万葉集にある浦うら島しまの長歌を愛あい誦しょうし、日夜低てい吟ぎんしながら逍しょ遥うようしていたという小泉八雲は、まさしく彼かれ自身が浦島の子であった。希ギリ臘シャイオニア列島の一つである地中海の一孤こと島うに生れ、愛アイ蘭ルラ土ンドで育ち、仏フラ蘭ン西スに遊び米国に渡わたって職を求め、西印イン度ドに巡じゅ遊んゆうし、ついに極東の日本に漂ひょ泊うはくして、その数すう奇きな一生を終ったヘルンは、魂たましいのイデーする桃とう源げん郷きょうの夢ゆめを求めて、世界を当あてなくさまよい歩いたボヘミアンであり、正に浦島の子と同じく、悲しき﹃永遠の漂泊者﹄であった。 しかしこの悲しい宿命者も、さすがに日本に渡ってからは、多少の平和と幸福を経験した。日本は後年の彼にとって、最初の幻げん惑わくした印象のごとく、理想の桃源郷やフェアリイランドではなかった――後年彼は友人に手紙を送り、ここもまた我が住むべき里に非あらずと言って嘆たん息そくした――けれども、貞てい淑しゅくで美しい妻をめとり、三人の愛児を生み、平和で楽しい家庭生活をするようになってから、寂さびしいながらも満足な晩年を経験した。ヘルン自ら、絶えずそれを羞しゅ恥うちしたごとく、彼のように短身矮わい躯くで、かつ不具に近い近眼の隻せき眼がん者しゃで、その上に気むずかし屋の社交下べ手たであったことから、至るところ西洋の女性に嫌きらわれ通していた男が、日本に来て初めて人ひと並なみの身長者となり、人並以上の美人を妻としかつその妻に終世深く愛されたことは、いかにしても得がたき望外の幸福であったろう。彼の妻︵小泉節子夫人︶が、その旧日本的な美徳によって、いかに貞淑に良おっ人とに仕え、いかによく彼を愛し理解していたかということは、後年彼が多少日本に幻げん滅めつして、在外の友人に日本の悪評を書いた時さえ、日本の女性に対してだけは、一いっ貫かんして絶ぜっ讃さんの言葉を惜おしまなかったことによっても、またその多くの﹃怪かい談だん﹄に出て来る日本の女性が、ちょうど彼の妻を聯れん想そうさせるごとき貞婦であり、旧日本的なる婦道の美徳や、そうした女に特有の淑しとやかさいじらしさ、愛らしさを完備した女性であることによっても知られるのである。筆者がかつて評論した、有名なヘルンのエッセイ﹃ある女の日記﹄も、校本に拠よるところがあるとは言いながら、実はその愛妻節子夫人を、半面のモデルにしたものと言われている。幼にして母を失い、他人の家に養われ、貧困の中に育ち、飢き餓がと冷れい遇ぐうを忍しのびながら、職を求めて漂泊し、人の世の惨さんたる辛しん苦くを嘗なめつくして、しかも常に魂の充みたされない孤こど独くに寂しんでいたヘルンにとって、日本はついにそのハイマートでなかったにしろ、すくなくともその妻に抱ほう擁ようされた家庭だけは、彼の最後に祝福された、唯ゆい一いつの楽しい安住の故郷であった。おそらくヘルンはその時初めて心の隅すみに、幸福という物の侘わびしい実体を見たのであろう。 すべて貧困の家に育ち、肉親の愛にめぐまれずして家庭的、環かん境きょ的うてきの不ふぐ遇うに成長した人々は、そのかつて充たされなかった心の飢餓を、他の何物にも増して熱情するため、後に彼が一家の主人となった場合、その妻子の忠実な保護者となり、家庭を楽園化することに熱心である。ラフカジオ・ヘルンの場合も、またその同じ例にもれなかった。彼が日本に帰化したことも、普ふつ通うの常識が思し惟いするように、日本を真に愛したからではなかった。その頃ころの彼は、日本をもはや﹃夢の国﹄としては見ていなかった。そして﹃西洋の国々と同じく、ここにもやはり醜みにくい生存競争があり、常々不義や奸かん計けいが行われている﹄と、地上の現実社会である日本を見ている。詩人がその空想の中で画えがくような、ファンタスチックな夢の国は、現実の地球上にあるはずがない。しかも宿命的な詩人の悲願は、その有り得べからざる夢の国を、生しょ涯うがい夢見続けることの熱情にある。初めからボヘミアンであったヘルンは、晩年においてもなおボヘミアンであり、永遠に故郷を持たない浦島だった。もし彼に妻子がなかったら、日本に幻滅した最初の日に、再度また﹃まだ知らぬ新しい国﹄を探すために、あてのない漂泊の旅に出発したにちがいなかった。だがその時、彼はその妻や子供のことを考えた。既すでに老いの近づいたヘルンは、自分の死後における妻子の地位を考えた。そして国こく籍せきを持たない家族が、財産上にも生命上にも、日本の政府から保護を受け得ないことを考えた。しかもその妻のごとき、純日本的な可かれ憐んな女を、彼のいわゆる﹃野やば蛮んじ人ん﹄である西洋人の社会に、孤独で生活させることの痛ましさは、想像だけでも耐たえがたい残ざん忍にん事じだった。だが彼が帰化を決心し、日本の土となることを覚かく悟ごした時、言い知れぬ寂しさとやるせなさが、心の底にうずつき迫せまるのを感じたであろう。それが日本人の抒じょ情じょ的うてきな言葉で、あきらめと呼ばれるものであることさえ、おそらくヘルンは知ったであろう。 東京帝てい国こく大学の招しょ聘うへいに応じて、松まつ江えや熊くま本もとの地を去ったことも、同じくヘルンの身にとっては、愛する妻への献けん身しん的てきな犠ぎせ牲いだった。上陸当初の日に一いち瞥べつして嘔おう吐とを催もよおし、現代日本の醜しゅ悪うあ面くめんを代表する都会と罵ののしり、世界のどんな汚きたない俗悪の都市より、もっと殺風景で非芸術的な都市と評した東京は、彼が死んでも住みたくない所であった。しかも彼の夫人にとって――世の多くの若い女性と同じく――東京はあこがれの都であり、そこでの生活は一生最高の理想であった。﹃わたし、フロックコート着る。東京に住む。皆みなあなたのためです﹄と、さすがにヘルンも夫人に愚ぐ痴ちをこぼしている。夫人もよくその良人の心を知り、﹃ヘルンの一生は、皆私や子供のために尽つくしてくれた犠牲でした。勿もっ体たいないほどありがたいことでした﹄と、その追つい懐かい談だんの中で沁しみ々じみと語っている。 彼がいかにその妻を熱愛していたかは、焼やい津づの旅先から、留る守す居いの妻に送った手紙によく現われている。
