巴里祭

岡本かの子




 彼等自らうら淋しく追放人エキスパトリエといっている巴里幾年もの滞在外国人がある。初めはラテン区が彼等の巣窟そうくつだったが、次にモンマルトルに移り、今ではモンパルナッスが中心地となっている。
――六月三十日より前に巴里を去るのも阿呆、六月三十日より後に巴里に居残るのも阿呆。」
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――今年の夏は十三日間おれは阿呆になる積りだ。」
 新吉は訊かれる人があればそう答えた。諺を知っている追放人エキスパトリエ仲間は成程彼が珍らしく七月十四日のキャトールズ・ジュイエの祭まで土地に居残るつもりだなと簡単に合点がてんした。諺をまだ知らない同国人の留学生等には彼の方から単純に説明した。
――今年はひとつ巴里祭を見る積りです。」
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――あなたに阿呆の第一日が来ましたわね。」
 ベッシェール夫人は新吉の茶碗に紅茶をつぎながら言った。彼女は中年を過ぎていて、もう自分が美人であることを何とも思わなくなっているような女だった。この夫人にそういう淡泊な処もあるので随分突飛な事やつこい目に時々遇っても新吉は案外うるさく感じないで済んでいる。
――まったく七月に入って巴里にいると蒼空までが間が抜けたような気がしますね。」
 彼女は漠然とした明るく寂しい巴里の空を一寸見上げて深い息をした。新吉は菓子フォークで頭を押えるとリキュール酒が銀紙へ甘い匂いを立てゝ浸み出るサワラをもてあそびながら言った。
――一つは競馬が終ってしまったせいでしょうか。」
 ロンシャンの大懸賞グランプリも、オートイユの障害物競馬も先週で打ちどめになった。
 ベッシェール夫人は藤のテーブルの上へ置いた紅茶の瓶口の下についているしずく止めのゴム蝶の曲ったのを、一寸ちょっと直し、濡れた指を手首に挟んだハンカチで拭くとその手をずっと伸して新吉の顎にかけて自分に真向きに向かせる。
――さあ、そんな他所事よそごとばかり言ってないでもうおっしゃいな。なぜ今年は巴里祭に残っているかって言うことを。あたしはどうもたゞの残り方じゃないとにらんでいるのよ。様子だってふだんと違っていらっしゃるわ。」
 新吉は気が付いて見ると成程此のテーブルへ来て二十分ほど経つのに顔をうつ向けてばかりいた。今更あわてゝ眼を二つ三つ瞬いて空や庭を見廻す。刈り込んだ芝生に紅白の夏花が刺繍ししゅうのように盛上っている。
――まるで子供ね。胡麻化すつもりでいらっしゃる。」
 夫人はずるそうに微笑しながら暫らく新吉の顔を見詰めた。この青年に恋して居るというわけではない。然しこの青年がもし他の女に恋しているとでもなったら嫉妬から彼女の気持ちの向きがどう変るかも判らない。いびつな夫婦生活ばかりして来て、とうとうそれも破れて仕舞った此の老美人の悲運が他人の性愛生活にまで妙な干渉を始めるようになっていた。
 新吉は巴里の女に顎をつまゝれる事位いには慣れ切って居る。新吉は落着いて煙草ケースから一本取出して投げやりに口にくわえた。夫人にも一本勧めて、それからライターで二人の煙草に火をつける。二人の口から吐く最初の煙のテンポが同じだったので、それがおかしかった。二人は笑った。くつろげられた気持ちに乗って夫人はこんなことを言った。
――どうしてもあなたが言わないなら、あたし嫌味なことを言いますよ。あんたまさかあたしの為めに巴里にお残りになるんじゃないでしょうね。」
 新吉は折角さら/\と説明出来そうに思えていた今の一瞬の気持ちをこの言葉で閉じられてしまった。もし夫人のこの悪ふざけの言葉に応答えする調子で自分の企てを話したら気持ちの筋道は飲み込ませられるかも知れないがその実質はとても覚束ない。それほど今度の思い立ちは情緒の肌理きめのこまかいものだ。いまはむしろ小説なら表題を告げて置くだけの方がこの女の親しみに酬いる最も好意ある方法だ。それで新吉は砂糖を入れ足すのを忘れている甘味の薄い茶を一杯飲み乾すとこう言った。
――マダム。僕はね。料理にしますとあまりに巴里の特別料理スペシアリテを食べ過ぎました。それでね。普通の定食料理ターブル・ドートが恋しくなったんです。」
 夫人の調子は案の定、今口に出した思い付きの一言にあおられてそれ者らしい飛躍を帯びて来た。
――じゃ。お祭りに出た女中さんでも引っかけ、世間並の若い衆になりたいとでもおっしゃるの。」
 新吉のしんみりした物淋しさがあまり自然に感じられたので夫人の飛躍の調子がもとの地味にも落ち著けず、中途のところで鋭い鈍い浪を打った。
――何にしても四年間金鎖草の花を分けて眺めさしてあげたあたしの好意に対しても万事打ち開けるものよ。いつでもいゝからね。」
