一
汽きし車やは寂さびしかつた。 わが友ともなる――園そのが、自みづから私わたしに話はなした――其そのお話はなしをするのに、念ねんのため時じか間んへ表うを繰くつて見みると、奥おう州しう白しら河かはに着ついたのは夜よるの十二時じ二十四分ぷんで―― 上うへ野のを立たつたのが六時じは半んである。 五月ぐわつの上じや旬うじゆん……とは言いふが、まだ梅つ雨ゆには入はひらない。けれども、ともすると卯うの花はなくだしと称となうる長なが雨あめの降ふる頃ころを、分わけて其その年としは陽やう気きが不ふじ順ゆんで、毎まい日にちじめ〳〵と雨あめが続つゞいた。然しかも其その日ひは、午ごぜ前んの中うち、爪つま皮かはの高たか足げ駄た、外ぐわ套いたう、雫しづくの垂したゝる蛇ぢや目のめ傘がさ、聞きくも濡ぬれ々〳〵としたありさまで、︵まだ四十には間まがあるのに、壮わかくして世よを辞じした︶香かが川はと云いふ或ある素そは封う家かの婿むこであつた、此これも一ひと人りの友いう人じんの、谷やな中か天てん王わう寺じに於おける其その葬とむらひを送おくつたのである。 園そのは予よて定いのかへられない都つが合ふがあつた。で、矢やつ張ぱり当たう日じつ、志こゝろざした奥おう州しう路ぢに旅たびするのに、一旦たん引ひき返かへして、はきものを替かへて、洋すて杖つきと、唯たゞ一つバスケツトを持もつて出でな直ほしたのであるが、俥くるまで行ゆく途とち中うも、袖そではしめやかで、上うへ野のへ着ついた時ときも、轅か棒ぢをトンと下おろされても、あの東とう京きやうの式しき台だいへ低ひくい下げ駄たでは出でられない。泥ぬか濘るみと言いへば、まるで沼ぬまで、構こう内ないまで、どろ〳〵と流なが込れこむで、其そ処こ等ら一面めんの群ぐん集しふも薄うす暗ぐらく皆みな雨あめに悄しをれて居ゐた。 ﹁出でぐ口ちの方はうへ着つけて見みませう。﹂ ﹁然さう、何どうぞ然さうしておくれ。﹂ さてやがて乗のり込こむのに、硝ガラ子スま窓どを横よこ目めで見みながら、例れいのぞろ〳〵と押おし揉もむで行いくのが、平いつ常もほどは誰だれも元げん気きがなさゝうで、従したがつて然さまで混こん雑ざつもしない。列れつ車しやは、おやと思おもふほど何ど処こまでも長なが々〳〵と列つらなつたが、此これは後こう半はん部ぶが桐きり生ふゆ行きに当あてられたものであつた。 室しつはがらりと透すいて、それでも七八人にんは乗のり組こんだらう。女をん気なげなし、縦たてにも横よこにも自じい由うに居ゐられる。 と思おもふうちに、最もう茶ちやの外ぐわ套いたうを着きたまゝ、ごろりと仰あふ向むけに成なつた旅りよ客かくがあつた。 汽きし車やは志こゝろざす人ひとをのせて、陸みち奥のくをさして下くだり行ゆく――早はや暮くれかゝる日につ暮ぽ里りのあたり、森もりの下した闇やみに、遅おそ桜ざくらの散ちるかと見みたのは、夕ゆふ靄もやの空そらが葉はに刻きざまれてちら〳〵と映うつるのであつた。 田たば端たで停てい車しやした時とき、園そのは立たち上あがつて、其その夕ゆう靄もやにぽつと包つゝまれた、雨あめの中なかなる町まちの方はうに向むかつて、一ちよ寸つと会ゑし釈やくした。 更あらためてくどくは言いふまい。其そ処こには、今こん日にち告こく別べつ式しきを済すました香かが川はの家いへがある。と同どう時じに一昨さく年ねんの冬ふゆ、衣きぬ絵ゑさん、婿むこ君ぎみのために若わか奥おく様さまであつた、美うつくしい夫ふじ人んがはかなくなつて居ゐる……新しん仏ぼとけは、夫ふじ人んの三年ねん目めに、おなじ肺はい結けつ核かくで死しき去よしたのであるが…… 園そのは、実じつは其その人ひとたちの、まだ結けつ婚こんしない以いぜ前んから衣きぬ絵ゑさんを知しつて居ゐた……と言いふよりも知しられて居ゐたと言いつて可よからう。 園そのは従い兄と弟こに、幸こう流りうの小こつ鼓ゞみ打うちがある。