小サイ可カワ愛イイママサマ。
ヨク来タト申シタイアナタノ可愛イ手紙、今ケ朝サ参リマシタ。口デ言エナイホド喜ビマシタ。
ママサマ、少シモアブナイ事ハアリマセン。ドウゾ案ジナイデ下サイ。今年ハ一度モ﹇#﹁一度モ﹂は底本では﹁一度も﹂﹈夜ノ海ニ行キマセン。乙オト吉キチト新シン美ミノ二人ガ、子供ヲ大事ニ気ヲ附ツケマス。一カズ雄オハ深イ所デ泳イデモ危アブナイコトハアリマセン。コノ夏ハクラゲヲ大変恐オソレマス。シカシヨク泳ギ、ソシテヨク遊ビマス。
アノ成田様ノオ護マモ符リノコトヲ思ウ。アノイワレハ可愛ラシイモノデス。
私少シ淋サビシイ。今アナタノ顔ヲ見ナイノハ。マダデスカ。見タイモノデス。
蚤ノミガ群ッテ集マルノデ眠ネムルノハ少シムツカシイ。シカシ朝、海デ泳グカラ、皆、夜ノ心配ヲ忘レマス。
今年私ハ、小サイタライノオ風フ呂ロニ二三日ゴトニ入リマス。
焼津 八月十七日
パパカラ
可愛イ子ニ、ソレカラ皆ノ人ニヨロシク。
小泉八雲
小サイ可愛イママサマ。
今朝成田様ノオマモリガ参リマシタ。パパハ乙吉ニヤリマシタ。スルト大変喜ビマシタ。︵中略︶
ママニ願ウ。自分ノ身カラ体ダヲ可愛ガルヨウニ。今アナタ忙イソガシイデショウネ。大ダイ工クヤ壁カベ屋ヤヤ沢タク山サンノ仕事デ。デスカラ身体ヲ大事ニスルヨウニクレグレモ願イマス。
私今日ハ忙ガシカッタ。本屋ガ校正ヲヨコシタカラ。シカシモウ皆スマセマシタ。
巌イワオト一雄、丈ジョ夫ウブデ可愛ラシイ。海デ沢山遊ビ黒クナリマシタ。乙吉ハ二人ヲ大事ニシテクレマス。勉強毎日シマス。
サヨナラ、可愛イママサマ。
オババサンニ可愛イ言葉。
子供ニ接セッ吻プン。
焼津 八月十八日
小泉八雲
この情じょ緒うし纏ょて綿んめんたる手紙は、新しん婚こん当時の手紙ではない。結婚十数年、ヘルン既に五十歳さいを過ぎ、二人の男児と一人の女児の親となってる晩年の手紙である。妻を愛称して﹃小サイ可愛イママサマ﹄と呼んでるヘルンは、同時にいかにまた子こぼ煩んの悩うであったかが解わかる。彼はいつも手紙の終りに﹃オババサマニヨロシク﹄とか﹃オババサマニ可愛イ言葉﹄とか書いている。オババサマとは彼の妻の母であって、名義上、小泉家の養子たる彼にとっては、姑しゅうとめの義母に当る老婦人である。ヘルンはその妻と共に、姑の老婦人と一家に同居し、純日本風の仕方でよく孝養の道を尽した。この姑の婦人もまた、旧武士の家庭に育った士族の娘むすめで、純日本風の礼れい儀ぎ正しき教育を受け、かつ極めて善良に優しい心根の人であった。ヘルンの文学に出る日本婦人のモデルは、多くその妻に非あらずば姑の老婦人だといわれてるが、すくなくともヘルンは、この点での好運にめぐまれていた。なぜなら日本においても、それほど貞淑な妻や善良な姑は、一いっ般ぱんに沢山は居ないからである。それ故ある人々は、ヘルンがもし悪妻をめとり、意地悪の姑等と同居したら、彼の神国日本観は、おそらく顛てん倒とうした結果になったろうと言っている。
ヘルンの生活様式は、全く純日本風であった。彼はいつも和服――特に浴ゆか衣たを好んだ――を着、畳たたみの上に正せい坐ざし、日本の煙きせ管るで刻きざ煙みた草ばこを詰つめて吸ってた。食事も米の飯に味みそ噌し汁る、野菜の漬つけ物ものや煮にざ魚かなを食い、夜は二三合の日本酒を晩ばん酌しゃくにたしなんだ。︵しかし朝はウイスキイを用い、ビフテキも好んで食った。︶住居は度たび々たび変ったが、純日本風の家を好んで、少しでも洋風を加味したものを嫌きらった。日本人の知人を訪問しても、洋風の応接間などに通されると、帰ってからも甚はなはだ不ふき機げ嫌んであった。当時の日本は、文明開化の欧おう米べい心しん酔すい時代であったので、至るところ、彼はそうした不機嫌の目に逢あわされた。日本人は立派な文明を持っていながら好んで野蛮人の真ま似ねをしたがると、彼は常に不満を述べていた。﹃野蛮人﹄という言葉は、彼の語ごそ藻うにおいて﹃西洋人﹄と同字義であった。
そうしたヘルンの生活は、極めて質素のものであった。彼は学生に向っても、常に奢しゃ侈しを戒いましめて質素を説き、生活を簡易化することの利得を説いた。贅ぜい沢たくな暮くらしをするほど、生活が煩はん瑣さに複雑化して来て、仕事に専念することができなくなるからである。一日二三合の米の飯と、少しばかりの副食物と、二三合の日本酒とさえあれば、それで私の生活は充じゅ分うぶんであると、その訪問客に語っているヘルンは、実際に学者風の簡易生活をしていたのである。
