一
米と塩とは尼君が市まちに出で行ゆきたまうとて、庵いおりに残したまいたれば、摩ま耶やも予も餓ううることなかるべし。もとより山中の孤ひと家つやなり。甘きものも酢きものも摩耶は欲しからずという、予もまた同じきなり。
柄長く椎しいの葉ばかりなる、小ちいさき鎌を腰にしつ。籠かごをば糸つけて肩に懸け、袷あわせ短みじかに草履穿はきたり。かくてわれ庵を出でしは、午ごの時過ぐる比ころなりき。
麓ふもとに遠き市いち人びとは東しの雲のめよりするもあり。まだ夜明けざるに来きたるあり。芝しば茸たけ、松茸、しめじ、松露など、小おざ笹さの蔭、芝の中、雑木の奥、谷たに間あいに、いと多き山なれど、狩る人の数もまた多し。
昨きの日う一おと昨と日い雨降りて、山の地つち湿りたれば、茸きのこの獲物さこそとて、朝霧の晴れもあえぬに、人影山に入乱れつ。いまはハヤ朽葉の下をもあさりたらむ。五七人、三五人、出盛りたるが断続して、群れては坂を帰りゆくに、いかにわれ山の庵に馴なれて、あたりの地味にくわしとて、何ほどのものか獲らるべき。
米と塩とは貯えたり。筧かけひの水はいと清ければ、たとい木の実一ひと個つ獲ずもあれ、摩耶も予も餓うることなかるべく、甘きものも酢きものも渠かれはたえて欲しからずという。
されば予が茸たけ狩らむとして来きたりしも、毒なき味あじわいの甘きを獲て、煮て食くらわむとするにはあらず。姿のおもしろき、色のうつくしきを取りて帰りて、見せて楽たのしませむと思いしのみ。
﹁爺じいや、この茸は毒なんか。﹂
﹁え、お前様、そいつあ、うっかりしようもんなら殺やられますぜ。紅べに茸たけといってね、見ると綺きれ麗いでさ。それ、表は紅を流したようで、裏はハア真まっ白しろで、茸きのこの中じゃあ一番うつくしいんだけんど、食べられましねえ。あぶれた手合が欲しそうに見ちゃあ指をくわえるやつでね、そいつばッかりゃ塩を浴びせたって埒らち明きませぬじゃ、おッぽり出してしまわっせえよ。はい、﹂
といいかけて、行ゆかむとしたる、山番の爺じじはわれらが庵を五六町隔てたる山寺の下に、小屋かけてただ一人住みたるなり。
風吹けば倒れ、雨う露ろに朽ちて、卒そ堵と婆ばは絶えてあらざれど、傾きたるまま苔こけ蒸むすままに、共有地の墓いまなお残りて、松の蔭の処々に数多く、春夏冬は人もこそ訪とわね、盂うら蘭ぼ盆んにはさすがに詣もうで来る縁者もあるを、いやが上に荒れ果てさして、霊地の跡を空しゅうせじとて、心ある市まちの者より、田畑少し附属して養いおく、山番の爺は顔丸まろく、色煤すすびて、眼まなこは窪くぼみ、鼻円まろく、眉は白くなりて針金のごときが五六本短く生おいたり。継はぎの股もも引ひき膝までして、毛けず脛ね細く瘠やせたれども、健かに。谷を攀よじ、峰にのぼり、森の中をくぐりなどして、杖つえをもつかで、見めぐるにぞ、盗ぬす人びとの来て林に潜むことなく、わが庵も安らかに、摩耶も頼たの母もしく思うにこそ、われも懐ししと思いたり。
﹁食べやしないんだよ。爺や、ただ玩おも弄ちゃにするんだから。﹂
﹁それならば可ようごすが。﹂
爺は手てお桶けを提ひっさげいたり。
﹁何でもこうその水ン中へうつして見るとの、はっきりと影の映るやつは食べられますで、茸きのこの影がぼんやりするのは毒がありますじゃ。覚えておかっしゃい。﹂
まめだちていう。頷うなずきながら、
﹁一杯呑ましておくれな。咽の喉どが渇いて、しようがないんだから。﹂
﹁さあさあ、いまお寺から汲くんで来たお初穂だ、あがんなさい。﹂
掬むすばむとして猶た予めらいぬ。
﹁柄ひし杓ゃくがないな、爺や、お前ン処とこまで一所に行ゆこう。﹂
﹁何が、仏様へお茶を煮てあげるんだけんど、お前様のきれいなお手だ、ようごす、つッこんで呑まっしゃいさ。﹂
俯うつ向むきざま掌たなそこに掬すくいてのみぬ。清涼掬きくすべし、この水の味はわれ心得たり。遊ゆさ山んの折々かの山寺の井戸の水試みたるに、わが家のそれと異ことならずよく似たり。実げによき水ぞ、市まち中なかにはまた類たぐいあらじと亡き母のたまいき。いまこれをはじめならず、われもまたしばしばくらべ見つ。摩耶と二人いま住まえる尼君の庵なる筧の水もその味あじわいこれと異るなし。悪熱のあらむ時三ツの水のいずれをか掬むすばんに、わが心地いかならむ。忘るるばかりのみはてたり。
