婦人十一題
泉鏡太郎
うまし、かるた會(くわい)に急(いそ)ぐ若(わか)き胸(むね)は、駒(こま)下(げ)駄(た)も撒(まき)水(みづ)に辷(すべ)る。戀(こひ)の歌(うた)を想(おも)ふにつけ、夕(ゆふ)暮(ぐれ)の線(せん)路(ろ)さへ丸(まる)木(きば)橋(し)の心(こゝ)地(ち)やすらむ。松(まつ)を鳴(な)らす電(でん)車(しや)の風(かぜ)に、春(はる)着(ぎ)の袖(そで)を引(ひき)合(あは)す急(せ)き心(ごころ)も風(ふぜ)情(い)なり。やがてぞ、内(うち)賑(にぎやか)に門(もん)のひそめく輪(わか)飾(ざり)の大(おほ)玄(げん)關(くわん)より、絹(きぬ)足(た)袋(び)を輕(かる)く高(たか)廊(らう)下(か)を行(ゆ)く。館(やかた)の奧(おく)なる夫(ふじ)人(ん)の、常(つね)さへ白(しろ)鼈(べつ)甲(かふ)に眞(しん)珠(じゆ)を鏤(ちりば)めたる毛(ブロ)留(ーチ)して、鶴(つる)の膚(はだ)に、孔(くじ)雀(やく)の裝(よそほひ)にのみ馴(な)れたるが、この玉(たま)の春(はる)を、分(わ)けて、と思(おも)ふに、いかに、端(はし)近(ぢか)の茶(ちや)の室(ま)に居(ゐむ)迎(か)ふる姿(すがた)を見(み)れば、櫛(くし)卷(まき)の薄(うす)化(げし)粧(やう)、縞(しま)銘(めい)仙(せん)の半(はん)襟(えり)つきに、引(ひつ)掛(かけ)帶(おび)して、入(い)らつしやい。眞(しん)鍮(ちう)の茶(ちや)釜(がま)の白(はく)鳥(てう)、出(いで)居(ゐ)の柱(はしら)に行(あん)燈(どう)掛(か)けて、燈(ともしび)紅(あか)く、おでん燗(かん)酒(ざけ)、甘(あま)酒(ざけ)もあり。
――どツちが好(よ)いと言(い)ふんですか――
――知(し)らない――
都(みやこ)なる父(ふ)母(ぼ)は歸(かへ)り給(たま)ひぬ。舅(しうと)姑(しうとめ)、知(し)らぬ客(きやく)許(あま)多(た)あり。附(つき)添(そ)ふ侍(じぢ)女(よ)を羞(はぢ)らひに辭(じ)しつゝ、新(よめ)婦(ぎみ)の衣(きぬ)を解(と)くにつれ、浴(ゆど)室(の)颯(さつ)と白(しろ)妙(たへ)なす、麗(うるは)しき身(み)とともに、山(やま)に、町(まち)に、廂(ひさし)に、積(つも)れる雪(ゆき)の影(かげ)も映(さ)すなり。此(この)時(とき)、われに返(かへ)る心(こゝろ)、しかも湯(ゆ)氣(げ)の裡(うち)に恍(くわ)惚(うこつ)として、彼(かし)處(こ)に鼈(べつ)甲(かふ)の櫛(くし)笄(かうがい)の行(ゆく)方(へ)も覺(おぼ)えず、此(こ)處(ゝ)に亂(みだ)箱(ればこ)の緋(ひぢ)縮(りめ)緬(ん)、我(わ)が手(て)にさへ袖(そで)をこぼれて亂(みだ)れたり。面(おもて)、色(いろ)染(そま)んぬ。姿(すが)見(たみ)の俤(おもかげ)は一(ひと)重(へ)の花(はな)瓣(びら)薄(うす)紅(くれなゐ)に、乳(ち)を押(おさ)へたる手(て)は白(しろ)くかさなり咲(さ)く、蘭(らん)湯(たう)に開(ひら)きたる此(こ)の冬(ふゆ)牡(ぼた)丹(ん)。