其その役やく者しやを通つうじてゞある。が、興こう行ぎやうの折をりの桟さじ敷き、又または従い兄と弟この住すま居ゐで、顔かほも合あはせれば、ものを言いひ交かはす、時とき々〴〵と言いふほどでもないが、ともに田たば端たの家いへを訪おとづれた事こともあつて、人ひと目めに着つくよりは親したしかつた…… 親したしかつたうへに、お嬢ぢやうさん……後のちの香かが川はふ夫じ人んは、園そののつくる歌うたの愛あい人じんであつた。園そのは其その作さく家かなのである。 ﹁行いつて参まゐりますよ。﹂ と、其そ処こで心こゝろで言いつた。 汽きし車やが出でる。 がた〳〵と揺ゆれるので、よろけながら腰こしを据すゑた。 恁かくの如ごとく、がらあきの席せきであるから、下したへも置おかず、席シイトに取とつた――旅たびに馴なれないしるしには、真まあ新たらしいのが見みすぼらしいバスケツトの中なかに、――お嬢ぢやうさん衣きぬ絵ゑの頃ころの、彼かれに︵おくりもの︶が秘ひそめてある。二
今いまは紀かた念みと成なつた。
友いう染ぜんの切きれに、白しろ羽はぶ二た重への裏うらをかさねて、紫むらさきの紐ひもで口くちを縷かゞつた、衣きぬ絵ゑさんが手てぬ縫いの服ふく紗さぶ袋くろに包つゝんで、園そのに贈おくつた、白しろく輝かゞやく小こな鍋べである。
彼かれは銀ぎんの鼎かなへと言いふ……
組くみ込こみの三脚きやくに乗のる錫すゞの鑵くわんに、結けつ晶しやうした酒アル精コールの詰つまつたのが添そつて、此これは普ふつ通う汽きし車やち中うで湯ゆを沸わかす器うつわである。
道だう中ちう――旅た行びの憂きづ慮かひは、むかしから水みづがはりだと言いふ。……それを、人ひとが聞きくと可おか笑しいほど気きにするのであるから、行ゆく先さき々〴〵の停ステ車ーシ場ヨンで売うる、お茶ちやは沸わいて居ゐる、と言いつても安あん心しんしない。要えう心じんを通とほ越りこした臆おく病びやうな処ところへ、渇かわくのは空ひも腹じいにまさる切せつなさで、一ひとつは其それがためにもつい出でお億つく劫ふがるのが癖くせで。
﹁……はる〴〵奥おくの細ほそ道みちとさへ言いふ。奥おう州しう路ぢなどは分わけて水みづが悪わるいに違ちがひない。ものを較くらべるのは恐きよ縮うしゆくだけれど、むかし西さい行ぎやうでも芭ばせ蕉をでも、皆みな彼あす処こでは腹はらを疼いためた――惟おもふに、小こど児もの時ときから武むし者や絵ゑでは誰たれもお馴なじ染みの、八幡まん太たら郎うよ義しい家へが、龍たつ頭がしらの兜かぶと、緋ひお縅どしの鎧よろいで、奥おう州しう合かつ戦せんの時とき、弓ゆん杖づゑで炎えん天てんの火ひを吐はく巌いはほを裂さいて、玉たまなす清しみ水づをほとばしらせて、渇かわきに喘あへぐ一軍ぐんを救すくつたと言いふのは、蓋けだし名めい将しやうの事ことだから、今いまの所いは謂ゆる軍ぐん事じゑ衛いせ生いを心こゝ得ろえて、悪あく水すゐを禁きんじた反はん対たいの意い味みに相さう違ゐない。﹂
と、今こん度どの旅たびの前まへにも……私わたしたちに真ま面じ目めで言いつた。
何なにを、馬ば鹿かな。
と平へい生ぜいから嘲あざけるものは嘲あざけるが、心こゝ優ろやさしい衣きぬ絵ゑさんは、それでも気きの毒どくがつて、存ぞん分ぶんに沸わかして飲のむやうにと言いつた厚こゝ情ろざしなのであつた。
機を会りもなくつて、それから久ひさしぶりの旅たびに、はじめてバスケツトに納をさめたのである。
﹁さあ、来こい、川かはも濁にごれ、水みづも淀よどめ。﹂
と何なにか、美うつくしい魔まは法ふで、水みづを澄すませて従したがへさへ出で来きさうに、銀ぎん鍋なべの何なんとなくバスケツトの裡うちに透すく光ひかりを、友いう染ぜんのつゝみにうけて、袖そでに月つき影かげを映うつすかと思おもふ、それも、思おもへばしめやかであつた。
