阿難と呪術師の娘

岡本かの子






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(舎衛城郊外の池、呪術師の娘水を汲みに来り、水甕みずがめを水に浸せし儘、景色に見入りて居る。)
娘 ――(独白)光は木々の葉にたわむれ、花は風に揺られて居る。大地と空とが見交す瞳の情熱の豊さ、美しくもねたましき自然――おお私にも心を迎えて呉れる清らかな胸が無いものか。
(阿難、鉢を持って行乞ぎょうこつの戻りの姿、池を見て娘の傍に近づく。)
阿難 ――女人よ。水を一杯供養して下さい。
娘 ――(急ぎ木蔭に身を隠す。)尊きみ僧に水を差し上ぐるは容易たやすい御用で御座ります。(しばらく躊躇ちゅうちょして)が、わたくしはあなた様方にとって、けがれた職業の者の娘で御座います。
阿難 ――何の御職業か存ぜぬが私達は人に高下をつけません。ましてや世の営みの職業なら、何なりとも尊い事に存じて居ります。
娘 ――でも……。
阿難 ――それほど御遠慮なさるなら、ではうなさって下さい。私も仏の御弟子という資格を捨てて水を頂戴ちょうだい致しますから、あなたもお職業の娘という資格を捨てて水を振舞って下さい。そうすれば、けがれるけがれぬの心配もありませぬ。ただ渇いた人間に、同情ある人間が水を与える。――これこそ本当の布施ふせの道にかなった行で御座いましょう。
娘 ――有難う御座います、では差し上げさして頂きます。

姿



()()()姿
乞食甲 ――坊主、おいらに呉れ。
阿難 ――はい。
乞食甲 ――なんだ、一つか。
阿難 ――どなたにも一つずつですよ。
乞食甲 ――けちんぼ。
乞食乙 ――坊さん、うちにせがれとかかあが待って居るんだ。三つ呉れ。
阿難 ――只今ここへお見えになる方だけに、一つずつ差し上げることになって居ます。お見えにならぬ方には、後程餅が余った時にまた差し上げますから。
乞食乙 ――勝手にしやがれ。
(その時外道の論師、群集を押し分けずかずかと施行台の前に立つ。群集互にささやき合いながら席を開き、何か事の起るを予期する興味にて静まり返る。)
 ()
阿難 ――失礼ですが今日は議論にお答え致しかねます。師は今日私に餅の施行を命ぜられて、議論をけよとは命ぜられませんでした。
論師 ――それは法に不忠実と云うものだ。法の討論より餅の方が大事というのか。
阿難 ――何とおっしゃっても議論のお答えは致しかねます。餅なら差上げますが。
 使
阿難 ――はい。(と手でつまんで差し出す。)
論師 ――無手ではない、手を使って居るではないか。
 ()使使()()()()()
(外道の論師、寄りつくすべなく、不機嫌な顔をして餅を受取り、群集の中にまぎれ入る。)
群集 ――やあ、外道の先生、参ったな。
論師 ――やあ、阿難は女に餅を二つ与えたぞ。

乞食甲 ――えこひいき! えこひいき!


第三場


沿()()()()
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(あとより忍んでついて来た外道の論師、この時娘に声をかける。)
論師 ――娘よ。餅を捨てるに及ばぬ。
娘 ――あなたはどなた様でいらっしゃいます。
論師 ――わしは学者じゃ。娘よ、お前は餅を捨てるには及ばない。
娘 ――何と仰せられます。
論師 ――娘よ、お前は阿難と夫婦になる宿命を持って居る。それで餅が二つついたのじゃ。わしは天眼通を持って居る。わしはたしかにお前の宿命を見透した。
娘 ――まあ! 本当で御座いましょうか。
論師 ――一つずつ与えらるべき餅をいわれなく二つ与える筈はない。二人の宿命が二人に知られずして餅の上に現われたのじゃ。
娘 ――………本当なら嬉しいけれど………でもあの方は、男女の分ちを超越なさる僧侶の御身の上で御座います。わたくしが宿命どおり進むならば、あの方を堕落だらくおさせ申す事になりはしないでしょうか。
 鹿宿()西宿宿宿
(娘、しばらく考えて居たが)
娘 ――(独白)そうだ、私はあの人を得よう。私の心臓の小筥こばこのなかへ、あの方を胡蝶こちょうのようにとりこにしよう。
()姿

