(一)
一本木の野原の、北のはずれに、少し小高く盛もりあがった所がありました。いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇きれ麗いな女の樺かばの木がありました。
それはそんなに大きくはありませんでしたが幹はてかてか黒く光り、枝えだは美しく伸のびて、五月には白い花を雲のようにつけ、秋は黄き金んや紅あかやいろいろの葉を降らせました。
ですから渡わたり鳥のかっこうや百も舌ずも、又また小さなみそさざいや目白もみんなこの木に停とまりました。ただもしも若い鷹たかなどが来ているときは小さな鳥は遠くからそれを見付けて決して近くへ寄りませんでした。
この木に二人の友達がありました。一人は丁度、五百歩ばかり離はなれたぐちゃぐちゃの谷や地ちの中に住んでいる土神で一人はいつも野原の南の方からやって来る茶いろの狐きつねだったのです。
樺の木はどちらかと云いえば狐の方がすきでした。なぜなら土神の方は神という名こそついてはいましたがごく乱暴で髪かみもぼろぼろの木綿糸の束たばのよう眼めも赤くきものだってまるでわかめに似、いつもはだしで爪つめも黒く長いのでした。ところが狐の方は大へんに上品な風で滅めっ多たに人を怒おこらせたり気にさわるようなことをしなかったのです。
ただもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で狐は少し不正直だったかも知れません。
(二)
夏のはじめのある晩でした。樺には新らしい柔やわらかな葉がいっぱいについていいかおりがそこら中いっぱい、空にはもう天あまの川がわがしらしらと渡り星はいちめんふるえたりゆれたり灯ともったり消えたりしていました。
その下を狐が詩集をもって遊びに行ったのでした。仕立おろしの紺こんの背広を着、赤あか革がわの靴くつもキッキッと鳴ったのです。
﹁実にしずかな晩ですねえ。﹂
﹁ええ。﹂樺の木はそっと返事をしました。
﹁蝎さそりぼしが向うを這はっていますね。あの赤い大きなやつを昔むかしは支し那なでは火かと云ったんですよ。﹂
﹁火星とはちがうんでしょうか。﹂
﹁火星とはちがいますよ。火星は惑わく星せいですね、ところがあいつは立派な恒こう星せいなんです。﹂
﹁惑星、恒星ってどういうんですの。﹂
﹁惑星というのはですね、自分で光らないやつです。つまりほかから光を受けてやっと光るように見えるんです。恒星の方は自分で光るやつなんです。お日さまなんかは勿もち論ろん恒星ですね。あんなに大きくてまぶしいんですがもし途とほ方うもない遠くから見たらやっぱり小さな星に見えるんでしょうね。﹂
﹁まあ、お日さまも星のうちだったんですわね。そうして見ると空にはずいぶん沢たく山さんのお日さまが、あら、お星さまが、あらやっぱり変だわ、お日さまがあるんですね。﹂
狐は鷹おう揚ように笑いました。
﹁まあそうです。﹂
﹁お星さまにはどうしてああ赤いのや黄のや緑のやあるんでしょうね。﹂
狐は又鷹揚に笑って腕うでを高く組みました。詩集はぷらぷらしましたがなかなかそれで落ちませんでした。
﹁星に橙だいだいや青やいろいろある訳ですか。それは斯こうです。全体星というものははじめはぼんやりした雲のようなもんだったんです。いまの空にも沢山あります。たとえばアンドロメダにもオリオンにも猟りょ犬うけ座んざにもみんなあります。猟犬座のは渦うず巻まきです。それから環リン状グネ星ビュ雲ラというのもあります。魚の口の形ですから魚フィ口ッシ星ュマ雲ウスネビュラとも云いますね。そんなのが今の空にも沢山あるんです。﹂
﹁まあ、あたしいつか見たいわ。魚の口の形の星だなんてまあどんなに立派でしょう。﹂
﹁それは立派ですよ。僕ぼく水沢の天文台で見ましたがね。﹂
﹁まあ、あたしも見たいわ。﹂
﹁見せてあげましょう。僕実は望遠鏡を独ドイ乙ツのツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから来たらすぐ見せてあげましょう。﹂狐は思わず斯う云ってしまいました。そしてすぐ考えたのです。ああ僕はたった一人のお友達にまたつい偽うそを云ってしまった。ああ僕はほんとうにだめなやつだ。けれども決して悪い気で云ったんじゃない。よろこばせようと思って云ったんだ。あとですっかり本当のことを云ってしまおう、狐はしばらくしんとしながら斯う考えていたのでした。樺の木はそんなことも知らないでよろこんで言いました。
