﹁張り交まぜの屏びょ風うぶひつじの五ごも目くめ飯し﹂てふ川柳がある。この米高また紙高の時節に羊に関する雑談などを筆するは真ほんに張り交ぜ屏風を造って羊に食わすほど紙潰つぶしな業わざと思えど、既に六、七年続き来った﹃太陽﹄の十二獣談を今更中絶も如いか何んと、流行感冒の病み上りでふらつく頭脳で思い付き次第に書き出す。 既に米高と言ったから、米高がかった話より初めよう。昔スウェーデン大凶年で饑飢免るべからずと知れた時、国民会議してすべての老人と病人を殺し、せめては少壮者を全く存せんと決したが、国王かかる残虐を行うに忍びず、念のために神慮を伺うた。神託宣していわく、もしこの国に年若く姿すが貌たかたち端正にして智慮に富み、足で歩まず、馬に騎のらず、車に乗らず、日中でなく、夜中でなく、月の前半でも後半でもなく、衣を著きず、また裸にもあらず、かくてシグツナの王宮に詣いたり得る美なる素きむ女すめあらば、その女こそ目前差し迫った大禍難を無事に避くべき妙計を出し得べけれと。 爾とき時にヴェンガイン村に一素女あり、ジサと名づく、貞操堅固、儀容挺特、挙世無双だった。数千の無む辜この民を助けたさに左思右考して神託通りにこの難題を見事遣やって退のけた。 ジサ女、年中何の月にも属せず、太陽天に停とどまって動かぬと信ぜらるる日を択えらび、身に罟あみを被おおったのみ故、裸とも著衣とも言えぬ。それから一足を橇そりに、一足を山や羊ぎの背に載せて走らせ、満月の昏くれ時どき、明とも暗とも付かぬうちに王宮に到った。王大いに悦び救済の法を諮はからうと、ジサそれは容易な事、国内に荒野が多い、それへ人民の一部分を移して開墾しなさいと勧め、王これに従って見事に凶難を免れた。この王も年若くて美男だったから、相談たちまち調ととのってジサを娶めとり挙国極きわめて歓呼した。古スウェーデン三大祭の一たるジサ祭はこの記念のために始められたので、かの国キリスト教に化した後も、毎年二月初めの日曜にこれを祝うて今に絶えぬと、ロイドの﹃瑞ピー典サン小ト・農ライ生フ・活イン・スエズン﹄に出いづ。 山羊はスウェーデンで魔の乗物と信ぜらるれど、昔は雷神トールの車牽ひきとされた︵グリンムの﹃独ドイ逸チェ鬼・ミ神トロ誌ギエ﹄二板六三二頁︶。ジサ、本名ゴア、原もと農産物を護まもる女神という。惟おもうにこれまた山羊を使い物としたから右様の話が出来たのであろう。 英国の俚りげ諺んに、三月は獅子のように来り、子羊のごとく去るというは、初め厳しく冷ゆるが、末には温かになるを指さす。しかるに国に随よっては、ちょうどわが邦くに上かみ方がたで奈良の水みず取とりといって春の初めにかえって冷ゆるごとく、暖気一たび到ってまた急に寒くなる事あり。仏国の東南部でこれを老ば女ばの次じだ団ん太だと呼ぶ。俗伝に二月の終り三日と、三月の始め三日はほとんど毎年必ず寒気が復かえって烈はげしい。その訳は昔老婆あって綿羊を飼う。二月の末殊ことに温かなるに遇あい﹁二月よさようなら、汝は霜もてわが羊を殺し能あたわなんだ﹂と嘲あざけった。二月、怒るまい事か三月から初め三日を借り、自分に残った末の三日と併あわせて六日間強く霜を降らせてことごとくその綿羊を殺し、老女をして次団太踏ましめた。仕方がないから牝牛を買って三月末三日を余すまで無事に飼ったが、前にも懲りず三月も済んだから畏おそるるに足らぬと嘲った。三月、また怒って四月からその初め四日を借り、自分の終り三日と合せて一週間の大霜を降らせ草を枯らししまったので、老女また牝牛を亡くしたそうだ。 