上
席上の各おの々おの方がた、今や予が物語すべき順番の来りしまでに、諸君が語かたり給いし種くさ々ぐさの怪談は、いずれも驚きょ魂うこ奪んだ魄っぱくの価あた値いなきにあらず。しかれども敢あえて、眼の唯ただ一ひと個つなるもの、首の長さの六尺なるもの、鼻の高さの八寸なるもの等、不具的仮装的の怪物を待たずとも、ここに最も簡単にして、しかも能よく一いっ見けん直ちに慄りつ然ぜんたらしむるに足る、いと凄まじき物ぶっ躰たいあり。他なし、深しん更こう人定まりて天に声無き時、道に如何なるか一人の女性に行ゆき逢あいたる機会是これなり。知らず、この場合には婦人もまた男子に対して慄然たるか。恐らくは無かるべし、譬たとい之これありとするも、そは唯腕力の微弱なるより、一種の害迫を加えられんかを恐るるに因よるのみ。 しかるに男子はこれと異なり、我輩の中に最も腕力無き者といえども、なお比較上婦人より力の優れるを、自ら信ずるにも関かかわらず、幽ゆう寂じゃくの境きょうに於て突然婦人に会えば、一種謂いうべからざる陰惨の鬼気を感じて、勝たえざるものあるは何ぞや。 坐中の貴婦人方には礼を失する罪を免まぬかれざれども、予をして忌きた憚んなく謂いわしめば、元来、淑徳、貞操、温良、憐愛、仁じん恕じょ等あらゆる真善美の文字を以て彩さい色しきすべき女性と謂うなる曲線が、その実陰険の忌いまわしき影を有するが故に、夜やは半ん宇宙を横領する悪魔の手に導かれて、自おのずから外形に露あらわるるは、あたかも地中に潜ひそめる燐りん素その、雨に逢いて出現するがごときものなればなり。 憤いきどおることなかれ。恥ずることを止めよ。社会一般の者ことごとく強盗ならんには、誰か一人の罪を責むべき。陰険の気は、けだし婦人の通つう有ゆう性せいにして、なおかつ一種の元げん素そなり。 しかして夜間は婦人がその特性を発揮すべき時節なれば、諸君もまた三さん更こう無ぶじ人んの境きょう人目を憚はばからざる一個の婦人が、我より外ほかに人なしと思いつつある場合に不ゆく意りなく婦人に邂かい逅こうせんか、その感覚果はたしていかん。予は不幸にしてその経験を有せり。 予は去いにし年の冬十二月、加賀国随一の幽ゆう寂じゃく界、黒くろ壁かべという処にて、夜半一箇の婦人に出会いし時、実に名状すべからざる凄すご気さを感ぜしなり。黒壁は金沢市の郊外一里程の所にあり、魔境を以て国中に鳴る。けだし野田山の奥、深林幽暗の地たるに因よれり。ここに摩まり利し支て天んの威霊を安置す。 信仰の行者を除くの外、昼も人跡罕まれなれば、夜に入りては殆ほとんど近ちかづくものもあらざるなり。その物凄き夜を択えらびて予は故ことさらに黒壁に赴けり。その何のためにせしやを知らず、血気に任せて行ふるまいたりし事どもは、今に到りて自みずからその意を了りょうするに困くるしむなり。昼間黒壁に詣いたりしことは両三回なるが故に、地理は暗そらんじ得たり。提灯の火影に照らして、闇くらき夜道をものともせず、峻しゅ坂んはん、嶮けん路ろを冒おかして、目的の地に達せし頃は、午後十一時を過ぎつらん。 摩利支天の祠に詣もうずるに先立ちて、その太さ三みか拱かえにも余りぬべき一本杉の前を過ぐる時、ふと今の世にも﹁丑うしの時とき詣まいり﹂なるものありて、怨ある男を咒のろう嫉妬深き婦人等の、此処に詣で来きて、この杉に釘を打つよし、人に聞きしを懐おも出いいでたり。 げに、さることもありぬべしと、提灯を差さし翳かざして、ぐるりと杉を一周せしに、果せるかな、あたかも弾丸の雨注せし戦場の樹こだ立ちの如き、釘を抜取りし傷痕ありて、地上より三四尺、婦人の手の届かんあたりまでは、蜂の巣を見るが如し。唯ただ単に迷信のみにて、実際成なり立たたざる咒のろ詛いにもせよ、かかる罪悪を造る女心の浅ましく、はたまた咒わるる男も憐むべしと、見るから不快の念に堪えず直ちに他方に転ぜんとせし視線は、端はし無なくも幹の中央に貼はり附つけたる一片の紙に注げり。 と見れば紙上に文字ありて認したためられたるものの如し。 