女が、男より行儀をよくしなければならないということ。 人前で足を出してはいけない、欠あく伸びをしてはいけない、思うことを云いってはいけない。 そんな不公平なことはありません。女だって男と同じように疲れもする、欠伸もしたい、云い度たいと思うことは沢たく山さんある。疲れやすいこと欠伸をしたいことなどは、むしろ男より女の方がよけいかもしれない。それだのに、なぜ、昔から男は、食後でも人前でも勝かっ手てに足を出し欠伸をし、云い度いことも云えるのに、女にそれが許されないのだろう。 外側をためてばかりいると、内側の生命が萎いし縮ゅくしてしまう。 男が伸のび々のびと拘こう束そくなしに内側の生命を伸のばす間に、女は有史以来圧おさえためられてそれを萎いし縮ゅくされてしまった。 生理的から観みても、女の肉体は男より支持力に堪たえがたい、乳房の重み、腰よう部ぶの豊ほう満まん、腹部も男より複雑であります。 殊ことにこの特長の発達している私には食後の大たい儀ぎなこと、客きゃ人くじんの前の長時間などは、つくづくこの女子にのみ課せられた窮きゅ屈うくつな風ふう習しゅうに懲こりて居います。 この頃ではこの議を随ずい分ぶん自分から提てい唱しょうして、乱れぬ程度でこの女のみに強しいられた苛かこ酷くな起きき居ょから解放されて居るには居ます。思い出しました。四五年前の与よ謝さ野の家の歌うた会かいの時、その座のクインであった晶あき子こ夫人が、着ちゃ座くざしばらくにして、上じょ躯うたいを左方に退ひき膝ひざを曲げてその下から一ひと脚あしを曲げて右方へ出されました。夫人特有の真白い素すあ足しが、夫人の濃こむ紫らさきの裾すそから悠ゆう々ゆうと現われました。 夫人は、これだけのムードを事もなげな経過ぶりで満まん座ざのなかに行われたのであります。そして石いし井いは柏くて亭いと平気で談笑して居おられました。 達だ手てで自由で宜よい、と私は傍そばで思いました。いかにも文明国の、そして自由な新時代の女性としての公平なポーズ︵姿した態い︶だと思いました。 ただ、女は何と云いっても、男より、外観美を保たなくてはいけない、これは理りく屈つより審しん美び的立場から云いうのです。で、如い何かに、挙きょ措そを解放するにしても、常に或ある程度の収しゅ攬うらんを、おのずから自分の上に忘れてはいけません。 美的な放ほう恣し、つつましやかな自由、それはどうあるべきかと追求されてもこまるけれど、とにかく以上の字義どおり何いずれの女性も心しん術じゅつとして欲ほしい、結果はおのずから達成せられるでありましょう。 女も男と同じように働き、学び、考える時代となり、尚なお上述の条件を男子側より否定されるならば、永遠に、女性の生命は内面の不平を堪こらえて男子を羨うらやみ続けるでありましょう。 女性のよろこびを考えるうちに﹁化粧﹂が思い浮べられた。 男でも化粧する人はある。しかしそれに凝こったにしても到とう底てい女の範はん囲いにまで進んで来ることは出で来きなかろう。 女でも化粧しない人がある。化粧しないでも美しい人がある。しかし、そういう人はまれである。そして、そういう人も化粧すればなお美しくなる。そして、そういう人も年が三十にかかればどうしても化粧の手を借りなければいくらか醜みにくくなる。 化粧するのが面めん倒どうでしないのは仕しか方たがない。化粧しないでも美くしいと自信をもって、しかもしないことを平気で居いて、他人のすることをまた他人の仕しわ業ざとして平気に眺めて居るのはいいが化粧しないのを自慢にしたり、他の女がするのを軽けい蔑べつしたりするのは愚ぐである、傲ごう慢まんである。女性の何なん人ぴとも化粧をするのは好よい、可かれ憐んである。美女は美女なりに、醜しこ女めは醜女なりに、いかにも女性の心の弱さ、お洒しゃ落れさ、見みえ栄ぼ坊うであることを象徴して好い。 美女が化よそ粧おえば一いっ層そうの匂においを増まし醜女がとりつくろえば、女性らしい苦労が見えて、その醜なのが許される。 ともあれ、女と生れた大おお方かたの女性にあって、着物の柄、帯の色、おしろい眉まゆずみ、口紅を揃えてしばらく鏡の前のよろこび︵それにいらだたしさもどかしさは交まじるとも︶女にのみ許されたそのよろこびを経験せぬものは少ないでしょう。