孰いづれが前さきに出で来きたか、穿せん鑿さくに及およばぬが、怪くわ力いりきの盲まう人じんの物もの語がたりが二ツある。同おなじ話はなしの型かたが変かはつて、一ツは講かう釈しや師くしが板いたにかけて、のん〳〵づい〳〵と顕あらはす。一ツは好かう事ず家かの随ずゐ筆ひつに、物もの凄すごくも又また恐おそろしく記しるされる。浅あさく案あんずるに、此この随ずゐ筆ひつから取とつて講かう釈しやくに仕し組くんで演えんずるのであらうと思おもふが、書かいた方はうを読よむと、嘘うそらしいが魅みせられて事じゞ実つに聞きこえる。それから講かう釈しやくの方はうを見みると、真まことらしいけれども考かんがえさせず直たゞちに嘘うそだと分わかる。最もつとも上じや手うずが演えんずるのを聞きいたら、話はなしの呼こき吸ふと、声こゑの調てう子しで、客きやくをうまく引ひき入いれるかも知しれぬが、こゝでは随ずゐ筆ひつに文ぶん章しやうで書かいたのと、筆ひつ記きぼ本んに言げん語ごのまゝ記しるしたものとを比ひか較くして、おなじ言こと葉ばながら、其その力ちからが文もん字じに映えいじて、如い何かに相さう違ゐがあるかを御ごら覧んに入いれやう。一ツは武ぶゆ勇うだ談んで、一つは怪くわ談いだん。 先まづ講かう釈しや筆くひ記つきの武ぶゆ勇うだ談んの方はうから一ちよ寸いと抜ぬき取とる。――最もつとも略りや筋くすぢ、あとで物もの語がたりの主しゆ題だいとも言いふべき処ところを、較くらべて見みませう。 で、主しゆ題だいと云いふのは、其その怪くわ力いりきの按あん摩まと、大だい力りき無むさ双うの大たい将しやうが、しつぺい張はりくら、をすると言いふので。講かう釈しやくの方はうは越ゑち前ぜん国のくに一条でうヶ谷たに朝あさ倉くら左さゑ衛もん門のじ尉やう義よし景かげ十八人にんの侍さむ大らひ将たいしやうの中うちに、黒くろ坂さか備びつ中ちう守のかみと云いふ、これは私わたしの隣りん国こく。随ずゐ筆ひつの方はうは、奥おう州しう会あひ津づに諏すは訪ゑつ越ち中うと云いふ大だい力りきの人ひとありて、これは宙ちう外ぐわいさんの猪ゐな苗はし代ろから、山やま道みち三里りだから面おも白しろい。 処ところで、此この随ずゐ筆ひつが出しゆ処つしよだとすると、何なんのために、奥おう州しうを越ゑち前ぜんへ移うつして、越ゑつ中ちうを備びつ中ちうにかへたらう、ソレ或あるひは越ゑつ中ちうは褌ふんどしに響ひゞいて、強がう力りきの威ゐげ厳んを傷きづつけやうかの深しん慮りよに出でたのかも計はかられぬ。――串じや戯うだんはよして、些さゝ細いな事ことではあるが、おなじ事ことでも、こゝは大だい力りきが可いい。強がう力りき、と云いふと、九段だん坂ざかをエンヤラヤに聞きこえて響ひゞきが悪わるい。 最もつとも随ずゐ筆ひつの方はうでは唯ただ、大だい力りきの人ひとあり、としたゞけを、講かう釈しやくには恁かうしてある。
(これは越前 名代 の強力 、一日 狩倉 に出 て大熊 に出逢 ひ、持 てる鎗 は熊 のために喰折 られ已 む事 を得 ず鉄拳 を上 げて熊 をば一拳 の下 に打殺 しこの勇力 はかくの如 くであると其 の熊 の皮 を馬標 とした。)