﹁まあうれしい。あなた本当にいつでも親切だわ。﹂
狐は少し悄しょ気げながら答えました。
﹁ええ、そして僕はあなたの為ためならばほかのどんなことでもやりますよ。この詩集、ごらんなさいませんか。ハイネという人のですよ。翻ほん訳やくですけれども仲々よくできてるんです。﹂
﹁まあ、お借りしていいんでしょうかしら。﹂
﹁構いませんとも。どうかゆっくりごらんなすって。じゃ僕もう失礼します。はてな、何か云い残したことがあるようだ。﹂
﹁お星さまのいろのことですわ。﹂
﹁ああそうそう、だけどそれは今度にしましょう。僕あんまり永くお邪じゃ魔ましちゃいけないから。﹂
﹁あら、いいんですよ。﹂
﹁僕又来ますから、じゃさよなら。本はあげてきます。じゃ、さよなら。﹂狐はいそがしく帰って行きました。そして樺の木はその時吹ふいて来た南風にざわざわ葉を鳴らしながら狐の置いて行った詩集をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来る微かすかなあかりにすかして頁ページを繰くりました。そのハイネの詩集にはロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいにあったのです。そして樺の木は一晩中よみ続けました。ただその野原の三時すぎ東から金きん牛ぎゅ宮うきゅうののぼるころ少しとろとろしただけでした。
夜があけました。太陽がのぼりました。
草には露つゆがきらめき花はみな力いっぱい咲きました。
その東北の方から熔とけた銅の汁しるをからだ中に被かぶったように朝日をいっぱいに浴びて土神がゆっくりゆっくりやって来ました。いかにも分別くさそうに腕を拱こまねきながらゆっくりゆっくりやって来たのでした。
樺の木は何だか少し困ったように思いながらそれでも青い葉をきらきらと動かして土神の来る方を向きました。その影かげは草に落ちてちらちらちらちらゆれました。土神はしずかにやって来て樺の木の前に立ちました。
﹁樺の木さん。お早う。﹂
﹁お早うございます。﹂
﹁わしはね、どうも考えて見るとわからんことが沢山ある、なかなかわからんことが多いもんだね。﹂
﹁まあ、どんなことでございますの。﹂
﹁たとえばだね、草というものは黒い土から出るのだがなぜこう青いもんだろう。黄や白の花さえ咲くんだ。どうもわからんねえ。﹂
﹁それは草の種子が青や白をもっているためではないでございましょうか。﹂
﹁そうだ。まあそう云えばそうだがそれでもやっぱりわからんな。たとえば秋のきのこのようなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある、わからんねえ。﹂
﹁狐さんにでも聞いて見ましたらいかがでございましょう。﹂
樺の木はうっとり昨ゆう夜べの星のはなしをおもっていましたのでつい斯こう云ってしまいました。
この語ことばを聞いて土神は俄にわかに顔いろを変えました。そしてこぶしを握にぎりました。
﹁何だ。狐? 狐が何を云い居おった。﹂
樺の木はおろおろ声になりました。
﹁何も仰おっしゃったんではございませんがちょっとしたらご存知かと思いましたので。﹂
﹁狐なんぞに神が物を教わるとは一体何たることだ。えい。﹂
樺の木はもうすっかり恐こわくなってぷりぷりぷりぷりゆれました。土神は歯をきしきし噛かみながら高く腕を組んでそこらをあるきまわりました。その影はまっ黒に草に落ち草も恐おそれて顫ふるえたのです。
﹁狐の如ごときは実に世の害悪だ。ただ一言もまことはなく卑ひき怯ょうで臆おく病びょうでそれに非常に妬ねたみ深いのだ。うぬ、畜ちく生しょうの分ぶん際ざいとして。﹂
樺の木はやっと気をとり直して云いました。
﹁もうあなたの方のお祭も近づきましたね。﹂
土神は少し顔色を和やわらげました。
﹁そうじゃ。今日は五月三日、あと六日だ。﹂
土神はしばらく考えていましたが俄かに又声を暴あららげました。
﹁しかしながら人間どもは不ふと届どきだ。近ちか頃ごろはわしの祭にも供くも物つ一つ持って来ん、おのれ、今度わしの領分に最初に足を入れたものはきっと泥どろの底に引き擦ずり込こんでやろう。﹂土神はまたきりきり歯噛みしました。
