みつ柏
泉鏡太郎
﹁はゝあ、此(こ)の堂(だう)がある所(せ)爲(ゐ)で==陰(いん)陽(やう)界(かい)==などと石(せき)碑(ひ)にほりつけたんだな。人(ひと)を驚(おどろ)かしやがつて、惡(わる)い洒(しや)落(れ)だ。﹂
と野(のな)中(か)の古(こべ)廟(う)に入(はひ)つて、一(ひと)休(やす)みしながら、苦(にが)笑(わらひ)をして、寂(さび)しさうに獨(ひと)言(りごと)を云(い)つたのは、昔(むかし)、四(しせ)川(んほ)都(うと)縣(けん)の御(ごじ)城(やう)代(だい)家(がら)老(う)の手(てが)紙(み)を持(も)つて、遙(はる)々(〴〵)燕(えん)州(しう)の殿(との)樣(さま)へ使(つかひ)をする、一(いつ)刀(ぽん)さした威(ゐせ)勢(い)の可(い)いお飛(ひき)脚(やく)で。
途(みち)次(すがら)、彼(か)の世(よ)に聞(きこ)えた鬼(きも)門(んく)關(わん)を過(す)ぎようとして、不(ふあ)案(んな)内(い)の道(みち)に踏(ふみ)迷(まよ)つて、漸(やつ)と辿(たど)着(りつ)いたのが此(こ)の古(こべ)廟(う)で、べろんと額(ひたひ)の禿(は)げた大(だい)王(わう)が、正(しや)面(うめん)に口(くち)を赫(くわつ)と開(あ)けてござる、うら枯(が)れ野(の)に唯(たゞ)一(ひと)つ、閻(えん)魔(まだ)堂(う)の心(こゝ)細(ろぼそ)さ。
﹁第(だい)一(いち)場(ばし)所(よ)が惡(わる)いや、鬼(きも)門(んく)關(わん)でおいでなさる、串(じよ)戲(うだん)ぢやねえ。怪(け)しからず霧(きり)が掛(かゝ)つて方(はう)角(がく)が分(わか)らねえ。石(せき)碑(ひ)を力(ちから)だ==右(みぎ)に行(ゆ)けば燕(えん)州(しう)の道(みち)==とでもしてあるだらうと思(おも)つて見(み)りや、陰(いん)陽(やう)界(かい)==は氣(き)障(ざ)だ。思(おも)出(ひだ)しても悚(ぞ)然(つ)とすら。﹂
飛(ひき)脚(やく)は大(おほ)波(なみ)に漾(たゞよ)ふ如(ごと)く、鬼(きも)門(んく)關(わん)で泳(およ)がされて、辛(から)くも燈(とう)明(みや)臺(うだい)を認(みと)めた一(いつ)基(き)、路(みち)端(ばた)の古(ふる)い石(せき)碑(ひ)。其(それ)さへ苔(こけ)に埋(うも)れたのを、燈(とう)心(しん)を掻(かき)立(た)てる意(いき)氣(ぐ)組(み)で、引(ひき)るやうに拂(はら)落(ひおと)して、南(みなみ)か北(きた)か方(はう)角(がく)を讀(よ)むつもりが、ぶる〳〵と十(じつ)本(ぽん)の指(ゆび)を震(ふる)はして、威(おど)かし附(つ)けるやうな字(じ)で、曰(いは)く==陰(いん)陽(やう)界(かい)==とあつたので、一(ひと)竦(すく)みに縮(ちゞ)んで、娑(しや)婆(ば)へ逃(にげ)出(だ)すばかりに夢(むち)中(う)で此(こ)處(ゝ)まで駈(か)けたのであつた。が、此(こ)處(ゝ)で成(なる)程(ほど)と思(おも)つた。石(せき)碑(ひ)の面(おもて)の意(い)を解(かい)するには、堂(だう)に閻(えん)魔(ま)のござるが、女(によ)體(たい)よりも頼(たの)母(も)しい。
﹁可(い)厭(や)に大(おほ)袈(げ)裟(さ)に顯(あら)はしたぢやねえか==陰(いん)陽(やう)界(かい)==なんのつて。これぢや遊(くる)廓(わ)の大(おほ)門(もん)に==色(しき)慾(よく)界(かい)==とかゝざあなるめえ。﹂
と、大(だい)分(ぶ)娑(しや)婆(ば)に成(な)る。
﹁だが、恁(か)う拜(をが)んだ處(ところ)はよ、閻(えん)魔(まさ)樣(ま)の顏(かほ)と云(い)ふものは、盆(ぼん)の十(じふ)六(ろく)日(にち)に小(こづ)遣(かひ)錢(ぜに)を持(も)つてお目(め)に掛(かゝ)つた時(とき)の外(ほか)は、餘(あま)り喝(やん)采(や)とは行(ゆ)かねえもんだ。……どれ、急(いそ)がうか。﹂
で、兩(ふた)つ提(さげ)へ煙(きせ)管(る)を突(つツ)込(こ)み、
﹁へい、殿(との)樣(さま)へ、御(ごめ)免(ん)なせいまし。﹂と尻(しり)からげの緊(しま)つた脚(きや)絆(はん)。もろに揃(そろ)へて腰(こし)を屈(かゞ)めて揉(もみ)手(で)をしながら、ふと見(み)ると、大(だい)王(わう)の左(さい)右(う)の御(おわ)傍(きだ)立(ち)。一(ひと)つは朽(く)ちたか、壞(こは)れたか、大(たい)破(は)の古(こべ)廟(う)に形(かたち)も留(と)めず。右(みぎ)に一(いつ)體(たい)、牛(ご)頭(づ)、馬(め)頭(づ)の、あの、誰(どな)方(た)も御(ごぞ)存(ん)じの――誰(たれ)が御(ごぞ)存(ん)じなものですか――牛(ご)頭(づ)の鬼(おに)の像(ざう)があつたが、砂(すな)埃(ほこり)に塗(まみ)れた上(うへ)へ、顏(かほ)を半(はん)分(ぶん)、べたりとしやぼんを流(なが)したやうに、したゝかな蜘(く)蛛(も)の巣(す)であつた。
﹁坊(ばう)主(ず)は居(ゐ)ねえか、無(むぢ)住(う)だな。甚(ひど)く荒(あれ)果(は)てたもんぢやねえか。蜘(く)蛛(も)の奴(やつ)めも、殿(との)樣(さま)の方(はう)には遠(ゑん)慮(りよ)したと見(み)えて、御(ごけ)家(ら)來(い)の顏(かほ)へを掛(か)けやがつた。なあ、これ、御(ごけ)家(ら)來(い)と云(い)へば此(こ)方(ち)人(と)等(ら)だ。其(そ)の又(また)家(けら)來(い)又(また)家(けら)來(い)と云(い)ふんだけれど、お互(たがひ)に詰(つま)りませんや。これぢや、なんぼお木(もく)像(ざう)でも鬱(うつ)陶(たう)しからう、お氣(き)の毒(どく)だ。﹂
と、兩(りや)袖(うそで)を擧(あ)げて、はた〳〵と拂(はら)つて、颯(さつ)と埃(ほこり)を拭(ふ)いて取(と)ると、芥(ごみ)に咽(む)せて、クシヤと圖(づ)拔(ぬ)けな嚏(くしやみ)をした。
﹁ほい。﹂と云(い)ふ時(とき)、もう枯(かれ)草(くさ)の段(だん)を下(お)りて居(ゐ)る、嚏(くしやみ)に飛(と)んだ身(みが)輕(る)な足(あし)取(どり)。
まだ方(はう)角(がく)も確(たしか)でない。旅(たび)馴(な)れた身(み)は野(のじ)宿(ゆく)の覺(かく)悟(ご)で、幽(かすか)に黒(くろ)雲(くも)の如(ごと)き低(ひく)い山(やま)が四(しは)方(う)を包(つゝ)んだ、灰(はひ)のやうな渺(べう)茫(ばう)たる荒(あら)野(の)を足(あし)にまかせて辿(たど)ること二(に)里(り)ばかり。
前(ゆく)途(て)に、さら〳〵と鳴(な)るは水(みづ)の聲(こゑ)。
扨(さて)は流(ながれ)がある。里(さと)もやがて近(ちか)からう。