﹁うんや遠慮さっしゃるな、水だ。ほい、強いるにも当らぬかの。おお、それからいまのさき、私わしが田たん圃ぼから帰りがけに、うつくしい女衆が、二人づれ、丁でっ稚ちが一人、若い衆が三人で、駕か籠ごを舁かいてぞろぞろとやって来おった。や、それが空駕籠じゃったわ。もしもし、清心様とおっしゃる尼様のお寺はどちらへ、と問いくさる。はあ、それならと手を取るように教えてやっけが、お前様用でもないかの。いい加減に遊ばっしゃったら、迷まい児ごにならずに帰けえらっしゃいよ、奥様が待ってござろうに。﹂
と語りもあえず歩み去りぬ。摩耶が身に事なきか。
二
まい茸だけはその形細き珊さん瑚ごの枝に似たり。軸白くして薄うす紅べにの色さしたると、樺かば色いろなると、また黄なると、三ツ五ツはあらむ、芝茸はわれ取って捨てぬ。最も数多く獲たるは紅茸なり。
こは山蔭の土の色鼠に、朽葉黒かりし小おぐ暗らきなかに、まわり一抱かかえもありたらむ榎えのきの株を取巻きて濡色の紅くれないしたたるばかり塵ちりも留めず地つちに敷きて生おいたるなりき。一ツずつそのなかばを取りしに思いがけず真黒なる蛇の小さきが紫の蜘く蛛も追い駈かけて、縦たて横よこに走りたれば、見るからに毒々しく、あまれるは残して留やみぬ。
松の根に踞つくばいて、籠のなかさしのぞく。この茸きのこの数も、誰たがためにか獲たる、あわれ摩耶は市に帰るべし。
山番の爺がいいたるごとく駕籠は来て、われよりさきに庵の枝しお折り戸どにひたと立てられたり。壮わか佼もの居て一人は棒に頤おとがいつき、他は下に居て煙たば草このみつ。内にはうらわかきと、冴えたると、しめやかなる女の声して、摩耶のものいうは聞えざりしが、いかでわれ入らるべき。人に顔見するがもの憂ければこそ、摩耶も予もこの庵には籠こもりたれ。面おもて合すに憚はばかりたれば、ソと物の蔭になりつ。ことさらに隔りたれば窃ぬすみ聴かむよしもあらざれど、渠かれ等ら空駕籠は持て来たり、大方は家よりして迎むかいに来きたりしものならむを、手を空しゅうして帰るべしや。
一同が庵を去らむ時、摩耶もまた去らでやある、もの食わでもわれは餓えまじきを、かかるもの何かせむ。
打うちこぼし投げ払いし籠の底に残りたる、ただ一ツありし初はつ茸たけの、手の触れしあとの錆さびつきて斑まだらに緑ろく晶しょうの色染みしさえあじきなく、手に取りて見つつわれ俯うつ向むきぬ。
顔の色も沈みけむ、日もハヤたそがれたり。濃かりし蒼あお空ぞらも淡くなりぬ。山の端はに白き雲起りて、練ねり衣ぎぬのごとき艶つややかなる月の影さし初そめしが、刷はいたるよう広がりて、墨の色せる巓いただきと連つらなりたり。山はいまだ暮ならず。夕日の余なご波りあるあたり、薄紫の雲も見ゆ。そよとばかり風立つままに、むら薄すすきの穂打うち靡なびきて、肩のあたりに秋ぞ染むなる。さきには汗出でて咽のん喉ど渇くに、爺にもとめて山の井の水飲みたりし、その冷ひややかさおもい出でつ。さる時の我といまの我と、月を隔つる思いあり。青き袷あわせに黒き帯して瘠やせたるわが姿つくづくとしながら寂さみしき山に腰掛けたる、何なに人びともかかる状さまは、やがて皆孤みな児しごになるべき兆きざしなり。
小笹ざわざわと音したれば、ふと頭かしらを擡もたげて見ぬ。
やや光の増し来きたれる半輪の月を背に、黒き姿して薪たきぎをば小脇にかかえ、崖がけよりぬッくと出でて、薄すす原きはらに顕あらわれしは、まためぐりあいたるよ、かの山番の爺なりき。
﹁まだ帰らっしゃらねえの。おお、薄ら寒くなりおった。﹂
と呟つぶやくがごとくにいいて、かかる時、かかる出会の度々なれば、わざとには近寄らで離れたるままに横ぎりて爺は去りたり。
﹁千ちゃん。﹂
﹁え。﹂
予は驚きて顧みかえりぬ。振返れば女居たり。
﹁こんな処に一人で居るの。﹂
