能因法師

岡本綺堂




  登場人物
能因法師のういんほふし
藤原節信ふぢはらのときのぶ
能因の弟子良因りやういん
花園少將はなぞのゝせうしやう
少將の奧園生そのふ
伏柴ふししばの加賀
陰陽師阿部正親おんやうしあべのまさちか
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良因  はい、はい。
能因  好い天氣だな。
良因  朝夕あさゆふは北山颪しがそろ/\と身にしみて來ましたが、日のなかはまだ少し暑いくらゐでございます。
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良因  お察し申します。きのふは少し用があつて、京の町までまゐりますと、六條の河原にあなたと同じやうな首がらされて居りましたよ。
能因  六條河原に……獄門か。
良因  丁度そんな首でございました。
  鹿
良因  好い加減に染まりました。もうちつとの御辛抱でございませう。
能因  あき風が大分吹いて來たから、もうそろ/\と『秋風ぞ吹く白河の關』と遣つてもよからう。
良因  いや、まだ些と早うございませう。奧州あうしうからこゝまで歸るには、道中の日數ひかずがなかなかかゝりますからな。
  
良因  御心配には及びません。さうして根よく天日てんぴに晒しておゐでなさいましたから、染は上染じやうそめ、眞黒々に染めあがりました。
能因  誰が見ても長の道中をして來たやうにみえるだらうな。
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能因  はゝゝゝゝゝ。
藤原節信ふぢはらのときのぶ、三十餘歳、かどに來りてうかゞふ。)
節信  おたのみ申す。
  
能因  誰か來た……。(おどろく。)
  
能因  いゝか、まだ歸らないと云ふのだぞ。
節信  良因は留守かな。(大きく云ふ。)
良因  はい、はい。唯今まゐります。
(能因はあわてゝ窓から首を引込める。良因は何食はぬ顏でかどに來る。)
良因  はい、はい。どなた……。
節信  良因か。
良因  おゝ、節信樣でございましたか。さあ、こちらへ……。
(節信は内に入りて、縁に腰をかける。良因は氣づかはしさうに窓の方を見かへる。)
節信  おゝ、こゝの庭にも落葉が多い。もう秋になつたな。
良因  はい。それをしきりに待つてゐるのでございますよ。
節信  秋になるのを待つてゐるのか。
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節信  能因殿はいつごろ戻られるな。
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節信  (笑ふ。)これ、これ、嘘をつくな。
良因  え、決して嘘は申しません。お師匠樣はまつたく奧州から戻らないのでございます。
(再び窓のかたを見かへる。)
節信  今あの窓から眞黒な首が出てゐたが……。
良因  (おどろく。)え。
節信  あれは誰だ。誰だな。
  
  鹿
  
節信  とぼけるのも好い加減にしてくれ。なるほど、顏は眞黒でよく判らなかつたが、聲を聞いたのがたしかな證據だ。
良因  でも、つんぼうの早耳といふことも……。
  
良因  もし、もし、飛んでもないことを……。お師匠樣はまつたくお留守で……。
節信  なにを云ふのだ。引込んでゐろ。
(節信は奧へゆかうとするを、良因はあわてゝ遮り、兩人頻りに爭ふうちに、能因は窓から再び首を出す。)
能因  まあ、待つてくれ、待つてくれ。
節信  おゝ、能因か。なぜ隱れてゐる。
  
  
(節信は扇にて良因を一つくらはせる。)
良因  いや、どうも恐れ入りました。
(良因はあたまを抱へて閉口してゐる。奧より能因出づ。)
能因  節信殿、どうも御無沙汰をいたした。
  
  
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良因  あ、もし、もし……。(云ふなと制する。)
  殿
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  殿
良因  はい、はい。(門をみる。)
能因  實を申せば、その奧州の旅といふのは嘘でござる。
節信  え、奧州へ旅立ちすると云つたのは嘘であつたか。なぜ又そんな嘘をいつて……。
  
良因  大丈夫でございます。
  
能因  いや、いや、大晦日まではまだ間もあるのに、決してそんな卑怯なわけでは……。
  
能因  いや、いや、そんな洒落れたわけでもない。實は近頃わたくしが歌をよみました。
  
能因  唯今お目にかける。お待ちください。
(能因は棚の箱から色紙を持つてくる。節信はうけ取りて讀む。)
  
能因  どうでせうな。都をば霞と共に出でしかど……。
良因  秋風ぞふく白河の關。(大きく云ふ。)
能因  これ、靜にしろと云ふに……。表に誰も聞いてゐないか。
良因  あ、來ました、來ました。(向うを指さす。)
  