スペインでも三月末の数日は風雨太いたく起るが恒つねだ。伝えて言う、かつて牧羊夫が三月に三月中天気を善くしてくれたら子羊一疋進ぜようと誓うた。かくて気候至って穏やかに、三日経たたば四月になるという時、三月、牧羊夫に子羊を求むると、たちまち吝しわくなって与えず。三月怒って羊は三月末より四月初めへ掛けて子を生む大切の時節と気が付かぬかと言い放ち、自分の終り三日と、四月より借り入れた三日と、六日の間寒風大雨を起して、すべての羊もちょうど生まれた羊児も鏖みなごろしにしたと。 一九〇三年板アボットの﹃マセドニア民俗記﹄に言う。カヴァラ町の東の浜を少し離れて色殊に白き処あり、黄を帯びた細い砂で、もと塩池の底だったが、日光に水を乾ほし尽されてかくなったらしい。昔美なる白綿羊を多く持った牧夫あり、何か仔しさ細いあってその羊一疋を神に牲にえすべしと誓いながら然しかせず、神これを嗔いかって大波を起し牧夫も羊も捲まき込んでしまった。爾じら来いそこ常に白く、かの羊群は羊毛様の白き小波と化なって今も現わる。羊プロ波パタと名づくと。これに限らず曠野に無数の羊が草を食いながら起伏進退するを遠望すると、糞蛆の群行するにも似れば、それよりも一層よく海上の白波に似居る。近頃何とかいう外人が海を洋というたり、水盛んなる貌を洋々といったりする洋の字は、件くだんの理由で羊と水の二字より合成さると釈といたはもっともらしく聞える。しかし王荊公が波はすなわち水の皮と牽こじ強つけた時、東坡がしからば滑とは水の骨でござるかと遣やり込めた例もあれば、字説毎つねに輒たやすく信ずべきにあらずだ。 ﹃春しゅ秋んじ繁ゅう露はんろ﹄におよそ卿に贄にえとるに羔こひつじを用ゆ。羔、角あれども用いず、仁を好む者のごとし。これを執とらうれども鳴かず、これを殺せども号さけばず、義に死する者に類す。羔、その母の乳を飲むに必ず跪ひざまずく。礼を知る者に類す。故に羊の言たるなお祥のごとし。故に以て贄となすとあるなども本来を誤った説で、羊が生来吉祥の獣たるにあらず、もと羊を神に供えて善悪の兆を窺うたから祥の一字を羊示の二つから合成したのである。 皆人の熟知する通り﹃孟子﹄に羊と牛とが死を怖るる表出の程度についての議論がある。馬琴の﹃烹にま雑ぜの記き﹄の大意にいわく、牛の性はその死を聞く時は太いたく怖る。また羊の性はその死を聞きても敢あえて怖れぬという宋の王逵が明文あり。﹃蠡れい海かい集しゅう﹄にいう。牛と羊と共に丑未の位におれり、牛の色は蒼あおく、雑色ありといえども蒼が多し、春陽の生気に近きが故に死を聞く時はすなわちす。羊の色は白く、雑色ありといえども白が多し、秋陰の殺気に近きが故に死を聞く時はすなわち懼おそれず。およそ草木牛ぎゅを経るの余は必ず茂る、羊を経るの余は必ず悴か槁れる。諺ことわざにこれあり曰く、牛食は澆そそぐがごとく羊食は焼くがごとし。これけだし生殺の気しかるを致せり、この説﹃孟子﹄の一章を註すべし。﹃孟子﹄の梁恵王篇に斉宣王羊をもて牛に易かえよと言いし段を按ずるに王の意小をもて大に易ゆるにあらず、また牛を見ていまだ羊を見ざる故にあらず、牛は死を聞いて太いたく懼るがために忍びず、故にいうそのとして罪なくして死地に就つくがごときに忍びず、故に羊を以てこれに易ゆるなりと。これ羊は死を聞いて懼れざるものなれば牛に易えよといいしなり。もししからずば豕いのこもて牛に易ゆとも妨げなけん、さはれ孟子は牛と羊の性を説かず。