沼夫人
泉鏡花
﹁ああ、奥さん、﹂
と言った自分の声に、ふと目が覚めると……室(まの)内(うち)は真(まっ)暗(くら)で黒(あや)白(め)が分らぬ。寝てから大分の時が経(た)ったらしくもあるし、つい今しがた現(うと)々(うと)したかとも思われる。
その現々たるや、意味のごとく曖(あい)昧(まい)で、虚(うっ)気(かり)としていたのか、ぼうとなっていたのか、それともちょいと寝たのか、我ながら覚(おぼ)束(つか)ないが、
﹁ああ、奥さん、﹂
と返事をした声は、確(たしか)に耳に入(い)って、判(はっ)然(きり)聞こえて、はッと一ツ胸を突かれて、身(から)体(だ)のどっかが、がっくりと窪(くぼ)んだ気がする。
そこで、この返事をしたのは、よくは覚えぬけれども、何でも、誰かに呼ばれたのに違いない。――呼んだのは、室の扉(ひらき)の外からだった――すなわち、閨(ねや)の戸を音(おと)訪(ず)れられたのである。
但し閨の戸では、この室には相(そ)応(ぐ)わぬ。寝ているのは、およそ十五畳ばかりの西洋室(ま)……と云うが、この部落における、ある国(いし)手(ゃ)の診察室で。
小松原は、旅行中、夏の一(ひと)夜(よ)を、知(ちか)己(づき)の医学士の家に宿ったのであった。
隙間漏る夜(よ)半(わ)の風に、ひたひたと裙(すそ)の靡(なび)く、薄黒い、ものある影を、臆(おく)病(びょう)のために嫌うでもなく、さればとて、群(むらが)り集(たか)る蚊の嘴(くちばし)を忍んでまで厭(いと)うほどこじれたのでもないが、鬱(うっ)陶(とう)しさに、余り蚊帳を釣るのを好まず。
ちとやそっとの、ぶんぶんなら、夜具の襟を被(かぶ)っても、成るべくは、蛍、萱(かや)草(くさ)、行抜けに見たい了(りょ)簡(うけん)。それには持って来いの診察室。装(かざ)飾(り)の整ったものではないが、張詰めた板敷に、どうにか足袋跣(はだ)足(し)で歩(あ)行(る)かれる絨(じゅ)氈(うたん)が敷いてあり、窓も西洋がかりで、一雨欲しそうな、色のやや褪(あ)せた、緑の窓(カア)帷(テン)が絞ってある。これさえ引いておけば、田(たん)圃(ぼ)は近くっても虫の飛込む悩みもないので、窓も一つ開けたまま、小松原は、昼間はその上へ患者を仰(あお)臥(む)かせて、内の国(せん)手(せい)が聴診器を当てようという、寝(ねだ)台(い)の上。ますます妙なのは蚤(のみ)の憂(うれい)更になし。
地(いな)方(か)と言っても、さまで辺(へん)鄙(ぴ)な処ではないから、望めばある、寝台の真上の天井には、瓦(が)斯(す)が窓越の森に映って、薄ら蒼(あお)くぱっと点(つ)いていたっけが、寝しなに寝台の上へひょいと突(つッ)立(た)って、捻(ねじ)って、ふっと消した。
﹁何、この方が勝手です、燧(マッ)火(チ)を一つ置いといて頂けば沢山で。﹂
この家(や)の細君は、まだその時、宵に使った行水の後の薄化粧に、汗ばみもしないで、若々しい紅(あか)い扱(しご)帯(き)、浴衣にきちんとしたお太鼓の帯のままで、寝床の世話をして、洋(ラン)燈(プ)をそこへ、……
﹁いいえ、お馴(な)れなさらないと、偶(ふ)とお目覚めの時、不(いけ)可(な)いもんですよ。夫(やど)でもついこの間、窓を開けて寝られるから涼しくって可(い)いてって、此(こ)室(こ)へ臥(ふせ)りましてね、夜中に戸(とま)迷(ど)いをして、それは貴(あな)下(た)、方々へ打(ぶつ)附(か)りなんかして、飛んだ可(お)笑(か)しかったことがござんすの。
可(おか)笑(し)いより、貴下、ひょんな処へ顔を入れて、でもまあ、男でしたから宜(よろ)しかったようなものの、私(わたくし)どもだったらどうしましょう。そこにございます、それですわ。同じような切(きれ)を掛けて蔽(おおい)にしておくもんですから、暗さは暗し、扉の処が分りませんので、何しろ、どこか一つ窓へ顔を出して方角を極(き)めようとしましてね、窓掛だ、と思って引揚げましたのが、その蔽だったんでしょう。箱の中に飾っておきます骸(がい)骨(こつ)に、ぴったり打(ぶつ)撞(か)ったんでございますとさ、厭(いや)ではござんせんかねえ。﹂
……と寝台の横手、窓際に卓(テエ)子(ブル)があるのに、その洋(ラン)燈(プ)を載(の)せながら話したが、中頃に腰を掛けた、その椅子は、患者が医(せん)師(せい)と対(さし)向(むか)いになる一脚で、
﹁何ぼ、男でもヒヤリとしましたそうですよ。﹂
と愛(あい)嬌(きょう)よく莞(にっ)爾(こり)した。
﹁や、そりゃ、酒田さん驚いたでしょう。幾ら商売道具でも暗やみで打撞っちゃ大変だ。﹂
﹁ですから、お気を注(つ)けなさいまし。夫(やど)とは違って、貴下はお人柄でいらっしゃるから、またそうでもない、骸骨さんの方から夜中に出掛けますとなりません。……婦(おんな)のだって、言いますから。﹂
主(ある)人(じ)の医学士は、実は健康を損ねたため、保養かたがた暢(のん)気(き)を専一に、ここに業を開いているのであるが、久しぶりのこの都の客と、対(はな)談(し)が発(は)奮(ず)んで、晩酌の量を過したので、もう奥座敷で、ごろりと横の、そのまま夢になりそうな様子だった折から、細君もただそれだけにして、
﹁どうぞ御(ごゆ)緩(っく)り。﹂
と洋(ラン)燈(プ)を差置き、ちらちらと――足袋じゃない、爪(つま)先(さき)が白く、絨(じゅ)氈(うたん)の上を斜めに切って、扉(ひらき)を出た。
しばらくして、女中が入って来て、
﹁ここへ、冷(おひ)水(や)をお置き申します。﹂
声を聞いたばかり。昼間歩(あ)行(る)き廻った疲(つか)労(れ)と、四五杯の麦(ビイ)酒(ル)の酔に、小松原はもう現(うと)々(うと)で、どこへ水差を置いたやら、それは見ず。いつまた女中が出て去(い)ったか、それさえ知らず。ただ洋燈の心を細めた事は、一(ひと)緊(しめ)胸を緊(し)めたほど、顔の上へ暗さが乗(のし)懸(かか)ったので心着くと、やがて、すうすう汐(しお)が退(ひ)く塩(あん)梅(ばい)に、灯(あかり)が小さく遠くなり、遥(はるか)に見え、何だか自分が寝た診察台の、枕の下へ滅(めい)入(り)込(こ)んで、ずっと谷底の古(ふる)御(みど)堂(う)の狐(きつ)格(ねご)子(うし)の奥深く点(とも)れたもののごとく、思われた……か思ったのか、それとも夢路を辿(たど)る峠から覗(のぞ)く景色か、つい他(たわ)愛(い)がなくなる。
処を、前に言った、︵奥さん︶――で目が覚めたが、真(まっ)暗(くら)、洋燈はその時消えていた。
枕を擡(もた)げて、
﹁唯(ただ)今(いま)!﹂
威勢よく、︵開けます︶とやろうとする、その扉(ひらき)の見当が附かぬから、臥(ねど)床(こ)に片手支(つ)いたなり、熟(じっ)と室(ま)の内をしながら、耳を傾けると、それ切り物の気(けは)勢(い)がせぬ。
﹁はてな、﹂
自分で、奥さん、と言ったのに、驚いて覚めたには覚めたが、誰に呼ばれたのか、よくは分らぬ。もっとも、小松原とも立(りゅ)二(うじ)とも、我が姓、我が名(めい)を呼ばれたのでもなければ、聞(きき)馴(な)れた声で、貴(あな)郎(た)、と言われた次第でもない。
とは言え、呼んだのは確(たしか)に婦(おんな)で……しかも目のぱっちりした――
﹁待て、待て、﹂
当人寝(ね)惚(ぼ)けている癖に、他(ひと)の目(めつ)色(き)の穿(せん)鑿(さく)どころか。けれども、その……ぱっちりと瞳の清(すず)しい、色の白い、髪の濃い、で、何に結ったか前髪のふっくりとある、俯(うつ)向(む)き加減の、就(なか)中(んずく)、歴(あり)然(あり)と目に残るのは、すっと鼻筋の通った……
ここまで来ると、この家(や)の細君の顔ではない。それはもっと愛(あい)嬌(きょう)があって、これはそれよりも品が優る。
勿論、女中などに似ようはないと、夢か、現(うつつ)か、朦(もう)朧(ろう)と認めた顔の容(かたち)が、どうやらこう、目(めさ)前(き)に、やっぱりその俯(うつ)向(む)き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。
それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女(にょ)性(しょう)が、
﹁開けて下さい。﹂
と言ったのに応じて、唯今、と直ぐに答えたのであるが、扉(ひらき)の事だろう? その外廊下に、何の沙(さ)汰(た)も聞えないは、待て、そこではなさそう。
﹁他(ほか)に開ける処と言っては、窓だが、﹂
さてはまさしく魘(うな)された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗(のぞ)込(きこ)んで、窓を開けて、と言う婦(おんな)はあるまい。
いや、無いとも限らん――有れば急病人の許(とこ)から駈(かけ)着(つ)けて、門を敲(たた)いても、内で寝入込んで、車夫をはじめ、玄関でも起さない処から、等(なお)閑(ざり)な田舎の構(かまえ)、どこか垣の隙間から自由に入って来て、直ぐに脊(せい)伸(のび)で覗(のぞ)いた奴(やつ)。
かとも思ったが、どちらを視(なが)めても、何も居(お)らず、どこに窓らしい薄明りも射(さ)さなければ、一間開放した筈(はず)の、帷(カアテン)の戦(そよ)ぎも見えぬ。
カタリとも言わず……あまつさえ西洋室(ま)の、ひしとあり、寂(しん)として、芬(ぷん)と、脳(ここ)へ染(く)る、強い、湿っぽい、重くるしい薬の匂(におい)が、形ある箔(はく)のように颯(さっ)と来て、時にヒイヤリと寝台を包む。
渠(かれ)は、今更ながら、しとど冷汗になったのを知った。
窓を開けたままで寝ると、夜気に襲われ、胸苦しいは間々ある習(ならい)で。どうかすると、青い顔が幾つも重(かさな)って、隙間から差(さし)覗(のぞ)いて、ベソを掻(か)いたり、ニタニタと笑ったり、キキと鳴声を立てたり、その中には鼠も居る。――希代なのは、その隙(すき)間(まな)形(り)に、怪しい顔が、細くもなれば、長くもなり、菱(ひし)形(がた)にも円くもなる。夕顔に目鼻が着いたり、摺(すり)木(こぎ)に足が生えたり、破(やぶれ)障子が口を開けたり、時ならぬ月が出(い)でなどするが、例えば雪の一(ひと)片(ひら)ごとに不思議の形があるようなもので、いずれも睡眠に世を隔つ、夜の形の断(かけ)片(ら)らしい。
すると、今見た女の顔は……何に憑(つ)いて露(あらわ)れたろう。
﹁何だか美しかった。﹂
と思出して、今度は悚(ぞ)然(っ)とした。
﹁そして、奥さんだ?……奥さんとはどこの奥さんだ。﹂
確(たしか)に此(こ)家(こ)の細君の顔ではない、あれでなし、それでもなし、目がぱっちりして、色が白く、前髪がふっくりと、鼻筋通り……
と胸の裡(うち)で繰返して、その目と、髪と、色(いろ)艶(つや)と、一つ一つ絡(まと)まり掛けると……覚(おぼえ)がある!
トンと寝(ねだ)台(い)に音を立てて、小松原は真(まっ)暗(くら)な中に、むっくと起きた。
﹁馬鹿な。﹂
と思わず呟(つぶや)いた。
﹁何、そんな奴(やつ)があるものか。﹂
いや、いや、もしその人だとすれば――三年以前に別れてから、片時も想わずにはおらぬ、寝た間も忘れはしないのであるから、幻も、その俤(おもかげ)は当(あた)然(りまえ)で、かえって不(いぶ)審(かし)くも凄(すご)くもない筈(はず)。
﹁開けて下さい、﹂
と云った……それそれ、扉(ひらき)を開けるつもりで、目を覚(さま)したに違いはない。
且つ現(うつつ)から我に返った、咄(とっ)嗟(さ)には、内の細君で……返事をしたが、かくの通り、続いてちっとも音沙汰のないのを思え。対(さ)手(き)は何でも、小松原自分の目には、皆(みんな)胸にある、その人の俤(おもかげ)に見えるのかも知れぬ。
﹁どこを、何を開けて、と云ったんだろう。﹂
一体――と渠はまた熟(じっ)と考えた。
既に夢だと承知しながら、なお何か現在に、事を連絡させようとしている内が、その実、現(うつつ)だったものらしいが。
窓は開いているし、扉(ひらき)の外は音(おと)信(ずれ)は絶えたり、外に開けるものは、卓(テエ)子(ブル)の抽(ひき)斗(だし)か、水差の蓋(ふた)……
いや、有るぞ、有るぞ、棚の上に瓶がある。瓶も……四つ五つ並んでいたろう。内の医(せん)師(せい)が手にかけたという、嬰(あか)児(んぼ)の酒(アル)精(コオル)に浸(つ)けたのが、茶色に紫がかって、黄色い膚(はだ)に褐(かば)斑(まだら)の汚(し)点(み)が着いて、ぐたりとなって、狗(いぬ)の児(こ)か鼠の児かちょいとは分らぬ、天(あた)窓(ま)のひしゃげた、鼻と口と一所に突き出た不(ぶざ)状(ま)なのが、前のめりにぶくりと浮いて、膝を抱いて、呀(や)! と一つ声を掛けると、でんぐりかえしを打ちそうな、彼これ大小もあったけれども、どれが七(なな)月(つき)児(ご)か、六(むつ)月(き)児(ご)か、昼間見た時、医(せん)師(せい)の説明をよくは心にも留めて聞かなかったが、海(なま)鼠(こ)のような、またその岩のふやけたような、厭(いや)な膚(はだ)合(あい)、ぷつりと切った胞(え)衣(な)のあとの大きな疣(いぼ)に似たのさえ、今見るごとく目に残る、しかも三(みッ)個(つ)。
と考え出すと、南(なむ)無(さん)三(ぽ)宝(う)、も一つの瓶には蝮(まむし)が居たぞ、ぐるぐると蜷(とぐ)局(ろ)を巻いた、胴腹が白くよじれて、ぶるッと力を入れたような横筋の青(あお)隈(ぐま)が凹(くぼ)んで、逆(さか)鱗(うろこ)の立ったるが、瓶の口へ、ト達(とど)く処に、鎌首を擡(もた)げた一件、封じ目を突出る勢(いきおい)。
﹁一口どうかね。﹂
と串(じょ)戯(うだん)に瓶の底を傾けて、一つ医(せん)師(せい)が振った時、底の沈(よど)澱(み)がむらむらと立って、煙(けむ)のように蛇身を捲(ま)いたわ。
場所が場所で、扱う人が扱う人だけ、その時は今思うほどでもなかったが、さてこう枕(まく)許(らもと)にずらりと並べて、穏かな夢の結ばれそうな連中は、御一方もお在(いで)なさらぬ。
