︵一︶﹇#﹁︵一︶﹂は縦中横﹈
耕平は髪も角刈りで、おとなのくせに、今日は朝から口笛などを吹いてゐます。
畑の方の手があいて、こゝ二三日は、西の野原へ、葡ぶだ萄うをとりに出られるやうになったからです。
そこで耕平は、うしろのまっ黒戸とだ棚なの中から、兵隊の上着を引っぱり出します。
一等卒の上着です。
いつでも野原へ出るときは、きっとこいつを着るのです。
空が光って青いとき、黄いろなすぢの入った兵隊服を着て、大手をふって野原を行くのは、誰たれだっていゝ気持ちです。
耕平だって、もちろんです。大きげんでのっしのっしと、野原を歩いて参ります。
野原の草もいまではよほど硬くなって、茶いろやけむりの穂を出したり、赤い実をむすんだり、中にはいそがしさうに今年のおしまひの小さな花を開いてゐるのもあります。
耕平は二へんも三べんも、大きく息をつきました。
野原の上の空などは、あんまり青くて、光ってうるんで、却かへって気の毒なくらゐです。
その気の毒なそらか、すきとほる風か、それともうしろの畑のへりに立って、玉たう蜀もろ黍こしのやうな赤髪を、ぱちゃぱちゃした小さなはだしの子どもか誰か、とにかく斯かう歌ってゐます。
﹁馬こは、みんな、居なぐなた。
仔っこ馬まもみんな随ついで行いた。
いまでぁ野原もさぁみしん﹇#﹁ん﹂は小書き﹈ぢゃ、
草ぱどひでりあめばがり。﹂
実は耕平もこの歌をききました。ききましたから却って手を大きく振って、
﹁ふん、一向さっぱりさみしぐなぃんぢゃ。﹂と云いったのです。
野原はさびしくてもさびしくなくても、とにかく日光は明るくて、野葡萄はよく熟してゐます。そのさまざまな草の中を這はって、真っ黒に光って熟してゐます。
そこで耕平は、葡萄をとりはじめました。そして誰でも、野原で一ぺん何かをとりはじめたら、仲々やめはしないものです。ですから耕平もかまはないで置いて、もう大丈夫です。今に晩方また来て見ませう。みなさんもなかなか忙がしいでせうから。
︵二︶﹇#﹁︵二︶﹂は縦中横﹈
夕方です。向ふの山は群ぐん青じゃういろのごくおとなしい海なま鼠このやうによこになり、耕平はせなかいっぱい荷物をしょって、遠くの遠くのあくびのあたりの野原から、だんだん帰って参ります。しょってゐるのはみな野葡萄の実にちがひありません。参ります、参ります。日暮れの草をどしゃどしゃふんで、もうすぐそこに来てゐます。やって来ました。お早う、お早う。そら、
耕平は、一等卒の服を着て、
野原に行って、
葡萄 をいっぱいとって来た、いゝだらう。
野原に行って、
﹁ふん。あだりまぃさ。あだりまぃのごとだん﹇#﹁ん﹂は小書き﹈ぢゃ。﹂耕平が云ってゐます。
さうですとも、けだしあたりまへのことです。一日いっぱい葡萄ばかり見て、葡萄ばかりとって、葡萄ばかり袋へつめこみながら、それで葡萄がめづらしいと云ふのなら、却かへって耕平がいけないのです。
︵三︶﹇#﹁︵三︶﹂は縦中横﹈
すっかり夜になりました。耕平のうちには黄いろのラムプがぼんやりついて、馬屋では馬もふんふん云ってゐます。
耕平は、さっき頬ほっぺたの光るくらゐご飯を沢山喰べましたので、まったく嬉うれしがって赤くなって、ふうふう息をつきながら、大きな木きば鉢ちへ葡萄のつぶをパチャパチャむしってゐます。
耕平のおかみさんは、ポツンポツンとむしってゐます。
耕平の子は、葡萄の房を振りまはしたり、パチャンと投げたりするだけです。何べん叱しかられてもまたやります。
﹁おゝ、青あゑい青あゑい、見める見める。﹂なんて云ってゐます。その黒光りの房の中に、ほんの一つか二つ、小さな青いつぶがまじってゐるのです。
それが半分すきとほり、青くて堅くて、藍らん晶しゃ石うせきより奇麗です。あっと、これは失礼、青ぶだうさん、ごめんなさい。コンネテクカット大学校を、最優等で卒業しながら、まだこんなこと私は云ってゐるのですよ。みなさん、私がいけなかったのです。宝石は宝石です。青い葡萄は青い葡萄です。それをくらべたりなんかして全く私がいけないのです。実際コンネテクカット大学校で、私の習ってきたことは、﹁お前はきょろきょろ、自分と人とをばかりくらべてばかりゐてはならん。﹂といふことだけです。それで私は卒業したのです。全くどうも私がいけなかったのです。
いや、耕平さん。早く葡萄の粒を、みんな桶をけに入れて、軽く蓋ふたをしておやすみなさい。さよなら。
︵四︶﹇#﹁︵四︶﹂は縦中横﹈
あれから丁度、今夜で三日になるのです。
おとなしい耕平のおかみさんが、葡萄のはひったあの桶を、てかてかの板の間のまん中にひっぱり出しました。
子供はまはりをぴょんぴょんとびます。
耕平は今夜も赤く光って、熱ほてってフウフウ息をつきながら、だまって立って見てゐます。
