︹もうでかけましょう。︺たしかに光がうごいてみんな立ちあがる。腰こしをおろしたみじかい草。かげろうか何かゆれている。かげろうじゃない。網もう膜まくが感かんじただけのその光だ。 ︹さあでかけましょう。行きたい人だけ。︺まだ来ないものは仕しか方たない。さっきからもう二十分も待まったんだ。もっともこのみちばたの青いいろの寄きし宿ゅく舎しゃはゆっくりして爽さわやかでよかったが。 これからまたここへ一いっ遍ぺん帰って十一時には向むこうの宿やどへつかなければいけないんだ。﹁何ど処ごさ行ぐのす。﹂そうだ、釜かま淵ぶちまで行くというのを知らないものもあるんだな。︹釜淵まで、一ちょ寸っと三十分ばかり。︺ おとなしい新らしい白、緑みどりの中だから、そして外光の中だから大へんいいんだ。天てん竺じく木もめ綿ん、その菓か子しの包つつみは置おいて行ってもいい。雑ざつ嚢のうや何かもここの芝しばへおろしておいていい行かないものもあるだろうから。 ﹁私はここで待ってますから。﹂校長だ。校長は肥ふとってまっ黒にいで立ちたしかにゆっくりみちばたの草、林の前に足を開ひらいて投なげ出している。 ︹はあ、では一寸行って参まいります。︺木の青、木の青、空の雲は今日も甘あま酸ずっぱく、足なみのゆれと光の波なみ。足なみのゆれと光の波。 粘ねん土どのみちだ。乾かわいている。黄色だ。みち。粘土。 小こま松つと林。林の明めい暗あんいろいろの緑。それに生せい徒とはみんな新しん鮮せんだ。 そしてそうだ、向うの崖がけの黒いのはあれだ、明らかにあの黒こく曜よう石せきの dyke だ。ここからこんなにはっきり見えるとは思わなかったぞ。 よしうまい。 ︹向むこうの崖がけをごらんなさい。黒くて少し浮うき出した柱はしらのような岩があるでしょう。あれは水すい成せい岩がんの割われ目に押おし込こんで来た火山岩です。黒曜石です。︺ダイクと云いおうかな。いいや岩がん脈みゃくがいい。︹ああいうのを岩脈といいます。︺わかったかな。 ︹わかりましたか。向うの崖に黒い岩が縦たてに突つき出ているでしょう。 あれは水成岩のなかにふき出した火成岩ですよ。岩脈ですよ。あれは。︺ ゆれてるゆれてる。光の網あみ。 ︹この山は流りゅ紋うも凝んぎ灰ょう岩かいがんでできています。石せき英えい粗そめ面んが岩んの凝灰岩、大へん地ち味みが悪わるいのです。赤あか松まつとちいさな雑ぞう木きしか生はえていないでしょう。ところがそのへん、麓ふもとの緩ゆるい傾けい斜しゃのところには青い立りっ派ぱな闊かつ葉よう樹じゅが一いっ杯ぱい生はえているでしょう。あすこは古い沖ちゅ積うせ扇きせんです。運はこばれてきたのです。割わり合あい肥ひよ沃くな土どじ壌ょうを作っています。木の生え工ぐあ合いがちがって見えましょう。わかりましょう。︺わかるだろうさ。けれどもみんな黙だまって歩いている。これがいつでもこうなんだ。さびしいんだ。けれども何でもないんだ。 後うしろで誰だれかこごんで石ころを拾ひろっているものもある。小松ばやしだ。混こんでいる。このみちはずうっと上じょ流うりゅうまで通っているんだ。造ぞう林りんのときは苗なえや何かを一杯つけた馬がぞろぞろここを行くんだぞ。 ︹志しど戸たい平らのちかく豊とよ沢さわ川の南の方に杉すぎのよくついた奇きれ麗いな山があるでしょう。あすことこことはとても木の生え工合や較くらべにも何にもならないでしょう。向むこうは安あん山ざん岩がんの集しゅ塊うか岩いがん、こっちは流紋凝灰岩です。石せっ灰かいや加カ里リや植しょ物くぶ養つよ料うりょうがずうっと少いのです。ここにはとても杉なんか育そだたないのです。︺うしろでふんふんうなずいているのは藤ふじ原わら清せい作さくだ。