池は雨中の夕陽の加減で、水銀のやうに縁だけ盛り上つて光つた。池の胴を挟んでゐる杉木立と青蘆あしの洲すとは、両脇から錆さび込む腐ふし蝕ょくのやうに黝くろずんで来た。 窓外のかういふ風景を背景にして、室内の食卓の世話をしてゐる女主人の姿は妖あやしく美しかつた。格かっ幅ぷくのいゝ身体に豊かに着こなした明あか石しの着物、面おも高だかで眼の大きい智的な顔も一色に紫がゝつた栗くり色に見えた。古墳の中の空気をゼリーで凝こごらして身につけてゐるやうだつた。室内でたつた一人の客の私は、もう灯ひをともしてもいゝ時分なのを、さうしないのは、今宵私を招いた趣旨の蛍ほたる見物に何か関係があるのかも知れないと思ひ、すこしは薄気味悪くも我慢して、勧められるまゝ晩ばん餐さんのコースを捗はかどらせて行つた。だん〳〵募る夕闇の中に銀の食器と主客の装身具が、星座の星のやうに煌きらめいた。 女主人久隅雪子は私と女学校の同級生で、学校を卒業するとしばらく下町の親の家に居たことだけは判つたが、直ぐ消息を断つた。それから十年あまりして私は既に結婚してゐて、良おっ人とに連れられて外遊する船がナポリに着いた時、行き違ひに出て行かうとする船に乗り込む遽あわただしいかの女に、埠ふと頭うでぱつたり出で遭あつて、僅わずかにお互たがいに手を握つた。あとは私の帰朝後を待つてといひ残して訣わかれてしまつた。 二人ともいはゆる箱入娘で、女学生にしてもすでに知らねばならない生理的の智識に疎うといところがあり、よく師友から笑ひ者にされた。その代り二人は競つて難しい詩や哲学の書物を読んだ。さういつた関係から、双方無口であり極度の含はに羞かみやでありながら、何か黙照し合ふものがあるつもりで頼たの母もしく思つてゐた。だが私が四年目に帰朝し、それから二三年も経たつたのに、かの女からは再び何の消息もなく、同窓の誰も知らなかつた。一度こちらから親の家へ尋ね合した手紙は、久しく前に移転して住所不明の附ふせ箋んで返されて来た。 ところが突然かの女は郊外の新居といふのから電話して来て、車を廻して寄よ越こし、自宅で蛍見物をさすといふのに、のん気な昔の友人訪問の気持を取り戻して、私は来て見たのであつた。 淡い甘さの澱でん粉ぷん質の匂ひに、松まつ脂やにと蘭らん花を混ぜたやうな熱帯的な芳ほう香こうが私の鼻をうつた。女主人は女中から温まつた皿を取次いで私の前へ置いた。 ﹁アテチヨコですの?﹂ ﹁お好き?﹂ ﹁えゝ。でも、レストラントでなくて素しろ人うとのおうちでかういふお料理珍しいと思ふわ﹂ ﹁素人ぢやございませんわ。店の司シェ厨ッ長フを呼び寄せて、みな下で作らして居ますのよ﹂ ﹁わざ〳〵、まあ、恐れ入りました﹂ ﹁私、最近に下町で瀟しょ洒うしゃなレストラントを始めようと思つて、店や料理人を用意してありますのよ﹂ 女主人はレモンの汁を私の皿の手前に絞つて呉くれ、程よく食塩と辛から子しを落して呉れた。私は大きな松の実のやうな菜果を手探りで皮を一枚づゝ剥はぎ、剥げ根にちよつぽり塊かたまつてついてゐる果肉に薬味の汁をつけて、その滋味を前歯で刮かき取ることにこどものやうな興味を湧わかしながら、 ﹁まあ、あなたがお料理屋を、どうして﹂ ﹁――何かして紛らしてゐなければ――独身女はしじゆう焦いら々いらしますのよ﹂ さう云つて友はちよつと眉まゆを寄せたが、友の内心には何ど処こかさとりめいた寛くつろいだ場所が出来、一脈の涼風が過かふ不きゅ及うなしの往来をしてゐるらしくも感じられる。