一
朝あさ霧ぎりがうすらいでくる。庭の槐えんじゅからかすかに日光がもれる。主しゅ人じんは巻まきたばこをくゆらしながら、障しょ子うじをあけ放はなして庭をながめている。槐えんじゅの下の大きな水みず鉢ばちには、すいれんが水すい面めんにすきまもないくらい、丸まるい葉はを浮うけて花が一輪りん咲さいてる。うす紅くれないというよりは、そのうす紅くれない色が、いっそう細こまかに溶よう解かいして、ただうすら赤いにおいといったような淡あわあわしい花である。主人は、花に見とれてうつつなくながめいっている。 庭の木き戸どをおして細さい君くんが顔をだした。細君は年とし三十五、六、色の浅あさ黒ぐろい、顔がまえのしっかりとした、気むつかしそうな人である。 ﹁ねいあなた、大おお島じまの若わか衆しゅうが乳ちちしぼりをつれてきてくれましたがね﹂ こういって、細さい君くんは庭にはいってくる。主しゅ人じんはゆるやかに細君に目をくれたが、たちまちけわしい声でどなった。 ﹁そんなひよりげたで庭へはいっちゃいかん、雨あがりの庭をふみくずしてしまうじゃないか。どうも無ぶさ作ほ法うなやつじゃなあ、こら、いかんというに……﹂ 主人のどなりと細君の足とはほとんど並へい行こうしたので、主人は舌したうちして細君をながめたが、細君は、主人の小こご言とに顔の色も動うごかさず、あえてまたいいわけもいわない。ただにわかに足をうかすようなあるきかたをして縁えん先さきへきてしまった。 げたのあとは、ずいぶん目だって庭に傷きずつけたけれど、主人はふたたび小こご言とはいわなかった。主人は、平へい生ぜい自分の神しん経けい過かび敏んから、らちもないことに腹はらをたてることを、自分の損そんだと考えてる人である。いま細君にたいする小こご言とのしりを結むすばずにしまったことを、ふとおのれに勝かちえたように思いついて、すいれんのことも忘わすれ、庭を損そんじたことも忘れて、笑えが顔おを細君にむけた。 細君は下げじ女ょをよんで、自分のひよりげたを駒こまげたにとりかえさして、縁えん端ばたへ腰こしをかけた。そうしてげたのあとを消けしてくれ、と下女に命めいじた。 細君は、主人からある場ばあ合いになにほどどなられても、たいていのことでは腹はらをたてたり、反はん抗こうしたりせぬ。それはあながち主しゅ人じんの小こご言とになれたからというのでもなく、主人を恐おそれないからというのでもない。細君は主人の小言を根ねのある小言か根のない小言かを、よく直ちょ覚っか的くてきに判はん断だんして、根のない小言と思ったときは、なんといわれたってけっして主人にさからうようなことはせぬ。 主人は細君をそれほど重おもんじてはいないが、ただ以いじ上ょうの点てんをおおいに敬けいしている。 ﹁おまえは、とくな性しょうだ﹂ とほめてる。細君も笑って、 ﹁とくな性しょうではありませんよ、はじめから損そんをあきらめてるから、とくのように見えるのでしょう﹂という。 世せけ間んには、ちょっとしたはずみで夫おっとから打うたれても、それをいっこう心にもとめず、打たれたあとからすぐ夫と仲なかよく話をする女がいくらもあるから、これは女じょ性せいの特とく有ゆう性せいかもしれぬ。妻つまなどはそれをすこしうまく発はっ達たつしたものであろうと、主人は考えている。 そう考えてみると、自分が妻にたいしてわずかのことに大声たててどなるのは、いささかきまりがわるくなる。それで近きん来らい主人は、ある場ばあ合いにどなることはどなっても、きょうのようにしりを結むすばぬことがおおいのだ。 乳ちちしぼりというのは、五十ばかりの赤あから顔がおな、がんじょうな、人に会あってもただ頭をたてにすこし動かすだけで、めったに口をきかない。それでどうかすると大きな茶ちゃ目めを見はって人を見る。たいていの女であったら、気き味みわるがって顔をそむけそうな、すこぶる人ひと好ずきのわるい男だ。 つれてきた若わか衆しゅうの話によると、乳ちちしぼりは非ひじ常ょうにじょうずで朝おきるにも、とけいさえまかしておけば、一年にも二年にも一ひと朝あさ時間をたがえるようなことはない。ただすこし頭の調ちょ子うしが人なみでないから、どうもこれまで一か所しょに長くいられなかったが、ご主しゅ人じんのほうで、すこしその気きし質つをのみこんでいて使ってくだされば、それはそれはりっぱな乳しぼりだ、こちらのだんなならきっとうまく使ってくださるにちがいない、本ほん人にんもそういってあがったというのであった。 細さい君くんは、こうひととおり話しおわってから、 ﹁わたしはどうも、あまり好このましくないけれど、乳ちちしぼりもなくてはじつにこまるから、おいてみましょうねえ﹂ とつけくわえた。主人も聞いてみると、すこしはうわさに聞いたことのある、花はな前まえという男だ。変へん人じんで手におえないとも、じつはかわいそうな人間だともいわれて、府ふ下かの牛ぎゅ乳うに屋ゅうやをわたっていた乳ちちしぼりである。主人はしばらく考えたのち、 ﹁それはうわさに聞いたことのある変へん人じんの乳ちちしぼりだ。朝おきるのがたしかで乳しぼりがじょうずなら、使ってみようじゃねいか。うまくいかぬことがあったら、それはそのときのこととして、とにかくおいてみるさ﹂ 細さい君くんも不ふあ安んなりに同どう意いして、その乳しぼりをおいてやることになった。牛ぎゅ舎うしゃのほうでは親おや牛うしと子こう牛しとを引ひき分わけて運うん動どう場じょうにだしたから、親牛も子牛もともによびあって鳴ないてる。二、三日ぶり外そとへだされた乳にゅ牛うぎゅうは、よろこんでしきりに運動場をとびまわる。 洗せん濯たく物ものに気をとられてる細君の目には、雨あがりのうるおった庭のおもむきも、すいれんのうるわしい花もいっこう問題にはならない。 ﹁それじゃそう﹂ との一言ごんをのこして、また木き戸どから細君はでていった。二