論師 ――(独白)娘の心はうちたてひもだ。論理の指でどんな結び方でも出来る。


第四場


その一


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老女 ――わからない子だね。わたしののろいは死人と慾を離れた人には効かないと云って居るじゃないか。
 使
老女 ――禁ぜられた呪いを犯すときには、お祖父さまの代から燃え続いて居るこの炉の火が消えて仕舞うのです。そうしたらわたし達は何で生活出来るだろう。
 姿
 
 () 
(老女はしばらくうつむき、涙に暮れて居る。が再び顔を上げた時には決然たる表情で顔が物凄く変って居る。すなわち眼は一ところに凝りつき、口は笑いともすすり泣きとも分らぬゆがみに曲って居る。娘驚きて飛び退き、あきれて母を見守る。)
老女 ――(独白)母、母、母、………母………(笑いの怪音、小間)そうだ、わたしは母なのだ!
(だんだん朗かに喜ばしげなる調子になる。)
 わたしは今日始めて、平生わたしの呪術を嫌う娘から、本当の声で母と呼ばれた。心から娘に縋り付かれた。
(自信に満てる調子にて)わたしの中から呼び覚まされた「母」はあの天地を育み生きものを造り出す力である偉大な「母性」なのだ。この力に刃向えるものはあるか。わたしはもう呪術師ではない。真正正明、一人の娘の母なのだ。
 わたしは呪術師として祈らずに、娘を愛する母として、日頃使い馴れた呪術の力を借りるとしよう。そして可愛い娘に恋人阿難を祈り迎えてやろう。(老母は立ち上り部屋の奥に入り、一かかえの白蓮華と一振りの銅刀を持ち出で来り、炉の側に坐る。)おお! 二十八枚の蓮華よ。お前の一枚々々にわたしは母として愛の血を盛る。首尾よく火を潜って若僧阿難を呼び迎えて来てお呉れ。

(老女は銅刀で乳房を裂き、白蓮華の一枚々々に乳房の血を塗り、炉の火中にくべる。異様な光焔と薫蒸とが溌乱する。)


その二


姿()
 ()()()()()調()()()()()()
(娘、勿体もったいなさ恥かしさに黙って居たが、漸く勇気を出して阿難の傍に近づいて行く。)
娘 ――阿難さま。おなつかしゅう御座います。
阿難 ――お前は誰だ。何者だ。
娘 ――池のほとりで水を差上げた者でございます。また餅施行の時に餅を頂いた者でございます。
 
娘 ――わたくしを憐れと思って下さい、わたくしはあなた様を想うて死ぬるばかりでございます。
 
娘 ――阿難さま、女が男を慕うまごころ。これが俗情でございましょうか。
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 宿
阿難 ――わたしは清らかな繭と見る、また峯を連ねた雪の山だ。
娘 ――いいえ、この餅は二人のえにしの現われなのでございます。
阿難 ――いいや繭だ、雪の山だ。
娘 ――いいえ、これこそえにしの現われです。
(老女、銅刀を持って二人の中に立つ。両の乳房に血が染まって居る。)
 ()()退
(老女改めて阿難の方に向き直る。)
阿難どの、今わたしはあなたに三つの道を与える。そしてあなたは、そのうちでただ一つの道だけ選ぶことが出来る。
阿難 ――何という権柄けんぺいずくの言葉だ。
 
