一
倶く利り伽か羅ら峠には、新道と故道とある。いわゆる一騎落から礪とな波みや山まへ続く古戦場は、その故道で。これは大分以前から特別好もの物ずきな旅客か、山伏、行者の類たぐいのほか、余り通らなかった。――ところで、今度境三造の過よぎったのは、新道……天あま田だご越えと言う。絶頂だけ徒歩すれば、俥くるまで越された、それも一昔。汽車が通じてからざっと十年になるから、この天田越が、今は既に随分、好もの事ずき。
さて目的は別になかった。
暑中休暇に、どこかその辺あたりを歩あ行るいて見よう。以前幾たびか上下したが、その後のちは多年麓ふもとも見舞わぬ、倶利伽羅峠を、というに過ぎぬ。
けれども徒労でないのは、境の家は、今こそ東京にあるが、もと富山県に、父が、某なにがしの職を奉じた頃、金沢の高等学校に寄宿していた。従って暑さ寒さのよりよりごとに、度々倶利伽羅を越えたので、この時志したのは、謂いわば第二の故郷に帰省する意味にもなる。
汽車は津つば幡たで下りた。市との間に、もう一つ、森もり下もとと云う町があって、そこへも停ステ車エシ場ョンが出来るそうな、が、まだその運びに到らぬから、津幡は金沢から富山の方へ最初の駅。
間四里、聞えた加賀の松並木の、西東あっちこち、津幡まではほとんど家続きで、蓮れん根こんが名産の、蓮はす田だが稲田より風薫る。で、さまで旅らしい趣はないが、この駅を越すと竹の橋――源平盛衰記に==源氏の一ひと手ては樋ひぐ口ちか兼ねみ光つ大将にて、笠野富田を打廻り、竹の橋の搦から手めてにこそ向いけれ==とある、ちょうど峠の真下の里で。倶利伽羅を仰ぐと早や、名だたる古戦場の面影が眉に迫って、驚す破わ、松風も鯨と波きの声、山の緑も草くさ摺ずりを揺り揃えたる数すま万んの軍ぐん兵ぴょう。伏ふせ屋やが門かどの卯うの花も、幽霊の鎧よろいらしく、背戸の井戸の山吹も、美たお女やめの名の可なつ懐かしい。
これは旧もととても異かわりはなかった。しかしその頃は、走らす車、運ぶ草わら鞋じ、いざ峠にかかる一息つくため、ここに麓ふも路とじを挟さしはさんで、竹の橋の出では外ずれに、四五軒の茶店があって、どこも異らぬ茶ちゃ染ぞめ、藍あい染ぞめ、講こう中じゅ手うて拭ぬぐいの軒にひらひらとある蔭から、東海道の宿々のように、きちんと呼い吸きは合わぬながら、田舎は田舎だけに声こわ繕づくろいして、
﹁お掛けやす。﹂
﹁お休みやーす。﹂
それ、馬のすずに調子を合わせる。中には若い媚なまめかしい声が交って、化粧した婦おんなも居た。
境も、往ゆき還かえり奥の見晴しに通って、縁から峠に手を翳かざす、馴なじ染みの茶店があったのであるが、この度見ると、可なり広いその家やが構まえの跡は、草茫ぼう々ぼう、山を見通しの、ずッと裏の小高い丘には、松が一本、野を守る姿に立って、小さな墓の累かさなったのが望まれる。
由緒ある塚か、知らず、そこを旅人の目から包んでいた一ひと叢むらの樹こだ立ちも、大方切払われたのであろう、どこか、あからさまに里が浅くなって、われ一人、草ばかり茂った上に、影の濃いのも物寂しい。
それに、藁わら屋やや垣根の多くが取払われたせいか、峠の裾すそが、ずらりと引いて、風にひだ打つ道の高たか低ひく、畝うね々うねと畝った処が、心覚えより早や目めさ前きに近い。
が、そこまでは並木の下を、例に因って、畷なわての松が高く、蔭が出来て涼すずしいから、洋こう傘もりを畳んで支ついて、立たて場ばの方を振返ると、農家は、さすがに有りのままで、遠い青田に、俯うつ向むいた菅すげ笠がさもちらほらあるが、藁わら葺ぶきの色とともに、笠も日ひな向たに乾からびている。
境は急に心細いようになった。前さきにも後にも、往ゆき来きの人はなかったのである。
偶ふと思出したことがあって、三造は並木の梢こずえ――松の裏を高く仰いで見た。鵲かささぎの尾の、しだり尾の靡なびきはせずや。……
二
往いん年ぬるとし、雨上りの朝、ちょうどこの辺あたりを通とお掛りかかった時、松の雫しずくに濡色見せた、紺こん青じょうの尾を豊ゆたかに、樹この間の蒼あお空ぞらを潜くぐり潜り、鵲かささぎが急ぎもせず、翼で真まっ白しろな雲を泳いで、すいと伸のし、すいと伸して、並木の梢こずえを道づれになった。可なつ懐かしいその姿を見るのも、またこの旅の一興に算かぞえたのであったから――それを思出して窺うかがったが……今日は見えぬ。
なお前ゆく途ての空を視ながめ視め、かかる日の高い松の上に、蝉の声の喧かまびすしい中にも、塒ねぐらしてその鵲が居はせぬかと、仰いで幹をたたきなどして、右とみ瞻こ左う瞻みながら、うかうかと並木を辿たどる――大おおきな蜻とん蛉ぼの、跟あとをつけて行ゆくのも知らずに。
やがて樹立が疎まばらになって、右左両方へ梢が展ひらくと、山の根が迫って来た。倶利伽羅のその風情は、偉大なる雲の峯が裾を拡げたようである。
処へ、横雲の漾ただよう状さまで、一ひと叢むらの森の、低く目めさ前きに顕あらわれたのは、三四軒の埴はに生ゅうの小屋で。路みち傍ばたに沿うて、枝の間に梟ふくろうの巣のごとく並んだが、どこに礎いしずえを据えたとしもなく、元村から溢あふれて出たか、崖から墜おちて来たか、未来も、過去も、世はただ仮の宿と断あき念らめたらしい百姓家――その昔、大名の行列は拝んだかわりに、汽車の煙には吃びっ驚くりしそうな人々が住んでいよう。
朝夕の糧を兼ねた生垣の、人丈に近い茗みょ荷うがの葉に、野のば茨らが白くちらちら交って、犬が前脚で届きそうな屋根の下には、羽目へ掛けて小枝も払わぬ青葉枯葉、松薪まきをひしと積んだは、今から冬の用意をした、雪の山家と頷うなずかれて、見るからに佗わびしい戸の、その蜘く蛛もの巣は、山やま姥うばの髪のみだれなり。
一軒二軒……三軒目の、同じような茗荷の垣の前を通ると、小こ家やは引ひっ込こんで、前が背戸の、早や爪つま尖さきあがりになる山やま路みちとの劃しき目りめに、桃の樹が一株あり、葉蔭に真まっ黒くろなものが、牛の背中。
この畜生、仔しさ細いは無いが、思いがけない、物珍らしさ。そのずんど切ぎりな、たらたらと濡れた鼻はな頭づらに、まざまざと目を留めると、あの、前世を語りそうな、意味ありげな目で、熟じっと見据えて、むぐむぐと口を動かしざまに、ぺろりと横なめをした舌が円い。
その舌の尖さきを摺すって、野のば茨らの花がこぼれたように、真まっ白しろな蝶が飜ひら然りと飛んだ。が、角にも留まらず、直ぐに消えると、ぱっと地じの底へ潜くぐった状さまに、大牛がフイと失うせた。……
失せた……と思う暇もなしに、忽こつ然ぜんとして消えたのである。
﹁や!﹂
声を出して、三造はきょとんとして、何かに取とッ掴つかまったらしく、堅くなってそこらを捻ねじ向むく……と、峠とも山とも知れず、ただ樹の上に樹が累かさなり、中空を蔽おおうて四方から押おっ被かぶさって聳そびえ立つ――その向って行ゆくべき、きざきざの緑の端に、のこのこと天あた窓まを出した雲の峯の尖とっ端ぱしが、あたかも空へ飛んで、幻にぽちぽち残った。牛頭に肖にたとは愚か。
三造は悚ぞ然っとした。
が、遁にげ戻るでもなし、進むでもなく、無意識に一足出ると、何、何、何の事もない、牛は依然としてのっそりと居る。
一体、樹の間から湧わいて出たような例の姿を、通りがかりに一見し、瞻みまもり瞻り、つい一足歩あ行るいた、……その機はず会みに、件くだんの桃の木に隠れたので、今でも真まっ正しょ面うめんへちょっと戻れば、立たち処どころにまた消え失うせよう。
蝶も牛の背を越したかな……左の胴腹に、ひらひらひら。
﹁はは、はは。﹂
独りで笑出した。
﹁まず昼間で可よかった。夜中にこれを見せられると、申分なく目をまわす。﹂
三
これより前さき、境はふと、ものの頭かしらを葉越ごしに見た時、形から、名から、牛の首……と胸に浮ぶと、この栗くり殻からとは方角の反対な、加賀と越えち前ぜんの国くに境ざかいに、同じ名の牛首がある――その山も二三度越えたが、土地に古代の俤おもかげあり。麓ふもとの里に、錣しこ頭ろず巾きを取って被かずき、薙なぎ刀なた小脇に掻かい込こんだ、面つらには丹にを塗り、眼まなこは黄こが金ね、髯ひげ白しろ銀がねの、六尺有余の大彫像、熊くま坂さか長ちょ範うはんを安置して、観かん音のん扉びらきを八文字に、格子も嵌はめぬ祠ほこらがある。ために字あざなを熊坂とて、俗に長範の産地と称となえる、巨盗の出処は面白い。祠は立たて場ばに遠いから、路みち端ばたの清水の奥に、蒼あおく蔭り、朱に輝く、活いけるがごとき大盗賊の風ふう采さいを、車の上からがたがたと、横に視ながめて通った事こそ。われ御おん曹ぞう子しならねども、この夏休みには牛首を徒かち歩あるきして、菅すげ笠がさを敷いて対面しょう、とも考えたが、ああ、しばらく、この栗殻の峠には、謂いわれぬ可なつ懐かしい思おも出いでがあったので、越えっ中ちゅ境うざかいへ足を向けた。――
処を、牛の首に出会ったために、むしろその方が興味があったかも知れないと、そぞろに心の迷った端はなを、隠おん身しん寂じゃ滅くめつ、地獄が消えた牛ぎゅ妖うように、少なからず驚かされた。
正体が知れてからも、出遊の地に二ふた心ごころを持って、山霊を蔑ないがしろにした罪を、慇いん懃ぎんにこの神聖なる古戦場に対むかって、人知れず慚ざん謝しゃしたのであるる。
立向う山の茂しげりから、額を出して、ト差さし覗のぞく状さまなる雲の峰の、いかにその裾すその広く且つ大なるべきかを想うにつけて、全体を鵜うの呑みにしている谷の深さ、山の高さが推おし量はかられる。
辿たどるほどに、洋こう傘もりさした蟻ありのよう――蝉の声が四あた辺りに途絶えて、何の鳥かカラカラと啼なくのを聞くと、ちょっとその嘴くちばしにも、人間は胴どう中なかを横よこ啣ぐわえにされそうであった。
谷が分れて、森が涼しい。
右め手ての谷の片隅に、前さきに見た牛の小家が、小さくなって、樹こだ立ちありとも言わず、真まっ白しろに日が当る。
やがて、二分ぶが処上のぼった。
坂路に……草刈か、鎌は持たず。自じね然んじ薯ょほ穿りか、鍬くわも提げず。地じが柄ら縞しま柄がらは分らぬが、いずれも手織らしい単ひと放えを裙すそ短みじかに、草履穿ばきで、日に背いたのは緩ゆるやかに腰に手を組み、日に向ったのは額に手笠で、対さし向むかって二人――年と紀しも同じ程な六むそ十じそ左こ右らの婆ば々ばが、暢のん気きらしく、我が背戸に出たような顔かお色つきして立っていた。
山さん逕けいの磽ぎょ、以前こそあれ、人通りのない坂は寸ずた裂ずた、裂目に草生い、割目に薄すすきの丈伸びたれば、蛇へびの衣きぬを避よけて行ゆく足あし許もとは狭まって、その二人の傍わきを通る……肩は、一人と擦れ擦れになったのである。
ト境の方に立ったのが、心持身から体だを開いて、頬ほおの皺しわを引ひん伸のばすような声を出した。
﹁この人はや。﹂
﹁おいの。﹂
と皺枯れた返事を一人が、その耳の辺あたりの白しら髪がが動く。
﹁どこの人ずら。﹂
﹁さればいの。﹂
と聞いた時、境は早や二三間、前むこ途うへ出ていた。
で、別に振り返ろうともしなかった――気に留めるまでもない、居まわりには見掛けない旅の姿を怪しんで、咎とがめるともなく、声高に饒しゃ舌べったろう、――それにつけても、余り往ゆき来きのないのは知れた。
けれども、それからというものは、遠い樹立の蔭に、朦もう朧ろうと立ったり、間近な崖へ影が射さしたり、背うし後ろからざわざわと芒すすきを掻かき分わける音がしたり、どうやら、件くだんの二人の媼おうなが、附つき絡まとっているような思おもいがした。ざっと半日の余、他ほかに人らしいものの形を見なかったために、何事もない一対の白髪首が、深く目に映って消えなかった、とまず見える。
四
蜩ひぐらしが谷になって、境は杉の梢こずえを踏む。と峠は近い。立向う雲の峰はすっくと胴を顕あらわして、灰色に大おおいなる薄うす墨ずみの斑まだらを交え、動かぬ稲妻を畝うねらした状さまは凄すさまじい。が、山々の緑が迫って、むくむくとある輪りん廓かくは、霄おおぞらとの劃くぎりを蒼あおく、どこともなく嵐らん気きが迫って、幽かすかな谷川の流ながれの響きに、火の雲の炎の脈も、淡く紫に彩られる。
また振返って見れば、山の裾と中空との間に挟まって、宙に描かれた遠とお里ざとの果はてなる海の上に、落ち行ゆく日の紅くれないのかがみに映って、そこに蟠わだかまった雲の峰は、海くら月げが白く浮べる風情。蟻を列ならべた並木の筋に……蛙のごとき青あお田たの上に……かなたこなた同じ雲の峰四つ五つ、近いのは城の櫓やぐら、遠きは狼のろ煙しの余なご波りに似て、ここにある身は紙た鳶こに乗って、雲の桟かけはし渡る心地す。
これから前さきは、坂が急に嶮けわしくなる。……以前車の通った時も、空からでないと曳ひき上あげられなかった……雨降りには滝になろう、縦に薬やげ研んが形たに崩くず込れこんで、人足の絶えた草は、横ざまに生え繁って、真まっ直すぐに杖つえついた洋こう傘もりと、路の勾配との間に、ほとんど余地のないばかり、蔦つた蔓かずらも葉の裏を見上げるように這はい懸かかる。
それは可いい。
かほどの処を攀よじ上のぼるのに、あえて躊ちゅ躇うちょするのではなかったが、ふとここまで来て、出足を堰せき止とめられた仔しさ細いがある。
山の中の、かかる処に、流なが灌れか頂んちょうではよもあるまい。路の左右と真まん中なかへ、草の中に、三本の竹、荒縄を結ゆい渡わたしたのが、目の前を遮った、――麓ふもとのものの、何かの禁まじ厭ないかとも思ったが、紅べに紙がみをさした箸はしも無ければ、強こわ飯めしを備えた盆も見えぬ。
﹁可おか訝しいな。﹂
考えるまでもない、手てっ取とり早く有あり体ていに見れば、正にこれ、往来止どめ。
して見ると、先さっ刻き、路を塞ふさいで彳たたずんだ、媼ばばの素そぶ振りも、通りがかりに小耳に挟んだ言ことばの端にも、深い様子があるのかも知れぬ。……土地の神が立たせておく、門番かとも疑われる。
が、往来止だで済ましてはいられぬ。もしその意味に従えば、……一寸先へも出られぬのである。
もっとも時経たったか、竹も古びて、縄も中なか弛だるみがして、草に引ひき摺ずる。跨またいで越すに、足を挙ぐるまでもなかったけれども、路に着けた封印は、そう無雑作には破れなかった。
前あと後さきをしながら、密そっとその縄を取って曳ひくと、等なお閑ざりに土の割目に刺したらしい、竹の根はぐらぐらとして、縄がずるずると手た繰ぐられた。慌てて放して、後へ退さがった。――一対の媼ばばが、背うし後ろで見張るようにも思われたし、縄張の動く拍子に、矢がパッと飛んで出そうにも感じたのである。
いや、名にし負う倶利伽羅で、天にも地にもただ一人、三造がこの挙ふる動まいは、われわれ人間としては尋ただ常ご事とではない。手に汗を握る一大事であったが、山に取っては、蝗いなごが飛ぶほどでもなかろう。
境は、今の騒ぎで、取落した洋こう傘もりの、寂しく打ぶっ倒たおれた形さえ、まだしも娑しゃ婆ばの朋とも達だちのような頼たの母もしさに、附くッ着ついて腰を掛けた。
峰から落し、谷から推おして、夕暮が次第に迫った。雲の峰は、一ひと刷はけ刷いて、薄黒く、坊主のように、ぬっと立つ。
日が蔭って、草の青さの増すにつけ、汗ばんだ単ひと衣えの縞しまの、くっきりと鮮あざ明やかになるのも心細い――山路に人の小ささよ。
蜻とん蛉ぼでも来て留まれば、城の逆さか茂も木ぎの威厳を殺そいで、抜いて取っても棄すつべきが、寂じゃ寞くまくとして、三本竹、風も無ければ動きもせず。
蜩ひぐらしの声がする…………
五
カラカラと谺こだまして、谷の樹こだ立ちを貫ぬき貫ぬき、空へ伝わって、ちょっと途絶えて、やがて峰の方かたでカラカラとまた声が響く。
と、蜩の声ばかりでなく、新あらたに鐸すずの音ねが起ったのである。
ちりりんりんと――しかり、鐸を鳴らす、と聞いただけで、夏の山には、行者の姿が想像されて、境は少からず頼たの母もしかった。峠には人が居る。
その実、山霊が奏かなでるので、次第々々に雲の底へ、高く消えて行ゆく類たぐいの、深秘な音楽ではあるまいか、と覚おぼ束つかなさに耳を澄ますと、確たしかに、しかも、段々に峰から此こな方たに近くなる。
蜩がそれに競わんとするごとく、また頻しきりに鳴き出す――足あし許もとの深い谷から、その銀しろがねの鈴を揺ゆり上あげると、峠から黄こが金ねの鐸を振下ろして、どこで結ばるともなく、ちりりりと行ゆき交かうあたりは、目に見えぬ木この葉が舞い、霧が降る。
涼しさが身に染みて、鐸か、声か、音か、蜩ひぐらしの、と聞き紛まがうまで恍うっ惚とりとなった。目めの前さきに、はたと落ちた雲のちぎれ、鼠色の五尺の霧、ひらひらと立って、袖擦れにはっと飛ぶ。
﹁わっ。﹂
と云って、境は驚おど駭ろきの声を揚げた。
遮る樹立の楯たてもあらず、霜夜に凍いてたもののごとく、山路へぬっくと立留まった、その一団の霧の中に、カラカラと鐸が鳴ったが、
﹁ほう――﹂
