、血を絞って急を告げようとする声は糸より細うして己おのが耳にも定かならず。可おそ恐ろしきものの巌を切る音は、肝きも先さきを貫いて、滝の響ひびきは耳を聾ろうするようであった。
羽はば撃たき聞えて、鷲は颯さっと大空から落ちて来た。頂高く、天近く、仰げば遥かに小さな少年の立姿は、狂うがごとく位置を転じて、腕白く垂れたお雪の手が、空ざまに少年の頭かしらに縋ると見た。途端に巌は地を放れて山を覆えるがごとく、二人の姿はもんどり打って空に舞い、滝の音する森の中へ足を空に陥おちいったので、あッと絶叫したが、理学士は愕がく然ぜんとして可おそ恐ろしい夢から覚めたのである。
拓は茫然自失して、前さきのまま机に頬杖を突いた、その手も支えかねて僵たおれようとしたが、ふと闇やみのままうとうとと居眠ったのに、いつ点ついたか、見えぬ目に燈ともしびが映えるのに心着いた。
確かに傍かたわらに人の気けは勢い。
五十九
﹁誰だ、﹂と極めて落着いて言ったが、声は我ながら異常なものであった。
急に答がないので、更に、
﹁誰だ。﹂
﹁はい、﹂と幽かすかに応こたえた。
理学士が一生にただ一度目を開いて見たいのは、この時の姿であった、今のは疑うたがいも無いお雪である。
これを聞いて渠かれは思わず手を差延べて、抱いだこうとしたが、触れば消きえ失うせるであろうと思って、悚ぞ然っとして膝に置いたが、打うち戦わななく。
﹁遅くなりまして済みませんでした、拓さん。﹂
と判はっ然きり、それも一ひと言ことごとに切なく呼い吸きが切れる様子。ありしがごとき艱かん難なんの中うちから蘇よみ生がえって来た者だということが、ほぼ確かめらるると同時に、吃びっ驚くりして、
﹁おお、お雪か、お前! そして千破矢さんはどうした、﹂と数分時前、夢に渠と我とともにあった少年の名をいった。
お雪はその時答えなかった。
理学士は繰返してまた、
﹁千破矢さんはどうしたんだ、﹂と、これは何心なく安否を聞いたのであったが、ふと夢の中の事に思い当った。お雪の答が濁ったのを、さてはとばかり、胸を跳おどらして口を噤つぐむ。
しばらくして、
﹁送って来て下さいましたよ。﹂
﹁そして﹂
﹁あの、お向むこうの荒物屋に休んでいらっしゃいます。﹂
﹁そうか、﹂といったが、我ながら素そっ気けなく、その真心を謝するにも、怨うらみをいうにも、喜ぶにも、激して容たや易すくは語ことばも出でず。あまりのことに、活きて再び家に帰って、現うつつのごとき男を見ても直ぐにはものも言懸けなかった、お雪も同じ心であろう。ものいう目にも、見えぬ目にも、二人斉ひとしく涙を湛たたえて、差さし俯うつ向むいて黙然とした。人はかかる時、世に我あることを忘るるのである。
框かまちに人の跫あし音おとがしたが、慌あわただしく奥に来て、壮さかんな激しい声は、沈んで力強く、
﹁遁にげろ、遁げねえか、何をしとる!﹂
お雪は薄暗い燈ともしびの影に、濡れしおれた髪を振って、蒼あお白じろい顔を上げた。理学士の耳にも正に滝太郎の声である、と思うも疾としや!
