仔牛が厭あきて頭をぶらぶら振ってゐましたら向ふの丘の上を通りかかった赤あか狐ぎつねが風のやうに走って来ました。
﹁おい、散歩に出ようぢゃないか。僕がこの柵さくを持ちあげてゐるから早くくぐっておしまひ。﹂
仔牛は云いはれた通りまづ前まへ肢あしを折って生え出したばかりの角を大事にくぐしそれから後肢をちゞめて首尾よく柵を抜けました。二人は林の方へ行きました。
狐が青ぞらを見ては何べんもタンと舌を鳴らしました。
そして二人は樺かば林の中のベチュラ公爵の別荘の前を通りました。
ところが別荘の中はしいんとして煙突からはいつものコルク抜きのやうな煙も出ず鉄の垣かきが行儀よくみちに影法師を落してゐるだけで中には誰たれも居ないやうでした。
そこで狐がタン、タンと二つ舌を鳴らしてしばらく立ちどまってから云ひました。
﹁おい、ちょっとはひって見ようぢゃないか。大丈夫なやうだから。﹂
犢こうしはこはさうに建物を見ながら云ひました。
﹁あすこの窓に誰かゐるぢゃないの。﹂
﹁どれ、何だい、びくびくするない。あれは公爵のセロだよ。だまってついておいで。﹂
﹁こはいなあ、僕は。﹂
﹁いゝったら、おまへはぐづだねえ。﹂
赤狐はさっさと中へ入りました。仔牛も仕方なくついて行きました。ひひらぎの植込みの処ところを通るとき狐の子は又青ぞらを見上げてタンと一つ舌を鳴らしました。仔牛はどきっとしました。
赤狐はわき玄関の扉とのとこでちょっとマットに足をふいてそれからさっさと段をあがって家の中に入りました。仔牛もびくびくしながらその通りしました。
﹁おい、お前の足はどうしてさうがたがた鳴るんだい。﹂赤狐は振り返って顔をしかめて仔牛をおどしました。仔牛ははっとして頸くびをちゞめながら、なあに僕は一向家の中へなんど入りたくないんだが、と思ひました。
﹁この室へやへはひって見よう。おい。誰か居たら遁にげ出すんだよ。﹂赤狐は身構へしながら扉をあけました。
﹁何だい。こゝは書物ばかりだい。面白くないや。﹂狐は扉をしめながら云ひました。支し那なの地理のことを書いた本なら見たいなあと仔牛は思ひましたがもう狐がさっさと廊下を行くもんですから仕方なく又ついて行きました。
﹁どうしておまへの足はさうがたがた鳴るんだい。第一やかましいや。僕のやうにそっとあるけないのかい。﹂
狐が又次の室をあけようとしてふり向いて云ひました。
仔牛はどうもうまく行かないといふやうに頭をふりながらまたどこか、なあに僕は人の家の中なんぞ入りたくないんだ、と思ひました。
﹁何だい、この室へやはきものばかりだい。見っともないや。﹂
赤あか狐ぎつねは扉とをしめて云ひました。僕はあのいつか公爵の子供が着て居た赤い上着なら見たいなあと仔牛は思ひましたけれどももう狐がぐんぐん向ふへ行くもんですから仕方なくついて行きました。
狐はだまって今度は真しん鍮ちゅうのてすりのついた立派なはしごをのぼりはじめました。どうして狐さんはあゝうまくのぼるんだらうと仔牛は思ひました。
﹁やかましいねえ、お前の足ったら、何て無器用なんだらう。﹂狐はこはい眼めをして指で仔牛をおどしました。
はしご段をのぼりましたら一つの室があけはなしてありました。日が一ぱいに射さして絨じゅ緞うたんの花のもやうが燃えるやうに見えました。てかてかした円まる卓テーブルの上にまっ白な皿さらがあってその上に立派な二房の黒ぶだうが置いてありました。冷たさうな影法師までちゃんと添へてあったのです。
﹁さあ、喰べよう。﹂狐はそれを取ってちょっと嚊かいで検査するやうにしながら云ひました。
﹁おい、君もやり給たまへ。蜂はち蜜みつの匂にほひもするから。﹂狐は一つぶべろりとなめてつゆばかり吸って皮と肉とさねは一しょに絨鍛の上にはきだしました。
﹁そばの花の匂もするよ。お食べ。﹂狐は二つぶ目のきょろきょろした青い肉を吐き出して云ひました。
﹁いゝだらうか。﹂僕はたべる筈はずがないんだがと仔牛は思ひながら一つぶ口でとりました。
﹁いゝともさ。﹂狐はプッと五つぶめの肉を吐き出しながら云ひました。
仔牛はコツコツコツコツと葡ぶだ萄うのたねをかみ砕いてゐました。
﹁うまいだらう。﹂狐はもう半ぶんばかり食ってゐました。
﹁うん、大へん、おいしいよ。﹂仔牛がコツコツ鳴らしながら答へました。
そのとき下の方で
﹁ではあれはやっぱりあのまんまにして置きませう。﹂といふ声とステッキのカチッと鳴る音がして誰たれか二三人はしご段をのぼって来るやうでした。
狐はちょっと眼を円くしてつっ立って音を聞いてゐましたがいきなり残りの葡萄の房を一ぺんにべろりとなめてそれから一つくるっとまはってバルコンへ飛び出しひらっと外へ下りてしまひました。仔牛はあわてて室の出口の方へ来ました。
﹁おや、牛の子が来てるよ。迷って来たんだね。﹂せいの高い鼻はな眼めが鏡ねの公爵が段をあがって来て云ひました。
﹁おや、誰か葡萄なぞ食って床へ種た子ねをちらしたぞ。﹂泊りに来て居た友だちのヘルバ伯爵が上着のかくしに手をつっこんで云ひました。
﹁この牛の仔にリボン結んでやるわ。﹂伯爵の二番目の女の子がかくしから黄いろのリボンを出しながら云ひました。