あいつは太おお田ただからよくわかっているのだ。 ︹尤もっとも向うの杉すぎのついているところは北きた側がわでこっちは南と東です。その関かん係けいもありますがそうでなくてもこっちは北側でも杉やひのきは生はえません。あすこの崖がけで見てもわかります。この山と地ちし質つは同じです。ただ北側なため雑ぞう木きが少しはよく育そだってます。︺いいや駄だ目めだ。おしまいのことを云いったのは結けっ局きょく混こん雑ざつさせただけだ。云わないでおけばよかった。それでもあの崖はほんとうの嫩わかい緑みどりや、灰はいいろの芽めや、樺かばの木の青やずいぶん立りっ派ぱだ。佐さと藤うか箴んがとなりに並ならんで歩いてるな。桜さく羽らは場ばがまた凝ぎょ灰うか岩いがんを拾ひろったな。頬ほおがまっ赤かで髪かみも赭あかいその小さな子こど供も。 雲がきれて陽ひが照てるしもう雨は大だい丈じょ夫うぶだ。さっきも一いっ遍ぺん云ったのだがもう一いち度どあの禿はげの所ところの平ひらべったい松まつを説せつ明めいしようかな。平ったくて黒い。影かげも落おちている。どこかであんなコロタイプを見た。及おい川かわやなんか知ってるんだ。よすかな。いいや。やろう。 ︹さあ、いいですか。あすこに大きな黄色の禿はげがあるでしょう。あすこの割わり合あい上のあたりに松が一本生えてましょう。平ったくてまるで潰つぶれた蕈きのこのようです。どうしてあんなになったんですか。土どじ壌ょうが浅あさくて少し根ねをのばすとすぐ岩石でしょう。下へ延のびようとしても出来ないでしょう。横よこに広がるだけでしょう。ところが根と枝えだは相そう関かん現げん象しょうで似にたような形になるんです。枝も根のように横にひろがります。桜さくらの木なんか植うえるとき根を束たばねるようにしてまっすぐに下げて植えると土から上の方も箒ほうきのように立ちましょう。広げれば広がります。︺ ﹁そんだ。林学でおら習ならった。﹂何と云いったかな。このせいの高い眼めの大きな生せい徒と。 坂さかになったな。ごろごろ石が落おちている。 ﹁先生この石何て云うのす。﹂どうせきまってる。 ︹凝灰岩。流りゅ紋うもん凝灰岩だ。凝灰岩の温おん泉せんの為ために硅けい化かを受うけたのだ。︺ 光が網あみになってゆらゆらする。みんなの足あし並なみ。小松の密みつ林りん。 ﹁釜かま淵ぶちだら俺おらぁ前になんぼがえりも見だ。それでも今日も来た。﹂ うしろで云っている。あの顔の赤い、そしていつでも少し眼が血走ってどうかすると泣ないているように見える、あの生せい徒とだ。五ごな内いか川わでもないし、何と云ったかな。 けれどもその語ことばはよく分っているぞ。よくわかっているとも。 巨きょ礫れきがごろごろしている。一つ欠かいて見せるかな。うまくいった。パチンといった。︹これは安あん山ざん岩がんです。上か流みの方から流ながれてきたのです。︺ すっと歩き出せ。関せきさんだ。﹁この石は安山岩であります。上流から流れてきたのです。﹂まねをしている。堀ほっ田ただな。堀田は赤い毛糸のジャケツを着きているんだ。物ものを言う口くち付つきが覚おぼ束つかなくて眼めはどこを見ているかはっきりしないで黒くてうるんでいる。今はそれがうしろの横よこでちらっと光る。 そこの松まつ林ばやしの中から黒い畑はたけが一枚まい出てきます。 ︵ああ畑も入ります入ります。遊ゆう園えん地ちには畑もちゃんと入ります︶なんて誰だれだったかな、云いっていた、あてにならない。こんな畑を云うんだろう。おれのはもっとずっと上流の北きた上かみ川から遠くの東の山地まで見はらせるようにあの小こざ桜くら山の下の新らしく墾ひらいた広い畑を云ったんだ。 ﹁全ぜん体たいどごさ行ぐのだべ。﹂ ﹁なあに先生さ従ついでさぃ行げばいいんだじゃ。﹂また堀田だな。前の通りだ。うしろで黄いろに光っている。みんな躊ちゅ躇うちょしてみちをあけた。おれが一番さきになる。こっちもみちはよく知らないがなあにすぐそこなんだ。路みちから見えたら下りるだけだ。防ぼう火かせ線んもずうっとうしろになった。 ︹あれが小桜山だろう。︺けわしい二つの稜りょうを持もち、暗くらくて雲かげにいる。少し名前に合わない。けれどもどこかしんとして春の底そこの樺かばの木の気分はあるけれどもそれは偶ぐう然ぜん性せいだ。よくわからない。みちが二つに岐わかれている。この下のみちがきっと釜かま淵ぶちに行くんだ。もうきっと間まち違がいない。 小こま松つだ。密みつだ。混こんでいる。それから巨きょ礫れきがごろごろしている。うすぐろくて安山岩だ。地ちし質つち調ょう査さをするときはこんなどこから来たかわからないあいまいな岩も石のに鉄かな槌づちを加えてはいけないと教えようかな。すぐ眼めの前を及おい川かわが手てぬ拭ぐいを首くびに巻まいて黄色の服ふくで急いそいでいるし、云いおうかな。けれどもこれは必ひつ要ようがない。却かえって混こん雑ざつするだけだ。とにかくひどく坂さかになった。こんな工ぐあ合いで丁ちょ度うどよく釜かま淵ぶちに下りるんだ。遠くで鳥も鳴いているし。下の方で渓たにがひどく鳴っている。ことによるとここらの下が釜淵だ。一ちょ寸っとのぞいてみよう。 黒い松まつの幹みきとかれくさ。みんなぞろぞろ従ついてくる。渓が見える。水が見える。波なみや白い泡あわも見える。ああまだ下だ。ずうっと下だ。釜淵は。ふちの上の滝たきへ平たいらになって水がするする急いで行く。それさえずうっと下なのだ。 この崖がけは急でとても下りられない。下に降おりよう。松林だ。みちらしく踏ふまれたところもある。下りて行こう。藪やぶだ。日ひか陰げだ。山やま吹ぶきの青いえだや何かもじゃもじゃしている。さきに行くのは大おお内うちだ。大内は夏服の上に黄色な実じっ習しゅ服うふくを着きて結むすびを腰こしにさげてずんずん藪をこいで行く。よくこいで行く。 急にけわしい段だんがある。木につかまれ木は光る。雑ぞう木きは二本雑木が光る。 ﹁じゃ木さば保たご附つくこなしだじゃぃ。﹂誰だれかがうしろで叫さけんでいる。どういう意い味みかな。木にとりつくと弾はね返かえってうしろのものを叩たたくというのだろうか。 光って木がはねかえる。おれはそんなことをしたかな。いやそれはもうよく気をつけたんだ。藪だ。もじゃもじゃしている。大内はよくあるく。 崖がけだ。滝たきはすぐそこだし、ここを下りるより仕しか方たない。さあ降りよう。大内はよく降りて行く。急だぞ。この木は少し太すぎる。灰はいいろだ。急だぞ、草、この木は細いぞ、青いぞあぶないぞ。なかなか急だ。大だい丈じょ夫うぶだ。この木は切ってあるぞ。︹ほう、︺そこはあんまり急だ。 おりるのか。仕方ない。木がめまぐるしいぞ。﹁一人落おぢればみんな落ぢるぞ。﹂誰かうしろで叫んでいる。落ちてきたら全まったくみんな落ちる。大内がずうっと落ちた。 河かわ原らまで行ってやっととまった。 おれはとにかく首しゅ尾びよく降おりた。 少し下へさがり過すぎた。瀑たきまで行くみちはない。 凝ぎょ灰うか岩いがんが青じろく崖と波なみとの間に四、五寸すん続つづいてはいるけれどもとてもあすこは伝つたって行けない。それよりはやっぱり水を渉わたって向むこうへ行くんだ。向うの河原は可かな成り広いし滝たきまでずうっと続いている。 けれども脚あしはやっぱりぬれる。折せっ角かくぬらさないためにまわり道して上から来たのだ、飛とび石いしを一つこさえてやるかな。