一
此この不思議なことのあつたのは五月中なか旬ば、私が八やっ歳つの時、紙かみ谷やま町ちに住んだ向うの平ひら家やの、お辻つじといふ、十八の娘、やもめの母親と二人ぐらし。少しある公債を便りに、人ひと仕しご事となどをしたのであるが、つゞまやかにして、物もの綺ぎれ麗いに住んで、お辻も身だしなみ好よく、髪かみ形かたちを崩さず、容きり色ょうは町々の評判、以前五百石こく取どりの武ぶ家け、然しかるべき品ひんもあつた、其その家いえへ泊りに行つた晩の出来事で。家うちも向ひ合せのことなり、鬼ごツこにも、はじきにも、其そ家この門かど口ぐち、出窓の前は、何い時つでも小こど児もの寄より合あふ処ところ。次郎だの、源げんだの、六ろくだの、腕わん白ぱくどもの多い中に、坊ぼうちやん〳〵と別ものにして可かわ愛いがるから、姉はなし、此こな方たからも懐なついて、ちよこ〳〵と入つては、縫ぬい物ものを交まぜ返かえす、物もの差さしで刀の真似、馴なれツこになつて親したしんで居たけれども、泊るのは其その夜よが最はじ初めて。
西の方かたに山の見ゆる町の、上かみの方かたへ遊びに行つて居たが、約束を忘れなかつたから晩ばん方がたに引ひっ返かえした。之これから夕ゆう餉げを済すましてといふつもり。
小こば走しりに駆けて来ると、道のほど一町ちょう足たらず、屋やならび三十ばかり、其その山やま手ての方に一軒の古ふる家いえがある、丁ちょうど其そ処こで、兎うさぎのやうに刎はねたはずみに、礫こいしに躓つまずいて礑はたと倒れたのである。
俗にいふ越後は八はっ百ぴゃ八くや後ご家け、お辻が許とこも女ぐらし、又海うみ手ての二階屋も男おと気こげなし、棗なつめの樹きのある内も、男が出では入いりをするばかりで、年とし増まは蚊か帳やが好すきだといふ、紙谷町一町の間あいだに、四軒、いづれも夫なしで、就なか中んずく今転んだのは、勝手の知れない怪しげな婦人の薬屋であつた。
何いず処こも同おな一じ、雪国の薄暗い屋やづ造くりであるのに、廂ひさしを長く出した奥深く、煤すすけた柱に一枚懸けたのが、薬の看板で、雨にも風にも曝さらされた上、古び切つて、虫ばんで、何といふ銘めいだか誰たれも知つたものはない。藍あいを入れた字のあとは、断きれ々ぎれになつて、恰あたかも青い蛇へびが、渦うずまき立つ雲がくれに、昇天をする如く也なり。
別に、風かざ邪ぐす薬りを一貼ちょう、凍しも傷やけの膏こう薬やく一ひと貝かい買ひに行つた話は聞かぬが、春の曙あけぼの、秋の暮、夕顔の咲けるほど、炉ろの榾ほだの消きゆる時、夜中にフト目の覚さむる折など、町まち中なかを籠こめて芬ぷん々ぷんと香におふ、湿しめぽい風は薬屋の気けは勢いなので。恐らく我国の薬やく種しゅで無からう、天てん竺じく伝来か、蘭らん方ぽうか、近くは朝鮮、琉りゅ球うきゅうあたりの妙薬に相違ない。然そう謂いへば彼あの房ふさ々ふさとある髪は、なんと、物語にこそ謂へ目まの前あたり、解といたら裾すそに靡なびくであらう。常に其それを、束たばね髪がみにしてカツシと銀しろがねの簪かんざし一本、濃く且かつ艶つややかに堆うずたかい鬢びんの中から、差さし覗のぞく鼻の高さ、頬ほおの肉しまつて色は雪のやうなのが、眉まゆを払つて、年と紀しの頃も定かならず、十年も昔から今にかはらぬといふのである。
