一
﹁鸚おう鵡むさん、しばらくね……﹂
と真しん紅くへ、ほんのりと霞かすみをかけて、新しい火の※ぱっ﹇#﹁火+發﹂、123-4﹈と移る、棟むね瓦がわらが夕ゆう舂づく日ひを噛かんだ状さまなる瓦がす斯だ暖ん炉ろの前へ、長なが椅い子すを斜ななめに、ト裳もすそを床ゆか。上うわ草ぞう履りの爪つま前さき細く※たお娜やか﹇#﹁女+島﹂の﹁山﹂に代えて﹁衣﹂、123-5﹈に腰を掛けた、年若き夫人が、博多の伊だて達ま巻きした平ふだ常ん着ぎに、お召めしの紺こんの雨あま絣がすりの羽織ばかり、繕つくろはず、等なお閑ざりに引ひっ被かけた、其その姿は、敷しき詰つめた絨じゅ氈うたんの浮うき出いでた綾あやもなく、袖そでを投げた椅子の手の、緑の深さにも押おし沈しずめられて、消えもやせむと淡かつた。けれども、美しさは、夜よるの雲に暗く梢こずえを蔽おおはれながら、もみぢの枝の裏うら透すくばかり、友ゆう染ぜんの紅くれないちら〳〵と、櫛くし巻まきの黒髪の濡ぬれ色いろの露つゆも滴したたる、天井高き山の端はに、電燈の影白うして、揺ゆらめく如き暖炉の焔ほのおは、世に隠れたる山やま姫ひめの錦にしきを照らす松たい明まつかと冴さゆ。
博はか士せが旅た行びをした後あとに、交つき際あいぎらひで、籠こも勝りがちな、此この夫人が留守した家は、まだ宵よいの間まも、実際蔦つたの中に所あり在かの知しるゝ山やま家がの如き、窓まど明あかり。
広い住すま居いの近所も遠し。
久しぶりで、恁こうして火を置かせたまゝ、気に入りの小間使さへ遠ざけて、ハタと扉ひらきを閉とざした音が、谺こだまするまで響いたのであつた。
夫人は、さて唯ただ一人、壁に寄せた塗ぬり棚だなに据すえ置おいた、籠かごの中なる、雪せつ衣いの鸚おう鵡むと、差さし向むかひに居るのである。
﹁御機嫌よう、ほゝゝ、﹂
と莟つぼみを含んだ趣おもむきして、鸚鵡の雪に照てり添そふ唇……
籠は上に、棚の丈たけ稍やや高ければ、打うち仰あおぐやうにした、眉まゆの優しさ。鬢びんの毛はひた〳〵と、羽織の襟えりに着きながら、肩も頸うなじも細かつた。
﹁まあ、挨あい拶さつもしないで、……黙だん然まりさん。お澄ましですこと。……あゝ、此の間あいだ、鳩はとにばツかり構つて居たから、お前さん、一ちょ寸いとお冠かんむりが曲りましたね。﹂
此の五いつ日か六むい日か、心ここ持ろもち煩わずらはしければとて、客にも逢あはず、二階の一ひと室まに籠りツ切きり、で、寝ねお起きの隙ひまには、裏庭の松の梢こずえ高き、城のもの見のやうな窓から、雲と水色の空とを観みながら、徒つれ然づれにさしまねいて、蒼あお空ぞらを舞ふ遠おち方かたの伽がら藍んの鳩を呼んだ。――真白なのは、掌てのひらへ、紫むらさきなるは、かへして、指環の紅ルビ玉イの輝く甲こうへ、朱とき鷺い色ろと黄の脚あしして、軽く来て留とまるまでに馴なれたのであつた。
﹁それ〳〵、お冠の通り、嘴くちばしが曲つて来ました。目をくる〳〵……でも、矢やっ張ぱり可かわ愛いいねえ。﹂
と艶あで麗やかに打うち傾かたむき、
﹁其の替り、今ね、寝ながら本を読んで居て、面白い事があつたから、お話をして上げようと思つて、故わざ々わざ遊びに来たんぢやないか。途中が寒かつたよ。﹂
と、犇ひしと合はせた、両りょ袖うそで堅かたく緊しまつたが、溢こぼるゝ蹴け出だし柔かに、褄つまが一ひと靡なびき落着いて、胸を反そらして、顔を引き、
﹁否いいえ、まだ出して上げません。……お話を聞かなくツちや……でないと袖を啣くわへたり、乗つたり、悪いた戯ずらをして邪じゃ魔まなんですもの。
お聞きなさいよ。
可いいかい、お聞きなさいよ。
まあ、ねえ。
座敷は――こんな貸かし家やだ建てぢやありません。壁も、床も、皆彩さい色しきした石を敷いた、明あけ放はなした二階の大広間、客きゃ室くまなんです。