といいかけてまず微ほほ笑えみぬ。年と紀しは三みそ十じに近かるべし、色白く妍かおよき女の、目の働き活いき々いきして風とり采なりの侠きゃんなるが、扱しご帯ききりりと裳もすそを深く、凜り々りしげなる扮いで装たちしつ。中ざしキラキラとさし込みつつ、円まる髷まげの艶つややかなる、旧もとわが居たる町に住みて、亡き母上とも往ゆき来きしき。年と紀し少わかくて孀やもめになりしが、摩耶の家に奉公するよし、予もかねて見知りたり。
目を見合せてさしむかいつ。予は何事もなく頷うなずきぬ。
女はじっと予を瞻みまもりしが、急にまた打笑えり。
﹁どうもこれじゃあ密まお通とこをしようという顔じゃあないね。﹂
﹁何をいうんだ。﹂
﹁何をもないもんですよ。千ちゃん! お前まえ様さんは。﹂
いいかけて渠かれはやや真顔になりぬ。
﹁一体お前様まあ、どうしたというんですね、驚いたじゃアありませんか。﹂
﹁何をいうんだ。﹂
﹁あれ、また何をじゃアありませんよ。盗ぬす人びとを捕えて見ればわが児こなりか、内の御ごし新んぞ造さ様まのいい人は、お目に懸かかるとお前様だもの。驚くじゃアありませんか。え、千ちゃん、まあ何でも可いいから、お前様ひとつ何とかいって、内の御新造様を返して下さい。裏うら店だなの媽か々かが飛出したって、お附合五六軒は、おや、とばかりで騒ぐわねえ。千ちゃん、何だってお前様、殿様のお城か、内のお邸やしきかという家の若御新造が、この間の御遊山から、直ぐにどこへいらっしゃったかお帰りがない、お行方が知れないというのじゃアありませんか。
ぱッとしたら国中の騒動になりますわ。お出でい入りが八方に飛出すばかりでも、二千や三千の提ちょ灯うちんは駈かけまわろうというもんです。まあ察しても御覧なさい。
これが下した々じたのものならばさ、片かた膚はだ脱ぬぎの出刃庖丁の向う顧はち巻まきか何かで、阿あ魔ま! とばかりで飛出す訳じゃアあるんだけれど、何しろねえ、御身分が御身分だから、実は大きな声を出すことも出来ないで、旦だん那なさ様まは、蒼あおくなっていらっしゃるんだわ。
今朝のこッたね、不断一いっ八ぱちに茶の湯のお合手にいらっしゃった、山のお前様、尼様の、清心様がね、あの方はね、平いつ時もはお前様、八十にもなっていてさ、山から下げた駄ば穿きでしゃんしゃんと下りていらっしゃるのに、不思議と草わら鞋じば穿きで、饅まん頭じゅ笠うがさか何かで遣やって見えてさ、まあ、こうだわ。
︵御宅の御新造様さんは、私わしン処とこに居ますで案じさっしゃるな、したがな、また旧もとなりにお前の処へは来ないからそう思わっしゃいよ。︶
と好すきなことをいって、草鞋も脱がないで、さっさっ去いっておしまいなすったじゃないか。
さあ騒ぐまいか。あっちこち聞きあわせると、あの尼様はこの四しご五ん日ち前から方々の帰きえ依し者ゃン家とこをずっと廻って、一々、
︵私わしはちっと思い立つことがあって行あん脚ぎゃに出ます。しばらく逢わぬでお暇いと乞まごいじゃ。そして言っておくが、皆の衆決して私わしが留守へ行って、戸をあけることはなりませぬぞ。︶
と、そういっておあるきなすッたそうさね、そして肝心のお邸を、一番あとまわしだろうじゃあないかえ、これも酷ひどいわね。﹂
三
﹁うっちゃっちゃあおかれない、いえ、おかれないどころじゃあない。直ぐお迎いをというので、お前まえ様さん、旦那に伺うとまあどうだろう。
御遊山を遊ばした時のお伴のなかに、内々清あま心で庵らにいらっしゃることを突留めて、知ったものがあって、先せんにもう旦那様に申しあげて、あら立ててはお家の瑕かき瑾んというので、そっとこれまでにお使つかいが何遍も立ったというじゃアありませんか。
御新造様は何といっても平気でお帰り遊ばさないというんだもの。ええ! 飛んでもない。何とおっしゃったって引ひっ張ぱってお連れ申しましょうとさ、私とお仲さんというのが二人で、男衆を連れてお駕籠を持ってさ、えッちらおッちらお山へ来たというもんです。
尋ねあてて、尼あま様さんの家とこへ行って、お頼み申します、とやると、お前様。
︵誰どな方た、︶
とおっしゃって、あの薄暗いなかにさ、胸の処から少し上をお出し遊ばして、真まっ白しろな細いお手の指が五本衝つい立たての縁へかかったのが、はッきり見えたわ、御新造様だあね。