窓まどの外そとは雨あめが降ふる、降ふる。
雪せつ駄た、傘からかさ、下げ駄た、足あし駄だ。
幸さつ手て、栗くり橋ばし、古こ河が、間ま々ゝ田だ……の昔むかしの語ごろ呂あは合せを思おもひ出だす。
武ぶ左ざな客きやくには芸げいしやがこまる。
芝しばの浦うらにも名めい所しよがござる。
ゐなか侍ざむらひ茶ちや店みせにあぐら。
死しなざやむまい三さみ味せ線ん枕まくら。
﹁鰻うなぎの丼どんぶりは売うり切きれです。﹂
﹁ぢやあ弁べん当たうだ﹂
小をや山まは夜よるで暗くらかつた。
嘗かつて衣きぬ絵ゑさんが、婿むこ君ぎみとこゝを通とほつて、鰻うなぎを試こゝろみたと言いふのを聞きいて居ゐたので、園そのは、自じぶ分ん好ずきではないが、御ごは飯んだけもと思おもつたのに、最もう其それは売うり切きれた……
﹁そら行ゆけ。﹂
どんと後うしろで突つく、
﹁がつたん〳〵。﹂
と挨あい拶さつする。こゝで列れつ車しやが半はん分ぶんづゝに胴どう中なかから分わかれたのである。
又またづしんと響ひゞいた。
乗のつて来くるものは一ひと人りもなし、下おりた客きやくも居ゐなかつたが、園そのは急きふに又また寂さびしい気きがした。
行ゆき先さきは尚なほ暗くらい。
開ひらくでもなしに、弁べん当たうを熟つく々〴〵視みると、彼あす処この、あの上うは包つゝみに描ゑがいた、ばら〳〵蘆あしに澪みを標つくし、小こぶ舟ねの舳みよしにかんてらを灯ともして、頬ほう被かむりしたお爺ぢいの漁あさる状さまを、ぼやりと一絵ゑの具ぐ淡あはく刷はいて描ゑがいたのが、其そのまゝ窓まどの外そとの景けし色きに見みえる。
雨あめは小をや留みもない。
た※﹇#濁点付き二の字点、166-2﹈渺べう々〳〵として果はてもない暗や夜みの裡なかに、雨あめ水みづの薄うす白じろいのが、鰻うなぎの腹はらのやうに畝うねつて、淀よどんだ静しづかな波なみが、どろ〳〵と来きて線せん路ろを浸ひたして居ゐさうにさへ思おもはれる。
ほたり〳〵と落おちて、ずるりと硝がら子すま窓どに流ながるゝ雫しづくは、鰌どぜうの覗のぞく気けは勢ひである。
三
バスケツトを引ひき揚あげて、底そこへ一ちよ寸つと手てを当あてゝ見みた。雨あま気けが浸しみ通とほつて、友いう染ぜんが濡ぬれもしさうだつたからである。 そんな事ことは決けつしてない。 が、小こに人ん数ずとは言いへ、他たに人ひとがなかつたら、此この友いう染ぜんの袖そでをのせて、唯たゞ二ふた人りで真まつ暗くらの水みづに漾たゞよふ思おもひがしたらう。 宇うつ都のみ宮やへ着ついてさへ、船ふねに乗のつた心こゝ地ちがした。 改かい札さつ口ぐちには、雨あめに灰はひ色いろした薄うすぼやけた旅りよ客かくの形かたちが、もや〳〵と押おし重かさなつたかと思おもふと、宿やど引ひきの手てン手での提ちや灯うちんに黒くろく成なつて、停ステ車ーシ場ヨン前まへの広ひろ場ばに乱みだれて、筋すぢを流ながす灯ひの中なかへ、しよぼ〳〵と皆みな消きえて行ゆく。……其その中なかで、山やま高かたが突つき立たち、背せび広ろが肩かたを張はつたのは、皆みな同どう室しつの客きやく。で、こゝで園そのと最もう一ひと人り――上うへ野のを出でると其それ切きり寝ねたまゝの茶ちやの外ぐわ套いた氏うしばかりを残のこして、尽こと〴〵く下げし車やしたのである。 まことに寂さびしい汽きし車やであつた。 やがて大おほ那な須す野のの原はらの暗くらがりを、沈ちん々〳〵として深ふかく且かつ大おほきな穴あなへ沈しづむが如ごとく過すぎて行ゆく。 野のが川はで鰌どぜうを突つくのであらう。何ど処こかで、かんてらの火ひが一ひとつ、ぽつと小ちひさく赤あかかつた。火ひは水みづに影かげを重かさねたが、八やへ重なで撫し子この風ふぜ情いはない。……一つ家やの鬼をにが通とほるらしい。 黒くろ磯いそ―― 左ひだ斜りはすの其その茶ちやの外ぐわ套いた氏うしの鼾いびきにも黒こつ気きが立たつた。 