外おも面ての、印イン度ド洋に向いた方の、大理石の廻まわり縁えんには、軒のきから掛けて、床ゆかへ敷く……水晶の簾すだれに、星の数々鏤ちりばめたやうな、ぎやまんの燈とう籠ろうが、十五、晃きら々きら点ついて並んで居ます。草くさ花ばなの絵の蝋ろう燭そくが、月の桂かつらの透くやうに。﹂
と襟えりを圧おさへた、指の先。
二
引ひき合あはせ、又袖そでを当て、
﹁丁ちょうど、まだ灯あかしを入れたばかりの暮くれ方がたでね、……其の高たか楼どのから瞰み下おろされる港みな口とぐちの町まち通どおりには、焼しょ酎うち売ゅううりだの、雑貨屋だの、油あぶ売らうりだの、肉屋だのが、皆黒くろ人んぼに荷車を曳ひかせて、……商あき人んどは、各てん自でんに、ちやるめらを吹く、さゝらを摺する、鈴ベルを鳴らしたり、小太鼓を打つたり、宛まる然でお神かぐ楽らのやうなんですがね、家うちが大おおきいから、遠くに聞えて、夜中の、あの魔もののお囃はや子し見たやうよ、……そして車に着いた商あき人んどの、一人々々、穂ほな長がの槍やりを支ついたり、担かついだりして行ゆく形が、ぞろ〳〵影のやうに黒いのに、椰や子しの樹きの茂つた上へ、どんよりと黄色に出た、月の明あかりで、白しら刃はばかりが、閃ぴか々ぴか、と稲いな妻ずまのやうに行ゆき交かはす。
其の向うは、鰐わにの泳ぐ、可おそ恐ろしい大おお河かわよ。……水みな上かみは幾いく千せん里りだか分らない、天てん竺じくのね、流りゅ沙うさ河がわの末すえだとさ、河幅が三里の上、深さは何なん百びゃ尋くひろか分りません。
船のある事……帆ほぼ柱しらに巻まき着ついた赤い雲は、夕日の余なご波りで、鰐の口へ血の晩御飯を注つぎ込こむんだわね。
時は十二月なんだけれど、五月のお節句の、此これは鯉こい、其それは金銀の糸の翼、輝く虹にじを手てま鞠りにして投げたやうに、空を舞つて居た孔くじ雀ゃくも、最もう庭へ帰つて居るの……燻たき占しめはせぬけれど、棚に飼つた麝じゃ香こう猫ねこの強い薫かおりが芬ぷんとする……
同おなじやうに吹ふき通とおしの、裏は、川筋を一つ向うに、夜中は尾おな長がざ猿るが、キツキと鳴き、カラ〳〵カラと安あだ達ちヶ原はらの鳴なる子このやうな、黄こが金ねへ蛇びの声がする。椰や子し、檳びん榔ろう子じの生え茂つた山に添つて、城のやうに築つき上あげた、煉れん瓦がづ造くりがづらりと並んで、矢やざ間まを切つた黒い窓から、弩いしびやの口がづん、と出て、幾つも幾つも仰あお向むけに、星を呑のまうとして居るのよ……
和オラ蘭ンダ人の館やかたなんです。
其の一ひとつの、和オラ蘭ンダ館かんの貴公子と、其の父親の二人が客で。卓テエ子ブルの青い鉢、青い皿を囲んで向むき合あつた、唐とう人じんの夫婦が二人。別に、肩には更さら紗さを投なげ掛かけ、腰に長剣を捲まいた、目の鋭い、裸はだかの筋きん骨こつの引ひき緊しまつた、威風の凜りん々りんとした男は、島の王様のやうなものなの……
周まわ囲りに、可いいほど間まを置いて、黒くろ人んぼの召使が三人で、謹つつしんで給仕に附いて居る所。﹂
と俯ふし目めに、睫まつ毛げ濃く、黒くろ棚だなの一ひとツの仕しき劃りを見た。袖そで口ぐち白く手を伸のべて、
﹁あゝ、一人此こ処こに居たよ。﹂
と言ふ。天あた窓まの大きな、頤あごのしやくれた、如にょ法ほう玩おも弄ちゃの焼やきものの、ペロリと舌で、西すい瓜か喰くふ黒くろ人んぼの人形が、ト赤い目で、額おでこで睨にらんで、灰色の下した唇くちびるを反そらして突つっ立たつ。
﹁……余り謹つつしんでは居ないわね……一ちょ寸いと、お話の中へ出ておいで。﹂