二つはそのまま使つかえるしもう四つだけころがせばいい、まずおれは靴くつをぬごう。ゴム靴によごれた青の靴下か。︹一ちょ寸っと待まって、今渡わたるようにしますから。︺ この石は動うごかせるかな。流りゅ紋うも岩んがんだかなりの比ひじ重ゅうだ。動くだろう。水の中だし、アルキメデス、水の中だし、動く動く。うまくいった。波なみ、これも大だい丈じょ夫うぶだ。大丈夫。引いん率そつの教師が飛石をつくるのもおかしいがまたえらい。やっぱりおかしい。ありがたい。うまくいった。 ひとりが渡る。ぐらぐらする。あぶなく渡る、二人がわたる。 もう一つはどれにするかな もう四人だけ渡っている。飛石の上に両りょうあしを揃そろえてきちんと立って四人つづいて待まっているのは面おも白しろい。向うの河原のを動かそう。影かげのある石だ。 持もてるかな。持てる。けれども一いち番ばん波の強いところだ。恐おそらく少し小さいぞ。小さい。波が昆こん布ぶだ、越こして行く。もう一つ持って来よう。こいつは苔こけでぬるぬるしている。これで二つだ。まだぐらぐらだ。も一つ要いる。小さいけれども台にはなる。大丈夫だ。おれははだしで行こうかな。いいややっぱり靴ははこう。面めん倒どうくさい靴下はポケットへ押おし込こめ、ポケットがふくれて気き持もちがいいぞ。 素すあしにゴム靴ぐつでぴちゃぴちゃ水をわたる。これはよっぽどいいことになっている。前にも一ぺんどこかでこんなことがあった。去きょ年ねんの秋だ。腐フィ植ウマ質スの野原のたまり水だったかもしれない。向むこうに黒いみちがある。崖がけの茂しげみにはいって行く。これが羽はや山まを越こえて台に出でるのかもわからない。帰りに登のぼるとしようかな。いいや。だめだ。曖あい昧まいだしそれにみんなも越えれまい。 ﹁先生、この石何す。﹂一かけひろって持もっている。︹ふん。何だと思います。︺﹁何だべな。﹂︹凝ぎょ灰うか岩いがんです。ここらはみんなそうですよ。浮ふが岩んし質つの凝灰岩。︺ みんなさっきはあしをぬらすまいとしたんだが日が照てるし水はきれいだし自分でも気がつかず川にはいったんだ。 もうずんずん瀑たきをのぼって行く。cascade だ。こんな広い平たいらな明るい瀑はありがたい。上へ行ったらもっと平らで明るいだろう。けれども壺つぼ穴あなの標ひょ本うほんを見せるつもりだったが思ったくらいはっきりはしていないな。多少失しつ望ぼうだ。岩は何という円くなめらかに削けずられたもんだろう。水みず苔ごけも生はえている。滑すべるだろうか。滑らない。ゴム靴の底そこのざりざりの摩まさ擦つがはっきり知れる。滑らない。大だい丈じょ夫うぶだ。さらさら水が落おちている。靴はビチャビチャ云いっている。みんないい。それにみんなは後からついて来る。 苔がきれいにはえている。実じつに円く柔やわらかに水がこの瀑のところを削けずったもんだ。この浸しん蝕しょくの柔らかさ。 もう平らだ。そうだ。いつかもここを溯のぼって行った。いいや、此こ処こじゃない。けれどもずいぶんよく似にているぞ。川の広さも両りょ岸うがんの崖、ところどころの洲すの青草。もう平らだ。みんな大分溯ったな。 ︹ここをごらんなさい。岩石の裂さけ目に沿そって赤く色が変かわっているでしょう。裂け目のないところにも赤い条すじの通っているところがあるでしょう。この裂け目を温おん泉せんが通ったのです。温泉の作用で岩が赤くなったのです。ここがずうっとつちの底そこだったときですよ。わかりますか。︺ だまっている。波なみがうごき波が足をたたく。日光が降ふる。この水を渉わたることの快こころよさ。菅すが木きがいるな。