蕊(しべ)に刻(きざ)めるは誰(た)が名(な)ぞ。其(そ)の文(も)字(じ)金(こん)色(じき)に輝(かゞや)くまゝに、口(くち)渇(かわ)き又(また)耳(みゝ)熱(ねつ)す。高(たか)島(しま)田(だ)の前(まへ)髮(がみ)に冷(つめた)き刃(やいば)あり、窓(まど)を貫(つらぬ)くは簾(すだれ)なす氷(つら)柱(ゝ)にこそ。カチリと音(おと)して折(を)つて透(す)かしぬ。人(ひと)のもし窺(うかゞ)はば、いと切(せ)めて血(ち)を迸(ほとばし)らす匕(あひ)首(くち)とや驚(おどろ)かん。新(よめ)婦(ぎみ)は唇(くちびる)に含(ふく)みて微(ほゝ)笑(ゑ)みぬ。思(おも)へ君(きみ)……式(しき)九(くこ)獻(ん)の盞(さかづき)よりして以(この)來(かた)、初(はじ)めて胸(むね)に通(とほ)りたる甘(あま)く清(すゞし)き露(つゆ)なりしを。――見(み)たのかい――いや、われ聞(き)く。
淺(あさ)蜊(り)やア淺(あさ)蜊(り)の剥(むき)身(み)――高(たか)臺(だい)の屋(やし)敷(きま)町(ち)に春(はる)寒(さむ)き午(ご)後(ご)、園(その)生(ふ)に一(ひと)人(り)庭(には)下(げ)駄(た)を爪(つま)立(だ)つまで、手(て)を空(そら)ざまなる美(よ)き女(むすめ)あり。樹(き)々(ゞ)の枝(えだ)に殘(のこ)ンの雪(ゆき)も、ちら〳〵と指(ゆび)の影(かげ)して、大(おほい)なる紅(こう)日(じつ)に、雪(ゆき)は薄(うす)く紫(むらさき)の袂(たもと)を曳(ひ)く。何(なん)に憧(あこ)憬(が)るゝ人(ひと)ぞ。歌(うた)をよみて其(そ)の枝(えだ)の紅(こう)梅(ばい)の莟(つぼみ)を解(と)かんとするにあらず。手(てな)鍋(べ)提(さ)ぐる意(い)氣(き)に激(げき)して、所(しよ)帶(たい)の稽(けい)古(こ)に白(しら)魚(うを)の造(つく)る也(なり)。然(しか)も目(め)を刺(さ)すがいぢらしとて、ぬきとむるは尾(を)なるを見(み)よ。絲(いと)の色(いろ)も、こぼれかゝる袖(そで)口(くち)も、繪(ゑ)の篝(かゞ)火(りび)に似(に)たるかな。希(ねがは)くは針(はり)に傷(きず)つくことなかれ。お孃(ぢや)樣(うさま)これめせと、乳(う)母(ば)ならむ走(はし)り來(き)て捧(さゝ)ぐるを、曰(いは)く、ヱプロン掛(か)けて白(しら)魚(うを)の料(れう)理(り)が出(で)來(き)ますかと。魚(うを)も活(い)くべし。手(てく)首(び)の白(しろ)さ更(さら)に可(さん)三(ずん)寸(ばかり)。
舳(みよし)に肌(はだ)ぬぎの亂(みだ)れ姿(すがた)、歌(うた)妓(ひめ)がさす手(て)ひく手(て)に、おくりの絃(いと)の流(なが)れつゝ、花(はな)見(みぶ)船(ね)漕(こ)ぎつるゝ。土(ど)手(て)の霞(かすみ)暮(く)れんとして、櫻(さくら)あかるき三(み)めぐりあたり、新(あたら)しき五(ごだ)大(いり)力(き)の舷(ふなばた)の高(たか)くすぐれたるに、衣(えも)紋(ん)も帶(おび)も差(さし)向(むか)へる、二(ふた)人(り)の婦(をんな)ありけり、一(ひと)人(り)は高(かう)尚(しやう)に圓(ま)髷(げ)ゆひ、一(ひと)人(り)は島(しま)田(だ)艷(つやゝか)也(なり)。