と手を掛けると、ぶるりとした、貧びん乏ぼう動ゆるぎと云ふ胴どう揺ゆすりで、ふてくされにぐら〳〵と拗すね身みに震ふ……はつと思ふと、左の足が股もものつけもとから、ぽきりと折れて、ポンと尻しり持もちを支ついた体ていに、踵かかとの黒いのを真ま向むきに見せて、一本ストンと投なげ出だした、……恰あたかも可よし、他ほかの人形など一いっ所しょに並んだ、中に交まじつて、其そ処こに、木彫にうまごやしを萌もえ黄ぎで描かいた、舶来ものの靴が片かた隻っぽ。
で、肩を持たれたまゝ、右の跛びっこの黒くろどのは、夫人の白しら魚うおの細い指に、ぶらりと掛かかつて、一ひとツ、ト前のめりに泳いだつけ、臀いしきを揺ゆすつた珍ちんな形で、けろりとしたもの、西瓜をがぶり。
熟じっと視みて、
﹁まあ……﹂
離すと、可いいことに、あたり近所の、我わが朝ちょうの姉あね様さまを仰あお向むけに抱だき込こんで、引ひっくりかへりさうで危あぶないから、不気味らしくも手からは落さず……
﹁島か、光みつか、払はたきを掛けて――お待ちよ、否いいえ、然そう〳〵……矢やっ張ぱりこれは、此の話の中で、鰐わにに片足食くい切きられたと云ふ土人か。人殺しをして、山へ遁にげて、大たい木ぼくの梢こずえへ攀よぢて、枝から枝へ、千せん仭じんの谷たにを伝はる処ところを、捕とり吏ての役人に鉄砲で射いられた人だよ。
ねえ鸚おう鵡むさん。﹂
と、足を継ついで、籠かごの傍わきへ立たて掛かけた。
鸚鵡の目こそ輝いた。
三
﹁あんな顔をして、﹂
と夫人は声を沈めたが、打うち仰あおぐやうに籠を覗のぞいた。
﹁お前さん、お知ちか己づきぢやありませんか。尤もっとも御先祖の頃だらうけれど――其の黒くろ人んぼも……和オラ蘭ン陀ダ人も。﹂
で、木彫の、小さな、護ゴム謨ざ細い工くのやうに柔かに襞ひの入つた、靴をも取つて籠の前に差さし置おいて、
﹁此のね、可愛らしいのが、其の時の、和オラ蘭ンダ陀やか館たの貴公子ですよ。御覧、――お待ちなさいよ。恁こうして並べたら、何だか、もの足りないから。﹂
フト夫人は椅子を立つたが、前に挟んだ伊だて達ま巻きの端をキウと緊しめた。絨じゅ氈うたんを運ぶ上靴は、雪に南なん天てんの実みの赤きを行く……
書棚を覗のぞいて奥を見て、抽ぬき出だす論語の第一巻――邸やしきは、置場所のある所とさへ言へば、廊下の通かよ口いぐちも二階の上うえ下したも、ぎつしりと東西の書もつの揃そろつた、硝がら子す戸どに突つき当あたつて其から曲る、……本箱の五いつツ七ななツが家の五丁目七丁目で、縦じゅ横うおうに通ずるので。……こゝの此の書棚の上には、花は丁ちょうど挿さしてなかつた、――手てつ附きの大形の花はな籠かごと並べて、白しら木きの桐きりの、軸ものの箱が三みツばかり。其の真中の蓋ふたの上に……
恁こう仰ぎょ々うぎょうしく言いい出だすと、仇かたきの髑しゃ髏れこうべか、毒薬の瓶びんか、と驚かれよう、真まっ個たくの事を言ひませう、さしたる儀でない、紫むらさきの切きれを掛けたなりで、一尺しゃく三寸ずん、一ひと口ふりの白しら鞘さやものの刀がある。
と黒くろ目めが勝ちな、意味の深い、活いき々いきとした瞳ひとみに映ると、何思ひけむ、紫ぐるみ、本に添へて、すらすらと持つて椅子に帰つた。
其だけで、身の悩ましき人は吻ほっと息する。
﹁さあ、此の本が、唐もろ土こしの人……揃つたわね、主人も、客も。
而そして鰐わにの晩飯時分、孔くじ雀ゃくのやうな玉たまの燈とう籠ろうの裡うちで、御ごち馳そ走うを会食して居る……
一ちょ寸いと、其の高たか楼どのを何ど処こだと思ひます……印イン度ドの中のね、蕃ばん蛇じゃ剌らあ馬まん……船ふな着つきの貿易所、――お前さんが御存じだよ、私よりか、﹂
と打うち微ほほ笑えみ、
