一
伝へ聞く……文ぶん政せい初年の事である。将軍家の栄えよ耀う其その極きょくに達して、武家の代よは、将まさに一転機を劃かくせんとした時期だと言ふ。
京都に於て、当時第一の名門であつた、比ひの野だい大なご納んや言すは資るき治ょ卿う︵仮︶の御みた館ちの内に、一ある日ひ偶ふと人じん妖ように斉ひとしい奇怪なる事が起つた。
其その年、霜しも月つき十日は、予かねて深く思おぼ召しめし立つ事があつて、大納言卿、私わたくしならぬ祈願のため、御館の密室に籠こもつて、護ご摩まの法を修しゅせられた、其の結けち願がんの日であつた。冬の日は分けて短いが、まだ雪ぼん洞ぼりの入らない、日ひく暮れが方たと云ふのに、滞とどこおりなく式が果てた。多しば日らくの精しょ進うじ潔んけ斎っさいである。世話に云ふ精しょ進うじ落んおちで、其その辺へんは人情に変りはない。久しぶりにて御休息のため、お奥に於て、厚き心ここ構ろがまえの夕ゆう餉がれいの支度が出来た。
其そ処こで、御ごれ簾んち中ゅうが、奥へ御おん入いりある資治卿を迎むかえのため、南みな御みご殿てんの入口までお立たち出いでに成る。御おん前まえを間あわい三間げんばかりを隔へだつて其の御おさ先きば払らいとして、袿うちぎ、紅くれないの袴はかまで、裾すそを長く曳ひいて、静しず々しずと唯ただ一人、折おりから菊、朱もみ葉じの長なが廊ろう下かを渡つて来たのは藤ふじの局つぼねであつた。
此この局は、聞えた美女で、年と紀しが丁ちょうど三十三、比ひ野のの御簾中と同年であつた。半月ばかり、身にいたはりがあつて、勤つとめを引いて引ひき籠こもつて居たのが、此の日修しゅ法ほうほどき、満願の御おふ二たか方たの心ここ祝ろいわいの座に列するため、久しぶりで髪かみ容かたちを整へたのである。畳たた廊みろ下うかに影がさして、艶えん麗れいに、然しかも軟なよ々なよと、姿は黒髪とともに撓しなつて見える。
背うし後ろに……たとへば白しら菊ぎくと称となふる御み厨ず子しの裡うちから、天てん女にょの抜ぬけ出いでたありさまなのは、貴あてに気高い御簾中である。
作者は、委くわしく知らないが、此これは事実ださうである。他たに女めの童わらわの影もない。比野卿の御みた館ちの裡うちに、此の時卿を迎ふるのは、唯ただ此の方かたたちのみであつた。
また、修法の間まから、脇わき廊ろう下かを此こな方たへ参らるゝ資治卿の方は、佩はか刀せを持つ扈こし従ょうもなしに、唯ただ一人なのである。御ごか家ふ風うか質素か知らない。此の頃の恁こうした場合の、江戸の将軍家――までもない、諸だい侯みょうの大奥と表おもての容よう体だいに比較して見るが可よい。
で、藤の局つぼねの手で、隔てのお襖ふすまをスツと開あける。……其そ処こで、卿と御ごれ簾んち中ゅうが、一いっ所しょにお奥へと云ふ寸法であつた。
傍かたわらとも云ふまい。片あかりして、冷つめたく薄暗い、其の襖ふす際まぎわから、氷のやうな抜ぬき刀みを提げて、ぬつと出た、身の丈たけ抜群な男がある。唯と、間なか二三尺じゃく隔てたばかりで、ハタと藤の局と面おもてを合せた。
局が、其の時、はつと袖そで屏びょ風うぶして、間なかを遮さえぎると斉ひとしく、御簾中の姿は、すつと背うし後ろむ向きに成つた――丈たけなす黒髪が、緋ひの裳もすそに揺ゆらいだが、幽かすかに、雪よりも白き御おん横よこ顔がおの気高さが、振ふり向むかれたと思ふと、月影に虹にじの影の薄れ行く趣おもむきに、廊下を衝つつと引ひき返かえさる。
﹁一ひとまづ。﹂
と、局が声を掛けて、腰をなよやかに、片手を膝ひざに垂れた時、早はや其の襖際に気けは勢いした資やす治はる卿の跫あし音おとの遠ざかるのが、静しずかに聞えて、もとの脇わき廊ろう下かの其そな方たに、厳おごそかな衣いか冠んそ束くた帯いの姿が――其の頃の御みた館ちの状さまも偲しのばれる――襖ふすまの羽は目めから、黄きぎ菊くの薫かおりともろともに漏もれ透いた。
藤の局は騒がなかつた。
﹁誰たれぢや、何ものぢや。﹂
﹁うゝ。﹂
と呻うめくやうに言つて、ぶる〳〵と、ひきつるが如く首を掉ふる。渠かれは、四十ばかりの武さむ士らいで、黒の紋もん着つき、袴はかま、足たび袋はだ跣しで居た。鬢びん乱れ、髻もとどりはじけ、薄うす痘あば痕たの顔がん色しょくが真まっ蒼さおで、両りょ眼うがんが血走つて赤い。酒気は帯びない。宛さな如がら、狂人、乱心のものと覚えたが、いまの気高い姿にも、慌あわてゝあとへ退ひかうとしないで、ひよろりとしながら前へ出る時、垂たら々たらと血の滴したたるばかり抜ばっ刀とうの冴さえが、脈みゃくを打つてぎらりとして、腕はだらりと垂れつつも、切きっ尖さきが、じり〳〵と上へ反そつた。
局つぼねは、猶ため予らはず、肩をすれ違ふばかり、ひた〳〵と寄より添そつて、
﹁其そな方た……此こち方らへ。﹂
ひそみもやらぬ黛まゆずみを、きよろりと視みながら、乱髪抜刀の武さむ士らいも向きかはつた。
其それをば少しづゝ、出口へ誘ふやうに、局は静しず々しずと紅くれないの袴を廊下に引く。
勿論、兇きょ器うきは離さない。上うわの空そらの足が躍おどつて、ともすれば局の袴に躓つまずかうとする状さまは、燃もえ立たつ躑つつ躅じの花の裡うちに、鼬いたちが狂ふやうである。
﹁関東の武家のやうに見受けますが、何どうなさつた。――此こ処こは、まことに恐おそれ多い御ごば場し所ょ。……いはれなう、其そな方たたちの来る処ところではないほどに、よう気を鎮しずめて、心を落着けて、可よいかえ。咎とがも被きせまい、罪にもせまい。妾わらわが心で見みの免がさうから、可よいかえ、柔おと順なしく御殿を出でや。あれを左へ突つき当あたつて、ずツと右へ廻つてお庭に出でや。お裏門の錠はまだ下りては居いぬ。可よいかえ。﹂
﹁うゝ。﹂
﹁分つたな。﹂
﹁うーむ。﹂
雖けれ然ども、局つぼねが立たち停どまると、刀とともに奥の方へ突つっ返かえらうとしたから、其そ処こで、袿うちぎの袖そでを掛けて、曲くせものの手を取つた。それが刀を持たぬ方の手なのである。荒あらき風に当るまい、手たお弱や女めの上じょの此の振ふる舞まいは讃歎に値する。
さて手を取つて、其のまゝなやし〳〵、お表出入口の方へ、廊下の正面を右に取つて、一ひと曲まがり曲つて出ると、杉すぎ戸とが開あいて居て、畳たたみの真中に火ひお桶けがある。