眉(まゆ)白(しろ)き船(せん)頭(どう)の漕(こ)ぐにまかせ、蒔(まき)繪(ゑ)の調(てう)度(ど)に、待(まつ)乳(ちや)山(ま)の影(かげ)を籠(こ)めて、三(みか)日(づ)月(き)を載(の)せたる風(ふぜ)情(い)、敷(しき)波(なみ)の花(はな)の色(いろ)、龍(たつ)の都(みやこ)に行(ゆ)く如(ごと)し。人(ひと)も酒(さけ)も狂(くる)へる折(をり)から、ふと打(う)ちすましたる鼓(つゞみ)ぞ冴(さ)ゆる。いざ、金(きん)銀(ぎん)の扇(あふぎ)、立(た)つて舞(ま)ふよと見(み)れば、圓(ま)髷(げ)の婦(をんな)、なよやかにすらりと浮(う)きて、年(とし)下(した)の島(しま)田(だ)の鬢(びん)のほつれを、透(すか)彫(しぼり)の櫛(くし)に、掻(かい)撫(な)でつ。心(こゝ)憎(ろにく)し。鐘(かね)の音(ね)の傳(つた)ふらく、此(こ)の船(ふね)、深(ふか)川(がは)の木(き)場(ば)に歸(かへ)る。
五(さみ)月(だ)雨(れ)の茅(かや)屋(や)雫(しづく)して、じと〳〵と沙(さ)汰(た)するは、山(やま)の上(うへ)の古(ふる)社(やしろ)、杉(すぎ)の森(もり)の下(した)闇(やみ)に、夜(よ)な〳〵黒(くろ)髮(かみ)の影(かげ)あり。呪(のろ)詛(ひ)の女(をんな)と言(い)ふ。かたの如(ごと)き惡(あく)少(せう)年(ねん)、化(けて)鳥(う)を狙(ねら)ふ犬(いぬ)となりて、野(のば)茨(ら)亂(みだ)れし岨(そば)道(みち)を要(えう)して待(ま)つ。夢(ゆめ)か、青(あを)葉(ば)の衣(きぬ)、つゝじの帶(おび)の若(わか)き姿(すがた)。雲(くも)暗(くら)き山(やま)の端(は)より月(つき)かすかに近(ちか)づくを、獲(え)ものよ、虐(しひた)げんとすれば、其(そ)の首(くび)の長(なが)きよ、口(くち)は耳(みゝ)まで裂(さ)けて、白(しろ)き蛇(へび)の紅(べに)さしたる面(おもて)ぞ。キヤツと叫(さけ)びて倒(たふ)るゝを、見(み)向(む)きもやらず通(とほ)りしは、優(いう)にやさしき人(ひと)の、黄(つ)楊(げ)の櫛(くし)を唇(くちびる)に銜(くは)へしなり。うらぶれし良(りや)家(うか)の女(むすめ)の、父(ちゝ)の病(いた)氣(つき)なるに、夜(よ)半(は)に醫(い)を乞(こ)へる道(みち)なりけり。此(こ)の護(ごし)身(ん)の術(じゆつ)や、魔(まは)法(ふ)つかひの教(をしへ)にあらず、なき母(はゝ)の記(かた)念(み)なりきとぞ。卯(う)の花(はな)の里(さと)の温(いで)泉(ゆ)の夜(よが)語(たり)。