下手な情感的な態度を見せては案外友を煩うるさがらさぬともかぎらない。 ﹁それよりも、私、私が今度買ひ取つて落着くやうになつたこの家に就いて不思議な因縁話があるの、あなたに聴いて頂かうと思つて……さう陽気な話ぢやありませんの。灯ひをつけて話しますわ﹂ 夕顔の花のやうな照り色のシヤンデリヤがぽつとついた。室内の照明に負けて窓外の景色はたちまち幕を閉ぢて、雨の銀糸が黒い幕面にかすれた。一たん眼を冥つむつた友はまたぱつと開いて私の顔を真まと面もに見た。これも昔見た友の癖である。 かの女は女学校を卒業して親の家で結婚前の生活をしてゐる期間に、望まれて父親の知合ひで郊外に隠寮を持つ退職官吏Yの家へ客分として預けられることになつた。 退職官吏Yの考へでは、自分の蒐しゅ集うし品ゅうひんの殊ことにこまかい細工ものゝ昔人形や、壊れものゝ陶すえもの類は、骨こっ董とう美術品商の娘であるかの女の馴なれて丹念な指先が、手入れ保存に適当だと思つたからであつた。かの女の父はまたかの女がたとへ富んだ老しに舗せの長女でも、下町の娘であるからには躾しつけに至らぬ我わが儘ままなところがあらう。一度は上層智識階級の家へ入れて見習はしたいといふ昔風の考へがあつた。雪子の父はなまじなよその夫人よりY家の主人を非常に厳格な躾け正しい人と信じてゐたから…… かの女はちよつとした嫁入支度ほどの調度を持つて、Yの隠寮へ寄寓した。 あてがはれた庭向きの客座敷の隣の八畳へ調度を収めて、女らしい部屋にしてかの女は落着いた。家長のYは、かの女が落着くとすぐ部屋に兵へこ児お帯びをちよつきり結びにした大だい兵ひょうの体を唐突に運び入れて来て、衣いこ桁うにかけた紅入りの着ものや、刺しし繍ゅうをした鏡台の覆ひをまじ〳〵と見て、 ﹁娘の子を一人持つたやうだ﹂ これが精一杯のお世辞の挨あい拶さつだといふやうに、ぶつきら棒に云つた。そして直ぐ椽えんから盆栽棚のたくさん並んでゐる庭へ下りて行つた。 その後はYは一度も部屋に見舞つて来なかつた。そしてとても仕切れないほどの所蔵品の手入れを命じたり、観賞するためにあれこれと蔵から出し入れさせられて煩うるさかつた。彼は偏執症の蒐集慾以外に精力を使ふことを絶対に嫌つた。早く妻に訣わかれてからは、異性には全然関心を持たなかつた。それは彼の最も世の中で価値ありとする品とか気位とか悧りこ巧うとかを誑きょ惑うわくする魔まし性ょうのものに外ほかならなかつた。たゞ彼は気短かになつて、しば〳〵癇かん癪しゃくを起した。それらの性癖の諸点が却かえつて彼を厳格端正に表面化させたのだと雪子はYに就いての世評の裏を知つた。 何にでも極度に好き嫌ひをつけるYは、自分の息子兄弟にもそれをした。弟息子の梅うめ麿まろは父の唯一の寵ちょ児うじだつた。彼はやゝ下しも膨ぶくれの瓜うり実ざね顔がおの、こんもり高い鼻の根に迫らぬやう切れ目正しくついてゐる両眼の黒い瞳に、長い睫まつ毛げを煙らせて、地を見入つてゐるときには、何を考へてゐるか誰も察しがつかなかつた。桐きりの花のやうに典雅でつくねんとした美しさが匂つた。