と梟ふくろのような声を発した。面つら赭あか黒ぐろく、牙きば白く、両の頬に胡くる桃みを噛かみ破わり、眼まなこは大おろ蛇ちの穴のごとく、額の幅約一尺にして、眉は栄さざ螺えを並べたよう。耳まで裂けた大口を開あいて、上から境を睨ねめ着けたが、
﹁これは、﹂
と云う時、かっしと片腕、肱ひじを曲げて、その蟹かにの甲こう羅らを面めん形がたに剥はいで取った。
四十余りの総そう髪がみで、筋骨逞たくましい一いっ漢かん子し、――またカラカラと鳴った――鐸の柄を片手に持換えながら、
﹁思いがけない処にござった。とんと心着きませんで、不調法。﹂
と一いち揖ゆうして、
﹁面です……はははは面でござる。﹂
と緒を手首に、可おそ恐ろしい顔は俯うつ向むけに、ぶらりと膝に飜ったが、鉄で鋳たらしいその厳おごそかさ。逞ましい漢おのこの手にもずしりとする。
﹁お驚きでございましたろうで、恐縮でござります。﹂
﹁はあ、﹂
と云うと、一ひと刎はね刎ねたままで、弾ぜん機まいが切れたようにそこに突つっ立たっていた身みが構まえが崩れて、境は草の上へ投なげ膝ひざで腰を落して、雲が日ひよ和り下げ駄た穿はいた大山伏を、足の爪つま尖さきから見上げて黙る。
﹁別に、お怪け我がは?﹂
手を出して寄って来たが、腰でも抱こう様子に見えた。
﹁怪我なんぞ。﹂
境は我ながら可おか笑しくなって、
﹁生いの命ちにも別条はありません。﹂
﹁重ちょ畳うじょうでござる。﹂
と云う、落着いて聞くと、声のやや掠かすれた人物。
﹁しかし大丈夫、立派な処を御目に懸けました。何ですか、貴あな下たは、これから、﹂
﹁さよう、竹の橋をさして下山いたすでございます、貴あな辺たはな。﹂
境は振向いて峠を仰いだ。目を突くばかりの坂の葎むぐらに、竹はすっくと立っている。
六
﹁ええ、日脚は十分、これから峠をお越しになっても、夏の日は暮れますまい――が、その事でござる、……さよう、その儀に就いて、﹂
境の前に蹲しゃがんだ時、山伏は行ぎょ衣うえの胸に堆うずたかい、鬼の面が、襟えり許もとから片目で睨にらむのを推おし入いれなどして、
﹁実は、貴あな辺たよりも私てまえがお恥かしい。臆おく病びょうから致いてかようなものを持出しましたで。
それと申すが、やはりこの往来止の縄張でございまするがな。ここばかりではのうて、峠を越しました向うの坂、石いす動るぎから取とッ附つきの上のぼり口にも、ぴたりと封じ目の墨があるでござります。
仔しさ細いあって、私てまえは、この坂を貴あな辺た、真まっ暗くら三さん宝ぼう駆下りましたで、こちらのこの縄張は、今承りますまで目にも入らず、貴辺がお在いでなさる姿さえ心着かなんだでござります。
が、あちらのは、風うわ説さにも聞きますれば、私てまえも見ました、と申しますのが、そこからさまで隔てませぬ、石動の町をこの峠の方へ、人里離れました処に、山やま籠ごもりを致しております。﹂
不動堂の先達だと云う。それでその鐸すずも、雲のような行衣も解よめた。
﹁御免下され、﹂
とここで、鐸を倒さかさまに腰にさして、袂たもとから、ぐったりした、油臭い、叺かますの煙たば草こい入れを出して、真しん鍮ちゅうの煙きせ管るを、ト隔てなく口ごと持って来て、蛇の幻のあらわれた、境の吸う巻まき莨たばこで、吸附けながら、
﹁赫かっと気ばかり上のぼって、ざっと一日、好すきな煙草もよう喫のみません。世に推おし事ごとというは出来ぬもので、これがな、腹に底があってした事じゃと、うむと堪こらえるでござりましょうが、好もの事ずき半分の生なま兵びょ法うほう、豪えらく汗を掻かきました。﹂
﹁峠に何事があったんですか。﹂
﹁されば。﹂
すぱすぱと二三服、さも旨うまそうに立続けに行者は、矢継早に乙おと矢やを番つがえて、
﹁――ございました。﹂
﹁どんな事ですか。﹂
少し急せき込こんで聞きながら、境は楯たてに取った上のぼ坂りざかを見返った。峠を蔽おおう雲の峰は落日の余なご光りに赤し。
行者の頬も夕焼けて、
﹁順に申さんと余り唐突でございますで――一体かようでございます。
峠で力ちか餅らもちを売りました、三四軒茶屋旅はた籠ごのございました、あの広ひろ場ッぱな、……俗に猿ヶ馬ばん場ば――以前上のぼ下りくだりの旅人で昌さかりました時分には、何が故に、猿ヶ馬場だか、とんと人力車の置場のようでござりましたに、御存じの汽車が、この裾すそを通るようになりましてからは、富山の薬売、城じょ端うはなのせり呉服も、碌ろくに越さなくなりまして、年一年、その寂れ方というものは、……それこそまた、猿えてどもが寄より合あい場ばになったでございます。
ところで、峠の茶屋連中、山やま家がものでも商あき人んどは利に敏さとい――名物の力餅を乾かき餅もちにして貯えても、活くら計しの立たぬ事に疾はやく心着いて、どれも竹の橋の停車場前へ引越しまして、袖無しのちゃんちゃんこを、裄ゆきの長い半はん纏てんに着換えたでござります。さて雪国の山家とて、桁けた梁うつばり厳がん丈じょうな本陣擬まがい、百年経たって石にはなっても、滅多に朽ちる憂うれいはない。それだけにまた、盗賊の棲すみ家かにでもなりはせぬか、と申します内に、一夏、一ある日ひ晩方から、や、もう可おそ恐ろしく羽はあ蟻りが飛んで、麓ふもと一円、目も開あきませぬ。これはならぬ、と言う、口へ入る、鼻へ飛込む。蚊帳を釣っても寝床の上をうようよと這はい廻まわる――さ、その夜あけ方に、あれあれ峠を見され、羽蟻が黒雲のように真まっ直すぐに、と押おっ魂たま消げる内、焼けました。
残ったのがたった一軒。
いずれ、山やまぎのものか、乞食どもの疎そそであろう。焼残った一軒も、そのままにしておいては物騒じゃに因って、上段の床の間へ御仏像でも据えたなら、構かまえは大おおきい。そのまま題にして、倶くり利から伽ざん羅しょ山う焼ざ残ん寺じが一院、北ほっ国こく名なだ代いの巡拝所――
と申す説もござりました。﹂
七
﹁ところが、買手が附いたのでござりましてな。随分広い、山ぐるみ地所附だと申す事で。﹂
行者がちょいと句切ったので、
﹁別荘にでもなりましたか。﹂
煙きせ管るを揮ふって、遮るごとく、
﹁いや、その儀なら仔しさ細いはござらん、またどこの好もの事ずきじゃと申して、そんな峠へ別荘でもござりますまい。……まず理窟は措おいて、誰だか買主が分らぬでございます。第一その話がござってから、二人や、三人、ぽつぽつ峠を越したものもございますが、一向に人の住んでいる様子は見えぬという事で。ただ稀代なのは、いつの間にやら雨で洗ったように、焼やけ跡あとらしい灰もなし、焚もえさしの材木一本横よこたわっておらぬばかりか、大風で飛ばしたか、土どだ礎いい石し一つ無い。すらりと飯いび櫃つな形りの猿ヶ馬ばん場ばに、吹ふき溜たまった落葉を敷いて、閑々と静まりかえった、埋うもれ井戸には桔きき梗ょうが咲き、薄すすきに女おみ郎なえ花しが交ったは、薄うす彩さい色しきの褥しとねのようで、上かみ座くらに猿丸太夫、眷けん属ぞくずらりと居流れ、連歌でもしそうな模様じゃ。……︵焼やき撃うちをしたのも九つづ十ら九お折りの猿が所しわ為ざよ、道理こそ、柿の樹と栗の樹は焼かずに背戸へ残したわ。︶……などと申す。
山やま家がで徒あいでござるに因って、何か一軒家を買取ったも、古猿の化けた奴やつ。古むかしこの猿ヶ馬場には、渾あだ名なを熊くま坂さかと言った大猿があって、通行の旅人を追おい剥はがし、石いす動るぎの里へ出て、刀の鍔つばで小あず豆きも餅ちを買ったとある、と雪の炉ろば端たで話が積つもる。
トそこら白いものばっかりで、雪ゆき上じょは白しろ無む垢くじゃ……なんぞと言う処から、袖そで裾すそが出来たものと見えまして、近頃峠の古屋には、世にも美しい婦おんなが住すまう。
人が通ると、猿ヶ馬場に、むらむらと立つ、靄もや、霞、霧の中に、御殿女中の装いした婦おんなの姿がすっと立つ――
見たものは命がない。
さあ、その風うわ説さが立ちますと、それからこっち両三年、悪いと言うのを強いて越して、麓ふもとへ下りて煩うのもあれば、中には全く死んだもござる。……﹂
﹁まったく?﹂
とハタと巻まき莨たばこを棄てて、境は路みち傍ばたへ高く居直る。
行者は、掌てのひらで、鐸すずの蓋ふたして、腰を張って、
﹁さればその儀で。――
隣村も山道半里、谷や戸と一里、いつの幾いつ日かに誰が死んで、その葬とむ式らいに参ったというでもござらぬ、が杜ほと鵑とぎすの一声で、あの山、その谷、それそれに聞えまする。
地体、一軒家を買取った者というのも、猿じゃ、狐じゃ、と申す隙ひまに、停車場前の、今、餅屋で聞くか、その筋へ出て尋ねれば、皆目知れぬ事はござるまい。が、人間そこまではせぬもので、火元は分らず、火の粉ばかり、わッぱと申す。
さらぬだに往来の途絶えた峠、怪あやしい風説があるために、近来ほとんど人跡が絶果てました。
ところがな、ついこの頃、石動在の若者、村相撲の関を取る力自慢の強がりが、田植が済んだ祝酒の上機嫌、雨あま霽あがりで元気は可よし、女小こど児もの手前もあって、これ見よがしに腕を扼さすって――己おらが一番見届ける、得物なんぞ、何、手てづ掴かみだ、と大手を振って出懸けたのが、山路へかかって、八ツさがりに、私わしども御みど堂うへ寄ったでござります。
そこで、御お神み酒きを進ぜました。あびらうんけんそわかと唱えて、押頂いて飲んだですて……
︵お気をつけられい。︶
と申して石段を送って出ますと、坂へ立たつ身みあ上がりに片足を踏伸ばいて、
︵先達、訳あねえ。︶
と向むこ顱うは巻ちまきしたであります――はてさて、この気構えでは、どうやら覚おぼ束つかないと存じながら、連つれにはぐれた小相撲という風に、源氏車の首くび抜ぬき浴衣の諸もろ肌はだ脱ぬぎ、素足に草わら鞋じば穿き、じんじん端ばし折ょりで、てすけとくてく峠へ押おし上のぼる後うし姿ろつきを、日脚なりに遠く蔭るまで見送りましたが、何が、貴あな辺た、﹂
﹁え、その男は?﹂
八
先達は渋面して、
﹁まず生いの命ちに別条のないばかり、――日が暮れましたで、私てまえ御本堂へだけ燈明を点つけました。で、縁の端で……されば四日頃の月をこう、﹂
手てび廂さしして、
﹁森の間あいから視ながめていますと、けたたましい音を立てて、ぐるぐる舞いじゃ、二三度立たち樹きに打ぶつ着かりながら、件くだんのその昼間の妖ばけ物もの退治が、駆込んで参りました。
︵お先達、水を一口、︶
と云うと、のめずって、低い縁へ、片かた肱ひじかけたなり尻餅を支ついたが、……月明りで見るせいではござらん、顔の色、真まっ蒼さおでな。
すぐに岩清水を月影に透かして、大茶碗に汲くんで進ぜた。
︵明王のお水でござる……しっかりなされ。︶
と申したが、こっちで口へ当あてがってやらずには、震えて飲めなんだでござります。
やっと人心地になった処で、本堂傍わきの休息所へ連込みました。
処で様子を尋ねると、︵そ、その森の中、垣根越、女の姿がちらちらする、わあ、追おっ懸かけて来た、入って来る……閉めて欲ほしい。︶と云うで、ばたばた小窓など塞ふさぎ、赫かっと明あかるくとも参らんが、煤すすけたなりに洋ラン燈プも点つけたて。
少々落着いての話では――勢いきおいに任せて、峠をさして押上った、途中別に仔しさ細いはござらん。元もと来もと、そこから引返そうというではなく、猿ヶ馬場を、向うへ……
というのが、……こちらで、﹂
と煙管の尖さきで草を圧おさえ、
﹁峠越し竹の橋へ下りて、汽車で帰ろう了りょ簡うけん。ただただ、山一つ越せば可いいわ、で薄すすき、焼やけ石いし、踏ふみだいに、……薄うす暮くれ合あい――猿ヶ馬場はがらんとして、中に、すッくりと一軒家が、何か大牛が蟠わだかまったような形。人が開けたとは受取れぬ、雨戸が横に一枚と、入口の大戸の半分ばかり開いた様子が、口をぱくりと……それ、遣やった塩あん梅ばい。根太ごと、がたがたと動出しもし兼ねんですて。
そいつを睨にらみつけて、右の向むこ顱うは巻ちまき、大肌脱で通りかかると、キチキチ、キチキチと草が鳴る……いや、何か鳴くですじゃ、……
蟋きり蟀ぎりすにしては声が大おおきいぞ――道理かな、鼬いたち、かの鼬な。
鼬でござるが、仰あお向むけに腹を出して、尻尾をぶるぶると遣って、同おな一じ処をごろごろ廻る。
つい、路みち傍ばたの足あし許もと故に、
︵叱しつ! 叱!︶
と追ってみたが、同おな一じ処をちょっとも動かず、四足をびりびりと伸べつ、縮めつ、白い面つらを、目も口も分らぬ真まあ仰お向むけに、草に擦すりつけ擦つけて転げる工ぐあ合いが、どうも狗いぬころの戯じゃれると違って、焦こげ茶ちゃ色の毛の火になるばかり、悶もだえ苦くるしむに相違ござらん。
大うわ蛇ばみでも居て狙ねらうか、と若い者ちと恐おじ気けがついたげな、四あた辺りに紛まがいそうな松の樹もなし、天あた窓まの上から、四しと斗だ樽るほどな大だい蛇じゃの頭が覗のぞくというでもござるまい。
なお熟じっと瞻みまもると、何やら陽かげ炎ろうのようなものが、鼬の体から、すっと伝つたわり、草の尖さきをひらひらと……細い波形に靡なびいている。はてな、で、その筋を据すえ眼まなこで、続く方へ辿たどって行ゆくと……いや、解よめましたて。
右の一軒家の軒下に、こう崩れかかった区くぎ劃りの石いしの上に、ト天を睨にらんだ、腹の上へ両方の眼まなこを凸なかだか、シャ! と構えたのは蟇ひきがえるで――手ごろの沢たく庵あん圧おしぐらいあろうという曲くせ者もの。
吐つく息あたかも虹にじのごとしで、かッと鼬に吹掛ける。これとても、蚊かや蜉ぶ蝣ゆを吸うような事ではござらん、式かたのごとき大物をせしめるで、垂たら々たらと汗を流す。濡色が蒼あお黄ぎい色ろに夕日に光る。
怪しさも、凄すごさもこれほどなら朝茶の子、こいつ見みも物のと、裾を捲まくって、蹲しゃがみ込んで、
︵負けるな、ウシ、︶
などと面白半分、鼬殿を煽あおったが、もう弱ったか、キチキチという声も出ぬ。だんだんに、影が薄くなったと申す事で。﹂
九
﹁その内に、同じく伸のッつ、反そッつ、背中を橋に、草に頸ぼん窪のくぼを擦りつけながら、こう、じりりじりりと手た繰ぐられる体ていに引寄せられて、心持動いたげにございました。
発は奮ずんで、ずるずると来た奴やつが、若わか衆いしゅの足許で、ころりと飜かえると、クシャッと異変な声を出した。
こいつ嗅かがされては百年目、ひょいと立って退すさったげな、うむと呼い吸きを詰めていて、しばらくして、密そっと嗅ぐと、芬ぷんと――貴あな辺た。
ここが可おか訝しい。
何とも得え知れぬ佳いい薫かおりが、露むき出だしの胸に冷ひやりとする。や、これがために、若衆は清き涼つ剤けを飲んだように気が変って、今まで傍わき目めも触ふらずにいました蟇ひきがえるの虹を外して、フト前むこ途うを見る、と何と、一軒家の門かどを離れた、峠の絶頂、馬場の真まん中なか、背うし後ろへ海のような蒼あお空ぞらを取廻して、天涯に衝つい立たてめいた医いお王うせ山んの巓いただきを背し負ょい、颯さっと一ひと幅はば、障子を立てた白い夕ゆう靄もやから半身を顕あらわして、錦にしきの帯は確たしかに見た。……婦おん人なが一人……御殿女中の風をして、﹂
――顔を合わせた。――
﹁御殿女中の?……﹂
と三造は聞返す。
﹁お聞きなされ、その若わか衆いしゅの話でござって――ト見ると、唇がキラキラと玉虫色、……それが、ぽっちり燃えるように紅あかくなったが、莞にっ爾こりしたげな。
若衆は、一支えもせず、腰を抜いたが、手を支つく間もない、仰あお向のけに引ひっくりかえる。独りでに手足が動く、ばたばたはじまる。はッあァ、鼬の形と同おん一なじじゃ。と胸を突くほど、足が窘すくむ、手が縮まる、五体を手てま毬りにかがられる……六万四千の毛穴から血が颯さっと霧になって、件くだんのその紅い唇を染めるらしい。草に頸うなじを擦着け擦着け、
︵お助け下さい、お助け!︶……
と頭ずで尺取って、じりじりと後あと退ずさり、――どうやらちっと、緊しめつけられた手足の筋の弛ゆるんだ処で、馬場の外れへ俵転がし、むっくりこと天あた窓まへ星を載のせて、山やま端ばなへ突つっ立たつ、と目が眩くらんだか、日が暮れたか、四あた辺りは暗くなって何も見えぬ。
で、見返りもせず、逆落し、旧もとの坂をどどどッと駆下りる――いやもう途中、追々ものの色が分るにつけ、山やま茨いばらの白いのも女の顔に顕あらわれて、呼い吸きも吐つけずに遁にげた、――と申す。
若衆は話の中うちも、わなわなと歯の根が合わぬ。
︵生いき血ちを吸われた、お先達、ほう、腕が冷い、氷のようじゃ。︶
と引ひっ被かぶせてやりました夜具の襟から手を出して、情なさけなさそうに、銀の指環を視ながめる処が、とんと早や大病人でな。
お不動様の御おす像がたの前へ、かんかん燈明を点じまして、その夜よは一晩、私てまえが附添ったほどでござります。
峠越し汽車に乗って帰ると云うたで、その夜は帰らないのを、村の者も、さまで案じずにいましたげな。午ひる過ぎてから四五人連立って様子を見に参ったのが、通りがかり、どやどや御みど堂うへ立寄りましたに因って、豪傑はその連中に引渡して、事済んだでございます。