と大おほ看かん板ばんを上あげたが、最もう此この辺へんから些ちと怪あやしく成なる。此この備びつ中ちう、一ある時とき越ゑち前ぜんの領りや土うど巡じゆ検んけんの役やくを、主しゆ人じん義よし景かげより承うけたまはり、供とも方かた二十人にんばかりを連つれて、領りや分うぶんの民たみの状じや態うたいを察さつせんため、名なだゝる越ゑち前ぜんの大おほ川かは、足あす羽はが川はのほとりにかゝる。ト長なが雨あめのあとで、水すゐ勢せいどう〳〵として、渦うづを巻まいて流ながれ、蛇じや籠かごも動うごく、とある。備びつ中ちう馬うまを立たてゝ、
﹁頗すこぶる水みづだな。﹂
﹁御ぎよ意い、﹂と一いち同どう川かは岸ぎしに休きう息そくする。向むかふ岸ぎしへのそ〳〵と出でて来きたものがあつた。
︵尖さきへ玉たまのついた長なが杖づゑを突つき、草くさ色いろ、石こく持もちの衣いる類ゐ、小こく倉らの帯おびを胸むな高だかで、身みの丈たけ六尺しやくあまりもあらうかと云いふ、大おほきな盲まう人じん︶――と云いふのであるが、角かく帯おびを胸むな高だかで草くさ色いろの布ぬの子こと来きては、六尺しやくあまりの大おほきな盲まう人じんとは何どうも見みえぬ。宇うつ都のや谷たふ峠げを、とぼ〳〵と行ゆく小こあ按ん摩まらしい。
――此この按あん摩ま杖つゑを力ちからに、川かはべりの水みづ除よけ堤づゝみへ来くると、杖つゑの先さきへ両りや手うてをかけて、ズイと腰こしを伸のばし、耳みゝ欹そばだてゝ考かんがえて居ゐる様やう子す、――と言いふ。
これは可いい。如い何かにも按あん摩まが川かは岸ぎしに立たつて瀬せをうかゞうやうに見みえる、が、尋た常ゞの按あん摩まと違ちがひがない。
上かみ下しも何なん百びや文くもんを論ろんずるのぢやない、怪くわ力いりきを写うつす優いう劣れつを云いふのである。
出でみ水づだ危あぶない、と人ひと々〴〵此こな方たの岸きしから呼よばゝつたが、強がう情じやうにものともしないで、下げ駄たを脱ぬぐと杖つゑを通とほし、帯おびを解といて素すは裸だかで、ざぶ〳〵と渉わたりかける。呆あきれ果はてゝ眺ながめて居ゐると、やがて浅あさい処ところで腰こしの辺あたり、深ふかい処ところは乳ちゝの上うへになる。最もつとも激げき流りう矢やを流ながす。川かはの七分ぶん目めへ来きた処ところに、大おほ巌いはが一つ水みづを堰せいて龍りう虎こを躍おどらす。按あん摩ま巌いはの前まへにフト留とまつて、少しば時らく小こく首びを傾かたむけたが、すぐに褌ふんどしへ杖つゑをさした。手てつ唾ばをかけて、ヤ、曳えい、と圧おしはじめ、ヨイシヨ、アリヤ〳〵〳〵、ザブーンと転ころがす。
備びつ中ちう驚おどろき嘆たんじ、無ぶ事じに渉わたり果はてた按あん摩まを、床しや几うぎに近ちかう召めし寄よせて、
﹁あつぱれ、其その方はう、水みづにせかるゝ大おほ巌いはを流ながれに逆さからひ押おし転ころばす、凡およそ如い何かばかりの力ちからがあるな。﹂
すると按あん摩まが我われながら我わが力ちからのほどを、自みづから試こゝろみた事ことがないと言いふ。
﹁汝なんぢ音おとにも聞ききつらん、予よは白はく山さんの狩かり倉くらに、大おほ熊くまを撲うち殺ころした黒くろ坂さか備びつ中ちう、此この方はうも未いまだ自じぶ分んに力ちからを試ためさん、いざふれ汝なんぢと力ちか競らくらべをして見みやうか。﹂
﹁へゝゝゝ、恐おそれながら御ぎよ意いにまかせ、早さつ速そくおん対あひ手て﹂と按あん摩まが云いふ。
さて、招しや魂うこ社んしやの観みせ世も物ので、墨すみのなすりくらをするのではないから、盲まう人じんと相すま撲ふもいかゞなもの。