 そんなさばけたもの言いをしながら夫人はぐっと神経質になって、新吉が帰ろうと立上りかけるときに門番がわざ/\此所まで届けて来た日本からの手紙を見ると、差出人は誰だかとくどく訊いた。新吉はそれが国元の妻からのものだと、はっきり答えた。


 新吉は部屋へ帰ると畳込みになって昼はソファの代りをする隅のベッドの上被うわおおいのアラビヤ模様の中へ仰向けにごろりと寝た。ベッシェール夫人のところで火をつけた二本目の煙草を挟んだ左の手に右の手を手伝わせて妻からの手紙の封筒を切った。いつもの通り用事だけが書いてあった。それは市会議員の選挙に関するもので、その人選は新吉の実家も中に含んで魚市場全体の利害に影響があった。
 新吉の留守中両親も歿くなったあとの店を一人で預って、営業を続けている妻のおみちに取っては永い間離れていてこころのつながりさえもう覚束なく思える新吉でもやっぱり頼みにせずにはいられなかった。彼女はそれで故国の事情にはうとくなっている夫から明確な指図は得られないのを承知でしじゅう用件だけ報じて来た。うっかり感情的のことを書いて、西洋へ行ってひらけた人になっている夫に蔑まれはしないかというおそれもあった。彼女は手紙の文体を新吉の返事に似通わせてだん/\冷たく事務的にすることに努めた。新吉もその方を悦んでかく彼女の手紙に一通り目を通すことだけはした。
 しかし今度の手紙には新吉に見逃されぬものがあった。それは文面のしまいの方に同じ淡々とした書き方ではあるがこういうことが書いてあった。
わたくし、此頃髪の前鬢まえびんくしで梳きますと毛並の割れの中に白いものが二筋三筋ぐらいずつ光って鏡にうつります。わたくしは何とも思いません。然し強いて人に見せるものでもなし、成るだけ櫛でふせて置くようにしております。
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 西
 教授は娘を売りつけるつもりでこんなことを言うのか。それとも西洋人は妻や娘の自慢を露骨にするとかねて人から聴かされていたがこれは其の極端な現れなのか、新吉は返事に苦労しながら、一方それとなく教授の様子を探っていた。教授は、したゝるような父親の慈愛じあいの眼で娘の方を見やったが再び芸術家によくある美の讃美に熱中しているときの決闘眼はたしめで新吉に迫った。
 その前から父と新吉とのはなしを困惑と好奇心で顔をあからめながら聴いていたカテリイヌは父の振り向いた顔に強いられて少し浮腰のまゝ、気まり悪るげに左肩へ首をすぼめて、一たん逃腰になったが、父親ののがさない命令に急激な決心を極めた。彼女は一足跳ねたダンス足の左の靴の踵に、床を滑って右の踵が追い迫り、あなやと思う間にひらりと新吉の膝の上に彼女は乗っかった。新吉は柔いものゝ無限の重量を感じ、体は華やかな圧迫でかえって板のように硬直して了った。
 彼女は困惑から泌み出る自然の唐突さで言った。
――日本の娘さんは悲しそうに男の方にお逢いなさるそうですね。」
 西
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――…………
――まあお聞き……。というわけでね。さっきから言ったようにね。巴里祭キャトールズ・ジュイエにはあたしが見つけてあげたその娘をぜひ一緒に連れてお歩るきなさい。」
 リサはがっちりした腕で新吉の腕を自分の脇腹へ挟みつけながら言った。新吉はステッキも夏手袋も自分が引受けて持っている。
――…………
――いくら処女心ヴァジン・ソイルが恋しいからといって、その昔のカテリイヌの面影を探しながらお祭りを見て歩るこうなんて、そりゃあんまり子供っぽい詩よ。そんなことであんたのようなすれっからしに初心うぶな気持ちの芽が二度と生えると思って。」
 新吉の酔って悪るく澄んだ頭をアレギザンドル橋のいかつい装飾とエッフェル塔の太い股を拡げた脚柱とが鈍重に圧迫する。新吉はそれらを見ないように、眼を伏せて言った。
――おい後生だから、もう一音階オクターヴ低い調子で話して呉れないか。その調子じゃ、たとえ成程とうなずきたいことも先に反感が起ってしまうよ。」
 リサは闇の中に顔を近づけて覗き込みながら言った。さも哀れに堪えないように中年近い女の薄髭の生えた、厚身の唇が新吉の頬に迫って来たので新吉は顔を避けた。
 リサは今しがた新吉に意見したのとはあべこべなことを平気で言った。二人はアレギザンドル橋を渡った。春秋に展覧会の開かれるグラン・パレーの入口は真黒くしまっていて、プチ・パレーの方に波蘭ポーランドの工芸品展覧会の雪の山を描いたポスターが白い窓のように几帳面きちょうめんな間隔を置いて貼られてある。婆娑ばさとした街路樹がかすかな露気を額にさしかけ、その下をランデ・ヴウの男女が燕のように閃いてすれ違う。新吉は七八年前、五色の野獣派の化粧をしてモンマルトルのペットだったリサを想い泛べた。がっちりした彼女の顔立ちにそれがよく似合った。当時彼女はあるキャフェで新吉からカテリイヌに対する悩みを聴いたとき新吉の鼻をつまんで言った。