其そ処こには、踏んで下りる程の段はないが、一段低く成つて居た。ために下りるのに、逆上した曲ものの手を取つた局は、渠かれを抱くばかりにしたのである。抱くばかりにしたのだが、余よ所そ目めには手て負おへる鷲わしに、丹たん頂ちょうの鶴つるが掻かい掴つかまれたとも何ともたとふべき風ふぜ情いではなかつた。
折おり悪あしく一人の宿と直の士い、番ばん士しの影も見えぬ。警護の有あり余あまつた御おや館かたではない、分けて黄たそ昏がれの、それぞれに立たち違ちがつたものと見える。欄らん間まから、薄うすもみぢを照てらす日影が映さして、大おおきな番ばん火ひお桶けには、火も消えかゝつて、灰ばかり霜しもを結んで侘わびしかつた。
局が、自分先まづ座に直なおつて、
﹁とにかく、落着いて下に居いや。﹂
曲くせものは、仁にお王うだ立ちに成つて、じろ〳〵と瞰みお下ろした。しかし足あし許もとはふら〳〵して居る。
﹁寒いな、さ、手をかざしや。﹂
と、美しく艶えんなお局つぼねが、白く嫋しなやかな手で、炭すびつを取つて引寄せた。
﹁うゝ、うゝ。﹂
とばかりだが、それでも、どつかと其そ処こに坐つた。
﹁其そ方ちは煙たば草こを持たぬかえ。﹂
すると、此の乱心ものは、慌あわただしさうに、懐中を開あけ、袂たもとを探した。それでも鞘さやへは納めないで、大だん刀びらを、ズバツと畳たたみに突つっ刺さしたのである。
兇きょ器うきが手を離るゝのを視みて、局は渠かれが煙たば草こい入れを探す隙すきに、そと身を起して、飜ひら然りと一段、天井の雲に紛まぎるゝ如く、廊下に袴はかまの裙すそが捌さばけたと思ふと、武さむ士らいは武むしや振ぶりつくやうに追おい縋すがつた。
﹁ほ、ほ、ほ。﹂
と、局は、もの優しく微ほほ笑えんで、また先の如く手を取つて、今度は横よこ斜はす違かいに、ほの暗い板いた敷じきを少しば時し渡ると、※ぱっ﹇#﹁火+發﹂、193-13﹈ともみぢの緋の映る、脇わき廊ろう下かの端へ出た。
言ふまでもなく、今は疾とくに、資治卿は影も見えない。
もみぢが、ちら〳〵とこぼれて、チチチチと小鳥が鳴く。
﹁千ちど鳥り、千鳥。……﹂
とたく口くち誦ずさみながら、半なかば渡ると、白しら木きの階きざはしのある処ところ。
﹁千鳥、千鳥、あれ〳〵……﹂
と且かつ指ゆびさし、且つ恍うっ惚とりと聞きすます体ていにして、
﹁千鳥や、千鳥や。﹂
と、やゝ声を高うした。
向う前せん栽ざいの小こえ縁んの端へ、千鳥と云ふ、其の腰こし元もとの、濃い紫むらさきの姿がちらりと見えると、もみぢの中をくる〳〵と、鞠まりが乱れて飛んで行ゆく。
恰あたかも友呼ぶ千鳥の如く、お庭へ、ぱら〳〵と人影が黒く散つた。
其その時とき、お局つぼねが、階下へ導いて下おり状ざまに、両手で緊しっかと、曲くせものの刀かたな持つ方の手を圧おさへたのである。
﹁うゝ、うゝむ。﹂
﹁あゝ、御ごば番んの衆、見苦しい、お目めざ触わりに、成ります。……括くくるなら、其の刀を。――何事も情なさけが卿だん様なさまの思おぼ召しめし。……乱心ものゆゑ穏おん便びんに、許して、見みの免がして遣やつてたも。﹂
牛ごぼ蒡うたばねに、引ひき括くくつた両刀を背中に背し負ょはせた、御番の衆は立ちかゝつて、左右から、曲くせ者ものの手を引張つて遠ざかつた。
吻ほっと呼い吸きして、面おもての美しさも凄すごいまで蒼あお白じろく成りつつ、階きざはしに、紅くれないの袴はかまをついた、お局つぼねの手を、振ふり袖そでで抱いて、お腰元の千鳥は、震へながら泣いて居る。いまの危あやうさを思ふにつけ、安心の涙である。
下しも々じもの口から漏もれて、忽たちまち京きょ中うちゅう洛らく中ちゅうは是これ沙さ汰ただが――乱心ものは行方が知れない。
二
﹁やあ、小こほ法う師し。……﹂
こゝで読者に、真夜中の箱根の山を想像して頂きたい。同時に、もみぢと、霧きりと、霜しもと、あの蘆あしの湖こと、大空の星とを思ひ浮べて頂きたい。
繰返して言ふが、文ぶん政せい初年霜しも月つき十日の深夜なる、箱根の奥の蘆の湖の渚なぎさである。
霧は濃くかゝつたが、関所は然さまで遠くない。峠とうげも三みし島まよ寄りの渚に、憚はばからず、ばちや〳〵と水みず音おとを立てるものがある。さみしさも静けさも、霜に星のきらめくのが、かち〳〵と鳴りさうなのであるから、不断の滝よりは、此の音が高く響く。
鷺さぎ、獺かわうそ、猿ましらの類たぐいが、魚うおを漁あさるなどとは言ふまい。……時と言ひ、場所と言ひ、怪けしからず凄すさまじいことは、さながら狼おおかみが出て竜宮の美女たちを追おい廻まわすやうである。
が、耳も牙きばもない、毛けぼ坊う主ずの円まる頂あたまを、水へ逆さかさまに真まう俯つ向むけに成つて、麻あさの法ころ衣ものもろ膚はだ脱いだ両手両脇へ、ざぶ〳〵と水を掛ける。――恁かかる霜しも夜よに、掻かき乱みだす水は、氷の上を稲いな妻ずまが走るかと疑はれる。
あはれ、殊勝な法師や、捨しゃ身しんの水すい行ぎょうを修しゅすると思へば、蘆あしの折おれ伏ふす枯かれ草くさの中に籠かごを一ひと個つ差さし置おいた。が、鯉こいを遁にがした畚びくでもなく、草を刈かる代しろでもない。屑くず屋やが荷になふ大おお形がたな鉄てっ砲ぽう笊ざるに、剰あまつさへ竹のひろひ箸ばしをスクと立てたまゝなのであつた。
﹁やあ、小こほ法う師し、小法師。﹂
もの幻の霧の中に、あけの明星の光こう明みょうが、嶮けん山ざんの髄ずいに浸しみ透とおつて、横に一ひと幅はば水が光り、縦に一ひと筋すじ、紫むらさきに凝こりつつ真まっ紅かに燃ゆる、もみぢに添ひたる、三みか抱かえ余あまり見上げるやうな杉の大たい木ぼくの、梢こずえ近い葉の中から、梟ふくろうの叫ぶやうな異様なる声が響くと、
﹁羽はぐ黒ろの小法師ではないか。――小法師。﹂
と言ふ〳〵、枝えだ葉はにざわ〳〵と風を立てて、然しかも、音もなく蘆の中に下おり立たつたのは、霧よりも濃い大おお山やま伏ぶしの形相である。金こん剛ごう杖づえを丁ちょうと脇わき挟ばさんだ、片手に、帯の結むす目びめをみしと取つて、黒くろ紋もん着つき、袴はかまの武さむ士らいを俯うつ向むけに引ひき提さげた。