﹁シツペイの打うちくらをいたさうかの。﹂
﹁へゝゝゝ、おもしろうござります。﹂
﹁勝かつたら、御ごほ褒う美びに銀ぎん二枚まい。汝なんぢ負まけたら按あん摩まをいたせ、﹂と此こ処ゝで約やく束そくが出で来きて、さて、シツペイの打うちくらと成なる。
﹁まづ、御ごぜ前んさ様ま。﹂
﹁心こゝ得ろえた。﹂
﹁へゝゝゝ﹂
と出だした腕うでが松まつの樹き同どう然ぜん、針はり金がねのやうな毛けがスク〳〵見みえる。
﹁参まゐるぞ。﹂
うん、と備びつ中ちう、鼻はな膩あぶらを引ひいた――とある。
宜よいか按あん摩ま、と呼よばゝつて、備びつ中ちう守のかみ、指ゆびのしなへでウーンと打うつたが、一いつ向かうに感かんじた様やう子すがない。さすがに紫むら色さきいろに成なつた手てく首びを、按あん摩まは擦さすらうとせず、
﹁ハヽヽ、蕨わらびが触さはつた。﹂
は、強がう情じやう不ふて敵きな奴やつ。さて、入いれ替かはつて按あん摩まがシツペイの番ばんと成なると、先まづ以もつて盆ぼんの払はらひにありつきました、と白はく銀ぎん二枚まい頂ちや戴うだいの事ことに極きめてかゝつて、
﹁さあ、殿との様さまお手てを。﹂
と言いふ。其そ処こで渋しぶりながら備びつ中ちう守のかみの差さし出だす腕うでを、片かた手てで握にぎ添りそへて、大だい根こんおろしにズイと扱しごく。とえゝ、擽くすぐつたい処どころの騒さはぎか。最もう其それだけで痺しびれるばかり。いや、此この勢いきほひで、的まと面もにシツペイを遣やられた日ひには、熊くまを挫ひしいだ腕うでも砕くだけやう。按あん摩ま爾その時とき鼻はな脂あぶらで、
﹁はい御ごめ免ん。﹂
ト傍かたはらに控ひかへた備びつ中ちうの家けら来い、サソクに南なん蛮ばん鉄てつの鐙あぶみを取とつて、中なかを遮さへぎつて出だした途とた端んに、ピシリと張はつた。
﹁アイタタ。﹂
と按あん摩まさすがに怯ひるむ。備びつ中ちう苦にが笑わらひをして、
﹁力ちからは其それだけかな、さて〳〵思おもつたほどでもない。﹂
と負まけ惜をしみを言いつたものゝ、家けら来いどもと顔かほを見み合あはせて、舌したを巻まいたも道だう理り。鐙あぶみの真まん中なかが其そのシツペイのために凹くぼんで居ゐた――と言いふのが講かう釈しやくの分ぶんである。
さて此この趣おもむきで見みると、最さい初しよから按あん摩まの様やう子すに、迚とても南なん蛮ばん鉄てつの鐙あぶみの面つらを指ゆびで張はり窪くぼますほどの力ちからがない。以いぜ前ん激げき流りうに逆さからつて、大だい石せきを転ころばして人ひと助だすけのためにしたと言いふのも、第だい一、かちわたりをすべき川かはでないから石いしがあるのが、然さまで諸しよ人にんの難なん儀ぎとも思おもはれぬ。往わう来らいに穴あながあるのとは訳わけが違ちがふ。
