これが今きょ日うのおしまいだろう、と云いいながら斉さい田たは青じろい薄はく明めいの流ながれはじめた県道に立って崖がけに露ろし出ゅつした石せき英えい斑はん岩がんから一かけの標ひょ本うほんをとって新聞紙に包んだ。 富とみ沢ざわは地図のその点に橙だいだいを塗ぬって番ばん号ごうを書きながら読んだ。斉田はそれを包みの上に書きつけて背はい嚢のうに入れた。 二人は早く重おもい岩石の袋ふくろをおろしたさにあとはだまって県道を北へ下った。 道の左には地図にある通りの細い沖ちゅ積うせ地きちが青あお金がねの鉱こう山ざんを通って来る川に沿そって青くけむった稲いねを載のせて北へ続つづいていた。山の上では薄はく明めい穹きゅうの頂いただきが水色に光った。俄にわかに斉田が立ちどまった。道の左ひだ側りがわが細い谷になっていてその下で誰だれかが屈かがんで何かしていた。見るとそこはきれいな泉いずみになっていて粘ねん板ばん岩がんの裂さけ目から水があくまで溢あふれていた。 ︵一ちょ寸っとおたずねいたしますが、この辺へんに宿やど屋やがあるそうですがどっちでしょうか。︶ 浴ゆか衣たを着きた髪かみの白い老ろう人じんであった。その着こなしも風ふう采さいも恩おん給きゅうでもとっている古い役やく人にんという風だった。蕗ふきを泉いずみに浸ひたしていたのだ。 ︵宿屋ここらにありません。︶ ︵青あお金がねの鉱こう山ざんできいて来たのですが、何でも鉱山の人たちなども泊とめるそうで。︶ 老ろう人じんはだまってしげしげと二人の疲つかれたなりを見た。二人とも巨おおきな背はい嚢のうをしょって地図を首からかけて鉄かな槌づちを持もっている。そしてまだまるでの子こど供もだ。 ︵どっちからお出いでになりました。︶ ︵郡ぐんから土どせ性いち調ょう査さをたのまれて盛もり岡おかから来たのですが。︶ ︵田たは畑たの地ち味みのお調しらべですか。︶ ︵まあそんなことで。︶ 老人は眉まゆを寄よせてしばらく群ぐん青じょういろに染そまった夕ぞらを見た。それからじつに不ふ思し議ぎな表ひょ情うじょうをして笑わらった。 ︵青金で誰だれか申もうし上げたのはうちのことですが、何なに分ぶん汚きたないし、いろいろ失しつ礼れいばかりあるので。︶︵いいえ、何もいらないので。︶ ︵それではそのみちをおいでください。︶ 老人はわずかに腰こしをまげて道と並へい行こうにそのまま谷をさがった。五、六歩行くとそこにすぐ小さな柾まさ屋やがあった。みちから一間けんばかり低ひくくなって蘆あしをこっちがわに塀へいのように編あんで立てていたのでいままで気がつかなかったのだ。老ろう人じんは蘆あしの中につくられた四角なくぐりを通って家の横よこに出た。二人はみちから家の前におりた。 ︵とき、とき、お湯ゆ持もって来こ。︶老人は叫さけんだ。家のなかはしんとして誰だれも返へん事じをしなかった。けれども富とみ沢ざわはその夕ゆう暗やみと沈ちん黙もくの奥おくで誰かがじっと息いきをこらして聴きき耳をたてているのを感かんじた。 ︵いまお湯をもって来ますから。︶老人はじぶんでとりに行く風だった。︵いいえ。さっきの泉いずみで洗あらいますから、下げ駄たをお借かりして。︶老人は新らしい山やま桐ぎりの下駄とも一つ縄なわ緒おの栗くりの木下駄を気の毒どくそうに一つもって来た。 ︵どうもこんな下駄で。︶︵いいえもう結けっ構こうで。︶ 二人はわらじを解といてそれからほこりでいっぱいになった巻まき脚ぎゃ絆はんをたたいて巻き俄にわかに痛いたむ膝ひざをまげるようにして下駄をもって泉に行った。泉はまるで一つの灌かん漑がいの水すい路ろのように勢いきおいよく岩の間から噴ふき出ていた。斉さい田たはつくづくかがんでその暗くらくなった裂さけ目を見て云いった。︵断だん層そう泉せんだな。︶︵そうか。︶ 富沢は蕗ふきをつけてある下のところに足を入れてシャツをぬいで汗あせをふきながら云った。 頭を洗あらったり口をそそいだりして二人はさっきのくぐりを通って宿やどへ帰って来た。その煤すすけた天あま照てら大すお神おみかみと書いた掛かけ物ものの床とこの間まの前には小さなランプがついて二枚まいの木もめ綿んの座ざぶ布と団んがさびしく敷しいてあった。向むこうはすぐ台だい所どころの板いたの間まで炉ろが切ってあって青い煙けむりがあがりその間にはわずかに低ひくい二枚まい折おりの屏びょ風うぶが立っていた。 二人はそこにあったもみくしゃの単ひと衣えを汗あせのついたシャツの上に着きて今日の仕しご事との整せい理りをはじめた。