雖(けれ)然(ども)、野(のみ)路(ち)に行(ゆき)暮(く)れて、前(まへ)に流(なが)れの音(おと)を聞(き)くほど、うら寂(さび)しいものは無(な)い。一(ひと)つは村(むら)里(ざと)に近(ちかづ)いたと思(おも)ふまゝに、里(さと)心(ごころ)がついて、急(きふ)に人(ひと)懷(なつ)かしさに堪(た)へないのと、一(ひと)つは、水(みづ)のために前(ゆく)途(て)を絶(た)たれて、渡(わた)るに橋(はし)のない憂(きづ)慮(か)はしさとである。
但(たゞ)し仔(しさ)細(い)のない小(をが)川(は)であつた。燒(やけ)杭(ぐひ)を倒(たふ)したやうな、黒(くろ)焦(こげ)の丸(まる)木(きば)橋(し)も渡(わた)してある。
唯(ト)、其(そ)の橋(はし)の向(むか)う際(ぎは)に、淺(あさ)い岸(きし)の流(ながれ)に臨(のぞ)んで、束(たば)ね髮(がみ)の襟(えり)許(もと)白(しろ)く、褄(つま)端(はし)折(よ)りした蹴(け)出(だ)しの薄(うす)ら蒼(あを)いのが、朦(もう)朧(ろう)として其(そ)處(こ)に俯(うつ)向(む)いて菜(な)を洗(あら)ふ、と見(み)た。其(そ)の菜(な)が大(だい)根(こん)の葉(は)とは違(ちが)ふ。
葡(ぶだ)萄(うい)色(ろ)に藍(あゐ)がかつて、づる〳〵と蔓(つる)に成(な)つて、葉(は)は蓮(はす)の葉(は)に肖(そつ)如(くり)で、古(ふる)沼(ぬま)に化(ば)けもしさうな大(おほき)な蓴(じゆ)菜(んさい)の形(かたち)である。
はて、何(なん)の菜(な)だ、と思(おも)ひながら、聲(こゑ)を掛(か)けようとして、一(ひと)つ咳(しはぶき)をすると、此(これ)は始(はじ)めて心(こゝ)着(ろづ)いたらしく、菜(な)を洗(あら)ふ其(そ)の婦(をんな)が顏(かほ)を上(あ)げた。夕(ゆふ)間(まぐ)暮(れ)なる眉(まゆ)の影(かげ)、鬢(びん)の毛(け)も縺(もつ)れたが、目(めは)鼻(な)立(だ)ちも判(はつ)明(きり)した、容(きり)色(やう)のいゝのを一(ひと)目(め)見(み)ると、呀(あつ)、と其(そ)處(こ)へ飛(ひき)脚(やく)が尻(しり)餅(もち)を搗(つ)いたも道(だう)理(り)こそ。一(をと)昨(ゝ)年(し)亡(な)くなつた女(によ)房(うばう)であつた。
﹁あら、丁(てい)さん。﹂
と婦(をんな)も吃(びつ)驚(くり)。――亭(てい)主(しゆ)の亭(てい)と云(い)ふのではない。飛(ひき)脚(やく)の名(な)は丁(てい)隷(れい)である。
﹁まあ、お前(まへ)さん、何(ど)うして此(こ)處(ゝ)へ、飛(と)んだ事(こと)ぢやありませんかねえ。﹂
人(にん)間(げん)界(かい)ではないものを……と、唯(たつ)た今(いま)、亭(てい)主(しゆ)に死(し)なれたやうな聲(こゑ)をして、優(やさ)しい女(によ)房(うばう)は涙(なみだ)ぐむ。思(おも)ひがけない、可(なつ)懷(か)しさに胸(むね)も迫(せま)つたらう。
丁(てい)告(これ)之(につ)以(ぐる)故(にゆゑをもつてす)。――却(さ)説(て)、一(いつ)體(たい)此(こ)處(ゝ)は何(ど)處(こ)だ、と聞(き)くと、冥(めい)土(ど)、と答(こた)へて、私(わたし)は亡(な)き後(あと)、閻(えん)魔(まわ)王(う)の足(あし)輕(がる)、牛(ごづ)頭(お)鬼(に)のために娶(めと)られて、今(いま)は其(そ)の妻(つま)と成(な)つた、と告(つ)げた。
飛(ひき)脚(やく)は向(むか)う見(み)ずに、少(せう)々(〳〵)妬(や)けて、
﹁畜(ちく)生(しやう)め、そして變(へん)なものを洗(あら)ふと思(おも)つた。汝(てめえ)、そりや間(まを)男(とこ)の鬼(おに)の腹(はら)卷(まき)ぢやねえかい。﹂
婦(をんな)は、ぽツと瞼(まぶた)を染(そ)めながら、
﹁馬(ば)鹿(か)なことをお言(い)ひでない。丁(てい)さん、こんなお前(まへ)さん、ぺら〳〵した……﹂
﹁乾(かわ)くと虎(とら)の皮(かは)に代(かは)る奴(やつ)よ。﹂
﹁可(い)い加(かげ)減(ん)なことをお言(い)ひなさいな。此(これ)はね、嬰(あか)兒(ご)の胞(え)胎(な)ですよ。﹂と云(い)つた。
十(とた)度(び)、これを洗(あら)ひたるものは、生(うま)れし兒(こ) 清(せい)秀(しう)にして貴(たつと)し。洗(あら)ふこと二(にさ)三(ん)度(ど)なるものは、尋(じん)常(じやう)中(ちう)位(ゐ)の人(ひと)、まるきり洗(せん)濯(たく)をしないのは、昏(こん)愚(ぐ)、穢(あい)濁(だく)にして、然(しか)も淫(いん)亂(らん)だ、と教(をし)へたのである。
﹁内(ない)職(しよく)に洗(あら)ふんですわ。﹂
﹁所(しよ)帶(たい)の苦(くら)勞(う)まで饒(しや)舌(べ)りやがる、畜(ちく)生(しやう)め。﹂
とづか〳〵と橋(はし)を渡(わた)り掛(か)ける。
﹁あゝ、不(いけ)可(な)い、其(そ)處(こ)を。﹂と手(て)を擧(あ)げて留(と)める間(ま)もなく、足(あし)許(もと)に、パツと火(ひ)が燃(も)えて、わツと飛(と)び移(うつ)つた途(とた)端(ん)に、丸(まる)木(きば)橋(し)はぢゆうと水(みづ)に落(お)ちて、黄(きい)色(ろ)な煙(けむり)が――濛(もう)と湧(わき)立(た)つ。
﹁何(なに)が、不(いけ)可(ね)え。何(なん)だ内(ない)職(しよく)の葉(は)ツ葉(ぱ)ぐれえ。﹂
女(によ)房(うばう)は、飛(ひき)脚(やく)を留(と)めつゝ驚(おどろ)く發(はず)奮(み)に、白(しろ)い腕(うで)に掛(か)けた胞(え)胎(な)を一(ひと)條(すぢ)流(なが)したのであつた。
﹁否(いゝえ)、まあ、流(なが)した方(はう)は、お氣(き)の毒(どく)な娑(しや)婆(ば)で一(ひと)人(り)流(りう)産(ざん)をしませうけれど、そんな事(こと)よりお前(まへ)さん、橋(はし)を渡(わた)らない前(まへ)だと、まだ何(ど)うにか、仕(しや)樣(う)も分(ふん)別(べつ)もありましたらうけれど、氣(きみ)短(じか)に飛(とび)越(こ)して了(しま)つてさ。﹂
﹁べらぼうめ、飛(とび)越(こ)したぐらゐの、ちよろ川(がは)だ、また飛(とび)返(かへ)るに仔(しさ)細(い)はあるめえ。﹂と、いきつて見(みか)返(へ)すと、こはいかに、忽(たちま)ち渺(べう)々(〳〵)たる大(たい)河(が)と成(な)つて、幾(いく)千(せん)里(り)なるや果(はて)を見(み)ず。
飛(ひき)脚(やく)は、ハツと目(め)が眩(くら)んで、女(によ)房(うばう)に縋(すが)着(りつ)いた。