ああ、悪い処へ寝たぞ。
中にも件(くだん)の長(なが)物(もの)などは、かかる夜(よふ)更(け)に、ともすると、人の眠(ねむり)を驚かして、
﹁開けて下さい。﹂
を遣(や)りかねまい、と独りで拵(こしら)えて、独りで苦笑した。
寝(ねざ)覚(め)の思いの取留め無さも、酒(アル)精(コオ)浸(ルづけ)の蝮(まむし)が、瓶の口をば開けて給(た)べ、と夢枕に立った、とまでになる、と結句可(おか)笑(し)く、幻に見た婦(おんな)の顔が、寝た間も忘れぬその人を、いつもの通り現(うつつ)に見た、と合点が行(ゆ)くと、いずれ一まず安心が出来たので、そのまま仰(あお)向(む)けに、どたりと寝た。
急に起上ったのであるけれども、さまで慌(あわただ)しくもなかったらしく、枕は思った処にちゃんとある。ここで、枕の位置が極(き)まると、寝(ねだ)台(い)の向(むき)も、室(ま)の工(ぐあ)合(い)も、方角も定まったので、どの道暗がりの中を、盲(めく)目(らの)覗(ぞ)きではあるが、扉(ひらき)、窓、卓(テエ)子(ブル)、戸棚の在(あり)所(どころ)などがしっかり知れる。
上に、その六月目、七月目の腹(はら)籠(ごもり)、蝮が据置かれた硝(がら)子(す)戸棚は、蒼(あお)筋(すじ)の勝ったのと、赤い線の多いのと、二枚解(かい)剖(ぼう)の図を提げて、隙間一面、晃(きら)々(きら)と医療器械の入れてあるのがちょうど掻(かい)巻(まき)の裾(すそ)の所、二間の壁に押(おッ)着(つ)けて、直ぐ扉(ひらき)の横手に当る。そこには明(あかり)取りも何にもないから、仄(ほのか)な星(ほし)明(あかり)も辿(たど)れないが、昼の見(みお)覚(ぼえ)は違うまい。同じ戸棚が左右に二(ふた)個(つ)、別に真(まん)中(なか)にずっと高いのを挟んで、それには真(まっ)白(しろ)な切(きれ)が懸(かか)っていた、と寝乱れた浴衣の、胸越に伺う……と白い。茫(ぼう)と天井から一(ひと)幅(はば)落ちたが、四(あた)辺(り)が暗くて、その何にも分らぬ……両方の棚に、ひしひしと並べた明晃(こう)々(こう)たる器械のありとも見えず、寂(しん)となって隠れた処は、雪に埋もれた関らしく、霜夜の刑(しお)場(きば)とも思われる。
旅行の袂(たもと)に携えた、誰かの句集の中にでもありそうなのを、偶(ふ)然(と)目に浮べたは可(よ)かったが、たちまち、小松原は胸を打った。
本尊! 本尊! 夢を驚かした本尊は、やあやあその中に鎮座まします――しかも婦(おんな)の骸(がい)骨(こつ)で、その真(まっ)白(しろ)な蔽(おおい)の中に、襟脚を釣るようにして、ぶら下げた、足をすっと垂れて、がっくりと俯(うつ)向(む)いたのが、腰、肩、蒼(あお)白(じろ)く繋(つな)がって、こればかり冷たそうに、夕陽を受けた庭の紫(あじ)陽(さ)花(い)の影を浴びて、怪しい色を染めたのを見た。
もうこの上には、仇(あだ)、情(なさけ)、貴(あな)下(た)、私も無さそうな形ながら、婦(おんな)というだけ、骨の細りと、胸の辺(あたり)も慎ましやかに、頤(おとがい)を掻(かい)込(こ)んだ姿を、仔(しさ)細(い)らしく視(なが)めたが、さして心した、というでもなかったに、余程目に染みたものらしく、晩飯の折から、どうかした拍子だった、一(ひと)風(かぜ)颯(さっ)と――田舎はこれが馳(ちそ)走(う)という、青田の風が簾(すだれ)を吹いて、水の薫(かおり)が芬(ぷん)とした時、――膳(ぜん)の上の冷(ひや)奴(や)豆(っ)腐(こ)の鉢の中へ、その骨のどの辺(あたり)かが、薄(うっす)りと浮いて出た。
それから前(さき)は、……寝しなに細君が串(じょ)戯(うだん)に、
﹁夜中に出掛けますかも知れません、婦(おんな)だって言いますから。﹂
と笑ったが、話が陽気で、別に気にもならずに寝た。処を、今のその婦(おんな)が来て……
﹁ほい、蝮(まむし)より、この方が開けてくれに縁がある。﹂
いや、南(なむ)無(あ)阿(み)弥(だ)陀(ぶ)仏(つ)、縁なんぞないのが可(い)い、と枕を横に目を外(そ)らすと、この切(きれ)がまた白い。襟(えり)許(もと)の浴衣が白い。同(おな)一(じ)色なのが、何となく、戸棚の蔽(おおい)に、ふわりと中だるみがしつつも続いて、峠の雪(ゆき)路(みち)のように、天井裏まで見上げさせる。
小松原はまた肩のあたりに、冷い汗を垂(たら)々(たら)と流したが、大分夜も更けた様子で、冷(ひや)々(ひや)と、声もない、音もせぬ風が、そよりと来ては咽(の)喉(ど)を掠(かす)める。
ごほんと、乾(から)咳(ぜき)を咳(せ)いて、掻(かい)巻(まき)の襟を引(ひっ)張(ぱ)ると、暗がりの中に、その袖が一(ひと)波(なみ)打って煽(あお)るに連れて、白い蔽(おおい)に、襞(ひ)が入って、何だか、呼(い)吸(き)をするように、ぶるぶると動き出す。
目を塞(ふさ)いでも、こんな時は詮(せん)がないから、一層また起直って、確(しか)と、その実は蔽が見えるのでもなく、勿論揺れるのでもない、臆(おく)病(びょ)眼(うまなこ)が震えるのを、見定めようと思ったが、頭が重いのに、瞼(まぶた)がだるく、耳が鳴る。手足もぐったりで、その元気が出ぬ。
ままよ、寝っちまえ! ぐッと引(ひっ)被(かぶ)ると、開いたのか、塞いだのか、分別が着かぬほど、見えるものはやっぱり見えて、おまけに、その白いものが、段々拡がって、前へ出て、押(おっ)立(た)って、まざまざと屏(びょ)風(うぶ)を立てたように寄って来る。
さあ、その、ふわふわと縦に動く白いものが、次第低(びく)に、耐(たわ)力(い)なく根を抜いて、すっと掻(かい)巻(まき)の上へ倒れたらしい心地がすると、ひしひしと重(おも)量(み)が掛(かか)って、うむ、と圧(お)された同然に、息苦しくなったので、急いで、刎(はね)退(の)けに懸(かか)ると、胸に抱合わせている手が直ぐに解けず、緊(しめ)着(つ)けられているような。
腕を引っこ抜く勢(いきおい)で、いて、掻巻をぱっと剥(は)ぐ、と戸棚の蔽(おおい)は、旧(もと)の処にぼうと下(さが)って、何事も別条はない。が、風がまたどこからか吹いて来て、湿っぽい、蒼(あお)臭(くさ)い、汗(い)蒸(き)れた匂(におい)が、薬の香に交って、むらむらとそこらへ泳ぎ出す。
疲れ切った脳の中に、その臭気ばかりが一つ一つ別々に描かれて、ああ、湿っぽいのは腹(はら)籠(ごも)りで、蒼臭いのは蝮(まむし)の骸(むくろ)、汗蒸れたのは自分であろう。
そのにおいを見附けたそうに、投出している我が手をはじめ、きょろきょろとす内に、何となくほんのりと、誰だか、婦(おんな)の、冷い黒髪の香がしはじめる。
香のする方を、熟(じっ)と見ると、ただやっぱり白い……が、思いなしか、その中に、どうやら薄墨で影がさして、乱しもやらず、ふっくり鬢(びん)が纏(まとま)って、濃い前髪の形らしく見(みわ)分(け)がつく、と下から捲(まき)上がるごとく、白い切(きれ)が、くるくると小さくなり、左右から、きりりと緊(しま)って、細くなって、その前髪を富士形に分けるほど、鼻筋がすっと通る。
﹁奥さん!﹂
と思わず言って、小松原はまた目を覚した。
トもまだ心着かないで、
﹁今、開けます。﹂
と言って、愕(がく)然(ぜん)として我に返った。
﹁また、夢か。﹂
今度は目が覚めつつも、まだ、その俤(おもかげ)が室(ま)の中(うち)に朦(もう)朧(ろう)として残ったが、吻(ほ)と吐(つ)く呼(い)吸(き)にでも吹(ふき)遣(や)られるように、棚の隅へ、すっと引いて、はっと留まって、衝(つ)と失(な)くなる。
後がたちまち真(まっ)暗(くら)になるのが、白の一(ひと)重(え)芥(げ)子(し)がぱらりと散って、一(ひと)片(ひら)葉の上に留(とま)りながら、ほろほろと落ちる風情。
﹁こりゃ、どうかしているな。﹂
現(うつつ)と幻との見(みさ)境(かい)さえ附きかねた。その上、寒気はする、頭(かしら)は重し、いや、耐(たま)らぬほど体が怠(だる)い。夜が明けたら、主人の一診を煩わそうまでは心着いたが、先(さっ)刻(き)より、今は起直る力がない。
特に我慢のならぬのは、呼(いき)吸(ぐ)苦(る)しいので、はあはあ耳に響いて、気の怯(ひ)けるほど心臓の鼓動が烈(はげ)しくなった。
手を伸ばすか、どうにかすれば、水差に水はある筈(はず)、と思いながら、枕を乗出すさえ億(おっ)劫(くう)で、我ながら随(ま)意(ま)にならぬ。
ちょうど、この折だったが、びしょびしょ、と水の滴るような音がし出した。遠くで蚊の鳴くのかとも聞えるし、鼠が溢(こぼ)したかとも疑われて、渇いた時でも飲みたいと思うような、快い水の音(おと)信(ずれ)ではない。
陰気な、鈍い、濁った――厭(あき)果(は)てた五月雨の、宵の内に星が見えて、寝覚にまた糠(ぬか)雨(あめ)の、その点(した)滴(たり)が黴(か)びた畳に浸(しみ)込(こ)む時の――心細い、陰気でうんざりとなる気(けは)勢(い)である。
﹁水差が漏るのかな……﹂
亀(ひ)裂(び)でも入(い)っていたろう。
﹁洋(ラン)燈(プ)から滲(しみ)出(だ)すのか……﹂
可(い)厭(や)な音だ。がそれにしては、石油の臭(におい)がするでもなし……こう精神が濛(もう)としては、ものの香は分るまい。
断(あき)念(ら)めるつもりにしたけれども、その癖やっぱり、頻(しき)りに臭う。湿っぽい、蒼(あお)くさい、汗(い)蒸(き)れたのが跳(はね)廻(まわ)る。
﹁ソレまた……﹂
気にすると、直ぐに、得ならず、時めく、黒髪の薫(かおり)が颯(さっ)と来た。
﹁また夢か。﹂
いつまで続く、ともうげんなりして、思(かん)慮(がえ)が、ドドドと地(じ)の底へ滅(め)入(い)り込む、と今度は、戸棚の蔽(おおい)が纏(まとま)って、白い顔にはならない替りに、窓の外か、それとも内か、扉(ひらき)の方角ではなしに、何だか一つ、変な物音……沈んだ跫(あし)音(おと)。
その音は――今しがた聞え出した、何かを漏れて、雫(しずく)の落ちる不快な響(ひびき)が、次第に量を増して、それの大きくなったもののようでもあるし、新たに横合から加わったもののようでもある。
何しろ、同(おな)一(じ)方角に違いない。……開けて寝た窓から掛けて、洋(ラン)燈(プ)がそこで消えた卓(テエ)子(ブル)の脚を伝(つたわ)って床に浸出す見当で、段々判(はっ)然(きり)して、ほたりと、耳(みみ)許(もと)で響くかとするとまた幽(かすか)になる。幽になって外(おもて)の木(こ)の葉を、夜露が伝うように遠ざかる。――が、絶えたり続いたりと云うよりは、出つ入(い)りつ、見えつ隠れつするかに聞えて、浸(にじ)出(みだ)すか、零(こぼ)れるか、水か、油か、濡れたものが身繕いをするらしい。
しばらく経(た)つと、重さに半ば枕に埋(うず)んで、がっくりとした我が頭(かみ)髪(のけ)が、その※(しぶき)﹇#﹁さんずい+散﹂、U+6F75、282-16﹈……ともつかぬ水分を受けるにや、じとりと濡れて、粘(ねん)々(ばり)とするように思われた。もう、手で払う元気が無いので、ぶるぶると振ると、これは! 男の天(あた)窓(ま)にあるべくもないが、カランと、櫛(くし)の落ちた音……
例のほたほた零れる水と、やがてまた縁が離れて、直ぐに新(あたらし)い音がはじまり、寝(ねだ)台(い)の脚から掻(かい)巻(まき)の裾(すそ)へかけて、こう、一つ持上げては、踏落す……それも、爪(つま)先(さき)で擦(こす)るでなしに、宙を伝う裙(すそ)から出て、踵(かかと)が摺(す)れ摺れに床へ触るらしく、小(こま)股(た)に歩(あ)行(る)くほどの間(あわい)を措(お)いて、しと、しと、しと。
まさかこれぎりに殺されもしまい、と小松原は投(なげ)に出て、身動きもしないでいれば、次第に寝台の周(まわ)囲(り)を廻って、ぐるりと一周りして枕(まく)許(らもと)を通る、と思うと、ぐらぐらと頭を取って仰(あお)向(む)けに引落される――はっとすると、もう横手へ退(の)く。
その内に、窓下の点(した)滴(たり)が、ますます床へ浸(しみ)出(だ)すそうで、初手は、件(くだん)の跫(あし)音(おと)とは、彼これ間(あわい)を隔てたのが、いつの間にか、一所になって、一(ひと)条(すじ)濡れた路が繋(つなが)ったらしくなると、歩(あ)行(る)く方が、びしょびしょ陰気に、湿っぽくなって来た。
これでは目が覚めて見ると、血の足跡が、飛(とび)々(とび)に残っていようも知れぬ。
飛々どころか、何として、一面の血か、水であろう、と思われたのは、間も無くであった。
しとしという尋常らしい跫(あし)音(おと)が、今はびちゃびちゃと聞えて来た。水なら踵(かかと)まで浴(かか)ろう深さ、そうして小(こき)刻(ざみ)に疾(はや)くなったが、水(みず)田(た)へ蹈(ふみ)込(こ)んで渡るのを畔(あぜ)から聞く位の響き。
と卓(テエ)子(ブル)の上で、ざざっと鳴出す。窓から、どんどと流込む。――さてもさても夥(おび)多(ただ)しい水らしいが、滝の勢(いきおい)もなく、瀬の力があるでもない。落ちても逆(さか)捲(ま)かず、走っても迸(ほとばし)らぬ。たとえば用水が畔へ開き、田が一面の湖となる、雨(あま)上(あが)りの広(ひろ)田(たん)圃(ぼ)を見るような、鮒(ふな)と鰌(どじょう)の洪水めいたが、そのじめじめとして、陰気な、湿っぽい、ぬるぬるした、不気味さは、大(おお)河(かわ)の出(でみ)水(ず)の凄(すご)いに増(まさ)る。
そんな水がどこへ出た、と言われたら、この部屋一面、と答えようと思いながら、小松原は但し身動きも出来ないのである。
やがて短(みじ)夜(かよ)が……嬉しや、もう明けそうに、窓から白濁りの色が注(さ)して、どんよりと光って、卓(テエ)子(ブル)の上へ飜った、と見ると、跫(あし)音(おと)が、激しくなって、ばたばたばた、とそこいらを駈(か)けたが、風か、水か、ざっと鳴る時、婦(おんな)の悲鳴が、
﹁あッ﹂
と云う……
﹁奥さん。﹂
と刎(はね)起(お)きる、と、起きた正面に、白い姿が、髴(ふつ)とある!