が、唯ただ今いまもお尋ねの肝腎のその怪あやしい婦人が、姿すが容たかたち、これがそれ御殿女中と申す一件――振ふり袖そでか詰つめ袖そでか、裙すそ模様でも着てござったか、年と紀しごろは、顔立は、髪は、島田とやらか、それとも片はずしというようなことかと、委くわしく聞いてみたでございますが、当人その辺はまるで見みさ境かいがございません。
何でも御殿女中は御殿女中で、薄ら蒼あおいにどこか黄味がかった処のある衣きも物ので、美しゅう底光りがしたと申す。これはな、蟇の色が目に映って、それが幻に出たらしい。
して見ると、風うわ説さを聞いて、風説の通り、御殿女中、と心得たので、その実確たしかにどんな姿だか分りませぬ。
さあ、是これ沙ざ汰たは大おお業ぎょうで、……
(朝疾 う起きて空見れば、
口紅つけた上 が、)
口紅つけた
と村の小こど児もは峠を視ながめる。津つば幡たが川わを漕こぐ船頭は、︵笄こうがいさした黒髪が、空から水に映る︶と申す、――峠の婦おん人なは、里も村も、ちらちらと遊ゆぎ行ょうなさるる……﹂
十
﹁その替り村里から、この山へ登るものは、ばったり絶えたでありましてな。﹂
﹁それで、﹂
聞きき惚とれていた三造は、ここではじめて口を入れたが、
﹁貴あな下たが、探険――山開きをなさいましたんですね。﹂
先達は額に手を当て、膨れた懐ふと中ころを伏目に覗のぞいて、
﹁御意で、恐縮をいたします……さような行ぎょ力うりきがありますかい。はッはッ、もっとも足は達者で、御覧の通り日ひよ和り下げ駄たじゃ、ここらは先達めきましたな。立たて山やま、御おん嶽たけ、修行にならば這はい摺ずっても登りますが、秘密の山を人助けに開こうなどとはもっての外の事でござる。
また早い話が、この峠を越さねばと申して、多たぜ勢いのものが難渋をするでもなし、で、聞いたままのお茶話。秋にでもなって、朝ぼらけの山の端はに、ふと朝顔でも見えましたら、さてこそさてこそ高たか峰ねの花と、合がっ点てんすれば済みます事。
処を、年とし効がいもない、密そっと……様子が見たい漫そぞろ心で、我慢がならず企てました。
それにいたせ、飛んだ目には逢いとうござらん心得から、用心のために思いつきましたはこの一物、な、御覧の通り、古くから御みど堂うの額面に飾ってござります獅しか噛みお面もて、――待て待て対あい手ては何にもせよ、この方鬼の姿で参らば、五ごま枚いじ錣ころを頂いたも同然、同じ天あた窓まから一口でも、変へん化げの口に幅ったかろうと、緒だけ新しいのを着けたやつを、苛いら高だかがわりに手首にかけて、トまず、金剛杖を突立てて、がたがたと上りました。約束通り、まず何事もなく、峠へかかったでござります。﹂
﹁猿ヶ馬場へ、﹂
﹁さようで、立たて場ばの焼跡へ、﹂
﹁はあ成程。﹂
﹁縄張のあります処から、ここぞともはや面おもてを装い、チャクと黒鬼に構えました。
仔しさ細いなく、鼻の穴から麓ふもとまで見通し、濶かッと睨にらんだ大の眼まなこは、ここの、﹂
と額に皺しわを寄せて、
﹁汗を吹抜きの風かざ通とおし……さして難渋にもござらなんだが、それでも素面のようではない。一人前、顔だけ背し負ょって歩あ行るく工合で、何となく、坂路が捗はか取どりません。
馬ばん場ばへ懸かかると、早や日脚が摺ずって、一面に蔭った上、草も手入らずに生え揃うと、綺きれ麗いに敷くでござりましてな、成程、早咲の桔きき梗ょうが、ちらほら。ははあ、そこらが埋うもれ井戸か……薄すすきがざわざわと波を打つ。またその風の冷たさが、颯さっと魂を濯あらうような爽さわ快やいだものではなく、気のせいか、ぞくぞくと身に染みます。
おのれ、と心しんをまず丹たん田でんに落おちつけたのが、気ばかりで、炎天の草いきれ、今鎮まろうとして、這はい廻まわるのが、むらむらと鼠色に畝うねって染めるので、変に幻の山を踏む――下駄の歯がふわふわと浮上る。
さあ、こうなると、長し短し、面めん被かぶりでござるに因って、眼がんは明あかるいが、面つらは真まっ暗くら、とんと夢の中に節穴を覗のぞく――まず塩あん梅ばい。
それ、躓つまずくまい、見当を狂わすなと、俯うつ向むきざまに、面をぱくぱく、鼻の穴で撓ためる様子が、クン、クンと嗅かいで、
︵やあ人臭いぞ。︶
と吐ほざきそうな。これがさ、峠にただ一人で遣やる挙ふる動まいじゃ、我ながら攫さらわれて魔道を一人旅の異変な体てい。﹂
﹁まったく……ですね。﹂
と三造は頷うなずいたのである。
﹁な、貴あな辺た、こりゃかような態ざまをするのが、既にものに魅せられたのではあるまいか。はて、宙へ浮いて上あがるか、谷へ逆さか様さまではなかろうか、なぞと怯おじ気けがつくと、足が窘すくんで、膝がっくり。
ヤ、ヤ、このまんまで、窮いきついては山だ車し人形の土用干――堪たまらんと身みも悶だえして、何のこれ、若わか衆いしゅでさえ、婦おん人なの姿を見るまでは、向むこ顱うは巻ちまきが弛ゆるまなんだに、いやしくも行者の身として、――﹂
十一
﹁ごもっともですね。﹂
ちとこれが不意だったか、先達は、はたと詰つまって、擽くすぐったい顔がん色しょくで、
﹁痛いた入みいります、いやしくも行者の身として……そのしだらで、﹂
境は心着いて、気の毒そうに、
﹁いいえ、いいえ。﹂
﹁何、私てまえもその気で仰おっ有しゃったとは存じませぬがな、はッはッはッ。
笑わら事いごとではござらぬ。うむとさて、勇気を起して、そのまま駆下りれば駆下りたでありますが、せっかくの処へ運んだものを、ただ山を越えたでは、炬こた燵つや櫓ぐらを跨またいだ同然、待て待て禁札を打って、先達が登山の印を残そうと存じましたで、携えました金剛を、一番突つっ立たてておこう了りょ簡うけん。
薄すすきの中へぐいと入れたが、ずぶりと参らぬ。草の根が張って、ぎしぎしいう、こじったが刺ささりません。えいと杖の尖さきで捏こねる内に、何の花か、底光りがして艶つやを持った黄色いのが、右の突つき捲まくりで、薄すすきなりに、ゆらゆら揺れたと思うと、……﹂
﹁おお!﹂
﹁得も言われぬ佳いい匂においがしました。はてな、あの一軒家の戸口を覗のぞくと、ちらりと見えた――や、その艶あで麗やかなことと申すものは。――
時ならぬ月が廂ひさしから衝つと出たように、ぱっと目に映るというと、手も足も突張りました。
必ず、どんな姿で、どんな顔立じゃなぞとお尋ね御無用。まだまだ若衆の方が間違いにもいたせ、衣きも服のの色合だけも覚えて来たのが目っけものじゃ。いやはや、私てまえの方はただ颯さっと白いものが一軒家の戸口に立ったと申すまでで――衣服が花やら、体が雪やら、さような事は真まっ暗くら三さん宝ぽう、しかも家の内の暗い処へ立たれた工ぐあ合いが、牛か、熊にでも乗られたようでな、背が高い。
︵鬼じゃ、︶
と、私てまえ一つ大声を上げました。
︵鬼じゃ、鬼じゃ。︶
と、こうぬっと腕を突つっ張ぱった。金こん剛ごう杖づえを棄置いて、腰の据すわらぬ高足をと踏んで、躍おど上りあがるようにその前を通った、が、可おか笑しい事には、対さ方きが女にょ性しょうじゃに因って、いつの間にか、自分ともなく、名なの告りが慇いん懃ぎんになりましてな。……
︵鬼でござる。︶
と夢中で喚わめいて、どうやら無事に、猿ヶ馬場は抜けました。で、後はこの坂一なだれ、転げるように駆下りたでございます。――
処で、先刻の不調法、﹂
と息を吐つき、
﹁何とも、恥を申さぬと理が聞えませぬ、仔しさ細いはこうでござります――が、さて同おな一じ人間……も変なれども、この際……とでも申すかな、その貴あな辺たを前に置いて、今お話をしまする段になるというと、いや、我ながらあんまりな慌て方、此こな方たこそ異形を扮いで装たちをしましたけれども、彼あな方たは何にせよ女体でござる。風うわ説さの通り、あの峠茶屋の買主の、どこのか好もの事ずきな御令嬢が住すま居いいたさるるでも理は聞える。よしや事あるにもせい、いざと云う時に遁にげ出だしましても可よさそうなものじゃったに……
……と申すがやはり、貴あな辺たにお目に掛かかりましてからの分別で。ぱっと美しいもので目が眩くらみました途端には、ただ我を忘れて、
︵鬼じゃ。︶
と拳こぶしを握りました。
これだけでは、よう御合点はなりますまいで、私てまえのその驚き方と申すものは、変った処に艶あで麗やかな女中の姿とだけではござらぬ。日の蔭りました、倶利伽羅峠の猿ヶ馬場で、山さん気きの凝って鼠色の靄もやのかかりました一軒家、廂ひあ合わいから白昼、時ならぬ月が出たのに仰天した、と、まず御推量が願いたい――いくらか、その心持が……お分りになりましょうかな。﹂
十二
﹁分りました。﹂
と三造は衣えも紋んを合わせて、
﹁何ですか、その一軒家というのは、以前の茶屋なんでしょう、左側の……右側のですか。﹂
﹁御存じかな。﹂
﹁たびたび通って知っています。﹂
﹁ならば御承知じゃ。右側の二軒目で、鍵かぎ屋やと申したのが焼残っておりますが。﹂
﹁鍵屋、――二軒目の。﹂
と云って境は俯うつ向むいた。峠に残った一軒家が、それであると聞くまでは、あるいは先達とともに、旧もと来た麓ふもとへ引返そうかとも迷ったのである。
が、思う処あって、こう聞くと直ぐに心が極きまった。
様子は先達にも見て取られて、
﹁ええ、鍵屋なら、お上あがりになりますかな。﹂
﹁別に、鍵屋ならばというのじゃありませんが。これから越します。﹂
と云って、別わか離れの会釈に頭つむりを下げたが、そこに根を生はやして、傍わき目めも触ふらず、黙っている先達に、気を引かれずには済まなかった。
﹁悪いんですか、参っては。﹂
山伏は押眠った目を瞬いて開けた。三造を右とみ瞻こ左う瞻みて、
﹁お待ち下さい。血気に逸はやり、我慢に推おし上のぼろうとなさる御仁なら、お肯きき入いれのないまでも、お留め申すが私てまえ年とし効がいではありますが、お見受け申した処、悪いと言えば、それでもとはおっしゃりそうもない。その御心得なれば別儀ござるまいで、必ず御無用とは申上げん。
峠でその婦人を見るものは……云うん々ぬんと恐るべき風説はいたすが、現に、私てまえとても御覧のごとく別条はないようで、……折角じゃ、いっそのことお出いでが宜よろしい。﹂
﹁ああ、それはどうも難あり有がたい。﹂
と三造は礼を云う。許されたような気がしたのである。
﹁さ、さ、﹂
先達も立構えで、話の中うちにって落した道芝の、帯の端はし折ょり目めに散りかかった、三造の裾を二ツ三ツ、煽あおぐように払はたいてくれた。
﹁ところで、﹂
顔を振って四あた辺りを見た目は、どっちを向いても、峰の緑、処々に雲が白い。
﹁この日脚じゃ、暮切らぬ内峠は越せます、が坂は暗くなるでござろう。――急ぎの旅ではなかろうで、手前お守まもりをいたす、麓ふもとの御みど堂うで御一泊のように願います。無事にお越しの御様子も伺いたい。留守には誰も居おらず、戸棚には夜具一組、蚊帳もござる。
私てまえは、急いで、竹の橋まで下くだりますで、汽車でぐるりと一廻り、直ぐに石動から御堂へ戻ると、貴あな辺たはまだ上りがある。事に因ると、先へ帰って茶を沸わかして相待てます。それが宜しい、そうなさって。ああ、御承知か。重畳々々。
就きましては、﹂
かさかさと胸を開いて、仰あお向むけに手に据えた、鬼の面は、紺こん青じょうの空に映って、山深き径こみちに幽かすかなる光を放つ。
﹁先生方にはただの木の面めん形がたでござれども、現に私てまえが試みました。驚す破わとある時、この目を通して何事も御覧が宜しい。さあ、お持ちなさるよう。﹂
三造は猶ため予らいつつ、
﹁しかし、御重宝、﹂
﹁いや、御役に立てば本懐であります。﹂
すなわち取って、帽子をはずして、襟にかける、と先達の手に鐸すずが鳴った。
﹁御無事で、﹂
﹁さようなら。﹂
蜩ひぐらしの声に風颯さっと、背を押上げらるるがごとく境は頭こうべを峠に上げた。雲の峰は縁へりを浅あさ葱ぎに、鼠色の牡ぼた丹んをかさねた、頂白くキラキラと黄こが金ねの条すじの流れたのは、月がその裡うちに宿ったろう。高たか嶺ねの霞に咲くという、金こん色じきの董すみれの野を、天上遥はるかに仰いだ風情。
十三
女じょ巫ふさ澆けを酒そそ雲ぐく満もく空うにみつ。玉ぎょ炉くろ炭たん火かに香おい鼕とう鼕とう。海かい神しん山さん鬼きざ来ちゅ座うに中きたる。紙しせ銭んし※つそ鳴つせ※んぷ風うになる﹇#﹁穴かんむり/悉﹂、387-9﹈﹇#﹁風にょう+旋のつくり﹂、387-16﹈。相そう思しぼ木くち帖ょう金きん舞ぶら鸞ん。
蛾さん一がい※っそ重うま一たい弾ったん﹇#﹁口+睫のつくり﹂、387-18﹈。呼ほし星をよ召びお鬼にを杯めし盤はいばんをきんす。山さん魅みく食らう時とき人ひと森しん寒かんす。
越こしの海は、雲の模様に隠れながら、青い糸の縫目を見せて、北ほっ国こくの山々は、皆黄たそ昏がれの袖を連ねた。
﹁神兮長に有無の間にあり。﹂
胸を見ると、背中まで抜けそうな眼まなこが濶かっと、鬼の面が馬場を睨にらんで、ここにも一人神が彳たたずむ、三造は身自から魔界を辿たどる思おもいがある。
峠のこの故ふる道みちは、聞いたよりも草が伸びて、古沼の干た、蘆あしの茂しげりかと疑うばかり、黄にも紫にも咲交じった花もない、――それは夕暮のせいもあろう。が第一に心懸けた、目めじ標るしの一軒家は靄もやも掛かからぬのに屋根も分らぬ。
場所が違ったかとも怪しんだ、けれども、蹈ふみ迷まよう路続きではない。でいよいよ進むとしたが、ざわざわ分入らねばならぬ雑草に遮られて、いざ、と言う前、しばらくを猶ため予らうて立つと、風が誘って、時々さらさらさらさらと、そこらの鳴るのが、虫の声の交らぬだけ、余計に響く。……
ひょっこり肌脱の若わか衆いしゅが、草わら鞋じば穿きで出て来そうでもあるし、続いて、山伏がのさのさと顕あらわれそうにもある。大方人の無い、こんな場所へ来ると、聞いた話が実際の姿になって、目めさ前きへ幻まぼ影ろしに出るものかも知れぬ。
現にそれ、それそれ、若衆が、山伏が、ざわざわと出て、すっと通る――通ると……その形が幻を束つかねた雲になって、颯さっと一つ谷へ飛ぶ。程もあらせず、むっくりと湧わいて来て、ふいと行ゆくと、いつの間にか、草の上へちぎれちぎれに幾つも出る。中には動かずに凝じっと留まって、裾すその消えそうな山伏が、草の上に漂々として吹かれもやらず浮くのさえある。
またふわりと来て、ぱっと胸に当って、はっとすると、他たわ愛いもなく、形なく力もなく、袖を透かして背うし後ろへ通る。
三造は誘われて、ふらふらとなって、ぎょっとしたが、つらつら見ると、むこうに立った雲の峰が、はらはらと解けて山中へ拡がりつつ、薄すすきの海へ波を乱して、白く飜って、しかも次第に消えるのであった。
﹁ああ、そうか……﹂
山伏は大おお跨またで、やがて麓ふもとへ着いた時分、と、足あし許もとの杉の梢こずえにかかった一ひと片ひらの雲を透かして、里可なつ懐かしく麓を望んだ……時であった。
今昇った坂一ひと畝うねり下さがた処、後あと前さき草がくれの径こみちの上に、波に乗ったような趣して、二人並んだ姿が見える――斉ひとしく雲のたたずまいか、あらず、その雲には、淡いが彩いろどりがあって、髪が黒く、俤おもかげが白い。帯の色も、その立姿の、肩と裾を横に、胸高に、細ほっそりと劃くぎって濃い。
道は二町ばかり、間は隔へだたったが、翳かざせばやがて掌てのひらへ、その黒髪が薫りそう。直ぐ眉の下に見えたから、何となく顔立ちの面おも長ながらしいのも想像された。
同時に、その傍かたわらのもう一人、瞳を返して、三造は眉を顰ひそめた。まさしく先刻の婆ばばらしい。それが、黒い袖の桁ゆき短かに、皺しわの想わるる手をぶらりと、首くび桶おけか、骨こつ瓶がめか、風呂敷包を一ひと包つつみ提げていた。
境が、上から伸のし懸かかるようにして差さし覗のぞくと、下で枯枝のような手を出した。婆がその手を、上に向けて、横ざまに振って見せた。
確たしかに暗あい号ずに違いない、しかも自分にするのらしい。
﹁ええ。﹂
胸倉を取って小突かれるように、強く此こな方たへ応こたえるばかりで、見るなか、行ゆけか、去れだか、来いだか、その意味がさっぱり分らぬ。その癖、烏が横よこ啣ぐわえにして飛びそうな、厭いやな手つきだとしみじみ感じた。
十四
その内に……婆の手の傍かたわらから薄すすきが靡なびいて、穂のような手が動いた。密そっと招いて、胸を開くと、片袖を掻かい込こみながら、腕かいなをしなやかに、その裾すそのあたりを教えた。
そこへ下りて来よ、と三造に云うのである――
意味は明あきらかに、しかも優しく、美うるわしく通じたが、待て、なぜ下へ降りよ、と諭す?
峠を越すな、進んではならぬ、と言うか。自分我われにしか云うものが、婦おん人なの身でどうして来た、……さて降りたらば何とする? ずんずん行ゆけば何とする?