裾(すそ)野(の)の煙(けむり)長(なが)く靡(なび)き、小(こま)松(つば)原(ら)の靄(もや)廣(ひろ)く流(なが)れて、夕(ゆふ)暮(ぐれ)の幕(まく)更(さら)に富(ふじ)士(さ)山(ん)に開(ひら)く時(とき)、其(そ)の白(しろ)妙(たへ)を仰(あふ)ぐなる前(まへ)髮(がみ)清(きよ)き夫(ふじ)人(ん)あり。肘(ひぢ)を輕(かる)く窓(まど)に凭(よ)る。螢(ほたる)一(ひと)つ、すらりと反(はん)對(たい)の窓(まど)より入(い)りて、細(ほそ)き影(かげ)を捲(ま)くと見(み)る間(ま)に、汗(あせ)埃(ほこり)の中(なか)にして、忽(たちま)ち水(みづ)に玉(たま)敷(し)ける、淺(あさ)葱(ぎ)、藍(あゐ)、白(びや)群(くぐん)の涼(すゞ)しき草(くさ)の影(かげ)、床(ゆか)かけてクシヨンに描(ゑが)かれしは、螢(ほたる)の衝(つ)と其(そ)の裳(もすそ)に忍(しの)び褄(つま)に入(い)りて、上(うへ)の薄(うす)衣(ぎぬ)と、長(なが)襦(じゆ)袢(ばん)の間(あひだ)を照(てら)して、模(もや)樣(う)の花(はな)に、葉(は)に、莖(くき)に、裏(うら)透(す)きてすら〳〵と移(うつ)るにこそあれ。あゝ、下(した)じめよ、帶(おび)よ、消(き)えて又(また)光(ひか)る影(かげ)、乳(ち)に沁(し)むなり。此(こ)の君(きみ)、其(そ)の肌(はだ)、確(たしか)に雪(ゆき)。ソロモンと榮(えい)華(ぐわ)を競(きそ)へりとか、白(しら)百(ゆ)合(り)の花(はな)も恥(は)づべき哉(かな)。否(いな)、恥(はぢ)らへるは夫(ふじ)人(ん)なり。衣(えも)絞(ん)明(あか)るく心(こゝ)着(ろづ)きけむ、銀(ぎん)に青(せい)海(かい)波(は)の扇(あふ)子(ぎ)を半(なかば)、螢(ほたる)より先(ま)づハツと面(おもて)を蔽(おほ)へるに、風(かぜ)さら〳〵と戰(そよ)ぎつゝ、光(ひかり)は袖(そで)口(くち)よりはらりとこぼれて、窓(さう)外(ぐわい)の森(もり)に尚(なほ)美(うつく)しき影(かげ)をぞ曳(ひ)きたる。もし魂(たましひ)の拔(ぬけ)出(い)でたらんか、これ一(いつ)顆(くわ)の碧(へき)眞(しん)珠(じゆ)に、露(つゆ)草(くさ)を鐫(ゑ)れるなるべし。此(こ)の人(ひと)もし仇(あだ)あらば、皆(みな)刃(やいば)を取(と)つて敵(かたき)を討(う)たん。靈(れい)山(ざん)の氣(き)、汽(きし)車(や)に迫(せま)れり。――山(やま)北(きた)――山(やま)北(きた)――
其(そ)の邊(あたり)の公(こう)園(ゑん)に廣(ひろ)き池(いけ)あり。時(とき)よし、風(かぜ)よしとて、町(まち)々(〳〵)より納(すゞ)涼(み)の人(ひと)出(い)で集(つど)ふ。童(わらべ)たち酸(ほゝ)漿(づき)提(ぢや)灯(うちん)かざしもしつ。水(みづ)の灯(ともしび)美(うつく)しき夜(よる)ありき。汀(みぎは)に小(ちひさ)き船(ふね)を浮(うか)べて、水(みづ)茶(ぢや)屋(や)の小(こや)奴(つこ)莞(に)爾(こ)やかに竹(たけ)棹(ざを)を構(かま)へたり。うら若(わか)き母(はゝ)に伴(ともな)はれし幼(をさ)兒(なご)の、他(ひと)の乘(の)るに、われもとて肯(き)かざりしに、私(わらは)は身(み)弱(よわ)くて、恁(か)ばかりの船(ふね)にも眩(めま)暈(ひ)するに、荒(あら)波(なみ)の海(うみ)としならばとにかくも、池(いけ)の水(みづ)に伏(ふ)さんこと、人(ひと)目(め)恥(はづ)かしければ得(え)乘(の)らじとよ。