阿難 ――では、云って下さい。
老女 ――その一つは、あなたが素直にわたしの娘と結婚して下さる事。これはどうじゃ。
阿難 ――わが身一つをさえ彼岸に運び兼ねて居る未熟の身の上です。足弱の道連れなど思いも及びませぬ。
老女 ――ではあなたを殺してわたし達二人も死ぬ。これはどうか。
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老女 ――それならばあなたも殺さぬ、わたし達二人も生きて居る。しかし私達二人は生きながら悪鬼となって、人情を軽蔑したあなたを始め、釈迦仏教団の人々に向って生々世々しょうしょうせせ怨みをなすが、これは如何どうだ?
阿難 ――仏の御苦労を一層増す事です。どうかやめて下さい。
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老女 ――何をいう。それでは三つの道を三つとも逃れる事ではないか。卑怯ひきょう者!
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(老女は用捨なく娘と阿難を一体にして毛綱で捲きにかかる。娘は反狂乱の態になり老女の前に立ちふさがる。)
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(老女涙をこぼす。)
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(若き美僧の阿難と清艶な娘とが狂いもつれながら、黒蛇のような毛綱に捲き上げられて行く。それはギリシャの彫像ラオコンが現わす苦痛美に、若さとなまめきを添えたものである。)
(阿難、急に思い付きたる様子にて呼び声を挙げる。)
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娘 ――阿難さま! お母様!

(二人の呼び声が響き合い、かすれ疲れ、細り行く間に、舞台、徐々に暗くなり、ついに暗転。)


第五場


()※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)()姿()()
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71) 
諸天のA ――何しろあの男は生れが上品だし、年は若いし。きりょうはよし。その上心根が優にやさしいと来て居る。女に思いつかれる資格はみんなそろって居る。どうしたって女難じょなんはまぬかれぬ処だ。
神将のA ――僧侶で美男は罪作りだ。自分から女を迷わせて置いて、迷ってはいけないというのだからな。
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神将のB ――それに引かえ俺達は安心なものだ。どう見ても女子供の寄り付く柄ではない。
諸天のA ――だから仏様が、ちゃんとまった役をふって下さる。
神将のB ――よろい甲冑かぶとに身を固め、男女の仲をきに行く。法の為とは云いながら、随分野暮やぼな役割だ。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――阿難の奴め、すっかり弱りきった。じたばた騒いで居る。
諸天のB ――阿難の弱った姿がまた美しい。あれは騒げば騒ぐほど美しくなる。だから娘もいよいよやり切れまいて。
 姿
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――世尊の美しさは女とか男とかいうものの美しさではない。生命そのものの美しさでまします。人間中のあらゆる美しさをあつめて、き浄めた美しさだ。あれを拝めば人間の理想に対する求願ぐがんを強められる。高きもの、第一義のものに対して、はっきりした目標を定めさして頂ける。仲々恋とか愛とかいう、感情に引掛る程度の美しさでは無い。むしろそういう感情を沈澱ちんでんさせてその上に澄む生命の上水を汲まして頂ける美しさなのだ。
神将のB ――して見ると阿難の美しさは感情をきまわす器械でお釈迦さまの美しさは感情の水し器械だ。阿難の器械はそこらにざらにあるが、世尊の器械は専売特許だ。
諸天のA ――いくさの途中だ。無駄な洒落しゃれを云うのは止せ。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71) ()()
神将のA ――時に今日のいくさは何ういう具合になるのです。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――ただの慾情降伏のいくさでなく、敵は子を思う母親のまごころから出て居るのだ。いくさはちと難しくなるかも知れぬ。

(空中の場面に於ける目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連その他諸天神将達が雲の上にて台詞せりふを交し居るうちにも、背景の夜の空はキネオラマ式に移り動き、あたかも舞台の人物とそれらを乗せたる雲が空中を飛揚し行くような錯覚を起さしめる。そして台詞終りし時舞台は暗転。)


