話の本文
この話は予の知るところでは、﹃太平記﹄十五巻に出たのが最も古い完全な物らしい、馬ばき琴んの﹃昔むか語しが質たり屋しち庫やのくら﹄二に、ある書にいわくと冒頭して引いた文も多分それから抄出したと見える。その﹃太平記﹄の文は次のごとし。いわく、 ︵延元元年正月、官軍三みい井で寺ら攻めに︶ 前せん々ぜん炎上の時は、寺門の衆徒、これを一大事にして隠しける九きゆ乳うにゆうの鳧ふし鐘ようも、取る人なければ、空しく焼けて地に落ちたり、この鐘と申すは、昔竜宮城より伝はりたる鐘なり、その故は承平の頃俵藤太秀ひで郷さとといふ者ありけり、ある時この秀郷、たゞ一人勢せ多たの橋を渡りけるに、長たけ二十丈ばかりなる大蛇、橋の上に横たはつて伏したり、両の眼は輝いて、天に二つの日を掛けたるがごとし、双ならべる角つのの尖するどにして、冬枯れの森の梢こずえに異ならず、鉄くろがねの牙上下に生おひ差ちごふて、紅の舌炎ほのおを吐くかと怪しまる、もし尋よの常つねの人これを見ば、目もくれ魂消えて、すなはち地にも倒れつべし、されども秀郷、天下第一の大剛の者なりければ、更に一念も動ぜずして、彼かの大蛇の背せなかの上を、荒らかに踏みて、閑しずかに上をぞ越えたりける、しかれども大蛇もあへて驚かず、秀郷も後を顧みずして、遥はるかに行き隔たりける処に、怪しげなる小男一人、忽こつ然ぜんとして秀郷が前に来きたつていひけるは、我この橋の下に住む事すでに二千余年なり、貴賤往来の人を量り見るに、今御ごへ辺んほどに剛なる人いまだ見ず、我に年とし来ごろ地を争ふ敵あつて、動ややもすれば彼がために悩まさる、しかるべくは御辺、我敵を討つてたび候へと懇ねんごろに語かたらひけれ、秀郷一義もいはず、子細あるまじと領状して、すなはちこの男を前さきに立て、また勢多の方へぞ帰りける、二人共に湖水の波を分けて水中に入る事五十余町あつて、一の楼門あり、開いて内へ入るに、瑠る璃りの沙いさご厚く、玉の甃いしだたみ暖かにして、落花自ずから繽ひん紛ぷんたり、朱楼紫殿玉の欄干金こがねを鐺こじりにし銀しろがねを柱とせり、その壮観奇麗いまだかつて目にも見ず、耳にも聞かざりしところなり。 この怪しげなりつる男、まづ内へ入つて、須しゆ臾ゆの間に衣冠を正しくして、秀郷を客位に請しようず、左右侍しえ衛のか官ん前後花の粧よそおひ、善尽し美尽せり、酒宴数刻に及んで、夜既に深ふけければ、敵の寄すべきほどになりぬと周あわ章て騒ぐ、秀郷は、一生涯が間身を放たで持ちたりける、五人張ばりにせき弦づる懸けて噛くひ湿しめし、三年竹の節ふし近ぢかなるを、十五束二ふた伏つぶせに拵こしらへて、鏃やじりの中なか子ごを筈はず本もとまで打ち通しにしたる矢、たゞ三筋を手たば挟さみて、今や〳〵とぞ待ちたりける、夜半過ぐるほどに、雨風一通り過ぎて、電火の激する事隙ひまなし、暫しばらくあつて比ひ良らの高たか峯ねの方より、焼たい松まつ二、三千がほど二行に燃えて、中に島のごとくなる物、この竜宮城を指さしてぞ近づきける、事の体ていを能よく々よく見るに、二行に点とぼせる焼松は、皆己おのれが左右の手に点したりと見えたり、あはれこれは、百む足か蛇での化けたるよと心得て、矢やご比ろ近くなりければ、件くだんの五人張に十五束三みつ伏ぶせ、忘るゝばかり引きしぼりて、眉みけ間んの真中をぞ射たりける、その手答へ鉄を射るやうに聞えて、筈を返してぞ立たざりける、秀郷一の矢を射損じて安からず思ひければ、二の矢を番つごうて、一分も違ちがへず、わざと前の矢やつ所ぼをぞ射たりける、この矢もまた、前のごとくに躍り返りて、これも身に立たざりけり、秀郷二つの矢をば、皆射損じつ、憑たのむところは矢一筋なり、如いか何んせんと思ひけるが、屹きつと案じ出だしたる事あつて、この度射んとしける矢先に、唾を吐き懸けて、また同じ矢所をぞ射たりける、この矢に毒を塗りたる故にや依りけん、また同じ矢坪を、三度まで射たる故にや依りけん、この矢眉間の只ただ中なかを徹とおりて、喉の下まで、羽はぶくら責めてぞ立ちたりける、二、三千見えつる焼松も、光たちまち消えて、島のごとくにありつる物、倒るゝ音大地を響かせり、立ち寄りてこれを見るに、果して百足の※むかで﹇#﹁虫+玄﹂、U+86BF、124-12﹈なり、竜神はこれを悦びて、秀郷を様々に饗もてなしけるに、太刀一ひと振ふり、巻まき絹ぎぬ一つ、鎧一領、頸結ゆうたる俵一つ、赤しや銅くどうの撞つき鐘がね一口を与へて、御辺の門もん葉ように、必ず将軍になる人多かるべしとぞ示しける。 秀郷都に帰つて、後この絹を切つて使ふに更に尽くる事なし、俵は中なる納いれ物ものを、取れども〳〵尽きざりける間、財宝倉に満ちて、衣裳身に余れり、故にその名を、俵藤太とはいひけるなり、これは産業の財たからなればとて、これを倉そう廩りんに収む、鐘は梵ぼん砌ぜいの物なればとて、三井寺へこれを奉る、文ぶん保ぽう二年、三井寺炎上の時、この鐘を山門へ取り寄せて、朝夕これを撞きけるに、あへて少しも鳴らざりける間、山法師ども、悪にくし、その義ならば鳴るやうに撞けとて、鐘しも木くを大きに拵へて、二、三十人立ち掛りて、破われよとぞ撞きたりける、その時この鐘、海くじ鯨らの吼ほゆる声を出して、三井寺へ往ゆかふとぞ鳴いたりける、山徒いよ〳〵これを悪にくみて、無むど動う寺じの上よりして、数千丈高き岩の上をば、転ころばかしたりける間、この鐘微みじ塵んに砕けにけり、今は何の用にか立つべきとて、そのわれを取り集めて、本寺へぞ送りける、ある時一尺ばかりなる小蛇来つて、この鐘を尾を以て扣たたきたりけるが、一夜の内にまた本の鐘になつて、疵きず付ける所一ひとつもなかりけり云々。 この鐘に似た事、支那にてこれより前に記された。予が明治四十一年六月の﹃早稲田文学﹄六二頁に書いた通り、﹃酉陽雑俎﹄︵蜈むか蚣で退治を承平元年と見てそれより六十八年前に死んだ唐の段成式著わす︶三に、歴城県光政寺の磬けい石せき、膩つ光や滴したたるがごとく、扣たたけば声百里に及ぶ、北斉の時、都内に移し撃たしむるに声出ず、本寺に帰せば声故もとのごとし、士人磬神聖にして、光政寺を恋したうと語うわさしたとある。﹃続古事談﹄五に、経信大納言言われけるは、玄象という琵琶は、調べ得ぬ時あり、資通大だい弐に、この琵琶を弾ひくに調べ得ず、その父済なり政まさ、今日この琵琶僻ひがめり、弾くべからざる日だと言うた、経信白川院の御遊に、呂の遊の後律に調べるについに調べ得ず、古人のいう事、誠なるかなと言われたとある。和漢とも貴重な器具は、人同様心も意気地もありとしたのだ。鐘が鳴らぬからとて、大騒ぎして砕いたなど、馬鹿げた談はなしだが、昔は、東西ともに大人が今の小児ほどな了簡の所為多く、欧州でも中世まで、動物と人と同様の権利も義務もありとし、証人に引き、また刑の宣告もした︵﹃ルヴィユー・シャンチフィク﹄三輯三巻、ラカッサニュの説︶。されば時として、無心の什じゅ器うきをも、人と対等視した例も尠すくなからず、一六二八年、仏国ラ・ロシェルに立て籠った新教徒降った時、仏王の将軍、かの徒の寺に懸けあった鐘を下ろし、その罪を浄めるため、手てひ苛どく笞うち懲こらしたは良かったが、これを買った旧教徒に、王人をして代金を求めしむると、新教徒が旧教に化した時、その借金を払うに三年の猶予ある、因ってこの鐘も三年待ってくれと言ったとは珍譚じゃ︵コラン・ド・プランチー﹃遺ジク宝ショ霊ネー像ル・評クリ彙チク・デー・レリク・エ・デー・イマージュ・ミラクロース﹄一八二一―二年版、巻三、二一四頁︶。 ﹃太平記﹄に三井の鐘破れたるを、小蛇来り尾で叩いて本に復したとあるは、竜宮から出た物ゆえ、竜が直しに来た意味か、または鐘の竜頭が神異を現じた意味だろう、名作の物が、真物同然不思議を働く例は、﹃酉陽雑俎﹄三に、︿僧一行異術あり、開元中かつて旱す、玄宗雨を祈らしむ、一行いわく、もし一器上竜状あるものを得れば、まさに雨を致すべし、上内庫中において遍ねくこれを視せしむ、皆類せずと言う、数日後、一古鏡の鼻の盤竜を指し、喜びて曰くこれ真竜あり、すなわち持ちて道場に入る、一夕にして雨ふる﹀。﹃近江輿地誌略﹄十一には、秀郷自分この鐘を鋳て三井に寄附せりとし、この鐘に径五寸ばかりの円き瑕きずあり、土俗いわく、この鐘を鋳る時、一女鏡を寄附して鋳物師に与う、しかれども、心私ひそかに惜しんだので、その鏡の形に瑕生じたと。また﹃淡海録﹄曰く、昔赤あか染ぞめ衛えも門ん、若衆に化けてこの鐘を見に来り、鐘を撫なぜた手が取り著ついて離れず、強く引き離すと手の形に鐘取れた痕あとなり、また染そめ殿どの后のきさきともいうと。﹃誌略﹄の著者は、享保頃の人だが、自ら睹みた所を記していわく、この鐘に大なる※ひび裂われ﹇#﹁比+皮﹂、U+24FCE、127-5﹈あり、十年ばかりも以前に、その裂目へ扇子入りたり、その後ようやくして、今は毫ごう毛もうも入らず、愈いえて※﹇#﹁比+皮﹂、U+24FCE、127-7﹈裂なし、破鐘を護まもる野僧の言わく、小蛇来りて、夜ごとにこの瑕を舐むる故に愈えたりと、また笑うべし、赤銅の性、年経てその瑕愈え合う物なり、竜宮の小蛇、鐘を舐ねぶりて瑕を愈やす妙あらば、如何ぞ瑕付かざるように謀はからざるや、年経て赤銅の破目愈え合うという事、臣それがし冶工に聞けりと。予今年七十六歳の知人より聞くは、若い時三井寺で件くだんの鐘を見たるに※﹇#﹁比+皮﹂、U+24FCE、127-11﹈裂筋あり、往昔弁慶、力試しにこれを提さげて谷へ擲なげ下ろすと二つに裂けた、谷に下り推おし合せ長なぎ刀なたで担にのうて上り、堂辺へ置いたまま現在した、またその鐘の面に柄えつ附きの鐘様の窪くぼみあり、竜宮の乙おと姫ひめが鏡にせんとて、ここを採り去ったという、由来書板行して、寺で売りいたと。 何がな金にせんと目論み、一つの鐘に二つまで瑕の由来を作った売まい僧すは輩いの所しわ行ざ微笑の至りだが、欧州の耶ヤ蘇ソ寺にも、愚昧な善男女を宛あて込んで、何とも沙汰の限りな聖蹟霊宝を、捏ねつ造ぞう保在した事無数だ。試みに上に引いたコラン・ド・プランチーの﹃評彙﹄から数例を採らんに、ローマにキリストの臍さい帯たいおよび陰まえ前のか皮わと、キリストがカタリン女尊者に忍び通うた窓附の一室、またアレキシス尊者登天の梯はしごあり。去々年独軍に蹂躙されたランスの大寺に、石上に印せるキリストの尻蹟あり、カタンにアガテ女尊者の両乳房、パリ等にキリストの襁むつ褓き、ヴァンドームにキリストの涙、これは仏国革命の際、実検して南京玉と判わかった。またローマに、日本聖教将来の開山ハビエロの片腕、ロヨラ尊者の尻、ブロア附近にキリストの父が木を伐る時出した声、カタロンとオーヴァーンは、聖母マリアの経水拭ふいた布ぬの切ぎれ、オーグスブールとトレーヴにベルテレミ尊者の男根、それからグズール女尊者の体はブルッセルに、女根と腿ももはオーグスブールに鎮坐して、各々随喜恭礼されたなど、こんな椿ちん事じは日本にまたあるかいな。 されば弁慶力試しや、男装した赤染衛門の手印などは、耶蘇坊主の猥わい雑ざつ極まる詐欺に比べて遥かに罪が軽い、それから﹃川かわ角すみ太たい閤こう記き﹄四に、文禄元辰二月時分より三井寺の鐘鳴りやみ、妙なる義と天下に取り沙汰の事と見ゆ、これも何か坊主どもの騙まや術かしだろうが、一体この寺の鐘性弱いのか、またさなくとも、度たび々たびの兵火でしばしば※ひび裂われ﹇#﹁比+皮﹂、U+24FCE、128-12﹈たのを、その都度よい加減に繕うたが、ついに鳴りやんだので、その※﹇#﹁比+皮﹂、U+24FCE、128-13﹈裂や欠瑕を幸い、種々伝説を造って凡衆を誑たぶらかしたのだろう、かようの次第で三井の鐘が大当りと来たので、これに倣なろうて他にも類似の伝説附の鐘が出て来たは、あたかも江戸にも播ばん州しゅうにも和歌山にも皿屋敷があったり、真言宗が拡まった国には必ず弘法大師三さん鈷この松類似の話があったり︵高野のほかに、﹃会津風土記﹄に載った、磐梯山恵日寺の弘法の三鈷松、﹃江海風帆草﹄に見ゆる筑前立花山伝教の独とっ鈷こ松、チベットにもラッサの北十里、︿色拉寺中一降ごう魔まし杵ょを置く、番民呼んで多ド爾ル済ジと為なす、大西天より飛来し、その寺堪カン布ボこれを珍めづ、番人必ず歳に一朝観す﹀と﹃衛蔵図識﹄に出いづ︶、殊に笑うべきは、天主教のアキレスとネレウス二尊者の頭され顱こうべ各五箇ずつ保存恭拝され、欧州諸寺に聖マド母ンナの乳ち汁ち、まるで聖母は乳牛だったかと思わるるほど行き渡って奉祀され居るがごとし。 すなわち﹃近江輿地誌略﹄六一、蒲がも生う郡川守村鐘が嶽の竜王寺の縁起を引きたるに、宝ほう亀き八年の頃、この村に小野時兼なる美男あり、ある日一人の美女たちまち来り、夫婦たる事三年ののち女いわく、われは平木の沢の主なり、前世の宿因に依ってこの諧かたらいを為なせり、これを形見にせよとて、玉の箱を残して去った、時兼恋情に堪えず、平木の沢に行って歎くと、かの女長たけ十丈ばかりの大蛇と現わる、時兼驚き還ってかの箱を開き見るに鐘あり、すなわち当寺に寄進す、かの沢より竜燈今に上るなり、霊験新たなるに依って、一条院勅額を竜寿鐘殿と下し賜わり、雪野寺を竜王寺と改めしむ、承しょ暦うりゃく二年十月下旬、山徒これを叡えい山ざんへ持ち行き撞けども鳴らねば、怒りて谷へ抛げ落す、鐘破れ瑕きずつけり、ある人当寺へ送るに、瑕自然愈合、その痕今にあり、年旱ひでりすれば土民雨をこの鐘に祈るに必ず験あり、文明六年九月濃州の石丸丹波守、この鐘を奪いに来たが俄にわかに雷電して取り得ず、鐘を釣った目釘を抜きけれど人知れず、二年余釣ってあったとあるは、回マホ祖メットの鉄棺が中空に懸るて︹とふいう︺欧州の俗談︵ギボン﹃羅デク馬ライ帝ン・国エン衰ド・亡フォ史ール・オブ・ゼ・ローマンエンパイヤー﹄五十章註︶に似たり。 竜燈の事は、昨年九、十、十一月の﹃郷土研究﹄に詳論し置いた。高木君の﹃日本伝説集﹄一六八頁には、件くだんの女が竜と現じ、夫婦の縁尽きたれば、記かた念みと思召せとて、堅く結んだ箱を男に渡し、百日内に開くべからずと教えて黒雲に乗って去った。男百日俟またず、九十九日めに開き見るに、紫雲立ち上って雲中より鐘が現われたとあるは、どうも浦島と深草少将を取り交まぜたような拙つたない作だ。また平木の沢には鐘二つ沈みいたが、一つだけ上がった方は水鏡のように澄み、一つ今も沈みいる方は白く濁る、上がった方の鐘は女人を嫌いまた竜頭を現わさず、常に白綿を包み置く、三百年前一向宗の僧兵が陣鐘にして、敗北の節谷に落し破ったが、毎晩白衣の女現われ、その破われ目めを舐めたとあるから、定めて舐めて愈なおしたのだろ、これらでこの竜王寺の譚はなしは、全く後世三井寺の鐘の盛名を羨んで捏造された物と判りもすれば、手箱から鐘が出て水に沈むとか、女を忌む鐘の瑕を女が舐めて愈したなど、すこぶる辻褄合わぬ拙作と知れる。 ﹃太平記﹄に、竜神が秀郷に、太刀、巻絹、鎧、俵、鐘、五品を与えたとあれど︵﹃塵じん添てん嚢あい抄のうしょう﹄十九には如にょ意い、俵、絹、鎧、剣、鐘等とあり、鎧は阪ばん東どうの小おや山ま、剣は伊勢の赤堀に伝うと︶、巌谷君が、﹃東洋口碑大全﹄に引いた﹃神社考﹄には、太刀のほかの四品、﹃和漢三才図会﹄には太刀、鎧、旗、幕、巻絹、鍋、俵、庖刀、鐘と心ここ得ろえ童のど子うじ、計九品と一人、太刀の名遅ち来く矢しと出いづ。寛永十年頃筆せられた﹃氏郷記﹄巻上にも、如上の十種を挙げた。鍋を早小鍋、俵を首結俵とし居る。また一伝に、露という硯すずりも将来したが竹生島へ納むとあり、太刀は勢州赤堀の家にあり、避ひら来い矢しの鎧は下しも野つけ国のくに佐野の家にあり、童は思う事を叶かなえて久しく仕えしが、後に強きつう怒られて失うせしとかや、巻絹は裁たち縫うて衣裳にすれども耗へらず、衣服に充み満ちけるが、後にその末を見ければ延びざりけり、鍋は兵糧を焼たくに、少しの間に煮えしとなり。これも後には底抜けて、その破か片けは蒲生家にありとぞ聞えし、俵は米を取れども耗らず、粮かても乏しき事なし、それ故に名字を改め、俵藤太とぞ申しける。されども、将まさ門かど退治の後、ある女房俵の底を叩いて米を開あければ、一尺ばかりの小蛇出で去りしより、米出でざりけり、これより始まりて、今俵の底を叩かぬ謂いわれとなり、また秀郷の末孫、陣中にて女房を召し仕わざるも、この謂れとかや云々。秀郷を神と崇めて勢多に社あり︵﹃近江輿地誌略﹄に、勢多橋南に秀郷社竜王社と並びあり、竜王社は世俗乙姫の霊を祭るという、傍なる竜光山雲住寺縁起に、秀郷水府に至りて竜女と夫婦の約あり、後ここに祭ると︶、されば秀郷の子孫、勢多橋を過ぐるには、下馬して笠を脱ぎ、鈎さ匙じ、小刀、鞭むち、扇等、何にても水中へ投げ入れ、礼拝して通るに必ず雨ふるなり云々、また曰く、下野国佐野の家にも秀郷より伝えし鎧あり、札に平石権現と彫り付け牡か蠣きの殻も付きたり、かの家にては﹁おひらいし﹂の鎧とて答拝せらるとなり、またかの鎧竜宮より持ちて上りし男、竜二郎、竜八とて二人あり、これも佐野家に仕えけるが、竜二郎は断絶す、竜八は今において佐野の秋山という処にこれあり、彼らが子孫は必ず身に鱗ありとなり、避ひら来い矢しの鎧と書き、平石にてはなしと、以上﹃氏郷記﹄の文だ。 ﹃近江輿地誌略﹄に、ある説に鐺なべは、蒲生忠知の室は内ない藤とう帯たて刀わき女むすめなり、故に蒲生家断絶後内藤家に伝う、太刀は佐野の余流赤堀家に伝う︵蒲生佐野ともに秀郷の後こう胤いんだ︶。この宝物を負い出でたる童を、如意と名づく、その子孫を竜次郎とて、佐野の家にあり、後のち宮崎氏と称すると出いづ、何に致せ蒲生氏強ごう盛せいの大名となりてより、勢多の秀郷社も盛んに崇拝され、種々の宝物も新造されて、秀郷当身の物と唱えられたらしい。﹃誌略﹄に雲住寺縁起に載った、秀郷の鏃を見んと、洛西妙心寺に往って見ると、鏃甚だ大にしてまた長く、常人の射るべき物ならず、打うち根ねのごとし、打根は射る物でなく手に掛けて人に打ち付くる物なり、尚宗とある銘の彫刻および中なか真みの体、秀郷時代より甚だ新しいようだから、臣寺僧に問うに、この鏃は中世蒲生家よりの贈品で、秀郷の鏃という伝説もなし、ただ参詣人、推して秀郷の鏃と称えるのですと対こたえたとある。 ﹃明めい良りょ洪うこ範うはん﹄二四には、天正十七年四月、秀吉初め男子︵名は棄君︶を生む、氏郷累代の重器たる、秀郷蜈むか蚣で射たる矢の根一本献たてまつる、この子三歳で早世したので、葬処妙心寺へかの鏃を納めたとあるから見ると、氏郷重代の宝だったらしい。 さて秀郷を俵藤太という事、この人初め下野の田原てふ地に住み︵あるいはいう大和の田原で生まる、またいう近江の田原を領せり︶、藤原氏の太郎だった故、田原藤太といいしを、借字して俵と書くようになって、俵の字を解かんとて竜宮入りの譚を誰かが作り出したであろうと、馬ばき琴んが説いたは、まずは正せい鵠こくを得たものだろう。それから﹃和漢三才図会﹄に︿按あんずるに秀郷の勇、人皆識るところなり、三上山蜈蚣あるべし、湖中竜住むべし、而しかして十種宝物我が国中世用の器財なり、知らず海底またこれを用うるか、ただ恨むらくはその米俵巻絹世に存せざるなり﹀という事は、﹃質屋庫﹄に引いた﹃五雑俎﹄四に、︿蘇州東海に入って五、六日ほど、小島あり、濶ひろさ百里余、四面海水皆濁るに、独りこの水清し、風なくして浪高きこと数丈、常に水上紅光見あらわれ日のごとし、舟人あえて近づかず、いわくこれ竜王宮なり、而して西北塞外人跡到らざるの処、不時数千人樹を□木をくの声を聞く、明くるに及んで遠く視るに山木一空、いわく海竜王宮を造るなり、余謂おもえらく竜水を以て居と為す、豈あにまた宮あらん、たといこれあるもまたまさに鮫宇貝闕なるべし、必ずしも人じん間かんの木殖を藉からざるなり、愚俗不経一にここに至る﹀とあるより翻案したのだろう。さて﹃和漢三才図会﹄の著者が、︿けだし竜宮竜女等の事、仏経および神書往々これを言う、更に論ずるに足らず﹀と結んで居るが、一概に論ずるに足らずと斥けては学問にならぬ、仍よってこれから、秀郷の竜宮入りの譚の類話と、系統を調査せんに、まず瑣さま末つな諸点から始めるとしよう。 ﹃氏郷記﹄に、少すこ時しの間まで早く物を煮得る鍋を、宝物に数えたり、秀郷の子孫に限り、陣中女房を召し仕わざる由を特書したので、件くだんの竜宮入りの譚は、早鍋世に極めて罕まれに、また中古の欧州諸邦と等しく、わが邦でも、軍旅に婦女を伴れ行く風が存した時代に出来たと知らる。今も所により、米こめ升のますを洗うを忌むごとく、何かの訳で俵の底を叩くを忌んだのに附会して、ある女房俵の底叩いて蛇を出したと言い出したのであろう。