一
﹁…………﹂ 山には木きこ樵りう唄た、水には船ふな唄うた、駅うま路やじには馬ま子ごの唄、渠かれ等らはこれを以もって心を慰なぐさめ、労ろうを休め、我おのが身を忘れて屈くっ託たくなくその業ぎょうに服するので、恰あたかも時計が動く毎ごとにセコンドが鳴るようなものであろう。またそれがために勢いきおいを増し、力を得うることは、戦たたかいに鯨と波きを挙げるに斉ひとしい、曳えい々えい! と一斉に声を合わせるトタンに、故ふる郷さとも、妻つま子こも、死も、時間も、慾も、未練も忘れるのである。 同じ道理で、坂は照る照る鈴すず鹿かは曇くもる=といい、袷あわせ遣やりたや足た袋び添えて=と唱える場合には、いずれも疲つかれを休めるのである、無むえ益きなものおもいを消すのである、寧むしろ苦労を紛まぎらそうとするのである、憂うさを散さんじよう、恋を忘れよう、泣なく音ねを忍ぼうとするのである。 それだから追おい分わけが何い時つでもあわれに感じらるる。つまる処ところ、卑ひき怯ょうな、臆病な老人が念仏を唱えるのと大差はないので、語ごを換えて言えば、不のこ残らず、節ふしをつけた不平の独つぶ言やきである。 船頭、馬方、木樵、機はた業おり場ばの女工など、あるが中に、この木こび挽きは唄を謡うたわなかった。その木挽の与よき吉ちは、朝から晩まで、同じことをして木を挽いて居る、黙って大おお鋸のこぎりを以て巨きょ材ざいの許もとに跪ひざまずいて、そして仰いで礼らい拝はいする如く、上から挽きおろし、挽きおろす。この度たびのは、一おと昨と日いの朝から懸かかった仕事で、ハヤその半なかばを挽いた。丈たけ四間けん半はん、小こぐ口ち三尺じゃくまわり四角な樟くすのきを真まっ二ぷたつに割ろうとするので、与吉は十七の小こう腕でだけれども、この業わざには長たけて居た。 目めは鼻なだ立ちの愛くるしい、罪の無い丸顔、五ごぶ分が刈りに向むこ顱うは巻ちまき、三さん尺じゃ帯くおびを前で結んで、南なんの字を大おおく染そめ抜ぬいた半はっ被ぴを着て居る、これは此こ処この大たい家けの仕しき着せで、挽いてる樟もその持もち分ぶん。 未まだ暑いから股もも引ひきは穿はかず、跣はだ足しで木きく屑ずの中についた膝ひざ、股もも、胸のあたりは色が白い。大柄だけれども肥ふとっては居おらぬ、ならば袴はかまでも穿かして見たい。与吉が身から体だを入れようという家は、直すぐ間まぢ近かで、一町ちょうばかり行ゆくと、袂たもとに一本暴あ風ら雨しで根ねが返えして横よこ様ざまになったまま、半ば枯れて、半ば青々とした、あわれな銀いち杏ょうの矮わい樹じゅがある、橋が一ひと個つ。その渋色の橋を渡ると、岸から板を渡した船がある、板を渡って、苫とまの中へ出でい入りをするので、この船が与吉の住すま居い。で干かん潮ちょうの時は見るも哀あわれで、宛さな然がら洪でみ水ずのあとの如く、何い時つ棄すてた世しょ帯たい道どう具ぐやら、欠かけ擂すり鉢ばちが黒く沈んで、蓬おどろのような水草は波の随まに意まに靡なびいて居る。この水草はまた年久しく、船の底、舷ふなばたに搦からみ附ついて、恰も巌いわおに苔こけ蒸むしたかのよう、与吉の家をしっかりと結ゆわえて放しそうにもしないが、大おお川かわから汐しおがさして来れば、岸に茂った柳の枝が水に潜くぐり、泥だらけな笹の葉がぴたぴたと洗われて、底が見えなくなり、水草の隠れるに従したごうて、船が浮うき上あがると、堤防の遠おち方かたにすくすくと立って白い煙を吐く此ここ処か彼し処この富ふ家かの煙えん突とつが低くなって、水底のその欠擂鉢、塵ちり芥あくた、襤ぼろ褸ぎ切れ、釘の折おれなどは不のこ残らず形を消して、蒼あおい潮を満まん々まんと湛たたえた溜ため池いけの小さざ波なみの上なる家は、掃除をするでもなしに美しい。 爾その時ときは船から陸へ渡した板が真まっ直すぐになる。これを渡って、今朝は殆ほとんどど満潮だったから、与吉は柳の中で※ぱっ﹇#﹁火+發﹂、U+243CB、78-9﹈と旭あさひがさす、黄こが金ねのような光線に、その罪のない顔を照らされて仕事に出た。二