すべてかかる事に手間隙ひま取って、とこうするのが魔が魅さすのである。――構わず行ゆこう。
﹁何だ。﹂
谿たに間まの百合の大おお輪りんがほのめくを、心は残るが見棄てる気構え。踵くびすを廻らし、猛然と飛入るがごとく、葎むぐらの中に躍込んだ。ざ、ざ、ざらざらと雲が乱れる。
山路に草を分ける心持は、水練を得たものが千尋の淵ふちの底を探るにも似ていよう。どっと滝を浴びたように感じながら、ほとんど盲めく蛇らへびでまっしぐらに突いて出ると、颯さっと開けた一場の広場。前面にぬっくり立った峯の方へなぞえに高い、が、その峰は倶利伽羅の山続きではない。越中の立山が日も月も呑んで真まっ暗くらに聳そびえたのである。ちょうど広場とその頂との境に、一ひと条すじ濃い靄もやが懸かかった、靄の下に、九つく十も九だ谷にに介はさまった里と、村と、神じん通つう、射いみ水ずの二大だい川せんと、富山の市まちが包まるる。
さればこそ思い違えた、――峠の立たて場ばはここなので。今し猿ヶ馬場ぞと認めたのは、道を急いだ目の迷い、まだそこまでは進まなかったのであった。
紫に桔きき梗ょうの花を織出した、緑は氈せんを開いたよう。こんもりとした果はてには、山の痩やせた骨が白い。がばと、またさっくりと、見覚えた岩も見ゆる。一本の柿、三本の栗、老おい樹きの桃もあちこちに、夕暮を涼みながら、我を迎うる風情に彳たたずむ。
と見れば鍵屋は、礎いしずえが動いたか、四あた辺りの地勢が露むき出だしになったためか、向う上りに、ずずんと傾き、大船を取って一艘そう頂に据えたるごとく、厳おごそかにかつ寂しく、片かた廂びさしをぐいと、山の端はから空へ離して、舳みよしの立った形して、立山の波を漕がんとす。
境は可なつ懐かしげに進み寄った。
﹁や!﹂
その門かど口ぐちに、美しい清水が流るる。いや、水のような褄つまが溢こぼれて、脇わき明あけの肌ちらちらと、白い撫なで子しこの乱みだ咲れざきを、帯で結んだ、浴衣の地の薄うすお納戸。
すらりと草に、姿横に、露を敷いて、雪の腕かいな力なげに、ぐたりと投げた二の腕に、枕すともなく艶つややかな鬢びんを支えた、前髪を透く、清らかな耳みみ許もとの、幽かすかに洩もるる俯うつ向むき形なり、膝を折って打伏した姿を見た。
冷い風が、衝つと薫って吹いたが、キキと鳴く鼬いたちも聞えず、その婦おん人なが蝦が蟇まにもならぬ。
耳が赫かっと、目ばかり冴さえる。……冴えながら、草も見えず、家も暗い。が、その癖、件くだんの姿ばかりは、がっくり伸ばした頸うなじの白さに、毛筋が揃って、後おくれ毛のはらはらと戦そよぐのまで、瞳に映って透通る。
これを見棄てては駆抜けられない。
﹁もし……﹂
と言いもあえず、後あ方とへ退さがって、
﹁これだ!﹂
とつい出た口許を手で圧える。あとから、込上げて、突つッぱじけて、
﹁……顔を見ると……のっぺらぼう――﹂
と思わずまた独ひと言りごと。我が声ながら、変に掠かすれて、まるで先さっ刻きの山伏の音おん。
﹁今も今、手を掉ふった……ああ、頻しきりに留めた……﹂
と思うと、五体を取って緊しめ附つけられる心地がした。
十五
けれども、まだ幸さいわいに俯うつ向むけに投出されぬ。
﹁触らぬ神に祟たたりなし……﹂
非常な場合に、極めて普通な諺ことわざが、記憶から出て諭す。諭されて、直ぐに蹈ふみ出だして去ろうとしたが……病難、危難、もしや――とすれば、このまま見棄つべき次第でない。
境は後うし髪ろがみを取って引かれた。
洋こう傘もりを支ついて、おずおずその胸に掛けた異形の彫刻物をまた視ながめた。――今しがた、ちぎれ雲の草を掠かすめて飛んだごとく、山伏にて候ものの、ここを過よぎった事は確たしかである。
確で、しかもその顔には、この鬼の面を被かぶっていた。――時に、門口へ露あらわれた婦おん人なの姿を鼻の穴から覗のぞいたと云うぞ。待てよ、縄張際の坂道では、かくある我も、ために尠すくなからず驚かされた。
おお、それだと、たとい須す磨まに居ても、明あか石しに居ても、姫ひめ御ご前ぜは目をまわそう。
三造は心着いて、夕露の玉を鏤ちりばめた女の寝姿に引返した。
﹁鬼じゃ。﹂
試みに山伏の言ことばを繰返して、まさしく、怯おびやかされたに相違ないと思った。
﹁鬼じゃ。……﹂
と一足出てまた呟つぶやいたが、フト今度は、反対に、人を警いましむる山伏の声に聞えた。勿なかれ、彼は鬼なり、我に与えし予言にあらずや。
境は再び逡巡した。
が、凝じっと瞻みつめて立つと、衣きぬの模様の白い花、撫子の俤おもかげも、一目の時より際立って、伏ふし隠かくれた膚はだの色の、小おぐ草さに搦からんで乱れた有様。
手に触ると、よし蛇の衣きぬとも変ならば化なれ、熱いと云っても月は抱いだく。
三造は重い廂ひさしの下に入って、背に盤ばん石じゃくを負いながら、やっと婦おんなの肩際に蹲しゃがんだのである。
耳許はずれに密そと覗のぞく。俯うつ向むけのその顔斜めなれば、鼻かと思うのがすっとある、ト手を翳かざしもしなかったが、鬢びんの毛が、霞のように、何となく、差寄せた我が眉へ触るのは、幽かすかに呼い吸きがありそうである。
﹁令じょ嬢うさん。﹂
とちょっと低こご声えに呼んだ――爪つまはずれ、帯の状さま、肩の様子、山やま家がの人でないばかりか、髪のかざりの当世さ、鬢の香さえも新しい。
﹁嬢さん、嬢さん――﹂
とやや心易げに呼よび活いけながら、
﹁どうなすったんですか。﹂
とその肩に手を置いたが、花はな弁びらに触るに斉ひとしい。
三造は四あた辺りを見て、つッと立って、門口から、真まっ暗くらな家やの内へ、
﹁御免。﹂
﹁ほう……﹂
と響いたので、はっと思うと、ううと鳴って谺こだまと知れた。自分の声が高かった。
﹁誰も居ないな。﹂
美女の姿は、依然として足許に横よこたわる。無むざ慚んや、片かた頬ほは土に着き、黒髪が敷居にかかって、上ざまに結むす目びめ高う根が弛ゆるんで、簪かんざしの何か小さな花が、やがて美しい虫になって飛びそうな。
しかし、煙にもならぬ人を見るにつけて、――あの坂の途中に、可い厭やな婆と二人居て手を掉ふったことを思うと、ほとんど世を隔てた感がある。同時に、渠かれ等ら怪しき輩やからが、ここにかかる犠いけ牲にえのあるを知らせまいとして、我を拒んだと合点さるるにつけて、とこう言う内に、追って来て妨さまたげしょう。早く助けずば、と急せき心ごころに赫かっとなって、戦おののく膝を支ついて、ぐい、と手を懸ける、とぐったりした腕かいなが柔かに動いて、脇わき明あけを辷すべった手てさ尖きが胸へかかった処を、ずッと膝を入れて横抱きに抱いだき上げると、仰あお向むけに綿を載のせた、胸がふっくりと咽の喉どが白い。カチリと音して、櫛くしが鬼の面に触ったので……慌てて、かなぐり取って、見当も附けず、どん、と背うし後ろへ投ほうった。
﹁山伏め、何を言う!﹂
十六
﹁いや、もう、先さ方きが婦おん人なにもいたせ、男おと子こにもいたせ、人間でさえありますれば、手前は正しょうのもの鬼でござる。――狼おおかみが法ころ衣もより始末が悪い。世間では人の皮着た畜生と申すが、鬼の面を被かぶった山伏は、さて早や申訳がない。﹂
御みど堂うの屋根を蔽おおい包んだ、杉の樹立の、廂ひさしを籠こめた影が射さす、炉ろの灰も薄うす蒼あおう、茶を煮る火の色の※ぱっ﹇#﹁火+發﹂、396-5﹈と冴えて、埃ほこりは見えぬが、休息所の古畳。まちなし黒木綿の腰こし袴ばかまで、畏かしこまった膝に、両の腕かいなの毛だらけなのを、ぬい、と突いた、賤いやしからざる先達が総そう髪がみの人品は、山一つあなたへ獅しか噛みを被って参りしには、ちと分別が見え過ぎる。
﹁怪けしからぬ山伏め、と貴あな辺たがお思いなされたで好都合。その御婦人が手前の異形に驚いて、恍うっ惚とりとなられる。貴あな辺たは貴辺で、手前の野のた譫わご言とを真実と思召し、そりゃこそ鬼よ、触らぬ神に祟たたりなしの御思案で、またまたお見棄てになったとしまする、御婦人がそれなりで御ごろ覧うじろ、手前は立派な人ひと殺ごろしでございます。何も、げし人にんに立派は要らぬが、承りましただけでも、冷汗になりますで。
いや、それにつけても、﹂
と山伏の肩が聳そびえ、
﹁物事と申すは、よく分別をすべきであります。私てまえども身柄、鬼神を信ぜぬと云うもいかがですが、軽かる忽はずみに天あた窓まから怪あやしくして、さる御令嬢を、蟇ひきがえる、土蜘蛛の変へん化げ同然に心得ましたのは、俗にそれ……棕しゅ櫚ろぼ箒うきが鬼、にも増まさった狼うろ狽たえ方、何とも恥入って退のけました。
――︵山伏め、何を吐ぬかす。︶――結構でござるとも。その御婦人をお救けなさって、手前もお庇かげで助かりました。
いかにも、不意に貴あな辺たにお出逢い申したに就いて、体ていの可いい怪談をいたし、その実、手前、峠において、異変なる扮いで装たちして、昼強盗、追おい落おとしはまだな事、御婦人に対し、あるまじき無法不礼を働いたように思召したも至極の至りで。﹂
﹁まあ、お先達、貴あな下た、﹂
対さし向むかいの三造は、脚きゃ絆はんを解いた痩やせ脛ずねの、疲つか切れきった風していたのが、この時遮る。……
﹁いやいや、仰せではありますが、早い話が、これが手前なら、やっぱり貴辺をそう存ずる、……道でござる、理でございます。
しかし笑って遣わされ。まず山やま中あた毒りとでも申すか、五里霧中とやらに徊さまよいました手前、真人間から見ますると狂人の沙汰ですが、思いの外時刻が早く、汽車で時の間まに立帰りましたのを、何か神通で、雲に乗つて馳はせ戻ったほどの意気組。その勢いきおいでな、いらだか、苛いらって、揉もみ上げ、押おし摺すり、貴辺が御無事に下山のほどを、先刻この森の中へ、夢のようにお立たち出いでになった御姿を見まするまで、明王の霊前に祈いのりを上げておりました。
それもって、貴辺が、必定、お立寄り下さると信じましたからで。
信じながらも、思い懸けぬ山やま路みちに一人憩やすんでござった、あの御様子を考えると、どうやら、遠い国で、昔々お目に懸かかったような、茫ぼうとした気がしまして、眼めの前まえに焚たきました護ご摩まの果はてが霧になって森へ染み、森へ染み、峠の方かたを蔽おおい隠すようにもござった。……
何にせよ、私てまえどうかしていたと見えます。兎はちょいちょい、猿も時々は見懸けますが、狐狸は気もつきませぬに、穴の中からでも魅やりましたかな。
明王もさぞ呆れ返って、苦笑いなされたに相違ござらん。私てまえのその痴たわけさ加減、――ああ、御無事を祈るに、お年と紀しも分らぬ、貴辺の苗字だけでも窺うかがっておこうものを、――心着かぬことをした。﹂
総髪をうしろへ撫でる。
﹁などと早や……﹂
三造は片手をちゃんと炉ろぶ縁ちに支ついて、
﹁難あり有がとう存じます。御厚意、何とも。﹂
十七
更あらためて、
﹁お先達、そうやって貴あな下たは、御自分お心得違いのようにばかりお言いですが、――その人を抱き起して美しい顔を見た時、貴下に対して心得違いしましたのは、私の方じゃありませんか。
そして、無事、﹂
と言い懸けたが、寂しい顔をした、――実は、余り無事でばかりもなかったのであるから。
﹁ともかくも……峠を抜けられましたのは、貴下が御祈念の功徳かも知れません――確たしかに功徳です。
そうでないと、今頃どうなっていたか自分で自分が解らんのです。何ともお礼の申上げようはありません。実際。
その人だって、またそうです――あの可おそ恐ろしい面のために気絶をした。私が行ゆかないとそのまま一命が終ったかも知れない、と言えば、貴下に取って面倒になりますけれども、ただ夢のように思ったと、彼あち方らで言います――それなり茫となって、まあ、すやすやと寐ね入いったも同じ事で。たとい門口に倒れていたって、茎じくが枯れたというんじゃなし、姿の萎しぼんだだけなんです……露が降りれば、ひとりでにまた、恍うっ惚とりと咲いて覚める、……殊に不思議な花なんですもの。自然の露がその唇に点した滴たらなければ点滴らないで、その襟の崩れから、ほんのり花はな弁びらが白んだような、その人自身の乳房から、冷い甘いのを吸い上げて、人手は藉からないでも、活いき返かえるに疑いない。
私は――膝へ、こう抱き起して、その顔を見た咄とっ嗟さにも、直ぐにそう考えました。――
こりゃ余計な事をしたか。自分がこの人を介抱しようとするのは、眠った花を、さあ、咲け、と人間の呼い吸きを吹掛けるも同おん一なじだと。……
で、懐ふと中ころの宝丹でも出すか、じたばた水でも探してからなら、まだしもな処を、その帯腰から裾すそが、私に起こされて、柔かに揺れたと思うと、もう睫まつ毛げが震えて来た。糸のように目を開あいたんですから、しまった! となお思ったんです――まるで、夕顔の封じ目を、不作法に指で解いたように。
はッとしながら、玉を抱いた逆の上ぼせ加減で、おお、山やま蟻ありが這はってるぞ、と真まっ白しろな咽の喉どの下を手で払はたくと、何と、小さな黒ほく子ろがあったんでしょう。
逆さかさに温かな血の通うのが、指の尖さきへヒヤリとして、手がぶるぶるとなった、が、引ひっ込こめる間もありません。婦おんながその私の手首を、こう取ると……無意識のようじゃありましたが、下の襟を片手で取って、ぐいと胸さがりに脇へ引いて、掻かき合あわせたので、災難にも、私の手は、馥ふく郁いくとものの薫る、襟裏へ縫留められた。
さあ、言わないことか、花はら弁びらの中へ迷込んで、虻あぶめ、蜿もがいても抜出されぬ。
困窮と云いますものは、……
黙っちゃいられませんから、
︵御免なさいよ。︶
と、のっけから恐入った。――その場の成行きだったんですな。――﹂
﹁いかにも、﹂
と先達は、膝に両手を重ねながら、目を据えるまで聞入るのである。
﹁黙っています。が、こう、水の底へ澄切ったという目を開いて、じっと膝を枕に、腕かいなに後おく毛れげを掛けたまま私を見詰める。眉が浮くように少し仰あお向むいた形で、……抜けかかった櫛くしも落さず、動きもしません。
黙っちゃいられませんから、
︵気がついたんですか。失礼を、︶
まだ詫わびをする工ぐあ合いの悪さ。でも、やっぱり黙っています。
︵気分はどうなんです。ここに倒れていなすったんだが。︶
これで分ったろう、放したまえ、早く擦抜けようと、もじつくのが、婦おんなの背せなを突いて揺ゆすぶるようだから、慌ててまた窘すくまりましたよ。どこを糸で結んで手足になったか、女の身から体だがまるで綿で……﹂
十八
﹁綿で……重いことは膝が折れそう――もっともこの重いのは、あの昔話の、怪あやしい者が負おぶさると途中で挫ひしげるほどに目めか貫たがかかるっていう、そんなのじゃない。そりゃ私にも分っていましたが、……
ああ、これはなぜ私が介抱したか、その人はどうしていたか、そんな事なんぞ言ってるんではまだるッこい。
︵失礼しました、今何です、貴女の胸に蟻が這っていたもんですから、︶
つい払って上げよう、と触ったんだ、とてっきりそれがために、そんな様子で居るんだろう、と気が着いて、言訳をしましたがね。
黙っています……ちっとも動かないで、私の顔を、そのまま見詰めてるじゃありませんか。﹂
と三造は先達の顔を瞻みまもって、
﹁じゃ、まだ気が遠くなったままで、何も聞えんのかと思えば、……顔よりは、私が何か言うその声の方が、かえってその人の瞳に映るような様子でしょう。梔くち子なしの花でないのは、一目見てもはじめから分ってます。
弱りました。汗が冷く、慄ぞ気っと寒い。息が発は奮ずんで、身内が震う処から、取ったのを放してくれない指の先へ、ぱっと火がついたように、ト胸へ来たのは、やあ!こうやって生血を吸い取る……﹂
﹁成程、成程、いずれその辺で、大慨気ひき絶つけてしまうのでござろう。﹂
と先達は合がっ点てんする。
﹁転てん倒どうしても気は確たしかで、そんなら、振切っても刎はね上あがったかと言えば、またそうもし得ない、ここへ、﹂
境は帯を圧おさえつつ、
﹁天女の顔の刺ほり繍ものして、自分の腰から下はさながら羽衣の裾になってる姿でしょう。退のきも引きもならんです。いや、ならんのじゃない、し得なかったんです――お先達、﹂
と何か急せきながら言いい淀よどんで、
﹁話に聞いた人じん面めん瘡そう――その瘡かさの顔が窈よう窕ちょうとしているので、接キッ吻スを……何です、その花の唇を吸おうとした馬鹿ものがあったとお思いなさい。﹂
と云うと、先達は落着いた面おも色もちで、
﹁人面瘡、ははあ、﹂
さも知ちか己づきのような言いぶりで、
﹁はあ、人面瘡、成程、その面つらが天人のように美しい。芙ふよ蓉うの眦まなじり、丹花の唇――でござったかな、……といたして見ると……お待ちなさい、愛あい着じゃくの念が起って、花の唇を……ふん、﹂
と仰あお向むいて目を瞑ねむったが、半眼になって、傾きざまに膝を密そと打ち、
﹁津しん々しんとして玉としたたる甘露の液と思うのが、実は膿うみ汁しるといたした処で、病人の迷うのを、強あながち白たわ痴けとは申されん、――むむ、さようなお心持でありましたか。﹂
真顔で言われると、恥じたる色して、
﹁いいえ、心持と言うよりも、美人を膝に抱いだいたなり、次第々々に化石でもしそうな、身動きのならんその形がそうだったんです。……
段々孤ひと家つやの軒が暗くなって、鉄板で張ったような廂ひさしが、上から圧おっ伏ぷせるかと思われます……そのまま地獄の底へ落ちて行ゆくかと、心も消きえ々ぎえとなりながら、ああ、して見ると、坂下で手を掉ふった気高い女にょ性しょうは、我らがための仏であった。――
この難を知って、留められたを、推して上ったはまだしも、ここに魔物の倒れたのを見た時、これをその犠いけ牲にえなどと言う不心得。
と俯うつ向むいて、熟じっと目を睡ねむると……歴まざ々まざと、坂下に居たその婦おんなの姿、――羅うすものの衣えも紋んの正しい、水の垂れそうな円まる髷まげに、櫛のてらてらとあるのが目めの前まえへ。――
驚いた、が、消えません。いつの間にか暮れかかる、海の凪なぎたような緑の草の上へ、渚なぎさの浪のすらすらとある靄もやを、爪つまさきの白う見ゆるまで、浅く踏んで、どうです、ついそこへ来て、それが私の目の前に立ってるじゃありませんか。私を救うためか。
と思うと、どうして、これも敵方の女じょ将しょ軍うぐん。﹂
﹁女将軍?ええ、山賊の巣そう窟くつかな。﹂
と山伏はきょとんとする。
十九
﹁後で聞きますと、それが山へ来る約束の日だったので、私の膝に居る女が、心ここ待ろまちに古ふる家いえの門かど口ぐちまで出た処へ、貴あな下たが、例の異形で御通行になったのだそうです。
その円ま髷げに結いった姉あねの方は、竹の橋から上ったのだと言いました。つい一ひと条すじ路みちの、あの上りを、時刻も大抵同じくらい、貴下は途中でお逢いになりはしませんでしたか。﹂
先達は怪けげ訝んな顔して、
﹁されば、……ところで、その婆さんはどうしましたな、坂下に立ったのを御覧になった時は、傍そばについていたというお話続きの、﹂
とかえってたずねる。
