霰ふる

一

　若いのと、少し年の上なると……
　この二(ふた)人(り)の婦(おん)人(な)は、民(たみ)也(や)のためには宿(すぐ)世(せ)からの縁(えん)と見える。ふとした時、思いも懸けない処へ、夢のように姿を露(あら)わす――
　ここで、夢のように、と云うものの、実際はそれが夢だった事もないではない。けれども、夢の方は、また……と思うだけで、取り留めもなく、すぐに陽(かげ)炎(ろう)の乱るる如く、記憶の裡(うち)から乱れて行く。
　しかし目(まの)前(あたり)、歴(あり)然(あり)とその二人を見たのは、何(い)時(つ)になっても忘れぬ。峰を視(なが)めて、山の端(は)に彳(たたず)んだ時もあり、岸づたいに川船に乗って船頭もなしに流れて行くのを見たり、揃って、すっと抜けて、二人が床の間の柱から出て来た事もある。
　民也は九(ここの)ツ……十(と)歳(お)ばかりの時に、はじめて知って、三十を越すまでに、四(よた)度(び)か五(いつ)度(たび)は確(たしか)に逢った。
　これだと、随分中(なか)絶(だ)えして、久しいようではあるけれども、自分には、さまでたまさかのようには思えぬ。人は我が身(から)体(だ)の一部分を、何年にも見ないで済ます場合が多いから……姿見に向わなければ、顔にも逢わないと同(おな)一(じ)かも知れぬ。
　で、見なくっても、逢わないでも、忘れもせねば思(おも)出(いだ)すまでもなく、何(い)時(つ)も身に着いていると同様に、二(ふた)個(つ)、二人の姿もまた、十年見なかろうが、逢わなかろうが、そんなに間(あいだ)を隔てたとは考えない。
　が、つい近くは、近く、一昔前は矢(やっ)張(ぱ)り前、道理に於て年を隔てない筈はないから、十(とお)から三十までとしても、その間(あいだ)は言わずとも二十年経つのに、最初逢った時から幾(いく)歳(とせ)を経ても、婦(おん)人(な)二人は何時も違わぬ、顔(かお)容(かたち)に年を取らず、些(ちっ)とも変らず、同(おな)一(じ)である。
　水になり、空になり、面影は宿っても、虹のように、すっと映って、忽(たちま)ち消えて行く姿であるから、確(しか)と取(とり)留(と)めた事はないが――何時でも二人連(づれ)の――その一人は、年(と)紀(し)の頃、どんな場合にも二十四五の上へは出ない……一人は十八九で、この少(わか)い方は、ふっくりして、引(ひき)緊(しま)った肉づきの可(い)い、中(ちゅ)背(うぜい)で、……年上の方は、すらりとして、細いほど痩せている。
　その背(せい)の高いのは、極めて、品の可(よ)い艶(つや)やかな円(まる)髷(まげ)で顕(あらわ)れる。少(わか)いのは時(より)々(より)に髪が違う、銀(いち)杏(ょう)返(がえ)しの時もあった、高島田の時もあった、三(みつ)輪(わ)と云うのに結ってもいた。
　そのかわり、衣(きも)服(の)は年上の方が、紋(もん)着(つき)だったり、お召(めし)だったり、時にはしどけない伊(だて)達(ま)巻(き)の寝(ねま)着(き)姿と変るのに、若いのは、屹(きっ)と縞(しま)ものに定(さだま)って、帯をきちんと〆(し)めている。
　二人とも色が白い。
　が、少い方は、ほんのりして、もう一人のは沈んで見える。
　その人柄、風(とり)采(なり)、姉妹ともつかず、主従でもなし、親しい中の友達とも見えず、従(い)姉(と)妹(こ)でもないらしい。
　と思うばかりで、何(な)故(ぜ)と云う次第は民也にも説明は出来ぬと云う。――何(な)にしろ、遁(のが)れられない間(あいだ)と見えた。孰(どっ)方(ち)か乳母の児(こ)で、乳(ちき)姉(ょう)妹(だい)。それとも嫂(あによめ)と弟(おと)嫁(よめ)か、敵(かたき)同士か、いずれ二(ふた)重(え)の幻影である。
　時に、民也が、はじめてその姿を見たのは、揃って二階からすらすらと降りる所。
　で、彼が九ツか十の年、その日は、小学校の友達と二人で見た。
　霰(あられ)の降った夜(よふ)更(け)の事――