強(し)ひてとならば一(ひと)人(り)行(ゆ)け、心(こゝろ)は船(ふね)を守(まも)るべし。舳(みよし)にな立(た)ちそ、舷(ふなべり)にな片(かた)寄(よ)りそ。頼(たの)むは少(わか)き船(せん)頭(どう)衆(しう)とて、さみしく手(て)をはなち給(たま)ひしが、早(は)や其(そ)の姿(すがた)へだたりて、殘(のこん)の杜(かき)若(つばた)裳(もすそ)に白(しろ)く、蘆(あし)のそよぎ羅(うすもの)の胸(むね)に通(かよ)ふと、星(ほし)の影(かげ)に見(み)るまゝに、兒(こ)は池(いけ)のたゞ中(なか)に、母(はゝ)を呼(よ)びて、わツと泣(な)きぬ。――盂(うら)蘭(ぼ)盆(ん)の墓(はか)詣(まうで)に、其(そ)のなき母(はゝ)を偲(しの)びつゝ、涙(なみだ)ぐみたる娘(むすめ)あり。あかの水(みづ)の雫(しづく)ならで、桔(きき)梗(やう)に露(つゆ)を置(おき)添(そ)へつ、うき世(よ)の波(なみ)を思(おも)ふならずや。
若(わか)きものの、山(やま)深(ふか)く暑(あつさ)を避(さ)けたるが、雲(くも)の峰(みね)高(たか)き巖(いは)の根(ね)に、嘉(いは)魚(な)釣(つ)りて一(ひと)人(り)居(ゐ)たりけり。碧(へき)潭(たん)の氣(き)一(いち)脈(みやく)、蘭(らん)の香(か)を吹(ふ)きて、床(ゆか)しき羅(うすもの)の影(かげ)の身(み)に沁(し)むと覺(おぼ)えしは、年(とし)經(ふ)る庄(しや)屋(うや)の森(もり)を出(い)でて、背(うし)後(ろ)なる岨(そば)道(みち)を通(とほ)る人(ひと)の、ふと彳(たゝず)みて見(み)越(こ)したんなる。無(む)地(ぢ)かと思(おも)ふ紺(こん)の透(すき)綾(や)に、緋(ひぢ)縮(りめ)緬(ん)の長(なが)襦(じゆ)袢(ばん)、小(こや)柳(なぎ)繻(じゆ)子(す)の帶(おび)しめて、褄(つま)の堅(かた)きまで愼(つゝ)ましきにも、姿(すがた)のなよやかさ立(た)ちまさり、打(うち)微(ほゝ)笑(ゑ)みたる口(くち)紅(べに)さへ、常(とこ)夏(なつ)の花(はな)の化(けし)身(ん)に似(に)たるかな。斷(が)崖(け)の清(しみ)水(づ)に龍(りう)女(ぢよ)の廟(べう)あり。われは浦(うら)島(しま)の子(こ)か、姫(ひめ)の靈(れい)ぞと見(み)しが、やがて知(し)んぬ。なか〳〵に時(とき)のはやりに染(そ)まぬ服(ふく)裝(さう)の、却(かへ)つて鶯(あう)帶(たい)蝉(せん)羅(ら)にして、霓(げい)裳(しやう)羽(う)衣(い)の風(ふぜ)情(い)をなせる、そこの農(のう)家(か)の姉(あね)娘(むすめ)の、里(さと)の伯(を)母(ば)前(ぜ)を訪(と)ふなりしを。