﹁それは峠までは来ませんでした。風呂敷包みがあったので、途中見懸けたのを、頼んで、そこまで持たして来たのだそうで。……やっぱりその婆さんは、路みち傍ばたに二人で立っていた一人らしく思われます。その居た処は、貴下にお目にかかりました、あの縄張をした処、……﹂
﹁さよう。﹂
﹁あすこよりは、ずっと麓ふもとの方です。﹂
﹁すると、そのどちらかは分りませんが、貴あな辺たに分れて下山の途中で、婆さん一人にだけは逢いました。成程――承れば、何か手に包んだものを持っていた様子で――大方その従と伴もをして登った方のでありましょうな。
それにしては、お話しのその円ま髷げに結いった婦人に、一ひと条すじ路みち出会わねばならん筈はず、……何か、崖の裏、立樹の蔭へでも姿を隠しましたかな。いずれそれ人目を忍ぶという条すじで、﹂
﹁きっとそうでしょう。金沢から汽車で来たんだそうですから。﹂
先達は目をって、
﹁金沢から、﹂
﹁ですから汽車へいらっしゃる、貴下と逢違う筈はありません。﹂
﹁旅をかけて働きますかな。﹂
﹁ええ、﹂
﹁いや、盗どろ賊ぼうも便利になった。汽車に乗って横行じゃ。倶利伽羅峠に立たて籠こもって――御時節がら怪けしからん……いずれその風呂敷包みも、たんまりいたした金目のものでございましょうで。﹂
黙った三造は、しばらくして、
﹁お先達。﹂
﹁はい、﹂
と澄ました風で居る。
﹁風呂敷の中は、綺麗な蒔まき絵えの重箱でしたよ。﹂
﹁どこのか、什じゅ物うもつ、﹂
﹁いいえ、その婦ひ人との台所の。﹂
﹁はてな、﹂
﹁中に入ったのは鮎あゆの鮨すしでした。﹂
﹁鮎の鮨とは、﹂
﹁荘しょ河うがわの名産ですって、﹂
先達は唖あぜ然んとして、
﹁どうもならん。こりゃ眉毛に唾つばじゃ。貴辺も一ツ穴の貉むじなではないか。怪ばけ物ものかと思えば美人で、人にん面めん瘡そうで天人じゃ、地獄、極楽、円まる髷まげで、山賊か、と思えば重箱。……宝物が鮎の鮨で、荘河の名物となった。……待たっせえ、腰を円くそう坐られた体てい裁たらくも、森の中だけ狸に見える。何と、この囲い炉ろ裏りの灰に、手形を一つお圧おしなさい、ちょぼりと落らく雁がんの形でござろう。﹂
﹁怪しからん、﹂
と笑って、気き競おって、
﹁誰も山賊の棲すみ家かだとも、万引の隠かく場れば所しょだとも言わないのに、貴下が聞違えたんではありませんか。ええ、お先達?﹂
﹁はい、﹂
と言って、瞬きして、たちまち呵から々からと笑出した。
﹁はッはッはッ、慌てました、いや、大だい狼ろう狽ばい。またしても獅しか噛みを行やったて。すべて、この心得じゃに因って、鬼の面を被かぶります。
時にお茶が沸きました。――したが鮎の鮨とは好もしい、貴下も御ごし賞ょう翫がんなされたかな。﹂
二十
﹁承った処では、麓ふもとからその重詰を土産に持って、右の婦人が登山されたものと見えますな――但しどうやら、貴あな辺たがその鮨を召あがると、南なん蛮ばん秘法の痺しび薬れぐすりで、たちまち前後不覚、といったような気がしてなりません。早く伺いたい。鮨はいかがで?﹂
その時境は煎せん茶ちゃに心を静めていた。
﹁御ごち馳そ走うは……しかも、ああ、何とか云う、ちょっと屠と蘇その香のする青い色の酒に添えて――その時は、筧かけひの水に埃ほこりも流して、袖の長い、振ふりの開いた、柔かな浴衣に着換えなどして、舌鼓を打ちましたよ。﹂
﹁いずれお酌で、いや、承っても、はっと酔う。﹂
と日に焼けた額を押おし撫なでながら、山伏は破顔する。
﹁しかし、その倒れていた婦人ですが、﹂
﹁はあ、それがお酌を参ったか。﹂
﹁いいえ、世話をしてくれましたのは、年上の方ですよ。その倒れていた女は――ですね。﹂
﹁そうそうそう、またこれは面めん被かぶりじゃ。どうもならん、我ながら慌てて不い可かん。成程、それはまだ一言も口を利かずに、貴あな辺たの膝に抱かれていたて。何をこう先走るぞ。が、お話の不思議さ、気が気でないで急せき立たちますよ、貴辺は余り落着いておいでなさる。﹂
﹁けれども、私だって、まるで夢を見たようなんですから、霧の中を探るように、こう前あと後さきを辿たどり辿りしないと、茫ぼうとして掴つかまえられなくなるんですよ。……お話もお話だが、御相談なんですから、よくお考えなすって下さい。
――その円まる髷まげの、盛装した、貴婦人という姿のが、さあ、私たちの前へ立ったでしょう。――
膝を枕にしたのが、倒れながら、それを見た……と思って下さい。
手を放すと、そのまま、半分背を起した。――両膝を細ほっそりと内うち端わに屈かがめながら、忘れたらしく投げてた裾すそを、すっと掻かい込こんで、草へ横坐りになると、今までの様子とは、がらりと変って、活いき々いきした、清すずしい調子で、
︵姉ねえさん、この方を留めて下さい、帰しちゃ厭いやよ。︶
と言うが疾はやいか、すっと、戸口の土間へ、青い影がちらちらして、奥深く消え込んだ。
私は呆あっ気けに取られた。
すると、姉さんと言われた、その貴婦人が、緊しまった口くち許もとで、黙って、ただちょいと会釈をする、……これが貴下、その意味は分らぬけれども、峠の方へ行ゆくな、と言って………手で教えた婦ひ人とでしょう。
何にも言わないだけなお気がさす。
︵ええ、実は……︶
と前さっ刻きからの様子を饒しゃ舌べって、ついでに疑うたがいを解こうとしたが、不い可けません。
︵ああ、︶
それ覗のぞくまでもなく、立ったままで、……今暗がりへ入った、も一人の後あとを軒下にこう透すかしながら、
︵しばらくどうぞ。︶
坂を上って、アノ薄すす原きはらを潜くぐるのに、見得もなく引ひっ提さげていた、――重箱の――その紫包を白い手で、羅うすものの袖へ抱え直して、片手を半開きの扉へかける、と厳重に出来たの、何の。大おお巌いわの一枚戸のような奴がまた恐しく辷すべりが良くって、発は奮ずみかかって、がらん、からから山鳴り震動、カーンと谺こだまを返すんです。ぎょっとしました。
その時です。
︵どこへもいらしっちゃ不い可けませんよ。︶
と振返りざまに莞にっ爾こり、美しいだけにその凄すごさと云ったら。高い敷居に褄つまも飜かえさず、裾が浮いて、これもするりと、あとは御存じの、あの奥深い、裏口まで行抜けの、一ひと条すじの長い土間が、門かど形なり角かく形がたに、縦に真まっ暗くらな穴で。﹂
と言った、この辺あたり家の構かまえは、件くだんの長い土間に添うて、一ひと側かわに座敷を並べ、鍵かぎの手に鍵屋の店が一昔以前あった、片側はずらりと板戸で、外は直ちに千せん仭じんの倶くり利か伽ら羅だ谷に、九つく十も九だ谷にの一ツに臨んで、雪の備え厳重に、土の廊下が通うのである。
二十一
﹁今の一言に釘を刺されて、私は遁にげることも出来なくなった、……もっとも駆出すにした処で、差当りそこいら雲を踏む心持、馬場も草もふわふわらしいに、足もぐらぐらとなっていて、他愛がありません。止やむことを得ず、暮れかかる峰の、莫大な母ほ衣ろを背し負ょって、深い穴の気がする、その土間の奥を覗のぞいていました。……冷ひやっこい大戸の端へ手を掛けて、目ばかり出して……
その時分には、当人大おお童わらわで、帽子も持物も転げ出して草隠れ、で足許が暗くなった。
遥はるか突当り――崖を左へ避よけた離れ座敷、確か一ひと宇むね別になって根ね太だの高いのがありました、……そこの障子が、薄い色いろ硝がら子すを嵌はめたように、ぼうとこう鶏たま卵ごい色ろになった、灯あかりを点つけたものらしい。
その障子で、姿を仕切って、高たか縁えんから腰を下おろして、裾すそを踏落した……と思う態ふ度りで、手を伸のばして、私においでおいでをする。それが、白いのだけちらちらする、する度に、
︵ええ、ええ。︶
と自分で言うのが、口へ出ないで、胸へばかり込上げる――その胸を一寸ずつ戸擦れに土間へ向けて斜はす違かいに糶せり出だすんですがね、どうして、掴つかまった手は、段々堅く板戸へ喰入るばかりになって、挺てこでも足が動きません。
またちらりと招く。
招かれても入れないから、そうやって招くのを見るのが、心苦しくなって来たので、顔を引ひっ込こまして、門かどへ身から体だを横づけに、腕組をして棒立ち――で、熟じっと目を睡ねむって俯うつ向むいていました。
この体ていが、稀代に人間というものは、激しい中にも、のんきな事を思います。同じ何でも、これが、もし麓ふもとだと、頬ほお被かぶりをして、礫つぶてをトンと合図をする、カタカタと……忍しの足びあしの飛石づたいで………
︵いらっしゃいな。︶
と不意に鼻の前さきで声がしました。いや、その、もの越ごしの婀あ娜だに砕けたのよりか、こっちは腰を抜かないばかり。
︵はッあ。︶
と言う。
︵さあ、どうぞ。︶
と何にも思わない調子でしたが、板戸を劃くぎりに、横顔で、こう言う時、ぐっと引入れるようにその瞳が動いたんです。﹂
﹁これは、どちらの御婦人で、﹂
と先達は、湯を注さしかけた土瓶を置く。
﹁それを見分けるほど、その場合落着いてはいられませんでした。
敷居を跨またぐ時、一つ躓つまずいて、とっぱぐったじき傍わきに、婦おん人なが立ってたので、土間は広くっても袖が擦れて、
︵これは。︶
と云うと…………
︵お危うございます、お気をつけ下さいまし。︶
︵どうもつい馴なれませんので、︶
と言いましたがね、考えると変な挨あい拶さつ。誰がこんな処を歩ある行き馴なれた奴がありますか。……外から見える縁側の雨戸らしいのは、これなんでしょう、ずッと裏庭へ出抜けるまで、心ここ積ろづもり十八九枚、……さよう二十枚の上もありましたろうか、中ほどが一ヶ所、開いていました。――そこから土間が広くなる、左側が縁で、座敷の方へ折おれ曲まがって、続いて、三ツばかり横に小座敷が並んでいます。心覚えが、その折おれ曲まがりの処まで、店口から掛けて、以前、上下の草わら鞋じ穿ばきが休んだ処で、それから先は車を下りた上客が、毛もう氈せんの上へあがった場処です。
余計なことを言うようですが、後あとの都合がありますから、この屋やづ造くりの様子を聞いて下さい。
で座敷々々には、ずらり板縁が続いているのが薄明りで見えました。それは戸そ外とからも見える……崖へ向けて、雨戸を開けた処があったからです。
が、ちょうど土間の広くなった処で、同じ事ならもっと手前を開けておいてくれれば可い……入はい口りくちしばらくの間、おまけに狭い処が、隧トン道ネルでしょう。……処へ、おどついてるから、ばたばたとそこらへ当る。――黙って手を曳ひいたではありませんか。﹂
二十二
﹁対あい手ては悠々としたもので、
︵蜘蛛の巣が酷ひどいのでございますよ。︶
か何かで、時々歩あ行るきながら、扇子……らしい、風を切ってひらりとするのが、怪しい鳥の羽は搏うつ塩あん梅ばい。
これで当りはつきました。手を曳いてるのは貴婦人の方らしい、わざわざ扇子を持参で迎いに出ようとは思われませんから。
果して、そうでした。雨戸の開けてある、広ひろ土ど間まの処で、円まる髷まげが古い柱の艶つやに映った。外は八やえ重むぐ葎らで、ずッと崖です。崖にはむらむらと靄もやが立って、廂ひあ合わいから星が、……いや、目の光り、敷居の上へ頬ほお杖づえを支ついて、蟇ひきがえるが覗のぞいていそうで。婦おん人ながまた蒼あお黄ぎい色ろになりはしないか、と密そっと横目で見ましたがね。襲かさねを透いた空色の絽ろの色ばかり、すっきりして、黄たそ昏がれの羅うすものはさながら幻。そう云う自分はと云うと、まるで裾から煙のようです。途端に横手の縁を、すっと通った人ひと気けは勢いがある。ああ、白しら脛はぎが、と目に映る、ともう暗い処へ入った。
向うの、離座敷の障子の桟が、ぼんやりと風のない燈とも火しびに描かれる。――そこへ行ゆく背戸は、浅あさ茅ぢ生うで、はらはらと足の甲へ露が落ちた。
︵さあ、こちらへ。︶
ここで手を離して、沓くつ脱ぬぎの石に熊笹の生え被かぶさった傍わきへ、自分を開いて教えました。障子は両方へ開けてあった。ここの沓脱を踏みながら、小こて手まね招きをしたのでしょう。
︵上りましても差支えはございませんか。︶
とその期ごに及んで、まだ煮にえ切きらない事を私が言うと、
︵主ある人じがお宿をいたします。お宅同様、どうぞお寛くつろぎ下さいまし。︶
と先へ廻って、こう覗のぞき込むようにして褥しとねを直した。四畳半で、腰を曲げて乗出すと、縁越に手が届くんですね。
︵ともかく御免を、︶
高縁へ腰を蹂にじって、爪つま尖さき下さがりに草わら鞋じの足を、左の膝へ凭もたせ掛けると、目めざ敏とく貴婦人が気を着けて、
︵ああ、お濯すすぎ遊ばしましょうね。︶
と二坪ばかりの浅茅生を斜はすに切って、土間口をこっちから、
︵お綾あやさん――︶
と呼びます。
︵ああ、もしもし。︶
私は草鞋を解きながら、
︵乾いた道で、この足袋がございます。よく払はたけば、何、汚れはしません。お手てか数ずは恐れ入ります、どうぞ御無用に……しかしお座敷へ上りますのに、︶
と心着くと、無雑作で、
︵いいえ、もう御覧の通り、土間も同おん一なじでございますもの、そんな事なぞ、ちっともお厭いといには及びませんの。︶
と云いかけて莞にっ爾こりして、
︵まあ、土間も同一だって、お綾さんが聞いたら何ぼでも怒るでしょう。……人様のお住すま居いを、失礼な。これでもね、大事なお客様に、と云って自分の部屋を明渡したんでございますよ。︶
いかにも、この別はな亭れが住すま居いらしい。どこを見ても空屋同然な中に、ここばかりは障子にも破れが見えず、門口に居た時も、戸を繰り開ける音も響かなかった。
そこで、ちと低こご声えになって、
︵貴あな女たは……此こ家この……ではおあんなさいませんのですか。︶
︵は、私もお客ですよ。――不行届きでございますから、事に因りますと、お合あい宿やどを願うかも知れません、御迷惑でござんしょうね。︶
とちょいと煽あおいだ、女おん扇なお子うぎに口くち許もとを隠したものです。﹂
﹁成程、どうも。﹂
山伏は髯ひげだらけな頬を撫でる。
﹁私は、黙って懐ふと中ころを探しました。さあ、慌てたのは、手てぬ拭ぐい、蝦がま蟇ぐ口ち、皆みんな無い。さまでとも思わなかったに、余程顛てん動どうしたらしい。門かどへ振落して来たでしょう。事ここに及んで、旅費などを論ずる場合か、それは覚悟しましたが、差当り困ったのは、お約束の足を払はたく……﹂
二十三
﹁……様子で手拭が無いと見ると、スッと畳んで、扇を胸高な帯に挟んで、袂たもとを引いたが長なが襦じゅ袢ばんの端と一所に、涼しい手ハン巾ケチを出したんですがね。
崖へ向いた後姿、すぐに浅あさ茅ぢ生うへ帯腰を細く曲げたと思うと、さらさらと水が聞えた。――朧おぼろの清水と云うんですか、草がくれで気が着かなかった、……むしろそれより、この貴婦人に神通があって、露を集めた小こな流がれらしい。
︵これで、貴あな下た、︶
と渡す――筧かけひがそこにあるのであったら、手てか数ずは掛けないでも洗ったものを、と思いながら思ったように口へは出ないで、黙だんまりで、恐入ったんですが、柔やわらかく絹が搦からんで、水色に足の透いた処は、玉を踏んで洗うようで。
︵さあ、お寄越しなさいまし。︶
と美しい濡れた手を出す。
︵ちょいと濯そそぎましょう。︶
遮ると、叱るように、
︵何ですね、跣はだ足しでお出なすっては、また汚れるではありませんか。︶
で恐縮なのは、そのままで手を拭ふいて、
︵後で洗いますよ。︶と丸まろげて落した。手ハン巾ケチは草の中。何の、後で洗うまでには、蛇が来て抱くか、山やまが接キッ吻スをしよう、とそこいらをしましたが、おっかなびっくり。
︵姉さん。︶
︵ああ、︶
︵ちょいと。……︶
土間口の優しい声が、貴婦人を暗がりへ呼込んだ。が、二ツ三ツ何か言交わすと、両手に白いものを載のせて出た――浴衣でした。
余り人間離れがしますから、浅あさ葱ぎの麻の葉絞りで絹きぬ縮ちぢみらしい扱しご帯きは、平ひらにあやまりましたが、寝ねま衣きに着換えろ、とあるから、思切って素すッ裸ぱだかになって引ひっ掛かけたんです。女もので袖が長い――洗ったばかりだからとは言われたが、どこかヒヤヒヤと頸えり元もとから身に染む白おし粉ろいの、時めく匂においで。
またぼうとなって、居いご心ころが据すわらず、四畳半を燈とも火しびの前まえ後うしろ、障子に凭より懸かかると、透間からふっと蛇の臭においが来そうで、驚いて摺ずって出る。壁際に附くッ着つけば、上から蜘く蛛もがすっと下りそうで、天あた窓まを窘すくめて、ぐるりと居直る……真まん中なかに据えた座ざぶ蒲と団んの友ゆう染ぜん模もよ様うが、桔きき梗ょうがあって薄すすきがすらすら、地が萌もえ黄ぎの薄い処、戸おも外ての猿ヶ馬場そっくりというのを、ずッと避けて、ぐるぐる廻りは、早や我ながら独りでぐでんに酔ったようで、座敷が揺れる、障子が動く、目が廻る。ぐたりと手を支つく、や、またぐたりと手を支く。
これじゃならん、と居いず坐ま居いを直して、キチンとすると、掻かき合あわせる浴衣を……潜くぐって触る自分の身から体だが、何となく、するりと女にょ性しょうのようで、ぶるッとして、つい、と腕を出して、つくづくと視ながめる始朱。さ、こうなると、愚にもつかぬ、この長い袖の底には、針のようを褐かば色いろの毛がうじゃうじゃ……で、背中からむずつきはじめる。
もっとも、今浴衣を持って来て、
︵私もちょいと失礼をいたしますよ。︶
で、貴婦人は母おも屋やへ入った――当分離座敷に一人の段だん取どりで。
その内に、床の間へ目が着きますとね、掛かけ地じがない。掛地なしで、柱の掛かけ花はな活いけに、燈あか火りには黒く見えた、鬼おに薊あざみが投込んである。怪けしからん好みでしょう、……がそれはまだ可いい。傍わきの袋戸棚と板床の隅に附くッ着つけて、桐の中ちゅ古うぶるの本箱が三みっ箇つ、どれも揃って、彼むこ方う向きに、蓋ふたの方をぴたりと壁に押おッ着つけたんです。……﹂
﹁はあ、﹂
とばかりで、山伏は膝の上で手を拡げた。
﹁昔修しゅ行ぎょ者うじゃが、こんな孤ひと家つやに、行ゆき暮くれて、宿を借ると、承なげ塵しにかけた、槍やり一筋で、主ある人じの由緒が分ろうという処。本箱は、やや意を強うするに足ると思うと、その彼むこ方う向けの不あか開ずの蓋で、またしても眉を顰ひそめずにはいられませんのに、押並べて小机があった。は可なつ懐かしいが、どうです――その机の上に、いつの間に据えたか、私のその、蝦がま蟇ぐ口ちと手拭が、ちゃんと揃えて載せてあるのではありませんか、お先達。﹂
と境は居直る。
二十四
﹁背うし後ろは峰で、横は谷です。峰も、胴どうなかの窪くぼんだ、頭かしらがざんばらの栗の林で蔽おおい被かぶさっていようというんで、それこそ猿が宙返りでもしなければ上れそうにもなし、一方口はその長土間でしょう、――今更遁にげ出だそうッたって隙すきがあるんじゃなし、また遁げようと思ったのでもないが、さあ、静じっとしていられないから、手近の障子をがたりと勢いきおいよく開けました。……何か命令をされたようで、自分気きま儘まには、戸一枚も勝手を遣っては相成らんような気がしていたのでありますけれども……