お髪ぐしがちいっと乱れてさ、藤色の袷あわせで、ありゃしかも千ちゃん、この間お出かけになる時に私が後うしろからお懸け申したお召めしだろうじゃアありませんか。凄すごかったわ。おやといって皆みんな後じさりをしましたよ。
驚きましたね、そりゃ旧もとのことをいえば、何だけれど、第一お前様、うちの御新造様とおっしゃる方がさ、頼みます、誰方ということを、この五六年じゃあ、もう忘れておしまい遊ばしただろうと思ったもの。
誰だじゃあございません。さて、あなたは、と開き直っていうことになると、
︵また、迎むかいかい。︶
といって、笑っていらっしゃるというもんです。いえまたも何も、滅相な。
︵皆みんな御苦労ね。だけれど私あまだ帰らないから、かまわないでおくれ。ちっとやすんだらお帰りだといい。お湯ぶうでもあげるんだけれど、それよりか庭のね、筧かけひの水が大層々々おいしいよ。︶
なんて澄すましていらっしゃるんだもの。何だか私たちああんまりな御様子に呆あきれッちまって、ぼんやりしたの、こりゃあまあ魅つままれてでもいないかしらと思った位だわ。
いきなり後うしろからお背なせを推して、お手を引ひっ張ぱってというわけにもゆかないのでね、まあ、御ごあ挨いさ拶つ半分に、お邸はアノ通り、御身分は申すまでもございません。お実さ家とには親御様お両ふた方かたともお達者なり、姑しゅ御うとごと申すはなし、小姑一人にんございますか。旦那様は御存じでもございましょう。そうかといって御気分がお悪いでもなく、何が御不足で、尼になんぞなろうと思し召すのでございますと、お仲さんと二人両方から申しますとね。御新造様が、
︵いいえ、私は尼になんぞなりはしないから。︶
︵へえ、それではまたどう遊ばしてこんな処に、︶
︵ちっと用があって、︶
とおっしゃるから、どういう御用でッて、まあ聞きました。
︵そんなこといわれるのがうるさいからここに居るんだもの。可いいから、お帰り。︶
とこんな御様子なの。だって、それじゃあ困るわね。帰るも帰らないもありゃあしないわ。
じゃあまあそれはたってお聞き申しませんまでも、一体此こ家こにはお一人でございますかって聞くと、
︵二人。︶とこうおっしゃった。
さあ、黙っちゃあいられやしない。
こうこういうわけですから、尼様と御一所ではなかろうし、誰方とお二人でというとね、
︵可愛い児ことさ、︶とお笑いなすった。
うむ、こりゃ仔しさ細いのないこった。華族様の御みだ台いさ様まを世話でお暮し遊ばすという御身分で、考えてみりゃお名もまや様で、夫人というのが奥様のことだといってみれば、何のことはない、大やま倭と文庫の、御台様さね。つまり苦労のない摩まや耶ぶに夫ん人さ様まだから、大方洒しゃ落れに、ちょいと雪せっ山せんのという処をやって、御覧遊ばすのであろう。凝ったお道楽だ。
とまあ思っちゃあ見たものの、千ちゃん、常々の御気象が、そんなんじゃあおあんなさらない……でしょう。
可愛い児とおっしゃるから、何ぞ尼寺でお気に入った、かなりやでもお見付け遊ばしたのかしらなんと思ってさ、うかがって驚いたのは、千ちゃんお前まえ様さんのことじゃあないかね。
︵いつでもうわさをしていたからお前たちも知っておいでだろう。蘭らんや、お前が御存じの。︶
とおっしゃったのが、何と十八になる男だもの、お仲さんが吃びっ驚くりしようじゃあないか。千ちゃん、私も久しく逢わないで、きのうきょうのお前様は知らないから――千ちゃん、――むむ、お妙たえさんの児の千ちゃん、なるほど可愛い児だと実をいえば、はじめは私もそれならばと思ったがね、考えて見ると、お前様、いつまで、九ツや十で居るものか。もう十八だとそう思って驚いたよ。
何の事はない、密まお通とこだね。
いくら思案をしたって御新造様は人の女房さ。そりゃいくら邸の御新造様だって、何だってやっぱり女房だもの。女房がさ、千ちゃん、たとい千ちゃんだって何だって、男と二人で隠れていりゃ、何のことはない、怒っちゃあいけませんよ、やっぱり何さ。