強(し)ひても拒(こば)まず、極(きま)り惡(わる)げに、
﹁放(はな)して下(くだ)さい、見(み)られると惡(わる)いから。﹂
﹁助(たす)けてくれ。﹂
﹁まあ、私(わたし)何(ど)うしたら可(い)いでせう。……﹂
と色(いろ)つぽく氣(き)を揉(も)んで、
﹁とに角(かく)、家(うち)へおいでなさいまし。﹂
﹁助(たす)けてくれ。﹂
川(かは)の可(おそ)恐(ろ)しさに氣(きお)落(ち)がして、殆(ほとん)ど腰(こし)の立(た)たない男(をとこ)を、女(によ)房(うばう)が手(て)を曳(ひ)いて、遠(とほ)くもない、槐(ゑんじゆ)に似(に)た樹(き)の森(しん)々(〳〵)と立(た)つた、青(あを)煉(れん)瓦(ぐわ)で、藁(わら)葺(ぶき)屋(や)根(ね)の、妙(めう)な住(すま)居(ひ)へ伴(ともな)つた。
飛(ひき)脚(やく)が草(わら)鞋(ぢ)を脱(ぬ)ぐうちに、女(によ)房(うばう)は褄(つま)をおろした。
まだ夕(ゆふ)飯(はん)の前(まへ)である。
部(へ)屋(や)へ灯(あかし)を點(つ)ける途(とた)端(ん)に、入(いり)口(ぐち)の扉(とびら)をコト〳〵と輕(かる)く叩(たゝ)くものがある。
白(しろ)い頬(ほゝ)へ口(くち)を寄(よ)せつゝ、極(ごく)低(こご)聲(ゑ)で、
﹁誰(だれ)だい、誰(だれ)だい。﹂
﹁内(うち)の人(ひと)よ。﹂
﹁呀(やあ)、鬼(おに)か。﹂
と怨(うら)めしさうに、女(によ)房(うばう)の顏(かほ)をじろり。で、慌(あわ)てて寢(ねだ)臺(い)の下(した)へ潛(もぐ)込(りこ)む。
布(ぬの)で隱(かく)して、
﹁はい、唯(たゞ)今(いま)。﹂
扉(とびら)を開(あ)ける、とスーと入(はひ)つた。とゞろ〳〵と踏(ふみ)鳴(な)らしもしない、輕(かる)い靴(くつ)の音(おと)も、其(そ)の筈(はず)で、ぽかりと帽(ばう)子(し)を脱(ぬ)ぐやうに角(つの)の生(は)えた面(めん)を取(と)つて、一(ちよ)寸(つと)壁(かべ)の釘(くぎ)へ掛(か)けた、顏(かほ)を見(み)ると、何(なん)と! 色(いろ)白(じろ)な細(ほそ)面(おもて)で、髮(かみ)を分(わ)けたハイカラな好(かう)男(だん)子(し)。
﹁いや、何(ど)うも、今(け)日(ふ)は閻(たい)王(しやう)の役(やく)所(しよ)に檢(しら)べものが立(たて)込(こ)んで、甚(ひど)く弱(よわ)つたよ。﹂
と腹(はら)も空(す)いたか、げつそりとした風(ふう)采(つき)。ひよろりとして飛(ひき)脚(やく)の頭(あたま)の前(まへ)にある椅(い)子(す)にぐたりと腰(こし)を掛(か)けた、が、細(ほそ)い身(から)體(だ)をぶる〳〵と振(ふ)つた。
﹁人(ひと)臭(くさ)いぞ、變(へん)だ。甚(ひど)く匂(にほ)ふ、フン、ハン。﹂
と嗅(かぎ)して、
﹁これは生(なま)々(〳〵)とした匂(にほ)ひだ。眞(まつ)個(たく)人(まひ)臭(とくさ)い。﹂
前(さつ)刻(き)から、手(て)を擧(あ)げたり、下(さ)げたり、胸(むね)に波(なみ)を打(う)たして居(ゐ)た女(によ)房(うばう)。爰(こゝ)に於(おい)て其(そ)の隱(かく)し終(おほ)すべきにあらざるを知(し)つて、衝(つ)と膝(ひざ)を支(つ)いて、前(ぜん)夫(ぷ)の飛(ひき)脚(やく)の手(て)を取(と)つて曳(ひき)出(だ)すとともに、夫(をつと)の足(あし)許(もと)に跪(ひざまづ)いて、哀(あい)求(きう)す。曰(いは)く、
﹁後(ごし)生(やう)でござんす。﹂――と仔(しさ)細(い)を語(かた)る。
曳(ひき)出(だ)された飛(ひき)脚(やく)は、人(にん)間(げん)が恁(か)うして、こんな場(ばあ)合(ひ)に擡(もた)げると些(すこ)しも異(かは)らぬ面(つら)を擡(もた)げて、ト牛(ご)頭(づ)と顏(かほ)を見(み)合(あ)はせた。
︵家(かな)内(い)が。︶︵家(かな)内(い)が。︶と雙(さう)方(はう)同(どう)音(おん)に云(い)つたが==毎(まい)々(〳〵)お世(せ)話(わ)に==と云(い)ふべき處(ところ)を、同(どう)時(じ)に兩(りや)方(うはう)でのみ込(こ)みの一(ちよ)寸(つと)默(だん)然(まり)。
﹁其(そ)の時(とき)のよ、己(おれ)の顏(かほ)も見(み)たからうが、牛(ご)頭(づ)の顏(かほ)も、そりや見(み)せたかつた。﹂
と、蘇(よみ)生(がへ)つて年(とし)を經(へ)てから、丁(てい)飛(ひき)脚(やく)が、内(ない)證(しよう)で、兄(きや)弟(うだ)分(いぶん)に話(はな)したと傳(つた)へられる。
時(とき)に其(その)時(とき)、牛(ご)頭(づ)は慇(いん)懃(ぎん)に更(あらた)めて挨(あい)拶(さつ)した。
﹁貴(あな)方(た)、お手(て)をお擧(あ)げ下(くだ)さい。家(かな)内(い)とは一(ひと)方(かた)ならぬ。﹂と云(い)ひかけて厭(いや)な顏(かほ)もしないが、婦(をんな)と兩(りや)方(うはう)を見(みく)較(ら)べながら、
﹁御(ごこ)懇(ん)意(い)の間(あひだ)と云(い)ひ、それにです。貴(あな)方(た)は私(わたし)のためには恩(おん)人(じん)でおいでなさる。――お前(まへ)もお聞(き)きよ、私(わたし)が毎(まい)日(にち)出(しゆ)勤(つきん)するあの破(やぶ)堂(れだう)の中(なか)で、顏(かほ)は汗(あせ)だらけ、砂(すな)埃(ぼこり)、其(そ)の上(うへ)蜘(く)蛛(も)の巣(す)で、目(めく)口(ち)も開(あ)かない、可(ひ)恐(ど)く弱(よわ)つた處(ところ)を、此(こ)のお方(かた)だ、袖(そで)で綺(きれ)麗(い)にして下(くだ)すつた。……お救(すく)ひ申(まを)さないでおかるゝものか。﹂
﹁故(ふる)郷(さと)を離(はな)れまして、皆(みな)樣(さん)にお別(わか)れ申(まを)してから、ちやうど三(さん)年(ねん)でございます。私(わたし)は其(そ)の間(あひだ)に、それは〳〵……﹂
と俯(ふし)目(め)に成(な)つて、家(うち)の活(くら)計(し)のために身(み)を賣(う)つて、人(ひと)買(かひ)に連(つ)れられて國(くに)を出(で)たまゝ、行(ゆく)方(へ)の知(し)れなかつた娘(むすめ)が、ふと夢(ゆめ)のやうに歸(かへ)つて來(き)て、死(し)したるものの蘇(よみがへ)つた如(ごと)く、彼(か)の女(をんな)を取(とり)卷(ま)いた人(ひと)々(〴〵)に、窶(やつ)れた姿(すがた)で弱(よわ)々(〳〵)と語(かた)つた。支(し)那(な)に人(じん)身(しん)賣(ばい)買(ばい)の公(おほやけ)に行(おこな)はれた時(とき)の事(こと)である。