すると貴あな下た、何とその横縁に、これもまた吃びっ驚くりだ。私のいかがな麦むぎ藁わら帽ぼうから、洋こう傘もり、小さな手荷物ね。﹂
﹁やあやあ、﹂
﹁それに、貴あな下たが打うっ棄ちゃっておいでなすったと聞きました、その金こん剛ごう杖づえまで、一ひと揃そろい、驚いたものの目には、何か面つら当あてらしく飾りつけたもののように置いてある。……﹂
山伏ぐんなりして、
﹁いやもう、凡慮の及ぶ処でござらん。黙って承りましょう、そこで?﹂
﹁処へ、母屋から跫あし音おとが響いて来て、浅あさ茅ぢ生うを颯さっ々さっ、沓くつ脚ぬぎで、カタリと留やむと、所在紛らし、谷の上の靄もやを視ながめて縁に立った、私の直ぐ背うし後ろで、衣きぬ摺ずれが、はらりとする。
小さな咳しわぶきして、
︵今に月が出ますと、ちっとは眺なが望めになりますよ。︶
と声を掛けます。はて違うぞ、と上から覗のぞくように振向く。下に居て、そこへ、茶盆を直した処、俯うつ向むいた襟足が、すっきりと、髪の濃いのに、青あお貝がい摺ずりの櫛が晃きらめく、鬢びんも撫なでつけたらしいが、まだ、はらはらする、帯はお太鼓にきちんと極きまった、小こど取りま廻わしの姿の好よさ。よろけ縞じまの明あか石しを透いて、肩から背せながふっくりと白かった――若い方の婦おん人ななんです。
お馴なじ染みの貴婦人だとばかり、不意を喰くらって、
︵いらっしゃい。︶
と調子を外ずして、馬鹿な言ことを、と思ったが、仕方なしに笑いました。で、照てれ隠かくしに勢いきおいよく煙たば草こぼ盆んの前へ坐る……
︵お邪魔に出ましてございます。︶
莞にっ爾こりして顔を上げた、そのぱっちりしたのをやや細く、瞼まぶたをほんのりさして、片手ついたなりに顔を上げた美しさには、何にもかも忘れました。
︵とんでもない。︶
と突つんのめるように巻煙草を火ひい入れに入れたが、トッチていて吸いつきますまい。
︵お火が消えましたかしら。︶
とちょっと翳かざした、火入れは欠けて燻くすぶったのに、自じね然んぼ木くを抉くり抜ぬきの煙草盆。なかんずく灰はい吹ふきの目覚しさは、……およそ六貫目掛がけの筍たけのこほどあって、縁へりの刻ささ々らになった代物、先代の茶店が戸棚の隅に置忘れたものらしい。
何の、火は赤々とあって、白しら魚おに花が散りそうでした。
やっと煙けむのような煙けむりを吸ったが、どうやら吐掛けそうで恐縮で、開けた障子の方へ吹出したもんです。その煙がふっと飛んで、裏の峰から一ひと颪おろし颯さっと吹込む。
と胸をずらして、燈あかりを片隅に押しましたが、灯が映るか、目のふちの紅くれないは薄らがぬ。で、すっと吸うように肩を細めて、
︵おお、涼しい。お月様の音ですかね、月の出には颯さっといってきっと峰から吹きますよ。あれ、御覧なさいまし。︶
と燈あかりを背せなに、縁の端へ仰あお向むいた顔で恍うっ惚とりする。
︵栗の林へ鵲かささぎの橋が懸かかりました。お月様はあれを渡って出なさいます。いまに峰を離れますとね、谷の雲が晃きら々きらと、銀のような波になって、兎の飛ぶのが見えますよ。︶
︵ほとんど仙せん境きょう。︶
と私は手を支ついて摺ずって出ました。
︵まるで、人間界を離れていますね。︶
……お先達、私のこう言ったのはどうです。﹂
急に問われて、山伏は、
﹁ははあ、﹂
と言う。
二十五
﹁驚おど駭ろきに馴なれて、いくらか度胸も出来たと見え、内々諷ふうする心持もあったんですね。
直ぐには答えないで、手てさ捌ばきよく茶を注ついで、
︵粗ひどいんですよ。︶
と言う、自分の湯ゆの呑みで、いかにも客の分といっては茶碗一つ無いらしい。いや、粗いどころか冥みょ加うが至極。も一つ唐から草くさの透すかし模様の、硝ビイ子ドロの水呑が俯うつ向むけに出ていて、
︵お暑いんですから、冷おひ水やがお宜よろしいかも知れません。それだと直きそこに綺麗なのが湧わいていますけれども、こんな時節には蛇が来て身から体だを冷ひやすと申しますから。……︶
この様子では飲のみ料もので吐とけ血つをしそうにも思われないから、一息に煽あおりました。実はげっそりと腹も空いて。
それを見ながら今の続きを、……
︵ほんとに心細いんですわ。もう、おっしゃいます通り、こんな山の中で、幾いく日かも何日もないようですが、確か、あの十三四日の月夜ですのね、里では、お盆でしょう。――そこいらの谷の底の方に、どうやら、それらしい燈とう籠ろうの灯が、昨ゆう夜べ幽かすかに見えましたわ……ぽっちりよ。︶
と蓮はす葉はに云ったが、
︵蛍くらいに。︶
そのままで、わざとでもなく、こう崖へかけて俯うつ向むき加減に、雪の手を翳かざした時は、言うばかりない品が備わって、気高い程に見えました。
︵どんなに、可なつ懐かしゅうござんしたでしょう。︶
たちまち悄しおれて涙ぐむように、口許が引しまった。
見ると堪たまらなくなって、
︵そのかわり、また、里から眺めて、自然こうやってお縁側でも開いていて、フトこの燈とも火しびが見えましたら、どんなにか神こう々ごうしい、天上の御殿のように思われましょう。︶
なぜ山やま住ずま居いをせらるる、と聞く間もなしに慰めたんです。
あどけなく頭かぶりを振って、
︵いいえ、何の、どこか松の梢こずえに消え残りました、寂さみしい高たか燈とう籠ろうのように見えますよ。里のお墓には、お隣りもお向うもありますけれど、ここには私唯ひと一りき人り。︶
小指を反らして、爪つま尖さきを凝じっと見て、
︵ほんとに貴あな下た、心細い。蓮はすの台うてなに乗ったって一ひと人りぼ切っちでは寂さみしいんですのに、おまけにここは地獄ですもの。︶
︵地獄。︶
と言って聞返しましたがね、分別もなしに、さてはと思った。それ、貴あな下たの一件です。﹂
﹁鬼の面、鬼の面。﹂
と山伏は頭を掻く。
﹁ところが違います。私もてっきり……だろうと思って、
︵貴あな女た、唐だし突ぬけですが、昼間変なものの姿を見て、それで、厭いやな、そんな忌いまわしい事をおっしゃるんじゃありませんか、きっとそうでしょう。︶
に極きめてかかって、
︵御心配はありません。あれは、麓ふもとの山伏が……︶
ッて、ここで貴下の話をしました。
ついては、ちっと繕って、まあ、穏かに、里で言う峠の風うわ説さ――面と向っているんですから、そう明あか白らさまにも言えませんでしたが、でも峠を越すものの煩うぐらいの事は言った。で、承った通り、現にこの間も、これこれと、向う顱はち巻まきの豪傑が引ひっ転くりかえったなぞは、対あい手ての急所だ、と思って、饒しゃ舌べったには饒舌りましたが、……自若としている。﹂
﹁自若として、﹂
﹁それは実に澄ましたものです。蟇ひきがえるが出て鼬いたちの生いき血ちを吸ったと言っても、微ほほ笑えんでばかりいるじゃありませんか。早く安心がしたくもあるし、こっちは急あせって、
︵なぜまたこんな処にお一人で。︶
と思い切って胸を据えると、莞にっ爾こりして、
︵だって、山やま蟻ありの附くッ着ついた身から体だですもの。︶
と肩をぶるぶると震わしてしっかりと抱いた、胸に夕顔の花がまたほのめく。……ああ、魂というものは、あんな色か、と婦おんなに玉の緒を取って扱しごかれたように、私がふらふらとした時、
︵貴あな下た、︶
と顔を上げて、凝じっとまた見ました。﹂
二十六
﹁色めいた媚なまめかしさ、弱々と優しく、直ぐに男の腕へ入りそうに、怪しい翼を掻かい窘すくめて誘込むといった形。情に堪えないで、そのまま抱だき緊しめでもしようものなら、立たち処どころにぱッと羽はば搏たきを打つ……たちまち蛇が寸ずた断ずたになるんだ。何のその術てを食うものか、とぐっと落着いて張合った気で見れば、余りしおらしいのが癪しゃくに障った。
が、それは自分勝手に、対さ手きが色仕掛けにする……いや、してくれる……と思った、こっちが大の自うぬ惚ぼれ……
もっての外です。
実は、涙をもって、あわれに、最いと惜おしく、その胸を抱いて様子を見るべき筈はずで。やがてまた、物もの凄すごさ恐しさに、戦おののき戦き、その膚はだを見ねばならんのでした。﹂――
と語りかけて、なぜか三造は歎息した。
山伏は茶盆を突つき退のけて、釜かまの此こな方たへ乗って出て、
﹁自惚でない。承った、その様子、怪けしからん嬌きょ媚うびの体ていじゃ。さようなことをいたいて、少わかい方の魂を蕩とろかすわ、ふん、ふふん、﹂
と頻しきりに頷うなずきながら、
﹁そこでその、白い乳房でも露あらわしたでござるか。﹂
﹁いいえ。﹂
﹁いずれ、鳩みず尾おちに鱗うろこが三枚……﹂
黙って三造は頭かぶりを掉ふる。
﹁全体蛇じゃ体たいでござるかな。﹂
﹁いいえ。﹂
﹁しからば一面の黒ほく子ろかな、何にいたせ、その膚を、その場でもって……﹂
﹁見ました、見ましたが、それは寝てからです。﹂
﹁寝て……からはなお怪しからん。これは大変。﹂
と引ひッ掴つかんで膝い去ざり出した、煙草入れ押戻しさまに、たじたじとなって、摺ずり下さがって、
﹁はッはッ、それまで承っては、山伏も恐入る。あのその羅うすものを透くと聞きましただけでも美しさが思い遣やられる。寝てから膚を見たは慄ぞ然っとする……もう目めさ前きへちらつく、独ひとりの時なら鐸すずを振って怨おん敵てき退たい散さんと念ずる処じゃ。﹂
﹁聞きようが悪い、お先達。私が一ツ部屋にでも臥ふせったように、﹂
﹁違いますか。﹂
﹁飛んだ事を!﹂
と強く言った。
﹁はてな。﹂
﹁婦おんなたちは母屋に寝て、私は浅あさ芽ぢ生うの背戸を離れた、その座敷に泊ったんです。別々にも、何にも、まるで長土間が半町あります。﹂
﹁またそれで、どうして貴あな辺たは?﹂
﹁そうです……お聞苦しかろうが、覗のぞいたんです。﹂
﹁お覗きなすった?いずれから。﹂
﹁長土間を伝って行って、母屋の一ひと室まを閨ねやにした、その二人の蚊帳を、……
というのが――一人で離座敷に寝たには寝たが、どうしても静じっと枕をしている事が出来なくなってしまったんですね。﹂
﹁山伏でも寝にくいで、御無理はない、迷いじゃな。﹂
﹁迷……迷いは迷いでしょうが、色の、恋のというのじゃありません。これは言訳でも何でもない、色恋ならまだしもですが、まったくは、何とも気味の悪い恐しい事が出来たんです。﹂
﹁はあ、蚊帳を抱く大入道、夜中に山霧が這はい込こんでも、目をまわすほど怯おびやかされる、よくあるやつじゃ。﹂
﹁いや、蚊帳は釣らないで臥ふせりました。――母屋の方はそうも行かんが、清水があって、風通しの可いいせいか、離座敷には蚊は居ません。で、ちと薄ら寒いくらいだから――って……敷くのを二枚と小こが掻いま巻き。どれも藍あい縞じまの郡ぐん内ない絹ぎぬ、もちろんお綾さん、と言いました、少わかい人の夜のもの……そのかわり蚊帳は差上げません。――
︵ちと美しい唇に、分けてお遣んなさいまし。……殿方の血は、殿方ばかりのものじゃありませんよ。︶
と凄すごいような串じょ戯うだんを、これは貴婦人の方が言って。――辞退したが肯きかないで、床の間の傍わきの押入から、私の床を出して敷いたあとを、一人が蚊帳を、一人が絹の四よの布ぶ蒲と団んを、明石と絽ろち縮りめ緬んの裳もすそに搦からめて、蹴けだ出しづ褄まの朱とき鷺い色ろ、水色、はらはらと白しら脛はぎも透いて重かさなって正おも屋やへ隠れた、その後あとの事なんですが。﹂
二十七
﹁二人の婦おんなが、その姿で、沓くつ脱ぬぎの笹ささを擦る褄つまはずれ尋常に、前の浅あさ芽ぢ生うに出た空には、銀あま河のがわが颯さっと流れて、草が青う浮出しそうな月でしょう――蚊かや帳つり釣ぐ草さにも、蓼たでの葉にも、萌もえ黄ぎ、藍あい、紅こう麻あさの絹の影が射さして、銀しろがねの色しき紙しに山さん神じんのお花畑を描いたような、そのままそこを閨ねやにしたら、月の光が畳の目、寝姿に白露の刺ぬい繍とりが出来そうで、障子をこっちで閉めてからも、しばらく幻が消えません。
が、二人はもう暗い母屋へ入ったんです。と、草くさ清しみ水ずの音がさらさらと聞え出す、それが、抱いた蚊帳と、掛蒲団が、狭い土間を雨戸に触って、どこまでも、ずッと遠くへ行ゆくのが、響くかと思われる。……
ところで、いつでも用あり次第、往ゆき通かいの出来るようにと、……一体土間のその口にも扉がついている。そこと、それから斜はす違かいに向い合った沓脱の上の雨戸一枚は、閉めないで、障子ばかり。あとは辻堂のような、ぐるりとある廻まわ縁りえん、残らず雨戸が繰ってあった。
さて、寝る段になって、そのすっと軽く敷いた床を見ると、まるで、花で織った羅うすもののようでもあるし、虹にじで染めた蜘蛛の巣のようにも見える――
ずかと無遠慮には踏込み兼ねて、誰か内うち端わに引ひっ被かついで寝た処を揺ゆり起おこすといった体裁……
枕許に坐って、密そっと掻かい巻まきの襟へ手を懸けると、冷つめたかった。が、底に幽かすかに温あた味たかのある気がしてなりません。
また気のせいで、どうやら、こう、すやすやと花が夜露を吸う寝息が聞える。可おか訝しく、天びろ鵞う絨どの襟もふっくり高い。
や、開けると、あの顔、――寝乱れた白い胸に、山蟻がぽっちり黒いぞ、と思うと、なぜか、この夜具へ寝るのは、少わかい主ある婦じの懐ふと中ころへ入るようで、心ここ咎ろとがめがしてならないので、しばらく考えていましたがね。
そうでもない、またどんな事で、母屋から出て来ないと限らん。誰か見るとこの体ていは、蓋ふたを壁にした本箱なり、押入なり、秘密の鍵かぎを盗もう、とするらしく思われよう。心苦しいと思って、思い切って、掻巻の袖を上げると、キラリと光ったものがある。
鱗うろこか、金の、と総毛立つ――と櫛くしでした。いつ取落したか、青あお貝がい摺ずりので、しかも直ぐ襟えり許もとに落ちていました。
待て、女の櫛は、誰も居ない夜具の中に入っていると、すやすやと寝息をするものか、と考えたくらい、もうそれほどの事には驚かず、当あた然りまえのようだったのも、気がどうかしていたんでしょう。
しばらく手に取って視ながめていましたが、
︵ええ、縁えん切きりだ!︶
とちと気き勢おって、ヤケ気味に床の間へ投出すと、カチリという。折れたか、と吃びっ驚くりして、拾い直して、密そっと机に乗せた時、いささか、蝦がま蟆ぐ口ちの、これで復ふく讎しゅうが出来たらしく、大おおいに男性の意気を発して、
︵どうするものか!︶
ぐっと潜って、
︵何でも来い。︶
で枕を外して、大の字になった、……は可いいが、踏伸ばした脚を、直ぐに意気地なく、徐そろ々そろ縮め掛けたのは……
ぎゃっ!
あれは五ごい位さ鷺ぎでしょうな。﹂
﹁ええ。﹂
﹁それとも時ほと鳥とぎすかも知れませんが、ぎゃっ! と啼なきます……
可い厭やな声で。はじめ、一声、二声は、横手の崖に満みち充みちた靄もやの底の方に響きました。虚空へ上って、ぎゃっと啼くかと思うと、直ぐにまたぎゃっと来る。
ちょうど谷底から、一軒家を、環わに飛び廻っているようです。幾羽も居るんなら居るで可いが、何だか、その声が、同おんなじ一つ鳥のらしいので、変に心地が悪いのです。……およそ三四十度たび、声が聞えたでしょうか。
枕まく頭らもとで、ウーンと呻う吟めくのが響き出した、その声が、何とも言われぬ……﹂
二十八
﹁寝てから多しば時らく経たつ。これは昼間からの気疲れに、自分の魘うなされる声が、自然と耳に入るのじゃないか。
そうも思ったが、しかしやっぱり聞える。聞えるからには、自分でないのは確たしかでしょう。
またどうも呻う吟めくのが、魘されるのとは様子が違って、苦くるしみくといった調子だ……さ、その同おな一じ苦みくというにも、種いろ々いろありますが、訳は分らず、しかもその苦くる悩しみが容易じゃない。今にも息を引取るか、なぶり殺しに切き刻ざまれてでもいそうです。﹂
﹁やあやあ、どちらの御婦人で。﹂
﹁いや、男の声。不思議にも怪しいにも、婦おん人ななら母屋の方に縁はあるが、まさしく男なんですものね。﹂
﹁男の声かな、ええ、それは大変。生血を吸われる夥おな間かまらしい、南なむ無さ三ん、そこで?﹂
﹁何しろどこだ知らん。薄気味悪さに、頭かしらを擡もたげて、熟じっと聞くと……やっぱり、ウーと呻う吟なる、それが枕許のその本箱の中らしい。﹂
﹁本箱の?﹂
﹁一体、向うへ向けたのが気になったんだが、それにしても本箱の中は可おか訝しい、とよくよく聞き澄しても、間違いでないばかりか、今度は何です、なお困ったのは、その声が一人でない、二人――三人――三みッ個つの本箱、どれもこれも唸うなっている。
ウーウーウーという続けさまのは、厭いやな内にもまだしも穏かな方で、時々、ヒイッと悲鳴を上げる、キャッと叫ぶ、ダァーと云う。突刺された、斬きられた、焼かれた、と、秒を切って劃くぎりのつくだけ、一々ドキリドキリと胸へ来ます。
私はむっくり起直った。
ああ、硫いお黄うの臭においもせず、蒼あおい火も吹出さず、大おお釜がまに湯玉の散るのも聞えはしないが、こんな山には、ともすると地獄谷というのがあって、阿あび鼻きょ叫うか喚んが風の繞めぐるごとくに響くと聞く……さては……少わかい女が先さっ刻き――
︵ここは地獄ですもの。︶
と言ったのも、この悪名所を意味するのか。……キャッと叫ぶ、ヒイと泣く、それ、貫かれた、抉えぐられた……ウ、ウ、ウーンと、引入れられそうに呻う吟めく。
とても堪たまらん。
気のせいで、浅茅生を、縁えん近ぢかに湧わき出でる水の月の雫しずくが点した滴たるか、と快く聞えたのが、どくどく脈を切って、そこらへ血が流れていそうになった。
さあ、もう本箱の中ばかりじゃない、縁の下でも呻吟けば、天井でも呻吟く。縁側でも呻う唸なり出す――数すひ百ゃくの虫が一いっ斉ときに離座敷を引包んだようでしょう、……これで、どさりと音でもすると、天井から血みどろの片腕が落ちるか、ひしゃげた胴腹が、畳の合あわ目せめから溢はみ出だそう。
幸い前の縁の雨戸一枚、障子ばかりを隔てにして、向うの長土間へ通ずる処――その一方だけは可い厭やな声がまだ憑とり着つきません。おお! 事ある時は、それから母屋へ遁にげよ、という、一ひと条すじの活路なのかも料はかられん。……
お先達、﹂
と大息ついて、
﹁……こう私が考えたには、所いわ説れがあります。……それは、お話は前後したが、その何の時でした。――先さっ刻き、――
︵だって、山蟻の附くッ着ついてる身から体だですもの。︶
で、しっかり魂を抱取られて、私がトボンとした、と……申しましたな。――そこへ、
︵お綾さん、これなのかい。︶
と声を掛けて、貴婦人が、衝つと入って来たのでした。……片手に、あの、蒔まき絵えものの包つつみを提げて、片手に小ちいさな盆を一ひと個つ。それに台のスッと細い、浅くてぱッと口の開いた、ひどくハイカラな硝コ子ッ盃プを伏せて、真まみ緑どりで透通る、美しい液体の入った、共口の壜びんが添って、――三分ぐらい上が透いていたのでしたっけ。
︵ああ、それなの、憚はばかりさま。︶
と少わかいのが言うと、
︵手の着かないのは無いようね。︶
と緑の露の映る手で、ずッと私の前へ直しました。酒なんですね。
︵手が着いたって、姉ねえさん、食べかけではないわ、お酒ですもの。︶
綺麗な歯をちらりと見せたもんですね。その時、﹂