外国にも、米と竜と関係ある話がある。これは蛇が鼠を啖くろうて、庫を守るより出た事か、今も日本に米倉中の蛇を、宇賀神など唱え、殺すを忌む者多し。 ﹃外国事﹄にいう、毘ひ呵か羅ら寺に神竜ありて、倉中に往来す、奴米を取る時、竜却ひっ後こむ、奴もし長く取れば竜与えず、倉中米尽くれば、奴竜に向い拝すると、倉即やがて盈みち溢あふる︵﹃淵鑑類函﹄四三七︶。﹃高僧伝﹄三に、︿迦か施し国白耳竜あり、毎つねに衆僧と約し、国内豊熟せしむ、皆信効あり、沙門ために竜舎を起す、並びに福食を設け、毎に夏げ坐ざの訖おわるに至り、竜すなわち化して一少蛇と作なる、両耳ことごとく白し、衆咸みなこれ竜と識しる、銅どう盂うを以て酪を盛る、竜を中に置き、上座より下に至りてこれを行くこと遍し、すなわち化し去る、年すなわち一たび出づ、法顕また親しく見る﹀。 ある蛇どもが乳を嗜む事は、一九〇七年版、フレザーの﹃アドニス篇﹄に載せて、蛇を人間の祖先と見立てた蛮人が、祖先再生までの間これを嬰みど児りご同様に乳育するに及んだのだろうとあるを、予実例を挙げて、蛇が乳を嗜むもの多きより、これを崇拝する者乳を与うるのだと駁ばくし置いた︵一九〇九年﹃ノーツ・エンド・キーリス﹄十輯十一巻、一五七―八頁︶。蛇また竜が豊作に縁ありてふ事は、フレザーのかの書五九頁、一九一一年版﹃エンサイクロペジア・ブリタニカ﹄二十四、蛇崇拝の条等に見ゆ。ここに面白きは、ハクストハウセンの﹃トランスカウカシア﹄に載せた伝説﹁米の発見﹂てふ奴やつだ、いわくアブラハムの子シャー・イスマエル既に全世界を従え、大洋を囲んで無数の軍兵に、毎人一桶ずつ毎日その水を汲くませ、以て大海を乾ほし涸からそうと懸った、かくて追々海が減る様子を、海の民が海王に告げると、王彼らに﹁敵軍水を汲むに急ぎおるか、徐そろ々そろ行やりおるか見て来い、急いで行りおるなら、彼らはほどなくへこ垂たれるはずだ、徐々行やっておるなら、われら降参して年貢を払わにゃならぬ﹂と言った。これ誠に名言で、内典にも大施太子、如意宝珠を竜宮に得、海を渡って少まど眠ろむ内、諸竜にその珠を盗まれしが、眼覚めて、珠を復とりかえさずばついに空しく帰らじと決心し、一の亀甲を捉とって海水を汲み涸ほさんとした。海神問うらく、海水深庭三百三十六万里、世界中の民ことごとく来て汲んだって減らぬに限きまった物を、汝一身何ぞ能く汲み尽くし得べきと。太子対こたえて、︿もし人至心にして所作事あるを欲せば、弁ぜざるなし、我この宝を得まさに用いて一切群生を饒益し、この功徳を以て用いて仏道を求むべし、わが心懈おこたらず、何を以て能わざる﹀と言ったので、海神その精進強力所作に感じ、珠を還し、その根性強さでは、汝必ず後身成じょ道うどうすべき間、その時必ず我を弟子にしてくれと頼んだ、大施太子は今の釈迦で、海神は離越これなりとある︵﹃賢愚因縁経﹄八︶。 さて、海王が視みに遣った民が還って、陸王は海を汲むに決して急がず、毎卒日に一桶ずつ汲むと告げたので、海王しからば降参と決し、使をシャーに遣わした。その使の言語一向分らぬから、シャーこれを牢舎し、一婦をその妻として同棲せしめると子が出来た、その子七歳になり、海陸両世界の語を能くすから、これを通弁として、海王の使がシャーの前に出で、海王降参の表しる示しとして、何を陸王に献たてまつるべきやと問うと、百ガルヴァルだけ糧か食てを上たてまつれと答う。使これを海王に報ずると、大いに困って、われは大海所有一切の宝を献るべきも、百ガルヴァルてふ莫大の食料は持たぬといった。百ガルヴァルは、日本の二四一九貫二〇〇匁で、大した量でないがこの話成った頃の韃タタ靼リアでは、莫大な物だったのだ。そこでシャー、しからば五十ガルヴァルはと問うと、海王それも出来ぬから、自分の后と諸むす公めど主もを進まいらそうと答えた。このシャー女嫌いと見え、しからば二十五ガルヴァルはというと、それだけなら何とか拵こしらえて見ますと言って献った、その海王の粮かてというは稲で、もとより水に生じ、陸に生きなんだが、この時より内地諸湖の際に植えられたとある。 秀郷が、竜宮から得た巻絹や俵米は尽きなんだが、一朝麁そこ忽つな扱いしてから出やんだちゅう談に似た事も、諸邦に多い。﹃五雑俎﹄十二に、︿巴東寺僧青磁碗を得て、米をその中に投ず、一夕にして満盆皆米なり、投ずるに金銀を以て皆然しかり、これを聚じゅ宝ほうという、国朝沈万三富天下に甲たり、人言うその家にかの宝盆ありと﹀、これは少し入れると一盃に殖えるので、無尽の米絹とやや趣きが差ちがう。欧州には、金を取れども尽きぬ袋の話多く、例せば一八八五年版クレーンの﹃伊イタ太リア利ン・俗ポピ談ュラル・テールス﹄に三条を出す。﹃近江輿地誌略﹄三九、秀郷竜宮将来の十宝の内に、砂金袋とあるもこの属たぐいだろう。古ギリシアのゼウス神幼時乳育されたアマルティアてふ山羊の角を折ってメリッセウスの娘どもに遺おくり、望みの品は何でもその角中に満つべき力を賦つけた︵スミス﹃希ジク臘ショ羅ナリ馬・オ人ヴ・伝グリ神ーク誌・エ名ンド彙・ローマン・バヨグラフィ・エンド・ミソロジー﹄巻一︶。 仏説に摩ま竭か陀だ国の長者、美麗な男児を生むと同日に、蔵中自おのずから金象を生じ、出入にこの児を離れず、大小便ただ好よく金を出す、阿闍世王これを奪わんとて王宮に召し、件くだんの男名は象護を出だし、象を留むるにたちまち地に没せり、門外に踊り出で、彼を乗せて還った、彼害を怖れ仏に詣り出家すると、象また随い行き、諸僧騒動す、仏象護に教え象に向い、我今こん生じょう分ぶん尽きたれば汝を用いずと言わしむると、象すなわち地中に入ってしまった、仏いわく昔迦かし葉ょう仏ぶつの時、象護の前身一ある塔中菩薩が乗った象の像少しく剥はげたるを補うた功徳で、今生金の大小便ばかり垂れ散らす象を得たとあるが、どんな屁を放ひったか説いていない︵﹃賢愚因縁経﹄十二︶。 ﹃今昔物語﹄六に、天てん竺じくの戒日王、玄奘三蔵に帰依して、種々の財を与うる中に一の鍋あり、入りたる物取るといえども尽きず、またその入る物食う人病なしと見えるが、芳賀博士の参攷本に類話も出処も見えず、予も﹃西域記﹄その他にかかる伝あるを知らぬ、当時支那から入った俗説じゃろう。ヒンズー教の﹃譚カタ流・サ朝リッ海ト・サラガ﹄に、一樵夫夜叉輩より瓶を得、これを持てばどんな飲食も望みのまま出来るが、破われればたちまち消え失せるはずだ、やや久しく独りで楽しんでいたが、ある夜友人を会し宴遊するに、例の瓶から何でも出いで来る嬉しさに堪えず、かの瓶を自分の肩に載せて踊ると、瓶落ち破れて、夜叉のもとへ帰り、樵夫以前より一層侘しく暮したと出いづ。アイスランドの伝説に、何でも出す磨ひきうすを試すとて塩を出せと望み挽くと、出すは出すは、磨動きやまず、塩乗船に充みち溢あふれて、ついにその人を沈めたとあり。﹃酉陽雑俎﹄に、新羅国の旁ぼう※い﹇#﹁施のつくり﹂、U+340C、138-7﹈ちゅう人、山中で怪小児群が持てる金きん椎のつ子ちが何でも打ち出すを見、盗み帰り、所のぞ欲みのもの撃つに随って弁じ、大富となった、しかるにその子孫戯れに狼の糞を打ち出せと求めた故、たちまち雷震して椎子を失うたと見ゆるなど、いずれも俵の底を叩いて、米が出やんだと同じく、心なき器どう什ぐも侮らるると瞋いかるてふ訓戒じゃ。 それから、竜神が秀郷に送った無尽蔵の巻絹の因ちなみに、やや似た事を記そう。ハクストハウセン︵上に引いた書︶がペルシアの俗談と書いたは、支那の伏羲流さす寓らえて、ある富んだ婦人に宿を求めると、卑さげ蔑すんで断わられた。次に貧婦の小こ舎やを敲たたくと、歓び入れてあるたけの飲おん食じきを施し、藁の床に臥さしめ、己は土上に坐し終夜眠らず、襦袢を作って与え、朝食せしめて村外れまで送った。伏羲嬉しさの余り、その婦に汝が朝手初めに懸った業は、まで続くべしと祝うて去った。貧婦帰ってまず布を度さし始めると、夕まで布尽きず、跡から跡から出続いたので、たちまち大富となった。夜前伏羲を断わった隣の富家の婦聞いて大いに羨うらやむと、数月の後伏羲また村へ来た、かの婦強しいて自宅へ迎え取り食を供し、夜中自室へ蝋燭点ともし通夜仕事すると見せ掛け、翌朝予かねて拵え置いた襦袢を呈し、食を供えて送り出すと、伏羲前度のごとく祝した。悦んで帰宅の途中、布を度さす事のみ念じて宅へ入る刹せつ那な、自家の飼牛が吼ほえる、水を欲しいと見える、布を量る前に水を遣らんと水を汲んで桶から槽ふねに移すに、幾時経っても、桶一つの水が尽きず、夥しく出続き家も畠も沈み、牛畜溺死し、村民大いに怒り、かの婦わずかに身を以て免のがれたとある。 一六一〇年頃出たベロアル・ド・ヴェルヴィルの﹃上ル・達モヤ方ン・ド・パーヴニル﹄三九章にも似た話あって遥ずっと面白い。いわくマルサスのバラセ町へ貧僧来り、富家に宿を求めると、主婦無情で亭主慳けん貪どんの由言って謝絶した。次に貧家へ頼むと、女房至誠懇待到らざるなかったので、翌朝厚く礼を述べ、宿銭持たぬは残念と言うと、金が欲しさに留めたでないと言う、因って神に祈って、汝が朝し始めた事は何でも晩まで続くべしと祝して去った、女房一向気に留めず、昨日拡げ置いた布を巻き掛けると、巻いても巻いても巻き尽きず、手が触さわるごとに殖えて往く、ところへかの僧を門前払いにした婦やって来て、仔細を聞き、追い尋ねてやっとかの僧を見附け、わが夫の性がころりと改まったから、今夜情どう願ぞ拙宅へと勧めると、勤ごん行ぎょうが済み次第参ろうとあって、やがてついて一泊し、明朝出立に臨み前夜通りの挨拶の後、僧また汝が朝始めた業は昏くれまで続くべしと言って去った。待ってましたと、大おお忙いそぎで下女に布を持ち来らしめ、度さしに掛かろうとすると、不思議や小便たちまち催して、忍ぶべうもあらず、これは堪たまらぬ布が沾ぬれると、庭へ飛び下りて身を屈かがむる、この時遅くかの時早く、行ゆく尿ししの流れは臭くして、しかも尋常の水にあらず、淀よどみに浮ぶ泡うた沫かたは、かつ消えかつ結びて、暫しば時しも停とどまる事なし、かの﹁五さみ月だ雨れに年中の雨降り尽くし﹂と吟よんだ通り、大声々驟ゆう雨だちの井を倒さかさにするごとく、小声切々時しぐ雨れの落葉を打つがごとく、とうとう一の小河を成して現存すとは、天あっ晴ぱれな吹きぶりじゃ。 ﹃氏郷記﹄に、竜宮から来た竜二郎、竜八の二子孫必ず身に鱗ありとは、垢あかが溜り過ぎたのかという人もあらんが、わが邦の緒方の三郎︵﹃平家物語﹄︶、河野道清︵﹃予章記﹄︶、それから松村武雄氏の祖︵﹃郷土研究﹄二巻一号、二四頁︶など、いずれも大蛇が婦人に生ませた子で、蛇鱗を具そなえいたと伝え、支那隋の高祖も竜の私生児でもあった者か、︿為ひと人となり竜顔にして、額上五柱八項あり、生まれて異あり、宅旁の寺の一尼抱き帰り自らこれを鞠やしなう、一日尼出で、その母付き自ら抱く、角出で鱗起たち、母大いに驚きこれを地に墜す、尼心大いに動く、亟いそぎ還りこれを見て曰く、わが児を驚かし、天下を得るを晩おそからしむるを致す﹀。﹃続群書類従﹄に収めた﹁稲荷鎮座由来﹂には、荷田氏の祖は竜頭太とて、和銅年中より百年に及ぶまで稲荷山さん麓ろくに住み、耕田採薪した山神で、面竜のごとく、顔光ありて夜を照らす事昼に似たり、弘法大師に約して長くこの地を守る、大師その顔を写して、当社の竈戸殿に安置すと見ゆ。既に竜顔といえば鱗もあったるべく、秀郷に従うた竜二郎竜八は、この竜頭太に傚なろうて造り出されたものか、一八八三年版、ムラの﹃柬ル・埔ロヨ寨ーム王・ジ国ュ・誌カンボジュ﹄二に、昔仏阿あな難んを従え、一島に至り、トラクオト︵両舌ある大おお蜥とか蜴げ︶の棲める大樹下に、帝たい釈しゃく以下天竜八部を聚あつめて説法せし時、余くい食のこしをトラクオトに与え、この蜥蜴はわが説法を聴いた功徳により、来世必ず一国の王とならん、しかしその国の人民、皆王の前身舌二枚ある蜥蜴たりし業むく報いにかぶれ、いずれも不信実で、二枚舌使う者たるべしといったが、この予言通り、カンボジア人は不正直じゃと出いづ。これは竜の子孫に鱗の遺伝どころか、両舌竜の後身に治めらるる国民全体までも、両舌の心性を伝染したのだ。﹃大摩里支菩薩経﹄に、︿酥枳竜口より二舌出いづ、身弦線のごとし﹀とあるのは、トラクオトなどより転出した物か、アリゾナのモキス人、カシュミルの竜種人など、竜蛇の子孫という民族所々にある、これらも昔は鱗あるといったのだろう。 それから﹃氏郷記﹄に、心ここ得ろえ童のど子うじ主人の思う事を叶かなえて久しく仕えしが、後に強きつう怒られて失うせしとかやとあるは、﹃近江輿地誌略﹄に、竜宮から十種の宝を負い出でたる童を如にょ意いと名づけ、竜次郎の祖先だとあると同人で、如意すなわち主人の意のごとく万事用を達すから心得童子と釈といたのであろう。﹃今昔物語﹄に、支那の聖人宮く迦が羅ら、使者をして王后を負い来らしめ、犯して妊はらませた話あり。唐の金剛菩提三蔵訳﹃不動使者陀羅尼秘密法﹄に、不動使者を念ねん誦じゅして駆使せば、手を洗い楊よう枝じを取るほどの些事より、天に上り山に入るまで、即刻成就せしむ、天女を将もち来らしむるもたちまち得、何ぞいわんや人間界の人や物や飲食をやとあり。﹃部多大教王経﹄には、真言で部ヴェ多ーターラ女を招き妹となし、千由ゆじ旬ゅん内に所要の女人を即刻取り来らしむる法あり。﹃大宝広博秘密陀羅尼経﹄には、随心陀羅尼を五万遍誦せば、※﹇#﹁女+綵のつくり﹂、U+5A47、142-3﹈女王后を鈎召し得とあり。﹃不空羂索陀羅尼経﹄に、緊こん羯が羅ら童子を使うて、世間の新聞一切報告せしむる方を載せ、この童子用なき日は、一百金銭を持ち来り、持呪者に与う、しかしその銭は仏法僧のために用つかい却はたし、決して吝おしんじゃいけないとは、例の坊主勝手な言で、果してさようなら、持呪者は只ただ働ばたらきで余り贏もう利けにならぬ、この緊羯羅は瞋面怒目赤黄色狗牙上に出で、舌を吐いて唇を舐め、赤衣を着たという人相書で、これに反し制せい迦たかは、笑面黄白色の身相、人意を悦ばしむと見ゆ。この者も持呪者のために一切の要いる物ものを持ち来り、不快な物を除のけ去り、宅い舎えを将ち来り掃そう灑じし、毒害も及ぶ能わざらしめるなど至極重宝だが、持呪者食時ごとに、まず飲食をこれに与え、また花香花けま鬘ん等を一日欠かさず供えずば、隠れ去って用を為なさぬとある。 ﹃不動使者陀羅尼秘密法﹄に、︿不動使者小童子形を作なす、両種あり、一は矜こん禍が羅らと名づく︵すなわち宮く迦が羅ら︶、恭敬小心の者なり、一は制迦と名づく、共に語らい難く、悪性の者なり、なお人間悪性の下にありて、駆使を受くといえども、常に過失多きがごときなり﹀。﹃亜アラ喇ビヤ伯ンナ夜イ譚ツ﹄に名高いアラジンが晶ラン燈プさえ点とぼせば現れた如意使者、グリンムの童話の廃兵が喫きつ烟えんするごとに出て、王女を執り来った使者鬼など、万事主人の命に随うたが、﹃今昔物語﹄の宮迦羅同前、余りに苛酷に使えば怒りて応ぜず、また幾度も非行をし過すに、不同意だったと見える。秀郷の心得童子が、主人の子孫に叱られて消え去ったは、全く主人の所望にことごとく応ぜなんだ故で、矜こん羯が羅らよりは制せい迦たかに近い、かかる如意使者は、欧州の巫ふ蠱こ︵ウィチクラフト︶また人類学にいわゆるファミリアール︵眷属鬼︶の一種で、諸邦眷属鬼については、﹃エンサイクロペジア・ブリタンニカ﹄一九一〇年版、六巻八頁に説明あり。 一九一四年版、エントホヴェンの﹃グジャラット民フォ俗ーク記ロール・ノーツ﹄六六頁に、昔インドモヴァイヤの一農、耕すごとに一童男被髪して前に立つを見、ある日その髪を剪きり取ると、彼随い来って復さん事を切願すれど与えず、髪を小あず豆きい納れの壺中に蔵かくす。爾来彼童僕となって田作す、そのうち主人小豆蒔まくとて、童をして壺つぼより取り出さしむると、自分の髪を見附け、最いと重き小豆一荷持って主人に詣いたり、告別し去った、この童はブフット鬼だったという。ブフットすなわち上に引いた部ヴェ多ータラかと思うが、字書がなき故ちょっと判らぬ、とにかくこれも如意使者の一種、至って働きのない奴やつに相違ない。 これでまず竜宮入り譚の瑣さま末つな諸点を解いたつもりだ。これより進んでこの譚の大体が解るよう、そもそも竜とは何物ぞという疑問を釈こう。竜とは何ぞ
昔孔子老ろうを見て帰り三日談かたらず、弟子問うて曰く、夫ふう子し老を見て何を規ただせしか、孔子曰く、われ今ここにおいて竜を見たり、竜は合おうて体を成し散じて章を成す、雲気に乗じて陰陽は養わる、予われ口張って※あ﹇#﹁口+脅﹂、U+55CB、144-4﹈う能わず、また何ぞ老を規さんや︵﹃荘子﹄︶。﹃史記﹄には、︿孔子去ゆきて弟子にいいて曰く、鳥はわれその能く飛ぶを知り、魚はわれその能く游およぐを知り、獣はわれその能く走るを知る。走るものは以て罔あみを為すべし、游ぐものは以て綸いとを為すべし、飛ぶものは以てを為すべし。竜に至ってわれ知る能わず、その風雲に乗りて天に上るを。われ今日老子に見まみゆ、それなお竜のごときか﹀とある、孔子ほどの聖人さえ竜を知りがたき物としたんだ。されば史書に、︿太たい昊こう景竜の瑞あり、故に竜を以て官に紀す﹀、また︿女じょ黒竜を殺し以て冀きし州ゅうを済すくう﹀、また︿黄帝は土徳にして黄竜見あらわる﹀、また︿夏は木徳にして、青竜郊に生ず﹀など、吉凶とも竜の動静を国務上の大事件として特筆しおり、天子の面を竜顔に比し、非凡の人を臥竜と称えたり。漢高祖や文帝や北魏の宣武など、母が竜に感じて帝王を生んだ話も少なからず。かくまで尊ばれた支那の竜はどんな物かというに、﹃本草綱目﹄の記載が、最いと要を得たようだから引こう。いわく、︿竜形九似あり、頭駝に似る、角鹿に似る、眼鬼に似る、耳牛に似る、項蛇に似る、腹蜃に似る︵蜃は蛇に似て大きく、角ありて竜状のごとく紅鬣、腰以下鱗ことごとく逆生す︶、鱗鯉に似る、爪鷹に似る、掌虎に似るなり、背八十一鱗あり、九々の陽数を具え、その声銅盤を戞うつがごとし、口旁に鬚髯あり、頷下に明珠あり、喉下に逆鱗あり、頭上に博山あり、尺水と名づく、尺水なければ天に昇る能わず、気を呵して雲を成す、既に能く水と変ず、また能く火と変じ、その竜火湿を得ればすなわち焔もゆ、水を得ればすなわち燔やく、人火を以てこれを逐えばすなわち息やむ、竜は卵生にして思抱す﹀︵思抱とは卵を生んだ親が、卵ばかり思い詰める力で、卵が隔たった所にありながら孵かえり育つ事だ。インドにもかかる説、﹃阿あび毘だつ達まく磨し倶ゃ舎ろ論ん﹄に出いづ、いわく、︿太海中大衆生あり、岸に登り卵を生み、沙内に埋む、還りて海中に入り、母もし常に卵を思えばすなわち壊こぼたず、もしそれ失念すれば卵すなわち敗亡す﹀、これ古人が日熱や地温が自ずから卵を孵すに気付かず、専ら親の念力で暖めると誤解するに因る︶、︿雄上風に鳴き、雌下風に鳴く、風に因りて化す﹀︵親の念力で暖め、さて雄雌の鳴き声が風に伴つれて卵に達すれば孵るのだ、﹃類函﹄四三八に、竜を画えがく者の方かたへ夫婦の者来り、竜画を観みた後、竜の雌雄状さま同じからず、雄は鬣たてがみ尖り鱗うろこ密に上かみ壮ふとく下しも殺そぐ、雌は鬣円く鱗薄く尾が腹よりも壮ふといといい、画師不服の体を見て、われらすなわち竜だから聢たしかに見なさいといって、雌雄の竜に化なって去ったと出いづ、同書四三七に、斉の盧潜竜鳴を聞いて不吉とし城を移すとあり、予も鰐鳴を幾度も聞いた︶、︿その交つるむときはすなわち変じて二小蛇と為なる、竜の性粗猛にして、美玉空ぐん青じょうを愛めづ、喜んで燕肉を嗜む︵ローランの﹃仏フォ国ーン動・ポ物ピュ俗レー談ル・ド・フランス﹄巻二、三二二頁に、仏国南部で燕が捷く飛び廻るは竜に食わるるを避けてなりと信ぜらるとある︶、鉄および※もう草そう﹇#﹁くさかんむり/罔﹂、U+83F5、146-2﹈蜈蚣楝せん葉だんのは五色糸を畏る、故に燕を食うは水を渡るを忌み、雨を祀るには燕を用う、水患を鎮むるには鉄を用う、﹃説文﹄に竜春分に天に登り、秋分に淵に入る﹀。 支那に劣らずインドまた古来竜を神視し、ある意味においてこれを人以上の霊物としたは、諸経の発端毎つねに必ず諸天神とともに、諸竜が仏を守護聴聞する由を記し、仏の大弟子を竜象に比したで知れる。﹃大方等日蔵経﹄九に、︿今この世界の諸池水中、各おのおの竜王ありて停とど止まり守護す、娑伽羅等八竜王のごときは、海中を護り、能く大海をして増減あるなからしむ、阿あぬ奴た駄っ致ち等四竜王、地中を守護し、一切の河を出だす、流れ注ぎて竭きることなし、難なん陀だ優うば波な難ん陀だ二竜王、山中を守護するが故に、諸山の叢林鬱茂す云々、毘びり梨し沙ゃ等、小河水にて守護を為す﹀。