ただいう︿牛を見ていまだ羊を見ざるなり、君子の禽獣におけるや、その生を見ればその死を見るに忍びず、その声を聞けばその肉を食うに忍びず、ここを以て君子は庖厨を遠ざくなり﹀。これ仁者の言、いわゆるその君をして堯舜になす者なり、嗚お呼こなる所為なれど童蒙のために註しつ︵以上馬琴の説︶。志村知孝これを駁ばくして曰く、この説童蒙のために注しつといえど奇を好める説なり、いわゆる宣王の︿羊を以て牛に易う﹀といいしは孟子のいわゆる︿小を以て大に易え、牛を見て羊を見ず﹀といえる意にして、牛の性は死を聞いて太いたく怖るるがために殺すに忍びず、羊の性は死を聞いて懼れざるものなれば牛に易えよといいしにはあるべからず。︿王もしその罪なくして死地に就くを隠いたまばすなわち牛羊何ぞ択ばん﹀といえるにてその意明らけし。宣王もし牛は死を恐れ、羊は死を喜ぶ故に易えよと言われしならば、その由を説かるべきにその説なきをかく言わば童蒙をしてかえって迷いを生ぜしむべきにやと︵﹃古今要覧稿﹄五三一巻末︶。 仏経に人間が無常を眼前に控えながら何とも思わぬを、牛が朋輩の殺さるるを見ながら平気で遊戯するに比しあれど、ロメーンズの﹃動アニ物マル智・イ慧ンテ編リゼンス﹄に牛が屠場に入りて、他の牛の殺され剥はがるる次第を目撃し、仔細を理解して恐きょ懼うくし、同感する状さま著しく、ほとんど人と異ならざる心性あるを示す由を記し、ただし牛に随って感じに多少鋭鈍の差があると注した。予在外中しばしば屠場近く住み、多くの牛が一列に歩んで殺されに往くとて交互哀鳴するを窓下に見聞して、転うたた惨さん傷しょうに勝たえなんだ。また山羊は知らず、綿羊が殺され割さかるるを毎度見たが、一声を発せず、さしたる顛倒騒ぎもせず、こんな静かな往生はないと感じた。﹃経きょ律うり異つい相そう﹄四九に羊鳴地獄の受罪衆生は、苦痛身を切り声を挙げんとしても舌能よく転ぜず、直ちに羊鳴のごとしと見え、ラッツェルの﹃人類史﹄にアフリカのズールー人新たに巫ふとなる者、牛や山羊その他諸獣を殺せど、綿羊は殺されても叫ばぬ故、殺さぬと出いづ。 かく攷かんがえるとどうも馬琴の説が当り居るようだ。すなわち斉の宣王が堂上に坐すと牛を率ひいて過ぐる者あり。王問うてその鐘に血を塗るため殺されに之ゆくを知り、これを舎ゆるせ、われその罪なくして慄おののきながら死地に就くに忍びずと言う。牛を牽く者、しからば鐘に血を塗るを廃しましょうかと問うと、それは廃すべからず、羊を以て牛に易えよと言った。王実は牛が太いたく死を懼れ羊は殺さるるも鳴かぬ故、小の虫を殺して大の虫を活いかせてふ意でかく言ったのだが、国人は皆王が高価な牛を悋おしんで、廉価の羊と易えよと言ったと噂した。それについて孟子が種々と王を追窮したので、売うり詞ことばに買かい詞ことば、王も種々弁べん疏そし牛は死を恐れ、羊は鳴かずに殺さるる由を説くべく気付かなかったのだ。さて孟子は王のために︿牛を見ていまだ羊を見ざるなり﹀云々と弁護するに及び、王悦んで、︿詩にいわく他人心あり、予これを忖そん度たくす﹀とは夫ふう子しの謂いいなり、我は自分で行やっておきながら、何の訳とも分らなんだに夫子よくこれを言い中あてたと讃ほめたので、食肉を常習とする支那で羊は牛ほど死を懼れぬ位の事は人々幼時より余りに知り切りいて、かえってその由の即答が王の心に泛うかみ出なんだのだ。 この鐘に血塗るという事昔は支那で畜類のみか、時としては人をも牲殺してその血を新たに鋳た鐘に塗り、殺された者の魂が留まり著いて大きに鳴るように挙行されたのだ。