﹁あなたのお宅の御主人は、面白い画えをお描かきになりますね。嘸さぞおうちのなかも、いつもおにぎやかで面白くいらっしゃいましょう。﹂ この様ようなことを私に向むかって云いう人が時々あります。 そんな時私は、 ﹁ええ、いいえ、そうでもありませんけど。﹂などと表面、あいまいな返事をして置きますが、心のなかでは、何だかその人が、大変見当違いなことを云って居いる様な気がします。もちろん、私の家にも面白い時も賑にぎやかな折も随ずい分ぶんあるにはあります。 けれど、主人一平氏は家庭に於おいて、平常、大おお方かた無口で、沈ちん鬱うつな顔をして居ます。この沈鬱は氏が生せい来らい持つ現世に対する虚無思想からだ、と氏はいつも申します。 以前、この氏の虚無思想は、氏の無ぶら頼いな遊ゆう蕩とう的生活となって表われ、それに伴って氏はかなり利己的でもありました。 それゆえに氏は、親同胞にも見放され、妻にも愛の叛逆を企くわだてられ、随分、苦にがい辛つらい目のかぎりを見ました。 その頃の氏の愛読書は、三さん馬ばや緑りょ雨くうのものが主で、其その他独どっ歩ぽとか漱そう石せき氏とかのものも読んで居た様です。 酒をのむにしても、一いっ升しょう以上、煙たば草こを喫すえば、一日に刺しげ戟きの強い巻まき煙たば草この箱を三つ四つも明けるという風ふうで、凡すべて、徹底的に嗜しこ好うぶ物つなどにも耽おぼれて行くという方でした。 食しょ味くみなども、下町式の粋いきを好むと同時に、また無むち茶ゃな悪あく食じき、間かん食しょ家くかでもありました。 仕事は、昼よりも夜に捗はかどるらしく、徹夜などは殆ほとんど毎夜続いた位くらいです。昼は大おお方かた眠るか外出して居いるかでした。 しかしそうした放ほう埒らつな、利己的な生活のなかにも、氏には愛すべき善良さがあり、尊敬すべき或ある品位が認められました。 四五年以来、氏はすっかり、宗教の信仰者になってしまいました。 始めは、熱心なキリスト教信者でした。しかし、氏はトルストイなどの感化から、教会や牧師というものに、接近はしませんでした。氏は、一度信ずるや、自分の本業などは忘れて、只ひた管すら深く、その方へ這は入いって行きました。氏の愛読書は、聖書と、東西の聖者の著書や、宗教的文学書と変かわりました。同時にあれほどの大おお酒ざけも、喫煙もすっかりやめて、氏の遊ゆう蕩とう無ぶら頼いな生活は、日夜祈きと祷うの生活と激変してしまいました。 その頃の氏の態度は、丁ちょ度うど生うまれて始めて、自分の人生の上に、一大宝ほう玉ぎょくでも見付け出した様ような無上の歓かん喜きに熱狂して居ました。キリストの名を親しい友か兄の様に呼び、なつかしんで居ました。或ある時長い間往おう来らいの杜と絶だえて居た両親の家に行き、突然跪ひざまずいて、大真ま面じ目めに両親の前で祈祷したりして、両親を却かえって驚かしたこともありました。また誰かに貰もらって来たローマ旧カト教リックの僧の首に掛かけ古された様な連れん珠じゅに十字架上のクリストの像の小さなブロンズの懸かかったのを肌へ着けたりして居ました。 氏の無邪気な利己主義が、痛ましい程ほど愛あい他た的傾向になり初めました。 やがて、氏は大だい乗じょう仏教をも、味覚しました、茲ここにもまた、氏の歓喜的飛ひや躍くの著いちじるしさを見ました。その後とて、決してキリスト教から遠とおざかろうとはしませんけれど、氏の元がん来らいが、キリスト教より、仏教の道を辿たどるに適して居ないかと思われる程、近頃の氏の仏教修しゅ業ぎょうが、いかにも氏に相ふさ応わしく見受けられます。 氏は毎朝、六時に起きて、家族と共に朝飯前に、静せい座ざして聖書と仏ぶっ典てんの研究を交かわる交がわるいたして居おります。 氏は、キリスト教も仏教も、極度の真理は同じだとの主張を持って居ります。随したがって二重に仕つかえるという観念もないのであります。ただ、目もっ下かは、キリスト教に対しては、その教理をやや研究的に、仏教には殆ほとんど陶とう酔すい的状態に見うけられます。 