二

　山国の山を、町へ掛けて、戸(おも)外(て)の夜の色は、部屋の裡(うち)からよく知れる。雲は暗かろう……水はもの凄く白かろう……空の所々に颯(さっ)と薬(やげ)研(ん)のようなひびが入(い)って、霰はその中から、銀河の珠(たま)を砕くが如く迸(ほとばし)る。
　ハタと止(や)めば、その空の破(わ)れた処へ、むらむらとまた一(ひと)重(え)冷い雲が累(かさな)りかかって、薄墨色に縫(ぬい)合(あ)わせる、と風さえ、そよとのもの音も、蜜蝋を以(もっ)て固く封じた如く、乾(けん)坤(こん)寂(じゃく)となる。……
　建(たて)着(つけ)の悪い戸、障子、雨戸も、カタリとも響かず。鼬(いたち)が覘(のぞ)くような、鼠が匍(はら)匐(ば)ったような、切って填(は)めた菱(ひし)の実が、ト、べっかっこをして、ぺろりと黒い舌を吐くような、いや、念の入(い)った、雑多な隙間、破(や)れ穴が、寒さにきりきりと歯を噛んで、呼(い)吸(き)を詰めて、うむと堪(こら)えて凍(こご)着(えつ)くが、古(ふる)家(いえ)の煤(すす)にむせると、時々遣(やり)切(き)れなくなって、潜(ひそ)めた嚔(くしゃめ)、ハッと噴(ふき)出(だ)しそうで不気味な真夜中。
　板戸一つが直(す)ぐ町の、店の八畳、古畳の真中に机を置いて対(さし)向(むか)いに、洋(ラン)燈(プ)に額を突(つき)合(あ)わせた、友達と二人で、その国の地(ちし)誌(りゃ)略(く)と云う、学校の教科書を読んでいた。――その頃、風(ふう)をなして行われた試験間際に徹夜の勉強、終夜と称(とな)えて、気の合った同志が夜あかしに演(おさ)習(らい)をする、なまけものの節(せっ)季(き)仕事と云うのである。
　一枚……二枚、と両方で、ペエジを遣(やッ)つ、取(とッ)つして、眠気ざましに声を出して読んでいたが、こう夜が更けて、可(おそ)恐(ろ)しく陰気に閉(とざ)されると、低い声さえ、びりびりと氷を削るように唇へきしんで響いた。
　常(つね)さんと云うお友達が、読み掛けたのを、フッと留(と)めて、
﹁民さん。﹂
　と呼ぶ、……本を読んでたとは、からりと調子が変って、引(ひき)入(い)れられそうに滅(め)入(い)って聞えた。
﹁……何(なあに)、﹂
　ト、一つ一つ、自分の睫(まつげ)が、紙の上へばらばらと溢(こぼ)れた、本の、片仮名まじりに落(おち)葉(ば)する、山だの、谷だのをそのままの字を、熟(じっ)と相手に読ませて、傍(わき)目(め)も触らず視(み)ていたのが。
　呼ばれて目を上げると、笠は破(やぶ)れて、紙を被(かぶ)せた、黄色に燻(くすぶ)ったほやの上へ、眉の優しい額を見せた、頬のあたりが、ぽっと白く、朧(おぼ)夜(ろよ)に落ちた目(め)かずらと云う顔(かお)色(つき)。
﹁寂(さび)しいねえ。﹂
﹁ああ……﹂
﹁何時だねえ。﹂
﹁先(さっ)刻(き)二時うったよ。眠くなったの？﹂
　対(あい)手(て)は忽(たちま)ち元気づいた声を出して、
﹁何、眠いもんか……だけどもねえ、今時分になると寂しいねえ。﹂
﹁其処に皆寝ているもの……﹂
　と云った――大きな戸棚、と云っても先祖代々、刻み着けて何(い)時(つ)が代(だい)にも動かした事のない、……その横の襖(ふすま)一(ひと)重(え)の納戸の内には、民也の父と祖母とが寝ていた。
　母は世を早(はよ)うしたのである……
﹁常さんの許(とこ)よりか寂(さび)しくはない。﹂
﹁どうして？﹂
﹁だって、君の内はお邸(やしき)だから、広い座敷を二つも三つも通らないと、母(おっか)さんや何か寝ている部屋へ行けないんだもの。この間、君の許(とこ)で、徹夜をした時は、僕は、そりゃ、寂しかった……﹂
﹁でもね、僕ン許(とこ)は二階がないから……﹂
﹁二階が寂しい？﹂
　と民也は真黒な天井を。……
　常さんの目も、斉(ひと)しく仰いで、冷く光った。