その証拠は﹃説ぜい苑えん﹄十二に秦と楚と軍いくさせんとした時、秦王人を楚に遣つかわす、楚王人をしてこれに汝なんじ来る前に卜うらないしかと問わしむると、いかにも卜うたが吉とあったと答えた。楚人その卜いは大間違いだ、楚王は汝を殺して鐘に血塗らんとするに何の吉もないものだと威おどした。秦の使者曰く、軍が始まりそうだからわが王我をして様子を窺うかがわしむるに、我殺されて還かえらずば、わが王さてはいよいよ戦争と警戒準備怠らぬはずだからわがいわゆる吉だ。そのうえ死者もし知る事なくんばその血を鐘に塗りて何の益あろうか、万一死者にして知るあらばわれは敵を相たすくるはずがない。楚の鐘鼓をして声を出さざらしめんに楚の士卒を整え軍いく立さだてをする事がなるまい。それ人の使を殺し人の謀はかりごとを絶つは古の通議にあらざるなり。子大夫試みにこれを熟計せよと強く出たので、楚王これを赦ゆるし還らせたとある。 このついでにいう、﹃日本霊異記﹄や﹃本朝文粋﹄に景きょ戒うかいや然ちょうねんが自ら羊僧と名のった由見ゆ。﹃塵じん添てん嚢あい鈔のうしょう﹄十三に羊僧とは口に法を説かざるをいう。羊は卑しき獣とす、獣中に羊のごとく僧中に卑しという心なりとあるは牽強で、﹃古今要覧稿﹄五三〇には、︿﹃仏説大方広十輪経﹄いわく犯不犯、軽重を知らず、微細罪懺悔すべきを知らず、愚痴無智にして善智識に近からず、深義のこれ善なるか善にあらざるか諮問する能わず、かくのごとき等の相、まさに唖あよ羊うそ僧うたるべし﹀とあって、羊僧は唖羊僧の略とまでは判るが、何故かかる僧を唖羊僧というかが知れぬ。熊楠、﹃大智度論﹄巻三を見るに僧を羞僧、無羞僧、唖羊僧、実僧の四種に分つ。破戒せずといえども︿鈍根無慧、好醜を別たず、軽重を知らず、有罪無罪を知らず、もし僧事あるに、二人ともに諍あらそうに断決する能わず、黙然として言なく﹀、譬たとえば、白羊、人の殺すに至っても声を作なす能わざるがごとし、これを唖羊僧と名づくとある。これで羊僧てふ語も綿羊が声立てずに殺さるるに基づくと知った。泰西の十二宮のうち牡ア綿リ羊エ宮スを古く白羊宮と漢訳しあるので白羊とは綿羊と判る。 西アフリカのアシャンチー人伝うるは、昔上帝人にん間かんに住み面まのあたり談はなしたから人々幸福だった。例せば小児が薯やま蕷いもを焼くとき共に食うべき肴さかなを望まば、上帝われに魚を与えよと唱えて棒を空中に抛ほうればたちまち魚を下さった。しかるに世間はかく安楽でいつまでも続かず、一日婦女どもが食物を摺すり調える処へ上帝来り立ち留まって観みるを五う月る蠅さがり、あっちへ行けといえど去らず、婦女ども怒って擂すり木こぎで上帝を打ったから、上帝倉皇天に登り復またと地上へ降くだらず、世は永く精フィ物チシュに司配さる。因って今も人々戻らぬ昔を追懐して、あの時婆どもが上帝を打たなんだらどんなにわれわれは幸福だろうと嘆息する。ただし上帝は随分人思いの親切者で天に引き上げた後のち山羊を降して告げしめたは、これから死というもの来て汝らを取り殺すが汝ら全く亡くなるでなく天に来りてわれとともに住むのだと。山羊この報を持って町へ来る途上好よき草を見て食いに掛かる。上帝これを見て綿羊を遣わし、前同様に人に告げしめたところ、綿羊誤って上帝の御意に汝ら死なばそれ切りとあると告げた。跡へ来った山羊が上帝の御意に汝ら死するに決まって居るが、それ切り亡くなるでない、天へ上って上帝近く住むはずとあると告げた。