武ぶ士しは、紐ひもで引ひっからげて胸へ結んで、大小を背中に背し負ょはされて居る。卑俗な譬たとえだけれど、小こど児もが何とかすると町内を三遍べん廻らせられると言つた形で、此が大納言の御みた館ちを騒がした狂人であるのは言ふまでもなからう。
﹁おう、﹂
と小法師の擡もたげた顔の、鼻は鉤かぎ形なりに尖とがつて、色は鳶とびに斉ひとしい。青あお黒ぐろく、滑ぬら々ぬらとした背せは膚だの濡ぬれ色いろに、星の影のチラ〳〵と映さす状さまは、大おお鯰なまずが藻もの花を刺ほり青ものしたやうである。
﹁これは、秋あき葉ばさ山んの御おぎ行ょう者じゃ。﹂
と言ひながら、水しぶきを立てて、身から体だを犬ぶるひに振つた。
﹁御お身みは京都の返りだな。﹂
﹁然されば、虚こく空うを通り掛がかりぢや。――御ごぼ坊うによう似たものが、不思議な振ふる舞まいをするに依よつて、大おお杉すぎに足を踏ふみ留とめて、葉はご越しに試みに声を掛けたが、疑ひもない御坊と視みて、拙せつ道どう、胆きもを冷ひやしたぞ。はて、時ならぬ、何のための水みず悪いた戯ずらぢや。悪いた戯ずらは仔細ないが、羽はぶしの怪け我がで、湖うみに墜おちて、溺おぼれたのではないかと思うた。﹂
﹁はゝ。﹂
と事もなげに笑つて、
﹁いや、些ちと身に汚けがれがあつて、不ぶし精ょうに、猫の面つら洗あらひと遣やつた。チヨイ〳〵とな。はゝゝゝ明あし朝たは天気だ。まあ休め。﹂
と法ころ衣もの袖そでを通して言ふ。……吐はく呼い吸きの、ふか〳〵と灰色なのが、人間のやうには消えないで、両ふた個つとも、其のまゝからまつて、ぱつと飛んで、湖の面おもてに、名の知れぬ鳥が乱れ立つ。
羽黒の小こほ法う師し、秋葉の行ぎょ者うじゃ、二個は疑うたがいもなく、魔界の一党、狗ぐひ賓んの類属。東海、奥州、ともに名なだ代いの天てん狗ぐであつた。
三
﹁成なる程ほど、成程、……御ごぼ坊うの方は武さむ士らいであつた。﹂
行者が、どたりと手から放すと、草にのめつた狂人を見て、――小法師が言つたのである。
﹁然されば、此ぢや。……浜松の本陣から引ひき攫さろうて持つて参つて、約束通り、京極、比野大納言殿の御おん館やかたへ、然しかも、念入りに、十二間けんのお廊下へドタリと遣やつた。﹂
﹁おゝ御おや館かたでは、藤の局つぼねが、我が折おれ、かよわい、女にょ性しょうの御おん身み。剰あまつさへ唯ただ一人にて、すつきりとしたすゞしき取とり計はからひを遊ばしたな。﹂
﹁ほゝう。﹂
と云つた山やま伏ぶしは、真赤な鼻を撮つまむやうに、つるりと撫なでて、
﹁最早知つたか。﹂
﹁洛らく中ちゅうの是これ沙さ汰た。関東一円、奥州まで、愚僧が一いっ山さんへも立たち処どころに響いた。いづれも、京きょ方うがたの御おん為ために大たい慶けいに存ぜられる。此とても、お行者のお手柄だ、はて敏すば捷やい。﹂
﹁やあ、如いか何がな。すばやいは御坊ぢやが。﹂
﹁さて、其が過あや失まり。……愚僧、早はや合がて点んの先ばしりで、思ひ懸がけない隙ひま入いりをした。御お身みと同然に、愚僧等ら御ごし司は配いの命おお令せを蒙こうむり、京都と同じ日、先まづ〳〵同じ刻限に、江戸城へも事を試みる約束であつたれば、千せん住じゅの大おお橋はし、上野の森を一ひとのしに、濠ほり端ばたの松まで飛んで出た。かしこの威徳衰おとろへたりと雖いえども、さすがは征せい夷い大将軍の居きょ城じょうだ、何いず処この門も、番衆、見張、厳重にして隙すき間まがない。……ぐるり〳〵と窺うかがふうちに、桜田門の番所傍そばの石垣から、大おおきな蛇へびが面つらを出して居るのを偶ふと見つけた。霞かすみヶ関せきには返り咲ざきの桜が一面、陽気はづれの暖かさに、冬ふゆ籠ごもりの長隠居、炬こた燵つから這はい出だしたものと見える。早はや往おう来らいは人ひと立だちだ。
処ところへ、遙はるかに虚こく空うから大おほ鳶とびが一いち羽わ、矢のやうに下おろいて来て、すかりと大おお蛇へびを引ひき抓つかんで飛ばうとすると、這しゃ奴つも地じし所ょも持ち、一いっ廉かどのぬしと見えて、やゝ、其の手は食くはぬ。さか鱗うろこを立てて、螺らせ旋んに蜿うねり、却かえつて石垣の穴へ引かうとする、抓つかんで飛ばうとする。揉もんだ、揉んだ。――いや、夥おびただしい人ひと群だか集りだ。――そのうちに、鳶の羽はが、少しづゝ、石垣の間あいだへ入る――聊いささかは引いて抜くが、少しづゝ、段々に、片かた翼つばさが隠れたと思ふと、するりと呑のまれて、片翼だけ、ばさ〳〵ばさ、……煽あおつて煽つて、大おおもがきに藻も掻がいて堪こらへる。――見物は息を呑のんだ。﹂
﹁うむ〳〵。﹂
と、山やま伏ぶしも息を呑む。
﹁馬ばか鹿と鵄びよ、くそ鳶とびよ、鳶とんび、鳶とんび、とりもなほさず鳶とびは愚僧だ、はゝゝゝ。﹂
と高笑ひして、
﹁何と、お行ぎょ者うじゃ、未熟なれども、羽黒の小こほ法う師し、六尺しゃくや一丈じょうの蛇ながむしに恐れるのでない。こゝが術てだ。人間の気を奪ふため、故ことさらに引ひき込こまれ〳〵、やがて忽たちまち其その最後の片かた翼つばさも、城の石垣につツと消えると、いままで呼い吸きを詰めた、群ぐん集じゅが、阿あも応おうも一いっ斉ときに、わツと鳴つて声を揚げた。此の人ひと声ごえに驚いて、番所の棒が揃そろつて飛とび出だす、麻あさ上がみ下しもが群れ騒ぐ、大おお玄げん関かんまで騒動の波が響いた。
驚す破わ、そのまぎれに、見物の群ぐん集じゅの中から、頃ころ合あいなものを引ひき攫さらつて、空からストンと、怪け我がをせぬやうに落おといた。が、丁ちょ度うど西の丸の太たい鼓こや櫓ぐらの下の空地だ、真まっ昼ぴる間ま。﹂
﹁妙みょう。﹂
と、山伏がハタと手を搏うつて、
﹁御ごぼ坊うが落した、試みのものは何ぢや。﹂
﹁屑くず屋やだ。﹂
﹁はて、屑屋とな。﹂
﹁紙かみ屑くず買かい――即すなわち此だ。﹂
と件くだんの大おお笊ざるを円まる袖そでに掻かき寄よせ、湖の水の星あかりに口を向けて、松まつ虫むしなんぞを擽くすぐるやうに笊ざるの底を、ぐわさ〳〵と爪で掻くと、手足を縮めて掻かいすくまつた、垢あかだらけの汚きたない屑屋が、ころりと出た。が、出ると大きく成つて、ふやけたやうに伸びて、ぷるツと肩を振つて、継ぎはぎの千ちぐ草さの股もも引ひきを割わり膝ひざで、こくめいに、枯かれ蘆あしの裡なかにかしこまる。