﹁……申(まを)しやうもござんせん、淺(あさ)ましい、恥(はづ)かしい、苦(くる)しい、そして不(ふ)思(し)議(ぎ)な目(め)に逢(あ)ひましたのでございます。
國(くに)境(ざかひ)を出(で)ましてからは、私(わたし)には東(とう)西(ざい)も分(わか)りません。長(なが)い道(だう)中(ちう)を、あの人(ひと)買(かひ)に連(つ)れて行(い)かれましたのでございます。そして其(そ)の人(ひと)買(かひ)の手(て)から離(はな)れましたのは、此(こ)の邊(へん)からは、遠(とほ)いか、形(かたち)も見(み)えません、高(たか)い山(やま)の裾(すそ)にある、田(ゐな)舍(か)のお醫(いし)師(や)の家(いへ)でございました。
一(ひと)晩(ばん)、其(そ)のお醫(いし)師(や)の離(はな)座(れざ)敷(しき)のやうな處(ところ)に泊(と)められますと、翌(あけ)朝(のあさ)、咽(の)喉(ど)へも通(とほ)りません朝(あさ)御(ごは)飯(ん)が濟(す)みました。間(ま)もなくでございましたの。
田(ゐな)舍(か)の事(こと)で、別(べつ)に此(これ)と云(い)ふ垣(かき)根(ね)もありません。裏(うら)の田(たん)圃(ぼ)を、山(やま)の裾(すそ)から、藜(あかざ)の杖(つゑ)を支(つ)いて、畝(あぜ)路(みち)づたひに、私(わたし)が心(こゝ)細(ろぼそ)い空(そら)の雲(くも)を見(み)て居(を)ります、離(はな)座(れざ)敷(しき)へ、のそ〳〵と入(はひ)つて來(き)ました、髯(ひげ)の白(しろ)い、赤(あか)ら顏(がほ)の、脊(せ)の高(たか)い、茶(ちや)色(いろ)の被(ひ)布(ふ)を着(き)て、頭(づき)巾(ん)を被(かぶ)つた、お爺(ぢい)さんがあつたのでございます。私(わたし)は檀(だん)那(なで)寺(ら)の和(をし)尚(やう)の、それも隱(いん)居(きよ)したのかと思(おも)ひました。
其(そ)の和(をし)尚(やう)が、私(わたし)の目(め)の前(まへ)へ腰(こし)を屈(かゞ)めて、支(つ)いた藜(あかざ)を頤(あご)杖(づゑ)にして、白(しろ)い髯(ひげ)を泳(およ)がせ泳(およ)がせ、口(くち)も利(き)かないで、身(から)體(だぢ)中(う)をじろ〳〵と覗(のぞ)込(きこ)むではござんせんか。
可(いや)厭(あ)なねえ。
私(わたし)は一(いつ)層(そ)、藥(やげ)研(ん)で生(いき)肝(ぎも)をおろされようとも、お醫(いし)師(や)の居(ゐ)る母(おも)屋(や)の方(はう)に逃(に)げ込(こ)まうかと思(おも)ひました。其(そ)の和(をし)尚(やう)の可(い)厭(や)らしさに。
處(ところ)が不(い)可(け)ないのでございます。お察(さつ)し下(くだ)さいまし。……
私(わたし)が逃(に)げようと起(た)ちます裾(すそ)を、ドンと杖(つゑ)の尖(さき)で壓(おさ)へました。熊(くま)手(で)で搦(から)みましたやうな甚(ひど)い力(ちから)で、はつと倒(たふ)れる處(ところ)を、ぐい、と手(て)を取(と)つて引(ひ)くのです。
あれ、摺(すり)拔(ぬ)けようと身(み)をきます時(とき)、扉(とびら)を開(あ)けて、醫(いし)師(や)が顏(かほ)を出(だ)しました。何(なに)をじたばたする、其(そ)のお仙(せん)人(にん)と汝(きさま)は行(ゆ)くのだ、と睨(にら)付(みつ)けて申(まを)すのです。そして、殿(との)樣(さま)の前(まへ)のやうに、お醫(いし)師(や)は、べた〳〵と唯(たゞ)叩(おじ)頭(ぎ)をしました。
すぐに連(つ)れられて參(まゐ)つたんです。生(いき)肝(ぎも)を藥(やげ)研(ん)でおろされる方(はう)がまだしもと思(おも)ひました、其(そ)の仙(せん)人(にん)に連(つ)れられて――何(ど)處(こ)へ行(い)くのかと存(ぞん)じますと、田(たん)圃(ぼみ)道(ち)を、私(わたし)を前(まへ)に立(た)たせて、仙(せん)人(にん)が後(あと)から。……情(なさけ)なさに歩(あ)行(る)き惱(なや)みますと、時(とき)々(〴〵)、背(うし)後(ろ)から藜(あかざ)の杖(つゑ)で、腰(こし)を突(つ)くのでございますもの。
麓(ふもと)へ出(で)ますと、段(だん)々(〳〵)山(やま)の中(なか)へ追(おひ)込(こ)みました。何(ど)うされるのでございませう。――意(こゝ)甚(ろは)疑(なは)懼(だぎくす)。然(しか)業(れど)已(もす)賣(でに)與(〳〵)無(うる)如(また)何(いかんともすべきなし)――﹂
と本(ほん)章(しやう)に書(か)いてある、字(じ)は硬(かた)いが、もの柔(やはらか)にあはれである。
﹁……目(め)を確(しつか)り瞑(つぶ)れや。杖(つゑ)に掴(つか)まれ。言(ことば)を背(そむ)くと生(いの)命(ち)がないぞ。
やがて、人(ひと)里(ざと)を離(はな)れました山(やま)懷(ふところ)で、仙(せん)人(にん)が立(たち)直(なほ)つて申(まを)しました。
然(さ)うした身(み)にも、生(いの)命(ち)の惜(をし)さに、言(い)はれた通(とほ)りに目(め)を瞑(ふさ)ぎました後(あと)は、裾(すそ)が渦(うづ)のやうに足(あし)に煽(あふ)つて搦(から)みつきますのと、兩(りや)方(うはう)の耳(みゝ)が風(かぜ)に當(あた)つて、飄(へう)々(〳〵)と鳴(な)りましたのばかりを覺(おぼ)えて居(を)ります。
可(よ)し、と言(い)はれて、目(め)を開(あ)けますと、地(ち)の底(そこ)の穴(あな)の裡(うち)ではなかつたのです。すつくり手(て)を立(た)てたやうな高(たか)い峰(みね)の、其(そ)の上(うへ)にもう一(ひと)つ塔(たふ)を築(つ)きました臺(だい)の上(うへ)に居(を)りました。部(へ)屋(や)も欄(らん)干(かん)も玉(たま)かと思(おも)ふ晃(きら)々(〳〵)と輝(かゞや)きまして、怪(あやし)いお星(ほし)樣(さま)の中(なか)へ投(なげ)込(こ)まれたのかと思(おも)ひましたの。仙(せん)人(にん)は見(み)えません。其(そ)處(こ)へ二(にじ)十(ふに)人(ん)餘(あま)り、年(と)紀(し)こそ十五六から三十ぐらゐまで、いろ〳〵に違(ちが)ひましたが、皆(みな)揃(そろ)つて美(うつく)しい、ですが、悄(しを)乎(〳〵)とした女(をんな)たちが出(で)て來(き)ましてね、いづれ、同(おな)じやうなお身(み)の上(うへ)でおいでなさいませう。お可(かは)哀(いさ)相(う)でございますわね、と皆(みな)さんで優(やさ)しく云(い)つて下(くだ)さるのです。