内の様子も分らないから、何となく薄気味が悪いので、小こど児もの気にも、暮くれ方がたには前を通るさへ駆け出すばかりにする。真まっ昼ぴる間ま、向う側から密そっと透すかして見ると、窓も襖ふすまも閉しめ切きつて、空屋に等しい暗い中に、破は風ふの隙ひまから、板いた目めの節ふしから、差さし入いる日の光一ひと筋すじ二ふた筋すじ、裾すそ広ひろがりにぱつと明あかるく、得えも知れぬ塵ちり埃ほこりのむら〳〵と立つ間あいだを、兎ともすればひら〳〵と姿の見える、婦おん人なの影。
転んで手をつくと、はや薬の匂においがして膚はだえを襲つた。此の一いっ町ちょうがかりは、軒のきも柱も土も石も、残らず一種の香かに染しんで居る。
身に痛みも覚えぬのに、場所もこそあれ、此こ処こはと思ふと、怪しいものに捕とらへられた気がして、わつと泣き出した。
二
﹁あれ危あぶない。﹂と、忽たちまち手を伸のべて肩をつかまへたのは彼かの婦おん人なで。
其の黒髪の中の大理石のやうな顔を見ると、小さな者はハヤ震へ上つて、振ふりらうとして身をあせつて、仔こす雀ずめの羽はうつ風ふぜ情い。
怪しいものでも声は優しく、
﹁おゝ、膝ひざが擦すり剥むけました、薬をつけて上げませう。﹂と左ゆん手でには何どうして用意をしたらう、既に薫かおりの高いのを持つて居た。
守やも宮りの血で二にの腕うでに極ごく印いんをつけられるまでも、膝に此の薬を塗られて何どうしよう。
﹁厭いやだ、厭だ。﹂と、しやにむに身みも悶だえして、声こわ高だかになると、
﹁強情だねえ、﹂といつたが、漸やっと手を放し、其のまゝ駆かけ出ださうとする耳の底へ、
﹁今夜、お辻さんの処ところへ泊りに行ゆくね。﹂
といふ一いち聯れんの言ことばを刻きざんだのを、……今に到つて忘れない。
内へ帰ると早速、夕ゆう餉げを済すまし、一ちょ寸いと着き換かへ、糸、犬、錨いかり、などを書いた、読どく本ほんを一冊、草そう紙しのやうに引ひっ提さげて、母おっ様かさんに、帯の結むす目びめを丁トンと叩たたかれると、直すぐに戸おも外てへ。
海から颯さっと吹く風に、本のペエジを乱しながら、例のちよこ〳〵、をばさん、辻つうちやんと呼びざまに、からりと開あけて飛とび込こんだ。
人ひと仕しご事とに忙いそがわしい家の、晩飯の支度は遅く、丁ちょうど御ごぜ膳ん。取とっ附つきの障子を開あけると、洋ラン燈プの灯あかしも朦もう朧ろうとするばかり、食たべ物ものの湯気が立つ。
冬でも夏でも、暑い汁つゆの好すきだつたお辻の母親は、むんむと気の昇る椀わんを持つたまゝ、ほてつた顔をして、
﹁おや、おいで。﹂
﹁大層おもたせぶりね、﹂とお辻は箸はし箱ばこをがちやりと云はせる。
母親もやがて茶碗の中で、さら〳〵と洗つて塗ぬり箸ばしを差さし置おいた。
手で片かた頬ほをおさへて、打うち傾かたむいて小こよ楊う枝じをつかひながら、皿さら小こば鉢ちを寄せるお辻を見て、
﹁あしたにすると可いいやね、勝手へ行つてたら坊ぼうちやんが淋さびしからう、私は直すぐに出で懸かけるから。﹂
﹁然そうねえ。﹂
﹁可いいよ、可いいよ、構かまやしないや、独ひとりで遊んでら。﹂と無むぞ雑う作さに、小さな足で大おお胡あぐ坐らになる。
﹁ぢや、まあ、お出懸けなさいまし。﹂