――そんな恋はありきたりよ。愛なんかちっとも無い二人同志の間に技巧で恋を生んで行くのが新しい時代の恋愛よ。」
 彼女が裸に矢飛白やがすりの金泥を塗って、ラパン・ア・ジルの酒場で踊り狂ったのは新吉の逢った二回目の巴里祭キャトールズ・ジュイエの夜であった。彼女は其の後だん/\奇ママな態度を剥いで持ち前の母性的の素質を現して来たが、折角同棲した若いフェルナンドに死なれてから男に対して全く憐れみ一方の女となった。
――君もあの時分は元気だったなあ。」
 そう言うと流石さすがに彼女も悵然ちょうぜんとしたらしい様子のまゝしばらく黙った。二人は並木のシャン・ゼリゼーまで出たが闇一筋の道の両はずれに一方はコンコールドの広場に電飾を浴びて水晶の花さしのように光っている噴水を眺め、首を廻らして凱旋門通りのうろこのように立ち重なるよいの人出を見ると軽い調子になって彼女は言った。
 そこでステッキと手袋を新吉に押しつけるとリサは簡単に、
――ボン、ソワール。」
 と行きかけた。新吉が、
――ちょいと待って呉れ給え。国元の妻のことに就いてすこし話したいんだが。」
 とあわてゝ言うと、リサは逞ましい腕を闇の中に振って指先を鳴らした。
――もう、あんたのことはみんなその娘に譲りましたよ。」
 リサは男のように体を振りながら行って仕舞った。
 明日の祭の用意に新吉も人並に表通りの窓枠へ支那提灯を釣り下げたり、飾紐かざりひもあやを取ったりしていると、下の鋪石からベッシェール夫人が呼んだ。
 新吉は手を挙げて挨拶する。
――あなたのところに綺麗な国旗ありまして。若しなければ――。」
 そう言いさして夫人は門の中へ消えたが、やがて階段を上って来て部屋の戸をノックする。
 新吉が開けてやると、しとやかに入って来て、
――あまったのがありますから貸してあげますよ。」
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――小さい雀の子。」
 夫人は邪魔ものゝように三角の口を開けた子雀の毛の一つまみを握り取って煙草の吸殻入れの壺の中へ投げ込んでしまった。無雑作に銅版刷で蓋をする。
――おちついて、あなた、そこに暫らく坐って下さらない。」
 新吉はちょっと左肩をよじって不平の表情をしてみたが名優サッシャ・ギトリーの早口なオペレットの台詞せりふを真似て、
――マダムの言いつけとあらば、なんのいなやを申しましょうや。茨の椅子へなりと。」
 と言ってきょとんと其所へ坐った。
――いよ/\明日巴里祭だというので、いやにはしゃいでいらっしゃるね。さぞお楽しみでしょうね。」
 新吉はぎくっとした。情事に就いては彼女自身はもうすっかり投げているのに他人の情事に対する関心はまたあまりに執拗だ。それにリサと夫人とは古い知り合いだから、ひょっとしたらリサの自分に対する明日のたくらみでも感づいたのではないか。新吉は油断をせずにとぼけた。
――あしたは世間並の青年になって手当り次第巴里中を踊り抜くつもりですよ。」
――そりゃ楽しみですね。国元の奥様のことを考えながら、その悩みをお忘れになりたい為めにね。」
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 夫人は冗談の調子で言って居るのだけれど、此の冗談には夫人の新吉への病的な関心が充分含まれて居るのだ。
 夫人はこれも決定的な本心を含めた冗談で言った。
――どうぞ、まあ、よろしくおたのみします。」
 新吉はつい弱気に言ってしまった。
――朝、お迎えに来るわ。」
 夫人は遂々冗談を本当に仕上げて満足そうに帰りかけたが蓋をした灰殻壺の中の憐れっぽい子雀の籠った鳴声に気付くと流石さすがに戻って、
――可哀想なことをしたのね。これあたし頂戴いただいて行きますわ。」
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――あんな洒脱しゃだつな女はありませんよ。あれと暮して居ると、本当に巴里と暮しているようですよ。六日間も自転車競争場の桟敷で、さばけたなりをして酒の肴のザリ蟹を剥いてるところなぞ一緒にいてぞっとする程好かったですよ。」
 こんな言葉を連発するようになった。だがしまいには彼は問わず語りにこんな事を言った。
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――奥さん。うちのムッシュウがお出かけですよ。」
 と声を揃えてわめいた。
 ちゃんと打合せが出来ていたものと見え、すっかり着飾ったベッシェール夫人は芝居の揚幕の出かなんぞのように悠揚ゆうようと壁にってある庭の小門を開けて現われた。黒に黄の縞の外出服を着て、胸から腰を通して裳へ流れる線に物憎い美しさを含めている。夫人は裏にちょっと鳥の毛を覗かせたパナマ帽の頭を傾げて空の模様を見るような恰好をした。あくまで今日の着附けの自信を新吉に向って誇示しているらしかったが、やがて着物と同じ柄の絹の小日傘をぱっと開くと半身背中を見せて左の肩越しに新吉の方へ豊かな顎を振り上げた。眼は今日一日のスケジュールに就いて何の疑いをも持っていない澄んだ色をしている。遂々掴まったか――。新吉はそう思いながら夫人の傍へ寄って行って思わずいつもの礼儀どおり左の腕を出す。夫人は顎を引き、初めて笑った。