しかし彼の精神生活は、反対に極めてデリケートで贅沢だった。いやしくもその詩興を損そこない、趣しゅ味みを害するようなものは――人でも、家具でも、物音でも――絶対にその家庭に入れなかった。書しょ斎さいに仕事をしている時のヘルンは、周囲のちょっとした物音にも、すぐ﹃私の考え破れました﹄といって、腹立しくペンを投げた。夫人はその追想記の中で、箪たん笥すの抽ひき出だしを開けるにさえも、そッと音を立てぬように気をつけたと書いている。しかしその他の場合では、罪のない笑じょ談うだんを言ったりして、妻や子供の家族を笑わせ、女中までも仲間に入れて、一家団だん欒らんの空気を作った。
どこへ旅行する時にも、彼はいつもその妻と同どう伴はんした。唯一の例外は、二児を連れて焼津へ行った時だけだった。︵その時末の女の児が生れたばかりで、母の手を離はなれることが出来なかったから。︶そうした彼の習慣は、普通に多くの西洋人が、彼等の風習によってするごとき、単なる形式的のものではなかった。﹃私少シ淋シイ。今アナタノ顔見ナイノハ。マダデスカ。早ク見タイモノデス﹄という焼津の手紙でも解るように、妻と同伴することなしには、どんな旅行も楽しくないほど、夫人を熱愛していたからだった。まだ子供が出来ない頃、この新婚の若夫婦は、山さん陰いん道どうの辺へん鄙ぴな島々を旅し歩いた。それは本土との交通がほとんどなく、少数の貧しい漁夫たちが、所々の寂しい山やま蔭かげに住んでるような、暗く荒こう寥りょうとした島とう嶼しょであった。人ひと跡あと絶えた山道には、人力車の通う術すべもなかったので、二人の若い男女は、互たがいに助け合いながら、蔦つた葛かずらの這はう細道を、幾いく時じか間んとなくさまよい歩いた。そして気味わるく物もの凄すごい顔をした、雲助のような男たちに脅おびやかされたり、黒くろ塚づかの一いっ軒けん家やのような家に泊とまって、白しら髪がの恐おそろしい老ろう婆ばに睨にらまれたりした。夫人はその時のことを追想して、草くさ双ぞう紙しで読んだ昔むかし物語を、そっくり現実に経験した様だったと言ってる。新婚まもなく若い稚ち気きのぬけなかった夫人は、恐らく恐きょ怖うふにふるえながらも、人生の最も楽しく忘れ得ない夢を経験したのだ。
ヘルンは常に散歩を好み、学校の帰き途となどには、まだ知らない町の隅すみ々ずみを徘はい徊かいしたが、新しい興味の対象を見出すごとに、必ず妻を連れてそこへ再度案内した。﹃今日私、面白い所見つけました。あなた一所に行きます﹄と言って、ヘルンが妻を連れ出す所はたいてい多くは寂しい静せい閑かんの所であり、寺院の墓地や、邸やしきの空庭や、小高い見晴らしの丘おかなどであった。つまり一口にいえば、今の日本の若い娘たちが、最も退たい屈くつを感じて﹃詰つまンないの﹄というような場所であった。しかし琴こと、生いけ花ばな、茶さど道うによって教育され、和歌や昔物語によって、物のあわれの風ふう雅がを知ってた彼の妻は、良人と共に、その楽しみを別ち味わうことができた。しかしある時、ヘルンが案内して連れ出した所は、暗い闇やみ夜よの野道の中に、小高い丘があるばかりで、周囲は一面の稲いな田だであった。何の見る物もなく風ふぜ情いもないので、夫人が怪あやしんで質問したところ、ヘルンは耳を指して、﹃お聴ききなさい。なんぼ楽しいの歌でしょう﹄と言った。あたり一面、稲田の中で蛙かえるが雨のように鳴いていたのである。
松江から東京に移るまで、ヘルン夫妻は、自分の家を持たなかった。ある時は下宿をしたり、ある時は間借りをしたり、ある時は借家をしたりして、常に住居を転々としていた。しかし東京へ移ってから、子供が大ぜい生れたりして、家やう内ちが狭せまくなった上に、貯財も少し出来て来たので、夫人のすすめで売家を一軒買うことにした。ある日二人は、例によって睦むつまじく連れそいながら、牛うし込ごめ辺あたりの売邸を探しに歩いた。すると一軒頃ころ合あいの家が見つかった。それは昔の旗本が住んでた屋やし敷きで、大きな武家風の門があり、庭には蓮はす池いけなどがあった。しかし何となく陰気に薄うす暗ぐらくじめじめして、妙みょうに気味の悪い厭いやな感じがしたので、夫人が直覚的に反対したにもかかわらず、ヘルンは一見して大いに気に入り、﹃面白いの家﹄﹃面白いの家﹄と、子供のように嬉うれしがって、是非それを買おうと言った。結局それは、夫人の強硬な反対によって中止されたが、後でそれが有名な化ばけ物もの屋敷と解った時、夫人がほッと胸を撫なでおろしたとは反対に、ヘルンは大変失望して、﹃ですからなぜ、あの家住みませんでしたか。私あの家、面白いの家と思いました﹄と幾いく度ども繰くり返かえして口く惜やしがった。
ヘルンについての一不思議は、あれほど広く多方面の文献に亘わたって、日本人以上に日本のことを知っていながら、日本語をほとんど知らなかったということである。彼の知ってた日本文字は、片仮名のイロハと僅きん少しょうの漢字にすぎず、彼の語る日本語は、焼津からの手紙にある通り、不思議な文法によって独創された、子供の片言のような日本語である。後に買った大おお久く保ぼの家に、書斎を新しく建て増しする時、一いっ切さいの設計や事務を妻に一任して、自分は全く無むと頓んち着ゃくで居たが、それでも妻が時々相談を持ちかけると、﹃もう、あの家よろしいの時、あなた言いましょう。今日パパさん、大久保にお出で下され。私この家に、朝さよならします。と大学に参る。よろしいの時、大久保に参ります。あの新しい家に。ただこれだけです﹄と煩わずらわしそうに言った。こうしたヘルンの日本語は、ヘルンの家族以外の人々には、容易に意味がわからなかった。家族の人々は、それを﹃ヘルンさん言葉﹄と呼んで面白がった。そうした奇きみ妙ょうな日本語は、時にしばしば、家庭内のユーモラスな流行語となったであろう。化物屋敷の一件以来、おそらくは﹃面白いの家﹄という言葉などが、一種の反語として家族中に流行し、すべての不潔の家、陰気な家などを指す代名詞になったであろう。それは結果において、一層八雲の家庭を楽しく団欒的のものにした。