昼ひる乳ちちをしぼる刻こく限げんになった。女が若わか衆しゅうをおこす。細君は花はな前まえにひととおりのさしずをしてくださいというてきた。ほかのふたりの若わかいものは運動場の乳にゅ牛うぎゅうを入れにかかる。はり板いたをふみたてる牛の足音がバタバタ混こん合ごうして聞こえる。主人も牛ぎゅ舎うしゃへでた。乳にゅ牛うぎゅうはそれぞれ馬ま塞せにはいって、ひとりは掃そう除じにかかる、ひとりは飼かい葉ばにかかる。主人はここではじめて花前に会あった。 五十になってもしりのおちつかない、落おちぶれはてた花前は、さだめてそぼろなふうをしているかと思いのほか、髪かみをみじかく刈かり、ひげをきれいにそって、ズボンにチョッキもややあかぬけのしたのを着きてる。白いシャツをひじまでまくり、天てん竺じくもめんのまっ白い前まえ掛かけして、かいがいしい身みごしらえだ。 主人はまずそれがおおいに気持ちよかった。花前は主人に対たいしても、ただ例れいのごとくちょっと頭をさげたばかりである。かえって主人のほうからしたしくことばをかけた。 ﹁花はな前まえ、おまえのうわさはちょいちょい聞きいていたよ、こんどよくきてくれた、なにぶん頼たのむぞ﹂ 花はな前まえは、はいともいわない、わずかに目であいさつしてる。主人は家の習しゅ慣うかんとだいたいの順じゅ序んじょとをつげて、これだけの仕しご事とはおまえにまかせるからと命めいじた。 花前は、耳で合がて点んしたともいうべきふうをして仕しご事とにかかる。片かた手てにしぼりバケツと腰こし掛かけとを持ち、片かた手てに乳ちぶ房さを洗あらうべき湯ゆをくんで、じきにしぼりにかかる。花前もここでは、 ﹁どれとどれをしぼるのですか﹂ と主人に聞いた。 主人はこれとこれとと、つぎつぎ数かぞえてつごう十余よと頭うが乳ちちのでるのだ。それからこの西にし側がわから三つめの黒白まだらが足をあげるから、飼かい葉ばをやっておいて、しぼらねばいかぬとつげる。花前はそういう下から、すぐはじめの赤牛からしぼりにかかった。花前の乳しぼる姿しせ勢いははなはだ気にいった。 左の足を乳にゅ牛うぎゅうの胸むねあたりまでさし入れ、かぎの手に折おった右足のひざにバケツを持たせて、肩かたを乳にゅ牛うぎゅうのわき腹ばらにつけ、手も動かずからだも動かず、乳にゅ汁うじゅうは滝たきのようにバケツにほとばしる。五分間ばかりで四升しょうあまりの乳をしぼった。しぼった乳ちちは、高くもりあがったあわが雪のように白く、毛のさきほどのほこりもない。主人はおぼえずみごとな腕うで前まえだと嘆たん称しょうした。 乳を受うけ取とって濾こしにかけた細君も、きれの上にほこりがないのにおどろいて、 ﹁なるほど、花前はしぼるのがじょうずだ﹂ と主人のところへ顔をだしてほめる。 花前は色いろも動きはしない。もとより一言ごんものをいうのでない。主しゅ人じんや細さい君くんとはなんらの交こう渉しょうもないふうで、つぎの黒白まだらの牛にかかった。主人は兼かね吉きちをよんで、いましぼるからこの牛に飼かい葉ばをやれと命めいじた。花はな前まえはしぼりバケツを左に持ちながら、右手で乳にゅ牛うぎゅうの肩かたのへんをなでて、バアバアとやさしく二、三度ど声をかける。 乳牛はすこしがたがた四肢しを動かしたが、飼い葉をえて一心しんに食くいはじめる。花前は、いささか戒かい心しんの態たい度どをとってしぼりはじめた。じゅうぶん心ここ得ろえている花前は、なんの苦くもなくはね牛の乳をしぼってしまった。主人は安あん心しんすると同どう時じに、つくづく花前の容よう貌ぼう風ふう采さいを注ちゅ視うしして、一種の感じを禁きんじえなかった。 その毅きぜ然んとして、なにかかたく信ずるところあるがごとき花前は、その技わざにおいてもじつに神かみに達たっしている。しかるにもかかわらず、人に使われてるのみならず、おちついて使われている主人をすらえられないかと思うと、そこに大だいなる矛むじ盾ゅんを思わぬわけにいかない。 見るところ、花前は、ほとんど口をきく必ひつ要ようのないまで、自分の思うとおりを直ちょ行っこうするほか、なんの考えるところもないらしい。こう思うと、われわれの平へい生ぜいは、ただ方ほう便べんを主しゅとすることばかりおおくて、かえってこの花前に気き恥はずかしいような感じもする。 花前はかえって人のいつわりおおきにあきれて、ほとんど世せじ人んを眼がん中ちゅうにおかなく、心しん中ちゅうに自分らをまで侮ぶべ蔑つしつくしてるのじゃないかとも思われる。