詩の原理

萩原朔太郎







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西暦一九二八年十月
大森馬込まごめ町にて   著者





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西暦一九三八年五月
著者
[#改ページ]

――読者のために――


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* 詩のリズムを解して、心に起るなみの音波など言う人がある。これ形式を内容に移して説いたもので、この思想から自由詩の所謂「内部韻律インナアリズム」という如き観念が生ずるのである。だがこうなってくると「韻文」の語義が益々ますます不可解になる。
** 詩と韻文とが同字義ならば、散文詩という語は何の意味か。散文(詩でないもの)と詩(韻文)とが、一つの言語で結びつくのは、北と南、善と悪との反対を、同時に考えるような矛盾である。







 



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第二章 音楽と美術


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・ 感情におぼれるなかれ。
・ 主観を排せよ。
・ 現実に根ざせ。
・ あるがままの自然を描け!
 これに対して主観派に属する文学、即ち浪漫主義や人道主義の言うところはこうである。
・ 情熱を以て書け!
・ 主観を高調せよ。
・ 現実を超越すべし。
・ なんじの理念を高く掲げよ!
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 この両方の思想の相違を、最もよく説明するものは、プラトンとアリストテレスの美術論である。プラトンによれば、自然はイデヤの模写であるのに、美術はその模写を模写する故に、虚妄の表現であり、いやしく劣等な技術であるというのである。(彼が音楽を以て最高の芸術とし、美術を以て劣等の芸術と考えたのは、いかにもプラトンらしく自然である。)これに反してアリストテレスは、同じく美術を自然の模写であると認めながら、それ故に真実であり、智慧ちえの深い芸術であると考えた。

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* 生活 Life という言語が、日本に於てそうした卑近の意味に解されるのは、日本人そのものが非常に――おそらくは世界無比に――現実的の国民であって、日常起臥の身辺生活以外に、いかなる他の Life をも考え得ないからである。この現実的な思想は、俳句や茶の湯の如き、民族芸術の一切に現われている。特に茶道の如きは、日常起臥の生活を直ちに美化しようとするのであって、芸術的プラグマチズムの代表であり、日本人の Life に対する極端な現実的観念を、最もよく語っている。つまり「生活のための芸術」が、日本では茶道の精神で解されたのだ。



 



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 李白りはくは長安の酒家に酔って、酒一斗詩百篇であったと言う。だがこの意味は、一方に酒を飲みつつ、一方に詩を書いていたということで、泥酔しつつ詩作したということではないだろう。酒に酔ってる時は、感情が亢進こうしんして世界が意味深く見えるけれども、実際には決してどんな表現もないのである。なぜならアルコールの麻酔が、観照の智慧を曇らしてしまうからだ。酔人には芸術がない。



 



 
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 この「実感」という語は、今日の文壇で「体験」とか「生活感」とかいう意味に転用されている。だがこれを当初に使ったのは自然主義で、美学上の原意に用いられていた。即ち当時に言われた「実感で書け」の意味は、美的陶酔のない感情、プロゼックな現実感で書けの意味だった。
 文壇に於ては、今日この言語が転化してしまったけれども、一般の社会に於て、なおしばしば原意のままで使用されてる。例えば裸体画問題等について、警察官が言う「実感を挑撥ちょうはつする」等がそうである。

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* パスカルの言葉は、長く人々に神秘視された。なぜなら「知る」ものはすべて知性であるのに、感情が理智の知らないものを知るというのは、眼なくして物をる不思議であるから。しかしパスカルの言う意味は、そうした無智の感情を指すのでなくして、智慧の認識と共に融け合ってる感情――即ち主観的態度の観照――を指しているのである。



 



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* 「詩」の対照は必ずしも「散文」でないかも知れない。なぜなら「散文」は「韻文」に対する言語であって、必ずしも詩における対語でないから。しかし一般の言語としては、やはり散文が詩の対語として用いられてる。それで散文的プロゼックという言語は、一般に非詩的のもの、詩的でないものを意味している。ここで使用するプロゼックも、勿論もちろんこの通解の語意による。