三

﹁寂しいって、別に何でもないじゃないの。﹂
　と云ったものの、両方で、机をずって、ごそごそと火鉢に噛(かじ)着(りつ)いて、ひったりと寄(より)合(あ)わす。
　炭は黒いが、今しがた継いだばかりで、尉(じょう)にもならず、火気の立ちぎわ。それよりも、徹夜の温(おさ)習(らい)に、何よりか書(かき)入(い)れな夜(やは)半(ん)の茶漬で忘れられぬ、大福めいた餡(あん)餅(も)をったなごりの、餅網が、佗(わび)しく破(やれ)蓮(ばす)の形で畳に飛んだ。……御馳走は十二時と云うと早(は)や済んで、――一つは二人ともそれがために勇気がないので。……
　常さんは耳の白い頬を傾けて、民也の顔を覘(のぞ)くようにしながら、
﹁でも、誰も居ないんだもの……君の許(とこ)の二階は、広いのに、がらんとしている。……﹂
﹁病気の時はね、お母(っか)さんが寝ていたんだよ。﹂
　コツコツ、炭を火箸で突(つつ)いて見たっけ、はっと止(や)めて、目を一つ瞬(またた)いて、
﹁え、そして、亡くなった時、矢(やっ)張(ぱり)、二階。﹂
﹁ううん……違う。﹂
　とかぶりを掉(ふ)って、
﹁其処のね、奥……﹂
﹁小父さんだの、寝ている許かい。……じゃ可(い)いや。﹂と莞(にっ)爾(こり)した。
﹁弱虫だなあ……﹂
﹁でも、小母さんは病気の時寝ていたかって、今は誰も居ないんじゃないか。﹂
　と観(かん)世(ぜよ)捩(り)が挫(ひしゃ)げた体(てい)に、元気なく話は戻る……
﹁常さんの許だって、あの、広い座敷が、風はすうすう通って、それで人っ子は居ませんよ。﹂
﹁それでも階(し)下(た)ばかりだもの。――二階は天井の上だろう、空に近いんだからね、高い所には何が居るか知れません。……﹂
﹁階下だって……君の内(うち)でも、この間、僕が、あの空(あき)間(ま)を通った時、吃(びっ)驚(くり)したものがあったじゃないか。﹂
﹁どんなものさ、﹂
﹁床の間に鎧(よろい)が飾ってあって、便所へ行く時に晃(ぴか)々(ぴか)光った……わッて、そう云ったのを覚えていないかい。﹂
﹁臆病だね、……鎧は君、可(おそ)恐(ろし)いものが出たって、あれを着て向って行(ゆ)けるんだぜ、向って、﹂
　と気(き)勢(お)って肩を突(つき)構(かま)え。
﹁こんな、寂(さび)しい時の、可(こ)恐(わ)いものにはね、鎧なんか着たって叶わないや……向って行きゃ、消(きえ)っ了(ちま)うんだもの……これから冬の中頃になると、軒の下へ近く来るってさ、あの雪(ゆき)女(じょ)郎(ろう)見たいなもんだから、﹂
﹁そうかなあ、……雪女郎って真(ほん)個(と)にあるんだってね。﹂
﹁勿論だっさ。﹂
﹁雨のびしょびしょ降る時には、油(あぶ)舐(らな)坊(めぼ)主(うず)だの、とうふ買(かい)小(こぞ)僧(う)だのって……あるだろう。﹂
﹁ある……﹂
﹁可(い)厭(や)だなあ。こんな、霰(あられ)の降る晩には何にも別にないだろうか。﹂
﹁町の中には何にもないとさ。それでも、人の行かない山寺だの、峰の堂だのの、額(がく)の絵がね、霰がぱらぱらと降る時、ぱちくり瞬(まばた)きをするんだって……﹂
﹁嘘を吐(つ)く……﹂
　とそれでも常さんは瞬きした。からりと廂(ひさし)を鳴らしたのは、樋(とい)竹(だけ)を辷(すべ)る、落(おち)たまりの霰らしい。
﹁うそなもんか、それは真暗な時……ちょうど今夜見たような時なんだね。それから……雲の底にお月様が真(まっ)蒼(さお)に出ていて、そして、降る事があるだろう……そう云う時は、八(はっ)田(たが)潟(た)の鮒(ふな)が皆首を出して打たれるって云うんです。﹂
﹁痛かろうなあ。﹂
﹁其処が化けるんだから、……皆、兜を着ているそうだよ。﹂
﹁じゃ、僕ン許(とこ)の蓮池の緋鯉なんかどうするだろうね？﹂
　其処には小船も浮べられる。が、穴のような真暗な場末の裏町を抜けて、大川に架けた、近道の、ぐらぐらと揺れる一(いち)銭(もん)橋(ばし)と云うのを渡って、土塀ばかりで家(うち)の疎(まばら)な、畠も池も所(とこ)々(ろどころ)、侍(さむ)町(らいまち)を幾(いく)曲(まが)り、で、突(つき)当(あた)りの松の樹の中のその邸(やしき)に行く、……常さんの家(うち)を思うにも、恰(あたか)もこの時、二(にこ)更(う)の鐘の音(おと)、幽(かすか)。