此の人間の気が、ほとぼりに成つて通かよつたと見える。ぐたりと蛙かえるを潰つぶしたやうに、手足を張つて平へたばつて居た狂きち気がい武ざむ士らいが、びくりとすると、むくと起きた。が、藍あいの如き顔がん色しょくして、血走つたまゝの目をりつつ、きよとりとして居る。
四
此の時代の、事実として一般に信ぜられた記録がある。――薩さつ摩ま鹿児島に、小しょ給うきゅうの武士の子で年とし十四に成るのが、父の使つかいに書面を持つて出た。朝五いつつ時どきの事で、侍さむ町らいまちの人通りのない坂道を上のぼる時、大おお鷲わしが一羽、虚こく空うから巌いわの落おち下さがるが如く落して来て、少年を引ひっ掴つかむと、忽たちまち雲を飛んで行く。少年は夢ゆめ現うつつともわきまへぬ。が、とに角かく大空を行くのだから、落つれば一ひと堪たまりもなく、粉こな微みじ塵んに成ると覚悟して、風を切る黒き帆のやうな翼の下に成るがまゝに身をすくめた。はじめは双すご六ろくの絵を敷いた如く、城が見え、町が見え、ぼうと霞かすんで村むら里ざとも見えた。やがて渾こん沌とん瞑めい々めいとして風の鳴るのを聞くと、果はてしも知らぬ渺びょ々うびょうたる海の上を翔かけるのである。いまは、運命に任せて目を瞑つむると、偶ふと風も身も動かなく成つた。我に返ると、鷲わしは大おおいなる樹きの梢こずえに翼を休めて居る。が、山の峰の頂いただきに、さながら尖せん塔とうの立てる如き、雲を貫つらぬいた巨きょ木ぼくである。片手を密そつと動かすと自由に動いた。
時に、脇わき指ゆびの柄えに手を掛けはしたものの、鷲のために支へられて梢に留とまつた身から体だである。――殺しおほせるまでも、渠かれを疵きずつけて地に落されたら、立たち処どころに五体が砕けよう。が、此のまゝにしても生いの命ちはあるまい。何どう処置しようと猶ため予らふうちに、一ひと打うち煽あおつて又飛んだ。飛びつつ、いつか地にやゝ近く、ものの一二間けんを掠かすめると見た時、此の沈ちん勇ゆうなる少年は、脇指を引ひき抜ぬきざまにうしろ突づきにザクリと突く。弱る処ところを、呼い吸きもつかせず、三みか刀たな四よか刀たなさし通したので、弱よわ果りはてて鷲が仰あお向むけに大地に伏す、伏しつつ仰向けに飜ひるがえる腹に乗つて、柔やわらかい羽はね根ぶ蒲と団んに包まれたやうに、ふはふはと落ちた。
恰あたかも鷲の腹からうまれたやうに、少年は血を浴びて出たが、四方、山また山ばかり、山さん嶽がく重ちょ畳うじょうとして更に東西を弁べんじない。
とぼ〳〵と辿たどるうち、人間の木きこ樵りに逢あつた。木樵は絵の如く斧おのを提げて居る。進んで礼して、城下を教へてと言つて、且かつ道みち案あん内ないを頼むと、城下とは何んぢやと言つた。お城を知らないか、と言ふと、知んねえよ、とけろりとして居る。薄給でも其の頃の官員の忰せがれだから、向う見ずに腹を立てて、鹿児島だい、と大きく言ふと、鹿児島とは、何ど処こぢやと言ふ。おのれ、日にっ本ぽんの薩さつ摩まの国くに鹿児島を知らぬかと呼ばはると、伸び〳〵とした鼻の下を漸やっと縮めたのは、大おおきな口を開あけて呆あきれたので。薩摩は此こ処こから何千里あるだい、と反あべ対こべに尋ねたのである。少年も少し心ここ着ろづいて、此こ処こは何ど処こだらう、と聞いた時、はじめて知つた。木曾の山やま中なかであつたのである。
此こ処こで、二人で、始めて鷲の死体を見た。
麓ふもとへ連つれ下くだつた木樵が、やがて庄しょ屋うやに通じ、陣屋に知らせ、郡こおりの医師を呼ぶ騒ぎ。精神にも身から体だにも、見事異状がない。――鹿児島まで、及ぶべきやうもないから、江戸の薩摩屋敷まで送り届けた。
朝五いつつ時どき、宙に釣つられて、少年が木曾山さん中ちゅうで鷲の爪を離れたのは同じ日の夕ゆうべ。七つ時、間あいだは五いつ時とき十時間である。里数は略ほぼ四百里であると言ふ。
――鷲でさへ、まして天てん狗ぐの業わざである。また武さむ士らいが刀を抜いて居たわけも、此の辺で大抵想像が着くであらう。――
ものには必ず対ついがある、序ついでに言はう。――是これと前後して近おう江みの膳ぜ所ぜの城下でも鷲が武士の子を攫さらつた――此は馬に乗つて馬場に居たのを鞍くらから引ひっ掴つかんで上あがつたのであるが、此の時は湖水の上を颯さっと伸のした。刀は抜けて湖うみに沈んで、小しょ刀うとうばかり帯に残つたが、下したが陸くがに成つた時、砂浜の渚なぎさに少年を落して、鷲は目の上の絶壁の大おお巌いわに翼を休めた。しばらくして、どつと下おろいて、少年に飛とびかゝつて、顔の皮をりくらはんとする処ところを、一生懸命脇わき差ざしでめくら突づきにして助かつた。人に介かい抱ほうされて、後のちに、所を聞くと、此の方は近かつた。近江の湖岸で、里程は二十里。――江戸と箱根は是これより少し遠い。……
それから、人間が空をつられて行く状さまに参考に成るのがある。……此は見たものの名が分つて居る。讃さん州しゅ高うた松かまつ、松平侯の世せい子しで、貞てい五ごろ郎うと云ふのが、近きん習じゅうたちと、浜はま町ちょう矢の倉の邸やしきの庭で、凧たこを揚げて遊んで居た。
些ちと寒いほどの西風で、凧に向つた遙か品川の海の方から、ひら〳〵と紅あかいものが、ぽつちりと見えて、空中を次第に近づく。唯と、真まっ逆さかさになった﹇#﹁なった﹂はママ﹈女で、髪がふはりと下に流れて、無むざ慙んや真白な足を空に、顔は裳もすそで包まれた。ヒイと泣なき叫さけぶ声が悲しげに響いて、あれ〳〵と見るうちに、遠く筑つく波ばの方へ霞かすんで了しまつた。近習たちも皆見た。丁ちょうど日ひる中なかで、然しかも空は晴れて居た。――膚はだも衣きぬもうつくしく蓑みの虫むしがぶらりと雲から下さがつたやうな女ばかりで、他たに何も見えなかつた。が、天てん狗ぐが掴つかんだものに相違ない、と云ふのである。
けれども、こゝなる両ふた個つの魔は、武さむ士らいも屑くず屋やも逆さかさまに釣つつたのではないらしい。
五
﹁ふむ、……其そ処こで肝要な、江戸城の趣おもむきは如いか何がであつたな。﹂