しかしヘルンの奇妙な言葉を、真に完全に理解し得たものは、彼の妻より外にはなかった。そういう場合に、妻もまたヘルンさんの言葉を使って応答した。二人の仲の好い成おと人なが、子供の片言のようなことをしゃべり合って、何時間もの長い間、笑ったり戯たわむれたりしている風景こそ、おそらく真にフェアリイランド的であったろう。そうした夫婦の会話は女中や下げぼ僕くにはもちろんのこと、子供たちにさえもよく解らなかった。﹃内のパパとママとは、だれにも解らない不思議な言葉でだれにも解らない神秘のことを話している﹄と、学校へ行ってる男の子が、自じま慢んらしく仲間の子供に語ったほど、それは奇妙な別世界の会話であった。︵子供と会話する時には、ヘルンは多く英語を用いた。︶
元来人間の会話というものは、動物に比して甚だ不完全なものである。犬や小鳥やの動物は、単に鼻を嗅かぎ合うとか、尾おを振ふり合うとか、目をちょっと見合すとかいうだけで、相そう互ごの意志が完全に疎そつ通うするのに、人間は廻まわりくどく長たらしい会話をして、しかもなお容易に意志を通じ得ない。自分の意志や感情やを、真によく対あい手てに呑のみ込こんでもらうためには、対手が自分の親友知ち己きであり、自分の心持ちや性格やを、充分によく知っているものでない限り百万言を費して無む駄だになる場合が多い。単に眼めを見合すだけで、一切の意味が了りょ解うかいされる恋こい人びと同士の間には、普通の意味での言葉や会話は、全く必要がないのである。そしてヘルン夫妻の奇妙な会話が、おそらくそういう種類のものであろう。
﹃人生でいちばん楽しい瞬しゅ間んかんは﹄とゲーテが言ってる。﹃だれにも解らない二人だけの言葉で、だれにも解らない二人だけの秘密や楽しみやを、愛人同士で語り合っている時である﹄と。同じ家の中に住んでる家族の者にさえも、ほとんど全く解らない不思議な言葉で、何時間も倦あきずに睦じく語り合ってた二人の男女こそ、この世における最も理想的に幸福な夫婦であった。すべての恋する人々は、自分等以外に全く人ひと影かげのない離はなれ小島の無人島で、心行くまで二人だけの生活をし、二人だけの会話をしたいと願うのである。そしてヘルン夫妻の生活が、正にそうした通りの理想であった。彼等の愛人同士は、周囲に多くの人々が住んでる環かん境きょうに居て、しかも無人島に居る二人だけの会話を会話し、二人だけの生活を自由に享きょ楽うらくしていたのであった。
晩ばん餐さんの時、ヘルンはいつも二三本の日本酒を盃さかずきで傾かたむけながら、甚だ上機嫌に朗かだった。夫人や家族の者たちは、彼の左右に侍はべって酌しゃくをしながら、その日の日本新聞を読んできかせた。︵ヘルン自身には、英字新聞しか読めなかったから。︶ある日の新聞に、次のような記事が出ていた。山の手の某ぼう所しょに住んでるある華かぞ族くの老婦人が、非常に極きょ端くたんな西洋嫌いで、何でも舶はく来らいのものやハイカラなものは、一切﹃西洋臭くさい﹄と言って使用しない。そのためその家では、シャボンやランプはもちろんのこと女中たちの髪かみ飾かざりや持物に至るまで、すべて禁令がやかましく、万事皆昔の大だい名みょ御うご殿てんにそっくりなので、どの女中も居つかずに逃にげ出してしまい、人に頼たのんで募ぼし集ゅうしても、﹃あのお邸なら真ッぴら、真ッぴら﹄と言って寄りつかない、というような記事が明治時代の新聞に特有な洒しゃ落れぼ本んく口ちょ調うで書いてあった。
夫人がそれを読んできかすと、ヘルンはすっかり上機嫌になってしまい、﹃いかに面白い。いかに面白い﹄と、子供のように手を拍うって悦よろこびながら、﹃私、その人大好きです。そのような人、私の一番の友達。私見る好きです。その家、私是非見る好きです。私、少しも西洋臭くない﹄と言って大満足なので、﹃あなた西洋臭くないでしょう。しかし、あなた鼻高い。眼青い。駄だ目めです﹄などと夫人にからかわれ、﹃あ、どうしよう、私この鼻﹄など言って悄しょ気げか返えり、﹃真ッぴら、真ッぴら﹄と、今おぼえたばかりの日本語を面白がって使ったりして、夫人や女中たちを大笑いさせたりしているのだが、その後で、﹃しかし、よく思うて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するのです﹄と言ったヘルンは、真に日本を熱愛した詩人であった。晩年多少日本に幻滅を感じた時でさえも、他の外人が日本を悪意的に批評する時、いつも憤ふん然ぜんとして大おおいに怒いかり、さながら自分の愛人を侮ぶじ辱ょくされた時の騎き士しのごとく、鋭するどい反はん撃げきの槍やりをふるって突つき当って行った。そうした八雲の心理は、我が子の魯ろど鈍んに幻滅を感じてる親が、他人から、その愛児の悪評を聞いて怒る心理と、よく似たものであったと思われる。
