巴里の手紙

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke

堀辰雄訳




 ライネル・マリア・リルケは一九〇二年八月末はじめて巴里に出た。「美術叢書」(Die Kunst)を監修してゐたリカルド・ムウテル教授に囑せられてロダン論を書くためであつた。リルケは先づ、ソルボンヌ區トゥリエ街十一番地に寓した。八月二十八日の夕方、妻クララに宛てて、「誰れももう疑へませぬ、私は巴里に居るのです、いま私の住まつてゐるこの一隅がどんなに物靜かであつても。私は唯一つの期待(une seule Attente)です。どんな風になることでせう? 私の部屋は三階か四階にあります(私はそれを數へようとはしませぬ)、そして私を得意にさせてゐるのは、この部屋には鏡のある煖爐、振子時計、それから二つの銀の燭臺があることです……」と書いてゐる。巴里とロダンと――この二つのものこそ當時のリルケにとつては彼のすべてであつた、と言へる。私は此處にその最初の巴里滯在中の詩人のすがたを彷彿せしめるに足りる三つの手紙を抄する。
 後出の妻クララ及びロダンに宛てられた二つの手紙は、前述のトゥリエ街の寓居で書かれたものだが、最初のルウ・アンドレアス・サロメに宛てて書かれた手紙は、その翌年羅馬から獨逸のヴォルプスヴェデに歸つてから當時を追想して書かれたものである。この手紙の中に精妙に描かれてゐるいくつかの巴里の情景は、後日「マルテの手記」の中に殆どそつくりそのまま用ひられてゐる。


一 ルウ・アンドレアス・サロメに


一九〇三年七月十六日、ブレェメン郊外ヴォルプスヴェデにて
 ※(二の字点、1-2-22)   西辿沿H※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)tel-Dieu ※(二の字点、1-2-22)使 ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)
 ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)姿
 使
        
 
 ※(二の字点、1-2-22)※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)
 調姿 


 


一九〇二年九月十一日、巴里トゥリエ街十一番地
   ()  


  


巴里、一九〇二年九月十一日、トゥリエ街十一番地
 
 ※(二の字点、1-2-22)
 
 西

Ce sont les jours o※(グレーブアクセント付きU小文字) les fontaines vides
mortes de faim retombent de l'automne,
et on devine de toutes les cloches qui sonnent,
les l※(グレーブアクセント付きE小文字)vres faites des m※(アキュートアクセント付きE小文字)taux timides.

Les capitales sont indiff※(アキュートアクセント付きE小文字)rentes.
Mais les soirs inattendus qui viennent
font dans le parc un cr※(アキュートアクセント付きE小文字)puscule ardent,
et aux canaux avec les eaux si lentes
ils donnent une r※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)ve v※(アキュートアクセント付きE小文字)netienne……
et une solitude aux amants**.

          ※(アステリズム、1-12-94)

 何故、私は貴方にこんな詩句を書いたかと申しますと、これが何も良い詩句であると信じてゐるからではありませぬ。唯、自分を導いてゐて下さる貴方に、自分を近づけたいから許りであります。貴方こそは、この世の中で唯一人の、均衡と力とに充ちながら、御自身の作品とぴつたり調和してゐると自稱し得られる、御方でありませう。そして若しも、その偉大な、すこしも危氣のない作品が、私にとりまして、それに就いてはもはや畏怖と讚美とに溢れた顫へ聲でしか語ることの出來ぬやうな、一つの出來事となつたとしますれば、それらの作品はまた、貴方御自身のやうに、――私の生、私の藝術、私の魂のなかでも最も純粹であるところのすべてのものに對する、一つの御手本ででもあるのであります。
 私が貴方の許に參りましたのは、何も研究をするため許りではありませぬ、――それは、如何に生くべきか? といふことを貴方にお尋ねしようと思つてでありました。そして貴方はそれに對して、「仕事をしながら」とお答へになられた。私にはそれがよく解りました。仕事をすること、それは死なしに生きることであることを、私は感じました。私はいま、感謝と喜びとで一ぱいになつて居ります。何故なら、私はごく若い時分から、仕事以外のものを求めませんでした。そして私は努力いたしました。が、私の仕事は、それを私が非常に愛してゐたがために、いつの間にか、稀有な靈感に起因する、大袈裟な行事、お祭り騷ぎになつてしまひました。そして、徒らに、唯、創造的な時間の來るのを、無限の悲しみをもつて待つてゐるのみ、といつたやうな數週間がありました。それは深淵に充ちた生でありました。私は靈感を喚ぶためのあらゆる人工的な方法を恐ろしげに避けて居りました、私は葡萄酒(ずつと前から嗜んでゐた)も廢するやうになりました、私は自分の生を自然そのものに近づけようと努力いたしました。……が、確かに合理的であつたあらゆる方法の中で、仕事をしながら、遠い靈感を獲得するといふ勇氣だけが私にはありませんでした。いま、私はそれのみが靈感を保つてゐる唯一の方法であることを知り得ました。――そしてそれは、貴方が私に與へて下さつたところの、生と希望との大いなる再生であります。それから私の妻のことを一寸申しますが、實は去年、私達は非常に大きな負債をしてそのため大へん苦しみました。そしてそれはまだすつかり片がついて居りません。が、私はこれからは、自分の休みなき仕事が、そんな貧乏の苦しみをも取り除いてくれることと信じます。私の妻は、私達の小さな小供から離れなければなりませぬ。そしてそのことの必要は、妻も、私が彼女に貴方のおつしやつた「仕事と忍耐と」といふ御言葉を書いてやりましてからは、ずつと平靜に、ずつと正しく考へて居るやうであります。
 私の妻が貴方のお傍に、貴方の偉大な作品のお傍にゐるやうになれば、私はどんなに幸福でありませう。貴方のお傍にさへゐれば誰も道に迷ふやうなことはありませぬ。
 若し自分のやうな者にも、この巴里で、何等かの形式で、パンを得ることが出來ますやうなれば、私はそれをやつて見たいと思ひます。――(それとて私にはほんの僅かしか要りませぬ。)出來れば、私はもつと此處に止まりませう。さもなくて、若し私がうまく行かないやうでしたら、貴方がそのお作品や、そのお言葉や、貴方がその「主」であるところの永遠なお力のすべてでもつて、私を御助力くださつたやうに、私の妻をも御助力くださいますやうに。
 貴方のお庭の沈默のなかに、私が居りましたのは、昨日のことでございます。いま、大都會の物音はずつと遠退いて居ります。そして私の心のまはりには深い沈默が領し、そしてその中には貴方の御言葉が彫像のやうに立つて居るのでございます。
 では、今度の土曜日に。
頓首
貴方の

ライネル マリア リルケ


* 「La Plume」(美術雜誌)は一九〇〇年にロダン號を出した。

** 大意。――「すつかり水の涸れてゐた、空つぽな噴水が再び落ち出す、秋の日々であつた。そして鳴りひびく鐘の音にも、彼等の金屬の脣のいかにも不安さうなのが感ぜられた。けれども、市中はそれには無頓着な樣子をしてゐる。と、突然夕暮がやつて來て、公園のなかには燃えるやうな薄明を生じさせ、ゆるやかに水の漂つてゐる運河にはヴェネチア風の夢を與へ、それから戀人達には孤獨をもたらす……」






底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
初出:「四季 第四号・昭和十年二月号」
   1935(昭和10)年1月25日
   「四季 第五号・昭和十年三月号」
   1935(昭和10)年2月20日
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年1月9日作成
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