﹁いや以ての外ほかの騒動だ。外そと濠ぼりから竜りょうが湧わいても、天守へ雷らいが転がつても、太たい鼓こや櫓ぐらの下へ屑屋が溢こぼれたほどではあるまいと思ふ。又、此の屑屋が興きょうがつた男で、鉄てっ砲ぽう笊ざるを担かついだまゝ、落ちた処ところを俯うつ向むいて、篦へら鷺さぎのやうに、竹の箸はしで其そ処こ等らを突つっつきながら、胡う乱ろ々う々ろする。……此を高たか櫓やぐらから蟻ありが葛つづ籠らを背し負ょつたやうに、小さく真まっ下したに覗のぞいた、係りの役人の吃びっ驚くりさよ。陽ひの面おもての蝕むしばんだやうに目が眩くらんで、折からであつた、八やつの太鼓を、ドーン、ドーン。﹂
と小こほ法う師しなるに力ある声が、湖水に響く。ドーンと、もの凄すごく谺こだまして、
﹁ドーン、ドーンと十三打つた。﹂
﹁妙みょう。﹂と、又乗のり出だした山やま伏ぶしが、
﹁前代未聞。﹂と言ことばの尾を沈めて、半なかば歎息して云つた。
﹁謀むほ叛んに人んが降つて湧いて、二にの丸まるへ取とり詰つめたやうな騒動だ。将軍の住すま居いは大奥まで湧わき上あがつた。長なが袴ばかまは辷すべる、上かみ下しもは蹴けつ躓まずく、茶ちゃ坊ぼう主ずは転ぶ、女中は泣く。追おっ取とり刀がたな、槍やり、薙なぎ刀なた。そのうち騎馬で乗のり出だした。何と、紙かみ屑くず買かい一人を、鉄砲づくめ、槍やり襖ぶすまで捕とらへたが、見ものであつたよ。――国くに持もち諸だい侯みょうが虱しらみと合かっ戦せんをするやうだ。﹂
﹁真まことか、それは?﹂
﹁云ふにや及ぶ。﹂
﹁あゝ幕府の運命は、それであらかた知れた。――﹂
﹁む、大納言殿御おや館かたでは、大だん刀びらを抜いた武さむ士らいを、手たお弱や女めの手一つにて、黒髪一ひと筋すじ乱さずに、もみぢの廊下を毛虫の如く撮つま出みだす。﹂
﹁征夷大将軍の江戸城に於ては、紙屑買唯ただ一人を、老ろう中じゅうはじめ合戦の混乱ぢや。﹂
﹁京都の御おんため。﹂
と西に向つて、草を払つて、秋葉の行ぎょ者うじゃと、羽黒の小こほ法う師し、揃そろつて、手を支ついて敬けい伏ふくした。
﹁小しょ虫うちゅう、微びば貝いの臣しん等ら……﹂
﹁欣きん幸こう、慶けい福ふく。﹂
﹁謹つつしんで、万歳を祝しゅくし奉たてまつる。﹂
六
﹁さて、……町まち奉ぶぎ行ょうが白しら洲すを立てて驚いた。召めし捕とつた屑屋を送るには、槍、鉄砲で列をなしたが、奉行役やく宅たくで突つっ放ぱなすと蟇ひきがえるほどの働きもない男だ。横から視みても、縦から視ても、汚きたない屑屋に相違あるまい。奉行は継つぎ上がみ下しも、御用箱、うしろに太たち刀も持ち、用よう人にん、与より力き、同どう心しん徒であい、事も厳重に堂々と並んで、威儀を正して、ずらりと蝋ろう燭そくに灯ひを入れた。
灯を入れて、更あらためて、町奉行が、余あまりの事に、櫓やぐ下らしたを胡う乱ろついた時と、同じやうな状さまをして見せろ、とな、それも吟ぎん味みの手段とあつて、屑屋を立たせて、笊ざるを背し負ょはせて、煮にしめたやうな手てぬ拭ぐいまで被かぶらせた。が、猶なおの事だ。今更ながら、一同の呆あきれた処ところを、廂ひさしを跨またいで倒さかしまに覗のぞいて狙ねらつた愚僧だ。つむじ風を哄どっと吹かせ、白しら洲すの砂じゃ利りをから〳〵と掻かき廻まわいて、パツと一斉に灯を消した。逢おう魔まヶ時どきの暗くらまぎれに、ひよいと掴つかんで、空くうへ抜けた。お互に此こ処こ等らは手軽い。﹂
﹁いや、しかし、御苦労ぢや。其そ処こで何か、すぐに羽黒へ帰らいで、屑屋を掴んだまゝ、御ごぼ坊う関所近ぢかく参られたは、其の男に後ごな難んあらせまい遠慮かな。﹂
﹁何、何、愚僧が三度息を吹ふき掛かけ、あの身から体だじ中ゅうまじなうた。屑くず買かいが明あ日すが日、奉行の鼻毛を抜かうとも、嚔くさめをするばかりで、一いっ向こうに目は附けん。其そ処こに聊いささかも懸念はない。が、正直な気のいゝ屑屋だ。不ふび便んや、定めし驚いたらう。……労ほね力おりやすめに、京見物をさせて、大仏前の餅もちなりと振ふる舞まはうと思うて、足ついでに飛んで来た。が、いや、先刻の、それよ。……城の石垣に於て、大おお蛇へびと捏こね合おうた、あの臭にお気いが脊せす筋じから脇へ纏まとうて、飛ぶほどに、駈かけるほどに、段々堪たまらぬ。よつて、此の大おお盥だらいで、一ちょ寸っと行ぎょ水うずいをばちや〳〵遣やつた。
愚僧は好もの事ずき――お行者こそ御苦労な。江戸まで、あの荷物を送おくりと見えます。――武さむ士らいは何とした、心しんが萎なえて、手足が突つっ張ぱり、殊ことの外ほか疲れたやうに見受けるな。﹂
﹁おゝ、其の武さむ士らいは、部ぶや役くのほかに、仔細あつて、些ちと灸きゅうを用ゐたのぢや。﹂
﹁道理こそ、……此は暑からう。待て〳〵、お行ぎょ者うじゃ。灸と言へば、煙たば草こが一ひと吹ふかし吹したい。丁ちょうど、あの岨そば道みちに蛍ほたるほどのものが見える。猟師が出たな。火ひな縄わらしい。借りるぞよ。来い。﹂
とハタと掌てのひらを一つ打つと、遙はるかに隔へだつた真まっ暗くらな渚なぎさから、キリ〳〵〳〵と舞ひながら、森も潜くぐつて、水の面おもを舞つて来るのを、小こほ法う師しは指の先へ宙で受けた。つはぶきの葉を喇らっ叭ぱに巻いたは、即すなわち煙きせ管るで。蘆あしの穂といはず、草と言はずり取つて、青せい磁じい色ろの長い爪に、火を翳かざして、ぶく〳〵と吸すいつけた。火縄を取つて、うしろ状ざまの、肩かた越ごしに、ポン、と投げると、杉の枝に挟まつて、ふつと消えたと思つたのが、めら〳〵と赤く燃もえ上あがつた。ぱち〳〵と鳴ると、双ふた子ごや山まお颪ろし颯さっとして、松たい明まつばかりに燃えたのが、見る〳〵うちに、轟ごうと響いて、凡およそ片かた輪わぐ車るまの大きさに火の搦からんだのが、梢こずえに掛かかつて、ぐる〳〵ぐる〳〵と廻る。
此の火に照てらされた、二個の魔神の状さまを見よ。けたゝましい人ひと声ごえ幽かすかに、鉄砲を肩に、猟師が二人のめりつ、反そりつ、尾おば花なの波に漂うて森の中を遁にげて行く。
山やま兎うさぎが二三疋びき、あとを追ふやうに、躍おどつて駈かけた。
﹁小法師、あひかはらず悪いた戯ずらぢや。﹂
と兜かぶとのやうな額ひた皺いじわの下に、恐おそろしい目を光らしながら、山やま伏ぶしは赤い鼻をひこ〳〵と笑つたが、
﹁拙せつ道どう、煙たば草こは不ぶち調ょう法ほうぢや。然さらば相しょ伴うばんに腰こし兵びょ糧うろうは使はうよ。﹂
と胡あぐ坐らかいた片かた脛ずねを、づかりと投なげ出だすと、両手で逆に取つて、上へ反そらせ、膝ひざぶしからボキリボキリ、ミシリとやる。