それから諸薬草や地や火や風や樹や花や果や、一切の工てわ巧ざや百般の物を護る諸竜の名を挙げおり、﹃大だい灌かん頂じょ神うし呪んじ経ゅきょう﹄に三十五、﹃大雲請雨経﹄に百八十六の竜王を列ならべ、﹃大方等大雲経﹄には三万八千の竜王仏説法を聴くとあり、﹃経律異相﹄四八に、竜に卵生・胎生・湿生・化生の四あり、皆先身瞋はら恚たて心こころ曲まがり端たん大だいならずして布施を行せしにより今竜と生まる、七宝を宮となし身高四十里、衣の長さ四十里、広さ八十里、重さ二両半、神力を以て百味の飲おん食じきを化成すれど、最後の一口変じて蝦が蟇まと為なる、もし道心を発し仏僧を供養せば、その苦を免れ身を変じて蛇へびと為るも、蝦蟇と金こん翅じち鳥ょうに遭わず、※げんだ﹇#﹁︵口+口︶/田/一/黽﹂、U+9F09、146-16﹈魚ぎょ鼈べつを食い、洗ゆあ浴み衣服もて身を養う、身相触れて陰陽を成す、寿命一劫あるいはそれ以下なり、裟さが竭ら、難陀等十六竜王のみ金翅鳥に啖われずとある。金翅鳥は竜を常食とする大鳥で、これまた卵胎湿化の四生あり、迦か楼る羅ら鳥王とて、観音の伴つれ衆しゅ中に、烏から天すて狗んぐ様に画かれた者だ。これは欧州やアジア大陸の高山に住む、独語でラムマーガイエル、インド住英人が金ゴル鷲ズン・イーグルと呼ぶ鳥から誇大に作り出されたらしい、先身高慢心もて、布施した者この鳥に生まる。 ﹃僧護経﹄にいわく竜も豪えらいが、生まるる、死ぬる、婬する、瞋いかる、睡ねむる、五いつ時つのときに必ず竜身を現じて隠す能わず。また僧護竜宮に至り、四竜に経を教うるに、第一竜は黙って聴きき受とり、第二竜は瞑ねむ目りて口くじ誦ゅし、第三竜は廻あと顧みて、第四竜は遠へだ在たって聴きき受とった、怪しんで竜王に向い、この者ら誠に畜生で作法を弁えぬと言うと、竜王そう呵しかりなさんな、全く師しの命いのちを護らん心掛けだ、第一竜は声に毒あり、第二竜は眼に毒あり、第三竜は気に、第四竜は触さわるに毒あり、いずれも師を殺すを虞おそれて、不作法をあえてしたと語った。また竜の三患というは、竜は諸鱗虫の長で、能く幽に能く明に、能く大に能く小に、変化極まりなし、だが第一に熱風熱沙毎いつもその身を苦しめ、第二に悪風暴にわかに起れば身に飾った宝衣全く失わる、第三には上に述べた金翅鳥に逢うと死を免れぬ、それから四事不可思議とは、世間の衆生いずこより生れ来り、死後いずこへ往くか判らぬ、一切世界衆生の業ごう力りきに由よりて成り、成っては壊くずれ、壊れては成り、始終相続いて断絶せぬ、それから竜が雨を降らすに、口よりも眼鼻耳よりも出さず、ただ竜に大神力ありて、あるいは喜びあるいは怒れば雨を降らす、この四をいうのじゃ︵﹃大明三蔵法数﹄十一、十八︶。 ﹃正法念処経﹄にいわく、瞋おこ痴りど多お行しの者、大海中に生まれて毒竜となり、共に瞋悩乱心毒を吐いて相害し、常に悪業を行う。竜が住む城の名は戯けら楽く、縦横三千由ゆじ旬ゅん、竜王中に満つ、二種の竜王あり、一は法行といい世界を護る、二は非法行で世間を壊やぶる、その城中なる法行王の住所は熱砂雨ふらず、非法行竜の住所は常に熱沙雨ふり、その頂あり、延ひいて宮殿と眷属を焼き、全滅すればまた生じて不断苦しみを受く、法行竜王の住所は七宝の城郭七宝の色光あり、諸池水中衆花具足し、最上の飲おん食じきもて常に快楽し、妙衣厳飾念おもうところ随意に皆あり、しかれどもその頂上常に竜蛇の頭あるを免れぬとある。今も竜王の像に、必ず竜が頭から背中へ噛かじり付いたよう造るは、この本文を拠よりどころとしたのだろ。さて竜に生まるるは、必ずしも瞋ばか痴におこった者に限らず、吝け嗇ちな奴も婬乱な人も生まれるので、吝けちな奴が転生した竜は相変らず慳しわく、婬みだらなものがなった竜は、依然多淫だ。面倒だが読者が悦ぶだろから、一、二例を挙げよう。 ﹃大だい毘びる盧しゃ遮なか那じ加き持ょ経う﹄に、人の諸心性を諸動物に比べた中に、広大なる資財を思念するを竜心と名づけた。わが邦で熊鷹根生というがごとし。今日もインドで吝しわ嗇んぼ漢う嗣子なく、死ねば蛇と化なって遺財を守るという︵エントホヴェン輯﹃グジャラット民フォ俗ーク記ローアノーツ﹄一一九頁︶。すべてインドで財を守る蛇はナガ、すなわち載コブ帽ラ・蛇デ・カペロで、多くの場合に訳経の竜と相通ずる奴だ︵後に弁ずるを読まれよ︶。﹃賢愚因縁経﹄四に、波羅奈国の人苦心して七瓶金を蓄え、土中に埋み碌ろくに衣食せず病死せしが、毒蛇となってその瓶を纏まとい数万歳を経つ、一朝自ら罪重きを悟り、梵ぼん志しに托し金を僧に施して、蛇身を脱のがれ天に生まれたとあり。﹃今昔物語﹄十四なる無空律師万銭を隠して蛇身を受けた話、また聖武天皇が一夜会いたまえる女に金こがね千両賜いしを、女死に臨み遺言して、墓に埋めしめた妄執で、蛇となって苦を受け、金を守る、ところを吉きび備のお大と臣どかの霊に逢いて仔細を知り、掘り得た金で追善したので、蛇身から兜とそ率つて天んへ鞍くら替がえしたちゅう話など、かのインド譚から出たよう、芳賀博士の攷証本に見るは尤も千万だ。降って﹃因果物語﹄下巻五章に、僧が蛇となって銭を守る事二条あり。﹃新しん著ちょ聞もん集じゅう﹄十四篇には、京の富人溝へ飯を捨つるまでも乞食に施さざりし者、死後蛇となって池に住み、蓑みの着たように蛭ひるに取り付かれ苦しみし話を載す。 婬乱者が竜と化なった物語は、﹃毘奈耶雑事﹄と﹃戒因縁経﹄に出で、話の本人を妙光女とも善光女とも訳し居るが、概要はこうだ。室スラ羅ヴァ伐スチ城の大長者の妻が姙はらんだ日、形か貌お非常に光つ彩やあり、産んだ女児がなかなかの美人で、生まるる日室内明照日光のごとく、したがって嘉かせ声い城じょ邑うゆうに遍あまねかった。しかるところ相師あり、衆と同じく往き観て諸人に語る、この女後まさに五百男子と歓愛せんと、衆曰くかかる尤べっ物ぴんは五百人に愛さるるも奇とするに足らずと、三さん七しち日にち経て長者大歓会を為なし、彼女を妙光と名づけた。ようやく成長して容すが華た雅みや麗びやかに、庠ぎょ序うぎ超すぐ備れ、伎楽管絃備わらざるなく、もとより富家故出来得るだけの綺羅を飾らせたから、鮮明遍照天女の来降せるごとく、いかな隠遁仙人離欲の輩も、これを見ればたちまち雲を踏み外す事受け合いなり、いかにいわんや無始時来煩ぼん悩のうを貯え来った年少丈夫、一いち瞥べつしてすなわち迷惑せざらんと長口上で讃ほめて居るから、素すて覿き無類の美女だったらしい。諸国の大王、太子、大臣等に婚を求めたが、相師の予言を慮おもんぱかり、彼ら一向承引せず、ただ彼女を門窓戸こゆより窺う者のみ多くなり、何とも防ぎようがないので、長者早く娘を嫁せんとすれど求むる者なし。時に城中に一長者ありて、七度妻を娶めとりて皆死んだので、衆人綽あざ号なして殺婦と言った。海安寺の唄に﹁虫も殺さぬあの主ぬし様さまを、女殺しと誰言うた﹂とあるは、女の命を己れに打ち込みおわらしむてふ形容詞だが、今この殺婦は正銘の女殺しの大先生たるを怖れ、素女はもちろん寡婦さえ一人も取り合わぬ。相師の一言のおかげで、かかる美容を持ちながら盛りの花を空むだに過さしむるを残念がって、請わるるままに父が妙光を殺婦に遣った心の中察するに余りあり。 殺婦長者既に多くの妻を先立てし罪業を懼おそれ、新妻を娶ると直すぐさま所あら有ゆる鎖じょ鑰うかぎを彼女に附わたし、わが家の旧法仏僧に帰依すれば、汝も随時僧に給事して、惰おこたるなかれというた。爾来僧を請ずるごとに、妙光が自手給事するその間、美僧あれば思い込んで記おぼえ置く。ある日長者外出するとて、わが不在中に僧来らば必ず善く接待せよと言って置き、途上数僧に逢うて、われは所用あって失敬するが、家に妻が居る故必ず食を受けたまえというたので、僧その家に入ると、妙光たちまち地金を露あらわし、僧の前にその姿態嬌媚の相を作なす。僧輩無事に食い了おわって寺に還り、かかる所へ往かぬが好かろうと相戒めて、明日より一僧も来ない。長者用済み還って妻に問うに、主が出で往った日来た限り、一僧も来らずと答う、長者寺に往って問うに、われら不ふに如ょほ法うの家に入らぬ定めだと対こたう。長者今後は必ず如法に請ずべければ何分前通りと切願して、僧輩も聞き入れ、他日来て食を受く、長者すなわち妙光を一室に鎖とじ閉こめ、自ら食を衆僧に授くるその間、妙光室内でかの僧この僧と、その美貌を臆おもい出し、極めて愛あい染ぜんを生じ、欲火に身の内外を焼かれ、遍体汗流れて死んだ。長者僧を供養しおわり、室を開けて見れば右の始末、やむをえず五色の氈せんもてその屍を飾り、葬送して林中に到る。折おり悪あしく五百群賊盗みし来って、ここに営しいたので、送葬人一同逃げ散った。群賊怪しんで捨て去られた屍を開き、妙光女魂既に亡うせたりといえども、容儀儼然活けるがごとく、妍けん華か平生に異ならざるを覩み、相あいいいて曰く、この女かくまで美艶にして、遠く覓もとむるも等類なしと、各々染ぜん心しんを生じ、共に非法を行いおわって、礼金として五百金銭を屍の側において去った。天よあ明けに及び、四方に噂うわさ立ち皆いわく、果して相師の言のごとく、妙光女死すといえども、余骸なお五百人に通じ、五百金銭を獲たと。妙光死して天竺の北なる毘びた怛と吐せ泉んの竜となり、五百牡竜来って共に常にこれに通じた。世尊諸比び丘くに向いその因縁を説きたまわく、昔迦かし葉ょう仏ぶつ入滅せるを諸人火葬し、舎しゃ利りを収め塔を立てた時、居こじ士のじ女ょ極めて渇仰して明鏡を塔の相輪中に繋つなぎ、願わくはこの功徳もて後身世々わがある所の室へ処や光明照耀日光のごとく、身に随つれて出ん事をと念じた。その女の後身が妙光女で、願の趣聞き届けられて、居所室内明照日光のごとくだった。かく赫かが耀やきながら幾度も転うま生れかわる中、梵授王の世に、婆羅尼斯城の婬女に生まれ賢善と名づけ、顔容端正人の見るを楽よろこぶ。ところで予かねて王の舅しゅうとと交通した。ある時五百の牧うし牛か人い芳園で宴会し、何とよほど面白いが、少女の共に交歓すべきを欠くは残念だ、一人呼んで来るが好いい、誰が宜よかろうと言うと、皆賢善女賛成と一決し、呼びに行くと、かの婬女金銭千文くれりゃ行こう、くれずば往かぬというたので、まず五百金銭を与えて歓を得、戯れ済んでまた五百金銭を渡せば如いか何んといい、婬女承諾して五百銭を受け、汝ら先往きて待ちおれ、我飾みじまいして後より行こうという。衆去りて後婬女われかく多勢を相手に戯れては命が続かぬ、何とか脱のがれようをと案じて、かつて相あい識しった王舅に憑たのみて救済を乞わんと決心し、婢をして告げしめしは、かくかくの次第で、妾迂うか闊つの難題を承諾したが、何が何でも五百人は一身で引き受けがたい、さりとて破談にせば倍にして金を返さにゃならず、何とか銭も返さず身をも損ぜぬよう計らいくだされたいと頼むと、平常悪にくからぬ女のこと故、王の力を仮りて女を出さず五百銭をも戻さずに、五百人を巻いてしまわせた。爾その時とき辟へき支しぶ仏つあって城下に来りしを、かの五百牧うし牛か人い供養発願して、その善根を以てたとい彼女身死するとも残金五百銭を与えて、約のごとく彼と交通せんと願がん懸かけした。その業ごう力りきで以来五百生の内、常に五百金銭を与えて、彼女と非法を行うたと仏が説かれた。これで仏の本説は、人の善よき事は善く、悪あしき事は悪しく、箇々報いが来り、決して差し引き帳消してふ事がないと主張するものと判る。すなわち鏡を捧げた功徳で発願通り飛び切りの別べっ嬪ぴんに生まれるが、他の業むく報いで娼妓に生まるるを免れず、娼妓営業中五百人を欺いた報いで、牧牛人輩の発願そのまま、五百金銭を与えて死骸を汚さるるを免れぬは、大功は小罪を消し一善は一悪を滅すと心得た今日普通の業報説と大いに差ちがうようで、こんな仏説を呑み込み過ぎると、重悪を犯した者は、小善を治めても及び着かぬてふ自や暴け気ぎ味みを起すかも知れず、今日の小乗仏教徒に、余り大事業大功徳を企つる者なきは多少この理由にも基づくなるべし。 アドルフ・エルトンの﹃世ライ界セ・周ウム遊・ジ記ェ・エルデ﹄︵一八三八年版、二巻一三頁︶に、シベリアの露人が、新年に試みる指環占の中、竜てふ名号をいう事あるにより、この占うら法かたは蒙古より来れりと断じた。これは蒙古はインドと支那の文物を伝え、この二国が竜の崇拝至って盛んだから、竜てふ名号は蒙古を経て、二国よりシベリアに入ったとの推定であろう。予はこの推定を大略首肯するに躊躇せぬ。しかしかかる物を読んで、竜をアジアの一部にのみ流おこなわれた想像動物と信ずる人あらば、誤解も甚だしく、実は竜に関する信念は、インドや支那とその近傍諸国に限らず、広く他邦他大州にも存したもので、たとえば、ニューギニアのタミ人元服を行う時、その青年必ず一度竜に呑まるるを要し︵一九一三年版、フレザー﹃不死の信ゼ・念ビリーフ・イン・インモータリチー﹄一巻三〇一頁︶、西北米のワバナキインジアンに、竜角人頭に著つきて根を下ろし、伐きれども離れぬ話広く行われ︵﹃万トラ国ンサ亜クチ米ョン利・ジ加ュ・学コン者グレ会ス・報アンターナチョナル・デー・アメリカニスト﹄一九〇六年、クェベック版、九二頁︶、西人がメキシコを発見せぬ内、土人が作った貴石のモザイク品に、背深緑、腹真紅、怒眼、鋭牙、すこぶる竜に似たものが大英博物館にあったので、予これは歌川派画工が描いた竜を擬まねたのだろと言うと、サー・チャーレス・リードが、聢しっかり手に執って見よというから、暫しばらく審査すると、全く東半球に産せぬ響ラッ尾トル蛇・スネークの画の外相だけ東洋の竜に酷よく似たと判った。しかるにその後、仏人サミュール・ド・シャムプレーンの﹃一五九九―一六〇二年西印度および墨西哥﹄︵ナラチヴス・オヴ・ア・ヴォエージ・ツー・ゼ・ウェスト・インジース・エンド・メキシコ、一八五九年英訳︶を見るに、メキシコの響尾蛇の頭に両羽あり、またその地に竜を産し、鷲の頭、蜥とか蜴げの身、蝙こう蝠もりの翹つばさで、ただ二大脚あり。大きさ羊のごとく、姿怖ろしけれど害を為なさぬとあった。因ってかの国にも、古来蛇、蜥蜴などを誇張して、竜の属たぐいの想像動物を拵こしらえあったと知った。濠州メルボルン辺に棲すむと伝えた巨おろ蛇ちミンジは、プンジェル神の命のままに、疱瘡と黒ペス疫トもて悪人を殺すに能よく、最いと高き樹に登り尾もて懸け下り、身を延ばして大森林を踰こえ、どの地をも襲う。また乾こぶ分ん多く、諸方に遣わして疫病を起す。この蛇来る地の人皆取る物も取らず、死人をも葬らず、叢こも榛りに放火して、速やかに走り災を脱れた︵一八七八年版、スミス﹃維ゼ・多アボ利リジ亜ンス生・オ蕃ヴ・篇ビクトリア﹄巻二︶といえる事体、蛇よりは欧亜諸邦の毒竜の話に極めて似居る。例せばペルシアの古史賦﹃シャー・ナメー﹄に、勇士サムが殺した竜は頭か髪みを地にいて山のごとく起り、両の眼宛さな然がら血の湖のごとく、一たびゆれば大地震動し、口より毒を吐く事洪水に似、飛鳥竭つき、奔獣尽き、流水よりを吸い、空中より鷲を落し、世間恐怖もて満たされ、一国のために人口の半ばを喪うしのうたと吹き立て、衆経撰﹃雑ぞう譬ひ喩ゆ経﹄に、昔賈こか客く海上で大竜神に逢う、竜神汝は某国に行くかと問うに、往くと答えると、五升瓶がめの大きさの卵一つを与え、かの国に行かば、これを大木の下に埋めよ、しからざれば殺すぞという。恐ろしくてその通り埋めてより国中疫病多し、王占いてかの蟒ぼう卵らんを掘り出し焼き棄てると疫が息やんだ。後日かの賈客、再び竜に逢って仔細を語ると、奴やつ輩らを殺し尽くさぬは残念というから、その故を問う。我本もとかの国の健児某甲だった。平日力を恃たのんで国中の人民を凌りょ轢うれきせしも、一人としてわれを諫むるなく、為なすがままに放すて置おいたので、死後竜に生まれて苦しみ居る故に、返報に彼らを殺そうとしたのだといった。また、舎衛国に、一日縦横四十里の血の雨ふる。占師曰く、これは人じん蟒ぼうが生まれた兆だ、国中新生の小児をことごとく送り来さしめ、各々一空壺中に唾つばはかしむれば、唾つばきが火となる児がそれだというので試みると、果して一児が人蟒と別った、因ってこれを無ひと人なき処ところに隔離し、死刑の者を与えると、毒を吐いて殺す事前後七万二千人、ある時獅出で来て吼声四十里に達したので人蟒を遣わすに、毒気を吐いてたちまちこれを仆たおした。のち人蟒老いて死せんとする時、仏ぶつ、舎しゃ利りほ弗つして往き勧めて得とく脱だつせしむ。人蟒われいまだ死せざるに、この者われを易あなどり、取次もなしに入り来ると瞋いかって毒気を吐くを、舎利弗慈恵を以て攘はらい、光顔ますます好よく、一毛動かず。人蟒すなわち慈心を生じ、七たび舎利弗を顧みて、往生昇天したとある。竜気を稟うけて生まれてだにこんなだ。いわんや竜自身の大毒遥かに人蟒や蟒卵に駕するをやで、例せば、難なん陀だ波うば難なん陀だ二竜王、各八万四千の眷属あり、禍業の招くところ、悩嫉心を以て、毎日三時その毒気を吐くに、二百五十踰よう膳じゃ那な内の鳥獣皆死し、諸僧静かに度を修する者、皮肉変色憔や悴せ萎しおれ黄ばんだので、仏目もく蓮れんをして二竜を調伏せしめた︵﹃根本説一切有部毘奈耶﹄四四︶。 かく竜てふ物は、東西南北世界中の大部分に古来その話があるから、東洋すなわち和漢インド地方だけの事識れりとて、竜の譚全体を窺うたといわれぬ、英国のウォルター・アリソン・フィリップ氏の竜の説に、すこぶる広く観て要を約しあるから、多少拙註を加えて左に抄訳せり。ついでに述ぶ、前節に相師が妙光女を見て、この女必ず五百人と交わらんといった話を述べたが、一八九四年版ブートン訳﹃亜サッ喇プレ伯メン夜タリ譚ー・補ナイ遺ツ﹄一にも、アラビアで一ある女生まれた時、占婦卜ぼくしてこの女成人して、必ず婬を五百人に売らんと言いしが中あたった事あり、わが邦にも﹃水鏡﹄恵えみ美のお押しか勝つ討たれた記事に﹁また心憂うき事侍はべりき、その大臣の娘座おわしき、色いろ容かたち愛めでたく世に双なら人ぶひとなかりき、鑑がん真じん和尚の、この人千人の男に逢ひ給ふ相座おわすと宣のたまはせしを、たゞ打ちあるほどの人にも座せず、一、二人のほどだにも争いかでかと思ひしに、父の大臣討ち取られし日、御みか方たの軍いくさ千人ことごとくにこの人を犯してき﹂、いずれも妙光女の仏話から生じたらしいと、明治四十一年六月の﹃早稲田文学﹄へ書いて置いた。﹃呉越春秋﹄か﹃越絶書﹄に、伍ごし子し胥ょ越軍を率いて、その生国なる楚に討ち入り、楚王の宮殿を掠かすめた時、旧君たりし楚王の妃妾を強辱して、多年の鬱憤を晴らしたとあった。﹃将しょ門うも記んき﹄に、平たい貞らの盛さだもりと源みな扶もとのたすく敗軍してその妻妾将まさ門かどの兵に凌辱せられ、恥じて歌詠んだと出づ。強犯されて一首を吟くちずさむも、万国無類の風流かも知れぬが、昔は何いず国くも軍律不ふゆ行きと届どきかくのごとく、国史に載らねど、押勝の娘も、多数兵士に汚された事実があったのを、妙光女の五百人に二倍して、千人に云々と作ったのであろう。 フィリップ氏曰く、竜の英仏名ドラゴンは、ギリシアにドラコン、ラテンのドラコより出で、ギリシアのドラコマイ︵視る︶に因ちなんで、竜眼の鋭きに取るごとしと。ウェブストルに、竜眼怖ろしきに因った名かとある方、釈とき勝まされりと惟おもう。例せば上に引いたペルシアの﹃シャー・ナメー﹄に、竜眼を血の湖に比べ、欧州の諸談皆竜眼の恐ろしきを言い、殊に毒竜バシリスクは、蛇や蟾ひき蜍がえるが、鶏卵を伏せ孵かえして生ずる所で、眼に大毒あり能く他の生物を睨にらみ殺す、古人これを猟った唯一の法は、毎人鏡を手にして向えば、彼の眼力鏡に映りて、その身を返り射い、やにわに斃へい死しせしむるのだったという︵ブラウン﹃俗プセ説ウド弁ドキ惑シア・エピデミカ﹄三巻七章、スコッファーン﹃科スト学レイ俚・リ俗ープ学・オ拾ヴ・葉サイエンス・エンド・フォークロール﹄三四二頁以下︶。シュミットの﹃銀ゼ・河コン制クエ服スト史・オヴ・ゼ・リヴァー・プレート﹄に、十六世紀に南米に行われた俗信に、井中にあるを殺す唯一の法は鏡を示すにあり、しかる時彼自分の怖ろしき顔を見て死すとあるは、件くだんの説の焼き直しだろ。わが邦にも魔ま魅み、蝮まむ蛇し等と眼を見合せばたちまち気を奪われて死すといい︵﹃塵塚物語﹄三︶、インドにも毒竜視るところことごとく破壊す︵﹃毘奈耶雑事﹄九︶など説かれた。フ氏曰く、竜は仮作動物で、普通に翼ありて火を吐く蜥とか蜴げまた蛇の巨大なものと。