﹁ああ、夢か。﹂
と気が着いたが、まざまざ垂れたその切(きれ)が、ふっくりした乳にも見えるし、すっとした手にも見える。その辺(あたり)が、と思うと、円い肩になり、なぞえに白く胸になって、くびって腰になって、すらりと裾のようになる。
あの、雪に、糸一(ひと)条(すじ)も懸(かか)らぬか、と疑えば、非ず、ひたひたと身に着いた霞のような衣(きぬ)をぞ絡(まと)う。
と見ると、乳(ち)の辺(あたり)、胸へ掛けて、無(むざ)慚(ん)や、颯(さっ)と赤くなって、垂(たら)々(たら)と血に染まった。
枕に響いた点(した)滴(たり)の音も、今さらこの胸からか、と悚(ぞ)然(っ)とするまで、その血が、ほたほたと落ちて、汐(しお)が引くばかりに、見る間に、びしゃびしゃと肉が萎(しぼ)む、と手と足に蒼(あお)味(み)が注(さ)して、腰、肩、胸の隅(くま)々(ぐま)に、まだその白い膚(はだ)が消(きえ)々(ぎえ)に、薄(うっす)らと雪を被(かつ)いで残りながら、細々と枝を組んで、肋(あば)骨(らぼね)が透いて見えた。
﹁ああ、これだな。﹂
と合点が行(ゆ)く。
途端に、がたがたと戸棚が鳴った。
自分で正気づいたと、心が確(たしか)になった時だけ、現(うつつ)の婦(おんな)の跫(あし)音(おと)より、このがたがたにもう堪(たま)らず、やにわに寝(ねだ)台(い)からずるずると落ちた。
小松原は暗がりを手探りながら、鋭くなった神経に、先(さっ)刻(き)から電(でん)燈(き)で照らしたほど、室内の見当はよく着けていたので、猶(ため)予(ら)いもせず、ズシンと身(から)体(だ)ごと扉(ひらき)の引手に持って行(ゆ)くと、もとより錠を下ろしたのではない。
ドンと開(あ)く。
扉に身(から)体(だ)が附(くッ)着(つ)いて、発(は)奮(ず)んで出たが、跨(また)いだ足が、そう苦なしには大穴から離りょうとはせぬので、地獄から娑(しゃ)婆(ば)へ踏掛けた体(てい)で、独(ひとり)でいて、どたんばたん、扉の面(おもて)と、や、組んだりける。
この物音に、驚(すわ)破(や)と奥で起直って、早や身(みが)構(まえ)をしたと見える――慌(あわただ)しい耳にも、なおがったりと戸棚の前の怪しげな響(ひびき)がまた聞えたのに、堪(たま)りかねて主(ある)人(じ)を呼ぶと――向うへ、突当りの縁が折曲った処に、ぼうと射(さ)していた灯(あかり)が動いて、直ぐに台附の洋(ラン)燈(プ)を手にした、浴衣の胸のはだかった、扱(しご)帯(き)のずるずるとある医(せん)師(せい)が、右を曲って、正面へ。
開放した障子を洩(も)れて、だらりと裾(すそ)を引いた萌(もえ)黄(ぎ)の蚊帳を横にして、廊下の八分目ぐらいな処で、
﹁便所か。﹂
と云う、髯(ひげ)、口(くち)許(もと)が明(あか)々(あか)として、洋(ラン)燈(プ)を翳(かざ)す。
この明(あかり)で、小松原は水浸しになったほど、汗びっしょりの、我ながら萎(しょ)垂(ぼた)れた、腰の据(すわ)らぬ、へとへとになった形を認めたが、医学士はかつて一年志願兵でもあったから、武備も且つある、こんな時の頼(たの)母(も)しさ。顔を見ると、蘇(よみ)生(がえ)った心地で、
﹁やあ。﹂と掛けた声が勢(いきおい)なく中途で掠(かす)れて、
﹁夜更けに恐縮、﹂
とやっと根こそぎに室(へや)を離れた。……扉(ひらき)を後(うしろ)ざまに突放せば、ここが当館(やかた)の関門、来診者の出入口で、建附に気を注(つ)けてあるそうで、刎(はね)返(かえ)って、ズーンと閉る。
と突出された体(てい)にしょんぼり立って、
﹁どうも、何だ、夜(よる)夜(よな)中(か)、﹂
医(せん)師(せい)は亭主関白といった足取、深更に及んでも、夜中でも、その段は一切頓(とん)着(じゃく)なく、どしどしと廊下を踏んで、やがて対(さし)向(むかい)になる時、傍(かたわら)の玄関の壁越に凄(すさま)じい鼾(いびき)を聞いて、
﹁壮(さかん)だ、壮だ。﹂
と莞(にっ)爾(こり)する。
顔(かお)色(つき)が、ぐっすり寝込んだ処を、今ので呼(よび)覚(さま)されて、眠いに迷惑らしい様子もないので、
﹁どうも気の毒です。酷(ひど)い目に逢ってね。﹂
といささか落着く。
医(せん)師(せい)は立(たち)はだかりつつ、
﹁どうした、蚊(ぶん)軍(ぐん)の襲来かい。﹂
なかなか、こんな事を解釈する余裕はなくって、
﹁ええ、﹂
といかにも気が利かない。
﹁蚊に城を破られたかよ。﹂
﹁そこどころか。﹂
対(あい)手(て)の余り暢(のん)気(き)なのが、この際怨(うら)めしく思われた。
﹁この中は大変だ。﹂
﹁大変だ?﹂
﹁何か来たんだ。﹂
﹁何、入って来たか、﹂
と洋(ラン)燈(プ)を上げて、扉(ひらき)の上を、ぐいと仰ぐ。
﹁がたがた遣(や)ってる。﹂
小松原は、ずうっと医(せん)師(せい)に身を寄せる、と目を返して、今度はその体(てい)をじろじろ視(なが)めて、
﹁震えてるね、君は。﹂
﹁どうだい、心持は。もう爽(さっ)快(ぱり)したろう。﹂
主(ある)人(じ)の医(せん)師(せい)は、奥座敷の蚊帳の中に、胡(あぐ)坐(ら)して、枕(まく)許(らもと)の煙(たば)草(こ)盆を引寄せた。
﹁こういう時は、医(いし)師(ゃ)の友達は頼(たの)母(も)しかろう。ちと処方外の療治だがね、同じ葡(ぶど)萄(うし)酒(ゅ)でも薬局で喇(らっ)叭(ぱ)を極(き)めると、何となく難(あり)有(がた)味(み)が違って、自(おのずか)ら精神が爽(そう)快(かい)になります。しかし怯(おび)えたっけ、ははは。﹂
と髯(ひげ)を捻(ひね)って、冴(さえ)々(ざえ)しい。
蚊がぶうんと唸(うな)って、歯(はぎ)切(しり)もどこかでする。灯(あかり)の暗い、鬱(うっ)陶(とう)しかるべき蚊帳の内も、主(ある)人(じ)がこれであるから、あえて蒸暑くもないのであった。
小松原は、裾(すそ)を細う、横に手枕で気を休めていた。
﹁怯えたどころか、一時はそのままになるかと思った。起きるには起きられず、遁(に)げるには遁げられず、寝返りさえ容易じゃない、実際息が留まりそうだったものね。﹂
咽(の)喉(ど)を斜(ななめ)に手を入れて、痩(や)せた胸を圧(おさ)えながら、
﹁見たまえ、いまだにこの動(どう)悸(き)を、﹂
﹁色は白くっても、野郎の癪(しゃく)を圧(おさ)えたってはじまらない。は、はは、いや、しかし弱い男だ。﹂
﹁ふ、ふ、﹂
と力抜けた声で笑って、
﹁奥さんは?﹂と俯(うつ)向(む)けに額を圧える。
﹁御心配に及びません。君が侵入に及んだために他室へ遠慮したというんじゃない。小(こど)児(も)の奴がまた生意気に、私がちと飲過すと、酒臭い、と云って一つ蚊帳を嫌います。いや、大(おおき)に台所の内(ない)諭(ゆ)なきにしもあらずだろうが。
そこで、先(さっ)刻(き)、君と飲倒れたまま遠島申附かった訳だ。――空(から)鉄(でっ)砲(ぽう)の機(きっ)会(かけ)もなしに、五斗兵衛むっくと起きて、思(おも)入(いいれ)があったがね。それっきり目が冴えて寝られないで、いささか蚊帳の広さかなの感あった処です。
君もちょっとは寝られまい、朝までここで話したまえ。﹂
折から陽気にという積りか、医(せん)師(せい)の言は、大(おおい)に諧(かい)謔(ぎゃく)の調を帯びたが、小松原はただ生(き)真(ま)面(じ)目(め)で、
﹁どうかそうしてくれたまえ。ここを追出されたればといって、二度とあすこへ行って寝る気はしない。どうも驚いた。﹂
﹁はじめから奇を好むからです。あすこへ行って寝るなんざ、どの道好(よ)くない。いずれ病人でなくっては乗っからない寝(ねだ)台(い)だもの。もっとも、私にゃ大切な商売道具だがね。
しかしそれにしてもあんまりな怯(おび)え方だ。夢を見て遁(にげ)出(だ)すなんざ、いやしくも男子たるべきものが……と云って罵(ばと)倒(う)するわけじゃないが、ちとしっかりしないかい。串(じょ)戯(うだん)じゃない、病気になる。
そんなのが嵩(こう)じると、何も餅(もち)屋がって、ここで病名は申さんがね、起きている真(まっ)昼(ぴる)間(ま)でも目に見えるようになる。それ、現在目に見えて、そこに居るから、口も利くだろう、声も懸けようではないか。傍(はた)から見ると、直ぐにもうキの字だぜ、恐るべし、恐るべし。
何も、朦(もう)朧(ろう)と露(あらわ)れたって、歴(あり)々(あり)と映ったって、高が婦(おんな)じゃないか。婦の姿が見えたんだって言うじゃないか。何が、そんなに恐いものか。﹂
﹁別に見えたって訳じゃない。何だか寝台の周(まわ)囲(り)を歩(あ)行(る)いたんだが、そう、どっちにしても婦(おんな)らしく思われた――それがすぐに、息の詰るほど厭(いや)な心(ここ)地(ろもち)だったんではないけれども、こう、じとじとして、湿っぽくッて、陰気で、そこらに鯰(なまず)でも湧(わき)出(だ)しそうな、泥水の中へ引(ひき)摺(ずり)込(こ)まれそうな気がしたんで、骨まで浸(しみ)透(とお)るほど慄(ぞ)然(く)々(ぞ)々(く)するんだ。﹂
と肩を細うして、背(せな)で呼(い)吸(き)をする。
﹁男らしくもない、そんな事を言って梅(つゆ)雨(ど)期(き)はどうします、まさか蓑(みの)笠(かさ)を着て坐ってやしまい。﹂
﹁うむ、何、それがただのじとじとなら可(い)いけれど、今云う泥水の一件だ、轟(ごう)と来た洪水か何かで、一(ひと)思(おもい)に流されるならまだしもです――灯(あかり)の消えた、あの診察処(じょ)のような真(まっ)暗(くら)な夜、降るともつかず、降らないでもない、糠(ぬか)雨(あめ)の中に、ぐしゃりと水のついた畔(あぜ)道(みち)に打(ぶっ)坐(すわ)って、足の裏を水(みず)田(た)のじょろじょろ流(ながれ)に擽(くす)ぐられて、裙(すそ)からじめじめ濡通って、それで動くことも出来ないような思いを一度して見たまえ。﹂
と力強く云って、また小松原は溜(ため)息(いき)で居る。
医(せん)師(せい)は徐(おもむろ)に、煙草盆を引寄せて、
﹁それ、そこが苦労性だと言うのです。窓を開けたまんまで寝たから、夜風が入って湿っぽかったらただ湿っぽかったで可(よ)かろう。何も真(まっ)暗(くら)な夜、田(たん)圃(ぼ)の中に、ぐしゃりと坐って、足の裏を擽(くすぐ)られて、腰から冷(ひえ)通(とお)るとまで、こじつけずともの事だ。その気でお膳(ぜん)に向った日にゃ、お汁(つけ)の湯気が濛(もう)々(もう)と立(たち)騰(のぼ)ると、これが毒のある霧になる、そこで咽(むせ)死(じに)に死にかねませんな。﹂
﹁そう一概に言ってくれる事はない。どうせ現在お目に懸けた臆(おく)病(びょう)です。それを弁解するんじゃないが、田圃だの、水浸しだの、と誇大に妄(もう)想(ぞう)した訳ではありません。
実際、そんな目に逢って、一生忘れられん思(おもい)をした事があるからだよ。いや、考えても身の毛が弥(よ)立(だ)つ。﹂
フイと起返って、蚊帳の中をしたが、妙に、この男にばかり麻目が蒼(あお)い。
医(せん)師(せい)は落着いて、煙を吹かして、
﹁どこで野宿をした時だ、今度の旅でか。﹂
﹁ううむ。﹂
と深く頭(かぶり)を振って、
﹁いつかの時さ、あの一件の……﹂
と言懸けて、頬のこけた横顔になって打(うち)背(そむ)いた。――小松原の肩のあたりから片(かた)面(おも)の耳(みみ)朶(たぶ)かけて、天井の暗さが倒(さかさま)に襲ったのを、熟(じっ)と見ながら、これがある婦人と心中しようとした男だと頷(うなず)いた。
当時その風説は、友達の間に誰も知らぬものはなかったが、医学士は、折から処を隔てていたので、その場合何事にも携わらなんだ。もう三年か四年かと、指を折るほど前(さき)に、七十五日も通越したから、更(あらた)めて思出すほどでもなし、おいそれと言(ことば)に従(つ)いて、極(きま)りの悪い思(おもい)をさせるでもなかろう。で、一向無(むと)頓(んじ)着(ゃく)に、
﹁何だい、いつかの一件とは?﹂
﹁面目次第も無い件(こと)さ。三年前(ぜん)だ、やっぱりこの土地で、鉄道往生をし損(そく)なった、その時なんです。﹂
﹁ああ、そんな事があったってな、危いじゃないか。﹂
と云う内に自(おのず)から真心が籠(こも)って、
﹁一思いに好男子、粉にする処だっけ。勿論、私がこうして御近所に陣取っていれば、胴(どう)切(ぎり)にされたって承(うけ)合(あい)助かる。洒(しゃ)落(れ)にちょいと轢(ひ)かれてみるなんぞも異(おつ)だがね、一人の時は危険だよ。﹂
わざと話に、一人なる語(ことば)を交えて、小松原が慚(ざん)愧(き)の念を打消そうとするつもりだった。
ところが案外! この情(なさけ)に、太(いた)く動かされた色が見えたが、面(おもて)を正しゅう向直った。
﹁何とも――感謝する。古(ふる)疵(きず)の悩(なやみ)を覚えさせまい、とそうやって知らん顔をしてくれるのは真(まこと)に嬉しい、難(あり)有(がた)いが……それでは怨(うらみ)だ。
ねえ。
あれほどの騒ぎだもの。ことに自(うぬ)惚(ぼれ)らしいが、私の事を忘れないでいてくれる君が、しかもこの土地へ来ていて、知らないという法はない。承知の上で、何にも知らん振(ふり)をしてくれるのは、やっぱりあの時の事を、世間並に、私が余(よ)処(そ)の夫人を誘って、心中を仕(しそ)損(くな)った、とそう思っているからです。
勝手な事を言うものには、言わしておいて構わんけれども、君のような人に対しては、何とももって恥入るんだ。﹂
と俯(うつ)向(む)いて腕を拱(こまぬ)き、
﹁その君の情(なさけ)ある心で、どうか訳を聞いて欲しい。くどい事は言わん。何しろ、少なくとも君だけには言訳をする責任があると思う。﹂
医(せん)師(せい)は潔く、
﹁承わろう。今更その条(すじ)道(みち)を話して聞かせる……惚(のろ)気(け)なら受賃を出してからにしてもらおうし、愚(ぐ)痴(ち)なら男らしくもない、止(よ)したまえ――だが、私たちが誤解をしているんなら、大(おおい)に弁じて聞かせてくれ、今まで疑っていたから私にも責任がある。﹂
﹁そう、きっぱりとなられては、どうもまた言出しにくい。﹂
﹁可(い)いじゃないか、その容体を聞かせたまえ、医(いし)師(ゃ)には秘密を打(うち)開(あ)けて可(い)いもんだ。﹂
﹁…………﹂
言(いい)淀(よど)んで見えたので、ここへ来い、と構(かまえ)を崩して、透(すき)を見せた頬(ほお)杖(づえ)し、ごろりと横になって、小松原の顔を覗(のぞ)込(きこ)みつつ、
﹁で、何か、その晩、田(たん)圃(ぼ)に坐ったのか。﹂
と軽く扱(あしら)って誘(さそい)を入れた。
﹁まあ、坐ったんだ。﹂
小松原は苦笑して頬を撫(な)でたが、寂しそうに打傾き、
﹁土(ど)下(げ)坐(ざ)をしたというわけでもないが、やっぱり坐っていたんだよ。﹂
﹁またどうしてだい。﹂
と医(せん)師(せい)は寛(くつろ)いだ身の動(こな)作(し)で、掻(かい)巻(まき)の上へ足を投げて、綴(つづ)糸(りいと)を手で引(ひっ)張(ぱ)る。
﹁それがね、﹂
と熟(じっ)と灰吹を見詰めてから、静かに巻(まき)莨(たばこ)を突(つッ)込(こ)みながら、
﹁はじめは何でもない事だった。――何の気なしに、あの人を、そこいらへ散歩に誘ったんです。﹂
﹁あの人ッて?﹂
﹁…………﹂
﹁ははあ、対(あい)手(て)の貴婦人だね。﹂
﹁そんな事を言わないで、﹂
と吸口をもっと突(つッ)込(こ)む。
﹁可(い)いじゃないか、何も貴婦人と云ったって、直ぐに浮気だ、という意味ではないから。﹂
﹁何、貴婦人に違いはないが、その対(あい)手(て)が悪い。﹂
﹁可(よ)し、可し、黙って聞こう。そうまた一々気にしないでお話しなさい。そこで。﹂
﹁御存じの通り、あの前の年から、私は体が悪くって二年越この田舎へ来ていたんだ。あの人は、私が世話になってる叔父が媒(なこ)酌(う)人(ど)で結婚をしたんだろう。大して懇意ではないが見(みし)知(りご)越(し)でいたのだった。
ちょうど戦争のあった年でね。
主人は戦地へ行って留守中。その時分、三(みッ)才(つ)だった健坊と云うのが、梅雨あけ頃から咳(せき)が出て、塩(あん)梅(ばい)が悪いんで、大した容体でもないが、海岸へ転地が可(い)い、場所は、と云って此(こ)地(こ)を、その主治医が指定したというもんです。