さりとてまた、五十になる身みを人にたくして、とんと人と交こう渉しょうしえない、世にもあわれな人間とも思われる。 主人が妄もう想そうに落おちて、いたずらに立てるあいだに、花前は二頭とう三頭とちゃくちゃくしぼり進すすむ。かれは毅きぜ然んたる態たい度どでそのなすべきことをなしつつある。花前は一面めんあわれむべき人間には相そう違いないが、主人も花前を見るにつけ、みずからかえりみると、確かく信しんなきわが生活の、精せい神しん上じょうにその日ひ暮ぐらしである恥はずかしさをうち消すことができなかった。 ﹁だんな、くそがはねますよ、すこしどうかこっちへきてください﹂ そういう兼かね吉きちは、もはや飼かい葉ばをすませて、おぼれ板いたの掃そう除じにかかったのだ。うまやぼうきに力を入れ、糞ふん尿にょう相あい混こんじた汚おぶ物つを下へ下へとはきおろしてきたのである。 ﹁湯ゆが煮にたったから、ふすまをかいておくれ、兼かね吉きち﹂ 流ながし場ばから細君の声で兼吉はほうきをおいて走っていく。五郎はまぐさをいっせいに乳牛にふりまく。十七、八頭の乳牛は一時じに騒そう然ぜんとして草をあらそいはむ。そのあいだにも花前はすこしでも、わが行こう為いの緊きん張ちょうをゆるめない。やがて主人は奥おくに客きゃくがあるというので牛ぎゅ舎うしゃをでた。三
その夜の晩ばん餐さんのときに、細君はそろそろこぼしはじめた。 ﹁ねいあなた、人なみでないっち話ではあったけれど、よほど人なみでないようですねい、主人からものをいわれても、なるべくは返へん事じもしたくないというふうですからねえ、あれでどうでしょうかねえ﹂ ﹁うむ、変へん人じんだと承しょ知うちでおいてみるのだから、いまからこぼすのはまだ早い、とにかく十日かか二十日も使ってみんことにはわかりゃせんじゃないか﹂ ﹁そりゃそうですけれど﹂ ﹁えいさ、変へん人じんのなりがわかりさえすりゃ、その変人なりに使ってやる道があるだろう﹂ 話もそれでおわりになったが、主しゅ人じんはこの花はな前まえのことについて考えることに興きょ味うみを持もってきた。その夜もいろいろと考えた。 かれははじめから変人ではなかったろう。かれがあんなになるについては、かならず容よう易いならぬ経けい歴れきがあったにちがいない。それがわかれば、いっそうかれが今こん日にちの状じょ態うたいに興きょ味うみがふかいだろうけれど、わからぬものはしかたがないとして、きょう見ただけでもかれは興きょ味うみある変人だ。かれが顔色とかれが風ふう采さいとに見るもかれがはじめから狂きょ愚うぐでないことはわかる。 かれが行こう動どうの確かく信しんあるがごとくにして、その確かく信しんの底そこがぬけているところ、かれが変人たるゆえんではあるが、しかしながらかれは確かく信しんという自じか覚くがあるかどうか、確信の自覚がないのに底ぬけを気づくべきはずのないのはあたりまえだ。おそらくかれには確信という意いし識きはないにちがいない。確信も意識もないにしても、かれの実じつ行こう動どうは緊きん張ちょうした精神をもって毅きぜ然んち直ょっ行こうしている。その脈みゃ絡くらくのていどや統とう一いつの範はん囲いは、もうすこしたってみねばわからぬが、とにかく一部ぶの脈みゃ絡くらくと統とう一いつとはじゅうぶんみとめることができる。みょうな変人があったものだ。 なにひとつ人にすぐれたことのない人にん間げんからみると、ああいう人間のほうがたしかにおもしろい。あまりよく他たと調ちょ和うわする人間にろくなやつはないけれど、そのろくでもないやつのほうが、この世の中ではたいてい幸こう福ふくであるのがおかしい。 自分と花はな前まえとをくらべて考えるとおもしろい対たい照しょうができる。われわれは問題の大小を識しき別べつして、いつでも小問題をごまかしているが、花前は問題の大小などいう考えがはじめからなくて、なにごともごまかすことが絶ぜっ対たいにできない。であるからわれわれは、近い左さゆ右うぜ前ん後ごはいつでもあいまいであるけれど、遠い前後と広ひろい周しゅ囲ういには、やや脈みゃ絡くらくと統とう一いつがある。花前になると、それが反はん対たいになって、近い左さゆ右うぜ前ん後ごはいつでも明めい瞭りょうであって、遠い前後や広い周しゅ囲ういはまるで暗くらやみである。 まずちょっとこんなふうに差さべ別つされるようだが、近い周囲をあいまいにして世よに処しょするということが、けっしてほこるべきことではなかろう。結けっ局きょく主人は、花前に学まなぶところがおおいなと考えた。 そのよく朝であった。細さい君くんはたばこ盆ぼんに長いきせるを持ちそえて、主人の居い間まにはいってきた。 ﹁花前は保ほし証ょう人にんがあるでしょうか、なんでも大おお島じまの若わか衆しゅうの話では、親しん類るいも身みう内ちもないひとりものだということですから、保証人はないかもしれませんよ﹂ ﹁うむ﹂ ﹁金きん銭せんに関かん係けいしないから、そのほうはなんですけれど、病気にでもかかったらこまりゃしませんかねえ﹂ ﹁そうさな、保ほし証ょう人にんのあるにましたことはないが……じゃちょっと花はな前まえをよんでみろ﹂ 細さい君くんは下げじ女ょに命めいじて花前をよばせる。