四

　町なかの此処も同じ、一軒家の思(おもい)がある。
　民也は心もその池へ、目も遥(はる)々(ばる)となって恍(うっ)惚(とり)しながら、
﹁蒼い鎧を着るだろうと思う。﹂
﹁真赤な鰭(ひれ)へ。凄い月で、紫色に透(すき)通(とお)ろうね。﹂
﹁其処へ玉のような霰(あられ)が飛ぶんだ……﹂
﹁そして、八田潟の鮒と戦(いくさ)をしたら、何(どっ)方(ち)が勝つ？……﹂
﹁そうだね、﹂
　と真顔に引(ひき)込(こ)まれて、
﹁緋鯉は立派だから大将だろうが、鮒は雑(ぞう)兵(ひょう)でも数が多いよ……潟(かた)一(いっ)杯(ぱい)なんだもの。﹂
﹁蛙(かわず)は何(どっ)方(ち)の味方をする。﹂
﹁君の池の？﹂
﹁ああ、﹂
﹁そりゃ同じ所に住んでるから、緋鯉に属(つ)くが当(あた)前(りまえ)だけれどもね、君が、よくお飯(まん)粒(まつぶ)で、糸で釣(つり)上(あ)げちゃ投げるだろう。ブッと咽(の)喉(ど)を膨らまして、ぐるりと目を円くして腹を立つもの……鮒の味方になろうも知れない。﹂
﹁あ、また降るよ……﹂
　凄まじい霰の音、八方から乱(みだ)打(れう)つや、大屋根の石もからからと転げそうで、雲の渦(うずま)く影が入って、洋(ラン)燈(プ)の笠が暗くなった。
﹁按(あん)摩(ま)の笛が聞えなくなってから、三度目だねえ。﹂
﹁矢が飛ぶ。﹂
﹁弾(たま)が走るんだね。﹂
﹁緋鯉と鮒とが戦うんだよ。﹂
﹁紫の池と、黒い潟で……﹂
﹁蔀(しとみ)を一(ちょ)寸(っと)開けてみようか、﹂
　と魅せられた体(てい)で、ト立とうとした。
　民也は急に慌しく、
﹁お止(よ)し？……﹂
﹁でも、何だか暗い中で、ひらひら真黒なのに交って、緋だか、紫だか、飛んでいそうで、面白いもの、﹂
﹁面白くはないよ……可(こ)恐(わ)いよ。﹂
﹁何故？﹂
﹁だって、緋だの、紫だの、暗い中(うち)に、霰(あられ)に交って――それだと電(いなびかり)がしているようだもの……その蔀(しとみ)をこんな時に開けると、そりゃ可(こ)恐(わ)いぜ。
　さあ……これから海が荒れるぞ、と云う前触れに、廂(ひさし)よりか背の高い、大(おおき)な海坊主が、海から出て来て、町の中を歩(あ)行(る)いていてね……人が覘(のぞ)くと、蛇のように腰を曲げて、その窓から睨(にら)返(みかえ)して、よくも見たな、よくも見たな、と云うそうだから。﹂
﹁嘘だ！　嘘ばっかり。﹂
﹁真(ほん)個(と)だよ、霰(あられ)だって、半分は、その海坊主が蹴(け)上(あ)げて来る、波の※(しぶき)﹇＃﹁さんずい＋散﹂、U+6F75、302-7﹈が交ってるんだとさ。﹂
