一
此このもの語がたりの起つた土地は、清きと、美しきと、二ふた筋すじの大おお川かわ、市しの両端を流れ、真まん中な央かに城の天てん守しゅ尚なほ高く聳そびえ、森黒く、濠ほり蒼あおく、国境の山岳は重ちょ畳うじょうとして、湖を包み、海に沿ひ、橋と、坂と、辻の柳、甍いらかの浪なみの町を抱いだいた、北陸の都である。
一ひと年とせ、激しい旱かん魃ばつのあつた真夏の事。
……と言ふと忽たちまち、天に可おそ恐ろしき入にゅ道うど雲うぐも湧わき、地に水すい論ろんの修しゅ羅らの巷ちまたの流れたやうに聞えるけれど、決して、そんな、物ぶっ騒そうな沙さ汰たではない。
恁かかる折から、地方巡業の新劇団、女優を主しゅとした帝都の有名なる大おお一いち座ざが、此の土地に七なの日かか間んの興行して、全市の湧くが如き人気を博した。
極ごく暑しょの、旱ひでりと言ふのに、たとひ如い何かなる人気にせよ、湧くの、煮にえるのなどは、口にするも暑くるしい。が、――諺ことわざに、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、大おお盥だらいに満まん々まんと水を湛たたへ、蝋ろう燭そくに灯ひを点じたのを其その中に立てて目めぬ塗りをすると、壁を透とおして煙が裡うちへ漲みなぎつても、火気を呼ばないで安全だと言ふ。……火を以て火を制するのださうである。
こゝに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるが如き演劇は、恰あたかも此の轍てつだ、と称となへて可いい。雲は焚やけ、草は萎しぼみ、水は涸かれ、人は喘あえぐ時、一座の劇は宛さな然がら褥じょ熱くねつに対する氷の如く、十万の市民に、一剤ざい、清涼の気を齎もたらして剰あま余りあつた。
膚はだの白さも雪なれば、瞳ひとみも露つゆの涼しい中にも、挙こぞつて座ざち中ゅうの明星と称たたへられた村むら井いし紫ぎょ玉くが、
﹁まあ……前さっ刻きの、あの、小さな児こは?﹂
公園の茶ちゃ店みせに、一人静しずかに憩いこひながら、緋ひし塩お瀬ぜの煙きせ管るづ筒つの結むす目びめを解とき掛かけつゝ、偶ふと思つた。……
髷まげも女じょ優ゆう巻まきでなく、故わざとつい通りの束そく髪はつで、薄うす化げし粧ょうの淡あっ洒さりした意いき気づく造り。形し容なに合せて、煙たば草こい入れも、好みで持つた気きぐ組みの婀あ娜だ。
で、見た処ところは芸げい妓しゃの内ない証しょ歩ある行きと云ふ風だから、まして女優の、忍びの出、と言つても可いい風ふ采う。
また実際、紫玉は此の日は忍びであつた。演しば劇いは昨きの日う楽らくに成つて、座の中には、直ぐに次つぎ興こう行ぎょうの隣りん国ごくへ、早く先さき乗のりをしたのが多い。が、地方としては、此これまで経へめ歴ぐつた其そこ処か彼し処こより、観光に価あた値いする名所が夥おびただしい、と聞いて、中なか二ふつ日かばかりの休やす暇みを、紫玉は此の土地に居いの残こつた。そして、旅りょ宿しゅくに二人附つき添そつた、玉たま野の、玉たま江えと云ふ女弟子も連れないで、一人で密そっと、……日ひざ盛かりも恁こうした身には苦にならず、町まち中なかを見つゝ漫そぞろに来た。
惟おもふに、太平の世の国の守かみが、隠れて民間に微びこ行うするのは、政まつりごとを聞く時より、どんなにか得意であらう。落おち人うどの其それならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさへ、我わが名なを呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、其の都つ度ど、ハツと隠れ忍んで、微ほほ笑えみ〳〵通ると思へ。
深ふか張ばりの涼ひが傘さの影ながら、尚なほ面おも影かげは透き、色いろ香かは仄ほのめく……心ここ地ちすれば、誰たれ憚はばかるともなく自おの然ずから俯ふし目めに俯うつ向むく。謙譲の褄つまはづれは、倨きょ傲ごうの襟えりより品ひんを備へて、尋じん常じょうな姿すが容たかたちは調ととのつて、焼やけ地ちに焦いりつく影も、水で描いたやうに涼しくも清さわ爽やかであつた。
僅わず少かに畳たたみの縁へりばかりの、日影を選んで辿たどるのも、人は目をつて、鯨くじらに乗つて人魚が通ると見たであらう。……素すあ足しの白いのが、すら〳〵と黒くろ繻じゅ子すの上を辷すべれば、溝どぶの流ながれも清しみ水ずの音おと信ずれ。
で、真まっ先さきに志こころざしたのは、城の櫓やぐらと境を接した、三みつ二ふたつ、全国に指を屈すると云ふ、景けい勝しょうの公園であつた。
二
公園の入口に、樹林を背せ戸どに、蓮はす池いけを庭に、柳、藤ふじ、桜、山やま吹ぶきなど、飛とび々とびに名を呼ばれた茶ちゃ店みせがある。
紫玉が、いま腰を掛けたのは柳の茶屋と言ふのであつた。が、紅あかい襷たすきで、色いろ白じろな娘が運んだ、煎せん茶ちゃと煙たば草こぼ盆んを袖そでに控へて、然さまで嗜たしなむともない、其の、伊だ達てに持つた煙たば草こい入れを手にした時、――
﹁……あれは女の児こだつたか知ら、其とも男の児だつたらうかね。﹂
――と思ひ出したのは其である。――
で、華きゃ奢しゃ造づくりの黄きん金ぎ煙せ管るで、余り馴なれない、些ちと覚おぼ束つかない手つきして、青せい磁じい色ろの手つきの瀬せと戸ひ火ば鉢ちを探りながら、
﹁……帽子を……被かぶつて居たとすれば、男の児だらうが、青い鉢はち巻まきだつけ。……麦むぎ藁わらに巻いた切きれだつたらうか、其ともリボンか知ら。色は判はっ然きり覚えて居るけど、……お待ちよ、――と恁こうだから。……﹂
取つて着けたやうな喫のみ方だから、見ると、もの〳〵しいまでに、打うち傾かたむいて一ひと口くち吸つて、
﹁……年と紀しは、然そうさね、七なな歳つか六むっ歳つぐらゐな、色の白い上品な、……男の児にしては些ちと綺きれ麗い過ぎるから女の児――だとリボンだね。――青いリボン。……幼ちい稚さくたつて緋ひと限りもしないわね。では、矢やっ張ぱり女の児か知ら。それにしては麦藁帽子……尤もっともおさげに結ゆつてれば……だけど、其そ処こまでは気が付かない。……﹂
大通りは一ひと筋すじだが、道に迷ふのも一興で、其そ処こともなく、裏うら小こう路じへ紛れ込んで、低い土どべ塀いから瓜うり、茄な子すの畠はたけの覗のぞかれる、荒あれ寂さびれた邸やし町きまちを一人で通つて、まるつ切きり人に行ゆき合あはず。白熱した日ひざ盛かりに、よくも羽が焦げないと思ふ、白い蝶ちょ々うちょうの、不意にスツと来て、飜ひら々ひらと擦すれ違ちがふのを、吃びっ驚くりした顔をして見送つて、そして莞にっ爾こり……したり……然そうした時は象ぞう牙げぼ骨ねの扇で一ちょ寸っと招いて見たり。……土塀の崩くず屋れや根ねを仰いで血のやうな百さる日すべ紅りの咲さき満みちた枝を、涼ひが傘さの尖さきで擽くすぐる、と堪たまらない。とぶる〳〵ゆさ〳〵と行やるのに、﹁御免なさい。﹂と言つて見たり。石垣の草くさ蒸いきれに、棄すててある瓜の皮が、化ばけて脚あしが生えて、むく〳〵と動うご出きだしさうなのに、﹁あれ。﹂と飛とび退のいたり。取とり留とめのないすさびも、此の女の人気なれば、話せば逸話に伝へられよう。
低い山かと見た、樹こだ立ちの繁つた高い公園の下へ出ると、坂の上のぼり口くちに社やしろがあつた。
宮も大きく、境けい内だいも広かつた。が、砂浜に鳥居を立てたやうで、拝はい殿でんの裏うら崕がけには鬱うつ々うつたる其の公園の森を負おひながら、広ひろ前まえは一面、真まそ空らなる太陽に、礫こいしの影一つなく、唯ただ白しら紙かみを敷しき詰つめた光あり景さまなのが、日ひざ射しに、やゝ黄きばんで、渺びょうとして、何ど処こから散つたか、百日紅の二三点。