﹁大おと人なしいね。感心、﹂と頭を撫なでる手つきをして、
﹁どれ、其それでは、﹂楊枝を棄すてると、やつとこさ、と立ち上つた。
お辻が膳ぜんを下げる内に、母親は次の仏ぶつ間まで着き換かへる様子、其そ処こに箪たん笥すやら、鏡台やら。
最もひ一とツ六畳が別に戸おも外てに向いて居て、明あか取りとりが皆みんなで三間げんなり。
母親はやがて、繻しゅ子すの帯を、前結びにして、風ふろ呂しき敷づつ包みを持つて顕あらわれた。お辻の大柄な背のすらりとしたのとは違ひ、丈たけも至つて低く、顔かお容かたちも小こづ造くりな人で、髪も小さく結ゆつて居た。
﹁それでは、お辻や。﹂
﹁あい、﹂と、がちや〳〵いはせて居た、彼かな方たの勝手で返事をし、襷たすきがけのまゝ、駆けて来て、
﹁気をつけて行らつしやいましよ。﹂
﹁坊ぼっちやん、緩ゆっくり遊んでやつて下さい。直ぐ寝つちまつちやあ不い可けませんよ、何どうも御苦労様なことツたら、﹂
とあとは独ひと言りごと、框かまちに腰をかけて、足を突つき出だすやうにして下げ駄たを穿はき、上へ蔽おっかぶさつて、沓くつ脱ぬぎ越ごしに此こち方らから戸をあけるお辻の脇あけの下あたりから、つむりを出して、ひよこ〳〵と出て行つた。渠かれは些ちと遠方をかけて、遠縁のものの通つ夜やに詣まいつたのである。其がために女むすめが一人だからと、私を泊とめたのであつた。
三
枕に就ついたのは、良ややほど過ぎて、私の家うちの職人衆が平いつ時もの湯から帰る時分。三人づれで、声こわ高だかにものを言つて、笑ひながら入つた、何どうした、などと言ふのが手に取るやうに聞えたが、又笑わら声いごえがして、其から寂ひっ然そり。
戸おも外ての方は騒がしい、仏ぶつ間まの方かたを、とお辻はいつたけれども其そっ方ちを枕にすると、枕まく頭らもとの障子一ひと重えを隔てて、中庭といふではないが一坪ばかりのしツくひ叩たたきの泉せん水すいがあつて、空は同おな一じほど長方形に屋根を抜いてあるので、雨も雪も降ふり込こむし、水が溜たまつて濡ぬれて居るのに、以前女おん髪なか結みゆいが住んで居て、取とり散ちらかした元もっ結といが化なつたといふ、足あし巻まきと名づける針金に似た黒い蚯みみ蚓ずが多いから、心ここ持ろもちが悪くつて、故わざと外を枕にして、並んで寝たが、最もう夏の初めなり、私には清らかに小こが掻いま巻き。
寝る時、着き換かへて、と謂いつて、女むすめの浴ゆか衣たと、紅あかい扱しご帯きをくれたけれども、角かく兵べ衛え獅じ子しの母ほ衣ろではなし、母おっ様かさんのいひつけ通り、帯を〆しめたまゝで横になつた。
お辻は寒さをする女むすめで、夜や具ぐを深く被かけたのである。
唯と顔を見合せたが、お辻は思おも出いだしたやうに、莞にっ爾こりして、
﹁さつき、駆かけ出だして来て、薬屋の前でころんだのね、大おおきな形なりをして、をかしかつたよ。﹂
﹁呀や、復また見て居たの、﹂と私は思はず。……
之これは此の春頃から、其まで人の出では入いりさへ余りなかつた上かみの薬屋が方かたへ、一人にんの美少年が来て一いっ所しょに居る、女おん主なあ人るじの甥おいださうで、信しな濃ののもの、継まま母ははに苛いじめられて家出をして、越後なる叔お母ばを便たよつたのだと謂いふ。