まもなくかれはズボンチョッキのこざっぱりしたふうで唐から紙かみの外そとへすわった。例れいのごとく軽かるく黙もく礼れいしただけで、もとよりものをいわずよそ見をしている。花前の顔色には不ふあ安んもなければ安あん心しんもない。主人は無むい意し職きに色をやわらげてことば軽かるく、 ﹁花前、おまえ保ほし証ょう人にんはあるかね﹂ ﹁ありません﹂ 花前は、よどみなく決けつ然ぜんと答えて平へい気きでいる。話のしりを結むすばないことになれてる主人も、ただありませんと聞いたばかりではこまった。なみのものであれば、すぐにそれでおまえどうする気かと問といかえすにきまってるけれど、変へん人じんをみとめている花前にそういってもしかたがないから、 ﹁うん、そうか﹂ といったまま、しばらく黙もくしている。細君はじれ気ぎ味みに、 ﹁おまえずいぶん長いあいだ東京にいるというに、懇こん意いの人もないのかね﹂ 花前はちょっと目を細君にむけたが、くちびるは動かない。これは細君の問といがおかしいのだ。変人でとおった人間に懇こん意いな人があるかでもあるまい。主人はしかたがなく、 ﹁まあえいや、そんなことあとの話にしよう、えいや花前﹂ ﹁保証人がなくていけなければ帰かえります﹂ ﹁いや、帰られてはこまる、えいから花前やってくれや、じゃこうしよう、おれが保証人になることにしよう、だからやってくれや﹂ 細君は、目をぱちつかせて主人の顔を見る。 主人は目で細君を制せいす。勝かっ手てで子どもが泣なきたったので細君は去さった。花前もつづいて立ちかけたのをふたたび座ざになおって、 ﹁この国で生うまれた人間ですから、つまりはこの国のやっかいになってもしかたありません﹂ 主人はきっと花前を見おろした。果かぜ然ん、花前にはなにか信しん念ねんがあるなと思った。それでさらにおだやかに、 ﹁そうだとも、それでおまえの精せい神しんはわかった、それで、おれがおまえの保証人になるから、おまえ安心してやってくれ、まだ昼ひる乳ちちまでにはすこし休やすむまがあるから休んでくれ﹂ こういわれて花前は、それに答こたうることばなく立った。花前は保証人になる人がないのではないらしい。自分のようなものは、いよいよ働けなくなれば、個こじ人んが世せ話わするよりは国こっ家かが世話すべきだと思ってるらしい。それならば考えのすじはたっていると主人は思った。主人はうしろ姿すがたを見みお送くって、この変人いよいよおもしろいなと思った。四
それから五、六日たった。花前の働きぶりはほとんど水すい車しゃの回かい転てんとちがわない。時じか間んの順じゅ序んじょといい、仕しご事との進しん行こうといい、いかにも機きか械いて的きである。余よぶ分んなことはすこしもしないかわりに、なすべきことはちょっとのゆるみもない。細君はやや安心して、結けっ局きょくよい乳しぼりだと思った。 ところが花はな前まえの評ひょ判うばんは、若わか衆しゅうのほうからも台だい所どころのほうからもさかんにおこった。花前は、いままでに一度どもふたりの朋ほう輩ばいと口をきかない。自分は一分ぷんもちがわず時間どおりにおきるが、けっして朋ほう輩ばいをおこさない。それでいまだに一度も笑わらったこともない。したがって人がどんなことしようと、それにいっこう頓とん着ちゃくもせぬ。自分は自分だけのことをして、さっさとあがってしまう。 そうかといって、花前さんちょっとこれこれしてくれといえば、それにさからいもしない。自分のからだにだけは非ひじ常ょうに潔けっ癖ぺきであって、シャツとか前まえ掛かけとかいうものは毎日洗あらっている。 主しゅ人じんは笑って、それだけのことならばしごくけっこうじゃないかという。 台所のうわさはまたおもしろい。下げじ女ょはだいいちに花前さんはえい人だという。変へん人じんだといってばかにするのはかわいそうだという。ご飯はんだといわなければ、けっして食くいにこない。 一日二日まえ、下女がうっかりしてよぶのを忘わすれたら、ついに飯めしを食くいにこなかった。若わか衆しゅうはすましたことと思ってさそわなかったとか。下女が夜おそくふと気づいて、聞きにいったら、まだ食わなかったそうで、それから食いにきた。 下女はとんだことをしたと悔くやんでいた。花前が食しょ事くじも水すい車しゃ的てきでいつもおなじような順じゅ序んじょをとる。自分のときめた飯めし椀わんと汁しる椀わんとは、かならず番ばんごと自分で洗って飯を食たべる。白いふきんと象ぞう牙げのはしとをだいじに持っておって、それは人に手をつけさせない。この象ぞう牙げのはしにはだれもおどろいてる。ややたいらめな質しつのもっとも優ゆう等とうな象ぞう牙げで、金きん蒔まき絵えがしてある。細さい君くんなどは見たこともないものだといっている。下女の話によると、下女が花前さんのおはしはじつにりっぱなものですねえ、なにかいわくのありそうなはしじゃありませんかというと、しろりと笑うそうだ。 下女は花前さんを笑わせるにゃ、はしをほめるにかぎるといって笑っている。 しかし細君や子どもたちは、変へん人じんとはいえ、花前がいかにもきちんとした顔をしているので、いたずら半はん分ぶんにはしのことを問とうてみるようなことは得えしない。