……覗くと、静まり返つた正面の階きざはしの傍かたわらに、紅べにの手たづ綱な、朱しゅの鞍くら置いた、つくりものの自の神しん馬めが寂せき寞ばくとして一ひと頭つ立つ。横に公園へ上あがる坂は、見みと透おしに成つて居たから、涼ひが傘さのまゝスツと鳥居から抜けると、紫玉の姿は色のまゝ鳥居の柱に映つて通る。……其そ処こに屋やね根がこ囲いした、大おおいなる石の御みた手ら洗しがあつて、青き竜りゅ頭うずから湛たたへた水は、且かつすら〳〵と玉を乱して、颯さっと簾すだれに噴ふき溢あふれる。其その手ちょ水うず鉢ばちの周まわ囲りに、唯ただ一人……其の稚ち児ごが居たのであつた。
が、炎天、人影も絶えた折から、父ちち母ははの昼寝の夢を抜ぬけ出だした、神官の児こであらうと紫玉は視みた。ちら〳〵廻りつゝ、廻りつゝ、彼あ方ち此こ方ちする。……
唯と、御手洗は高く、稚児は小さいので、下を伝うてまはりを廻るのが、宛さな然がら、石に刻んだ形が、噴ふき溢あふれる水の影に誘はれて、すら〳〵と動くやうな。……と視るうちに、稚児は伸のび上あがり、伸のび上あがつては、いたいけな手を空に、すらりと動いて、伸上つては、又空に手を伸ばす。――
紫玉はズツと寄つた。稚児は最もう涼ひが傘さの陰に入つたのである。
﹁一ちょ寸っと……何をして居るの。﹂
﹁水が欲しいの。﹂
と、あどけなく言つた。
あゝ、其それがため足場を取つては、取とり替かへては、手を伸ばす、が爪つま立だつても、青い巾きれを巻いた、其の振ふり分わけ髪がみ、まろが丈たけは……筒つつ井いづ筒つ其の半なかばにも届くまい。
三
其の御みた手ら洗しの高い縁ふちに乗つて居る柄ひし杓ゃくを、取りたい、と又稚ち児ごが然そう言つた。
紫玉は思はず微ほほ笑えんで、
﹁あら、恁こうすれば仔わ細けはないよ。﹂
と、半はん身しんを斜めにして、溢あふれかゝる水の一ひと筋すじを、玉たまの雫しずくに、颯さっと散らして、赤く燃ゆるやうな唇に請うけた。ちやうど渇いても居たし、水の潔きよい事を見たのは言ふまでもない。
﹁ねえ、お前。﹂
稚児が仰いで、熟じっと紫玉を視みて、
﹁手を浄きよめる水だもの。﹂
直じ接かに吻くちを接つけるのは不作法だ、と咎とがめたやうに聞えたのである。
劇壇の女にょ王おうは、気けし色きした。
﹁いやにお茶ちゃがつてるよ、生意気な。﹂と、軽く其の頭つむりを掌てのひらで叩たたき放ぱなしに、衝つと広ひろ前まえを切れて、坂に出て、見返りもしないで、扨さてやがて此の茶屋に憩いこつたのであつた。――
今思ふと、手を触れた稚児の頭つむりも、女か、男か、不思議に其の感覚が残らぬ。気は涼しかつたが、暑さに、幾いく干らか茫ぼうとしたものかも知れない。
﹁娘ねえさん、町から、此の坂を上のぼる処ところに、お宮がありますわね。﹂
﹁はい。﹂
﹁何と言ふ、お社やしろです。﹂
﹁浦うら安やす神社でございますわ。﹂と、片手を畳たたみに、娘は行儀正しく答へた。
﹁何なに神がみ様さまが祭つてあります。﹂
﹁お父さん、お父さん。﹂と娘が、つい傍そばに、蓮はす池いけに向いて、︵じんべ︶と言ふ膝ひざぎりの帷かた子びらで、眼めが鏡ねの下に内職らしい網あみをすいて居る半はん白ぱくの父を呼ぶと、急いで眼鏡を外はずして、コツンと水すい牛ぎゅうの柄えを畳たたんで、台に乗せて、其から向むき直なおつて、丁寧に辞儀をして、
﹁えゝ、浦安様は、浦安かれとの、其の御守護ぢやさうにござりまして。水をばお司つかさどりなされます、竜りゅ神うじんと申すことでござります。これの、太たゆ夫うさ様まにお茶を替へて上げぬかい。﹂
紫玉は我われ知しらず衣えも紋んが締しまつた。……称となへかたは相そ応ぐはぬにもせよ、拙へたな山水画の裡なかの隠者めいた老人までが、確か自分を知つて居る。
心ここ着ろづけば、正面神かみ棚だなの下には、我が姿、昨ゆう夜べも扮した、劇中女ヒ主ロ人イ公ンの王妃なる、玉の鳳ほう凰おうの如きが掲げてあつた。
﹁そして、……﹂
声も朗ほがらかに、且かつ慎つつましく、
﹁竜神だと、女おん神ながみですか、男おと神こがみですか。﹂
﹁さ、さ。﹂と老人は膝ひざを刻んで、恰あたかも此の問を待まち構かまへたやうに、
﹁其の儀は、とかくに申しまするが、如いか何がか、孰いずれとも相あい分わかりませぬ。此の公園のづツと奥に、真まっ暗くらな巌いわ窟やの中に、一ヶ処清しみ水ずの湧わく井戸がござります。古こし色ょくの夥おびただしい青銅の竜が蟠わだかまつて、井いげ桁たに蓋ふたをして居おりまして、金かな網あみを張り、みだりに近づいては成りませぬが、霊れい沢たく金こん水すいと申して、此がために此の市の名が起りましたと申します。此が奥の院と申す事で、えゝ、貴あな方たさ様まが御ぎょ意いの浦安神社は、其の前まえ殿どのと申す事でござります。御おま参い詣りを遊ばしましたか。﹂
﹁あ、否いいえ。﹂と言つたが、すぐ又稚ち児ごの事が胸に浮んだ。それなり一いち時じ言葉が途と絶だえる。
森しん々しんたる日ひな中かの樹林、濃く黒く森に包まれて城の天守は前に聳そびゆる。茶ちゃ店みせの横にも、見みあ上げるばかりの槐えんじゅ榎えのきの暗い影が樅もみ楓かえでを薄く交まじへて、藍らん緑りょくの流ながれに群ぐん青じょうの瀬のある如き、たら〳〵上あがりの径こみちがある。滝かと思ふ蝉せみ時しぐ雨れ。光る雨、輝く木この葉は、此の炎天の下した蔭かげは、恰あたかも稲いな妻ずまに籠こもる穴に似て、もの凄すごいまで寂ひっ寞そりした。
木こし下たや闇み、其の横よこ径みちの中なか途ほどに、空あき屋やかと思ふ、廂ひさしの朽くちた、誰たれも居ない店がある……
四
鎖とざしてはないものの、奥に人が居て住むかさへ疑はしい。其とも日が暮れると、白い首でも出て些ちとは客が寄らうも知れぬ。店一いっ杯ぱいに雛ひな壇だんのやうな台を置いて、最いとど薄暗いのに、三さん方ぽうを黒くろ布ぬので張はり廻まわした、壇の附つけ元もとに、流なが星れぼしの髑しゃ髏れこうべ、乾ひからびた蛾ひとりむしに似たものを、点々並べたのは的まとである。地方の盛さか場りばには時々見み掛かける、吹ふき矢やの機から関くりとは一ひと目め視みて紫玉にも分つた。
実まことは――吹ふき矢やも、化ばけものと名のついたので、幽霊の廂ひあ合わいの幕から倒さかさまにぶら下り、見みこ越しに入ゅう道どうは誂あつらへた穴からヌツと出る。雪女は拵こしらへの黒くろ塀べいに薄うっすり立ち、産うぶ女めど鳥りは石いし地じぞ蔵うと並んで悄しょ乎んぼり彳たたずむ。一ひとツ目め小こぞ僧うの豆とう腐ふか買いは、流なが灌れか頂んちょうの野のが川わの縁へりを、大おお笠がさを俯うつ向むけて、跣はだ足しでちよこ〳〵と巧みに歩あ行るくなど、仕しか掛けものに成つて居る。……如いか何がはしいが、生いき霊りょうと札ふだの立つた就なか中んずく小さな的まとに吹ふき当あてると、床ゆか板いたがぐわらりと転ひっ覆くりかえつて、大おお松まつ蕈たけを抱いた緋の褌ふんどしのおかめが、とんぼ返りをして莞にこ爾りと飛とび出だす、途端に、四方へ引張つた綱つなが揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで一いち斉どきにぐわんぐわらん、どんどと鳴つて、其で市いちが栄えた、店なのであるが、一ツ目小僧のつたひ歩あ行るく波なみ張ばりが切きれ々ぎれに、藪やぶ畳だたみは打ぶっ倒たおれ、飾かざりの石地蔵は仰あお向むけに反そつて、視た処ところ、ものあはれなまで寂さびれて居た。
――其の軒のきの土ど間まに、背うし後ろむきに蹲しゃがんだ僧そう形ぎょうのものがある。坊ぼう主ずであらう。墨すみ染ぞめの麻あさの法ころ衣もの破やれ〳〵な形なりで、鬱うこ金んも最もう鼠ねずみに汚よごれた布に――すぐ、分つたが、――三しゃ味みせ線んを一挺ちょう、盲めく目らの琵びわ琶じ背ょ負いに背し負ょつて居る、漂さす泊らふ門かど附づけの類たぐいであらう。
何をか働く。人目を避けて、蹲うずくまつて、虱しらみを捻ひねるか、瘡かさを掻かくか、弁当を使ふとも、掃はき溜だめを探した干ほし魚うおの骨を舐しゃぶるに過ぎまい。乞こじ食きのやうに薄うす汚ぎたない。