声も鋭さを鞣なめして楽しい響きを持つてゐた。彼はいつでも不機嫌に近く黙つて孤独で、地へ向けて長い睫毛を煙らせてゐた。雪子は新しく家族の仲間に加はつた自分に対し、若い女性に対し、何の影響をも示さないこの少年に、焦いら立だたしさと、不満を含まないわけにはゆかなかつた。 だが、その美しさには雪子も呆ぼう然ぜんとして息を吐いた。父は梅麿を自分の蒐しゅ集うし物ゅうぶつの愛あい玩がん品の中に数へ、しかもその中で最も気に入つた一つのものゝやうに、書斎で、庭で、二人は大概一緒だつた。そして父はこの息子に下した手てからお世辞を使ふ態度を取つてゐた。梅麿は父がお世辞を使ふ気持を見抜いて、とぼけて悠々とお世辞を使はれてゐた。だが決して調子に乗らなかつた。そして、父が理由もなく癇かん癪しゃくを起しかけて来ると、少女よりやゝしつかりした綺きれ麗いな唇を嬌然と笑みかけて、あどけないことを云つたり、親を煽おだてたり、他人の悪口を云つたり、およそ父の弱点が喜びさうなところを衝ついて、素そ知しらぬ顔で父の気分を持ち直させることに、気けざ敏とい幇ほう間かんのやうな妙を得てゐた。 雪子はいやらしいと思ふ以上に、その技巧の冴さえに驚嘆した。だが、梅麿は父以外にはその手は絶対に使はなかつた。 父の気紛れが、面白くない仕しづ辛らい仕事を望むときには、梅麿はすーつと脇へ除よけた。夜中に急に風呂を沸かさせたり、椽えんの下の奥に蔵しまつてある重いものを取出さしたり――さういふときには兄の鞆とも之のす助けが、ぶつ〳〵いふ召使を困りながら指揮して、その衝しょうに当つた。 父はこのことを知つてゐて、 ﹁梅は狡ずるいやつだ﹂ といつて笑つたが、その狡さが気に入つてもゐた。 兄の鞆之助は反対に調法の外ほか、何から何まで、父の気に入らなかつた。父は兄息子の顔を見るとむつと黙つて仕し舞まふか、癇癪を浴せかけた。命令通り出来上つた仕事も、その命令通りにした愚直なことが、そこに叱こご言との隙すき間まもないことで父を怒らせた。兄はしじゆうおど〳〵してゐて、眼鼻立ちに神経の疲労と愁うれひの湿りがあつた。濃い頭の捲まき毛げだけが兄弟似寄つてゐた。兄弟は父が現代教育の方針に不満といふ理由で、一人は中学を、一人は高等学校を、途中から退学させられて、通つて来る二三人の家庭教師に就つかされてゐるが、実は父が家庭に於ける享きょ楽うらく生活に手不足を来きたすのを、父は極力嫌つたためでもあつた。 兄の鞆之助は雪子の部屋へよく遊びに来た。雪子が部屋の周囲に、蔵から出して来た、真ほんものゝ植物以上に生々と浮き出てゐる草花が染付けられてゐる鉄辰しん砂しゃの水差や、掌てのひらの中に握り隠せるほどの大きさの中に、恋も、嘆きも、男女の媚びた態いも大まかに現はれてゐる芥け子し人形や、徳川三百年の風流の生きっ粋すいが、毛筋で突いたやうな柳と白しら鷺さぎの池ちす水いに彫きざみ込まれた後藤派の目め貫ぬきのやうなものを並べて、自分の店から持つて来たいろ〳〵の専門の道具や薬品を使つて手入れしながら、面倒臭く思つて伸びをしたり、または芸術といふ不思議な幻術が牽ひき入れる物憎い恍こう惚こつに浸ひたつたりしてゐると兄はおづ〳〵入つて来る。 彼はかの女の傍に立たて膝ひざして坐すわると、いくらか手入れを手伝ひながら、かの女の気配を計つた。