おかみさんは赤あか漆うる塗しぬりの鉢はちの上に笊ざるを置いて、桶をけの中から半分潰つぶれた葡ぶだ萄うの粒を、両手に掬すくって、お握りを作るやうな工ぐあ合ひにしぼりはじめました。
まっ黒な果汁は、見る見る鉢にたまります。
耕平はじっとしばらく見てゐましたが、いきなり高く叫びました。
﹁ぢゃ、今年ぁ、こいつさ砂糖入れるべな。﹂
﹁罰金取らへらんすぢゃ。﹂
﹁うんにゃ。税務署に見めっけらへれば、罰金取らへる。見めっけらへなぃば、すっこすっこど葡ぶん﹇#﹁ん﹂は小書き﹈萄どし酒ゅ呑のむ。﹂
﹁なじょして蔵かぐして置ぐあん﹇#﹁ん﹂は小書き﹈す。﹂
﹁うん。砂糖入れで、すぐに今こん夜にゃ、瓶びんさ詰めでしむべぢゃ。そして落しの中さ置ぐべすさ。瓶、去年なのな、あったたぢゃな。﹂
﹁瓶はあらんす。﹂
﹁そだら砂糖持ってこ。喜助ぁ先せんどな持って来たけぁぢゃ。﹂
﹁あん、あらんす。﹂
砂糖が来ました。耕平はそれを鉢の汁の中に投げ込んで掻かきまはし、その汁を今度は布の袋にあけました。袋はぴんとはり切ってまっ赤なので、
﹁ほう、こいづはまるで牛べごの胆きものよだな。﹂と耕平が云ひました。そのうちにおかみさんは流しでこちこち瓶を洗って持って来ました。
それから二人はせっせと汁を瓶につめて栓せんをしました。麦ビー酒ルび瓶ん二十本ばかり出来あがりました。﹁特製御葡萄水﹂といふ、去年のはり紙のあるのもあります。このはり紙はこの辺で共同でこしらへたのです。
これをはって売るのです。さやう、去年はみんなで四十本ばかりこしらへました。もちろん砂糖は入れませんでした。砂糖を入れると酒になるので、罰金です。その四十本のうち、十本ばかりはほかのうちのやうに、一本三十銭づつで町の者に売ってやりましたが、残りは毎晩耕平が、
﹁うう、渋、うう、酸っかい。湧わぃでるぢゃい。﹂なんて云ひながら、一本づつだんだんのんでしまったのでした。
さて瓶がずらりと板の間にならんで、まるでキラキラします。おかみさんは足もとの板をはづして床下の落しに入って、そこからこっちに顔を出しました。
耕平は、
﹁さあ、いゝが。落すな。瓶の脚そ揃ろぇでげ。﹂なんて云ひながら、それを一本づつ渡します。
耕平は、潰し葡萄を絞りあげ、
砂糖を加へ、
瓶 にたくさんつめこんだ。
砂糖を加へ、
と斯かう云ふわけです。
︵五︶﹇#﹁︵五︶﹂は縦中横﹈
あれから六日たちました。
向ふの山は雪でまっ白です。
草は黄いろに、をととひなどはみぞれさへちょっと降りました。耕平とおかみさんとは家の前で豆を叩たたいて居をりました。
そのひるすぎの三時頃ころ、西の方には縮れた白い雲がひどく光って、どうも何かしらあぶないことが起りさうでした。そこで
﹁ボッ﹂といふ爆発のやうな音が、どこからとなく聞えて来ました。耕平は豆を叩く手をやめました。
﹁ぢゃ、今の音聴だが。﹂
﹁何だべぁんす。﹂
﹁きっとどの山が噴火ン﹇#﹁ン﹂は小書き﹈したな。秋田の鳥海山だべが。よっぽど遠ぐの方だよだぢゃい。﹂
﹁ボッ。﹂音がまた聞えます。
﹁はぁでな、又やった。きたいだな。﹂
﹁ボッ。﹂
﹁をぉがしな。﹂
﹁どごだべぁん﹇#﹁ん﹂は小書き﹈す。﹂
﹁どごでもいがべ。此こ処ごまで来なぃがべ。﹂
それからずうっとしばらくたって、又音がします。
それからしばらくしばらくたってから、又聞えます。
その西の空の眼めの痛いほど光る雲か、すきとほる風か、それとも向ふの柏かし林はばやしの中にはひった小さな黒い影法師か、とにかく誰たれかが斯う歌ひました。
「一昨日 、みぃぞれ降ったれば
すゞらんの実ぃ、みんな赤ぐなて、
雪の支度のしろうさぎぁ、
きいらりきいらど歯ぁみがぐ。」
すゞらんの実ぃ、みんな赤ぐなて、
雪の支度のしろうさぎぁ、
きいらりきいらど歯ぁみがぐ。」
ところが
﹁ボッ。﹂
音はまだやみません。
耕平はしばらく馬のやうに耳を立てて、じっとその方角を聴いてゐましたが、俄にはかに飛びあがりました。
﹁あっ葡ぶだ萄うし酒ゅだ、葡萄酒だ。葡ん﹇#﹁ん﹂は小書き﹈萄酒はじけでるぢゃ。﹂
家の中へ飛び込んで落しの蓋ふたをとって見ますと、たしかに二十本の葡萄の瓶びんは、大抵はじけて黒い立派な葡萄酒は、落しの底にながれてゐます。
耕平はすっかり怒って、かるわざの股もも引ひきのやうに、半分赤く染まった大根を引っぱり出して、いきなり板の間に投げつけます。
さあ、そこでこんどこそは、
耕平が、そっとしまった葡萄酒は
順序たゞしく
みんなはじけてなくなった。
順序たゞしく
みんなはじけてなくなった。
と斯かう云ふわけです。
どうです、今度も耕平はこの前のときのやうに
﹁ふん、一向さっぱり当あだり前ぁだんぢゃ。﹂と云ひますか。云ひはしません。参ったのです。