紫玉は敗はい竄ざんした芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い歎ため息いきを漏もらした。且かつあはれみ、且つ可いま忌わしがつたのである。
灰はい吹ふきに薄い唾つばした。
此の世よざ盛かりの、思ひ上れる、美しき女優は、樹の緑蝉せみの声も滴したたるが如き影に、框かまちも自おの然ずから浮いて高い処ところに、色も濡ぬれ々ぬれと水みず際ぎわ立だつ、紫あじ陽さ花いの花の姿を撓たわわに置きつゝ、翡ひす翠い、紅ルビ玉イ、真珠など、指環を三みつ四よつ嵌はめた白い指をツト挙げて、鬢びんの後おく毛れげを掻いた次つい手でに、白プラ金チナの高たか彫ぼりの、翼に金ダ剛イ石ヤを鏤ちりばめ、目には血スル膸ウド玉ストン、嘴くちばしと爪に緑エメ宝ラル玉ドの象ぞう嵌がんした、白く輝く鸚おう鵡むの釵かんざし――何なに某がしの伯爵が心を籠こめた贈おくりものとて、人は知つて、︵伯爵︶と称となふる其の釵を抜いて、脚あしを返して、喫のみ掛かけた火ひざ皿らの脂やにを浚さらつた。……伊だ達ての煙きせ管るは、煙を吸ふより、手すさみの科しぐさが多い慣なら習いである。
三味線背し負ょつた乞食坊主が、引ひっ掻かくやうにもぞ〳〵と肩を揺ゆすると、一いち眼がんひたと盲しひた、眇めっかちの青ぶくれの面かおを向けて、恁こう、引ひっ傾かたがつて、熟じっと紫玉の其の状さまを視みると、肩を抽ぬいた杖つえの尖さきが、一度胸へ引ひっ込こんで、前まえ屈かがみに、よたりと立つた。
杖を径こみちに突つき立たて〳〵、辿たど々たどしく下した闇やみを蠢うごめいて下おりて、城の方かたへ去るかと思へば、のろく後あと退じさりをしながら、茶ちゃ店みせに向つて、吻ほっと、立たち直なおつて一ひと息いき吐つく。
紫玉の眉まゆの顰ひそむ時、五間けんばかり軒のきを離れた、其そ処こで早はや、此こな方たへぐつたりと叩おじ頭ぎをする。
知らない振ふりして、目をそらして、紫玉が釵かんざしに俯うつ向むいた。が、濃い睫まつ毛げの重く成るまで、坊主の影は近ちかづいたのである。
﹁太たゆ夫うさ様ま。﹂
ハツと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、目めさ前きの土ど間まに、両りょ膝うひざを折つて居た。
﹁…………﹂
﹁お願ねがいでござります。……お慈じ悲ひぢや、お慈悲、お慈悲。﹂
仮かり初そめに置いた涼ひが傘さが、襤ぼろ褸ご法ろ衣もの袖そでに触れさうなので、密そっと手元へ引いて、
﹁何ですか。﹂と、坊主は視ないで、茶屋の父おや娘こに目を遣やつた。
立つて声を掛けて追はうともせず、父も娘も静しずかに視て居る。
五
少しば時らくすると、此の旱ひでりに水は涸かれたが、碧へき緑りょくの葉の深く繁れる中なる、緋もみ葉じの滝と云ふのに対して、紫玉は蓮はす池いけの汀みぎわを歩あ行るいて居た。こゝに別に滝の四あず阿まやと称となふるのがあつて、八やツ橋はしを掛け、飛とび石いしを置いて、枝しお折り戸どを鎖とざさぬのである。
で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小こも戻どりする事に成る。紫玉はあの、吹ふき矢やの径みちから公園へ入らないで、引ひき返かえしたので、……涼ひが傘さを投なげ遣やりに翳かざしながら、袖そでを柔かに、手首をやゝ硬くして、彼あす処こで抜いた白プラ金チナの鸚おう鵡むの釵かんざし、其の翼を一ちょ寸っと抓つまんで、晃きら乎りとぶら下げて居るのであるが。
仔細は希け有うな、……
坊主が土ど下げ座ざして﹁お慈悲、お慈悲。﹂で、お願ねがいと言ふのが金かねでも米でもない。施ほど与こしには違ひなけれど、変な事には﹁お禁まじ厭ないをして遣つかはされい。虫歯が疚うずいて堪へ難がたいでな。﹂と、成なる程ほど左の頬ほおがぷくりとうだばれたのを、堪たえ難がたい状さまに掌てのひらで抱かかへて、首を引ひっ傾かたむけた同じ方の一いち眼がんが白くどろんとして潰つぶれて居る。其の目からも、ぶよ〳〵とした唇からも、汚きたない液しるが垂れさうな塩あん梅ばい。﹁お慈悲ぢや。﹂と更に拝んで、﹁手足に五寸すん釘を打たれうとても、恁かくまでの苦くる悩しみはございますまいぞ、お情なさけぢや、禁まじ厭のうて遣つかはされ。﹂で、禁まじ厭ないとは別べつ儀ぎでない。――其の紫玉が手にした白プラ金チナの釵を、歯のうろへ挿さし入いれて欲しいのだと言ふ。
﹁太たゆ夫うさ様まお手づから。……竜と蛞なめ蝓くじほど違ひましても、生しょうあるうちは私わしぢやとて、芸人の端くれ。太夫様の御おひ光か明りに照らされますだけでも、此の疚いた痛みは忘られませう。﹂と、はツはツと息を吐つく。……
既に、何なん人ぴとであるかを知られて、土に手をついて太夫様と言はれたのでは、其の所いわ謂ゆる禁まじ厭ないの断り悪にくさは、金銭の無むし心んをされたのと同じ事――但ただし手から手へ渡すも恐れる……落して釵かんざしを貸さうとすると、﹁あゝ、いや、太夫様、お手づから。……貴あな女たさ様まの膚はだの移うつ香りが、脈の響ひびきをお釵から伝へ受けたいのでござります。貴あな方たさ様まの御おけ血ちみ脈ゃく、其が禁まじ厭ないに成りますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。﹂あん、と口を開ひらいた中へ、紫玉は止やむ事を得ず、手に持もち添そへつつ、釵の脚あしを挿さし入いれた。
喘あえぐわ、舐しゃぶるわ! 鼻はな息いきがむツと掛かかる。堪たまらず袖を巻いて唇を蔽おおひながら、勢いきおひ釵とともに、やゝ白しろやかな手の伸びるのが、雪せっ白ぱくなる鵞がち鳥ょうの七しっ宝ぽうの瓔よう珞らくを掛けた風ふぜ情いなのを、無ぶし性ょう髯ひげで、チユツパと啜すす込りこむやうに、坊主は犬いぬ蹲つくばいに成つて、頤あごでうけて、どろりと嘗なめ込む。
唯と、紫玉の手には、づぶ〳〵と響いて、腐れた瓜うりを突つき刺さす気きみ味あ合い。
指環は緑りょ紅くこうの結晶したる玉の如き虹にじである。眩まぶしかつたらう。坊主は開ひらいた目も閉ぢて、とした顔がん色しょくで、しつきりもなしに、だら〳〵と涎よだれを垂らす。﹁あゝ、手がだるい、まだ?﹂﹁いま一息。﹂――
不思議な光よう景すは、美しき女が、針の尖さきで怪しき魔を操あやつる、舞台に於ける、神秘なる場面にも見えた。茶ちゃ店みせの娘と其の父は、感に堪へた観客の如く、呼い吸きを殺して固かた唾ずを飲んだ。
……﹁あゝ、お有あり難がたや、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。﹂と三しゃ味みせ線んづ包つみ、がつくりと抜ぬき衣えも紋ん。で、両りょ掌うてを仰あお向むけ、低く紫玉の雪の爪つま尖さきを頂く真似して、﹁恁かやうに穢むさいものなれば、くど〳〵お礼など申して、お身みぢ近かは却かえつてお目めざ触わり、御恩は忘れぬぞや。﹂と胸を捻ねぢるやうに杖つえで立つて、
﹁お有難や、お有難や。あゝ、苦くを忘れて腑ふが抜けた。もし、太たゆ夫うさ様ま。﹂と敷居を跨またいで、蹌よろ踉けざ状まに振ふり向むいて、﹁あの、其のお釵かんざしに……﹂――﹁え。﹂と紫玉が鸚おう鵡むを視みる時、﹁歯くさが着いては居おりませぬか。恐おそ縮れや。……えひゝ。﹂とニヤリとして、
﹁ちやつとお拭ふきなされませい。﹂此がために、紫玉は手を掛けた懐ふと紙ころがみを、余よ儀ぎなく一ちょ寸っと逡ため巡らつた。
同時に、あらぬ方かたに蒼つと面おもてを背そむけた。
六
紫玉は待まち兼かねたやうに懐かい紙しを重ねて、伯爵、を清めながら、森の径こみちへ行ゆきましたか、坊主は、と訊きいた。父も娘も、へい、と言つて、大方然そうだらうと言ふ。――最もう影もなかつたのである。父おや娘こは唯ただ、紫玉の挙ふる動まいにのみ気を奪とられて居たらう。……此の辺を歩あ行るく門かど附づけ見たいなもの、と又訊けば、父親がつひぞ見掛けた事はない。娘が跣はだ足しで居ました、と言つたので、旅から紛まぎ込れこんだものか、其も分らぬ。