まずそうだが、東洋の竜が千差万別なるごとく、西洋の竜も記載一定せぬ、中世英国に行われたサー・デゴレの﹃武者修行賦﹄から、その一例を引かんに、ここに大悪竜あり、全身あまねく火と毒となり、喉濶ひろく牙大にしてこの騎士を撃たんと前すすむ、両足獅のごとく尾不釣合に長く、首尾の間確かに二十二足生え、躯み酒樽に似て日に映じて赫かく耀ようたり、その眼光りて浄じょ玻うは璃りかと怪しまれ、鱗硬くして鍮しん石ちゅうを欺く、また馬様の頸くびもと頭を擡もたぐるに大力を出す、口気いきを吹かば火焔を成し、その状さま地獄の兇鬼を見るに異ならず︵エリス﹃古スペ英シメ国ンス稗・オ史ヴ・賦アー品リー彙・イングリッシュ・メトリカル・ローマンセズ﹄二版、三巻三六六頁︶、フ氏続けていわく、ギリシア名ドラコンは、もと大蛇の義神誌に載せ、竜は形容種々なれど実は蛇なり。カルデア、アッシリア、フェニキア、エジプト等、大毒蛇ある諸国皆蛇また竜を悪の標識とせり、例せばエジプト教のアポピは闇冥界の大蛇で、日神ラーに制服され、カルデアの女神チャーマットは、国初混沌の世の陰性を表せるが、七頭七尾の大竜たり。ヘブリウの諸典また蛇あるいは竜を死と罪業の本とて、キリスト教の神誌これを沿襲せり。しかるにギリシア、ローマには一方に蛇を兇物として蛇ゴ髪ル女ゴ鬼ー、九ヒ頭ド大ラ蛇等、諸怪を産出せる他の一方に、竜ドラ種ゴンテスを眼利するどく地下に住む守護神として崇敬せり。例せば医神アスクレピオスの諸祠の神蛇、デルフィの大蛇、ヘスペリデスの神竜等のごとしと。熊楠バッジ等エジプト学者の書を按ずるに、古エジプト人も古支那と同じく、竜蛇を兇物とばかり見ず善性瑞相ありとした例も多く、神や王者が自分を蛇に比べて、讃頌したのもある。 さてフ氏またいわく、一いっ汎ぱんに言えば竜の悪名は好誉より多く、欧州では悪名ばかり残れり。キリスト教は古宗教の善悪の諸竜を混同して、一斉にこれを邪物とせり、かくて上その世かみの伝説外相を変えて、ミカエル尊者、ジョージ尊者等、上帝に祈りて竜を誅した譚となり、以前ローマの大カピ廟トルに窟くっ居きょして大ボナ地・神デ女アを輔たすけ人に益した神蛇も、法王シルヴェストル一世のために迹あとを絶つに及べり。北欧の大おろ蛇ちも、東方南方の大蛇と性質同じく罪悪の主、隠財の守護にして、人が好物を獲るを遮る。故に中世騎士勇を以て鳴る者竜を殺すをその規模とし、近世と余り隔たらぬ時代まで学者も竜実まことに世にありと信ぜり。ただし研究追々進みては、竜も身を人多き地に置き得ず、アルプス山中無人の境をその最後の潜処としたりしを、ジャク・バルメーンその妄を弁じてよりついに竜は全く想像で作られたものと判わかれり。これより前一五六四年死せるゲスネルの判断力、当時の学者輩に挺特せしも、なおその著﹃動物全誌﹄︵ヒストリア・アニマリウス︶に竜を載せたるにて、その頃竜の実在の信念深かりしを知るべしと。 フ氏曰く、竜の形状は最初より一定せず、カルジアのチャーマットは躯に鱗ありて四脚両翼を具せるに、エジプトのアポピとギリシア当初の竜は巨おろ蛇ちに過ぎず。﹃新約全書﹄末篇に見えた竜は多頭を一身に戴いただき、シグルドが殺せしものは脚あり。欧州でも支那でも、竜の形状は多く現世全滅せる大蜥蜴類の遺骸を観て言い出したは疑いを容いれず。支那や日本の竜は、空中を行くといえど翼なしと。 熊楠いわく、支那でも、古く黄帝の世に在った応竜は翼あった。また鄒すう陽ようの書に、︿蛟こう竜りょう首を驤あげ、翼を奮えばすなわち浮雲出流し、雲霧咸みな集まる﹀とあれば、漢の世まで、常の竜も往々有翼としたので、﹃山海経﹄に、︿泰華山蛇あり肥遺と名づく、六足四翼あり﹀など、竜属翼ある記事も若干ある。結局翼なくても飛ぶと讃えてこれを省いたと、蛇や蜥蜴に似ながら飛行自在なる徴しるしに翼を添えたと趣は異にして、その意は一なりだ。フ氏の言いぶり古エジプトの竜も、単に大蛇にほかならぬようだが、日神の敵アポピは、時に大蛇、時にたり︵バッジ﹃埃ゼ・及ゴッ諸ズ・神オブ譜・ゼ・エジプシアンス﹄一︶、その他の大蛇にも、脚や翼を具えたのがある故、蛇よりは竜りょ夥うなかまのものだ。西洋の竜とても、ローマの帝旗として竜口を銀、他の諸部を彩いろ絹ぎぬで作り、風を含めば全体膨ふくれて、開あいた口が塞ふさがれなかった、その竜に翼なし。さてローマ帝国のプリニウスの﹃博ヒス物トリ志ア・ナチュラリス﹄に、竜の事を数章書きあるが、翼ある由を少しも述べず、故にフ氏が思うたほど、東西の竜が無翼有翼を特徴として区別判然たるものでない。また﹃五雑俎﹄に、竜より霊なるはなし、人得てこれを豢かう。唐訳﹃花けご厳んぎ経ょう﹄七八に、︿人あり竜を調ならす法を善くす、諸竜中において、易く自在を得﹀、西洋にも昔はそうと見えて、プリニウス八巻二十二章に、ギリシア人トアス幼時竜を畜かい馴ならせしに、その父その長大異常なるを懼おそれ沙漠に棄つ、後トアス賊に掩撃された時、かの竜来り救うたとある。フ氏は、インドの竜について一言もしおらぬが、﹃大雲請雨経﹄に、大歩、金髪、馬形等の竜王を列し、﹃大孔雀呪王経﹄に、︿諸もろもろの竜王あり地上を行き、あるいは水中にあって依止を作なし、あるいはまた常に空裏を行き、あるいはつねに妙高に依って住むあり︵妙高は須しゅ弥みせ山んの事︶、一首竜王を我慈念す、および二頭を以てまたまた然り、かくのごとく乃ない至し多頭あり︵﹃請雨経﹄には五頭七頭千頭の竜王あり︶云々、あるいはまた諸竜足あるなし、二足四足の諸竜王、あるいは多足竜王身あり﹀と見れば、梵土でも支那同様竜に髪あり、数頭多足あるもありとしたのだ。二足竜の事、この﹃呪王経﹄のほかにも、沈約の﹃宋書﹄曰く、︿徐じょ羨せん之し云々かつて行きて山中を経るに、黒竜長さ丈余を見る、頭角あり、前両足皆具わり、後足なく尾を曳ひきて行あるく、後に文帝立ち羨之竟ついに凶を以て終る﹀などあれど、東洋の例至って少ない。しかるに西洋では、中古竜を記するに多くは二脚とした。第一図はラクロアの﹃中サイ世エンのス・科エン学ド・おリテよラチびュー文ル・学オヴ・ゼ・ミッドル・エージス﹄英訳本に、十四世紀の﹃世界奇観﹄てふ写本から転載した竜数種で、第二図は一六〇〇年パリ版、フランシスコ・コルムナのポリフィルスの題号画中の竜と蝮と相討ちの図だが、ことごとく竜を二脚として居る。この相討ちに似た事、一九〇八年版スプールスの﹃アマゾンおよびアンデス植物採集紀行﹄二巻一一八頁に、二尺長たけのが同長の蛇を嚥のんだところを、著者が殺し腹を剖さくと、蛇なお活いきいたとあるし、十六世紀にベスベキウス、かつて蛇が蝦が蟆まを呑み掛けたところを二足ある奇蛇と誤認したと自筆した︵﹃土トラ耳ヴェ其ルス紀・イ行ンツー・ターキー﹄一七四四年版、一二〇頁︶。マレー人は、の雄は腹の外の皮が障さわる故、陸に上れば後二脚のみで歩むと信ず︵エップの説、﹃印度群島および東ゼ・亜ジョ細ーナ亜ル・雑オブ誌・ゼ・インジアン・アーキペラゴ・エンド・イースターン・アジア﹄五巻五号︶、過去世のイグアノドン、予がハヴァナの郊外で多く見たロケーなど、蜥蜴類は長カン尾ガル驢ーのごとく、尾と後の二脚のみで跳はね歩き、跂はい行くもの少なからず、従よってスプールスが南米で見た古土人の彫ほり画えに、四脚の蜥蜴イグアナを二脚に作したもあった由。また﹃蒹葭堂雑録﹄に、わが邦で獲た二足の蛇の図を出せるも、全くの嘘うそ蛇じゃないらしい。ワラス等が言った通り、や諸蜥蜴が事に臨んで、前二脚のみで走り、またいっそ四脚皆用いず、腹と尾に力を入れて驀まっしぐらに急進するが一番迅はやい故、専らその方を用いた結果、短い足が萎い靡びしてますます短くなる代りに、躯が蛇また蚯みみ蚓ずのごとく長くなり、カリフォルニアとメキシコの産キロテス属など、短き前脚のみ存し、支那、ビルマ、米国等の硝グラ子ス・蛇スネークや、濠州地方のピゴプス・リアリス等諸属は前脚なくて、後脚わずかに両ふたつの小こは刺り、また両ふたつの小こひ鰭れとなって痕跡を止め、英仏等の盲ブラ虫インド・オルム、アジアやアフリカの両アム頭フィ蛇スパイナは、全く足なく眼もちょっと分らぬ。﹃類函﹄四四八に、︿黄州に小蛇あり、首尾相あい類たぐう、因って両頭蛇という、余これを視てその尾端けだし首に類して非なり、土人いわくこの蛇すなわち老蚯蚓の化けしところ、その大きさ大蚓を過ぎず、行は蛇に類せず、宛えん転てん甚だ鈍し、またこれを山蚓という﹀。﹃燕石雑志﹄に、日向の大蚯みみ蚓ず空中を飛び行くとあるは、これを擬倣したのか。とにかく蜥蜴が地中に棲んで蚯みみ蚓ず様に堕落したのだが、諸色交こもごも横条を成し、すこぶる奇麗なもある。﹃文字集略﹄に、は竜の角なく赤白蒼色なるなりと言った。わが邦でアマリョウと呼び、絞しぼ紋りもんなどに多かる竜を骨抜きにしたように軟弱な怖ろしいところは微みじ塵んもない物は、かかる身長く脚と眼衰え、退化した蜥蜴諸種から作り出されたものと惟う。したがって上述の諸例から推すと、西洋で専ら竜を二足としたのも、実拠なきにあらず、かつ竜既に翼ある上は鳥類と見立て、四足よりも二足を正当としたらしい。支那で応竜を四足に画いた例を多く見たが、邦俗これを画くに、燕を背から見た風にし、一足をも現わさぬは、燕同様短き二足のみありという意だろう。 一三三〇年頃仏国の旅行僧ジョルダヌス筆、﹃東ミラ方ビリ驚ア・奇デス編クリプタ﹄にいわく、エチオピアに竜多く、頭に紅カル玉ブンクルスを戴いただき、金沙中に棲み、非常の大きさに成長し、口から烟状の毒臭気を吐く、定期に相集まり翼を生じ空を飛ぶ。上帝その禍を予防せんため、竜の身を極めて重くし居る故、みな楽土より流れ出る一ある河に陥おちて死す、近処の人その死を覗うかがい、七十日の後その尸しかばねの頭いた頂だきに根ねざ生した紅玉を採って国の帝に献たてまつると。十六世紀のレオ・アフリカヌス筆、﹃亜アフ非リカ利イ・加デス記クリプチオ﹄にいう、アトランテ山の窟中に、巨竜多く前身太く尾部細く体重ければ動作労苦す、頭に大毒あり、これに触れまた咬まれた人その肉たちまち脆もろくなりて死すと。すべてや大蛇諸種の蜥蜴など、飽食後や蟄伏中に至って動作遅緩なるより、竜身至って重してふ説も生じたであろう。インド、セイロン、ビルマ等の産、瓔ダ珞ボ蛇ヤは長たけ五尺に達する美麗な大毒蛇だが、時に街まち中なか車馬馳走の間に睡りて毫ごうも動かず、いささかも触るれば、急に起きて人畜を傷つけ殺す︵サンゼルマノ﹃緬ゼ・甸バー帝ミー国ス・誌エンパイヤー﹄二十一章︶。仏竹ちく園おんで説法せし時、長老比丘衆中を仏の方向き、脚を舒のべて睡るに反し、修摩那比丘はわずかに八歳ながら、端坐しいた。仏言う、説法の場で眠る奴は死後竜に生まれる。修摩那は一週間経たったら四神足を得べしと︵﹃長じょ阿うあ含ごん経ぎょう﹄二十二︶。また給ぎっ孤こど独くお園んで新たに出家した比丘が、坐禅中睡って房中に満つる大きさの竜と現われた、他の比丘これを見て声を立てると、竜眼を覚ましまた比丘となりて坐禅する。仏これを聞いて竜の性睡り多し、睡る時必ず本形を現わすものだと言いて、竜比丘を召し、説法して竜宮へ還し、以後竜の出家を許さなんだ︵﹃僧護経﹄︶。﹃類函﹄四三八に、王趙方かたへ一僧来り食を乞い、食訖おわって仮うた寝たねする鼾声夥しきを訝いぶかり、王出て見れば竜睡りいた。寤さめてまた僧となり、袈裟一枚大の地を求むるので承知すると、袈裟を舒のばせば格別大きくなる。かくて広い地面を得て、大工を招き大きな家を立てると、陥って池となり、竜その中に住む。御礼に接ほね骨つぎ方のほうを王氏に伝え、今も成都で雨乞いに必ず王氏の子孫をして池に行き乞わしむれば、きっと雨ふるとある。これは、﹃阿アソ育カ王伝﹄の摩マジ田アン提チカ尊者が大竜より、自分一人坐るべき地を乞い得て、その身を国中に満たして賓けい国ひんこくを乗っ取った話︵﹃民俗﹄二年一報、予の﹁話俗随筆﹂に類話多く出いづ︶、また柳田君の﹃山島民譚集﹄に蒐あつめた、河かっ童ぱが接骨方を伝えた諸説の原話らしい、﹃幽明録﹄の河かは伯くの女むすめが夫とせし人に薬方三巻を授けた話などを取り雑まぜた作と見ゆ。とにかくかようの譚は、瓔ダ珞ボ蛇ヤなど好んで睡る爬虫に基づいたであろう。熱帯地で極暑やや寒き地で、冬中は蟄伏する︵フムボルト﹃回トラ帰ヴェ線ルス内・ツ墨ー・州エク紀エノ行クチカル・アメリカ﹄英訳十九章︶。シュワインフルトの﹃亜非利加の心イム臓・ハーツュン・フォン・アフリカ﹄十四章に、無雨季節にはいかな小溜水にも潜み居ると言い、パーキンスの﹃亜ライ比フ・西イン尼・ア住ビッ記シニヤ﹄二十三章に、その住むべき水より、遠距離なる井の中に住んで毎度羊を啖くらいしが、最後に水汲みに来た少女を捉とり懸りて露あらわれ殺された由見ゆ。支那書に見ゆる蟄竜や竜、井の中に見あらわれた譚は、こんな事実を大層に伝えたなるべし。それからトザーの﹃土耳其高地の研レサ究ーチス・イン・ゼ・ハイランズ・オヴ・ターキー﹄巻二に、近世リチュアニア、セルビア、ギリシア等で、竜ドラコンは竜の実なく一種の巨おお人びと采たき薪ぎとり狩か猟りを事とし、人肉を食うものとなり居るも、比とな隣りのワラキア人はやはり翼と利とき爪つめあり、焔と疫気を吐く動物としおる由を言い、件くだんの竜ドラコンてふ巨人に係る昔話を載す。ラザルスてふ靴工、蜜を嘗なめるところへ蠅集まるを一打ちに四十疋殺し、刀を作って一撃殺四十と銘し、武者修業に出で泉の側に睡る。その辺に棲める竜かの刀銘を読んで仰天し、ラ寤さむるを俟まちて請いて兄弟分と為なる、竜夥なかまの習い、毎日順番に一人ずつ、木を伐り水汲みに往く、やがてラが水汲みに当ると、竜の用うる桶一つが五十ガロン入り故、空からながら持ち行くに困苦を極む、いわんや水を満たしては持ち帰るべき見込みなし、因って一計を案じ、泉の周囲を掘り廻る。余り時が立つので、見に来ると右の次第故何をするかと問う、ラ答うらく、毎日一桶ずつ運ぶのは面倒だからこの泉を全まるで持って帰ろうとするところだ、竜いわく、それを俟つ間に吾輩渇死となる、汝を煩わさずに吾輩ばかり毎日運ぶ事としよう。次にラが木きき伐りの当番となり、林中に往き、縄で所あら有ゆる樹を絆つなぎ居る、また見に来て問うに対こたえて、一本二本は厄介故、皆持って往こうと言うと、その間に竜輩凍死すべければ、以後汝を休ませ、吾輩毎日運ぶべしと言った。誠に厭いやなものを兄弟分にしたと迷惑の余り竜輩評議して、ラが睡るに乗じ斧で切り殺すに決した。ラこれを窃ぬすみ聞き、その夜木きく槐れに自分の衣を著きせ臥ね内やに入れ、身を隠し居るとは知らぬ竜輩来て、木が屑になるまでり砕いて去った。ラ還って木を捨てその跡へ臥す。鼾が高いので、竜輩怪しみ何事ぞと問うに、今夜痛く蚋ぶとに螫さされたと対う。あんなに強したたか斧でったのを蚋が螫したとは、到底手に竟おえぬ奴だ、何とかして立ち退のかそうと考え、翌あく旦るあさラに、汝も妻子をちと訪ねやるがよい、大金入りの袋一つ上げるからと言うと、汝らのうち一人その袋を担かたげて随ついて来るなら往こうと言う。因って竜一人従ともしてラの宅に近づくと、暫く待っておれ、我は先入って子供が汝を食わぬよう縛り付けて来るとて宅に入り太縄で子供を括くくり、今竜が見え次第大声でその竜肉を啖くいたいと連よび呼つづけよと耳ささ語やいて出で、竜を呼び込むと右の通りで竜大いに周あ章わて、袋を落し逃れた。途上狐に会って子細を話すと、痴たわけた事を言いなさんな、ラザルスごとき頓とん知ち奇きの忰せがれが何で怖かろう、われらなどはあの家に二羽ある鶏を、昨夜一羽平らげ、只今また一羽頂ちょ戴うだいに罷まかり出るところだ、嘘と想うなら随ついて来なせえといって、竜を自分の尾に括り付けてラの宅に近づく、ラこれを見て狐に向い、われ汝に竜を残らず伴つれて来いと言ったに、一つしか伴れて来ぬかと呼ばわる。竜さては狐と共謀して、吾われ輩らを食うつもりと合点し、急ぎ奔はしると、きずられた狐は途上の石で微みじ塵んに砕けた。ラは最もは早や竜来る患うれいなければ、安心してかの袋の中の金で巨屋を立て、余生を安楽に暮したそうだ。竜をかかる愚鈍なものとしたのは、主として上述の川に落ちて死ぬほど、身重く動作緩慢なりなどいう方面から起っただろう。 一二一一年頃ジャーヴェ筆﹃皇オチ上ア・消イン閑ペリ録アーナ﹄を見ると、その頃既に仏国でも、竜は詰まらぬ河童様の怪魅と為なりおり、専ら水中に住み、人に化けて市へ出るが別に害をなさず、婦女童児水浴びるを覗い、金環金盃に化けて浮くを採りに懸るところを引き入れて自分の妻に侍せしむとあり。また男を取り殺した例も出でおる。わが国に古くミヅチなる水の怪ばけものあり。﹃延喜式﹄下しも総うさの相そう馬ま郡に蛟みづ※ち﹇#﹁虫+罔﹂、U+8744、168-5﹈神社、加賀に野のづ蛟ち神社二座あり。本居宣長はツチは尊称だと言ったは、水の主ぬしくらいに解いたのだろ、また柳田氏は槌つちを霊物とする俗ありとて、槌の意に取ったが、予は大蛇をオロチ、巨蟒をヤマカガチと読むなどを参考し、﹃和名抄﹄や﹃書紀﹄に、蛟こうやいずれも竜蛇の属の名の字をミヅチと訓よんだから、ミヅチは水みず蛇へび、野のづ蛟ちは野のへ蛇びの霊異なるを崇あがめたものと思う。今も和泉、大和、熊野に野槌と呼ぶのは、尾なく太短い蛇だ︵﹃東京人類学会雑誌﹄二九一号の拙文を見よ︶。その蛟みづちが仏国の竜ドラク同様変遷したものか今日河童を加賀、能登でミヅチ、南部でメドチ、蝦え夷ぞでミンツチと呼ぶ由、また越えち後ごで河童瓢ひょ箪うたんを忌むという︵﹃山島民譚集﹄八二頁︶。﹃書紀﹄十一に、武蔵人と吉きび備のな中かつ国くにの人が、河かわ伯のかみまた大みづに瓠ひさごを沈めよと註文せしに沈め得ず、由ってその偽神なるを知り、また斬り殺した二条の話あるを見ると、竜類は瓢を沈め能わぬ故、忌むとしたのだ。日本に限らぬと見えて、﹃西域記﹄にも凌山氷雪中の竜瓢を忌むとある。ビール言う、瓢に容れた水凍りて瓢を裂く音大なるを忌むのだとは迂遠に過ぎる。それらまさかこの禁忌の源もとであるまいが、一九〇六年版ワーナーの﹃英ゼ・領ネチ中ブス央・オ亜ブ・非ブリ利チシ加ュ・土セン人トラ篇ル・アフリカ﹄に、シレ河辺害殊に多い処々で、婦女水を汲みに川に下りず、高岸上より長棒の端に付いた瓢箪で汲むから、その難に逢わぬとは、竜やに取りて瓢は重々不倶戴天の仇と見える。 フィリップ氏また竜が守護神たり怖ろしい物たるより、古く武装に用いられた次第を序し、ホメロスの詩に見えたアガメムノンの盾に三みつ頭がしらの竜を画き、ローマや英国で元帥旗に竜を用いたり、ノールス人が竜頭の船に乗った事などを述べ居るが、今長く抄するをやめ、一、二氏の言わぬところを補わんに、古エジプト人は、ウレウス蛇が有益なるを神とし、日神ラーはこの蛇二頭を、他の多くの神や諸王は一頭を前ひた額いに戴いただくとした︵バッジ﹃埃ゼ・及ゴッ諸ズ・神オヴ譜・ゼ・エジプチアンス﹄二、三七七頁︶。仏教の弁財天や諸神王竜王が額や頭に竜蛇を戴く、わが邦の竜たつ頭がしらの兜かぶとはこれらから出たものか。支那にも﹃類函﹄二二八に、竜を盾に画く、︿また桓かん元げん竜頭に角を置く、あるいは曰くこれ亢こう竜りゅう角というものなり﹀。盾や喇らっ叭ぱを竜頭で飾ったのだから、兜を同じく飾った事もあるべきだが、平日調べ置かなんだから、喇叭も吹き得ぬ、いわんや法ほ螺らにおいてをやだ。 ただしエリスの﹃古スペ英シメ国ンス稗・オ史ヴ・賦アー品リー彙・イングリッシュ・メトリカル・ローマンセス﹄二版一巻六二頁に、古ブリトン王アーサーの父アサー陣中で竜ごとき尾ある彗星を見、術士より自分が王たるべき瑞兆と聞き、二の金竜を造らせ、一をウィンチェスターの伽藍に納め、今一を毎つねに軍中に携えた。爾来竜頭アサーと呼ばれた。これ英国で竜を皇旗とする始まりで、先皇エドワード七世が竜を皇太子の徽しる章しと定めた。さてアサー、ロンドンに諸侯を会した宴席で、コーンウォール公ゴーロアの美妻イゲルナに忍ぶれど色に出にけりどころでなく、衆人の眼前で、しきりに艶辞を蒔まいたを不快で、かの夫妻退いて各一城に籠こもり、王これを攻むれど落ちず。術士メルリン城よりもまず女を落すべく王に教え、王ゴーロアの偽装で入城してイゲルナを欺き会いて、その夜アーサー孕はらまる。次いでゴーロア戦死し、王ついにイゲルナを娶めとり、これもほどなく戦死、アーサー嗣つぎ立て武名を轟かせしが、父に倣なろうてか毎つねに竜を雕ほった金の兜を着けたとあれば、英国でも竜を兜に飾った例は、五、六世紀の頃既にあったのだ。 フィリップ氏またキリスト教法で竜を罪悪の標識、天魔の印相とする風今に変らざる由を述べていわく、中世異ヘレ端シーを竜に比し、シギスモンド帝はジョン・フッスの邪説敗れた祝いに、伏竜てふ位階を新設した。また中世地獄を画くに、口を開き火を吐く竜とした。悪魔を標識せる竜の像を祭まつ会りの行列に引き歩く事も盛んで、ルアンのガーグイユ竜などもっとも高名だ。かかる竜の像は追々その本旨を忘れ、古ギリシアの善ドラ性コン竜テ王ス同様、土地の守護神ごときものに還原され了しまったとは、わが邦諸社の祭礼に練り出す八やま岐たの大おろ蛇ちが本もと人間の兇敵と記憶されず、災疫を禳はらい除くと信ぜらるるに同じ。また天文に竜ドラ宿コなるは、その形蛇に似たから名づけたらしいが、ギリシアの神誌にヘラクレスに殺されて竜天に上りてこの星群となったというと。熊楠いわく、インドでも︿柳宿は蛇に属す、形蛇のごとし、室宿は蛇頭天に属す、また竜王身光り憂う流る迦かといい、ここには天狗と言う﹀。日本で天火、英国で火ファ竜イアドレークと言い、大きな隕いん石せきが飛び吼ほえるのだ。その他支那で亢こう宿しゅくを亢金竜と呼ぶなど、星を竜蛇と見立てたが多い。それから﹃聖バイ書ブル﹄にヨハネが千年後天魔獄を破り出て、世界四隅の民を惑わすと言ったを誤解して、紀元一千年が近くなった時全欧の民大騒ぎせし事、明治十四年頃世界の終おわ焉りが迫り来たとて、わが邦までも子よ婦めを取り戻したり、身代を飲み尽くした者あったに異ならず。その時欧州に基アン督チ・敵クリスト現出して世界を惑乱させ、天下荒あれ寥すさむといい、どこにもここにも基督敵産まれたといって騒いだ。その法敵も多く竜の性質形体を帯びた物だった︵﹃エンサイクロペジア・ブリタンニカ﹄巻三︶。第三図は、この法敵とキリストと闘うところだ。またそれに次いで大流行だった如ジャ安ン法王の伝というは、九世紀に若僧と掛かけ落おちした男装の女が大学者となって、ついにレオ四世に嗣ついで、ローマ法王となり、全く男と化けて世を欺きいた内、従僕の子を姙みし天罰で、あろう事か街の上に産み落したその場で死に、その子は世界終る時出いづべき法敵として魔が取り去ったそうだ。この女は死して地獄に落ちるので地獄を竜の口としある︵ベーリング・グールド﹃中世志怪﹄︶。基アン督チ・敵クリスト同前の説が仏教にもありとはお釈迦様でも気が付くまい。すなわち﹃大法炬陀羅尼経﹄に、悪世にこの世界所あら有ゆる悪竜大いに猛威を振い、毒蛇遍満して毒火を吐き人畜を螫さし殺し、悪人悪馬邪道を行い悪行を専らにすと説かれた。