樺の木は折せっ角かくなだめようと思って云ったことが又もや却かえってこんなことになったのでもうどうしたらいいかわからなくなりただちらちらとその葉を風にゆすっていました。土神は日光を受けてまるで燃えるようになりながら高く腕を組みキリキリ歯噛みをしてその辺をうろうろしていましたが考えれば考えるほど何もかもしゃくにさわって来るらしいのでした。そしてとうとうこらえ切れなくなって、吠ほえるようにうなって荒あら々あらしく自分の谷や地ちに帰って行ったのでした。
(三)
土神の棲すんでいる所は小さな競馬場ぐらいある、冷たい湿しっ地ちで苔こけやからくさやみじかい蘆あしなどが生えていましたが又また所々にはあざみやせいの低いひどくねじれた楊やなぎなどもありました。
水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋しぶが湧わきあがり見るからどろどろで気味も悪いのでした。
そのまん中の小さな島のようになった所に丸太で拵こしらえた高さ一間ばかりの土神の祠ほこらがあったのです。
土神はその島に帰って来て祠の横に長々と寝ねそべりました。そして黒い瘠やせた脚あしをがりがり掻かきました。土神は一羽の鳥が自分の頭の上をまっすぐに翔かけて行くのを見ました。すぐ土神は起き直って﹁しっ﹂と叫さけびました。鳥はびっくりしてよろよろっと落ちそうになりそれからまるではねも何もしびれたようにだんだん低く落ちながら向うへ遁にげて行きました。
土神は少し笑って起きあがりました。けれども又すぐ向うの樺かばの木の立っている高みの方を見るとはっと顔色を変えて棒立ちになりました。それからいかにもむしゃくしゃするという風にそのぼろぼろの髪かみ毛けを両手で掻きむしっていました。
その時谷地の南の方から一人の木きこ樵りがやって来ました。三つ森山の方へ稼かせぎに出るらしく谷地のふちに沿った細い路みちを大おお股またに行くのでしたがやっぱり土神のことは知っていたと見えて時々気づかわしそうに土神の祠の方を見ていました。けれども木樵には土神の形は見えなかったのです。
土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔を熱ほてらせました。それから右手をそっちへ突つき出して左手でその右手の手首をつかみこっちへ引き寄せるようにしました。すると奇きた体いなことは木樵はみちを歩いていると思いながらだんだん谷地の中に踏ふみ込んで来るようでした。それからびっくりしたように足が早くなり顔も青ざめて口をあいて息をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまわしました。すると木樵はだんだんぐるっと円くまわって歩いていましたがいよいよひどく周あ章わてだしてまるではあはあはあはあしながら何べんも同じ所をまわり出しました。何でも早く谷地から遁げて出ようとするらしいのでしたがあせってもあせっても同じ処ところを廻まわっているばかりなのです。とうとう木樵はおろおろ泣き出しました。そして両手をあげて走り出したのです。土神はいかにも嬉うれしそうににやにやにやにや笑って寝そべったままそれを見ていましたが間もなく木樵がすっかり逆の上ぼせて疲つかれてばたっと水の中に倒たおれてしまいますと、ゆっくりと立ちあがりました。そしてぐちゃぐちゃ大股にそっちへ歩いて行って倒れている木樵のからだを向うの草はらの方へぽんと投げ出しました。木樵は草の中にどしりと落ちてううんと云いながら少し動いたようでしたがまだ気がつきませんでした。
土神は大声に笑いました。その声はあやしい波になって空の方へ行きました。
空へ行った声はまもなくそっちからはねかえってガサリと樺の木の処にも落ちて行きました。樺の木ははっと顔いろを変えて日光に青くすきとおりせわしくせわしくふるえました。
土神はたまらなそうに両手で髪を掻きむしりながらひとりで考えました。おれのこんなに面おも白しろくないというのは第一は狐きつねのためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。けれども樺の木の方はおれは怒おこってはいないのだ。樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さえどうでもよければ狐などはなおさらどうでもいいのだ。おれはいやしいけれどもとにかく神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないというのは情ない。それでも気にかかるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまえ。ところがどうしても忘れられない。今け朝さは青ざめて顫ふるえたぞ。あの立派だったこと、どうしても忘られない。おれはむしゃくしゃまぎれにあんなあわれな人間などをいじめたのだ。けれども仕方ない。誰たれだってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。