それから日ひい一ちに日ちおなじことをして働いて、黄たそ昏がれかかると日が舂うすづき、柳の葉が力なく低たれて水が暗くろうなると汐しおが退ひく、船が沈んで、板が斜めになるのを渡って家に帰るので。 留守には、年寄った腰の立たない与吉の爺ちゃ々んが一人で寝て居るが、老後の病やまいで次第に弱るのであるから、急に容体の変るという憂きづ慮かいはないけれども、与吉は雇やとわれ先で昼飯をまかなわれては、小こや休すみの間に毎日一度ずつ、見舞に帰るのが例であった。 ﹁じゃあ行って来るぜ、父ちゃ爺ん。﹂ 与よへ平いという親おや仁じは、涅ねは槃んに入いったような形で、胴どうの間まに寝ながら、仏ほと造けづくった額ひたいを上げて、汗だらけだけれども目の涼しい、息せが子れが地じぞ蔵うま眉ゆの、愛くるしい、若い顔を見て、嬉しそうに頷うなずいて、 ﹁晩にゃ又また柳やな屋ぎやの豆とう腐ふにしてくんねえよ。﹂ ﹁あい、﹂といって苫とまを潜くぐって這はうようにして船から出た、与吉はずッと立って板を渡った。向むこうて筋すじ違っかい、角かどから二軒目に小さな柳の樹が一本、その低い枝のしなやかに垂れた葉はが隠くれに、一間けん口ぐち二枚の腰こし障しょ子うじがあって、一枚には仮か名な、一枚には真ま名なで豆腐と書いてある。柳の葉の翠みどりを透すかして、障子の紙は新らしく白いが、秋が近いから、破れて煤すすけたのを貼はり替かえたので、新規に出来た店ではない。柳屋は土地で老しに鋪せだけれども、手広く商あきないをするのではなく、八九十軒もあろう百軒足らずのこの部落だけを花とく主いにして、今こん代だいは喜きぞ蔵うという若い亭主が、自分で売りに廻まわるばかりであるから、商に出た留守の、昼ひる過すぎは森しんとして、柳の蔭かげに腰障子が閉まって居る、樹の下、店の前から入口へ懸かけて、地じの窪くぼんだ、泥ぬか濘るみを埋めるため、一面に貝かい殻がらが敷いてある、白いの、半分黒いの、薄うす紅べに、赤いのも交って堆うずたかい。 隣とな屋りはこの辺へんに棟むねを並ぶる木き屋やの大たい家けで、軒のき、廂ひさし、屋根の上まで、犇ひしと木材を積つみ揃そろえた、真まん中なかを分けて、空そら高だかい長方形の透すき間まから凡およそ三十畳も敷けようという店の片端が見える、その木材の蔭になって、日の光もあからさまには射さず、薄暗い、冷ひや々ひやとした店みせ前さきに、帳ちょ場うば格ごう子しを控えて、年配の番頭が唯ただ一人帳ちょ合うあいをしている。これが角かど屋やし敷きで、折おれ曲まがると灰色をした道が一ひと筋すじ、電柱の著いちじるしく傾いたのが、前まえと後うしろへ、別々に頭かしらを掉ふって奥おく深ぶこう立って居る、鋼はり線がねが又半なかだるみをして、廂よりも低い処ところを、弱よわ々よわと、斜めに、さもさも衰おとろえた形かたちで、永えい代たいの方から長く続いて居るが、図ずに描かいて線を引くと、文明の程度が段々此こっ方ちへ来るに従したごうて、屋やね根ご越しに鈍にぶることが分るであろう。 単に電柱ばかりでない、鋼線ばかりでなく、橋の袂たもとの銀いち杏ょうの樹も、岸の柳も、豆腐屋の軒も、角家の塀も、それ等らに限らず、あたりに見ゆるものは、門の柱も、石垣も、皆みな傾いて居る、傾いて居る、傾いて居るが尽ことごとく一いち様ような向むきにではなく、或あるものは南の方へ、或ものは北の方へ、また西の方へ、東の方へ、てんでんばらばらになって、この風のない、天そらの晴れた、曇くもりのない、水面のそよそよとした、静かな、穏おだやかな日ひな中かに処しょして、猶なお且かつ暴風に揉もまれ、揺ゆらるる、その瞬間の趣おもむきあり。ものの色もすべて褪あせて、その灰色に鼠ねずみをさした湿地も、草も、樹も、一部落を蔽おお包いつつんだ夥おび多ただしい材木も、材木の中を見え透く溜ため池いけの水の色も、一いっ切さい、喪もふ服くを着つけたようで、果は敢かなく哀あわれである。三
