上かづ總さの國くに上かう野づけ郡ぐんに田でん地ぢ二にじ十つこ石くばかりを耕たがやす、源げ五ん右ご衞ゑと云いふ百ひや姓くしやうの次じな男んで、小こす助けと云いふのがあつた。兄あにの元もと太たら郎うは至しご極く實じつ體ていで、農のう業げふに出しゆ精つせいし、兩りや親うしんへ孝かう行かうを盡つくし、貧まづしい中なかにもよく齊かし眉づき、人ひとづきあひは義ぎり理が堅たくて、村むらの譽ほめものなのであるが、其その次じな男んの小こす助けは生うまれついたのらくらもの。晝ひる間まは納な屋やの中なか、鎭ちん守じゆの森もり、日ひか蔭げばかりをうろつく奴やつ、夜よあ遊そびは申まをすまでもなし。色いろが白しろいのを大だい事じがつて、田たん圃ぼを通とほるにも編あみ笠がさでしよなりと遣やる。炎えん天てんの田たの草くさ取とりなどは思おもひも寄よらない。 兩りや親うしんや兄あにの意いけ見んなどは、蘆あしを吹ふく風かぜほども身みに染しみないで、朋ほう輩ばい同どう士しには、何なに事ごとにも、直ぢきに其その、己おれが己おれががついてつて、あゝ、世よが世よならばな、と口くち癖ぐせのやうに云いふ。尤もつとも先せん祖ぞは武ぶ家け出でであらうが、如い何かにも件くだんの、世よが世よならばが、友ともだちの耳みゝに觸さはつて聞きゝ苦ぐるしい。自しぜ然んにつきあつて遊あそぶものも少すくなくなる。對あひ手てもなければ小こづ遣かひもなく、まさか小こど盜ろば賊うをするほどに、當たう人にん氣きぐ位らゐが高たかいから身みを棄すてられず。内うちにのら〳〵として居をれば、兩りや親うしんは固もとより、如い何かに人ひとが好いいわ、と云いつて兄あにじや人ひとの手てま前へ、据すゑ膳ぜんを突つき出だして、小こや楊う枝じで奧おく齒ばの加かて穀め飯しをせゝつては居をられぬ處ところから、色いろツぽく胸むねを壓おさへて、こゝがなどと痛いたがつて、溜ため息いきつく〴〵と鬱ふさいだ顏がん色しよく。 これが、丸まる持もちの祕ひぞ藏つ子こだと、匙さじ庵あん老らうが脈みやくを取とつて、氣きう鬱つの症しやうでごわす、些ちとお氣きば晴らしを、と來きて、直すぐに野のだ幇い間こと變ば化ける奴やつ。父ちゝ親おや合がて點んの母はゝ親おや承しよ知うちで、向むか島うじまへ花はな見みの歸かへりが夜よざ櫻くら見けん物ぶつと成なつて、おいらんが、初しよ會くわ惚いぼれ、と云いふ寸すん法ぱふに成なるのであるが、耕かう地ち二にじ十つこ石くの百ひや姓くしやうの次じな男んでは然さうは行ゆかない。 新しん田でんの太た郎ろ兵べ衞ゑがうまい言ことを言いつた。小こす助けが鬱ふさぐなら蚯みゝ蚓ずを煎せんじて飮のませろと。何なにが、藥くすりだと勸すゝめるものも、やれ赤あか蛙がへるが可いい事ことの、蚯みゝ蚓ずが利きく事ことの、生しや姜うが入いれずの煎せん法ぱふで。小こば判ん處どころか、一いち分ぶ一ひとツ貸かしてくれる相さう談だんがない處ところから、むツとふくれた頬ほゝ邊べたが、くしや〳〵と潰つぶれると、納なん戸どへ入はひつてドタリと成なる。所いは謂ゆるフテ寢ねと云いふのである。 が、親おやの慈じ悲ひは廣くわ大うだいで、ソレ枕まくらに就ついて寢ねたと成なると、日ひが出でりや起おきる、と棄すてては置おかぬ。 