﹁主しゅ人じんは、支し那なの福ふく州しゅうの大おお商あき賈んどで、客は、其も、和オラ蘭ン陀ダの富かね豪もち父おや子こと、此の島の酋しゅ長うちょうなんですがね、こゝでね、皆みんながね、たゞ一ひとツ、其だけに就ついて繰返して話して居たのは、――此のね、酋長の手から買取つて、和蘭陀の、其の貴公子が、此の家うちへ贈りものにした――然そうね、お前さんの、あの、御先祖と云ふと年とし寄より染じみます、其の時分は少わかいのよ。出が王様の城だから、姫君の鸚おう鵡むが一いち羽わ。
全身緋ひい色ろなんだつて。……
此が、哥こた太いか寛んと云ふ、此こ家この主ある人じたち夫婦の秘蔵娘で、今年十八に成る、哥こう鬱つけ賢んと云うてね、島第一の美しい人のものに成つたの。和蘭陀の公子は本ほん望もうでせう……実は其が望みだつたらしいから――
鸚鵡は多年馴ならしてあつて、土地の言語は固もとよりだし、瓜ジャ哇ワ、勃ボル泥ネ亜オの訛なまりから、馬マ尼ニ剌ラ、錫セイ蘭ロン、沢たん山とは未まだなかつた、英イギ吉リ利スの語も使つて、其は……怜りこ悧うな娘をはじめ、誰にも、よく解るのに、一ひとツ人の聞きき馴なれない、不思議な言こと語ばがあつたんです。
以前の持主、二度目のはお取とり次つぎ、一人も仕込んだ覚えはないから、其の人たちは無論の事、港へ出入る、国々島々のものに尋ねても、まるつきし通じない、希け有うな文句を歌ふんですがね、検しらべて見ると、其が何なの、此の内へ来てから、はじまつたと分つたんです。
何かの折の御馳走に、哥こた太いか寛んが、――今夜だわね――其の人たちを高たか楼どのに招まねいて、話の折に、又其の事を言いい出だして、鸚おう鵡むの口真似もしたけれども、分らない文句は、鳥の声とばツかし聞えて、傍そばで聞く黒くろ人んぼたちも、妙な顔かお色つきで居る所……ね……
其そ処こへですよ、奥深く居て顔は見せない、娘の哥こう鬱つけ賢んから、が一人使つか者いで出ました……﹂
四
﹁差さし出でがましうござんすが、お座興にもと存じて、お客様の前ながら、申上げます、とお嬢様、御ごこ口うじ上ょう。――内に、日にっ本ぽんと云ふ、草くさ毟むしりの若い人が居おりませう……ふと思ひ着きました。あのものをお召し遊ばし、鸚鵡の謎なぞをお問合はせなさいましては如いか何がでせうか、と其のが陳のべたんです。
鸚鵡は、尤もっとも、お嬢さんが片かた時ときも傍そばを離さないから、席へ出ては居なかつたの。
でね、此を聞くと、人の好いい、気の優しい、哥太寛の御ごし新ん姐ぞが、おゝ、と云つて、袖そでを開ひらく……主人もはた、と手を拍うつて、﹂
とて、夫人は椅子なる袖に寄せた、白しら鞘さやを軽く圧おさへながら、
﹁先せん刻こくより御覧に入れた、此なる剣つるぎ、と哥太寛の云つたのが、――卓テエ子ブルの上に置いた、蝋ろう塗ぬり、鮫さめ鞘ざや巻まき、縁ふち頭がしら、目めぬ貫きも揃そろつて、金銀造りの脇わき差ざしなんです――此の日本の剣つるぎと一いっ所しょに、泯ミン汰ダネ脳オの土どば蛮んが船に積んで、売りに参つた日本人を、三年前さきに買かい取とつて、現に下かぼ僕くとして使ひまする。が、傍そばへも寄せぬ下した働ばたらきの漢おとこなれば、剣つるぎは此こ処こにありながら、其の事とも存ぜなんだ。……成なる程ほど、呼べ、と給仕を遣やつて、鸚鵡を此へ、と急いで嬢に、で、を立たせたのよ。
たゞ玉たまの緒おのしるしばかり、髪は糸で結んでも、胡こ沙さ吹く風は肩に乱れた、身は痩やせ、顔は窶やつれけれども、目鼻立ちの凜りんとして、口くち許もとの緊しまつたのは、服な装りは何どうでも日やま本との若わか草くさ。黒くろ人んぼの給仕に導かれて、燈とう籠ろうの影へ顕あらわれたつけね――主人の用に商あき売ないものを運ぶ節は、盗どろ賊ぼうの用心に屹きっと持つ……穂ほな長がの槍やりをねえ、こんな場所へは出つけないから、突つき立たてたまゝで居るんぢやありませんか。