洪(でみ)水(づ)は急(きふ)なりけり。背(せど)戸(つ)續(ゞ)きの寮(はな)屋(れや)に、茅(かや)屋(や)に侘(わ)ぶる風(ふぜ)情(い)とて、家(いへ)の娘(むすめ)一(ひと)人(り)居(ゐ)たる午(ひる)すぎよ。驚(すは)破(や)と、母(おも)屋(や)より許(いひ)嫁(なづけ)の兄(あに)ぶんの駈(か)けつくるに、讀(よ)みさしたる書(ふみ)伏(ふ)せもあへず抱(だ)きて立(た)てる、栞(しをり)の萩(はぎ)も濡(ぬれ)縁(えん)に枝(えだ)を浪(なみ)打(う)ちて、早(は)や徒(かち)渉(わたり)すべからず、あり合(あ)はす盥(たらひ)の中(なか)に扶(たす)けのせつゝ、盪(お)して逃(のが)るゝ。庭(には)はさながら花(はな)野(の)也(なり)。桔(きき)梗(やう)、刈(かる)萱(かや)、女(をみ)郎(なへ)花(し)、我(われ)亦(もこ)紅(う)、瑠(る)璃(り)に咲(さ)ける朝(あさ)顏(がほ)も、弱(なよ)竹(たけ)のまゝ漕(こぎ)惱(なや)めば、紫(むらさき)と、黄(き)と、薄(うす)藍(あゐ)と、浮(う)きまどひ、沈(しづ)み靡(なび)く。濁(にご)れる水(みづ)も色(いろ)を添(そ)へて極(ごく)彩(さい)色(しき)の金(きん)屏(びや)風(うぶ)を渡(わた)るが如(ごと)く、秋(あき)草(くさ)模(もや)樣(う)に露(つゆ)敷(し)く袖(そで)は、丈(せ)高(たか)き紫(しを)苑(ん)の梢(こずゑ)を乘(の)りて、驚(おどろ)き飛(と)ぶ蝶(てふ)とともに漾(たゞよ)へり。山(やま)影(かげ)ながら颯(さつ)と野(のわ)分(き)して、芙(ふよ)蓉(う)に咽(むせ)ぶ浪(なみ)の繁(しぶ)吹(き)に、小(ちひさ)き輪(りん)の虹(にじ)が立(た)つ――あら、綺(きれ)麗(い)だこと――それどころかい、馬(ば)鹿(か)を言(い)へ――男(をとこ)の胸(むね)は盥(たらひ)に引(ひき)添(そ)ひて泳(およ)ぐにこそ。おゝい、おゝい、母(おも)屋(や)に集(つど)へる人(にん)數(ず)の目(め)には、其(そ)の盥(たらひ)たゞ一(いち)枚(まい)大(おほい)なる睡(れん)蓮(げ)の白(しろ)き花(はな)に、うつくしき瞳(ひとみ)ありて、すら〳〵と流(なが)れ寄(よ)りきとか。
藍(あゐ)あさき宵(よひ)の空(そら)、薄(うす)月(づき)の夜(よ)に入(い)りて、雲(くも)は胡(ごふ)粉(ん)を流(なが)し、一(ひと)むら雨(さめ)廂(ひさし)を斜(なゝめ)に、野(の)路(ぢ)の刈(かる)萱(かや)に靡(なび)きつゝ、背(せ)戸(ど)の女(をみ)郎(なへ)花(し)は露(つゆ)まさる色(いろ)に出(い)で、茂(しげ)れる萩(はぎ)は月(つき)影(かげ)を抱(いだ)けり。此(こ)の時(とき)、草(くさ)の家(や)の窓(まど)に立(た)ちて、秋(あき)深(ふか)くものを思(おも)ふ女(をんな)。世(よ)にやくねれる、戀(こひ)にや惱(なや)める、避(ひし)暑(よ)の頃(ころ)よりして未(いま)だ都(みやこ)に歸(かへ)らざる、あこがれの瞳(ひとみ)をなぶりて、風(かぜ)の音(おと)信(づ)るともあらず、はら〳〵と、櫨(はじ)の葉(は)、柿(かき)の葉(は)、銀(いて)杏(ふ)の葉(は)、見(み)つゝ指(ゆび)の撓(しな)へるは、待(まち)人(びと)の日(ひ)を算(かぞ)ふるや。爪(つま)紅(べに)を其(そ)のまゝに、其(そ)の木(き)の葉(は)一(いち)枚(まい)づゝ、君(きみ)來(こ)よ、と染(そ)むるにや。