日本が西洋臭くなり日本の文化や風俗やが、日々にますます欧米化して来ることは、ヘルンにとって忍しのびがたい悲ひあ哀いであった。なかんずくヘルンを最も悲しませたのは、盆ぼん踊おどり等の農村行事や風俗やが、明治政府によって禁圧されたことから、自然に衰すい褪たいして来ることだった。彼はそれを憤ふん慨がいしているが、むしろ彼の真の怒りは基キリ督スト教に向っていた。政府が盆踊を禁ずるのも、国民が欧米人の真ま似ねをするのも、固有の日本文化が亡ほろびるのも、すべて皆基督教の宣教師が宣伝するためであり、一切の悪は耶ヤ蘇ソ教の罪に帰せられた。﹃皆、耶蘇がさせるのです。耶蘇が皆悪くするのです。耶蘇、日本の敵です﹄と、至るところで彼は耶蘇教を罵ののしり、その宣教師を仇きゅ敵うてきのごとく憎にくんでいる。そうした彼は、事実上において熱心な仏教信者でもあった。彼の信しん仰こうの中には、仏教的な輪りん廻ね永生思想があり、それがヘルンらしい純情の詩人的想像によって、一種独特の人生観にまで展開していた。﹃自分が死んでから、後生が鳥や虫に生れ変るとしても、自分は少しも悲しいと思わない。なぜなら鳥や虫の生活の方が、人間よりも不幸であるとは思えないから﹄と、あるエッセイの中で書いてるヘルンは、日本人の民族化した仏教情操であるところの、あの﹃物のあわれ﹄の抒じょ情じょ的うてきペーソスを知ってたのである。
そうしたヘルンの小泉八雲が、常に最も好んだ散歩区域は、寺院の閑静な境けい内だいだった。特に東京の富とみ久ひさ町ちょうに居た時には、近所の瘤こぶ寺でらへ毎日のように出かけて行った。その寺は庭が広く、背後に老杉の茂しげった林があったので、彼の瞑めい想そう的てきな散歩に最も好ましい所であった。寺の老ろう僧そうとも懇こん意いになり、ついにある時、自分がその住持になりたいと言い出し、夫人と次のような問答をした。
﹃ママさん私この寺に坐すわる。むずかしいでしょうか﹄
﹃あなた、坊ぼうさんでない。ですから、むずかしいですね﹄
﹃私、坊さん。なんぼ仕合せですね。坊さんになるさえもよきです﹄
﹃あなた、坊さんになる。面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よき坊さんです﹄
﹃その同じ時、あなた比び丘く尼にとなりましょう。一雄︵註ちゅう、長男︶小さい坊主です。いかに可愛いでしょう。毎日経よむと墓を弔とむらいするで、よろこぶの生きるです﹄
﹃あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい﹄
﹃ああ、私願うです﹄
人間よりも、虫や鳥の方が幸福だと言ったヘルンは、人生について、悲哀の外の何物をも知らなかった。厭おん離りい一っさ切いし娑ゃば婆せ世か界いの厭えん世せい観かんは、ヘルンの多くの作品中に一いっ貫かんして、その特とく殊しゅな文学情操の基調となってる。
彼の文学は、本質的に我が﹃方ほう丈じょ記うき﹄や﹃徒つれ然づれ草ぐさ﹄の類たぐいと同じく、仏教的無常観によった﹃遁とん世せい者しゃの文学﹄であり、ヘルン自身がまた現実の﹃遁世者﹄であった。寺の住持になって世を隠いん遁とんし、読どき経ょうと墓はか掃そう除じに余生を送りたいといった彼の言葉は、決して一時の戯れではなく、彼の心の無限の悲哀を告白した言葉であった。だがそうした八雲の悲しい心は、常に最も夫人の心を痛ましめた。なぜならそれは、どんな貞淑に行き届いた妻の奉仕も、決して慰なぐさめることのできないものであったからだ。しかしもし、現実に八雲が世捨人になったとしたら、おそらくその貞淑な夫人もまた、﹃その同じ時﹄比丘尼になったかも知れないのである。
こうした悲しい対話――これほどにも悲しい対話があるだろうか――が、いつもこの夫婦の間では、半ば詩のごとく、半ば笑談のようにして語られた。﹃あなたの鼻高い、あなたの眼大きい﹄などという時、夫人はいつも指でヘルンの顔を突ついたりして、子供を扱あつかうようにして戯れからかった。その度たびごとに、ヘルンはまた﹃ごめん、ごめん﹄などと言って笑いふざけた。そうした外うわ観べだけを見ている人は、おそらくこうした夫婦の生活を、たわいもない子供の﹃ままごと﹄遊びのように思ったであろう。しかもその対話の中には、いつも人生の最も悲哀な言葉が含ふくまれていた。そしてその悲哀の意味を知ってるものは、世界にただ二人の、妻と良人よりなかったのである。﹃家のパパとママとは、だれにも解らない不思議な言葉で、だれにも解らない神秘なことを話している﹄と子供が無むじ邪ゃ気きに言った言葉は、実際にもっと神秘な意味をもっていたのである。
ヘルン夫妻の結婚は、すべての点において特異であり、世の常の凡ぼん俗ぞくな夫婦関係とちがっていた。ヘルンにとっての夫人は、この世にただ一人の愛人であり、永久に﹃可愛い小さいママさま﹄であったと共に、またその仕事の忠実な助手でもあり秘書でもあった。日本字の読めないヘルンは、その﹃怪談﹄や﹃骨こっ董とう﹄やの題材を、主として妻の口述から得た。怪談を話す時には、いつもランプの蕊しんを暗くし、幽ゆう暗あんな怪談気分にした部へ屋やの中で、夫人の前に端たん坐ざして耳をすました。話が佳かき境ょうに入って来ると、ヘルンは恐ろしそうに顔色を変え、﹃その話、怖こわいです、怖いです﹄といっておののきふるえた。夫人にとっては、それがまた何より面白いので、話がおのずから雄ゆう弁べんになり、子供に聞かすようにしてなだめ話した。