処ところで、随ずゐ筆ひつに書かいた方はうは、初しよ手てから筆ひつ者しやの用よう意いが深ふかい。これは前まへにも一ちよ寸つと言いつた。――奥おう州しう会あひ津づに諏すは訪ゑつ越ち中うと云いふ大だい力りきの人ひとあり。或ある一ひと年ゝせ春はるの末すゑつ方かた遠とほ乗のりかた〴〵白しら岩いはの塔たふを見けん物ぶつに、割わり籠ご吸すゐ筒づゝ取とり持もたせ。――で、民みん情じや視うし察さつ、巡じゆ見んけんでないのが先まづ嬉うれしい。――供とも二人三人召めし連つれ春はる風かぜと言いふ遠とほがけの馬うまに乗のり、塔たふのあたりに至いたり、岩がん窟くつ堂だうの虚こく空うざ蔵うにて酒さけをのむ――とある。古こ武ぶ士しが野のがけの風ふぜ情いも興きようあり。――帰き路ろに闇やみ川がは橋ばしを通とほりけるに、橋はし姫ひめの宮みやのほとりにて、丈たけ高たかくしたゝかなる座ざと頭うの坊ばう、――としてあるが、宇うつ都のや谷たふ峠げとは雲うん泥でいの相さう違ゐ、此このしたゝかなるとばかりでも一ちよ寸いと鐙あぶみは窪くぼませられる。座ざと頭う、琵びは琶ば箱こを負おひて、がたりびしりと欄らん干かんを探さぐり居ゐたり。――琵びは琶ば箱こ負おひたる丈たけ高たかきしたゝかな座ざと頭う一ひと人り、人ひと通ゞほりもなき闇やみ川がは橋ばしの欄らん干かんを、杖つゑ以もてがたりびしりと探さぐる――其その頭づじ上やうには怪あやしき雲くものむら〳〵とかゝるのが自しぜ然んと見みえる。分わけて爰こゝに、がたりびしりは、文ぶん章しやうの冴さえで、杖つゑの音おとが物もの凄すごく耳みゝに響ひゞく。なか〳〵口くちで言いつても此この味あぢは声こゑに出だせぬ。
また此この様やう子すを見みては、誰たれも怪あやしまずには居ゐられない。――越ゑつ中ちう馬うまを控ひかへ、坐ざと頭うの坊ばう何なにをする、と言いふ。坐ざと頭う聞きいて、此この橋はしは昔むかし聖しや徳うと太くた子いしの日につ本ぽん六十余よし州うへ百八十の橋はしを御お掛かけなされし其その内うちにて候さふらふよし伝つたへうけたまはり候さふらふ、誠まことにて候さふらふや、と言いふ。
成なる程ほどそれなりと言いふ。
座ざと頭う申まをすやう、吾われ等ら去いぬ年るとし、音おとにきゝし信しな濃のなる彼かの木き曾その掛かけ橋はしを通とほり申まをすに、橋はし杭ぐひ立たち申まをさず、谷たにより谷たにへ掛かけ渡わたしの鉄てつの鎖くさりにて繋つなぎ置おき申まを候しさふらふ。其その木き曾その掛かけ橋はしと景けし色きは同おなじ事ことながら、此この橋はしの風ふう景けいには歌うたよむ人ひともなきやらむ。木き曾その橋はしをば西さい行ぎや法うほ師ふしの春はる花はなの盛さかりに通とほり給たまひて、
此このほか色いろ々〳〵の歌うたも侍はべるよし承うけたまはり候さふらふと言いふ。――此この物もの語がたり、優いう美びの中うちに幻げん怪くわいあり。六十余よし州う往わう来らいする魔まも物のの風ふう流りう思おもふべく、はた是これあるがために、闇やみ川がは橋ばしのあたり、山やま聳そびえ、花はな深ふかく、路みち幽ゆうに、水みづ疾はやき風ふぜ情い見みるが如ごとく、且かつ能のう楽がくに於おける、前まへシテと云いふ段だん取どりにも成なる。
越ゑつ中ちうつく〴〵聞きいて、見みかけは弁べん慶けいとも言いふべき人ひと柄がらなれども心こゝろだての殊しゆ勝しようさは、喜きせ撰んは法ふ師しにも劣おとるまじと誉ほめ、それより道みちづれして、野ので寺らの観くわ音んお堂んだうへ近ちかくなりて、座ざと頭う傍かたはらの石いしに躓つまづきて、うつぶしに倒たふれけるが――と本ほん文もんにある処ところ、講かう釈しやくの即すなはち足あす羽はが川は中ちう流りうの石いしなのであるが、比ひか較くして言いふまでもなく、此この方はうが自しぜ然んで、且かつ変へん化げの此この座ざと頭うだけに、観くわ音んお堂んだうに近ちかい処ところで、躓つまづき倒たふれたと云いへば、何なにとなく秘ひみ密つの約やく束そくがあつて、ゾツとさせる。