豈(あに)ひとり居(きよ)に堪(た)ふべけんや。袖(そで)笠(がさ)かつぎもやらず、杖(しを)折(り)戸(ど)を立(たち)出(い)づる。山(やま)の根(ね)の野(のぎ)菊(く)、水(みづ)に似(に)て、渡(わた)る褄(つま)さき亂(みだ)れたり。曼(まん)珠(じゆ)沙(しや)華(げ)ひら〳〵と、其(そ)の左(さい)右(う)に燃(も)えたるを、あれは狐(きつね)か、と見(み)し夜(よも)戻(ど)りの山(やま)法(ぼふ)師(し)。稻(いな)束(づか)を盾(たて)に、や、御(ごれ)寮(う)、いづくへぞ、とそゞろに問(と)へば、莞(につ)爾(こり)して、さみしいから、田(たん)圃(ぼ)の案(か)山(ゝ)子(し)に、杯(さかづき)をさしに行(ゆ)くんですよ。
朝(あさ)の雲(くも)吹(ふき)散(ち)りたり。風(かぜ)凪(な)ぎぬ。藪(やぶ)垣(がき)なる藤(ふぢ)豆(まめ)の、莢(さや)も實(み)も、午(まひる)の影(かげ)紫(むらさき)にして、谷(たに)を繞(めぐ)る流(ながれ)あり。穗(ほ)たで露(つゆ)草(くさ)みだれ伏(ふ)す。此(こ)の水(みづ)やがて里(さと)の廓(くるわ)の白(おし)粉(ろい)に淀(よど)むと雖(いへど)も、此(こ)のあたり、寺(てら)々(〴〵)の松(まつ)の音(おと)にせゝらぎて、殘(ざん)菊(ぎく)の雫(しづく)潔(いさぎよ)し。十七ばかりのもの洗(あら)ふ女(をんな)、帶(おび)細(ほそ)く腰(こし)弱(よわ)く、盥(たらひ)を抱(かゝ)へて來(き)つ。汀(なぎさ)に裂(さ)けし芭(ばせ)蕉(を)の葉(は)、日(ひ)ざしに翳(かざ)す扇(あふぎ)と成(な)らずや。頬(ほゝ)も腕(かひな)も汗(あせ)ばみたる、袖(そで)引(ひ)き結(ゆ)へる古(ふる)襷(だすき)は、枯(かれ)野(の)の草(くさ)に褪(あ)せたれども、うら若(わか)き血(ち)は燃(も)えんとす。折(をり)から櫨(はじ)の眞(しん)紅(く)なるが、其(そ)のまゝの肌(はだ)着(ぎ)に映(うつ)りて、竹(たけ)堰(せき)の脛(はぎ)は霜(しも)を敷(し)く、あゝ、冷(つめ)たからん。筧(かけひ)の水(みづ)を受(う)くるとて、嫁(よめ)菜(な)の莖(くき)一(ひと)つ摘(つ)みつゝ、優(やさ)しき人(ひと)の心(こゝろ)かな、何(なん)のすさみにもあらで、其(そ)の盥(たらひ)にさしけるが、引(ひき)とき衣(ぎぬ)の藍(あゐ)に榮(は)えて、嫁(よめ)菜(な)の淺(あさ)葱(ぎい)色(ろ)冴(さ)えしを、菜(なば)畠(たけ)の日(ひな)南(た)に憩(いこ)ひて、恍(くわ)惚(うこつ)と見(み)たる旅(たび)の男(をとこ)。うかと聲(こゑ)を掛(か)けて、棟(むね)あちこち、伽(がら)藍(ん)の中(なか)に、鬼(きし)子(ぼ)母(じ)神(ん)の御(みて)寺(ら)はと聞(き)けば、えゝ、紅(あか)い石(ざく)榴(ろ)の御(おだ)堂(う)でせうと、瞼(まぶた)に色(いろ)を染(そ)めながら。
大正十二年一月―十一月
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。