こうした夫婦の生活では、読書が妻の重大な役目だった。ヘルンが学校に行ってる間、夫人は暇ひまを盗ぬすんで熱心に読書をし、手の及およぶ限り、日本の古い伝説や怪談の本を漁あさりよんだ。夫人が書斎の掃除をしたり、家事の雑務をしたりする時、ヘルンはいつも不機嫌であった。﹃ママさん。あなた女中ありません。その時の暇あなた本よむです。ただ本をよむ、話たくさん、私にして下され﹄と言った。しかしヘルンは、素読される書物の記事には、何の興味も持たなかった。すべての物語は、夫人自身の主観的の感情や解釈を通じて、実感的に話されねばならなかった。﹃本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければいけません﹄と常にいった。それ故多くのヘルンの著作は、書物から得た材料ではなく、その妻によって主観的に飜ほん案あん化かされ、創作化されたものを、さらにまたヘルンが詩文学化したものであった。それ故にヘルンもまた、自分の著作は皆妻の功績によるものだといって、深く夫人の労に感謝し、ある著述のごときは、実際に夫人の名で出版しようとしたほどであった。しかし夫人はあくまで良人に対して謙けん遜そんだった。彼かの女じょは田いな舎かの程度の低い学校を出たばかりで、充分の高等教育を受けなかったので、常に自分の無学を悲しみ、良人に対して満足な奉ほう仕しができないことを嘆なげき詫わびた。
ある時ヘルンから万葉集の歌を質問され、答えることができなかったので、泣いてその無学を詫び、良人に不実の罪の許しを乞こうた。その時ヘルンは、黙だまって彼女を書しょ架かの前に導き、彼の尨ぼう大だいな著作全集を見せて言った。この沢山の自分の本は、一体どうして書けたと思うか。皆妻のお前のお蔭で、お前の話を聞いて書いたのである。﹃あなた学問ある時、私この本書けません。あなた学問ない時、私書けました﹄と言った。実際もし彼の妻がインテリ女性であったとすれば、日本の古い伝説や怪談やを、女の素直な心で率直に実感することはできなかったろう。﹃無学で貞淑な女は天才以上である﹄とニイチェが言っているが、ヘルンの妻のごとき女性は、正にその意味での﹃天才以上﹄であったのである。
こうした貞淑の妻にかしずかれて、日本での晩年を平和に暮した詩人ヘルンは、さすがに自らその寂しい幸福を自覚していた。彼はその故国の友人に手紙を書き、日本での生活実じっ況きょうを次のように詳しょ述うじゅつしている。曰いわく、学校の講義が終ると、車夫が人力車を持って迎むかえに来ている。家の玄げん関かんへつくと、車夫がとても威いせ勢いの好よい大きな声で、﹃オ帰リイ﹄と叫さけぶ。すると家中の者がぞろぞろ出て来る。妻や女中たちが、玄関の畳に列ならび坐って、﹃お帰り遊ばせ﹄とお辞じ儀ぎをする。それから座敷へ上ると、妻が洋服をぬがせて和服に着かえさせてくれる。まるで女の子が、人形を玩おも具ちゃにするようである。私は妻の為なす通りに任せている。それから少し休息し、書斎に入って仕事をする。晩食の時には、一家の者が集まって話をする。私が日本酒を飲むので、妻が酌をしてくれる。女たちはよく笑う。私も時々笑談を言う。仕事の多い日には、しばしば夜よ更ふかしをして書きつづける。そういう時、妻はわざわざ私の所へやって来て、﹃遅おそくなりますから、お先へ休ませて戴いただきます﹄と言う、丁てい寧ねいに三つ指をついてお辞儀をし、それから自分の寝ねど床こへ入る。度々のことで面めん倒どうだから、今度から止やめにして、先へ勝手に寝ることにしろと何度も言うが、妻は婦道に背くと言い、なかなか承知しないので困っている云うん々ぬん︵大意︶と。
こうした手紙の中に、ヘルンの大得意な満まん悦えつさが現われている。実際彼の妻のように、良人に対して忠実な奉仕をする女性は、普通の西洋婦人の中にはほとんどなく、これほどまた男が殿との様さま扱あつかいにされる家庭生活も、西洋では考え及ばないことであるから、ヘルンの手紙をよんだ外国人たちが、いかにその日本の友人を羨せん望ぼうしたかが想像される。ヘルン自身も、もちろんまたそれを意識して書いてるので、﹃どうだ。羨うらやましかろう﹄という自じ誇この情が、そうした手紙の言外によく現われてる。
しかしヘルンのように神経質で気むずかしく、感情の変化が烈はげしい男に仕えるのは、普通のありふれた日本の女性では、容易に為し得ないことであったろう。真の﹃貞淑﹄とは、良人に奴ぬ婢ひとしての善き奉仕をすることではなくして、良人の気質や性格をよく理解し、努めて良人に同化して一心同体となることの奉仕である。そしてそのためには、人の心理を洞どう察さつする聡そう明めいな智ち慧えと、絶えず同化しようと努めるところの、献身的な意志と努力が必要である。ヘルンの妻であった日本女性は、もとより極めて聡明であったと共に、武士道ストイシズムの家庭教育から、非常な意志の力をもって努力した。彼女は自らそれを告白して、良人の気性をすっかり呑のみ込こむようになるまでは、一通りでない努力をしたと言ってる。しかしよく解った後では、全く子供のように正しょ直うじ一きい途ちずで、子供のように純情無比の人であったと言ってる。実際ヘルンは――多くの天才的な詩人と同じように――本質的に子供らしい純情さと無邪気さを持った性格者だった。