と、言ふうちにも、紫玉は一ちょ寸いち々ょ々い眉まゆを顰ひそめた。抜いて持つた釵かんざし、鬢びん摺ずれに髪に返さうとすると、呀や、する毎ごとに、手の撓しなふにさへ、得えも言はれない、異いな、変な、悪わる臭ぐさい、堪たまらない、臭にお気いがしたのであるから。
城は公園を出る方で、其そ処こにも影がないとすると、吹ふき矢やの道を上のぼつたに相違ない。で、後あとへ続くには堪へられぬ。
其そ処こで滝の道を訊いて――此こ処こへ来た。――
泉せん殿でんに擬なぞらへた、飛とび々とびの亭ちんの孰いずれかに、邯かん鄲たんの石の手ちょ水うず鉢ばち、名品、と教へられたが、水の音より蝉せみの声。で、勝手に通とお抜りぬけの出来る茶屋は、昼寝の半なかばらしい。何どの座敷も寂ひっ寞そりして人ひと気けは勢いもなかつた。
御おは歯ぐろ黒と蜻ん蛉ぼが、鉄か漿ねつけた女にょ房うぼの、微かすかな夢の影らしく、ひら〳〵と一つ、葉ばかりの燕かき子つば花たを伝つて飛ぶのが、此のあたり御殿女中の逍しょ遙うようした昔の幻を、寂さびしく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思はせる。
すべて旧きゅ藩うは侯んこうの庭園だ、と言ふにつけても、贈おく主りぬしなる貴公子の面おも影かげさへ浮ぶ、伯爵の鸚おう鵡むを何なんとせう。
霊れい廟びょうの土の瘧おこりを落し、秘ひ符ふの威徳の鬼を追ふやう、立たち処どころに坊主の虫歯を癒いやしたは然さることながら、路みち々みちも悪わる臭ぐささの消えないばかりか、口こう中ちゅうの臭気は、次第に持つ手を伝つたわつて、袖そでにも移りさうに思はれる。
紫玉は、樹の下に涼ひが傘さを畳たたんで、滝を斜めに視みつゝ、池の縁へりに低く居た。
滝は、旱ひでりに爾しかく骨なりと雖いえども、巌いわおには苔こけ蒸むし、壺つぼは森を被かついで蒼あおい。然しかも巌いわがくれの裏に、どうどうと落ちたぎる水の音の凄すさまじく響くのは、大おお樋どいを伏せて二重に城の用水を引いた、敵に対する要害で、地下を城の内うち濠ぼりに灌そそぐと聞く、戦国の余なご残りださうである。
紫玉は釵かんざしを洗つた。……艶えんなる女優の心を得た池の面おもは、萌もえ黄ぎの薄うす絹ぎぬの如く波を伸のべつゝ拭ぬぐつて、清めるばかりに見えたのに、取つて黒髪に挿ささうとすると、些ちっと離したくらゐでは、耳の辺はたへも寄せられぬ。鼻を衝ついて、ツンと臭くさい。
﹁あ、﹂と声を立てたほどである。
雫しずくを切ると、雫まで芬ぷんと臭におふ。たとへば貴重なる香水の薫かおりの一滴の散るやうに、洗へば洗ふほど流せば流すほど香かが広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果はては指環の緑りょ碧くへ紅きこ黄うこうの珠しゅ玉ぎょくの数にも、言ひやうのない悪あく臭しゅうが蒸いきれ掛かかるやうに思はれたので。……
﹁えゝ。﹂
紫玉はスツと立つて、手のはずみで一ひと振ふり振つた。
﹁ぬしにお成りよ。﹂
白プラ金チナの羽はねの散る状さまに、ちら〳〵と映ると、釵かんざしは滝たき壺つぼに真まっ蒼さおな水に沈んで行く。……あはれ、呪はれたる仙せん禽きんよ。卿おんみは熱帯の鬱うつ林りんに放たれずして、山さん地ちの碧へき潭たんに謫たくされたのである。……ト此の奇異なる珍客を迎ふるか、不可思議の獲えものに競きそふか、静しずかなる池の面もに、眠れる魚うおの如く縦じゅ横うおうに横よこたはつた、樹の枝々の影は、尾おひ鰭れを跳ねて、幾千ともなく、一いち時どきに皆揺ゆれ動うごいた。
此に悚ぞ然っとした状さまに、一度すぼめた袖を、はら〳〵と翼の如く搏たたいたのは、紫玉が、可いと厭わしき移うつ香りがを払ふとともに、高貴なる鸚鵡を思ひ切つた、安からぬ胸の波動で、尚なほ且かつ飜はら々はらとふるひながら、衝つと飛とび退のくやうに、滝の下行く桟さん道どうの橋に退のいた。
石の反そり橋はしである。巌いわと石の、いづれにも累かさなれる牡ぼた丹んの花の如きを、左右に築き上げた、銘めいを石しゃ橋っきょうと言ふ、反そり橋はしの石の真中に立つて、吻ほと一ひと息いきした紫玉は、此の時、すらりと、脊せも心も高かつた。
七
明めい眸ぼうの左右に樹こだ立ちが分れて、一ひと条すじの大だい道どう、炎天の下もとに展ひらけつゝ、日ひざ盛かりの町の大おお路じが望まれて、煉れん瓦がづ造くりの避雷針、古い白しら壁かべ、寺の塔など睫まつげを擽こそぐる中に、行ゆき交かふ人は点々と蝙こう蝠もりの如く、電車は光りながら山さん椒しょ魚ううおの這はふのに似て居る。
忘れもしない、眼がん界かいの其の突つき当あたりが、昨ゆう夜べまで、我あればこそ、電燭の宛さな然がら水晶宮の如く輝いた劇場であつた。
あゝ、一いち翳えいの雲もないのに、緑みどり紫むらさき紅くれないの旗の影が、ぱつと空を蔽おおふまで、花はなやかに目に飜ひるがえつた、唯と見ると颯さっと近づいて、眉まゆに近い樹々の枝に色いろ鳥どりの種いろ々いろの影に映つた。
蓋けだし劇場に向つて、高く翳かざした手の指環の、玉の矜ほこりの幻まぼ影ろしである。
紫玉は、瞳ひとみを返して、華きゃ奢しゃな指を、俯うつ向むいて視みつゝ莞にっ爾こりした。
そして、すら〳〵と石しゃ橋っきょうを前むこ方うへ渡つた。それから、森を通る、姿は翠みどりに青ずむまで、静しずかに落着いて見えたけれど、二ふたツ三みツ重かさなつた不意の出来事に、心の騒いだのは争あらそはれない。……涼ひが傘さを置おき忘わすれたもの。……
森を高く抜けると、三さん国ごく見みは霽らしの一面の広場に成る。赫かっと射いる日に、手てび廂さしして恁こう視ながむれば、松、桜、梅いろ〳〵樹の状さま、枝の振ふりの、各おの自おの名ある神しん仙せんの形を映すのみ。幸ひに可いま忌わしい坊主の影は、公園の一木ぼく一草そうをも妨さまたげず。又……人の往ゆき来かふさへ殆ほとんどない。
一ひと処ところ、大おお池いけがあつて、朱しゅ塗ぬりの船の、漣さざなみに、浮いた汀みぎわに、盛装した妙とし齢ごろの派は手でな女が、番つがいの鴛おし鴦どりの宿るやうに目に留とまつた。
真白な顔が、揃そろつて此こっ方ちを向いたと思ふと。
﹁あら、お嬢様。﹂
﹁お師しし匠ょうさーん。﹂
一人が最もう、空くう気きぞ草う履りの、媚なまめかしい褄つま捌さばきで駆けて来る、目鼻は玉たま江え。……最もう一人は玉たま野のであつた。
紫玉は故郷へ帰つた気がした。
﹁不思議な処ところで、と言ひたいわね。見けんぶつかい。﹂
﹁えゝ、観光団。﹂
﹁何を悪いた戯ずらをして居るの、お前さんたち。﹂
と連つれ立だつて寄る、汀みぎわに居た玉野の手には、船みよ首しへ掛けつゝ棹さおがあつた。
舷ふなばたは藍あい、萌もえ黄ぎの翼で、頭かしらにも尾にも紅べにを塗つた、鷁げき首しゅの船の屋やか形たづ造くり。玩おも具ちゃのやうだが四五人は乗れるであらう。
﹁お嬢様。おめしなさいませんか。﹂
聞けば、向う岸の、むら萩はぎに庵いおりの見える、船ふな主ぬしの料理屋には最もう交こう渉しょ済うずみで、二人は慰なぐさみに、此から漕こぎ出ださうとする処ところだつた。……お前さんに漕げるかい、と覚おぼ束つかなさに念を押すと、浅くて棹さおが届くのだから仔細ない。但ただ、一ヶ所底そこの知れない深ふか水みずの穴がある。竜たつの口くちと称となへて、此こ処こから下の滝の伏ふせ樋どいに通ずるよし言いい伝つたへる、……危あぶなくはないけれど、其そ処こだけは除よけたが可よからう、と、……こんな事には気軽な玉江が、つい駆かけ出だして仕こと誼わりを言ひに行つたのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。
﹁あれ、彼あす処こですわ。﹂と玉野が指ゆびさす、大おお池いけを艮うしとらの方かたへ寄る処ところに、板を浮かせて、小さな御ごへ幣いが立つて居た。真中の築つき洲ずに鶴つるヶ島しまと言ふのが見えて、祠ほこらに竜りゅ神うじんを祠まつると聞く。……鷁げき首しゅの船は、其の島へ志こころざすのであるから、竜の口は近寄らないで済むのであつたが。