界かい隈わいの景色がそんなに沈ちん鬱うつで、湿じめ々じめとして居るに従したごうて、住む者もまた高たか声ごえではものをいわない。歩ある行くにも内うち端わで、俯うつ向むき勝がちで、豆腐屋も、八や百お屋やも黙って通る。風俗も派手でない、女の好このみも濃厚ではない、髪の飾かざりも赤いものは少なく、皆心するともなく、風土の喪に服して居るのであろう。 元来岸の柳の根は、家々の根ね太だよりも高いのであるから、破は風ふの上で、切きれ々ぎれに、蛙かわずが鳴くのも、欄らん干かんの壊くずれた、板のはなればなれな、杭くいの抜けた三角形の橋の上に蘆あしが茂って、虫がすだくのも、船ふな虫むしが群むらがって往来を駆けまわるのも、工場の煙えん突とつの烟けむりが遥はるかに見えるのも、洲すさ崎きへ通う車の音がかたまって響くのも、二日おき三日置きに思おも出いだしたように巡じゅ査んさが入るのも、けたたましく郵便脚きゃ夫くふが走はし込りこむのも、烏からすが鳴くのも、皆何となく土地の末路を示す、滅亡の兆ちょうであるらしい。 けれども、滅びるといって、敢あえてこの部落が無くなるという意味ではない、衰えるという意味ではない、人と家とは栄さかえるので、進歩するので、繁はん昌じょうするので、やがてその電柱は真まっ直すぐになり、鋼はり線がねは張はりを持ち、橋がペンキ塗ぬりになって、黒塀が煉れん瓦がに換かわると、蛙かわず、船虫、そんなものは、不のこ残らず石いし灰ばいで殺されよう。即すなわち人と家とは、栄えるので、恁かかる景色の俤おもかげがなくなろうとする、その末路を示して、滅亡の兆を表わすので、詮せんずるに、蛇へびは進んで衣ころもを脱ぎ、蝉せみは栄えて殻からを棄すてる、人と家とが、皆他たの光栄あり、便利あり、利益ある方面に向って脱ぬけ出だした跡には、この地のかかる俤が、空うつ蝉せみになり脱ぬけ殻がらになって了しまうのである。 敢て未来のことはいわず、現在既すでにその姿になって居るのではないか、脱け出した或ある者ものは、鳴き、且かつ飛び、或者は、走り、且つ食くらう、けれども衣きぬを脱いで出た蛇は、残した殻より、必ずしも美しいものとはいわれない。 ああ、まぼろしのなつかしい、空蝉のかような風土は、却かえってうつくしいものを産するのか、柳屋に艶あで麗やかな姿が見える。 与吉は父親に命ぜられて、心に留めて出たから、岸に上あがると、思うともなしに豆腐屋に目を注いだ。 柳屋は浅あさ間まな住すま居い、上あが框りがまちを背うし後ろにして、見みと通おしの四畳半の片かた端はしに、隣とな家りで帳ちょ合うあいをする番頭と同おな一じあたりの、柱に凭もたれ、袖をば胸のあたりで引き合わせて、浴ゆか衣たの袂たもとを折おり返かえして、寝ねど床この上に坐すわった膝ひざに掻かい巻まきを懸かけて居る。背うしろには綿わたの厚い、ふっくりした、竪たて縞じまのちゃんちゃんを着た、鬱うこ金んも木め綿んの裏が見えて襟えり脚あしが雪のよう、艶つや気けのない、赤しゃ熊ぐまのような、ばさばさした、余るほどあるのを天てん神じんに結ゆって、浅あさ黄ぎの角つの絞しぼりの手てが絡らを弛ゆるう大きくかけたが、病気であろう、弱よわ々よわとした後うし姿ろすがた。 見みと透おしの裏は小こに庭わもなく、すぐ隣とな屋りの物もの置おきで、此こ処こにも犇ひし々ひしと材木が建たて重かさねてあるから、薄暗い中に、鮮あざ麗やかなその浅黄の手絡と片かた頬ほの白いのとが、拭ふき込こんだ柱に映って、ト見ると露つゆ草ぐさが咲いたようで、果は敢かなくも綺きれ麗いである。 与吉はよくも見ず、通りがかりに、 ﹁今こん日にちは、﹂と、声を掛けたが、フト引ひき戻もどさるるようにして覗のぞいて見た、心ここ着ろづくと、自分が挨あい拶さつしたつもりの婦おん人なはこの人ではない。四
