﹁あなた、冷ひえやしませんか。﹂ お柳りうは暗や夜みの中なかに悄しよ然んぼりと立たつて、池いけに臨のぞむで、其その肩かたを並ならべたのである。工こう學がく士しは、井ゐげ桁たに組くんだ材ざい木もくの下したなる端はしへ、窮きう屈くつに腰こしを懸かけたが、口くち元もとに近ちか々〴〵と吸すつた卷まき煙たば草こが燃もえて、其その若わか々〳〵しい横よこ顏がほと帽ばう子しの鍔つば廣びろな裏うらとを照てらした。 お柳りうは男をとこの背せなに手てをのせて、弱よわいものいひながら遠ゑん慮りよ氣げなく、 ﹁あら、しつとりしてるわ、夜よつ露ゆが酷ひどいんだよ。直ぢかにそんなものに腰こしを掛かけて、あなた冷つめたいでせう。眞ほんとに養やう生じや深うぶかい方かたが、其それに御ごび病やう氣き擧あげ句くだといふし、惡わるいわねえ。﹂ と言いつて、そつと壓おさへるやうにして、 ﹁何なんともありはしませんか、又またぶり返かへすと不い可けませんわ、金きんさん。﹂ 其それでも、ものをいはなかつた。 ﹁眞ほんとに毒どくですよ、冷ひえると惡わるいから立たつていらつしやい、立たつていらつしやいよ。其その方はうが増ましですよ。﹂ といひかけて、あどけない聲こゑで幽かすかに笑わらつた。 ﹁ほゝゝゝ、遠とほい處ところを引ひつ張ぱつて來きて、草くた臥びれたでせう。濟すみませんねえ。あなたも厭いやだといふし、其それに私わたしも、そりや樣やう子すを知しつて居ゐて、一いつ所しよに苦くら勞うをして呉くれたからツたつても、※ねえ﹇＃﹁女＋︵﹁第−竹﹂の﹁コ﹂に代えて﹁ノ﹂︶、﹁姉﹂の正字﹂、U+59CA、715-2﹈さんには極きまりが惡わるくツて、内うちへお連つれ申まをすわけには行ゆかないしさ。我わが儘まゝばかり、お寢よつて在いらつしやつたのを、こんな處ところまで連つれて來きて置おいて、坐すわつてお休やすみなさることさへ出で來きないんだよ。﹂ お柳りうはいひかけて涙なみだぐんだやうだつたが、しばらくすると、 ﹁さあ、これでもお敷しきなさい、些ちつ少とはたしになりますよ。さあ、﹂ 擦すり寄よつた氣けは勢ひである。 ﹁袖そでか、﹂ ﹁お厭いや？﹂ ﹁そんな事ことを、しなくツても可いい。﹂ ﹁可よかあありませんよ、冷ひえるもの。﹂ ﹁可いいよ。﹂ ﹁あれ、情じやうが強こはいねえ、さあ、えゝ、ま、痩やせてる癖くせに。﹂と向むかうへ突ついた、男をとこの身みが浮ういた下したへ、片かた袖そでを敷しかせると、まくれた白しろい腕うでを、膝ひざに縋すがつて、お柳りうは吻ほつと呼い吸き。 男をとこはぢつとして動うごかず、二ふた人りともしばらく默だん然まり。 やがてお柳りうの手てがしなやかに曲まがつて、男をとこの手てに觸ふれると、胸むねのあたりに持もつて居ゐた卷まき煙たば草こは、心こゝろするともなく、放はなれて、婦をん人なに渡わたつた。 ﹁もう私わたしは死しぬ處ところだつたの。又また笑わらふでせうけれども、七なぬ日かばかり何なんにも鹽しほツ氣けのものは頂いたゞかないんですもの、斯かうやつてお目めに懸かゝりたいと思おもつて、煙たば草こも斷たつて居ゐたんですよ。何なんだつて一いつ旦たん汚けがした身から體だですから、そりやおつしやらないでも、私わたしの方はうで氣きが怯ひけます。其それにあなたも舊もとと違ちがつて、今いまのやうな御おみ身ぶ分んでせう、所しよ詮せん叶かなはないと斷あきらめても、斷あきらめられないもんですから、あなた笑わらつちや厭いやですよ。﹂ といひ淀よどんで一ちよ寸つと男をとこの顏かほ。 ﹁斷あきらめのつくやうに、斷あきらめさして下くださいツて、お願ねがひ申まをした、あの、お返へん事じを、夜よの目めも寢ねないで待まツてますと、前さつ刻き下くだすつたのが、あれ……ね。 深ふか川がはの此この木き場ばの材ざい木もくに葉はが繁しげつたら、夫いつ婦しよになつて遣やるツておつしやつたのね。何どうしたつて出で來きさうもないことが出で來きたのは、私わたしの念ねんが屆とゞいたんですよ。あなた、こんなに思おもふもの、其その位くらゐなことはありますよ。﹂ と猶なほしめやかに、 ﹁ですから、最もう大おほ威ゐば張り。其それでなくツてはお聲こゑだつて聞きくことの出で來きないので、押おし懸かけて行いつて、無む理りに其その材ざい木もくに葉はの繁しげつた處ところをお目めに懸かけようと思おもつて連つれ出だして來きたんです。 あなた分わかつたでせう、今いまあの木こび挽き小ご屋やの前まへを通とほつて見みたでせう。疑うたがふもんぢやありませんよ。人ひとの思おもひですわ、眞まつ暗くらだから分わからないつてお疑うたぐンなさるのは、そりや、あなたが邪じや慳けんだから、邪じや慳けんな方かたにや分わかりません。﹂ 又また默だまつて俯うつ向むいた、しばらくすると顏かほを上あげて斜なゝめに卷まき煙たば草こを差さし寄よせて、 ﹁あい。﹂ ﹁…………﹂ ﹁さあ、﹂ ﹁…………﹂ ﹁邪じや慳けんだねえ。﹂ ﹁…………﹂ ﹁えゝ！、要いらなきや止よせ。﹂ といふが疾はやいか、ケンドンに投はふり出だした、卷まき煙たば草この火ひは、ツツツと橢だゑ圓んけ形いに長ながく中なか空ぞらに流りう星せいの如ごとき尾をを引ひいたが、※ぱつ﹇＃﹁火＋發﹂、U+243CB、717-14﹈と火ひば花なが散ちつて、蒼あをくして黒くろき水みづの上うへへ亂みだれて落おちた。 屹きつと見みて、 ﹁お柳りう、﹂ ﹁え、﹂ ﹁およそ世よの中なかにお前まへ位ぐらゐなことを、私わたしにするものはない。﹂ と重おも々〳〵しく且かつ沈しづんだ調てう子しで、男をとこは肅しゆ然くぜんとしていつた。 ﹁女によ房うばうですから、﹂ と立りつ派ぱに言いひ放はなち、お柳りうは忽たちまち震ふるひつくやうに、岸が破ばと男をとこの膝ひざに頬ほゝをつけたが、消きえ入いりさうな風とり采なりで、 ﹁そして同おな年じと紀しだもの。﹂ 男をとこは其その頸うなじを抱だかうとしたが、フト目めを反そらす水みづの面おも、一點てんの火ひは未まだ消きえないで殘のこつて居ゐたので。驚おどろいて、じつと見みれば、お柳りうが投なげた卷まき煙たば草この其それではなく、靄もやか、霧きりか、朦もう朧ろうとした、灰はひ色いろの溜ため池いけに、色いろも稍やゝ濃こく、筏いかだが見みえて、天あた窓まの圓まるい小ちひさな形かたちが一ひと個つ乘のつて蹲しやがむで居ゐたが、煙きせ管るを啣くはへたらうと思おもはれる、火ひの光ひかりが、ぽツちり。 又また水みづの上うへを歩あ行るいて來きたものがある。が船ふねに居ゐるでもなく、裾すそが水みづについて居ゐるでもない。脊せ高たかく、霧きりと同おんなじ鼠ねずみの薄うすい法ころ衣ものやうなものを絡まとつて、向むかうの岸きしからひら〳〵と。 見みる間まに水みづを離はなれて、すれ違ちがつて、背うし後ろなる木き納な屋やに立たてかけた數すう百本ぽんの材ざい木もくの中なかに消きえた、トタンに認みとめたのは、緑ろく青しやうで塗ぬつたやうな面おもて、目めの光ひかる、口くちの尖とがつた、手てあ足しは枯かれ木きのやうな異いじ人んであつた。 ﹁お柳りう。