﹁乗らうかね。﹂
と紫玉は最もう褄つまを巻くやうに、爪つま尖さきを揃そろへながら、
﹁でも何だか。﹂
﹁あら、何な故ぜですえ。﹂
﹁御幣まで立つて警戒をした処ところがあつちやあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。﹂
﹁否いいえ、あの御幣は、そんなおどかしぢやありませんの。不ふだ断んは何にもないんださうですけれど、二三日前、誰だか雨あま乞ごいだと言つて立てたんださうですの、此の旱ひでりですから。﹂
八
岸をトンと盪おすと、屋やか形たぶ船ねは軽く出た。おや、房州で生れたかと思ふほど、玉野は思つたより巧たくみに棹さおさす。大おお池いけは静しずかである。舷ふなばたの朱しゅ欄らん干かんに、指を組んで、頬ほお杖づえついた、紫玉の胡ごふ粉んのやうな肱ひじの下に、萌もえ黄ぎに藍あいを交まじへた鳥の翼の揺ゆるゝのが、其そ処こにばかり美しい波の立つ風ふぜ情いに見えつゝ、船はする〳〵と滑つて、鶴ヶ島をさして滑なめらかに浮いて行く。
然さまでの距離はないが、月夜には柳が煙けむるぐらゐな間まで、島へは棹の数すう百ばかりはあらう。
玉野は上あ手じを遣やる。
さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした静しずかな水も、棹に掻かかれて何ど処こともなしに波紋が起つた、其の所せ為いであらう。あの底知らずの竜たつの口くちとか、日ひざ射しも其そ処こばかりはものの朦もう朧ろうとして淀よどむあたりに、――微そよとの風もない折から、根なしに浮いた板ながら真まっ直すぐに立つて居た白い御幣が、スースーと少しづゝ位置を転かへて、夢のやうに一寸すん二寸づゝ動きはじめた。
凝じっと、……視みるに連れて、次第に、緩ゆるく、柔かに、落着いて弧こを描きつゝ、其の円まるい線の合がっする処ところで、又スースーと、一寸二寸づゝ動うご出きだすのが、何となく池を広く大きく押おし拡ひろげて、船は遠く、御ごへ幣いは遙はるかに、不思議に、段々汀みぎわを隔へだたるのが心細いやうで、気も浮うっかりと、紫玉は、便たより少ない心ここ持ちがした。
﹁大丈夫かい、彼あす処こは渦を巻いて居るやうだがね。﹂
欄らん干かんに頬ほお杖づえしたまゝ、紫玉は御幣を凝み視つめながら言つた。
﹁詰つまりませんわ、少し渦でも巻かなけりや、余あんまり静しずかで、橋の上を這はつてゐるやうですもの、﹂
とお転てん婆ばの玉江が洒しゃ落れでもないらしく、
﹁玉野さん、船を彼あっ方ちへ遣やつて見ないか?……﹂
紫玉が圧おさへて、
﹁不いけ可ないよ。﹂
﹁否いいえ、何ともありやしませんわ。それだし、もしか、船に故障があつたら、おーいと呼ぶか、手を敲たたけば、すぐに誰か出て来るからつて、女中が然そう言つて居たんですから。﹂とまた玉江が言ふ。
成なる程ほど、島を越した向う岸の萩はぎの根に、一人乗るほどの小こぶ船ねが見える。中なか洲ずの島で、納すず涼みながら酒宴をする時、母おも屋やから料理を運ぶ通かよ船いぶねである。
玉野さへ興きょうに乗つたらしく、
﹁お嬢様、船を少し廻しますわ。﹂
﹁だつて、こんな池で助たす船けぶねでも呼んで覧みたが可いい、飛んだお笑ひ草で末まつ代だいまでの恥辱ぢやあないか。あれお止よしよ。﹂
と言ふのに、――逆について船がくいと廻りかけると、ざぶりと波が立つた。其の響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離れて、小さな浮う木きほどに成つて居たのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水の面おもにぴたりとついたと思ふと、罔あま竜りょうの頭かしら、絵えがける鬼ひと火だまの如き一ひと条すじの脈みゃくが、竜たつの口くちからむくりと湧わいて、水を一いち文もん字じに、射いて疾とく、船に近づくと斉ひとしく、波はざツと鳴つた。
女優の船頭は棹さおを落した。
あれ〳〵、其の波なみ頭がしらが忽たちまち船ふな底ぞこを噛かむかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三尺じゃくあとへ引いて、薄うす波なみを一ひと煽あおり、其の形に煽るや否いなや、人の立つ如く、空へ大おおいなる魚うおが飛んだ。
瞬間、島の青あお柳やぎに銀の影が、パツと映さして、魚うおは紫むら立さきだつたる鱗うろこを、冴さえた金こん色じきに輝かしつゝ颯さっと刎はねたのが、飜ひら然りと宙を躍おどつて、船の中へ堂どうと落ちた。其その時とき、水がドブンと鳴つた。
舳みよしと艫ともへ、二人はアツと飛とび退のいた。紫玉は欄らん干かんに縋すがつて身を転かはす。
落ちつゝ胴どうの間まで、一ひと刎はね、刎はねると、其のはずみに、船も動いた。――見事な魚うおである。
﹁お嬢様!﹂
﹁鯉こい、鯉、あら、鯉だ。﹂
と玉江が夢中で手を敲たたいた。
此の大おおいなる鯉が、尾おひ鰭れを曳ひいた、波の引ひっ返かえすのが棄すてた棹さおを攫さらつた。棹はひとりでに底知れずの方へツラ〳〵と流れて行く。
九
﹁……太たゆ夫うさ様ま……太夫様。﹂
偶ふと紫玉は、宵よい闇やみの森の下した道みちで真まっ暗くらな大樹巨木の梢こずえを仰いだ。……思ひ掛がけず空から呼よび掛かけたやうに聞えたのである。
﹁一ちょ寸っと燈あかりを、……﹂
玉野がぶら下げた料理屋の提ちょ灯うちんを留とめさせて、さし交かわす枝を透かしつゝ、――何なに事ごとと問ふ玉江に、
﹁誰だか呼んだやうに思ふんだがねえ。﹂
と言ふ……お師匠さんが、樹の上を視みて居るから、
﹁まあ、そんな処とこから。﹂
﹁然そうだねえ。﹂
紫玉は、はじめて納得したらしく、瞳ひとみをそらす時、髷まげに手を遣やつて、釵かんざしに指を触れた。――指を触れた釵は鸚おう鵡むである。
﹁此が呼んだのか知ら。﹂
と微ほろ酔よいの目元を花はなやかに莞にっ爾こりすると、
﹁あら、お嬢様。﹂
﹁可い厭やですよ。﹂
と仰ぎょ山うさんに二人が怯おびえた。女弟子の驚いたのなぞは構はないが、読者を怯おびやかしては不いけ可ない。滝たき壺つぼへ投なげ沈しずめた同じ白プラ金チナの釵が、其の日のうちに再び紫玉の黒髪に戻つた仔細を言はう。
池で、船の中へ鯉が飛とび込こむと、弟子たちが手を拍うつ、立たち騒さわぐ声が響いて、最初は女中が小こぶ船ねで来た。……島へ渡した細ほそ綱づなを手た繰ぐつて、立ちながら操あやつるのだが、馴なれたもので、あとを二ふた押おし三みお押し、屋やか形たぶ船ねへ来ると、由よしを聞き、魚うおを視て、﹁まあ、﹂と目をつた切きり、慌あわただしく引ひき返かへした。が、間まもあらせず、今度は印しる半しば纏んてんを被きた若いものに船を操とらせて、亭主らしい年とし配ごろな法ほっ体たいしたのが漕こぎつけて、﹁これは〳〵太たゆ夫うさ様ま。﹂亭主も逸いち時はやく其を知つて居て、恭うやうやしく挨あい拶さつをした。浴ゆか衣たの上だけれど、紋の着いた薄うす羽ばお織りを引ひっかけて居たが、扨さて、﹁改めて御祝儀を申述べます。目の下二尺しゃく三貫がん目めは掛かかりませう。﹂とて、……及および腰ごしに覗のぞいて魂たま消げて居る若わか衆いしゅに目めく配ばせで頷うなずかせて、﹁恁かやうな大たい魚ぎょ、然しかしも出しゅ世っせ魚うおと申す鯉りぎ魚ょの、お船へ飛とび込こみましたと言ふは、類たぐ希いまれな不思議な祥しょ瑞うずい。おめでたう存じまする、皆、太夫様の御ごじ人んと徳く。続きましては、手前預あずかりまする池なり、所持の屋やか形たぶ船ね。烏お滸こがましうござりますが、従つて手前どもも、太夫様の福ふく分ぶん、徳とく分ぶん、未み曾ぞ有うの御ごに人ん気きの、はや幾分かおこぼれを頂ちょ戴うだいいたしたも同じ儀で、恁かやうな心嬉しい事はござりませぬ。尚なほ恁かくの通りの旱かん魃ばつ、市内は素もとより近きん郷ごう隣りん国ごく、唯ただ炎の中に悶もだえまする時、希け有うの大たい魚ぎょの躍おどりましたは、甘かん露ろ、法ほう雨うやがて、禽きん獣じゅう草そう木もくに到るまでも、雨に蘇よみ生がえりまする前ぜん表ぴょうかとも存じまする。三さん宝ぽうの利りや益く、四しほ方うの大たい慶けい。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心ここ祝ろいわひに、此の鯉こ魚いを肴さかなに、祝うて一献こん、心ばかりの粗そし酒ゅを差さし上あげたう存じまする。先まづ風ふぜ情いはなくとも、あの島しま影かげにお船を繋つなぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母おも屋やの方へ移しませう。﹂で、辞退も会釈もさせず、紋もん着つきの法ほう然ねん頭あたまは、最もう屋形船の方へ腰を据すゑた。