和オラ蘭ン陀ダのは騒がなかつたが、蕃ばん蛇じゃ剌らあ馬まんの酋しゅ長うちょうは、帯を手た繰ぐつて、長剣の柄つかへ手を掛けました。……此のお夥なか間まです……人の売うり買かいをする連れん中じゅうは……まあね、槍は給仕が、此も慌あわてて受取つたつて。
静かに進んで礼をする時、牡ぼた丹んに八やツ橋はしを架かけたやうに、花の中を廻り繞めぐつて、奥へ続いた高たか楼どのの廊下づたひに、黒くろ女めのが前あと後さきに三人属ついて、浅あさ緑みどりの衣きぬに同じ裳もをした……面おもては、雪の香かが沈む……銀しろがねの櫛くし照てら々てらと、両方の鬢びんに十二枚の黄こが金ねの簪かんざし、玉の瓔よう珞らくはら〳〵と、お嬢さん。耳みみ鉗わ、腕うで釧わも細い姿に、抜ぬけ出でるらしく鏘しょ々うしょうとして……あの、さら〳〵と歩あ行るく。
母親が曲きょを立つて、花の中で迎へた処ところで、哥鬱賢は立たち停どまつて、而そして……桃の花の重かさなつて、影も染そまる緋色の鸚おう鵡むは、お嬢さんの肩から翼、飜ひら然りと母親の手に留とまる。其を持つて、卓テエ子ブルに帰つて来る間まに、お嬢さんの姿は、の三みっツの黒い中に隠れたんです。
鸚鵡は誰にも馴なじ染みだわね。
卓テエ子ブルの其そ処こへ、花はな片びらの翼を両方、燃もえ立たつやうに。﹂
と云ふ。声さへ、其の色。暖だん炉ろの瓦が斯すは颯さっ々さつと霜しも夜よに冴さえて、一層殷いん紅こうに、且かつ鮮せん麗れいなるものであつた。
﹁影を映した時でした……其の間まに早はや用の趣おもむきを言ひ聞かされた、髪の長い、日本の若い人の、熟じっと見るのと、瞳ひとみを合せたやうだつたつて……
若い人の、窶やつれ顔に、血の色が颯さっと上のぼつて、――国々島々、方々が、いづれもお分りのないとある、唯ただ一句、不思議な、短かい、鸚鵡の声と申すのを、私わたくしが先へ申して見ませう……もしや?……
――港で待つよ――
と、恁こう申すのではござりませぬか、と言ひも未まだ果てなかつたに、島の毒どく蛇じゃの呼い吸きを消して、椰や子しの峰、鰐わにの流ながれ、蕃ばん蛇じゃ剌らあ馬まんの黄色な月も晴れ渡る、世にも朗ほがらかな涼すずしい声して、
――港で待つよ――
と、羽はねを靡なびかして、其の緋ひお鸚う鵡むが、高らかに歌つたんです。
釵かんざしの揺ゆらぐ気けは勢いは、彼あち方らに、お嬢さんの方にして……卓テエ子ブルの其の周まわ囲りは、却かえつて寂ひっ然そりとなりました。
たゞ、和オラ蘭ン陀ダの貴公子の、先さっ刻きから娘に通はす碧あいを湛たたへた目の美しさ。
はじめて鸚鵡に見返して、此の言葉よ、此の言葉よ!日本、と真まっ前さきに云ひましたとさ。﹂
五
﹁真まっ個たく、其の言ことばに違はないもんですから、主人も、客も、座を正して、其のいはれを聞かうと云つたの。
――港で待つよ――
深夜に、可おそ恐ろしい黄こが金ねへ蛇びの、カラ〳〵と這はふ時は、﹇#﹁、﹂は底本では﹁、、﹂﹈土どば蛮んでさへ、誰も皆耳を塞ふさぐ……其の時には何どうか知らない……そんな果はか敢ない、一生奴どれ隷いに買はれた身だのに、一度も泣いた事を見ないと云ふ、日本の其の少わかい人は、今其その鸚鵡の一ひと言ことを聞くか聞かないに、槍やりをそばめた手も恥かしい、ばつたり床ゆかに、俯うつ向むけに倒れて潸さめ々ざめと泣くんです。
お嬢さんは、伸のび上あがるやうに見えたの。
涙を払つて――唯今の鸚おう鵡むの声は、私わたくしが日本の地を吹ふき流ながされて、恁こうした身に成ります、其の船出の夜中に、歴あり然ありと聞きました……十じゅ二うに一ひと重えに緋の袴はかまを召させられた、百人一首と云ふ歌の本においで遊ばす、貴あな方たが方たにはお解りあるまい、尊い姫君の絵姿に、面おも影かげの肖にさせられた御おか方たから、お声がかりがありました、其の言葉に違ひありませぬ。いま赫かく耀やくとした鳥の翼を見ますると、射いらるゝやうに其の緋の袴が目に見えたのでこさります。――と此から話したの――其の時のは、船の女おん神ながみさまのお姿だつたんです。
