一
キッコの村の学校にはたまりがありませんでしたから雨がふるとみんなは教室で遊びました。ですから教室はあの水車小ご屋やみたいな古ふる臭くさい寒かん天てんのような教室でした。みんなは胆きも取とりと巡じゅ査んさにわかれてあばれています。 ﹁遁にげだ、遁げだ、押おさえろ押えろ。﹂﹁わぁい、指ゆび噛かじるこなしだでぁ。﹂ がやがやがたがた。 ところがキッコは席せきも一番前のはじで胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですからその中にはいりませんでした。机つくえに座すわって下を向むいて唇くちびるを噛かんでにかにか笑わらいながらしきりに何か書いているようでした。 キッコの手は霜しもやけで赤くふくれていました。五月になってもまだなおらなかったのです。右手のほうのせなかにはあんまり泣ないて潰つぶれてしまった馬の目玉のような赤い円いかたがついていました。 キッコは一寸すんばかりの鉛えん筆ぴつを一いっ生しょうけん命めいにぎってひとりでにかにかわらいながら8の字を横よこにたくさん書いていたのです。︵めがね、めがね、めがねの横めがね、めがねパン、
くさりのめがね、
︶ところがみんなはずいぶんひどくはねあるきました。キッコの机つくえはたびたび誰だれかにぶっつかられて暗あん礁しょうに乗のりあげた船のようにがたっとゆれました。そのたびにキッコの8の字は変へんな洋よう傘がさの柄えのように変かわったりしました。それでもやっぱりキッコはにかにか笑わらって書いていました。
﹁キッコ、汝うなの木ペン見せろ。﹂にわかに巡じゅ査んさの慶けい助すけが来てキッコの鉛えん筆ぴつをとってしまいました。﹁見なくてもい、よごせ。﹂キッコは立ちあがりましたけれども慶助はせいの高いやつでそれに牛うし若わか丸まるのようにうしろの机の上にはねあがってしまいましたからキッコは手がとどきませんでした。﹁ほ、この木ペン、この木ペン。﹂慶助はいかにもおかしそうに顔をまっかにして笑って自分の眼めの前でうごかしていました。﹁よごせ慶助わあい。﹂キッコは一生けん命のびあがって慶助の手をおろそうとしましたが慶助はそれをはなして一つうしろの机つくえににげてしまいました。そして﹁いがキッコこの木ペン耳さ入るじゃぃ。﹂と云いいながらほんとうにキッコの鉛筆を耳に入れてしまったようでした。キッコは泣いて追おいかけましたけれども慶助はもうひらっと廊ろう下かへ出てそれからどこかへかくれてしまいました。キッコはすっかり気きも持ちをわるくしてだまって窓まどへ行って顔を出して雨だれを見ていました。そのうち授じゅ業ぎょうのかねがなって慶助は教室に帰って来遠くからキッコをちらっとみましたが、またどこかであばれて来たとみえて鉛筆のことなどは忘わすれてしまったという風に顔をまっかにしてふうふう息いきをついていました。
﹁わあい、慶助、木ペン返せじゃ。﹂キッコは叫さけびました。﹁知らなぃじゃ、うなの机さ投なげてたじゃ。﹂慶助は云いました。キッコはかがんで机のまわりをさがしましたがありませんでした。そのうちに先生が入って来ました。
﹁三さぶ郎ろう、この時間うな木ペン使つかってがら、おれさ貸かせな。﹂キッコがとなりの三郎に云いました。
﹁うん、﹂三郎が机の蓋ふたをあけて本や練れん習しゅ帖うちょうを出しながら上うわのそらで答えました。
二
課かぎ業ょうがすんでキッコがうちへ帰るときは雨はすっかり晴れていました。 あちこちの木がみなきれいに光り山は群ぐん青じょうでまぶしい泣なき笑わらいのように見えたのでした。けれどもキッコは大へんに心もちがふさいでいました。慶けい助すけはあんまりいばっているしひどい。それに鉛えん筆ぴつも授じゅ業ぎょうがすんでからいくらさがしてももう見えなかったのです。どの机つくえの足もとにもあのみじかい鼠ねずみいろのゴムのついた鉛筆はころがっていませんでした。新しん学がっ期きからずうっと使つかっていた鉛筆です。おじいさんと一いっ緒しょに町へ行って習しゅ字うじ手本や読方の本と一緒に買って来た鉛筆でした。いくらみじかくなったってまだまだ使つかえたのです。使えないからってそれでも面おも白しろいいい鉛筆なのです。 キッコは樺かばの林の間を行きました。樺はみな小さな青い葉はを出しすきとおった雨の雫しずくが垂たれいい匂においがそこらいっぱいでした。おひさまがその葉をすかして古めかしい金いろにしたのです。 それを見ているうちに、 ︵木ペン樺かばの木に沢うん山とあるじゃ︶キッコはふっとこう思いました。けれども樺の木の小さな枝えだには鉛筆ぐらいの太さのはいくらでもありますけれども決けっして黒い心がはいってはいないのです。キッコはまた泣なきたくなりました。 そのときキッコは向むこうから灰はいいろのひだのたくさんあるぼろぼろの着きも物のを着た一人のおじいさんが大へん考え込こんでこっちへ来るのを見ました。︵あのおじいさんはきっと鼠ねず捕みとりだな。︶キッコは考えました。