燈ひも暗くらい。 野のも山やまも、此この果はてしなき雨あめ夜よの中なかへ、ふと窓まどを開あけて、此この銀ぎんの鍋なべを翳かざしたら、きらりと半はん輪りんの月つきと成なつて二三尺じやく照てらすであらう。……実じつ際さい、ふと那そ様んな気きがしたのであつた。が、其それは衣きぬ絵ゑさんが生いきて居ゐて、翳かざすのに、其その袖そで口ぐちがほんのり燃もえて、白しろい手ての艶つやが添そはねば不いけ可ない…… 自じぶ分んが遣やると狐きつねの尻しつ尾ぽだ。 と独ひとりで苦くせ笑うする。其そのうちに、何な故ぜか、バスケツトを開あけて、鍋なべを出だして、窓まどへ衝つと照てらして見みたくてならない。指ゆびさきがむづ痒がゆい。 こんな時ときは魔まが唆そゝのかして、狂きち人がひじみた業わざをさせて、此これを奪うばはうとするのかも知しれぬ。 園そのは悚ぞ然つとして、道だう祖そじ神んを心こゝろに念ねんじた。 真まつ個たく、この暫しば時らくの間あひだは稀け有ぶであつた。 郡こほ山りやままで行ゆくと……宵よひがへりがして、汽きし車やもパツと明あかるく成なつた。思おも見ひみる、磐ばん梯だい山さんの煙けむりは、雲くもを染そめて、暗やみは尚なほ蓬おど々ろ〳〵しけれど、大だいなる猪ゐな苗はし代ろの湖みづうみに映うつつて、遠とほく若わか松まつの都みやこが窺うかゞはれて、其その底そこに、東ひが山しや温まお泉んせんの媚なまめいた窓まど々〳〵の燈ともしの紅べにを流ながすのが遥はろ々〴〵と覗のぞかれる。 園そのが曾そう遊いうの地ちであつた。 バスケツトの中なかも何なんとなく賑にぎやかである。 と次しだ第いに遠とほい里さとへ、祭さい礼れいに誘さそはれるやうな気きがして、少すこしうと〳〵として、二にほ本んま松つと聞きいては、其そ処この並なみ木きを、飛ひき脚やくが通かよつて居ゐさうな夢ゆめ心ごゝ地ちに成なつた。 茶ちやの外ぐわ套いた氏うしが大おほ欠あく伸びをして起おきた。口くち髯ひげも茶ちや色いろをした、日ひに焼やけた人じん物ぶつで、ズボンを踏ふみ開はだけて、どつかと居ゐな直ほつて、 ﹁あゝゝ、寝ねたぞ。﹂ と又また欠あく伸びをして、 ﹁何どの辺へんまで来きたかなあ。﹂ 殆ほとんど独ひと言りごとだつたが、しかし言いひ掛かけられたやうでもあるから、 ﹁失しつ礼れい――今いましがた二本ほん松まつを越こしたやうです。﹂ と園そのが言いつた。 ﹁や、それは又また馬ば鹿かに早はやいですな。﹂ と驚おどろいた顔かほをして、ちよつきをがつくりと前まへ屈かゞみに、肱ひぢを蟹かにの手てに鯱しや子ちこ張ばらせて、金きん時どけ計いを撓ためながら、 ﹁……十一時じ十五分ふん。﹂ と鼻はな筋すぢをしかめて、園そのを真まし正やう面めんに見みて耳みゝに当あてた。 ﹁留とまつては居をらんなあ。はてなあ、此この汽きし車やは十二時じ二十四分ふんに、漸やうやく白しら河かはへ着つきをるですがな。﹂ と硝ガラ子スに吸すひ着ついたやうに窓まどを覗のぞく。 園そのも、一驚きやうを吃きつして時とけ計いを見みた。針はりは相さう違ゐなく十一時じの其そ処こをさして、汽きし車やの馳はせつゝあるまゝにセコンドを刻きざむで居ゐる。 バスケツトを圧おさへて、吻ほつと息いきして、 ﹁何どうも済すみません、少すこし、うと〳〵しましたつけ。うつかり夢ゆめでも視みたやうで、――郡こほ山りやままでは一度ど行いつた事ことがあるものですから……﹂ 園そのも窓まどを覗のぞきながら、 ﹁しかし、何どうも済すみません、第だい一見みた事こともありませんのに、奥おう州しう二本ほん松まつと云いふのは、昔むか話しばなしや何なにかで耳みゝについて居ゐたものですから、夢ゆめ現うつゝに最もう其そ処こを通とほつたやうに思おもつたんです。