現在に対する虚きょ無むの思想は、今いま尚なお氏を去りません。然しかし、氏は信仰を得て﹁永遠の生命﹂に対する希望を持つ様ようになりました。氏の表面は一層沈ちん潜せんしましたが、底に光こう明みょうを宿して居いる為ためか、氏の顔には年と共に温和な、平静な相が拡ひろがる様に見うけられます。暴食の癖くせなども殆ほとんど失うせたせいか、健康もずっと増し、二十貫かん目め近い体に米よね琉りゅうの昼ひる丹たん前ぜんを無むぞ造う作さに着て、日ひな向たの椽えんなどに小さい眼をおとなしくしばたたいて居る所などの氏は丁ちょ度うど象かなどの様に見えます。この容よう態だいで氏は、家庭に於おいて家かじ人んの些さま末つな感情などから超ちょ然うぜんとして、自分の室へやにたてこもり勝がちであります。その室は、毎朝氏の掃除にはなりますが、書籍や、作りかけの仕事などが、雑ざつ然ぜん混こん然ぜんとして居て一ちょ寸っと足の踏み所も無ない様です。一は隅じには、座ざぶ蒲と団んを何枚も折りかさねた側に香立てを据すえた座ざぜ禅ん場があります。壁か間べには、鳥と羽ば僧そう正じょうの漫まん画がを仕立てた長い和わそ装うの額が五枚程ほどかけ連ねてあります。氏は近頃漫画として鳥羽僧正の画えをひどく愛好して居いる様ようです。 画などに対しても、氏は画えづ面らそのものを愛すると同時に、その画家の伝記を知るということを非常に急ぎます。近頃の氏の傾向としては、西洋の宗教画家や東洋の高僧の遺いぼ墨くなどを当然愛好します。それも明るい貴族的なラファエルよりも、素朴な単純なミレーを好み、理り智ち的に円満なダビンチよりも、悲哀と破はた綻んに終ったアンゼロを愛するという具合です。 近代の人ではアンリー・ルッソーの画を座ざゆ右うにして居います。元がん来らい氏は、他に対して非常な寛かん容ようを持って居る方です。それは、時に他をいい気にならしめる傾向にさえなるのではないかとあやぶまれます。 たとえば、 ﹁あなたが先日あの方にあげた品ですね、あれをあの方は、こんな粗そま末つなものを貰もらったって何にもなりゃしないって蔭かげ口ぐち云いってましたよ。﹂などと告つげる第三者があるとします。 この場合氏は、 ﹁折せっ角かくやったのに失礼な。﹂ などとは云わずに、 ﹁そうかい。いや、今度はひとつ、あいつの気に入る様ようなのをやることにしようよ。﹂と云った調子です。 また、他人が氏を侮ぶべ蔑つした折など、傍はたから、 ﹁あなたはあんなに侮蔑されても分わからないのですか。﹂など歯がゆがっても、 ﹁分って居るさ、だけど向むこうがいくらこっちを侮蔑したって、こっちの風ふう袋たいは減りも殖ふえもしやしないからな。﹂と、平気に見えます。 また、男女間の妬とじ情ょうに氏は殆ほとんど白はく痴ちかと思われる位くらいです。が氏とて決して其それを全然感じないのではない相そうですが、それに就ついて懸けん命めいになる先に氏は対あい者てに許容を持ち得るとのことです。一面から云いえば氏はあまり女性に哀あい惜せきを感ぜず、男女間の痴ちじ情ょうをひどく面めん倒どうがることに於おいて、まったく珍めずらしい程ほどの性格だと云えましょう。それ故ゆえか、少青年期間に於おける氏は、かなりな美びぼ貌うの持もち主ぬしであったにかかわらず、単に肉欲の対象以上あまり女性との深い恋愛関係などは持たなかった相です。熱烈な恋愛から成なった様に噂うわさされる氏の結婚の内容なども、実は、氏の妻が女性としてよりは、寧むしろ﹁人﹂として氏のその時代の観かん賞しょうにかない、また彼女との或ある不思議な因いん縁ねんあって偶然成ったに過ぎないと思われます。 ﹁女の宜よい処ところを味わうには、それ以上の厭いやな処を多く嘗なめなければならない。﹂とは、女の価値をあまりみとめない氏の持じせ説つです。 氏は近きん来らい女の中でも殊ことに日本の芸者及およびそうした趣味の女を嫌う様ようです。 音楽なども長なが唄うたをのぞいては、むしろ日本のものより傑すぐれた西洋音楽を好みます。 