﹁居ない。﹂と呟つぶやくが如くにいって、そのまま通とお抜りぬけようとする。 ト日があたって暖あたたたかそうな、明あかるい腰こし障しょ子うじの内に、前さっ刻きから静かに水を掻かき廻まわす気けは勢いがして居たが、ばったりといって、下げ駄たの音。 ﹁与吉さん、仕事にかい。﹂ と婀あ娜だたる声、障子を開けて顔を出した、水色の唐とう縮ちり緬めんを引ひっ裂さいたままの襷たすき、玉のような腕かいなもあらわに、蜘く蛛もの囲いを絞しぼった浴ゆか衣た、帯は占しめず、細ほそ紐ひもの態なりで裾すそを端はし折ょって、布の純白なのを、短かく脛はぎに掛けて甲か斐い甲が斐いしい。 歯を染めた、面おも長ながの、目めは鼻なだ立ちはっきりとした、眉まゆは落おとさぬ、束たばね髪がみの中ちゅ年うど増しま、喜蔵の女房で、お品しなという。 濡ぬれた手を間まぢ近かな柳の幹にかけて半はん身しんを出した、お品は与吉を見て微ほほ笑えんだ。 土ど間まは一面の日あたりで、盤はん台だい、桶おけ、布ふき巾んなど、ありったけのもの皆濡れたのに、薄く陽かげ炎ろうのようなのが立たち籠こめて、豆腐がどんよりとして沈んだ、新あら木きの大桶の水の色は、薄うすら蒼あおく、柳の影が映って居る。 ﹁晩ばん方がた又また来るんだ。﹂ お品は莞にっ爾こりしながら、 ﹁難あり有がとう存じます、﹂故わざと慇いん懃ぎんにいった。 つかつかと行ゆき懸かけた与吉は、これを聞くと、あまり自分の素そっ気けなかったのに気がついたか、小こも戻どりして真まが顔おで、眼を一ツ瞬しばだたいて、 ﹁ええ、毎度難有う存じます。﹂と、罪のない口の利きようである。 ﹁ほほほ、何をいってるのさ。﹂ ﹁何がよ。﹂ ﹁だってお前まえ様さんはお客様じゃあないかね、お客様なら私わたしン処ところの旦だん那なだね、ですから、あの、毎度難有う存じます。﹂と柳に手を縋すがって半身を伸のび出でたまま、胸と顔を斜めにして、与吉の顔を差さし覗のぞく。 与吉は極きまりの悪そうな趣おもむきで、 ﹁お客様だって、あの、私は木こび挽きの小僧だもの。﹂ と手て真ま似ねで見せた、与吉は両手を突つき出だしてぐっと引いた。 ﹁こうやって、こう挽いてるんだぜ、木挽の小僧だぜ。お前まえ様さんはおかみさんだろう、柳屋のおかみさんじゃねえか、それ見ねえ、此こっ方ちでお辞じ儀ぎをしなけりゃならないんだ。ねえ、﹂ ﹁あれだ、﹂とお品は目をって、 ﹁まあ、勿もっ体たいないわねえ、私達に何のお前さん……﹂といいかけて、つくづく瞻みまもりながら、お品はずッと立って、与吉に向い合い、その襷たす懸きがけの綺きれ麗いな腕を、両方大おお袈げ裟さに振って見せた。 ﹁こうやって威い張ばってお在いでよ。﹂ ﹁威張らなくッたって、何も、威張らなくッたって構わないから、父ちゃ爺んが魚を食ってくれると可いいけれど、﹂と何と思ったか与吉はうつむいて悄しおれたのである。 ﹁何どうしたんだね、又余計に悪くなったの。﹂と親切にも優しく眉を顰ひそめて聞いた。 ﹁余計に悪くなって堪たまるもんか、この節せつあ心ここ持ろもちが快いい方ほうだっていうけれど、え、魚さか気なっけを食わねえじゃあ、身から体だが弱るっていうのに、父爺はね、腥なまぐさいものにゃ箸はしもつけねえで、豆腐でなくっちゃあならねえッていうんだ。え、おかみさん、骨のある豆腐は出来まいか。﹂と思おも出いだしたように唐だし突ぬけにいった。五
﹁おや、﹂ お品は与吉がいうことの余り突とっ拍ぴょ子うしなのを、笑うよりも先まず驚いたのである。 ﹁ねえ、親方に聞いて見てくんねえ、出来そうなもんだなあ。雁がんもどきッて、ほら、種いろ々んなものが入った油あぶ揚らあげがあらあ、銀ぎん杏なんだの、椎しい茸たけだの、あれだ、あの中へ、え、肴さかなを入れて交まぜッこにするてえことあ不い可けねえのかなあ。﹂ ﹁そりゃ、お前さん。まあ、可いいやね、聞いて見て置きましょうよ。﹂ ﹁ああ、聞いて見てくんねえ、真ほん個とに肴ッ気が無くッちゃあ、台なし身から体だが弱るッていうんだもの。﹂ ﹁何な故ぜ父おと上っさんは腥なまぐさをお食あがりじゃあないのだね。﹂ 与吉の真ま面じ目めなのに釣つり込こまれて、笑うことの出来なかったお品は、到とう頭とう骨のある豆腐の注文を笑わずに聞き済ました、そして真まが顔おで尋たずねた。 ﹁ええ、その何だって、物をこそ言わねえけれど、目もあれば、口もある、それで生なま白じろい色をして、蒼あおいものもあるがね、煮られて皿の中に横になった姿てえものは、魚さか々なさかなと一ひと口くちにゃあいうけれど、考えて見りゃあ生なま身みをぐつぐつ煮に着つけたのだ、尾おか頭しらのあるものの死しが骸いだと思うと、気味が悪くッて食べられねえッて、左そ様ういうんだ。 詰つまらねえことを父ちゃ爺んいうもんじゃあねえ、山ン中の爺じじ婆ばばでも塩したのを食べるッてよ。 煮たのが、心ここ持ろもちが悪けりゃ、刺さし身みにして食べないかッていうとね、身みぶ震るいをするんだぜ。刺身ッていやあ一いっ寸すん試だめしだ、鱠なますにすりゃぶつぶつ切ぎりか、あの又また目めく口ちのついた天あた窓まへ骨が繋つながって肉が絡まといついて残る図なんてものは、と厭いやな顔をするからね。ああ、﹂といって与吉は頷うなずいた。これは力を入れて対あい手てにその意を得させようとしたのである。 ﹁左そ様うなんかねえ、年と紀しの故せいもあろう、一ツは気分だね、お前さん、そんなに厭がるものを無理に食べさせない方が可いよ、心持を悪くすりゃ身体のたしにもなんにもならないわねえ。﹂ ﹁でも痩やせるようだから心配だもの。気が着かないようにして食べさせりゃ、胸を悪くすることもなかろうからなあ、いまの豆腐の何よ。ソレ、﹂ ﹁骨のあるがんもどきかい、ほほほほほほ、﹂と笑った、垢あか抜ぬけのした顔に鉄か漿ねを含んで美しい。 片かた頬ほに触れた柳の葉先を、お品はその艶つややかに黒い前歯で銜くわえて、扱こくようにして引ひっ断きった。青い葉を、カチカチと二ツばかり噛かんで手に取って、掌てのひらに載せて見た。トタンに框かまちの取とッ着つきの柱に凭もたれた浅あさ黄ぎの手てが絡らが此こっ方ちを見向く、うら少わかいのと面おもてを合わせた。 その時までは、殆ほとんど自分で何をするかに心ここ着ろづいて居ないよう、無意識の間にして居たらしいが、フト目を留めて、俯うつ向むいて、じっと見て、又梢こずえを仰いで、 ﹁与吉さんのいうようじゃあ、まあ、嘸さぞこの葉も痛むこッたろうねえ。﹂ と微ほほ笑えんで見せて、少わかいのがその清すずしい目に留めると、くるりと廻まわって、空そらざまに手を上げた、お品はすっと立って、しなやかに柳の幹みきを叩たたいたので、蜘く蛛もの巣の乱れた薄い色の浴衣の袂たもとは、ひらひらと動いた。 与吉は半はっ被ぴの袖を掻かき合あわせて、立って見て居たが、急に振返って、 ﹁そうだ。じゃあ親方に聞いて見ておくんな。可いかい、﹂ ﹁ああ、可いとも、﹂といって向直って、お品は掻かい潜くぐって襷たすきを脱はずした。斜めに袈け裟さになって結むす目びめがすらりと下さがる。 ﹁お邪魔申しました。﹂ ﹁あれだよ。又、﹂と、莞にっ爾こりしていう。 ﹁そうだっけな、うむ、此こっ方ちあお客だぜ。﹂ 与吉は独ひとりで頷いたが、背うし向ろむきになって、肱ひじを張って、南なんの字の印が動く、半被の袖をぐッと引いて、手を掉ふって、 ﹁おかみさん、大おお威いば張りだ。﹂ ﹁あばよ。﹂六
﹁あい、﹂といいすてに、急いそ足ぎあしで、与吉は見る内うちに間まぢ近かな渋色の橋の上を、黒い半はっ被ぴで渡った。真まん中なか頃ごろで、向岸から駆けて来た郵便脚きゃ夫くふと行ゆき合あって、遣やり違ちがいに一緒になったが、分れて橋の両りょ端うはしへ、脚夫はつかつかと間近に来て、与吉は彼かの、倒れながらに半ば黄ばんだ銀いち杏ょうの影に小さくなった。七
﹁郵便!﹂ ﹁はい、﹂と柳の下で、洗あら髪いがみのお品は、手足の真まっ黒くろな配達夫が、突つき当あたるように目の前に踏ふみ留とまって棒ぼう立だちになって喚わめいたのに、驚いた顔をした。 ﹁更さら科しなお柳りゅうさん、﹂ ﹁手前どもでございます。﹂ お品は受取って、青い状袋の上うわ書がきをじっと見ながら、片手を垂れて前まえ垂だれのさきを抓つまんで上げつつ、素足に穿はいた黒くろ緒おの下駄を揃えて立ってたが、一ちょ寸っと飜かえして、裏の名を読むと、顔の色が動いて、横目に框かまちをすかして、片かた頬ほに笑えみを含んで、堪たまらないといったような声で、 ﹁柳ちゃん、来たよ!﹂というが疾はやいか、横ざまに駆けて入いる、柳やな腰ぎごし、下駄が脱げて、足の裏が美しい。八