そのため夫人は一面において旧日本的な婦道と礼節とによって、恭うやうやしく彼に仕えながらも、半面においては彼を子供扱いにせねばならなかった。夫人にとってのヘルンは、最も信しん頼らいする良人であったと共に、一面ではまた﹃大きな駄だ々だッ子こ坊や﹄でもあった。ヘルンの趣味はすべてにおいて庶しょ民みん的てきで、儀式ばったことが嫌いなので、フロックコートなどの礼服を非常に嫌い、常に野蛮人の服と称し﹃なんぼ野蛮の物﹄と言っていた。それで学校に式のある時など、他の教師は皆礼服で列席するのに、ヘルンは一いっ張ちょ羅うらの背広で押おし通していた。しかしそれではあまり体面に関するので、夫人が是非フロックコートを新調するようにすすめたが、頑がんとして中々きかない。それで夫人から﹃あなた、日本のこと、大変よく書きましたから、お上かみで、あなた賞ほめるためお呼びです。お上に参るの時、あなた、シルクハット、フロックコートですよ﹄などと、子供をだますようにして説き伏ふせられ、やっと礼服を新調したけれども、やはり少しも着ようとしない。それで式のある日などには、夫人が無理に押おさえつけ、女中までが手伝って騒さわぎながら、まるで駄々ッ子を扱うように、あやしたりすかしたりして、厭いやがるのを強しいて着せねばならなかった。
いわゆる﹃文明﹄を嫌ったヘルンは、反対にあらゆる自然を深く愛した。特に虫や鳥やの小動物を愛し、蛇へび、蛙、蝉せみ、蜘く蛛も、蜻とん蛉ぼ、蝶ちょうなどが好きであった。それらの小動物に対して、彼はいつも﹃あなた﹄という言葉で呼びかけ、人間と話すようにして話をした。そうした彼の宇宙的博愛主義は、草木万有の中に霊れい性せいが有ると信じられてるところの、仏教的な汎はん神しん論ろんにもとづいていた。それ故彼は、動物を始め植物に至るまで、すべて生物を虐いじめたり殺したりすることを非常に叱しかった。女中が蛇を追ったといって叱られ、植木屋が筍たけのこを抜ぬいたといって怒られ、はては﹃おババさま﹄の姑でさえが、枯かれた朝顔をぬいたというので﹃おババさま好き人です。しかし朝顔に気の毒しました﹄と叱こご言とを言われた。
ヘルンはまた猫ねこが特別に好きであった。松江に居た時も焼津に居た時も、道に捨猫さえ見れば拾って帰り、幾いく疋ひきでも飼かって育てた。夫人と結婚して間もない頃、雨でずぶ濡ぬれになった小猫を拾って帰り、その泥どろだらけのままの猫を懐かい中ちゅうに入れて、長い間やさしく暖めていた。夫人の告白によれば、自分の良人に対する真の愛は、その時初めて起ったという。これほどにも情深く、心根のやさしい人があるかと思い、ヘルンに対して、何かいじらしく涙なみだぐましいものさえも感じたというのである。
そうしたヘルンの家庭では、自然界のちょっとした出来事や現象やが、いつも物もの珍めずらしく大騒ぎの種になるのであった。たとえば裏の竹たけ藪やぶに蛇が出たとか、蟇ひきが鳴いてるとか、蟻ありの山が見つかったとか、梅うめの花が一輪咲さいたとか、夕焼が美しく出ているとかいうようなことを、だれか家人の一人が発見すると、一々それをヘルンの所へ報告に行く。するとヘルンは大悦びで部屋をとび出し、﹃いかに可愛きでしょう﹄とか﹃なんぼ楽しいの声でしょう﹄とか﹃いかに綺きれ麗い﹄とか言いながら、何時間もその小動物を眺ながめたり、夕焼雲を見たりして悦ぶので、そうした小事件が見つかるたびに、女中や書生等の家人たちが、さも大おお手てが柄らの大発見をしたように、功を争ってヘルンの所へ馳かけつけるので、いつも家中が和なごやかに賑にぎわっていた。
しかし仕事をしている時のヘルンは、最も気むずかしやの八やか釜ましい主人であった。家内のちょっとした物音や話声にも、感興を破られたといって苦情を言った。夫人でさえも書斎に入ることは許されなかった。ちょうど﹃美しいシャボン玉﹄を壊こわさないように、注意に注意して気をつけましたと、未亡人となった夫人が後で言っている。しかしあまり部屋が乱雑に散らかるので、夫人が折おりを見て掃除に行くと、﹃あなた、いつも掃除、掃除、掃除。あなたの悪い病くせです﹄といって、中々許してくれないので、書斎はますます乱雑になるばかりであった。
ヘルンの机の座ざゆ右うには、常に日本の煙草盆と煙管がそなえてあった。ヘルンは日本の煙管を好んだので、夫人が外出するごとに変った物を見付けて帰った。それがたまって三十本にもなってるのを、残らずヘルンは座右におき、仕事の中うちにも手当り次第に掴つかみ出しては、国こく分ぶの刻煙草をつめて吸ってた。ある時夫人が、江えの島しまに遊んだ土みや産げとして、大きな法ほら螺が貝いを買って帰った。ヘルンはそれがたいへん気に入り、﹃面白いの音﹄といいながら、頬ほおをふくらして、ボオボオと吹ふき鳴らしては、また﹃いかに面白い﹄といって吹き続けた。それでその貝を机に置き、今後煙草の火が消えた時は、手を鳴らす代りに貝を吹くという約やく束そくにした。