おじいさんは変へんな黒くろい沓くつをはいていました。そしてキッコと行きちがうときいきなり顔をあげてキッコを見てわらいました。﹁今日学校で泣ないたな。目のまわりが狸たぬきのようになっているぞ。﹂すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。 ﹁何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。﹂ 鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおじいさんは顔をしかめて上を向むいて﹁おまえじゃないよ、やかましい、だまっておいで﹂とどなりました。 すると鳥はにわかにしいんとなってそれから飛とんで行ったらしくぼろんという羽の音も聞え樺かばの木からは雫しずくがきらきら光って降ふりました。﹁いってごらん。なぜ泣いたの。﹂ おじいさんはやさしく云いいました。﹁木ペン失なぐした。﹂キッコは両りょ手うてを目にあててまたしくしく泣きました。﹁木ペン、なくした。そうか。そいつはかあいそうだ。まあ泣くな、見ろ手がまっ赤かじゃないか。﹂ おじいさんはごそごその着きも物ののたもとを裏うら返がえしにしてぼろぼろの手てち帳ょうを出してそれにはさんだみじかい鉛えん筆ぴつを出してキッコの手に持もたせました。キッコはまだ涙なみだをぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰はい色いろでごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変へんな鉛えん筆ぴつでした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いていました。﹁ははああんまり面おも白しろくもないのかな。まあ仕しか方たない、わしは外に持もっていないからな。﹂おじいさんはすっと行ってしまいました。 風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかえって見ましたらおじいさんはもう林の向むこうにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝えだきれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。三
次つぎの日学校の一時間目は算さん術じゅつでした。キッコはふとああ木ペンを持っていないなと思いました。それからそうだ昨きの日うの変な木ペンがある。あれを使つかおう一時間ぐらいならもつだろうからと考えつきました。
そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒こく板ばんに書いた問もん題だいをごそごその藁わら紙がみの運うん算ざん帳ちょうに書き取とりました。
48×62＝ ﹁みなさん一けた目のからさきにかけて。﹂と先生が云いいました。﹁一けた目からだ。﹂とキッコが思ったときでした。不ふ思し議ぎなことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまいました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないような気がして呆あきれてしばらくぼんやり見ていました。﹁一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘かん定じょうして。﹂と先生が云いいました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288と二けた目までのとこへ書いてしまいました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅かたくなってだまっていましたら先生がまた﹁さあできたら寄よせ算をして下さい。﹂と云いました。またはじまるなと思っていましたらやっぱり、もうただ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまいました。
さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていいかわからないでただもうお湯ゆへ入ったときのようにじっとしていましたら先生がむちを持もって立って﹁では吉きち三さぶ郎ろうさんと慶けい助すけさんと出て黒こく板ばんへ書いて下さい。﹂と云いました。︹キッコは筆ひっ記きち帳ょうをもってはねあがりました。︺そして教きょ壇うだんへ行ってテーブルの上の白はく墨ぼくをとっていまの運うん算ざんを書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤かにして半分立ったまま自分の席せきでもじもじしていました。キッコは9の字などはどうも少しなまずのひげのようになってうまくないと思いながらおりて来たときようやく慶助が立って行きましたけれども問もん題だいを書いただけであとはもうもじもじしていました。