若わか衆いしゅに取とり寄よせさせた、調度を控へて、島の柳に纜もやつた頃は、然そうでもない、汀みぎわの人ひと立だちを遮さえぎるためと、用意の紫むらさきの幕を垂れた。﹁神しん慮りょの鯉りぎ魚ょ、等なお閑ざりにはいたしますまい。略儀ながら不ふつ束つかな田いな舎か料理の庖丁をお目に掛けまする。﹂と、ひたりと直つて真まな魚ば箸しを構へた。
――釵かんざしは鯉こいの腹を光つて出た。――竜宮へ往おう来らいした釵の玉の鸚おう鵡むである。
﹁太たゆ夫う様――太夫様。﹂
ものを言はうも知れない。――
とばかりで、二ふた声こえ聞いたやうに思つただけで、何の気けは勢いもしない。
風も囁ささやかず、公園の暗やみ夜よは寂さびしかつた。
﹁太夫様。﹂
﹁太夫様。﹂
うつかり釵を、又おさへて、
﹁可い厭やだ、今度はお前さんたちかい。﹂
十
――水のすぐれ覚 ゆるは、
西天竺 の白鷺池 、
じんじやうきよゆうにすみわたる、
昆明池 の水の色、
行末 久 しく清 むとかや。
じんじやうきよゆうにすみわたる、
﹁お待ち。﹂
紫玉は耳を澄すました。道の露つゆ芝しば、曲きょ水くすいの汀みぎわにして、さら〳〵と音する流ながれの底に、聞きも知らぬ三しゃ味みせ線んの、沈んだ、陰気な調子に合せて、微かすかに唄うたふ声がする。
﹁――坊さんではないか知ら……﹂
紫玉は胸が轟とどろいた。
あの漂さす白らいの芸人は、鯉りぎ魚ょの神秘を視みた紫玉の身には、最も早はや、うみ汁しるの如く、唾つば、涎よだれの臭くさい乞食坊主のみではなかつたのである。
﹁……あの、三味線は、﹂
夜やい陰んのこんな場所で、もしや、と思ふ時、掻かき消きえるやうに音が留やんで、ひた〳〵と小石を潜くぐつて響く水は、忍ぶ跫あし音おとのやうに聞える。
紫玉は立たち留どまつた。
再び、名もきかぬ三味線の音が陰いん々いんとして響くと、
――日にっ本ぽん一いちにて候そうろうぞと申しける。鎌かま倉くら殿どのこと〴〵しや、何いず処こにて舞ひて日本一とは申しけるぞ。梶かじ原わら申しけるは、一ひと歳とせ百ひゃ日くにちの旱ひでりの候そうらひけるに、賀かも茂が川わ、桂かつ川らがわ、水みな瀬せ切れて流れず、筒つつ井いの水も絶えて、国こく土どの悩みにて候ひけるに、――
――有うげ験んの高僧貴僧百人、神しん泉せん苑えんの池にて、仁にん王おう経きょうを講こうじ奉たてまつらば、八はち大だい竜りゅ王うおうも慈じげ現ん納のう受じゅたれ給たまふべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を請しょうじ、仁王経を講ぜられしかども、其その験しるしもなかりけり。又或ある人ひと申しけるは、容よう顔がん美びれ麗いなる白しら拍びょ子うしを、百人めして、――
﹁御ごぼ坊うさ様ま。﹂
今は疑ふべき心も失うせて、御坊様、と呼びつゝ、紫玉が暗あん中ちゅうを透すかして、声する方かたに、縋すがるやうに寄ると思ふと、
﹁燈ひを消せ。﹂
と、蕭さびたが力ある声して言つた。
﹁提ちょ灯うちんを……﹂
﹁は、﹂と、返事と息を、はツはツとはずませながら、一度消けし損そこねて、慌あわただしげに吹ふき消けした。玉野の手は震へて居た。
――百人の白拍子をして舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、其験 もなかりけり。静 一人舞ひたりとても、竜神 示現 あるべきか。内侍所 に召されて、禄 おもきものにて候 にと申したりければ、とても人数 なれば、唯 舞はせよと仰 せ下されければ、静が舞ひたりけるに、しんむしやうの曲と言ふ白拍子 を、――
燈ひを消すと、あたりが却かえつて朦もう朧ろうと、薄く鼠ねず色みいろに仄ほのめく向うに、石の反そり橋ばしの欄らん干かんに、僧そう形ぎょうの墨すみの法ころ衣も、灰色に成つて、蹲うずくまるか、と視みれば欄干に胡あぐ坐ら掻かいて唄うたふ。
橋は心覚えのある石いし橋ばしの巌いわ組ぐみである。気が着けば、あの、かくれ滝だきの音は遠くだう〳〵と鳴つて、風の如くに響くが、掠かすれるほどの糸の音ねも乱れず、唇を合あわすばかりの唄も遮さえぎられず、嵐の下の虫の声。が、形は著いちじるしいものではない、胸をくしや〳〵と折つて、坊主頭を、がく、と俯うつ向むけて唄ふので、頸うなじを抽ぬいた転てん軫じんに掛かかる手つきは、鬼が角つのを弾はじくと言はば厳いかめしい、寧むしろ黒猫が居て顔を洗ふと言ふのに適する。
――なから舞ひたりしに、御輿 の嶽 、愛宕山 の方 より黒雲 俄 に出来 て、洛中 にかゝると見えければ、――
と唄ふ。……紫玉は腰を折つて地に低く居て、弟子は、其の
――八はち大だい竜りゅ王うおう鳴なり渡わたりて、稲いな妻ずまひらめきしに、諸しょ人にん目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安あん穏おんなりければ、扨さてこそ静の舞まいに示現ありけるとて、日本一と宣せん旨じを給たまわりけると、承うけたまわり候そうろう。――
時に唄を留やめて黙つた。
﹁太たゆ夫うさ様ま。﹂
余り尋じん常じょうな、ものいひだつたが、
﹁は、﹂と、呼い吸きをひいて答へた紫玉の、身みじ動ろぎに、帯がキと擦れて鳴つたほど、深く身に響いて聞いたのである。
﹁癩かっ坊たい主ぼうずが、ねだり言ごとを肯うけごうて、千せん金きんの釵かんざしを棄すてられた。其の心ここ操ろばえに感じて、些ささ細いながら、礼れい心ごころに密そと内ない証しょうの事を申す。貴あな女た、雨あま乞ごいをなさるが可よい。――天てんの時、地ちの利、人ひとの和、まさしく時じせ節つぢや。――こゝの大おお池いけの中なか洲すの島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。……袴はかま、練ねり衣ぎぬ、烏え帽ぼ子し、狩かり衣ぎぬ、白しら拍びょ子うしの姿が可よからう。衆しゅ人うじんめぐり見る中へ、其の姿をあの島の柳の上へ高く顕あらわし、大空に向つて拝はいをされい。祭さい文もんにも歌にも及ばぬ。天てん竜りゅう、雲を遣やり、雷らいを放ち、雨を漲みなぎらすは、明みょ午うごを過ぎて申さるの上じょ刻うこくに分ふん毫ごうも相違ない。国境の山、赤く、黄に、峰みね嶽たけを重ねて爛ただれた奥に、白びゃ蓮くれんの花、玉の掌たなそこほどに白く聳そびえたのは、四し時じに雪を頂いて幾いく万まん年ねんの白はく山さんぢや。貴あな女た、時を計つて、其の鸚おう鵡むの釵を抜いて、山の其そな方たに向つて翳かざすを合図に、雲は竜の如く湧わいて出よう。――尚なほ其の上に、可よいか、名を挙げられい。……﹂
――賢かし人こびとの釣つりを垂れしは、
厳げん陵りょ瀬うらいの河の水。
月影ながらもる夏は、
山田の筧かけいの水とかや。――……
十一
翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒く成つて人が湧わいた。煉れん瓦がを羽はあ蟻りで包んだやうな凄すさまじい群集である。