﹁うゝ、うゝ。﹂
﹁あつ。﹂
と、武さむ士らいと屑屋は、思はず声を立てたのである。
見向きもしないで、山伏は挫へし折おつた其の己おのが片脛を鷲わし掴づかみに、片手で踵きびすが穿はいた板いた草わら鞋じをり棄すてると、横よこ銜ぐわへに、ばり〳〵と齧かじる……
鮮なま血ちの、唇を滴たら々たらと伝ふを視みて、武さむ士らいと屑屋は一ひとのめりに突つっ伏ぷした。
不思議な事には、へし折つた山伏の片脛のあとには、又おなじやうな脛が生えるのであつた。
杉なる火の車は影を滅けした。寂せき寞ばくとして一層もの凄すごい。
﹁骨も筋もないわ、肝きも魂たましいも消えて居る。不ふび便んや、武さむ士らい……詫わびをして取らさうか。﹂
と小法師が、やゝもの静しずかに、
﹁お行者よ。灸きゅうとは何かな。﹂
七
此の間まに――
﹁塩しお辛からい。﹂
と言ふ山やま伏ぶしの声がして、がぶ〳〵。
﹁塩辛い。﹂
と言つて、湖水の水を、がぶ〳〵と飲んだ――
﹁お行ぎょ者うじゃ。﹂
﹁其の武さむ士らいは、小こぼ堀りで伝んじ十ゅう郎ろうと申す――陪ばい臣しんなれど、それとても千せん石ごくを食はむのぢや。主人の殿とのは松まつ平だい大らお島おし守まのかみと言ふ……﹂
﹁西さい国こく方がたの諸だい侯みょうだな。﹂
﹁されば御ごふ譜だ代い。将軍家に、流ながれも源みなもとも深い若わか年どし寄よりぢや。……何と御ごぼ坊う。……今度、其の若年寄に、便べん宜ぎあつて、京都比野大納言殿より、︵江戸隅田川の都みや鳥こどりが見たい、一羽首尾ようして送られよ。︶と云ふお頼みがあつたと思へ。――御坊の羽黒、拙せつ道どうの秋葉に於いても、旦だん那なたちがこの度たびの一いち儀ぎを思ひ立たれて、拙道等ら使つかいに立つたも此のためぢや。申さずとも、御坊は承知と存ずるが。﹂
﹁はあ、然そうか、いや知らぬ、愚僧早はや走ばしり、早はや合がっ点てんの癖で、用だけ聞いて、して来いな、とお先ばしりに飛とび出でたばかりで、一いっ向こうに仔細は知らぬ。が、扨さては、根ざす処ところがあるのであつたか。﹂
﹁もとよりぢや。――大おお島しま守のかみが、此の段、殿中に於いて披露に及ぶと、老ろう中じゅうはじめ額ひたいを合せて、
此は今めかしく申すに及ばぬ。業なり平ひら朝あそ臣んの︵名にしおはゞいざこととはむ︶歌の心をまのあたり、鳥の姿に見たいと言ふ、花につけ、月につけ、をりからの菊きく紅もみ葉じにつけての思おもひ寄よりには相違あるまい。……大納言心こころでは、将軍家は、其の風流の優しさに感じて、都鳥をば一ひと番つがい、そつと取り、紅くれない、紫むらさきの房ふさを飾つた、金銀蒔まき絵えの籠かごに据すゑ、使つかいも狩かり衣ぎぬに烏え帽ぼ子しして、都にのぼす事と思はれよう。ぢやが、海の苔り一帖じょう、煎せん餅べいの袋にも、贈おく物りものは心すべきぢや。すぐに其は対あい手てに向ふ、当方の心ここ持ろもちの表しるしに相あい成なる。……将軍家へ無むし心んとあれば、都鳥一羽も、城一つも同じ道理ぢや。よき折から京かみ方がたに対し、関東の武威をあらはすため、都鳥を射いて、鴻こうの羽はね、鷹たかの羽はの矢を胸むなさきに裏うら掻かいて貫つらぬいたまゝを、故わざと、蜜みか柑んば箱こと思ふが如いか何が、即ち其の昔、権ごん現げん様さま戦場お持もち出だしの矢やき疵ず弾たま丸あ痕との残つた鎧よろ櫃いびつに納めて、槍やりを立てて使者を送らう。と言ふ評ひょ定うじょうぢや。﹂
﹁気き障ざな奴だ。﹂
﹁むゝ、先まづ聞けよ。――評定は評定なれど、此を発ほつ議ぎしたは今時の博はか士せ、秦はた四しし書ょの頭かみと言ふ親おや仁じぢや。﹂
﹁あの、親おや仁じ。……予かねて大おお島しま守のかみに取とり入いると聞いた。成なる程ほど、其その辺へんの催もよおしだな。積つもつても知れる。老おい耄ぼれ儒者めが、家うちに引ひっ込こんで、溝どぶ端ばたへ、桐きりの苗なえでも植ゑ、孫娘の嫁入道具の算段なりとして居おれば済むものを――いや、何い時つの世にも当代におもねるものは、当代の学者だな。﹂
﹁塩辛い……﹂
と山やま伏ぶしは、又したゝか水を飲んで、
﹁其そ処こでぢや……松平大島守、邸やしきは山ぢやが、別荘が本ほん所じょ大おお川かわべりにあるに依より、かた〴〵大島守か都鳥を射いて取る事に成つた。……此の殿、聊いささかものの道理を弁わきまへてゐながら、心得違ひな事は、諸事万端、おありがたや関東の御威光がりでな。――一ひと年とせ、比野大納言、まだお年とし若わかで、京都御ごみ名ょう代だいとして、日光の社しゃ参さんに下くだられたを饗きょ応うおうして、帰きら洛くを品川へ送るのに、資やす治はる卿の装しょ束うぞくが、藤ふじ色いろなる水すい干かんの裾すそを曳ひき、群むら鵆ちどりを白く染そめ出いだせる浮うき紋もんで、風かざ折おり烏え帽ぼ子しに紫むらさきの懸かけ緒おを着けたに負けない気で、此この大島守は、紺こん染ぞめの鎧よろ直いひ垂たたれの下に、白き菊きく綴とじなして、上には紫の陣羽織。胸をこはぜ掛がけにて、後うしろへ折おり開ひらいた衣えも紋んつ着きぢや。小こそ袖でと言ふのは、此れこそ見よがしで、嘗かつて将軍家より拝領の、黄なる地じの綾あやに、雲くも形がたを萌もえ葱ぎで織おり出だし、白しろ糸いとを以て葵あおいの紋もん着つき。﹂
﹁うふ。﹂
と小こほ法う師しが噴ふき笑だした。
﹁何と御ごぼ坊う。――資治卿が胴どて袖らに三さん尺じゃくもしめぬものを、大島守其その装なりで、馬に騎のつて、資治卿の駕か籠ごと、演わざ戯おぎがかりで向むか合いあつて、どんなものだ、とニタリとした事がある。﹂
﹁気き障ざな奴だ。﹂
﹁大島守は、おのれ若年寄の顕けん達たつと、将軍家の威光、此これ見みよがしの上に、――予かねて、資治卿が美男におはす、従つて、此の卿一生のうちに、一千人の女を楽たのしむ念願あり、また婦人の方より恁かくと知りつつ争つて媚こびを捧げ、色を呈ていする。専もっぱら当代の在ざい五ごち中ゅう将じょうと言ふ風うわ説さがある――いや大島守、また相当の色男がりぢやによつて、一つは其嫉ねたみぢや……負けまい気ぢや。
されば、名にしおはゞの歌につけて、都鳥の所しょ望もうにも、一つは曲ねつたものと思つて可よい。