二十九
﹁貴婦人も莞にっ爾こりして、
︵ま、そうね、私はちっとも頂かないものだから。︶
︵あら人聞きが悪いわ。私ばかりお酒を飲むようで。︶
︵だってそれに違いないんですもの、ほんとに困った人だこと。︶
ちょいと躾たしなめるような目をした。二人で仲よく争いながら、硝コ子ッ盃プを取って指しました。
︵さあ、お一つ召上れな、お綾さんの食べかけではないそうですから……しかしお甘いんで不い可けませんか。︶
と貴婦人が言った時は、もう少わかい方が壜びんを持って待ってるんでしょう。手首へ掛けて蒼あおい酒に、颯さっと月影が射さしたんです。
毒虫を絞った汁にもせよ、人生れて男にして、これは辞すべきでない。
引ひっ掛かけて受けました。
薫かおりと酔よいが、ほんのりと五ごぞ臓うろ六っ腑ぷへ染しみ渡わたる。ところで大だい胆たんにその盃さかずきを、少わかい女に返しますとね、半分ばかり貴婦人に注ついでもらって、袖を膝に載のせながら、少し横向きになって、カチリと皓しら歯はの音がした、目を瞑ねむって飲んだんです。
︵姉さんは。︶
︵いいえ、沢山、私は卑いやしいようなけれども、どうも大変にお肚なかが空いたよ。︶
とお肴さかな兼帯――怪しげな膳ぜんよりは、と云って紫の風呂敷を開いた上へ、蒔絵の蓋ふたを隙すかしてあった。そのお持たせの鮎あゆの鮨すしを、銀の振出しの箸はしで取って撮つまんだでしょう。
︵お茶を注さして来ましょうね。︶
と吸きゆ子うすを取って、沓くつ脱ぬぎを、向うむきに片かた褄づまを蹴けお落としながら、美しい眉を開いて、
︵二人で置くは心配ね。︶
と斜めになって袖を噛かむと、鬢びんずらの戦そよぎに連立って、袂たもとの尖さきがすっと折れる。
貴婦人が畳に手を支つき、
︵お盃をしたのは貴あな女たでしょう。︶
︵ですから、なおの事。︶
と言い棄てて袂を啣くわえたまま蓮はす葉はに出ました。
私はとなった。
が、ここだ、と一ひと番つ、三さん盃ばいの酔よいの元気で、拝借の、その、女の浴衣の、袖を二三度、両方へ引張り引張り、ぐっと膝を突向けて、
︵夫おく人さん。︶と遣った――
︵生いの命ちに別条はありませんでしょうな。︶
卑劣なことを、この場合、あたかも大言壮語するごとく浴あびせたんです。
笑うか、打ぶつか、呆れるか、と思うと、案外、正面から私を視みて、
︵ええ、その御心配のござんせんように、工夫をしていますんです。︶
と判きっ然ぱり言う。その威儀が正しくって、月に背けた顔が蒼あおく、なぜか目の色が光るようで、羅うすものの縞しまもきりりと堅く引ひき緊しまって、くっきり黒くなったのに、悚ぞっ然とすると、身みぶ震るいがして酔が醒さめた。
︵ええ!︶
しばらくして、私は両手を支つかないばかりに、
︵申訳がありません。︶
でもって恐入ったは、この人こそ、坂口で手を掉ふって、戻れ、と留めてくれたそれでしょう。
︵どうぞ、無事に帰宅の出来ますように、御心配を願います、どうぞ。︶
と方かたなしに頭つむりを下げた。
︵さあ。︶
と大事に居直って、
︵それですから、心配をしますんですよ。今の、あのお盃を固めの御祝儀に遊ばして、もうどこへもいらっしゃらないで、お綾さんと一所に、ここにお住い下さるなら、ちっともお障りはありませんけれど、それは、貴あな下たお厭いやでしょう。︶
私は目ばかり働いた。
︵ですが、あの通り美しいのに、貴下にお願ねがいがあると云って、衣きも物のも着換えてお給仕に出ました心は、しおらしいではありませんか。私が貴下ならもう、一も二もないけれど……山の中は不い可けませんか、お可い厭やらしいのねえ。︶
と歎息をされたのには、私もと胸むねを吐つきました。……﹂
三十
﹁ちょいと二人とも言ことばが途絶えた。
︵ですがね、貴あな下た、無理にも発た程ってお帰り遊ばそうとするのは――それはお考えものなんですよ。……ああ、綾さんが見えました。︶
と居いず座まいを開いて、庭を見ながら、
︵よく、お考えなさいまし、私どもも、何とか心配をいたします。︶
話は切れたんです、少わかい人が、いそいそ入って来ましたから。……
ところで、俯うつ向むいていた顔を上げて、それとなく二人を見較べると、私には敵かたきらしい少わかい人の方が、優しく花やかで、口を利かれても、とろりとなる。味方らしい年上の方が、対さし向むかいになると、凄すごいようで、おのずから五体が緊しまる、が、ここが、ものの甘さと苦さで、甘い方が毒は順当。
まあ、それまでですが、私の身に附いて心配をしますと云ったのに、私わたくしども二人して、と確たしかに言った。
すると、……二人とも味方なのか、それとも敵かたきなのか、どれが鬼で、いずれが菩ぼさ薩つか、ちっとも分りません。
分らずじまいに、三人で鮨すしを食べた。茶話に山吹も出れば、巴ともえも出る、倶利伽羅の宮の石段の数から、その境内の五ごし色きの礫こいし、==月かなし==という芭ばし蕉ょうの碑などで持切って、二人の身の上に就いては何も言わず、またこっちから聞く場合でもなかったから、それなりにしましたが、ただふと気に留とまった事があります。
少わかい女が持出した、金きん蒔まき絵えの大形の見事な食じき籠ろう……形がたの菓子器ですがね。中には加賀の名物と言う、紅白の墨すみ形がたの落らく雁がんが入れてありました。ところで、蓋ふたから身をかけて、一面に蒔まいた秋草が実に見事で、塗ぬりも時代も分らない私だけれども、精巧さはそれだけでも見み惚とれるばかりだったのに、もう落雁の数が少なく、三人が一ツずつで空からになると、その底に、何にもない漆うるしの中へ、一ツ、銀で置いた松虫がスーイと髯ひげを立てた、羽のひだも風を誘って、今にもりんりんと鳴出しそうで、余り佳いいから、あっ、と賞ほめると、貴婦人が、ついした風で、
︵これは、お綾さんのお父とっさんが。この重箱の蒔絵もやっぱり、︶
と言いかける、と、目配せをした目が衝つと動いた。少わかいのはまた颯さっと瞼まぶたを染めたんです。
で、悪い、と知ったから、それっきり、私も何にも言いはしなかった。けれどもどうやらお綾さんが人間らしくなって来たので、いささか心を安やすんじたは可いいが――寝るとなると、櫛の寝息に、追続いた今の呻うめ吟き。……
お先達、ここなんです。
二人で心配をしてやろうと言ったは、今だ。疾はやくその遁にげ口ぐちから母屋に抜けよう。が、あるいは三方から引ひッ包つつんで、誘おびき出す一方口の土間は、さながら穽おと穴しあなとも思ったけれども、ままよ、あの二人にならどうともされろ!で、浅茅生へドンと下りた、勿論跣はだ足しで。
峰も谷も、物もの凄すごい真夜中ですから、傍わき目めも触ふらないで土間へ辷すべり込む。
ずッと遥はるかな、門かどへ近い処に、一間、煤すすけた障子に灯あかりが射さす。
閨ねやは……あすこだ。
難あり有がたい、としっとり、びしょ濡れに夜露の染しんだ土間を、ぴたぴたと踏んで、もっとも向うの灯は届かぬ、手探りですよ。
やがて、その土間の広くなった処へ掛かかると、朧おぼ気ろげに、縁と障子が、こう、幻のように見えたも道理、外は七月十四日の夜よの月。で、雨戸が外れたままです。
けれども峰を横倒しに戸口に挿込んだように、靄もやの蔓はびこったのが、頭かしらを出して、四あた辺りは一面に濛もう々もうとして、霧の海を鴉からすが縫うように、処々、松杉の梢こずえがぬっと顕あらわれた。他ほかは、幅も底も測はか知りしられぬ、山の中を、時々すっと火の筋が閃ひらめいて通る……角に松たい明まつを括くくった牛かと思う、稲妻ではない、甲かぶ虫とむしが月を浴びて飛ぶのか、土とち地のか神みが蝋ろう燭そく点つけて歩あ行るくらしい。
見ても凄すごい、早やそこへ、と思って寝ねま衣きの襟を掻かき合あわせると、その目当の閨ねやで、――確に女の――すすり泣きする声がしました。……ひそひそと泣いているんですね。﹂
三十一
﹁夜半に及んで、婦人の閨へ推参で、同じ憚はばかるにしても、黙って寝ていれば呼べもするし、笑わら声いごえなら与くみし易いが、泣いてる処じゃ、たとい何でも、迂うか濶つに声も懸けられますまい。
何しろ、泣なき悲かなしむというは、一通りの事ではない。気にもなるし、案じられもする……また怪しくもあった。ですから、悪いが、密そっと寄って、そこで障子の破やぶ目れめから――
その破目が大層で、此てま方えへ閉ってます引手の処なんざ、桟がぶら下さがって行抜けの風かざ穴あなで。二ふた小こ間ま青まっ蒼さおに蚊帳が漏れて、裾すその紅こう麻あさまで下へ透いてて、立つと胸まで出そうだから、覗のぞくどころじゃありません。
屈かがんで通抜けました。そこを除よけて、わざわざ廻って、逆に小さな破やぶれから透かして見ると……
蚊帳越ごしですが、向うの壁に附くッ着つけた燈あかりと、対さし向むかいでよく分る。
その灯ひを背にして、こちら向きに起返っていたのは、年上の貴婦人で。蚊帳の萌もえ黄ぎに色が淡く、有るか無いか分らぬ、長なが襦じゅ袢ばんの寝ねま衣きで居た。枕は袖の下に一ひと個つ見えたが、絹の四よの布ぶ蒲と団んを真まん中なかへ敷いた上に、掛けるものの用意はなく、また寝るつもりもなかったらしい――貴婦人の膝に突つっ伏ぷして、こうぐっと腕かいなを掴つかまって、しがみついたという体ていで、それで※なよ々なよ﹇#﹁女+︵﹁島﹂の﹁山﹂に代えて﹁衣﹂︶﹂、442-7﹈と力なさそうに背筋を曲くねって、独とっ鈷こい入りの博はか多たの扱しご帯きが、一ツ絡まつわって、ずるりと腰を辷すべった、少わかい女は、帯だけ取ったが、明あか石しの縞しまを着たままなんです。
泣いているのはそれですね。前さっ刻きから多しば時らくそうやっていたと見えて、ただしくしく泣く。後おくれ毛が揺れるばかり。慰めていそうな貴婦人も、差さし俯うつ向むいて、無言の処で、仔しさ細いは知れず……花はな室むろが夜風に冷えて、咲さき凋しおれたという風情。
その内に、肩越に抱くようにして投掛けていた貴婦人の手で脱がしたか、自分の手先で払ったか、少わかい女の片肌が、ふっくりと円く抜けると、麻の目が颯さっと遮ったが、直すぐに底そこ澄ずんだように白くなる……また片一方を脱いだんです。脱ぐと羅うすものの襟が、肉しし置おきのほどの好いい頸えり筋すじに掛かかって、すっと留まったのを、貴婦人の手が下へ押下げると、見る目には苛いじらしゅう、引ひっ剥ぱぐように思われて、裏を返して、はらりと落ちて、腰帯さがりに飜った。
と見ると、蒼白く透とおった、その背筋を捩よじって、貴婦人の膝へ伸し上あがりざまに、半はん月げつ形なりの乳房をなぞえに、脇腹を反らしながら、ぐいと上げた手を、貴婦人の頸うなじへ巻いて、その肩へ顔を附ける……
その半裸体の脇の下から、乳房を斜はすに掛けて、やァ、抉えぐった、突いた、血が流れる、炎が閃ひらめいて燃えつくかと思う、洪どっと迸ほとばしったような真まっ赤かな痣あざがあるんです。﹂
山伏は大息ついて聞くのである。
﹁その痣を、貴婦人が細い指で、柔かにそろそろと撫でましたっけ。それさえ気味が悪いのに、十とた度びばかり擦さすっておいて、円まる髷まげを何と、少わかい女の耳許から潜くぐらして、あの鼻筋の通った、愛あい嬌きょうのない細ほそ面おもての緊しまった口で、その痣あざを、チュッと吸う、﹂
﹁うーむ、﹂
と山伏は呻う吟なった。
﹁私は生血を吸うのだと震え上あがった。トどうかは知らんが、少わかい女の絡からんだ腕は、ひとりで貴婦人の頸うなじを解けて、ぐたりと仰あお向むけに寝ましたがね、鳩みず尾おちの下にも一ヶ所、めらめらと炎の痣。
やがて、むっくりと起上って、身を飜した半身雪の、褄つまを乱して、手をつくと、袖が下さがって、裳もすそを捌さばいて、四ツ這ばいになった、背中にも一ツ、赤あか斑まだらのある……その姿は……何とも言えぬ、女の狗いぬ。﹂
﹁ああ!﹂
﹁驚く拍子に、私が物音を立てたらしい。貴婦人が、衝つと立つと、蚊帳越にパッと燈あかりを……少わかい女は這はったままで掻かき消けすよう――よく一息に、ああ消えたと思う。貴婦人の背の高かったこと、蚊帳の天井から真白な顔が突抜けて出たようで――いまだに気味の悪さが俤おも立かげだってちらちらします。
あとは、真まっ暗くら、蚊帳は漆うるしのようになった。﹂
三十二
﹁何が何でも、そこに立っちゃいられんから、這はったか、摺ずったか、弁わき別まえはない、凸でこ凹ぼこの土間をよろよろで別はな亭れの方へ引返すと……
また、まあどうです。
あの、雨戸がはずれて、月明りが靄もやながら射さし込こんでいる、折曲った縁側は、横縦にがやがやと人影が映って、さながら、以前、この立たて場ばが繁はん昌じょうした、午ひる飯めし頃ごろの光あり景さまではありませんか。
入乱れて皆腰を掛けてる。
私は構わず、その前を切って抜けようとしました。
大胆だと思いますか――何なあに、そうではない。度胸も信仰も有るのではありません、がすべてこういう場合に処する奥の手が私にある。それは、何です、剣術の先生は足が顫ふるえて立たち縮すくんだが、座頭の坊は琵び琶わを背し負ょったなり四よつ這んばいになって木曾の桟かけはしをすらすら渡り越したという、それと一ひと般つ。
希代な事には、わざと胸に手を置いて寝て可おそ恐ろしい夢を平気で見ます。勿論夢と知りつつ慰みに試みるんです。が、夢にもしろ、いかにも堪たまらなくなると、やと叫んで刎はね起おきる、冷汗は浴あびるばかり、動どう悸きは波を立てていても、ちっとも身から体だに別条はない。
これです!
いざとなれば刎起きよう、夢でなくって、こんな事があるべき筈はずのもんじゃない、と断あき念らめは附けましたが。
突つっ懸かかり、端に居た奴やつは、くたびれた麦むぎ藁わら帽ぼうを仰のけざまに被かぶって、頸ぼん窪のくぼへ摺ずり落ちそうに天井を睨にらんで、握にぎ拳りこぶしをぬっと上げた、脚きゃ絆はんがけの旅たび商あき人んどらしい風でしたが、大おお欠あく伸びをしているのか、と見ると、違った! 空を掴つかんで苦しんでるので、咽の喉どから垂たら々たらと血が流れる。
その隣とな座りざに、どたりと真まう俯つ向むけになった、百姓体ていの親おや仁じは、抜ぬき衣えも紋んの背中に、薬やげ研んが形たの穴がある。
で、ウンウン呻う吟めく。
少し離れて、青い洋服を着た少年の、二十ばかりで、学生風のが、頻しきりに紐ひものようなものを持って腰の廻りを巻いてるから、帯でもするかと見ると、振ぶら下った腸はらわたで、切裂かれ臍へその下へ、押込もうとする、だくだく流れる血あけの中で、一ひと掴つかみ、ずるりと詰めたが、ヒイッと悲鳴で仰あお向むけに土間に転がり落ちると、その下になって、ぐしゃりと圧ひし拉ゃげたように、膝を頭ずの上へ立てて、蠢うごめいた頤あご髯ひげのある立派な紳士は、附つけ元もとから引ひき断きれて片足ない、まるで不かた具わの蟋きり蟀ぎりす。
もう、一面に算を乱して、溝どぶ泥どろを擲たた附きつけたような血のりの中に、伸びたり、縮んだり、転がったり、何十人だか数が分りません。――
いつの間にか、障子が透すけて、広い部屋の中も同断です。中にも目に着いたのは、一面の壁の隅に、朦もう朧ろうと灰色の磔はり柱つけばしらが露あらわれて、アノ胸を突つき反そらして、胴を橋に、両手を開いて釣つり下さがったのは、よくある基キリ督ストの体ていだ。
床柱と思う正面には、広い額の真まん中なかへ、五寸釘が突刺さって、手足も顔も真まっ蒼さおに黄色い眼まなこを赫かっとく、この俤おもかげは、話にある幽ゆう霊れい船ぶねの船ふな長おさにそっくり。
大おお俎まないたがある、白しら刃はが光る、筏いかだのように槍やりを組んで、まるで地獄の雛ひな壇だんです。
どれも抱だき着つきもせず、足へも縋すがらぬ。絶叫して目を覚ます……まだそれにも及ぶまい、と見い見い後あと退じさりになって、ドンと突当ったまま、蹌よ踉ろけなりに投出されたように浅あさ茅ぢ生うへ出た。
︵はああ。︶
と息を引いた、掌てのひらへ、脂あぶらのごとく、しかも冷い汗が、総そう身みを絞って颯さっと来た。
例の草くさ清しみ水ずがありましょう。
日にっ蝕しょくの時のような、草の斑まだらに黒い、朦もうとした月明りに、そこに蹲しゃがんだ男がある。大形の浴衣の諸もろ膚はだ脱ぬぎで、毛だらけの脇を上げざまに、晩方、貴婦人がそこへ投ほうった、絹の手ハン巾ケチを引ひん伸のしながら、ぐいぐいと背中を拭ふいている。
これは人間らしいと、一足寄って、
︵君……︶
と掠かすれた声を掛けると、驚いた風にぬっくりと立ったが、瓶かめのようで、胴どう中なかばかり。
︵首はないが交つき際あうけえ。︶
と、野太い声で怒ど鳴なられたので、はっと思うと、私も仰あお向むけに倒れたんです。
やがて、気のついた時は、少わかい人の膝枕で、貴婦人が私の胸を撫でていました。﹂
三十三
﹁お先達、そこで二人して交かわるがわる話しました。――峠の一軒家を買取ったのは、貴婦人なんです。
これは当時石川県のある顕けん官かんの令夫人、以前は某なにがしと云う一時富山の裁判長だった人の令嬢で、その頃この峠を越えて金沢へ出て、女学校に通っていたのが、お綾と云う、ある蒔まき絵え師しの娘と一つ学校で、姉妹のように仲が好よかったんだそうです。
対さ手きは懺ざん悔げをしたんですが、身分を思うから名は言いますまい。……貴婦人は十八九で、もう六七人情じょ人うじんがありました。多情な女で、文ばかり通わしているのや、目顔で知らせ合っただけなのなんぞ――その容きり色ょうでしかも妙とし齢ごろ、自分でも美しいのを信じただけ、一度擦すれ違ちがったものでも直ぐに我を恋うると極きめていたので――胸に描いたのは幾人だか分らなかった。
罪の報むくいか。男どもが、貴婦人の胸の中で掴つかみ合いをはじめた。野郎が恐らくこのくらい気の利かない話はない。惚ほれた女の腹の中で、じたばたでんぐり返しを打って騒ぐ、噛かみ合う、掴み合う、引ひっ掻かき合う。
この騒ぎが一ひと団かたまりの仏つく掌ねい藷ものような悪あく玉だまになって、下腹から鳩みず尾おちへ突上げるので、うむと云って歯を喰くい切しばって、のけぞるという奇病にかかった。
はじめの内は、一日に、一度二度ぐらいずつで留とまったのが、次第に嵩こうじて、十回以上、手足をぶるぶると震わして、人事不省で、烈はげしい痙けい攣れんを起す容体だけれども、どこもちっとも痛むんじゃない。――ただ夢中になって反っちまって、白い胸を開けて見ると、肉へ響いて、団かたまりが動いたと言います。
三度五度は訳も解らず、宿のものが回き生つ剤けだ、水だ、で介抱して、それでまた開きも着いたが、日一日数は重なる。段々開きが遅くなって、激はげしい時は、半時も夢中で居る。夢中で居ながら、あれ、誰たが来て怨うらむ、彼かが来て責める、咽の喉どを緊しめる、指を折る、足を捻ねじる、苦しい、と七転八倒。
情人が押懸けるんです。自分で口走るので、さては、と皆みんな頷うなずいた。
浅ましいの何のじゃない。が、女中を二人連れて看病に駆着けて来た母親は、娘が不ふし行だ為らとは考えない。男に膚はだを許さないのを、恋するものが怨むためだ、と思ったそうです。