﹁へえ？﹂
　と常さんは未(ま)だ腑に落ちないか、立(たち)掛(か)けた膝を落(おと)さなかった……
　霰は屋根を駈(かけ)廻(まわ)る。
　民也は心に恐怖のある時、その蔀を開けさしたくなかった。
　母がまだ存(ぞん)生(じょう)の時だった。……一(ある)夏(なつ)、日の暮方から凄じい雷雨があった……電(いな)光(びかり)絶(たえ)間(ま)なく、雨は車軸を流して、荒(あら)金(がね)の地(つち)の車は、轟(とどろ)きながら奈落の底に沈むと思う。――雨宿りに駈(かけ)込(こ)んだ知合の男が一人と、内(うち)中(じゅう)、この店に居すくまった。十時を過ぎた頃、一(ひと)呼(い)吸(き)吐(つ)かせて、もの音は静まったが、裾を捲いて、雷(はた)神(たがみ)を乗せながら、赤(あか)黒(ぐろ)に黄を交えた雲が虚(そ)空(ら)へ、舞い舞い上(あが)って、昇る気(けは)勢(い)に、雨が、さあと小(お)止(や)みになる。
　その喜びを告(もう)さんため、神棚に燈(みあ)火(かし)を点じようとして立った父が、そのまま色をかえて立(たち)窘(すく)んだ。
　ひい、と泣いて雲に透(とお)る、……あわれに、悲しげな、何とも異様な声が、人々の耳をも胸をも突(つき)貫(つらぬ)いて響いたのである。

五

　笛を吹く……と皆思った。笛もある限り悲哀を籠めて、呼(い)吸(き)の続くだけ長く、かつ細く叫ぶらしい。
　雷鳴に、殆(ほとん)ど聾(し)いなんとした人々の耳に、驚(す)破(わ)や、天地一つの声。
　誰(たれ)もその声の長さだけ、気を閉じて呼吸を詰めたが、引く呼吸はその声の一度止むまでは続かなかった。
　皆戦(おのの)いた。
　ヒイと尾を微(かす)かに、その声が切れた、と思うと、雨がひたりと止んで、また二度めの声が聞えた。
﹁鳥か。﹂
﹁否(いいや)。﹂
﹁何だろうの。﹂
　祖母と、父と、その客と言(ことば)を交わしたが、その言葉も、晃(きら)々(きら)と、震えて動いて、目を遮る電(いな)光(びかり)は隙間を射た。
﹁近い。﹂
﹁直(じ)き其処だ。﹂
　と云う。叫ぶ声は、確かに筋向いの二階家の、軒下のあたりと覚えた。
　それが三(みこ)声(え)めになると、泣くような、怨むような、呻(う)吟(め)くような、苦(くるし)みくかと思う意味が明(あきら)かに籠(こも)って来て、新(あた)らしくまた耳を劈(つんざ)く……
﹁見よう、﹂
　年少(わか)くて屈(くっ)竟(きょう)なその客は、身震いして、すっくと立って、内(うち)中(じゅう)で止めるのも肯(き)かないで、タン、ド、ドン！　とその、其処の蔀(しとみ)を開けた。――