土神はひとりで切ながってばたばたしました。空を又一いっ疋ぴきの鷹たかが翔かけて行きましたが土神はこんどは何とも云わずだまってそれを見ました。
ずうっとずうっと遠くで騎きへ兵いの演習らしいパチパチパチパチ塩のはぜるような鉄てっ砲ぽうの音が聞えました。そらから青びかりがどくどくと野原に流れて来ました。それを呑のんだためかさっきの草の中に投げ出された木樵はやっと気がついておずおずと起きあがりしきりにあたりを見廻しました。
それから俄かに立って一目散に遁げ出しました。三つ森山の方へまるで一目散に遁げました。
土神はそれを見て又大きな声で笑いました。その声は又青ぞらの方まで行き途とち中ゅうから、バサリと樺の木の方へ落ちました。
樺の木は又はっと葉の色をかえ見えない位こまかくふるいました。
土神は自分のほこらのまわりをうろうろうろうろ何べんも歩きまわってからやっと気がしずまったと見えてすっと形を消し融とけるようにほこらの中へ入って行きました。
(四)
八月のある霧きりのふかい晩でした。土神は何とも云えずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠ほこらを出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向っていたのです。本当に土神は樺の木のことを考えるとなぜか胸がどきっとするのでした。そして大へんに切なかったのです。このごろは大へんに心持が変ってよくなっていたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考えたくないと思ったのでしたがどうしてもそれがおもえて仕方ありませんでした。おれはいやしくも神じゃないか、一本の樺の木がおれに何のあたいがあると毎日毎日土神は繰くり返して自分で自分に教えました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。殊ことにちょっとでもあの狐のことを思い出したらまるでからだが灼やけるくらい辛つらかったのです。
土神はいろいろ深く考え込こみながらだんだん樺の木の近くに参りました。そのうちとうとうはっきり自分が樺の木のとこへ行こうとしているのだということに気が付きました。すると俄にわかに心持がおどるようになりました。ずいぶんしばらく行かなかったのだからことによったら樺の木は自分を待っているのかも知れない、どうもそうらしい、そうだとすれば大へんに気の毒だというような考かんがえが強く土神に起って来ました。土神は草をどしどし踏み胸を踊おどらせながら大おお股またにあるいて行きました。ところがその強い足なみもいつかよろよろしてしまい土神はまるで頭から青い色のかなしみを浴びてつっ立たなければなりませんでした。それは狐が来ていたのです。もうすっかり夜でしたが、ぼんやり月のあかりに澱よどんだ霧の向うから狐の声が聞えて来るのでした。
﹁ええ、もちろんそうなんです。器械的に対シイ称ンメトリーの法則にばかり叶かなっているからってそれで美しいというわけにはいかないんです。それは死んだ美です。﹂
﹁全くそうですわ。﹂しずかな樺の木の声がしました。
﹁ほんとうの美はそんな固定した化石した模型のようなもんじゃないんです。対称の法則に叶うって云ったって実は対称の精神を有もっているというぐらいのことが望ましいのです。﹂
﹁ほんとうにそうだと思いますわ。﹂樺の木のやさしい声が又しました。土神は今度はまるでべらべらした桃ももいろの火でからだ中燃されているようにおもいました。息がせかせかしてほんとうにたまらなくなりました。なにがそんなにおまえを切なくするのか、高たかが樺の木と狐との野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱されてそれでもお前は神と云えるか、土神は自分で自分を責めました。狐きつねが又云いました。