――座ざと頭うむくと起おき直なほつて、腹はらを立たて、道みち端ばたにあつて往わう来らいの障さまたげなりと、二三十人にんばかりにても動うごかしがたき大だい石せきの角かどに手てをかけ、曳えいやつといふて引ひき起おこし、目めより高たかくさし上あげ、谷たに底そこへ投なげ落おとす。――いかにも是これならば投なげられる、――越ゑつ中ちうこれを見みて胆きもを消けし、――とあつて、
﹁さて〳〵御おざ座と頭うは大だい力りきかな、我われも少すこし力ちからあり、何なんと慰なぐさみながら力ちか競らくらべせまじきか。﹂
と言いふ。我われも少すこし力ちからありて、やわか座ざと頭うに劣おとるまじい大だい力りきのほどが想おもはれる。自みづから熊くまを張はり殺ころしたと名な乗のるのと、どちらが点うな首づかれるかは論ろんに及およばぬ。
座ざと頭う聞きいて、
﹁御おな慰ぐさみになるべくは御おあ相い手て仕つかまつるべし。﹂
と言いふ。其そ処こで、野ので寺らの観くわ音んお堂んだうの拝はい殿でんへ上あがり、其そな方た盲まう人じんにて角すま觝うは成なるまじ、腕うでおしか頭あたまはりくらか此この二ふたつの中うちにせむ。座ざと頭う申まをすは、然しからばしつぺい張はり競くらを仕つか候まつりさふらはんまゝ、我わが天あた窓まを御おん張はり候さふらへと云いふ。越ゑつ中ちう然しからばうけ候さふらへとて、座ざと頭うの天あた窓まへしたゝかにしつぺいを張はる。座ざと頭う覚おぼえず頭かしらを縮ちゞめ、面おもてを顰ひそめ、しばし天あた窓まを撫なでゝ、
﹁さて〳〵強つよき御おち力からかな、そなたは聞きゝ及およびし諏すは訪ゑつ越ち中うな。さらば某それがしも慮りよ外ぐわいながら一ひとしつぺい仕つかまつらむ、うけて御ごら覧んさ候ふらへ。﹂
とて越ゑつ中ちうが頭かしらを撫なでゝ見み、舌した赤あかくニヤリと笑わらひ、人ひとさし指ゆびに鼻はな油あぶらを引ひいて、しつぺい張はらんと歯はが噛みをなし立たち上あがりし面つら貌がまへ――と云うん々ぬん。恁かくてこそ鬼きじ神んと勇ゆう士しが力ちか較らくらべも壮そう大だいならずや。
越ゑつ中ちう密ひそかに立たつて鐙あぶみをはづし、座ざと頭うがしつぺいを鐙あぶみの鼻はなにて受うくる。座ざと頭う乗のりかけ声こゑをかけ、
﹁曳えいや、﹂
とはつしと張はる。鐙あぶみの雉き子じのもゝのまがりめ二ふたツ三みツに張はり砕くだけたり。
﹁あつ、﹂
と越ゑつ中ちう、がたり鐙あぶみを投はうり出だし、馬うまにひらりと乗のるより疾はやく、一散さんに遁にげて行ゆく。座ざと頭う腹はらを立たて、
﹁卑ひけ怯うなり何いづ処くへ遁にぐる。﹂
と大だい音おんあげ、追おひ掛かけしが忽たちまちに雲くも起おこり、真まつ闇くらになり、大たい雨う降ふり出いだし、稲いな光びかり烈はげしく、大おほ風かぜ吹ふくが如ごとくなる音おとして座ざと頭うはいづくに行ゆきしやらむ――と言いふのである。前まへの講かう釈しやくのと読よみ較くらべると、彼かの按あん摩まが後のちに侍さむらひに取とり立たてられたと云いふ話はなしより、此この天てん狗ぐか化ばけ物ものらしい方はうが、却かへつて事じゝ実つに見みえるのが面おも白しろい。