その時人々山羊に対むかい、それは神勅でない、綿羊の伝命が上帝の御意と信ずると述べたから、人間が死亡し始めたそうだ。同じアシャンチー人の中にも異説ありて最初不死の報を承ったは綿羊だが、途上で道草を食う間に山羊がまず人間に死の命を伝え、それを何事とも知らず無性に嬉うれしがって御受けした此この方かた人は皆死ぬという由︵ベレゴーの﹃シェー・レー・アシャンチー﹄一九〇六年板一九八頁︶。 ﹃太平記﹄に唇亡びて歯また寒くは分って居るが、その次に魯酒薄うして邯かん鄲たん囲まる、これには念の入った訳がある。楚の宣王諸侯を朝会した時、魯の恭公後おくれ至り進上した酒が薄かったから宣王怒った。恭公我は周公の胤いんにして勳王室にあり、楚ごとき劣等の諸侯に酒を送るさえ礼に叶かなわぬに、その薄きを責むるも甚だしと憤って辞せずに還った。宣王すなわち斉とともに魯を攻めた。梁の恵王常に趙を撃たんとしたが楚を畏れて手控えいた、今楚が魯を事として他を顧みる暇いとまなきに乗じ兵を発して趙の都邯鄲を囲んだというので、セルヴィアの狂漢が奮うて日本に成金が輩出したごとく、事と事が間接に相因るを意味す。インドにも右様の譬えがある。﹃雑宝蔵経﹄八に下女が麦と豆を与あずかり居ると、主人の家の牡羊が毎度盗み食い減らすから主人に疑わるるを憤り、羊を見る度たび杖で打ち懲らす。羊も下女を悪にくみその都度觝つき触かかる。一日下女が火を取りおり、杖を持たぬを見て羊直ちに来り襲う。下女詮せん方かたなさにその火を羊の脊に置くと羊熱くなりて狂い廻り、村に火を付け人多く殺し山へ延焼して山中の猴さる五百疋ことごとく死んだ。諸天これを見て偈げを説いていわく、︿瞋しん恚い闘諍間、中において止むるべからず、羝てい羊よう婢とともに闘い、村人猴びこう死す﹀と。﹃菩薩本行経﹄には、一婦人を作る処へ羊来り盗むを、火を掻かく杖に火の著いたまま取り上げて打つと羊毛に燃え付いた。そのまま羊が象厩べやに身を摺すり付くると、いよいよ火事となりて象も猴も焼け死んだとある。象厩に猴を畜かえば象を息災にすとシャムでも信ずる由、クローフォールドの﹃暹シャ羅ム使記﹄に見ゆ。 ﹃説苑﹄七に楊よう朱しゅが梁王に見まみえて、天下を治むる事諸これを掌たなごころに運めぐらすごとくすべしという。梁王曰く、先生、一妻一妾ありて治むる能わず、三畝の園すら芸くさきる能わざるに、さように容たや易すく天下を治め得んやと。楊朱曰く、君かの羊を見ずや、百羊にして群るれば五尺の童子一人杖を荷にのうてこれを東西思いのままに追い得るがごとし、堯をして一羊を牽ひき舜をして杖を荷うてこれを追わしめば、なかなか思いのままにならぬ、すなわち乱の始めだ。大を治めんとする者は小を治めず、大功を成す者は小しょ苛うかせずと。 末吉安恭氏来示に、琉球人は山羊を温柔な獣とせず、執拗剛ごう戻れいな物とす。縄にて牽き行く時その歩を止めて行かぬ事あり、その時縄を後に牽かば前に出づるも前に牽かば退くのみなり、故に山羊は天あまの邪じゃ鬼くだというと、これは足の構造に基づくはもちろんながら、山羊、綿羊共に決して一いっ汎ぱんにいわるるほど柔順でなく卞べん彬ぴんは羊性淫にして很もとるといった。很は︿従い聴かざるなり、また難を行うなり﹀とある、それを一疋ずつ扱わで一群として扱う事の易やすきは誠に楊朱の言のごとし。予欧州にあった日、大高名の学者と伴つれて停車場へ急ぐ途中種々の事を問い試むるにその返答は実に詰まらぬものばかりだった。