とても宿じゃ、手が届かんで、県の病院へ入れる事になると、医せん者せい達は皆頭こうべを捻ひねった。病体少しも分らず、でただまあ応急手当に、例の仰のけ反ぞった時は、薬を嗅かがせて正気づかせる外はないのです。
ざっと一月半入院したが、病勢は日に日に募つのる。しかも力が強くなって、伸しかかって胸を圧おさえる看護婦に助手なんぞ、一所に両方へ投飛ばす、まるで狂きち人がい。
そうかと思うと、食べるものも尋常だし、気さえ注つけば、間違った口一つ利かない。天人のような令嬢なんで、始末に困った。
すると、もう一人の少わかい方です。――お綾はその通りの仲だから、はじめから姉あねが病気のように心配をして、見舞にも行ゆけば看病もしたが、暑中休暇になったので、ほとんど病院で附切り同様。
妙な事には、この人が手を懸けると、直ぐに胸が柔かになる。開きは着かぬまでも三人四人で圧おさえ切れぬのが、静しずかに納まって、夢中でただ譫うわ事ごとを云うくらいに過ぎぬ。
で、母親が、親にも頼んで、夜も詰め切ってもらったそうで。肥ふと満っち女ょの女中などは、失礼無ぶし躾つけ構っちゃいられん。膚はだ脱ぬぎの大汗を掻いて冬とう瓜がんの膝で乗上っても、その胸の悪玉に突つッ離ぱなされて、素すて転んころりと倒れる。
︵お綾様。お綾様。︶
と夜が夜よな中か、看病疲れにすやすやと寝ているのを起すと、訳はない、ちょいと手を載せて、
︵おや、また来ているよ。……︶
誰たれ某それだね……という工ぐあ合いで、その時々の男の名を覚えて、串じょ戯うだんのように言うと、病人が
︵ああ、︶
と言って、胸の落着く処を、
︵煩うるさい人だよ。お帰り。︶
で、すっと撫で下ろす。﹂――
三十四
﹁すると、取とッ憑ついた男どもが、眉みけ間んじ尺ゃくのように噛かみ合あったまま、出まいとして、乳ちの下を潜くぐって転げる、其そい奴つを追っ懸け追っ懸け、お綾が擦さすると、腕へ辷すべって、舞戻って、鳩みず尾おちをビクリと下って、膝をかけて畝うねる頃には、はじめ鞠まりほどなのが、段々小さく、豆位になって、足の甲を蠢うごめいて、ふっと拇おや指ゆびの爪から抜ける。その時分には、もう芥けし子つ粒ぶだけもないのです、お綾さんの爪にも堪たまらず、消滅する。
トはっと気を返して、恍うっ惚とり目を開あく。夢が覚めたように、起上って、取乱した態なりもそのまま、婦おんな同士、お綾の膝に乗のり掛かかって、頸くびに手を搦からみながら、切ない息の下で、
︵済まないわね。︶
と言うのが、ほとんど例になっていたそうです。――お綾が、よく病人の気を知った事は、一ある日ひも痙攣が起って、人事不省なのを介抱していると、病人が、例に因って、
︵来たよ。︶
と呻う吟めく。
︵……でしょうね、︶
と親類内の従いと兄ことかで、これも関係のあった、――少年の名をお綾が云うと……
︵ああ、青い幽霊、︶
と夢中で言った――処へひょっこり廊下から……脱いだ帽子を手に提げて、夏服の青いので生なま白しろい顔を出したのは、その少年で。出であ会いが頭しらに聞かされたので、真まっ赤かになって逃げたと言います。その癖お綾は一度も逢った事はないのだそうで。
さあへ医いし師ゃは止よしても、お綾は病人から手離せますまい。
いつまで入院をしていても、ちっとも快いい方ほうに向わないから、一いっ旦たん内へ引取って、静かに保養をしようという事になった時、貴婦人の母親は、涙でお綾の親達に頼んだんです。
頼まれては否いやと言わぬ、職人気かた質ぎで引受けたでしょう。
途中の、不意の用心に、男が二人、母親と、女中と、今の二人の婦おん人なで、五台、人力車を聯つらねて、倶利伽羅峠を越したのは、――ちょうど十年前ぜんになる――
同じ立たて場ばで、車をがらがらと引込んで休んだのは、やっぱり、今残る、あの、一軒家。しかも車から出る、と痙ひき攣つけて、大勢に抱え込まれて、お綾の膝に抱かれた処は。……
︵先刻、貴あな下たが、怪あやしい姿で抱合っている処を蚊帳越に御覧なすった、母屋の、あの座敷です。︶
ッて貴婦人が言いましたっけ。
お先達。﹂
三造は酔えるがごとき対あい手てを呼んで、
﹁その時、私は更あらためて、二人の婦人にこう言いました。
︵時が時、折が折なんですから、実は何にも言出しはしませんでしたが、その日、広土間の縁の出で張ばりに一人腰を掛けて、力ちか餅らもちを食べていた、鳥打帽を冠かぶって、久留米の絣かすりを着た学生がありました。お心は着かなかったでしょうが、……それは私です。……
そして、その時の絵のような美しさが、可なつ懐かしさの余り、今度この山やま越ごえを思い立って参ったんです。︶
お先達、事実なんです。﹂
と三造は言った。
﹁これを聞いて少わかい女ひとが、
︵そして貴下が、私を御覧なさいましたのは、その時が初めてですか、︶
︵いいえ、︶
と私が直ぐに答えた。
︵違うかどうか分りませんが、その以前に二度あります。……一度は金沢の藪やぶの内と言う処――城の大手前と対むかい合った、土塀の裏を、鍵かぎの手てな形り。名の通りで、竹藪の中を石垣に従ついて曲る小こう路じ。家も何にもない処で、狐がどうの、狸がどうの、と沙さ汰たをして誰も通らない路みち、何に誘われたか一人で歩あ行るいた。……その時、曲まが角りかどで顔を見ました。春の真まっ昼ぴる間ま、暖い霞のような白い路が、藪の下を一ひと条すじに貫いた、二三間前さきを、一人通った娘があります。衣きも服のは分らず、何の織物か知りませんが、帯は緋ひい色ろをしていたのを覚えている。そして結むす目びめが腰へ少し長目でした。ふらふらとついて見送って行ゆく内に、また曲角で、それなり分らなくなったんです。︶
――二人は顔を見合せました。﹂
三十五
﹁私はまた……
︵もう一度は、その翌年、やっぱり春の、正ひ午る少し後さがった頃、公園の見晴しで、花の中から町まち中なかの桜を視ながめていると、向うが山で、居る処が高台の、両方から、谷のような、一ヶ所空の寂しい士さむ町らいまちと思う所の、物もの干ほしの上にあがって、霞を眺めるらしい立姿の女が見えた。それがどうも同じ女らしい。ロハ台を立って、柳の下から乗り出して、熟じっと瞻みまもる内に、花吹雪がはらはらとして、それっきり影も見えなくなる、と物干の在あり所かも町の見当も分らなくなってしまった。……が、忘れられん、朧おぼ夜ろよにはそこぞと思う小路々々をいい日を重ねて、青葉に移るのが、酔のさめ際のように心寂しくってならなかった――人は二度とも、美しい通とお魔りまを見たんだ、と言う……私もあるいはそうかと思った。︶
貴婦人が聞澄まして、
︵二度目のは引越した処でしょう!︶
と少わかい人に言うんです。
︵物干で、花見をしたり、藪やぶの中を歩あ行るいたり、やっぱり、皆みんなこういう身から体だになる前兆でしょう。よく貴あな下た、お胸に留めて下さいました。姉さん、私もう一度緋色の帯がしめたいわ。︶
と、はらはらと落涙して、
︵お恥かしいが……︶
――と続いて話した。――
で、途中介抱しながら、富山へ行って、その裁判長の家に落着く。医者では不い可かん、加かじ持き祈と祷うと、父親の方から我がを折ってお札、お水、護摩となると、元々そういう容体ですから、少しずつ治まって、痙けい攣れんも一日に二三度、それも大抵時刻が極きまって、途中不意に卒倒するような憂きづ慮かいなし、二人で散歩などが出来るようになったそうです。
一ある日ひ、巴はた旦んき杏ょうの実の青々した二階の窓際で、涼しそうに、うとうと、一人が寝ると、一人も眠った。貴婦人は神通川の方を裾で、お綾の方は立山の方かたを枕で、互違いに、つい肱ひじ枕まくらをしたんですね。
トントントン跫あし音おとがして、二階の梯はし子ごだ段んから顔を出した男がある。
お綾が起返ると、いつも病人が夢中で名を呼ぶ……内証では、その惚のろ話けを言う、何とか云う男なんです。
ずッと来て、裾から貴婦人の足を圧おさえようとするから、ええ、不ぶし躾つけな、姉あねを悩なやます、病やまいの鬼と、床の間に、重代の黄こが金ねづくりの長おさ船ふねが、邪気を払うといって飾ってあったのを、抜く手も見せず、颯さっと真まび額たいへ斬きり付つける。天あた窓まがはっと二つに分れた、西瓜をさっくり切やったよう。
処へ、背うし後ろの窓下の屋根を踏んで、窓から顔を出した奴がある、一目見るや、膝を返しざまに見当もつけず片手なぐりに斬払って、其そい奴つの片腕をばさりと落した。時に、巴旦杏の樹へ樹きの上ぼりをして、足を踏ふんば張って透すき見みをしていたのは、青い洋服の少年です。
お綾が、つかつかと屋根へ出て、狼うろ狽たえてその少年の下りる処を、ぐいと突貫いたが、下腹で、ずるり腸はらわたが枝にかかって、主は血みどれ、どしんと落ちた。
この光あり景さまに、驚いたか、湯殿口に立った髯ひげ面づらの紳士が、絽ろば羽お織りの裾すそを煽あおって、庭を切って遁にげるのに心着いて、屋根から飜ひら然り……と飛んだと言います。垣を越える、町を突つッ切きる、川を走る、やがて、山の腹へ抱だきついて、のそのそと這はい上あがるのを、追おい縋すがりさまに、尻を下から白しら刃はで縫上げる。
ト頂に一人立って、こっちへ指さしをして笑ったものがある。エエ、と剣つるぎを取って飛ばすと、胸元へ刺さって、ばったり、と朽くち木きだ倒おれ。
するする攀よじ上のぼって、長船のキラリとするのを死骸から抜取ると、垂たら々たらと湧わく血ちし雫ずくを逆手に除とり、山の端はに腰を掛けたが、はじめて吻ほっと一息つく。――瞰みお下ろす麓ふもとの路へ集たかって、頭ばかり、うようよして八九人、得物を持って押寄せた。
猶ため予らわず、すらりと立つ、裳もすそが宙に蹴けだ出しを搦からんで、踵かかとが腰に上あがると同時に、ふっと他愛なく軽々と、風を泳いで下りるが早いか、裾がまだ地に着かぬ前さきに、提ひっさげた刃やいばの下に、一人が帽子から左右へ裂けた。
一同が、わっと遁にげる。……﹂
三十六
﹁今はもう追うにも及ばず、するすると後あとを歩あ行るきながら、刃やいばを振って、
︵は、︶
と声懸けると、声に応じて、一人ずつ、どたり、ばたりで、算を乱した、……生木の枝の死しが骸いばかり。
いつの間にか、二階へ戻った。
時に、大形の浴衣の諸もろ膚はだ脱ぬぎで、投なげ出だした、白い手の貴婦人の二の腕へ、しっくり喰くいついた若いもの、かねて聞いた、――これはその人の下宿へ出入りの八百屋だそうで、やっぱり情人の一人なんです。
︵推参。︶
か何かの片手なぐりが、見事に首をころりと落す。拳こぶしの冴さえに、白しら刃はの尖さきが姉の腕を掠かすって、カチリと鳴った。
あっと云うと、二人とも目を覚した。
お綾の手に、抜いた刀はなかったが、貴婦人は二の腕にはめた守まも護りぶ袋くろの黄き色んの金具を圧おさえていたっていう事です。
実は、同じ夢を見たんだそうで、もっとも二階から顔を出したのも、窓から覗のぞいたのも、樹上りをしたのも、皆みんな同時に貴婦人は知っていた。
自分の情人を、一人々々妹が斬殺すんで、はらはらするが、手足は動かず、声も出せない。その疲れた身から体だで、最後に八百屋の若いものに悩まされた処――片腕一所に斬られた、と思ったが、守護袋で留まったと言う。
貴婦人の病気は、それで、快かい癒ゆ。
が、入いれ交かわって、お綾は今の身になった。
と言うのは、夢中ながら、男を斬った心持が、骨こつ髄ずいに徹して忘れられん。……思い出すと、何とも言えず、肉が動く、血ちし汐おが湧わく、筋が離れる。
他ほかの事は考えられず、何事も手に着かない、で、三度の食も欲ほしくなくなる。
ところが、親が蒔まき絵えし職ょく。小こど児もの時から見習いで絵心があったので、ノオトブックへ鉛筆で、まず、その最初の眉みけ間んわ割りを描かいたのがはじまりで。
顔だけでは、飽あき足たらず、線香のような手足を描いて、で、のけぞらした形へ、疵きずをつける。それも墨だけでは心ゆかず、やがて絵の具をつかい出した。
けれども、男の膚はだは知らない処女の、艶ふ書みを書くより恥かしくって、人目を避くる苦労に痩やせたが、病やまいは嵩こうじて、夜も昼もぼんやりして来た。
貴婦人も、それっきり学校はやめたが、お綾も同断。その代り寂さびしい途中、立向うても見送っても、その男を目に留めて、これを絵姿にして、斬る、突く、胸を刺す。……血を彩って、日を経ふると、きっとそのものは生いの命ちがないというのが知れる……段々嵩じて、行違いなりにも、ハッと気合を入れると、即座に打ぶっ倒たおれる人さえ出来た。
が、可おそ恐ろしいのは、一ある夜よ、夜中に、ある男を呪の詛ろっていると、ばたりと落ちて、脇腹から、鳩みず尾おちの下、背中と、浴衣越しに、――それから男に血を彩ろうという――紅べにの絵の具皿の覆こぼれかかったのが、我が身の皮を染め、肉を透して、血に交って、洗っても、拭ぬぐっても、濃くなるばかりで、褪あせさえせぬ。
お綾は貴婦人の膝に縋すがって、すべてを打明けて泣いたんです。
その頃は、もう生れかわったようになって、何なに某がしの令夫人だった貴婦人は、我が身も同おんなじに、悲かなしみ傷いたんで、何は措おいても、その悪い癖を撓ため直そうと、千せん辛しん万ばん苦くしたけれども、お綾は、怪あやしい情を制し得ない。
情を知った貴婦人は、それから心着いて試みると、お綾に呪の詛ろわれたものは、必ず無事ではないのが確たしかで。
今はこう、とお綾の決心を聞いた上、心一つで計らって、姫捨山を見立てました。
ところが、この倶利伽羅峠は、夢に山の端はに白しら刃はを拭ぬぐって憩った、まさしくその山の姿だと言う。しかしこの峠を越したのが、少わかい人には、はじめて国の境を出たので、その思出もあったからでしょう。
ちょうど、立たて場ばが荒す廃たれて、一軒家が焼残ったというのも奇蹟だからと、そこで貴婦人が買取って、少わかい女ひとの世を避ける隠れ里にしたのだと言います。
で、一すべ切ての事は、秘密に貴婦人が取とりまかなう。﹂
三十七
﹁月に一度、あるいは二度、貴婦人が忍んで山に上って来る。その時は、ああして抱いて、もとは自分から起った事と、膚はだの曇くもりに接キッ吻スをする。
が、雪なす膚に、燃え立つ鬼百合の花は、吸消されもせず、しぼみもしない。のみならず、会心の男が出来て、これはと思うその胸へ、グザと刃やいばを描いて刺す時、膚を当てると、鮮から紅くれないの露を絞って、生いき血ちの雫しずくが滴した点たると言います。
広間の壁には、竹たけ箆べらで土を削って、基キリ督ストの像が、等身に刻みつけて描かいてあった。本箱の中も、残らず惨さん憺たんたる彩さい色しき画がで、これは目当の男のない時、歴史に血を流した人を描くのでした。﹂
と物語る、三造の声は震えた。……
﹁お先達。
で、貴婦人は、
︵縁のある貴あな下た。……ここに居て、打ちもし、蹴りもし、縛くくりもして、悪い癖を治して上げて下さい。︶
と言う。
若い人は、
︵おなつかしい方だけに、こんな魔所には留められません、身から体だの斑ぶちが消えないでは。︶
と、しっかり袂たもとに縋すがって泣きます。
私は、死ぬ決心をするほど迷った。
果しなく猶ため予らっているのを見て、大方、それまでに話した様子で、後で呪の詛ろわれるのを恐れるために、立て得ないんだと思ったらしい。
沓くつ脱ぬぎをつかつかと、真白い跣はだ足しで背戸へ出ると、母屋の羽は目めを、軒へ掛けて、森のように搦からんだ烏から瓜すうりの蔓つるを手た繰ぐって、一ひと束つかねずるずると引きながら、浅あさ茅ぢ生うの露に膝を埋うずめて、背せなから袖をぐるぐると、我わが手てで巻くので、花は雪のように降りかかった。
旭あさひが出ました。
驚く私を屹きっと見て
︵誓ちかいは違たがえぬ! 貴下が去いって、他ほかの犠に牲えの――巣にかかるまで、このままここで動きはしない、︶
心安く下山せよ。
︵さあ、︶
と言うと、一目凝じっと見た目を瞑ねむって、黒髪をさげて俯うつ向むいたんです。
顔を背けて、我にもあらず、縁に腰を落した内に、貴婦人が草わら鞋じを結んだ。
堪たまらなくなって、飛出して、蔓つるを解こうと手を懸ける。胸を引いて頭つむりを掉ふるから、葉を引ひきって、私は涙を落しました。
︵私なんざ構わんから。︶
︵いいえ、こうしてまで誓を立てぬと、私は貴下を殺すことを、自分でも制し切れない。一ひと夜よ冥めい土どへ留めました。お生きなさいまし、新あらたにお存ながらえ遊ばせ。︶
と、目を潤うるましたが凜り々りしく云う。
︵たとい、しばらくの辛抱でも。男を呪の詛ろう気のないのは、お綾さんにも幸しあ福わせです。そうしておおきなさいまし。︶
と、貴婦人が、金剛杖も一所に渡した。
膝さがりに荷を下げて、杖を抱いてしょんぼり立つのを……
︵さようなら、御機嫌よう。︶
︵はっ、︶
と言って土間へ出たが、振返ると、若い女ひとは泣いていました。露が閃きらめく葉を分けて、明石に透いた素すは膚だを焼くか、と鬼百合が赫かっと紅あかい。
その時、峰はずれに、火の矢のように、颯さっと太陽の光が射さした。貴婦人が袖を翳かざして、若い女を庇かばいました。……
あの、鬼の面は、昨ゆう夜べ、貴下を罵ののしるトタンに、婦おんなを驚かすまいと思って、夢中で投げたが――驚いたんです、猿ヶ馬場を出はずれる峠の下り口。谷へ出た松の枝に、まるで、一軒家の背戸のその二人を睨にらむよう、濶かっと眼まなこをいて、紫の緒で、真まむ面きに引ひっ掛かかっていたのです。……
お先達、私はどうしたら可いいでしょう。﹂
と溜ため息いきを一度に吐つく――
﹁ふう、﹂
と一いっ時ときに返事をして、ややあって、
﹁鬼神に横道はござらんな。﹂
と山伏も目を瞬しばたたいた。
で、そのまま誓を立てさせては、今時誰も通らぬ山路、半日はよし、一日はよし、三日と経たたぬに、飢うえもしよう、渇きもしよう、炎天に曝さらされよう。が、旅人があって、幸さいわいに通るとすると、それは直ちに犠に牲えになる。自分はよくても、身代りを人にさせる道でない。
心を山伏に語ると、先達も拳こぶしを握って、不ふつ束つかながら身命に賭けて諸もろ共ともにその美たお女やめを説いて、悪あしき心を飜えさせよう。いざうれ、と清水を浴びる。境も嗽うが手いち水ょうずして、明王の前に額ぬか着づいて、やがて、相並んで、日を正まと射もに、白い、眩まばゆい、峠を望んで進んだ。
雲から吐出されたもののように、坂に突つっ伏ぷした旅りょ人じんが一人。
ああ、犠に牲えは代った。
扶たすけ起こすと、心なき旅たび人びとかな。朝がけに禁制の峠を越したのであった。峰では何事もなかったが、坂で、躓つまずいて転んだはずみに、あれと喚わめく。膝から股またへ真まっ白しろな通あけ草びのよう、さくり切れたは、俗に鎌かま鼬いたちが抓かけたと言う。間々ある事とか。
先達が担いで引ひっ返かえした。
石動の町の医師を託ことづかりながら、三造は、見返りがちに、今は蔓つる草くさの絆きずなも断たったろう……その美たお女やめの、山の麓ふもとを辿たどったのである。
明治四十一︵一九〇八︶年十一月