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* カントは「理性」を二部に区分し、因果の理性と自由の理性を対立させた。即ち所謂「純粋理性」と「実践理性」とがこれである。カントの意味では、この自由の理性が倫理にのみ関している。しかしそれが「感情の意味」を指す限り、単なる道徳感ばかりでなく、芸術上の美的理性をも入るべきである。



 



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* 浮世絵の哲学は或る頽廃たいはい的なる官能の世界に没落し、それと情死しようとするニヒリスティックなエロチシズムで、歌麿うたまろ春信はるのぶが最もよく代表している。

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「無道徳」と「反道徳」とを区別せよ。無道徳というのは、全然倫理的観念の外におり、善悪のいずれにも没交渉なものを言う。これに対して反道徳は、愛他主義と個人主義とに於ける如く、同じ一つの倫理線の上で、反対に向き合ってるものを言う。故に反道徳と道徳(通俗的道義観念)とは、同一線上で絶えず衝突するけれども、無道徳は別の並行線に属しており、全然倫理的問題とは没交渉で、どこにも交切する機縁がない。



 



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主観者(生活者)+客観者(芸術家)=詩人
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* 「人生に於ける詩の概観」参照。
** 日本の文壇が、自然主義の逆説を理解し得ず、これによって本質上の詩を失い、救いがたい堕落に落ちたことを考えてみよ。(「特殊なる日本の文学」章尾の註参照)

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 此処ここでついでに言っとくが、この「生活のための芸術」を皮相に解して、日常生活の無意味な身辺記録などを書き、それで「生活がある」などと考える間は、いつまでたっても日本の文学は駄目であり、西洋のような真の自然主義や人生文学は生れて来ない。

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* 最近、日本に現われた「大衆文学」というものは、どんな芸術的主張をもつのか解らないが、とにかく現文壇への解毒剤げどくざいとして、一つの公開さるべき処方である。医師は救いがたい病気に対して、時に毒薬をすら調合する。







 



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* 「大体に於ける法則」ということは、10の中の8が正則で、2が変則であるという如き、数量の上の計算でない。この場合の「大体」は、法則の背後にある根本の大原理を指すのである。即ち自由詩の原理は「法則なき法則」に存するので、普通の意味の律格的形式とは、全然性質の異ったもの、それを以て律することのできないものである。尚次の註解を見よ。
** 「韻律なき韻律」という類の言語は、賓辞が主辞を否定することに於て、別の新しき定義を暗示しようとするのである。例えば「道徳なき道徳」という場合に、賓辞の道徳が意味するものは、過去の所謂道徳と全くちがった、別の新しい道徳を意味している。そしてこの新しき道徳Aによって、前の道徳Aを否定するから、「AはAに非ず」というこの矛盾命題が成立する。「韻律なき韻律」の場合もそうであって、賓辞の意味する韻律は、過去の言語が意味する所謂韻律や韻文とは、全く別種のものを指しているのだ。

 韻律という言語は、一定の規則正しき反復をもったところの、時間上の進行を意味している。例えば時計のチクタク、心臓の鼓動、海洋の波浪等であって、元来、規則正しきものを指すのであるから、自由詩にリズムの無い事は始めから解っている。否むしろ自由詩はかかる形式主義に反対し、リズムを破壊することに主張を持っている。この形式主義と自由主義との主張については後に公平な批判を以て見ようと思う。



 



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* 最近の世界詩壇は著るしく散文的プロゼックになり、唯物論的になり、機械観的になり、科学的にさえも傾向している。これ表面には、詩の散文的没落を意味する如く思われるが、実には何の心配もないのである。なぜならこうしたものは、すべて詩の題材に属していて、詩の本質的精神に関係していないからだ。換言すれば、それらの唯物界や機械界やは、詩人によって新しく発見された詩美であって、趣味としての選択に属している。然るに趣味(即ち芸術の題材)は、詩の本質的精神とは関係なく、時代によって常に流動変化するものである。即ちプロゼックなものは流行であって、本質に於けるものは不易である故、詩は永久にその精神を没落しない。芭蕉ばしょうはこの真理を言明するため、有名な「不易流行」の標語を作った。詩人は不易流行でなければいけない。(ついでながら言っておくが、近頃我が文壇で言われるマルクス的文学論が、芸術に於ける流行性と不易性とを、認識の蒙昧もうまいから錯覚している。芸術の不易性は個人主義で、流行だけが社会主義になるのである。)