われも人も肩を軋きしって後れじと専念する際にはいかな碩せき儒じゅも自分特有の勘弁も何も出ないのだ。されば人間も羊同然箇人としてよりは群集としての方が扱いやすいかも知れぬ。 ﹃孔子家け語ご﹄や﹃説苑﹄に季きか桓ん子し井を穿うがちて土つち缶つぼを得、中に羊あり、土中から狗いぬを得たといって孔子に問うと、孔子はさすが博識で、われ聞くところでは狗ではなくて羊だろう、木の怪は罔きも両うりょう、水の怪は龍罔象、土の怪は※ふん羊よう﹇#﹁羚﹂の﹁令﹂に代えて﹁賁﹂、U+7FB5、16-5﹈というからきっと羊で狗であるまいと対こたえたから桓子感服したとある。﹃韓詩外伝﹄には魯哀公井を穿たしむるに一生羊を得、公祝をしてこれを鼓舞して上天せしめんとしたが羊上天し能わず、孔子見て曰く水の精は玉、土の精は羊となる、この羊の肝は土だと、公それを殺して肝を視みれば土であったと出づというが、予の蔵本には見えぬ。虚譚のようだが全く所より拠どころなきにあらず、﹃旧くと唐うじ書ょ﹄に払ふつ菻りん国こくに羊ひつ羔じのこありて土中に生ず、その国人その萌ほう芽がを伺い垣を環めぐらして外獣に食われぬ防ぎとす。しかるにその臍地に連なりこれを割さけば死す、ただ人馬を走らせこれを駭おどろかせば羔驚き鳴きて臍地と絶ちて水草を追い、一、二百疋の群を成すと出づ。これは支那で羔カオ子ツェと俗称し、韃だっ靼たんの植ヴェ物ジテ羔ーブル・ラムとて昔欧州で珍重された奇薬で、地中に羊児自然と生じおり、狼好んでこれを食うに傷つけば血を出すなど言った。﹃古今要覧稿﹄に引いた﹃西使記﹄に、︿種の羊西海に出いづ、羊の臍を以て土中に種うえ、漑そそぐに水を以てす、雷を聞きて臍系生ず、系地と連なる、長ずるに及び驚かすに木声を以てすれば、臍すなわち断ち、すなわち能く行き草を噛む、秋に至り食すべし、臍内また種あり﹀というに至りては、真にお臍で茶を沸かす底の法ほら螺ばな談しで、﹃淵穎集﹄に西域で羊の脛骨を土に種うえると雷鳴に驚いて羊子が骨中より出るところを、馬を走らせ驚かせば臍緒を断ちて一疋前の羊になるとあるはますます出でていよいよ可お笑かし。 十八世紀の仏国植物学大家ジュシューいわく、いわゆる植ヴェ物ジテ羔ーブル・ラムとは羊し歯だの一種でリンナースが学名をポジウム・バロメツと附けた。その幹一尺ほど長く横たわるを四、五の根あって地上へ支ささえ揚ぐる。その全面長く金きん色いろな綿毛を被った形、とんとシジアの羔こひつじに異ならぬ。それに附会して種々の奇譚が作られたのだと︵﹃自ジク然チョ科ネー学ル・字デ・彙シャンス・ナチュレル﹄四巻八五頁︶。予昔欧州へ韃靼から渡した植物羔を見しに、巧く人工を加えていかにも羊児ごとく仕上げあった。孔子が見たてふ※﹇#﹁羚﹂の﹁令﹂に代えて﹁賁﹂、U+7FB5、17-9﹈羊談もかようの物に基づいただろう。また﹃輟てっ耕こう録ろく﹄に漠北で羊の角を種えて能く兎の大きさの羊を生ず、食うに肥う美ましとある︵﹃類函﹄四二六︶。一六三八年アムステルダム板リンショテンの﹃航海記﹄一一二頁に、ゴア市の郊外マテヴァクワスなる土ど堤てへ羊や牛の角を多く棄つる。これはインド人もとよりかかる物を嫌うが上に、スペインやポルトガルよりの来住人は、不貞の淫婦の夫を角生えたと罵ののしり、近松の浄瑠璃に夫が不在中、妻が間まお男とこ拵こしらえたを知らずに、帰国早々知り合いより口上なしに苧おあ麻さを贈りて、門前へ積み上げたごとく、角を門前へ置かれたり、角や角の形を示さるるを妻が姦通しいる標示とする故、太いたく角を嫌うからだ。