第六場


(再び呪術師の老女の部屋、既に阿難と娘は毛綱にて縛り上げられ、引据えられて居る。老女はすっかり魔女の姿に変貌して居る。)
老女 ――石か青銅か。石か青銅か。
 
老女 ――石か青銅か、さあどっちだ。どっちなと望みどおり祈り固めて呉れよう。
娘 ――わたしが悪う御座いました。阿難さまを許して上げて下さい。
老女 ――(少しあきれて)え! 何だと?
 姿
 鹿()
娘 ――わたしは石になと青銅になとなります。ですからどうぞ、阿難さまは逃がして上げて下さい。
阿難 ――(同じく弱れる声にて)いや、娘さん。わたしはもう覚悟を極めて居る。どうせ仏果につたなく生れついた身の上、石になりと青銅になりとなり、この身、この因果を思い捨てます。あなたはあくまで生き延びなさい。だがこれにりて必ず二度と男を恋うるような事はなさるなよ。
娘 ――そのお言葉を聞くにつけ、いよいよあなたがおいたわしゅう存じます。どうぞわたくしを呪いの犠牲にして下さいまし。
阿難 ――いやわたしが呪いの犠牲になります。
老女 ――相変らずつべこべとうるさい奴等だ。一体どうなのだ、早くしろ。
阿難 ――(少し考えて居たが、やがてきっと顔を上げて、語気も強まり)娘さん!
娘 ――はい。
阿難 ――わたしはどうやら、女の真ごころというものが分りかけて来たような気がする。あなた自身を殺してまでわたしの身をひたすらかばおうとする。あなたのその厚い情が身にしみて来たようです。
娘 ――(声いきいきと)まあ阿難さま。それは本当で御座いますか。
阿難 ――わたしに今生れたこの心持は、あなたのいう恋とかいうものとは違うかも知れない。しかしそれに可成り近いものだとは想像がつきます。
娘 ――わたくしは嬉しくて死に相で御座います。
 
娘 ――阿難さま。わたくしを信じて下さいまし。
 
 
(阿難うなずきて覚悟。この時空中に激しき鳴響あり、それが終ると大音声にて目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連呼ばわる。)
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 阿難よ。師の世尊がお呼びであるぞ。
(目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連の声が聞ゆると同時に、阿難と娘を縛めたる毛綱おのずと断れ落つ。阿難、夢の醒めたる様子にてよろよろ立上る。)
 
娘 ――只今の頼母たのもしきお言葉に引き換え、そのお気色はどうした事で御座います。阿難さま、あなたはお一人でお逃げ遊ばす気におなりなされましたか。
 
 
(二人はもがく。二人の前に老女立ちふさがり、空をにらみ乍ら。)
 ()()()使()()()()()()
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――阿難よ。早く来るが宜い、世尊のお召だ。

※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)()()



 ※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)()()()()
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 姿()()使使()()()()()()()
 
 



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(祇園精舎の内庭である。正面に釈尊の居室があるが、扉はまだ開かれて居ない。左右は東西の僧堂になって居て、多少遠近法のついた窓々より灯がほのかにれて居る。内庭の石だたみの上に草の編物を敷き、弟子達が離れて二列に座して居る。各列の中央に細長い卓を置き、今、教団は、朝の食事の始まりである。朝が早いのであたりはまだ暗い。座中に三つ四つの燈を置き、窓の灯と共にかすかに舞台の配置を認めさす便りとする。香煙が薫じて居る。木槌きづちで舞台を打つ合図の音が一つ。)
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(木槌の音三
上首の一人 ――しゅくに十の利あり、はんには三てんじきくるもの、いやしくもこの理を忘るるなかれ。

(食事の進むと共に空は明けかけて来る。小鳥の声など聞え出す。食事が終る頃、すっかり朝の景に変る。明るくなって見ると、二列の僧座の一方は黒衣の男僧であって、一方は白衣の尼僧であるのが分る。)


その二


()退()()()()()西()()()()()()()()
舎利弗 ――世尊、御機嫌はよろしゅう御座いますか。お身体に何も御異状は御座いませんか。
釈尊 ――有難う、わしは別段に異常も無い。お前達は何うであるか。
舎利弗 ――恐れ入ります、一同無事で御座います。
(右側、尼僧の列の先頭より※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)曇弥きょうどんみが出でて問候する。)
※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61) 
 