途方もない、乱暴な小こ僧ぞッ児この癖に、失礼な、末恐しい、見下げ果てた、何の生意気なことをいったって私が家とこに今でもある、アノ籐とうで編んだ茶台はどうだい、嬰ねん児ねえが這はってあるいて玩おも弄ちゃにして、チュッチュッ噛かんで吸った歯形がついて残ッてら。叱り倒してと、まあ、怒っちゃあ嫌よ。﹂
四
﹁それが何も、御新造様さえ素直に帰るといって下さりゃ、何でもないことだけれど、どうしても帰らないとおっしゃるんだもの。
お帰り遊ばさないたって、それで済むわけのものじゃあございません。一体どう遊ばす思おぼ召しめしでございます。
︵あの児こと一所に暮そうと思って、︶
とばかりじゃあ、困ります。どんなになさいました処で、千ちゃんと御一所においで遊ばすわけにはまいりません。
︵だから、此こ家こに居るんじゃあないか。︶
その此こ家こは山ン中の尼寺じゃアありませんか。こんな処にあの児と二人おいで遊ばしては、世間で何と申しましょう。
︵何といわれたって可いいんだから、︶
それでは、あなた、旦那様に済みますまい。第一親御様なり、また、
︵いいえ、それだからもう一生人づきあいをしないつもりで居る。私が分ってるから、可いいから、お前たちは帰っておしまい、可いから、分っているのだから、︶
とそんな分らないことがありますか。ね、千ちゃん、いくら私たちが家来だからって、ものの理は理さ、あんまりな御無理だから種いろ々いろ言うと、しまいにゃあただ、
︵だって不いけ可ないから、不可いから、︶
とばかりおっしゃって果はてしがないの。もうこうなりゃどうしたってかまやしない。どんなことをしてなりと、お詫わびはあとですることと、無理やりにも力ずくで、こっちは五人、何の! あんな御新造様、腕ずくならこの蘭一人で沢山だわ。さあというと、屹きっと遊ばして、
︵何をおしだ、お前達、私を何だと思うのだい、︶
とおっしゃるから、はあ、そりゃお邸の御新造様だと、そう申し上げると、
︵女中たちが、そんな乱暴なことをして済みますか。良や人どなら知らぬこと、両ふた親おやにだって、指一本ささしはしない。︶
あれで威勢がおあんなさるから、どうして、屹きっと、おからだがすわると、すくんじまわあね。でもさ、そんな分らないことをおっしゃれば、もう御新造様でも何でもない。
︵他人ならばうっちゃっておいておくれ。︶
とこうでしょう。何てったって、とてもいうことをお肯きき遊ばさないお気なんだから仕ようがない。がそれで世の中が済むのじゃあないんだもの。
じゃあ、旦那様がお迎むかいにお出で遊ばしたら、
︵それでも帰らないよ。︶
無理にも連れようと遊ばしたら、
︵そうすりゃ御身分にかかわるばかりだもの。︶
もうどう遊ばしたというのだろう。それじゃあ、旦那様と千ちゃんと、どちらが大事でございますって、この上のいいようがないから聞いたの。そうするとお前まえ様さん、
︵ええ、旦那様は私が居なくっても可いいけれど、千ちゃんは一所に居てあげないと死んでおしまいだから可かわ哀いそ相うだもの。︶
とこれじゃあもう何にもいうことはありませんわ。ここなの、ここなんだがね、千ちゃん、一体こりゃ、ま、お前さんどうしたというのだね。﹂
女はいいかけてまた予が顔を瞻みまもりぬ。予はほと一呼い吸きついたり。
﹁摩耶さんが知っておいでだよ、私は何にも分らないんだ。﹂
﹁え、分らない。お前さん、まあ、だって御自分のことが御自分に。﹂
予は何とかいうべき。
﹁お前、それが分る位なら、何もこんなにゃなりやしない。﹂
﹁ああれ、またここでもこうだもの。﹂
五
女はまたあらためて、
﹁一体詮じ詰めた処が千ちゃん、御新造様と一所に居てどうしようというのだね。﹂
さることはわれも知らず。
﹁別にどうってことはないんだ。﹂
﹁まあ。﹂
﹁別に、﹂
﹁まあさ、御飯をたいて。﹂
﹁詰つまらないことを。﹂
﹁まあさ、御飯をたいて、食べて、それから、﹂
﹁話をしてるよ。﹂
﹁話をして、それから。﹂
﹁知らない。﹂
﹁まあ、それから。﹂
﹁寝っちまうさ。﹂
﹁串じょ戯うだんじゃあないよ。そしてお前まえ様さん、いつまでそうしているつもりなの。﹂