私(わたし)は、私(わたし)は殺(ころ)されるんでございませうか、と泣(な)きながら申(まを)しますとね、年(とし)上(うへ)の方(かた)が、否(いゝえ)、お仙(せん)人(にん)のお伽(とぎ)をしますばかりです、それは仕(しか)方(た)がござんせん。でも、こゝには、金(きん)銀(ぎん)如(やま)山(のごとく)、綾(りよ)羅(うら)、錦(きん)繍(しう)、嘉(かか)肴(う)、珍(ちん)菓(くわ)、あり餘(あま)つて、尚(な)ほ、足(た)りないものは、お使(しし)者(や)の鬼(おに)が手(て)を敲(たゝ)くと整(とゝの)へるんです、それに不(ふそ)足(く)はありません。毎(まい)日(にち)の事(こと)は勿(もつ)體(たい)ない、殿(との)樣(さま)に擬(まが)ふほどなのです。其(そ)の代(かは)り――
其(そ)の代(かは)り、と聞(き)いただけで身(み)がふるへたではありませんか。――えゝ、其(そ)の代(かは)り。……何(なに)、其(それ)だつて、と其(そ)の年(とし)紀(う)上(へ)の方(かた)が又(また)、たゞ毎(まい)月(げつ)一(いち)度(ど)づゝ、些(ちつ)と痛(いた)い苦(くる)しい思(おもひ)をするだけなんですツて――
さあ、あの、其(そ)の、思(おもひ)をしますのを、殺(ころ)されるやうに思(おも)つて、待(ま)ちました。……欄(らん)干(かん)に胸(むね)を壓(おさ)へて、故(ふる)郷(さと)の空(そら)とも分(わ)かぬ、遙(はる)かな山(やま)の頂(いたゞき)が細(ほそ)い煙(けむり)を噴(は)くのを見(み)れば、あれが身(み)を焚(や)く炎(ほのほ)かと思(おも)ひ、石(いし)の柱(はしら)に背(せ)を凭(もた)れて、利(とが)鎌(ま)の月(つき)を見(み)る時(とき)は、それも身(み)を斬(き)る刃(やいば)かと思(おも)つたんです。
お前(まへ)さん、召(め)しますよ。
えゝ! さあ、其(そ)の時(とき)が參(まゐ)りました。一(ひと)月(つき)の中(うち)に身(から)體(だ)がきれいに成(な)りました、其(そ)の翌(あく)日(るひ)の事(こと)だつたんです、お仙(せん)人(にん)は杖(つゑ)を支(つ)いて、幾(いく)壇(だん)も壇(だん)を下(お)りて、館(やかた)を少(すこ)し離(はな)れました、攀(よぢ)上(のぼ)るほどな巖(いは)の上(うへ)へ連(つ)れて行(い)きました。眞(まつ)晝(ぴる)間(ま)の事(こと)なんです。
天(てん)狗(ぐ)の俎(まないた)といひますやうな 大(たい)木(ぼく)の切(き)つたのが据(すゑ)置(お)いてあるんです。其(そ)の上(うへ)へ、私(わたし)は内(うち)外(と)の衣(きぬ)を褫(と)られて、そして寢(ね)かされました。仙(せん)人(にん)が、あの廣(ひろ)い袖(そで)の中(なか)から、眞(まつ)紅(か)な、粘(ねば)々(〳〵)した、艷(つや)のある、蛇(へび)の鱗(うろこ)のやうな編(あみ)方(かた)した、一(ひと)條(すぢ)の紐(ひも)を出(だ)して絲(いと)ほどにも、身(み)の動(うご)きませんほど、手(てあ)足(し)を其(そ)の大(たい)木(ぼく)に確(しつ)乎(かり)結(いは)へて、綿(わた)の丸(まる)けた球(たま)を、口(くち)の中(なか)へ捻(ねぢ)込(こ)みましたので、聲(こゑ)も出(で)なくなりました。
其(そ)處(こ)へ、キラ〳〵する金(きん)の針(はり)を持(も)つて、一(ひと)睨(にら)み睨(にら)まれました時(とき)に、もう氣(き)を失(うしな)つたのでございます。
自(じぶ)分(ん)に返(かへ)りました時(とき)、兩(りや)臂(うひぢ)と、乳(ちゝ)の下(した)と、手(てく)首(び)の脈(みやく)と 方(はう)々(〴〵)に血(ち)が浸(にじ)んで、其(そ)處(こ)へ眞(まつ)白(しろ)な藥(くすり)の粉(こな)が振(ふり)掛(か)けてあるのが分(わか)りました。
翌(あく)月(るつき)、二(に)度(ど)目(め)の時(とき)に、それでも氣(きぜ)絶(つ)はしませんでございました。そして、仙(せん)人(にん)の持(も)ちましたのは針(はり)ではありません、金(きん)の管(くだ)で、脈(みやく)へ刺(さ)して、其(そ)の管(くだ)から生(いき)血(ち)を吸(す)はれるつて事(こと)を覺(おぼ)えたのです。一(ひと)時(とき)ばかり、其(そ)の間(あひだ)の苦(くつ)痛(う)と云(い)つてはありません。
が、藥(くすり)をつけられますと、疵(きず)あとは、すぐに次(つぎ)の日(ひ)に痂(か)せて落(お)ちて、蟲(むし)に刺(さ)されたほどのあとも殘(のこ)りません。
えゝ、そんな思(おも)ひをして、雲(くも)も雨(あめ)も、みんな、目(め)の下(した)に遠(とほ)く見(み)えます、蒼(あを)空(ぞら)の高(たか)い峰(みね)の館(やかた)の中(なか)に、晝(ひる)は伽(とぎ)をして暮(くら)しました。
つい此(こ)の頃(ごろ)でございます。思(おも)ひもかけず、屋(や)根(ね)も柱(はしら)も搖(ゆ)れるやうな白(しろ)い風(かぜ)が矢(や)を射(い)るやうに吹(ふ)きつけますと、光(ひか)り輝(かゞや)く蒼(あを)空(ぞら)に、眞(まつ)黒(くろ)な雲(くも)が一(ひと)掴(つかみ)、鷲(わし)が落(おと)しますやうな、峰(みね)一(いつ)杯(ぱい)の翼(つばさ)を開(ひら)いて、山(やま)を包(つゝ)んで、館(やかた)の屋(や)根(ね)に渦(うづま)いてかゝりますと、晝(ひる)間(ま)の寢(ねど)床(こ)――仙(せん)人(にん)は夜(よる)はいつでも一(いつ)睡(すゐ)もしないのです、夜(やぶ)分(ん)は塔(たふ)の上(うへ)に上(あが)つて、月(つき)に跪(ひざまづ)き、星(ほし)を拜(をが)んで、人(ひと)の知(し)らない行(ぎやう)をします――其(そ)の晝(ひる)の寢(ねど)床(こ)から當(たう)番(ばん)の女(をんな)を一(ひと)人(り)、小(こわ)脇(き)に抱(かゝ)へたまゝ、廣(ひろ)室(ま)に駈(かけ)込(こ)んで來(き)たのですが、皆(みんな)來(こ)い! と呼(よび)立(た)てます。聲(こゑ)も震(ふる)へ、身(み)も慄(をのゝ)いて、私(わたし)たち二(にじ)十(ふに)人(ん)餘(あま)りを慌(あわたゞ)しく呼(よび)寄(よ)せて、あの、二(にぢ)重(う)三(さん)重(ぢう)に、白(しろ)い膚(はだ)に取(とり)圍(かこ)ませて、衣(きも)類(の)衣(きも)服(の)の花(はな)の中(なか)に、肉(にく)身(しん)の屏(びや)風(うぶ)させて、一(ひと)すくみに成(な)りました。