かりに、鎌かま倉くら殿どのとして置かう。此の……県に成なり上あがりの豪族、色いろ好ごのみの男爵で、面つら構がまえも風ふう采つきも巨あた頭まで公っかちに良よう似にたのが、劇しば興いこ行うぎょうのはじめから他たに手を貸さないで紫玉を贔ひい屓きした、既に昨ゆう夜べも或ある処ところで一いっ所しょに成る約束があつた。其の間まの時間を、紫玉は微びこ行うしたのである。が、思ひも掛けない出来事のために、大分の隙ひま入いりをしたものの、船に飛んだ鯉こいは、其のよしを言ことづけて初はつ穂ほと言ふのを、氷詰めにして、紫玉から鎌倉殿へ使つかいを走らせたほどなのであつた。――
車の通ずる処ところまでは、最もう自動車が来て待つて居て、やがて、相あい会かいすると、或ある時間までは附つき添そつて差さし支つかへない女弟子の口から、真まっ先さきに予言者の不思議が漏もれた。
一議に及ばぬ。
其の夜よのうちに、池の島へ足あじ代ろを組んで、朝は早はや法壇が調ととのつた。無論、略式である。
県社の神官に、故こじ実つの詳しいのがあつて、神しん燈とうを調へ、供ぐせ饌んを捧げた。
島には鎌倉殿の定じょ紋うもんついた帷まん幕まくを引ひき繞めぐらして、威儀を正した夥あま多たの神官が詰めた。紫玉は、さきほどからこゝに控へたのである。
あの、底知れずの水に浮いた御ごへ幣いは、やがて壇に登るべき立たて女おや形まに対して目めざ触わりだ、と逸いち早はやく取とり退のけさせ、樹こだ立ちさしいでて蔭かげある水に、例の鷁げき首しゅの船を泛うかべて、半なかば紫むらさきの幕を絞つた裡うちには、鎌倉殿をはじめ、客分として、県の顕官、勲くん位いの人々が、杯さかずきを置いて籠こもつた。――雨あま乞ごいに参ずるのに、杯をめぐらすと言ふ故実は聞かぬが、しかし事実である。
伶れい人じんの奏楽一順して、ヒユウと簫しょうの音ねの虚こく空うに響く時、柳の葉にちら〳〵と緋の袴はかまがかゝつた。
群集は波を揉もんで動なだ揺れを打つた。
あれに真白な足が、と疑ふ、緋の袴は一段、階きざはしに劃しきられて、二ふた条すじの紅べにの霞かすみを曳ひきつゝ、上うえ紫むらさきに下した萌もえ黄ぎなる、蝶ちょう鳥とりの刺ぬ繍いの狩かり衣ぎぬは、緑に透き、葉に靡なびいて、柳の中を、する〳〵と、容顔美麗なる白しら拍びょ子うし。紫玉は、色ある月の風ふぜ情いして、一千の花の燈ともしの影、百を数ふる雪の供饌に向うて法壇の正面にすらりと立つ。
花火の中から、天てん女にょが斜ななめに流れて出ても、群集は此の時くらゐ驚異の念は起すまい。
烏え帽ぼ子しもともに此の装しょ束うぞくは、織おりものの模範、美術の表ひょ品うほん、源平時代の参考として、嘗かつて博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いづれ什じゅ物うもつであつた。
扨さて、遺憾ながら、此の晴の舞台に於て、紫玉のために記しるすべき振ふり事ごとは更にない。渠かれは学校出の女優である。
が、姿は天より天あま降くだつた妙たえに艶えんなる乙おと女めの如く、国を囲める、其の赤く黄に爛ただれたる峰みね嶽たけを貫つらぬいて、高く柳の間あいだに懸かかつた。
紫玉は恭うやうやしく三みたび虚なか空ぞらを拝した。
時に、宮みや奴つこの装よそおいした白はく丁ちょうの下男が一人、露店の飴あめ屋やが張りさうな、渋しぶの大おお傘からかさを畳たたんで肩にかついだのが、法壇の根に顕あらわれた。――此は怪けしからず、天あま津つお乙と女めの威厳と、場面の神聖を害そこなつて、何どうやら華おい魁らんの道中じみたし、雨あま乞ごいには些ちと行ゆき過すぎたもののやうだつた。が、何、降るものと極きまれば、雨あま具ぐの用意をするのは賢い。……加ふるに、紫玉が被かついだ装束は、貴重なる宝ほう物もつであるから、驚す破わと言はばさし掛けて濡ぬらすまいための、鎌倉殿の内ない意いであつた。
――然さればこそ、此のくらゐ、注意の役に立つたのはあるまい。――
あはれ、身のおき処どころがなく成つて、紫玉の裾すそが法壇に崩れた時、﹁状ざまを見ろ。﹂﹁や、身を投げろ。﹂﹁飛とび込こめ。﹂――わツと群集の騒いだ時、……堪たまらぬ、と飛とび上あがつて、紫玉を圧おさへて、生いの命ちを取とり留とめたのも此の下男で、同時に狩かり衣ぎぬを剥はぎ、緋の袴はかまの紐ひもを引ひき解ほどいたのも――鎌倉殿のためには敏びん捷しょうな、忠義な奴で――此の下男である。
雨はもとより、風どころか、余あまりの人出に、大おお池いけには蜻とん蛉ぼも飛ばなかつた。
十二
時を見、程ほどを計つて、紫玉は始め、実は法壇に立つて、数万の群集を足あし許もとに低き波の如く見みお下ろしつゝ、昨きの日う通つた坂にさへ蟻ありの伝ふに似て押おし覆かえす人にん数ずを望みつゝ、徐おもむろに雪の頤あぎとに結んだ紫むらさきの纓ひもを解といて、結むす目びめを胸に、烏え帽ぼ子しを背に掛けた。
其から伯爵の釵かんざしを抜いて、意気込んで一ひと振ふり振ると、……黒髪の颯さっと捌さばけたのが烏帽子の金きんに裏うら透すいて、宛さな然がら金きん屏びょ風うぶに名誉の絵師の、松風を墨すみで流したやうで、雲も竜も其そ処こから湧わくか、と視ながめられた。――此だけは工夫した女優の所しょ作さで、手には白プラ金チナが匕あい首くちの如く輝いて、凄せい艶えん比類なき風ふぜ情いであつた。
さて其の鸚おう鵡むを空に翳かざした。
紫玉のつた瞳めには、確たしかに天てん際さいの僻へき辺へんに、美女の掌てに似た、白はく山さんは、白く清く映つたのである。
毛けす筋じほどの雲も見えぬ。
雨あま乞ごいの雨は、いづれ後ごこ刻くの事にして、其のまゝ壇を降くだつたらば無事だつたらう。処ところが、遠えん雷らいの音でも聞かすか、暗転に成らなければ、舞台に馴なれた女優だけに幕が切れない。紫玉は、しかし、目まの前あたり鯉りぎ魚ょの神しん異いを見た、怪しき僧の暗示と讖しん言げんを信じたのであるから、今にも一片の雲は法衣の袖そでのやうに白山の眉まゆに飜ひるがえるであらうと信じて、須しば叟しを待つ間まを、法壇を二ふた廻まわり三みま廻わり緋の袴はかまして輪に歩あ行るいた。が、此は鎮ちん守じゅの神み巫こに似て、然しかもなんば、と言ふ足どりで、少なからず威厳を損じた。
群集の思はんほども憚はばかられて、腋わきの下に衝つと冷つめたき汗を覚えたのこそ、天てん人にんの五ごす衰いのはじめとも言はう。
気をかへて屹きっと成つて、もの忘れした後こう見けんに烈はげしくきつかけを渡す状さまに、紫玉は虚こく空うに向つて伯爵の鸚おう鵡むを投げた。が、あの玩おも具ちゃの竹たけ蜻とん蛉ぼのやうに、晃きら々きらと高く舞つた。
﹁大だい神かぐ楽ら!﹂
と喚わめいたのが第一番の半はん畳じょうで。
一人口くち火びを切つたから堪たまらない。練ねり馬まだ大いこ根んと言ふ、おかめと喚わめく。雲の内ない侍じと呼ぶ、雨あめしよぼを踊れ、と怒ど鳴なる。水の輪の拡がり、嵐の狂ふ如く、聞くも堪へない讒ざん謗ぼう罵ば詈りは雷いかずちの如く哄どっと沸わく。
鎌かま倉くら殿どのは、船中に於て嚇かく怒どした。愛あい寵ちょうせる女優のために群集の無礼を憤いきどおつたのかと思ふと、――然そうではない。這こ般の、好色の豪族は、疾はやく雨乞の験しるしなしと見て取ると、日の昨さくの、短みじ夜かよもはや半なかばなりし紗しゃの蚊か帳やの裡うちを想ひ出した。……
雨乞のためとて、精しょ進うじ潔んけ斎っさいさせられたのであるから。
﹁漕こげ。﹂
紫むら幕さきまくの船は、矢を射いるように島へ走る。
一度、駆かけ下おりようとした紫玉の緋ひも裳すそは、此の船の激しく襲つたために、一度引ひき留とめられたものである。
﹁…………﹂
と喚く鎌倉殿の、何やら太い声に、最初、白はく丁ちょうに豆まめ烏え帽ぼ子しで傘からかさを担かついだ宮みや奴やっこは、島になる幕の下を這はつて、ヌイと面つらを出した。