竜の起原と発達
一八七六年版ゴルトチッヘルの﹃希デル伯・ミ拉スト鬼・バ神イ・誌デン・ヘブレアーン﹄に、﹃聖書﹄にいわゆる竜は雲雨暴風を蛇とし、畏いけ敬いせしより起ると解いた。アラビア人マスージー等の書に見る海蛇︵﹃聖書﹄の竜タンニンと同根︶は、その記載旋風が海水を捲まき上ぐる顕象たる事明白で、それをわが国でも竜巻といい、八やく雲もた立つの立つ同様下から立ち上るから竜をタツと訓よみ、すなわち旋風や竜巻を竜といったと誰かから聞いた。支那やインドで竜王を拝して雨を乞うたは主おもにこれに因ったので、それより衍ひいて諸般の天象を竜の所しわ為ざとしたのは、例せば﹃武江年表﹄に、元文二年四月二十五日外とや山まの辺より竜出て、馬場下より早稲田町通りを巻き、人家等損ずとあるは、明らかに旋風で、﹃新著聞集﹄十八篇高知で大竜家を破ったとか、﹃甲子夜話﹄三十四江戸大風中竜を見たなど、いずれも竜巻を虚こち張ょうしたのだ。﹃夜話﹄十一に、深夜烈風中竜の炯ひか眼るめを見たとは、かかる時電気で発する閃光だろう。﹃熊野権現宝殿造功日記﹄新宮に竜落ちて焼けたとあるは前述天火なるべく、﹃今昔物語﹄二十四雷電中竜の金色の手を見て気絶した譚は、その人臆病抜群で、鋭い電光を見誤ったに相違ない。﹃論ろん衡こう﹄に雷が樹を打ち折るを漢代の俗天が竜を取るといったと見え、﹃法顕伝﹄に毒竜雪を起す、慈覚大師﹃入唐求法記﹄に、竜闘って雹ひょうを降らす、﹃歴代皇紀﹄に、伝でん教ぎょう入唐出立の際暴風大雨し諸人悲しんだから、自分所持の舎利を竜衆に施すとたちまち息やんだと出づ。ベシシ人は竜を有角大蛇とし、地竜海竜と戦い敗死し天に昇りて火と現ずるが虹なりと信ず︵スキートおよびブラグデン﹃巫ペー来ガン半・レ島ーセ異ス・教オヴ民・ゼ族・マ篇レー・ペニンシュラ﹄二︶。東トン京キン人は月蝕を竜の所しわ為ざとす︵一八一九年リヨン版﹃布レッ教トル書・エ簡ジフ集ィアント﹄九巻一三〇頁︶。かく種々の天象を竜とし竜と号なづけた後考うると、誠に竜はこれらの天象を蛇とし畏敬せしより起ったようだが、何な故ぜ雲雨暴風等を特に蛇に比したかと問われて、蛇は蚯みみ蚓ず、鰻等より多く、雲雨等に似居る故と言うたばかりでは正答とならぬ。すなわちどの民も、最いと古く蛇を霊怪至極のものとし、したがって雲雨暴風竜巻や、ある星宿までも、蛇や竜とするに及んだと言わねばならぬ。﹃エンサイクロペジア・ブリタンニカ﹄十一版二十四巻に、スタンレイ・アーサー・クック氏が蛇崇拝を論じて、この問題は樹木崇拝の起原発達を論ずると等しく、一項ごとに人間思想史の諸問題を併せ解くを要し、事極めて複雑難渋だと述べ居る。それに竜となると角があったり火を吐いたり、異類異様に振る舞うから、その解決は蛇より数層むつかしく、孔子のいわゆる竜に至っては知るなきなりだ。加その之うえ拙者本来八岐大蛇の転うま生れがわりで、とかく四、五升呑まぬと好い考えが付かぬが、妻がかれこれ言うから珍しく禁酒中で、どうせ満足な竜の起原論は成るまいが、材料は夥おおくある故、出来るだけ遣って見よう。 まずクック氏は、蛇類は建築物や著しき廃址に寓し、池いけ壁かべ樹きの周ぐる囲りを這はい、不思議に地下へ消え去るので、鳥獣と別段に気味悪く人の注意を惹ひいた。その滑り行く態さま河の曲れるに似、その尾を噛かむの状大河が世界を環めぐれるごとく、辛抱強く物を見詰め守り、餌たるべき動物を魅み入いれて動かざらしめ、ある種は飼い馴ならしやすく、ある種は大毒ありて人畜を即死せしめ、ある物を襲うに電と迅さを争うなど、夙つとに太古の人を感ぜしめたは必定なれば、蛇類を馴らし弄もてあそんだ人が衆を驚かし、敬われたるも怪しむに足らず。あるいは蛇の命長く、定時に皮を脱ぎかえるを見て、霊魂不死と復活を信ずるに及んだ民もあるべしと述べて、竜の諸譚は蛇を畏敬するより起ったように竜と蛇を混同してその崇拝の様子や種別を詳説されたが、竜と蛇の差別や、どんな順序で蛇てふ観念が、竜てふ想像に変じたか、一言もしおらぬ。 上に述べた通り、古エジプトや西アジアや古欧州の竜は、あるいは無足の大蛇、あるいは四足二翼のものだったが、中世より二足二翼のもの多く、また希まれに無足有角のものもある。インドの那ナー伽ガを古来支那で竜と訳したが、インドの古伝に、那伽は人面蛇尾で帽コブ蛇ラを戴き、荘厳尽くせる地下の竜バタ宮ラに住み、和ヴァ修ス吉キを諸那伽の王とす。これは仏経に多頭竜王と訳したもので、梵天の孫迦カー葉シャ波バの子という。日本はこの頃ようやく輸入されたようだが、セイロン、ビルマ等、小乗仏教国に釈迦像の後に帽蛇が喉を膨ふくらして立ったのが極めて多い。﹃四しぶ分りつ律ぞ蔵う﹄に、仏文ぶん水辺で七日坐禅した時、絶えず大風雨あり、︿文竜王自らその宮を出で、身を以て仏を繞めぐる、仏の上を蔭おおいて仏に白もうして言わく、寒からず熱からずや、飄日のために暴さらされず、蚊虻のために触せらるるところとならずや﹀、風雨やんでかの竜一年少梵ぼん志しに化し、仏を拝し法に帰した、これ畜生が仏法に入った首はじめだと見ゆ。 帽コブ蛇ラ︵第四図︶は誰も知るごとく南アジアからインド洋島に広く産する蛇で、身長六フィート周囲六インチに達し、牙に大毒あるもむやみに人を噛まず、頭に近き肚あば骨らぼね特に長く、餌を瞰ねらいまた笛声を聴く時、それを拡げると喉が団うち扇わのように脹ふくれ、惣そう身みの三分一を竪たてて嘯うそぶく、その状極めて畏敬すべきところからインド人古来これを神とし、今も卑民のほかこれを殺さず。卑民これを殺さば必ず礼を以て火葬し、そのやむをえざるに出でしを陳いい謝わけす。一八九六年版、クルックの﹃北印度俗間宗教および民ゼ・俗ポピ誌ュラル・レリジョン・エンド・フォークロール・オブ・ノルザーン・インジア﹄二巻一二二頁に拠よれば、その頃西北諸州のみに、那ナー伽ガすなわち帽蛇崇拝徒二万五千人もあった。昔アリア種がインドに攻め入った時、那伽種この辺に栄え、帽蛇を族トテ霊ムとしてその子孫と称しいた。すなわち竜種と漢訳された民族で、ついにアリア人に服して劣等部落となった。件くだんの畜生中第一に仏法に帰依した竜王とは、この竜種の酋長を指さしたであろう。俗伝にはかの時仏ぶつ竜王が己れを蓋おおいくれたを懌よろこび、礼に何を遣ろうかと問うと、われら竜族は常に金こん翅じち鳥ょうに食わるるから、以後食われぬようにと答え、仏すなわち彼の背に印を付けたので、今に帽蛇にその印紋ある奴は、鳥類に食われぬという。かく那伽はもと帽蛇の事なるに、仏教入った頃の支那人は帽蛇の何物たるを解せず、その霊ふし異ぎにして多人に崇拝さるる宛さな然がら支那の竜同然なるより、他の蛇輩と別たんとて、これを竜と訳したらしい。ただしインドにおいても那伽を霊異とするより、追々蛇以外の動物の事相をも附け加え、上に引いた﹃大孔雀呪王経﹄に言わるる通り、二足四足多足等支那等の竜に近いものを生じたが、今に至るまで本統の那伽は依然帽蛇で通って居る。支那に至っては、上古より竜蛇の区別まずは最も劃かく然ぜんたり。後世日本同様異常の蛇を竜とせる記事多きも、それは古伝の竜らしき物実在せぬよりの牽こじ強つけだ。全体竜と蛇がどう差ちがうかといわんに、﹃本草綱目﹄に、今日の動物学にいわゆる爬虫類から亀の一群を除き、残った諸群の足あるものを竜、足なきを蛇とし居る。アリストテレスが爬虫を有鱗卵生四足︵亀と蜥蜴︶、卵生無足︵蛇︶、無鱗卵生四足︵蛙の群︶に別ったに比して、亀と蛙を除外しただけ分類法が劣って居るが、欧州でも近世まで学者中に獣鳥魚のほか一切の動物を虫と呼び通した例すらあれば、それに比べて﹃綱目﹄の竜蛇を魚虫より別立し、足の有無に拠って竜類すなわち蜥蜴群と蛇群を分けたは大出来で、その後本邦の﹃訓蒙図彙﹄等に竜は鱗虫の長とて魚類に、蛇は字が虫篇故ゆえ蝶蠅などと一つに虫類に入れたは不明の極だ。さて支那にも僧など暇多い故か、観察の精くわしい人もあって、後唐の可止てふ僧托鉢して老母を養い行あるきながら、青せい竜りょ疏うそを誦する事三みと載せ、たちまち巨うわ蟒ばみあって房に見あらわる。同院の僧居暁は博もの物しりなり、曰く蛇の眼は瞬またたかぬにこの蟒うわばみの眼は動くから竜だろうと、止香を焚たいて蟒に向い、貧それ道がし青竜疏を念ずるに、道楽でなく全く母に旨うまい物を食わせたい故だ、竜神何なに卒とぞ好よき檀だん越おつに一度逢わせてくださいと頼むと、数日後果して貴人より召され、夥しく供養されたという︵﹃宋高僧伝﹄七︶。拙者も至って孝心深く、かつ無類の大食なれば、可止法師に大いに同感を寄するが、それよりも感心なは居暁の博もの物しりで、壁やも虎りの眼が瞬またたかぬなど少々の例外あれど、今日の科学精せい覈かくなるを以てしても、一いっ汎ぱんに蛇の眼は瞬かず、蜥蜴群の眼が動くとは、動かし得ざる定論じゃ。それを西人に先だって知りいたかの僧はなかなか豪えらいと南方先生に讃ほめてもらうは、俗吏の申請で正六位や従五位を贈らるるよりは千倍悦んで地下に瞑するじゃろう。ただし、生きた竜の眼を実験とは容易にならぬこと故、これを要するに、例外は多少ありながら、竜蛇の主として別るる点は翼や角を第二とし、第一に足の有無にある。﹃想山著聞奇集﹄五に、蚯みみ蚓ずが蜈むか蚣でになったと載せ、﹃和漢三才図会﹄に、蛇海に入って石てな距がだこに化すとあり、播州でスクチてふ魚海あざ豹らしに化すというなど変な説だが、蛆うじが蠅、蛹さなぎが蛾がとなるなどより推して、無足の物がやや相似た有足の物に化ける事、蝌かえ蚪るごが足を得て蛙となる同然と心得違うたのだ。これらと同様の誤見から、無足の蛇が有足の竜に化し得、また蛇を竜の子と心得た例少なからぬ。南アフリカの蜥アウ蜴ロフ蛇ィスなど、前にも言った通り蜥蜴の足弱小に身ほとんど蛇ほど長きものを見ては誰しも蛇が蜥蜴になるものと思うだろ。﹃蒹葭堂雑録﹄の二足蛇のほか本邦にかかる蜥蜴あるを聞かぬが、これらは主に土中に棲んで脚の用が少ないから萎いげ減んし行く退化中のもので、アフリカに限らず諸州にあり。実際と反対に蛇が竜に変ずるてふ誤信を大いに翼たすけ、また虫様の下等竜すなわち竜あまりょうてふ想像動物の基となっただろう。竜は支那人のみならずインド人も実在を信じたらしい︵﹃起世因本経﹄七、﹃大乗金剛髻けつ珠じゅ菩薩修行分経﹄︶。﹃本草綱目﹄にいう、︿蜥蜴一名石竜子、また山竜子、山石間に生ず、能く雹ひょうを吐き雨を祈るべし、故に竜子の名を得る、陰陽折易の義あり、易字は象形、﹃周易﹄の名けだしこれに取るか、形蛇に似四足あり、足を去ればすなわちこれ蛇形なりと﹀、﹃十誦律﹄に、︿仏舎衛国にあり、爾その時とき竜子仏法を信楽す、来りて祇ぎおに入る、聴法のため故なり、比丘あり、縄を以て咽に繋ぎ、無人処に棄つ、時に竜子母に向かいて啼泣す﹀、母大いに瞋いかり仏に告ぐ、仏言う今より蛇を※あみ﹇#﹁罘﹂の﹁不﹂に代えて﹁絹のつくり﹂、U+7F65、179-2﹈する者は突とき吉ら羅ざ罪いとす、器に盛り遠く無人処に著おくべしと。いずれも蛇を竜の幼稚なものとしたので、出雲佐さだ田のや社しろへ十月初卯日ごとに竜宮から竜子を献たてまつるというも、実は海蛇だ。﹃折おり焚たく柴しば記のき﹄に見えた霊りょ山うぜんの蛇など、蛇が竜となって天上した談は極めて多い︵蛇が竜に化するまでの年数の事、ハクストハウセンの﹃トランスカウカシア﹄に出いづ︶。 故にフィリップやクックが竜は蛇ばかりから生じたように説いたは大分粗漏ありて、実は諸国に多く実在する蜥蜴群が蛇に似て足あるなり、これを蛇より出て蛇に優まされる者とし、あるいは蜥蜴やが蛇同様霊異な事多きより蛇とは別にこれを崇拝したから、竜てふ想像物を生じた例も多く、それが後に蛇崇拝と混合してますます竜譚が多くまた複雑になったであろう。﹃古今図書集成﹄辺裔典二十五巻に、明の守徐兢高麗に使した途上、定海県総持院で顕仁助順淵聖広徳王てふ法ほう成じょ寺うじ関白流の名の竜王を七昼夜祭ると、神物出現して蜥蜴のごとし、実に東海竜君なりと出いづ。画の竜と違い蜥蜴のようだとあれば、何か一種の蜥蜴を蓄こうて竜とし祠まつりいたのだ。﹃類函﹄四三七、︿﹃戎じゅ幕うば間くか談んだん﹄曰く、茅ぼう山ざん竜池中、その竜蜥蜴のごとくにして五色なり、昔より厳かに奉ず、貞じょ観うがん中竜子を敷取し以て観みる、御製歌もて送帰す、黄冠の徒競いてその神に詫わぶ、李徳裕その世を惑わすを恐れ、かつて捕えてこれを脯ほす、竜またついに神たる能わざるなり﹀、これは美麗な大蠑いもを竜と崇めたのだ。本邦には蜥蜴や蠑の属数少なく余り目に立つものもないので、格別霊怪な談も聞かぬが、外国殊に熱地その類多い処では蛇に負けぬほどこれに関する迷信口碑が多い。欧州でも、露国の民はキリスト教に化する前、家ごと一隅に蛇を飼い、日々食を与えたが︵一六五八年版ツヴェ﹃莫コス士モグ科ラフ坤ィー輿・モ誌スコヴィト﹄八六頁︶、そのサモギチア地方民は十六世紀にもギヴォイテてふ蜥蜴を家神とし食を供えた︵英訳ハーバースタイン﹃露ノー国ツ・記アッポン・ラッシア﹄二巻九九頁︶。 ﹃抱朴子﹄に、︿蜥蜴をいいて神竜と為なすは、但ただ神竜を識しらざるのみならず、また蜥蜴を識らざるなり﹀、晋代蜥蜴を神竜とし尊んだ者ありしを知るべし。﹃漢書﹄に漢武守やも宮りを盆で匿し、東とう方ぼう朔さくに射あてしめると、竜にしては角なく蛇にしては足あり、守宮か蜥蜴だろうと中あてたので、帛きぬ十疋を賜うたとある。蜥蜴を竜に似て角なきものと見立てたのだ。上に引いた通り、﹃周易﹄の易の字は蜴とかげの象形といったほど故、古支那で蜥蜴を竜属として尊んだのだ。蜥蜴は墓地などに多く、動作迅速でたちまち陰顕する故、サンタル人は、睡中人の魂出であ行るくに、蜥蜴と現ずと信ず︵フレザー﹃金ゴル椏ズン篇・バウ﹄初版一巻一二六頁︶。﹃西湖志﹄に、銭武粛王の宮中夜番を勤むる老嫗が、一夜大蜥蜴燈の油を吸い竭つくしたちまち消失するを見、異あやしんで語らずにいると、明日王曰く、われ昨夜夢に魔油を飽くまで飲んだと、嫗見しところを王に語るに王微すこしく哂わらうのみとあれば、支那にも同様の説があったのだ︵﹃類函﹄四四九︶。後インドではトッケとてわが邦の蜥蜴に名が似て、カメレオンごとく能よく変色する蜥蜴、もと帝釈の宮門を守ったと伝う︵ロウ氏の説、一八五〇年刊﹃印度群島および東亜細亜雑誌﹄四巻二〇三頁︶。 濠州のジェイエリエ人伝うらく、大神ムーラムーラ創世に多く小さき黒蜥蜴を作り、諸もろもろの行はう動物の長とす。次にその足を分ちて指を作り、次に鼻それより眼口耳を作り、さて立たしむるに尾が妨げとなるから切り去ると蜥蜴立ちて行き得、かくて人類が出来たと︵スミス﹃維ゼ・克アボ多リジ利ンス生・オ蕃ヴ・篇ヴィクトリア﹄二、四二五頁︶。古エジプト人は、蜥蜴を神物とし、その尸をマンミーにして保存奉祀した。西アフリカのウォロフ人は、蜥蜴を家神として日々牛乳を供え、マダガスカル人もこれを守護神とした︵﹃エンサイクロペジア・ブリタンニカ﹄巻二、九、二八︶。近世ギリシアでは、ストイキア神夜家や野などに現ずる時、あるいは蛇あるいは蜥蜴あるいは小さき黒人たり︵ライト﹃中エッ世セイ論ス・集オン・ゼ・ミドル・エージス﹄一巻二八六頁︶。蜥蜴の最も尊ばれたは太平洋諸島で、ポリネシア人これを神とし、人間の祖とし、斎忌の標識は専ら蜥蜴と鮫だ︵ワイツおよびゲルランド﹃未ゲシ開ヒテ民・デ史ル・ナチュルフォルケル﹄巻六︶。フィジー島では、地震神の使物を大蜥蜴とし、マオリ人は蜥蜴神マコチチ、人を頭痛せしむと信ず。ニューヘブリデスの伝説に、造物主初め人を四脚で、豚を直立して行あるかしめた。諸鳥と爬虫類これを不快で集会す。その時一番に蜥蜴、人と豚の行きぶりを変ずべしというと、鶺せき鴒れいは元のままで好いと主張した。蜥蜴直ちに群集を押し潜くぐり、椰やし樹のきに登って豚の背に躍び下りると、豚前脚を地に著つけた、それより豚が四脚、人は直立して行あるく事になったという︵ラツェル﹃人ゼ・類ヒス史トリー・オヴ・マンカインド﹄英訳、一︶。メラネシア人は、蜥蜴家に入れば死人の魂が帰ったという︵一九一三年版フレザー﹃不死の信ゼ・念ビリーフ・イン・インモータリチー﹄一巻三八〇頁︶。アフリカのズールー人言う、太初大老神ウンクルンクル蜒カメレオンを人間に遣わし、人死せざれと告げしめしに、このもの怠なま慢けて途上の樹に昇り睡る。神また考え直して蜥蜴を人間に遣やり人死すべしと告げしむると、直ぐ往ってそう言って去った跡へ蜒やっと来て人死せざれと言ったが間に合わず、先に蜥蜴から人死すべしと聞いたから、人間皆死ぬ事となった。それからズールー人が思い思いになって、あるいは蜥蜴が迅く走って、死ぬといって来たと恨んで見当り次第これを殺し、あるいは蜒が怠なま慢けて早く好報を齎もたらさざりしを憤って、烟タバ草コを食わせ、身を諸色に変じ、悩死するを見て快と称う。南洋ヴァトム島人話すは、ト・コノコノミャンゲなる者、二少年に火を取り来らば死せじ、しからずば汝ら魂は死せず、身は死すべしと言いしに取り来らず。因って汝ら必ず死すべし。イグアナとヴァラヌス︵いずれも蜥蜴の類︶と蛇は時々皮蛻ぬぎ、不しせ死じと罵ったので、人間永く死を免れずと。フレザーかようの話を夥しく述べた後、諸方に蛇と蜥蜴が時々皮を蛻ぬぎかえるを以て毎度若返るとし、昔この二物と人と死なぬよう競争して人敗し、必ず死ぬに定まったと信ずるが普通なりと結論したが、これも蛇や蜥蜴それから竜が崇拝さるる一理由らしい。 右の話にあるヴァラヌスは、アフリカから濠州まで産する大蜥蜴で、まず三十種ある、第五図はナイル河に住み、水を游およぐため尾が横扁ひらたい。の卵を貪むさぼり食うから土人に愛重さる。この一属は他の蜥蜴と異なり、舌が極めて長い。線いと条すじ二つに分れたるを揺り出す状さま蛇と同じ。故に支那でこれを蛇属としたらしく、︿鱗蛇また巨蟒、安南雲南諸処にあり、※うわ蛇ばみ﹇#﹁虫+冉﹂、U+86BA、183-7﹈の類にして四足あるものなり、春冬山に居し、夏秋水に居す、能く人を傷つく、土人殺してこれを食う、胆を取りて疾を治し甚だこれを貴重す﹀という︵﹃本草綱目﹄︶。学名ヴァラヌス・サルヴァトル、北インドや支那から北濠州まで産し、長たけ七フィートに達しこの属の最大者だ。前に述べたカンボジア初王の前身大蜥蜴だった故、国民今に重にま舌いじたを遣つかうとあるはこの物だろう。セイロンではカバラゴヤと呼び、今もその膏あぶらを皮膚病に用い、また蒟きん醤まの葉はに少し傅つけて人に噛ませ毒殺す。﹃翻訳名義集﹄に徳とく叉しゃ迦かり竜ょう王おうを現毒また多舌と訳しあるは、鱗蛇に相違なく、毒竜の信念は主にこの蜥蜴より出たのだろう。