此(これ)が禁(まじ)厭(なひ)に成(な)るのと見(み)えます。窓(まど)を透(とほ)して手(て)のやうに擴(ひろ)がります、其(そ)の黒(くろ)雲(くも)が、じり〳〵と來(き)ては、引(ひき)返(かへ)し、じり〳〵と來(き)ては、引(ひき)返(かへ)し、仙(せん)人(にん)の背(せ)は波(なみ)打(う)つやうに、進(かけ)退(ひき)するのが見(み)えました。が、やがて、凄(すさま)じい音(おと)がしますと、雲(くも)の中(なか)に、龍(りう)の形(かたち)が顯(あら)はれたんです。柱(はしら)のやうに立(た)つたと思(おも)ふと、ちやうど箕(み)の大(おほき)さに見(み)えました、爪(つめ)が電(いなづま)のやうな掌(てのひら)を開(ひら)いて、女(をんな)たちの髮(かみ)の上(うへ)へ仙(せん)人(にん)の足(あし)を釣(つり)上(あ)げた、と見(み)ますと、天(てん)井(じやう)が、ぱつと飛(とび)散(ち)つて、あとはたゞ黒(くろ)雲(くも)の中(なか)に、風(かぜ)の荒(あれ)狂(くる)ふのばかりを覺(おぼ)えて、まるで現(うつゝ)に成(な)つたんです。
村(むら)の人(ひと)に介(かい)抱(はう)されると、知(し)らない國(くに)の、路(みち)傍(ばた)に倒(たふ)れて居(ゐ)ました。
其(そ)處(こ)で訊(たづ)ねまして、はじめて、故(ふる)郷(さと)は然(さ)まで遠(とほ)くない、四(しご)五(じ)十(ふ)里(り)だと云(い)ふのが分(わか)つて、それから、釵(かんざし)を賣(う)り、帶(おび)を賣(う)つて、草(くさ)樹(き)をしるべに、漸(や)つと日(ひ)をかさねて歸(かへ)つたのでございます。﹂
あはれ、此(こ)の婦(をんな)は、そして久(ひさ)しからずして果(は)敢(か)なく成(な)つたと傳(つた)へられる。
傳(つた)へ聞(き)く、近(ちか)頃(ごろ)、天(てん)津(しん)の色(いろ)男(をとこ)に何(なに)生(がし)と云(い)ふもの、二(ふつ)日(か)ばかり邸(やしき)を明(あ)けた新(しん)情(い)人(ろ)の許(もと)から、午(こご)後(にじ)二(は)時(ん)半(ご)頃(ろ)茫(ばう)として歸(かへ)つて來(き)た。
﹁しかし奧(おく)も美(びじ)人(ん)だよ。あの烈(はげ)しく妬(や)くと云(い)ふものが、恐(おそ)らく己(おれ)を深(ふか)く思(おも)へばこそだからな。賣(ばい)色(しよく)の輩(はい)と違(ちが)ふ、慾(よく)得(とく)づくや洒(しや)落(れ)に其(そ)の胸(むな)倉(ぐら)を取(と)れるわけのものではないのだ。うふゝ。貴(あな)方(た)はな、とそれ、赫(かつ)と成(な)る。あの瞼(まぶた)の紅(くれなゐ)と云(い)ふものが、恰(あたかも)是(これ)、醉(よ)へる芙(ふよ)蓉(う)の如(ごと)しさ。自(じま)慢(ん)ぢやないが、外(ぐわ)國(いこく)にも類(たぐ)ひあるまい。新(しん)婚(こん)當(たう)時(じ)の含(はに)羞(か)んだ色(いろ)合(あひ)を新(あたら)しく拜(はい)見(けん)などもお安(やす)くない奴(やつ)。たゞし嬌(けう)瞋(しん)火(ひ)に似(に)たりと云(い)ふのを思(おも)つたばかりでも、此(こつ)方(ち)も耳(みゝ)が熱(ほて)るわけさ。﹂
と六(ろく)月(ぐわつ)の日(ひ)の照(て)らす中(なか)に、寢(ねぶ)不(そ)足(く)の蒼(あを)白(じろ)い顏(かほ)を、蒸(むし)返(かへ)しにうだらして、筋(すぢ)もとろけさうに、ふら〳〵と邸(やしき)に近(ちか)づく。
唯(ト)、夫(ふじ)人(ん)の居(ゐ)室(ま)に當(あた)る、甘(あま)くして艷(つや)つぽく、色(いろ)の濃(こ)い、唐(から)の桐(きり)の花(はな)の咲(さ)いた窓(まど)の下(した)に、一(ひと)人(り)影(かげ)暖(あたゝ)かく彳(たゝず)んだ、少(せう)年(ねん)の書(しよ)生(せい)の姿(すがた)がある。其(そ)の人(ひと)、形(けい)容(よう)、都(と)にして麗(れい)なり、と書(か)いてある。若(わか)旦(だん)那(な)には氣(き)の毒(どく)ながら、書(か)いてあるので仕(しか)方(た)がない。
これが植(うゑ)込(こみ)を遙(はる)かに透(すか)し、門(もん)の外(そと)からあからさまに見(み)えた、と見(み)る間(ま)もなく、件(くだん)の美(びせ)少(うね)年(ん)の姿(すがた)は、大(おほき)な蝶(てふ)の影(かげ)を日(ひな)南(た)に殘(のこ)して、飜(ひら)然(り)と――二(にか)階(い)ではないが――窓(まど)の高(たか)い室(しつ)へ入(はひ)つた。再(ふたゝ)び説(と)く。其(そ)處(こ)が婦(ふじ)人(ん)の居(ゐ)室(ま)なのである。
若(わか)旦(だん)那(な)は、くわつと逆(の)上(ぼ)せた頭(あたま)を、我(われ)を忘(わす)れて、うつかり帽(ばう)子(し)の上(うへ)から掻(かき)りながら、拔(ぬき)足(あし)に成(な)つて、庭(には)傳(づた)ひに、密(そつ)と其(そ)の窓(まど)の下(した)に忍(しの)び寄(よ)る。内(うち)では、媚(なま)めいた聲(こゑ)がする。
﹁よく來(き)てねえ、丁(ちやう)ど待(ま)つて居(ゐ)た處(ところ)なんですよ、心(こゝろ)が通(つう)じたんだわね。﹂
と、舌(した)つたるさも沙(さ)汰(た)の限(かぎ)りな、それが婦(ふじ)人(ん)の聲(こゑ)である。
若(わか)旦(だん)那(な)勃(ぼつ)然(ぜん)として怒(おこ)るまいか。あと退(じさ)りに跳(はね)返(かへ)つた、中(なか)戸(どぐ)口(ち)から、眞(まつ)暗(くら)に成(な)つて躍(をど)込(りこ)んだが、部(へ)屋(や)の扉(と)の外(そと)に震(ふる)へる釘(くぎ)の如(ごと)くに突(つツ)立(た)つて、拳(こぶし)を握(にぎ)りながら、
﹁りんよ、りんよ、權(ごん)平(ぺい)、權(ごん)平(ぺい)よ、りんよ、權(ごん)平(ぺい)。刀(かたな)を寄(よ)越(こ)せ、刀(かたな)を寄(よ)越(こ)せ、刀(かたな)を。﹂と喚(よび)かけたが、權(ごん)平(ぺい)も、りんも、寂(ひつ)然(そり)して音(おと)も立(た)てない。誰(たれ)が敢(あへ)て此(こ)處(ゝ)へ切(きれ)ものを持(もち)出(だ)すものか。
若(わか)旦(だん)那(な)、地(ぢ)たゝらを踏(ふ)みながら、
﹁汝(これ)、汝(これ)、部(へ)屋(や)の中(なか)に居(ゐ)るのは誰(たれ)だ、誰(たれ)が居(ゐ)るんだ、汝(これ)。﹂
と怒(ど)鳴(な)つた。裡(うち)に敵(てき)ありと見(み)て、直(す)ぐに猪(いのしゝ)の如(ごと)く飛(とび)込(こ)まないのが、しかし色(いろ)男(をとこ)の身(しん)上(しやう)であると思(おも)へ。