※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)曇弥 ――恐れ入ります。わたくし共もみな心の清々しさにおらして頂いて居ります。
釈尊 ――それは何より結構なことである。それではこれからいつもの通り、朝の訓話を始めるから、一同席につき心を静めて聴くがよい。
(列の人々一拝し、おのおの座具の上に座を占める。)
 ()姿
 調()退()
 ()退退
 ()()
 
 
 
 使
 ()姿
 ()()退退
(釈尊の説法が終ると教団の人々は立ちて三拝する。それから次の誓願文を唱える。)
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(唱え終り、座具を修め、威儀を整えて退場。小間)


その三


※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)()※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)姿()()()
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――師よ、阿難を連れて戻りました。
釈尊 ――御苦労であった。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――ここに居るのが呪術師の娘で御座います。わたくしの威神力をもってしても、どうしても阿難からこの娘を離す事が出来ないので御座います。
釈尊 ――いや、強いて今離すには及ばぬ。
()
釈尊 ――阿難よ。何うした。
(師に始めて言葉をかけられたので阿難はどっと泣き出す。嗚咽おえつの間より情の嵩じた響音に呼ぶ。)
阿難 ――師よ。なつかしき師よ。
(その後はまた涙。娘さめざめと泣き出す。)
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――可哀相では御座いますが、教団の掟で御座いますから、阿難を作法通りに行いましょうか。
釈尊 ――いや、それにも及ばぬ、お前も疲れたろうから早く部屋に引き取って休息するが宜い。阿難に就いてはわしに少し考えがあるから。
※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連 ――有難う御座います。では失礼さして頂きます。

(目※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)連は三拝した後、一寸阿難を顧み、憐みに堪えない表情を見せて、退場。)


その四


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釈尊 ――娘よ、騒ぐには及ばぬ。阿難は今、罪より生命を産む陣痛に在るのだ。産に必要なのは、時間とそして共に苦しむ人である。阿難の為に必要な時間は、これを日天に任せる。阿難と共に苦しむ人は、すなわちここに在る。娘よ、落付いてわしの身体を見るが宜い。
娘 ――おお! 金色の御肌より血の汗が! 血の汗が!
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 宿()()()()()()
 
(阿難はとうとう気絶してしまう。娘はおろおろとして阿難を抱きかかえてみたり、また釈尊の前へ駈け寄ったり、正体もなく嘆く。)
娘 ――おお、阿難さまがお死になされます。お死になされます。
 
 ()
 ()()()宿()()()
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()()()()()()退
阿難 ――(釈尊には気づかざるものの如く)はははは……面白い煩悩よ、好もしい罪よ。わたしはもうお前等を恐れはしない。お前等を追い払う心は無くなった……それをまた何故にお前等はそのように肩をせばめて逃げて行くのだ。傍へ寄って来るが宜い。煩悩よ。煩悩よ。(手を差し出して)さあ来ないか。寄って来ないか。(手を引きこめて)お前達はまだわたしがお前達を仇のように憎んで居ると思って居るのか。それは大きな思違いだ。わたしの眼を開いて呉れたのは、なやみよ、お前だ。わたしを難みに引き入れて呉れたのは、罪よ、お前の骨折のお蔭ではないか。結句お前達は、わたしの恩人だ。だからわたしは今はもう、お前達に感謝こそすれ、仇敵きゅうてきと思う心は毛頭もない筈ではないか。
(阿難、今度は娘の方を向く。)
阿難 ――おお、娘、あなたは、まだ其処に居たのですか。
 