細君はどういうものか、いまだに花前を気き味みわるくばかり思って、かわいそうという心ここ持ろもちになれぬらしい。 主人は以いじ上ょうの話を総そう合ごうしてみて、残ざん酷こくな悲ひさ惨んな印いん象しょうを自分の脳のう裏りに禁きんじえない。精せい神しん病びょ者うしゃに相そう違いないけれど、花はな前まえが人間ちゅうの廃はい物ぶつでないことは、畜ちく牛ぎゅういっさいのことを弁べんじて、ほとんどさしつかえなきのみならず、ある点てんには、なみの人のおよばぬことをしている。いつかのように、この国で生うまれた人間ですからというような調ちょ子うしに、人じん世せい上じょうのことになんらか考えてやしまいか。人じん世せい問もん題だいになんらかの考えがあって、いまの境きょ遇うぐうにありとせば、いよいよ悲ひさ惨んな運うん命めいである。 こう考える主人は、ときどきそれとなく奥おくへ招まねいで茶ちゃ菓かなどをあたえ、種しゅ々じゅ会かい話わをこころみるけれど、かれが心しん面めんになんらのひびきを見いだしえない。なにを問とうても、かれは、はあというきりで、なんらの語ごもつづらない。主人は百ひゃ方っぽう意いをつくして、この国で生まれた人間ですからというような糸いと口ぐちを引きだそうとこころみたが、いつでも失しっ敗ぱいにおわった。かれは主人に対たいしたときにも、ときをきらわず立ってしまう。 あるときはその象ぞう牙げのはしから話しかけてみると、なるほど下女のいうごとく、かれががんじょうな顔にしろりと笑わらいを動うごかした。しかしこれも笑わろうたきりで、それ以いじ上ょうには、なんの話もせぬ。依いぜ然んたる前後の暗あん黒こくであった。 そのように花前は、絶ぜっ対たいにほかに交こう渉しょうしえないけれど、周しゅ囲ういはしだいにその変へん人じんをのみこみ、変人になれて、石せっ塊かいを綿わたにつつんだごとく、無むこ交うし渉ょうなりに交こう渉しょうができている。かくて数すう月げつをぶじにすごした。五
人との交渉には、感かん情じょ絶うぜ無つむな花前も、ふしぎと牛はだいじにする。愛あいしてだいじにするのか、運動の習しゅ慣うかんでだいじにするのか、いささか分ぶん明めいを欠かくのだが、とにかく牛をだいじにすることはひととおりでない。それに規きそ則くて的きにしかも仕しご事とは熟じゅ練くれんしてるから、花はな前まえがきてから二か月にして、牛ぎゅ舎うしゃは一変ぺんした観かんがある、主しゅ人じんはもはやじゅうぶんに花前の変人なりをのみこんでるから、すべてつごうよくはこぶのであった。 水すい車しゃの運動はことなき平へい生ぜいには、きわめて円えん滑かつにゆくけれど、なにかすこしでも輪わの回かい転てんにふれるものがあると、いささかの故こし障ょうが全ぜん部ぶの働きをやぶるのである。 主人は読どく書しょにあいて庭に運動した。秋草もまったく朽くちつくして、わずかにけいとうと野のぎ菊くの花がのこっているばかりである。主人は熱ねっした頭を冷れい気きにさらしてしばらくたたずんでおった。露つゆ霜しもに痛いためられて、さびにさびたのこりの草花に、いいがたきあわれを感じて、主人はなんとなし悲かなしくなった。 こういうときには、みょうにものに驚おどろきやすい、主人は耳をそばだてて、牛ぎゅ舎うしゃに荒あらあらしきののしりの声を聞きつけた。やがて細さい君くんも木き戸どへ顔をだして、きてくれという。いってみると、兼かね吉きちと五ごろ郎うがふたりして、花前を引ひきたてて牛ぎゅ舎うしゃからでるところであった。 花前は、ややもすればふたりをはらいのけようとする。ふたりは、ひっしと花前の両手を片かた手てずつとらえて離はなさない。ふたりはとうとう花前を主人のまえに引きすえて訴うったえる。兼かね吉きちは、 ﹁わし、この気ちがいに打うたれました、なぐり返かえそうと思っても、ひとりではとてもこの野やろ郎うにかないません、五ごろ郎うさんがおさえてくれなきゃ……わし、こんな気ちがいといっしょにいるのはいやですから、ひまをいただきます﹂ ﹁この若わかいものが、牛をたたいたから打ちました﹂ ﹁わし、牛を打ったのではありません……﹂ 主しゅ人じんは、まあまあとことばしずかにふたりを制せいした。秋のゆくというさびしいこのごろ、無むふ分んべ別つな若ものと気ちがいとのあらそいである。主人はおぼえず身みぶるいをした。花はな前まえは平へい然ぜんたるもので、 ﹁牛をたたくという法ほうはない﹂ こう語ごせ勢い強くいったきり、ふたたび口を開ひらかぬ。ふたりはしきりに気ちがいなどに打たれたりなんかされて、とてもいられないとわめく。 話をまとめてみると、兼かね吉きちが尿にょ板うばんのうしろを通とおろうとすると、一頭とうの牛がうしろへさがって立ってるので通れないから、ただ平ひら手てで軽かるく牛のしりを打ったまでなのを、牛をだいじにする花前は、兼吉がらんぼうに牛をたたいたとおこったらしい。それで例れいの無むご言んで、不ふ意いにうしろから兼吉にげんこをくれた。 兼吉は、腕わん力りょくでは花前によりつけないから、五郎に加かせ勢いを頼たのんだのだ。事じじ実つは兼吉が牛をたたいたのかもしれないが、ふたりのいい状じょうはそうであった。