﹂ 燈あかしが白しろく、ちら〳〵と窓まどを流ながれた。 ﹁白しら坂さかだ、白しら坂さかだ。﹂ と茶ちやの外ぐわ套いた氏うしが言いつた。……向むき直なほつて口くちを開あけたが、笑わらひもしないで落おち着ついた顔かほして、 ﹁此この汽きし車やは、豊とよ原はらと此こ処ゝを抜ぬくですで……今こん度どが漸やうやく白しら河かはです。﹂ ﹁何どうもお恥はづかしい……狐きつねに魅つままれましたやうです。﹂ ﹁いや、汽きし車やの中なかは大だい丈ぢや夫うぶ――所いは謂ゆる白しら河かは夜よふ船ねですな。﹂ 園そのは俯うつ向むいたが、 ﹁――何どち方らまで。﹂ ﹁はあ、北ほく海かい道だうへは始しじ終う往わう復ふくをするですが、今こん度どは樺から太ふとまで行ゆくですて。﹂ ﹁それは、何どうも御ごゑ遠んぱ方う……﹂ 彼かれの持もちふるした鞄かばんを見みよ。手てず摺れの靄もやが一面めんに、浸しみの形かたが樺から太ふとの図づに浮うかぶ。汽きし車やは白しら河かはへ着ついたのであつた。四
﹁牛ぎう乳にう、牛ぎう乳にう――牛ぎう乳にうはないのか。――夜よな中かに成なると無ぶし精やうをしをるな。﹂
茶ちやの外ぐわ套いた氏うしは、ぽく〳〵と立たつて、ガタンと扉どあを開ひらいて出でた。
窓まどを開あけると、氷こほりを目めに注そゝぐばかり、颯さつと雨あめが冷つめたい。恰あだかも墨すみを敷しいたやうなプラツトホームは、ざあ〳〵と、さながら水みづが流ながれるやうで、がく〳〵こう〳〵と鳴なく蛙かはづの声こゑが、町まちも、山やまも、田たも一斉に波なみ打うつ如ごとく、夜よふけの暗や中みに鳴なき拡ひろがる。声こゑは雲くもまで敷しくやうであつた。
ト、すぐ裏うらに田たが見みえて、雨あま脚あしも其そ処こへ、どう〳〵と強つよく落おちて、濁にごつた水みづがほの白しろい。停ステ車ーシ場ヨンの一方ぱうの端はしを取とつて、構こう内ないの出ではづれの処ところに、火ひの番ばん小ご屋やをからくりで見みせるやうな硝がら子すま窓どの小こみ店せがあつて、ふう〳〵白しろい湯ゆ気げが其その窓まどへ吹ふき出だしては、燈ともしびに淡うすく濃こく、ぼた〳〵と軒のきを打うつ雨あめの雫しづくに打うたれては又また消きえる。と湯ゆ気げの中なかに、ビール、正まさ宗むねの瓶びんの、棚たなに直ひたと並ならんだのが、むら〳〵と見みえたり、消きえたりする。……横よこ手ての油あぶ障らし子やうじに、御おん酒さけ、蕎そ麦ば、饂うど飩んと読よまれた……
若わかい駅えき員ゐんが二ふた人り、真まつ黒くろな形かたちで、店みせ前さきに立たつたのが、見みえ隠かくれする湯ゆ気げを嬲なぶるやうに、湯ゆ気げがまた調から戯かふやうに、二ふた人り互たが違ひちがひに、覗のぞ込きこむだり、胸むねを衝つと開ひらいたり、顔かほを背そむけたり、頤あごを突つき出だしたりすると、それ、湯ゆ気げは立たつたり伏ふさつたり、釦ぼたんに掛かゝつたり、耳みゝを巻まいたり、鼻はなを吹ふいたりする。……其その毎たびに、銀いて杏ふが返へしの黒くろい頭あたまが、縦たて横よこに激はげしく振ふれて、まん円まるい顔かほのふら〳〵と忙せはしく廻まはるのが、大おほきな影かげ法ばう師しに成なつて、障しや子うじに映うつる……
で、駅えきは唯たゞ水みづの中なかのやうである。雨あめは冷つめたく流ながれて降ふりしきる。
駅えき員ゐんの一ひと人りは、帽ばう子しとゝもに、黒くろい頸ぼん窪のくぼばかりだが、向むかふに居ゐて、此こつ方ちに横よこ顔がほを見みせた方はうは、衣かく兜しに両りや手うてを入いれたなり、目めを細ほそめ、口くちを開あけた、声こゑはしないで、あゝ、笑わらつてると思おもふのが、もの静しづかで、且かつ沁しみ々〴〵寂さびしい。
其その一ひと人りが、高たか足あしを打うつて、踏ふんで、澄すましてプラツトホームを横よこ状ざまに歩ある行き出だすと、いま笑わらつたのが掻かい込こむやうに胸むねへ丼どんぶりを取とつた。湯ゆ気げがふつと分わかれて、饂うど飩んがする〳〵と箸はしで伸のびる。