与吉が仕事場の小屋に入ると、例の如く、直すぐそのまま材木の前に跪ひざまずいて、鋸のこぎりの柄えに手を懸かけた時、配達夫は、此こ処この前を横切って、身を斜ななめに、波に揺られて流るるような足あし取どりで、走り去った。 与吉は見も遣やらず、傍わき目めも触ふらないで挽ひきはじめる。 巨大なるこの樟くすのきを濡ぬらさないために、板屋根を葺ふいた、小屋の高さは十丈じょうもあろう、脚の着いた台に寄せかけたのが突つッ立たって、殆ど屋根裏に届くばかり。この根ねぎ際わに膝ひざをついて、伸のび上あがっては挽き下ろし、伸上っては挽き下ろす、大鋸の歯は上うえ下したにあらわれて、両手をかけた与吉の姿は、鋸よりも小さいかのよう。 小屋の中うちには単ただこればかりでなく、両りょ傍うわきに堆うずたかく偉大な材木を積んであるが、その嵩かさは与吉の丈たけより高いので、纔わずかに鋸おが屑くずの降ふり積つもった上に、小さな身から体だ一ツ入れるより他に余地はない。で恰あたかも材木の穴の底に跪いてるに過ぎないのである。 背うし後ろは突つき抜ぬけの岸で、ここにも地つちと一面な水が蒼あおく澄んで、ひたひたと小ささ波なみの畝うねりが絶えず間まぢ近こう来る。往おう来らい傍ばたには又また岸に臨んで、果はてしなく組くみ違ちがえた材木が並べてあるが、二十三十ずつ、四ツ目形なりに、井いづ筒つが形たに、規律正しく、一定した距離を置いて、何ど処こまでも続いて居る、四ツ目の間を、井筒の彼かな方たを、見え隠れに、ちらほら人が通るが、皆黙って歩ある行いいて居るので。 淋さみしい、森しんとした中に手てび拍ょう子しが揃そろって、コツコツコツコツと、鉄かな槌づちの音のするのは、この小屋に並んだ、一ひと棟むね、同おな一じ材木納な屋やの中で、三さん個この石屋が、石を鑿きるのである。 板いた囲がこいをして、横に長い、屋根の低い、湿った暗い中で、働いて居るので、三人の石屋も斉ひとしく南みな屋みやに雇われて居るのだけれども、渠かれ等らは与吉のようなのではない、大工と一いっ所しょに、南屋の普ふし請んに懸かかって居るので、ちょうど与吉の小屋と往来を隔てた真まむ向こうに、小さな普請小屋が、真まあ新たらしい、節ふし穴あなだらけな、薄板で建って居る、三さん方ぽうが囲ったばかり、編んで繋いだ縄なわも見え、一杯の日ひあ当たりで、いきなり土の上へ白しら木きの卓テエ子ブルを一脚据すえた、その上には大おお土どび瓶んが一個、茶ちゃ呑のみ茶ぢゃ碗わんが七なな個つ八や個つ。 後うしろに置いた腰掛台の上に、一人は匍はら匐ばいになって、肱ひじを張って長々と伸び、一人は横ざまに手てま枕くらして股もも引ひき穿はいた脚を屈かがめて、天あた窓まをくッつけ合って大工が寝そべって居る。普請小屋と、花みか崗げい石しの門もん柱ばしらを並べて扉が左右に開いて居る、門の内の横手の格こう子しの前に、萌もえ黄ぎに塗った中に南と白で抜いたポンプが据すわって、その縁ふちに釣つり棹ざおと畚ふごとがぶらりと懸かかって居る、真まことにもの静かな、大たい家けの店みせ前さきに人の気けは勢いもない。裏庭とおもうあたり、遥か奥の方かたには、葉のやや枯れかかった葡ぶど萄うだ棚なが、影を倒さかしまにうつして、此こ処こもおなじ溜ため池いけで、門のあたりから間近な橋へかけて、透すき間まもなく乱らん杭ぐいを打って、数かず限かぎりもない材木を水のままに浸ひたしてあるが、彼かし処こへ五本、此こ処こへ六本、流なが寄れよった形が判で印おした如く、皆三方から三ツに固かたまって、水を三角形に区切った、あたりは広く、一面に早さな苗え田だのようである。この上を、時々ばらばらと雀すずめが低ひくう。九