ふたりに同どう時じに去さられてもこまるから、主人はふたりを庭にわへつれこんだ。 ﹁そうだ……気ちがいだから、おれに免めんじておまえたちもがまんしてくれ、おれがあやまり賃ちんはだすから、花前も気ちがいながら、牛をだいじにしてからの思いちがいであってみるとかわいそうなところがある、だからおれがあやまる、これからおまえたちはふたりで仲なか間まになっていて、花はな前まえは相あい手てにせぬようにしていたらえいじゃないか、これで一ぱいやってがまんしてくれるさ、えいか﹂ 兼けん吉きちも五ごろ郎うも主人に、おれがあやまるからといわれては口はあけない。酒さか代だい一枚まいでかれらはむぞうさにきげんを直なおした。水車の回かい転てんも止とめずにすんだ。生せい業ぎょうということにかかわっていれば、らちもないことにも怖おじ驚おどろくばかばかしさを主人はふかく感じた。細さい君くんもでてきて、 ﹁わたしほんとにおどろきました、あのけたたましい声ったらないですもの、気ちがいがどんなことをしたかと思って……ああそうでしたか、まあよかった、それにしても花前はなんだかわたし、気き味みがわるくて……﹂ 主人は細君のことばを打うち消けして、 ﹁花前の気ちがいぶりもわかってるのだから、すこしも気き味みのわるいことはないよ、こんどのことはどっちがどうだかわかりゃしない、乳ちちしぼりが牛をだいじにするというのだから、たとえまちがっても憎にくくはないじゃないか﹂ 細君は、 ﹁そりゃそうですがねい﹂ とまだふにおちかねたが、主人は、 ﹁あんなにいかいかしいふうをしておっても、しりのぬけてるのが、かわいそうに見えないか、ふびんをかけてやれ﹂ というのであった。細君の去さったあとで、主人は、おもしろいということのない花前がおこったというのはおかしいなと考えたけれど、その理りゆ由うは解かい釈しゃくがつかなかった。 はじめて花はな前まえに笑わせた下げじ女ょは、おせっかいにも花前にぜひ象ぞう牙げのはしの話をさせるといって、いろいろしんせつに世せ語わをしたり、話をしかけたりしたけれど、しろりと笑わらわせるのが精せい一ぱいで、それ以いじ上ょうにはなにごとをもえられなかった。もう根こんがつきたと下女は笑ってる。 かくて水すい車しゃはますますぶじに回かい転てんしいくうち、意いが外いな滑こっ稽けい劇げきが一家かを笑わせ、石せっ塊かいのごとき花前も漸ぜん次じにこの家になずんでくる。 ある日、主人のるすの日であった。警けい視しち庁ょうの技ぎ師しが、ふいに牛ぎゅ舎うしゃの検けん分ぶんにきた。いきなり牛舎のまえに車にのりこんできて、すこぶる権けん柄ぺいに主人はいるかとどなった。 兼かね吉きちと五ごろ郎うは洗あらいものをしている。花はな前まえが例れいの毅きぜ然んたる態たい度どで技ぎ師し先生のまえにでた。技師はむろん主人と見たので、いささかていねいに用むきを談だんずる。 花前はときどき頭あたまを動かすだけで一言ごんもものをいわない。技師先生心しん中ちゅう非常に激げっ高こう、なお二言三言、いっそう権けん柄ぺいに命めい令れいしたけれど、花前のことだから冷れい然ぜんとして相あい手てにならない。技師は激げきしているから花前の花前たるところにいっこう気がつかない。技師はたまりかねたか、ここでは話ができないといって玄げん関かんへまわった。あらたまってその無ぶれ礼いを詰きっ責せきするつもりであったらしい。 玄関では細さい君くんがでて、ねんごろに主人の不ふざ在いなことをいうて、たばこ盆ぼんなどをだした。技師もここで花前の花前たることを聞き、おおいにきまりわるくなって、むつかしい顔のしまつに究きゅうしたまま逃にげ去さった。夜、主人が帰ってから一家かくずるるばかり大笑いをやった。兼かね吉きちと五ごろ郎うは、かわりがわり技師と花前との身みぶりをやって人を笑わせた。細君が花前を気き味みわるがるのも、まったくそのころから消きえた。六
年が暮くれて春がき、夏がきてまた秋がきた。花はな前まえもここに早はや一年おってしまった。この間かん、花前の一身しん上じょうには、なんらの変へん化かもみとめえなかった。ただ考かんがえ性しょうな主人の頭には、花前のように、きのうときょうとの連れん絡らくもなく、もちろんきょうとあすとの連絡もない。まして一年とかひと月とかいう時間の意い味みのありようもなく、かれは生いきるために働はたらくのでなく、生きているから働くというような生活、きょうというほかに時間の考えはなく、自分というほかに人じん生せいの考えはない。いやきょうということも自分ということも意いし識きしていやしない。 してみると、かれに義ぎ務む責せき任にんなどいう考えのありようもなければ、きゅうくつも心配も不安もないわけだ。明るいところに魔まの住すまないごとく、花前のような生活には虚きょ偽ぎ罪ざい悪あくなどいうものの宿やどりようがない。大だい悟ごて徹って底いというのがそれか。絶ぜっ対たい的てき安あん心しんというのがそれか。むかしは、宰さい相しょうを辞じして人のために園えんにそそいだという話があるが、花前はそれに比ひすべき感がある。 主人はまたこう考えた。