小(こど)児(も)の病気とはいいながら、旅館と来ると湯(とう)治(じ)らしく、時節柄人目に立つ。新(あらた)に別荘を一軒借りるのも億(おっ)劫(くう)だし、部屋借(がり)が出ず入らず、しかるべき空(あき)座(ざし)敷(き)があるまいか、と私が此(こっ)地(ち)に居た処から、叔父へ相談があったというので、世話をするように言って来た。
そちこち聞合せると、私が借りていた家から、田(たん)圃(ぼ)の方へ一町ばかり行った処に、村じゃ古店で商(あきない)も大きく遣(や)っている、家主の人柄も可(よ)し、入口が別に附いて、ちょっと式台もあって、座敷が二間、この頃に普請をしたという湯殿も新しいし、畳も入替えたのがある。
直ぐに極(き)めて、そこへ世話をして、東京から来る時も、私が停(ステ)車(エシ)場(ョン)へ迎いに行って、案内をしたんだっけが、七月盆過ぎから来ていて、九月の末の事だったよ。
五日ばかり降続いて、めっきり寂しくなる。朝晩は、単(ひと)衣(え)に羽織を被(き)て、ちとまだぞくぞくして、悪い陽気だとばかり、言合って閉(とじ)籠(こも)っていた処……その日は朝から雨が上(あが)って、昼頃には雲(くも)切(ぎれ)がして、どうやら晴れそうな空模様。でもまだ、蒼(あお)空(ぞら)は見えなかったが、多(しば)日(らく)ぶりで、出(で)歩(あ)行(る)くに傘は要らない。
小(こど)児(も)を歩行かせるには路(みち)が悪いから、見得張らない人だ、またおんぶをして、宿の植込の中から、斜(はす)っかいに私の前二階を覗(のぞ)いて、背中の小児に言わせるように、前髪を横向けにして、
︵お出掛けなさいませんか。︶
と浜を誘いに見えるだろう。
︵小松……君。︶
と原抜きにして、高慢に仇(あど)気(け)なく高声で呼ぶ、小児の声が、もうその辺から聞えそうだ、と思ったが、出て来ない。
その内、湯に入ると、薄(うっす)りと湯(ゆぶ)槽(ね)の縁へ西日がさす。覗(のぞ)くと、空の真(まっ)白(しろ)な底に、高くから蒼空が団(うち)扇(わ)をどけたような顔を見せて、からりと晴れそうに思うと、囲(かこい)の外を、
︵水が出たぞ。︶
︵田圃一面。︶
と饒(しゃ)舌(べ)って通った。
これを聞くと、何か面白い興行でもはじまったような気がして、勇んで、そわそわして、早く行って見たくって、碌(ろく)に手(てぬ)拭(ぐい)も絞らないで、ふらんねるを引(ひっ)かけたなり、帽子も被(かぶ)らずに、下駄を突(つッ)掛(か)けて出たんだがね。﹂――
﹁汎(でみ)水(ず)だ、と云ったって、この通り、川らしい川のない処だから、駈(かけ)出(だ)して見物に行くほどの事もなさそうなもんだけれど、私は何だ。……
董(すみれ)、茅(つば)花(な)の時分から、苗代、青田、豆の花、蜻(とん)蛉(ぼ)、蛍、何でも田圃が好(すき)で、殊に二百十日前後は、稲穂の波に、案(か)山(か)子(し)の船頭。芋(ずい)※(き)﹇#﹁くさかんむり/哽のつくり﹂、U+8384、298-6﹈の靡(なび)く様子から、枝豆の実る処、ちと稗(ひえ)蒔(まき)染みた考えで、深(しん)山(ざん)大(だい)沢(たく)でない処は卑(ひき)怯(ょう)だけれど、鯨(くじら)より小(こぶ)鮒(な)です、白(しら)鷺(さぎ)、鶉(うずら)、鷭(ばん)、鶺(せき)鴒(れい)、皆(みん)な我々と知(ちか)己(づき)のようで、閑古鳥よりは可(なつ)懐(かし)い。
山、海、湖などがもし天然の庭だったら、田圃はその小座敷だろう。が、何しろ好きでね、……そのせいか、私には妙な事がある。
いつ頃からかはよく分らんが、床に入って、可(いい)心持に、すっと足を伸(のば)す、背(せなか)が浮いて、他(たわ)愛(い)なくこう、その華(かし)胥(ょ)の国とか云う、そこへだ――引入れられそうになると、何の樹か知らないが、萌(もえ)黄(ぎい)色(ろ)の葉の茂ったのが、上へかかって、その樺(かば)色(いろ)の根を静(しずか)に洗う。藍(あい)がかった水の流(ながれ)が、緩く畝(うね)って、前(あと)後(さき)の霞んだ処が、枕からかけて、睫(まつげ)の上へ、自分と何かの境(さか)目(いめ)へ露(あらわ)れる。……
トその樹の下に、笊(ざる)か何か手に持って、まあ、膝ぐらいな処まで、その水へ入って、そっと、目高か鮒か、掬(すく)ってる小(こど)児(も)がある。其(そい)奴(つ)が自分で。――ああ、面白そうだと思うと、我ながら、引き入れられて、身(みふ)節(し)がなえて、嬉しくなる。その内に波立ちもしないで、水の色が濃くなって、小(ささ)濁(にご)りに濁ると思うと、ずっと深さが増して、ふうわり草の生えた土手へ溢(あふれ)るんだがね、その土手が、城(しろ)趾(あと)の濠(ほり)の石垣らしくも見えれば、田の畔(あぜ)のようでもあるし、沼か、池の一角のようでもある。その辺は判然しないが、何でも、すっと陽(かげ)炎(ろう)が絡(まつわ)る形に、その水の増す内が、何とも言えない可(い)い心地で、自分の背中か、その小児の脚か、それに連れて雲を踏むらしく糶(せり)上(あが)ると、土手の上で、――ここが可(お)訝(か)しい――足の白い、綺(きれ)麗(い)な褄(つま)をしっとりと、水とすれすれに内(うち)端(わ)に掻(かい)込(こ)んで、一人美人が彳(たたず)む、とそれと自分が並ぶんで……ここまで来るともう恍(うっ)惚(とり)……
すやすや寝ます。
枕に就いて、この見える時は、実際子守唄で賺(す)かされるように寝られる。またまったく心持の可い時でないと見えんから、見えない時でも見るように、見るようにと心掛ける――それでも、散らかって、絡(まと)まらないで、更に目に宿らん事が多い。そういう時は、きっと寝そびれて悩むんだ。
そこで、大好きな田圃の中でも、選(えり)分(わ)けて、あの、ちょろちょろ川が嬉しい。雨(あま)上(あが)りにちっと水が殖(ふ)えて、畔へかかった処が無類で。
取留めのない事だが、我慢して聞きたまえ。――本人にも一向掴(つかま)え処はない。いつも見る景色だけれども、朝だか、晩方だか、薄曇った日(ひな)中(か)だか、それさえ曖(あい)昧(まい)で、ただ見える。
さあ、模様が誂(あつ)向(らえむ)きとなったろう――ところで、一番近い田圃へ出るには、是非、あの人が借りていた、その商(あき)家(んどや)の前を通るんだったよ。
店をはずれて、ひょろひょろとした柳で仕切った、その門(かど)を見ると、小(こど)児(も)が遊んでいたらしく、めんこが四五枚、散(ばら)に靴脱ぎのたたきの上へ散(ちらか)って、喇(らっ)叭(ぱ)が一ツ、式台に横飛び。……で、投出して駈(かけ)出(だ)したか、格子戸が開(あけ)放(っぱな)し、框(かまち)の障子も半分開いて、奥の長火鉢の端が見えた。
その格子戸の潜(くぐり)の上へ手を掛けて、
︵健ちゃん、︶
と呼んでみたが、黙っていた。
︵居ないの。お留守、︶
と遣(や)ると、……そこもやっぱり開いたままの、障子の陰の、湯殿へ通う向うの廊下へ、しとしとと跫(あし)音(おと)がして、でも、黙(だん)然(まり)で、ちょいと顔だけ見せて覗(のぞ)いたが、直ぐに莞(にっ)爾(こり)して、縁側を奥座敷へ上(あが)った姿は……
帯なし、掻(かい)取(ど)り気味に褄(つま)を合せて、胸で引抱えた手に、濡(ぬれ)手(てぬ)拭(ぐい)を提げていた。二間を仕切った敷居際に来て、また莞(にっ)爾(こり)すると、……﹂
﹁謹聴、﹂
と医(せん)学(せ)士(い)が唐(だし)突(ぬけ)に云った。
﹁真面目だよ、真面目だよ。﹂
﹁湯上りの、ぱっと白い、派手な、品の可(い)い顔を、ほんのり薄(うす)紅(べに)の注(さ)した美しい耳(みみ)許(もと)の見えるまで、人(ひと)可(なつ)懐(ッこ)く斜めにして、
︵失礼、今ね、お返事の出来ない処だったの……裸体美人、︶
と云って花やかな笑顔になる。いかにも伸(のび)々(のび)と寛(ゆっ)容(たり)して、串(じょ)戯(うだん)の一つも言えそうな、何の隔てもない様子だったが、私は何だか、悪い処へ来合せでもしたように、急(せき)込(こ)んで、
︵田圃へ行って見ませんか、︶
と何のあしらいもなく装(もり)附(つ)けた。
︵は、参りましょう、︶
と頷(うなず)いて、台所の方を振返りながら、
︵ちょいと、御免なさいよ。︶
支度を、と断るまでもなく、平(ふだ)常(ん)着(ぎ)のままで出は出たが、――その時、横向きになって、壁に向うと、手を離した。裙(すそ)が落ちて、畳に颯(さっ)と捌(さば)けると、薄色の壁に美しく濡(ぬれ)蔦(づた)が搦(から)んで絵模様、水の垂りそうな濡(ぬれ)毛(げ)を、くっきりと肱(ひじ)で劃(くぎ)って、透通るように櫛(くし)を入れる。ちょうどそこの柱に懸けて、いかがな姿見が一面あった――勿論、東京から御持参の品じゃない。これと、床の間の怪しい山水は、家主のお愛想なんです――あの人がまた旅へ姿見を持って出るような心掛けなら、なに、こんな処で、平気でお化(つく)粧(り)をする事もなかろう。
熟(じっ)と見てもいられますまい。この際、どこへ持って行こうか、と背ける目を掠(かす)めて、月の中を雪が散った……姿見に映った胸で、……膚(はだ)の白い人だっけ。
直ぐにそれは消えたけれど、今のその褄(つま)はずれの色合は、どうやら水際に足を白く、すらりと立った姿に見えたが……
ああ、その晩方、幻のような形で、二人して、水の上に立つようになったんだ。
何に誘われて出たんだか、――とうとうあんな酷(ひど)い目に逢う原(も)因(と)だったがね。別に怪しいものじゃない、自分が時々見る美しい、嬉しい夢、――いや、夢じゃない、我が心に、誘(さそ)出(いだ)されたものかと思う。﹂
小松原は、現(うつつ)のように目をって、今向直って気を入れた、医(せん)師(せい)の顔を瞻(みまも)りながら、
﹁また愚痴だ、と言うだろうが、後で考えれば、私は今までの経験に因ると、いつでも、湯の中でフイと気が立って、何だか頻(しき)りにそわついて、よくも洗わないで飛出した時に限って、余りめでたい事がない。一度も小(こど)児(も)の時だった、やっぱりそういう折に大怪我をしたのを覚えている。
それにね、そんな風で停(ステ)車(エシ)場(ョン)へ迎いに行って、連れて来て、家(うち)も案内する、近所で間に合せの買物まで、一所に歩(あ)行(る)いて、台所の俎(まないた)、摺(あた)鉢(りばち)の恰(かっ)好(こう)まで心得てるような関係になっていたから、夏の中(うち)も随分毎日のように連立って海岸へ行ったんで――また小児のために、それが何よりの目的なんでね。
来たてには、手荷物の始末、掃除の手伝いかたがた、馬(べっ)丁(とう)と、小間使と女中と、三人が附いて来たが、煮(にた)炊(き)が間に合うようになると、一度、新世帯のお手料理を御(ごち)馳(そ)走(う)になった切り、その二人は帰った、年上の女中だけ残って。それも戦時の遠慮からです。
一人になったが、女中には大した用があるんじゃない。どうせ旅の事で、何を極(きま)って、きちょうめんにしなければならんというでもなし、一向気取らない女主人で、夜も坊ちゃんを真(まん)中(なか)へ、一ツ蚊帳に寝るほどだから、お茶漬をさらさらで、じゃかじゃかと洗ってしまえば埒(らち)は明く。女中も物珍らしく遊びたいから、手廻しよく、留守は板戸の開(あけ)閉(たて)一つで往(ゆき)来(き)の出来る、家主の店へ頼んで、一足後(おく)れ馳(ば)せにでも、
︵坊ちゃん︶……か何かで、直ぐに追(おッ)着(つ)く。
だから、いつでも女中が一所で、その健坊と四人連れ立たないのは珍らしい、まあ、ほとんど無かったろう。
浜に人影がなくなって、海(み)松(る)ばかり打上げられる、寂しい秋の晩方なんざ、誰の発議だったか、小児が、あの手(おも)遊(ちゃ)のバケツを振(ぶら)提(さ)げると、近所の八百屋へ交渉して、豌(えん)豆(どう)豆(まめ)を二三合……お三どんが風呂敷で提げたもんです。磯(いそ)へ出ると、砂を穿(ほ)って小さく囲って、そこいらの燃(もえ)料(くさ)で焚(たき)附(つ)ける。バケツへ汐(しお)汲(くみ)という振事があって、一件ものをうでるんだが、波の上へ薄(うっす)りと煙が靡(なび)くと、富士を真(まっ)正(しょ)面(うめん)に、奥方もちっと参る。が、落日に対して真(まこと)に気高い、蓬(ほう)莱(らい)の島にでも居るような心持のする時も、いつも女中が随(つ)いていたのに。﹂
﹁それが、その時に限って二人きりだった。もっともね、
︵健ちゃんは?︶ッて聞いたんだ。
︵そこいらに居ましょう。︶
と藤色の緒の表(おも)附(てつき)の駒(こま)下(げ)駄(た)を、紅(べに)の潮(さ)した爪(つま)先(さき)に引(ひっ)掛(か)けながら、私が退(の)いた後へ手を掛けて、格子から外を覗(のぞ)いた、門(かど)を出てからで可(よ)さそうなものを、やっぱり雨に閉(とじ)籠(こも)った処を、四五日振りの湯上りで晴(せい)々(せい)して、戸(おも)外(て)へ出るのが嬉しくって、気が急(せ)いたものらしかった。
帯もざっとした引(ひっ)掛(かけ)結びで、
︵おや、居ませんか?︶
ッて蓮(はす)葉(は)に出て、直ぐ垣隣りの百姓屋の背戸を覗(のぞ)込(きこ)んで、
︵健ちゃん、健ちゃんや。︶
と呼ぶと、急に、わやわやと四五人小(こど)児(も)の声がして、向うの梅の樹の蔭で、片手に棒(ぼう)千(ちぎ)切(れ)を持って健坊が顔を出した。田(たん)圃(ぼ)へお出(い)で、と云うと、
︵厭(いや)だべい。︶
で突(つッ)掛(かか)るように刎(はね)附(つ)ける、同じ腕白夥(なか)間(ま)に大勢馴(なじ)染(み)が出来たから、新仕込のだんべいか何かで、色も真(まっ)黒(くろ)になった。母(かあ)様(さん)がまたこれを大層喜んでいたもんです。
︵じゃ遊んでるかい。母様は運動に行って来るよ。︶
︵うん、︶
と云うと、わっと吶(と)喊(き)を上げて、垣根の陰へ隠れたが、直ぐにむらむらと出て、鶏(とり)小(ご)屋(や)の前で、健ちゃんは素(すっ)飛(と)ぶ。
︵お庇(かげ)様(さま)で、この頃の悪い陽気にも障らなくなりましたよ。︶
と嬉しそうに見えて、
︵どちらへ?︶と聞く。
︵踏切の方へ行って見ましょう。水が出たそうですから。︶
百姓家二三軒でもう畷(なわて)だが、あすこは一方畑だから、じとじと濡れてるばかり。片(かた)方(っぽ)に田はあっても線路へ掛けて路が高い。ために別に水らしい様子も見えん。踏切を越して土手を畦(あぜ)伝(づた)いに海岸の方へ下りると、なぞえに低くなるから、そこへ行けばちょろちょろ見えよう――もっとも汎(でみ)水(ず)と云うほどの事はどの道ないのだから、畷を帰る百姓も、私たちのぶらぶら歩(ある)行(き)を通越す大八車の連中も、水とも、川とも言うものはなく、がったり通る。
路は悪かった。所々の水(みず)溜(たまり)では、夫(おく)人(さん)の足がちらちら映る。真(まん)中(なか)は泥(ぬか)濘(るみ)が甚(ひど)いので、裙(すそ)の濡れるのは我慢しても、路(みち)傍(ばた)の草を行(ゆ)かねばならない。
停(ステ)車(エシ)場(ョン)は、それあすこだからね。柵の中に積んだ石炭が見える、妙に白(しろ)光(びかり)に光って、夜になると蒼(あお)く燃えそう。またあの町の空を、山へ一面に真黒な、その雲の端が、白く流れ出して、踏切の上を水(みず)田(た)の方へ、むらむらと斑(まだら)に飛ぶ。が海を抱(いだ)いた出崎の隅だけ朗かな青空……でも、何だか、もう一拭(ぬぐ)い拭(ぬぐい)を掛けたいように底が澄まず、ちょうど海の果(はて)と思う処に、あるかなし墨を引いた曇(くもり)が亘(わた)って、驚(す)破(わ)と云うとずんずん押出して、山の雲と一絡(まと)めにまた空を暗(くら)闇(やみ)にしそうに見える。もっともそれなり夜になろうが、それだけに、なお陰気で、星は出そうにもなし、雨になると戸を閉めるから、遠い灯(ともしび)の影も見られなそうな夕暮だった。
︵もう、お天気になりましょうね。︶
︵さあ、︶
とは云ったがどうも請合いかねる。……明(あか)白(らさま)に云うと、この上降続いちゃ、秋風は立って来たし、さぞ厭(あ)き厭きして、もう引上げやしまいか、と何だかそれが寂しかったよ。