西大久保の家に移った時は、ヘルン夫妻と姑の外に、子供が三人。女中が二人、書生が一人、老ろう僕ぼくが一人、他に抱かか車えし夫ゃふが一人という大家族であったので、家も相当に広く、間数がいくつもあって廊ろう下か続きになっていた。しかしヘルンが仕事をしている時は、家人が皆神経質に注意しているので、家中がひッそりとして閑かん寂じゃくに静まり返っていた。そういう時の夜などに、ヘルンの書斎から法螺貝の音が聞えて来ると、それが広い家中に響き渡って、ボオボオと余よい韻んの浪なみをうって伝って来る。すると﹃それ貝が鳴った﹄とばかり、夫人を初め女中や書生たちが大騒ぎをし、先を争って離れの書斎に駈かけつけた。﹃吹くのが面白いものだから、自分でわざと火を消しては、やたらに吹いた﹄と、夫人が追想談で話しているが、おそらくそういう場合、ヘルンの筆が行き渋しぶり、感興が中断した時であったろう。そうした時の寂しさとやるせなさを紛まぎらすために、詩人はわざと煙草の火を消し、ボオボオという寂しい貝を吹いたのである。
晩年の八雲は、痛ましいまでその仕事に熱中した。既に老の近づいたことを知った彼は、自分の残されてる短かい時間に、なおまだ書かねばならない大事の事が、あまりに多くありすぎるのを考えて愁しゅ然うぜんとし、﹃人生は短かすぎる﹄と幾いく度ども言って嘆たん息そくした。彼は心臓に病があった。その危険な兆ちょ候うこうが、五十歳さいを越こえてからしばしば現われて来た。初めて大久保の新居に移った時は、春の麗うららかな日であって、裏の竹藪で鶯うぐいすがしきりに鳴いてた。八雲は縁えん側がわに立ってそれに聞き惚ほれ、﹃いかに面白いと楽しいですね﹄と言って喜んだが、また﹃私、心痛いです﹄と言った。何か心配でもあるのかと夫人が聞いたら、あまり楽しくて嬉うれしいので、いつまでこの家に住み、いつまでこんな幸福が続くかと思い、それがまた心配になって来たと言った。そうした彼の言葉通りに、現実の心配が迫せまって来た。老いが既に来り、死の近づいて来たことを知った彼は、すべての自然を感傷的に眺めることから、万象に対して愛以上の深いものを注いだ。ある晩秋の日に、庭の桜さくらが返り咲きをしたのを見て、﹃春のように暖かいから、桜思いました。ああ今、私の世界となりました。で咲きました。しかし……﹄と言って悲しげに﹃かわいそうです。今に寒くなります。驚おどろいて凋しぼみましょう﹄と言った。桜は実際その日一日で散ってしまった。またその同じ秋の夕べ、籠かごに飼ってる松虫が鳴いてるのを聞き、﹃あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ悦びました。しかし段々寒くなって来ました。知ってますか。知っていませんか。直じきに死なねばならないということを。気の毒ですね。かわいそうな虫﹄と寂しげに言い、この頃ころの暖かい日に、そっと草むらの中に放してやれ、と家人に言いつけた。
その頃のヘルンは、瞬時を惜おしんで仕事に熱中していたため、以前のようには、度々妻と一所に旅行したり、散歩したりすることができなかった。それで妻の屈くっ託たくを慰めようとし、夫人に向って度々外出や遊ゆさ山んをすすめた。﹃外に参りよき物見る。と聞く。と帰るの時、少し私に話し下され。ただ家に本を読むばかり、いけません﹄と言った。また時々は夫人に芝しば居い見物をすすめて、﹃歌か舞ぶ伎き座ざに団だん十じゅ郎うろう、たいそう面白いと新聞申します。あなた是非に参る、と、話のお土産﹄など言いながら、後ではいつも少し凋しおれて﹃しかしあなたの帰り、十時、十一時となります。あなたの留守、この家私の家ではありません。いかに詰つまらんです。しかし仕方がない﹄などと言った。
初めて病気の発ほっ作さが起った時、ヘルンは自己の運命をすっかり自覚し、死後における妻子の保護と財産の管理とを、親友の法学士に一任して、後に心がかりのないようにした。そして妻に向って言った。﹃この痛み、もう大きの、参りますならば、多分私は死にましょう。私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶かめ買いましょう。三銭あるいは四銭位です。私の骨入れるために。そして田舎の、寂しい寺に埋うめて下さい。悲しむ、私よろこばないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。いかに私それを悦ぶ。私死にましたの知らせ、要いりません。もし人が尋たずねましたならば、ハア、あれは先頃なくなりました。それでよいです﹄と、そして何か困難な事件が起ったならば、法学士の梅氏に相談しろと言った。﹃そのような哀あわれな話、して下さるな。そのようなこと、決してないのです﹄と夫人が言うに対しても、﹃心からの話、真ま面じ目めのことです﹄と言い、﹃仕方ない!﹄と死を覚かく悟ごしていた。しかもなお残された仕事のことを考え、﹃人生は短かすぎる﹄と幾度か嘆息した。
桜の花が返り咲きをした日から、数日を経てまもなくヘルンは死んでしまった。死ぬ前の日に、彼は不思議な夢を見たと妻に話した。それは日本でもない、支那でもない、大層遠い遠い見知らぬ国へ、長い旅をした夢であった。そして今ここに居る自分が本当か、旅をした自分が本当かと夫人に問い、﹃ああ夢の世の中﹄、と呟つぶやいて寂しげに嘆息した。わが漂泊の詩人芭ばし蕉ょうは﹃旅に病んで夢は枯かれ野のをかけめぐる﹄といって死んだ。夢見ることによって生きた詩人等は、また夢見ることの中で死ぬのであった。世界の国々を漂泊して、ついに心の郷愁を慰められなかった旅人ヘルンは、最後にまたその夢の中で漂泊しながら、見知らぬ遠い国々を旅し歩いた。今、この悲しい詩人の霊れいは、雑ぞう司しヶが谷やの草深い墓地の中に、一片の骨となって埋まっている。
︵昭和十六年九、十月︶