傍そばに着ついて居ゐて看かん病びやうするにも、遊あそぶ手てはない百ひや姓くしやうの忙いそがしさ。一ひと人り放はふり出だして置おいた處ところで、留る守すに山やまから猿さるが來きて、沸にえ湯ゆの行ぎや水うずゐを使つかはせる憂きづ慮かひは決けつしてないのに、誰たれかついて居をらねばと云いふ情なさけから、家うち中ぢう野の良らへ出でる處ところを、嫁よめを一ひと人りあとへ殘のこして、越ゑつ中ちうの藥くす賣りうりが袋ふくろに入いれて置おいて行ゆく、藥くすりながら、其その優やさしい手てから飮のませるやうに計はからつたのである。 嫁よめはお艷つやと云いつて、同どう國こく一いちノ宮みやの百ひや姓くしやう喜き兵へ衞ゑの娘むすめで、兄あに元もと太たら郎うの此これが女によ房うばう。束たばね髮がみで、かぶつては居ゐるけれども、色いろ白じろで眉きり容やうの美うつくしいだけに身から體だが弱よわい。ともに身から體だを休やすまして些ちと樂らくをさせようと云いふ、其それにも舅しうとたちの情なさけはあつた。しかし箔はくのついた次じな男んどのには、飛とんだ蝶てふ々〳〵、菜なた種ねの花はなを見みと通ほしの春はる心ごころ、納なん戸どで爪つめを磨とがずに居ゐようか。 尤もつとも其それまでにも、小こあ當たりに當あたることは、板いた屋やを走はしる團どん栗ぐりに異ことならずで、蜘く蛛もの巣すの如ごとく袖そで褄つまを引ひいて居ゐたのを、柳やなぎに風かぜと受うけつ流ながしつ、擦すり拔ぬける身みも痩やせて居ゐた處ところ、義ぎ理りある弟おとうと、内うち氣きの女をんな。あけては夫をつとにも告つげられねば、病びや氣うきの介かい抱はうを斷ことわると云いふわけに行ゆかないので、あい〳〵と、内うちに殘のこる事ことに成なつたのは、俎まないたのない人ひと身みご御く供うも同おなじ事ことで。 疊たゝみのへりも蛇へびか、とばかり、我わが家やの内うちもおど〳〵しながら二ふつ日かは無ぶ事じに過すぎた、と云いふ。三みつ日か目めの午ひる過すぎ、やれ粥かゆを煮にろの、おかう〳〵を細こまかくはやせの、と云いふ病びや人うにんが、何な故ぜか一いち倍ばい氣きぶ分んが惡わるいと、午おひ飯るも食たべないから、尚なほ打うつ棄ちやつては置おかれない。 藥くすりを煎せんじて、盆ぼんは兀はげたが、手ては白しろい。お艷つやが、納なん戸どへ持もつて行ゆく、と蒲ふと團んに寢ねて居ゐながら手てを出だした。 ﹁姉ねえさん、何なんの所せ爲ゐで私わたしが煩わづらつて居ゐると思おもつて下くださる、生いの命ちが續つゞかぬ、餘あまりと言いへば情なさけない。人ひと殺ごろし。﹂ と唸うなつて、矢やに庭はに抱だき込こむのを、引ひき離はなす。むつくり起おき直なほる。 ﹁あれえ。﹂ と逃にげる、裾すそを掴つかんで、ぐいと引ひかれて、身みを庇かばふ氣きでばつたり倒たふれる。 ﹁さあ、斷あき念らめろ、聲こゑを立たてるな、人ひとが來きて見みりや實まことは何どうでも、蟲むしのついた花はなの枝えだだ。﹂ と云いふ處ところへ、千ちぐ種さはぎ〳〵の股もゝ引ひきで、ひよいと歸かへつて來きたのは兄あにじや人ひと、元もと太たら郎うで。これを見みると是ぜ非ひも言いはず、默だまつてフイと消きえ失うせるが如ごとく出でて了しまつた。 