風はなかった。稲葉がそよりともせぬ。けれども何となく、ざわついて海の波が響くようなは、溢(あふ)れた水が田へ被(かぶ)るそれらしかった。
踏切を渡ると、鴉(からす)が一羽……その飛んだ事ったら――吃(びっ)驚(くり)したほど、頭の上を矢を射るように、目を遮って、低い雲か、山の端(は)か、暗い処へ消えたっけ……早や秋だったねえ。雨(あま)気(け)が深く包みはしたが、どの峰も姿が薄い。
もう少し隧(トン)道(ネル)の方へ行(ゆ)くと、あすこに、路の真(まん)中(なか)に、縦に掛けたちょっとした橋がある。棒(ぼう)杭(ぐい)のように欄干がついて、――あれを横切って、山の方から浜田へ流れて出る小川を見ると、これはまた案外で、瓦(かわ)色(らいろ)に濁ったのが、どうどうとただ一(ひと)幅(はば)だけれども畝(うねり)を立てて、橋の底へすれすれに凄(すさま)じいほど流れている。いつもは俯(うつ)向(む)いて、底を見るのが、立って、伸上って見送るほど、嵩(かさ)増して、薄(すすき)の葉が瀬を造って、もうこれで充(いっ)満(ぱい)と云うように、川柳が枝を上げて、あぶあぶ遣(や)ってた。﹂
﹁この水が、路(みち)端(ばた)の芋大根の畑を隔てた、線路の下を抜ける処は、物(もの)凄(すご)い渦を巻いて、下田圃へ落ちかかる……線路の上には、ばらばらと人(ひと)立(だち)がして、明(あかる)い雲の下に、海の方へ後(うし)向(ろむき)に、一(ひと)筆(ふで)画(がき)の墨絵で突(つッ)立(た)つ。蓑(みの)を脱いで手に提げて鍬(くわ)を支(つ)いた百姓だの、小(こど)児(も)を負(おぶ)った古女房だの、いかにも水見物をしているらしい。
見ると、堪(たま)らなく嬉しくなった。
︵さあ、こうしておいでなさい。︶
と畦(あぜ)を踏分けて跡をつけては、先へ立って、畠(はたけ)を切れて、夜は虫が鳴く土手を上(あが)ったが、ここらはまだ褄(つま)を取るほどの雫(しずく)じゃなかった。
線路へ出て、ずっと見ると、一面の浜田がどことなく、ゆさゆさ動いて、稲(いな)穂(ぼ)の分れ伏した処は幾ヶ所ともなしに細(せせ)流(らぎ)が蜘(く)蛛(も)手(で)に走る。二三枚空が映って、田の白いのは被(かぶ)ったらしい。松があって雑樹が一(ひと)叢(むら)、一里塚の跡かとも思われるのは、妙に低くなって、沈んで島のように見えた、そこいらも水が溢(あふ)れていよう。
︵もうこれだけかね、︶
甚だ怪(け)しからん次第だったけれども、稲の上を筏(いかだ)ででも漕(こ)いでくれたら、と思って、傍(そば)に居た親(おや)仁(じ)に聞くと、
︵汐(しお)が上(あが)ったら、まっと溢(かか)るべい。︶
と、腕組をして熟(じっ)と視(なが)める。
成程、漁師町を繞(めぐ)ったり、別荘の松原を廻ったり、七(なな)八(や)筋に分れて、また一ツになって海へ灌(そそ)ぐが、そこ行(ゆ)くとこれでも幅が二十間ぐらい、山も賦になれば、船も歌える、この様子では汐が注(さ)そう。
と二人で見ているうち、夕日のなごりが、出崎の端(はな)から※(ぱっ)﹇#﹁火+發﹂、U+243CB、308-10﹈と雲を射たが、親仁の額も赫(かっ)となれば、線路も颯(さっ)と赤く染まる。稲を潜(くぐ)って隠れた水も、一面に俤(おも)立(かげだ)って紫(げ)雲(ん)英(げ)が咲満ちたように明るむ、と心持、天の端を、ちらちら白(しら)帆(ほ)も行(ゆ)きそうだった。
またこれに浮かれ立って、線路を田圃へ下りたんだが、やがて、稲の葉が黒くなって、田が溝(どぶ)染(ぞ)めに暮れかかると、次第に褪(あ)せて行(ゆ)く茜(あか)色(ねいろ)を、さながら剥(は)ぎたての牛の皮を拡げた上を、爪(つま)立(だ)って歩(あ)行(る)くような厭(いや)な心持がするようになっちまった。
ちょうど、田圃道を、八分目ほどで、一本橋がある。それを危(あぶな)っかしく、一度渡って、二度目にまた引返してからだった……もう一(ひと)跨(また)ぎで、漁師町の裏へ上(あが)ろうとする処で、思いがけなく行(ゆ)きついたろうではないか。﹂
﹁ふん、どうしてだい。﹂
と医(せん)師(せい)は枕を抱く。
小松原は一息ついて、
﹁どうして?ッて、見たまえ、いつもは、手(てぬ)拭(ぐい)を当てても堰(せき)留(と)められそうな、田の切(きれ)目(め)が、薬(やげ)研(んな)形(り)に崩込んで、二ツ三ツぐるぐると濁(にご)水(りみず)の渦を巻く。ここでは稲が藻(もく)屑(ず)になって、どうどう流れる。もっとも線路から段々下(さが)りに低いからね。山の裾(すそ)で取囲んだ浜田ありたけの溢(あふ)れ水は、瀬になって落ちて来るんだ。但し大した幅じゃない、一間には足りないんだけれども、深さは、と云う日になると、何とどうです、崩れ口の畦(あぜ)の処に、漁師の子が三人ばかり、素(すっ)裸(ぱだか)で浸っていたろう。
︵どうだ深いか。︶
と一ツ当って見ると、己(おれ)達は裸で泳がい……聞くだけ野暮だ、と突(つッ)懸(かか)り気味に、
︵深え。︶
︵二(ふた)丈(たけ)の上あるぜ。︶
と口を尖(とん)がらかしたも道理こそ。此(この)方(ほう)づれの体(てい)は、と見ると、私が尻(しり)端(ぱし)折(ょり)で、下駄を持った。あの人もまた遣(やり)附(つ)けない褄(つま)を取って、同じく駒下駄をぶら提げて、跣(はだ)足(し)で、びしょびしょと立った所は、煤(すす)払(はき)の台所へ、手(てお)桶(け)が打(ぶっ)覆(かえ)った塩(あん)梅(ばい)だろう。﹂
この時一所に笑い出したが。
﹁ね、小(こど)児(も)だって、本場の苦(くろ)労(う)人(と)が裸で出張ってる処へ、膝までも出さないんだ、馬鹿にするないで、もって、一本参ったもんです。
が、まだ威(おど)かしではないか、と思う未練があった。――処へ、ひょっこりしばらく潜っていたのが、鼻の前(さき)へ、ぶっくり浮いた河(かっ)童(ぱこ)小(ぞ)僧(う)。
おやと思うと、ぶるぶると顔をやって、ふっと一(ひと)条(すじ)仰(あお)向(む)けに水を噴(ふ)いた……深いんです。
どうもこれにゃ逡(たじ)巡(ろ)いで、二人で顔を見合せたんだ。﹂
﹁そこさえ越せば、漁師町を一廻りして帰れるんで、ちょうど可(い)いくらいな散歩のつもりだったんだが、それだもの、どうして、渡るどころの騒ぎじゃない。
さあ、引返すとなると、線路からここまでの難儀さが思出される。難儀だって程度問題、覚悟をしての草(わら)鞋(じが)掛(け)ででもあれば格別、何しろ湯あがりのぶらぶら歩き。
それ、今言った通り跣(はだ)足(し)です。なるだけ水の上の高い処を、と拾って畦(あぜ)を伝えば、雨続きで、がばがば崩れる、路を踏めば泥(ぬか)濘(るみ)で辷(すべ)る、乾いた処ちっともなし。……
︵お危のうございますよ。︶
︵は、大丈夫、︶
と声を掛けて、やっと辿(たど)ったのだった。また厄介なのは、縦横に幾ヶ処ともなく、畦の切目があって、ちょいと薪(まき)を倒したほどの足(あし)掛(かけ)が架(かか)っているが、たださえ落す時分が、今日の出(でみ)水(ず)で、ざあざあ瀬になり、どっと溢(あふ)れる、根を洗って稲の下から湧(わき)立(た)つ勢(いきおい)、飛べる事は飛べるから、先へ飛越えては、おもしろ半分、
︵お手をお取り申しましょうかね。︶
と一畦離れていて云うと、
︵是非、どうぞ。︶
なんて笑いながら、ま、どうにか通ったんだっけ。浅いと思った水(みず)溜(たまり)へ片足踏込んで、私が前(さき)へ下駄を脱いだんで、あの人も、それから跣(はだ)足(し)、湯上りの足は泥だらけで――ああ、気の毒だと思う内に、どこかの流れで、歩(あ)行(る)いてる内に綺麗に落ちる、その位皆(みんな)水です。
で三町ぐらい、また引返さなけりゃならないんでね、それに段々暗くはなる、足(あし)許(もと)も悪かろう、うんざりしたが、自分は、まあ、どうなり、さぞ困った顔をして、と振返る……
とこの時……
薄(うっす)り路へ被(かか)った水を踏んで、その濡(ぬれ)色(いろ)へ真(まっ)白(しろ)に映って、蹴(け)出(だ)し褄(づま)の搦(から)んだのが、私と並んで立った姿――そっくりいつも見る、座敷の額の画(え)に覚えのあるような有様だった――はてな、夢か知らん……と恍(うっ)惚(とり)となった。
ざあざあ、地(じ)の底を吹き荒れる風のような水の音。
我に返って、密(そっ)と顔を見ると、なに大して困ったらしくもなかった。
︵ここは通れません。︶
︵引返しましょう。︶
︵飛んだ御案内をしてお気の毒です。︶
︵いいえ、おもしろうござんすよ。こんな奇(うま)い態(なり)をして。︶
と美しく微(ほほ)笑(え)みながら、
︵いっそ袂(たもと)を担ぎましょうか。︶
この元気だから。どうやら水(みず)嵩(かさ)﹇#ルビの﹁みずかさ﹂は底本では﹁みづかさ﹂﹈も大分増して、橋の中ほどを、蝦(が)蟇(ま)が覗(のぞ)くように水が越すが、両岸の杭(くい)に結えつけてあるだけが便りで、渡ると、ぐらぐらした、が、まあ、あの人も無事に越した。でも、私の帯へ背(うし)後(ろ)から片手をかけて。
それから――前を見ると、こっちが低いせいか、ぐるぐる廻りに畝(うね)って流れる、小川の両方に生(おい)被(かぶ)さった、雑樹のぞうぞう揺れるのが、累(かさな)り累り、所々煽(あお)って、高い所を泥水が走りかかって、田も畑(はた)も山も一(ひと)色(いろ)の、もう四(あた)辺(り)が朦(もう)朧(ろう)として来た、稲なんぞは、手で触るぐらいの処しか、早や見えない。
人は一人も居(お)らず、……今渡った橋は、魚(うお)の腹のように仄(ほの)白(じろ)く水の上へ出ているが、その先の小(こど)児(も)などは、いつの間にか影も消えていた。
︵小松原さん。︶
とあの人が、摺(すり)寄(よ)って、
︵もう一つの路はどうでしょうかしら。︶
と云った、様子には出さんでも、以前の難渋は、同然に困ったらしい。
もう一つと云うのは、小川が分れて松原の裏を行(ゆ)く、その川(かわ)縁(べり)を蘆(あし)の根を伝い伝い、廻りにはなるが、踏切の処へ出る……支流で、川は細いが、汐(しお)はこの方が余計に注(さ)すから、どうかとは思ったものの、見す見す厭な路を繰返すよりは、
︵行って見ましょう。︶
と歩(あ)行(る)き出して、向(むき)を代えて、もう構わず、落(おち)水(みず)の口を二三ヶ所、ざぶざぶ渡って、一段踏んで上(あが)ると、片側が蘆の茂りで。﹂
﹁透かした前(ゆく)途(て)に、蘆の葉に搦(から)んで、一(ひと)条(すじ)白い物がすっと懸(かか)った。――穂か、いやいや、変に仇(あだ)光(びか)りのする様子が水らしい、水だと無駄です。
︵ここにいらっしゃい。︶
と無駄足をさせまいため、立たせておいて、暗くならん内早くと急ぐ、跳(はね)越(こ)え、跳越え、倒れかかる蘆(あし)を薙(なぎ)立(た)てて、近づくに従うて、一面の水だと知れて、落(がっ)胆(かり)した。線路から眺めて水(みず)浸(びたし)の田は、ここだろう。……
が、蘆の丈でも計られる、さまで深くはない、それに汐(しお)が上げているんだから流れはせん。薄い水(みず)溜(たまり)だ、と試みに遣(や)ってみると、ほんの踵(かかと)まで、で、下は草です。結句、泥(ぬか)濘(るみ)を辷(すべ)るより楽だ。占めた、と引返しながら見ると、小高いからずっと見渡される、いや夥(おびただ)しい、畦(あぜ)が十文字に組違った処は残らず瀬になって水音を立てていた。
早や暗くなって、この田(たん)圃(ぼ)にただ一人の筈(はず)の、あの人の影が見えない。
浜で手(てな)鍋(べ)の時なんかは、調子に乗って、
︵お房さん。︶
と呼んだりしたが、もう真(しん)になって、
︵夫(おく)人(さん)!︶
と慌てて呼んだ。
︵はーい。︶と云う、厭(いや)に寂しい。
声を便りに駈(かけ)戻(もど)って、蘆がくれなのを勇んで誘い、
︵大丈夫行かれます。早くしましょう、暗くなりますから。︶
誰も落着いてはいないのを、汝(うぬ)が周(あ)章(わ)てて捲(まく)立(した)てて、それから、水にかかると、あの人が、また渡るのか、とも言わないで、踏込んでくれたんだ。
路もどうやら広いから、なお力になる。押並んで急いだがね。浅くて一面だから、見た処は沼の真(まん)中(なか)へ立った姿で、何だか幻の中を行(ゆ)く、天の川でも渡るようで、その時ふとまた美(うつくし)い色が、薄濁った水に映った――﹂
小松原は歯を噛(か)んで言渋ったが、
︵先(さ)方(き)でも、手を出した……それを曳(ひ)こうと思った時……
私はぎょっとした。
つい目の前を、足に絡(から)んだ水よりは色の濃い、重っくるしい底(そこ)力(ぢから)のあるのが、一筋、褐(かば)色(いろ)の鱗(うろこ)を立ててのたっているのが、向う岸の松原で、くっきりと際立って、橋の形が顕(あらわ)れたんだ。
ここに、ちょいとした橋があるんだが、その勢(いきおい)だからもう不(いけ)可(な)い。水の上で持上って、だぶりだぶりと煽(あおり)を打つと、蘆がまた根から穂を振って、光(おい)来(でお)々(い)々(で)を極(き)めてるなんざ、情(なさけ)なかろうではないか。
しかも幅一間とは無いんだよ。
︵不(い)可(け)ないのねえ。︶
︵駄目です、︶
と言ったきり。だって口(く)惜(や)しかろう。その川一(ひと)条(すじ)の前(さ)途(き)は、麗々と土が出て、薄(うっす)りと霧が這(は)って、虫の声がするんだもの。もう近いから、土手じゃ車の音はするし、……しばらく睨(にら)み詰めて立っていた。﹂
医(せん)師(せい)はむくむくと起きて、平(ひら)胡(あぐ)坐(ら)で、枕を頤(おとがい)に突(つッ)支(か)って、
﹁いや、散々、散々、お察し申すな。﹂
﹁ところで、いつの間に来たか、ぱくぱく遣ってるその橋(はし)向(むこう)へ、犬が三疋と押寄せて、前脚を突立てたんだ。吠(ほ)える、吠える! うう、と唸(うな)る、びょうびょう歯向く。変に一面の水に響いて、心細くなるまで凄(すご)かった。
︵あちらへ参りましょう、人が見ると悪いわ。︶
と低(こご)声(え)で、あの人が言う。
︵なぜ。︶
と思わず口へ出たが、はっと気が付いて、直ぐびちゃびちゃと歩(あ)行(る)き出した。
現在犬に怪(あやし)まれているんです……漁師村を表(おもて)に、この松原を裏にして、別荘があって、時々ピアノが聞えたんで、聞きに来た事もある。……奥座敷とは余り離れないから、犬の声を変がって、人でも出て来ると成程悪い。
が、何だか今の一言が妙に胸底へ響いて、時めいた、ために急に元気づいて、
︵一奮発遣(やッ)附(つ)けましょう。︶
と勇(いさみ)が出た。﹂
﹁その努力で、蘆の中だけは潜(くぐ)り抜けて、旧(もと)の方へ引返したが、もう、暗くなって、足許は分らないで、踏むほどの場所がざぶざぶする、じょろじょろ聞える、ざんざという。田だか畦(あぜ)だか覚(おぼ)束(つか)なく、目印ともなろうという、雑木や、川柳の生えた処は、川筋だから轟(ごう)と鳴る、心細さといったら。
川筋さえ﹇#﹁さえ﹂は底本では﹁さへ﹂﹈避(よ)けて通れば、用水に落込む事はなかったのだが、そうこうする内、ただその飛(とび)々(とび)の黒い影も見えなくなって、後は水(みず)田(た)の暗(や)夜(み)になった。
時に……急(あせ)ったせいか、私の方が真(まっ)先(さき)に二度辷(すべ)った、ドンと手を突いてね、はっと起上る、と一のめりに見事に這(は)った。
︵あれ、お危い。︶
と云う人を、こっちが、
︵お気を注(つ)けなさらないと、︶
この通り、ト仕方で見せて、だらしなく起(た)つ拍子に、あの人もずるりと足を取られた音で、あとは黙(だん)然(まり)、そら解(どけ)がしたと見える、ぐい、ぐい帯を上げてるが陰気に聞えた。
気が付いて、
︵穿(はき)物(もの)を持って上げましょう、︶
と注意すると、
︵はい、いいえ、可(よ)うござんす。︶
と云ったが、しばらくして、
︵流れてしまったようですよ。︶
成程、畦(あぜ)の切(きれ)口(ぐち)らしい、どっと落ちるんだ。
︵飛んだ事をなさいました。︶
︵いいえ、どうせ荷厄介なんですもの。さあ、参りましょう。︶