かえりみて自分の生活をみると、じつになさけないとらわれの身みである。わずかに手を動うごかすにも足を動かすにも、あとさきを考えねばならぬ。かりそめにものをいうにも、人の顔かお色いろを見ねばならぬ。前ぜん後ごさ左ゆ右うに係けい累るい者しゃはまといついてる。なにをひとつするにも、自分のみを標ひょ準うじゅんとして動くことはできぬ。とうてい社しゃ会かい組そし織き上の一分ぶん子しであるから、いかなる場ばあ合いにも絶ぜっ対たい単たん独どくの行こう動どうはゆるされない。 それでつまりよいかげんなことばかりをやって、まにあわせのことばかりいっておらねばならぬ。それというのも、義ぎ務むとか責せき任にんとかいうことを、まじめに正しょ直うじきに考えておったらば、実じっ際さい人間の立たつ瀬せはない。手足を縛ばくして水すい中ちゅうにおかれたとなんの変かわるところもない。 このせつない覊きは絆んを脱だっして、すこしでもかってなことをやるとなったらば、人間の仲なか間ま入りもできない罪ざい悪あく者しゃとならねばならぬ。考えれば考えるほどばかげているけれども、それをどうすることもできないのがわれわれの生せい活かつ状じょ態うたいである。 こう思うと自分がどれだけ花はな前まえに勝まさっているか、いよいよわからなくなる。むしろどうか一度どでもよいから花前のような生活がしてみたくなってくる。 要ようするに、自分を強つよく意いし識きするのがわるいのだ。自分を強く意いし識きするから、世の中がきゅうくつになる。主人はこんな結けつ論ろんをこしらえてみたけれど、すぐあとからあやふやになってしまった。自分と花前との差さべ別つはどう考えても、意いし識きがあるのとないのとのほかない。自分に意識がなければ自分はこのままでもすぐ花前になることができるとすれば、花前はけっしてうらやむべきでないのだ。 大だい悟ごて徹って底いと花前とは有ゆうと無むとの差さである。花前は大だい悟ごて徹って底いの形かたちであって心こころではなかった。主しゅ人じんはようやく結けつ論ろんをえたのであった。主人はこの結論をえたにかかわらず、さらば自分の生活にどれだけの価か値ちがあるかと思うてみて、やはりわけがわからなくなった。花前と大だい悟ごて徹って底いとは、裏うら表おもてであるが、自分と大悟徹底とは千葉と東京との差さであるように思われた。 ここ一、二年水すい害がいをまぬがれた庭は、去きょ年ねんより秋草がさかんである。花のさかりには、まだしばらくまがありそうだ。主人はけさも朝ちょ涼うりょうに庭を散さん歩ぽする。すいれんの花を見て、去年花前がきたのも秋であったことを思いだす。この日、主人は細君より花前の上について意いが外いな消しょ息うそくを聞いた。 花前は、けさ民たみ子こをだいてしばらくあるいておった。細君はもちろん、若わか衆しゅうをはじめ下げじ女ょまでいっせいにふしぎがったとの話である。それは実じっ際さいふしぎに相そう違いない。これまでの花前にして、子どもをだいてみるなぞは、どうしても破はて天んこ荒うなできごとといわねばならぬ。 下女の話によると、タアちゃんはこれまでもときどき、花前、花前といって花前のところへいき、花前もタアちゃんの持っていったお菓か子しを食たべたようすであったという。主人はこの話を非ひじ常ょうな興きょ味うみをもって聞いた。今こん後ご花前の上になんらかの変へん化かをきたすこともやと思わないわけにはいかなかった。 その後ご自分も注ちゅ意ういし家のものの話にも注意してみると、花前はかならず一度ぐらいずつ民子をだいてみる。民たみ子こもますます花はな前まえ、花前といってへやへ遊あそびにゆく。花前は、ついに自分で菓か子しなど買こうてきて、民子にやるようになった。ときにはさびしい笑わらいようをして、タアちゃんと一言ことくらいよぶのであった。そう思って見ると、花前の毅きぜ然んとした顔つきが、このごろは、いくらかやわらいできたようにも見える。若わか衆しゅうの話では、花前は近ちかごろ元気がおとろえたようだという。それでもその水すい車しゃ的てき運うん動どうにはまだすこしも変かわるところはなかった。 それからひと月ばかり花前の新しん傾けい向こうはさしたる発はっ展てんもなく秋もようやく涼すずしくなった。七
花前の友ゆう人じんという人が、とつぜんたずねてきて、花前の身みぶ分んがようやく明らかになった。
友人というのは、某ぼう会かい社しゃの理り事じ安あん藤どう某ぼうという名めい刺しをだして、年ごろ四十五、六、洋よう服ふくの風ふう采さい堂どうどうとしたる紳しん士しであった。主人は懇こん切せつに奥おくに招しょうじて、花前の一身しんにつき、問といもし語かたりもした。
安藤は話はなしの口があくと、まず自分が一年まえに会あったときと、きょう会った花前はよほど変かわっている。自分は十代だいから花前と懇こん意いであって、花前にはひとかたならず世せ話わにもなったが、自分も花前のためにはそうとう以いじ上ょうにつくした。いまのような境きょ遇うぐうになって、だれひとりおとのうてなぐさめるものもないうちに、自分だけはたえず見み舞もうておった。