お艷つやは死しにものぐるひな、小こす助けを突つき飛とばしたなり、茶ちやの間まへ逃にげた。が、壁かべの隅すみへばつたり倒たふれたまゝ突つツ臥ぷして、何なにを云いつてもたゞさめ〴〵と泣なくのである。 家うち中ぢうなめた男をとこでも、村むらがある。世せけ間んがある。兄あにじやに見み着つかつた上うへからは安あん穩のんに村むらには居をられぬ、と思おもふと、寺てらの和をし尚やうまで一いつ所しよに成なつて、今いまにも兩りや親うしんをはじめとして、ドヤ〳〵押おし寄よせて來きさうに思おもはれ、さすがに小こす助けは慌あわたゞしく、二にさ三んま枚い着きものを始しま末つして、風ふろ呂しき敷づ包つみを拵こしらへると、直すぐに我わが家やを駈かけ出ださうとして、行ゆきがけの駄だち賃んに、何なんと、姿すがたも心こゝろも消きえ々〴〵と成なつて泣ないて居ゐるお艷つやの帶おびを最もう一いち度どぐい、と引ひいた。 ﹁ひい。﹂ と泣なく脊せす筋ぢのあたりを、土どそ足くにかけて、ドンと踏ふむと、ハツと悶もだえて上あげた顏かほへ、 ﹁ペツ、澁しぶ太とい阿あ魔まだ。﹂ としたゝかに痰たんをはいて、せゝら笑わらつて、 ﹁身から體だはきれいでも面つらは汚よごれた、樣ざまあ見みろ。おかげで草わら鞋ぢを穿はかせやがる。﹂ と、跣はだ足しでふいと出でたのである。 たとひ膚はだ身みは汚けがさずとも、夫をつとの目めに觸ふれた、と云いひ、恥はづかしいのと、口くや惜しいのと、淺あさましいので、かツと一いち途づに取とり逆の上ぼせて、お艷つやは其その日ひ、兩りや親うしんたち、夫をつとのまだ歸かへらぬ内うちに、扱しご帶きにさがつて、袖そではしぼんだ。あはれ、兄あにの元もと太たら郎うは、何なに事ごとも見みぬ振ふりで濟すます氣きで、何いつ時もより却かへつて遲おそくまで野の良らへ出でて歸かへらないで居ゐたと言いふのに。 却さ説て小こす助けは、家いへを出でた其その足あしで、同おなじ村むらの山やま手てへ行いつた。こゝに九く兵へ衞ゑと云いふものの娘むすめにお秋あきと云いふ、其その年とし十七になる野のが上みい一ちぐ郡ん評ひや判うばんの容きり色やう佳よし。 男をとこは女をん蕩なたらしの浮うは氣きもの、近ちか頃ごろは嫂あによめの年とし増まぶ振りに目めを着つけて、多しば日らく遠とほ々〴〵しくなつて居ゐたが、最もう一いち二にね年ん、深ふかく馴な染じんで居ゐたのであつた。 此この娘こから、路ろぎ銀んの算さん段だんをする料れう簡けん。で、呼よび出だしを掛かける氣きの、勝かつ手ては知しつた裏うら口ぐちへつて、垣かき根ねから覗のぞくと、長のど閑かな日ひの障しや子うじを開あけて、背せ戸どにひら〳〵と蝶てふ々〳〵の飛とぶのを見みながら、壁かべは黒くろい陰いん氣きな納なん戸どに、恍うつ惚とりともの思おもはしげな顏かほをして手てをなよ〳〵と忘わすれたやうに、靜しづかに、絲いと車ぐるまをして居ゐました。眞まつ白しろな腕うでについて、綿わたがスーツと伸のびると、可かは愛いい掌てのひらでハツと投なげたやうに絲いと卷まきにする〳〵と白しろく絡まつはる、娘むす心めごころは縁えにしの色いろを、其その蝶てふの羽はに染そめたさう。