かの女の丸い顔をいぢらしさうに見た。 ﹁うちは、これでね、思つたほど豊かぢやないんですよ。何しろ父はあゝいふ風でせう。何でも見付け次第買つちまつて、とき〴〵月末の生活費の払ひの現金にも困ることがあるんです﹂ かの女は興味索然としながら話に釣り込まれた。 ﹁あなた方ご兄弟は将来どうするお積り﹂ ﹁父が生きてゐるうちは今の財産を使つちまつても、父の恩給で米代ぐらゐはありますが、父が死んだらこんな道具類でもぽつ〳〵売つて喰つて行くより手はありません。それにしても贋にせ物ものが多くて﹂ ﹁持参金附きのお嫁さんでもお貰もらひになつたらいかゞ。ご兄弟とも美男子だしお家柄はよし﹂ かの女は揶から揄かつた。鞆之助は真まに受けた。 ﹁だめですよ。第一僕等に学歴はなし、それにかう見えて、僕は女に対してうんと贅ぜい沢たくな好みを持つてゐるんです﹂ ﹁弟さんは﹂ ﹁あれは父と同じに女嫌ひらしいです﹂ さうかと思ふとまたの日は急に朗らかで、いそ〳〵して来て、どこから探し出して来たか、古風な猥みだらな絵巻物をかの女にそつと拡げかけるやうなこともあつた。かの女は極力平静を装つて、彼の顔を正視した。 ﹁それどこが面白いのでございます﹂ すると、彼は照れて、 ﹁僕にはものを考へないといふモツトー以外には生きる方法はないんです。単に刹せつ那な々々の刺しげ戟きのほかには……﹂ と負け惜しみのやうなことを云ひながら、手持ち不ぶ沙さ汰たにそれを巻き納めて部屋を出て行くのだつた。 父のYは旧幕の権臣の家の後こう嗣し者であつた。旧藩閥の明治の功傑たちは、新政府に従順だつた幕府方の旧権臣の家門を犒ねぎらふ意味から、その後嗣者を官吏として取り立てた。Yは相当なところまで出世した。しかし、Yの持つて生れた度外れの気位と我がし執ゅうの性質から、たうとう長ちょ上うじょうと衝突して途中で辞めて仕し舞まつた。遺産のあるまゝに生来の蒐しゅ集うし癖ゅうへきに耽ふけつて、まだ壮年をちよつと過ぎたくらゐの年頃を我わが儘まま三ざん昧まいに暮さうと決めてしまつた。恐るべきエゴイストの墓標のやうな人間であつた。 Yの権けん高だかな気風と、徹底した利己主義に、雪子はやゝ超人的な崇高な感じは受けたが、下町娘の持つ仁にん侠きょう的な志気はYにひどい反抗と憎みを持つた。あはよくば、Yが寵ちょ愛うあいしてゐる弟息子を奪つて、父の傲ごう慢まんの鼻を明かしてやらうとさへヒステリカルに感じた。 兄の息子は、膨れ目まぶ蓋たのしじゆう涙ぐんでゐるやうに見える、皮膚の水つぽい青年だつた。女のことで一度落おち度どがあつたといふ噂うわさだが、しかしそのことが原因ばかりでもない蔭の人の性分を十分持つてゐて、父や弟から、身内と召使ひとの中間の人間に扱はれ、雇やと人いにんに混つて、自然にこの別寮の家か扶ふのやうな役廻りになつてゐた。しかし、見かけほど悲劇的な性格もなく、どこかのん気で愚おろかなところがあつて、情操的にものを突き詰めては考へられなく、萍うきくさの浮いたところがあつた。 母のゐないこの別寮で、兄の鞆之助は主婦のやうな役目にもなつた。雪子が来て二月ほどしたある日、弟の梅麿はかの女の部屋に来てゐた兄のところへ珍しく入つて来て、 ﹁兄さん、僕に出して呉くれた着物、綻ほころびが切れてるぢやないか﹂ と袂たもとをあげて脇を見せた。 