さてこの土堤に捨てられた角は、日数経て一掌パーム、もしくはそれ已いじ上ょう長き根を石だらけの荒地に下す事、草木に異かわらず、他に例もなければ訳も別らず。千ちは早や振ぶる神代も聞かぬ珍事なるを予しばしば目撃した。だからゴアの名物は間男持ちの女で角を切ってもまた根ざすと苦笑いながらの評判だとある。わが邦で嫉妬を角というと多分同意義だろうが、この事甚だ奇怪だ。 ブラウンは槲ミス寄ルト生ーの種を土に蒔まいて生はやすは難いが、ゴア辺で羊の角が根生えする地さえあり、かたがた失望すべからずというた︵﹃ガーズン・オヴ・シプレス﹄のボーン文庫五四七頁︶。熊楠いう、これも※﹇#﹁羚﹂の﹁令﹂に代えて﹁賁﹂、U+7FB5、18-6﹈羊や羔子同様多少拠よるところある談で、わが邦に鹿ろっ角かく芝しなどいう硬かたい角状の菌あり、熱帯地には夥おびただしく産する。それがたまたま角捨て場の荒土より生はゆるを捨てた角が根生えしたと誤認したのであろう。また似た事が梁の任の﹃述異記﹄下に出いづ。いわく、秦の繆ぼく公こうの時陳倉の人地を掘りて羊状で羊でなく、猪に似て猪でない物を得、繆公道中で二童子に逢う、曰くこれを※おう﹇#﹁虫+媼のつくり﹂、U+8779、18-10﹈と名づく。地中にあって死人の脳を食う。松しょ柏うはくもてその首を穿てばすなわち死すと、故に今柏を墓上に種うえてその害を防ぐなりと。﹃史記評林﹄二八に﹃列異伝﹄を引いて、陳倉の人異物を得て王に献じに行く道で二童子に逢う、いわくこれを※い﹇#﹁女+胃﹂、U+5AA6、18-12﹈と名づけ、地下にありて死人の脳を食うと、※﹇#﹁女+胃﹂、U+5AA6、18-13﹈いわく、かの童子を陳宝と名づく、雄を得る者は王、雌を得る者は伯たりと。すなわち童子を追うと雉きじと化なった。秦の穆ぼく公こう大いに猟してやっとその雌の方を獲、祠ほこらを立って祭ると光あり、雷声す。雄は南陽に止まるに赤光あり、長たけ十余丈、時々来って雌と合う。故に俗にその祠を宝夫人の祠と称したとありて、穆公は雌ばかり獲たから伯になったのだ。かく怪物同士が本性を告訴し合う話がインドにもあり、それにもやはり一方は土中に住んだとある。﹃諸経要集﹄に引いた﹃譬喩経﹄に富人が穀千斛ごくを地に埋め、春暖に至り種を取ろうと開いて見れば、穀はなくて手足も頭目もない頑鈍肉様の一虫あるのみ。皆々怪しんで地上へ引き出し、汝何者ぞと問えど返事せぬ故、錐きりで一所刺すと、初めて、我を持ちて大道傍に置かば我名をいう者来るはずと語った。道傍へ置くに三日の中に誰もその名を言い中あてる者なし。爾その時とき数百人黄なる馬と車に乗り、衣服も侍従も皆黄な一行が遣って来り、車を駐とめて彼を穀賊と呼び、汝はどうしてここに在るかと問うと、われは人の穀を食うたからここへ置かれたと答え、久しく話して黄色連は別れ去った。主人穀賊に彼は誰ぞと問うと、彼こそ金宝の精で、この西三百余歩に大樹あり、その下に石の甕かめを埋め、黄金中に満ち居る、その精だといった。主人数十人を将ひきい、往き掘りてその金を得、引き返して穀賊の前へ叩こう頭とうし、何とか報恩供養したいから拙宅へ二度入りをと白もうすと、穀賊、さてこそと言わぬばかりに答うらく、前に君の穀を食いながら姓字を語らなんだは、君にこの金を得せしめて報いたかったからだ。今既に事済んだ上は転じて福を天下に行うべし、住とどまる事罷まかりならずと言い終って忽然見えずなったとある。