咳せきをすると、熟じつと視みるのを、もぢや〳〵と指ゆびを動うごかして招まねくと、飛とび立たつやうに膝ひざを立たてたが、綿わたを密そつと下したに置おいて、立たち構がまへで四あた邊りを見みたのは、母はゝ親おやが内うちだと見みえる。 首しゆ尾びは、しかし惡わるくはなかつたか、直すぐにいそ〳〵と出でて來くるのを、垣かき根ねにじり〳〵と待まちつけると、顏かほを視みて、默だまつて、怨うらめしい目めをしたのは、日この頃ごろの遠とほ々〴〵しさを、言いはぬが言いふに彌いや増まさると云いふ娘むす氣めぎの優やさしい處ところ。 ﹁おい、早さつ速そくだがね、此この通とほりだ。﹂ と、眞まん中なかを結ゆはへた包つゝみを見みせる、と旅たびと知しつて早はや顏かほ色いろの變かはる氣きの弱よわいのを、奴やつこは附つけ目めで、 ﹁何なにもいざこざはない、話はなしは歸かへつて來きてゆつくりするが、此これから直すぐに筑つく波ばさ山んへ參さん詣けいだ。友とも達だちの附つき合あひでな、退のつ引ぴきならないで出で掛かけるんだが、お秋あきさん、お前まへを呼よび出だしたのは他ほかの事ことぢやない、路ろよ用うの處ところだ。何なに分ぶん男をとこづくであつて見みれば、差さし當あたり懷ふと中ころ都つが合ふが惡わるいから、日ひを延のばしてくれろとも言いへなからうではないか。然さうかと云いつて、別べつに都つが合ふはつかないんだから、此この通とほり支した度くだけ急いそいでして、お前まへを當あてにからつぽの財さい布ふで出でて來きた。何どうにか、お前まへ、是ぜ非ひ算さん段だんをしてくんねえ。でねえと、身みう動ごきはつかないんだよ。﹂ お秋あきは何なにも彼かも一いつ時ときの、女をん氣なぎに最もう涙なみだぐんで、 ﹁だつて、私わたしには。﹂ と皆みなまで言いはせず、苦にがい顏かほして、 ﹁承しよ知うちだよ、承しよ知うちだよ。お鳥てう目もくがねえとか、小こづ遣かひは持もたねえとか云いふんだらう。働はたらきのねえ奴やつは極きまつて居ゐら、と恁かう云いつては濟すまないのさ。其そ處こはお秋あきさんだ。何い時つもたしなみの可いいお前まへだから、心こゝ得ろえておいでなさらあ、ね、其そ處こはお秋あきさんだ。﹂ ﹁あんな事ことを云いつて、お前まへさん又またおだましだよ。筑つく波ばへお詣まゐりぢやありますまい。博ばく奕ちの元もと手でか、然さうでなければ、瓜うり井ゐ戸どの誰だれさんか、意い氣きな女ぢよ郎らう衆しうの顏かほを見みにおいでなんだよ。﹂ ﹁默だまつて聞ききねえ、厭いや味みも可いい加かげ減んに云いつて置おけ。此こつ方ちは其そ處こどころぢやねえ、男をとこが立たつか立たたないかと云いふ羽は目めなんだぜ。友とも達だちへ顏かほが潰つぶれては、最もう此この村むらには居ゐられねえから、當たう分ぶん此これがお別わかれに成ならうも知しれねえ。隨ずゐ分ぶん達たつ者しやで居ゐてくんねえよ。﹂ と緊しつ乎かりと手てを取とる、と急きふに樣やう子すが變かはつて、目めをしばたゝいたのが、田ゐな舍かの娘むすめには、十じふ分ぶん愁うれひが利きいたから、惚ほれ拔ぬいて居ゐる男をとこの事こと、お秋あきは出で來きぬ中うちにも考しあ慮んして、 ﹁小こす助けさん、濟すみませんが、其それだけれど私わたしお鳥てう目もくは持もちません。