いつものようにじっとひとの目を見つめている。 ︹ここをごらんなさい。岩に裂さけ目があるでしょう。ここを温おん泉せんが通って岩を変へん質しつさせたのです。風ふう化かのためにもこう云いう赤い縞しまはできます。けれどもここではほかのことから温泉の作用ということがわかるのです。︺ ずいぶん上じょ流うりゅうまで行った。実じっ際さいこんなに川かわ床どこが平たいらで水もきれいだし山の中の第だい一いち流りゅうの道どう路ろだ。どこまでものぼりたいのはあたりまえだ。 向むこうの岸きしの方にうつろう。 ﹁先生この岩何す。﹂千ち葉ばだな。お父さんによく似にている。︹何に似てます。何でできてますか。︺だまっている。︹わかりませんか。礫れき岩がんです。礫岩です。凝ぎょ灰うか質いし礫つれ岩きがん。︺及おい川かわだな。︹いいですか。これは温おん泉せんの作用ですよ。この裂け目を通った温泉のために凝灰岩が変へん質しつを受うけたんです。︺ みんなわかるんだな。これは。向うにも一つ滝たきがあるらしい。うすぐろい岩の。みんなそこまで行こうと云うのか。草原があって春木も積つんである。ずいぶん溯のぼったぞ。ここは小さな段だんだ。 ﹁ああ云う岩のすき間のごと何て云うのだたべな。習ならったたんとも。﹂ ︹やっぱり裂け目です。裂け目でいいんです。︺習ったというのは節せつ理りだな。節理なら多ため面ん節理、これを節理と云うわけにはいかない。裂れっ罅かだ。やっぱり裂け目でいいんだ。壺つぼ穴あなのいいのがなくて困こまるな。少し細長いけれどもこれで説せつ明めいしようか。elongatedpot-hole︹ここがどうしてこう掘ほれるかわかりますか。石ころ、礫がこれを掘るのです。そら水のために礫がごろごろするでしょう。だんだん岩を掘るでしょう。深ふかいところが一いっ層そう深くなるはずです。もっと大きなのもあります。︺ 日光の波、日光の波、光の網あみと、水の網。 ﹁ほこの穴あなこまん円けじゃ。先生。﹂ ああいい、これはいい標ひょ本うほんだ。こいつなら持もってこいだ。 ︹さあ、見て下さい。これはいい標本です。そら。この中に石ころが入ってましょう。みんな円くなってるでしょう。水ががりがり擦こすったんです。そら。︺ 実じつにいい礫れきだ。まっ白だ。まん円だ水でぬれている。取とってしまった。誰だれかがまた掻かき廻まわす。もうない。あとは茶色だし少し角もある。ああいいな。こんなありがたい。あんまり溯のぼる。もう帰ろう。校長もあの路みちの岐わかれ目で待まっている。 ︹ほう。戻もどれ。ほう。︺向むこうの崖がけは明るいし声はよく出ない。聞えないようだ。市いち野のか川わやぐんぐんのぼって行く。︹ほう、︺﹁戻れど。お。﹂﹁戻れ。﹂ 向いた向いた。一人向けばもういい。川を戻るよりはここからさっきの道へのぼったほうがいい、傾けい斜しゃもゆるく丁ちょ度うどのぼれそうだ。︹みんなそこからあの道へ出ろ。︺ 手を振ふったほうがわかるな。わかったわかったわかったようだ。市野川が崖の上のみちを見ている。 うしろの滝たきの上で誰だれか叫さけんでいる。大おお竹たけだ。﹁おら荷にも物つ置おいてきたがらこっちがら行ぐ。﹂よかろう。︹よおし。︺もう大竹が滝をおりて行く。すばやいやつだ。二、三人またついて行く。それからも一人おくれてひどく心しん配ぱいそうに背せな中かをかがめて下りていく。斉さい藤とう貞てい一いちかな。一ちょ寸っとこっちを見たところには栗り鼠すの軽かるさもある。ほんとうに心配なんだ。かあいそう。 市野川やみんながぞろぞろ崖をみちの方へ上って行くらしい。 そうすればおれはやっぱり川を下ったほうがいいんだ。