――若い奥さんではなくてお気の毒ね。」
 と言ったが右の手を新吉の出した左の腕にかけるとまたさあらぬ態度になり、胸を張って歩き出した。新吉は夫人の顔にうっすりいたほのかな白粉の匂いと胸にぽちんと下げているレジョン・ドヌールの豆勲章を眺めて老美人の魅力の淵の深さに恐れを感じた。


 モツアルトの横町からパッシイの大通りへ突当ると、もうそこのキャフェのある角に音楽隊の屋台が出来ていて、道には七組か八組の踊りの連中が車馬の往来おうらいを止めていた。日頃不愛想だという評判のキャフェの煙草売場の小娘が客の一人に抱えられていた。まだ昼前なので遠くの街から集まって来た人達より踊り手には近所の見知り越しの人が多かった。それ等の中には革のエプロンの仕事着のまゝで買物包みを下げた女中と踊っている者もあった。彼等は踊りながら新吉と夫人に目礼した。キャフェの椅子は平常よりずっと数を増して往来へ置き出されていた。一しきり踊りが済むと狭く咽喉のようになった往来へ左右から止まっていた自動車や馬車がぞろ/\乗り出した。街路樹のプラタナスの茂みの影がまだらに路上にゆらめいた。
――すっかりお祭りね。」
 老美人は子供のようなはしゃぎかたさえ見せて、喧騒の渦の音が不安な魅力で人々を吸い付けている市の中心の方角へ、しきりに新吉をうながし立てた。
 晴れた日と鮮かな三色旗と腕に抱えている老美人との刺戟に慣れて来ると新吉は少し倦怠けんたいを感じ出した。すると歩調を合せて歩いている自分等二人連れのゆるい靴音までが平凡に堪えないものになって新吉の耳に響いた。
――しつこい婆につかまって今日一日無駄歩きしちまうのだ。」
 弾力を失っている新吉の心にもこの憤りが頭をもたげた。キャフェの興奮が消えて来た新吉の青ざめた眼に稲妻形に曲るいくつもの横町が映った。糸の切れた緋威ひおどしのよろいが聖アウガスチンのトリプチックに寄りかゝっている古道具屋。水を流して戸を締めている小さい市場。硝子窓から仕事娘を覗かしている仕立屋。中産階級の取り済ました塀。こんなものが無意味に新吉の歩行の左右を過ぎて行った。新吉は子供の時分奮い立った東京の祭のことを思い出した。店のあきないを仕舞って緋の毛氈もうせんを敷き詰め、そこに町の年寄連が集って羽織袴で冗談を言いながら将棊しょうぎをさしている。やがて聞えて来る太鼓の音と神輿みこしを担ぐ若い衆の挙げるかけ声。小さい新吉は堪らなくなって新しい白足袋のまゝで表の道路へ飛び下りるのだった。縮緬ちりめんの揃いの浴衣の八ツ口からにむき出された小さい肘に麻だすきへ釣り下げたおもちゃの鈴が当って鳴った。
 気分というものは不思議に遇合することがあるものだ。ベッシェール夫人もこどもの時代のことを想い出した。
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 横町と横町の間を貫く中通りにはブウローニュの森の観兵式を見物した群集のくずれらしいかなり多勢の行人の影が見えた。その頭の上に抜きん出て銀色に光るかぶとのうしろに凄艶せいえんな黒いつやの毛を垂らしている近衛兵が五六騎通った。
――あんた、まさか奥さんの手紙を懐に持って出ていらしたのじゃないでしょうねえ。」
 夫人の想出話に対して新吉の返事がはかばかしくないので、夫人は急にこんなことを言い出した。新吉は危ないと思って、
――あんたこそ、ジョルジュ氏のムウショワールでもバッグへ入れてやしませんかね。」
 と逆襲した。すると夫人は新吉の腕から手を抜いて肩を掴え、
――あたし、そういう情味のはなし大好きですわ。」
 と言って夫人は、あらためて新吉の頬に軽く接吻した。新吉はういう馬鹿らしいほど無邪気な夫人に今更あきれて、やっぱり憎み切れない女だと思った。
 目的もなく昼近い太陽に照りつけられながら、所々に道一杯になって踊る群衆にさえぎられ、または好奇心から立止まってそれを眺めたりしている内に、二人は元へ戻るような気のする坂道を登りかけて居るのを感じた。道のわきに柵があって、その崖の下の緑樹の梢を越してトロカデロ宮殿の渋い円味のある壁のはずれをかすめて規則正しくセーヌへ向けてゆるやかな勾配を作っている花壇の庭が晴々しく眺められた。庭の勾配が尽きて一筋の長閑な橋になり、橋をまたいでいる巨人の姿に見えるエッフェル塔は河筋の水蒸気のヴェールを越しているので、いくらか霞んで見える。振り仰いで見ると流石に大きかった。太い鉄材の組合せの縞がきに平らな肌になり、細く鋭く天をく遥かな上空の針のさきに豆のような三色旗が人を馬鹿にしたようにひらめいていた。再び眼を地に戻して河筋を示す緑樹の濃淡に視線が辿りつくと頭がふら/\した。新吉は言った。