その他たに此処で動いてるものは与吉が鋸のこぎりに過ぎなかった。 余り静かだから、しばらくして、又しばらくして、樟くすのきを挽ひく毎ごとにぼろぼろと落つる木きく屑ずが判はっ然きり聞きこえる。 ︵父ちゃ親んは何な故ぜ魚を食べないのだろう、︶とおもいながら膝ひざをついて、伸のび上あがって、鋸を手元に引いた。木屑は極めて細かく、極めて軽く、材木の一ひと処ところから湧わくようになって、肩にも胸にも膝の上にも降りかかる。トタンに向うざまに突出して腰を浮かした、鋸の音につれて、又時しぐ雨れのような微かすかな響ひびきが、寂せき寞ばくとした巨材の一方から聞えた。 柄えを握って、挽きおろして、与吉は呼い吸きをついた。 ︵左そ様うだ、魚の死骸だ、そして骨が頭に繋がったまま、皿の中に残るのだ、︶ と思いながら、絶えず拍子にかかって、伸のび縮ちぢみに身から体だの調子を取って、手を働かす、鋸が上下して、木屑がまた溢こぼれて来る。 ︵何故だろう、これは鋸で挽く所せ為いだ、︶と考えて、柳の葉が痛むといったお品の言ことばが胸に浮ぶと、又木屑が胸にかかった。 与吉は薄暗い中に居る、材木と、材木を積上げた周囲は、杉の香か、松の匂においに包まれた穴の底で、目をって、跪ひざまずいて、鋸を握って、空そらざまに仰いで見た。 樟の材木は斜めに立って、屋根裏を漏もれてちらちらする日光に映って、言うべからざる森しん厳げんな趣おもむきがある。この見上ぐるばかりな、これほどの丈たけのある樹はこの辺あたりでついぞ見た事はない、橋の袂たもとの銀いち杏ょうは固もとより、岸の柳は皆短ひくい、土手の松はいうまでもない、遥はるかに見えるその梢こずえは殆ほとんど水面と並んで居る。 然しかも猶なおこれは真まっ直すぐに真四角に切きったもので、およそ恁かかる角かくの材木を得ようというには、杣そまが八人五日あまりも懸らねばならぬと聞く。 那そんな大木のあるのは蓋けだし深しん山ざんであろう、幽ゆう谷こくでなければならぬ。殊ことにこれは飛ひだ騨や山まから廻まわして来たのであることを聞いて居た。 枝は蔓はびこって、谷に亘わたり、葉は茂って峰を蔽おおい、根はただ一ひと山やまを絡まとって居たろう。 その時は、その下した蔭かげは矢やっ張ぱりこんなに暗かったか、蒼あお空ぞらに日の照る時も、と然そう思って、根ねぎ際わに居た黒い半はっ被ぴを被きた、可かわ愛いい顔の、小さな蟻ありのようなものが、偉大なる材木を仰いだ時は、手足を縮めてぞっとしたが、 ︵父ちゃ親んは何どうしてるだろう、︶と考えついた。 鋸は又動いて、 ︵左様だ、今頃は弥やろ六くお親や仁じがいつもの通とおり、筏いかだを流して来て、あの、船の傍そばを漕こいで通りすがりに、父ちゃ上んに声をかけてくれる時分だ、︶ と思わず振向いて池の方、うしろの水を見返った。 溜ため池いけの真まん中なかあたりを、頬ほお冠かむりした、色のあせた半被を着た、脊せいの低い親仁が、腰を曲げ、足を突つッ張ぱって、長い棹さおを繰あやつって、画えの如く漕いで来る、筏は恰あたかも人を乗せて、油の上を辷すべるよう。 するすると向うへ流れて、横ざまに近づいた、細い黒い毛けず脛ねを掠かすめて、蒼い水の上を鴎かもめが弓ゆみ形なりに大きく鮮あざやかに飛んだ。十
﹁与よた太ぼ坊う、父ちゃ爺んは何事もねえよ。﹂と、池の真まん中なかから声を懸けて、おやじは小屋の中を覗のぞこうともせず、爪つまさきは小ささ波なみを浴あぶるばかり沈んだ筏いかだを棹さして、この時また中なか空ぞらから白い翼を飜ひるがえして、ひらひらと落おとして来て、水に姿を宿したと思うと、向うへ飛んで、鴎の去った方かたへ、すらすらと流して行く。
これは弥六といって、与吉の父ちち翁おやが年来の友達で、孝行な児こが仕事をしながら、病人を案じて居るのを知って居るから、例として毎日今時分通りがかりにその消息を伝えるのである。与吉は安あん堵どして又また仕事にかかった。
