駄だじ洒ゃ落れを聞いてしらぬ顔をしたり眉をひそめたりする人間の内面生活は案外に空虚なものである。軽い笑わらいは真面目な陰いん鬱うつな日常生活に朗ほがらかな影を投げる。ある日、私がパリで散髪をしていると理髪師が私に向ってデ・ジャポネー︵日本人︶は騎兵は要らぬそうですねといった。何のことかと聞くとデジャ︵既に︶ポネー︵小馬︶だからといった。人を馬鹿にしているこの駄洒落は異郷の旅愁をかえって慰めてくれた。旅愁は人生の旅にもおそいかかってくる。軽い駄洒落も時には悪くない。ポール・ヴァレリイは同韻の二つの言葉を双ふた児ごの交わす微笑に譬たとえている。偶然の戯れが産んだ三つ児を二組紹介しても別に誰も咎とがめる者はないだろう。
その一つは既に新聞に載ったこともあるからある人々には旧聞に属するかも知れない。和辻哲郎君がまだ京都にいた頃のことである。西にし田だき幾た多ろ郎う先生をお誘いして貴きぶ船ねへ遠足してアマゴでも食べようということになった。天野貞祐君が西田先生のところへ行ってアナゴを食べに貴船へお出になりませんかというと、先生はアナゴのような脂ッこいものはおれはいやだと答えられた。天野君が和辻君にその由を伝えると和辻君はアナゴではなくてアマゴであることを説明した。西田先生もアマゴなら食ってもいいといわれて貴船行の計画がめでたく成立った。これはアマノがアマゴとアナゴを間違えた話である。関東育ちでカントの﹃純粋理性批判﹄の訳者である天野君はアナゴは知っていたがアマゴを知らなかったのである。
今年の歳末にその天野君と落合太郎君と私とで寒い晩に四条通の喫茶店へ茶を飲みに行ったことがある。給仕の少女に九鬼は紅茶とビスケットをくれないかといった。ビスケットってクッキーのことですかと少女が尋ねた。九鬼は﹁クッキーなら貰もらわないでもこっちから上げるよ﹂といって笑ったが、何かしら胸にグキット感じた。ビスケットという古い言葉がクッキーという新しい言葉に代ってしまっているのを初めて知って、自分の住んでいる古い世界と少女の住んでいる新しい世界との間隔に軽い目まいを感じたのである。これはクキがクッキーでグキットした話である。
この二つの場合で、クキがクッキーでグキットしたとはいいやすいが、アマノがアマゴとアナゴを間違えたといおうとするとうまく口が廻らないで多少の努力を要する。前者は同一性に基くものとして単に量的関係に還元され得るのに反して、後者は類似性の基礎に質的関係を予想しているためであろう。