仏在世、一種姓竜肉を食い、諸比丘またこれを食うあり、竜女仏の牀しょ前うぜんに到りて泣く、因って仏竜の血骨筋髄一切食うを禁じ、身外皮膚病あらば竜の骨灰を塗るを聴ゆるすとあるも、この蜥蜴であろう。また倶くり梨から迦りゅ羅う竜お王う支那で黒竜と訳し、不動明王の剣を纏まとい居る。これも梵名クリカラサで一種の蜥蜴だ。このほか仏経の諸竜の名を調べたら諸種の蜥蜴を意味せるが多かろうが、平生飲む方に忙しき故、手を着けなんだ。それから今の学者が飛ドラ竜ゴと呼び、インドのマドラスや後インドに二十種ばかり産する蜥蜴ありて、長たけ十インチ以内で脇骨が長くて皮膜を被り、伸縮あたかも扇様で清きよ水みずの舞台から傘さして飛び下りるごとく、高い処から斜に飛び下りること甚だ巧うまい。全く無害のものだが、われらごとき大飲家は再ふた従い兄と弟こまでも飲みはしないかと疑わるるごとく、蜥蜴群に毒物と言わるるものが多いからこれも憂うきには洩もれぬわが身なりけりで、十六世紀に航海大家マゼランと一所に殺されたバルボサの航海記に、マラバル辺の山に樹から樹へ飛ぶ翼ある蛇あり、大毒ありて近づくものを殺すとあるは、覿てっ切きりこの物の訛伝だ︵一五八八年版ラムシオ﹃航ナヴ海ィガ旅ショ行ニ・記エ・全ヴィ集アッジ﹄一巻三〇〇葉︶。マレー半島のオーラン・ラウト人信ずらく、造物主人たま魂しいを石に封じ、大盲飛竜して守らしむ。その乾こぶ児んがかの地に普通の飛竜で毎いつも天に飛び往き、大盲飛竜より人魂を受けて新産の児こど輩もに納いれる。故に一疋でも飛竜を殺さば、犯人子を産んでも魂を納れてくれぬとてこれを殺さず。またこの飛竜能く身をに変じ、大盲飛竜の命令次第人を水に溺らせ殺すという︵スキートおよびブラグデン、二巻二七頁︶。支那の応竜始め諸方の翼ある竜の話は、過去世のプテロダクチルスなど有翼蜥蜴の譚を伝え、化石を見て生じたという人もあれど、予はこの現存する飛竜てふ蜥蜴に基づいたものと惟おもう。インドで蜥蜴を見て占う事多く、タミル語の諺に﹁全村の吉凶を予告する蜥蜴が汁鍋に堕おちた﹂というは、まずはわが﹁陰陽師身の上知らず﹂に似て居る︵一八九八年﹃ベンガル亜細亜協会雑誌﹄六八巻三部一号五一頁︶。カンド人は、誓言に蜥蜴の皮を援ひいて証とす︵バルフォール﹃印ゼ・度サイ事クロ彙ベジア・オヴ・インジア﹄三版二巻七三〇頁︶。いずれも以前蜥蜴を崇拝した遺風であろう︵紀州日高郡丹にゅ生う川で、百年ばかり昔淋しい川を蜥蜴二匹上下に続いて游およぎ遊ぶを見、怖れて逃げ帰りしを今に神異と伝え居る︶。それから前文中しばしば言った通り、今一つ竜なる想像動物の根本たりしはで、これは従前蜥蜴群の一区としたが、研究の結果今は蜥蜴より高等な爬虫の一群と学者は見る。現在する群が六属十七種あって、東西半球の熱地と亜熱地に生ず。インドに三種、支那の南部と揚子江に各一種あり、古エジプトや今のインドでを神とし崇拝するは誰も知るところで、以前は人牲を供えた。近時も西アフリカのボンニ地方や、セレベス、ブトン、ルソン諸島民は専らを神とし、音楽しながらその棲すみかに行き餌と烟草を献たてまつった。セレベスとブトンでは、これを家に飼って崇敬した。アフリカの黒人も家近く棲むを吉兆として懼れず︵シュルツェ著﹃フェチシスムス﹄五章六段︶。バンカ島のマレー人はの夢を吉とし婦人に洩らさず︵エップ説︶。マダガスカルの一部にはを古酋長の化身とし、セネガル河辺では物を取れば祝宴を開く︵シュルツェ同上︶。フィリッピンのタガロ人はに殺された者、雷死刃死の輩と同じく虹の宮殿に住むとした︵コムベス著﹃ミンダナオおよびヨロ史﹄一八九七年マドリッド版六四頁︶。ソロモン諸島人はが餌を捉うるに巧智極まる故、人のほかに魂あるはのみと信ず︵一九一〇年版ブラウン著﹃メラネシアンスおよびポリネシアンス﹄二〇九頁︶。下ラワルニゲリア人はは犯罪ある者にあらずんば食わずとてこれをその祖先神または河湖神とし、殺さばその住とどまる水涸かると信じ、またその身にかつてうた人の魂を蔵かくすという︵レオナード﹃下ラワルニゲルおエンよド・びイツそ・トのラ諸イ民ブ族ス﹄︶。ボルネオには虎とを尊び、各その後こう胤いんと称し、これを盾に画く者あり︵ラツェル﹃人ヒス類トリ史ー・オヴ・マンカインド﹄︶。 これらの諸伝説迷信はいずれも多少竜にも附存す。レオ・アフリカヌスがナイル河の、カイロ府より上に住むは人を殺し、下に住むは人を捉とらずといえるも、竜に善性と兇悪あるてふに似たり。昔ルソンで偽って誓文した者に食わるとし︵一八九〇年版アントニオ・デ・モルガ﹃菲スセ列ソス賓・デ諸・ラ島ス・誌イスラス・フィリピナス﹄二七三頁︶、一六八三年版マリア法師の﹃東イル方・ヴ遊ィア記ジオ・オリエンタリ﹄四一五頁にいう、マラバルの証真寺に池あり、多くを養い人肉を与う。これを証真寺というは、疑獄の真偽を糾たださんため本人を池に投ずるに、その言真なればこれを免ゆるし偽なれば必ずう。偽言の輩僧に賄賂して呪まじないもてを制し己おのれをわざらしむと。﹃南史﹄にも、今の後インドにあった扶南国でを城溝に養い、罪人あらば与うるに、三日まで食わねば無罪として放免すと見ゆ。デンネットの﹃フィオート民俗記﹄に、コンゴ河辺にに化けて船を覆かえし、乗客を執とらえ売り飛ばす人ありといえるは、目蓮等が神通で竜に化した仏説に似たり。の梵名種々ありて数種皆各名を別にするらしいが、予は詳しく知らぬ。その内クムビラてふはヒンズ語でクムヒル、英語でガリアル、またガヴィアルとて現存群中最も大きく、身長二十五フィートに達し、ガンジス、インダス河より北インドの諸大河に棲み、喙くちばし細長く尾の鼻端大いに膨れ起り、最も漢画の竜に似たり。 マルコ・ポロの紀行に、宋帝占うて百の眼ある敵将にあらずんば、宋を亡ぼし得ずと知ったところ、元将伯バヤ顔ンの名が、百眼と同音で、宋を亡ぼしたとある。これは確か﹃輟耕録﹄にも見えいた。ここをユール注して、近世も似た事あり、インドの讖しん語ごにバートプールの砦は大にあらざれば陥れ能わずと言うた。さて砦が英軍に取られて梵志がはて面妖なと考えると、英軍の主将名はコムベルメールで、これに近いヒンズ詞ことばクムヒル・メールは君の意だから讖語が中あたったと恐れ入ったと書いた。そのクムヒルの原語クムビラの音訳が薬師の十二神将の宮く毘び羅ら、仏の大弟子の金こん毘ぴ羅ら比び丘く、讃岐に鎮座して賽銭を多く占せしめる金毘羅大権現等で、仏典には多く蛟竜と訳し居る。 支那で古く蛟と呼んだは﹃呂覧﹄に、飛しひ宝剣を得て江を渉る時二蛟その船を夾はさみ繞めぐったので、飛江に入って蛟を刺し殺す。﹃博物志﹄に孔子の弟子澹たん台だい滅めつ明めい璧たまを持って河を渡る時、河伯その璧を欲し二蛟をして船を夾ましむ。滅明左に璧右に剣を操って蛟を撃ち殺し、さてこんな目腐り璧はくれてやろうと三度投げ込んだ。河伯も気の毒かつその短気に恐縮し三度まで投げ帰したので、一いっ旦たん見切った物を取り納むるような男じゃねーぞと滅明滅多無性に力りきみ散らし、璧を毀こわして去ったと出づ。その頃右体ていの法ほら螺ばな談し大流行と見え、﹃呉越春秋﹄には椒しょ丘うき淮わい津しんを渡って津吏の止むるを聴かず、馬に津水を飲ます。津水の神果して馬を取ったので、袒たん裼せき剣を持って水に入り、連日神と決戦して眇すがめとなり勝負付かず、呉に之ゆきて友人を訪たずねるとちょうど死んだところで、その葬喪の席で神と闘って勝負預あずかりの一件を自慢し語ったとは無鉄砲な男だ。その席に要よう離りなる者あって、勇士とは日と戦うに表かげを移さず、神鬼と戦うに踵きびすを旋めぐらさずと聞くに、汝は神に馬を取られ、また片目にまでされて高名らしく吹ふい聴ちょうとは片腹痛いと笑うたので、大いに怒り、その宅へ押し寄ると、要離平気で門を閉じず、放髪僵きょ臥うが懼おそるるところなく、更にを諭さとしたのでその大勇に心服したとある。その後曹操が十歳で水しょうすいに浴して蛟を撃ち退け、後人が大蛇に逢うて奔るを見て、われ蛟に撃たれて懼れざるに彼は蛇を見て畏ると笑うた。また晋の周処少わかい時乱暴で、義興水中の蛟と山中の虎と併せて三横と称せらるるを恥じ、まず虎を殺し次に蛟を撃った。あるいは浮かびあるいは沈み数千里行くを、処三日三夜随つれ行き殺して出で、自ら行いを改めて忠行もて顕あらわれたという。 これらいずれも大河に住んでよほど大きな爬虫らしいからの事であろう。支那のは只今アリガトル・シネンシスとクロコジルス・ポロススと二種知れいるが、地方により、多少の変種もあるべく、また古いにしえありて今絶えたもあろう。それを※だり竜ょう﹇#﹁︵口+口︶/田/一/黽﹂、U+9F09、189-4﹈、蛟竜またと別ちて名づけたを、追々種数も減少して今は古ほどしばしば見ずなり、したがって本来奇怪だった竜や蛟の話がますます誇大かつ混雑に及んだなるべし。いわんや仏経入りてより、帽コブ蛇ラや鱗蛇を竜とするインド説も混入したから、竜王竜宮その他種々数え切れぬほど竜譚が多くなったと知る。
竜の起原と発達︵続き︶
上に引いたフィリップ氏の言葉通り、今の世界に絶ぜっ迹せきたる過去世期の諸爬虫の遺骸化石が竜て︹とふいう︺想念を大いに助長したは疑いを容いれず。﹃類函﹄四三七に︿﹃拾遺記﹄に曰く、方丈の山東に竜場あり、竜皮骨あり、山さん阜ぷのごとし、百頃けいに散ず、その蛻骨の時に遇えば生竜のごとし、あるいはいわく竜常にこの処に闘う、膏こう血けつ流水のごとしと。﹃述異記﹄に曰く、普寧県に竜葬の洲すあり、父老いう竜この洲において蛻骨す、その水今なお竜骨多し、按ずるに山阜岡こう岫しゅう、竜雲雨を興すもの皆竜骨あり、あるいは深くあるいは浅く多く土中にあり、歯角脊足宛さな然がら皆具う、大なるは数十丈、あるいは十丈に盈みつ、小さきはわずかに一、二尺、あるいは三、四寸、体皆具わる、かつて因って采とり取あつめこれを見る、また曰く冀州鵠こく山さんに伝う、竜千年すなわち山中において蛻骨す、今竜岡あり、岡中竜脳を出す﹀。件くだんの竜葬洲は今日古巨獣の化石多く出す南濠州の泥湖様の処で、竜が雲雨を興す所皆竜骨ありとは、偉大の化石動物多き地を毎度風雨で洗い落して夥しく化石を露出するを竜が骨を蛻ぬぎかえ風雨を起して去ると信じたので、原因と結果を転倒した誤解じゃ、﹃拾遺記﹄や﹃述異記﹄は法ほ螺らばかりの書と心得た人多いが、この記事などは実話たる事疑いなし、わが邦にも﹃雲うん根こん志し﹄に宝暦六年美濃巨勢村の山雨のために大崩れし、方一丈ばかりな竜の首半ば開いた口へ五、六人も入り得べきが現われ、枝ある角二つ生え歯黒く光り大きさ飯器のごとし、近村の百姓怖れて近づかず耕作する者なし、翌々年一、二ヶ村言い合せ斧鍬など携えて恐る恐る往き見れば石なり、因って打ち砕く、その歯二枚を見るに石にして実に歯なり、その地を掘れば巨大なる骨様の白石多く出いづと三宅某の直じき話わを載せ居る、古来支那で竜骨というもの爬虫類に限らず、もとより化石学の素養もなき者が犀象その他偉大な遺骨をすべてかく呼ぶので︵バルフォール﹃印度事彙﹄一巻九七八頁︶、讃岐小豆島の竜骨は牛属の骨化石と聞いた。つい前月も宜昌附近にかかる化石が顕われて、天が袁皇帝に竜瑞を降したと吹聴された、山本亡羊の﹃百品考﹄に引いた﹃荒政輯要﹄には月令に︿季夏漁師に命じて蛟を伐つ、鄭氏いわく蛟を伐つと言うはその兵衛あるを以てなり﹀とあるを解くとて、蛟は雉と蛇と交わり産んでその卵大きさ輪のごときが埋まりある上に、冬雪積まず夏苗長ぜず鳥雀巣すくわず、星夜視みれば黒気天に上る、蛟孵かえる時蝉せみまた酔人のごとき声し雷声を聞きて天に上る、いわゆる山鳴は蛟鳴で蛟出づれば地崩れ水害起るとてこれを防ぐ法種々述べおり、月令に毎夏兵を以て蛟を囲み伐つ由あるは周の頃土地開けず文武周公の御手もと近くが人畜を害う事しきりだったので、漢代すでにかかる定例の狩りはなくなった故鄭てい氏が注釈を加えたのだ。それより後はますます少なくなって蛟とは専ら地下の爬虫孵り出る時地崩れ水湧わき出るを指さす名となったので、その原由はが蟄居より出で来るよりも主として雷雨の際土崩れ水出で異様の骨骸化石を露わすにあっただろう、﹃和漢三才図会﹄四七、︿およそ地震にあらずして山岳暴にわかに崩れ裂くるものあり、相伝えていわく宝螺跳り出でて然しかるなり﹀。﹃東海道名所記﹄三、遠州今切の渡し昔は山続きの陸地なりしが百余年ばかり前に山中より螺ほら貝がい夥しく抜け出で海へ躍とび入り、跡殊ことのほか崩れて荒井の浜より一つに海になりたる事、唐土の華山より大亀出でし跡池となり田畠に灌そそぎしごとしと載す、予の現住地紀州田辺近き堅かた田だの浦うらに古いにしえ陥れると覚ぼしき洞窟の天井なきような谷穴多く︵方言ホラ︶小螺の化石多し、土伝に昔ノーヅツ︵上述野のづ槌ちか︶ここに棲み長たけ五、六尺太さ面めん桶つうほどで、頭と体と直角を成して槌のごとく、急に落ち下りて人々を咬かんだといい今も恐れて入らず、これ支那の蛟の原由同然かかる動物の化石出でしを訛伝したらしい、小螺化石多く出るから小螺躍び出て地を崩したというはずのところノーヅツなる奇形化石に令名をしてやられて今もその谷穴をノーヅツと称う。ただし﹃類函﹄二六、︿福建の将楽県に蛟窟あり、相伝う昔小児あり渓傍の巨螺を見て拾い帰り、地に穴し瀦ちょ水すいしてこれを蓄え、いまだ日を竟おえざるにその地横に潰ついえ水勢洶きょ々うきょうたり、民懼れ鉄を以てこれに投じはじめて息やむ、今周廻寛ひろさ畝ほばかりなるべし、水清せいにして涸れず﹀とあれば、支那でも地じす陥べりと蛟と螺を相関わるものとしたのでその訳を一法螺吹こう。インド人サラグラマを尊んで韋ヴィ紐シュニュの化身とし蛇また前陰の相とす、これは漢名石蛇で、実は烏い賊かや航たこ魚ぶねとともに頭ケ足フ軟ァ体ロ動ポ物タたるアンモナイツの多種の化石で、科学上法螺と大分違うが外相はやはり螺類だ、その状蛇や蛟が巻いた像に似居る故これを蛇や蛟の化身と見て地陥りは蛇や蛟の化身たる螺の所為と信じたものか、サラグラマは仏典に螺石と訳し︵﹃毘奈耶破僧事﹄十一︶一の珍宝としあり、鶴岡八幡宮神宝の弁財天蛇然の自然石なるを錦の袋に入れて内陣にあり︵﹃新編鎌倉志﹄一︶というもこれか。近時化石学上の発見甚だ多きに伴つれて過去世に地上に住んだ大爬虫遺骸の発見夥しく竜談の根本と見るべきものすこぶる多い。しかし今とても竜の画のような動物は前述鱗蛇、飛竜などのほかにも世界に乏しからぬ。したがって亡友カービー氏等が主張した、過去世に人間の遠祖が当その身み巨大怪異の爬虫輩の強きょ梁うり跋ょう扈ばっこに逢った事実を幾千代後の今に語り伝えて茫ぼう乎こ影のごとく吾人の記憶に存するものが竜であるという説のみでは受け取れず、予はかかる仏家の宿命通説のような曖昧な論よりは、竜は今日も多少実在する等の虚こち張ょう談に、蛇崇拝の余波や竜巻地陥り等諸天象地妖に対する恐怖や、過去世動物の化石の誤察等を堆つみ重ねて発達した想像動物なりというを正しと惟おもう。 竜譚の発達に最も力を添えたは海蛇譚で、海蛇の事は予在外中数度﹃ネーチュル﹄その他でその起原を論戦したが、事すこぶる煩わしいからここには略して竜譚に関する分だけを述べよう。﹃玉葉﹄四十に寿永三年正月元日伊勢怪異の由を源義仲の注進せる内に、元日の夜大風雨雷鳴真まむ虫し蛇打ち寄せられ津々に藻に纏われてあるいは二、三石あるいは四、五石︵石は百か︶皆生きあり、両三日を経て紛失しおえぬ、およそ昔も今も真虫海より打ち上げらるる事は伊勢国に候そうらわず、件くだんの蛇海より来り寄す云々と見ゆ。これすなわち海蛇で鰻様に横扁ひらたき尾を具え海中に限って住むがインド洋太平洋とその近海に限る、およそ五十種あり︵第六図︶。知人英学士会員ブーランゼー方で見たはインド洋産七、八フィートあった、熊野で時々取るを予自ら飼い試みるにブーランゼー始め西人の説に誤謬多し、そのうち一論を出し吹き飛ばしてくれよう。﹃唐大和尚東征伝﹄や蘭人リンスコテンの﹃東ヴォ印ヤー度ジュ紀・エ行ス・アンドリアンタル﹄︵一六三八年アムステルダム版、一二二頁︶を見ると、昔はアジアの南海諸処に鑑真のいわゆる蛇海すなわち海蛇夥しく群れ居る所があったらしい、﹃アラビヤ夜譚﹄のブルキア漂流記に海島竜女王住すみ処かを蛇多く守るといい、﹃賢愚因縁経﹄に大施が竜宮に趣く海上無数の毒蛇を見たとあり、﹃正法念処経﹄に︿熱水海毒蛇多し、毒蛇気の故に海水をして熱せしめ一衆生あるなし、蛇毒を以もちいる故に衆生皆死す﹀と見ゆる、海蛇はいずれも毒牙を持つからの言ことだ、これら実在のものと別に西洋には古来海中に絶大の蛇ありと信ずる者多く、近年も諸大洋で見たと報ずる人少なからず、古インドに勇士ケレサスバ海蛇を島と心得その脊せで火を焼く、熱さに驚き蛇動いて勇士を顛倒したと言い、十六世紀にオラウスが記したスウェーデンの海蛇は長たけ二百フィート周二十フィート、牛豕羊を食いまた檣ほばしらのごとく海上に起たちて船客を捉え去ったといい、明治九年頃チリ辺の洋中で小鯨二疋一度に捲き込んだ由その頃の新聞で見た。﹃エンサイクロペジア・ブリタンニカ﹄十一版二十四巻にかかる大海蛇譚の原因は海いる豚かや海鳥や鮫や海狗や海藻が長く続いて順次起伏して浮き游およぐを見誤ったか、また大きな細長い魚や大烏賊を誤り観みたか、過去世に盛えた大爬虫プレシオサウルスの残党が今も遠洋に潜み居るだろうと論じ居る。﹃甲子夜話﹄二十六に年一、二度佐渡より越後へ鹿が渡海するに先游ぐもの頸くびと脊のみ見え、後なるはその頷を前の鹿の尾の上に擡もたげて游ぎ数十続く、遠望には大竜海を游ぐのごとく見ゆとある、今も熊野の漁夫海上に何故と知らず巨おおなどの魚群無数続き游ぎ、船坐るかと怖れ遁にげ帰る事ありとか、またホーズと呼ぶ長大の動物尾も頭も知れず連日游ぎ過ぐるに際限を見ず、因って見込みの付かぬをホーズもない事というと聞く、かかる物実際存否の論は措おいてとにかく西洋に大海蛇の譚あるようにインドや支那で洋海に大竜棲むとし海底に竜宮ありと信ずるに及んだのだ、また俗に竜宮と呼ぶ蜃気楼も蜃の所為とした、蜃は蛇のようで大きく腰以下の鱗ことごとく逆に生えるとも、竜あまりょうに似て耳角あり背鬣紅色とも、蛟に似て足なしともありて一定せず、蜃気楼は海にも陸にも現ずる故最もよ寄り最寄で見た変な動物をその興行主が伝えたので、蜃が気を吐いて楼台等を空中に顕わすを見て飛び疲れた鳥が息やすみに来るを吸い落して食うというたのだ︵﹃類函﹄四三八︶。また月令季秋雀大水に入って蛤はまぐりとなり孟もう冬とう雉大水に入って蜃となる、この蜃は蛤の大きなものだ、欧州中古石かめが鳧かもになると信じわが邦で千鳥が鳥貝や玉たいに化すと言うごとく蛤類の肉が鳥形にやや似居るから生じた迷説だが、邦俗専ら蜃をこの第二義に解し蛤が夢を見るような画を蜃気楼すなわち竜宮と見るが普通だ。インド、アラビア、東南欧、ペルシア等に竜蛇が伏蔵を守る話すこぶる多い、伏蔵とは英語でヒッズン・トレジュァー、地下に匿かくしある財宝で、わが邦の発掘物としては曲玉や銅剣位が関の山だが、あっちのは金銀宝玉金剛石その他最いと高価の珍品が夥しく埋まれあるから、これを掘り中あてた者が驟にわかに富んで発狂するさえ少なからず、伏蔵探索専門の人もこれを見中てる方術秘伝も多い。﹃起世因本経﹄二に転てん輪りん聖じょ王うおう世に出いづれば主蔵臣宝出でてこれに仕う、この者天眼を得地中を洞とおし見て有王無王主一切の伏蔵を識しるとあるから、よほど古くより梵土で伏蔵を掘って国庫を満たす事が行われたので、﹃大乗大悲分陀利経﹄には︿諸大竜王伏蔵を開示す、伏蔵現ずる故、世に珍宝饒おおし﹀という。