予は熟視せり。茂れる木の葉に雨を凌げば、墨の色さえ鮮明に、 ﹁巳一の二年三、巳四の五月六、巳七の八日九、巳十十の一十刻二、出十三生十四。二十五十十六一十七歳十八の十九男二十子廿一﹂と二十一文字を記せり。 第一の﹁巳﹂より﹁男﹂まで、字の数二十に一本宛ずつ、見るも凄まじき五寸釘を打込みて、僅わずかに﹁子﹂の一文字を余あませるのみ。 案ずるに三七二十一日の立りゅ願うがんの二十日の夜は昨夜に過ぎて今夜しもこの咒のろ咀いぬ主しが満願の夜にあらざるなきか。予は氷を以て五体を撫でまわさるるが如く感せり。﹁巳の年巳の月巳の日巳の刻生﹂と口中に復誦するに及びて、村沢浅次郎の名は忽たちまち脳裡に浮びぬ。 実に浅次郎は当年二十一歳にして巳の年月揃いたる生なり。或あるいは午うまに、或は牛に、此こん般はんの者も多かるべし。しかれども予が嘗かつて聞きき知しれる渠かれが干かん支しの爾しかく巳を重ねたるを奇異とせる記憶は、咄とっ嗟さに浅次郎の名を呼よび起おこせり。しかも浅次郎はその身より十ばかりも年とし嵩かさなる艶婦に契ちぎりを籠こめしが、ほど経て余りにその妬ねたみ深きが厭いとわしく、否寧むしろその非常なる執心の恐ろしさに、おぞ毛けを振ふるいて、当時予が家に潜めるをや。﹁正に渠なり﹂と予は断定しつ。文化、文政、天保間の伝奇小説に応用されたる、丑の時詣なんど謂えるものの実際功を奏すべしとは、決して予の信ぜざるところなるも、この惨さん怛たんたる光景は浅次郎の身に取りて、喜ぶべきことにはあらずと思いき。 浅次郎は美少年なりき。婦人に対しては才子なりき。富豪の家の次男にて艶えん冶やむ無ちょ腸うの若旦那なりき。 予は渠を憎まず、却かえりてその優柔なるを憐あわれみぬ。 されば渠が巨きょ多たの金銭を浪費して、父兄に義絶せられし後、今の情婦某なにがし年と紀し三十、名を艶つやと謂うなる、豪商の寡婦に思われて、その家に入いり浸ひたり、不義の快楽を貪りしが、一ひと月つきこそ可よけれ、二月こそ可けれ、三月四月に及びては、精神
騰もうとうとして常に酔よえるが如く、身から躰だも太いたく衰弱しつ、元気次第に消耗せり。
こは火の如き婦人の熱情のために心身両ふたつながら溶解し去らるるならんと、ようやく渠を恐るる気色を、早く暁さとりたる大年増は、我子ともすべき美少年の、緑りょ陰くいん深き所を厭いといて、他に寒紅梅一枝の春をや探るならんと邪推なし、瞋しん恚いを燃す胸の炎は一段の熱を加えて、鉄火五躰を
るにぞ、美少年は最早数分時も得え堪たえずなりて、辛くもその家を遁走したりけるが家に帰らんも勘当の身なり、且かつは婦人に捜さが出しいだされんことを慮おもんぱかりて、遂に予を便たよりしなり。予は快く匿かくまいつ。
しかるに美少年はなお心を安やすんせずして言いぬ。
﹁彼かの婦人は一種の魔法づかいともいうべき者なり。いつぞや召使の婢が金子を掠かすめて出奔せしに、お艶は争いかで遁のがすべきとて、直ちに足あし留どめの法といえるを修したりき、それかあらぬか件の婢は、脱走せし翌日より遽にわかに足の疾やまい起りて、一ちょ寸っとの歩行もなり難く、間近の家に潜みけるを直ちに引戻せしことを目撃したりき。その他咒詛、禁きん厭えん等、苟いやしくも幽ゆう冥めいの力を仮かりて為すべきを知らざるはなし。
さるからに口くぜ説つの際も常に予を戒めて、ここな性悪者め、他あだし女おな子ごに見替えて酷むごくも我を棄つることあらば呪のろ殺いころしてくれんずと、凄まじかりし顔色は今もなお眼まなこに在り。﹂
と繰返しては歎息しつ。予は万々然さることのあるべからざる理をもて説諭すれども、渠かれは常に戦せん々せん兢きょ々うきょうとして楽たのしまざりしを、密ひそかに持もて余あませしが、今眼まの前あたり一本杉の五寸釘を見るに及びて予は思おもい半なかばに過ぎたり。
上の二
有かく恁て予は憐むべき美少年の為に、咒のろ詛いの釘を抜ぬき棄すてなんと試みしに、執しゅ念うねき鉄槌の一打は到底指の力の及ぶ所にあらざりき。