﹁洪み水ずだ、しっかりしろ。﹂
お雪は半ば膝を立てて、滝太郎の顔を見るばかり。
﹁早くしねえかい、べらぼうめ。﹂と叱るがごとくにいって、衝つと縁側に出た、滝太郎はすっくと立った。しばらくして、あれといったが、お雪は蹶はね起おきようとして燈ともしを消した。
﹁周あ章わてるない、﹂といって滝太郎は衝つと戻って、やにわにお雪の手を取った。
﹁助けてい!﹂と言いさまに、お雪は何を狼うろ狽たえたか、扶たすけられた滝太郎の手を振放して、僵たおれかかって拓の袖を千切れよと曳ひいた。
六十
お雪は曳いて、曳き動かして、
﹁どうしましょう、あれ、早く貴あな方た、貴方。﹂
拓は動じないで、磐石のごとく坐っているので、思わず手を放して、一人で縁側へ出たが、踏ふみ辷すべったのか腰を突いた。しばらくは起きも得なかったが、むっくと立上ると柱に縋って、わなわなと顫ふるえた。ただ森しんとして縁板が颯さっと白くなったと思うと、水はひたひたと畳に上った。
﹁ええ、﹂といって学士も立った。
﹁可おそ恐ろしい早さだ、放すな!﹂と滝太郎は背せなかをお雪に差向ける。途端に凄すさまじい音がして、わっという声が沈んで聞える。
﹁お雪! お雪。﹂
学士も我を忘れて助たすけを呼んだのである。
﹁あれ、若様、拓さんは、拓さんは目が見えません。﹂
﹁うむ、﹂
﹁助けて下さい、拓さんは目が見えません。﹂
﹁二人じゃあ不い可けねえや、﹂
﹁内の人を、私の夫を。﹂
﹁おいら、お前でなくっちゃあ、﹂
﹁厭いや、厭ですよ、厭ですよ、﹂と、捕うる滝太郎の手を摺抜ける。
﹁だって、汝おめえの良てい人しゅなら、おいらにゃあ敵かたきだぜ。﹂
﹁私は死んでしまいます。﹂
﹁へへ、駄目だい、﹂と唾つばするがごとく叫んで、滝太郎は飛んで拓に来た。
﹁滝だ、大丈夫だ。﹂
﹁お雪には義理があるんです、私に構わず、﹂といって、学士は身を退すさって壁にひたりと背せなをあてた。
﹁あれ、拓さん、﹂とばかり身を急あせるお雪が膝は、早や水に包まれているのである。
﹁いや、いけない、﹂と学士は決然として言放った。
滝太郎は真まん中なかに立って、件くだんの鋭い目に左右をして瞳を輝かした。
﹁ええ二人ともつかまんな。構うこたあねえ、可いけなけりゃ皆みんなで死のう。﹂
雨は先さっ刻きに止やんで、黒くろ雲くもの絶たえ間まに月が出ていた。湯の谷の屋根に処とこ々ろどころ立てた高張の明あかりが射さして、眼まのあたりは赤く、四方へ黒い布を引いて漲みなぎる水は、随処、亀きっ甲こう形がた﹇#﹁亀甲形﹂は底本では﹁亀申形﹂﹈に畝うねり畝り波を立てて、ざぶりざぶりと山の裾へ打当てる音がした。拓を背にし、お雪を頸うなじに縋らせて、滝太郎は面おもても触ふらず件くだんの洞ほら穴あなを差して渡ったが、縁を下りる時、破あば屋らやは左右に傾いた。行くことわずかにして、水は既に肩を浸した。手を放すなといって滝太郎が水を含んで吐いた時、お雪は洪み水ずの上に乗上って、乗着いて、滝太郎に頬摺したが、
﹁拓さん堪忍して。﹂
声を残して、魚うおの跳おどるがごとく、身を飜ひるがえして水に沈んだ。遥かにその姿の浮いた折から、荒物屋の媼ばばなんど、五七人乗った小舟を漕こぎ寄よせたが、流れて来る材木がくるりと廻って舷ふなばたを突いたので、船は波に乗って颯さっと退ひいた。同時に滝太郎の姿も水に沈んだが、たちまち水みず烟けぶりを立てて抜手を切ったのである。拓とともに助かったのは言うまでもない。
その夜よ湯の谷で溺おぼれたのが十七人、……お雪はその中うちの一人であった。
水は一晩で大方退ひいて、翌あく日るひは天日快晴。四十物町はちょろちょろ流れで、兵粮を積んだ船が往ゆき来きする。勇美子は裾を引上げて濁水に脛はぎを浸しながら、物珍らしげに門の前を歩いていた。猟犬ジャムはその袖の下を、ちゃぶちゃぶと泳ぎ、義作は夕立の背せなを干して、傍かたわらに立っていた、水はやや駒の蹄ひづめを没するばかり。それでも瀬を造って、低い処へ落ちる中に、流れて来たものがある、勇美子が目めざ敏とく見て、腕うで捲まくりをして採上げたのは、不思議の花であった。形は貝ばい母もに似て、暗緑帯紫の色、一つは咲いて花はな弁びらが六つ、黄こう粉ふんを包んだ蘂しべが六つ、莟つぼみが一つ。
数年の後のち、いずこにも籍を置かぬ一艘そうの冒険船が、滝太郎を乗せて、拓お兼等らが乗組んで、大洋の波に浮うかんだ時は、必ずこの黒百合をもって船に号なずけるのであろう。
明治三十二︵一八九九︶年六〜八月