前文に述べた通り伏蔵ある地あな窖ぐらや廃墟や沼沢には蛇や蜥蜴類が多く住み、甚だしきはを蓄かって宝を守らせた池もある故、自然とこれらの動物をあるいは神物あるいは吝人が死後竜蛇になって隠財を守ると信じたのだ、さてかの国々の蛇は大抵水辺を好み沙漠に棲むものまでも時に湖に游ぐ事あり︵バルフォル﹃印度事彙﹄三巻五七四頁︶、予が毒竜の現物と上に述べた鱗蛇は在インドの英人これを水蜥蜴と通称するほど水辺を好み、蛟竜の本品たるが水に住むは知れ切ったところだ、かつ伏蔵もとより地下に限らず沼沢中に存するも多き故竜を以て地下また水中の伏蔵主とししたがって財宝充満金玉荘厳せる竜宮が地下と水中にありとしたのだ、ヒンズ教に地下に七住処ありて夜やし叉ゃ、羅らせ刹つ等住み最下第七処パタラに多ヴァ頭スキ竜王諸竜を総すべて住むというは地底竜宮で﹃施設論﹄六に︿山下竜宮あれば、樹草多きに及ぶ、山下竜宮なかれば、樹草少なきに及ぶ﹀とあり、水中の竜宮は有名な無熱池を始め河湖泉井までもすこぶる例多く秀郷が往ったのも琵琶湖底にあったのだ。﹃出曜経﹄八に無厭足とて名から大強慾な竜王が己を祀まつりて富を求むる婆羅門を使い富家の財をことごとく地下に没入せしに、富家の主人竜泉に至りわが財宝は正道もて獲たればみだりに竜に取らるべきにあらずとて、金を泉に投ずるに水皆湧き熱し竜王懼れ金を出して皆還かえしたとあり。﹃続古事談﹄四に﹁祇園社の宝殿の中には竜穴ありといふ、延久の焼亡の時梨本の座ざ主すその深さを量らむとせしに五十丈に及んでなほ底なしとぞ﹂、これらで見ると地底に水あまねくことごとく海に通ずれば井泉河湖に住む小中竜王の大親分たる大竜王は大海に住み、大海底の竜宮の宏こう麗れい泉河湖沼のものに比して格別なる事既に経文より引いたごとく、これ陸地諸水がついに海に入るごとく陸地諸宝も必ず海に帰すとした上、船で運ぶ無量の珍宝財宝が難破のため多く海に沈むからの見解で、近い話は前日八阪丸とともに没した莫大の金額も古人なら竜宮を賑にぎわし居ると信じたはずだ、わが邦の弟おと橘たち媛ばなひめ古英国のギリアズンなど最愛の夫を救わんと海に入ったすら多く、仏書に風波を静めんとて命よりも尊んだ仏舎利や経文を沈めた譚も少なからず、アフリカのギニアの浜へ船久しく著つかぬ時その民一切の所有品を海に抛げ込んでその神に祈り、ために神官にくれる物一つもなくなる故神官余りかかる大祈祷を好まなんだ由︵ピンカートン﹃航ゼネ海ラル旅コレ行クシ記ョン全・オ集ヴ・ヴォエイジス・エンド・トラヴェルス﹄十六巻五〇〇頁︶。されば竜宮に永年積んだ財宝は無量で壇の浦に沈んだ多くの佳嬪らが竜王に寵せられて竜種改良と来るから、嬋せん娟けんたる竜女が人を魅殺した話多きも尤もだ、竜宮に財多しというが転じて海に竜王住む故大海に無量の宝ありと﹃施設論﹄など仏書に多く見ゆ。 また鮫ふか類にもその形竜蛇に似たるが多く、これも海中に竜ありてふ信念を増し進めた事疑いなし、梵名マカラ、内典に摩竭魚と訳す、その餌を捉とるに黠かつ智ち神のごとき故アフリカや太平洋諸島で殊に崇拝し、熊野の古老は夷神はその実鮫を祀りて鰹かつお等を浜へ追い来るを祈るに基づくと言い、オランラウト人は鮫とを兄弟とす、予の鮫崇拝論は近い内﹃人類学雑誌﹄へ出すが、少すこ分しは六年前七月の同誌に載せた﹁本邦における動物崇拝﹂なる拙文に書き置いたからそれに譲るとして、竜と鮫の関係につきここに述ぶるは、上に言うた通りわが邦でタツというはもと竜巻を指した名らしく外国思想入りて後こそ﹃書紀﹄二十六、斉さい明めい天皇元年︿五さつ月きの庚かの午えうまの朔ついたちのひ、空おお中ぞらのなかにして竜に乗れる者あり、貌かたち唐もろ人こしびとに似たり、青き油あぶらぎぬの笠を着て云々﹀など出でたれ、神代には支那の竜と同じものはなかったらしい、﹃書紀﹄二に豊とよ玉たま姫ひめ産む時夫彦ひこ火ほほ々でみ出のみ見こ尊と約に負そむき覘うかがいたもうと豊玉姫産にあたり竜に化なりあったと記されたが、異伝を挙げて︿時に豊玉姫八やひ尋ろの大わ熊に鰐に化な為りて、匍は匐い逶もごう。遂に辱められたるを以て恨うらめしとなす﹀とあり、﹃古事記﹄には︿その産に方あたっては八尋の和わ邇にと化りて匍匐い逶もこ蛇よう﹀とあり、その前文に︿すべて佗あだ国しくにの人は産に臨める時、本もと国つくにの形を以て産う生む、故に妾今もとの身を以て産を為なす、願わくは妾を見るなかれ﹀、これは今日ポリネシア人に鮫を族トテ霊ムとする輩が事に触れて鮫の所作を為すごとく、姫が本国で和邇を族霊とし和邇の後胤と自信せる姫が子を産む時自ら和邇のごとく匍は匐ったのであろう、言わば狐付きが狐の所作犬神付きが犬神の所作をし、アフリカで神が高僧に詑つく時言語全く平生に異なり荐しきりに水に入らんと欲し、河底を潜り上って同然泥中に平臥するがごとし︵レオナード著﹃下ラワーニゲルおエンよド・びイツそ・トのラ民イ俗ブ篇ス﹄二三一頁︶。さて﹃古事記﹄にこれより先かの尊豊玉姫の父海わた神つみのもとより帰国の時一尋ひろの和邇に乗りて安著し、その和邇返らんとする時所みは佩かせる紐ひも小がた刀なを解いてその頸に付けて返したまいし故その一尋の和邇を今に佐さひ比もち持のか神みというと見え、﹃書紀﹄に稲いな飯ひの命みこと熊野海で暴風に遭あい、ああわが祖は天あま神つかみ母は海神なるにいかで我を陸にも海にも厄するかと言い訖おわって剣を抜きて海に入り鋤さひ持もち神のかみとなるとある、この鋤の字を佐比と訓よむ事﹃古事記伝﹄では詳つまびらかならず、予種々考えあり、ここには煩わしきを憚はばかって言えぬが大要今日の鶴つる嘴はし様に曲ってその中央に柄が付いた鋤を佐比と言い、そのごとく曲った刀を鋤さひ鈎ちというたと惟おもう、中古にも紀朝臣佐さひ比も物ち、玉作佐比毛知など人の名あればその頃まで用いられた農具だ、彦火々出見尊が紐小刀を和邇の頸に附けてその形が佐比様すなわち鶴嘴様になりしよりその和邇を佐比持神というたてふ牽強説で、宣長が﹁卑しけど雷木こだ魅まきつね虎竜の属たぐいも神の片端﹂と詠んだごとく、昔は邦俗和邇等の魚族をも奇怪な奴を神としたのだ、さて鮫の一類に撞しゅ木もく鮫ざめ英語でハンマー・ヘッデット・シャーク︵槌頭の鮫︶とて頭丁字形を成し両端に目ありすこぶる奇態ながインド洋に多く欧州や本邦の海にも産するのが疑いなくかの佐比神だ、十二年前熊野の勝浦の漁夫がこの鮫を取って船に入れ置き、腓こむらを大部分噛み割さかれ病院へ運ばるるを見た、獰猛な物で形貌奇異だから古人が神としたのも無理でない、これで和邇とは古今を通じて鮫の事で神代既に熊和邇、佐比持などその種類を別ちおったと知る、国史にをワニと訓ませ﹃和名抄﹄﹃新撰字鏡﹄などその誤りを改めなんだは、その頃の学者博物学に暗かった杜ずさ撰んで、今も北国や紀州の一部である鮫をワニと呼ぶ通り、国史のワニは決してでなく鮫だという事を明治二十六年頃の﹃日本﹄新紙に書いた人があったがなかなかの卓説だ、御名前を忘れたが一献差し上げたいから知った人があらばお知らせを乞う、昨年十月の﹃郷土研究﹄に記者が人を捕る鮫の類は深海に棲む動物で海岸に起ったこのワニの譚に合わず、鮫すなわちワニという説は動物分布の変遷てふ事を十分考察せぬ者の所為と評しあったが、この記者自身が動物分布の変遷を一向構わぬらしい、鮫の住所様々なるは﹃エンサイクロペジア・ブリタンニカ﹄十一版二十四巻に便宜のためこれを浜辺、大海、深海底と住所に随って序ついで論じあるで判わかる。アフリカ、南米、濠州等には川に鮫住む事多く昔江戸鮫が橋まで鮫が来たとは如いか何がだが、﹃塩尻﹄五三に尾張名古屋下堀川へ鰹群来した事を記して、漁夫いう日でり久しき時鮫内海に入り諸魚を追うて浜近く来るとあり。田辺浜の内の浦などいう処は近年まで鮫毎度谷鰹てふ魚を谷海とて鹹かん水すいで満ちた細長き谷間へ追い込み漁利を与えた故今も鮫を神様、夷えび子す様など唱え鮫というを忌む、日高郡南部町などは夏日海浴する小児が鮫に取られた事少なからず、されば汽船発動機船などなかりし世には日本の海岸に鮫到り害を為なす事多かったはずで、﹃今昔物語﹄の私きさ市いち宗のむ平ねひら、﹃東鑑﹄の朝あさ比ひな奈よし義ひ秀でなど浜辺でワニを取った様子皆鮫でにあらず、ハワイやタヒチ等の浜辺に鮫を祭る社あって毎度鮫来り餌を受け甚だしきは祠官を負うて二十浬かいりも游ぎし事エリスの﹃多ポリ島ネシ海アン研・レ究サーチス﹄四、ワイツおウよンびトゲルランド﹃未ゲシ開ヒテ人・デ民ル・史ナチュルフォルケル﹄六等に見ゆ、三重県の磯部大明神にかかる鮫崇拝の遺風ある話は予の﹁本邦における動物崇拝﹂に載せた、要するに和邇が鮫にしてでなきは疑いを容れず、ただし熱地にはが海辺に出る事も鮫が川に上る事もありて動物学の心得もなき民種はこれを混用するも無理ならず、したがってオラン・ラウト人ごとく二者を兄弟としたり、ペルシアの﹃シャー・ナメー賦﹄に大海に棲むとしたは有あり内うちの事だ。
本話の出処系統
上の三章で長たらしく竜の事を論じたは、それが分らぬ内は秀郷竜宮入りの話中の毎事毎項が分らぬからだ、竜の事はなかなか複雑でとても十分にこの誌上で悉つくし得ぬが、まず上の三章で勘弁を願うとしてこれからこの話の出処系統論に取り掛ろう。まず﹃左伝﹄に鄭大水出で竜時門の外に闘う。﹃正法念処経﹄七十に竜と阿修羅と赤海下に住み飲おん食じきの故に常に共に闘う、︿また大海あり、名づけて竜満という、諸竜あり、旃遮羅と名づく、この海中に住み、自ら相闘諍す﹀。古英国メルリン物語に地下の赤竜白竜相闘って城を崩し、ガイ・オヴ・ワーウィック譚にガイ竜獅と戦うを見、獅に加勢し竜を殪たおし獅感じてガイに随うこと忠犬のごとしとある。仏経には竜は瞋しん恚い熾しじ盛ょうの者といえるごとくいずれの国でも竜猛烈にして常に同士討ちまた他の剛勢なものと闘うとしたので、既に喧けん嘩か通しなれば人に加勢を乞うた例も多い、﹃類函﹄三六六に宣城の令張路斯その夫人との間に九人の子あり、張釣りに行って帰るごとに体湿りて寒ひえ居る、夫人怪しみ問うと答えて言う、我は竜だ、鄭祥遠も実は竜で我と釣り処を争うて明日戦うはず故九子をして我を助けしめよ、絳を領えりにしたは我、青は鄭だといった、明日いよいよ戦いとなって九子青を目的に鄭を射殺し皆竜と化なったとある。同書四三八に﹃太平広記﹄を引いていわく、黄湖に蜃︵上に出た通り竜の属︶あって常に呂湖の蜃と闘う、近きん邨そんで善く射る勇士程霊銑方へ蜃が道人に化けて来ていう、われ呂湖の蜃に厄くるしめらる、君我を助けなば厚く報ずべし、白しろ練ねりを束ねたる者は我なりと、明日霊銑邨むらの少年と湖辺に鼓こそ噪うすると須しば臾らくして波湧き激声雷のごとく、二牛相あい馳はせるを見るにその一甚いと困くるしんで腹肋皆白し、霊銑後の蜃に射い中あてると水血に変じ、傷ついた蜃は呂湖に帰る途上で死んだとまであって跡がないが約束通りぐっすり礼物を占せしめただろう、﹃続捜神記﹄から﹃法苑珠林﹄に引いた話にいわく、呉の末臨海の人山に入って猟し夜になって野宿すると身みの長たけ一丈で黄衣白帯した人来て我明日讐かたきと戦うから助けくれたら礼をしようというたので、何の礼物に及びましょう必ず助けましょうというと、明食時君渓辺に出よ、白帯したのは我黄帯は敵だといって去った、明日出て見ると果して岸の北に声あり草木風雨に靡なびくがごとく南も同様だ、唯と見みると二大蛇長十余丈で渓中に遇うて相あい繞まとうに白い方が弱い、狩人射て黄な奴を殺した、暮方に昨きのうの人来って大いにありがたい、御礼に今年中ここで猟しなさい、明年となったら慎んで来ないようといって去った、狩人そこに停とどまり一年猟続け所えも猟の甚だ多く家巨富となった、それでよせば好いに数年の後前言を忘れまた往き猟すると白帯の人また来て君はわが言を用いずここへ死にに来た、前年殺した讐の子すでに長じたから必ず親の仇と君を殺すだろうが我知るところでないと言ったので、狩人大いに恐れて走らんとするところへ黒装束した三人皆長八尺の奴が来て口を張って人を殺したとあるから毒気に中あてたんだろ。芳賀博士はこの話を﹃今昔物語﹄十巻三十八語の原もとと見定められた、その話は昔震しん旦たんの猟師海辺に山指し出た所に隠れて鹿を待つと、海に二つの竜現われ青赤い合い戦うて一時ばかりして青竜負けて逃ぐ、その夜そこに宿り明日見れば昨と同時にまた戦うて青竜敗走した、面白くてその夜もそこに宿って三日目にまた戦うて青竜例の通りというところを、猟師箭やを矯ためて赤竜に射い中あてると海中に入って、青竜も海に入ったが玉をえ出で猟師に近づき吐き置いて海に入った、その玉を取りて家に返りしより諸財心に任せ出で来て富に飽き満ちたというのだ、如にょ意いほ宝うじ珠ゅとて持つ人の思いのままに富を得繁盛する珠を竜が持つとはインドに古く行われた迷信で、﹃新編鎌倉志﹄に如意珠二種あり、一は竜の頸の上にあり、一は能作生珠と号して真言の法を行うて成る、鶴岡八幡宮の神宝なるは能作生珠だ、その製法呪法は真言の秘法というとある。﹃華けご厳んぎ経ょう﹄に一切宝中如意宝珠最も勝るとあり。﹃円覚鈔﹄にいう、︿如意と謂うは意中須まつところ、財宝衣服飲食種々の物、この珠ことごとく能く出生し、人をして皆如意を得せしむ﹀。﹃大智度論﹄には︿如意珠仏舎利より出いづ、もし法没尽する時、諸舎利、皆変じて如意珠と為なる﹀。﹃類函﹄三六四、︿﹃潜確類書﹄に曰く竜珠頷あごにあり蛇珠口にあり﹀。﹃摩訶僧祇律﹄七に雪山水中の竜が仙人の行儀よく座禅するを愛し七巾まき巻きて自分の額で仙人の項うなじを覆い、食事のほか日常かくするので仙人休み得ず身体萎くたびれ羸やせて瘡疥を生ず、ところへ近所の者来り若い女に百巻捲かれても苦しゅうないが竜に七巾ではお困りでしょう、よい事がある、竜は天性慳けん吝りんで、咽上に宝珠あるからそれを索もとめなさいと教え、竜また来ると仙人彼に汝われをさほど愛するなら如意宝珠をくれというた、竜われこの宝あればごく上じょ饌うせんと衆宝を出し得るなれ、これは与うべからずとて淵に潜んで再び来なんだと載す。﹃正法念処経﹄二九などを見ると宝珠を求めて竜蛇を殺す事多かったらしく、今のインド人も蛇の頭にモホールてふ石あり夜を照らし蛇毒を吸い出す、人見れば蛇自ら呑んでしまいまた自分が好く人に与うるがこれを得る事すこぶる難しと信じ︵エントホヴェン編﹃グジャラット民俗記﹄一四三頁︶、アルメニア人の説にアララット山の蛇に王種あり、その中一牝蛇を選立して女王とす、外国より蛇群来り攻むれど諸蛇脊にかの女王を負う間は敵常に負け却しりぞく、女王に睨にらまるれば敵蛇皆力なし、この女王蛇口にフルてふ光明石を含み夜中これを空に吐き飛ばすと日のごとく輝くという︵ハクストハウゼン著﹃トランスカウカシア﹄英訳三五五頁︶。一八三九年死んだ北インド王ランジットシンは呪言を書いた宝石を右臂の皮下に納めおったので、百事思うままに遂げたというは人造如意珠すなわち能作生珠だろう︵フォンフュゲル﹃迦カシ※ュミ弥ル・羅ウンおト・よダスび・ラ西イヒ克・デ王ル・国シ遊エ記ク﹇#﹁さんずい+︵一/︵幺+幺︶/土︶﹂、U+6EBC、205-2﹈﹄巻三、頁三八二︶、﹃大智度論﹄に竜象獅鷲の頭に赤玉あり、欧州で蛇王バリシスク宝冠を戴き︵ブラウン﹃俗プセ説ウド弁ドキ惑シア・エピデミカ﹄三巻七章ウィルキン注︶、蟾ひき蜍がえるの頭に魔法と医療上神効ありてふ蟾ブフ蜍ォニ石ットありなど︵一七七六年版ペンナント﹃英ブリ国チシ動ュ・物ゾオ学ロジー﹄三巻五頁︶多く言ったは、交通不便の世に宝玉真珠等の出処を知らぬ民が、貴人の頭上に宝冠を戴くごとく希け有うの動物の頭にかかる貴重物を授くと信じたからで、後世その出処がほぼ分ってもなお極めて高価な物は竜蛇の頭より出ると信じたのであろう。 右様に竜が戦いに負けて人に救いを求めた話が少なからぬに、馬琴はその﹃質屋庫﹄三にそれらを看過して一言せず、湖の竜が秀郷の助力を乞うた譚をただただ唐の将武が象に頼まれて巴うわ蛇ばみを殺し象牙を多く礼に貰うて大いに富んだてふ話を作り替えたものと断じたは手てぬ脱かりだ︵馬琴が言うた通り巴蛇象を食い三年して骨を出すと﹃山せん海がい経きょう﹄にあれば古く支那で言うた事で、ローマのプリニウスの﹃博ヒス物トリ志ア・ナチュラリス﹄八巻十一章にも、インドの大竜大象と闘うてこれを捲き殺し地に僵たおるる重量で竜も潰つぶれ死すと見ゆ︶、﹃質屋庫﹄より数年前に成った伴ばん蒿こう蹊けいの﹃閑かん田でん次じひ筆つ﹄二やそれより七十年前出来た寒さむ川かわ辰たつ清きよの﹃近江輿地誌略﹄十一に引いた通り、﹃古事談﹄に次の話あれば勇士が竜を助けて鐘を得た話は鎌倉幕府の代既にあったのだ。その文を蒿蹊が和らげたままに概略を写すとこうだ。三井寺の鐘は竜宮より来た、時代分らず昔粟津の冠者てふ勇士一堂を建つるため鉄を求めて出雲に下る、海を渡る間大風俄にわかに船を覆くつがえさんとし乗船の輩泣き叫ぶ、爾その時とき小童小船一艘を漕ぎ来り冠者に乗れという、その心を得ねどいうままに乗り移ると風浪忽たちまちやむ、本船はここに待つべしと示し小船海底に入りて竜宮に到る、竜宮の殿閣奇麗言うべからず、竜王出会いて語いえらく、従類多く讐敵に亡ぼされ今日また害せらるべし、因って迎え申したから時至れば一矢射たまえと乞う、諾うべないて楼に上って待つと敵の大蛇あまたの眷けん属ぞくを率いて出で来るを向う様ざまに鏑かぶ矢らやにて口中に射入れ舌根を射切って喉下に射出す、大蛇退き帰るところを追い様にまた中ほどを射た、竜王出でて恩を謝し何でも願いの品を進まいらすべしという、冠者鐘を鋳んと苦辛する状さまをいうと、竜王甚だ易やすき事とて竜宮寺に釣るところの鐘を下ろして与う、粟津に帰り一所に掲げ堂を建つ、広江寺これなり、時移ってかの寺破壊の後わずかに住持の僧一人鐘の主たりしが、藤原清衡砂金千両を三井寺僧千人に施す、その時、三綱某五十人の分を乞い集め五十両を広江寺の法師に与う、法師悦んでかの鐘を売り三井寺に釣る、広江寺は叡山の末寺なれば衆徒この事を洩もれ聞いて件くだんの鐘主の法師を搦からめ日あらず湖に沈めたとある、誠に﹃太平記﹄の秀郷竜宮入りはこの粟津冠者の譚から出たのだ、さて秀郷竜王を助けた礼に俵米巻絹ともに取り用いて尽きざるを貰うたというた原話は﹃今昔物語﹄十六の第十五語だ。概略を述べると今は昔京に年若き男貧しくて世を過すに便なかりしが、毎月十八日に持斎して観音に仕え百寺に詣る事年来なり、ある年九月十八日に例のごとく寺々に詣るに南山やま階しな辺へ行く道の山深き所で五十ばかりなる男一尺ばかりなる小蛇を杖の先に懸け行くを見子細を尋ぬると、われは年来如にょ意いと申す物を造るため牛角を伸ぶるにかかる小蛇の油を取ってするなり、若き男その如意は何にすると問うた、知れた事だお飯まんまと衣のために売るのだと答う、若き男小蛇を愍あわれみ種々押問答の末ようやく納得させ、自分の着たる綿衣に替えて小蛇を受け、この蛇は何ど処こに在ったかと問いかの小池に持ち行き放ち、さて寺へ行こうと二町ほど過ぎると十二、三ばかりの女形美なるが微妙の衣袴を着たるに逢う、その女いわくわが父母君がわが命を助けくれた恩を謝せんとて迎えにわれを使わしたとて池の方へ伴つれて行き、暫しばらく待ちたまえとてたちまち失うせぬ、さて出て来て暫く眼を閉じよという、教えのままに眠ね入いると思うほどに目を開けという、目を開けて見れば微めで妙たく飭かざった門あり、また暫く待って七宝で飾った宮殿を過ぎて極楽ごとき中殿に到る、六十ばかりの人微妙に身を荘かざり出で来り、強いてかの男を微いみ妙じき帳床に坐らせ、己れは子あまたある末子なる女童この昼渡り近き池に遊ぶを制すれど聴かず、そのまま遊ばせ人に取られて死ぬべかりしを其そこに来合せ命を助けたもうとこの女子に聞いた嬉しさに謝恩のため迎え申したと言って、何とも知れぬ旨うまい物を食わす、さて主人いわく己は竜王なり、今この度たびの酬むくいに如意の珠を進ぜんと思えど、日本人は心悪あしくて持ちたまわん事難し、因ってかの箱をというて取り寄せ開くと中に金の餅一つあり厚さ二寸ばかり、それを取り出して中より破って片かた破われを箱に入れ今一つの片破れを男に与えて、これを一度に仕つかわず要に随うて片端より破って仕いたまわば一生涯乏しき事あらじという、男これを懐にして今は返ろうと言うに、前さきの女子来て例の門に将つれ出で眠らせて池辺に送り出し重ね重ね礼を述べて消え失せた、家に帰れば暫しばしと思う間に数日経ていた、この事を人に語らずこの金の餅の片破れを破れども破れども元のように殖ふえて尽きず、入要の物に替えければ万よろずの物豊かに極めたる富人として一生観音に仕えたが己れ一代の後はその金餅失せて子に伝わらなんだという。