﹁死ぬまで。﹂
﹁え、死ぬまで。もう大抵じゃあないのね。まあ、そんならそうとして、話は早い方が可いいが、千ちゃん、お聞き。私だって何も彼あす家こへは御譜代というわけじゃあなしさ、早い話が、お前さんの母おっ様かさんとも私あ知合だったし、そりゃ内の旦那より、お前さんの方が私ゃまったくの所、可愛いよ。可いかね。
ところでいくらお前さんが可愛い顔をしてるたって、情い婦ろを拵こしらえたって、何もこの年と紀しをしてものの道理がさ、私がやっかむにも当らずか、打明けた所、お前さん、御新造様と出来たのかね。え、千ちゃん、出来たのならそのつもりさ。お楽たのしみ! てなことで引ひき退さがろうじゃあないか。不思議で堪たまらないから聞くんだが、どうだねえ、出来たわけかね。﹂
﹁何がさ。﹂
﹁何がじゃあないよ、お前さん出来たのなら出来たで可いじゃあないか、いっておしまいよ。﹂
﹁だって、出来たって分らないもの。﹂
﹁むむ、どうもこれじゃあ拵えようという柄がらじゃあないのね。いえね、何も忠義だてをするんじゃないが、御新造様があんまりだからツイ私だってむっとしたわね。行ゆきがかりだもの、お前さん、この様子じゃあ皆みんなこりゃアノ児このせいだ。小こど児もの癖にいきすぎな、いつのまにませたろう、取っつかまえてあやまらせてやろう。私ならぐうの音ねも出させやしないと、まあ、そう思ったもんだから、ちっとも言分は立たないし、跋ばつも悪しで、あっちゃアお仲さんにまかしておいて、お前さんを探して来たんだがね。
逢って見ると、どうして、やっぱり千ちゃんだ、だってこの様子で密まお通とこも何もあったもんじゃあないやね。何だかちっとも分らないが、さて、内の御新造様と、お前様とはどうしたというのだね。﹂
知らず、これをもまた何とかいわむ。
﹁摩耶さんは、何とおいいだったえ。﹂
﹁御新造さんは、なかよしの朋とも達だちだって。﹂
かくてこそ。
﹁まったくそうなんだ。﹂
渠かれは肯がえんする色あらざりき。
﹁だってさ、何だってまた、たかがなかの可いお朋達ぐらいで、お前様、五年ぶりで逢ったって、六年ぶりで逢ったって、顔を見ると気が遠くなって、気絶するなんて、人がありますか。千ちゃん、何だってそういうじゃアありませんか。御新造様のお話しでは、このあいだ尼寺でお前さんとお逢いなすった時、お前さんは気ひき絶つけッちまったというじゃアありませんか。それでさ、御新造様は、あの児がそんなに思ってくれるんだもの、どうして置いて行ゆかれるものか、なんて好すきなことをおっしやったがね、どうしたというのだね。﹂
げにさることもありしよし、あとにてわれ摩耶に聞きて知りぬ。
﹁だって、何も自分じゃあ気がつかなかったんだから、どういうわけだか知りやしないよ。﹂
﹁知らないたって、どうもおかしいじゃアありませんか。﹂
﹁摩耶さんに聞くさ。﹂
﹁御新造様に聞きゃ、やっぱり千ちゃんにお聞き、とそうおっしゃるんだもの。何が何だか私たちにゃあちっとも訳がわかりやしない。﹂
しかり、さることのくわしくは、世に尼君ならで知りたまわじ。
﹁お前、私達だって、口じゃあ分るようにいえないよ。皆みんな尼あま様さんが御存じだから、聞きたきゃあの方に聞くが可いんだ。﹂
﹁そらそら、その尼様だね、その尼様が全体分らないんだよ。
名僧の、智識の、僧正の、何のッても、今時の御出家に、女でこそあれ、山の清心さんくらいの方はありやしない。
もう八十にもなっておいでだのに、法華経二十八巻を立たて読よみに遊ばして、お茶一ツあがらない御修行だと、他宗の人でも、何でも、あの尼様といやア拝むのさ。
それにどうだろう。お互の情こころを通じあって、恋の橋はし渡わたしをおしじゃあないか。何の事はない、こりゃ万事人の悪い髪かみ結ゆいの役だあね。おまけにお前様、あの薄暗い尼寺を若いもの同士にあけ渡して、御機嫌よう、か何かで、ふいとどこかへ遁にげた日になって見りゃ、破はか戒いむ無ざ慙んというのだね。乱暴じゃあないか。千ちゃん、尼さんだって七十八十まで行い澄すましていながら、お前さんのために、ありゃまあどうしたというのだろう。何か、千ちゃん処とこは尼さんのお主しゅう筋でもあるのかい。そうでなきゃ分らないわ。どんな因縁だね。﹂