すぐに此こい奴つが法壇へ飛とび上あがつた、其の疾はやさ。
紫玉が最早、と思ひ切つて池に飛ばうとする処ところを、圧おさへて、そして剥はいだ。
女の身としてあられうか。
あの、雪を束つかねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あはれな状さまは、月を祭る供くも物つに似て、非あらず、旱かん魃ばつの鬼おに一ひと口くちの犠に牲えである。
ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわつと泣いた。
赤ら顔の大おお入にゅ道うどうの、首抜きの浴ゆか衣たの尻を、七しちのづまで引ひきめくつたのが、苦にがり切つたる顔して、つか〳〵と、階きざはしを踏んで上あがつた、金きん方かたか何なんぞであらう、芝居もので。
肩を無む手ずと取ると、
﹁何だ、状ざまは。小こま町ちや静しずかぢやあるめえし、増長をしやがるからだ。﹂
手の裏かへす無情さは、足も手もぐたりとした、烈れつ日じつに裂けかゝる氷のやうな練ねり絹ぎぬの、紫玉の、ふくよかな胸を、酒さか焼やけの胸に引ひっ掴つかみ、毛けず脛ねに挟んで、
﹁立たねえかい。﹂
十三
﹁口く惜やしい!﹂
紫玉は舷ふなばたに縋すがつて身を震はす。――真夜中の月の大おお池いけに、影の沈める樹の中に、しぼめる睡すい蓮れんの如く漾ただよひつゝ。
﹁口惜しいねえ。﹂
車しゃ馬ばの通行を留とめた場所とて、人目の恥に歩あ行ゆみも成らず、――金方の計らひで、――万ばん松しょ亭うていと言ふ汀みぎわなる料理店に、とに角かく引ひっ籠こもる事にした。紫玉は唯ただ引ひっ被かついで打うち伏ふした。が、金きん方かたは油断せず。弟子たちにも旨むねを含めた。で、次つぎ場ばし所ょの興行恁かくては面白かるまいと、やけ酒を煽あおつて居たが、酔えい倒たおれて、其は寝た。
料理店の、あの亭主は、心優やさしいもので、起たち居いにいたはりつ、慰めつ、で、此も注意はしたらしいが、深しん更こうの然しかも夏の夜よの戸とざ鎖し浅ければ、伊だて達ま巻きの跣はだ足しで忍んで出る隙すきは多かつた。
生いの命ちの惜おしからぬ身には、操あやつるまでの造ぞう作さも要らぬ。小さな通かよ船いぶねは、胸の悩みに、身もだえするまゝに揺ゆり動うごいて、萎しおれつゝ、乱れつゝ、根を絶えた小船の花の面おも影かげは、昼の空とは世をかへて、皓こう々こうとして雫しずくする月の露つゆ吸ふ力もない。
﹁えゝ、口惜しい。﹂
乱れがみをりつゝ、手で、砕けよ、とハタと舷ふなばたを打つと……時の間まに痩やせた指は細く成つて、右の手の四よつの指環は明星に擬なぞらへた金ダイ剛ヤモ石ンドのをはじめ、紅ルビ玉イも、緑エメ宝ラル玉ドも、スルリと抜けて、きらきらと、薄うす紅くれないに、浅あさ緑みどりに皆水に落ちた。
何どうでもなれ、左を試みに振ると、青せい玉ぎょくも黄こう玉ぎょくも、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、……竜たつの口くちは、水の輪に舞ふ処ところである。
こゝに残るは、名なれば其を誇ほこりとして、指にも髪にも飾らなかつた、紫むらさきの玉唯ただ一つ。――紫玉は、中なか高だかな顔に、深く月影に透かして差さし覗のぞいて、千ちひ尋ろの淵ふちの水みな底そこに、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄らん干かんと、あれ、森の梢こずえの白しら鷺さぎの影さへ宿る、櫓やぐらと、窓と、楼たかどのと、美しい住すみ家かを視みた。
﹁ぬしにも成つて、此この、此の田いな舎かのものども。﹂
縋すがる波に力あり、しかと引いて水を掴つかんで、池に倒さかさまに身を投じた。爪つま尖さきの沈むのが、釵かんざしの鸚おう鵡むの白く羽はねうつが如く、月光に微かすかに光つた。
﹁御ごぼ坊うさ様ま、貴あな方たは?﹂
﹁あゝ、山やま国ぐにの門かど附づけ芸人、誇れば、魔法つかひと言ひたいが、いかな、然さまでの事もない。昨きの日うから御お目めに掛けた、あれは手品ぢや。﹂
坊主は、欄干に擬まがふ苔こけ蒸むした井いげ桁たに、破やれ法ごろ衣もの腰を掛けて、活いけるが如く爛らん々らんとして眼まなこの輝く青銅の竜の蟠わだかまれる、角つのの枝に、肱ひじを安らかに笑えみつゝ言つた。
﹁私に、何のお怨うらみで?……﹂
と息せくと、眇めっかちの、ふやけた目めだ珠まぐるみ、片かた頬ほおを掌たなそこでさし蔽おおうて、
﹁いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目めざ覚ましい人気ゆゑに、恥入るか、もの嫉ねたみをして、前まえ芸げいを一ちょ寸っと遣やつた。……さて時に承うけたまはるが太たゆ夫う、貴あな女たは其だけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨あま乞ごいをせよ、と言はば、すぐに優わざ伎おぎの舞台に出て、小こま町ちも静しずかも勤めるのかな。﹂
紫玉は巌いわやに俯うつ向むいた。
﹁其で通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品は何どうぢやらう。﹂
﹁えゝ、﹂
と仰いで顔を視た時、紫玉はゾツと身に沁しみた、腐れた坊主に不思議な恋を知つたのである。
﹁貴方なら、貴方なら――何な故ぜ、さすらうておいで遊ばす。﹂
坊主は両手で顔を圧おさへた。
﹁面めん目ぼくない、われら、此こ処こに、高い貴とうとい処ところに恋人がおはしてな、雲くも霧きりを隔てても、其の御おあ足しも許とは動かれぬ。呀や!﹂
と、慌あわただしく身を退しさると、呆あきれ顔してハツと手を拡げて立つた。
髪黒く、色雪の如く、厳いつくしく正しく艶えんに気高き貴きじ女ょの、繕つくろはぬ姿したのが、すらりと入つた。月を頸うなじに掛かけつと見えたは、真まし白ろな涼ひが傘さであつた。
膝ひざと胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、白しろやかなる手てさ尖きを軽く、彼が肩に置いて、
﹁私を打ぶつたね。――雨と水の世話をしに出て居た時、……﹂
装よそおいは違つた、が、幻の目にも、面おも影かげは、浦うら安やすの宮みや、石の手ちょ水うず鉢ばちの稚ち児ごに、寸分のかはりはない。
﹁姫様、貴あな女たは。﹂
と坊主が言つた。
﹁白はく山さんへ帰る。﹂
あゝ、其の剣けんヶ峰みねの雪の池には、竜りゅ女うじょの姫ひめ神がみおはします。
﹁お馬。﹂
と坊主が呼ぶと、スツと畳たたんで、貴きじ女ょが地に落した涼ひが傘さは、身みぶ震るいをしてむくと起きた。手まさぐり給たまへる緋の総ふさは、忽たちまち紅くれないの手たづ綱なに捌さばけて、朱の鞍くら置おいた白の神しん馬め。
ずつと騎めすのを、轡くつ頭わづなを曳ひいて、トトトト――と坊主が出たが、
﹁纏しゅ頭うぎをするぞ。それ、錦にしきを着て行け。﹂
かなぐり脱いだ法ころ衣もを投げると、素すは裸だかの坊主が、馬に、ひたと添ひ、紺こん碧ぺきなる巌いわおの聳そばだつ崕がけを、翡ひす翠いの階はし子ごを乗るやうに、貴きじ女ょは馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺びょ茫うぼうたる曠ひろ野のの中をタタタタと蹄ひづめの音ひび響き。
蹄を流れて雲が漲みなぎる。……
身を投じた紫玉の助かつて居たのは、霊れい沢たく金こん水すいの、巌がん窟くつの奥である。うしろは五十万坪と称となふる練れん兵ぺい場じょう。
紫玉が、たゞ沈んだ水みな底そこと思つたのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であつた。――
雨を得た市民が、白はく身しんに破やれ法ごろ衣もした女優の芸の徳に対する新たなる渇かつ仰ごうの光よう景すが見せたい。