愚(ぐ)図(ず)々(ぐ)々(ず)していたので、
︵可(い)いんですよ、構やしない。︶
とそれでも笑った。この方が私よりまだ元気が可(い)い。が、私が猶(ため)予(ら)ったのは、駒下駄に、未練なものか。自分のなんざいつの昔失(な)くなしている。――実はどちらへ踏出して可いか、方角が分らんのです。もっとも線路の見当は大(おは)概(ず)に着いてたけれども、踏(ふみ)処(どころ)が悪いと水田へ陥(はま)る。
果して遣った! 意地にも立ったきりじゃ居られなくなって、ままよ、と胆(たん)を据えて、つかつかと出ようとすると、見事に膝まで突(つッ)込(こ)んだ。
︵あっ、︶と抜こうとして、畦へ腰を突いたっけ、木曾殿落馬です。
お察し下さい、今でこそ話すが、こりゃ冥(めい)土(ど)へ来たのかと思った。あの広(ひろ)場(っぱ)を手探りでどうするもんかね。……
背(うし)後(ろ)の足(あし)弱(よわ)が段々呼(い)吸(き)づかいが荒くなってね、とうとう、
︵ちっと休みましょう。︶
と言い出した﹇#﹁言い出した﹂は底本では﹁言ひ出した﹂﹈。雪路以上、随分へとへとに揉(もみ)抜(ぬ)いたから。
私は凭(よっ)懸(かか)るものもなく、ぼんやり暗(やみ)の中に立ったがね、あの人は、と思うと、目の下に、黒髪が俤(おも)立(かげだ)つ。
︵腰を掛けたんですか。︶
︵ええ、︶と云う。
︵濡れていましょう。︶
︵ええ、何ですか、瀬戸物の欠(かけ)がざくざくして、︶
私は肚(とむ)胸(ね)を突いたんだ。
︵不(いけ)可(な)い! 貴(あな)女(た)、そりゃ塵(はき)塚(だめ)だ。︶
と云う内にも、襤(ぼろ)褸(ぎ)切(れ)や、爪(うり)の皮、ボオル箱の壊れたのはまだしもで、いやどうも、言おうようのない芥(あくた)が目に浮ぶ。
︵でも水の上よりは増(まし)ですわ。︶
と断(あき)念(ら)めたように、何の不足もないらしくさっぱりと言われたので、死なば諸(もろ)ともだ、と私もどっかり腰を落した。むっくり持上って、跡は冷たい。犬の死骸じゃなかろうかと、摺(すり)抜(ぬ)けようとしたけれども、頬(ほお)擦(ず)るばかりの鬢(びん)の薫(かおり)に。……
ここで、真(まこと)に相済まない、余計な処へ誘ったばかりで、何とも飛んだ目にお逢わせ申す、さぞ身(から)体(だ)に触りましょう、汚させ、濡れさせ、跣(はだ)足(し)にさせ、夜露に打たせて……羅(らり)綾(ょう)にも堪えない身(から)体(だ)を、と言おうとして、言いようがないから、
︵荒い風にもお当りなさらない。︶
とヘマを言って、ああ厭(いや)味(み)だと思って、冷汗を掻(か)いた処を、
︵お人が悪いよ、子持だと思って、︶
これにまたヒヤリとしたように覚えている。﹂
﹁それと同時に小(こど)児(も)の事が気になって……言い出すと、女中ともう寝たろう。で、大して心配もしない様子、成程寝る時刻、九時ちと過ぎたかも知れない。汽車が二三度上(のぼ)下(りくだり)した。
この汽車だが……果(はて)しの知れない暗(くら)闇(やみ)の広(ひろ)野(の)――とてもその時の心持が、隅々まで人間の手の行届いた田圃とは思われない、野原か、底知れぬ穴の中途――その頼りなさも、汽車の通るのが、人里に近くって嬉しかった。それが――後には可(おそ)悪(ろし)い偉(おお)大(き)な獣(けもの)が、焔(ほのお)を吹いて唸(うな)って来るか、と身(みぶ)震(るい)をするまでに、なってしまった。
第一、足の出しようがない。それに……
もうこう夜(よ)も遅くなっては、何事もなく無事に家に帰るとして、ただ二人で今までなんだから、女中はじめ変に思おう。特に出征中の軍人の夫人だ。そうでもない、世間じゃ余計な風(うわ)説(さ)をしている折からだから憂(きづ)慮(か)わしい。
︵どうでしょう。︶
と甚だ言兼ねた事ではあったが、既に――人が見ては悪いわ――と言ってくれた人だから、こう聞いた。が、その実、いいえ、人は何とも思うまい、とこの人だけに、心配をせずに居ようと期したんだ。するとちと案外で、
︵さあ、私もそれが気になります。︶
返事がこれで。何とも言いようがなくって溜(ため)息(いき)が出た。あの人もほっと言う。話だけは色めかしい中に、何ともお話にならん事は、腹が、ぐうと鳴る、ああ、情(なさけ)ない何事だろう、と気にするほど、ぐうぐういう。
あの人にも聞えたか。
︵お腹が空いたでしょうね。︶
と来たのにゃ、赫(かっ)としたよ、但しそういう方も晩飯前です。……
詮(しか)方(た)がない、大声を揚げて見ようかとも言い出したが、こりゃ直ぐに差留められた。勿論、お怒(ど)鳴(な)んなさいと命令をされたって、こいつばかりは、死んでもあやまる。早い話が、何と云って救(すくい)を呼びます、助船でもないだろう、人殺し……串(じょ)戯(うだん)じゃない。﹂
医(せん)師(せい)は聞く中(うち)にも笑出した。
言うものも釣込まれたが、
﹁今こそ苦笑いも出るけれど、……実際だ、腹のぐうぐう鳴った時は、我ながら人間が求める糧は、なぜこう浅間しい物だろうと熟(つく)々(づく)思った。
ところで……
じゃ、何を便りに塵塚に腰を抜いていたか、と言うに、ここも娑(しゃ)婆(ば)だから、その内には、月が出ようと空頼み、あの人も恐らくそうででもあったろう、もっとも何かの拍子に、
︵戦争に行っている方の事を思えば、こうやって一晩ぐらい、︶
とは言ったがね。まさか夜(よ)の明けるまでそうして居られるものとは思うまい。
糠(ぬか)雨(あめ)が降って来たもの。その天(あた)窓(ま)から顔へかかるのが、塵塚から何か出て、冷い舌の先で嘗(な)めるようです。
水の音は次第々々に、あるいは嘲(あざけ)り、あるいは罵(ののし)り、中にゃ独(ひと)言(りごと)を云うのも交って、人を憤り世を呪(の)詛(ろ)った声で、見ろ、見ろ、汝(なんじ)等、水(みな)源(もと)の秘密を解せず、灌(かん)漑(がい)の恩を謝せず、名を知らず、水らしい水とも思わぬこの細(せせ)流(らぎ)の威(ちか)力(ら)を見よと、流れ廻り、駈(か)け繞(めぐ)って、黒(あや)白(め)も分(わか)ぬ真の闇(やみ)夜(よ)を縦(ほしいまま)に蹂(ふみ)躪(にじ)る。と時々どどどと勝誇って、躍(おど)上(りあが)る気(けは)勢(い)がする。
その流れるに従うて、我が血を絞り出されるようで、堪え難い。
次第に雨が溜(たま)るのか、水が殖(ふ)えたか、投出してる足(あし)許(もと)へ、縮めて見ても流(ながれ)が出来て、ちょろちょろと搦(から)みつくと、袖が板のように重くなって、塵塚に、ばしゃばしゃと沫(しぶき)が掛(かか)る、雫(しずく)が落ちる。
地(じな)鳴(り)が轟(ごう)として、ぱっと一(ひと)条(すじ)の焔(ほのお)を吐くと、峰の松が、颯(さっ)とその中に映って、三丈ばかりの真(まっ)黒(くろ)な面(つら)が出た、真(まっ)正(しょ)面(うめん)へ、はた、と留まったように見えて、ふっと尾が消える。
下りの終(しまい)汽車らしい、と思った時、
︵あ痛(いつ)、痛(つ)。︶
はっと擦寄ると、あの人がぶるぶる震えて、
︵胸が。︶と云う、歯の根が合わない。
︵冷えたんです。︶
と言いながら、私もわなわなし出した。﹂
﹁一生懸命の声をして、
︵さ、お掴(つかま)んなさい。︶
とずっと出すと、びったり額を伏せて、しっかりと膝を掴(つか)んだが、苦痛を堪える恐(おそろし)い力が入って、痺(しび)れるばかり。
︵しっかり……しっかりして下さいよ。︶
背中を擦(さす)ろうとした手が辷(すべ)って、ひやひやと後(おく)毛(れげ)を潜(くぐ)って、柔かな襟脚に障(さわ)ったが、やがて水晶のように冷たいのを感じた。
その時ふっとまた、褄(つま)の水に映るのが、薄(うす)彩(さい)色(しき)して目に見えたが、それならば、夢になろう、夢ならば、ここで覚める!
膝に倒れたのは、あの人だ。
私は猛然として、思わず抱きながら、引立てながら起上った。
︵我慢なさい。こんな事をしていちゃ、生(いの)命(ち)にも障りましょう。血の池でも針の山でも構わず駈(かけ)出(だ)して行って支度して迎(むかえ)に来ます。︶
と声も震えながら云うと、
︵一人で、どうして居られましょう、一所に。︶
ッて、ぐいと袂(たもと)に掴(つか)まったが、絞ると見えて水が垂った。
︵田も畦(あぜ)も構わない、一文字に駈け抜けるんです、怪(け)我(が)があると不(い)可(け)ません。︶
︵可(い)いの、貴(あな)下(た)、婦(おんな)は最期まで、殿方が頼りです、さ、連れて行って!︶
と縋(すが)った手を、しっかりと取合った。
︵じゃ、悪魔に攫(さら)われたと、断(あき)念(ら)めて、目を瞑(ねむ)って、覚悟をして……︶
︵は、瞑りました。︶
と言われたのにゃ、ほろりと熱い涙が出た。﹂
と、小松原は拳(こぶし)を握った手首をかえして、目を圧(おさ)えて、火入とも言わず、片手を煙草盆にはたと落した。
﹁考えて見れば怪しい。
はじめからその覚悟をすれば、何も冷え通るまで畦に踞(しゃが)んでるにも当らず。不断見れば掌(てのひら)ほどの、あの踏切田圃を、何に血迷ってたんだか、正気では分りません。いつもの幻と言い、おかしなものに弄(もてあそ)ばれてでもいたかと思う……もっともその堪えられない水の中でも、時々変に恍(うっ)惚(とり)となると、なぜか雲にでも乗せられたような気がする、その時は、あの人とそうしているのが嬉しかった。
畢(ひっ)竟(きょう)ずるに、言訳沢山の恋かも知れん。
その罰です。
後は御存じの通り、空を飛ぶような心持で、足も地につかず、夢中で手を曳(ひき)合(あ)って駈(かけ)出(だ)した処を、あっと云う間もなく、終(しまい)汽車で刎(はね)飛(と)ばされた。
気が付いた時は、真(まっ)蒼(さお)な何かの灯(あかり)で、がっくりとなって、人に抱えられてる、あの人の姿を一目見たんだがね、衣(きもの)を脱がしてあった。ただ一(ひと)束(つか)ねの滑(なめら)かな雪で、前髪と思うのが、乱れかかって、ただその鼻筋の通った横顔を見たばかり……乳の辺(あたり)に血が染(にじ)んだ、――この方とても、御多分には漏れぬ、応挙が描いた七難の図にある通り。まだ口も利けない処を、別々に運ばれた、それが見納め。
君も知ってる、生(いの)命(ち)は、あの人も助かったんだが、その後(のち)影を隠してしまって、いまだに杳(よう)として消息がない。
これが風(うわ)説(さ)の心中仕(しそ)損(こない)。言訳をして、世間が信ずるくらいなら、黙っていても自(おの)然(ず)から明りは立つ。面と向って汝(きさま)が、と云うものがないのは、君が何にも言わないと同(おん)一(なじ)なんだ。
お房さんも、大方同じ考えだったものだろう。が、これは夫に顔の合わされないのは、道理です。……何も私ばかりが澄まして活(い)きているのじゃない、今ここに、君とこうやっている時を、行方知れず、と思っているものもあろう。あの人もまた、同じように、どこかで心合いの友に、述懐をしていようも知れない。――ただもう一度逢いたいよ。﹂
と団(うち)扇(わ)を膝につくと、額を暗うした。
医(せん)師(せい)は黙っている。
﹁しかし、﹂
と、小松原が額を上げた。
﹁未練だね。世間じゃ、誰もあの人が活(い)きているとは思わない。私だって、実際生(なが)存(ら)えていようとは考えないが、随分その当時、表向きに騒いで、捜(さが)索(し)もしたもんだけれども、それらしい死骸も見附からないで、今まで過(すぎ)去(さ)ったんだ。だから、もしやが頼まれる……
それかって、今ここに、君の内にその人が居るから逢え、と云われたって逢われるわけでもないんだが。﹂
﹁しかし逢いたいんだ?﹂
と医(せん)師(せい)は笑いながら口を入れた。
﹁…………﹂
﹁成程、そこで魘(うな)されたんだ。その令夫人に魘されたのは、かえって望む処かも知れんが、あとの泥水は厭(いや)だったろう、全く気の精だな。遁(にげ)出(だ)したも道(もっ)理(とも)だ。よく、あの板廊下が鉄道の線路に化けなかった。﹂
﹁時に、﹂
小松原は、気が着いたらしく更(あらた)まって、
﹁あの、白骨だがね、﹂
と皆まで言わせず、手を掉(ふ)って、
﹁大丈夫、その令夫人の骨じゃない。﹂
﹁骨じゃない、﹂
と鸚(おう)鵡(むが)返(え)しで、
﹁けれども、婦(おんな)のだと言うじゃないか。何年経(た)ったんだか、幾十年過ぎたんだか、知れないが、婦には変りはなかろう。骨になっても小町は小町だ。
婦が、あの姿を人目に曝(さら)されたら、どんな心持だと思います――君にこんな事を云うのは、解剖室で命(いの)乞(ちごい)をするようなものだが、たとい骨でも、一(ひと)室(ま)に泊り合わせたのは、免れない縁だと思う。見えん処へ隠してくれんか。――私はもう、あの人が田圃で濡れた時の事を思っても、悚(ぞ)然(っ)とする。どうだね、可(かわ)哀(いそ)想(う)だとは思わないかね。﹂
﹁そうさな。まさか私だって、縁日の売薬みたいに、あれを看板に懸けちゃ置かん、骨を拾った気なんだから、何も品物を惜(おし)みはせんが、打(うっ)棄(ちゃ)っておきたまえ。そんな事を気にするのは宜(よ)くないから止(よ)したが可(よ)かろう。﹂
﹁貴(あな)郎(た)、﹂
と優しい声がしたので、小松原は身を縮めて、次の室(ま)の暗い中を透かした。暑いので襖(ふすま)は無いが、蚊帳が重ねて釣ってある。その中(うち)に、浴衣の模様が、蝶々のように掠(かす)れて見えたは細君で、しかも坐って、紅(こう)麻(あさ)に裳(もすそ)を寄せ、端近う坐っていた。
﹁何だ、起きていたのか。﹂
﹁はい、つい、あのお話しに聞(きき)惚(と)れまして、﹂
と云うのに、しんみりと涙が籠(こも)る。
﹁どうも、﹂
とばかりで、小松原は額を圧(おさ)えた。医(せん)師(せい)は事も無げに、
﹁聞いたのは構わんよ、沢山泣いて上げろ。だが、そこらへ溢(こぼ)しちゃ不(い)可(か)んぜ、水が出ると大変だ。﹂
﹁あれ、可(い)厭(や)な。﹂
﹁馬鹿だな、臆病。﹂
﹁だって、﹂
と蚊帳の裾を引(ひっ)被(かつ)ぐ、腕(かいな)が白く、扱(しご)帯(き)の紅(くれない)が透いた時、わっと小(こど)児(も)が泣いたので、
﹁おお。﹂
と云って添(そい)臥(ぶ)したが、二人も黙る内、すやすやとまた寝入った。
﹁ねえ、貴(あな)郎(た)、そうして、小松原さんのおっしゃる通りになさいよ。何だか可(こ)恐(わ)いんですもの。﹂
と弄(から)かうごとく、団扇を膝でくるりと遣(や)る。
﹁いいえ、ですがね、あの御(おこ)骨(つ)……﹂
﹁ちょっと待て、御骨は気になる。はははは。﹂
﹁御免なさいましよ。﹂
と客に云って、細君は、小(こど)児(も)に添(そい)乳(ぢ)の胸白く、掻(かい)巻(まき)長う、半ば起きて、
﹁串(じょ)戯(うだん)ではなくってよ。貴(あな)郎(た)が持って来て、あそこへ据えてから、玄関の方(かた)なんぞも、この間中種(いろ)々(ん)な事を言ってるんですよ。
話声がするの、跫(あし)音(おと)が聞えるのって――大方女中なんかを徒(いたずら)に威(おど)すんだろうと思って、気にもしないでいましたけれども、今のお話の様子だと、何だか、どうとも言えませんわ。﹂
﹁ねえ、小松原さん、﹂
とぼかしたような顔が、蚊帳の中で朧(おぼろ)に動いて、
﹁あの御(おこ)骨(つ)だって、水に縁があるんですもの。﹂
﹁婦女子の言です。﹂
と医(せん)師(せい)は横を向く。小松原は、片手を敷布の上、隣(とな)室(り)へ摺(すり)寄(よ)る身構えで、
﹁水に縁と……仰(おっ)有(しゃ)ると?﹂
﹁あれは貴(あな)下(た)、何ですわ、つい近い頃、夫(やど)が拾って来て、あすこへ飾ったんですがね。その何ですよ、旧(もと)あった処は沼なんですって。﹂
﹁沼!﹂
﹁おっと直ぐに、そう目の色を変えるから困る。鯰(なまず)に網を打ちはしまいし、誰が沼の中から、掬(すく)上(いあ)げるもんか。﹂
﹁だって、そりゃ沼からじゃありますまいけれど、梅雨あけに水が殖(ふ)えたので、底から流(なが)出(れだ)したんだろうッて、貴(あな)郎(た)がそう言っていらしったではありませんか。――小松原さん、この梅雨あけにも田圃へ水が出ましてね、先(さっ)刻(き)おっしゃいました、踏切の前の橋も落ちたんですよ。蒼(あお)沼(ぬま)が溢(あふ)れたんですって、田圃の用水は、皆(みんな)そこから来るんだって申します……