――子供のようになってアイスクリームを飲みましょうよ。」
 白にレモン色の模様をとった屋台車を置いてアイスクリーム売りのイタリー人が燕のひるがえるのを眺めていた。
 新吉と夫人が往来に真向きに立ちはだかって互に顔で、おどけ合いながらアイスクリームの麩のコップを横から噛みこわしていると、二人が上って来た坂の下から年若な娘が石畳の上へ濃い影を落しながら上って来た。娘は二人の傍へ来ると何のためらう色もなく訊いた。
――バスチイユの広場へ行くのはどう行ったらいゝでしょう。」
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――半年ほどまえですの。」
――連れて歩るいて呉れるいゝ人はまだ出来ないの。」
――あら、いやだわ。」
――いやだわじゃないことよ。そんないゝきりょうをしている癖に。」
 巴里祭といえば誰に何を言おうが勝手な日なのだ、そうすることが寧ろ此の日に添った伝統的な風流なのだ。
 娘は白痴じゃないかと思われるほど無抵抗な美しさ、そして、どこか都慣れたところがあった。新吉はてっきりリサの送った娘と見て取った。そして夫人となれ合いの芝居ではないかと警戒し始めたが、夫人はどうしても娘に始めて逢った様子である。そして好奇心で夢中になっている。
――おまえさん、今日のお小遣いいくら持ってなさる。」
――八十フランばかり。」
――おまえさん恰好の娘さんの一人歩きには丁度いゝたかだね。」
 夫人は分別くさい腕組みをして娘を見下ろした。新吉は夫人に気取られる前に先手に出て娘に言った。
――もしよかったら僕達と今日一緒に遊んで歩かないか。勿論費用は全部こっち持ちだよ。」
 娘が下を向いて考えてる間に夫人は新吉に奥底のある眼まぜをして見せた。新吉は度胸をめて、それに動ぜぬ風をした。
――奥さん僕は此の娘を連れて歩きますよ。あなたと二人では、ひょっと喧嘩でも始めるといけませんからね。」
 新吉の日本人らしい決定的な強さに圧された。その上夫人は娘の前で気前を見せる虚栄心も手伝って案外あっさり承知した。新吉は夫人のしつこさに復讐したような小気味よさを感じたが、年若な娘の放散する艶々つやつやしい肉体の張りに夫人の魅力が見る/\皺まれて行くのも気の毒だった。
 タクシーでオペラの辻まで乗りつけて、そこからイタリー街へ寄った、とあるキャフェで軽い昼食を摂りながら娘に都大路の祭りのにぎわいを見せていると、新吉はいろ/\のことが眼の前の情景にもつれて頭に湧いた。あのトロカデロの坂道の崖の下あたりにリサが潜んでいて娘に自分達の後を追わせたのではなかろうか。それにしても、よくもこう注文にふさわしい娘を探し出したものだ。娘はどういうふうにリサから話し込まれたか知らないが、芝居をしているとも見えぬ程の自然さでこの芝居をこなしている。芝居をしながら、ちっとも本質をおおわない身についている技巧はまったくフランス娘の代表とも思われるほど本能の味わいを持って居る。娘はフォークの尖にソーセージの一片と少しのシュークルートの酢漬けのきざみキャベツをつっかけて口に運びながら食卓に並んだ真中の新吉を越して夫人に快濶かいかつに話している。新吉はだんだん夫人と娘の様子を見て居るうちに夫人とも此の娘の出現がかねて何かの黙契もっけいを持って居たのではなかろうかとさえ思われ始めた。
 リサと友達の此の夫人が、或いは昨日か昨夜かのリサとの謀計で此の娘が出現したのではなかろうか。それにしても娘は夫人に初対面のように語る。名をジャネットと言って巴里の近郊に沢山ある白粉工場で働いて居るはなし。国元はロアールの流れの傍で、飼兎の料理と手製の葡萄酒で育ったはなし。それを新吉にも聞えるように娘は話して居るのである。
 娘は少しおかめ型の顔をしてマネキン人形のような美しさにととのい過ぎているようだが、頬や顎のふくらみにはやっぱり若さのしずくしたたっていた。彼女は食事中にやれ芥子からしの壺を取って呉れの、水が飲みたいのと新吉に平気で世話を焼かせ、あとはまた新吉を越してベッシェール夫人と話し続けて行く。新吉は苦笑した。
 なりは大きいがまだ子供だ。此の子供の何処に感情の引っかゝりがあるのだ。リサは余りに若いのを選むのに捉われ過ぎた。新吉はジャネットの均一ものゝ頸飾りをちょっとつまんで、
――これよく似合うね。君に。」
――でも、これはほんのやすものなの。こちらのマダムのなんか見ると、まったく悲しくなるわ。」
 新吉はこの娘はまだ十七に届いていない年頃なのに相当、人の機嫌をとることにも慣れて居るのに驚いた。夫人も上機嫌で娘に言った。
――あんた、せい/″\此のムッシュウの気に入るように仕掛けて、あたしのような首飾りを買ってお貰いなさいよ。」