何なにか品しなもので間まに合あはせておくんなさいまし。其それだと何どうにかしますから。﹂ ﹁……可いいとも、代しろもの結けつ構こうだ。お前まへ、眞ほん個とにお庇かげさまで男をとこが立たつぜ。﹂ と、そやし立たてた。成たるたけ人ひとの目めに立たたないやうに、と男をとこを樹きの蔭かげに、しばしとて、お秋あきが又また前あと後さきを見みながら内うちへ入はひつたから、しめたと、北ほく叟そゑ笑みをして待まつと、しばらく隙ひまが取とれて、やがて駈かけ出だして來きて、手てに渡わたしたのが手てお織りも木め綿んの綿わた入いれ一いち枚まい。よく〳〵であつたと見みえて、恥はづかしさうに差さし俯うつ向むく。 其その横よこ顏がほを憎にく々〳〵しい目めで覗のぞ込きこんで、 ﹁何なんだ、これは、品しなものと云いつたのは、お前まへ此この事ことか。お前まへ此この事ことか。品しなものと云いつたのは、間まに合あはせると云いふのは此これかな、えゝお秋あきさん。﹂ 娘むすめはおど〳〵して、 ﹁母かあさんが内うちだから、最もう其その外ほかには仕しやうがないもの、私わたし。﹂ ﹁此これぢや何どうにも仕しや樣うがねえ。とても出で來きねえものなら仕しか方たはねえが、最もう些ちつと、これんばかしでも都つが合ふをしねえ、急きふ場ばだから、己おれの生いき死しにの境さかひと云いふのだ。﹂ 最もう此この上うへは、とお秋あきは男をとこのせり詰つめた劍けん幕まくと、働はたらきのない女をんなだと愛あい想そを盡つかされようと思おもふ憂きづ慮かひから、前ぜん後ごの辨わき別まへもなく、着きて居ゐた棒ぼう縞じまの袷あはせを脱ぬいで貸かすつもりで、樹きの蔭かげではあつたが、垣かきの外そとで、帶おびも下した〆じめもする〳〵と解ほどいたのである。 先さつ刻きから、出では入ひりのお秋あきの素そぶ振りに、目めを着つけた、爐ろべ邊りに煮にものをして居ゐた母はゝ親おやが、戸おも外てに手て間まが取とれるのに、フト心こゝ着ろづいて、 ﹁秋あきは、あの子こや。﹂ と聲こゑを掛かけて呼よぶと、思おもふと、最もうすた〳〵と草ざう履りで出でた。 ﹁あれ、其それは、﹂ と云いふ、帶おびまで引ひつ手た奪くつて、袷あはせも一いつ所しよに、ぐる〳〵と引ひん丸まろげる。 ﹁秋あきやあ。﹂ ﹁あゝい。﹂ と震ふる聲へごゑで、慌あわてて、むつちりした乳ちゝの下したへ、扱しご帶きを取とつて卷まきつけながら、身から體だごとくる〳〵と顛てん倒だうしてる處ところへ、づかと出でた母はゝ親おやは驚おどろいて、白まつ晝ぴるまの茜あか木ねも綿めん、それも膝ひざから上うへばかり。 ﹁此この狐きつ憑ねつきが。﹂ と赫かつと成なると、躍をど上りあがつて、黒くろ髮かみを引ひツ掴つかむと、雪ゆきなす膚はだを泥どろの上うへへ引ひき倒たふして、ずる〳〵と内うちへ引ひき込こむ。 ﹁きい。﹂ と泣なくのが、身から體だが縁えん側がはへ橋はしに反そつて、其そのまゝ納なん戸どの絲いと車ぐるまの上うへへ、眞まわ綿たを挫ひしやいだやうに捻ねぢ倒たふされたのを、松まつ原ばらから伸のび上あがつて、菜なば畠たけ越ごしに、遠とほくで見みて、舌したを吐はいて、霞かすみがくれの鼻はな唄うたで、志こゝろざす都みやこへ振ふり出だしの、瓜うり井ゐ戸どの宿しゆくへ急いそいだ。 