若い人は筑ちく前ぜんの出うま生れ、博多の孫まご一いちと云ふ水か主こでね、十九の年、……七年前、福岡藩の米を積んだ、千六百石こくの大たい船せんに、乗のり組くみの人にん数ず、船頭とも二十人、宝ほう暦れき午うまの年とし十月六日に、伊いせ勢ま丸ると云ふ其の新しん造ぞうの乗のり初ぞめです。先まづは滞とどこおりなく大阪へ――それから豊ぶぜ前んへ廻つて、中なか津つの米を江戸へ積んで、江戸から奥州へ渡つて、又青森から津軽藩の米を託ことづかつて、一度品川まで戻つた処ところ、更あらためて津軽の材木を積むために、奥州へ下くだつたんです――其の内、年号は明めい和わと成る……元年申さるの七月八日、材木を積つみ済すまして、立たつ火びの小こど泊まりから帆を開ひらいて、順風に沖へ走り出した時、一人にん、櫓やぐらから倒さかさまに落ちて死んだのがあつたんです、此があやかしの憑ついたはじめなのよ。
南部の才さい浦うらと云ふ処ところで、七なぬ日かばかり風かざ待まちをして居た内に、長ちょ八うはちと云ふ若い男が、船ふな宿やど小こや宿どの娘と馴な染じんで、明あ日すは出しゅ帆っぱん、と云ふ前の晩、手に手を取つて、行方も知れず……一ちょ寸いと……駈かけ落おちをして了しまつたんだわ!﹂
ふと蓮はす葉はに、ものを言つて、夫人はすつと立つて、対つい丈たけに、黒くろ人んぼの西すい瓜かを避けつゝ、鸚鵡の籠かごをコト〳〵と音おと信ずれた。
﹁何どう?多分其その我まゝな駈落ものの、……私は子孫だ、と思ふんだがね。……御覧の通りだからね、﹂
と、霜しもの冷つめたい色して、
﹁でも、駈落ちをしたお庇かげで、無事に生いの命ちを助かつたんです。思つた同士は、道みち行ゆきに限るのねえ。﹂
と力なささうに、疲れたらしく、立たち姿すがたのなり、黒くろ棚だなに、柔かな袖そでを掛けたのである。
﹁あとの大勢つたら、其のあくる日から、火の雨、火の風、火の浪なみに吹ふき放はなされて、西へ――西へ――毎日々々、百日と六日の間あいだ、鳥の影一つ見えない大おお灘なだを漂うて、お米を二升しょうに水一斗との薄うす粥がゆで、二十人の一日の生いの命ちを繋つないだのも、はじめの内。くまびきさへ釣つれないもの、長い間あいだに漁したのは、二ふた尋ひろばかりの鱶ふかが一疋ぴき。さ、其を食べた所せ為いでせう、お腹なかの皮が蒼あお白じろく、鱶ふかのやうにだぶだぶして、手足は海み松るの枝の枯れたやうになつて、漸やつと見着けたのが鬼おにヶ島しま、――魔界だわね。
然そうして地つちを見てからも、島の周まわ囲りに、底から生えて、幹みきばかりも五丈じょう、八丈、すく〳〵と水から出た、名も知れない樹が邪魔に成つて、船を着ける事が出来ないで、海の中の森の間あいだを、潮あかりに、月も日もなく、夜よる昼ひる七なの日か流れたつて言ふんですもの……
其の時分、大きな海なま鼠この二にし尺ゃく許ばかりなのを取つて食べて、毒に当つて、死なないまでに、こはれごはれの船の中で、七しち顛てん八ばっ倒とうの苦くる痛しみをしたつて言ふよ。……まあ、どんな、心ここ持ろもちだつたらうね。渇くのは尚なほ辛つらくつて、雨のない日の続く時は帆ほぬ布のを拡げて、夜よつ露ゆを受けて、皆みんなが口をつけて吸つたんだつて――大概唇は破れて血が出て、――助かつた此の話の孫まご一いちは、余あんまり激しく吸つたため、前歯二つ反そつて居たとさ。……