﹁ですから、どの美学の本にもこれくらいのことは論じてあるんです。﹂
﹁美学の方の本沢たく山さんおもちですの。﹂樺の木はたずねました。
﹁ええ、よけいもありませんがまあ日本語と英語と独ドイ乙ツ語のなら大たい抵ていありますね。伊イタ太リ利ーのは新らしいんですがまだ来ないんです。﹂
﹁あなたのお書しょ斎さい、まあどんなに立派でしょうね。﹂
﹁いいえ、まるでちらばってますよ、それに研究室兼用ですからね、あっちの隅すみには顕けん微びき鏡ょうこっちにはロンドンタイムス、大理石のシィザアがころがったりまるっきりごったごたです。﹂
﹁まあ、立派だわねえ、ほんとうに立派だわ。﹂
ふんと狐の謙けん遜そんのような自じま慢んのような息の音がしてしばらくしいんとなりました。
土神はもう居ても立っても居られませんでした。狐の言っているのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした。いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教えていたのが今度はできなくなったのです。ああつらいつらい、もう飛び出して行って狐を一ひと裂さきに裂いてやろうか、けれどもそんなことは夢ゆめにもおれの考えるべきことじゃない、けれどもそのおれというものは何だ結局狐にも劣おとったもんじゃないか、一体おれはどうすればいいのだ、土神は胸をかきむしるようにしてもだえました。
﹁いつかの望遠鏡まだ来ないんですの。﹂樺の木がまた言いました。
﹁ええ、いつかの望遠鏡ですか。まだ来ないんです。なかなか来ないです。欧おう州しゅう航路は大分混乱してますからね。来たらすぐ持って来てお目にかけますよ。土星の環わなんかそれぁ美しいんですからね。﹂
土神は俄に両手で耳を押おさえて一目散に北の方へ走りました。だまっていたら自分が何をするかわからないのが恐おそろしくなったのです。
まるで一目散に走って行きました。息がつづかなくなってばったり倒たおれたところは三つ森山の麓ふもとでした。
土神は頭の毛をかきむしりながら草をころげまわりました。それから大声で泣きました。その声は時でもない雷かみなりのように空へ行って野原中へ聞えたのです。土神は泣いて泣いて疲つかれてあけ方ぼんやり自分の祠に戻もどりました。
(五)
そのうちとうとう秋になりました。樺かばの木はまだまっ青でしたがその辺のいのころぐさはもうすっかり黄き金んいろの穂ほを出して風に光りところどころすずらんの実も赤く熟しました。
あるすきとおるように黄き金んいろの秋の日土神は大へん上じょ機うき嫌げんでした。今年の夏からのいろいろなつらい思いが何だかぼうっとみんな立派なもやのようなものに変って頭の上に環になってかかったように思いました。そしてもうあの不思議に意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐きつねと話したいなら話すがいい、両方ともうれしくてはなすのならほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木に云ってやろうと思いながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。
樺の木は遠くからそれを見ていました。
そしてやっぱり心配そうにぶるぶるふるえて待ちました。
土神は進んで行って気軽に挨あい拶さつしました。
﹁樺の木さん。お早う。実にいい天気だな。﹂
﹁お早うございます。いいお天気でございます。﹂
﹁天てん道とうというものはありがたいもんだ。春は赤く夏は白く秋は黄いろく、秋が黄いろになると葡ぶど萄うは紫むらさきになる。実にありがたいもんだ。﹂
﹁全くでございます。﹂
﹁わしはな、今日は大へんに気ぶんがいいんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今け朝さからにわかに心持ちが軽くなった。﹂
樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて返事しかねました。