﹃阿育王譬喩経﹄には大長者が窖あなに穀千斛を蔵し、後これを出すに穀はなくて三歳ばかりの一小児あり、言語せぬ故何やら分らず。大道辺に置いて行人に尋ぬれど識しる者なし。しかるところ、黄色の衣を着、黄牛に車を牽かせて乗り、従者ことごとく黄色な人が通り掛かり、小児を見るとすなわち穀賊何故ここに坐し居るかと問うた。この小児は五穀の神で、長者に向い、今往ったのは金の神だ、彼が往った方へ二百歩往かば朽木の下に十斛の金を盛った甕がある、それを掘り取ってわが君の穀を食った分を棒引きに願うと、教えの任ままにその所を掘って大金を獲、大いに富んだとして居る。 五穀の神といえば欧州にも穀精てふ俗信今も多少残存する。ドイツのマンハールト夥しく材料を集めて研究した所に拠れば、穀物の命は穀物と別に存し、時として或る動物、時として男、もしくは女、また小児の形を現わすというのが穀精の信念だ。穀精が形を現わす動物は、牛、馬、犬、猫、豕、兎、鹿、綿羊、山羊、狐、鼠、鶏、天鵞その他なおあるべし。支那、日本の玄猪神、稲いな荷り神いずれも穀精にほかならぬ。フレザー曰く、何故穀精がかく様々の動物の形を現ずると信ぜらるるかとの問いに対こたえん、田畑に動物が来るを見て、原始人は穀草と動物の間に神秘な関係ありと察すべく、上世今のごとく田畑を取り囲わなんだ時には、諸般の動物自在にこれに入り行あるき得た。故にその頃は牛馬ごとき大きな物も、遠慮なく田畑に入り行あるいたから、穀精牛馬形を現わすとさえ信ずる処あり、禾かを苅る時、兎、雉等が苅り詰められて最後の一株まで残り匿かくるるが、それも苅られて来り出づるを、原始人が見て禾の精が、兎、雉等に化けて逃げ出すと認め、かかる処へ知らぬ人が来会す場合には、穀精が人に現じたと考え、さてこそ穀精あるいは人、あるいは諸動物の形して現あらわるてふ信念が起ったのだと。この説に対して予全く異論なきにあらざれど、今しばらくこれに従うて羊を穀精とした遺風の数例を挙げんに、スイスの一部では最後の稈わら一攫つかみを苅り取った人を麦の山羊と名付け、山羊然とその頸に鈴を付け、行列して伴れ行き酒で盛り潰つぶす。スコットランドのスカイ島では、以前自分の麦を苅り終った百姓が、麦穂一束を、隣りのまだ苅り終らぬ百姓へ送り、その百姓苅り終る時またその隣りへその束を贈る。かくて村中ことごとく苅り終るとその一束が百姓中を廻りおわる。この一束を跛ちん山ばや羊ぎと名づく。穀精が最後まで匿れいた一束を切られて一脚傷つけたてふ意らしい。仏国グレノーブル辺では麦苅り終る前に、花とリボンで飾った山羊を畑に放ち、苅り手競うてこれを捕う。誰かがこれを捕え得たら主婦これを執えおり、主公これを刎くび首はね、その肉で苅入れ祝いの馳走をする。また肉の一片をして次年の苅入れ時まで保存し、その節他の一羊を殺して前年の肉を食うた跡へ入れ替える︵フレザーの﹃金ゴル椏ズン篇・バウ﹄一板二巻三章︶。これらいずれも穀精山羊形で現わると信じた遺俗で、所により穀精と見立てた獣を春になって殺し、その血や骨を穀種と混じて豊穣を祈るあり、穀を連から枷さおでいてしまうまで穀精納屋に匿れいるとか、仲冬百姓が新年の農事に取り掛からんと思う際、穀精再び現わるとか、山羊と猪の差こそあれ、わが邦の玄猪神に髣ほう髴ふつたる穀精の信念が今も欧州に存しいるので、かかる獣形の穀精が進んでデメテルごとき人形の農神となった事、狐は老翁形の稲荷大明神となったに同じ。 ︵大正八年一月、﹃太陽﹄二五ノ一︶