良因  はゝゝゝゝ。
  
良因  はゝ、大丈夫でございます。
  
  
節信  なるほど、成程。して、その工夫は……。
  
  
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能因  ちつと智慧をお貸し申さうか。はゝゝゝゝ。
節信  はゝゝゝゝ。
(この時、良因は又もや向うを指さして騷ぐ。)
良因  もし、お師匠樣。來ました、來ました。
能因  え、ほんたうか、ほんたうか。
  殿
節信  あの二人はかねて戀仲だと聞いてゐるから、幸ひ今日は日和もよし、手に手をひかれて秋の野邊を、そゞろ歩きなどしてゐると見えるな。
  
良因  それは萬事心得てをります。
能因  こんなものを見つけられては大變だ。
(節信より彼の色紙を取返へし、料紙箱にしまひ込む。)
  殿()
能因  あ、ちよいとお待ち下さい。折角おたづね下されたのだから、土産によいものを差上げませう。
(能因は袂より小さき鉋屑を取出し、懷紙にのせて勿體らしく出す。)
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  殿()()()()
節信  むゝ。
能因  その橋を作つたときの鉋屑で……。
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能因  決して義理堅い御返禮には及びません。
良因  あれ、あれ、もう二人がまゐります。
節信  さうか。さうか。
(節信はあわてゝもんを出て、向うをみる。)
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(能因はあわてゝ奧に逃げ込む。節信は向うへ行きかけしが、更に路をかへて下の方に入る。)
  殿()()()()
廿
花園  よい日和であつたなう。
加賀  山には紅葉、野には菊、きのふけふは秋の色もだん/\に増してまゐりましたな。
  
加賀  何處かそこらで一休み致しませう。おゝ、あすこが宜しうございます。
花園  あの庵室めいた草のは誰の住居かの。
加賀  御存じはございませんか。あれは能因法師の宿でございます。
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加賀  良因といふ暢氣なお弟子坊主が留守番をしてゐますから、休みながら何か面白い話でも聞きませうよ。
(二人は門にくる。)
加賀  良因さん。大層お掃除に精が出ますね。
  殿
(花園と加賀は庭に入る。)
花園  おゝ、主人あるじは留守ぢやと聞くに、庭の手入れはなか/\行屆いてゐるの。
良因  いえ、もう、毎朝やかましく叱られますので……。
加賀  え、誰に叱られるの。
  
花園  かげひなたがなくて感心な男ぢや。
良因  なんでも人間は正直が肝腎でございます。(わきを向いて笑ふ。)
花園  小半日も歩いたせゐか、喉が渇いて來た。湯を一杯振舞つて貰へまいか。
  
花園  おゝ、もう日が暮れかゝつて來た。
良因  あきの日は短うございますよ。
加賀  こゝらではまだ蟲の聲がきこえますね。
良因  夜になるときり/″\すが枕邊まくらもとでも鳴いてをります。
  
加賀  この頃は何だかうは/\してゐて、歌を詠まうなどと云ふ氣分に些つともなれませんの。
花園  では、もう歌はお止めか。
  
  
  
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花園  それならば不足はない筈、なぜに縁を切らうと云ふのぢや。わからぬな。
  
花園  藪から棒にそれは無理ぢやよ。
加賀  無理は初めから承知の上でございますよ。(たち上る。)
  128-3
加賀  では、譯を申したら承知してくださいますね。
花園  さあ、そのわけを聞いた上で、なるほどと此方こつちの腑に落ちたら兎も角も……。
  
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良因  え、(思はず乘出して聽く。)
花園  その歌は……。
加賀  かねてより思ひしことよ伏柴ふししばの、るばかりなる嘆きせんとは。
花園  かねてより思ひしことよ伏柴の……。
良因  樵るばかりなる歎きせんとは……。
  
良因  面白い歌でございますな。(ひどく感心する。)
花園  云ふまでもなく戀歌ぢやが、男に捨てられた時の心を詠んだものゝやうに思はれるの。
  
  
良因  なるほど、なるほど。いや、似寄つた話もあるものだ。
加賀  え。
良因  なに、こつちのことでございます。
花園  世間の男どもは屹とさう云ふ女に同情して、わい/\褒めちぎるに相違あるまい。わしも隨分覺えのあることぢや。
  