お聞き、島へ着くと、元もと船ぶねを乗のり棄すてて、魔まこ国くとこゝを覚悟して、死しに装しょ束うぞくに、髪を撫なで着つけ、衣類を着き換かへ、羽織を着て、紐ひもを結んで、てん〴〵が一ひと腰こしづゝ嗜たしなみの脇わき差ざしをさして上あ陸がつたけれど、飢うえ渇かつゑた上、毒に当つて、足腰も立たないものを何どうしませう?……﹂
六
﹁三百人ばかり、山やま手てから黒くろ煙けぶりを揚げて、羽はあ蟻りのやうに渦巻いて来た、黒くろ人んぼの槍やりの石いし突づきで、浜に倒れて、呻う吟めき悩む一人々々が、胴、腹、腰、背、コツ〳〵と突つつかれて、生いき死しにを験ためされながら、抵てむ抗かいも成らず裸はだかにされて、懐中ものまで剥はぎ取とられた上、親おや船ぶね、端はし舟けも、斧おので、ばら〳〵に摧くだかれて、帆ほづ綱な、帆ほば柱しら、離れた釘は、可いま忌わしい禁まじ厭ない、可おそ恐ろしい呪のろ詛いの用に、皆みんな奪とられて了しまつたんです。……
あとは残らず牛うし馬うま扱ひ。それ、草を毟むしれ、馬じゃ鈴がい薯もを掘れ、貝を突け、で、焦げつくやうな炎天、夜よるは毒どく蛇じゃの霧きり、毒どく虫むしの靄もやの中を、鞭むち打ち鞭打ち、こき使はれて、三みつ月き、半はん歳とし、一年と云ふ中うちには、大方死んで、あと二三人だけ残つたのが一人々々、牛小屋から掴つかみ出されて、果はてしも知らない海の上を、二は十つ日か目めに島一つ、五十日目に島一つ、離れ〴〵に方々へ売られて奴どれ隷いに成りました。
孫まご一いちも其の一人だつたの……此の人はね、乳も涙も漲みなぎり落ちる黒くろ女めの俘とり囚こと一いっ所しょに、島々を目め見み得えに廻つて、其の間あいだには、日本、日本で、見世ものの小屋に置かれた事もあつた。一度何ど処こか方角も知れない島へ、船が水みず汲くみに寄つた時、浜つゞきの椰や子しの樹の奥に、恁こうね、透かすと、一人、コトン〳〵と、寂さびしく粟あわを搗ついて居た亡もう者じゃがあつてね、其が夥なか間まの一人だつたのが分つたから、声を掛けると、黒くろ人んぼが突つき倒たおして、船は其のまゝ朱しゅ色いろの海へ、ぶく〳〵と出たんだとさ……可哀相ねえ。
まだ可あわ哀れなのはね、一いっ所しょに連つれ廻まはられた黒くろ女めなのよ。又何とか云ふ可おそ恐ろしい島でね、人が死ぬ、と家かぞ属くのものが、其の首は大事に蔵しまつて、他人の首を活いきながら切つて、死人の首へ継つぎ合あはせて、其を埋うずめると云ふ習なら慣わしがあつて、工くめ面んのいゝのは、平ふだ常んから首くび代しろの人間を放はな飼しがいに飼つて置く。日本ぢや身がはりの首と云ふ武士道とかがあつたけれど、其の島ぢや遁にげると不いけ可ないからつて、足を縛つて、首から掛けて、股またの間あいだへ鉄の分ふん銅どうを釣つるんだつて……其そ処こへ、あの、黒い、乳の膨れた女は買はれたんだよ。
孫一は、天の助けか、其の土地では売れなくつて――とう〳〵蕃ばん蛇じゃ剌らあ馬まんで方かたが附いた――
と云ふ訳なの……
話は此なんだよ。﹂
夫人は小さな吐息した。
﹁其そのね、ね。可かな悲しい、可おそ恐ろしい、滅亡の運命が、人たちの身に、暴あ風ら雨しと成つて、天地とともに崩くず掛れかからうとする前の夜よる、……風はよし、凪なぎはよし……船出の祝ひに酒盛したあと、船中残らず、ぐつすりと寝込んで居た、仙台の小こぶ淵ちの港で――霜しもの月に独ひとり覚さめた、年十九の孫一の目に――思ひも掛けない、艫ともの間まの神かみ龕だなの前に、凍こおつた竜宮の几きち帳ょうと思ふ、白はっ気きが一ひと筋すじ月に透いて、向うへ大波が畝うねるのが、累かさなつて凄すごく映る。其の蔭に、端あで麗やかさも端あで麗やかに、神こう々ごうしさも神々しい、緋の袴はかまの姫が、お一ひと方かた、孫一を一目見なすつて、
――港で待つよ――