すると兄ははら〳〵しながら、美しく重圧して来る弟の黒い瞳に堪へないやうに眼を伏せて目まぶ蓋たをぴり〳〵させ、 ﹁だつて、いま、婆ばあやも女中も使ひに出しちやつてゐないんだから仕方がないよ﹂ すると梅麿は苦いものに内部から体を縒よぢ廻されるやうに憂ゆう鬱うつな苦悩を表情に見せて、 ﹁もう浴ゆか衣たでなきや暑くて、お父さんにいひつかつた庭の盆栽へ水をやりに行けないぢやないか――兄さん自分で縫つてお呉くれよ﹂ 兄の不ふ甲が斐いない性質に対する日頃の不満と、この弟を凝こごつた瑩えい玉ぎょくのやうに美しくしてゐる生れ付き表現の途みちを知らない情熱と、生命力の弱いものに対しては肉親でも奴どれ隷いのやうに虐しいたげて使つてしまふ親譲りのエゴイズムとが、異様で横暴な形を採つて兄に迫つた。 兄は困つたやうな情けないやうな表情をして、突き付けられた浴ゆか衣たに近寄つて行つた。 しかし、傍に雪子のゐるのを見ると、薄い乾いた下唇をちよつと舌の先で湿らしてから、兄はにやりと笑つた。 ﹁無理をいふなよ――だめだよ。男になんか、縫へなんて……﹂ そして腕組みをして昂こう然ぜんとした態度を作つた。それには不自然なところがあつた。兄はありたけの勇を揮ふるつて弟の瞳に睨にらみ合つた。 雪子の立場が切ないものになつて来た。雪子は彼女の箪たん笥すの観音開きから急いで針道具を取出して来て、弟の持つてゐる浴衣に手をかけた。 ﹁何でもありませんわ。あたし縫つてあげますわ﹂ すると、梅麿は浴衣を雪子の手からすつと外はづして、なほ兄に向つていつた。 ﹁兄さん縫つてお呉れよ。いつもうまく縫ふぢやないか﹂ 兄は赤くなつた。弟は兄になほも迫つた。場合によつては平気で、兄が雪子に聞かれて、もつと顔を赤くしさうな暴露の意地悪さを用意して、ぜひ兄に縫はせないでは置かない気配を示した。そこにはまた、雪子といふ第三者が入り込むのを潔けっ癖ぺきに嫌ふいこぢさもあつた。 雪子は弟が肉親の兄に対する執しつ拗ような残忍な仕打ちと、また女の身の雪子が折せっ角かくの申もう出しでを態ていよく拒否された恥とで、心中怒りが盛り上つて来た。何として仕返しをしてやらう――雪子は針道具をそこへ置いたまゝ、青葉の映る椽えん側がわへ離れて行つて、そこの柱へ凭もたれてまじ〳〵と弟を見詰めてゐてやつた。 兄は雪子の気配を察するだけに、いよ〳〵その場の処置が困難になつて、ただ生なま返事をして萎いし縮ゅくしてゐた。 雪子はふと、母もなく我執の父の下に育つて、情のしこつた弟息子の親への甘えごころが、兄へかうも変つた形を採つて現はれるのではないかと気がついた。そして、生命力の薄い、物に浮うかれ易やすい兄は、到底弟のこの本能の一徹な慾求を理解もし負担もしてやる力はないのだと思つた。兄は彼の紛らし易やすい性分から、彼の愛の慾求を何かに振り撒まき、繋つなぐことによつて、彼自身だけの始末をつけてゐた。彼はこの頃いよ〳〵雪子に向けて心を寄せる傾向が見えてゐた。 兄は雪子の眼の前で針仕事をする姿を、何としても見せたくないらしく、いかに弟に迫られても薄笑ひしてゐて、応じなかつた。そして顔色を蒼あおざめさしたり、急に赤めたり、しかもわきへ避けて行かないで、だん〳〵眼と口とが茫ぼう漠ばくとなるところを見ると、一種の被虐性の恍こう惚こつに入つてゐるものゝやうに見えた。 