﹁何、﹂
　と此処まで話した時、常さんは堅くなって火鉢を掴んだ。
﹁その時の事を思(おも)出(いだ)すもの、外(ほか)に何が居ようも知れない時、その蔀を開けるのは。﹂
　と民也は言う。

　却(さ)説(て)、大(たい)雷(らい)の後の稀有なる悲鳴を聞いた夜、客が蔀を開けようとした時の人々の顔は……年(とし)月(つき)を長く経ても眼(まの)前(あたり)見るような、いずれも石を以て刻みなした如きものであった。
　蔀を上げると、格子戸を上へ切った……それも鳴るか、簫(しょう)の笛の如き形した窓のような隙間があって、衝(つ)と電光に照される。
　と思うと、引(ひき)緊(し)めるような、柔かな母の両の手が強く民也の背に掛(かか)った。既に膝に乗って、噛り着いていた小(こど)児(も)は、それなり、薄青い襟を分けて、真白な胸の中へ、頬も口も揉(もみ)込(こ)むと、恍(うっ)惚(とり)となって、もう一度、ひょいと母親の腹の内へ安置され終(おわ)んぬで、トもんどりを打って手足を一つに縮めた処は、滝を分けて、すとんと別の国へ出た趣(おもむき)がある、……そして、透(すき)通(とお)る胸の、暖かな、鮮(から)血(くれない)の美しさ。真紅の花の咲(さき)満(み)ちた、雲の白い花園に、朗(ほが)らかな月の映るよ、とその浴衣の色を見たのであった。
　が、その時までの可(おそ)恐(ろ)しさ。――

﹁常さん、今君が蔀を開けて、何かが覗いたって、僕は潜(もぐ)込(りこ)む懐(ふと)中(ころ)がないんだもの……﹂

　簫(しょう)の窓から覗いた客は、何も見えなかった、と云いながら、真(まっ)蒼(さお)になっていた。
　その夜から、筋向うのその土蔵附(つき)の二階家に、一人気が違った婦(おんな)があったのである。
　寂(ひっ)寞(そり)と霰(あられ)が止む。
　民也は、ふと我に返ったようになって、
﹁去年、母(おっか)さんがなくなったからね……﹂
　火(ひお)桶(け)の面(おもて)を背(そむ)けると、机に降(ふり)込(こ)んだ霞があった。
　じゅうと火の中にも溶けた音。
﹁勉強しようね、僕は父(おとっ)さんがないんだよ。さあ、﹂
　鮒が兜を着ると云う。……
﹁八田潟の処を読もう。﹂
　と常さんは机の向うに居直った。
　洋(ラン)燈(プ)が、じいじいと鳴る。
　その時であった。