芳賀博士の﹃考証今昔物語集﹄にこの話を挙げた末に巻三の十一条および浦島子伝を参閲せよとあるが、浦島子の事は誰も御承知で、﹃今昔物語﹄三の十一語は迦か毘び羅ら衛えの釈しゃ種くしゅ滅絶の時、残った一人が流浪して竜池辺で困睡する所へ竜女来り見てこれを愛し夫とし、竜女の父竜王の謀はかりごとで妙好白はく氈せんに剣を包んで烏うじ仗ゃ那な国王に献じ、因って剣を操りて王を刺し代って王となり竜女を後と立てた談はなしで両ふたつながら本話に縁が甚だ遠い。また考証本にこの竜女を救うてその父から金餅を得た話の出処を挙げおらぬが、予は二十年ほど前に見出し置いたから出さんに、東晋の仏陀跋ばー羅どらと法顕共に訳せる﹃摩訶僧祇律﹄三十二にいわく、仏舎衛城に在います時、南方一ある邑むらの商人八牛を駆って北方倶くし国に到り沢中に放ち草を食わしむ、時に離車種の者竜を捕り食うが一竜女を捕えた、この竜女布ふさ薩つほ法うを受けたれば殺心なく、鼻に穴開け縄を通して牽ひかれ行く、商人竜女の美貌を見て慈心を起しとあるが、全体竜女は婉妍人間婦女の比にあらず、今もインドで男子をして魂飛び魄散ぜしむるほどの別嬪を竜女と称うる︵エントホヴェンの﹃グジャラット民俗記﹄一四三頁︶くらい故、この商人も慈心も起せばほの字でもありやしたろう、この商人離車に一牛を遣るからその竜女を放てというも聴かず、因って種々糶せり上げて八牛で相談調い竜女を放った、商人こんな悪人はまた竜女を取るも知れぬと心配して、その行く方へ随って行くと一ある池の辺で竜が人身に変じ商人に活命の報恩にわが宮へ御おと伴もしようと言う、商人いわく汝ら竜の性卒暴、瞋しん恚い常なし、我を殺すかも知れぬから御伴は真まッ平ぴらと、竜女いわくわが力能よくかの離車を殺すも我布薩法を受けた故殺さなんだ、いわんや活命の大恩ある人を殺すべきや、少しく待ちたまえといってまず入り去った、この辺竜宮の門あり、二竜を繋つなげり、商人その訳を問うと答うらく、この竜女半月中三日斎法を受く、わが兄弟二人この竜女を守る事堅固ならず、離車に捕わるるに及んだで繋がれいる、何なに卒とぞ救い助けたまえ、一体竜宮の飲食に種々ある、一度食うて一生懸って消化するもあり、二十年で消化するも七年でするもあれば、閻えん浮ぶだ提い人間の食もある、君もし宮に入って何に致しましょうと馳走の献立を伺われたら、閻浮提人間の食を望みたまえと、問わぬ事まで教えくれた、ところへ竜女来って商人を呼び入れ宝牀褥上に坐らせ何の食を食わんと欲するかと問うので、閻浮提人間の食を望んだ、すると竜女種々の珍饌を持ち来りさあお一つと来くる、商人今ここへ来る門辺に竜二疋繋がれあったが何の訳ぞと問うに、そんな事は問わずに召し上がれという、余りに問い返すので余儀なく彼は過ちある故殺そうと思うと答う、商人汝彼ら殺さずばわれ食事せん、釈ゆるさぬ内は一切馳走を受けぬと言い張ったので竜女も我を折り、直すぐ様さま釈す事はならぬが六ヶ月間人間界へ擯出しようと言ってやがてかの二竜を竜宮から追い出した、商人竜宮を見るに種々の宝もて宮殿を荘厳す、商人汝かく快楽多きに何のために布薩法を受くるかと問うと、我々竜に五事の苦しみあり、生まるる時、眠る時、婬する時、瞋いかる時、死ぬ時、本身を隠し得ず、また一日のうち三度皮肉地に落ち熱沙身を暴さらすと答う、何が一番竜の望みかと問うと、畜生道中正法を知らぬ故人間道に生まれたいと答う、もし人間に生まれたら何らを求むるかと問うと、出家が望みと答う、出家を誰に就ついてすべきかと問うと、如来応おう供ぐ正知、今舎衛城にあって、未度の者を度し未脱の者を脱したもう、君も就いて出家すべしと勧めたのでしからば還ろうと言うと、竜女彼に八餅へい金きんを与え、これは竜金なり、君の父母眷けん属ぞくを足みたす、終身用いて尽きじと言い眼を閉じしめて神変もて本国に送り届けた、宅では商人の行つ伴れ来りてこの家の子は竜宮へ往ってしもうたと報しらせたので、眷属宗親一処に聚あつまり悲しみ啼なく、ところへまたかの者生きて還ったと告ぐる者あり、一同大歓喜で出迎え家に入って祝宴を張った、席上かの八餅金を出して父母に与え、これは竜金で截きり取って更に生じ一生用いて尽きず、これを以て楽らくに世を過されよ、ただ願わくは父母我に出家を聴ゆるせと望み、父母放たざるを引き放ちて祇ぎお精んし舎ょうじゃに詣り出家したそうじゃ、竜女が殺さるるところを救うたのも、竜宮へ迎えて珍饌で饗応されたのも、殊に餅金を受けて用いれども尽きなんだ諸点が合うて居るから、﹃今昔物語﹄の話は北インドの仏説から出たに相違なく、﹃近江輿地誌略﹄三九秀郷竜宮より得た十宝中に砂金袋を列せるは、たまたま件くだんの餅金を得た仏話が秀郷竜宮入譚の幾分の原話たる痕あとを存す、﹃曼陀羅秘抄﹄胎蔵界の観音院に不ふく空うけ羂んじ索ゃくあり、﹃仏像図ず彙い﹄に不空羂索は七観音の一なり、南天竺の菩提流支が唐の代に訳した﹃不空羂索神変真言経﹄にこの菩薩の真言を持して竜宮に入りて如意宝珠を竜女より取り、また竜女を苦しめて涙を取り飲んで神通と長寿を得、竜女の髪を採りて身体に繋かけ、一切天竜羅刹等を服従せしむる等の法を載す、上引の﹃今昔物語﹄の文に竜の油を以て如意を延ばすとあるは、この話の主人公たる若者が観音に仕えたとあるに因み、七観音の一たる不空羂索の真言で右様の百事如意の法を求むる事あるを、如意てふ手道具と心得違うたのでなかろうか。 これも従来気付いた人がないようだが、秀郷が竜に乞われて蜈むか蚣でを射平らげたてふ事も先例ある。﹃今昔物語﹄巻二十六の九にいわく、加賀の某郡の下げ衆す七人一党として兵仗を具えて海に出で釣りを事とす、ある時風に遭おうて苦しむと遥かに大きな島ありて、人がわざと引き寄するようにその島に船寄る、島に上りて見廻すほどに二十余歳らしい清げな男来て汝たちを我が迎え寄せたるを知らずや、風は我が吹かしたのだといって微妙な飲食もて饗応しさていうは、ここより澳おきにまたある島の主我を殺してこの島を取らんと常に来り戦うをこれまで追い返したが、明日は死生を決し戦うはず故、我を助けもらわんとて汝らを迎えたと、釣り人ども出来ぬまでも命を棄て加勢申さん、その敵勢はいかほどの人数船数ぞと問うと、男それはありがたい、敵も我も全く人でないのを明日見なさい、従前敵が来るとこの滝の前に上陸せしめず海際で戦うたが、明日は汝らを強く憑たのむから上陸させて戦うて我堪えがたくならば汝らに目を見合すその時箭やのあらん限り射たまえと、戦いの刻限を告げ確しっかり食事して働いてくれと頼んで去った、七人木で庵を造り鏃やじりなど鋭といで弓ゆづ弦る括くくって火焼たいて夜を明かし、朝に物吉よく食べて巳みの時になりて敵来るべしといった方を見れば、風吹いて海面荒れ光る中より大きな火二つ出で来る、山の方を望めば草木靡なびき騒ぐ中よりまた火二つ出で来る、澳より近く寄するを見れば十丈ばかりの蜈蚣で上は□□に光り左右の眼︵?︶は赤く光る、上から来るは同じ長さほどの臥ふし長たけ一抱えばかりな蛇が舌嘗なめずりして向い合うた、蛇、蜈蚣が登るべきほどを置いて頸を差し上げて立てるを見て蜈蚣喜んで走り上る、互いに目を瞋いからかして相守る、七人は蛇の教えの通り巌上に登り箭を番つがえて蛇を眼懸けて立つほどに蜈蚣進んで走り寄って互いにひしひしと咋くわえて共に血肉になりぬ、蜈蚣は手多かるものにて打ち抱きつつ︵?︶咋えば常に上手なり、二時ばかり咋う合うて蛇少し弱った体ていで釣り人どもの方へ目を見やるを、相図心得たりと七人の者ども寄りて蜈の頭から尾まである限りの箭を筈はず本もとまで射立て、後には太刀で蜈の手を切ったから倒れ臥した、蛇引き離れ去ったから蜈蚣を切り殺した、やや久しゅうして男極めて心地悪わる気げに顔など欠けて血出でながら食物ども持ち来って饗し喜ぶ事限りなし、蜈蚣を切り放って木を伐り懸けて焼き了おう、さて男釣り人どもに礼を厚く述べ、この島に田作るべき所多ければ妻子を伴れて移住せよ、汝ら本国に渡らんには此こな方たより風吹かさん、此方へ来んには加賀の熊田宮に風を祈れと教えて、糧食を積ませ乗船せしむると俄かに風吹いて七人を本国へ送る、七人かの島へ往かんという者を語らい七艘に乗船し、諸穀菜の種を持ち渡りその島大いに繁はん昌じょうするが猥みだりに内地人を上げず、唐人敦賀へ来る途上、この島に寄って食物を儲もうけ、鮑あわびなど取る由を委細に載せ居る、これを以て攷かんがえると秀郷が蜈蚣を射て竜を助けた話も、話中の蜈蚣の眼が火のごとく光ったというも、﹃太平記﹄作者の創はじめた思い付きでなく、少なくとも三百年ほど前だって行われたものと判る。英国に夜燐光を発する学名リノテーニア・アクミナタとリノテーニア・クラッシペスなる蜈蚣二つあり、学名は知らぬが予米国で一種見出し、四年前まで舎弟方に保存しあったが砕けしまった、かかる蜈蚣多分日本にも多少あるべし、蜈蚣の毒と蝮蛇の毒と化学反応まるで反対すと聞いたが、その故か田辺辺へんで蜈蚣に咬かまれて格別痛まぬ人蝮蛇咬むを感ずる事劇はげしく、蝮蛇咬むをさまで感ぜぬ人蜈蚣に咬まるれば非常に苦しむと伝う、この辺から言ったものか、﹃荘子﹄に螂むか蛆で帯を甘んず、注に帯は小蛇なり、螂蛆喜このんでその眼を食らう、﹃広雅﹄に螂蛆は蜈蚣なり、﹃史記﹄に騰蛇これ神なるも螂蛆に殆しめらる、﹃抱朴子﹄に︿南人山に入るに皆竹管を以て活ける蜈蚣を盛る、蜈蚣蛇あるの地を知り、すなわち管中に動作す、かくのごとくすなわち草中すなわち蛇あるなり、蜈蚣蛇を見れば能く気を以てこれを禁ず、蛇すなわち死す﹀。﹃五雑俎﹄九に竜が雷を起し、大蜈蚣の玉を取らんとて撃った話あり、その長たけ一尺以上なるは能く飛ぶ、竜これを畏おそる故に常に雷に撃たるという、竜宮入りの譚に蜈蚣を竜の勁敵としたるもまことに由ありだ、西洋には蜈蚣蛇を殺すという事下に言うべし。 秀郷の譚に蜈蚣が湖水中の竜宮を攻めたすら奇なるに、﹃今昔物語﹄の加賀の海島の蜈蚣が海を渡った大蛇を襲うたは一層合点行かぬという人もあろう、しかし欧州西部の海浜波打ち際に棲すむ蜈蚣二属二種あり、四十年ほど前予毎度和歌浦の波止場の波打ち懸る岩下に小蜈蚣あるを見た、今日は既に命名された事と想う、さて貝原先生の﹃大和本草﹄に﹁ムカデクジラ長大にして海鰌のごとし、背に鬣たてがみ五あり尾二に分る、足左右各六すべて十二足あり肉紅なり、これを食えば人を殺す、大毒あり﹂、﹃唐土訓蒙図彙﹄にその図あったが、貝原氏の説に随ってよい加減に画いた物に過ぎじと惟おもう、かかる変な物今日まで誰も気付かぬは不審と、在外中種々捜索すると、やっとサー・トマス・ブラウンの﹃ノーフォーク海岸魚等記﹄︵十七世紀︶に、﹁予また漁夫が海より得たちゅう物を見るにロンデレチウスが図せるスコロペンドラ・セタセア︵蜈蚣鯨の意︶に合い十インチほど長し﹂とあるを見て端緒を得、ロンデレチウスの﹃海リブ魚リ・譜デ・ピッシブス・マリンス﹄︵一五五四年版︶と﹃水ウニ族ウエ志ルサ余エ・篇アクアチリウム・ヒストリアエ・パルス・アルテラ﹄︵一五五五年版︶を求めたが、稀書で手に入らず、しかし幸いに一六〇四年版ゲスネルの﹃動ヒス物トリ誌ア・アニマリウム﹄巻四にロ氏の原図を出しあるを見出した、一七六七年版ヨンストンの﹃魚ヒス鯨トリ博ア・物ナチ志ュラリス・デ・ピッシブス・エト・セチス﹄巻五の四四頁には一層想像を逞たくましゅうした図を出す、この二書に拠るに蜈蚣鯨を満足に記載したは、ただ西暦二百年頃ローマ人エリアヌス筆﹃動デ・物ナチ性ュラ質・ア記ニマリウム﹄十三巻二十三章あるのみで、その記にいわく、蜈蚣鯨は海より獲し事あり、鼻に長き鬚あり尾扁ひらたくして蝦えび︵または蝗いなご︶に似、大きさ鯨のごとく両側に足多く外見あたかもトリレミスのごとく海を游およぐ事駛はやしと、トリレミスとは、古ローマで細長い船の両側に長中短の櫓を三段に並べ、多くの漕手が高中低の三列に腰掛けて漕いだもので、わが邦の蜈蚣船︵﹃常山紀談﹄続帝国文庫本三九八頁、清正が夫人の附つき人びと輩ら川口にて蜈蚣船を毎晩に漕ぎ競べさせたとある︶も似たものか、さてゲスネルはかかる蜈蚣鯨はインドにありといい、ヨンストンはその身全く青く脇と腹は赤を帯ぶといった、それからウェブストルの大字書にスコロペンドラ︵蜈蚣︶とスペンサーの詩にあるは魚の名と出で居る、これだけ列つらねて一八九七年の﹃ネーチュール﹄五六巻に載せ、蜈蚣鯨は何物ぞと質問したが答うる者なく、ただその前インドの知事か何かだったシンクレーヤーという人から﹃希アン臘トロ詞ギア花イ・集グライカイ﹄中のテオドリダス︵西暦紀元前三世紀︶とアンチパトロス︵紀元前百年頃︶の詩を見ろと教えられたから半日ほど酒を廃して捜すと見当った、詩の翻訳は不得手ゆえ出任せに訳すると、テの詩が﹁風南海を攪かきまわして多足の蜈蚣を岩上に抛なげ揚げた、船持輩この怪物の重き胴より大きな肋骨を取ってここに海神に捧げ置いた﹂、アの方は﹁何いず処ことも知れぬ大海を漂浪したこの動物の遺骸破れ損じて浜辺の地上にのたくった、その長さ四丈八尺海かい沫まつに沾ぬれ巌石に磨かれたるを、ヘルモナクス魚取らんとて網で引き上げ、ここにイノとパライモンに捧げた、この二海神まさにこの海より出た珍物を愛めで受くべし﹂てな言ことだ、マクグレゴル注にここに蜈蚣というはその足の数多しというでなく、その身長きを蜈蚣に比べたので、近世評判の大海蛇のような物だろうと言い、シュナイデルはこれぞエリアヌスのいわゆる蜈蚣鯨なりと断じた、これは鯨類などの尸しかばねが打ち上がったその肋骨の数多きを蜈蚣の足と見たのだろ、レオ・アフリカヌスの﹃亜非利加記﹄にメッサの海浜のある社の鳥居は全く鯨の肋骨で作る、蜈蚣鯨が予言者ヨナを呑んでここへ吐き出した、今も毎度この社前を過ぎんとする鯨は死んで打ち上がる、これ上帝この社の威厳を添えるのだとは、そりゃ聞えませぬ上帝様だ、﹃続博物誌﹄に曰く、李勉州にありて異骨一節を得、硯と為すべし、南海にいた時海商より得、その人いうこれ蜈蚣の脊骨と、支那でも無識の人は鯨の脊骨に節多きを蜈蚣の体と誤認したのだ、有名な一八〇八年九月スコットランドのストロンサ島に打ち上がった五十五フィートの大海蛇は、これを見た者宣誓して第七図を画き稀け有うの怪物と大評判だったが、その骨をオエン等大学者が検して何の苦もなく一判りにセラケ・マキシマなる大鮫と知った︵同図ロ︶。その心得なき者は実際覩みた物を宣誓して画いてさえかく途方もなき錯誤を免れぬ事あり︵一八一一年﹃エジンボロソーネリアン博物学会報告﹄巻一、頁四二六―三九。一八五七年版﹃依プロ丁シー堡ジン皇グス立・オ学ヴ・士ゼ・会ロヤ院ル・記ソサ事イエチー・オヴ・エジンボロ﹄巻三、頁二〇八―一五。一八六〇年版ゴッス﹃博ゼ・物ロマ奇ンス談・オヴ・ナチュラル・ヒストリー﹄三二七頁︶。したがって﹃隋書﹄に︿真カン臘ボジ国アに浮胡魚あり、その形※﹇#﹁魚+且﹂、U+4C49、217-8﹈に似る、嘴鸚おう※む﹇#﹁母+鳥﹂、U+4CC7、217-9﹈のごとく八足あり﹀、また﹃類函﹄四四九に﹃紀聞集﹄を引いて天宝四載広州海潮に因って一蜈蚣を淹ひたし殺す、その爪を割さきて肉百二十斤を得とあるも、鯨類か鮫類の死体の誤察から出た説だろう。以上拙考の大要を大正二年の﹃ノーツ・エンド・キーリス﹄十一巻七輯に載せ更に念のため諸家の批評を求めると、エジンボロのゼームス・リッチー博士の教示にいわく、エリアヌスが筆した蜈蚣鯨はゴカイ類のある虫だろう、ゴカイ類の頭に鬚あるを鼻に長鬚ありといい、尾に節ありて刺あるが鰕えび︵または蝗いなご︶に似、両側に足多くトリレミスごとく見ゆとは、ゴカイ類の身に二十対あり二百双の側パラ足ポチアありて上下二片に分れ波動して身を進むる様に恰よく当あたり、鯨は古人が大きな海産動物を漠然総称したので、英国ノルウェー北米等の海から稀に獲るネレイス・ヴィレンスちゅう大ゴカイの長たけ一フィートより三フィートで脊色深紫で所々黯あん青せいまた緑ばかりで光り、脇と腹は肉色であるいは青を帯びたる所がヨンストンのいわゆるその身全く青く脇と腹赤を帯ぶに合いいる、ローマのプリニウス等かかるゴカイを海スコ蜈ロベ蚣ントラ・マリナと号なづけ、鈎はりを呑めばその腸をまるで吐き出し鈎を去って腸を復のみ呑もどすと書きいるとあって、この鈎一件についても説を述べられ予と論戦に及んだがここに要なければ略す、女文豪コンスタンス・ラッセル夫人よりも書面で教えられたは、哲学者ジョン・ロック一六九六年︵わが元禄九︶鮭の胃を剖さいて得た海蚣をアイルランドの碩学で英学士会員だったモリノー男に贈り、男これを解剖してロンデレチウスやヨンストンの蜈蚣鯨とやや差ちがう由を述べ、ロックの記載とともに同年版行したとあって、熊楠がこの学問上の疑論を提出した功を讃められたが、対あい手てが高名の貴婦人だけにその書しょ翰かんを十襲して﹁書くにだに手や触れけんと思うにぞ﹂と少々神経病気味になって居る。さてこれらの教示を得てますます力を得また捜索するとプリニウスの海蜈蚣の事は、リッチー博士より前にクヴィエーが既はやそのゴカイ類たる由を述べ居る、もっとも、博士とは別な点から起論されたが帰する所は一で、ここに引いても動物専門の人でなくては解らぬ、このクヴィエーは最高名な動物学者で一世ナポレオンに重用されて仏国学政の枢機を運用し、ブルボン家恢復後も内務大臣になると間もなく死んだ、定めて眼が舞うほど忙しかった身を以て海蜈蚣の何物たるまで調べいたは、どこかの大臣輩がわずかな酒に酔っ払ったり芸妓に子を生ませたりして能事とすると大違いだ、それからゴカイ類には、サモア島で年に二朝しか獲れずしたがって王に限って食うたパロロ・ヴェリジス、わが国備前の海蛭、支那の土笋や禾虫︵畔くろ田だす翠いが嶽くの﹃水族志﹄に出いづ︶など食品たるものもあるが、その形背皆蚯みみ蚓ずに足を添えたようで魚釣りの餌にするのみ食い試みぬ人が多い、一五六八年版ジャク・グレヴァン・ド・クレルモンの﹃毒ド・物リヴ二ル・書ジュ・ヴェナン﹄一三八頁に古人一種の蜈蚣を蛇殺し︵オフィオクテネ︶といい能く蛇を咋くい殺したとあって、貝原先生同様人の唾が蜈蚣の大敵たる由を言うたは、秀郷唾を鏃やじりに塗りて大蜈蚣を殺したというに合う、それから海蜈蚣すなわちゴカイが人を咬かめば毒あるのみならず触れても蕁いら麻くさに触れたように痛むというた、十二年前東牟婁郡勝浦港に在った時、毎度その近傍の綱切島辺の海底に黄黒斑で二、三間も長い海蜈蚣が住むと聞いて例の法ほら螺ばな談しと気に留めなんだが、右のごとく教示やら調査やらで気が付き当田辺湾諸村人に質ただすと諸所で夏日海底から引き揚げて石灰に焼く菊きく銘めい石いしの穴に一尺から一間ほど長い海蜈蚣が棲むと聞いて前祝いに五、六升飲んで出懸けると炎日のため件くだんの虫がたちまち溶け腐りて漆のごとくなりおった、よほど大きな物で容れる器がないとの事だ、以上述べたところで秀郷蜈蚣退治の先駆たる加賀の海島で蜈蚣海を游いで大蛇と戦った譚も多少根拠あるものと別わかり、また貝原氏が蜈蚣鯨大毒ある由記したのも全まる嘘うそでないと知れる、氏の﹃大和本草﹄に長崎の向むか井いげ元んし升ょうという医者の為ひと人となりを称し毎度諮問した由記しあれば、蜈蚣鯨の一項は向井氏が西洋人か訳つう官じから聞き得て貝原氏に伝えたのかも知れぬ、第八図はゴカイの一種ネレイス・メガロプスが専ら水を游ぐ世態をやや大きく写したので、大小の違いはあるが実際海蜈蚣また蜈蚣鯨の何いか様ようの物たるを見るに足る。これを要するに秀郷竜宮入りの譚は漫然無中有を出した丸嘘談でなく、事ごとにその出処根底ある事上述のごとく、そのうち秀郷一、二の矢を射損じ第三の矢で蜈蚣を射留めたと言うに類した那智の一ひと蹈つたちゅう怪物退治の話がある、また﹃近江輿地誌略﹄に秀郷竜女と諧かのうたという談については、古来諸国で竜蛇を女人の標識としたり、人と竜蛇交わって子孫生じたと伝え、︿夜半人なく白波起たつ、一目赤竜出で入る時﹀など言い竜蛇を男女陰相に比べて崇拝した宗義など、読者をぞっとさせる底の珍譚山のごとく、上は王侯より下乞こつ丐がいに至るまで聞いて悦腹せざるなく、ロンドンに九年在いた中、近年大臣など名乗って鹿爪らしく構え居る奴やつ原ばらに招かれ説教してやり、息の通わぬまで捧ほう腹ふくさせ、むやみに酒を奢おごらせる事毎々だったが、それらは鬼が笑う来巳の年の新年号に﹁蛇の話﹂として出すから読者諸君は竜の眼を瞼みはり蛇の鎌首を立て竢まちたまえというのみ。ついでに言う、秀郷の巻絹や俵どころでなく、如にょ意いが瓶めとて一切欲しい物を常に取り出して尽きぬ瓶を作る法が﹃大陀羅尼末法中一字心呪経﹄に出で居る、慾よく惚ぼけた人はやって見るが宜よろしい。︵大正三ママ年十二月六日起稿、大竜の長々しいやつを大多忙の暇を窃ぬすんで書き続け四ママ年一日夜半成る︶ ︵大正五年三月、﹃太陽﹄二二ノ三︶