婦(ふじ)人(ん)の驚(きや)駭(うがい)は蓋(けだ)し察(さつ)するに餘(あま)りある。卓(たく)を隔(へだ)てて差(さし)向(むか)ひにでも逢(あ)ふ事(こと)か、椅(い)子(す)を並(なら)べて、肩(かた)を合(あ)はせて居(ゐ)るのであるから、股(こり)栗(つし)不(てこ)能(ゑす)聲(るあたはず)。唯(たゞ)腕(うで)で推(お)し、手(て)で拂(はら)つて、美(びせ)少(うね)年(ん)を、藏(かく)すよりも先(ま)づ、離(はな)さうとあせり悶(もだ)えて、殆(ほとん)ど虚(こく)空(う)を掴(つか)む形(かたち)。
美(びせ)少(うね)年(ん)が、何(なん)と飛(とび)退(の)きもしよう事(こと)か。片(かた)手(て)で、尚(な)ほつよく、しかと婦(ふじ)人(ん)の手(て)を取(と)つたまゝ、その上(うへ)、腰(こし)で椅(い)子(す)を摺(すり)寄(よ)せて、正(しや)面(うめん)をしやんと切(き)つて、曰(いは)く此(この)時(とき)、神(しん)色(しよく)自(じじ)若(やく)たりき、としてあるのは、英(えい)雄(ゆう)が事(じへ)變(ん)に處(しよ)して、然(しか)るよりも、尚(なほ)更(さ)ら驚(きや)歎(うたん)に價(あた)値(ひ)する。
逃(に)げようと思(おも)へば、いま飛(とび)込(こ)んだ、窓(まど)もあるのに――
﹁然(さ)うだ。一(ひと)思(おも)ひに短(ピス)銃(トル)だ。﹂
と扉(ドア)の外(そと)でひき呼(い)吸(き)に呟(つぶや)く聲(こゑ)、彈(だん)丸(ぐわん)の如(ごと)く飛(と)んで行(ゆ)く音(おと)。忽(たちま)ち手(てお)負(ひじ)猪(し)の襲(おそ)ふやうな、殺(さつ)氣(き)立(だ)つた跫(あし)音(おと)が犇(ひし)々(〳〵)と扉(ドア)に寄(よ)る。剩(あまつさ)へ其(そ)の扉(ドア)には、觀(くわ)世(んぜ)綟(より)の鎖(ぢやう)もさゝず、一(ひと)壓(お)しに押(お)せば開(あ)くものを、其(そ)の時(とき)まで美(びせ)少(うね)年(ん)は件(くだん)の自(じじ)若(やく)たる態(たい)度(ど)を續(つゞ)けた。
然(しか)も、若(わか)旦(だん)那(な)が短(ピス)銃(トル)を持(も)つて引(ひつ)返(かへ)したのを知(し)ると、莞(くわ)爾(んじ)として微(ほゝ)笑(ゑ)んで、一(いつ)層(そう)また、婦(ふじ)人(ん)の肩(かた)を片(かた)手(て)に抱(いだ)いた。
其(そ)の間(あひだ)の婦(ふじ)人(ん)の心(しん)痛(つう)と恐(きよ)怖(うふ)はそも、身(み)をしぼる汗(あせ)は血(ち)と成(な)つて、紅(くれなゐ)の雫(しづく)が垂(たら)々(〳〵)と落(お)ちたと云(い)ふ。窘(くるしみ)も又(また)極(きはま)つて、殆(ほとん)ど狂(きや)亂(うらん)して悲(ひめ)鳴(い)を上(あ)げた。
﹁あれ、強(がう)盜(たう)が、私(わたし)を、私(わたし)を。﹂
﹁何(なに)が盜(ぬす)人(びと)です、私(わたし)は情(い)人(ろ)ぢやありませんかね。﹂
と高(たか)らかに美(びせ)少(うね)年(ん)が言(い)つた。
﹁何(なん)だ。強(がう)盜(たう)だ、情(い)人(ろ)だ。﹂と云(い)ひさま、ドンと開(あ)けて、衝(つ)と入(はひ)つて、屹(き)と其(そ)の短(ピス)銃(トル)を差(さし)向(む)けて、一(ひと)目(め)見(み)るや、あ、と叫(さけ)んで、若(わか)旦(だん)那(な)は思(おも)はず退(すさ)つた。
怪(あや)事(し)、婦(ふじ)人(ん)の肩(かた)に手(て)を掛(か)けて連(れん)理(り)の椅(い)子(す)を並(なら)べたのは、美(びせ)少(うね)年(ん)のそれにあらず。
此(これ)がために昨(ゆう)夜(べ)も家(いへ)を開(あ)けて、今(いま)しがた喃(なん)々(〳〵)として別(わか)れて來(き)た、若(わか)旦(だん)那(な)自(じし)身(ん)の新(しん)情(い)婦(ろ)の美(びぢ)女(よ)で、婦(ふじ)人(ん)と其(そ)處(こ)に兩(りや)々(う〳〵)紅(こう)白(はく)を咲(さき)分(わ)けて居(ゐ)たのである。
此(こ)の美(びぢ)女(よ)、姓(せい)は胡(こ)で、名(な)はお好(かう)ちやんと云(い)ふ。
一(いつ)體(たい)、此(こ)の若(わか)旦(だん)那(な)は、邸(やしき)の河(かは)下(しも)三(さん)里(り)ばかりの處(ところ)に、流(ながれ)に臨(のぞ)んだ別(べつ)業(げふ)があるのを、元(ぐわ)來(んらい)色(いろ)好(この)める男(をと)子(こ)、婦(ふじ)人(ん)の張(ちや)氏(うし)美(びに)而(して)妬(と)なりと云(い)ふので、浮(うは)氣(き)をする隱(かく)場(れば)處(しよ)にして、其(そ)の別(べつ)業(げふ)へ、さま〴〵の女(をんな)を引(ひつ)込(こ)むのを術(て)としたが、當(たう)春(しゆん)、天(てん)氣(き)麗(うらゝ)かに、桃(もゝ)の花(はな)のとろりと咲(さき)亂(みだ)れた、暖(あたゝか)い柳(やなぎ)の中(なか)を、川(かは)上(かみ)へ細(ほそ)い杖(ステツキ)で散(さん)策(さく)した時(とき)、上(じや)流(うりう)の方(かた)より柳(やなぎ)の如(ごと)く、流(ながれ)に靡(なび)いて、楚(そ)々(ゝ)として且(か)つもの思(おも)はしげに、唯(たゞ)一(ひと)人(り)渚(なぎさ)を辿(たど)り來(き)た此(こ)の美(びぢ)女(よ)に逢(あ)つて、遠(ゑん)慮(りよ)なく色(いろ)目(め)づかひをして、目(めむ)迎(か)へ且(か)つ見(みお)送(く)つて、何(ど)うだと云(い)ふ例(れい)の本(ほん)領(りやう)を發(はつ)揮(き)したのがはじまりである。
流(りう)水(すゐ)豈(あに)心(こゝろ)なからんや。言(ことば)を交(かは)すと、祕(かく)さず名(な)を言(い)つた。お好(かう)ちやんの語(かた)る處(ところ)によれば、若(わか)後(ご)家(け)だ、と云(い)ふ。若(わか)旦(だん)那(な)思(おも)ふ壺(つぼ)。で、親(しん)族(ぞく)の男(をとこ)どもが、挑(いど)む、嬲(なぶ)る、威(ゐた)丈(けだ)高(か)に成(な)つて袖(そで)褄(つま)を引(ひ)く、其(そ)の遣(やる)瀬(せ)なさに、くよ〳〵浮(うき)世(よ)を柳(やな)隱(ぎがく)れに、水(みづ)の流(なが)れを見(み)るのだ、と云(い)ふ。あはれも、そゞろ身(み)にしみて、春(はる)の夕(ゆふべ)の言(ことば)の契(ちぎり)は、朧(おぼ)月(ろづ)夜(きよ)の色(いろ)と成(な)つて、然(しか)も桃(もゝ)色(いろ)の流(ながれ)に銀(しろがね)の棹(さを)さして、お好(かう)ちやんが、自(じぶ)分(ん)で小(こぶ)船(ね)を操(あやつ)つて、月(つき)のみどりの葉(は)がくれに、若(わか)旦(だん)那(な)の別(べつ)業(げふ)へ通(かよ)つて來(く)る、蓋(けだ)しハイカラなものである。