﹂と呼よばうとしたけれども、工こう學がく士しは餘あまりのことに聲こゑが出でなくツて瞳ひとみを据すゑた。 爾その時とき何なに事ごととも知しれず仄ほのかにあかりがさし、池いけを隔へだてた、堤ど防ての上うへの、松まつと松まつとの間あひだに、すつと立たつたのが婦をん人なの形かたち、ト思おもふと細ほそ長ながい手てを出だし、此こな方たの岸きしを氣けだるげに指さし招まねく。 學がく士しが堪たまりかねて立たたうとする足あし許もとに、船ふねが横よこざまに、ひたとついて居ゐた、爪つま先さきの乘のるほどの處ところにあつたのを、霧きりが深ふかい所せ爲ゐで知しらなかつたのであらう、單たゞそればかりでない。 船ふねの胴どうの室まに嬰あか兒ごが一ひと人り、黄きい色ろい裏うらをつけた、紅くれなゐの四よツ身みを着きたのが辷すべつて、彼かの婦をん人なの招まねくにつれて、船ふねごと引ひきつけらるゝやうに、水みづの上うへをする〳〵と斜なゝめに行ゆく。 其その道みち筋すぢに、夥おびたゞしく沈しづめたる材ざい木もくは、恰あたかも手てを以もて掻かき退のける如ごとくに、算さんを亂みだして颯さつと左さい右うに分わかれたのである。 其それが向むかう岸ぎしへ着ついたと思おもふと、四あた邊りまた濛もう々〳〵、空そらの色いろが少すこし赤あか味みを帶おびて、殊ことに黒くろずんだ水すゐ面めんに、五六人にんの氣けは勢ひがする、囁さゝやくのが聞きこえた。 ﹁お柳りう、﹂と思おもはず抱だき占しめた時ときは、淺あさ黄ぎの手てが絡らと、雪ゆきなす頸うなじが、鮮あざやかに、狹さぎ霧りの中なかに描ゑがかれたが、見みる〳〵、色いろがあせて、薄うすくなつて、ぼんやりして、一いつ體たいに墨すみのやうになつて、やがて、幻まぼろしは手てにも留とまらず。 放はなして退すさると、別べつに塀へい際ぎはに、犇ひし々〳〵と材ざい木もくの筋すぢが立たつて並ならぶ中なかに、朧おぼ々ろ〳〵とものこそあれ、學がく士しは自じぶ分んの影かげだらうと思おもつたが、月つきは無なし、且かつ我わが足あしは地つちに釘くぎづけになつてるのにも係かゝはらず、影かげ法ぼふ師しは、薄うすくなり、濃こくなり、濃こくなり、薄うすくなり、ふら〳〵動うごくから我われにもあらず、 ﹁お柳りう、﹂ 思おもはず又また、 ﹁お柳りう、﹂ といつてすた〳〵と十間けんばかりあとを追おつた。 ﹁待まて。﹂ あでやかな顏かほは目めさ前きに歴あり々〳〵と見みえて、ニツと笑わらふ涼すゞしい目めの、うるんだ露つゆも手てに取とるばかり、手てを取とらうする、と何なんにもない。掌たなそこに障さはつたのは寒さむい旭あさひの光くわ線うせんで、夜よはほの〴〵と明あけたのであつた。 學がく士しは昨さく夜や、礫こい川しかはなる其その邸やしきで、確たしかに寢ねど床こに入はひつたことを知しつて、あとは恰あたかも夢ゆめのやう。今いまを現うつゝとも覺おぼえず。唯と見みれば池いけのふちなる濡ぬれ土つちを、五六寸すん離はなれて立たつ霧きりの中なかに、唱しや名うみやうの聲こゑ、鈴りんの音おと、深ふか川がは木き場ばのお柳りうが※あね﹇＃﹁女＋︵﹁第−竹﹂の﹁コ﹂に代えて﹁ノ﹂︶、﹁姉﹂の正字﹂、U+59CA、720-15﹈の門かどに紛まぎれはない。然しかも面おもてを打うつ一いち脈みやくの線せん香かうの香にほひに、學がく士しはハツと我われに返かへつた。何なにも彼かも忘わすれ果はてて、狂きや氣うきの如ごとく、其その家やを音おと信づれて聞きくと、お柳りうは丁ちやうど爾その時とき……。あはれ、草くさ木きも、婦をん人なも、靈たま魂しひに姿すがたがあるのか。