その近処の病家へ行(ゆ)きました時に、其(そ)家(こ)の作男が、沼を通りがかりに見て来たって、話したもんですから、夫(やど)が貴(あな)下(た)、好(もの)事(ずき)にその男を連れて帰りがけに、廻(まわ)道(りみち)をして、内の車(わか)夫(いしゅ)に手伝わして、拾って来たんですわ。
御骨は、沼の縁に柔(やわらか)な泥の中にありましたって、どこも不足しないで、手足も頭も繋(つなが)って、膝を屈(かが)めるようにしていたんだそうです。﹂
﹁妄(ぼう)誕(たん)臆(おく)説(せつ)!﹂
と称(とな)えて、肩を一つ団扇で敲(たた)く。
﹁臆説って、貴(あな)下(た)がお話しなすった癖に。そうしてこう骨になってから、全体具(そなわ)っているのは、何でも非常な別(べっ)嬪(ぴん)に違いない。何骨とか言って、仏家では菩(ぼさ)薩(つ)の化身とさえしてある。……第一膝を折った身(みだ)躾(しなみ)の可(い)い処を見ろッて、さんざん効能を言ったではありませんか。﹂
と、もう小(こど)児(も)も寝たので、掻巻からするりと出て褄を合わせる。
医(せん)師(せい)喟(きぜ)然(ん)として、
﹁宜(よろ)しく頼む。あとは君にまかせるから、二人して、あの骨をその人だとでも何とでも御(ぎょ)意(い)なさい、こちらへ来て講中にならんか。﹂
と笑いながら、むずと蚊帳を出て、廊下へ寝(ねま)衣(き)で突(つッ)立(た)った。
が横向に隣を見て、
﹁何だ、お前も手(ちょ)水(うず)か。馬鹿な、今の話しで不気味だからって。お客様の居る処を、連立って便所へ行く奴があるかい。﹂
と言う。
小松原が、ト透(すか)すと、二(ふた)重(え)遮って仄(ほのか)ではあるが、細君は蚊帳の中を動かずにいたのである。
﹁貴(あな)郎(た)、﹂
とこの時、細君の声は、果せる哉(かな)、太(いた)く震えて、
﹁貴郎……﹂
﹁うむ、﹂
小松原も蚊帳の中に悚(ぞ)然(っ)として、
﹁酒田。﹂
と変な声をする。
﹁誰か居ますか。﹂
﹁おお……﹂
と医(せん)師(せい)は、蹌(よ)踉(ろ)けたように、雨戸を背(うしろ)に、此(こな)方(た)を向き替え、斜めに隣(とな)室(り)の蚊帳を覗(のぞ)いた。
﹁私はここに居ますんですよ。﹂
﹁誰だ、今のは?﹂
うっかり医(せん)師(せい)が言うや否や……
﹁厭(いや)……﹂
と立って、ふらふらと、浅黄に白地で蚊帳を潜(くぐ)ると、裙(すそ)と裙とにばっと挟まる、と蜘(く)蛛(も)の巣に掛(かか)ったように見えたが、一つ煽(あお)って、すッと痩(や)せたようになって、此(こな)方(た)の蚊帳へ――廊下に事はあるものを、夫を力にそこへは出られぬ――腰を細く、乗るばかり、胸に縋(すが)った手が白く、小松原の膝にしがみついた。
――この状(さま)を……後に、医学士が人に語る。――
﹁蒼(あお)沼(ぬま)の水は可(おそ)恐(ろ)しい、人をして不倫の恋をなさしむるかと、私は嫉(ねた)もうとした。﹂
その時医(せん)師(せい)は肩を昂(あ)げて、
﹁雨かな。﹂
と仰(あお)向(む)けになったが、また、俯(うつ)向(む)いて胸を払った。
﹁何だ、廊下は水だらけだ。﹂
細君は何にも言わぬ。小松原も居(いす)窘(く)まって、忙(せわ)しく息をするばかり。
鶏(とり)が鳴いたので、やっと細君が顔を上げたが、廊下に突(つッ)立(た)った夫を見た時、聞耳を立てて、
﹁何です……がたがた、がたがた言って、﹂
小松原が、
﹁あ、﹂
﹁あれか、﹂
と医(せん)師(せい)もそこで聞取った。
﹁酒田……先(さっ)刻(き)のも、﹂
﹁むむ、診察処だ。﹂
﹁あれえ。﹂
﹁開けて見ると何にも居ないのだ。が、待てよ。﹂
と言って、蚊帳の周(まわ)囲(り)をぐるりと半分、床の間をがたりと遣(や)ると、何か提(ひっさ)げた、その一腰、片手に洋(ラン)燈(プ)を翳(かざ)したので、黒(くろ)塗(ぬり)の鞘(さや)が、袖をせめて、つらりと光った。
﹁危い、貴(あな)郎(た)、﹂
﹁大丈夫だ。﹂
﹁いいえ、﹂
細君は一声、誰かを呼んで、
﹁玄関の方を起して下さい、正吉――﹂
もう医(せん)師(せい)の姿はなかった。
ばたん、と扉(ひらき)の開(あ)いた音。
二人が揃って、蚊帳の中を廊下際で、並んで雨宿りをする姿で立った処へ、今度は静(しずか)に悠々と取って返す。
﹁どうした。﹂
﹁鼈(すっぽん)だ。﹂
﹁え。﹂
﹁鼈が三(みッ)個(つ)よ。﹂
﹁どこに、ですえ。﹂
と細君は歯の音も合わぬ。
医(せん)師(せい)は真面目な顔して、
﹁場所はちと悪い、白いものの前だ。﹂
﹁あれ。﹂
﹁さぞまた蒼沼から、迎(むかえ)に来たと言うだろうなあ。﹂
と雨戸を一枚、颯(さっ)と風が入って、押(おっ)伏(ぷ)せて、そこに置いた洋(ラン)燈(プ)が消えた。
が、鶏がまた鳴いて、台所で誰か起きた。
白骨が旧(もと)の沼へと立返ることになって、この使者は、言うまでもなく小松原が望んで出た。一(ひと)夜(よ)の縁(えにし)のみならず、そこは、自分とあの人とがために浮名を流した、浜田の水の源(みなもと)ぞと聞くからに、顔を知らぬ許(いい)婚(なずけ)に初めて逢いに行(ゆ)く気もすれば、神仙の園へ招待されたようでもあって、いざ、立(たち)出(い)づる門口から、早や天の一方に、蒼沼の名にし負う、緑の池の水の色、峰続きの松の梢(こずえ)に、髣(ほう)髴(ふつ)として瑠(る)璃(り)を湛(たた)える。
その心は色に出て、医(せん)師(せい)は小松原一人は遣らなかった。道しるべかたがた、介(かい)添(ぞえ)に附いたのは、正吉と云う壮(わか)い車夫。
国手お抱えの車夫とあると、ちょいと聞きには侠(きお)勇(い)らしいが、いや、山育ちの自(じね)然(んじ)生(ょう)、大の浄土宗。
お萩が好(すき)の酒嫌いで、地震の歌の、六ツ八ツならば大(おお)風(かぜ)から、七ツ金(かね)ぞと五水りょうあれ、を心得て口癖にする。豪(えら)いのは、旅の修(しゅ)行(ぎょ)者(うじゃ)の直(じき)伝(でん)とあって、﹃姑(こそ)蘇(たく)啄(ま)麻(や)耶(た)啄(く)﹄と呪(じゅ)して疣(いぼ)黒(ほく)子(ろ)を抜くという、使いがらもって来いの人物。
これが、例の戸棚掛の白(しろ)布(ぬの)を、直ぐに使って一包み、昨夜の一刀を上に載(の)せて、も一つ白布で本包みにしたのを、薄々沙汰は知っていながら、信心堅固で、怯(び)気(く)ともしないで、一件を小脇に抱える。
この腰の物は、魔(ま)除(よ)けに、と云う細君の心(ここ)添(ろぞえ)で。細君は、白骨も戻すと極(きま)り、夜が明けると、ぱっと朝露に開いた風情に元気になって、洗面の世話をしながら、縁側で、向うの峰を見て顔を洗う小松原に、
﹁昨晩はお楽(たのし)み……なぜって。まあ、憎らしい。奥さんが逢いにいらっしゃったではありませんか。﹂
など遣ったものだが、あえてこれは冷(ひや)評(か)したのではない。その証拠には、小松原と一足違(ちがい)に内を出て、女(おん)子(な)扇と御経料を帯に挟んで、じりじりと蝉の鳴く路を、某(なに)寺(がしじ)へ。供養のため――
﹁沼さ行ぐ道はこれを入るだよ。﹂
と正吉が言う処を、立直って見れば、村の故(ふる)道(みち)を横へ切れる細い路。次第高(だか)の棚田に架(かか)って、峰からなぞえに此(こな)方(た)へ低い。田の青さと、茂った樹(こだ)立(ち)の間を透いて、六(みな)月(づき)の空は藍(あい)よりも蒼(あお)く、日は海の方へ廻って、背(うし)後(ろ)から赫(かっ)と当るが、ここからは早や冷い水へ入るよう。
三方、山の尾が迫った、一方は大(おおい)なる楓(かえで)の梢(こずえ)へ、青田の波が越すばかり。それから青(あお)芒(すすき)の線を延(のば)して、左へ離れた一方に、一(ひと)叢(むら)立(だち)の藪(やぶ)があって、夏中日も当てまい陰暗く、涼しさは緑の風を雲の峰のごとく、さと揺(ゆり)出(だ)し、揺出す。その上に、萱(かや)で包んだ山が見えたが、遠いと覚しく、峰の松が、鹿の彳(たたず)んだ姿に小さい。藪に続いた一方は雑木林で、颯(さっ)と黒髪を捌(さば)いたごとく、梢(うら)が乱れ、根が茂る。
路はその雑木の中に出つ入(い)りつ、糸を引いて枝(しお)折(り)にした形に入る……赤土の隙(すき)間(ま)なく、凹(くぼみ)に蔭ある、樹の下(した)闇(やみ)の鰭(ひづ)爪(め)の跡、馬は節々通うらしいが、処がら、竜(たつ)の鱗(うろこ)を踏むと思えば、鼈(すっぽん)の足(あし)痕(あと)を辿(たど)るよとも疑われた。
次第に山の裾を分け上ると、件(くだん)の楓を左の方に低く視(なが)めて、右へ折(おり)曲(まが)ってもう一(ひと)谷(や)戸(と)、雑木の中を奥へ入ろうとする処の、山(やま)懐(ふところ)の土が崩れて、目の下の田までは落ちず、径(こみち)の端に、抜けた岩ごと泥が堆(うずたか)かった。
﹁沼はこの先でがんす。﹂
と正吉は前(さき)へ立った。……山崩れで、ここに路の切れたのも、何となく浮世を隔てた、意味ありげにぞ頷(うなず)かるる。
﹁梅雨あけに、医(せん)師(せい)と、この骨さ拾いに来っけ。そんころの雨に緩んだだね。腕(くる)車(ま)もはい、持(もっ)立(た)てるようにしてここまでは曳(ひ)いて来ただが、前(さき)あ挺(てこ)でも動きましねえでね。﹂
と言う。
このあたり……どこかで何の鳥か一つ鳴出した。何(なあに)、正体を見れば、閑古鳥にしろ、直(じき)そこいらの樹の枝か葉隠れに、翼を掻(かい)込(こ)んだのが、けろりとした目で、閑(ひま)に任(ま)かして、退屈まぎれに独(ひと)言(りごと)を言っているのであろうけれども、心あって聞く者が、その境に臨むと、山から谷、穴の中の蟻(あり)までが耳を澄ます、微妙な天楽であるごとく、喨(りょ)々(うりょう)として調べ奏(かな)でる。
……きょ、きょら、くらら、くららっ!
と転がして、発(は)奮(ず)みかかって、ちょいと留めて、一つ撓(た)めておいて、ゆらりと振って放す時、得も言われず銀鈴が谺(こだま)に響く。
小松原は、魂を取って扱(しご)かれるほど、ひしひしと身に堪(こた)え、
﹁……京から、今日ら……来るか、来るか!﹂
と言われるようで、
﹁来ました、東京から今日来ましたよ。﹂
と胸の裡(うち)で言った。
その蒼沼は……
小高い丘に、谷から築き上げた位置になって、対(むこ)岸(う)へ山の青(あお)簾(すだれ)、青葉若葉の緑の中に、この細路を通した処に、冷い風が面(おもて)を打って、爪(つま)先(さき)寒う湛(たた)えたのである。
水の面(おも)は秋の空、汀(みぎわ)に蘆の根が透く辺りは、薄濁りに濁って、二(ふた)葉(は)三(み)葉(は)折れながら葉ばかりの菖(あや)蒲(め)の伸びた蔭は、どんよりと白い。木(こ)の葉も、ぱらぱらと散り浮いて、ぬらぬらと蓴(ぬな)菜(わ)の蔓(つる)が、水筋を這(は)い廻る――空は、と見ると、覆(おおい)かかるほどの樹立はないが、峰が、三方から寄合うて、遠(おち)方(かた)は遠方なりに遮って、池の周(まわ)囲(り)と同じ程より、多くは天(そら)を余さぬから、押(おッ)包(つつ)んだ山の緑に藍(あい)を累(かさ)ねて、日なく月なく星もなく、倒(さかさ)に沼の中心に影が澄んで、そこにこそ、蒼沼の名に聞ゆる威厳をこそ備えたれ。何となく涸(か)れて荒(すさ)びて、主(ぬし)やあらん、その、主の留守の物寂しい。
濃い緑の雑樹の中へも、枝なりにひらひらと日の光が折(おれ)込(こ)んで、縁(ふち)を浅黄に、木(こ)の葉を照らす。この影に、人は蒼(あお)白(じろ)く一息した。
なぜか、葬(とむ)礼(らい)の式に列(つらな)ったようで、二人とも多く口数も利かなかったが、やがて煙(たば)草(こ)も喫(の)まないで、小松原は踞(つくば)った正吉を顧みて、
﹁どこで拾ったね。﹂
﹁やあ、それだがね……先(さっ)刻(き)から気い付けるだか、どうも勝手が違ったぞよ。たしか、そこだっけと勘考します、それ、その隅っこの、こんもり高(だか)な処(とこ)さ、見さっせいまし、己(おら)あ押(おっ)魂(たま)消(げ)ただ。その節あんな芭(ばし)蕉(ょう)はなかっけ。﹂
と言う。
目覚しいのは、そこに生えた、森を欺(あざむ)くような水芭蕉で、沼の片隅から真(まっ)蒼(さお)な柱を立てて、峰を割り空を裂いて、ばさばさと影を落す。ものの十丈もあろうと見えて、あたかもこの蒼沼に颯(さっ)と萌(もえ)黄(ぎ)の窓(カア)帷(テン)を掛けて、倒(さかさ)に裾(すそ)を開いたような、沼の名は、あるいはこれあるがためかとも思われた。
正吉が知らずと云う、梅雨あけの頃は、まだ丈伸びぬ時節であるから、今日見付けたのを、訝(いぶか)しむ仔(しさ)細(い)は無い。
さて、家を出る時から、拾った場所へ旧(もと)の通り差置こうというではなく、ともあれ、沼の底へ葬り返そうとしたのであるが、いざ、となると汀(みぎわ)が浅い、ト白骨は肋(あばら)の数も隠されず、蝶々蜻(とん)蛉(ぼ)の影はよし、鳥の糞(ふん)にも汚(けが)されよう。勢い諸手高く差(さし)翳(かざ)して、えい! と中心へ投込まねばならぬとなった。
﹁そんな事が出来るものか。﹂
と小松原が猶(ため)予(ら)うと、
﹁成程、へい、手荒だね。﹂
と正吉さえ頷(うなず)くのである。
ここで、小松原が心着いたのは、その芭蕉で……
﹁まあ、それを解け。﹂
と手伝って、上包の結(むす)目(びめ)を解くと、ずしりと圧(おし)にある刀を取ったが、そのまま、するりと抜きかける。――虹(にじ)のごとく、葉を漏る日の光に輝くや否や、
﹁わッ!﹂
と正吉が飛(とび)退(しさ)った。途端に白(しろ)布(ぬの)の包は、草に乗って一つ動く。
﹁旦(だん)那(な)、気イ確(たしか)に持たっせえ。﹂
昨夜からの小松原の容(よう)子(す)は、まったく人目には変だった。これは気が違った、と慌てたらしい。
やがて孫(そん)呉(ごく)空(う)が雲の上を曳(えい)々(えい)声(ごえ)で引(ひっ)背(し)負(ょ)ったほどな芭蕉を一枚、ずるずると切出すと、芬(ぷん)と真(まっ)蒼(さお)な香(におい)が樹の中に籠(こも)って、草の上を引いて来たが――全身引(ひっ)くるまって乗っかった程に大(おおき)いのである。
小松原は莞(に)爾(こ)々(に)々(こ)しながら、
﹁さあ、これへ乗せよう。﹂
まざまざと見るには堪えぬから、その布で包んだまま、ただ結目を解いただけで、密(そっ)と取って、骨を広葉の只(ただ)中(なか)へ。
葉先を汀(みぎわ)へ、蘆(あし)摺(ず)れに水へ離せば、ざわざわと音がして、ずるりと辷(すべ)る、柄を向うへ……
﹁南(な)無(ん)阿(ま)弥(い)陀(だ) 南無阿弥陀。﹂
と殊勝に正吉が、せめ念仏で畳掛けるに連れて、裂目が鰭(ひれ)のように水を捌(さば)いて行(ゆ)く、と小(ささ)波(なみ)が立って、後を送って、やがて沼の中ばに、静(じっ)と留まる。
そのまま葉が垂れると、縋(すが)りつく状(さま)に、きらきらと水が乗る、と解けるともなしに柔かに、ほろほろと布が弛(ゆる)んで、細長い包みの裾が、ふッくりと胸になり、婦(おんな)が臥(ふ)した姿になる。
思出して、はっと目を塞(ふさ)いだが、やがて見れば、もう沈んだ。
途端に、ざらざらと樹が鳴って、風が走る。そよ風が小波立てて、沼の上を千(ちす)条(じ)百(もも)条(すじ)網の目を絞って掛寄せ掛寄せ、沈んだ跡へ揺(ゆり)かけると、水鳥が衝(つ)と蹴(け)たごとく、芭蕉の広葉は向うの汀(みぎわ)へ、するすると小さく片寄る。
……きょ、きょら、きょきょら、くららっ!……
と、しばらくはただ鳥の声。
熟(じっ)と沼の面(おも)を見ていると、どこかに、その人の顔がある。が、水の皺(しわ)が揺(ゆ)っては消し揺(ゆす)っては消す――そうかと思うと、その水紋の揺(ゆら)めく綾が、ちらちらと目になって、瞳が流るるようでもある。ソレ鼻、ソレ口、と思う処が、ふらふらと浮いて来ては、仰(あお)向(む)けに沈んで消える。もうちっとで、もうちっとで……と乗出すけれども、もうちっとで絡(まとま)らない。