良因  では、伏柴の加賀とでも申しませうかな。
花園  伏柴の加賀……。風流な名ぢやなう。
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花園  なるほど、自分の名を賣り擴めるにはよい工夫ぢや。
  
  
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花園  (悲しい聲。)では、どうでもこれぎりか。
加賀  御縁があつたら又かさねて。(たち上る。)
  
  
  
  
  
  
(加賀は行きかゝるを、花園は駈寄つて袂をる。)
花園  まあ、さう現金にしないでもよさゝうなものぢや。せめて名殘りにもう少しこゝで話して行つてもよいではないか。
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加賀  それは丁度都合が好いこと。それぢやあ二三枚書かしてくださいな。
良因  さあ、さあ、御遠慮なく……。筆も硯も今持つてまゐります。
良因  さあ、澤山お書きなさい。五枚でも十枚でも百枚でも……。
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花園  はい、はい。かしこまりました。
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(ふたりは驚きて庭に飛び降りる。能因もあわてゝ襖をしめる。)
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花園  壁虎どころか。あ、あの襖のうしろから化物が……。
良因  え、化物が……。あの奧から……。
加賀  眞黒な顏をして眼ばかりひかつた大坊主が……。いつの間にかぬうと首を出して……。
  
花園  わしにも判らぬが、大方は化物ぢや。(扇を持直して身がまへする。)
  
  
  
加賀  まあ。
良因  それから天氣の好い日には、あの窓から眞黒な大坊主の首がぬつと出ます。
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花園  さうぢや、さうぢや。
(二人は逃支度をする。良因は縁を降りて止める。)
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良因  いえ、あなた方もかゝり合でございます。滅多にお歸し申すことはなりません。
(二人は逃げようとするのを、良因は意地わるく止める。この捫着のうちに花園は向うを見る。)
  ()()()()殿()
良因  え。
花園  あれは都にかくれのない陰陽師おんやうしぢや。一體この家の奧には鬼が棲むか蛇が棲むか、占つて貰はうではないか。
加賀  それがようございます。早くこゝへ呼びませうよ。
良因  (少し困る。)いえ、それには及びますまい。
花園  まあ、兎もかく呼んでからのことぢや。おうい。
加賀  おうい。
(二人はしきりに呼ぶ。陰陽師阿部正親、御幣ごへいを持ちて出づ。)
  
花園  おうい。
加賀  おうい。
  
(正親は再び御幣をいたゞいて、このかどにあゆみ來る。)
花園  おゝ、正親どの。よくぞお出でくだされた。
正親  少將殿に加賀殿。これは能因法師の宿ではござらぬか。
加賀  左樣でございます。まあ、どうぞこつちへお通り下さい。
  
花園  主人の能因が旅の留守に、この家にさま/″\の不思議が起りました。
正親  はてな。
加賀  あの奧の間に怪しいものが棲んでゐて、時々に眞黒な顏を出すのでございます。一體あれは何者か、あなたに占つて頂くわけには參りますまいか。
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良因  まあ、そんなやうな譯でございますが、失禮ながらあなたの御うらなひで、あの化物の正體が判りませうかな。
正親  御念にはおよばぬ。今に奇特を見せまするぞ。
能因  (小聲。)良因、良因。
良因  え。(左右を見まはす。)
能因  こゝだ、こゝだ。
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能因  貴樣が詰らないことを云つておどかすものだから、陰陽師などが遣つて來て、何だかあぶなさうになつて來たから、そつと裏口から拔出して來たのだ。
  
能因  來たか、來たか。(あわてゝ家のうしろに隱れる。)
(この中に正親は祈り終りて不思議さうな顏。)
正親  はて、わからぬ。世にも不思議なことがあるものぢや。
花園  お判りになりませぬか。
正親  この一間のうちには何にも居らぬやうぢやが……。(かんがへる。)
加賀  なんにも居りませんか。
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花園  さあ、たしかに出たやうに思はれたが……。
加賀  わたくしも確に見ましたわ。どうかもう一度占つて見てくださいませんか。
正親  いや、幾度占つても同じことぢや。
加賀  當るも八卦、あたらぬも八卦とか云ふこともありますから、念の爲にもう一度……。
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加賀  それはもう判つてゐますよ。
正親  その正親が有るといへば有る、無いと云へば無い。それを疑ふは神をうたがふも同じことでござるぞ。
加賀  でも、現在奧にゐる者の正體が判らないぢやありませんか。
正親  いや、判つてゐる。なんにも無いと判つてゐるのぢや。
加賀  なんにもない筈はありませんよ。
(この爭ひの中に、下のかたより花園の奧方園生そのふ出で來りて、垣の外より窺ふ。)
  