其その肩かた越ごしに、田たのへりを、雪ゆきが装もり上あがるやうに、且かつ雫しづくさへしと〳〵と……此この時とき判はつ然きりと見みえたのは、咲さきむらがつた真まつ白しろな卯うの花はなである。
雨あめに誘さそはれて影かげも白しろし、蛙かはづは其その饂うど鈍ん食くふ駅えき員ゐんの靴くつの下したにも鳴なく。
声こゑが、声こゑが
﹁かあ、かあ、
白しらあ河かあ。
かあ、かあ、
買かへ、かへ、
うどん買かへ、買かへ。
しらあ、河かあ。﹂と鳴なく。
あゝ風ふぜ情いとも、甘おい味しさうとも――園そのは乗のり出だして、銀ゐて杏ふが返へしの影かげ法ばふ師しの一ちよ寸つと静しづまつたのを呼よばうとした。
順じゆ礼んれいがとぼ〳〵と一ひと人り出でた。
薄うすい髪けの、かじかんだお盥たら結ひむすびで、襟えりへ手てぬ拭ぐひを巻まいて居ゐる、……汚きたない笈おひ摺ずりばかりを背せにして、白しろ木もめ綿んの脚きや絆はん、褄つま端ばし折よりして、草わら鞋ぢば穿きなのが、ずつと身みを退ひいて、トあとびしやりをした駅えき員ゐんのあとへ、しよんぼりと立たつて、饂うど飩んへ顔かほを突つき込こむだ。――青あを膨ぶくれの、額ひたひの抜ぬき上あがつたのを視みると、南な無む三宝ぱう、眉まゆ毛げがない、……はまだ仔しさ細いない。が、小こば鼻なの両りや傍うわきから頤あごへかけて、口くちのまはりを、ぐしやりと輪わ取どつて、瘡かさだか、火やけ傷どだか、赤あか爛たゞれにべつたりと爛たゞれて居ゐた。
其その口くちへ、――忽たちまちがつちりと音おとのするまで、丼どんぶりを当あてると、舌したなめずりをした前まへ歯ばが、穴あなに抜ぬけて、上うへ下したおはぐろの兀はげまだら。……
湯ゆ気げを揺ゆすつて、肩かたも手てもぶる〳〵と震ふるへて掻かつ食くふ。
﹁あ。﹂
あゝ、あの丼どんぶりは可おそ恐ろしい。
無むろ論んこんな事ことは、めつたにあるまい。それに、げつそりするまで腹はらも空すく。
白しら河かはの雨あめの夜よふけに、鳴なき立たつて蛙かはづが売うる、卯うの花はなの影かげを添そへた、うまさうな饂うど飩んは何どうもやめられない。
﹁洗あらつてさへくれゝば可いいのだが、さし当あたり……然さうだ、此こち方らの容うつ器はを持もつて買かはう。﹂
其そ処こで、バスケツトを開あけた。
中なかに咲さいたやうな……藤ふじ紫むらさきに、浅あさ黄ぎと群ぐん青じやうで、小こぎ菊く、撫なで子しこを優やさしく染そめた友いう染ぜんの袋ふくろを解といて、銀ぎんの鍋なべを、園そのはきら〳〵と取とつて出でた。
出でると、横よこざまに颯さつと風かぜが添そつた。
成なるたけ順じゆ礼んれいを遠とほくよけて、――最もう人ひと気けは配ひに後うしろへ振ふり向むけた、銀ゐて杏ふが返へしの影かげ法ばふ師しについて、横よこ障しや子うじを裏うらへ廻まはつた。店みせは裏うらへ行ゆき抜ぬけである。
外ぐわ套いたうは脱ぬいで居ゐた――背せな中かへ、雨あめも、卯うの花はなも、はら〳〵とかゝつた。
たゝきへ白しろく散ちつて居ゐる。
﹁饂うど飩んを一ひとつ。﹂
と出だしながら、ふと猶ため予らつたのは、手てが一ひとつ、自じぶ分んの他ほかに、柔やはらかく持もち添そへて居ゐるやうだつたからである。――否いや、其その人ひとの袖そでのしのばるゝ友いう染ぜんの袋ふくろさへ、汽きし車やの中なかに預あづけて来きたのに――
﹁此これへおくれ。﹂
銀ゐて杏うが返へしは赤あから顔がほで、白おし粉ろいを濃こくして居ゐた。