以(いら)來(い)、百(ひや)家(くか)の書(しよ)を讀(よ)んで、哲(てつ)學(がく)を修(しう)する、と稱(とな)へて、別(べつ)業(げふ)に居(ゐつ)續(ゞ)けして、窓(まど)を閉(と)ぢて、垣(かき)を開(ひら)いた。
其(そ)のお好(かう)ちやんであつたのである。……
細(さい)君(くん)の張(ちや)氏(うし)より、然(しか)も、五(いつ)つばかり年(とし)少(わか)き一(いち)少(せう)女(ぢよ)、淡(たん)裝(さう)素(そふ)服(く)して婀(あ)娜(だ)たるものであつた。
時(とき)に、若(わか)旦(だん)那(な)を見(み)て、露(つゆ)に漆(うるし)したる如(ごと)き、ぱつちりとした瞳(ひとみ)を返(かへ)して、額(ひた)髮(ひがみ)はら〳〵と色(いろ)を籠(こ)めつゝ、流(なが)眄(しめ)に莞(につ)爾(こり)した。
が、椅(い)子(す)を並(なら)べた張(ちや)婦(うふ)人(じん)の肩(かた)に掛(か)けた手(て)は、なよ〳〵としつゝも敢(あへ)て離(はな)さうとはしなかつた。
言(い)ふまでもなく婦(ふじ)人(ん)の目(め)にも、齊(ひと)しく女(をんな)に成(な)つたので、驚(きや)駭(うがく)を變(か)へて又(また)蒼(あを)く成(な)つた。
若(わか)旦(だん)那(な)も、呆(あき)れて立(た)つこと半(はん)時(とき)ばかり。聲(こゑ)も一(ひと)言(こと)もまだ出(で)ない内(うち)に、霞(かすみ)の色(いろ)づく如(ごと)くにして、少(せう)女(ぢよ)は忽(たちま)ち美(びせ)少(うね)年(ん)に變(かは)つたのである。
變(かは)れば現(げん)在(ざい)、夫(をつと)の見(み)る前(まへ)。婦(ふじ)人(ん)は身(みぶ)震(る)ひして飛(とび)退(の)かうとするのであつたが、輕(かる)く撓(しな)柔(やか)に背(せ)にかかつた手(て)が、千(ちび)曳(き)の岩(いは)の如(ごと)く、千(ちす)筋(ぢ)の絲(いと)に似(に)て、袖(そで)も襟(えり)も動(うご)かばこそ。おめ〳〵として、恥(はづ)かしい、罪(つみ)ある人(にん)形(ぎやう)とされて居(ゐ)る。
知(しる)是(これ)妖(えう)怪(くわ)所(いの)爲(しよゐ)。
﹁退(ど)け、射(いこ)殺(ろ)すぞ。﹂
詰(つめ)寄(よ)る。若(わか)旦(だん)那(な)の手(て)を、美(びせ)少(うね)年(ん)の方(はう)から迎(むか)へるやうに、じつと握(にぎ)る、と其(そ)の手(て)の尖(さき)から雪(ゆき)と成(な)つて、再(ふたゝ)び白(びや)衣(くい)の美(びぢ)女(よ)と變(かは)つた。
﹁忘(わす)れたの、一(ちよ)寸(つと)……﹂
で、辷(すべ)らした白(しろ)い手(て)を、若(わか)旦(だん)那(な)の胸(むね)にあてて、腕(うで)で壓(お)すやうにして、涼(すゞし)い目(め)で熟(じつ)と見(み)る。其(そ)の媚(こび)と云(い)つたらない。妖(えう)艷(えん)無(む)比(ひ)で、猶(なほ)且(か)つ婦(ふじ)人(ん)の背(せ)を抱(だ)いて居(ゐ)る。
と知(し)りつゝ、魂(たましひ)から前(さき)へ溶(とろ)けて、ふら〳〵と成(な)つた若(わか)旦(だん)那(な)の身(から)體(だ)は、他(たわ)愛(い)なく、ぐたりと椅(い)子(す)に落(お)ちたのであつた。于(にぢ)二(よの)女(あひ)之(だに)間(くわ)恍(うこ)惚(つと)夢(して)如(ゆめのごとし)。
﹁ほゝゝ、色(いろ)男(をとこ)や、貴(あな)女(た)に馴(な)染(じ)んでから丁(ちやう)ど半(はん)年(とし)に成(な)りますわね。御(ごし)新(ん)造(ぞ)に馴(な)染(じ)んでからも半(はん)年(とし)よ。貴(あな)方(た)が私(わたし)の許(もと)へ來(き)て居(ゐ)るうちは、何(い)時(つ)でも此(こち)方(ら)へ來(き)て居(ゐ)たの。あら、あんな顏(かほ)をしてさ。一(ちよ)寸(いと)色(いろ)男(をとこ)。私(わたし)と逢(あ)つて居(ゐ)るうちは、其(そ)の時(じか)間(ん)だけも御(ごし)新(ん)造(ぞ)は要(い)らないものでせう。要(い)らないものなら、其(その)間(あひだ)は何(ど)うされたつて差(さし)支(つか)へないぢやありませんか。
ねえ、若(わか)旦(だん)那(な)、私(わたし)は貴(あな)方(た)は嫌(きらひ)なの。でも嫌(きらひ)だと云(い)つたつて、嫌(きら)はれた事(こと)は分(わか)らないお方(かた)でせう。貴(あな)方(た)は自(じぶ)分(ん)の思(おも)つた女(をんな)は、皆(みんな)云(い)ふ事(こと)を肯(き)くんだと思(おも)つて居(ゐ)るもの。思(おも)はれるものの恥(ちじ)辱(よく)です。
だから、思(おも)はれた通(とほ)りに成(な)つて――其(そ)のかはり貴(あな)方(た)に差(さし)上(あ)げたものを、御(ごし)新(ん)造(ぞ)から頂(ちや)戴(うだい)しました。可(よ)かありませんか。
最(も)う此(これ)だけで澤(たく)山(さん)なんです。﹂
言(い)ふと、齊(ひと)しく、俄(がぜ)然(ん)として又(また)美(びせ)少(うね)年(ん)と成(な)つて、婦(ふじ)人(ん)の打(うち)背(そむ)く頬(ほゝ)に手(て)を當(あ)てた。が、すらりと身(み)を拔(ぬ)いて、椅(い)子(す)に立(た)つた。
若(わか)旦(だん)那(な)、氣(きつ)疲(か)れ、魂(こん)倦(つか)れ、茫(ばう)として手(て)もつけられず。美(びせ)少(うね)年(ん)の拔(ぬ)けたあとを、夫(ふう)婦(ふ)相(あひ)對(たい)して目(め)を見(みあ)合(は)せて、いづれも羞(しう)恥(ち)に堪(た)へず差(さし)俯(うつ)向(む)く。
頭(あたま)の上(うへ)に、はた〳〵と掌(て)を叩(たゝ)いて、呵(から)々(〳〵)と高(たか)笑(わら)ひするのを、驚(おどろ)いて見(み)れば、少(せう)年(ねん)子(し)、擧(きよ)手(しゆ)高(かう)揖(いふ)して曰(いは)く、吾(われ)去(さら)矣(ん)。
﹁御(ごき)機(げ)嫌(ん)よう、失(しつ)禮(れい)。﹂
と、變(へん)じて狐(きつね)と成(な)つて、白(はく)晝(ちう)を窓(まど)から蝙(かう)蝠(もり)の如(ごと)くに消(き)えぬ。
此(これ)は教(けう)訓(くん)ではない、事(じじ)實(つ)であると、本(ほん)文(ぶん)に添(そへ)書(が)きがあるのである。
大正三年三月
●表記について
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