と其の一ひと言こと。すらりと背うし後ろ向かるゝ黒髪のたけ、帆ほば柱しらより長く靡なびくと思ふと、袴の裳もすそが波を摺すつて、月の前を、さら〳〵と、かけ波の沫しぶきの玉を散らしながら、衝つと港みな口とぐちへ飛んで消えるのを見ました……あつと思ふと夢は覚さめたが、月明りに霜の薄うす煙けぶりがあるばかり、船の中に、尊い香こうの薫かおりが残つたと。……
此の船中に話したがね、船頭はじめ――白たわ痴けめ、婦おんなに誘はれて、駈かけ落おちの真似がしたいのか――で、船は人ぐるみ、然そうして奈落へ逆さかさまに落おち込こんだんです。
まあ、何と言はれても、美しい人の言ふことに、従へば可よかつたものをね。
七年幾いく月つきの其の日はじめて、世界を代へた天てん竺じくの蕃ばん蛇じゃ剌らあ馬まんの黄たそ昏がれに、緋の色した鸚おう鵡むの口から、同じ言ことばを聞いたので、身を投なげ臥ふして泣いた、と言ひます。
微いみ妙じき姫ひめ神がみ、余りの事の霊威に打うたれて、一座皆跪ひざまずいて、東の空を拝みました。
言ふにも及ばない事、奴どれ隷いの恥も、苦くるしみも、孫一は、其の座で解とけて、娘の哥こう鬱つけ賢んが贐はなむけした其の鸚鵡を肩に据すゑて。﹂
と籠かごを開あける、と飜ひら然りと来た、が、此は純白雪ゆきの如きが、嬉しさに、颯さっと揚あげ羽はの、羽はう裏らの色は淡く黄に、嘴くちは珊さん瑚ごの薄うす紅くれない。
﹁哥こた太いか寛んも餞せん別べつしました、金銀づくりの脇わき差ざしを、片手に、﹂と、肱ひじを張つたが、撓たよ々たよと成つて、紫むらさきの切きれも乱るゝまゝに、弛ゆるき博多の伊だて達ま巻きへ。
肩を斜めに前へ落すと、袖そでの上へ、腕かいなが辷すべつた、……月が投げたるダリヤの大おお輪りん、白しろ々じろと、揺れながら戯たわむれかゝる、羽はが交いの下を、軽く手に受け、清すずしい目を、熟じっと合はせて、
﹁……あら嬉しや!三さん千ぜん日にちの夜あけ方、和オラ蘭ン陀ダの黒くろ船ふねに、旭あさひを載せた鸚おう鵡むの緋の色。めでたく筑ちく前ぜんへ帰つたんです――
お聞きよ此を! 今、現在、私のために、荒あら浪なみに漂つて、蕃ばん蛇じゃ剌らあ馬まんに辛苦すると同じやうな少わかい人があつたらね、――お前は何と云ふの!何と言ふの?
私は、其が聞きたいの、聞きたいの、聞きたいの、……たとへばだよ……お前さんの一ひと言ことで、運命が極きまると云つたら、﹂
と、息切れのする瞼まぶたが颯さっと、気を込めた手に力が入つて、鸚鵡の胸を圧おしたと思ふ、嘴くちばしをいて開あけて、カツキと噛かんだ小指の一ひと節ふし。
﹁あ、﹂と離すと、爪を袖そで口ぐちに縋すがりながら、胸むな毛げを倒さかさに仰あお向むきかゝつた、鸚鵡の翼に、垂たら々たらと鮮から血くれない。振ふり離はなすと、床ゆかまで落ちず、宙ではらりと、影を乱して、黒くろ棚だなに、バツと乗る、と驚おど駭ろきに衝つと退すさつて、夫人がひたと遁にげ構がまへの扉ひらきに凭もたれた時であつた。
呀や!西すい瓜かは投げぬが、がつくり動いて、ベツカツコ、と目を剥むく拍子に、前へのめらうとした黒くろ人んぼの其の土つち人にん形ぎょうが、勢いきおい余つて、どたりと仰のけ状ざま。ト木彫のあの、和オラ蘭ン陀ダ靴は、スポンと裏を見せて引ひっ顛くり返かえる。……煽あおりをくつて、論語は、ばら〳〵と暖炉に映つて、赫かっと朱を注そそぎながら、頁ペエジを開ひらく。
雪なす鸚鵡は、見る〳〵全身、美しい血に染そまつたが、目を眠るばかり恍うっ惚とりと成つて、朗ほがらかに歌つたのである。
――港で待つよ――
時に立たち窘すくみつゝ、白しら鞘さやに思はず手を掛けて、以ての外ほかかな、怪け異いなるものどもの挙ふる動まいを屹きと視みた夫人が、忘れたやうに、柄つかをしなやかに袖に捲まいて、するりと帯に落して、片手におくれ毛を払ひもあへず……頷うなずいて……莞にっ爾こりした。