富とみ沢ざわは色いろ鉛えん筆ぴつで地図を彩いろどり直したり、手てち帳ょうへ書き込こんだりした。斉さい田たは岩石の標ひょ本うほ番んば号んごうをあらためて包つつみ直したりレッテルを張はったりした。そしてすっかり夜になった。 さっきから台所でことことやっていた二はた十ちばかりの眼めの大きな女がきまり悪わるそうに夕食を運はこんで来た。その剥はげた薄うすい膳ぜんには干ほした川魚を煮にた椀わんと幾いく片へんかの酸すえた塩しお漬づけの胡きゅ瓜うりを載のせていた。二人はかわるがわる黙だまって茶ちゃ椀わんを替かえた。 ︵この家はあのおじいさんと今の女の人と二人切りなようだな。︶膳が下げられて疲つかれ切ったようにねそべりながら斉田が低く云いった。 ︵うん。あの女の人は孫まご娘むすめらしい。亭てい主しゅはきっと礦こう山ざんへでも出ているのだろう。︶ひるの青あお金がねの黄おう銅どう鉱こうや方ほう解かい石せきに柘ざく榴ろい石しのまじった粗そこ鉱うの堆たいを考えながら富沢は云った。女はまた入って来た。そして黙って押おし入いれをあけて二枚のうすべりといの角かく枕まくらをならべて置おいてまた台所の方へ行った。 二人はすっかり眠ねむる積つもりでもなしにそこへ長くなった。そしてそのままうとうとした。
ダーダーダーダーダースコダーダー
強い老ろう人じんらしい声が剣けん舞ばいの囃はやしを叫さけぶのにびっくりして富とみ沢ざわは目をさました。台所の方で誰だれか三、四人の声ががやがやしているそのなかでいまの声がしたのだ。
ランプがいつか心しんをすっかり細められて障しょ子うじには月の光が斜ななめに青じろく射さしている。盆ぼんの十六日の次つぎの夜なので剣舞の太たい鼓こでも叩たたいたじいさんらなのかそれともさっきのこのうちの主しゅ人じんなのかどっちともわからなかった。
︵踊おどりはねるも三十がしまいって、さ。あんまりじさまの浮うかれだのも見だぐなぃもんさ。︶むっとしたような慓ひょ悍うかんな三十台の男の声がした。そしてしばらくしんとした。
︵雀すずめ百まで踊り忘わすれずでさ。︶さっきの女らしい細い声が取とりなした。
︵女あね※﹇#小書き平仮名こ、128-12﹈引ぱりも百までさ。︶またその慓悍な声が刺さすように云いった。そしてまたしんとした。そして心しん配ぱいそうな息いきをこくりとのむ音が近くにした。富沢は蚊か帳やの外にここの主人が寝ねながらじっと台所の方へ耳をすましているのを半分夢ゆめのように見た。
︵さあ帰って寝るかな。もっ切り二っつだな。そいでぁこいづと。︶︵戻もどるすか。︶さっきの女の声がした。こっちではきせるをたんたん続つづけて叩いていた。︵亦また来るべぃさ。︶何だか哀あわれに云いって外へ出たらしい音がした。
あとはもう聞えないくらいの低ひくい物もの言いいで隣となりの主人からは安あん心しんに似にたようなしずかな波はど動うがだんだんはっきりなった月あかりのなかを流ながれて来た。そして富とみ沢ざわはまたとろとろした。次つぎ々つぎうつるひるのたくさんの青い山々の姿すがたや、きらきら光るもやの奥おくを誰だれかが高く歌を歌いながら通ったと思ったら富沢はまた弱く呼よびさまされた。おもての扉とを誰か酔よったものが歌いながら烈はげしく叩たたいていて主人が﹁返へん事じするな、返事するな。﹂と低く娘むすめに云っていた。さっきの男も帰って娘もどこかに寝ているらしかった。﹁寝たのか、まだ明るぞ。起おきろ。﹂
外ではまたはげしくどなった。
︵ああこんなに眠ねむらなくては明日の仕しご事とがひどい。︶富沢は思いながら床とこの間まの方にいた斉さい田たを見た。
斉田もはっきり目をあいていて低く鉱こう夫ふだなと云った。富沢は手をふって黙だまっていろと云った。こんなときものを云うのは老人にどうしても気の毒どくでたまらなかった。
外ではいよいよ暴あばれ出した。とうとう娘が屏びょ風うぶの向むこうで起きた。そして︵酔ったぐれ、大きらいだ。︶とどうやらこっちを見ながらわびるように誘さそうようになまめかしく呟つぶやいた。そして足音もなく土ど間まへおりて戸をあけた。外ではすぐしずまった。女はいろいろ細い声で訴うったえるようにしていた。男は酔よっていないような声でみじかく何か訊ききかえしたりしていた。それから二人はしばらく押おし問もん答どうをしていたが間もなく一人ともつかず二人ともつかず家のなかにはいって来てわずかに着きも物ののうごく音などした。そしていっぱいに気き兼がねや恥はじで緊きん張ちょうした老ろう人じんが悲かなしくこくりと息いきを呑のむ音がまたした。