六

　二階の階(はし)子(ごだ)壇(ん)の一(いっ)番(ちう)上(え)の一壇目……と思う処へ、欄(らん)間(ま)の柱を真黒に、くッきりと空(そら)にして、袖を欄(てす)干(り)摺(ず)れに……その時は、濃いお納戸と、薄い茶と、左右に両方、褄(つま)前(さき)を揃えて裾を踏みくぐむようにして、円(ま)髷(げ)と島田の対(つい)丈(たけ)に、面影白く、ふッと立った、両(ふた)個(り)の見も知らぬ婦(おん)人(な)がある。
　トその色も……薄いながら、判(はっ)然(きり)と煤(すす)の中に、塵を払ってくっきりと鮮(あざ)麗(やか)な姿が、二人が机に向った横手、畳(たた)数(みかず)二畳ばかり隔(へだ)てた処に、寒き夜なれば、ぴったり閉めた襖一枚……台所へ続くだだっ広い板敷との隔(へだて)になる……出(では)入(いり)口(ぐち)の扉(ひらき)があって、むしゃむしゃと巌(いわ)の根に蘭を描いたが、年数算(さん)するに堪(た)えず、で深(みや)山(ま)の色に燻(くす)ぼった、引(ひき)手(て)の傍(わき)に、嬰(あか)児(んぼ)の掌(てのひら)の形して、ふちのめくれた穴が開いた――その穴から、件の板敷を、向うの反(ほご)古(ば)張(り)の古壁へ突(つき)当(あた)って、ぎりりと曲って、直角に菎(こん)蒻(にゃ)色(くいろ)の干(ひか)乾(ら)びた階子壇……十(とお)ばかり、遥かに穴の如くに高いその真上。
　即ち襖の破(やれ)目(め)を透(とお)して、一つ突当って、折(おり)屈(まが)った上に、たとえば月の影に、一(ひと)刷(はけ)彩(いろど)った如く見えたのである。
　トンと云う。
　と思うと、トントントンと軽い柔かな音に連れて、褄(つま)が揺れ揺れ、揃った裳(もすそ)が、柳の二(ふた)枝(えだ)靡(なび)くよう……すらすらと段を下りた。
　肩を揃えて、雛の絵に見る……袖を左右から重ねた中に、どちらの手だろう、手燭か、台か、裸(はだ)火(かび)の蝋燭を捧げていた。
　蝋の火は白く燃えた。
　胸のあたりに蒼味が射す。
　頬のかかり白(しろ)々(じろ)と、中にも、円(まる)髷(まげ)に結(ゆ)ったその細(ほそ)面(おもて)の気(けだ)高(か)く品の可(い)い女(にょ)性(しょう)の、縺(もつ)れた鬢(びん)の露ばかり、面(おも)婁(やつ)れした横顔を、瞬(またた)きもしない双(そう)の瞳に宿した途端に、スーと下りて、板の間で、もの優しく肩が動くと、その蝋の火が、件の絵襖の穴を覘(のぞ)く……その火が、洋(ラン)燈(プ)の心(しん)の中へ、※(ぱっ)﹇＃﹁火＋發﹂、U+243CB、308-3﹈と入って、一つになったようだった。
　やあ！　開けると思う。
﹁きゃッ、﹂
　と叫んで、友達が、前(さき)へ、背(うし)後(ろ)の納戸へ刎(はね)込(こ)んだ。
　口も利けず……民也もその身(から)体(だ)へ重なり合って、父の寝た枕(まく)頭(らもと)へ突(つっ)伏(ぷ)した。
　ここの障子は、幼いものの夜(よふ)更(か)しを守って、寒いに一枚開けたまま、霰(あられ)の中にも、父と祖母の情(なさけ)の夢は、紙一(ひと)重(え)の遮るさえなく、机のあたりに通(かよ)ったのであった。
　父は夢だ、と云って笑った、……祖母もともに起きて出(い)で、火鉢の上には、再び芳(かんば)しい香(かおり)が満つる、餅網がかかったのである。
　茶の煮えた時、真夜中にまた霰が来た。
　後で、常さんと語(かた)合(りあ)うと……二人の見たのは、しかもそれが、錦絵を板(はん)に合わせたように同(おな)一(じ)かったのである。
　これが、民也の、ともすれば、フト出逢う、二人の姿の最(はじ)初(め)であった。
　常さんの、三日ばかり学校を休んだのはさる事ながら、民也は、それが夢でなくとも、さまで可(おそ)恐(ろし)いとも可(あや)怪(し)いとも思わぬ。
　敢(あえ)て思わぬ、と云うではないが、こうしたあやしみには、その時分馴れていた。
　毎夜の如く、内井戸の釣(つる)瓶(べ)の、人手を借らず鳴ったのも聞く……
　轆(ろく)轤(ろ)が軋(きし)んで、ギイと云うと、キリキリと二つばかり井戸縄の擦(すれ)合(あ)う音して、少(しば)須(らく)して、トンと幽(かす)かに水に響く。
　極(きま)ったように、そのあとを、ちょきちょきと細(こま)かに俎(まないた)を刻む音。時(しぐ)雨(れ)の頃から尚(な)お冴えて、ひとり寝の燈(とも)火(しび)を消した枕に通(かよ)う。

七