﹁わしはいまなら誰たれのためにでも命をやる。みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。﹂土神は遠くの青いそらを見て云いました。その眼も黒く立派でした。
樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわずか吐とい息きをつくばかりでした。
そのときです。狐がやって来たのです。
狐は土神の居るのを見るとはっと顔いろを変えました。けれども戻るわけにも行かず少しふるえながら樺の木の前に進んで来ました。
﹁樺の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。﹂狐は赤あか革がわの靴くつをはき茶いろのレーンコートを着てまだ夏なつ帽ぼう子しをかぶりながら斯こう云いました。
﹁わしは土神だ。いい天気だ。な。﹂土神はほんとうに明るい心持で斯う言いました。狐は嫉ねたましさに顔を青くしながら樺の木に言いました。
﹁お客さまのお出いでの所にあがって失礼いたしました。これはこの間お約やく束そくした本です。それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。さよなら。﹂
﹁まあ、ありがとうございます。﹂と樺の木が言っているうちに狐はもう土神に挨拶もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷり顫ふるいました。
土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたがふと狐の赤革の靴のキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思いましたら俄にわかに頭がぐらっとしました。狐がいかにも意地をはったように肩かたをいからせてぐんぐん向うへ歩いているのです。土神はむらむらっと怒おこりました。顔も物もの凄すごくまっ黒に変ったのです。美学の本だの望遠鏡だのと、畜ちく生しょう、さあ、どうするか見ろ、といきなり狐のあとを追いかけました。樺の木はあわてて枝えだが一ぺんにがたがたふるえ、狐もそのけはいにどうかしたのかと思って何気なくうしろを見ましたら土神がまるで黒くなって嵐あらしのように追って来るのでした。さあ狐はさっと顔いろを変え口もまがり風のように走って遁にげ出しました。
土神はまるでそこら中の草がまっ白な火になって燃えているように思いました。青く光っていたそらさえ俄かにガランとまっ暗な穴になってその底では赤い焔ほのおがどうどう音を立てて燃えると思ったのです。
二人はごうごう鳴って汽車のように走りました。
﹁もうおしまいだ、もうおしまいだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡﹂と狐は一心に頭の隅すみのとこで考えながら夢のように走っていました。
向うに小さな赤あか剥はげの丘おかがありました。狐はその下の円い穴にはいろうとしてくるっと一つまわりました。それから首を低くしていきなり中へ飛び込もうとして後あしをちらっとあげたときもう土神はうしろからぱっと飛びかかっていました。と思うと狐はもう土神にからだをねじられて口を尖とがらして少し笑ったようになったままぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れていたのです。
土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四五へん踏ふみつけました。
それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗くただ赤土が奇きれ麗いに堅かためられているばかりでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て来ました。
それからぐったり横になっている狐の屍しが骸いのレーンコートのかくしの中に手を入れて見ました。そのかくしの中には茶いろなかもがやの穂が二本はいって居ました。土神はさっきからあいていた口をそのまままるで途とほ方うもない声で泣き出しました。
その泪なみだは雨のように狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったようになって死んで居たのです。