阿難 ――そんな事はどうでも宜いのです。それよりか悦んで下さい。阿難はあなたのどんな心持ちでもけることが出来るようになりました。
娘 ――まあ!
 ()
(阿難、娘の眼の中へ自分の瞳を差し込むばかり強く視詰める。)
娘 ――(たじろいで)そんなに御覧遊ばしてはまぶしゅう御座います。
阿難 ――今更どうした事なのです。わたしの眼は、あなたの罠のなかへなりと、情の渦のなかへなりと、素直にとらえられると云って居るではないか……。わたしはあなたに捉えられてそこに安住するとき、かえってあなたを罠ごとわたしの生命に浄化する便りになることがわかったのです。
 ()
(阿難、娘の袂を執って)
 宿
 やがて時節到来して、どちらか一人が仏の位に昇れるお許しを得るとしても、あなたを先きへ栄光の位に即かせ、あなたの幸福な姿を見てわたしは悦んで満足しよう。
 あなたは少しも心配せずとも、あなたの愛の儘で動いて下さい。分りましたか、分ったか、娘さん。
(阿難はしきりに娘の袂を揺る。娘の体は段々くずれ折れて行く。遂に阿難の膝下に身を投げる。手はいつしか合掌して居る。嗚咽の声で言葉が途切れ途切れに出る。)
 ()()
 処が只今の打って変った御様子、すべてを与えて私を充たして下さろうとなさる御志し、その情のお言葉の端から、み仏の光がわたくしの心に射して、わたくしはもう、勿体ない気持ちばかりなので御座います。
 ……わたくしはもう欲界の愛の心で、あなた様をおけがし申し度くありません。というて、このままお別れ致すのも心残りで御座います。そしてわたくしもまたあなた様の為め、何かして差し上げ度い、そしてわたくしのあなた様を思う心の遣り所を、何処かに見出し度う御座います……。おお尊きみ仏よ。この愚な女の取る術は、どうなので御座います。お教え下さいまし、お願いで御座います。
(阿難と娘の対話の間、暝目して[#「暝目して」はママ]じょうに入って居た釈尊は、娘の願いを聞いて静かに眼を開く。)
釈尊 ――娘よ。お前は阿難のいう通り、阿難と結婚したが宜かろう。
(阿難、釈尊の声を聞き、恐縮して娘の傍にうずくまる。)
娘 ――それは本当なので御座いますか。
釈尊 ――ただし、それには少し註文がある。お前はそれを聴き入れるか。
娘 ――お断りする力が御座いません。
釈尊 ――阿難との結婚の為にはお前は髪を切らねばならぬ。また白衣を身に着けねばならぬ。
娘 ――(やや驚きつつ)……何故に髪を切り、白衣を着ねばなりませぬか……。
釈尊 ――彼の世界では髪を切ることが髪を結ぶことであり、衣の色を除くことが衣の色を飾ることであるのだ。
娘 ――ではわたくしは、もしや尼僧に……?
釈尊 ――それが彼の世界で式を挙げる、聖なる結婚の花嫁姿だ。この世の飾りは邪魔になろうよ。
娘 ――(泣きつつ)……判りました。
 ()()
阿難 ――かしこまりました。

(釈尊座を立ち、後向になって涙を拭う。阿難と娘は手を執り合って泣く。)


その五


(教団のあらくれた僧達が十人程、一条の縄を牽き合うて出て来る。)
僧一 ――何という呆れたざまだ。僧が女の手を執り合って泣いて居る。
僧二 ――阿難。貴様はそれでも釈迦教団の幹部か。
僧三 ――平常世尊があまり阿難を甘くなさるので、増長してこんな事になる。
 ()()()
僧達 ――(一同声を揃えて)お許し下さい。
 
僧一 ――何と仰せられます。縛られぬということが御座いましょうか。
僧二 ――わたくし達の腕は、戒律で鍛え上げて御座います。何の、恥知らずの若僧一人。
釈尊 ――ではお前達、阿難に一問かけて見よ。阿難がもし答えられなかったら即座に縛るが宜しい。
僧一 ――畏まりました。
かたちを改めて大声に)縄、身を縛する時いかに。
阿難 ――何が縄だ。何が身だ。
(阿難、従容しょうようとして後手に縛られる模様をなす。その刹那、僧等の手に牽き合うた縄が断れ断れとなる。)
僧達 ――やあ……。やあ……。