良因  (わざと逡巡して。)いえ、それはまつぴら御免下さいまし。
花園  まだ怖いか。
良因  なんだかまだ不安心でございます。どうかあなた御自身で……。
花園  いや、わしも御免ぢや。
加賀  誰だつて氣味が惡うございますわ。たしかに變なものがゐるに違ひないんですもの。
  ()
加賀  え、なんですつて……。わたしが鬼か惡魔ですつて……。
正親  おゝ、此頃の女子をなごは惡魔よりもおそろしいと、師匠の晴明どのが常々申されてゐるわ。
良因  なるほど、その占ひはよくあたつてゐるかも知れない。(笑ふ。)
  鹿
  ()退()
加賀  おや、わたしをちましたね。
正親  かうして惡魔をはらふのぢや。(又打つ。)
加賀  わたしを狐だとでも思つてゐるんですか。もう堪忍ができませんよ。
  
良因  はい、はい。(笑つて見てゐる。)
加賀  なんの、男に負けてたまるものか。
  ()()
  
  
花園  まあ、待てといふのに……。
園生  いゝえ、待たれません。
(こゝにも花園夫婦の喧嘩がはじまる。)
  
(一方の正親は加賀をおさへ付けてほつと一息つく。)
  ()
退退()
  
花園  な、なんぢや知らぬが、もう斯うしてはゐられないのぢや。(逃げかゝる。)
  
能因  わはゝゝゝゝ。(高く笑ふ。)
  
正親  こりやたまらぬ。大變ぢや、大變ぢや。
(正親は御幣を投り出して逃げ去る。花園もいよ/\おびえて逃げかゝれば、園生は縋りながら引摺られてゆく。)
園生  もし、あなた、あなた……。
花園  何でもいゝから、早く、早く……。うつかりしてゐたら鬼一口にはれうぞ。
園生  え。
(又べつたりとなるを、花園は扶け起して逃げる。)
花園  さあ、早く、早く。
(花園夫婦はこけつまろびつ逃げ去る。)
良因  あはゝゝゝゝゝ。
能因  わはゝゝゝゝゝ。
(二人は腹をかゝへて笑ふ。加賀は怖々こは/″\ながら透してみる。)
良因  お師匠樣。いや、面白いことでございました。
  
  ()()
  
加賀  ほんたうに惡い洒落ですわ。私、胸がまだどき/\することよ。
  
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良因  とても女にはかなひませんよ。實に物すごい事でございます。
  
  
  
  
能因  さあ、それだから怖ろしいと云ふのだ。では、いづれ近い中にあなたの歌が世に出るのですね。
良因  感心して褒めちぎる奴の顏が見たうございますよ。
  ()
  
加賀  どつちを人が褒めるでせうね。
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加賀  併しこの祕密はおたがひに洩らしますまいね。
能因  後日に露顯すれば兎もかくも、當分は何事もひそかに、ひそかに……。
加賀  ほんたうに然うですわ。
(下のかたより藤原節信は松明たいまつを持ちて急ぎ出づ。)
節信  頼む。たのむ。
加賀  あ、また誰か來たか。
(能因はあわてゝ奧に逃げ込む。引き違へに良因は燈臺を持ちて出づ。)
良因  はい、はい、どなた……。
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(能因は奧より出る。)
能因  おゝ、節信どの。又お出でなされたか。
節信  早速ながら先刻の御返禮にまゐつた。
良因  大方さうであらうと存じましたよ。
  
  
()
加賀  あら、忌だ。まあ、こんなものを……。
能因  これは蛙の干物のやうでござるな。
良因  いくらお師匠樣が惡物食あくものぐひでも、ひきがへるの干物は召上りますまい。
節信  (自慢らしく。)それは井出ゐでの玉川の蛙でござる。
  ()
  ()穿
節信  なに、氣違ひだと……。これは怪しからん。
能因  まあ、まあ、よろしい。兎かく今の人は喧嘩が好きで困る。
加賀  だつて、あんまりばか/\しいんですもの。そんな干枯びた穢いものを……。
  ()()
加賀  あれ、いやですよ。(飛び退く。)
能因  はゝゝゝゝゝ。

――幕――






  
   19522711251
   2008202217

   1920911

noriko saito
2010531

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JIS X 0213-


「慌」の「亡」に代えて「曷−日−勹」    128-3


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