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 しぼり立ての牛乳にレモンの花を一房投げ入れたような若い娘の体の匂いが彼の鼻を掠めた。すると新吉の血の中にしこりかけた鬱悶うつもんはすっと消えて、世にもみず/\しい匂いの籠った巴里が眼の前に再び展開しかけるのであった。新吉はその場にそぐわない、妙にしみ/″\した声で返事をした。
――ほんとうにね。そうだとも、マドモアゼル。」
 そして彼の憧憬的になった心にまたしてもカテリイヌの追憶が浮ぶのだった。そうだ彼女に遇いたいものだ。今日という日はその為めに待ちこがれていた日ではないか。彼はそう思いながら、ひとりでにジャネットの丸い肩に手をかけた。何時いつだったか、どの女だったか、彼の両肩に柔い手を置き、巴里祭のはなしをして呉れた感触を思い出した。
――ほんとにその日は若いものに取っては出合いがしらの巴里ですの。恋の巴里ですの。」
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 夫人は日傘とお揃いの模様の女鞄の中から手早く勘定を払った。
 あたりの賑わしさを頭から叩き伏せるように力ずくの音楽が破裂している。それに負けまいとメリーゴーラウンドの台が浪を打って廻転する。此所ピギャールの角を中心に色々の屋台店が道の真中に軒を並べている。新吉と二人の女とはモンマルトルの盛り場の人混ひとごみへ互に肩を打当てゝ笑いさゞめきながら、なだれ込んだ。一軒の屋台では若者達が半身乗り出して、後へ上げた足に靴の底裏を見せながら、竿の糸でシャンパンの壜を釣ろうと競って居る。一軒の屋台では女を肩にもたせながら男が白い紙を貼ったがくを覗っている。鉄砲が鳴って女がぴくっとする刹那に額の白紙は破れて二人の写真が撮れているのだ。泣き出しそうな憂鬱な顔をして棒のように立っている運命判断の女。ルーレット球ころがし。その間にけばけばしい色彩で壁に淫靡いんびな裸体女と踏みにじられた黒人を描いて、思わせ振りな暗い入口が五六段の階段の上についている食しんぼう小屋ラ・バラック・ド・グウルユのようなものが混っている。
 人々が此所へ来ると野性と出鱈目をむき出しにして、もっと/\と興味をあさるために揉み合う。球を投げ当てゝ取った椰子やしの実をその場で叩き割り、中の薄い石鹸色の水をごぼごぼ咽喉を鳴らして飲みながら職人風の男が四五人群集を分けて行く。
――はい、はい、気を付けますよ。ごたえのあるお嬢さん――。」
 ジャネットは此の人混ひとごみにあおられるとすっかり田舎女の野性をむき出しにしてロアール地方のなまりで臆面もなく、すれ違う男達の冗談に酬いた。白いむきだしの腕を張り腰にあて誇張した腰の振り方をし、時に相手によってはみだりがましくも感じられる素振りさえ見せて笑った。曲げた帽子のつばの下からかもじの巻毛の尖きを引っぱりおろして右眉のすれすれに唾で貼りつけた。流石のベッシェール夫人も大ように見ていられなくなり嫌な顔して黙ってしまった。然しジャネットはそんなことぐらいを気にとめる様子もなくいよ/\発揮した。
――HEYヘイ!。」
 何処で覚えたか下等な人を呼びかけるアメリカ語を使い、口笛を嚠喨りゅうりょうと吹いた。これほどの喧騒も混み合いも新吉がカテリイヌを追い求める心をまぎらわすことは出来なかった。午後になり時間がせまればせまるほど気があせり、まわりの形色も物音もぼっとなって夢の中を歩いているようで、広い巴里のなかの何処に居るとも知れぬカテリイヌの面影が却って現実のように眼の前にちらついた。其の面影は面長で、たゞ真白な顔――黒とも藍ともつかぬまつげのなかに煙っている二つの瞳で、じっと見入られる、――言おうようない香りの高い、けだるい感じが新吉の手足の神経の末梢まで、浸み透り、心の底にふるえている男としての恥かしさと、妙な諧調を混え、新吉はやがて恍惚とした無抵抗状態になるのだった。花弁のように軽くて、無限の重さのあったカテリイヌの体重さえも太陽に熱くなったズボンの下の膝に如実に感じられるのだった。そしてだん/\新吉は疲れて行った。
 新吉は堪らなくなった。彼を無意識に疲れさすその面影から逃れるためには現実のカテリイヌが早く出て来て呉れるか、もっと違った強力な魅惑が彼の注意を根こそぎ奪うかして呉れるのでなければならなかった。新吉は早くこの二人の女に別れて、カテリイヌを探す為めに今日の巴里祭の雑沓の中を駆け廻りたいような衝動にかり立てられた。また心の一方ではあまり空漠とした欲望を広い巴里に持ちあぐむ自分にあきれ返って、やけに酒でも飲みに連れの二人を誘うと立止まった。
――此の老ぶれビューコン餓鬼!。」
 まだ初心うぶな娘の声をわざとはすにはしらせてジャネットが一人の男に叫んでいるのだった。そして其の男の手に持っていた風船玉を引ったくった。男は風船玉を奪い返すようなふりをしながらジャネットの手首を掴え、それから強い力で自分の方へ、くるりと廻して左に抱えてしまった。