洵まことに八才の龍女がその功力を以て成仏せしというなる、法華経の何の巻かを、誦ずんじては抜き、誦じては抜くにあらざれば、得て抜くべからざるものをや。
誰にもあれ人無き処にて、他に見せまじき所業を為せばその事の善悪に関わらず、自から良心の咎むるものなり。
予も何となく後うし顧ろぐらき心地して、人もや見んと危あやぶみつつ今一息と踏ふん張ばる機会に、提灯の火を揺ゆり消けしたり。黒こく白びゃくも分かぬ闇夜となりぬ。予は茫然として自失したりき。時に遠く一点の火あか光りを認めつ。
良やや有りて予はその燈影なるを確たしかめたり。軈やがて視線の及ぶべき距離に近ちかづきぬ。
予が曩さきに諸君に向いて、凄まじきものの経験を有せりと謂いしは是ここなり。
予は謂いえらく、偶然人の秘密を見るは可よし。然しかれども秘密を行う者をして、人目を憚る行ふるまいを、見られたりと心着かしめんは妙ならず。ために由よし無き怨うらみを負いて、迷惑することもありぬべしと、四辺を見廻わして、身を隠すべき所を覓もとめしに、この辺には屡しばしば見る、山腹を横に穿うがちたる洞穴を見出したり。
要こそあれと身を翻して、早くも洞中に潜むと与ともに、燈ともしびの主は間近に来りぬ。一個の婦人なり。予は燈影を見し始はじめより、今こよ夜い満願に当るべき咒詛主の、驚す破わや来ると思いしなりき。
霜そう威いの凜りん冽れつたる冬の夜に、見る目も寒く水を浴びしと覚おぼしくて、真白の単ひと衣えは濡紙を貼りたる如く、よれよれに手足に絡まといて、全身の肉附は顕あら然わに透きて見えぬ。霑うるおいたる緑の黒髪は颯さっと乱れて、背と胸とに振分けたり。想うに、谷間を流るる一ひと条すじの小川は、此処に詣ずる行者輩の身を浄きよむる処なれば、婦人も彼あす処こにこそ垢こ離りを取れりしならめ。
と見る間に婦人は一本杉の下に立寄りたり。
ここに於て予がその婦人を目して誰なりとせしかは、予が言を待たずして、諸君は疾とうに推し給わむ。
予は洞中に声を呑みて、その為せんようを窺うかがいたり。渠は然りとも知らざれば、金燈籠に類したる手提の燈火を傍に差置き、足を爪立てて天を仰ぎ、腰を屈かがめて地に伏し、合掌しつ、礼拝しつ、頭を木の幹に打当つるなど、今や天地は己が独有に皈かえせる時なるを信じて、他に我を見る一双の眼あるを知らざる者にあらざるよりは、到底裏うら恥はずかしく、為しがたかるべき、奇異なる挙ふる動まいを恣ほしいままにしたりとせよ。
最後に婦人は口中より一本の釘を吐はき出して、これを彼二十一歳の男子と記したる紙片に推おし当あて、鉄槌をもて丁ちょ々うちょうと打ちたりけり。
時に万ばん籟らい寂せきとして、地に虫の這う音も無く、天は今にも降ふらせんずる、霙みぞれか、雪か、霰あられか、雨かを、雲の袂たもとに蔵しつつ微音をだに語らざる、その静しずかさに睡りたりし耳元に、﹁カチン﹂と響く鉄槌の音は、鼓膜を劈つんざきて予が腸を貫けり。
続きて打込む丁々は、滴たら々たら冷かなる汗を誘いて、予は自から支えかぬるまでに戦慄せり。
剰あまつさえ陰々として、裳もすそは暗く、腰より上の白き婦人が、長たけなる髪を振ふり乱みだして彳たたずめる、その姿の凄じさに、予は寧ろ幽霊の与くみ易しやすさを感じてき。
釘打つ音の終ると
く、婦人はよろよろと身を退すさりて、束ねしものの崩るる如く、地上に
と膝を敷きぬ。
予をして謬あやまたざらしめば、首尾好く願がんの満ちたるより、二十日以来張はり詰つめし気の一時に弛ゆるみたるにやあらん。良ややありて渠かれの身を起し、旧もと来し方に皈かえるを見るに、その来りし時に似もやらで、太く足あし許もとの
きたりき。
く、婦人はよろよろと身を退すさりて、束ねしものの崩るる如く、地上にと膝を敷きぬ。
予をして謬あやまたざらしめば、首尾好く願がんの満ちたるより、二十日以来張はり詰つめし気の一時に弛ゆるみたるにやあらん。良ややありて渠かれの身を起し、旧もと来し方に皈かえるを見るに、その来りし時に似もやらで、太く足あし許もとのきたりき。