が、其その間あひだに、同おなじ瓜うり井ゐ戸どの原はらと云いふのがある。此これなん縱たてに四より里はつ八ちや町う、横よこは三さん里りに餘あまる。 村むらから松まつ並なみ木き一ひとつ越こした、此この原はらの取とツ着つきに、式かたばかりの建たて場ばがある。こゝに巣すをくふ平へい吉きちと云いふ博ぶち奕な仲か間まに頼たのんで、其その袷あはせと綿わた入いれを一いち枚まいづゝ、帶おびを添そへて質しち入いれにして、小こす助けが手てに握にぎつた金か子ねが……一いち歩ぶとしてある。尤もつとも使つかひをした、ならずの平へいが下げ駄たどころか、足あし駄だを穿はいたに違ちがひない。 此この一いち歩ぶに、身みのかはを剥むかれたために、最いと惜しや、お秋あきは繼まゝ母はゝには手てひ酷どき折せつ檻かんを受うける、垣かき根ねの外そとの樹きの下したで、晝ひる中なかに帶おびを解といたわ、と村むら中ぢうの是これ沙ざ汰たは、若わかい女をんなの堪たへ忍しのばれる恥はぢではない。お秋あきは夜よとも分わかず晝ひるとも知しらず朧おぼ夜ろよに迷まよ出ひいでて、あはれ十九を一いち期ごとして、同どう國こく浦うら崎ざきと云いふ所ところの入いり江えの闇やみに身みを沈しづめて、蘆あしの刈かり根ねのうたかたに、其その黒くろ髮かみを散ちらしたのである。 時ときに、一いち歩ぶの路ろよ用うを整とゝのへて、平へい吉きちがおはむきに、最もう七なゝツさがりだ、掘ほつ立たて小ご屋やでも一ひと晩ばん泊とまんねな兄あに哥い、と云いつてくれたのを、いや、瓜うり井ゐ戸どの娼おい妓らんが待まつて居ゐらと、例れいの己おれが、でから見み得えを張はつた。内ない心しんには、嫂あによめお艷つやの事こと、又またお秋あきの事こと、さすがに好いい事ことをしたと思おもはないから、村むら近ぢかだけに足あしのうらが擽くすぐつたい。ために夕ゆふ飯はんは々さう〳〵燒やき鮒ぶなで認したゝめて、それから野のは原らへ掛かゝつたのが、彼かれこれ夜よるの十じふ時じす過ぎになつた。 若わか草くさながら曠ひろ野の一いち面めん、渺べう々〳〵として果はてしなく、霞かすみを分わけてしろ〴〵と、亥ゐな中かの月つきは、さし上のぼつたが、葉はず末ゑを吹ふかるゝ我わればかり、狐きつねの提ちや灯うちんも見みえないで、時とき々〴〵むら雲くものはら〳〵と掛かゝるやうに、處とこ々ろ〴〵草くさの上うへを染そめるのは、野のが飼ひの駒こまの影かげがさすのである。 小こす助けは前ゆく途てを見みわ渡たして、此これから突つツ張ぱつて野のを越こして、瓜うり井ゐ戸どの宿しゆくへ入はひつたが、十こゝ二の時つを越こしたと成なつては、旅はた籠ご屋やを起おこしても泊とめてはくれない。たしない路ろぎ銀ん、女ぢよ郎らう屋やと云いふわけには行ゆかず、まゝよ、とこんな事ことは、さて馴なれたもので、根ねざ笹さを分わけて、草くさを枕まくらにころりと寢ねたが、如い何かにも良いい月つき。 春はるの夜よながら冴さえるまで、影かげは草くさを透すくのである。