と心籠こめて問う状さまなり。尼君のためなれば、われ少しく語るべし。
﹁お前も知っておいでだね、母おっ上かさんは身を投げてお亡くなんなすったのを。﹂
﹁ああ。﹂
﹁ありゃね、尼様が殺したんだ。﹂
﹁何ですと。﹂
女は驚きて目をりぬ。
六
﹁いいえ、手を懸けたというんじゃあない。私はまだ九ここ歳のつ時分のことだから、どんなだか、くわしい訳は知らないけれど、母おっ様かさんは、お前、何か心配なことがあって、それで世の中が嫌におなりで、くよくよしていらっしゃったんだが、名高い尼あま様さんだから、話をしたら、慰めて下さるだろうって、私の手を引いて、しかも、冬の事だね。
ちらちら雪の降るなかを山へのぼって、尼寺をおたずねなすッて、炉ろの中へ何だか書いたり、消したりなぞして、しんみり話をしておいでだったが、やがてね、二時間ばかり経たってお帰りだった。ちょうど晩方で、ぴゅうぴゅう風が吹いてたんだ。
尼様が上あが框りかまちまで送って来て、分れて出ると、戸を閉めたの。少し行ゆき懸かかると、内で、
︵おお、寒さむ、寒。︶と不作法な大きな声で、アノ尼様がいったのが聞えると、母様が立たち停どまって、なぜだか顔の色をおかえなすったのを、私は小こど児もご心ころにも覚えている。それから、しおしおとして山をお下りなすった時は、もうとっぷり暮れて、雪が……霙みぞれになったろう。
麓ふもとの川の橋へかかると、鼠色の水が一杯で、ひだをうって大おお蜿うねりに蜒うねっちゃあ、どうどうッて聞えてさ。真まっ黒くろな線すじのようになって、横ぶりにびしゃびしゃと頬ほっ辺ぺたを打っちゃあ霙が消えるんだ。一山やま々々になってる柳の枯れたのが、渦を巻いて、それで森しんとして、あかり一ツ見えなかったんだ。母様が、
︵尼になっても、やっぱり寒いんだもの。︶
と独ひと言りごとのようにおっしゃったが、それっきりどこかへいらっしゃったの。私は目が眩くらんじまって、ちっとも知らなかった。
ええ! それで、もうそれっきりお顔が見られずじまい。年も月もうろ覚え。その癖、嫁入をおしの時はちゃんと知ってるけれど、はじめて逢い出した時は覚えちゃあいないが、何でも摩耶さんとはその年から知合ったんだとそう思う。
私はね、母様がお亡くなんなすったって、それを承知は出来ないんだ。
そりゃものも分ったし、お亡なくなんなすったことは知ってるが、どうしてもあきらめられない。
何の詰つまらない、学校へ行ったって、人とつきあったって、母様が活いきてお帰りじゃあなし、何にするものか。
トそう思うほど、お顔が見たくッて、堪たまらないから、どうしましょうどうしましょう、どうかしておくれな。どうでもして下さいなッて、摩耶さんが嫁入をして、逢えなくなってからは、なおの事、行っちゃあ尼あま様さんを強ね請だったんだ。私あ、だだを捏こねたんだ。
見ても、何でも分ったような、すべて承知をしているような、何でも出来るような、神じん通ずうでもあるような、尼様だもの。どうにかしてくれないことはなかろうと思って、そのかわり、自分の思ってることは皆みんな打うちあけて、いって、そうしちゃあ目を瞑ねむって尼様に暴れたんだね。
﹁そういうわけさ。﹂
他ほかに理窟もなんにもない。この間も、尼さまン処とこへ行って、例のをやってる時に、すっと入っておいでなのが、摩耶さんだった。
私は何とも知らなかったけれど、気が着いたら、尼様が、頭を撫なでて、
︵千坊や、これで可いいのじゃ。米も塩も納屋にあるから、出してたべさしてもらわっしゃいよ。私わしはちょっと町まで托たく鉢はつに出懸けます。大人しくして留守をするのじゃぞ。︶
とそうおっしゃったきり、お前、草わら鞋じを穿はいてお出でか懸けで、戻っておいでのようすもないもの。
摩耶さんは一所に居ておくれだし、私はまた摩耶さんと一所に居りゃ、母様のこと、どうにか堪忍が出来るのだから、もう何もかもうっちゃっちまったんさ。