 



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  ┌情象―音楽・詩・舞踊・歌劇
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  └描写―美術・小説・科白劇・写実劇
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 三種の中で、何れが果して真であるかは、読者の比較と判断に任すのみだ。しかし注意しておきたいのは、この中でAが最も狭義であり、Bがやや広く、Cが最も広義であるということである。詳説すれば、Aの中にはBもCも包括されない故に、諸君にしてもしAを選べば、自由詩や散文詩やは、勿論もちろん「詩」の仲間に這入はいれなくなる。然るにBはより広義である故に、この中には定律詩も自由詩も、共に両方を包括され得るだろう。しかしながら近来の或る特殊の詩、例えば未来派等の或る者に見る絵画風な詩は、やはり「詩」の範疇はんちゅうの外にい出される。なぜならばこの種の者には、音律がほとんどなく、かつそれを本位にしていないからだ。ただ最後に、第三のCを定義する限り、すべて一切の新しい詩が、残らず皆完全に包括されることができるのである。

* 音律を無視した絵画風の詩については、著者は好感を表し得ない。こうしたものは言語の綴りスペルする特色を忘れたもので、明白に文学の邪道である。正道の詩はやはり音律の「骨骼」を持たねばならない。しかし新しき詩の定義が、こうしたものをも包括し得ることは事実である。その限りに於ては、著者もこれ等の詩を認める。



 



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 叙事詩と小説の相違は、琵琶歌びわうたと講談の相違である。琵琶歌は感情のなみに乗って事件が語られ、講談はそれがさも有る如く、事件がレアールに描写される。

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* 叙事詩と抒情詩とで、どっちが男性に属するかという事は、西洋で多くの文学者に論じられている。或る人は叙事詩を女性、抒情詩を男性と言い、或る人は反対に叙事詩の方が男性だと主張している。かく人によって意見が異なるのは、叙事詩に対する解釈がちがうからだ。即ち一方では、それが表面的に「事件を叙述する詩」と解され、一方では同じ言語が、詩の本質的な特色からして、英雄感的のものと解されている。
 そこで前者の語解によれば、叙事詩は女性的のものに見られてくる。(なぜなら女性というものは、すべて事件の細々こまごまとした描写を好むもので、真の抒情詩的表現を持たないから。この意味でなら女の詩は、素質的に皆叙事詩である。)反対に後の解釈では、叙事詩が男性に属してくる。著者はこの書物に於て、性の本質上の特色――即ち後の方の意味――で、以下叙事詩という言語を使用する。



 




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* 芸術の形式は内容の反映である故に、本来言えば「形式主義」とか「内容主義」とかの観念は、芸術上に於てノンセンスである。然るにこうした言語が存在するのは、この場合で考えられている「形式」が一般に於ける「表現そのもの」を指すのでなく、何等かの数理的法則によって規定されているところの、特殊なクラシカルな形式を指すからである。したがってこの形式主義に対する内容主義は、それ自ら表現上の自由主義を意味している。自由主義と内容主義とは、芸術上の言語に於てイコールである。



 



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* 自由詩が散文的なほど自由詩だということは、詩を散文の中に低落させると言う意味ではない。律格的な形式美に対して、メロディアスの美を徹底させるという意味である。これについて後に他の章(日本詩壇の現状)で詳説する。



 



 
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* 自由詩の起元は、欧洲に於ては象徴派である。しかしアメリカに於ては、これより先民衆詩人のホイットマンが、独自のユニックな散文詩形を創造している。けだしアメリカの如きデモクラシイの代表的国家に於て、早く自由律の詩が生れるのは当然である。
** 詩が美術に近く様式するのは、もちろん単に外観上の見えにすぎない。本質に於ては、やはり象形によって音楽のように情象するので、決して小説の如く描写しているのではない。しかし何れにせよこの行き方は、言語の特質を生かすべき、正道の表現にはずれている。



 