(阿難座具をべ釈尊に三拝し、娘の手を執り悠々と僧等の前を過ぎて退場。幕。)


第九場


その一


()()()()()()()()()()姿
娘 ――そこへ行かれるのは阿難さまでは御座いませぬか。
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摩登伽尼 ――もうあれからまる三年経ちまして御座いますね。
阿難 ――成程なるほど三年、早いものですな。然しこの三年間、あなたも随分慣れぬ修行に、つらい事も多かったでしょう。
摩登伽尼 ――どう致しまして、感謝に満ちた日を送らして頂いて居るので御座います。
阿難 ――それは何よりです。そうそう、尼僧の取締りの※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)曇弥きょうどんみさんも、あなたが大へん御精が出ると感心して居られました。この分なら、世尊より証道の御允可ごいんかの出るのも、久しい先では無いと云って居られました。
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 姿
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(日は八分通り暮れ、園の奥や、墻壁の腰に薄墨を溶かしたような闇がたゆたう。樹木の梢と空にだけ金色の残光が淡く照り栄えて居る。今迄、耳を澄まして摩登伽尼の述懐を聞いて居た阿難は、この時更に言葉を語り継ごうとする摩登伽尼を手にて制し云う。)
阿難 ――しばらくお静まりなされ、摩登伽尼。あなたの母御さまが今ここにお見えになりますぞ。

摩登伽尼 ――え? それはまことで御座いますか。


その二


(声の終らぬうちに大地より紅き焔が燃え上り、焔に包まれて一つの形影がせり上って来る。それは呪術師の老女である。)
 ()
 
 ()()()

(一抹の火焔と共に老女の姿は地下にせり下る。)


その三


(老女が再び陥ちて行った大地の坑より少し距離を置いた地点から、蒼ざめた焔が立ち騰り、焔に包まれた外道の論師が現われる。)
 ()()()()()()()※(「安+頁」、第3水準1-93-88)()()()()()姿便()

(燃え立つ焔に包み取られて外道の論師は再び大地に没する。)


その四


(幻影が姿を消して仕舞ったあと、舞台面は現実感が一しお強められる。すなわちそれはもうすっかりこの世の闇になって居るのである。空には滴る星の光がちりばめられ園林の葉枝は夜風を迎え始めた。
虫とも鳥ともつかぬ澄んだ鳴声がセコンドの役を勤め、刻々宵を夜に移して行く。摩登伽尼の手には金糸、阿難の手には銀糸の端切れがまだ遺って居る。)
阿難 ――摩登伽尼、総てが判りましたな。
摩登伽尼 ――何の疑うところが御座いましょう。
(二人は胸に充実した感じを吹きさまそうとでもするように、深く息を吸い入れ暫らく沈思瞑目する。)
摩登伽尼 ――でも阿難さま。まだたった一つ私に判らない事が残って居るので御座います。
阿難 ――遠慮なくお尋ねなさるが宜しい。

摩登伽尼 ――恋……。何故人間には、人間のつまずきになる恋などというものが、与えられて在るので御座いましょう。これだけがどうしてもわたくしには判らないので御座います。


その五


(阿難が如何に摩登伽尼に云い諭すべきか苦慮して居るうちに、園林は金光に輝き其処に仏陀の姿が現われ出る。)
 ()
 
摩登伽尼 ――はい。(思わず合掌する。)
釈尊 ――世にありとあらゆるもの、みな道への便宜ならぬは無い。必ず粗略に想うてはならぬ。
お前達。もう晩食を摂ったのか。
阿難 ――いえ。まだで御座います。
摩登伽尼 ――別に頂き度くも無いので御座います。
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底本:「岡本かの子全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「散華抄」大雄閣
   1929(昭和4)年5月
初出:「読売新聞」
   1928(昭和3)年5月6日〜6月19日
※「燈」と「灯」、「………」と「……」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:いとうおちゃ
2021年2月26日作成
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