其その明あかりが目めを射さすので、笠かさを取とつて引ひき被かぶつて、足あしを踏ふみ伸のばして、眠ねむりかける、とニヤゴと鳴ないた、直ぢきそれが、耳みゝ許もとで、小こざ笹さの根ね。 ﹁や、念ねん入いりな處ところまで持もつて來きて棄すてやあがつた。野のね猫こは居ゐた事ことのない原はら場つぱだが。﹂ ニヤゴと又また鳴なく。耳みゝについてうるさいから、シツ〳〵などと遣やつて、寢ねながら兩りや手うてでばた〳〵と追おつたが、矢やつ張ぱり聞きこえる。ニヤゴ、ニヤゴと續つゞ樣けざま。 ﹁いけ可うる煩せえ畜ちく生しやうぢやねえか、畜ちく生しやう!﹂ と怒ど鳴なつて、笠かさを拂はらつて、むつくりと半はん身しん起おき上あがつて、透すかして見みると、何なにも居をらぬ。其その癖くせ、四あた邊りにかくれるほどな、葉はの伸のびた草くさの影かげもない。月つきは皎かう々〳〵として眞まひ晝るかと疑うたがふばかり、原はらは一いち面めん蒼さう海かいが凪なぎたる景けし色き。 ト錨いかりが一ひと具つ据すわつたやうに、間あひだ十じつ間けんばかり隔へだてて、薄うす黒ぐろい影かげを落おとして、草くさの中なかでくる〳〵とる車くるまがある。はて、何い時つの間まに、あんな處ところへ水みづ車ぐるまを掛かけたらう、と熟じつと透すかすと、何どうやら絲いとを繰くる車くるまらしい。 白しら鷺さぎがすうつと首くびを伸のばしたやうに、車くるまのまはるに從したがうて眞まつ白しろな絲いとの積つもるのが、まざ〳〵と見みえる。 何ど處こかで、ヒイと泣なき叫さけぶうら若わかい女をんなの聲こゑ。 お秋あきが納なん戸どに居ゐた姿すがたを、猛まう然ぜんと思おも出ひだすと、矢やつ張ぱり鳴なき留やまぬ猫ねこの其その聲こゑが、豫かねての馴なじ染みでよく知しつた。お秋あきが撫なで擦さすつて、可かは愛いがつた、黒くろ、と云いふ猫ねこの聲こゑに寸すん分ぶん違たがはぬ。 ﹁夢ゆめだ。﹂ と思おもひながら、瓜うり井ゐ戸どの野のの眞まん中なかに、一ひと人りで頭あたまから悚ぞ然つとすると、する〳〵と霞かすみが伸のびるやうに、形かたちは見みえないが、自じぶ分んの居ゐまはりに絡からまつて鳴なく猫ねこの居ゐる方はうへ、招まねいて手た繰ぐられるやうに絲いと卷まきから絲いとを曳ひいたが、幅はゞも、丈たけも、颯さつと一ひと條すぢ伸のび擴ひろがつて、肩かたを一ひと捲まき、胴どうへ搦からんで、 ﹁わツ。﹂ と掻かつ拂ぱらふ手てを、ぐる〳〵捲まきに、二ふた捲まき卷まいてぎり〳〵と咽の喉どを絞しめる、其その絞しめらるゝ苦くるしさに、うむ、と呻うめいて、脚あしを空そらざまに仰のけ反ぞる、と、膏あぶ汗らあせは身みう體ちを絞しぼつて、颯さつと吹ふく風かぜに目めが覺さめた。 草くさを枕まくらが其そのまゝで、早はやしら〳〵と夜よが白しらむ。駒こまの鬣たてがみがさら〳〵と、朝あさかつらに搖ゆらいで見みえる。 恐おそろしいよりも、夢ゆめと知しれて嬉うれしさが前さきに立たつた。暫しば時らく茫ばう然ぜんとして居ゐた。が、膚はだ脱ぬぎに成なつて冷ひや汗あせをしつとり拭ふいた。其その手てぬ拭ぐひを向むかう顱はち卷まき、うんと緊しめて氣きを確しつ乎かりと持もち直なほして、すた〳〵と歩ある行き出だした。 ――こんなのが、此この頃ごろ、のさ〳〵と都みやこへ入いり込こむ。 明治四十五年一月