また此の、品川で、陣羽織菊きく綴とじで、風かざ折おり烏え帽ぼ子し紫むらさきの懸かけ緒おに張はり合あつた次第を聞いて、――例の天下の博はか士せめが、︵遊ばされたり、老ろう生せいも一度其その御扮装を拝見。︶などと申す。
処ところで、今度、隅田川両りょ岸うがんの人ひと払ばらい、いや人よせをして、件くだんの陣羽織、菊綴、葵あお紋いも服んぷくの扮いで装たちで、拝見ものの博士を伴ひ、弓矢を日へぎ置りゅ流うに手たばさんで静しず々しずと練ねり出だした。飛びも、立ちもすれば射い取とられう。こゝに可おか笑しな事は、折から上あげ汐しお満々たる……﹂蘆の湖は波一条じょう、銀河を流す気けは勢いがした。
﹁かの隅田川に、唯ただ一羽なる都鳥があつて、雪なす翼は、朱とき鷺い色ろの影を水みず脚あしに引いて、すら〳〵と大島守の輝いて立つ袖そでの影に入いるばかり、水みず岸ぎしへ寄つて来た。﹂
﹁はて、それはな?﹂
﹁誰も知るまい。――大島守の邸やしきに、今年二十になる︵白しろ妙たえ。︶と言つて、白しら拍びょ子うしの舞まいの手てだれの腰元が一人あるわ――一ひと年とせ……資治卿を饗応の時、酒うた宴げの興に、此の女が一ひとさし舞つた。――ぢやが、新曲とあつて、其の今いま様ようは、大島守の作る処ところぢや。﹂
﹁迷惑々々。﹂
﹁中に︵時ほと鳥とぎす︶何とかと言ふ一句がある。――白妙が︵時鳥︶とうたひながら、扇をかざして膝ひざをついた。時しも屋やの棟むねに、時鳥が一いっせいしたのぢや。大島守の得意、察するに余あまりある。……ところが、時鳥は勝手に飛んだので、……こゝを聞け、御ごぼ坊うよ。
白妙は、資治卿の姿に、恍うっ惚とりと成つたのぢや。
大島守は、折に触れ、資治卿の噂うわさをして、……その千人の女に契ちぎると言ふ好色をしたゝかに詈ののしると、……二人三人の妾めかけ妾てかけ、……故わざとか知らぬ、横よこ肥ぶとりに肥つた乳う母ばまで、此れを聞いて爪つまはじき、身ぶるひをする中うちに、白妙唯ただ一人、︵でも。︶とか申して、内ない々ない思ひをほのめかす、大島守は勝手が違ふ上に、おのれ容きり色ょう自慢だけに、いまだ無むり理く口ど説きをせずに居おる。
其の白妙が、めされて都に上のぼると言ふ、都鳥の白おし粉ろいの胸に、ふつくりと心ここ魂ろだましいを籠こめて、肩も身も翼に入れて憧あこ憬がれる……其の都鳥ぢや。何と、遁にげる処どころではあるまい。――しかし、人間には此は解らぬ。﹂
﹁むゝ、聞えた。﹂
﹁都鳥は手とらまへぢや。蔵くら人んどの鷺さぎならねども、手どらまへた都鳥を見て、将軍の御威光、殿の恩おん徳とくとまでは仔細ない、――別荘で取つて帰つて、羽はぶしを結ゆわへて、桜の枝につるし上げた。何と、雪せっ白ぱく裸身の美女を、梢こずえに的まとにした面おも影かげであらうな。松平大島守源みなもとの何なに某がし、矢の根にしるして、例の菊きく綴とじ、葵あおいの紋もん服ぷく、きり〳〵と絞つて、兵ひょうと射いたが、射た、が。射たが、薩さっ張ぱり当らぬ。
尤もっとも、此の無むざ慙んな所業を、白妙は泣いて留とめたが、聴きかれさうな筈はずはない。
拝見の博はか士せの手前――二にの矢やまで射いそ損んじて、殿、怫ふつ然ぜんとした処ところを、︵やあ、飛ひち鳥ょう、走そう獣じゅうこそ遊ばされい。恁かかる死しに的まと、殿には弓矢の御おん恥ちじ辱ょく。︶と呼ばはつて、ばら〳〵と、散る返かえ咲りざきの桜とともに、都鳥の胸をも射い抜ぬいたるは……
……塩辛い。﹂
と山やま伏ぶしは又湖水を飲む音。舌した打うちしながら、
﹁ソレ、其そ処こに控へた小堀伝十郎、即ち彼ぢや。……拙せつ道どうが引ひっ掴つかんだと申して、決して不忠不義の武さむ士らいではない。まづ言はば大島守には忠臣ぢや。
さて、処ところで、矢を貫つらぬいた都鳥を持つて、大島守登とえ営いに及び、将軍家一覧の上にて、如にょ法ほう、鎧よろ櫃いびつに納めた。
故わざと、使者差さし立たてるまでもない。ぢやが、大納言の卿に、将軍家よりの御ごし進んも物つ。よつて、九州へ帰国の諸侯が、途みち次すがらの使者兼帯、其の武さむ士らいが、都鳥の宰さい領りょうとして、罷まか出りいでて、東海道を上のぼつて行く。……
秋葉の旦だん那な、つむじが曲つた。颶はや風ての如く、御ごぼ坊うの羽黒と気脈を通じて、またゝく間まの今度の催もよおし。拙せつ道どうは即ち仰おおせをうけて、都鳥の使者が浜松の本陣へ着いた処ところを、風呂にも入れず、縁側から引ひっ攫さらつた。――武さむ士らいの這しゃ奴つの帯の結ゆい目めを掴つかんで引ひき釣つると、斉ひとしく、金こん剛ごう杖づえに持もち添そへた鎧よろ櫃いびつは、とてもの事に、狸たぬきが出て、棺かん桶おけを下げると言ふ、古ふる槐えんじゅの天辺へ掛け置いて、大おお井い、天竜、琵び琶わ湖こも、瀬せ多たも、京の空へ一ひと飛とびぢや。﹂
と又がぶりと水を飲んだ。
﹁時に、……時にお行ぎょ者うじゃ。矢を貫つらぬいた都鳥は何とした。﹂
﹁それぢや。……桜の枝に掛かかつて、射いぬ貫かれたとともに、白しろ妙たえは胸を痛めて、どつと……息も絶たえ々だえの床とこに着いた。﹂
﹁南なむ無さん三ぼ宝う。﹂
﹁あはれと思おぼし、峰、山、嶽たけの、姫たち、貴夫人たち、届かぬまでもとて、目もっ下か御ごか介いほ抱う遊ばさるる。﹂
﹁珍ちん重ちょう。﹂
と小こほ法う師しが言つた。
﹁いや、安心は相あい成ならぬ。が、かた〴〵の御ごし心んもじ、御おじ如ょさ才いはないかに存ずる。やがて、此の湖上にも白い姿が映るであらう。――水も、夜よも、さて更ふけた。――武さむ士らい。﹂
と呼んで、居いな直おつて、
﹁都鳥もし蘇よみ生がえらず、白妙なきものと成らば、大島守を其のまゝに差さし置おかぬぞ、と確しかと申せ。いや〳〵待て、必ず誓つて人には洩もらすな。――拙道の手に働かせたれば、最も早はや汝そちは差さし許ゆるす。小堀伝十郎、確しかとせい、伝十郎。﹂
﹁はつ。﹂
と武さむ士らいは、魂とともに手を支ついた。こゝに魂と云ふは、両刀の事ではない。
八
﹁何と御坊﹂
と、少しば時らくして山やま伏ぶしが云つた。