急(あせ)って、いて、立ったり居たり、汀(みぎわ)もそちこち、場所を変えてうろついて見込んだが、ふと心づいてせば、早や何が染(そま)るでもなく、緑は緑、青は青で、樹の間は薄(うす)暮(くれ)合(あい)。
﹁旦那もう晩方だよ。﹂
と云って、正吉が帰途を促がしたのは余程の前(さき)で、それを、無理遣りに一人帰してからさえ、早や久しい。
独(ひとり)になって、思うさま、胸にたたんだ空想に耽(ふけ)ろうと、待構えたのはこれからと、まず、ゆっくり腰を卸(おろ)して、衣(えも)紋(ん)まで直して、それから横になって見たり、起返って見たり。
とかくして沼の中を、身動きもしないで覗(のぞ)込(きこ)んだ……
あわれ水よ、偉(おおい)なる宇宙を三分して、その一を有する汝(なんじ)、瀬となり、滝となり、淵(ふち)となり、目(ま)のあたり我が怪しき恋となりぬ。
いで、霧となって虹(にじ)を放ち、露と凝って珠ともなる。ここに白骨を包んでは、その雪のごとき膚(はだえ)とならずや、あの濡れたような瞳とならずや。
と思い思う、まさしく、そこに、水(みな)底(ぞこ)へ、意中の夫人が、黒髪長くかかって見ゆる。
見ようとすると、水が動く。いや、いや、我が心の動くために、人の姿が散るのであろう。
胸を打って、襟を掴(つか)んで、咽(の)喉(ど)をせめて、思いを一(ひと)処(ところ)に凝らそうとすれば、なおぞ、千(ち)々(ぢ)に乱れる、砕ける。いっそ諸共に水底へ。
が、確(たしか)にその人が居ようか怪しい。……いや、まさしく、そこに、いまし葬った骨がある。骨は確(たしか)に……確に骨は、夫人がここに身を投じて、朽ちず、消えず、砕けぬ――白き珊(さん)瑚(ご)の玉なす枝を、我がために残したことは、人にこそ言わね、昨(ゆう)夜(べ)より我は信じて疑わぬ。
何が不足で一所に死ねぬ――
﹁その肉身か。﹂
と己(おの)が頭(ずは)髪(つ)を掴(つか)んで、宙に下がるばかり突(つッ)立(た)った。
﹁卑(ひき)怯(ょう)だ、此(こい)奴(つ)! 始(はじめ)からそれは求めぬ誓(ちかい)であった。またそれを求むる位なら、なぜ、行方も知れず捉(とら)うる影なきその人を、かくまで慕う。忘れられぬはその霊(こころ)であろう。……その霊は、そこにある、現在骨まである。何が、何が不足で飛込めない。
肉身か、あるいはそれもある。沼の水は、すなわち骨を包む膚(はだ)、溺(おぼ)れて水を吸うは、なおその人の唇に触れるに違(たが)わん!﹂
入れ、入れ、入れ、さあさあさあさあ、と水が引き引き、ざわざわと蘆(あし)を誘って、沼の真(まん)中(なか)へ引寄せる。
小松原は立ったまま地(ぢだ)を踏んだが、
﹁ええ! 腑(ふが)効(い)ない。﹂
どっかり草へ。
蘆の葉(はず)末(え)に水を載(の)せて、昼の月の浮いて映るがごとく、沼のそこに、腕(かいな)か、肩か、胸か、乳か、白々と漾(ただよ)い居る。
ソレソレ手に取るばかり、その人が、と思いながら、投出して見ても足がまだ水へは達(とど)かぬ。
何をか疑い、何をか猶(ため)予(ら)う。
余(あまり)の事に、ここへ来るは今日には限らないと思切って、はじめて悚(ぞ)然(っ)として、帰ろうとして、骨を送った船の漾(ただよ)う処を視(なが)むれば、四五本打った、杭(くい)の根に留(とま)ったが、その杭から、友(ゆう)染(ぜん)の切(きれ)を流した風情で、黄(たそ)昏(がれ)を翡(かわ)翠(せみ)が一羽。
それをこう視(なが)めた時、いつもとろとろと、眠りかけの、あの草の上、樹の下に、美(うつくし)い色の水を見る、描いたるごとき夢(ゆめ)幻(うつつ)の境、前世か、後世か、ある処の一面の絵の景色が、彩(さい)色(しき)した影のごとくに浮(うか)んだので、ああ、このままここへ寝るかも知れない。
それも可(よし)、ままよ、なるようになれとなった。……
その内に、翡(かわ)翠(せみ)の背らしいのが、向うで、ぼっと大きくなり、従って輪(りん)郭(かく)は朧(おぼろ)になったが、大きくなったのは近づくので、朧になるのは、山から沼の上を暮(くれ)増(まさ)るのである。その暮れるのと、来かかるのとが、蘆(あし)の汀(みぎわ)を段々伝いに、そよそよと風に、背(うし)後(ろ)を、吹かれ、送られ、近づいて、何の跫(あし)音(おと)も聞えなかったが、上(かみ)からか下(しも)からか、小松原の目に、婦(おんな)の色ある衣(きぬ)の裙(すそ)が見えて、傍(かたわら)に来て、しっとり留(とま)る。……
﹁奥さん。﹂
と、我知らず叫んだが、はっと気が附いても枕はしていず、この時は、診察室の寝(ねだ)台(い)でなかった。そこで、
﹁…………﹂
誰かが何か言う。ただ赫(かっ)として、初手のは分らなかった。瞳を凝らして、そのすっと通った鼻筋と、睫(まつ)毛(げ)が黒く下向にそこに彳(たたず)んだのを見(みい)出(だ)した時、
﹁立二さん。﹂
と胸を抱いた手が白く、よくは分らぬけれども、着たものの柄にも因るか、しばらくの間に、やや太(ふと)肉(りじし)だった人が、げっそりと痩(や)せて小さくなった。
﹁おお!﹂
とばかりで、肩で呼(い)吸(き)して、草に胡(あぐ)坐(ら)したまま、己(おの)が膝を引(ひッ)掴(つか)んで、せいせい言って唇を震わす。
上では、俯(うつ)向(む)きさまに、髪が揺れたが、唇の色が燃え、得も言われぬ微(ほほ)笑(え)みして、
﹁変った処で……あんまりだから、お化だと思うでしょう。﹂
と相変らずしとやかなものの言いよう哉(や)。
それどころか、お化……なら、お化で、またその人ならその人で、言いたいことが一切経、ありったけの本箱を引(ひっ)くり返したのと、知っただけの言(ことば)を大(おお)絡(まとめ)にしたのが、一(いち)斉(どき)に胸へ込上げて、咽(の)喉(ど)で支(つか)えて、ぎゅうとも言えず、口は開(あ)かずに、目は動く。
﹁それでも、﹂
と鬢(びん)へちょいと手を遣(や)ったが、櫛(くし)、笄(こうがい)、簪(かんざし)、リボン、一ツもそんなものは目に入らなかった。
﹁まさか、墓へは連れて行(ゆ)かないから、私の許(とこ)へ御一所に。﹂
指(ゆびさ)して、指の先で、男が只(ひた)瞻(みは)りに瞻った瞳を、沼の片隅に墨で築(つ)いた芭蕉の蔭へ、触って瞬かせるまで、動かさせて、
﹁あすこを通って、岨(そば)伝(づた)いに出られる里。……立さん、そんなに吃(びっ)驚(くり)なさらないでも、貴(あな)下(た)が昨日、お医(いし)師(ゃ)様の許(とこ)へおいでなすった事は、私もう知っています。
いつかの時の怪(け)我(が)でねえ、まだ時々、時候の変り目に悩みますから、梅雨時分、あのお医師様にお世話になったの、……私のね、今隠れている百姓屋へ来て貰って……
立さんが、先(さっ)刻(き)葬(おと)式(むらい)にいらしった、この沼の白骨も、その時私の許で聞いて、あの方がここへ来て拾って行ったんです。
この頃、また、ちっと塩(あん)梅(ばい)が悪いので、医(いし)師(ゃ)へ通っていますから、今日こちらへお出でなさる事も、貴下がお出掛けの直ぐあとへ行って聞いて来ました。
先(さっ)刻(き)から、あちこちで、様子を見ていましたけれども、傍(そば)に人が居るから、見られるのが可(い)厭(や)で来ませんでしたよ。
さあ、いらっしゃい。﹂
﹁……参ります!﹂
とだけは決然として気(き)競(お)って云ったが、膝が萎(な)えて、がくついて、ついした事には行(ゆ)かないで、
﹁貴女、貴女、﹂
とばかり言う。
﹁まあ、何にもおっしゃらないで。何事も、あの、内へ行ってから、ゆっくりお話をしましょうね。﹂
と軽く頷(うなず)く、頬がつくと、襟の処が薄く曇って、きらきらと露が落ちた。
その涙を払う状(さま)に、四(あた)辺(り)を見つつ、
﹁御覧なさい、可(い)厭(や)な。どこより前(さき)に、沼の上が暗くなりました。これが、あの田の水の源(もと)なんですもの。またいつかの時のような事があっては悪い。﹂
と調子はおっとり聞こえたが、これを耳にすると斉(ひと)しく、立二は焼(やけ)火(ひば)箸(し)を嚥(の)んだように突(つッ)立(た)った。
ト、佳(い)い薫(かおり)が、すっと横を抜けて通って、そのまま後姿で前へ立って、尋常に汀(みぎわ)を行(ゆ)く。……お太鼓の帯腰が、弱々と、空から釣ったように、軽く、且つ薄い。
そこへ、はらはらとかかる白(しろ)絽(ろ)の袂(たもと)に、魂を結びつけられたか、と思うと、筋(すじ)骨(ぼね)のこんがらかって、捌(さばき)のつかないほど、揉(も)み立てられた身(から)体(だ)が、自然に歩(あ)行(る)く。……足はどこを踏んだか覚えなし。
しばらく行(ゆ)くと、その人が、偶(ふ)と立(たち)停(どま)って、弱腰を捻(ね)じて、肩へ、横顔で見返って、
﹁気をつけて頂戴、沼の切れ目よ。﹂
と案内する……処に……丸木橋が、斧(おの)の柄の朽ちた体(てい)に、ほろりと中絶えがして折(おれ)込(こ)んだ上を、水が糸のように浅く走って、おのれ、化ける水の癖に、ちょろちょろと可(しお)憐(らし)やか。ここには葉ばかりでなく、後(おく)れ咲(ざき)か、返り花が、月に咲いたる風情を見よ、と紫の霧を吐いて、杜(かき)若(つばた)が二三輪、ぱっと花(はな)弁(びら)を向けた。その山の端(は)に月が出た。
﹁今夜は私が、﹂
すっと跨(また)ぐ、色が、紫に奪われて、杜若に裙(すそ)が消えたが、花から抜ける捌(さば)いた裳(もすそ)が、橋の向うで納(おさ)まると、直ぐに此(こな)方(た)へ向替えて、
﹁手を引いて上げましょう。﹂
嫋(なよ)娜(やか)に出されたので、ついその、伸(のば)せば達(とど)く、手を取られる。その手が消えたそうに我を忘れて、可(なつ)懐(かし)い薫(かおり)に包まれた。
まだ耳の底に絶えなかった、あの、きょ、きょら、くらら鳥の声が、この時急に変った。野太く、図抜けた、ぼやっとした、のろまな、しかも悪く底響きのするのに変って、
……おのれら! おのれら!……
と鳴く。
ぎょっとして、仰いで見る、月影に、森なす大(おお)芭(ばし)蕉(ょう)の葉の、沼の上へ擢(ぬき)んでたのが、峰から伸(のし)出(だ)いて覗(のぞ)くかと、頭(かしら)に高う、さながら馬の鬣(たてがみ)のごとく、譬(たと)えば長髪を乱した体(てい)の、ばさとある附(つけ)元(もと)は、どうやら痩(やせ)こけた蒼(あお)黒(ぐろ)い、尖(とが)った頤(おとがい)らしくもある。
あれあれ裂けた処が、そっくり口で、
……おのれら!……
とまた鳴いた。その体(てい)は……薄汚れた青竹の太(ふと)杖(づえ)を突いて、破(やぶ)目(れめ)の目立つ、蒼黒い道服を着(ちゃく)に及んで、丈(せい)高う跳(のさ)ばって、天上から瞰(みお)下(ろ)しながら、ひしゃげた腹から野良声を振絞って、道教うる仙人のように見えた。
その葉が大きく上にかぶさる、下に彳(たたず)んで熟(じっ)と見た、瞳が霑(うる)んで溜(ため)息(いき)して、
﹁立さん、立さん、﹂
と手を取ったまま、励ますように呼掛けて、
﹁憎らしいではありませんか。あの芭蕉が伸拡がって、沼の上へ押(おっ)覆(かぶ)さるもんですから、御覧なさい。出(でし)汐(お)をこうして隠すんですもの。空へ上れば峰へ伸(のび)る、向うへかかれば海へ落ちて、いつ見ても、この水に、月の影が宿りません。
可哀相に。いつかの、あの時、月の影さえ見えたらばと、どんなに二人で祈ったでしょう。身につまされて涙が出る。まあ、この沼の暗いこと! 外は、あんなに月夜だのに。……﹂
翳(かざ)せばその手に、山も峰も映りそう。遠い樹立は花かと散り、頬に影さす緑の葉は、一枚ごとに黄(き)金(ん)の覆(ふく)輪(りん)をかけたる色して、草の露と相照らす。……沼は、と見れば、ここからは一面の琵(び)琶(わ)を中空に据えたようで、蘆(あし)の葉(は)摺(ず)れに、りんりんと鳴りそうながら、一(ひと)条(すじ)白(しろ)銀(がね)の糸も掛(かか)らず、暗々として漆して鼠が駈(かけ)廻(まわ)りそうである。
﹁先(さっ)刻(き)、貴(あな)下(た)がなすったついでに、もうちっと切払って下されば可(よ)かったのねえ。﹂
ただ等(なお)閑(ざり)に言い棄てたが、小松原は思わず拳(こぶし)を握った。生れて以(この)来(かた)、かよわきこの女(にょ)性(しょう)に対して、男性の意気と力をいまだかつて一たびもために露(あら)わし得た覚(おぼえ)がない。腑(ふが)効(い)なさもそのドン詰(づまり)に……
しゃ! 要こそあれ。
今も不思議に片手に持った、鞘(さや)を棄てて、提(ひっさ)げて衝(つ)と出たが、屹(きっ)と見上げて、
﹁おのれ!﹂
と横(よこ)薙(なぎ)、刃(やいば)が抜けると、そのもの、長髪をざっと捌(さば)く。驚(す)破(わ)天(あた)窓(ま)から押(おし)潰(つぶ)すよと、思うに肖(に)ず、二(ふた)丈(たけ)ばかりの仙人先生、ぐしゃと挫(ひし)げて、ぴしゃりとのめずる。
これにぞ、気を得て、返す刀、列位の黒(くろ)道(どう)人(じん)に切(きり)附(つ)けると、がさりと葉(はさ)尖(き)から崩れて来て、蚊帳を畳んだように落ちる。同時に前へ壁を築(つ)いて、すっくと立つ青仙人を、腰車に斬(き)って落す。拝(おが)打(みうち)、輪(わぎ)切(り)、袈(けさ)裟(が)掛(け)、はて、我ながら、気が冴(さ)え、手が冴え、白(しら)刃(は)とともに、抜けつ潜(くぐ)りつ、刎(はね)越(こ)え、飛び交い、八面に渡って、薙(なぎ)立(た)て薙立て、切伏せると、ばさばさと倒れるごとに、およそ一(ひと)幅(はば)の黒い影が、山の腹へひらひらと映って、煙が分れたように消える、とそこだけ、はっと月が射(さ)して、芭蕉のあとを、明るくなる。
果(はて)は丘のごとく、葉を累(かさ)ねた芭蕉の上に、全身緑の露を浴び、白刃に青き雫(しずく)を流して、逆(さか)手(て)に支(つ)いてほっと息する。
褄取りながら、そこへ来て、その人が肩を並べた。
白刃を落して、その時腕(かいな)をさすって憩う、小松原の手を取って、
﹁ああ、嬉しい。﹂
と、山の端(は)出(い)でたる月に向って、心ゆくばかり打仰いだ。背(せな)撓(たわ)み、胸の反るまで、影を飲み光を吸うよう、二つ三つ息を引くと、見る見る衣(きぬ)の上へ膚(はだえ)が透き、真白な乳(ち)が膨らむは、輝く玉が入ると見えて、肩を伝い、腕(かいな)を繞(めぐ)り、遍(あまね)く身内の血と一所に、月の光が行通れば、晃(きら)々(きら)と裳(もすそ)が揺れて、両の足の爪(つま)先(さき)に、美(うつくし)い綾(あや)が立ち、月が小(ささ)波(なみ)を渡るように、滑(なめら)かに襞(ひ)を打った。
呀(あなや)と思うと、自分の足は、草も土も踏んではおらず、沼の中なる水の上。
今はこうと、まだ消え果てぬ夫人に縋(すが)ると、靡(なび)くや黒髪、溌(ぱっ)と薫って、冷(つめた)く、涼(すずし)く、たらたらと腕に掛(かか)る。
…………小松原は、俯(うつ)向(む)けに蒼沼に落ちた処を、帰(かえ)宅(り)のほどが遅いので、医(せん)師(せい)が見せに寄(よこ)越(し)した、正吉に救われた。
車夫は沼の隅の物音に、提(ちょ)灯(うちん)を差出したが、芭蕉の森に白刃が走る月影に恐(おそれ)をなして、しばらく様子を見ていたと言う。
小松原が恢(かい)復(ふく)して、この話をした時、医学士は盃を挙げて言った。
﹁昔だと、仏門に入(い)る処だが、君は哲学を学(や)っとる人だから、それにも及ぶまい。しかし、蒼沼は可(あ)怪(や)しいな。﹂
明治四十一︵一九〇八︶年六月
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「さんずい+散」、U+6F75
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282-16 |
「くさかんむり/哽のつくり」、U+8384
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298-6 |
「火+發」、U+243CB
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308-10 |