弟はこれに対してます〳〵執しつ拗ようになり、果ては凡あらゆる侮ぶ誣ふの言葉を突きつけて兄に向つた。 雪子は見てはゐられない気がした。こんなに執拗に取組まなければ愛情の吐け口を得られない兄弟の運命や性格の原因をどこへ持つて行つたらいゝか、その詮せん索さくをするのさへいま〳〵しいほど、心を不快に底から攪かき廻された。いまから考へると多分の嫉しっ妬ともあつたやうに思ふ。さういふ険けわしい石いし火びを截きり合つて、そこの裂さけ目めから汲くまれる案外甘い情感の滴り――その嗜しよ慾くに雪子は魅惑を感じた。雪子の細胞には、他人のさういふ仕打ちの底の心理を察して羨うらやむだけの旧きゅ家うか育ちの人間によくある、加虐性も被虐性も織り込まれてゐた。 弟はたうとう兄の薄皮の手首を、女のやうにじーつと抓つねつた。兄は真赤に顔を歪ゆがめてそれを堪へてゐた。雪子は激動の極、少し痴ちほ呆う状態になつて却かえつて逆に刺しげ戟きを求めるこゝろから、もつと眼の前で惨劇の進むのに息詰まる興味を持つやうになつてゐた。 それが終ると弟は浴ゆか衣たを抛ほうり出して、手早く帯を解いて、それから着てゐた袷あわせも脱いだ。 ﹁僕、縫つて呉くれないなら、裸で庭へ出て行くから――﹂ 行きかける風さへみせた。 兄はあわてゝ弟を捉とらへた。 ﹁だめだよ。そんななりで、君、感か冒ぜをひくぢやないか﹂ 兄は弟が小さい時感冒から肋ろく膜まくの気になつたのを覚えてゐて、それを気きづ遣かつたものゝ、もつと大きな原因は、この兄弟は生まれつき肉体の露出については不思議な羞しゅ恥うちの本能を持つてゐた。他人に見られるやうなところで、どんな必要の場合でも肌を脱いだり、裾すそをからげたりは決してしなかつた。兄弟同志の間では、なほ更それは猥みだらなものを見るやうに嫌つた。 いま弟がそれを敢あえてするのは、必死の羞恥を突き付けて、兄に必死の決意を促す最後の脅迫手段だつた。 ﹁君、裸を垣根から通る人に見られるぢやないか﹂ ﹁かまふもんか﹂ 兄弟は死のやうに蒼あおざめて争つた。 兄は息が切れるやうに喘あえいだ。眼を伏せて、なるべく見ないやうにして、着物を弟に着せようとした。弟は肩ではねのけた。幾度か少青年の白磁色の身体が紺こん竪たて縞じまの大島の着物に覆はれては剥むけ出た。兄はその所作の間に、しばしば雪子の方を振り向いてかの女の気配を窺うかがつた。 兄の気持を察すると、弟の童貞で魅惑的な肉体を、自分が心を寄せかけてゐる若い娘に見られることは嫉ねたましく厭いとはしかつた。だが我意を貫つらぬくことゝ兄を脅おどすことの一図に耽ふける弟は、今は全く雪子の存在などは無視した。弟は一体ふだんから雪子の存在をどう考へてゐるのか、女といふものに対してどういふ感受性を持つてゐるのか、全く不明だつた。それは雪子を寂しく焦いら立だたしいものにしたが、この場合、彼が何なん人ぴとに対しても嫌ふ裸身を雪子の前ですらりと現はすといふことは、たとへその目的は兄に向つてゞあるとはいへ、副作用として雪子は無視の軽けい蔑べつを斜はすに受けないわけにはゆかなかつた。だが、こゝに至つて雪子は怒らうと思つてもなぜか力が脱けた。 