その自分に対たいして、去きょ年ねん会おうたときには、某ぼう牛ぎゅ舎うしゃに寝ねておって、うん安あん藤どうかといったきり、おきもしなかった。それがきょうは、意いが外いに自分を見るとうれしそうに立ちあがって、よくきてくれたといった。じつは自分は花前はもうだめとあきらめていたところ、きょうのようすでは精せい神しんの状じょ態うたいが、たしかにすこしよくなってる。この家へきたときからこのくらいか、あるいはいつごろから調ちょ子うしがよくなったかと問とうのであった。安藤は真しんの花前の友ともである。
主人は花前が近きん来らいの変へん化かのありのままを語かたったのち、今こん後ごあるいは意いが外いの回かい復ふくをみるかもしれぬと注意した。安藤はもちろん見み込こみがありさえすれば、すぐにも自分が引ひき取とって治ちり療ょうをこころみんとの決けっ心しんを語り、つづいて花前の不ふこ幸うなりし十年まえの経けい歴れきを語かたった。
花前は麻あざ布ぶ某ぼう所しょに中ちゅ等うとうの牛ぎゅ乳うに屋ゅうやをしておった。畜ちく産さん熱ねっ心しん家かで見けん職しきも高く、同どう業ぎょ間うかんにも推すい重ちょうされておった。母がひとり子ども三人、夫ふう婦ふをあわせて六人の家かぞ族く、妻さい君くんというのは、同業者のむすめで花前の恋こい女にょ房うぼうであった。地じし所ょなどもすこしは所しょ有ゆうしておって、六人の家族は豊ゆたかにたのしく生活しておった。
それ以いぜ前んから、安あん藤どうは某ぼう学がっ校こうの学がく費ひまで補ほじ助ょしてもらい、無む二にの親しん友ゆうとして交こう際さいしておったのだが、安藤がいまの会社へはいって二年めの春、母なる人がなくなり、つづいて花前の家にはたえまなき不ふこ幸うをかさねた。
その秋の赤せき痢り流りゅ行うこうのさい、親おや子こ五人ひとりものこらず赤せき痢りをやった。とうとう妻と子ども三人とはひと月ばかりのあいだに死しぼ亡うし、花前は病びょ院ういんにあってそれを知らないくらいであった。
そんな状じょ況うきょうであるから、営えい業ぎょうどころの騒さわぎでない。自分が熱ねっ心しん奔ほん走そうしてようやく営えい業ぎょうは人にゆずりわたした。花前は二か月あまりも病院におっていつまで話さずにおくわけにゆかないから、すべてのことを話すと、
﹁破はか壊いしおわった断だん片ぺんの一個こをのこしてどうするものか、のこったおれだってこまる、のこされた社会もこまるだろう、この一個この断だん片ぺんをどうにかしてくれ、おれはどうしてもこの病院をでない﹂と絶ぜっ叫きょうして泣いたけれど命めい数すうがあれば死しにも死なれないで、花前は追おわれるように病院をでた。病院をでてもいく家はない。待まってる人もない。安藤が自分の家へつれて帰ったものの、慰いし藉ゃのあたえようもない。花前はときどき相あい手てかまわず、
﹁どうせばえいんだ﹂
とどなる。
安藤は手のつけようがないから、ともかくもと湯ゆが河わ原らへつれだした。そうして自分もいっしょにひと月もおってなぐさめた。どうかして宗しゅ教うきょうにはいらしめようとこころみたが、多たし少ょう理りく屈つの頭があったから、どうしても信しん仰こうにはいることができない。破はか壊いい以ぜ前んが人なみよりもあたたかい歓かん楽らくに富とんでおっただけ、破はか壊い後ごの悲ひさ惨んが深しん刻こくであった。
自分もそうそういっしょにはおられないので帰きき京ょうすると、花はな前まえはそのまま一年半もその家におった。あっただけの財ざいをことごとく消しょ費うひして、ただ帰京の汽きし車ゃち賃んで安藤の家に帰ってきた。そのときにはたしかに精せい神しんに異いじ状ょうを呈ていしておった。なにを話してみようもなく、花前は口をきかなかった。
その後ご無むだ断んで安藤の家をでて、以前交こう際さいした家に乳ちちしぼりをしておった。ようやく見つけてたずねていくと、いつのまにかいなくなる。また見つけだしてたずねると、またいなくなる。ゆくさきざきの乳屋で虐ぎゃ待くたいされて、ますます本ほん物ものになったらしい。じつにきのどくというて、このくらい悲ひさ惨んなことはすくなかろうと、安藤は長ながと話しおわって嘆たん息そくした。
主人もことばのかぎりをつくして同どう情じょうした。しんせつな安藤はともかくも治ちり療ょうの見み込こみがすこしでもあるならば、一日も見てはいられぬといって辞じし去さった。
安藤は去さってから三日めに、車くるまを用意して自じし身んむかえにきた。花前は安藤のいうことをこばまなかった。いよいよ家をでるときには主人にも、ややひととおりのあいさつをして、厚こう意いを謝しゃした。台だい所どころへでて、無むご言んにタアちゃんをだいたときには、家のものみなが目をうるおした。花はな前まえが去さったあと、あのはしの話を聞きたかったけれど、なんだかきのどくで聞かれなかったと下げじ女ょも涙なみだをふいた。
十日かほどたって、主人は花前を青山の脳のう病びょ院ういんにおとのうてみた。花前は非ひじ常ょうによろこんだ。話しするところによると精せい神しんのほうはますますよいようであるが、それと反はん比ぴれ例いにからだのほうはたいへん疲つかれてるように見えた。それから二十日ばかりして、花前は死しんだと安藤から知らせてきた。