此のほどから黄たそ昏がれに、お辻が屋根へ出て、廂ひさしから山やま手ての方ほうを覗のぞくことが、大抵日ひご毎と、其は二階の窓から私も見た。
一体裏に空地はなし、干ほし物ものは屋根でする、板いた葺ぶきの平ひら屋やづ造くりで、お辻の家は、其その真まん中なか、泉水のある処ところから、二にけ間んば梯し子ごを懸けてあるので、悪いた戯ずらをするなら小こど児もでも上あが下りおりは自由な位、干物に不思議はないが、待て、お辻の屋根へ出るのは、手てぬ拭ぐい一ひと筋すじ棹さおに懸かかつて居る時には限らない、恰あたかも山の裾すそへかけて紙谷町は、だら〳〵のぼり、斜めに高いから一目に見える、薬屋の美少年をお辻が透すき見みをするのだと、内の職人どもが言ことばを、小こみ耳みにして居るさへあるに、先さっ刻き転んだことを、目まのあたり知つて居るも道理こそ。
呀や、復また見て居たの……といつたは其の所せ為いで、私は何の気もなかつたのであるが、之これを聞くと、目をぱつちりあけたが顔を赧あからめ、
﹁厭いやな!﹂といつて、口くち許もとまで天びろ鵞う絨どの襟えりを引ひっかぶつた。
﹁そして転んだのを知つてるの、をかしいな、辻つうちやんは転んだのを知つてるし、彼あのをばさんは、私の泊るのを知つて居たよ、皆みんな知つて居ら、をかしいな。﹂
四
﹁え!﹂と慌あわただしく顔を出して、まともに向むき直なおつて、じつと見て、
﹁今夜泊ることを知つて居ました?﹂
﹁あゝ、整ちゃんと然そう言つたんだもの。﹂
お辻は美しい眉まゆを顰ひそめた。燈とも火しびの影暗く、其の顔寂さみしう、
﹁恐おそろしい人だこと、﹂といひかけて、再び面おもてを背そむけると、又深ふか々ぶかと夜や具ぐをかけた。
﹁辻つうちやん。﹂
﹁…………﹂
﹁辻つうちやんてば、﹂
﹁…………﹂
﹁よう。﹂
こんな約束ではなかつたのである、俊しゅ徳んと丸くまるの物語のつゞき、それから手てぬ拭ぐいを藪やぶへ引いて行つた、踊おどりをする三さんといふ猫の話、それもこれも寝てからといふのであつたに、詰つまらない、寂さびしい、心細い、私は帰らうと思つた。丁ちょうど其その時とき、どんと戸を引いて、かたりと鎖じょうをさした我わが家やの響ひびき。
胸が轟とどろいて掻かい巻まきの中で足をばた〳〵したが、堪たまらなくツて、くるりとはらばひになつた。目を開あいて耳を澄すますと、物音は聞えないで、却かえって戸おも外てなる町が歴あり然ありと胸に描かれた、暗やみである。駆けて出て我わが家やの門かどへ飛とび着ついて、と思ふに、夜よも恁こう更ふけて、他ひ人との家からは勝手が分らず、考ふれば、毎夜寐ねつきに聞く職人が湯から帰る跫あし音おとも、向うと此こち方ら、音にも裏うら表おもてがあるか、様子も違つて居た。世界が変つたほど情なさけなくなつて、枕まく頭らもとに下おろした戸おも外てから隔ての蔀しとみが、厚さ十万里を以て我を囲ふが如く、身動きも出来ないやうに覚えたから、これで殺されるのか知らと涙ぐんだのである。
ものの懸念さに、母おっ様かさんをはじめ、重じゅ吉うきちも、嘉かぞ蔵うも呼よび立たてる声も揚げられず、呼い吸きさへ高くしてはならない気がした。
密そっと見れば、お辻はすや〳〵と糸が揺れるやうに幽かすかな寐ねい息き。