駅えき員ゐんは最もう見みえなかつた。其その順じゆ礼んれいのお盥たら髪ひがみさへ、此こつ方ちに背そむき、早はやうしろを見みせて、びしや〳〵と行ゆく処ところを――︵見みなくとも可よいのに︶気きにすると、恰あだかも油あぶらさしがうつ伏ぶせに鉄くろがねの底そこを覗のぞく、かんてらの火ひの上うへへ、ぼやりと影かげを沈しづめて、大おほきな鼠ねずみのやうに乗のつて消きえた。
駅えき員ゐんが黒くろく、すら〳〵と、雨あめの雫しづくの彼あつ方ちこ此つ方ち。
五
他たには数かぞうるほどの乗じよ客うかくもなさゝうな、余あまり寂さびしさに、――夏なつの夜よの我わが家やを戸おも外てから覗のぞくやうに――恁かう上あと下さきを見みわ渡たすと、可かなりの寄よ席せほどにむら〳〵と込こむ室へやも、さあ、二ふたつぐらゐはあつたらう。…… 園そのの隣となりなる車くるまは、づゝと長ながく通とほつた青あをい室へやで、人にん数ずは其そ処こも少すくない。が、しかし二十人にんぐらゐは乗のつて居ゐた。……但たゞし其それも、廻まは燈りど籠うろの燈ひが消きえて、雨あめに破やぶれて、寂し然んと静しづまつた影かげに過すぎない。 左さい右うを見みさ定だめて、鍋なべを片かた手てに乗のらうとすると、青あを森もり行ゆき――二等とう室しつと、例れいの青あをに白しろく抜ぬいた札ふだの他ほかに、踏ふみ壇だんに附くつ着ゝいたわきに、一枚まい思おも懸ひがけない真まあ新たらしい木きふ札だが掛かゝつて居ゐる……
﹁おや〳〵……﹂
園そのは一ちよ寸つと猶ため予らつた。
成なる程ほど、空すきに空すいた上うへにも、寝ねお起きにこんな自じい由うなのは珍めづらしいと思おもつた。席せきを片かた側がはへ十五ぐらゐ一いつ杯ぱいに劃しきつた、たゞ両りや側うがはに成なつて居ゐて、居ゐながらだと楽らく々〳〵と肘ひぢが掛かけられる。脇けふ息そくと言いふ態さまがある。シイトの薄うす萠もえ黄ぎの――最もつとも古ふるぼけては居ゐたが――天びら鵝う絨どの劃しきりを、コチンと窓まどへ上あげると、紳しん士しの作さは法ふにありなしは別べつ問もん題だいだが、いゝ頃ころ合あひの枕まくらに成なる。
﹁まてよ……﹂
衣きぬ絵ゑさんが此この辺あたりを旅た行びした時ときの車くるまと言いふのを、話はなしの次つひ手でに聞きいたのが――寸すん分ぶん違ちがはぬ的てつ切きり此これだ……
﹁待まてよ。﹂
無むろ論ん、婿むこがねと一いつ所しよで、其それは一等とう室しつはあつたかも知しれない。が、乗のり心ごゝろの模もや様うも、色いろ合あひも、いま見みて思おもふのと全まつたく同おなじである。
﹁――臨りん時じう運んて転んと特くべ別つし車や。但たゞし試しよ用う――一回くわい限かぎり……﹂
と二行ぎやうに最もう一度ど読よみながら、つひ、銀ぎんの鍋なべを片かた袖そでで覆おほふて入はいつた。
饂うど飩んを庇かばつたのではない。
唯ト、席せきに着つくと、袖そでから散ちつたか、あの枝えだからこぼれたか、鍋なべの蓋ふたに、颯さつと卯うの花はなが掛かゝつて居ゐて、華きや奢しやな細ほそい蕋しべが、下したのぬくもりに、恁かう、雪ゆきが溶とけるやうな薄うすい息いきを戦そよがせる。
其その雪ゆきより白しろく、透すき通とほる胸むねに、すや〳〵と息いきを引ひいた、肺はいを病なやむだ美たを女やめの臨いま終はの状さまが、歴あり々〳〵と、あはれ、苦くるしいむなさきの、襟ゑりの乱みだれたのさへ偲しのばるゝではないか。
はつと下したに置おくと、はづみで白しろい花はな片びらは、ぱらりと、藤ふぢ色いろの地ぢの友いう染ぜんにこぼれたが、こぼれた上うへへ、園そのは尚なほ密そと手てを当あてゝ蓋ふたを傾かたむけた。
蓋ふたのほの暖あゝたかいのに、ひやりとした。
火ひに掛かけて煮にようとする鍋なべの上うへへ、少すくなくとも其その花はな片びらは置おけなかつたからである。
気きが着つくと、茶ちやの外ぐわ套いた氏うしは形かたちもない。ドキリとした。