席せき亭ていへも以前は小こさんなど好きでよく行きましたが、近頃は少しも参りません。芝居は仕事の関係上、月に二つ三つはかかしませんが、男優では、仁にざ左え衛も門んと鴈がん次じろ郎うが好きな様ようです。 氏は家庭にあって、私しふ憤んを露ろこ骨つに洩もらしたり、私情の為ために怒って家族に当あたったりしません。その点から見て、氏は自分を支配することの出来る理性家であるのでしょうか。たまたま家族の者に諫かん言げんでも加えるには、曾かつて夏なつ目めそ漱うせ石き氏の評された、氏の漫画の特色とする﹁苦々しくない皮肉﹂の味あじわいを以もって徐おもむろに迫ります。それがまたなまじな小こご言となどよりどれほどか深く対あい者ての弱点を突くのです。また氏の家庭が氏の親しい知ち己きか友人の来訪に遇あう時です、氏が氏の漫画一流の諷ふう刺し滑こっ稽けいを続出風ふう発はつさせるのは。そんな折の氏の家庭こそ平常とは打って変かわって実に陽気で愉ゆか快いです。その間などにあって、氏に一ひと味あじの﹁如じょ才さいなさ﹂が添そいます。これは、決して、虚きょ飾しょくや、阿あ諛ゆからではなくて、如い何かなる場合にも他人に一いち縷るの逃げ路みちを与えて寛くつろがせるだけの余裕を、氏の善良性が氏から分ぶん泌ぴつさせる自然の滋じ味みに外ほかならないのです。 氏は、金銭にもどちらかと云いえば淡たん白ぱくな方でしょう。少しまとまったお金の這は入いった折など一時に大おお金がね持もちになった様ように喜びますけど、直じきにまた、そんなものの存在も忘れ、時とすると、自分の新聞社から受ける月給の高さえ忘れて居いるという風ふうです。近頃、口こう腹ふくが寡かよ欲くになった為ため、以前の様に濫らん費ぴしません。 氏は、取り済すました花かち蝶ょうなどより、妙に鈍どん重じゅうな奇形な、昆虫などに興味を持ちます。たとえば、庭の隅すみから、ちょろちょろと走り出て人も居いないのに妙みょうに、ひがんで、はにかんで、あわてて引き返す、トカゲとか、重い不ぶか恰っこ好うな胴体を据すえて、まじまじとして居る、ひきがえるとか。 人にしても、辞じれ令いに巧たくみな智ちし識き階級の狡ず猾るさはとりませんが、小こど供もや、無む智ちな者などに露ろこ骨つなワイルドな強ごう欲よくや姦かん計けいを見みい出だす時、それこそ氏の、漫画的興味は活かつ躍やくする様に見えます。氏の息むすこのまれに見るいたずらっ子が、悪あくたれたり、あばれたりすればする程ほど、氏は愛情の三ざん昧まいに這入ります。 氏はなかなか画えの依頼主に世話をやかせます。仕事の仕上げは、催さい促そくの頻ひん繁ぱんな方かたほど早く間に合わせる様です。催促の頻繁な方程ほど、自分の画を強きょ要うようされる方であり、自分に因いん縁ねん深い方であると思い極きめて、依頼の順序などはあまり頭に這は入いらぬらしいのです。 終おわりに氏の近きん来らいの逸いつ話わを伝えます。 氏の家へ半月程前の夕刻玄げん関かん稼かせぎの盗人が入りました。ふと気が付いた家かじ人んは一いっ勢せいに騒ぎ立てましたが、氏は逃げ行く盗人の後うし姿ろすがたを見る位くらいにし乍ながら突つっ立たったまま一歩も追おうとはしませんでした。家人が詰きつ問もんしますと、 氏は﹁だって、あれだけの冒険をしてやっと這は入いったんだぜ、︵盗人は三重の扉とびらを手てぎ際わよく明けて入りました︶あれ位くらいの仕事じゃ︵盗人は作りたての外がい套とうに帽子をとりました。︶まだ手て間まに合うまいよ。逃がせ逃がせだ。﹂という調子です。氏のこの言葉は氏のその時の心理の一部を語るものでしょうが、一いっ体たいは氏は怖くて賊ぞくが追えなかったのです。氏は都会っ子的な上うわ皮べの強がりは大分ありますがなかなか憶おく病びょうでも気きよ弱わでもあります。氏が坐ざぜ禅んの公こう案あんが通らなくて師に強く言われて家へ帰って来た時の顔など、いまにも泣き出し相そうな小こど児もの様に悄しょ気げ返かえったものです。以上不ふ備び乍ながら課せられた紙数を漸ようやく埋めました。