もしも誰か途とち中ゅうで止っていてはわるい。尤もっとも靴くつ下したもポケットに入っているし必かならず下らなければならないということはない、けれどもやっぱりこっちを行こう。ああいい気きも持ちだ。鉄かな槌づちをこんなに大きく振って川をあるくことはもう何年ぶりだろう。波なみが足をあらい水はつめたく陽ひは射さしている。 ﹁先生ぁ、ずいぶん足ぁ早ぃな。﹂富とみ手てかな、菅すが木きかな、あんなことを云いっている。足が早いというのは道をあるくときの話だ。ここも平たいらで上じょ等うとうの歩道なのだ。ただ水があるばかり。 ﹁先生、あの崖がけのどご色変かわってるのぁ何してす。﹂簡かんだ。崖の色か。 ︹あれは向むこうだけは土が落おちたんです。滑すべって。︺ うん。あるある。これが裂れっ罅かを温おん泉せんの通った証しょ拠うこだ。玻はり璃たん蛋ぱく白せ石きの脈みゃくだ。 ︹ここをごらんなさい。岩のさけ目に白いものがつまっているでしょう。これは温泉から沈ちん澱でんしたのです。石せき英えいです。岩のさけ目を白いものが埋うめているでしょう。いい標ひょ本うほんです。︺みんなが囲かこむ。水の中だ。 ﹁取とらえなぃがべが。﹂﹁いいや、此こ処ここのまんまの標本だ。﹂ ﹁それでも取らえなぃがべが。﹂︹取ってみますか。取れます。︺ 中々面めん倒どうだ。 ﹁先生こっちにもっと大きなのあるんす。﹂あるある。これならネストと云いってもいい。これなら取れる。ハムマアの尖とがった方ではだめだ。平ひらたい方は……。 水がぴちゃぴちゃはねる。そっちの方のものが逃にげる、ふん。 ︹水がはねますか。やっぱりこっちでやるかな。︺ 白く岩に傷きずがついた。二ふた所ところついた。 とれる。とれた。うまい。新しん鮮せんだ。青白い。 緑りょ簾くれ石んせきもついている。そうじゃないこれは苔こけだ。︹いいですか。これは玻璃蛋白石です。温泉から沈澱したのです。晶しょ洞うどうもあります。小さな石英の結けっ晶しょうです。持もっておいでなさい。︺ 誰だれだ崖がけの上で叫さけんでいるのは。 ﹁先生。おら河かっ童ぱ捕どりしたもや。河童捕り。﹂藤ふじ原わら健けん太たろ郎うだ。黒の制せい服ふくを着きて雑ざつ嚢のうをさげ、ひどくはしゃいで笑わらっている。どうしていまごろあんな崖の上などに顔を出したのだ。 ﹁先生。下りで行ぐべがな。先生。よし、下りで行ぐぞ。﹂ ︹うん。大だい丈じょ夫うぶ。大丈夫だ。︺おりるおりる。がりがりやって来るんだな。ただそのおしまいの一足だけがあぶないぞ。裸はだかの青い岩だし急きゅうだ。 ︹おおい。もう少し斜ななめにおりろ。︺おりるおりる。どんどん下りる。もう水へ入った。︹どうしたのです。︺﹁先生。河童捕りあ※﹇#小書き平仮名ん、135-11﹈すた。ガバンも何も、すっかりぬらすたも。﹂︹どこで。……︺ もう下ろう。滝たきに来た。下りているものもある。水の流ながれる所ところは苔こけは青く流れない所は褐かっ色しょくだ。みんなこわごわ下りて来る。水の流れる所は大丈夫滑すべらないんだ。︹水の流れるところをあるきなさい。水の流れるところがいいんです。︺ あれは葛くず丸まる川だ。足をさらわれて淵ふちに入ったのは。いいや葛丸川じゃない。空くう想そうのときの暗くらい谷だ。どっちでもいい。水がさあさあ云いっている。﹁いいな。あそごの水の跳はね返かえる処ところよ。﹂ うん、いい早はや池ちね峯さ山んの七なな折おりの滝たきだってこんなのの大きなだけだろう。 もうみんなおりる。おれもおりる。たった一人あとからやって来る人がある。こわそうだ。 ︹水の流れるところをあるくんです。水の流れる所を歩くんですよ。︺ そうだ。そうだ。いい気き持もちだ。