が、例れいの大おほ鞄かばんが、其そのまゝ網あみ棚だなにふん反ぞり返がへつて、下したに皺しなびた空くう気きま枕くらが仰あふ向むいたのに、牛ぎう乳にうの壜びんが白しろい首くびで寄より添そつて、何なんと……、添そひ寝ねをしようかとする形かたちで居ゐる。
徳とつ利くりが化ばけた遊おい女らんと云いふ容よう子すだが、其その窓まどへ、紅べにを刷はいたら、恐おそらく露ろ西し亜やの辻つぢ占うらであらう。
では、汽きし車やの中なかに一ひと人り踞つくばつて、真まよ夜な中かの雨あめの下したに、鍋なべで饂うど飩んを煮にる形かたちは何なんだ? ……
説せつ明めいも形けい容ようも何なにもない――燐まつ寸ちを摺すると否いなや、アルコールに火ひをつけるのであるから、言ごん句くもない。……発ぱつと朱しゆが底そこへ漲みなぎると、銀ぎんを蔽おほふて、三脚きやくの火ひが七なゝつに分わかれて、青あをく、忽たちまち、薄うす紫むらさきに、藍あゐを投なげて軽かるく煽あふつた。
ドカリ――洗せん面めん所じよの方かたなる、扉どあへ立たつた、茶ちや色いろな顔かほが、ひよいと立たち留どまつてぐいと見み込こむと、茶ちやの外ぐわ套いたうで恁かう、肩かたを斜はすに寄よつたと思おもふと、……件くだんの牛ぎう乳にうの壜びんを引ひつ攫さらふが早はやいか――声こゑを掛かける間まも何なにもなかつた――茶ちや革がはの靴くつで、どか〳〵と降おりて行ゆく。
跫きよ音うおん乱みだれて、スツ〳〵と擦すれつゝ、響ひゞきつゝ、駅えき員ゐんの驚す破わ事ことありげな顔かほが二ふたつ、帽ぼう子しの堅かたい廂ひさしを籠こめて、園そのの居ゐる窓まどをむづかしく覗のぞ込きこむだ。
其その二ふた人りが苦くせ笑うした。
顔かほが両りや方うはうへ、背せな中かあ合はせに分わかれたと思おもふと、笛ふゑが鳴なつた。
園そのは惘まう然ぜんとした。
﹁あゝ、分わかつた。﹂
狐きつねが馬うまにも乗のらないで、那な須す野のヶ原はらを二本ほん松まつへ飛とび抜ぬけた怪あやしいのが、車しや内ないで焼せう酎ちう火びを燃もやすのである。
此これが、少すくなからず茶ちやの外ぐわ套いた氏うしを驚おどろかして、渠かれをして駅えき員ゐんに急きふを告つげしめたものに相さう違ゐない。
と思おもひながら、四あた辺りを見みた。
したが誰たれも居ゐない。
﹁あゝ……心こゝ細ろぼそいなあ――﹂
が、その中うちはまだよかつた、……汽きし車やは夜よとともに更ふけて行ゆき、夜よは汽きし車やとゝもに沈しづむのに、少しば時らくすると、また洗せん面めん所じよの扉どあから、ひよいと顔かほを出だして覗のぞいた列れつ車しやボーイが、やがて、すた〳〵と入はひつて来くると、棚たなを視ながめ、席せきを窺うかゞひ、大おほ鞄かばんと、空くう気きま枕くらを、手てぎ際はよく取とつて担かついで、アルコールの青あをい火ひを、靴くつで半はん輪わに廻まはつて、出でて行ゆくとて――
﹁御ごび病やう気きですか。﹂
園そのは大おほ真ま面じ目めで、
﹁いゝえ。﹂
﹁はあ。﹂
と首くびをねぢつて、腰こしをふりつゝ去さつた。
此これでまた、汽きし車や半はん分ぶん、否いな、室しつ一つ我わればかりを残のこして、樺から太ふとまで引ひつ攫さらはれるやうな気きがしたのである。
﹁狂きち人がひだと思おもふんだ。﹂
げそりと、胸むねをけづられたやうに思おもつた。
﹁勝かつ手てにしろ。﹂
自や棄けに投なげる足あしも、しかし、すぼまつて、園そのは寒さむいよりも悚ぞ気つとした。
しかしながら……此これを見みれば気きも狂くるはう。死しんだやうな夜や気きのなかに、凝こつて、ひとり活いきて、卯うの花はなをかけた友いう染ぜんは、被かつ衣ぎをもるゝ袖そでに似にて、ひら〳〵と青あをく、其その紫むらさきに、芍しや薬くやくか、牡ぼた丹んか、包つゝまれた銀しろがねの鍋なべも、チチと沸わくのが氷こほりの裂さけるやうに響ひゞいて、ふきこぼるゝ泡あはは卯うの花はなを乱みだした。