︵父ちゃ親んは何事もないが、何な故ぜ魚を喰たべないのだろう。左そ様うだ、刺さし身みは一寸すんだめしで、鱠なますはぶつぶつ切ぎりだ、魚うおの煮たのは、食べると肉がからみついたまま頭に繋つながって、骨が残る、彼あの皿の中の死骸に何どうして箸がつけられようといって身みぶ震るいをする、まったくだ。そして魚ばかりではない、柳の葉も食くい切きると痛むのだ、︶と思い思い、又この偉大なる樟くすのきの殆ほとんど神聖に感じらるるばかりな巨材を仰ぐ。
高い屋根は、森しん閑かんとして日ひな中か薄暗い中に、ほのぼのと見える材木から又ぱらぱらと、ぱらぱらと、其そ処こともなく、鋸のこぎりの屑くずが溢こぼれて落ちるのを、思わず耳を澄まして聞いた。中央の木もく目めから渦うずまいて出るのが、池の小波のひたひたと寄する音の中に、隣の納屋の石を切る響ひびきに交って、繁った葉と葉が擦すれ合あうようで、たとえば時しぐ雨れの降るようで、又無数の山やま蟻ありが谷の中を歩あ行るく跫あし音おとのようである。
与吉はとみこうみて、肩のあたり、胸のあたり、膝ひざの上、跪ひざまずいてる足の間あいだに落おち溜たまった、堆うずたかい、木屑の積ったのを、樟の血でないかと思ってゾッとした。
今までその上について暖あたたかだった膝ひざ頭がしらが冷ひや々ひやとする、身から体だが濡ぬれはせぬかと疑って、彼あ処ち此こ処ち袖そで襟えりを手で拊はたいて見た。仕事最中、こんな心ここ持ろもちのしたことは始めてである。
与吉は、一人谷のドン底に居るようで、心細くなったから、見み透すかす如く日の光を仰いだ。薄い光線が屋根板の合あわ目せめから洩もれて、幽かすかに樟に映ったが、巨大なるこの材木は唯ただ単たんに三さん尺じゃ角くかくのみのものではなかった。
与吉は天日を蔽おおう、葉の茂った五いつ抱かかえもあろうという幹に注しめ連な縄わを張った樟の大たい樹じゅの根に、恰あたかも山の端はと思う処ところに、しッきりなく降りかかる翠みどりの葉の中に、落ちて落ち重なる葉の上に、あたりは真まっ暗くらな処に、虫よりも小ちいさな身体で、この大木の恰もその注連縄の下あたりに鋸を突つきさして居るのに心着いて、恍うっ惚とりとして目をったが、気が遠くなるようだから、鋸を抜こうとすると、支つかえて、堅く食くい入いって、微かすかにも動かぬので、はッと思うと、谷々、峰々、一いち陣じん轟ごう! と渡る風の音に吃びっ驚くりして、数すう千せん仞じんの谷底へ、真まっ倒さかさまに落ちたと思って、小屋の中から転がり出した。
﹁大変だ、大変だ。﹂
﹁あれ! お聞き、﹂と涙なみ声だごえで、枕も上あがらぬ寝床の上の露草の、がッくりとして仰あお向むけの淋さびしい素顔に紅べにを含んだ、白い頬に、蒼あおみのさした、うつくしい、妹の、ばさばさした天てん神じん髷まげの崩れたのに、浅あさ黄ぎの手てが絡らが解とけかかって、透すき通とおるように真まっ白しろで細ほそい頸うなじを、膝の上に抱いて、抱かか占えしめながら、頬ほお摺ずりしていった。お品が片手にはしっかりと前さっ刻きの手紙を握って居る。
﹁ねえ、ねえ、お聞きよ、あれ、柳ちゃん――柳ちゃん――しっかりおし。お手紙にも、そこらの材木に枝葉がさかえるようなことがあったら、夫婦に成って遣やるッて書いてあるじゃあないか。
親の為ためだって、何だって、一いっ旦たん他の人に身をお任せだもの、道もっ理ともだよ。お前、お前、それで気を落したんだけれど、命をかけて願ったものを、お前、それまでに思うものを、柳ちゃん、何だってお見捨てなさるものかね、解わかったかい、あれ、あれをお聞きよ。もう可いいよ。大丈夫だよ。願ねがいは叶かなったよ。﹂
﹁大変だ、大変だ、材木が化けたんだぜ、小屋の材木に葉が茂った、大変だ、枝が出来た。﹂
と普ふし請ん小ご屋や、材木納屋の前で叫び足らず、与吉は狂気の如く大声で、この家やの前をも呼よばわって歩あ行るいたのである。
﹁ね、ね、柳ちゃん――柳ちゃん――﹂
うっとりと、目を開あいて、ハヤ色の褪あせた唇くちびるに微ほほ笑えんで頷うなずいた。人に血を吸われたあわれな者の、将まさに死なんとする耳に、与吉は福ふく音いんを伝えたのである、この与吉のようなものでなければ、実際また恁かかる福音は伝えられなかったのであろう。