これも何者かに命ぜられて然しかく寐ね入つて居るらしい、起してはならないやうに思はれ、アヽ復また横になつて、足を屈かがめて、目を塞ふさいだ。
けれども今しがた、お辻が︵恐おそろしい人だこと、︶といつた時、其の顔色とともに灯あかしが恐しく暗くなつたが、消えはしないだらうかと、いきなり電いなびかりでもするかの如く、恐る〳〵目をあけて見ると、最もう真まっ暗くら、灯あかりはいつの間まにか消えて居る。
はツと驚いて我ながら、自分の膚はだに手を触れて、心む臓ねをしつかと圧おさへた折から、芬ぷん々ぷんとして薫におつたのは、橘たちばなの音おと信ずれか、あらず、仏壇の香こうの名なご残りか、あらず、ともすれば風につれて、随所、紙谷町を渡り来る一種の薬の匂においであつた。
しかも梅の影がさして、窓がぽつと明あかるくなる時、縁えんに蚊かや遣りの靡なびく時、折に触れた今までに、つい其その夜よの如く香かの高かつた事はないのである。
瓶びんか、壺つぼか、其の薬が宛さな然がら枕まく許らもとにでもあるやうなので、余あまりの事に再び目をあけると、暗くらやみの中に二枚の障子。件くだんの泉せん水すいを隔てて寝床の裾すそに立つて居るのが、一いっ間けん真まっ蒼さおになつて、桟さんも数へらるゝばかり、黒みを帯びた、動かぬ、どんよりした光がさして居た。
見る〳〵裡うちに、べら〳〵と紙が剥はげ、桟が吹ふツ消けされたやうに、ありのまゝで、障子が失うせると、羽は目めの破やぶ目れめにまで其の光が染しみ込んだ、一坪の泉水を後うしろに、立たち顕あらわれた婦おん人なの姿。
解とき余る鬢びんの堆うずたかい中に、端然として真まむ向きの、瞬またたきもしない鋭い顔は、正まさしく薬屋の主ある婦じである。
唯と見る時、頬ほおを蔽おおへる髪のさきに、ゆら〳〵と波なみ立だつたが、そよりともせぬ、裸はだ蝋かろ燭うそくの蒼あおい光を放つのを、左ゆん手でに取つてする〳〵と。
五
其の裳もすその触ふるゝばかり、すツくと枕許に突つっ立たつた、私は貝を磨いたやうな、足の指を寝ながら見て呼い吸きを殺した、顔も冷つめとうなるまでに、室まの内を隈くまなく濁つた水晶に化し了するのは蝋燭の鬼火である。鋭い、しかし媚なまめいた声して、
﹁腕わん白ぱく、先さっ刻きはよく人の深しん切せつを無にしたね。﹂
私は石になるだらうと思つて、一ひと思おもいに窘すくんだのである。
﹁したが私の深切を受ければ、此の女むすめに不深切になる処ところ。感心にお前、母おっ様かさんに結んで頂いた帯を〆しめたまゝ寝てること、腕白もの、おい腕白もの、目をぱちくりして寝て居るよ。﹂といつて、ふふんと鷹おう揚ように笑つた。姐あね御ご真まっ実たくだ、最もう堪たまらぬ。
途端に人ひと膚はだの気けは勢いがしたので、咽の喉どを噛かまれたらうと思つたが、然そうではなく、蝋燭が、敷しき蒲ぶと団んの端と端、お辻と並んで合せ目の、畳たたみの上に置いてあつた。而そうして婦おん人なは膝ひざをついて、のしかゝるやうにして、鬢びんの間あいから真白な鼻で、お辻の寐ね顔の半なかば夜や具ぐを引ひっかついで膨らんだ前髪の、眉まゆのかゝり目のふちの稍やや曇つて見えるのを、じつと覗のぞ込きこんで居るのである。おゝ、あはれ、小ささやかに慎つつましい寐姿は、藻もぬ脱けの殻か、山に夢がさまよふなら、衝つき戻もどす鐘も聞えよ、と念じ危あやぶむ程こそありけれ。