雪子を女として少しも顧慮されない自分を、急に魅力のない卑しいものに感じて、弟に対して感じてゐるふだんの心の底の寂しさを一層深めた。 ﹁仕方がないやつだなあ﹂ 兄はたうとう負けて、雪子がそこへ置いて来た針道具を、ちよつとかの女に会えし釈ゃくして、手元へ引き寄せた。針さしから手頃の針を抜き取り、針先を頭の髪の毛へ突き込んで油をにじませた。アイヌの郷土細工の糸巻から、弟の着物と似合ひの色糸を見付けて、針の孔めどへ通した。それからいかにも物もの馴なれた調子で綻ほころびを繕つくろひにかゝつた。 男の針仕事――。いかにぎこちなく、佗わびしい形でそれが行はれることだらう。雪子はあらかじめぞりつと寒気を催すと共に、その不快な醜さによつてかの女の神経の肌き質めをさゝくれ立たされることを覚悟してゐたが、兄の手振りを見ておや〳〵と思つて安心した。より以上に感心した。それは女のする通りの所作に違ひないが、しかしその通りを男の青年がするのに、少しも男の格を崩し、また男の品位を塩しお垂たれさすやうな女め々めしい窪くぼみは見みい出だせなかつた。従しょ容うようとして、たゞ優しい仕事に、男がいたはり携たずさはつてゐる自然の姿に外ほかならなかつた。結局、兄の性格としてそれは身についた仕事であり、弟へしてやつてゐる平常からの馴なれであり、実は好みの就業となつてゐるのかも知れない。 ﹁男の針仕事もいゝものだ﹂ と、雪子は胸の中でさう嘆声を漏もらしてゐた。 だが、雪子は羞まば明ゆいのを犯して、兄の縫ふ傍に立つてゐる弟の裸身に眼をやると同時に、全面的に雪子に向つて撞つき入らうとする魅惑を防ぼう禦ぎょして、かの女の筋肉の全細胞は一たん必死に収しゅ斂うれんした。すぐ堪へ切れない内応者があつて、細胞はまた一時に爆発した。そしてすつかり困迷して痴ちほ呆う状態に陥つた雪子の心身へ、若く甘い魅惑は水の如く浸ひたり込んだ。 雪子はこの若きダビデの姿をいかに語らう――ミケランヂエロの若きダビデの彫像の写真にしても、このときまだ雪子は知らない。後に欧おう洲しゅうの彷ほう徨こうの旅で知つたのである。それは伊イタ太リ利ーフロレンスの美術館の半円周の褐色の嵌はめ壁を背景にして立つてゐた。それが持つ憂愁の甘美は、西洋的の動物質と東洋的の植物性との違ひはあるが、梅麿が持つものとほとんど同じだつた――。健かな肉付きは、胸、背中から下腹部、腰、胴へと締しまつて行き、こどもの豹ひょうを見るやうだつた。流りゅ暢うちょうで構梁の慥たしかな肩の頂面に、つんもり扇形の肉が首の附根の背後へ上り、そこから青白く微紅を帯びた頸くびが擡もたげられた。 だが、雪子の魅みせられたのはさういふ一々のものではない。何代か封建制度の下に凝り固めた情熱を、明治、大正になつてまだ点火されず、若もし点火されたら恨うらみの色を帯びた妖よう艶えんな焔ほのおとなつて燃えさうな、全部白臘で作つたやうな脂肉のいろ光つ沢やだつた。それにはまた喰ひ込まれてゐる白金の縄を感じた。 久隅雪子はほたる見物にことよせて私を招き、文学者である私にだけは是ぜ非ひこの話をして、自分のこの家に落着く気持を分担して貰もらひ度たいのだつた。この家はその奇きき矯ょうな親子兄弟の棲すんでゐた家だつた。雪子は話し終つて、ほつとして云つた。 ﹁その父親が病死すると直じきでしたの、その兄弟が心中しちまつたのは……﹂