お前、私にだって、理窟は分りやしない。摩耶さんも一所に居りゃ、何にも食べたくも何ともない、とそうおいいだもの。気が合ったんだから、なかがいいお朋とも達だちだろうよ。﹂
かくいいし間まにいろいろのことこそ思いたれ。胸痛くなりたれば俯うつ向むきぬ。女が傍かたわらに在るも予はうるさくなりたり。
﹁だから、もう他ほかに何ともいいようは無いのだから、あれがああだから済まないの、義理だの、済まないじゃあないかなんて、もう聞いちゃあいけない。人とさ、ものをいってるのがうるさいから、それだから、こうしてるんだから、どうでも可いから、もう帰っておくれな。摩耶さんが帰るとおいいなら連れてお帰り。大方、お前たちがいうことはお肯ききじゃあるまいよ。﹂
予はわが襟を掻かき合せぬ。さきより踞つくばいたる頭かしら次第に垂れて、芝生に片手つかんずまで、打沈みたりし女の、この時ようよう顔をばあげ、いま更にまた瞳を定めて、他のこと思いいる、わが顔、瞻みまもるよと覚えしが、しめやかなるものいいしたり。
﹁可ようござんす。千ちゃん、私たちの心とは何かまるで変ってるようで、お言葉は腑ふに落ちないけれど、さっきもあんなにゃア言ったものの、いまここへ、尼様がおいで遊ばせば、やっぱりつむりが下るんです。尼様は尊く思いますから、何でも分った仔しさ細いがあって、あの方の遊ばす事だ。まあ、あとでどうなろうと、世間の人がどうであろうと、こんな処はとても私たちの出る幕じゃあない。尼様のお計らいだ、どうにか形かたのつくことでござんしょうと、そうまあねえ、千ちゃん、そう思って帰ります。
何だか私もぼんやりしたようで、気が変になったようで、分らないけれど、どうもこうした御様子じゃあ、千ちゃん、お前まえ様さんと、御ごし新んぞ造さ様んと一ツお床でおよったからって、別に仔細はないように、ま私は思います。見りゃお前様もお浮きでなし、あっちの事が気にかかりますから、それじゃあお分れといたしましょう。あのね、用があったら、そッと私ンとこまでおっしゃいよ。﹂
とばかりに渠かれは立ちあがりぬ。予が見送ると目を見合せ、
﹁小憎らしいねえ。﹂
と小戻りして、顔を斜ななめにすかしけるが、
﹁どれ、あのくらいな御新造様を迷わしたは、どんな顔だ、よく見よう。﹂
といいかけて莞にっ爾ことしつ。つと行ゆく、むかいに跫あし音おとして、一行四人の人影見ゆ。すかせば空駕籠釣らせたり。渠等は空しく帰るにこそ。摩耶われを見棄てざりしと、いそいそと立ったりし、肩に手をかけ、下に居おらせて、女は前に立たち塞ふさがりぬ。やがて近づく渠等の眼より、うたてきわれをば庇かばいしなりけり。
熊笹のびて、薄すすきの穂、影さすばかり生おいたれば、ここに人ありと知らざる状さまにて、道を折れ、坂にかかり、松の葉のこぼるるあたり、目の下近く過よぎりゆく。女はその後を追いたりしを、忍びやかにぞ見たりける。駕籠のなかにものこそありけれ。設もうけの蒲ふと団ん敷重ねしに、摩耶はあらで、その藤色の小袖のみ薫かおり床しく乗せられたり。記かた念みにとて送りけむ。家いえ土づ産とにしたるなるべし。その小袖の上に菊の枝置き添えつ。黒き人影あとさきに、駕籠ゆらゆらと釣持ちたる、可あた惜らその露をこぼさずや、大おお輪りんの菊の雪なすに、月の光照り添いて、山路に白くちらちらと、見る目遥はるかに下り行ゆきぬ。
見送り果てず引返して、駈かけ戻りて枝しお折り戸ど入いりたる、庵のなかは暗かりき。
﹁唯ただ今いま!﹂
と勢いきおいよく框かまちに踏懸け呼びたるに、答いらえはなく、衣きぬの気けは勢いして、白き手をつき、肩のあたり、衣えも紋んのあたり、乳ちのあたり、衝つい立たての蔭に、つと立ちて、烏うば羽た玉まの髪のひまに、微ほほ笑えみむかえし摩耶が顔。筧かけひの音して、叢くさむらに、虫鳴く一ツ聞えしが、われは思わず身の毛よだちぬ。
この虫の声、筧の音、框に片足かけたる、その時、衝立の蔭に人見えたる、われはかつてかかる時、かかることに出いで会あいぬ。母上か、摩耶なりしか、われ覚えておらず。夢なりしか、知らず、前さきの世のことなりけむ。
明治三十︵一八九七︶年七月