――およしってば、連れがあるんだよ。」
 流石に人中をはばかってジャネットは羽がいじめの下でわめいた。――わめき乍らジャネットが新吉の方へ救いを求めるように手を出したので、その方向を辿って男は新吉を見つけると、
――青二才だな。」
 そう言って女を離した。それから新吉の傍まで来るとちょいと顔を覗いて、
――おまえ西班牙人スパニッシュか、しっぽりとやんな。」
 巌丈な手で新吉の肩を痛いほど叩いて彼は行き過ぎた。中年過ぎたひげりあとが青い男で、頬や眉の附根に脂肪の寄りがあり、こぶの寄ったような人相だが、どこかいきでどっぷりとたたえた愛嬌があった。新吉はわれを忘れて見送った。あれ程の年をしながら青年のように女に対して興味が充実してる男がうらやましかった。新吉のようにもう夢のほか感情の歯の力を失ったものは彼のような男にすれ違っただけで自分の青白い寂寥せきりょうが感じられた。
 ジャネットはと見ると人混みにまぎれ行く男の姿をいつまでも見送りながら群集に押されて新吉のそばまで来た。
――あたし今日、モンマルトル一のジゴロに声をかけられたのよ。」
 そう言って彼女はやっぱり人に押されながら鏡を取り出して自分の風姿を調べた。
――あんたさえ居なかったら今日一日、あの人に遊ばせて貰えたかも知れなかったわよ。」
 彼女の声には真実少し卑しい恨みがましい調子があった。すると彼女から遊離して居た新吉に急に反撥心が出て来た。彼は手荒くジャネットの露出むきだしの腕を握って二三度ゆすぶった。
――あたしと仲好くするんだ。またと他の男に振り向きでもすると承知しないよ。」
 すると不思議にジャネットは素直になり手に風船玉を持ち乍ら新吉の腕に抱えられにっこり彼の顔を見上げて笑った。
 其所へ一人で行き過ぎて、はぐれてしまったベッシェール夫人が戻って来た。
――あら、まだこんな所に居たの。仲好くするのもいゝが、あたしに内緒の相談だけは御免よ。」
 鹿


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 鹿調
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――どう※(感嘆符疑問符、1-8-78) この先きの貧乏街へ入って最後に飲んだり、踊ったりしない※(感嘆符疑問符、1-8-78) すっかり平民的になって。」
 ジャネットに取ってもリサの言い付けで今日一日新吉について廻った使命の果ての結局の舞台が入用だった。彼女は猶予なく返事した。
――奇抜ね。それが本当に面白いわ。」
 
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――あの音楽家たちは一々梯子をかけてあがり降りするのかね。」
――そんな呑気なことを言っているの。それよりも……。」
 と歯痒ゆそうに返事をしながらジャネットは目につくほど踊り場の空気に呼吸を弾ませていた。三人は入口の通路から踊り場へ移る角のテーブルへ坐った。安酒のにおい、汗のにおい、食料脂のにおい、――、そういうものが雨で立籠められたうえ、靴の底から蹴上げられる埃と煙草の煙にまじり合って部屋の中の空気を重く濁した。天井近く浮んだ微塵物にシャンデリアの光が射して桃色や紫色の横雲に見えた。よく見るとその雲は踊りのテンポと同じ調子にふるえ、そして全体として踊りの環と同じ方向にゆる/\移っていた。布の端がこわばってめくれた新しい小型の万国旗が子供の細工のように張り渡されていた。それに比較して色紐やモールは、けば/\しく不釣合に大きい。
 流石に胸もとがむかつくらしく白いハンケチを鼻にあてながら酸味の荒い葡萄酒をすすって居たベッシェール夫人も、少し慣れて来たと見えて、思い切ってハンケチをとった。すると彼女は忽ち鼻をすん/\させて言った。
――おや、茴香ういきょうの匂いがするよ。」
 新吉の耳へ口を寄せて言った。
――こういう家にはアブサンを内緒に持っているという話よ。あなたギャルソンにすこし握らせてごらんなさい。」
 夫人の言う通り給仕はいかにも秘密そうに小さいコップを運んで来た。夫人はそれを物慣れた手附きで三つの大コップへ分けて入れ角砂糖と水を入れた。禁制の月石色ムーンストーンの液体からは運動神経を痺らす強い匂いが周囲の空気を追い除けた。
 夫人は酒をたのそうに呑みながら、こんな判らないことをジャネットに言いかけコップを大事そうにめ眼をつぶっている。
――あたし酔ったら此のムッシュウをあなたに譲らなくなるかも知れないわ。」
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――あんた。あたしと今日もう此所だけでわかれるつもり。」
――しかたがない。」
――やっぱりカテリイヌのこと忘れられないと見えるのね。」
――あたしがリサから送られた娘だということ、始めからあんた気が付いたでしょう。」