婦おん人なは右め手てを差さし伸のばして、結ゆい立たての一ひと筋すじも乱れない、お辻の高島田を無む手ずと掴つかんで、づツと立つた。手荒さ、烈はげしさ。元もと結ゆいは切れたから、髪のずるりと解とけたのが、手の甲こうに絡まつはると、宙に釣つるされるやうになつて、お辻は半はん身しん、胸もあらはに、引ひき起おこされたが、両手を畳に裏返して、呼い吸きのあるものとは見えない。
爾その時とき、右め手てに黒髪を搦からんだなり、
﹁人もあらうに私の男に懸けそ想うした。さあ、何どうするか、よく御覧。﹂
左ゆん手での肱ひじを鍵かぎ形なりに曲げて、衝つと目よりも高く差さし上あげた、掌たなそこに、細長い、青い、小さな瓶びんあり、捧げて、俯うつ向むいて、額ひたいに押おし当あて、
﹁呪のろ詛いの杉より流れし雫しずくよ、いざ汝なんじの誓ちかいを忘れず、目まのあたり、験しるしを見せよ、然さらば、﹂と言つて、取とり直なおして、お辻の髪の根に口を望ませ、
﹁あの美少年と、容きり色ょうも一いっ対ついと心ここ上ろあがつた淫いた奔ずら女もの、いで〳〵女の玉たまの緒おは、黒髪とともに切れよかし。﹂
と恰あたかも宣告をするが如くに言つて、傾けると、颯さっとかゝつて、千ちす筋じの紅くれない溢あふれて、糸を引いて、ねば〳〵と染にじむと思ふと、丈たけなる髪はほつりと切れて、お辻は崩れるやうに、寝床の上、枕をはづして土つち気けい色ろの頬ほおを蒲ふと団んに埋うずめた。
玉の緒か、然さらば玉の緒は、長く婦おん人なの手に奪はれて、活いきたる如く提ひっさげられたのである。
莞かん爾じとして朱しゅの唇の、裂けるかと片かた頬ほ笑えみ、
﹁腕わん白ぱく、膝ひざへ薬をことづかつてくれれば、私が来るまでもなく、此の女むすめは殺せたものを、夜よが明けるまで黙つて寐ねなよ。﹂といひすてにして、細さい腰よう楚そ々そたる後うし姿ろすがた、肩を揺ゆすつて、束つかね髱たぼがざわ〳〵と動いたと見ると、障子の外。
蒼あおい光は浅あさ葱ぎま幕くを払つたやうに颯さっと消えて、襖ふすまも壁も旧もとの通り、燈ともしびが薄暗く点ついて居た。
同時に、戸おも外てを山やま手ての方かたへ、からこん〳〵と引ひき摺ずつて行く婦おん人なの跫あし音おと、私はお辻の亡なき骸がらを見まいとして掻かい巻まきを被かぶつたが、案外かな。
抱だき起おこされると眩まばゆいばかりの昼であつた。母親も帰つて居た。抱起したのは昨ゆう夜べのお辻で、高島田も其まゝ、早はや朝の化けわ粧いもしたか、水の垂たる美しさ。呆あっ気けに取られて目も放さないで目み詰つめて居ると、雪にも紛まがふ頸うなじを差さしつけ、くツきりした髷まげの根を見せると、白おし粉ろいの薫かおり、櫛くしの歯も透すき通とおつて、
﹁島田がお好すきかい、﹂と唯ただあでやかなものであつた。私は家に帰つて後のちも、疑うたがいは今に解とけぬ。
お辻は十九で、敢あえて不思議はなく、煩わずらつて若わか死じにをした、其の黒髪を切つたのを、私は見て悚ぞ然っとしたけれども、其は仏教を信ずる国の習慣であるさうな。