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 という句の如きも、単にかかる自然を描写しているのでなく、主観に於ける春日長閑しゅんじつちょうかんの無為の気分を、対象の中に情調として見ているのである。他のあらゆるすべての俳句が、皆これに同じである。芭蕉ばしょうの句
草の葉をすべるより飛ぶほたるかな
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第十二章 日本詩歌しいかの特色



 以上吾人ごじんは、主として西洋の詩について叙述してきた。次に我々自身のもの、日本の詩について述べねばならぬ。もとより詩の原理するところは、東西古今を通じて一であり、時と場所による異別を考え得ないが、その特色について観察すれば、彼我ひがおのずから異ったものがなければならぬ。そしてこの特色から、我々の詩は著るしく外国のものと異っている。実に地球の東と西とは、詩に於て見るほど著るしく、距離の隔絶を考えさせるものはないのだ。
 第一に西洋と日本とは、詩の起元に於ける歴史からちがっている。既に前に述べたように、西洋の詩の歴史は、古代希臘ギリシャ叙事詩エピックから始まっている。然るに日本の詩の歴史は、古事記、日本書紀等に現われた抒情詩リリックから出ているのだ。しかも形式について見れば、西洋の詩は荘重典雅なクラシカルの押韻詩に始まっているのに、日本の上古に発生した詩は、すべて無韻素朴の自由詩である。左にその二三の例を示そう。
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* 日本の詩に定形律が出来たのは、支那の詩にその規約があるのをみて、一種の文化意識から模倣したものだと言われている。自然のままで発展したら、原始の自由律で行ったのだろう。(清野博士の考証、土田杏村きょうそん氏の研究等を参照せよ。)

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* 短歌に於ける有機的な内部律(調べ)とは、言語の構成される母音と子音とから、或る不規則な押韻を踏む方式であり、日本の歌の音律美は、全くこの点にかかっている。特に新古今集等の歌は、この点で音韻美の極致を尽している。著者はこれについて興味ある研究を持っているけれども、此処に発表する余頁よページのないのを遺憾とする。
 尚、五七音中に於ける小分の句節(例えば五音の小分された三音二音)は、法則の外に置かれる自由のもので、この組合せを色々にすることから、特殊の魅力ある音律を作り得る。故岩野泡鳴はこの小分の音律を法則しようと試みたが、かくの如きは歌の特殊な「調べ」を殺し、自由のメロディーを奪うもので、最も無意味な考である。



 




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「韻文」「散文」「自由詩」の関係を円を使って示す図

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「韻文」「散文」という言語は、元来西洋から来たものであり、昔の日本にはないものである。日本の詩歌は原始から自由主義で、形式上に散文とく類似したものであるから、こうした西洋風の形式観による対立は、我々の文学で思惟しいされなかった。故に西洋人が「詩は韻文の故に詩なり」と考えている時、日本人は昔から「詩は調べである」と考えていた。「調べ」とは無形な有機的の音律であり、法則によって観念されないリズムである。だから自由詩の原理は、日本語の「調べ」という一語の中に尽きるので、ずっと昔から、すべての日本人が本能的に知りつくしている事である。然るに詩壇は自由詩の本体を日本に見ないで外国に見、彼の「韻律」や「韻文」等の語を輸入し、これを半可通の理解で使用した為、却って知っている事が解らなくなり、自分の顔を他人に教えてもらうような、愚昧な混乱に陥ったのだ。

 所謂律格論者の思想は、次の推理式に示されている。
 自由詩は散文に非ず。即ち韻文でなければならない。
 韻文には法則された律格がなければならない。
 故に自由詩には律格が無ければならない。
 この思想の大前提に於て考えられている「韻文」は、Bの図式による本質観の韻文である。(でなければ始めからこの命題は成立しない。)然るに次の小前提で観念されている「韻文」は、Aの図式による形式観の韻文である。かく韻文という言語が、一つの思想中で二つの別義に解釈されている。即ち彼等は、論理学でいう[#「論理学でいう」は底本では「倫理学でいう」]Mの重犯を犯しているのだ。故にその結論は、自由詩が自由詩たる為に定律詩でなければならないという如き、白馬非馬的の曲弁に導かれる。