先生はしばらくたって﹁よし﹂と云いましたので慶助は戻もどって来ました。先生はむちでキッコのを説せつ明めいしました。
﹁よろしい、大へんよくできました。﹂キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。︵もう算さん術じゅつだっていっこうひどくない。字だって上じょ手うずに書ける。算術帳とだって国語帳とだって雑ぞう作さなく書ける︶
キッコは思いながらそっと帳ちょ面うめんをみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛えん筆ぴつはまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立りっ派ぱにそれを書いてしまうのでした。キッコはもう大おお悦よろこびでそれをにがにがならべて見ていましたがふと算術帳と理科帳と取りちがえて書いたのに気がつきました。この木ペンにはゴムもついていたと思いながら尻しりの方のゴムで消そうとしましたらもう今こん度どは鉛筆がまるで踊おどるように二、三べん動うごいて間もなく表ひょ紙うしはあとも残のこさずきれいになってしまいました。さあ、キッコのよろこんだことこんないい鉛筆をもっていたらもう勉べん強きょうも何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕ぼくはまず家へ帰ったらおっ母かさんの前へ行って百けたぐらいの六むつかしい勘かん定じょうを一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがいない。僕はまず立りっ派ぱな軍ぐん艦かんの絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗へってしまうと困こまるなあ、こう考えたときでした鉛筆が俄にわかに倍ばいばかりの長さに延のびてしまいました。キッコはまるで有うち頂ょう天てんになって誰だれがどこで何をしているか先生がいま何を云いっているかもまるっきりわからないという風でした。
その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎようと云ったら第だい一いちにおっかさんの前で十けたばかりの掛かけ算ざんと割わり算ざんをすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫ねこの顔を写しゃ生せいしたり荒あら木きま又た右えエも門んの仇あだ討うちのとこを描かいて見せたりそしておしまいもうお話を自分でどんどんこさえながらずんずんそれを絵にして書いていきました。その絵がまるでほんもののようでしたからキッコの弟のよろこびようと云ったらありませんでした。
﹁さあいいが、その山やま猫ねこはこの栗くりの木がらひらっとこっちさ遁にげだ。鉄てっ砲ぽう打うぢはこうぼかげだ。山猫はとうとうつかまって退たい治じされた。耳の中にこう云う玉入っていた。﹂なんてやっていました。
そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんとうにこのごろ勉強のために出来るようになったと云いったのでした。二学がっ期きには級きゅ長うちょうにさえなったのでした。その代かわりもうキッコの威い張ばりようと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子こど供もらをみんな待またせて置おくのでしたし学校から帰って山へ行くにもきっとみんなをつれて行くのでうちの都つご合うや何かで行かなかった子は次つぎの日みんなに撲なぐらせました。ある朝キッコが学校へ行こうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛えん筆ぴつがなくなっているのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕しか方たなしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪わるいのを大へん心しん配ぱいしました。
算さん術じゅつの時間でした。﹁一ダース二十銭せんの鉛筆を二ダース半ではいくらですか。﹂先生が云いました。みんなちょっと運うん算ざんしてそれからだんだんさっと手をあげました。とうとうみんなあげました。キッコも仕しか方たなくあげました。﹁キッコさん。﹂先生が云いました。
キッコは勢いきおいよく立ちましたがあともう云えなくなって顔を赤くしてただもう︹以下原稿なし︺
本文篇」筑摩書房