――ああ、そうとも。」
――あたし、ほんとはカテリイヌの秘密知って居るのよ。」
――秘密※(感嘆符疑問符、1-8-78) どうして。どんな。」
――あたしは、カテリイヌの私生児よ。そしてカテリイヌは、もうとっくに死んじゃったわ。」
――そりゃほんとか。ほんとのことを言ってるのか。」
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――そういう娘をあたしが見つけたというのも私の郷里がやっぱりロアールの田舎だからなのよ。今年の春あたしが国へ帰って、偶然あの娘の世話人に頼まれて、巴里へ連れて来たのよ。いつもあなたからカテリイヌのことを聞かされてたあたしとして何かの折に一趣向して見たくなったのも無理ないでしょう。だからあなたには昨日まで絶対にあの娘のことを秘密にしといたの。ところで、あなたは案のじょうあたしの考え通り、あの娘のために元気を恢復なさったわね。あなた何か希望を持ちだしたように顔の表情まで生々して来たわ。」
――おれはあの娘にこれから世話をしてやると約束したよ。」
――やっぱり堅い乳房を持った娘は男にとって魅力があるのね。」
――そんなじゃないんだ。すこし言葉に気をつけて呉れ。」
――じゃ父親にでもなった気で昔の恋人の忘れがたみを育てようというおつもり。」
――そうでもないんだ。」
 新吉は釣り竿を引き上げ水中で魚にとられた餌を取りかえて、
 リサはちょっとずるそうな顔をして訊いた。
――仕立て上げたところで、あらためてカテリイヌの代りに愛して行こうとなさるの。」
――けど、あの娘、随分田舎れがしてゝ仕立て憎いわね。」
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 熟し切った太陽の下でセーヌ河のうすあかい土色の水が流れて居た。流れは箱型の水泳船の蔭へ来て涼しい蘆の中で小さい渦を沢山こしらえる。渦と渦と抱き合ってぴちょんぴちょんと音を立てる。「中の島」の基点になるポン・ド・グルネルの橋の突き出しに立っている自由の女神の銅像が炎天に※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)えて姿態ポーズの角々から青空に陽炎を立てゝいるように見える。橋を日傘が五ツ六ツ駈けて行く。対岸の石垣の道の菩提樹の間に行列の色がゆらめく。予定が今日に伸びた女店員ミジネットの徒歩競争が通って行くのだ。一人一人叩いて行く太鼓の音がまばらに聞える。「中の島」をまたいでいるポン・ド・パッシイの二階橋の階上を貨物列車が爽やかな息を吐きながらしず/\パッシイ街の方へ越えて行く。昨日の祭日の粗野な賑わいを追っ払ったあとから本然の姿を現わして優雅に返った巴里の空のところどころに白雲が浮いて居る。新吉の竿の先にもおもちゃのような小さい魚が一つ釣り上げられて、それでも魚並みに跳ねている。
――あなたも渋くなったわね。すっかり巴里を卒業したのよ。」
 リサは感に堪えたように言った。
――どうしてだ。何を。」
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 リサは編物をちょいと新吉の背中に当てがって寸法を見て、
――ちょうどいゝ。これフェルナンドのを、あなたのジャケツに編み縮めてあげるのよ。」
 新吉はリサの手に持つ編物を見た。リサの情人で、死ぬのを嫌がり抜いて死んで行った天才建築家フェルナンドはまた新吉の親友だった。
――あいつが生きてたら、今時分エッフェル塔をピューリズムで改築するって騒いでいるだろう。」
 こんなことを独言のように言いながら新吉は、自分は今はリサの息子にでもなってしまったような気がした。丁度遠く河上の方から展けて来た青空が街の屋根に近づいて卵黄色に濁りかけている境に小形の旅客飛行機がゆったり小さな姿を現わした。
――ときに日本の奥さんの事はどうなさるの。――」
――ベッシェール夫人の忠告を入れてこっちへ呼ぶことにしたよ。夫人はもう実物を見ないと気になって仕方が無いと言うのだ。」
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底本:「巴里祭・河明り」講談社文芸文庫、講談社
   1992(平成4)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第四巻 小説」冬樹社
   1974(昭和49)年3月18日
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2005年5月12日作成
2016年1月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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