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* 今日の奇怪なる詩人の中には、有機的音律のある真の自由詩を以て、過去の「古きもの」と考え、何等の音律美もない平坦無味の詩を以て、新様式の「新しきもの」と考え、かつそれを信じている人がある。現詩壇の低落は、一つには彼等の妄見もうけんと曲弁があずかっている。
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* 写生文というのは、ホトトギス派の俳人によって創始された文学で、有る世界を有る現状のままに於て、全然没主観で書くことを主張した。そこでこれが自然主義の文学論と、まったく一緒になってしまった。

 さればレアリズム(現実主義)という言葉が、西洋風の文学観で言われる限り、日本には真のレアリズムがないのである。第一レアリズムという言語が持っている、特殊な冷酷感的な、真実をあばき出そうとする語感は、日本のどんな小説にも感覚されない。日本の写実小説は、レアリズムというべきでなく、もっと好人物的なる、俳句的観照本位のものである。しかしながら言語の意味から、その特殊な語感を除いて考えれば、日本人の文学が持っているものこそ、真の徹底したる意味の現実主義であるか知れない。なぜならば西洋の所謂いわゆるレアリズムは、客観というべくあまりに主観的で、エゴの哲学を強調しすぎる。そしてこの故にまた観念的で、イデヤの理想観に走りすぎる。真に現実主義と言うべきものは、かかる一切の主観を有せず、憤りもなく憎みもなく、無私無感情の態度を以て――即ち真に科学の如く――客観について客観を見、観照のために観照をするものでなければならない。そして日本人の考えている文学観が、この点で西洋と別れてくる。日本人に於て見れば、ゾラやモーパッサン等の自然主義は、真の自然主義でないのである。
 故にかく考えれば、日本人こそ真に徹底的なる、気質的のレアリストであるだろう。西洋人は、本来言って現実主義の国民ではない。彼等の言う現実主義とは、理想主義に対する反語であって、同じ主観的イデヤの線の上で互に向き合っている対立である。故にその一つの線を取ってしまえば、両端に居る二人の者は、共に足場を失って落ちてしまう。然るに日本のレアリストが立っている地位は、こうした相対の線上でなく、それとは全く線のちがった、全然別の絶対地である。即ち日本人は「気質的のレアリスト」で、西洋人は「逆説されたレアリスト」である。故に日本人の立場で見れば、西洋のレアリズムや自然主義やは、一種のロマンチックな理想主義――逆説された理想主義――で、真の本質的な現実主義と言うべきでない。真の徹底したるレアリズムは、俳句でなければならないと言うことになる。
 されば日本の文学には、昔から「俳句」があって「叙事詩」がない。何よりもあの逆説的な、権力感的な、貴族主義の精神がないのである。日本人は、先天的にデモクラチックで徹底したる自由主義の民族である。この点でも日本人は、西洋人と思想の線を異にしている。


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我れは踏まれたる石なり
家はその上に建つべし
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* 活動写真を見る時、いつも西洋について面白く思うことは、一方に絹帽や礼服をきた紳士が居り、一方に破れ服の貧民や労働者が居ることだ。日本にはこの対照がなく、どれを見ても大同小異の階級者が、デモクラチックに均一して銀座通りを歩いている。こんな単調でつまらない社会は、おそらく世界のどこにもあるまい。
** 明治初年の日本――それは進歩思想を有する武士階級の青年によって統治された――は、近代に最も光彩ある、最も大胆自由の社会だった。彼等のロマンチックな為政者等は、一時仏蘭西フランスの共和政体を日本にこうとさえ考えた。

 所謂いわゆるプロレタリア文芸の運動は、そのあらゆる稚態と愚劣にかかわらず、本質に於て日本の文壇を正導すべき、一の純潔なヒューマニチイを有している。著者はこの点だけを彼等に買ってる。過去の白樺しらかば派の人道主義が、やはりこれと同様だった。すべてこれ等の文学は、未だ自然主義の懐疑時代を通過していない。無産派も白樺派も、無邪気な楽天的感激主義の文学であり、遠く浪漫主義発生前派の者に属する。しかも日本にあっては、何よりもこの「浪漫派前派の精神」が必要なのだ。一切の文明と芸術とは、このアルファベットの第一音から、改めて建設されねばならないのだ。





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