﹁思ひ懸がけず、恁かかる処ところで行ゆき逢おうた、互たがいの便べん宜ぎぢや。双方、彼かれ等らを取とり替かへて、御ごぼ坊うは羽黒へ帰りついでに、其の武さむ士らいを釣つつて行く、拙せつ道どうは一ひと翼つばさ、京へ伸のして、其の屑くず屋やを連れ参つて、大仏前の餅もちを食くはさうよ――御坊の厚意は無にせまい。﹂
﹁よい、よい、名案。﹂
﹁参れ。……屑屋。﹂
と山の襞ひを霧の包むやうに枯かれ蘆あしにぬつと立つ、此の大だいなる魔まし神んの裾すそに、小さくなつて、屑屋は頭から領ひれ伏ふして手を合せて拝んだ。
﹁お慈じ悲ひ、お慈悲でござります、お助け下さいまし。﹂
﹁これ、身は損そこなはぬ。ほね休めに、京見物をさして遣やるのぢや。﹂
﹁女房、女房がござります。児こがござります。――何として、箱根から京まで宙が飛べませう。江戸へ帰りたう存じます。……お武家様、助けて下せえ……﹂
と膝い行ざり寄る。半なかば夢心地の屑屋は、前後の事を知らぬのであるから、武さむ士らいを視みて、其の剣術に縋すがつても助かりたいと思つたのである。
小こほ法う師しが笑ひながら、塵ちりを払つて立つた。
﹁可い厭やなものは連れては参らぬ。いや、お行ぎょ者うじゃ御覧の通りだ。御苦労には及ぶまい。――屑屋、法ころ衣もの袖そでを取れ、確しかと取れ、江戸へ帰すぞ。﹂
﹁えゝ、滅めっ相そうな、お慈悲、慈悲でござります。山を越えて参ります。歩あ行るいて帰ります。﹂
﹁歩あ行るけるかな。﹂
﹁這はひます、這ひます、這ひまして帰ります。地つちを這ひまして帰ります。其の方が、どれほどお情なさけか分りませぬ。﹂
﹁はゝ、気まゝにするが可よい、――然さらば入いれ交かわつて、……武さむ士らい、武さむ士らい、愚僧に縋すがれ。﹂
﹁恐れながら、恐れながら拙せっ者しゃとても、片へん時しも早く、もとの人間に成りまして、人間らしく、相あい成なりたう存じます。峠とうげを越えて戻ります。﹂
﹁心のまゝぢや。――御坊。﹂
と山やま伏ぶしが式しき代たいした。
﹁お行者。﹂
﹁少しば時らく、少しば時らく何どうぞ。﹂
と蹲うずくまりながら、手を挙げて、
﹁唯ただ今いま、思ひつきました。此には海かい内だい第一のお関所がござります。拙者券てがたを持ちませぬ。夜あけを待ちましても同じ儀ゆゑに……ハタと当惑を仕つかまつります。﹂
武さむ士らいはきつぱり正気に返つた。
﹁仔細ない。久くの能うざ山んあ辺たりに於ては、森の中から、時々、︵興おき津つだ鯛いが食べたい、燈とう籠ろうの油がこぼれるぞよ。︶なぞと声の聞える事を、此こん辺あたりでもまざ〳〵と信じて居おる。――関所に立たち向むかつて、大だい音おんに︵権ごん現げんが通る。︶と呼ばはれ、速すみやかに門を開ひらく。﹂
﹁恐れ……恐おそ多れおおい事――承うけたまわりまするも恐多い。陪ばい臣しんの分ぶんを仕つかまつつて、御先祖様お名をかたります如き、血ち反へ吐どを吐はいて即死をします。﹂
と、わな〳〵と震へて云つた。
﹁臆病もの。……可よし。﹂
﹁計はからひ取らせう。﹂
同どう音おんに、
﹁関所!﹂
と呼ぶと、向うから歩あ行るくやうに、する〳〵と真夜中の箱根の関所が、霧を被かずいて出て来た。
山やま伏ぶしの首が、高く、鎖とざした門を、上から俯うつ向むいて見込む時、小こほ法う師しの姿は、ひよいと飛んで、棟むな木ぎに蹲しゃがんだ。
﹁権ごん現げんぢや。﹂
﹁罷まか通りとおるぞ!﹂
哄どっと笑つた。
小法師の姿は東あずまの空へ、星の中に法ころ衣もの袖そでを掻かい込こんで、うつむいて、すつと立つ、早はや走ばしりと云つたのが、身動きもしないやうに、次第々々に高く上あがる。山伏の形は、腹はら這ばふ状さまに、金こん剛ごう杖づえを櫂かいにして、横に霧を漕こぐ如く、西へふは〳〵、くるりと廻つて、ふは〳〵と漂ひ去る。……
唯と、仰いで見るうちに、数十人の番ばん士し、足あし軽がるの左右に平ひれ伏ふす関の中を、二人何の苦もなく、うかうかと通り抜けた。
﹁お武家様、もし、お武家様。﹂
ハツとしたやうに、此の時、刀の柄つかに手を掛けて、もの〳〵しく見返つた。が、汚きたない屑屋に可い厭やな顔して、
﹁何だ。﹂
﹁お袂たもとに縋すがりませいでは、一ひと足あしも歩あ行るかれませぬ。﹂
﹁ちよつ。参れ。﹂
﹁お武家様、お武家様。﹂
﹁黙つて参れよ。﹂
小こわ湧くだ谷に、大おお地じご獄くの音を暗あん中ちゅうに聞いた。
目の前の路みちに、霧が横に広いのではない。するりと無むも紋んの幕が垂れて、ゆるく絞つた総ふさの紫むらさきは、地ちを透すく内側の燈ともしびの影に、色も見えつつ、ほのかに人ひと声ごえが漏もれて聞えた。
女の声である。
時に、紙屑屋の方が、武さむ士らいよりは、もの馴なれた。
そして、跪ひざまずかせて、屑屋も地つちに、並んで恭うやうやしく手を支ついた。
﹁江戸へ帰りますものにござります。山道に迷ひました。お通しを願ひたう存じます。﹂
ひつそりして、少しば時らくすると、
﹁お通り。﹂
と、もの柔やわらかな、優しい声。
颯さっと幕が消えた。消きゆるにつれて、朦もう朧ろうとして、白しろ小こそ袖で、紅くれないの袴はかま、また綾あや錦にしき、振ふり袖そでの、貴女たち四五人の姿とともに、中に一人、雪に紛まがふ、うつくしき裸体の女があつたと思ふと、都鳥が一羽、瑪めの瑙うの如き大おお巌いわに湛たたへた温いで泉ゆに白く浮いて居た。が、それも湯気とともに蒼あおく消えた。
星ばかり、峰ばかり、颯さっ々さつたる松の嵐の声ばかり。
幽かすかに、互たがいの顔の見えた時、真まそ空らなる、山かづら、山の端はに、朗ほがらかな女の声して、
﹁矢は返すよ。﹂
風を切つて、目さきへ落ちる、此が刺さると生いの命ちはなかつた。それでも武さむ士らいは腰を抜いた。
引ひき立たてても、目ばかり働いて歩あ行るき得ない。
屑屋が妙なことをはじめた。
﹁お武家様、此の笊ざるへお入んなせい。﹂
入いれると、まだ天てん狗ぐのいきの、ほとぼりが消えなかつたと見えて、鉄てっ砲ぽう笊ざるへ、腰からすつぽりと納おさまつたのである。
屑屋が腰を切つて、肩を振つて、其の笊を背し負ょつて立つた。
﹁屑くずい。﹂
うつかりと、……
﹁屑い。﹂
落ちた矢を見ると、ひよいと、竹の箸はしではさんで拾つて、癖に成つて居るから、笊へ抛ほうる。
鴻こうの羽はねの矢を額ひたいに取つて、蒼あおい顔して、頂きながら、武さむ士らいは震へて居た。